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[近代史3] 重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係 中川隆
33. 2022年8月13日 06:35:23 : MYa9j8kTUI : a2FpSDlXZjJOVWM=[1]
「ふう、あなたが先に死ぬんだね」アラブにたつ日の涙 樺美智子につながる美質 重信房子と遠山美枝子(3)
8/12
https://news.yahoo.co.jp/articles/67c4cda28ca5401405b0f5168c69e70f13a0e432


 半世紀前、赤軍派や赤軍派から分かれたグループが社会を揺るがす大事件を連続して起こした。重信房子と親友、遠山美枝子は、異なる立場でこれらの事件に関係し、遠山は短い生涯を断たれた。道が分かれるまでを追う。(敬称略、女性史研究者=江刺昭子)

   ×   ×   ×

 1970年3月、赤軍派の9人が日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に渡った。

 71年末には赤軍派と革命左派(京浜安保共闘)が合体して連合赤軍になり、72年1月から2月にかけて、群馬県の山岳ベースで同志12人を殺した。死者の1人が遠山美枝子である。

 この事件を起こし、警察に追われた5人が長野県軽井沢の「あさま山荘」に立てこもり、銃撃戦の末、逮捕された。

 重信房子らが海外で結成した日本赤軍の3人が、イスラエル・テルアビブ空港で銃を乱射、約100人を死傷させたのが72年5月である。

 重信や遠山がそれまで、仲間たちとわいわい騒ぎながら立て看板を作り、デモで声を張り上げていた頃は、牧歌的な時代だったといえる。69年になると、闘争の質が変わる。機動隊との武闘が激化するとともに、組織内の暴力にも歯止めが失われていく。内ゲバである。

1970年4月、解放され「よど号」から次々と降りる乗客=韓国・金浦空港(共同)

 主張の違いを話し合って埋めていくのではなく、自説にこだわり、短絡的に暴力に走った。セクト間やセクト内の内ゲバで、100人以上が死んだとされる。革命の「敵」は権力なのに、なぜ革命を目指す者同士が殺し合うのか。理解不能に映るが、「支配の論理」が働いていると説明する人もいる。

 当時、2人が属したブント(共産主義者同盟)でも、より軍事性を強めたい関西グループと、主流派が対立した。2人は関西グループに誘われて、非公然活動に一歩踏み出す。

 69年1月は東大安田講堂占拠事件が社会を揺るがした。そして4月28日の沖縄返還闘争で大きな曲がり角を迎える。

 ブントは他のセクトと共に機動隊を突破して東京駅に向かい、線路を伝って新橋から銀座に出たが、鎮圧される。大勢の逮捕者を出した。

 この闘争で重信は、火炎ビンを運んだ疑いで初めて逮捕された。非公然活動に誘ったのは古参幹部、佐野茂樹だった。佐野は2020年1月に死去したが、佐野をしのぶ会に、重信はメッセージを送っている。

「ふりかえってみると、私を革命への道に導いたのは、佐野さんのあの4・28闘争の軍事委員会への参加の誘いだったと思います」。佐野が転機をつくったことが分かる。教師になる夢を諦めたのも、この頃である。

 佐野は60年安保闘争に斃れた樺(かんば)美智子と神戸高校の同級生。「樺が思いを寄せた人」といわれている。私は、樺の生涯を調べ『樺美智子、安保闘争に斃れた東大生』(河出文庫)をまとめる中で、そのことを知った。

 明治大の重信や遠山をブントにオルグ(組織)したのは佐野である。ひたむきさ、誠実さを共通の美質とする樺と遠山は、佐野を通じて時空を超えてつながっていた。

 4月の沖縄闘争の評価を巡って、ブント内部が割れる。「敗北」と位置づけて、新しい戦術を主張したのが関西グループだった。そして、69年7月6日に事件が起きる。

 早朝、関西グループが主流派の幹部を襲って大けがをさせる。そのあと、中央大のグループが関西グループの幹部を拉致して、4人を中央大の校舎に閉じ込めた。

明治大法学研究会の仲間と。前列左から2人目が遠山美枝子

 2週間後、4人が差し入れられたロープを使って脱出しようとしたが、1人が4階から転落して死ぬ。内ゲバによる初めての死者とされ、発端の日付から「7・6事件」と呼ばれている。

 重信と遠山も連絡役で事件に関わり、重信は「この時から、あれよあれよという間に(略)お互いに『深入り』することになりました」と振り返っている。

 関西グループは「赤軍派」を結成。9月5日、東京・日比谷野外音楽堂で開かれた全国全共闘結成大会に「ブント右派解体」を掲げ乱入した。ブントは分裂し、活動を共にしてきた者たちが赤軍派を選ぶかどうか、選択を迫られる。

 重信と遠山は赤軍派に加わり、彼女たちが所属した「現代思想研究会」約30人のうち10人も同じ道を選んだ。のちに多くの犠牲者を出すことになる。

 赤軍派は革命の道筋を次のように描いた。革命の前段階として武装蜂起する。そして海外の労働者国家に渡り、そこを根拠地にして世界革命を実現する―。壮大な夢だった。

 山梨県大菩薩峠で首相官邸占拠のための軍事訓練をしていた69年11月5日、警察に発見され、53人が逮捕された。壊滅的といわれたが、70年1月に開かれた政治集会には700人から800人が集まった。

 より過激な方針を出すほど人が集まる傾向があったという。

 この頃、遠山は赤軍派ナンバー2である高原浩之と結婚し、横浜市鶴見区のアパートで一緒に暮らしている。高原の秘書として、電話連絡や文書の作成などを手伝うとともに、彼の生活も支えた。

 遠山がのちに獄中の高原に宛てた手紙によると、秋には銃と爆弾で武装蜂起すると聞かされて、死を覚悟していたという。大菩薩峠の摘発で蜂起は不発に終わった。遠山は妊娠したが、活動を継続するために中絶している。

 70年6月、高原が「よど号ハイジャック事件」の共犯容疑で逮捕され、以後11年間、獄中生活を送ることになる。幹部がほとんど逮捕された赤軍派では、連合赤軍を主導することになる森恒夫が最高指導者に押し上げられた。

 重信は森と対立し、この頃は関西で海外根拠地を作る準備に専念し、遠山と顔を合わせることも少なくなっている。

 遠山は夫を塀の中に奪われ、重信とも会えない。それでも救援の責任者として、身柄拘束されている同志に歯ブラシやタオル、機関紙などを差し入れ、献身的に活動した。元活動家たちはいまも、遠山の行き届いた救援に感謝していると、口をそろえる。

 71年2月、重信は赤軍派を離脱して、アラブへ闘争の場を移した。旅立つ前、遠山は重信のアパートで荷造りを手伝いながら「ふうが先に死ぬんだね」と言って涙をぽろぽろこぼした。「ふう」は重信房子の愛称である。

 そして「どんなに大変でも、お互い闘い続けようね」と確認しあった。そのことが遠山を前のめりにさせたのではないかと、重信は後悔することになる。

 永遠の別れを詠んだ重信の歌を引く。

<「ふう、あなたが先に死ぬんだね」羽田で見送る君は泣き虫>
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html#c33

[近代史3] 東海アマ 「生きて行くために何をしたらよいのか?」 中川隆
2. 2022年8月13日 06:42:32 : MYa9j8kTUI : a2FpSDlXZjJOVWM=[2]

中津川市に住む私が、買ってよかったと思うもの
2022年08月12日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1952.html

 中津川市に住んでいると、生活全般、移動や買物で不自由することが多い。大半が深い山岳地帯で、人口密度が名古屋市の60分の1以下なので、人よりも獣たちの方が多い。自然環境が豊かすぎて、畑を作っても動物や虫に荒らされる頻度が高い。雑草が凄まじい。
 春先になると家の中や布団のなかにまでムカデやさまざまな害虫が侵入してくる。害をなすものが、近所に先住していた泥棒ということもある。

 若い頃、悪事を働いた人間は、自分の人生を知られないよう老後を密かに送ろうとする。私は、知らずに、そんな人物の近くに住む羽目になり、とんでもない目に遭っている。
 虫から人間まで、過疎の田舎で生き抜くために、手に入れて良かったものを書いてみたい。

 まず、不自由している=困っていることの一番は、必要な買物のために移動する距離が長いということだ。
 一番近いスーパーまで、およそ13Km、ドラッグストアまで8km、車で15〜20分かかる。リニア岐阜県駅構想が出てから、中津川市には、ずいぶんたくさんの大規模小売店が増えたが、残念ながら我が村には、一つも増えなかった。未だにコンビニも皆無で、4Kmほど先に、明治から続くミニスーパーがあるだけだ。

 昨年、最期の公共交通機関であるバスが廃止になり、これまでは最寄りのバス停に10分で行けたものが2時間になった。標高差も100m以上あるから結構大変だ。
 そこで、移動手段が足以外に必需品となる。

 移住当初はスズキエブリという車を使っていたが、凍結路事故で不調となり、アルトに買い換えた。これは素晴らしい車だった。何よりも燃費が素晴らしいし、故障らしい故障がなく、メンテはタイヤ・オイルなど消耗品交換だけですむ。
 市内を走っていれば、リットル23Kmほど走る。私のような超低年金老人は、ガソリン価格の高騰が骨身に応えるのだ。当地は四駆が必需だが、100万円以下で買える。
 https://www.suzuki.co.jp/car/alto/

 しかし、間質性肺炎で衰弱した肺機能を回復させるため、毎日歩く必要があるため、標高差500mほど上がった山に向かうと、燃費が悪くなり、毎月のガソリン代が馬鹿にならない。
 それで、20年前に購入したスズキレッツ4という原付バイクを使うようになった。これは平坦地ならリットル50Km以上は走るが、山のなかでも40Km程度は走るので、格段に安くあがる。軽量なので、実に扱いやすい。

 これも買って良かったと、しみじみ思うようになった。ただし、原付は、警察が交通取締のノルマ達成のため、狙撃ちで言いがかりをつけて検挙するので、よほどの田舎でないと使いづらい。
 つい先日も、一旦停止標識で停止して左右確認したのに「完全に止まらなかった」と言いがかりをつけられて検挙されたが、現在争っているところだ。

 起伏の激しい中津川市で自転車を利用するのは難しいが、安い折りたたみ自転車を購入した。しかし、ほとんど使う機会がない。しかし、いずれ石油類が供給されなくなったときに必要だと思い。備蓄している。
 非常用発電機は、ヤマハの900ワットインバータ式を持っている。年に数回停電が起きるので、井戸ポンプの電源のために、どうしても必要になる。
 https://www.yamaha-motor.co.jp/generator/lineup/

 田舎暮らしの最大の悩みの種としては、クマや猪、アライグマなどもあるが、それ以上に、ムカデや蚊、ダニ、アブの害が深刻だ。
 室内に侵入してくるムカデに何回も噛まれているが、最近は、非常に少なくなった。
 それは、床下に殺虫剤を散布するようになったからだ。オルトランやアクタラという農業用粒剤を購入し、パラパラと撒いている。一ヶ月しか効果が続かないので毎月撒かねばならないが、

 おかげで、今年は春先に一回布団に入られただけで、以降は一度も侵入がない。ただし無毒のオオゲジが二回入った。ゴキブリホイホイも有効だ。ムカデはゴキブリを追って入る。
 最多の害をもたらすのが蚊なのだが、私は間質性肺炎が持病なので、蚊取線香の煙で発作が起きることがあり、室内で使えず本当に困っていた。
 しかし、液体蚊取りを使うようになって、やっと悩みが解消した。
 https://fumakilla.jp/insecticide/132/
 問題は毒性だが、ハエやガなどには効果がないので、たぶん大丈夫だろう。

 ダニに関しては、今年のように湿度の高い日が多いと、人を刺すツメダニなどが布団などに涌いてくる。天日干しやハッカ油スプレーなどでも効果は薄い。
 結局、試行錯誤の末、掃除機吸い取りと、布団乾燥機に効果があることが分かった。
 布団乾燥機は、梅雨時、ダニ駆除のため、週に一回くらい必要になる。

 アブは8月の高温のときだけ活発に飛び回るが、山歩きのときはアルコールと水で薄めたハッカ油を、全身にたっぷりスプレーしておく。毎年1リットル近く原液を使うほどだ。
 アブとブヨはスズメバチのように毒性が強いので、ひどいと半月以上、炎症が続くこともある。塗り残した場所を刺されることもあるので、結構たくさん塗る必要がある。
 ディート防虫剤は、毒性が心配なので、原則使わないようにしている。
 https://www.amazon.co.jp/%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%BC%E3%83%AD-GZAK14-%E3%83%8F%E3%83%83%E3%82%AB%E6%B2%B9-1L/dp/B018I2XZLM

 パソコンは、私の書いている内容から、統一教会系など右翼から狙い撃ちされて破壊的ウイルスを送り込まれる可能性があるので、何台も用意してある。
 ただし、新品は購入しない。1〜2万円の中古ノートばかり5台くらいある。10年前のノートでも実用上不便を感じたことはない。
 大切なことは、グーグルなどの共有ソフトを使わず独立させておくことだ。最近のウインドウズ8/10/11は実に扱いずらい。セキュリティが邪魔すぎるのだ。セブンが一番使いやすい。かつてのXPのような安定OSが欲しいものだ。

 中津川市のバス路線が廃止されるような辺鄙な我家の土地は安く買える。地目が山林なら、現在でも坪あたり数千円だろう。不動産屋だと万円単位になるが。
 そこで、私は安い山林を購入し、自力で開墾して、100坪ばかりの傾斜地に畑を作った。
 ところが、豊かな自然に襲われるのだ。まず最大の敵はイノシシだ。イノシシは、畑に入ると想像を超えるほどの規模で作物を荒らし回る。100坪の馬鈴薯畑など数時間で全滅させてしまう。大小10頭くらいの家族を引きつれてくるからだ。
 これを防ぐには、たくさんの試行錯誤が必要になる。まず、一般的な軟質樹脂網を張るが、耐えられるのは数十日程度で、その後、噛み破られたり倒されたりで、ほぼ突破される。

 そこで、ホムセンで売られている1m×2mのワイヤーメッシュ鉄筋を張る。必ず支持杭は、鉄筋か、コールタールを塗りたくった木杭を打ち込む。塗らないと一年持たない。これならイノシシやクマに耐えるが、完全ではない。ときに、ひん曲げて侵入してくる。
 https://www.komeri.com/disp/CKmSfGoodsPageMain_001.jsp?GOODS_NO=47339

 だが、鹿やカモシカが1mの高さを余裕で飛び越えてくる。だから、1.5m高以上ある軟質樹脂網を被せるように張る必要がある。
 https://item.rakuten.co.jp/gardenmate/boju020/
 さらに、小型獣(アライグマ・ハクビシン・狸)対策として、40センチ幅の防草シートを下段に貼る必要もある。なお電柵は草が伸びると、漏電して電池が簡単に消耗する。
 しっかりした扉を設置して、これでやっと獣害を防げる。

 だが、大豆などはキジバトが種蒔き後、掘り返して食べてしまう。だから寒冷紗をかける必要がある。寒冷紗は、3月から種蒔きする場合は、霜対策の必需品だ。
 鶏を放し飼いにするなら、大鷹対策で、上部を鳥網で覆う必要がある。ただし、霞網にように野鳥がかかって死ぬことがある。

 田舎の雑草は凄まじい。だから年に数回以上、草刈りが必要になる。このとき、安価な草刈機は簡単に壊れるので、必ずエンジンなら25cc以上のプロ用を買う。重いが壊れにくい。私はリョービ製を買っている。
 https://item.rakuten.co.jp/auc-e-tool/10003648/?scid=s_kwa_pla_unpaid_215267

 使う回転刃は、私はプラスチック製を使っている。金属刃は草に隠れた硬質物に当たると破損してしまう。それに危険性が高い。
 ナイロン線は、草を粉砕したクズが顔を直撃して、全身クズまみれになる。
 https://www.amazon.co.jp/EM-%E6%96%AC%E4%B8%B8PC%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E9%9B%B7%E7%A5%9E%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC-B-D/dp/B07CP48HB4

 この替刃は結構、高価なので、強化プラスチック板を使って糸のこ盤で自作可能だ。

 さて、私の生涯で、公安警察や右翼の襲撃よりも深刻な問題になった、近所に住む泥棒Aの対策だが、とんでもない苦戦を強いられている。 
 80歳近いAは、人間としては最低のクズだが、知能が非常に高いのだ。実に卑劣で狡猾で手に負えないほどだ。

 侵入する姿を二回目撃して、泥棒がAだと確信してから、刑事告訴の証拠のため、10台近い監視カメラを購入したが、深夜、赤外線の死角を利用して、写らないように大胆に侵入してくる。
 ときには監視カメラのカメラごと持ち去ったり、SDカードを抜き去ってしまう。
 「こいつは殺すしかない!」と激怒したほどだ。

 これまで何回か写ったが、刑事訴訟の証拠にはならないレベルに留まっている。光量や鮮明度が不足していた。
 私がAの侵入を知ることができるようになったのは、安価な中国製センサーアラームのおかげだった。
 https://www.amazon.co.jp/-/en/Detector-Security-Accessories-Different-Transmitter/dp/B07W9L3SC3/ref=sr_1_16?crid=3FRZ49UGWH9X&keywords=%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0&qid=1660279859&s=diy&sprefix=%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%2Cdiy%2C379&sr=1-16

 これを敷地内に6台セットしてある。とりあえず半年以上使って壊れていない。
 30種類近いアラームの音楽バリエーションがあるので、位置と曲を対応させてある。
 これは優れものだ。国産リーベックスは信頼性が高いが、やや高価だ。
 ちょうど昨夜も、一番遠い位置のアラームが鳴ったが、土砂降りなので、見にいかなかった。泥棒のAは、土砂降りの深夜に喜んで侵入してくる。

 中国製監視カメラは超安価で高性能だが、Wi-Fiカメラは、ほぼ全部、中国のデータベースにスパイ送信されるので使用をやめた。ソフトを入れたスマホは壊れてしまった。
 やむをえずリーベックス製監視カメラをたくさん使用しているが、画素数が不足している。

  Aは、私が草刈機を使うと「うるさい」と侵入して、嫌がらせを繰り返すので、これからも侵入やパンクさせた証拠を確保することができるだろう。いつになったら、刑事告訴できることやら……。だが、ヤツは決して逃げられない。
 証拠を確保でき次第、村中に実名と経歴を宣伝するつもりだ。クマの侵入より深刻なのだ。これまでの被害額は、数十万円に達する。

 あと、「買って良かったもの」がなかなか思い浮かばない。
 1.5馬力コンプレッサーとエアレンチは買って良かった。場所をとるが、年に数回もタイヤ交換の必要があり、さらにAが嫌がらせでパンクさせるため、使用頻度が高くなっている。
 Aとの戦いは長引きそうだ。「このウラミ、はらさでおくべきか!」
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1952.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1007.html#c2

[近代史3] 重信房子、北朝鮮、オウム真理教の深い関係 中川隆
34. 2022年8月13日 18:10:53 : MYa9j8kTUI : a2FpSDlXZjJOVWM=[3]
「重信房子は自分の『女』を利用する」日本赤軍元リーダーが「魔女」と呼ばれた理由
8/13https://news.yahoo.co.jp/articles/10342ecc89511dcc4bf7db520c5e099fb19d52c8


 謎多き「魔女」の素顔に迫る――。東京新聞論説委員兼編集委員の田原牧氏による「『私党』重信房子と日本赤軍」(「文藝春秋」2022年8月号)を一部転載します。

【画像】男たちは彼女の催眠術にかかった
https://bunshun.jp/articles/photo/55721?utm_source=news.yahoo.co.jp&utm_medium=referral&utm_campaign=partnerLink&pn=2


◆◆◆

 指定された部屋をノックすると、開かれた扉の向こうに彼女が立っていた。だぶっとした黒いタートルネックのセーターにツイードのコート。髪はゆるくパーマをかけていたような記憶がある。レバノンのベカー高原にあったアパートの一室。あのころ、レバノンはまだ内戦下にあった。

 5月28日、懲役20年の刑期を満了し、東日本成人矯正医療センター(東京都昭島市)から一人の女性が出所した。日本赤軍のリーダーだった重信房子(76)である。

 オランダ・ハーグでのフランス大使館占拠事件(1974年)で国際指名手配中の2000年11月、潜伏先の大阪府高槻市内で逮捕された。それから21年半。獄中で4回にわたる手術で9つの癌を摘出しながら、生き抜いて自由の身となった。

 出所には数十人の支援者やメディア関係者らが駆けつけ、近くの公園で会見が開かれた。彼女の背後には「WE♥FUSAKO」の横断幕が広げられ、報道陣から母親を守るように一人娘のメイが寄り添った。

 テレビ画面からは、帽子に遮られて顔がよく見えなかったが、流れてきたハスキーボイスは昔と変わっていなかった。

「かつてのあり方を反省し、かつ、日本をより良く変えたいという願いと共に謝罪の思いを、私自身の今日の再出発に据えていく所存です」「社会に戻り、市民の一人として、過去の教訓を胸に微力ながら何か貢献したいという思いはありますが、能力的にも肉体的にも私に出来ることは、ありません」

 記者たちに配られた彼女の「再出発にあたって」という挨拶文にはそうある。集まった記者たちの多くは娘よりも若い世代で、映像からははしゃいだ雰囲気が伝わってきた。

 それから一週間後、彼女が通った明治大学駿河台校舎(東京都千代田区)近くのお好み焼き屋で、1960年代をともにした約30人の活動家仲間たちが歓迎会を開いた。「彼女は少しだけビールを啜っていた。顔色は良かった。話といっても、お互い年取ったなあなんてことばかり」。参加した一人はそう笑った。

 支援者や旧友に囲まれた穏やかな時間が流れている。長い異国での活動と獄中生活から生還したのだから当然だろう。それでも、何かが欠けている。忘れ物とでもいうべきか。

 彼女の口からは亡くなったり、いまも獄中にいる元同志たちへの言及がなかった。有期刑だった重信と違い、そのうち二人は無期刑で服役している。ひと昔前と違い、現在の無期はほぼ「死ぬまで」を意味する。解散前から日本赤軍と袂を分かっていたとはいえ、彼らは「兵士」で、彼女は「司令官」だった。

 日本の市民社会に戻った元兵士たちの多くは姿を現さず、距離を置いて沈黙していた。日本赤軍の指導者。彼女の名を世に知らしめた、その最大の事実を出所の喧噪はかき消しているかのように見えた

天性の人たらし。その才能はオルグでも生かされた
 重信が日本赤軍を率いるようになるまでの足跡については、彼女自身の手記や評伝などでたびたび紹介されている。

 敗戦の年に、東京都世田谷区で四人きょうだいの次女として生まれた。父は戦前、井上日召が主導した右翼団体「血盟団」とつながりを持つ人物で、食料品店などを営んでいたが、その高潔な性格からか商売っ気はなく、家計は厳しかったという。重信は幼少時から文学少女だった半面、高校時代には渋谷で不良を装い、高校卒業後はキッコーマンに就職した。19歳で教員を目指し、明大文学部の二部に入学する。

 入学と前後して学費闘争での学生処分に抗議する闘いに共感し、それを契機に学生運動に加わる。所属セクトは当時、三派全学連(新左翼系)の一翼を担った共産主義者同盟(ブント)だった。

 数年後、ベトナム反戦・全共闘運動が全国を席巻したが、1969年1月の東大安田講堂「落城」を機に運動は退潮に向かう。運動の行き詰まりからブントは分裂し、彼女は赤軍派に属することになった。

「重信の役回りは秘書。当時の赤軍派は塩見(孝也、議長)、田宮(高麿、後の「よど号」グループリーダー)、堂山(道生)の3人を中心に回っていて、重信は堂山さんの秘書だった」。当時を知る元赤軍派メンバーの一人はそう振り返った。

「頼れる人という印象だった。カネがなくてね。窮地になると、彼女がどこからかカネを引っ張ってきた。大島渚(映画監督)や松田政男(映画評論家)も彼女の大ファンで、新宿にあった『ユニコーン』という店で一緒によく飲んでいた」

 天性の人たらし。彼女をそう評する人は少なくない。その才能はオルグでも生かされた。「当時、隆盛だった『リブ』に加わるようなタイプじゃない。逆だね。重信は自分の『女』を利用する。だから『魔女』とも呼ばれた。時代もそんな振る舞いを後押ししていた」。後年、何人かの男たちが「オレこそが重信の本命の恋人」と吹聴していた。催眠術から抜けきれなかったのだろう。

大菩薩峠からパレスチナへ
 学生デモは素手からヘルメットとゲバ棒へ。それはすぐに火炎瓶と鉄パイプに取って代わられたが、警察力の増強はそれを上回った。軍事的な突破を果たすべく、赤軍派は「前段階武装蜂起」を掲げる。だが、その準備段階の訓練で壊滅的な弾圧(大菩薩峠事件)を受ける。

 前出の元赤軍派メンバーはこう続けた。「赤軍派の国際根拠地論はそんな苦境からひねり出した方針だった。海外の革命国家で訓練を受け、日本に戻ってくる。最有力の候補地はキューバ。一握りの集団で革命を成就したんで、自分たちの姿と重ねた。キューバから戦艦で帰ってくるなんて話もあった。ただ、接触したキューバ大使館からは『空想的すぎる』と一蹴されたな」

 それでも赤軍派はこの路線に従って、1970年3月に「よど号」ハイジャック事件を起こす。だが、直前に議長の塩見は逮捕され、他の幹部も逮捕、脱落が相次いだ。

 残されたのは後の連合赤軍事件で中心人物となる森恒夫、重信ら準幹部だけだった。森は国内の武装闘争に舵を切ったが、重信は国際根拠地路線の継続を選び、袂を分かつ。

 選んだ行き先はパレスチナだった。なぜ、パレスチナだったのか。当時、『世界革命運動情報』誌の発行に携わっていた松田政男は生前、「オレの影響だ」と話していたが、経緯は定かではない。

 ただ、同伴者はすでに赤軍派にはいなかった。白羽の矢が立ったのが、京大全共闘出身の奥平剛士だった。奥平は当時、京大助手の滝田修(竹本信弘)らをイデオローグとした「京都パルチザン」の一員だった。奥平は重信からの提案を承諾。警察からマークされていた重信の改名目的で、二人は婚姻届を出している。

アラブ諸国の元首クラスと会える立場に
 偶然、目の前に転がってきたボールを拾うのか、他人の物と黙って通り過ぎるのか。それが運命の分かれ道になることがある。

 重信に「国際テロリスト」の肩書きを与えたのが、1972年5月にイスラエルのロッド国際空港で起きた「リッダ闘争(テルアビブ空港銃撃戦事件)」である。奥平を含む日本人青年三人が治安当局と銃撃戦を展開し、巻き添えになった観光客ら計26人が亡くなった。

 奥平は射殺され、京大生の安田安之は手榴弾で自爆したが、鹿児島大生の岡本公三は拘束(現在はレバノンに亡命中)された。

 日本赤軍の看板として語り継がれる事件だが、重信にとっては「転がってきたボール」だった。なぜなら、この事件への重信や赤軍派の関与はないに等しかったからだ。

 どういうことか。1971年の冬、パレスチナ勢力の拠点だったレバノンの首都ベイルートに渡った奥平と重信は、左派組織PFLP(パレスチナ解放人民戦線)の門を叩く。奥平はハイジャック作戦などを遂行していた非公然の海外作戦部局に、重信は広報部門に振り分けられる。奥平は訓練を受け、PFLPと決死作戦の立案、準備に入っていく。

 奥平は出国直前、重信の要望で赤軍派に名義を貸した。だが、それは形式にすぎず、この作戦でも呼び寄せたのは京都パルチザンの仲間たちだった。パルチザンは全共闘の生き残りで、赤軍派も含めた前衛党主義と一線を画すアナーキーな集団だった。彼らは労働と闘争をともにする無数の小集団(5人組)を基礎にした革命を夢想していた。

 リッダ闘争はその国際版で、無名の国際義勇兵の作戦として策定された。それゆえ、声明文を用意せず、安田に至っては身元を隠すため、自らの顔を吹き飛ばしている。

 京都パルチザンの一人で当時、現地で作戦準備に携わった檜森孝雄(2002年に焼身自殺)は遺稿などをまとめた『水平線の向こうに』で「(奥平が)赤軍派の路線やスローガンを口にしたことは一回もなく」と述懐している。同時期に連合赤軍事件で拘束されていた青砥幹夫も事件の一報を聞き、「赤軍派の匂いがしないと思った」と語っている。

 作戦が極秘で進められる中、当時の重信は映画監督の若松孝二や足立正生が企画したパレスチナ闘争の宣伝映画の制作に協力したり、ベイルートの日本人社会ではアイドル的な存在になっていた。娘を懐妊したのもリッダ闘争が実行されたころである。奥平らと重信の間には、その日常のみならず、精神面でも大きな隔たりがあったと推察される。

 やがて作戦は遂行された。欧米諸国や日本の非難とは対照的に、アラブ諸国は絶賛した。だが、アクシデントが起きた。岡本の拘束である。「無名」の構想が崩れた。

 足元にボールが転がってきた。実行者たちの遺志を尊重するのか、赤軍派の作戦と宣伝するのか。重信は後者を選んだ。後に彼女はPFLP幹部の助言に従ったと説明したが、その人物はすでに亡くなっている。

 アラブ民衆の歓喜の熱狂に魅惑されたのだろうか。この事件は彼女に特別な地位を授けた。リッダ闘争という錦の御旗が彼女をアラブ諸国の元首クラスとも会える立場に押し上げたのである。1個のボールが一介の女性活動家に魔力を与えた。


「彼女は理論家じゃない」
「日本赤軍は共産同赤軍派の延長線上に見られがちだが、全くの別物。思想も理論も赤軍派とは違う。日本赤軍は重信が創った党。ただ、彼女は理論家じゃない。理論や思想ではなく、彼女の何かに吸い寄せられた集団だ」。すでに他界した元赤軍派幹部は生前、そう言い切った。

 リッダ闘争直後、「アラブ赤軍(後の日本赤軍)」として犯行声明は出したものの、その組織実体は乏しく、残っていたのは重信と事件で帰国できなくなった京都パルチザン系活動家の丸岡修(2011年に日本で獄死)だけだった。

 しかし、次第に雑多な人びとが集まってくる。重信らが渡航する以前から難民キャンプでボランティアをしていた医療関係者ら、欧州で脱走米兵の亡命援助をしていた旧ベ平連系の知識人ら、若松プロの宣伝映画「赤軍―PFLP世界戦争宣言」の上映隊グループなどである。

 そして、日本赤軍は1973年7月の日航ジャンボ機乗っ取り事件(ドバイ事件)を皮切りに、シンガポール製油所襲撃事件(74年1月)、ハーグ・フランス大使館占拠事件(74年9月)、クアラルンプール米大使館領事部、スウェーデン大使館占拠事件(75年8月)、ダッカ日航機乗っ取り事件(77年9月)と、立て続けに作戦を展開していく。クアラルンプールの事件では五人、ダッカの事件では6人が日本の獄中から超法規的措置で釈放され、組織に合流した。

 重信はヒロインだった。屈指の国際テロ組織のリーダーと叩かれる一方、1970年代から80年代にかけて、日本から竹中労や中山千夏、立花隆をはじめ、数多くの著名人や活動家らが彼女との面会を求めて渡航している。中国での27年間の幽閉後、1980年に帰国した元共産党政治局員、伊藤律も渡航を望みつつ、彼女と文通した一人だった。新左翼党派の派遣団や巷の不良少年までが海を渡った。

なぜ、人びとはこれほど日本赤軍に魅せられたのか
 なぜ、人びとはこれほど重信や日本赤軍に魅せられたのか。なにより彼女の「人たらし」という天賦の才覚が人びとを誘った。

 アジビラ調の文言が並びがちな新左翼の文書の中で、彼女が書く日本赤軍のそれは特異だった。1973年11月に発表された「アラブよりの招請状」には「やくざで底抜けにやさしかった多くの仲間たち、どうしていますか? キャンパスは、あたたまっていますか?」「街角は私たちの(出会いの)ために待機していることでしょう」とある。

 こうした言葉に誘われ、海を渡った人は少なくない。渡った先で「ちょっと前に、あなたが来る夢を見た」と告げられた人もいた。日本のシンパらへの手紙には、ベカー高原の草花を押し花にした手製のしおりが添えられていた。

 時代背景もあった。そのころには「叛乱の季節」は終わり、新左翼運動は100人以上の若者が落命した陰惨な内ゲバの陥穽にはまっていた。

 そうした中で「口先でいくらマルクス・レーニン主義をいおうと、団結しえず、分裂や内ゲバをくりかえすのは、その根拠に敵階級の思想を反映した立場があるからです」(『団結をめざして―日本赤軍の総括』)と断罪する日本赤軍は運動圏の希望の灯だった。

「(私たちは)死を覚悟することによって日和らない自己を確立するという程度の決意主義を根深くもっていました」(同)。こうした凄みが、ますます彼女と組織を神格化した。

私の目の前に現れた小柄な女性
 ノンセクト活動家だった学生時代、老舗の新左翼党派にキャンパスを追われた経験のあった筆者も1980年代半ば、彼らの言葉に惹かれて渡航した一人である。

 PFLPを介し、ベカー高原のアパートで彼女と対面した。最初、目の前に現れた小柄な彼女に「すみません。重信さんはどこですか?」と尋ねてしまった。勝手に膨らませていたイメージが、彼女を大柄な人と思い込ませていた。

「私たちのころは学生運動をしていないとモテなかったけど、いまみたいな時代にどうして活動なんかしてたの?」。打ち解けた語り口に戸惑った。その後、筆者が大学の後輩だったことで「『味一(大学近くにあったラーメン屋)』のおばさんは元気?」と聞かれた。

「私たちは理論家がいない分、現実から始められた」「銃を扱うほど銃への幻想がなくなり、非暴力に近づける」「日本の豊かさって消費させられているだけではないの?」。そんな言葉を記憶している。最後に「あなたを『一本釣り』する気なんてない。日本で何とか頑張って。私たちは支援する側よ」と言われ、数時間の会話は終わった。帰り際、アラブの工芸品である寄木細工の宝石箱を手渡された。

 彼女との面会はフランクな空気に包まれていた。ただ、小さな違和感があった。それは彼女の傍らにいたメンバーらしき男性の振る舞いだった。まるで執事のように無言で恭しく彼女にかしずいていた。

 その違和は20年近く経った後に氷解する。組織内には筆者が感じた優しげなイメージとは対照的な現実が潜んでいた。(文中敬称略)

 東京新聞論説委員兼編集委員の田原牧氏の「『私党』重信房子と日本赤軍」は、「文藝春秋」2022年8月号と「 文藝春秋digital 」に掲載されています。

田原 牧/文藝春秋 2022年8月号
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/300.html#c34

[番外地10] これはイジメ事件ではないから100万人署名活動には意味なんか無いんだよ 中川隆
1. 中川隆[-12951] koaQ7Jey 2022年8月13日 18:27:09 : MYa9j8kTUI : a2FpSDlXZjJOVWM=[4]
これはイジメ事件ではないから100万人署名活動には意味なんか無いんだよ
そもそも担任の先生がデートだから後にして欲しい、と言ったのは嘘だしね。
担任はサアヤさんの母親の無責任さに怒って皮肉を言ったんだよ。
それから、警察には関連動画とか色々な情報が沢山届けられているよ。 しかし、再捜査しないと決まっているので、返却されたり、完全無視されている。
http://www.asyura2.com/21/ban10/msg/591.html#c1

   

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