11. 2016年1月29日 19:19:16 : BsQL2FSriA : AgHsOYT23tg[1]
天皇皇后両陛下 戦没者を慰霊
1月29日 18時14分
NHK動画ニュース
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160129/k10010390181000.html
フィリピンを訪れている天皇皇后両陛下は、29日、マニラ郊外にある日本政府の慰霊碑を訪れ、太平洋戦争の戦没者の霊を慰められました。
両陛下は、現地時間の29日昼前、マニラ郊外のカリラヤにある日本政府が建てた「比島戦没者の碑」に到着されました。
慰霊碑には、太平洋戦争の戦没者が祭られていて、両陛下は、日本から訪れた遺族や生き残った元日本兵などおよそ150人が見守るなか、厚生労働省の二川一男事務次官の案内で、両国の国旗が掲げられた慰霊碑の前にゆっくりと進まれました。そして、側近から白い菊の花束を受け取ると、慰霊碑に向かって一礼して供花台に供え、深く拝礼して戦没者の霊を慰められました。
このあと、遺族や元日本兵たちの前まで歩き、一人一人に丁寧にことばをかけられました。天皇陛下は、ルソン島で戦死した父親の写真を手にした71歳の男性に、「残念なことでしたね」とことばをかけ、遺族などでつくる団体の代表には、「遺族も高齢の人が多くなるから、安定した生活ができるようよろしくお願いします」と話されていました。
また、レイテ島の戦いから生還し、戦友の遺骨の収集や慰霊巡拝を続けてきた95歳の男性に対し、天皇陛下は「遺族のためにいろいろ尽くしてくれてごくろうさまです」とねぎらいのことばをかけられ、皇后さまは「よく生き抜いてくださいましたね」などと話されていました。両陛下は、30分以上にわたって、遺族や元兵士たちにことばをかけ、車に乗り込む前にもう一度振り返り、慰霊碑に向かって頭を下げられていました。
フィリピンでは、太平洋戦争で50万人以上の日本人が命を失っていて、カリラヤの慰霊碑は、海外で亡くなった戦没者を追悼したいという両陛下の意向を受けて訪問先に加えられました。両陛下は、27日、フィリピン側の戦争犠牲者を追悼する墓地でも花を供えていて、29日の慰霊で、日本とフィリピン両国の戦没者の追悼を果たされました。
小学生が歓迎
天皇皇后両陛下が訪問されているフィリピンの首都マニラ郊外にある町、カリラヤでは、地元の小学生たちが日本とフィリピンの国旗を振って両陛下を歓迎しました。子どもたちは、太平洋戦争の戦没者の慰霊に向かわれる両陛下の車が通ると、手作りの両国の国旗を振りながら、タガログ語で「ようこそ」という意味の「マブハイ」と叫んで歓迎していました。両陛下は、子どもたちに向かって、窓越しに手を振って応えられていました。両陛下を出迎えた小学生の女の子は、「私たちの国に来ていただいて、すごくうれしいです」と話していました。
元兵士・松本實さん
東京・新宿区の松本實さん(95)は、太平洋戦争の末期、陸軍の「第1師団」の師団長の補佐役として、激戦で知られるレイテ島の戦いに参加し、その後、別の島で終戦を迎えました。
松本さんは、昭和19年10月、上海からフィリピンに転戦し、11月の初めにレイテ島に上陸しました。当初から武器や物資が不足し、明治時代の旧式の武器での戦いを余儀なくされるなか、アメリカ軍から激しい砲撃を受け続けたといいます。松本さんは、「近くで『やられた』という声が聞こえ、砲弾が落ちてくる中をはって向かうと、仲間の背中が砲弾で切れていて手の施しようが無かった。『軍医が来るまで我慢しろ』と言ってその場をあとにし、仲間は戦死した。敵の攻撃が激しく、バタバタと倒れていく戦友を収容することもできなかった」と話しています。昭和20年1月にセブ島に転戦し、そのまま終戦を迎えましたが、レイテ島に残ったおよそ2000人の仲間は、その後、全滅したということです。
松本さんは、「みんな誰にもみとられずに本当に寂しく亡くなっていった。だから私は1人ででも慰霊に行くんです」と話します。そして、天皇皇后両陛下がカリラヤの慰霊碑を訪ねられることについて、「両陛下が、戦友のために拝んで下さるのは非常にうれしいことです」と話しています。
松本さんは、29日、両陛下の慰霊を見守ったあと、レイテ島やセブ島の慰霊碑を回って、戦友に報告する予定だということです。
元兵士・米川義男さん
三重県津市の米川義男さん(92)は昭和19年9月フィリピンのマニラ湾で輸送船に乗っている際アメリカ軍の戦闘機による攻撃で重傷を負い、翌年、配属された広島市の陸軍の司令部で原爆投下により被爆しました。29日は自宅のテレビで両陛下が戦没者を慰霊される様子を見守りました。
米川さんは「両陛下に行っていただき感無量でありがたいです。みな機銃掃射でやられ、戦友の1人は亡くなっていく前、『お母さん、さようなら』と言っていました。フィリピンで起きたことも広島であったことも人間がしてはいけないこと、殺し合いという点では同じだったと思います。戦争は絶対にしてはいけない、ただ、そのひと言です」と話していました。
遺族 本間尚代さん「ありがたい」
フィリピンで命を落とした戦没者の遺族や、生還した元兵士でつくる「曙光会」で事務局長をしている東京・世田谷区の本間尚代さん(79)は、ルソン島の戦いで父親を亡くしました。
父親の吉田正さんは、昭和19年5月にルソン島に派遣され、翌年の6月、戦況が悪化するなか、山中を転々とし、最後は爆弾を抱いたまま敵の戦車に突っ込み命を落としたということです。正さんは、出征前、当時8歳だった本間さんを疎開先まで送り届け、抱き締めながら、「お父さんはどこにいても見ているよ。寂しくなったら靖国神社に会いに来なさい」と話しました。本間さんにとって、これが、正さんとの最後の別れになりました。本間さんは、「泣くまいとかみしめた唇の痛みを今でも思い出します。子どもと2度と生きては会えないという父の思いを想像すると、たまらない気持ちになります」と話しています。
本間さんは、40年ほど前から、曙光会の会員の遺族たちと毎年フィリピンを訪ね戦没者の慰霊を重ねてきました。天皇皇后両陛下がフィリピンで慰霊に臨まれることについて、「54年前は、厳しい対日感情など状況が許さなかったでしょうが、いつかは慰霊に行って下さるだろうと思っていました。去年、パラオで慰霊された際にも、お二人の後ろ姿から本当に心が伝わってきて、テレビに向かって手を合わせていました。ありがたいということばしかありません」と話しています。
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