31. 母系社会[1149] leqMbo7Qie8 2016年2月17日 22:01:33 : I9EyAGujC6 : IguQgZYY0jw[1]
●現在の日本人は、「公的社会」と「私的社会」の二つの社会で生きている。「公的的社会」とは社会と自称しながら、会社などの経済主体から成る弱肉強食の「偽の共同体」であり、「私的社会」とは、家族や親族、友人、隣人などから成る「真の共同体」である。
経済が好況と不況を繰り返す「市民社会」は、この「私的社会」が支えなければ破綻してしまう経済システムなのに、巨大資本家どもは「私的社会」を単なる労働力の供給源として、その量や質だけを問題にし、自分と同じ人間が<生>を営む社会とは扱わない。要するに、われわれを労働力=「賃金奴隷」としか見ないのである。
●「アベノミクス」は、この「偽の共同体」である「公的社会」(市民社会)が、あたかも「真の共同体」であるかのように偽装して、まずは1%の富者をより富ませれば、富者も同じ「共同体」のメンバーだから、やがて富者が貧者にも富を分け与え、全ての人々がより豊かに成れるという幻想で国民を騙す経済政策だったので破綻した。
かつての日本列島には、「真の共同体」である多数の縄文人系の部族社会が、時には争いつつも共存していた。この部族社会が「真の共同体」であったことで、現在の日本人も日本社会を、かつての部族社会のような「真の共同体」と勘違いしている。それで多くの日本人が、やがて富者が貧者にも富を分け与えるとい「アベノミクス」に騙されたのである。
というのは、<国家>は支配階級だけが有利になる政策を、あたかも全国民も有利になる政策であるかのように偽装して国民を騙す「幻想の共同体」=「偽の共同体」だからである。そして、そのための屁理屈=「アベノミクス」をねつ造するのが、近代経済学者どもの役割である。
●要するに、たとえ「新自由主義」(新古典経済学)に反対する近代経済学者でも、古典経済学の「効用価値説」=「付加価値説」を支持する限り、彼らも労働者や民衆の敵である。
彼らのパラダイムは、自然観では要素を重視し、要素(部品)が解明できれば全てが解明できたと考える<機械論的自然観>、社会観では素朴唯物論的な原子論的個人主義に基づく<契約社会観>である。
この<機械論的自然観>や<契約社会観>は近代という時代の実体主義=本質主義的<パラダイム>を前提した「物心二元論」的な自然観や社会観なので、必然的に、古典経済学者であるリカード的な実体主義的、物的な「労働価値説」か、あるいは同じ古典経済学者ベイリーの価値は心理的存在とする説に分裂する。
近代経済学は、ベイリーの心理説的な「効用価値説」=「付加価値説」を採用して、リカード的な「労働価値説」だけでなく、マルクスの「労働価値説」も批判して、この心理的「効用価値説」=「付加価値説」に基づく「資本主義イデオロギー」で民衆を洗脳した。
●しかし、マルクスの「労働価値説」は、<個も全体も実体ではなく関係が第一次的>で、商品の価格の源となる価値とは、分業労働を行う生産者間の関係により産み出されたもの>という関係主義的「労働価値説」を唱えて、リカード的な実体主義的「労働価値説」(投下労働価値説)を否定した。
マルクスはヘーゲルから「関係主義」を学び、価値とは一種の「フェテッシュ」=「呪物的なもの」、「物神的なもの」という物象化論を唱えたが、余りにも先進的過ぎたために、マルクスの弟子たちにも十全には理解されず、弟子たちの大半は今でも、マルクスの「労働価値説」をリカード的な「投下労働価値説」と誤解している。
このマルクスの「フェティシズム論」(物神崇拝論)は、マルクス研究では世界最高水準の地位を築いた日本の哲学者廣松渉の努力で、やっと理解されるようになった。
マルクスはヘーゲルから「関係主義」を学んで継承したが、「物心二元論」の克服と、キリスト教の教義を哲学により基礎付けることを志向したヘーゲル本人は「疎外論」を採用してしまい、「関係主義」の立場を貫徹しなかった。
(マルクスの有名な「社会的諸関係の総体」という人間規定も、既にへーゲルが唱えていたものであり、マルクスのオリジナルではない)
本質主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%B3%AA%E4%B8%BB%E7%BE%A9
関係主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E4%BF%82%E4%B8%BB%E7%BE%A9