12. 2016年3月27日 14:36:34 : 7wCExIOQeU : c2q_fzp6wxQ[1]
乙武が身体障害者であることと、乙武の性的欲望とは別の話である。
健常者のように身体障害者が性欲や色欲を求め溺れること自体を非難しているのではなく、健常者でも身体障害者でも時と場合によって許されない場合があること、そしてそのときは健常者も身体障害者も変わらず批判されなければならない。
そのときに健常者でなく身体障害者というハンディキャップを持ち出して、身障者なのによくやったと庇い立てする発言や行為は健常者と変わらない社会参加を望む多くの身障者を逆に差別しているのと同じである。
小倉もダウンタウンの松本も同じく今田も、身障者の自発的な社会参加に性愛という困難な問題が横たわっていることへの乙武のカウンターパンチだと読み替えたいのだろうが、これをよくやったとか不快に取らない人もいるとかいう擁護を持ち出して庇うことは、これが健常者だったらどうだったろう?という視点が欠けている。
たとえばベッキーの問題でいえば彼女はタレントで健常者で、そのうえ多くの番組やCMを持つ売れっ子であり彼女のイメージが損なわれれば抱えている多くの番組やCMのイメージも同じように損なわれるとして、彼女は事実上テレビから姿を消してしまったが、彼女が損ねたデメリットが世間ではなくテレビの世界のことであり、謝罪も世間と言う不特定多数ではなく、テレビとその業界という特定多数に向けて謝罪したものであるということだ。
早い話、関係のない我々にはどうでもいいことであり、勝手にやれとしか言いようがない。
小倉も松本もベッキーの謝罪については、世間にはどうでもいいことだがテレビ業界的には仕方のないことであるとして、許してやってもいいのではと半ば肯定しつつ批判している。
だがこれが乙武となると、政治の世界の倫理反故は人間性に反映されるほど厳しいことを知っているくせに、人格問題を乙武が身障者であるというハンディキャップを盾に不倫は問題なしと許容するのである。
自分たちが住むテレビ世界の掟にはいかんともしがたいものがあると肯定しベッキーを批判しておきながら、別の世界である政治になると途端にハンディキャップの話にすり替え擁護するのは、ただたんに身体障害者であるという事実に対して思考停止したとしか言えない。
繰り返すが身体障害者が性愛にどのような嗜好や癖を持とうがまったくかまわない。
そのことに文句を言うのではない。
ただたんにそれが時と場合によって許されない事態を生み出すことに対して、及ぼされる批判やバッシングに健常者も身障者もないということだけだ。
身障者だから、ハンディがあるのに不倫を重ねたのはあっぱれだという文脈は、今回の乙武問題となんの関係もない。
そのような言い方こそ身障者を蔑視していることの証しだと俺は思う。
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