65. 母系社会[1236] leqMbo7Qie8 2016年10月15日 20:19:49 : yh116Pb5NV : BpZAlGIGDwQ[1]
>>64さん
同意は頂けませんでしたが、コメントして頂き、ありがとうございました。
まぁ、廣松渉はマルクス理論に仏教と同じ「関係主義」を見出したのですから、64さんが驚くのも無理はありません。しかし、マルクス思想は、マルクスが生きていた頃から、既に誤解されていたのが実態です。
というのは、親鸞が法然から浄土教を学び、新しい浄土教を創設したように、マルクスはヘーゲルから関係主義的な思想を学び、ヘーゲル以上に、それを高く評価して、関係主義的唯物論を創ったのです。
それで、人間や社会、商品、資本などの近代の思想では特別に重要な存在は、全て単なる物質的なものでも、精神的なものでもない、第三の存在である<関係態>=<事的存在>として規定しました。ですから、マルクス思想では、第一次的なのは<関係>であり、「もの」の性質とか本質といわれているものは、関係が創り出す二次的存在という典型的な関係主義の立場です。
それでマルクス思想は、仏教などの非実体主義に親しんでいる東洋人には、比較的わかりやすい思想となりましたが、西洋人には理解が難しいものとなったのです。
とは言え、東洋人も西洋人と同じ人類ですから、東洋の民衆も西洋と同じ実体主義的でした。しかし、なぜか、東洋の哲人=宗教家は民衆が信じる実体主義を否定し、非実体主義=関係主義的思想を唱えました。
これは、関係主義の仏教が典型的ですが、それ以外にも儒教や道教、それにイスラム教も核心的な教義(タウヒード)は、仏教並みに精緻な関係主義思想だそうです。
日本のアマテラス教=天皇教よりも古いアミニズム的な古神道=縄文神道も、広い意味では非実体主義的人間観の宗教ですか、アジアの伝統的な宗教は皆、マルクス思想と親和的なのです。
これは、東洋では西洋のように、人間は人格神が創造したのではなく、大地から植物が生えるように、人間は死んだ神の身体から自然に生えてきたというような神話が主流だからかもしれません。
一方で、キリスト教のように人間は人格神が創造したと考えると、家を建てる時には、まず設計図を作るように、人格神はまず、人間の性質や本質などのコンセプトを考え、その次に、そのコンセプト通りに人間を創造したということになり、人間には、神が考えた性質や本質が埋め込まれているというような実体主義的な人間観になります。
おそらく、この違いが微妙な差となり、東洋では仏教や儒教、道教、イスラム教などの非実体主義的な宗教が主流となり、民衆の実体主義的な常識を矯正したのかもしれません。
>こんな間違った論理は日本では通用しません。一部の日本人だけです。
下記の筑波大学名誉教授で、東洋大学学長の竹村牧男氏の「入門 哲学としての仏教」には、広松渉が考案した関係主義的マルクス主義の用語が仏教哲学を説明するのに、たくさん使われていますし、この本の40ページには、廣松渉の「事的世界観への前哨」(勁草書房)という本からの引用さえありますよ。
入門 哲学としての仏教 (講談社現代新書) 新書 竹村 牧男 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%85%A5%E9%96%80-%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%AB%B9%E6%9D%91-%E7%89%A7%E7%94%B7/dp/4062879883
それに、64さんも毎日、毎時間、一瞬の休みなく弁証法を駆使していますよ。考えるということは、自問自答ですから、一人で対話=弁証をしているのです。それに、人間は全ての可能性を考え尽してから行動するというようなことは不可能ですから、64さんも「走りながら考えている」はずです。この「走りながら考える」というのは弁証法です。自覚していないだけです。
それとも、もしかしたら64さんは、考えるということはしなくとも、全て直観的に解ってしまう大天才なのかも?
>マルクスは外道の信者であり、マルクス主義の実行は流血革命と表裏一体ですよ。
確かに、たくさん血が流れましたね。しかし、流血を起さなかった政治思想や宗教があるのでしょうか?資本主義は2度も世界大戦を起しましたし、今も戦争を引き起こしています。
流血を起さなかった政治思想があるなら、是非教えてください。
仏教は唯一、宣教にためには武力を使わなかった宗教ですが、それでも、日本に伝来した時には、蘇我氏と物部氏の争いを引き起こし、物部氏は滅亡したというような付帯的な事態で流血が起きたことはありますし、一向一揆もありました。また、先の大戦では、日本の仏教各派も戦争協力したので、戦後に謝罪しましたね。
>ですから仏教徒が共産主義を信奉することはない。
それでは、チベットのダライ・ラマ14世は仏教徒ではないということですね。
ダライ・ラマ14世は若い頃、マルクスとレーニンの本も読み、共産党への入党を希望していた時期もあったと証言しています。自分を「半・マルクス主義者」と呼んでも構わないと語っており、仏教と純粋なマルクス主義が融合した場合には、それが有効な施政方法となることを確信していると述べています。(ただし、現在の亡命チベット政府があるインド北西部の町「ダラムサラ」も超格差社会らしいのですが)
京都精華大学45周年記念事業の「ダライ・ラマ14世講演会」:ダライ・ラマ14世が「私はマルクス主義者であり、疑いなく私は社会主義者です。」と表明
http://www.kyoto-seika.ac.jp/1968+45/lecture_report/1123/
ダライ・ラマ、銀行家を導く:「仏教徒マルクス主義者」・「若い頃、中共への入党を考慮した」と表明
http://www.asyura2.com/12/hasan78/msg/517.html
>邪宗仏教各宗派は既に外道に負けて滅び形骸化しているのです。
他派はどうかわかりませんが、私が知る限りでは、仏教はこのような場で、公然と他派を批判することは禁止しているはずではありませんか?
それとも、仏教ではないのかも?
一応は仏教各派は、それぞれ独自の考え方を持っていますから、自派の説明はしますが、他派を攻撃するというようなことはしないはずです。なぜなら、円錐を上から見れば円で、横から見たら三角ですが、これは、それぞれ部分的な真理としては正しいように、仏教各派、あるいは仏教とは異なる他の宗教と仏教の違いは、同じものを別の角度から見ているに過ぎない可能性があると考えるからでしょう。ですから、ほとんどの仏教各派は、他派を攻撃するというようなことはしないのです。
ところが、自分の確信が間違っている可能性を自覚しない人、つまり、「唯我独尊」の人=無意識的に自分は神だと思っている人=は、相手の考えを吟味せずに、自己の思想を前提=公理にして他派を攻撃するので、相手を説得ができません。
>あとは正統な仏教である正法を日本人が学ばなければいけないということですよ。
政治や経済の場合は別ですが、宗教の場合は、他派の宗教で満足している人にまで、自派の宗教を説教するのは、止めた方が良いです。迷惑なだけです。
当方も、キリスト教の教義の一部を批判しますが、それでもキリスト教で満足している人までも、キリスト教を捨てるべきだとは思いませんね。われわれの関係主義的な唯物論も、宗教のようなものだからです。