33. 2016年1月15日 15:20:44 : KCWvWC1E4U : jYbxPv76h7U[1]
【再び、拉致を追う】
第2部 9・17を検証する(1)米「悪の枢軸」発言で急展開
2012.9.17 10:22
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120917/plc12091710220003-n1.htm
平成14年初頭、長く停滞していた日朝関係に転機が訪れる。米国のブッシュ大統領が1月29日の一般教書演説で北朝鮮をイラン、イラクと並べて反テロ対策の対象となる「悪の枢軸」と呼び、こう強く非難したことがきっかけだ。
「自国民を飢えさせる一方で、ミサイルや大量破壊兵器で武装している」
これに北朝鮮は「世界第一の悪はほかならぬ米国だ」(労働新聞)などと強く反発したものの、金正日総書記は思い悩んだ。米国はすでにアフガニスタンを攻撃し、イラク攻撃に向け圧力を強めていた。いつその矛先が北朝鮮に向くかもしれない。
そこで、金総書記が狙ったのが米国と同盟関係にある日本との関係改善であり、米国へのとりなしだった。
「北朝鮮が日本にすがってきた。それをとらえて、小泉純一郎首相が訪朝に持っていった。日朝首脳会談でも、金総書記はわれわれに対し、米国との関係について相当訴えていた」
小泉氏の訪朝に同行し、首脳会談にも同席した安倍晋三官房副長官はこう証言する。
福田康夫官房長官も「ブッシュ発言後から向こうの態度が変わり、前向きになってきた。好球必打だ」と指摘する。
3月以降、日朝間の水面下の交渉は本格化していく。同時に、北朝鮮の「招待所」で幽閉されるようにしてひっそりと暮らしていた拉致被害者たちの境遇にも変化が訪れる。拉致被害者の存在は、北朝鮮にとり対日交渉の「最終カード」としてにわかに重要性を増したからだ。
翻弄された被害者
北朝鮮の「対日交渉カード」となった拉致被害者たちは、嵐の海に漂う小舟のように、国際情勢や北朝鮮の思惑に翻弄された。事態は、運命の「9・17」に向けて収斂(しゅうれん)していく。
◆3月「世界に公表」
平壌市郊外、雑木林が鬱蒼(うっそう)と広がる森林地帯の一角に「双鷹(サンメ)招待所」はある。上空から見ても完全な森そのもので、偵察衛星からも捕捉されない。ここで、拉致被害者の一部は質素な隔離生活を送っていた。
そこにある日、前触れもなく変化の兆しが表れた。朝鮮労働党機関紙「労働新聞」が「『日本人行方不明者』を捜す用意がある」との記事を掲載したのだ。「行方不明者」とは拉致被害者を指す。これまで「拉致はでっちあげ」と突っぱねてきた北朝鮮側が、拉致こそ認めないものの歩み寄り始めたことを意味する。
同様に3月22日には朝鮮赤十字会が、拉致は否定しながらも前年12月に全面中止を公表していた行方不明者調査事業について、「継続することにした」と方針転換を発表した。
呼応するように、日本政府側も北朝鮮を刺激しないよう腫れ物に触るように扱った。よど号事件メンバーの元妻、八尾恵氏が欧州留学中の有本恵子さんを北朝鮮に拉致したと証言した際、政府高官は記者団にこう言い放ったほどだ。
「有本さんの件は、日本人であるよど号の連中がやったことだから、北朝鮮による拉致じゃない!」
拉致被害者たちには予想外の展開が待っていた。北朝鮮当局からこう告げられたのだ。
「あなたたちがいることを世界に公表する」
同時にそのための「準備」が始まる。行方不明者がなぜ北朝鮮にいたのかを説明するための、例えばこんな無理のあるストーリーが作られた。
「海岸でボートに乗ったら沖に流され、漂流してしまった。何日かして、通りかかった北朝鮮の船舶に救助された。たどり着いた共和国(北朝鮮)の人民の生活に感動した。しばらく、ここで暮らしたいと自分で申し出た」
昭和38年、能登半島近海に漁に出かけて行方不明となり、その後、北朝鮮での生存が判明した寺越武志さんの例をほうふつさせる。
◆6月「幸福の演出」
日朝間の秘密交渉の報告を受けていた福田康夫官房長官は「(交渉は)5月以降、前向きに進み出した」と記憶をたどる。
この動きに符合するように、6月になると拉致被害者らは突然、北朝鮮当局からこう伝えられた。
「明日、(招待所から)引っ越してもらう」
引っ越し先は、平壌市の中心部にある富裕層が暮らす3LDKのアパートだった。北朝鮮に連れてこられてほぼ初めて、招待所を出ることになった。
転居の理由は「日本から家族が来るかもしれないので、幸せに暮らしている様子を見せる」ためだった。北朝鮮はこの時点で、拉致被害者をただちに帰国させるつもりがなかったことがうかがえる。
拉致被害者たちはその後3カ月、一般の平壌市民と変わらない生活を送った。
外務省当局者は「金総書記は拉致さえ認めれば、日本から現金を引き出せると信じたようだ。それでそのためのプロジェクトを考えるよう指示した」という。
◆9月「新たな戦い」
9月になると、拉致被害者たちは「日本の首相が来る」と伝えられた。同月17日の日朝首脳会談後には北朝鮮当局から「もう行方不明者じゃなくていい」と言い渡された。金正日総書記が既に拉致を認めていたためだとみられる。
外務省の調査団も訪朝し、面会して同級生の名前を述べたり、幼いころのけがの傷痕のチェックをしたりなど本人確認も受けた。拉致被害者たちはこの時点でもまさか自らの帰国がかなうとは思わず、日本から親族が訪ねてきたときのために新しい洋服を買うなどしていた。
拉致被害者のうち5人が翌10月に日本に帰国することになるとは、このときもまだ予想していなかった。日朝首脳会談に同席した安倍晋三官房副長官によると、この段階でも「北朝鮮は拉致被害者は『日本に帰りたくないと言っている』と嘘をついていた」とされる。
安倍氏は当時を振り返り、こう強調する。
「小泉訪朝までの戦いは北朝鮮に拉致の実行を認めさせること。そこから5人の被害者を取り返す。その家族を取り返す。死亡したと通告された8人に対する北の主張を覆し、そして取り返す。そんな新たな戦いが始まったのだ」(肩書は当時)
◇
北朝鮮が拉致の存在を認めた平成14年9月17日の小泉訪朝から10年。「5人生存・8人死亡」との衝撃的な情報が伝えられた「9・17」を検証する。
【再び、拉致を追う】
第2部 9・17を検証する(2)日本資金で砂上の楼閣
2012.9.18 07:57
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120918/plc12091807580012-n1.htm
鉄道整備やデパート…高らかに再生計画
鉄道の複線化、道路整備、百貨店など商業施設建設…。「9・17」の日朝首脳会談で日本人拉致を認め謝罪した金正日総書記は、一方で日本側がそれまでに示してきた“代価”を当て込んで、意気揚々と、政府の国家計画委員会に「国家の再生」を指示していた。
朝鮮労働党元幹部、張哲賢氏の「日本側は114億ドル(約1兆3600億円、当時)を約束していた」という話は、張氏以外の脱北した朝鮮労働党、政府に所属した元幹部(複数)からも同様の証言が得られた。
「小泉(純一郎首相)が来たら200億ドルが入ると聞いた」(党地方幹部)、「現金100億ドルと投資200億ドルじゃなかったかと思う」(貿易省の元高級官僚)、「200億ドル要求したが、100億ドルになったと聞いた」(軍関係者)−。額に差はあるが幹部層で「日本資金」の話が広く知られていた様子が浮かんだ。
証言を総合すると、日本側から実務協議の過程で、経済協力の要求額を問われた北朝鮮は、人民経済大学、社会科学院、貿易省などの政府組織にまたがる「常務組」(タスクフォース)を構成して要求額を算定。そこには日本が戦前に収奪した米など食糧まで入っていた。日韓国交正常化交渉をモデルにした形跡がある。
北朝鮮は、「日朝平壌宣言」の署名で、日本の経済協力は年内にも始まると考えていた。国家再生プロジェクトでは、平壌に新しく建設する百貨店の責任者を金総書記の実妹、金敬姫氏とすることも決定。金敬姫氏は「日本製品を山のように並べなければならない」と命じていたという。
安倍氏らの会話盗聴 総書記あわてて謝罪
北朝鮮は、日本人拉致被害者について「8人死亡、5人生存」と発表したことが、日本社会全体にどれほどの衝撃だったかを全く理解していなかった。張哲賢氏によると、10月に拉致被害者5人の一時帰国を認めたのも「経済協力資金を早期に獲得するためだった」という。
しかし日本側の態度は一変した。交渉は進まず、しびれを切らした金総書記は12月、指令を出した。
「日本からいつカネがくるのか。作戦を作れ」
そもそも金正日総書記はなぜ、首脳会談で拉致を認めて謝罪したのか。
外務省実務会談成果・経験資料によると、日朝交渉は「金正日総書記が小泉を平壌に呼び付けよ」と指令したことから始まったという。
また、日本人拉致については「拉致を部分的に認定することで、小泉に過去を謝罪させ賠償を獲得する」との戦術だったが、拉致認定は金総書記の権威に及ばない形で行われる予定だった。
「金正日は17日昼、『金総書記が拉致を謝罪しないなら、帰ろう』と主張した安倍晋三官房副長官らの会話を盗聴で聞き、午後の首脳会談で突然、拉致を認めて謝罪した。114億ドルが飛んでいくと考えたからだろう。幹部たちはびっくりして大慌てになった」と張氏は証言した。
予定外の最高指導者による拉致認定と謝罪をどう扱うのか、党宣伝部門は苦慮の末に『将軍様の千里眼の英知と、白頭山の胆力で行った果敢な認定だった』と高く評価することにしたのだという。
◇
12月、金総書記の命じた対日作戦会議に出席した張哲賢氏によると、会議では「日本の拉致問題の中心は(横田)めぐみ問題」との分析を行った。日本の世論を率いているのは母、横田早紀江さん(76)と判断し、その対策が練られた。日本の世論操作を狙い、「母は右翼に利用されている」などの誹謗(ひぼう)記事を朝鮮労働党機関紙「労働新聞」で掲載した。
しかし、日本の世論の北朝鮮に対する怒りは収まらなかった。金総書記の「日本から巨額の資金を獲得する」という砂上の楼閣のような構想は、雲散霧消していった。北朝鮮には「日本にだまされた」という教訓が残ったのだという。
北朝鮮はこのあと、「拉致問題はすでに解決済み」との主張を繰り返してきた。同時に北朝鮮側は「日朝平壌宣言」が生きている以上、「密約」も生きているとの認識という。日朝関係者によると、北朝鮮は小泉政権後の日朝接触でも、たびたび日本側に「(約束破棄の)謝罪と経済支援の復活」を要求したという。
「2002年のやり方はもうできない。しかし、北朝鮮との交渉は秘密交渉しか方法がない」。外務省幹部はつぶやいた。(肩書は当時)
【再び、拉致を追う】
第2部 9・17を検証する(3) 平壌宣言 段落分けで攻防
2012.9.19 07:26
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120919/plc12091907280013-n1.htm
小泉純一郎首相と北朝鮮の金正日総書記が早期の国交正常化に向けた「日朝平壌宣言」に署名して10年にあたる17日。北朝鮮の朝鮮中央通信は、拉致問題について「既にすべて解決した」と強調した上で、日本側の対応を次のように「罵詈(ばり)雑言に近い言葉」(三谷秀史・拉致問題対策本部事務局長代理)で批判した。
「『拉致問題』をわめいてこそ『民族主義者』『愛国主義者』になり政界で一役果たし…」「保守政客らの人気を上げる道具」
現在実施中の自民党総裁選での拉致問題に関する論戦を意識したことがうかがえるコメントだ。これだけ読むと、北朝鮮は拉致という言葉は明記していないものの「日本国民の生命と安全にかかわる懸案事項」として盛り込んだ平壌宣言について、もはや尊重していないかにみえる。
ところが、朝鮮中央通信は同時に、日朝関係改善について「偉大な金正日大元帥の遺訓」と指摘し、「平壌宣言を最後まで履行しようとする立場には今日も明日も、変わりがない」と順守を明言している。
「彼らは平壌宣言に対してどう評価し、整理し直しているのか」。三谷氏は北朝鮮の矛盾するようなメッセージについて、拉致問題の進展に向けて分析する考えを示した。
最後の一文
「北朝鮮はまだ平壌宣言を認めている。金総書記が署名した文書は憲法より重い国だから」。こう断言するのは宣言作成に関与した日朝外交筋だ。同筋によると、宣言の作成過程では「拉致」をどう書き入れるかをめぐり激しい駆け引きがあった。当時は金総書記が拉致を認める以前だったため直接的な表現はとれなかったものの、日本側は拉致抜きに話を進められない。
北京で数度行われた宣言に向けた詰めの協議では、日本側が「懸案事項に拉致問題は含まれますね」と確認し、北朝鮮側が「はい」と認める場面もあった。さらに日本側が「外部にそのことを言っていいですね」と念を押すと、北側は「いい」と答えたという。
平壌宣言の段落分けでも攻防があった。
宣言は「実りある政治、経済、文化的関係」の樹立をうたった前文の後にそれぞれ1行空けて改行して4つの項目が続く。最後に、また1行空けて後文に「双方は、安全保障にかかわる問題について協議を行っていく」と記されている。
外務省筋によると、北朝鮮側と水面下で交渉を進めた外務省の田中均アジア大洋州局長が当初示した文案は、4項目目と後文の間に改行がなかったという。これでは、3項目目の拉致問題を意味する「懸案事項」は「協議を行っていく」事項から排除されたように読めてしまう。「そこで、後文の前に1行空けることで1項目から4項目まで『協議を行っていく』に文意がかかるようにした。(外交文書を作成する)条約局の意地の一発だった」(同筋)
100円のペン
北朝鮮側も当然、「懸案事項」の扱いには特に神経質になっていた。日朝外交筋によると、小泉氏が訪朝した9月17日当日、現地で行われた日朝間の実務者同士の最終打ち合わせの場でもこんなことがあった。
北朝鮮側が知らない顔をして4項目目と後文がくっついた修正前の文案を持ち出してきたため、日本側がその場で改行した修正文に改めさせたのだ。
このようにして緻密に組み立てられた平壌宣言だったが、小泉氏の署名はあっさりとしたものだった。
「俺は何でサインすればいいんだ」。金総書記との署名式の前、小泉氏にこう尋ねられた外務省の担当者があわてて自分の万年筆を渡すと、小泉氏は試し書きして「書きにくいな」とこぼした。
すると、小泉氏の好みを心得た別所浩郎首相秘書官が100円のサインペンをさっと差し出した。小泉氏は「ああ、これでいい」と満足顔をし、それを持って金総書記との署名式に臨んだという。(肩書は当時)
【再び、拉致を追う】
第2部 9・17を検証する(4) 「正常化」ありきの政府、安倍氏は蚊帳の外
2012.9.20 09:55
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120920/plc12092009570008-n1.htm
平成14年9月の小泉純一郎首相の北朝鮮訪問は、金正日総書記が自ら拉致を認め、拉致被害者5人が帰国するという大きな外交的成果を生んだ。
政治は結果がすべてであり、それ自体は高く評価すべきだ。ただ、小泉氏をはじめ日朝交渉を主導したメンバーは国交正常化に前のめりで、拉致問題の重要性をどこまで認識していたかというと疑問視される。
「(重要なのは)拉致問題で何人が帰ってくるこないということではない。そういうことがあればハッピーだが、それよりまず国交正常化に対する扉を開くことに大きな意義がある」
これは事務方トップの古川貞二郎官房副長官が小泉訪朝直前の9月12日の記者会見で語った言葉だ。
長年拉致問題に取り組んでいた安倍晋三官房副長官が訪朝を知らされたのは、8月30日の報道発表の直前だった。政府内で拉致問題を重視していた安倍氏は、日朝交渉のラインから完全に外されていたのだ。
安倍氏は小泉氏に同行して北朝鮮を訪れるが、水面下の交渉を担っていた外務省の田中均アジア大洋州局長から『日朝平壌宣言』を見せられたのは「行きの飛行機の中だった」という。安倍氏は平壌宣言に「拉致」が明示されていないことを初めて知り、「それはおかしい」と異を唱えたが、すでにどうしようもなかった。
「たった10人で…」
「小泉さんは拉致のらの字も分かっていなかった」
訪朝直前に小泉氏と拉致問題について話した政府高官はこう証言する。拉致問題に関心が薄かったのは小泉氏だけではない。
「(拉致された)たった10人のことで日朝正常化が止まっていいのか」
これは11年12月、アジア局長に内定していた槙田邦彦氏が自民党の会合で言い放った言葉だ。外務省幹部によると、「もともとは河野洋平外相が言っていたことで、槙田さんはその受け売りをしただけ」という。
「北朝鮮には補償も何もしていないのだから、そのことをセットにせず『9人、10人返せ』ばかり言ってもフェアじゃない」
13年11月には、社民党の辻元清美政審会長もこう述べていた。社民党は、金総書記が拉致を謝罪した後も約2週間にわたり、ホームページ上に「(拉致問題は)新しく創作された事件というほかない」とする論文を掲載したままだった。
後に首相となる村山富市氏や菅直人氏らが原敕晁(ただあき)さんらの拉致実行犯である辛光洙(シン・グァンス)元死刑囚の無罪釈放を求める嘆願書に署名していたのは有名だ。
変化した日本外交
小泉氏周辺は当初、14年中にも日朝国交正常化を実現する意気込みだった。その見通し自体、拉致問題が国民に与える衝撃の大きさへの理解が欠けていた。
実際は「5人生存、8人死亡」という北朝鮮側の通告が国民世論を沸騰させ、国交正常化どころではなくなった。拉致を認めた金総書記との間で、国交正常化後の無償資金協力や経済協力を約束する平壌宣言に署名して帰国した小泉氏に、国民は必ずしも称賛の目を向けなかった。
「私の訪朝は社民党も共産党も評価しているのに、自民党は何だ!」
訪朝約1カ月後の10月19日、小泉氏は「拉致問題の全面解決を交渉の最優先課題に」と求める自民党の外交関係合同部会の要望書を携えて官邸を訪ねた高村正彦外交調査会長代理らに対して、けんか腰で不満をぶつけた。
ただ、小泉氏の訪朝とその後次々に明らかになった拉致問題の実態が、日本人の世界認識に変化をもたらしたのは間違いない。
訪朝後まもなく拉致被害者家族担当となった中山恭子内閣官房参与はこう振り返る。
「一連のできごとは日本外交のあり方を変えた。それまでは相手国の嫌がることは言わなかった。でも、このときから国民を守ることこそが国の義務だと理解されるようになった」(肩書は当時)
日朝平壌宣言 2002年9月17日
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/n_korea_02/sengen.html
http://www.asyura2.com/16/senkyo199/msg/618.html#c33