39. 母系社会[1232] leqMbo7Qie8 2016年10月07日 15:34:33 : cXfv3NuQ4A : Qay2AgZfzco[1]
小沢一郎氏は、「座右の銘」として、「人生訓」として、映画「山猫」での台詞「変わらずに生き残る為には、変わらなければならない」と言って、人間は「教条主義」、「経験主義」に陥ることなく、絶えず自己の確信さえも疑い、誤りがあれば訂正し、また、古くなって時代に適合しなくなったものは捨てることの大切さを奨励したという。
この言葉は、「君子豹変」の精神と同じ意味を表している。現代では、「君子豹変」は「自分の都合により態度を一変させる」というような「ご都合主義」を揶揄する意味で使われることが多いそうだが、もともとは、「徳の高い立派な人物は、過ちに気づけば即座にそれを改め正しい道に戻るもの」とか、鋭く状況の変化を読み取り、意見や態度を変えて、変化に適正に対応するというような意味であったそうである。
しかし、これは、マルクスの「座右の銘」である「全てを疑え」=「全てを吟味せよ、検証せよ」と同じ精神である。本来のマルクス主義の究極的原理、最高の精神、マルクス主義の奥義とは、この「全てを疑え」である。
というのは、マルクスはヘーゲルから、「ミネルバの梟」の例え話で、人間は全知全能の神ではないという、ごく当たり前のこと、つまり人間の理性=知性の限界を教えられたからだ。(原発を推進した学者どもは事実上、この人間の理性=知性の限界を忘れ、理性を絶対化する<科学主義>に陥って、原発を推進してしまった)
この「全てを疑え」は絶対的原理、根本精神なので疑わないのだが、これ以外は、<自分自身の確信も含めて、常に、繰り返し間違っていないか吟味・検証せよ>というのが、マルクス主義の奥義である。
ところが、仏教やキリスト教などの宗教の場合と同じように、真っ先に、このマルクス主義の奥義を捨て去ったのが、マルクスの弟子たちで、彼らはマルクスの言辞を絶対化し、理論家であると共に、政治指導者であったマルクスの「微妙な発言」=「政治的発言」(階級闘争史観など)も絶対化して、理論を現実に合わせるのではなく、逆に現実を理論に合わせてマルクス主義を宗教化してしまった。
というわけで、小沢一郎という人物は、残念ながら左派・左翼ではないのだが、現代の日本の政治家の中では、最もマルクスの精神を継承している政治家の一人と言えるだろう。