16. 新共産主義クラブ[4996] kFaLpI5ZjuWLYINOg4mDdQ 2017年10月12日 10:55:05 : ahspq8fb86 : Wikuq@wwctU[1]
衆院の民進党の解党と、自民党に近い希望の党への合流の動きは、日米開戦の1年前の1940年7月の近衛文麿が新体制運動に迎合して解党した、当時の社会大衆党の動きに酷似している。
前原誠司は、意図的に、戦前の社会大衆党の解党に倣っているのかもしれない。
民進党の最後の代表の前原誠司は、戦前の社会大衆党の最後の党首の麻生久に重なる。
■ 社会大衆党【しゃかいたいしゅうとう】
1932年全国労農大衆党と社会民衆党とが合同して結成した合法の無産政党。委員長は安部磯雄で,反資本・反共・反ファシズムを掲げ初期には反軍的行動をとったが次第に右傾化し,1940年近衛文麿が新体制運動を唱えると,直ちに解党してこれに合流した。
百科事典マイペディアの解説
■ 社会大衆党 しゃかいたいしゅうとう
麻生派が主流派となり,33年のいわゆる陸軍パンフレット事件以後,軍に接近し,親軍工作に踏切り,「転換期日本の建設政策」を発表して,国民政党の色彩を強めた。日
中戦争が起ると「聖戦協力」を唱え,また,人民戦線事件では関係者を除名。
37年「国体の本義」に基づく新綱領を採択し,38年,国家総動員体制に協力しつつ,全体主義への支持を強めた。
39年に東方会と合同を試みたが失敗し,安部が率いる旧社民系と,麻生の旧全労系の対立が深まり,40年斎藤隆夫の反軍演説をめぐって除名に反対した安部,片山哲,西尾末広ら旧社民系8人を除名した。
麻生をはじめ旧全労系の主流派は近衛文麿の新体制運動を積極的に支持し,新党に参加するために 40年7月6日他の党にさきがけて解散した。
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■ 麻生久 (1891 - 1940)
1936年東京都から衆議院議員総選挙に出馬し当選、1937年再選された。
同年日中戦争が勃発すると、局地解決・事変不拡大を条件に政府を支持、軍事予算も承認した。1938年には近衛文麿を党首とする新党結成を画策した。1939年に中野正剛率いる東方会との合併を試み、右翼との連携を模索していた。
1940年2月に起きた、斎藤隆夫代議士の反軍演説問題については衆議院除名賛成の立場を取り、反対に回った党首の安部をはじめ、鈴木文治・片山哲・西尾末広・水谷長三郎・松本治一郎らを党除名処分とし、自らが後任の党首となった。同年、近衛の新体制運動に積極的に協力し、7月には他党に先駆けて社大党を解党させた。第2次近衛内閣においては新体制準備委員会委員となる。
1940年9月6日、心臓麻痺のため逝去。享年49。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E4%B9%85
http://www.asyura2.com/17/senkyo233/msg/769.html#c16