1. 仁王像[799] kG2JpJGc 2016年2月16日 23:01:58 : rzV7lzn5Yg : eS8Cg52vvLM[1]
(本文の続き)
ヴァーチャルの世界がリアルを回復
アラブの強権体制の下では、ムスリム同胞団のようなイスラム系であれ、世俗派のリベラル系組織であれ、体制批判をする政治組織はどこでも抑え込まれ、政治活動自体が圧殺されていた。私はデモに参加した若者たちの話を聞いて、長年の強権体制の下で、若者の間に脱政治化が進み、公安警察の怖さを知らない者たちが増えたからこそ、フェイスブックの呼びかけに応じて深く考えずにデモに参加した若者が万の単位になったのだろうと考えた。
警察の暴力に抗議するフェイスブックサイトに何十万人がアクセスしても、それはヴァーチャル(非現実)な世界での話にすぎず、現実の力になるわけではない。しかし、そのうちの10分の1の数万人でも街頭でのデモに繰り出せば、革命の動きに火をつけ、リアル(現実)が動き出すということである。エジプト革命のきっかけとなったのは、フェイスブックであり、ツイッターであり、その意味でフェイスブック革命やツイッター革命と呼ぶのは間違いではないが、実際に革命が起こったのは、若者たちがSNSの世界にとどまらず、現実の世界で行動をとったためであり、「脱SNS」の動きでもあった。「アラブの春」にはヴァーチャルの世界がリアルを回復するという契機があったと私は考えている。
さらに若者たちは政治に満足しているわけではなく、失業の問題や格差の問題、自由の欠如や警察の横暴などについての不満や怒りは、日常的に持っていた。ただ、それが既存の政党や政治活動につながらなかっただけだった。しかし、いったん若者たちが強権への「ノー」を叫んで街頭にでると、怒りは爆発した。エジプト全土でデモ隊と治安部隊との大規模な衝突があった1月28日夕に、ムバラク大統領は警官の撤退を命じ、代わって軍の出動を命じた。この日、エジプト全土で100か所以上の警察署が焼き討ちされた。若者たちの警官への怒りがいかに強かったかを示している。
警官が姿を消し、民衆が自警団を組織
「若者の反乱」で始まった革命が、「イスラムの復興」につながる契機は、警官が通りから姿を消した時から始まった。警官は民衆に攻撃されるのを恐れて、ほとんど1年間は表にでることはできなかった。強権体制の治安を維持してきた警察が姿を消したことで、治安は丸裸になった。警察は国民を監視する強権の手先であったが、それによって治安も守られていた。通りから警察が姿を消したことで、人々は初めて事の重大さに気付いたのである。
警察が撤退した夜、私がいたアレキサンドリアでも、首都カイロでも、人々が通りごとに「民衆委員会」という自警団をつくって、24時間態勢で地区の警備を始めた。その夜、地区ごとに男たちが地域のモスクに集まって、対応が話し合われたという。無警察状態になった状態で、人々が秩序や治安をイスラムの教えとイスラム社会の人間関係によって維持しようとしているのが分かった。無警察状態になったが、カイロやアレキサンドリアなどの大都市で郊外のショッピングモールが略奪された例が一部にあったぐらいで、一般の商店などが襲われることはなかった。
そのようなエジプト革命後の状況は、2003年4月にイラク戦争でバグダッドが陥落した後と通じるものがあった。サダム・フセイン体制は崩壊し、しかし、米軍による占領体制もまだ始まらない中で、当初はバース党事務所や政府施設への略奪が広まったが、それが1週間、10日と経過するうちに、次第に治安が回復してきたことを思い出した。まさに無政府状態だったが、治安と秩序の回復を担ったのは、やはりイスラムの教えとイスラム社会の人間関係だった。
国が滅びても、人々は毎日礼拝を行い、金曜日の集団礼拝には多くの人々が集まった。イスラム宗教者は説教の中で、略奪や盗みを諫め、「略奪品を返却せよ」と人々に求めた。その後、モスクのわきの倉庫には人々が持ってきた家具が山積みになった。危機にあって、共同体の秩序や治安を維持するイスラムの力を感じた。
イスラム系政党が議会選挙で勝利
エジプトでは2011年の暮れに革命後初の議会選挙があった。ムスリム同胞団がつくった「自由公正党」が43%の議席をとって第1党となり、ヌール党というイスラム厳格派のサラフィー主義政党が25%の議席で第2党となった。イスラム政党で議席の3分の2を占めた。このようにイスラム政党が第1党になるのは、革命後のチュニジアでも同じで、チュニジアではムスリム同胞団の流れをくむ「ナハダ運動」が、同じく43%の議席を占めた。
このような革命後のイスラム政党の躍進について、欧米や日本では、自由を求める若者たちが始めた革命をイスラム主義者が「盗んだ」というような見方が出た。しかし、政治の世界でイスラムの実現を掲げて秩序を回復しようとしたのが、ムスリム同胞団であり、サラフィー主義の政党だったのだから、当時は、人々の期待を担ったイスラム政党が選挙で勝利するのは自然なことに思えた。
「アラブの春」を主導した若者たちは、ムバラク時代から草の根的な貧困救済運動を通して、組織的な選挙をする基盤をつくっていたムスリム同胞団を旧体制と見ていた。同胞団はムバラク辞任の後は「秩序回復」を掲げ、軍や旧勢力とも妥協する姿勢を見せた。「革命継続」を標語とする若者たちからみれば同胞団は「反革命」勢力だった。「アラブの春」の本質が、「若者たちの反乱」であると考えれば、親たちや年配者にとっては、デモを続ける若者たちの行動は暴走や逸脱と見えたことだろう。年配者が総選挙でムスリム同胞団を支持したのは、イスラムを掲げる同胞団が「若者の反乱」を終わらせることを期待した結果だとも思える。
若者たちは選挙に不信感
逆に、私が意外だったのは、革命の時にタハリール広場を埋め尽くした若者たちが選挙に真剣に取り組もうとしなかったことだ。SNSでつながる新世代である若者たちには、選挙活動でも新たな手法を生み出すのではないかと期待したが、彼らは「革命継続」を唱えてデモを続けるばかりで、選挙には強い不信感を抱いていた。革命で一躍有名になった若者組織「4月6日運動」は、選挙に参加しようとするグループと、参加しないグループに分裂し、主流派は参加しないグループだった。
若者たちはデモという街頭政治で示威行動を続けた。彼らの政治に対する不信感は、長期の強権体制による脱政治化の中で植え付けられたものである。それは、愚民化政策と言ってもよいもので、若者たちには政治について議論するような経験が決定的に欠けていた。強権体制は政治指導者が民衆を政治の手段として動員して、力を誇示するものだが、強権体制を倒した若者たちが延々とデモを続けたのは、強権体制時代の動員政治の延長のように思えた。
選挙に向けて、若者たちの間で、どのような社会をつくるのか、どのような政策を訴えて国民の支持を得るのかという議論がほとんど出てこなかった。そのような若者たちの姿勢には、長期強権体制に蔓延した政治の不毛さを見る思いがした。本稿の(上)で、「『アラブの春』の後、中東で半世紀以上続いた独裁体制や強権体制のひずみや矛盾が噴き出した」と書いたが、革命を主導した若者たちの政治的な未熟さも、その一部である。
軍の介入で抑え込まれたイスラム勢力と若者たち
エジプトでは2012年6月の大統領選挙でムスリム同胞団出身のムルシ大統領が選ばれて、初めての民選大統領が生まれた。しかし、その1年後に、若者たちはムルシ大統領によるイスラム色の強い政策や同胞団に依存する政治に抗議してタハリール広場で大規模なデモを行った。その混乱に乗じて、当時のシーシ国防相(現大統領)が率いる軍がムルシ大統領を排除した。この軍のクーデターの動きを若者たちの多くが支持した。
シーシ国防相が主導した暫定政権は同胞団を徹底的に弾圧しただけではなく、デモ規制法を制定して若者たちのデモも禁止し、4月6日運動のマーヘル代表ら、エジプト革命を代表する若者指導者3人をデモを行った容疑で逮捕し、禁固3年の実刑を下した。
【参考記事】アラブ「独裁の冬」の復活
【参考記事】残虐非道のエジプト大統領がイギリスで大歓迎
「アラブの春」で国民がやっと手に入れた民主主義を進めるという意味では、若者たちがムルシ政権を批判することと、軍が超法規的に政治に介入して民選大統領を排除することは、全く異なるレベルであるはずだった。しかし、反ムルシ・デモに集まった若者たちは、その差異を理解しなかった。軍の政治介入によって、エジプトの民主化は後退し、若者たちの政治的自由は抑え込まれる結果となった。
長年の強権体制による政治の不毛や未熟さは、若者たちだけでなく、「アラブの春」後の選挙で勝利したムスリム同胞団の行動にも色濃く出てきた。同胞団の政治活動については次回取り上げる。
http://www.asyura2.com/15/kokusai12/msg/589.html#c1