9. 2015年12月08日 06:00:28 : NryfDkMgcQ : iIlTnN5UBpE[6]
>「原発安全神話」が崩れて科学や専門家、行政への不信が高まり、それらへのアンチテーゼとして数多くのデマやニセ科学が溢れました。
一部にはそういう向きありますが、安全神話が崩壊して事実が暴露された面のほうが遙かに重要ですし、分量も多いですし、またより本質的です。
被災地を苦しめるデマは危険を煽るデマよりも、むしろ安全を煽る安全デマのほうが深刻であり、福島県民も日本国民もより深く苦しめたことは、日本中が目にしています。
特にネットなどで多くの放射能リスクの知識がある心ある人々が、事故当時にバッシングを受けるリスクを覚悟の上で、避難や防御を強く訴えましたが、安全デマを吹聴してそれを盛んに非難して、知識のない一般の人々の被曝を深刻化させてしまった罪は重大だと思います。
せめて事故当初の最初の数ヶ月だけでも、避難や防御対策をしていたならば、被曝量は大幅に減らすことができたと思います。
安全デマを煽って、子どもたちからマスクさえ奪おうとしたり、初期の一番深刻な時期の汚染食品をあえて食べさせようとしたことは、被災地の人々に取り返しのつかない被曝リスクを与えました。
その一方で、過剰に危険を煽るデマも無かったわけではありませんし、そのデマで被災地の人々が苦しむこともあったでしょうが、その被害はせいぜい気持ちの問題、心の問題止まりであって、危険デマが健康被害レベルの実害を与えたわけではありません。
どちらの罪がより大きいかは、考えればわかることだと思います。
またこの文章は、カタカナの「フクシマ」をあえて取り上げて、「フクシマ」と「福島」の違いなどと言ってまるでそれが問題のあるような言い方をしながら、どの点が問題なのかを十分指摘も論証もすることなく、まるでデマの一部のような問題にすり替えていますが、論点や問題点があるのなら、しっかりとその点を書くのが筋でしょう。
そもそも原発の名称が他の原発と違い地名を冠した福島第一原発であり、その原発が起こした事故が福島第一原発事故なのですから、この問題を県名や地名の「福島」としないで、カタカナで「フクシマ」と表記して区別することは、日本の出版文化や言語表現文化のスタイルからすれば極めて自然です。
「フクシマ」としないで「福島」とするほうが、どちらかといえば県名や地名と混同させる差別的表記なのではないでしょうか。
「フクシマ」とカタカナ表記しているからこそ、それは福島県の問題でも福島県民の問題でも福島地域の問題でもなく、福島原発事故問題を取り上げているのだということがひと目でわかります。
ですのでカタカナ表記の「フクシマ」のほうがより差別回避的、混同回避的です。
むしろ「フクシマ」を「福島」と混同させることによって、福島原発事故問題を福島問題とすり替えようとしている方々の情報操作の姿勢のほうが、誠実さに欠ける問題のある姿勢だと思います。
http://www.asyura2.com/15/genpatu44/msg/463.html#c9