7. 天橋立の愚痴人間[622] k1aLtJengsyL8JJzkGyK1A 2018年11月20日 21:18:02 : cYq8gq03z3 : zXndQkvsnFA[1]
>ソ連対日参戦
外地での戦闘が完全に収束する前に、1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌8月15日、終戦詔書が発布された。
このことにより、攻勢作戦を実行中であった日本軍の全部隊は、その戦闘作戦を全て中止することになった。
しかしソ連最高統帥部は、「日本政府の宣言受諾は政治的な意向である。その証拠には軍事行動には何ら変化もなく、現に日本軍には停戦の兆候を認め得ない」との見解を表明し、攻勢作戦を続行した。いくつか日本軍の部隊は降伏を拒むと戦闘行動を続行した。
連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は8月15日に日本の天皇・政府・大本営以下の日本軍全てに対する戦闘停止を命じた。この通達に基づき、8月16日、関東軍に対しても自衛以外の戦闘行動を停止するように命令が出された。しかし、当時の関東軍の指揮下にあった部隊のほぼすべてが、激しい攻撃を仕掛けるソ連軍に抵抗していたため、全く状況は変わらなかった。すでに17の要塞地区のうち16が陥落し指揮系統は分断され関東軍は危機的状況にあった。
8月17日、関東軍総司令官山田乙三大将がソ連側と交渉に入ったものの、極東ソ連軍総司令官ヴァシレフスキー元帥は、8月20日午前まで停戦しないと回答した。関東軍とソ連軍の停戦が急務となったマッカーサーは8月18日に改めて、日本軍全部隊のあらゆる武力行動を停止する命令を出し、これを受けた日本軍は各地で戦闘を停止し、停戦が本格化することとなった。その同日、ヴァシレフスキーは、2個狙撃師団に北海道上陸命令を下達していたが、樺太方面の進撃の停滞とスタフカからの命令により実行されることはなかった。
8月19日の15:30(極東時間)、関東軍総参謀長秦彦三郎中将は、ソ連側の要求を全て受け入れ、本格的な停戦・武装解除が始まった。これを受け、8月24日にはスタフカから正式な停戦命令がソ連軍に届いたが、ソ連軍による作戦は1945年9月2日の日本との降伏文書調印をも無視して継続された。結局ソ連軍は、満洲、朝鮮半島北部、南樺太、北千島、択捉、国後、色丹、歯舞の全域を完全に支配下に置いた9月5日になってようやく、一方的な戦闘攻撃を終了した。
(引用終わり)
満州、朝鮮の権益を巡り日露戦争はあったが、両国国民同士の民族的な争いはロシアと日本では起きてはいなかった。
第二次世界大戦も、日本の敗北で概ね終わっていた時期に、何の恨みか知らないが、日露中立条約を破り突然攻めてきたロシア。
その本音は火事場泥棒。
上に紹介した内容で、結局は64万人の捕虜をシベリアに送り、60万人を死なせてしまった。
北方領土の住人たちも悔しいであろうが、シベリアで命を落とした邦人を思えば、まだ我慢もしなければならない。
カラフトなどは、もともと戦利品。
それを失っても仕方もないところ。
だが、北方領土は地理的に見ても完全に日本固有の領土である。
先の大戦におけるロシアの仕打ちを忘れることなかれ。
北方領土を追われた住民には気の毒ではあるが、日本人の恨みは別に在らねばならない。
北方領土などロシアから、謝罪の上に返されるべき。
返さなければ、100年でも200年でも取り返す努力、気概はすてるべきではない。
それを、単なる自民党の人気の為、安倍クソ内閣の支持率の為に2島返還で妥協するなど、売国奴。
日本人として認めることなど出来ない相談。
民族の裏切り者!
シベリアで無念に死んで行った6万人の死体に日本の宰相として唾を吐きかけるのか!
安倍のクソ野郎など、大通りへ連れ出し、みんなで殴り殺さねばならない。
右翼よ
一体何をしているのだ!
(参考)
ソ連に抑留された者は、65万人とされているが、一説には75万人とも。それ以上とも言われている。
また死者について、
ソ連側(現ロシア政府)はこれまでに約4万1千人分の死者名簿を作成し、日本側に引き渡している[38]。アメリカの研究者ウイリアム・ニンモによれば、確認済みの死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が死亡したという。
>シベリア抑留者が余り当時の様子を語りたがらないとも言われている、その収容所での実態、
「俘虜たちが寝起きし、唯一のくつろげる場は板の間に敷いた肩幅だけの空間にすぎない。しかしその湿っぽい空間はホコリを吸い込み、蚤や虱やダニたちの格好の巣窟なってしまい、人間たちが爪先で押しつぶすくらいでは間尺にあわず、首筋や胸元や腕の内側に赤い発疹をつくる者が増えてきた。高熱にうなされる者も増えてきた。そんな症状が虱やダニの媒介による発疹チフスや回帰熱という伝染病だということを衛生兵から聞かされていたが、その伝染病患者と雑魚寝をした者が相変わらず労役にかり出されていたのだ。おまけに全員がひどい飢餓状態に陥り、胃腸は機能を失い栄養失調になっていた。…
高熱を出して呻いている連中も、一人残らず氷点下30度の屋外点呼に引っ張り出されて以来『アレから間なしに何人かが死んだらしいぞ』という噂が流れてきた。それから数日後、労役を終えて帰ってきた私は、数人の仲間と一緒に亡くなった連中の遺体が置かれている別館へ行った。別館といっても屋根も窓枠も床もない煉瓦造りの廃屋であったが、その一区画の土間に十人ほどの死体が積み重ねられていた。彼等の軍衣は生きている連中が頂戴したとみえ、シャツとズボン下のまま、めいめいが思い思いの姿で硬直して絡み合っていた。…」(『“棄民”のあしあと』p.52-54)
それ以来何人もの死者を送り、死体置き場の死体は三重、四重にも重ねられるようになり、ある日三人がかりでこれらの亡骸を馬車に乗せて運んで、白樺林に掘られた大きな穴に放り込んだことが記されている。
さらに、以下の様な話もある。
「…1993年(平成5)8月13日付の各紙は、『旧満州などの民間人・将兵捕虜180万人の“棄民”化計画が『大本営報告書』によって判明した』ことを大きくとりあげていた。
『最近ロシア公文書施設で発見されたもので、同報告によると、捕虜となった180万人についてソ連指令下に移し、国籍離脱まで想定、病人を除き、現地に土着させ、事実上“棄民”化する方針を固めていた』
『旧満州で関東軍がソ連に捕虜の使役を申し出た昭和20年8月29日文書も最近明るみに出たが、それには、大本営報告書に『全面的に同意』した関東軍参謀長の『所見』も発見された』
それらは『結果的に60万シベリア抑留の伏線となった関東軍の使役申し出は、日本の国家意志であった可能性が極めて強くなった』(毎日新聞)」(同上書p.11-12)
上記の『毎日新聞』の記事には、なぜ大本営や関東軍がソ連に捕虜の使役を申し出たのかについて書かれていないが、わが国の国体を守るためだとか、北海道を守るためだったなどとか諸説がある。
※ 如何なる理由があろうとも、ロシア人、ロシア共産党がやった行いを日本人として許すことは出来ない。
ヒットラーのユダヤ人虐殺を発想は変わらないであろう。
http://www.asyura2.com/18/senkyo253/msg/823.html#c7