14. 日高見連邦共和国[11521] k_qNgoypmEGWTYukmGGNkQ 2018年12月06日 21:53:13 : GkEsGFO6Bg : Wq6QpjSCqV4[1]
>>04
>虐殺は南京市内だけではなく、南京の周辺におよんでいるから南京市内の人口だけではなく市周辺も考慮すべきである。
確かにその通りではありますが、さて、当時の『南京市周辺の状況』を考え直す必要があります。
季節は12月ですから、農民が農地に張り付いてる必要はありませんよね。
また、防衛軍は南京市を中心に半円形に幾重もの防御陣地を形成していたので、
時節柄もあり、住民は南京市及び揚子江かの北側へ避難していた事でしょう。
さらに、旧日本軍の各部隊が、揚子江を背にした南京市の南側を西、南、東の三方から
包囲網を狭めるように進撃した訳で、少なくとも揚子江の南側は民間人はほぼいなかった
と言って過言ではないでしょう。旧日本軍が南京を制圧した後も、揚子江から北側を完全に
掌握している訳でもなく、おいそれと大河を渡って住民を拉致、大量に集めて大虐殺という
事をやる動機も理由も存在しないと考えます。ましてや、揚子江南岸から非難した住民や
元々の揚子江北岸の住人が、憎っくき侵略者たる旧日本軍が占拠した南京市のあたりに
屯ってますか?身の危機を感じてなんぼでも遠くに逃げようとするでしょ?って話しです。
そう考えた時、『南京市周辺の人口を考慮』とうのは“平時”に限った話しだと思うのです。
さて、この『南京戦』の経緯について、ウィキから主要な部分を拾ってみると・・・。
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ウィキ『南京戦』
https://ja.wikipedia.org/wiki/南京戦
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(抜粋)
日本軍進撃を食い止めるために橋梁、道路は徹底的に破壊され、家屋は焼かれ、食料は持ち去られた。
T・ダーディン特派員によれば、南京城外15マイルの空野清野作戦は中国軍の怒りと
フラストレーションであり、焼き払いは軍事目的には役に立たなかった。
さらに敗残兵は後方地域に潜入してゲリラ化して日本軍を襲撃した。
アメリカ側の資料によれば、12月10日後のアメリカ大使館報告では、
陥落前に人口の8割が市を脱出し、主要部隊は撤退し、防衛軍は5万人とされた。
1937年12月8日(水曜)
・中国軍は市民の暴動を恐れて少しでも怪しいところがあれば銃殺し、
処刑されたものは100名を超えたと中国紙が報じた。
・N.Y.Timesのダーディン記者は、中山陵園の中国高官邸宅、半径一〇マイル以内の建物や障害物、
中山門外・中山陵東南の谷全体、中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村が中国軍によって
焼かれたと報じた。
12月13日
・夕方、南京城が陥落し、日本軍が占領した[21][5]。ダーディン記者は
「最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、
中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだ
という大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた」と報じた。
・ロイター通信のスミス記者によれば、13日夜、中国敗残兵や中国人市民が食料品店から
掠奪をした。また中華門付近での戦闘では中国の戦死者は1000人以上となった。
12月14日
・主にこの日以降、捕虜、敗残兵の数千人単位の殺害が何か所も殺害が行われたとして、
戦時国際法違反の疑いもあるとして戦後追求された。(南京事件(南京大虐殺))
12月15日
・ジョン・ラーベは、日本軍が安全区に隠れていた中国兵1300人を捕えたので、
射殺されると予想し、スマイスと日本大使館補福田篤泰に救援を依頼した。
またラーベは、中国軍が済南で日本人捕虜2000人を射殺したとも日記に書いた。
12月16日
・日本軍司令部は、軍服を捨て武器を隠し平服を着た中国兵25,000人が市内にいると発表。
12月17日
・日本の陸海軍による入城式が挙行された。(写真) 中支那方面軍司令部が南京に移動。
・夜、第13師団山田旅団の残留捕虜(約4000)を揚子江対岸に釈放しようとして江岸に
移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり日本軍警戒兵を襲撃したため射撃を加え、
捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した(戦史叢書が、
この事件は実は16日以後に日本側が意思として2万人の兵を殺害したとする中国側の意見や
日本側にも笠原や小野賢二の研究がある。
12月21日
・各兵団は城内から退出。
12月23日
・陶錫山委員長の下、南京自治委員会が設立され、治安はかなり回復した。
12月31日
・南京城内の電気、水道が復旧。
1938年1月1日
・南京自治委員会の発会式が挙行された。南京難民区に避難していた市民も日の丸と
五色旗を振って祝い、式場には3万人の参加者がつめかけた。新政権の出現を祝い、
国民政府の悪政を非難する主意書および同政府と絶縁して目指す政治を示す
以下の宣言が発表された。
3月28日
・中華民国維新政府が中支那派遣軍の指導で南京に成立。
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(引用終わり)
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以上の流れを、見て貰えば分かるように、旧日本軍の目的は、略奪や一方的な支配・隷属ではなく
さらなる奥地への侵攻を支える『拠点造り』であり、新しい秩序の形成なのであって、
悪戯に無辜の民を害するという事は、人民の離反を招く“ご法度”である事はいうまでもない。
さらに、最大人口が100万人だったとして、大虐殺の被害が最大30万人としたら、
ほぼ全ての住民が、家族なり親しい友人を目前で無残に殺され屍を晒した訳で、そんな状況で
12月23日には、『治安はかなり回復した』なんて事態は“とうてい有り得ない”と言える。
これらは全て“状況証拠”でしかないが、充分に妥当であり自然な推測であるのは間違いない。
更に、南京陥落前には、事細かに現地の様子を発信する欧米のジャーナリストの存在があり、
ではなぜ、『あれ程の大虐殺の報』が、ごく限られた一部からしか発せられなかったか、
これを疑問に思わない方々にこそ、私は大いなる疑問を向けざるを得ないのである。