19. 母系社会[1245] leqMbo7Qie8 2016年11月13日 08:49:21 : YGECnNy2ng : NWekqAHfYMU[1]
>>18さん
>だからと言って八路軍(共産党軍)が、正義の軍隊であったか
>のような物言いはどうかと思うだけです
●八路軍(共産党軍)が正義の軍かどうかと問われれば、正義の軍です。しかし、これは、国民党軍と比べた場合の相対的な評価です。台湾で「二・二八事件」を起こした国民党軍と比べたら、人民解放軍の方がはるかにマシです。もちろん、人民解放軍にも国民党軍の軍人と余り変わらない人もいたでしょうし、今もいます。
だから、相対的な意味で中国の民衆にとっては、おそらく中国4000年の歴史の中では、トップクラスのまともな軍だったと思います。何と言っても、諸悪の根源である地主層を一掃して「農地解放」をしたのは共産党と人民解放軍の手柄です。
正義かどうかは全て関係が決めることなので、昨日までは「正義の軍」であっても、今日は「悪の軍」ということもあり得ます。いつでも、どんな場合でも、誰に対しても正義の人がいないように、本質的に「正義の軍」というような軍は存在しません。
それで、少なくとも「改革開放」(天安門事件の頃)までは、人民解放軍は、中国の民衆にとっては「正義の軍隊」だったでしょう。文革で共産党が事実上崩壊した時、中国の秩序を回復させられたのは、人民解放軍だけしかなかったのです。
実際に、当時、厳しい対立が起きている現場に行き、闘争を停止せよと直接伝えるだけで、文革の混乱を鎮めることができました。人民解放軍は武力など使わなくても、その圧倒的な権威で対立を静められたのです。★1
●そもそも、毛沢東やスターリンは、マルクスが「一国社会主義」は不可能だと言っていたことを知らなかったか、もしくは無視したのです。マルクスは、イギリスやアメリカ、ドイツなどの先進国で労働者が権力を握り、先進国が主導する世界的規模での革命でなければ、社会主義への移行は不可能だと言っていたのです。これは、レーニンやトロツキーたちには常識でした。
それで当時、ドイツ軍と戦っていた前線のロシア軍には弾薬も食料も無く、ロシア本国も飢餓状態だったので、とにかく直ぐに戦争を止めなければならない危機的状態でした。それで、戦争継続派の政府を打倒したのですが、あのロシア革命は、あくまでも先行革命として実行したのです。
つまり、第一次大戦後には、ドイツなどで革命が成功するハズだから、それまで持ちこたえれば、先進国の援助で後進国のロシアでも革命が成功すると期待していたわけです。しかし、ドイツ革命は失敗したので、レーニンたちはNEP政策を採用し、資本主義を復活させたのですが、レーニンが死ぬと、スターリンは「一国社会主義」は可能だと言って、ロシアを資本主義以下の暗黒社会にしてしまったのです。
この「一国社会主義」という点では毛沢東も同罪であり、戦後、毛沢東が実行した政策は全て失敗し、中国を大混乱に陥れました。しかし、毛沢東は官僚を嫌い、直接民主制を重視するという良い点もあるので、全否定するのは誤りですが、この直接民主制は、日本のような国民国家でしか実現できず、中国のようなモザイク国家に、文革のような直接民主制を導入すると、大混乱に陥るわけです。★2
現在の金食い虫と化した人民解放軍が、まだ、大量の貧困層がいる中国にとって本当に「正義の軍隊」かどうかは大いに疑問です。
>私の言いたい事は あなたの>>7における 「中国共産党=人民解放軍は、
>ほとんど日本軍とは戦っていないと言う」これは、認識がおかしい
>という事 20万人もの大攻勢をかけ 日本軍をパニック状態に陥れて
>「ほとんど戦っていない」 とは、どう考えても言える事ではありません。
●よく、読んで下さい。確かに「ほとんど戦っていない」と書きましたが、これは「遠藤誉」の言葉を要約したものです。最後に「と言う」と書いています。しかも、この要約文には「主に日本軍と戦ったのは・・・」とも書いています。この「遠藤誉」説を支持した文です。
それで、今回、下記のWIKIの「日中戦争」の記事を調べました。この記事には、日中戦争では大小90前後の戦闘=会戦(作戦)の記事がありますが、八路軍と日本軍の戦闘の記事は、たった一つだけです。他の戦闘にも、共産党軍も多少は関わったものがあるかもしれませんが、日中戦争の前半は、地方軍閥と日本軍との戦いです。
これは、国民党はまず共産党軍を壊滅させてから、日本軍と戦う作戦だったからで、1937年までの国民党は、満州を容認するかのような態度を取り、日本軍との戦いを避けていたからです。それで、共産党軍は日本軍と戦うどころではなく、生き延びるのが精一杯でした。遠藤誉はアホですが、この点は正しいのではないでしょうか。
ただし、人民戦争論の八路軍は、強敵にはゲリラ戦で対抗するのですから、個々の戦闘は小規模で双方の犠牲者も少数のはずですから、記事化されていない戦闘が多いのでしょう。国民党軍は無謀にも、日本軍に正規戦を挑み続けたので、犠牲も多ければ、倒した日本兵の数も多いことは間違いないでしょう。
●中国共産党の結成は1921年で、1924年から始まった「第一次国共合作時代」には、デモやストライキを統制する「武装労働者糾察隊」が存在したのですが、これは軍のような存在ではありません。この時代の共産党員は、国民革命軍に参加していたので、共産党軍と言えるような部隊はありませんでした。初期に、華北方面で日本軍と対峙していたのは国民党軍でもなく、独立した軍閥の軍です。
1927年4月に上海で、国民党右派が左派を弾圧した「上海クーデター」が起き、5月には、蒋介石は国民党からの全面的な共産党排除を実行したため、多くの党員が殺され、「第一次国共合作」は終了しました。
同年8月には、中国南部の南昌で共産党が蜂起し、この過程で後に「中国人民解放軍」へと成長する「中国工農紅軍」が結成されましたが、朱徳が指導した紅軍以外は壊滅し、朱徳の紅軍も逃げ回るだけでした。その後も、毛沢東指導の「中国工農紅軍」が湖南省や江西省で蜂起して失敗し、同年12月には広州で「広州ソヴィエト政府」を樹立しましたが、ここも反撃されて逃げ出しました。こうして、都市で蜂起に敗北した共産党は、日本軍が存在しない中国南部の農村地帯に小さな支配地域を築いて逃げ込むだけでした。
当時、江西省瑞金付近の山岳地帯が共産党の最大勢力地で、「柳条湖事件」が起こった1931年、共産党は全勢力を瑞金に集めて、「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立しました。この新国家は正規軍である「中国工農紅軍」の「紅一方面軍」約10万人と、民兵5万人が防衛していましたが、チベット・東トルキスタン・内モンゴルの中国からの「離脱の権利」★3を認めた連邦制国家でした。しかし、この瑞金も国民党軍の攻撃で放棄し、共産党は1934年から1935年末にかけて、有名な「長征」に乗り出しました。
●共産党はこの「長征」の過程で、各地の少数民族に、中国からの「離脱の権利」を認め、農民を奴隷化してきた地主制度の廃止=「農地解放」などの共産党の政策を宣伝を行いました。それで、共産党は各地の少数民族からの支援で生き延び、後の国共内戦時には、共産党は少数民族からも支援されて勝利できたわけですが、後に取り消したので、共産党が少数民族を裏切ったのは確かです。
こうして、共産党は中国南西部の辺境地帯を、1万km以上も徒歩で移動して、北西部の陝西省延安に逃げ延びることが出来ました。しかし、10万名もいた共産党軍は、わずか数千名に激減していたと言います。それでも、わずか5年後には40万もの軍を組織することができたのは、農民に「農地解放」を約束したからであり、また人民解放軍が国民党軍よりも軍紀を厳しく守る軍だったからです。
この延安は、満州から更に西進して今の内モンゴルや山西省を支配しようとしていた日本軍に近い地域でした。しかし、満州から更に西進する日本軍と戦ったのは、延安の弱体化した共産党軍ではなく、共産党と友好関係を築いていた回族の騎馬ゲリラ部隊(馬賊)でした。
延安時代の共産党軍は、国民党軍からの脅威は無くなったのですが、かわりに内部に忍び込んだスパイ問題で指導部は疑心暗鬼に陥り、かなり激しい内ゲバを行っていたので、とても日本軍と戦えるような状態ではなかったという説もあります。
●1937年に、盧溝橋事件が勃発すると、国民党政府はようやく日本軍と戦う決意をして第二次国共合作が行われ、共産党軍(八路軍)★4は日本軍と戦いました。しかし、日本軍と正面で対峙したのは国民党軍です。もう一つの新四軍は中国南部で組織されたので、日本軍とはほとんど戦っていません。
ロクな装備もないために、ゲリラ戦しか出来ない八路軍は、前線のはるか後方で、主に日本軍の輸送部隊や鉄道などの攻撃・破壊戦を行いました。
★1:文革が大混乱に陥った理由には、解放前の清国時代には、凄まじい過酷な支配が行われていたことがあったからだと思います。それで、共産党が政権を樹立すると、全国で支配層の大虐殺が起きたらしいのです。共産党は党の支持層が怒りを爆発させているので、しばらくは放置したらしいのですが、余りにも酷いことになったので、共産党が途中で止めさせました。
民衆の怒りが治まらずに潜在化したままで、文革が発動されたために、再び解放前の怨念が爆発してしまい、中国は大混乱に陥ったのだろうと思います。ですから、文革から間もない天安門事件の頃の中国が民主化などしたら、どうなったかわかりません。
また、共産党(毛沢東)が、親がブルジョアだと、子供もブルジョアというような血統主義を、明確に否定しなかったことも原因でしょう。これは存在が意識を決定するというテーゼの誤解です。マルクスは関係の対自化(自覚化)が意識という極当たり前のことを言っただけです。この点は今でも曖昧なので、中国では、革命家の子供は革命家という「太子党」なるものが幅をきかせるわけです。
毛沢東は、精華大学付属中学の「紅衛兵」に何度も手紙を送り、この精華大学付属中学の「紅衛兵」が、全国に毛沢東の指示を伝えていたのですが、17の張 承志は、その精華大学付属中学の紅衛兵で、「紅衛兵」とは張 承志のペンネームでした。だから、中国で最も文革に詳しい人物の一人が張 承志ですが、その張 承志は、今の中国では文革は誤解され過ぎているので、まだ真相は明かせないのだそうで、時期が来たら、真相を明かすと言っているので、まだまだ、謎があるようです。
★2:とにかく、100万人ぐらいの難民がヨーロッパに来ただけで、あの騒ぎですから、中国で内戦が起きたら、内戦で負けた側が武装難民となって周辺国に流れ出し、世界規模の大惨事が起きるかもしれません。ある意味、アジアの歴史は中国大陸での負け組が周辺に流れ出して、様々な国を形成してきた歴史だからです。日本も、中国大陸や朝鮮半島の負け組が、海を渡って逃げてきて創った国の一つでしょう。
★3:この頃の共産党は、フィンランドの独立を認めた「レーニン主義」を忠実に引き継ぎ、帝国に吸収された他民族の「離脱の権利」を
を認めていましたが、政権を握ると放棄してしまいました。おそらく、政権樹立時には250ぐらいの自称の「民族」があったので、チベット・東トルキスタン・内モンゴルに「離脱の権利」を認めると、他にも離脱を求める少数民族が出てきて、収拾がつかなくなることを恐れたのでしょう。
★4:敗戦後の八路軍は、日本軍の林弥一郎少佐が指揮していた「関東軍第二航空団第四練精飛行隊」の指導で、「東北民主連軍航空学校」を設立してパイロットと整備員を養成した。この学校で養成されたパイロットたちは、人民解放軍空軍の最高指揮官となったし、中国の航空機産業には、日本陸軍の精神が残っているかもしれない。また、日本軍の日向勝少尉などの協力を得て八路軍は、「砲兵学校」も設立した。
張承志
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%B5%E6%89%BF%E5%BF%97
二・二八事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E3%83%BB%E4%BA%8C%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6
国民革命軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E9%9D%A9%E5%91%BD%E8%BB%8D
八路軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%B7%AF%E8%BB%8D
百団大戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%9B%A3%E5%A4%A7%E6%88%A6
日中戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89
http://www.asyura2.com/16/warb19/msg/133.html#c19