1. 2017年4月04日 04:00:08 : YdYufQUcNm : VaaahOAtB7g[1]
「羅生門」は単なる推理小説だろうか。東京裁判と敗戦経済苦境、
それからの脱出の希望の在り処を隠喩したものと言えまいか。
戦争後の社会の中で
当事者の誰が嘘を言っているか・・・ところが目撃者であったは
ずの者(志村喬)までけっして無関係ではなかったと描いた黒澤。
何が何やら判らなくなったところで、最後に
羅生門に捨てられた赤ん坊が泣き叫ぶ。赤ん坊を(志村喬)が貰い受け
て、子供が七人いて貧しいけど子供はかわいいもんだと連れ帰る・・・
・・羅生と名付けた所以だ。
黒沢は「虎の尾を踏む者」で、映画の戦争加担の言い訳がましかったのだが
羅生門は、作られた時期を考えれば、戦争の不合理と東京裁判と
それからの脱出の希望の在り処を隠喩したものといえよう。
日本の敗戦後、天皇がマ元帥に会いに出かけかつての右翼が占領軍の手先となる者も出て信じていたものがひっくり返る。黒澤も、もと李香蘭・山口淑子映画「暁の脱走」で米軍の慰安婦隠しの検閲で不可とされ脚本を降板してしまう。
朝鮮戦争に向けて米軍さえも占領路線転換。
東京裁判と敗戦経済苦境、それからの脱出の希望の在り処を隠喩した映画。
敗戦国の評論家にはとくに受けただろう。
ちなみに、農民が侍を雇うなる「七人の侍」は、米軍下の日本再軍備で軍隊放棄の国に自衛隊が作られた時の映画で、荒唐無稽な物語の中に武装を問うているキワモノだろう。その脚本家の橋本忍のいた創価・公明党は今じゃ軍備も海外派兵も共謀罪も賛成側で強行採決する側に成り上っているではないか。農民の武装と国家の武装との違いを曖昧にしつつ再軍備に道を開いた協力映画だったのだろうか???