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[政治・選挙・NHK197] なに、内閣はこんな憲法無視?までやっていたの?  早川忠孝 赤かぶ
24. 2015年12月10日 18:21:19 : Ojo4ECAf0Y : 5khu@ec2qJM[1]
憲法9条はあってはならない欠陥条項だ

安保法制をめぐるトンチンカンな光景

至る所奇妙なトンチンカンだらけー2015年夏の安全保障関連法制をめぐる騒ぎを振り返ってみると、そんな光景ばかりが蘇ってきます。

例えば、国会議事堂や官邸で繰り広げられた法案反対デモの参加者たちの多くが掲げていた標語「戦争させない」もその1つです。本来この標語は、まさに法案提出者が掲げるのにふさわしい標語だったのです。

今回の安全保障関連法制は、様々の事態に応じて、従来は不備だった自衛のための活動を保証する法規定であり、それぞれの事態、それぞれのケースについて、国会でも細かく丁寧な説明が行われました。あまりに細かく丁寧な説明ばかりで、普通の人間にとっては却って分かりにくい、という声もありました。そういう声に応えて、これらの法制案が全体として目指す大きな目的は何なのかをズバリ一言で分かりやすく言うとしたら、この「戦争させない」の標語こそは、まさにうってつけの一言だったのです。

もともと安全保障とはある種の「防災」です。万一我が国が他国から攻撃を受けた時、それにどう対処するか、万全の準備を整えておくということは、自然災害に対する対策と同様、国民の生命、財産を守るための不可欠の事業だからです。

ただ、1つだけ、「安全保障」と自然災害の「防災」とで大きく異なるところがあります。それは、地震や噴火の場合は、その発生それ自体を防止することは出来ないのに対して、「安全保障」においては、戦争という災害の発生自体を防ぐことが「防災」の柱となる、ということです。戦争災害を引き起こす可能性のある国々の正確な情報を入手し、分析し、その心理や損得計算までも正確に測った上で、武力攻撃を思いとどまらせる最上の対策を実行してゆくー「安全保障」ではそういうことが可能です。ある意味ではこれこそが本当の意味での「防災」だと言えるでしょう。そして、今回の安全保障関連法制という法整備は、それに向けてのささやかな第一歩だったのです。

ことに重要なのが(今回一番問題となった)集団的自衛権の行使容認ということです。

一般的に言って、ある国が軍事的膨張を続け、侵略的傾向を露わにしている時、その国が武力攻撃に訴えることを防止する一番の方策は、周りの国々がしっかりとスクラムを組んで、どの1国が攻撃されても、全ての国々が総がかりでそれを阻止するぞ、という体制を作ることです。いくら侵略的傾向があっても、損得勘定のできる国家であれば、みすみす痛い目をみて大損するような攻撃は仕掛けない。しかも、1対1の軍拡競争と違って、このスクラム方式は遥かに平和的な方策です。まさに「戦争させない」ことによって戦争という人為災害を防ぐ、最も確実な「防災」なのです。

ところが、これまでの我が国の憲法解釈によると、このような戦争防止策を取ることが許されなかった。従来の政府見解でも、我が国が集団的自衛権を「有する」ことは認められていたのですが、それを「行使する」ことは認められなかったのです。一番の問題は、どうしてこんな珍妙な政府見解がまかり通っていたのかーもっと正確に言えば、どうしてこれまでの政府はこんな珍妙な憲法解釈を強いられてきたのかーということなのですが、兎にも角にも、今回の安全保障関連法制にともなって、従来の珍妙な政府見解は改められ、我が国は自らの有する「固有の権利」(国連憲章第51条の表現)である集団的自衛権を、限定的ながら行使できるようになった。そして、そのことによって、他の国々とスクラムを組んで、侵略的な傾向を持つ国に「戦争させない」と言って立ちはだかることが可能となったのです。

ですから、「戦争させない」の標語は、法案反対の標語どころか、まさに法案提出者が唱えるべき標語だったと言える。

こんな風に言うと、恐らく、法案反対デモに参加していた人々は、いや違う。自分たちは他の国ではなく自国の政府に対して「戦争させない」と叫んでいたのだ、と反論するでしょう。でも実は、それは結局同じことなのです。

戦争とは、本質的に相互的なものです。(内戦は別として)1国だけでは戦争はできない。同様に、”戦争をしない”ことも、1国だけではできません。他国が攻め込んできたら、それは自動的に戦争状態となるからです。つまり、本当に自国の政府に戦争をさせまいと思ったら、何よりもまず他国に戦争させない対策をしっかりと立てなければならない。つまり、どこを向いて叫ぶにしても、「戦争させない」という叫びは、安全保障の充実を求める叫び以外ではあり得ないのです。ところが、我が国の安全保障の充実をはかる法制案に《反対する》デモ隊が「戦争させない」という叫びをあげているー何ともトンチンカンな光景でした。

「法的安定性」は「硬直」であってはならない

今回もう1つの際立ったトンチンカンは、憲法学者たちのこの法案に対するトンチンカンな意見でした。いや、憲法学者たちがトンチンカンだったというのは当たっていないかも知れない。多くの憲法学者たちがまことに憲法学者らしく振る舞った結果が、恐ろしくトンチンカンな意見となって表れ出た、というのが正確な言い方でしょう。

そのことがはっきりと表れたのは、2015年6月4日、衆議院憲法審査会でのことでした。この審査会に招かれた3人の憲法学者が、3人とも、集団的自衛権の行使を認める今回の法案は憲法違反であると答えた。ことに、自民党、公明党によって招かれた、早稲田大学の長谷部恭男教授がこれをはっきり違憲だと述べたことが、大きな反響を呼びました。

一般に、法律を作ったり改定したりする時には、まず、それがその国の憲法規定にかなっているかどうかを調べることが不可欠です。憲法というものは、まさにそのためにあるものだからです。その重要な審査の場で、法案を提出した与党の招きによって意見を述べた学者が、それを憲法違反だと断言したのですから、これは大騒ぎになるのも当然と言わなければなりません。自民党は一体何でこんなバカな人選をしたのか、と批判の声、嘲りの声が上がったのはご記憶の通りです。

しかし実は、長谷部氏も、そこで何か飛び抜けてラディカルで特殊な意見を述べたわけではない。むしろ、それ自体としてはごく保守的な意見を述べたに過ぎません。すなわち、長谷部氏がこの法案を違憲だと考えるのは、これが従来の政府見解から大きく外れるものだからだ、というのです。これまで政府は、集団的自衛権の行使は憲法上認められないとしてきており、国会答弁でも、そのような憲法解釈は変更できない、と述べてきた。それを、憲法改正なしで容認しようというのだから、これは憲法違反と言わざるを得ない。このような変更は「法的安定性」を揺るがすものであるーこれが長谷部氏の主張でした。

これ自体、取り立ててトンチンカンな意見というわけではありません。確かに「法的安定性」は大切なものであって、憲法のように国家の基本原則を定めたものがコロコロ変わるようでは国政の安定は望めません。またその解釈が常にフラフラして定まらないようなことがあれば、それも困ります。

ただし一方で、一切の「可変性」を退けて、憲法典の文言も、その解釈も、決して変更してはならぬ、というような話になったら、これはもっと困ったことになる。いくら基本原則を定めているとは言っても、憲法典は現実のこの世を律するべきものなのですから、この世の変化を全く無視して不変のものであったら、もはや人の世の最高法規として通用しないものになってしまう。それは「安定性」ではなしに単なる「硬直」であり、むしろ本当の意味での「法的安定性」を損なってしまうとすら言えます。そして、その意味では、長谷部氏の意見はあまりにも保守的で、「硬直」の域に近づいていると評すべきしょう。

憲法9条の持つ破壊的性格とは

しかし、本当の問題は、もっと根本的な所にあります。そもそも「法的安定性」を論じることができるには、不可欠の大前提があって、それは、その憲法典に”根本的かつ致命的な欠陥が存在しない”ということです。もし仮に、ある国の憲法典が、それを遵守すると憲法そのものが成立し得なくなってしまうような条項を含んでいたとしたら、そんな憲法典のもとで「法的安定性」を云々することは完全に無意味です。そんな憲法典は、自らが自身の法的安定性を破壊していると言わなければなりません、

ふつう常識的に考えて、そんな事態はまずあり得ないことであり、当然、早稲田大学の長谷部恭男教授も、日本国憲法がそんな憲法典であるとは夢にも思わぬまま「法的安定性」なる言葉を口にされたのでしょう。ところが、現に、日本国憲法のうちには、近代成文憲法の存立そのものを破壊してしまうような条項が含まれている。それこそが一番の問題なのです。

確かに、ある1つの条項がその憲法自体を成り立たなくしてしまうなどというのはとんでもない話としか思えません。しかし、近代主権国家における近代成文憲法においては、それは論理的にあり得ることなのです。すなわち、近代成文憲法の大前提をなしている、その国の主権というものを、全面的に否定するような条項が仮にあったとすれば、それは憲法そのものの破壊条項ということになるのです。

この「主権」という概念は近代の政治思想における最も重要な基本概念の1つであって、国内においては「国政の最高の決定権」を意味し、対外的には、各国が独立国家として存立する権利ー自国の領土を保全し、自国の政治を干渉されずに行う権利ーを指して言う、といった説明がなされます。例えば、日本国憲法の3大原理の1つである「国民主権」は前者の意味であり、韓国による竹島の実効支配の企ては我が国の主権の侵害に当たる、と言う時の「主権」は後者の意味である、というわけです。

しかし、ここで重要なことは、このように様々な意味で使われる「主権」という言葉が、もともと国家統治の「最高の力」を表す1つの言葉であり、事柄それ自体としても1つながりになっているということ。そして、「最高の力」という原義の示すとおり、決してただの形式的、抽象的な権利・権限ではなく、現実の「力」に裏打ちされてはじめて意味を持ち得る、実質的な概念なのだということです。

近代国際法というものも、こうした各国の「主権」を大前提とした上で、その調整、調停のシステムとして出来上がってきたものなのです。日本国憲法の前文に語られている「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務である」という一節は、まさにこうした事情を正確に語っています。どんな国も、やみくもに自国の主権を主張し、他国の言い分に耳を貸さず、国際法を無視するような姿勢を取るべきではない。ただしそれは決して「主権」そのものを否定するということではなく、国際法においては、どんな小国であれ「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする」ことが保障されるーこうした認識が、前文のこの一節にははっきりと示されています。極めて健全な常識です。

ところが、自らの語る、この健全な常識を忘れ去ったかのごとくに、日本国憲法第9条2項は、はっきりとこう定めています。

「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

先に述べたとおり、「主権」の概念はどこまでも実質的な概念です。その実質の部分を、この2項の条文はゼロにしてしまっているのです。「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という規定が、「自国の主権を維持」するために不可欠の「力」を完全放棄する規定であることは、一目見てすぐ解るとおりです。さらに「国の交戦権」を否認するということは、たとへ我が国に「力」のかけらが残っていたとしても、その「力」を使うこと自体を全面的に封じている、ということになります。近代の国際法はこの交戦権というものを様々に規制して、少しでも戦争の悲惨さを和らげようとしてきたのですが、最も基本的な交戦権ー「相手国の兵力の殺傷及び破壊」の権利ーは太古の昔から現在に至るまで1度も否定されたことがない。すなわち、戦争中に敵の将兵を殺傷し、敵の基地を破壊しても罪に問われない、ということです。そして、これがなければ、戦争はできません。誰も傷つけず、何も壊さずに戦争をすることは不可能だからです。

日本国憲法第9条2項は、戦力不保持と交戦権否認の規定によって、言わば二重に鍵をかけるような形で、我が国の「力」を封じ込めている。そしてそれは、我が国の主権の実質を奪い去っているということなのです。

確かに、現行憲法の実際の条文には、、この2項の冒頭に「前項の目的を達するため、」の一言が付け加えられていて、戦力不保持も交戦権の否認も、1項に準ずる限りのことであり、全面的なものではない、と解釈する余地を残しています。そして、1項の規定は2項と違って、1928年の不戦条約を踏襲し、ほぼ国際社会の常識に沿った平和規定となっていますから、それを頼りに、日本国憲法第9条は全体としては、自衛戦争までも否定するものではない、という解釈も成り立ち得るのです。

しかし、これが大変苦しい解釈であることは間違いありません。もしこの解釈が成り立つのだとすれば、そもそも2項を付け加える意味が全くないことになってしまう。その項自体を無意味にしてしまうような解釈は、条文解釈として上出来とは言えないでしょう。

現に、これまでの政府見解でも、この解釈は採用されていません。しかし、ではどんな解釈がなされているのかと言うと、2項の規定は、たとへ自衛のためであっても「戦力」は保持できないとしているが、戦力に至らない「自衛力」であれば保持可能であり、したがって、自衛隊は「戦力」ではなく「自衛力」にとどまるから憲法違反ではないーこういう解釈です。こちらの方は、「苦しい解釈」を通り越して、ほとんど詭弁と言うべきものでしょう。

しかし、こうした解釈を、「苦しい」とか「詭弁だ」とか言って非難するとしたら、それは全くの本末転倒です。今も見た通り、この第9条2項の条文をそのまま遵守したならば、日本の主権はほぼ完全にゼロになってしまう。これでは近代成文憲法の大前提にも、近代国際社会の大前提にも背くことになってしまいます。少なくとも”責任をもって”我が国の国政を預かる立場にある政府が、第9条2項を素直に解釈するなどということは、むしろあってはならぬことなのです。

つい先日、ベトナムから来日した若い法学者にこの日本国憲法第9条2項の条文を紹介した時のことは忘れることができません。文字通り唖然、呆然、驚愕の表情で「信じられない」と繰り返していました。実際、世界の国々の憲法の中に置いてみると、この条項の異常さが改めて浮かび上がってきます。西修先生のご研究によれば、世界中で188か国が成文憲法を持っており、そのうちの158か国が何らかの平和規定を備えている。しかしその中にも、このような国家主権の完全放棄を規定している国はありません。例えばパナマ共和国のように、軍隊を禁止している憲法ですら、その一方で「全てのパナマ人は、国の独立と領土保全のために武器を取ることが求められる」と謳っている。まさに主権維持の義務規定です。世界を見渡してみると、我が国の憲法第9条2項がいかに異常な規定であるか、改めてよく分かるのです。

日本国憲法
(昭和二十一年十一月三日憲法)
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S21/S21KE000.html

前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

第二章 戦争の放棄
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

http://www.asyura2.com/15/senkyo197/msg/762.html#c24

   

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