81. 母系社会[1204] leqMbo7Qie8 2016年6月25日 21:37:51 : PLtZ8LZxjA : 5Qg0Si_9uMU[1]
>>62さん
>自由、平等、博愛・・・↑これがグローバル主義の根幹だよ。
>ここには階級制度が当たり前に存在していますよ。
●確かに、フリーメーソンも<自由、平等、博愛>を唱えているようですね。しかし、<自由、平等、博愛>の問題では、フリーメーソンなどよりも、日本も含めて全世界で多数派になっているリベラル派の方がはるかに重要です。
何しろ、リベラリズムは、現代社会を動かしている主流派の政治思想で、小沢一郎氏のような社会自由主義的リベラル派もいれば、「自分の臓器なら商品として販売を認めろ」というリバタリアンまで様々なタイプがあるようで、阿修羅でも広い意味でのリベラル派が多数派ですから。
●資本主義社会を肯定する自由主義派=リベラル派の<自由、平等、博愛>という理念の解釈では、階級制度を許容してしまいます。そしてそれは、リベラル派が人間の理性(知性)を過剰に高く評価してしまう理性主義=人間中心主義、つまり科学主義という資本主義的「パラダイム」(思考の枠組み、暗黙の前提)の影響下で思考していることに無自覚だからです。
戦国時代に生きた信長や江戸時代の歴代将軍に、民主主義の理念を説いても、納得するハズがありません。天皇を神と信じている人に、「主権在民」を説いても無駄です。要するに、原発の爆発が典型的な科学主義の「原発安全神話」を吹き飛ばして人間の理性(知性)には限界があることを「実証」したように、われわれも含めて、人は時代毎に形成される歴史的、文化・社会的な「パラダイム」=「時代の壁」に制限されて思考しています。要するに、われわれは「井の中の蛙」です。
●人間は歴史の壁(パラダイム)を乗り越えることは出来ないということに自覚的なマルクス派の場合は、リベラル派のように、<自由、平等、博愛>という理念を普遍的な、絶対的理念とは考えません。しかし、この理念はマルクス派も支持できる理念、現時点では欠点が見つからない理念です。
と言うのは、<自由、平等、博愛>という理念は抽象的ですから、左派や右派、あるいはリベラル派などの政治的な立場の違いを越えて、幅の広い解釈できるので、この理念を支持するかと問われれば、近・現代人なら誰でも肯定するしかない理念です。しかし、当然ですが、この理念の解釈は政治的な立場により異なります。
それで、階級制度が残存している資本主義を前提にしているリベラル派は、<自由>という理念を権利の問題と考え、権利としての「表現の自由」を保障している政体であれば肯定します。あるいは、<平等>という理念なら、単なる「機会の平等」の問題と考え、縁故などの不平等を批判して終わりですが、このリベラル派が現代の多数派です。
●キリスト教の全盛時代であったヨーロッパ中世までは、神は悪人を極少数しか創造せず、神は大多数の人々は神が善人として創造した、つまり、大多数の人間は性善だと考えられていました。しかし、貨幣経済が社会の隅々まで浸透し、<貨幣>が神になると、誰もが多少は守銭奴=性悪にならなければ生きてゆけません。人間自体は「性悪」でも、「性善」でもありませんが、誰もが多少は性悪説的な人間にならないと生きられない貨幣社会になったので、そのような社会に適応した性悪的な個人主義的人間像が主流となったのです。
ですから、現代人の人間像と、この貨幣万能の市場経済社会、つまり資本主義社会とは相互に相手を創りだしている関係、相補的関係です。リベラル派は性悪説に基づいて、<人間は性悪的だから、性善説的な社会主義は失敗した>と考え、資本主義を支持しますが、このようなく社会主義批判は、転倒した議論であって、リベラル派がこのように考えるのは、これは<貨幣>が神となった社会で生きているからです。
●中世までは、人々は強い社会的紐帯で結ばれ、同じ社会で協働(分業労働)をして生きていました。しかし、同じ協働(分業労働)をしているのに、貨幣経済社会となると人々は<競争>(貨幣の争奪戦)という「敵対的関係」に置かれ、人々は社会的紐帯を失い、孤立した人間、つまり個人(部分)であることを意識せざるを得なくなります。
こうした社会情況と、「置き時計」(自動機械)の普及がデカルトの機械論的世界観を誕生させ、やがてこの機械論が時代の「パラダイム」となり、「個人主義」の全盛時代を誕生させました。この貨幣経済社会とは、同じ社会の隣人こそが最大の脅威=潜在的な敵になる社会=「生き馬の目を抜く」資本主義社会ですが、機械論を前提にした近代科学で自然や人間を研究し、大きな成果を上げてきたわけです。
●リベラル派が資本主義を前提にして解釈するのは、彼らは、究極的には<全体と部分>の全体を軽視して、部分(個)を実体と考えるからです。すると、全体は単なる部分の集積に過ぎず、部分さえ解明できれば全体も解ると考えますが、これは機械論的自然観や人間観の影響です。
彼らは社会でも個人を実体と考えるので、人間の労働には必ず先行世代から継承した技術が使われ、しかも人類は「分業労働」という<他人が使用する物資・サービスを相互に生産する>、つまりネットワーク的な労働をしているのに、このような時間的・空間的な「関係」を無視して、労働を「個人労働」と考えます。
また、リベラル派の個人主義に反発して全体(国家・民族)こそが実体であると考える潮流は、日独伊でファシズム派として台頭し、世界中に植民地を持っていた欧米の帝国主義列強に対して、植民地の再分割を要求して世界大戦を起こしました。
実際は、部分重視も全体重視も、本質を内在的に具えた「実体」が存在すると考える点では同じ実体主義(本質主義)の立場です。ですから、一見するとリベラル派とファシズム派は正反対のようですが、実は同じ実体主義であり、2つのバリエーションに過ぎません。そして、現代では実体主義的な機械論の可能性は尽き果てたので、機械論とは異なる関係主義的な「システム論」や「複雑系の科学」が台頭していますが、代表的左派であるマルクス思想も関係主義です。(現在でも、様々な分野での論争は、この部分を重視するか、それとも全体かという同じ実体主義的地平での対立です)
●マルクスは、全体か部分かで争う実体主義的な機械論のパラダイムに対して、ヘーゲルから部分も全体も実体ではないという関係主義を学び、<関係>こそが部分や全体を、あたかも実体(フェティッシュ=物神)であるかのように物象化させていると説きました。これは、仏教とほとんど同じ関係主義的パラダイムの立場です。(「資本論」の商品価値の「物神論」)
そして、このパラダイムを前提に、資本主義を搾取経済として否定し、<自由、平等、博愛>もリベラル派とは異なる解釈をします。つまり、<自由>という理念の場合、そもそも「表現の自由」の権利だけ持っていても、その権利を行使する自由時間が無ければ無意味ですから、マルクスは生産性を向上させる技術的改善を「労働時間の短縮」=「自由時間の拡大」に使う体制=社会主義の実現を提唱しました。(資本主義では、技術的改善が自由を拡大する「労働時間の短縮」には活用されず、コスト削減=人減らしに使われる)
また、<平等>の理念については、マルクス的な「労働価値説」の立場で、単なる「機会の均等」では<平等>の理念は実現しないと訴え、資本主義では大規模な搾取が合法化されていること、そしてこの他人の労働を「盗む」搾取で、大規模な<貧富の格差>=不平等が発生する機制を明らかにしたのです。
●この資本主義における<搾取>の件は、最近「富裕層1%の財産が残り99%の財産を上回る」ようになり、実際に起きていることが「実証」されました。商品の価格として現象する<価値>を、心理的な「効用」(付加価値)とする近代経済学派(ケインズ派、ミクロ・マクロ経済学、新自由主義派、新旧の制度派経済学など)では、この驚くべき規模の格差が起きた機制を説明できないのですから、学問としての「近代経済学」は全て破産したわけです。
マルクスは、実体主義的古典派とは異なる関係主義的「労働価値説」で、商品の価値や資本は関係態であり、それらが、あたかも実体であるかのように物象化して現象している世界が資本主義的世界(今の言葉なら「資本主義というゲーム」)とする「資本論」を書き、学問としての「近代経済学」を価値論という根底から否定しました。(そもそも、知の階層性を肯定し、全ての規定・結論が暫定的であるマルクス的弁証法で書かれている「資本論」を、近代経済学の学者は誰も正確には読解できません)
●ところが、われわれの日常的意識は実体主義そのものなので、実体主義は非常に根深い先入観的「ドグマ」です。それでロシア革命を成功させた「ロシア・マルクス主義」派はマルクスの関係主義を理解できずに実体主義的に誤解し、更に実権を掌握した「スターリン派」は、社会主義体制は世界的規模でなければ実現不可能とするマルクス思想を無視して、ロシアなど一国レベルでも実現可能とする「一国社会主義」を唱えました。
「スターリン派」は「社会主義」を唱えつつ、実際のロシアは格差社会のままだったので民衆の支持を失い、結局、民族主義的感情に依拠して「国家社会主義」(スターリン主義)を唱えました。それで、ロシア製の実体主義的な「マルクス主義」が「マルクス主義」ということになってしまいました。
★このように、幅広い解釈が可能な<自由、平等、博愛>という理念は、その詳しい解釈となると直ちに大論争となりますが、一応は左派も含めて、現代人なら誰もが一致できる理念で、その点が優れた理念だと思います。政治には、時には妥協も必要だからです。
★しかし、近代経済学の「価値効用説」(付加価値説)を支持する自由主義派=リベラル派は、1%の富裕層がやがて、0.1%→0.01%→0.001%、更に少数になって1つの家族の財産が残りの全人類の財産とイコールになろうが、究極的には1つの家族が地球の全財産(全富:要するに地球自体)を所有しようが批判できません。つまり、近代経済学の価値理論では「仕方がないこと」として認めるしかなく、「正当な財産」として認めて擁護してしまうので、かつてのヨーロッパにおけるキリスト教のように、「効用説」の近代経済学は1%の支配を正当化する思想=人類の奴隷化さえも肯定するとてつもない「反動思想」です。
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