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[近代史5] 茂木誠 _ ユダヤから紐解くロシア・ウクライナの歴史 中川隆
3. 2022年4月24日 07:31:30 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[1]
【ユダヤから紐解くロシア・ウクライナの歴史F】ウクライナ戦争の見方|茂木誠
2022/04/23


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1560.html#c3
[近代史5] ロシアは領土を手に入れると住民をシベリアや砂漠など極限地に移住させてロシア人を入植し、ロシアの領土にする 中川隆
2. 2022年4月24日 07:48:47 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[2]

2022年04月24日
他国に制服されるとはどういう事で、何が起きるか?

ロシアは占領地のウクライナ人をロシア兵にし、ウクライナ人同士で戦わせている


ウクライナ人を連行しロシア兵として派兵

ロシアによるウクライナ侵攻は北部と西部で失敗し、南部と東部で国境に近い地域を占領しロシアによる統治が始まっている。

東部最大の都市で最大の激戦地マリウポリは90%以上がロシア支配地になり、住民への身分証発行が始められた。

マリウポリではロシアが発行した身分証を携帯しないと市内の移動ができず、外出すると逮捕されたり撃たれる可能性もある。

水や食料の配給がされたとしても、身分証が無い人は受け取れず、それどころか捕まって連行されるでしょう。

身分証は希望者全員に配布されるのではなく、審査を受けて合格者だけに支給されます。

マリウポリから脱出した人の証言によると、ロシアに対して友好的な思想を持つ人ににだけ身分証を発行し、反抗的な人には発行しない。


友好的かどうかは知人や近所の人の証言で確認し、おそらく近所の1人でも「反ロシア的だった」と証言すると別室に連行される。

審査は男女別でその場で審査されるのは女性住民だけ、男性は別の施設に移動してもっと厳しい審査を受ける。

証言した男性は逃げ出したので、”別の施設”で何が行われているのかは分からない。


欧米メディアの報道によると約50万人が住んでいたマリウポリで、ロシア占領後に5万人以上がロシア領に連れ去られた。

連れ去られた男性のウクライナ人が徴兵され、「ロシア兵」としてウクライナに送り込まれ、ウクライナ人同士が戦わされている。

まるでアニメの中のような事が現実に行われていて、女性や子供も大勢ロシアに連行されている。

降伏し占領されるとこうなる

CNNによるとあるマリウポリの女性住人はロシア軍に包囲され、脱出するため新ロ勢力に投降しロシア領に連れていかれた。

移動場所の選択肢は与えられず、途中で何度も”身体検査”を受けて、住人は少人数に分割され最後は数人になった。

近所の女性は子供の男子が母親と別な場所に連行され、少年は「ロシア軍兵士」にされてウクライナに派兵される可能性がある。


移住先の療養所では外出を許されテレビを見れたが、テレビは100%ロシアが正しく「ウクライナの犯罪」だけを報じている。

療養所の近所の住人は全員が「ウクライナがいかに悪い事をしたか」だけを彼女にいうので、強い圧力を感じた。

結局彼女は療養所から抜け出してバルト諸国からイタリアに脱出したので、CNNに証言する事が出来た。


だが脱出が成功したことでロシアの監視は強化されるはずで、次の人々は刑務所や強制収容所に入れられる可能性が高い。

審査に不合格になった男性はどうなるかと言うと、やはりロシアに強制連行されるが、行き先は兵士としてウクライナに派兵されるか、刑務所か墓地でしょう。

占領地に残った人はどうかと言うと、マリウポリの自宅でロシア占領下に入った男性は、数十年築いてきたすべてを奪われた。


家は物理的に破壊されているし、土地の所有権もロシアが決める物であって、ロシア政府が認めない限り土地の所有権が無い。

国が変わる事で一切の権利が無効になり、例えば元大阪府知事の弁護士は「降伏すれば権利保障される」と言っているが、国が変わるので権利は無効になります。

弁護士資格は国によって認定されているので、彼はロシア占領下では弁護士資格がなく、元大阪府知事でもない。


今まで支払ってきた年金も無効になるし保険証も使えなくなり、日本政府のパスポートもただのゴミになる。

警察署や警察官も国が変わるので無効化され、ロシア兵に何をされても訴える裁判所がないし捕まえる警察官も1人もいません。

米軍占領下の日本でも同じ状況で、日本の警察官には逮捕権がなく弁護士には弁護士資格がないので、乱暴されるのを見ているだけでした。


こういうのが占領であり降伏です

https://www.thutmosev.com/archives/88089824.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1572.html#c2

[リバイバル3] アメリカ人には食べ物の味がわからない 中川隆
42. 2022年4月24日 10:42:25 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[3]
【ゆっくり解説】アメリカのヤバい食事
2022/04/24


http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/765.html#c42
[近代史3] アメリカの大富豪は毎日何を食べているのか? _ アメリカ人には料理の味も文学も芸術も全く理解できなかった 中川隆
6. 中川隆[-13179] koaQ7Jey 2022年4月24日 10:42:48 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[4]
【ゆっくり解説】アメリカのヤバい食事
2022/04/24

http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/436.html#c6
[近代史5] 山へ行こう 中川隆
29. 2022年4月24日 15:19:21 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[5]
恐ろしい思い込みが招いた2002年もう1つのトムラウシ山遭難事故.
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/1228.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/422.html#c29
[近代史5] 琉球人の起源と歴史 中川隆
2. 2022年4月24日 16:17:21 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[6]
雑記帳
2022年04月23日
村井章介『古琉球 海洋アジアの輝ける王国』
https://sicambre.seesaa.net/article/202204article_24.html


https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E7%90%89%E7%90%83-%E6%B5%B7%E6%B4%8B%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%BC%9D%E3%81%91%E3%82%8B%E7%8E%8B%E5%9B%BD-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%9D%91%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%BB%8B/dp/4047035793

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2019年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。「古琉球」とは伊波普猷の造語で、1609年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に薩摩藩に征服される以前の琉球を指します。古琉球の時代には、琉球は日本の国家領域外にありました。本書は琉球語を採用して、前近代の「日本」を「ヤマト」と呼びます。琉球はアジアの南東部と東部をつなぐ海の道の結節点に位置しており、アジア東方海域の歴史において重要な役割を果たしましたが、継続的に推移が追えるようになるのは、紀元後14世紀(以下、紀元後の場合は省略します)半ばすぎに、沖縄本島にあった三つの小王国(中山と山南と山北)が明との間に朝貢・回賜の関係を結んでからです。明が倭寇対策として施行した「海禁」により海外、とくにアジア南東部産品を入手する経路が閉ざされたため、琉球はその窓口に位置づけられ、交易活動により繁栄しました。一方、その頃の琉球は言語など文化面で距離が近いヤマトとの関係は深くなく、「中央政府」である室町幕府より、島津など西日本の大名や、倭寇勢力の構成員である商人や武士、琉球とヤマトを往復した僧侶などと交渉が盛んでした。15世紀後半になると、ヤマトや明やヨーロッパの海上勢力が競争者として現れ、繁栄の基盤が掘り崩されるようになった琉球は、相対的にヤマトとの関係の比重が高まります。とくに重要だったのが薩摩の島津との関係で、その帰結が1609年の薩摩藩による琉球征服でした。古琉球は、多種多様な人や物や文化が混合・雑居する世界でした。

 琉球の歴史は、旧石器時代→貝塚時代→グスク時代→琉球王国時代(第一尚氏王朝→第二尚氏王朝→薩摩藩支配)→琉球藩→沖縄県→アメリカ合衆国統治期→沖縄県と続きます。貝塚時代がヤマトの縄文時代〜平安時代中期に、グスク時代がヤマトの平安時代中期〜室町時代に相当します。琉球人の起源はよく分かっていませんが、形質人類学では、ヤマトからのヒトの流入とともに、アジア南東部の人類集団の要素も見られる、と指摘されています。文化的には、琉球語とヤマト語は、語彙や音韻の面ではほとんど通じないほど異なっていますが、文法構造や品詞体系では同一系統の言語と考えられています。衣食住や行事・習慣などの観点では、琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されています。また、琉球の文化は一様ではなく、奄美・沖縄文化圏と宮古・八重山文化圏に二分する見解も提示されています。グスク時代には、ヤマトから奄美を経由して琉球へとヒトの移動があり、形態学的変化をもたらした、と指摘されています。これは熊野信仰・仏教・仮名の伝播からも裏付けられ、琉球王権は仏教を信仰し、仮名を公式文字として採用します。文化的には本書は、琉球語とヤマト語(日本語)の親縁性から、琉球人の優位集団を構成したのはヤマト方面から渡来した、と推定しつつ、その前の時代にはアジア南東部方からのヒトの流入もあっただろう、と指摘しています。なお、『隋書』の「流求国」がどこを指すのかについては長い議論があり、現在も決着していませんが、台湾説が多数派とされています。しかし本書は、「流求国」を琉球に比定しています。

 琉球における10世紀前後の貝塚時代からグスク時代への移行は、狩猟採集経済から農耕および窯業生産の開始と交易の展開により特徴づけられます。グスクについては、聖地や集落とする説と城塞説との間で議論が続いています。グスク時代には、沖縄本島で首長たちが南部の山南と中部の中山と北部の山北(琉球三山)にまとまっていきます(三山時代)。琉球三山で最初に明と外交関係を結んだのは中山で(1372年)、1380年には山南が明に入貢し、その後は三山で対明通交の主導権をめぐる抗争に突入します。明の初代洪武帝の説諭にも関わらず三山の紛争は収まらず、朝鮮を巻き込んで激化します。この三山の紛争を制したのは中山でしたが、その正確な年代については異論もあり、1420年代に実質的な統一がなされたようです。琉球と明との間の交易の中心品目は、初期の20年間ほどでは、輸出が硫黄と馬、輸入が陶磁器と鉄釜でした。その後、1390年頃からは、輸出品に胡椒と蘇木と乳香が新たに登場し、これらはアジア南東部海域からもたらされた、と考えられます。琉球の繁栄を支えたのは、このアジア南東部と明とをつなぐ中継貿易でした。琉球は明にとって海外産品入手の貴重な窓口だったので、朝貢回数に制限がないことや海船の賜与など、交易活動で明から手厚い助成策を受けました。ヤマトとの関係では、琉球は室町幕府将軍の臣下に準じて扱われ、琉球側もそれを受け入れていましたが、対明の場合と同様に、国家意思の形成や領土・人民支配において琉球が独立国家だったことは明白です。琉球国の機構整備や外交や交易では、華人の果たした役割が大きかったようです。

 琉球の繁栄と高い「国際的地位」を支えていた中継交易は、15世紀半ば以降に相次ぐ競争者の出現で変わっていきます。まず、博多や対馬の倭人勢力が、ヤマトや朝鮮との往来から琉球船をほぼ締め出します。明も琉球を優遇する利益が薄れてきたことから、琉球への厚遇を見直します。さらに、1511年にポルトガルがマラッカを占領したことにより、琉球は南海貿易の重要な拠点を失いました。ポルトガルはジャワ島やシャムや華南にも到来し、琉球船の活動の場はますます狭くなり、1570年のシャムとの通交を最後に、琉球船はアジア南東部に現れなくなります。こうした海外交易の退潮により、琉球では航海術も劣化していきます。1609年、琉球は薩摩藩に征服されますが、これは対明交渉経路の確保と版図拡大が目的で、どちらかと言えば、幕府は前者、薩摩藩は後者に重点を置いていました。この薩摩藩による征服の結果、琉球は幕藩体制の知行体系において薩摩藩の一部とされたものの、「異国」としての体裁は保たれ、国家機構や風俗は前代のまま存続し、明、および明滅亡後にはダイチン・グルン(大清帝国)という中華地域を支配した勢力との冊封関係も維持されました。琉球が薩摩藩に征服された一因として、中継交易の衰退により、相対的にヤマトとの交易への依存度が高まっていたこともあるようです。本書は、支配層と庶民との間の格差拡大など、古琉球の自立性を支えていた基盤自体がもはや空洞化していたことも、琉球が征服された背景として指摘します。


 本書を読んだ機会に、琉球の人類集団の起源について、本書では言及されていない最近の古代DNA研究を短くまとめておきます。琉球諸島でDNAが解析された最古の人類遺骸は港川人(港川1号)となり、年代は2万年前頃です(関連記事)。港川1号はミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析されているものの、核DNAはまだ解析されておらず、現代人とのつながりがあるのか、あるとしてどの程度なのかは不明です。ただ、港川1号のmtDNAハプログループ(mtHg)では既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換が見つからなかったので、現代人とは遺伝的につながらない絶滅集団を表している可能性は低くないように思います。

 琉球諸島で核DNAが解析された最古の個体は沖縄県宮古島市の長墓遺跡で発見されており、年代は2800年前頃です(関連記事)。この個体は遺伝的には、既知の古代人および現代人集団と比較して、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の縄文時代の個体群(縄文人)と密接にまとまります。本書でも、古琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されていますが、遺伝的には、貝塚時代の遅くとも紀元前千年紀には、琉球諸島の人類集団は遺伝的には、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団ではなく、日本列島の近い年代の「縄文人」の方とずっと密接に類似していた可能性が高そうです。もちろん、当時の琉球諸島に、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団と類似した集団が存在した可能性はありますが、「縄文人」と遺伝的に類似した集団が優勢で、ほぼ排他的に存在していた可能性は低くないように思います。

 その後、17世紀までには、長墓遺跡の人類集団は遺伝的に、ほぼ琉球諸島現代人集団そのものへと変わります。琉球諸島現代人集団は日本列島「本土」現代人集団と遺伝的には密接であるものの、「縄文人」構成要素の割合が「本土」集団より高い、と示されています。本書の指摘も踏まえると、貝塚時代には「縄文人」と遺伝的にきわめて密接な集団が存在し、グスク時代に「本土」から到来した集団との(遺伝的には後者の優位下での)融合により、琉球諸島現代人集団が形成された、と考えられます。琉球諸島現代人集団において「本土」現代人集団よりも「縄文人」構成要素の割合が高いのは、グスク時代に「本土」から到来した集団が、「本土」現代人集団と同程度かそれ以上の割合の「縄文人」構成要素を有しており、遺伝的には「縄文人」そのものの琉球諸島在来集団と混合したからでしょう。

 しかし文化面では、本書が指摘するように、古琉球には台湾やアジア南東部やポリネシアとの近縁性も見られます。縄文文化の影響がないと言われていた先史時代の先島諸島において、遺伝的には「縄文人」そのものの集団が存在したと可能性はきわめて高く、朝鮮半島の後期新石器時代でも、遺伝的にほぼ「縄文人」と言える個体が見つかっています。現時点では、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島でしか見つかっていませんが、先島諸島や朝鮮半島南岸の事例からその文化は一様ではないと考えるべきで、文化と遺伝的構成を安易に結び付けてはならない、と改めて思います。琉球語が日本語と同系統と言えるほど似ていながら、大きな違いが見られるのは、おそらく琉球語が貝塚時代の集団の言語とグスク時代に「本土」から到来した集団の言語との混合言語で、後者の影響力の方が強かったからなのでしょう。しかし、貝塚時代の集団は遺伝的には、アイヌ集団の主要な祖先集団だっただろう続縄文文化集団にきわめて近かったでしょうが、両者の分岐は1万年以上前までさかのぼる可能性もあり、貝塚時代の集団の言語は、アイヌ語系統だっただろう続縄文文化集団の言語とは同系統と判定できないほど違っていた可能性が高いのではないか、と思います。

https://sicambre.seesaa.net/article/202204article_24.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/608.html#c2

[近代史5] 琉球人の起源 中川隆
7. 中川隆[-13178] koaQ7Jey 2022年4月24日 16:17:45 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[7]
雑記帳
2022年04月23日
村井章介『古琉球 海洋アジアの輝ける王国』
https://sicambre.seesaa.net/article/202204article_24.html


https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E7%90%89%E7%90%83-%E6%B5%B7%E6%B4%8B%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E8%BC%9D%E3%81%91%E3%82%8B%E7%8E%8B%E5%9B%BD-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E6%9D%91%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%BB%8B/dp/4047035793

 角川選書の一冊として、角川学芸出版より2019年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。「古琉球」とは伊波普猷の造語で、1609年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)に薩摩藩に征服される以前の琉球を指します。古琉球の時代には、琉球は日本の国家領域外にありました。本書は琉球語を採用して、前近代の「日本」を「ヤマト」と呼びます。琉球はアジアの南東部と東部をつなぐ海の道の結節点に位置しており、アジア東方海域の歴史において重要な役割を果たしましたが、継続的に推移が追えるようになるのは、紀元後14世紀(以下、紀元後の場合は省略します)半ばすぎに、沖縄本島にあった三つの小王国(中山と山南と山北)が明との間に朝貢・回賜の関係を結んでからです。明が倭寇対策として施行した「海禁」により海外、とくにアジア南東部産品を入手する経路が閉ざされたため、琉球はその窓口に位置づけられ、交易活動により繁栄しました。一方、その頃の琉球は言語など文化面で距離が近いヤマトとの関係は深くなく、「中央政府」である室町幕府より、島津など西日本の大名や、倭寇勢力の構成員である商人や武士、琉球とヤマトを往復した僧侶などと交渉が盛んでした。15世紀後半になると、ヤマトや明やヨーロッパの海上勢力が競争者として現れ、繁栄の基盤が掘り崩されるようになった琉球は、相対的にヤマトとの関係の比重が高まります。とくに重要だったのが薩摩の島津との関係で、その帰結が1609年の薩摩藩による琉球征服でした。古琉球は、多種多様な人や物や文化が混合・雑居する世界でした。

 琉球の歴史は、旧石器時代→貝塚時代→グスク時代→琉球王国時代(第一尚氏王朝→第二尚氏王朝→薩摩藩支配)→琉球藩→沖縄県→アメリカ合衆国統治期→沖縄県と続きます。貝塚時代がヤマトの縄文時代〜平安時代中期に、グスク時代がヤマトの平安時代中期〜室町時代に相当します。琉球人の起源はよく分かっていませんが、形質人類学では、ヤマトからのヒトの流入とともに、アジア南東部の人類集団の要素も見られる、と指摘されています。文化的には、琉球語とヤマト語は、語彙や音韻の面ではほとんど通じないほど異なっていますが、文法構造や品詞体系では同一系統の言語と考えられています。衣食住や行事・習慣などの観点では、琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されています。また、琉球の文化は一様ではなく、奄美・沖縄文化圏と宮古・八重山文化圏に二分する見解も提示されています。グスク時代には、ヤマトから奄美を経由して琉球へとヒトの移動があり、形態学的変化をもたらした、と指摘されています。これは熊野信仰・仏教・仮名の伝播からも裏付けられ、琉球王権は仏教を信仰し、仮名を公式文字として採用します。文化的には本書は、琉球語とヤマト語(日本語)の親縁性から、琉球人の優位集団を構成したのはヤマト方面から渡来した、と推定しつつ、その前の時代にはアジア南東部方からのヒトの流入もあっただろう、と指摘しています。なお、『隋書』の「流求国」がどこを指すのかについては長い議論があり、現在も決着していませんが、台湾説が多数派とされています。しかし本書は、「流求国」を琉球に比定しています。

 琉球における10世紀前後の貝塚時代からグスク時代への移行は、狩猟採集経済から農耕および窯業生産の開始と交易の展開により特徴づけられます。グスクについては、聖地や集落とする説と城塞説との間で議論が続いています。グスク時代には、沖縄本島で首長たちが南部の山南と中部の中山と北部の山北(琉球三山)にまとまっていきます(三山時代)。琉球三山で最初に明と外交関係を結んだのは中山で(1372年)、1380年には山南が明に入貢し、その後は三山で対明通交の主導権をめぐる抗争に突入します。明の初代洪武帝の説諭にも関わらず三山の紛争は収まらず、朝鮮を巻き込んで激化します。この三山の紛争を制したのは中山でしたが、その正確な年代については異論もあり、1420年代に実質的な統一がなされたようです。琉球と明との間の交易の中心品目は、初期の20年間ほどでは、輸出が硫黄と馬、輸入が陶磁器と鉄釜でした。その後、1390年頃からは、輸出品に胡椒と蘇木と乳香が新たに登場し、これらはアジア南東部海域からもたらされた、と考えられます。琉球の繁栄を支えたのは、このアジア南東部と明とをつなぐ中継貿易でした。琉球は明にとって海外産品入手の貴重な窓口だったので、朝貢回数に制限がないことや海船の賜与など、交易活動で明から手厚い助成策を受けました。ヤマトとの関係では、琉球は室町幕府将軍の臣下に準じて扱われ、琉球側もそれを受け入れていましたが、対明の場合と同様に、国家意思の形成や領土・人民支配において琉球が独立国家だったことは明白です。琉球国の機構整備や外交や交易では、華人の果たした役割が大きかったようです。

 琉球の繁栄と高い「国際的地位」を支えていた中継交易は、15世紀半ば以降に相次ぐ競争者の出現で変わっていきます。まず、博多や対馬の倭人勢力が、ヤマトや朝鮮との往来から琉球船をほぼ締め出します。明も琉球を優遇する利益が薄れてきたことから、琉球への厚遇を見直します。さらに、1511年にポルトガルがマラッカを占領したことにより、琉球は南海貿易の重要な拠点を失いました。ポルトガルはジャワ島やシャムや華南にも到来し、琉球船の活動の場はますます狭くなり、1570年のシャムとの通交を最後に、琉球船はアジア南東部に現れなくなります。こうした海外交易の退潮により、琉球では航海術も劣化していきます。1609年、琉球は薩摩藩に征服されますが、これは対明交渉経路の確保と版図拡大が目的で、どちらかと言えば、幕府は前者、薩摩藩は後者に重点を置いていました。この薩摩藩による征服の結果、琉球は幕藩体制の知行体系において薩摩藩の一部とされたものの、「異国」としての体裁は保たれ、国家機構や風俗は前代のまま存続し、明、および明滅亡後にはダイチン・グルン(大清帝国)という中華地域を支配した勢力との冊封関係も維持されました。琉球が薩摩藩に征服された一因として、中継交易の衰退により、相対的にヤマトとの交易への依存度が高まっていたこともあるようです。本書は、支配層と庶民との間の格差拡大など、古琉球の自立性を支えていた基盤自体がもはや空洞化していたことも、琉球が征服された背景として指摘します。


 本書を読んだ機会に、琉球の人類集団の起源について、本書では言及されていない最近の古代DNA研究を短くまとめておきます。琉球諸島でDNAが解析された最古の人類遺骸は港川人(港川1号)となり、年代は2万年前頃です(関連記事)。港川1号はミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析されているものの、核DNAはまだ解析されておらず、現代人とのつながりがあるのか、あるとしてどの程度なのかは不明です。ただ、港川1号のmtDNAハプログループ(mtHg)では既知のmtHg-Mの下位分類を定義する置換が見つからなかったので、現代人とは遺伝的につながらない絶滅集団を表している可能性は低くないように思います。

 琉球諸島で核DNAが解析された最古の個体は沖縄県宮古島市の長墓遺跡で発見されており、年代は2800年前頃です(関連記事)。この個体は遺伝的には、既知の古代人および現代人集団と比較して、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の縄文時代の個体群(縄文人)と密接にまとまります。本書でも、古琉球と台湾やアジア南東部やポリネシアとの関係が指摘されていますが、遺伝的には、貝塚時代の遅くとも紀元前千年紀には、琉球諸島の人類集団は遺伝的には、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団ではなく、日本列島の近い年代の「縄文人」の方とずっと密接に類似していた可能性が高そうです。もちろん、当時の琉球諸島に、台湾やアジア南東部やポリネシアの近い年代の人類集団と類似した集団が存在した可能性はありますが、「縄文人」と遺伝的に類似した集団が優勢で、ほぼ排他的に存在していた可能性は低くないように思います。

 その後、17世紀までには、長墓遺跡の人類集団は遺伝的に、ほぼ琉球諸島現代人集団そのものへと変わります。琉球諸島現代人集団は日本列島「本土」現代人集団と遺伝的には密接であるものの、「縄文人」構成要素の割合が「本土」集団より高い、と示されています。本書の指摘も踏まえると、貝塚時代には「縄文人」と遺伝的にきわめて密接な集団が存在し、グスク時代に「本土」から到来した集団との(遺伝的には後者の優位下での)融合により、琉球諸島現代人集団が形成された、と考えられます。琉球諸島現代人集団において「本土」現代人集団よりも「縄文人」構成要素の割合が高いのは、グスク時代に「本土」から到来した集団が、「本土」現代人集団と同程度かそれ以上の割合の「縄文人」構成要素を有しており、遺伝的には「縄文人」そのものの琉球諸島在来集団と混合したからでしょう。

 しかし文化面では、本書が指摘するように、古琉球には台湾やアジア南東部やポリネシアとの近縁性も見られます。縄文文化の影響がないと言われていた先史時代の先島諸島において、遺伝的には「縄文人」そのものの集団が存在したと可能性はきわめて高く、朝鮮半島の後期新石器時代でも、遺伝的にほぼ「縄文人」と言える個体が見つかっています。現時点では、「縄文人」的な遺伝的構成の集団は日本列島でしか見つかっていませんが、先島諸島や朝鮮半島南岸の事例からその文化は一様ではないと考えるべきで、文化と遺伝的構成を安易に結び付けてはならない、と改めて思います。琉球語が日本語と同系統と言えるほど似ていながら、大きな違いが見られるのは、おそらく琉球語が貝塚時代の集団の言語とグスク時代に「本土」から到来した集団の言語との混合言語で、後者の影響力の方が強かったからなのでしょう。しかし、貝塚時代の集団は遺伝的には、アイヌ集団の主要な祖先集団だっただろう続縄文文化集団にきわめて近かったでしょうが、両者の分岐は1万年以上前までさかのぼる可能性もあり、貝塚時代の集団の言語は、アイヌ語系統だっただろう続縄文文化集団の言語とは同系統と判定できないほど違っていた可能性が高いのではないか、と思います。

https://sicambre.seesaa.net/article/202204article_24.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/199.html#c7

[近代史7] 日本のスピーカーは どんな名作でもすぐに消えてしまう 中川隆
4. 中川隆[-13177] koaQ7Jey 2022年4月24日 18:02:11 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[8]
Date: 4月 24th, 2022
陰翳なき音色(その6)
http://audiosharing.com/blog/?p=37060


ステレオサウンド 36号に瀬川先生の「実感的スピーカー論 現代スピーカーを展望する」が載っている。
     *
 日本のスピーカーの音には、いままで述べてきたような特色がない、と言われてきた。そこが日本のスピーカーの良さだ、という人もある。たしかに、少なくとも西欧の音楽に対してはまだ伝統というほどのものさえ持たない日本人の耳では、ただひたすら正確に音を再現するスピーカーを作ることが最も確かな道であるのかもしれない。
 けれどほんとうに、日本のスピーカーが最も無色であるのか。そして、西欧各国のスピーカーは、それぞれに特色を出そうとして、音を作っているのか……? わたくしは、そうではない、と思う。
 自分の体臭は自分には判らない。自分の家に独特の匂いがあるとは日常あまり意識していないが、他人の家を訪問すると、その家独特の匂いがそれぞれあることに気づく。だとすると、日本のスピーカーにもしも日本独特の音色があったとしても、そのことに最も気づかないのが日本人自身ではないのか?
 その通りであることを証明するためには、西欧のスピーカーを私たち日本人が聴いて特色を感じると同じように、日本のスピーカーを西欧の人間に聴かせてみるとよい。が、幸いにもわたくし自身が、三人の西欧人の意見をご紹介することができる。
 まず、ニューヨークに所在するオーディオ業界誌、ハイファイ・トレイド・ニュウズ≠フ副社長ネルソンの話から始めよう。彼は日本にもたびたび来ているし、オーディオや音楽にも詳しい。その彼がニューヨークの事務所で次のような話をしてくれた。
「私が初めて日本の音楽(伝統音楽)を耳にしたとき、何とカン高い音色だろうかと思った。ところがその後日本のスピーカーを聴くと、どれもみな、日本の音楽と同じようにカン高く私には聴こえる。こういう音は、日本の音楽を鳴らすにはよいかもしれないが、西欧の音楽を鳴らそうとするのなら、もっと検討することが必要だと思う。」
 私たち日本人は、歌舞伎の下座の音楽や、清元、常盤津、長唄あるいは歌謡曲・艶歌の類を、別段カン高いなどとは感じないで日常耳にしているはずだ。するとネルソンの言うカン高いという感覚は、たとえば我々が支那の音楽を聴くとき感じるあのカン高い鼻にかかったような感じを指すのではないかと、わたくしには思える。
 しかし、わたくしは先にアメリカ東海岸の人間の感覚を説明した。ハイの延びた音をノーマル≠ニ感じない彼らの耳がそう聴いたからといっても、それは日本のスピーカーを説明したことにならないのではないか──。
 そう。わたくしも、次に紹介するイギリスKEFの社長、レイモンド・クックの意見を聞くまでは、そう思いかけていた。クックもしかし、同じようなことを言うのである。
「日本のスピーカーの音をひと言でいうと、アグレッシヴ(攻撃的)だと思います。それに音のバランスから言っても、日本のスピーカー・エンジニアは、日本の伝統音楽を聴く耳でスピーカーの音を仕上げているのではないでしょうか。彼らはもっと西欧の音楽に接しないといけませんね。」
 もう一人のイギリス人、タンノイの重役であるリヴィングストンもクックと殆ど同じことを言った。
 彼らが口を揃えて同じことを言うのだから、結局これが、西欧人の耳に聴こえる日本のスピーカーの独特の音色だと認めざるをえなくなる。ご参考までにつけ加えるなら、世界各国、どこ国のどのメーカーのエンジニアとディスカッションしてみても、彼らの誰もがみな、『スピーカーが勝手な音色を作るべきではない。スピーカーの音は、できるかぎりプログラムソースに忠実であり、ナマの音をほうふつとさせる音で鳴るべきであり、我社の製品はその理想に近づきつつある……』という意味のことを言う。実際の製品の音色の多彩さを耳にすれば、まるで冗談をいっているとしか思えないほどだ。しかし、日本のスピーカーが最も無色に近いと思っているのは我々日本人だけで、西欧人の耳にはやっぱり個性の強い音色に聴こえているという事実を知れば、そして自分の匂いは自分には判らないという先の例えを思い出して頂ければ、わたくしの説明がわかって頂けるだろう。
     *
ステレオサウンドが出しているムック「良い音とは 良いスピーカーとは?」にも収められている。

ここではスピーカーがつくられた国による音の違いなのだが、
同じことが時代による音の違いについてもあてはまるようなに、
最近思うようになってきた。

つまり、過去の時代の音の香り(匂い)については感じることがあっても、
同時代の香り(匂い)に関しては、自分の体臭がわからないのと同じように、
わからないのかもしれない、ということだ。

ウラッハは、遠い時代のクラリネット奏者である。
フレストは、まさに、いまの時代の同時代のクラリネット奏者である。

http://audiosharing.com/blog/?p=37060
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/376.html#c4

[リバイバル3] 昭和の日本のスピーカー・ユニットの音質はイギリスやドイツに劣らなかった 中川隆
32. 中川隆[-13176] koaQ7Jey 2022年4月24日 18:02:32 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[9]
Date: 4月 24th, 2022
陰翳なき音色(その6)
http://audiosharing.com/blog/?p=37060


ステレオサウンド 36号に瀬川先生の「実感的スピーカー論 現代スピーカーを展望する」が載っている。
     *
 日本のスピーカーの音には、いままで述べてきたような特色がない、と言われてきた。そこが日本のスピーカーの良さだ、という人もある。たしかに、少なくとも西欧の音楽に対してはまだ伝統というほどのものさえ持たない日本人の耳では、ただひたすら正確に音を再現するスピーカーを作ることが最も確かな道であるのかもしれない。
 けれどほんとうに、日本のスピーカーが最も無色であるのか。そして、西欧各国のスピーカーは、それぞれに特色を出そうとして、音を作っているのか……? わたくしは、そうではない、と思う。
 自分の体臭は自分には判らない。自分の家に独特の匂いがあるとは日常あまり意識していないが、他人の家を訪問すると、その家独特の匂いがそれぞれあることに気づく。だとすると、日本のスピーカーにもしも日本独特の音色があったとしても、そのことに最も気づかないのが日本人自身ではないのか?
 その通りであることを証明するためには、西欧のスピーカーを私たち日本人が聴いて特色を感じると同じように、日本のスピーカーを西欧の人間に聴かせてみるとよい。が、幸いにもわたくし自身が、三人の西欧人の意見をご紹介することができる。
 まず、ニューヨークに所在するオーディオ業界誌、ハイファイ・トレイド・ニュウズ≠フ副社長ネルソンの話から始めよう。彼は日本にもたびたび来ているし、オーディオや音楽にも詳しい。その彼がニューヨークの事務所で次のような話をしてくれた。
「私が初めて日本の音楽(伝統音楽)を耳にしたとき、何とカン高い音色だろうかと思った。ところがその後日本のスピーカーを聴くと、どれもみな、日本の音楽と同じようにカン高く私には聴こえる。こういう音は、日本の音楽を鳴らすにはよいかもしれないが、西欧の音楽を鳴らそうとするのなら、もっと検討することが必要だと思う。」
 私たち日本人は、歌舞伎の下座の音楽や、清元、常盤津、長唄あるいは歌謡曲・艶歌の類を、別段カン高いなどとは感じないで日常耳にしているはずだ。するとネルソンの言うカン高いという感覚は、たとえば我々が支那の音楽を聴くとき感じるあのカン高い鼻にかかったような感じを指すのではないかと、わたくしには思える。
 しかし、わたくしは先にアメリカ東海岸の人間の感覚を説明した。ハイの延びた音をノーマル≠ニ感じない彼らの耳がそう聴いたからといっても、それは日本のスピーカーを説明したことにならないのではないか──。
 そう。わたくしも、次に紹介するイギリスKEFの社長、レイモンド・クックの意見を聞くまでは、そう思いかけていた。クックもしかし、同じようなことを言うのである。
「日本のスピーカーの音をひと言でいうと、アグレッシヴ(攻撃的)だと思います。それに音のバランスから言っても、日本のスピーカー・エンジニアは、日本の伝統音楽を聴く耳でスピーカーの音を仕上げているのではないでしょうか。彼らはもっと西欧の音楽に接しないといけませんね。」
 もう一人のイギリス人、タンノイの重役であるリヴィングストンもクックと殆ど同じことを言った。
 彼らが口を揃えて同じことを言うのだから、結局これが、西欧人の耳に聴こえる日本のスピーカーの独特の音色だと認めざるをえなくなる。ご参考までにつけ加えるなら、世界各国、どこ国のどのメーカーのエンジニアとディスカッションしてみても、彼らの誰もがみな、『スピーカーが勝手な音色を作るべきではない。スピーカーの音は、できるかぎりプログラムソースに忠実であり、ナマの音をほうふつとさせる音で鳴るべきであり、我社の製品はその理想に近づきつつある……』という意味のことを言う。実際の製品の音色の多彩さを耳にすれば、まるで冗談をいっているとしか思えないほどだ。しかし、日本のスピーカーが最も無色に近いと思っているのは我々日本人だけで、西欧人の耳にはやっぱり個性の強い音色に聴こえているという事実を知れば、そして自分の匂いは自分には判らないという先の例えを思い出して頂ければ、わたくしの説明がわかって頂けるだろう。
     *
ステレオサウンドが出しているムック「良い音とは 良いスピーカーとは?」にも収められている。

ここではスピーカーがつくられた国による音の違いなのだが、
同じことが時代による音の違いについてもあてはまるようなに、
最近思うようになってきた。

つまり、過去の時代の音の香り(匂い)については感じることがあっても、
同時代の香り(匂い)に関しては、自分の体臭がわからないのと同じように、
わからないのかもしれない、ということだ。

ウラッハは、遠い時代のクラリネット奏者である。
フレストは、まさに、いまの時代の同時代のクラリネット奏者である。

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http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/953.html#c32

[近代史3] 日本製のスピーカーは どんな名作でもすぐに消えてしまう理由 中川隆
75. 中川隆[-13175] koaQ7Jey 2022年4月24日 18:03:04 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[10]
Date: 4月 24th, 2022
陰翳なき音色(その6)
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ステレオサウンド 36号に瀬川先生の「実感的スピーカー論 現代スピーカーを展望する」が載っている。
     *
 日本のスピーカーの音には、いままで述べてきたような特色がない、と言われてきた。そこが日本のスピーカーの良さだ、という人もある。たしかに、少なくとも西欧の音楽に対してはまだ伝統というほどのものさえ持たない日本人の耳では、ただひたすら正確に音を再現するスピーカーを作ることが最も確かな道であるのかもしれない。
 けれどほんとうに、日本のスピーカーが最も無色であるのか。そして、西欧各国のスピーカーは、それぞれに特色を出そうとして、音を作っているのか……? わたくしは、そうではない、と思う。
 自分の体臭は自分には判らない。自分の家に独特の匂いがあるとは日常あまり意識していないが、他人の家を訪問すると、その家独特の匂いがそれぞれあることに気づく。だとすると、日本のスピーカーにもしも日本独特の音色があったとしても、そのことに最も気づかないのが日本人自身ではないのか?
 その通りであることを証明するためには、西欧のスピーカーを私たち日本人が聴いて特色を感じると同じように、日本のスピーカーを西欧の人間に聴かせてみるとよい。が、幸いにもわたくし自身が、三人の西欧人の意見をご紹介することができる。
 まず、ニューヨークに所在するオーディオ業界誌、ハイファイ・トレイド・ニュウズ≠フ副社長ネルソンの話から始めよう。彼は日本にもたびたび来ているし、オーディオや音楽にも詳しい。その彼がニューヨークの事務所で次のような話をしてくれた。
「私が初めて日本の音楽(伝統音楽)を耳にしたとき、何とカン高い音色だろうかと思った。ところがその後日本のスピーカーを聴くと、どれもみな、日本の音楽と同じようにカン高く私には聴こえる。こういう音は、日本の音楽を鳴らすにはよいかもしれないが、西欧の音楽を鳴らそうとするのなら、もっと検討することが必要だと思う。」
 私たち日本人は、歌舞伎の下座の音楽や、清元、常盤津、長唄あるいは歌謡曲・艶歌の類を、別段カン高いなどとは感じないで日常耳にしているはずだ。するとネルソンの言うカン高いという感覚は、たとえば我々が支那の音楽を聴くとき感じるあのカン高い鼻にかかったような感じを指すのではないかと、わたくしには思える。
 しかし、わたくしは先にアメリカ東海岸の人間の感覚を説明した。ハイの延びた音をノーマル≠ニ感じない彼らの耳がそう聴いたからといっても、それは日本のスピーカーを説明したことにならないのではないか──。
 そう。わたくしも、次に紹介するイギリスKEFの社長、レイモンド・クックの意見を聞くまでは、そう思いかけていた。クックもしかし、同じようなことを言うのである。
「日本のスピーカーの音をひと言でいうと、アグレッシヴ(攻撃的)だと思います。それに音のバランスから言っても、日本のスピーカー・エンジニアは、日本の伝統音楽を聴く耳でスピーカーの音を仕上げているのではないでしょうか。彼らはもっと西欧の音楽に接しないといけませんね。」
 もう一人のイギリス人、タンノイの重役であるリヴィングストンもクックと殆ど同じことを言った。
 彼らが口を揃えて同じことを言うのだから、結局これが、西欧人の耳に聴こえる日本のスピーカーの独特の音色だと認めざるをえなくなる。ご参考までにつけ加えるなら、世界各国、どこ国のどのメーカーのエンジニアとディスカッションしてみても、彼らの誰もがみな、『スピーカーが勝手な音色を作るべきではない。スピーカーの音は、できるかぎりプログラムソースに忠実であり、ナマの音をほうふつとさせる音で鳴るべきであり、我社の製品はその理想に近づきつつある……』という意味のことを言う。実際の製品の音色の多彩さを耳にすれば、まるで冗談をいっているとしか思えないほどだ。しかし、日本のスピーカーが最も無色に近いと思っているのは我々日本人だけで、西欧人の耳にはやっぱり個性の強い音色に聴こえているという事実を知れば、そして自分の匂いは自分には判らないという先の例えを思い出して頂ければ、わたくしの説明がわかって頂けるだろう。
     *
ステレオサウンドが出しているムック「良い音とは 良いスピーカーとは?」にも収められている。

ここではスピーカーがつくられた国による音の違いなのだが、
同じことが時代による音の違いについてもあてはまるようなに、
最近思うようになってきた。

つまり、過去の時代の音の香り(匂い)については感じることがあっても、
同時代の香り(匂い)に関しては、自分の体臭がわからないのと同じように、
わからないのかもしれない、ということだ。

ウラッハは、遠い時代のクラリネット奏者である。
フレストは、まさに、いまの時代の同時代のクラリネット奏者である。

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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/450.html#c75

[近代史4] 日本のスピーカー 中川隆
7. 中川隆[-13174] koaQ7Jey 2022年4月24日 18:03:58 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[11]
Date: 4月 24th, 2022
陰翳なき音色(その6)
http://audiosharing.com/blog/?p=37060


ステレオサウンド 36号に瀬川先生の「実感的スピーカー論 現代スピーカーを展望する」が載っている。
     *
 日本のスピーカーの音には、いままで述べてきたような特色がない、と言われてきた。そこが日本のスピーカーの良さだ、という人もある。たしかに、少なくとも西欧の音楽に対してはまだ伝統というほどのものさえ持たない日本人の耳では、ただひたすら正確に音を再現するスピーカーを作ることが最も確かな道であるのかもしれない。
 けれどほんとうに、日本のスピーカーが最も無色であるのか。そして、西欧各国のスピーカーは、それぞれに特色を出そうとして、音を作っているのか……? わたくしは、そうではない、と思う。
 自分の体臭は自分には判らない。自分の家に独特の匂いがあるとは日常あまり意識していないが、他人の家を訪問すると、その家独特の匂いがそれぞれあることに気づく。だとすると、日本のスピーカーにもしも日本独特の音色があったとしても、そのことに最も気づかないのが日本人自身ではないのか?
 その通りであることを証明するためには、西欧のスピーカーを私たち日本人が聴いて特色を感じると同じように、日本のスピーカーを西欧の人間に聴かせてみるとよい。が、幸いにもわたくし自身が、三人の西欧人の意見をご紹介することができる。
 まず、ニューヨークに所在するオーディオ業界誌、ハイファイ・トレイド・ニュウズ≠フ副社長ネルソンの話から始めよう。彼は日本にもたびたび来ているし、オーディオや音楽にも詳しい。その彼がニューヨークの事務所で次のような話をしてくれた。
「私が初めて日本の音楽(伝統音楽)を耳にしたとき、何とカン高い音色だろうかと思った。ところがその後日本のスピーカーを聴くと、どれもみな、日本の音楽と同じようにカン高く私には聴こえる。こういう音は、日本の音楽を鳴らすにはよいかもしれないが、西欧の音楽を鳴らそうとするのなら、もっと検討することが必要だと思う。」
 私たち日本人は、歌舞伎の下座の音楽や、清元、常盤津、長唄あるいは歌謡曲・艶歌の類を、別段カン高いなどとは感じないで日常耳にしているはずだ。するとネルソンの言うカン高いという感覚は、たとえば我々が支那の音楽を聴くとき感じるあのカン高い鼻にかかったような感じを指すのではないかと、わたくしには思える。
 しかし、わたくしは先にアメリカ東海岸の人間の感覚を説明した。ハイの延びた音をノーマル≠ニ感じない彼らの耳がそう聴いたからといっても、それは日本のスピーカーを説明したことにならないのではないか──。
 そう。わたくしも、次に紹介するイギリスKEFの社長、レイモンド・クックの意見を聞くまでは、そう思いかけていた。クックもしかし、同じようなことを言うのである。
「日本のスピーカーの音をひと言でいうと、アグレッシヴ(攻撃的)だと思います。それに音のバランスから言っても、日本のスピーカー・エンジニアは、日本の伝統音楽を聴く耳でスピーカーの音を仕上げているのではないでしょうか。彼らはもっと西欧の音楽に接しないといけませんね。」
 もう一人のイギリス人、タンノイの重役であるリヴィングストンもクックと殆ど同じことを言った。
 彼らが口を揃えて同じことを言うのだから、結局これが、西欧人の耳に聴こえる日本のスピーカーの独特の音色だと認めざるをえなくなる。ご参考までにつけ加えるなら、世界各国、どこ国のどのメーカーのエンジニアとディスカッションしてみても、彼らの誰もがみな、『スピーカーが勝手な音色を作るべきではない。スピーカーの音は、できるかぎりプログラムソースに忠実であり、ナマの音をほうふつとさせる音で鳴るべきであり、我社の製品はその理想に近づきつつある……』という意味のことを言う。実際の製品の音色の多彩さを耳にすれば、まるで冗談をいっているとしか思えないほどだ。しかし、日本のスピーカーが最も無色に近いと思っているのは我々日本人だけで、西欧人の耳にはやっぱり個性の強い音色に聴こえているという事実を知れば、そして自分の匂いは自分には判らないという先の例えを思い出して頂ければ、わたくしの説明がわかって頂けるだろう。
     *
ステレオサウンドが出しているムック「良い音とは 良いスピーカーとは?」にも収められている。

ここではスピーカーがつくられた国による音の違いなのだが、
同じことが時代による音の違いについてもあてはまるようなに、
最近思うようになってきた。

つまり、過去の時代の音の香り(匂い)については感じることがあっても、
同時代の香り(匂い)に関しては、自分の体臭がわからないのと同じように、
わからないのかもしれない、ということだ。

ウラッハは、遠い時代のクラリネット奏者である。
フレストは、まさに、いまの時代の同時代のクラリネット奏者である。

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http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/114.html#c7

[近代史5] 茂木誠 _ ユダヤから紐解くロシア・ウクライナの歴史 中川隆
4. 2022年4月24日 19:35:27 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[12]

特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その1、キエフ公国〜ソビエト連邦建国まで』*その2は概要欄
2022/03/20



特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その2、第2次世界大戦〜現在まで』 *その1は概要欄から
2022/03/24


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1560.html#c4
[近代史5] ロシア・ウクライナの歴史と現代史 中川隆
54. 中川隆[-13173] koaQ7Jey 2022年4月24日 19:36:35 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[13]

特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その1、キエフ公国〜ソビエト連邦建国まで』*その2は概要欄
2022/03/20



特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その2、第2次世界大戦〜現在まで』 *その1は概要欄から
2022/03/24


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/472.html#c54
[近代史5] 「バイデンはウクライナをプーチンに渡す」米露の“密約”をジェームズ斉藤が暴露! 危機は出来レースだった!? 中川隆
11. 中川隆[-13172] koaQ7Jey 2022年4月24日 19:37:17 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[14]

特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その1、キエフ公国〜ソビエト連邦建国まで』*その2は概要欄
2022/03/20



特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その2、第2次世界大戦〜現在まで』 *その1は概要欄から
2022/03/24


http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1508.html#c11
[近代史4] プーチン大統領 中川隆
38. 中川隆[-13171] koaQ7Jey 2022年4月24日 19:37:56 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[15]

特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その1、キエフ公国〜ソビエト連邦建国まで』*その2は概要欄
2022/03/20



特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その2、第2次世界大戦〜現在まで』 *その1は概要欄から
2022/03/24


http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/809.html#c38
[近代史02] プーチン大統領は神の申し子_____小沢一郎先生はこういう人になって欲しかった 中川隆
203. 中川隆[-13170] koaQ7Jey 2022年4月24日 19:38:36 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[16]

特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その1、キエフ公国〜ソビエト連邦建国まで』*その2は概要欄
2022/03/20



特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その2、第2次世界大戦〜現在まで』 *その1は概要欄から
2022/03/24


http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/297.html#c203
[近代史7] 茂木誠 _ 超日本史・ユダヤから紐解くロシア・ウクライナの歴史 - YouTube 動画 中川隆
2. 中川隆[-13169] koaQ7Jey 2022年4月24日 19:39:26 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[17]

特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その1、キエフ公国〜ソビエト連邦建国まで』*その2は概要欄
2022/03/20



特番『茂木誠先生の歴史講義、ロシアとウクライナ、その”悲しみの歴史”を紐解く。その2、第2次世界大戦〜現在まで』 *その1は概要欄から
2022/03/24


http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/906.html#c2
[近代史5] ロシア・ウクライナの歴史と現代史 中川隆
55. 中川隆[-13168] koaQ7Jey 2022年4月24日 19:40:42 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[18]
茂木誠 _ ユダヤから紐解くロシア・ウクライナの歴史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1560.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/472.html#c55
[近代史5] ロシア・ソ連では兵士への報酬として住民から物を奪うのを奨励している 中川隆
1. 2022年4月24日 19:50:40 : BZN3AY6AYA : a2lqa3RnYmIzL2s=[19]

2022年04月24日
ロシア人はなぜこれほど非道になれるのか?
第一次大戦の勝者米英仏はドイツに「犯罪者」の汚名を着せあらゆるものを奪った。
ドイツには激しい恨みが残り、復興したドイツは復讐を開始した。(ポーランド侵攻)

画像引用:https://www.bbc.com/news/world-europe-49523932

ロシア軍がウクライナでやっている行為

ロシアがウクライナの占領地域で行っている行為は、1930年代後半からドイツが行った行為とほとんど同じになっている。

CNNによるとウクライナ北部のロシア軍が一時占領していた村で、住民が30日間閉じこめられていた地下室が公開された。

ロシア軍占領後に兵士が一軒一軒の家を周り、銃をつきつけて学校の地下室に連行され、「ここに来たのはしぬためだ」と告げられた。

地下室は10部屋ほどあり一部屋に35人づつ監禁されたが、換気はされず12人が窒息したという。

なくなった人は部屋にそのまま放置され、貯蔵した食料はロシア人に食べられてしまい、配給はほとんどされなかった。

地上ではロシア兵が学校を占拠し、子供などを人間の盾にしていた。


ロシア軍は民間人を近くに置けばウクライナ軍が攻撃しないのを利用して、各地で住民を監禁して盾に利用した。

その一方でロシア軍は民間人と民間施設を無差別に攻撃し、幼稚園、学校、病院、介護施設、赤十字、避難所などを狙って攻撃した。

マリウポリやキエフ周辺では住人数万人以上が連れ去られたが、男性はロシア兵として送り込まれ、ウクライナ人同士で戦いを強いられている。


元大阪府知事は「降伏すれば安全が保障される」と降伏しないウクライナ人を非難したが、ロシア占領後の方が攻撃による犠牲者より多い。

ロシア軍はそんな生易しいものではなく、占領後に反ロシア住民を選別し、国連などによると兵士が即決裁判をしその場で刑を執行している

ブチャなどの占領地域ではロシア軍占領前の犠牲者はほとんど居なかったが、ロシア軍撤退後に小さな町で数百人がなくなっていた。

現代のロシアとナチスドイツの共通点

一体ロシア軍がなぜこのような行為をするかですが、1930年代のドイツ軍と比較すると何か理由が分かるかも知れません。

ドイツは米英仏と第一次世界大戦を戦って負けた事で「犯罪国家」の濡れ衣を着せられ、すべてを奪われた。

復讐の権化と化したドイツは欧州のあらゆる国に「憎しみを込めて」侵略し、苛烈なまでに住民を弾圧した。


そうできた理由はドイツ人が被害者だったからで、同じように第一次世界大戦を戦った米英仏は「被害者」に成りすましドイツ人に酷いことをしました。

ここまではドイツに理があり、敗戦で失われた権利を取り戻すという主張も理解できなくもない。

だが一度始めた侵攻は失われた領土を取り戻しても止まらず、欧州支配の次はソ連、ロシアにも進撃した。


人間は何も動機がなければそう野蛮になれないし、良心があるので罪もない人々を弾圧する事もできない。

そうできた理由はドイツ人が「自分たちは被害者で、戦勝国に罪を擦り付けられ奪われた」と確信していたからでした。

ロシアはロシア人の主張によると「欧米の被害者」で、欧米の手先がウクライナであり、ロシアが被害者だと言っている。


一笑に付すのは簡単だがロシア人とて人間なので、まったく理由が無いのにこれほど酷い事はできません。

ロシア人もかつてのドイツ人のように被害者意識で凝り固まっていて、「自分は被害者だから加害者に何をしても良い」という心理になっている。

ロシア兵はウクライナ人にどんなにひどい事をしても、「自分たちが被害者」だと思っています。

https://www.thutmosev.com/archives/88091601.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1561.html#c1

   

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