48. 2018年1月22日 22:37:34 : VT6fWUvKwU : WRMMENNX7qs[1]
奴隷と制度、これが不明確である。 しかし、民主主義と自由を理解するために必要な知識。
奴隷と自由の教育が昔からやられていない。 憲法前文の専制と隷従は、チラニィとスレイブリィ。
直訳は独裁や暴政と奴隷と訳せる。 昔(半世紀も前)の公教育で、大宝律令とかを習い、班田
収授の法や良民と賤民を教えられた。 律令制の起源云々は別におき、日本書紀孝徳天皇紀に、
男女の法や奴婢法とある。 この中に、良民の奴(男)婢(女)売買が書かれている。 欧米の奴隷
制度は、所有権の登記、公的な売買(競り市場)が法律の下で行われていた。 奴隷は戦争の勝利
品とし古代からあり、自由は、この奴隷身分から解放される意味である。 孝徳天皇紀、男女の法は、
良男が婢に生ませた子は婢、良女と奴の子は奴、奴と婢の子は婢。 奴隷の子は奴隷となる。
因みに、孝徳天皇紀に「惟神(かんながら)」が出てくる。 宗教は17条憲法で、『二曰 篤敬三宝者
仏法僧也 則四生之終帰万国之極宗』で国家仏教とした。 この後、神社の社格制度(延喜式)
幕末の「王政復古」は、平田神道や公家が目指した政治体制。 神道国教化(神仏分離や廃仏毀釈)
や近代社格制度(伊勢神宮を頂点)を進めていった。
で、奴婢の解放は、御成敗式目41条とされる。 武家法は、江戸の家康も踏襲し、御成敗式目から
(奴隷)制度が存在しないと解釈されている。
孝徳天皇紀 『是日、設鍾匱於朝如・・・奴婢法。今剋見人為制之始。』
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_25.html
御成敗式目 『第四十一条 奴婢雑人事』
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/goseibaishikimoku.html
江戸は、年季奉公とする新たな仕組を考え出した。 代表されるのが遊女、遊女の子が遊女となる
訳ではないが、借金で自由を拘束している。 赤線や戦前の身売り、遊郭での自殺など話は聞いて
いる。 ただし、江戸も同じようにみるのは間違い。 江戸の遊女は、矢場女、夜鷹から花魁、大夫と
公娼私娼(公娼は幕府公認で、吉原や宿場の飯盛女など 私娼は岡場所と呼ばれ幕府非公認)さま
ざま、法律は女性の暴行や妻の不貞は犯罪とし罰した。 一方男性(武士も含む)はゲイやバイも
容認される性道徳に寛容の社会であった。 公娼の頂点、花魁は庶民にとってのスターで浮世絵に
描かれ、庶民の娘はその仕草を真似し、旅行者は江戸の土産とした。 幼女の禿(かむろ)から
(身売りされても)教養や芸事を教えられ、定年となり結婚(妾も含む)したり、芸事を教えて暮らす。
この風俗はキリスト教道徳の欧米人に理解が難しかった。 庶民の混浴も同様で欧米人訪日記では
記述されている。 中には、江戸の水事情(江戸は上水道)によると書いている訪日記もある。
混浴は幕府も禁止を何度も出しているが、明治に入り文明開化の下に罰則をもって禁止された。
明治の初期、年季奉公を含めた人身売買禁止の芸娼妓解放令が出された。 このきっかけは、清の
奴隷解放裁判のマリア・ルス号事件。 長崎出島を通して、海軍伝習所教師やフルベッキの西洋
教育を受け肥前佐賀藩、尊王攘夷から民権(民主)意識のある人材がでた。
佐野常民 博愛社から赤十字社
www.saganet.ne.jp/tunetami/con_17/con_17.html
拷問が許される条件
http://mickmack.hatenablog.com/entry/20110508/1304840432
奴隷に戻すと戦国時代は戦利品として奴隷が売買された。 ポルトガル商人に李氏朝鮮の捕虜や
日本人が売られた。 秀吉は、ローマ法王領や寺社破壊、奴隷売買などから「伴天連追放令」。
イエズス会から「奴隷購買者破門令」を出させた。 奴隷はいたが、制度のようなものが無かったが
正確である。 李氏朝鮮からの捕虜は、西日本を中心とした諸国の戦国大名に連行され、その
実数は万人単位とされる。 家康が国交を回復して帰国させた。 捕虜が奴隷として使役されたのか、
身分制(両班)の下層の捕虜は帰化したのか。 全ての捕虜が帰国していないとされる。
webにあるのが、萩焼(長州)や九州の陶磁器産地。 薩摩焼の由来は載っている。
「沈家のあゆみ
http://www.chin-jukan.co.jp/history.html
ほかにも、家康の駿府大奥のキリスト教徒「ジュリアおたあ」。 捕虜で帰国した姜(かんはん)
姜の朱子学は、江戸の政治体制である身分制、国学が出てくるきっかけになった。
http://www.asyura2.com/18/senkyo238/msg/434.html#c48