4. 2018年6月11日 14:32:54 : uLHpXCIHxE : uHuRKNVcgAA[1]
日々雑感!
未だに小沢命でやっている。
進歩がないねえ。
他に考えることが無いのだろう。
★阿修羅♪ > uHuRKNVcgAA > 100000
|
g検索 uHuRKNVcgAA |
|
|
未だに小沢命でやっている。
進歩がないねえ。
他に考えることが無いのだろう。
素晴らしい。
地方創成も
新潟県民の一人一人の声、考えを聞き政策を実現していく、も
同じ事だよ、バカバカしい。
それが選挙民に伝わったのだ。
京都府のある小学校の四年のクラスには、教育に非常に熱心な先生がおられまして、その先生は、テストのとき、生徒の全部に90点以上を取らせたいと思い、試験が近づくと、黒板に問題と解答を書き出し、何回も何回も生徒に覚えさせていました。 結果は聞いておりませんが、その父兄の一人は、先生の努力を奇異なものと感じておられました。
「お話 その2」
私の子供が小学生のおり、「学級通信」なるプリントを殆ど毎日の様に持って帰ってきました。 始めは、先生も大変と思いながら、少しは目も通しておりましたが、そのうち、捨てる訳にもならす、ただ集積するに任したものです。 日常化した膨大な量のプリントは子供にとって本来の連絡紙の意味を感じなくなり、本当に必要な内容を含んだものも含めて親に確実に手渡す事の大切さがだんだんとわからなくなってしまいました。
知り合いの小学校教諭に聞きますと、そのプリントの作成に毎日時間を取られて、また、毎日なので書く内容に神経を使うため大変らしいです。 費用対効果の意味で先生方に同情するだけではすまされない問題が内在していると思います。
「お話 その3」
最近小学校での運動会では、1等・2等・3等と順位をつけない学校があるらしい。 幸いに、私の子供の学校では経験しなかったが、早く走れるのにふざけて走らない子供、玉入れでは相手の籠に玉を入れる子供、またそれを観戦する父兄のしらけた表情など、想像するに耐え難い光景を現実のものとしている小学校が少なからずあるようです。
「お話 その4」
私がPTAの地区の役員をしていた中学校で、毎年夏休みに行われている、生徒による古紙回収の行事での話し。
準備の為の役員会が開かれ、教務担当の先生からは以下のように説明されました。 「この行事は生徒の社会学習の一つとして、生徒が自主的に計画して行うものです、父兄の方には、回収の為の車両を提供していただき、また行事が安全に行われるように指導してやって下さい」
行事当日の事 ・・・
行事後のPTAの役員会(反省会)の発言集
ある父兄
今年は生徒達が非常に協力的でスムースにできて、本当に助かりました。
(私のところでもそうだった、との同調意見あり)
教務担当の先生
有難うございました、また来年も宜しく・・・
私の発言
皆さん、少し待って下さい。 私の地区では以下のようでした。
集合時間を厳守できていない、特に上級生に目立つ。
集合して後、上級生からは、父兄に何の挨拶もなく、また、下級生にたいして何の指示もしない。
様子を見ていると、班分けは出来ているらしく、ぞろぞろと出発する気配なので、回収道順等について車両を運転する父兄に説明をする様に注意をしたところ、明確に説明する何の資料も持っていない。
回収前に、協力を依頼する文書を各家庭に配布していたようだが、そのリストも持っていない。 回収作業が始まってからは、トラックの荷台に乗せろと上級生ほど要求する。
以上の内容であり、先日、先生から言われていた、生徒が自主的に行う社会学習の観点から見ると、その目的からは、かけ離れた状態であった。 それでも結果として、市からの助成金を含めて50数万円の収入が見込め、それで教材及びクラブ活動の資金が手に入り、生徒が自分達の力でこれを達成したと思うことは、教育上ゆゆしき問題であり、来年からは取り止めていただきたい。 資金が必要ならPTA行事として行い、生徒に協力させればよい。 (皆さん、しらけてシーン ・・・ )
「お話 その5」
今度は私が地区の公民館で文化委員をしているときのお話です。
小学校の夏休みを目前に、公民館の関係委員・小学校の担当の先生・市の教育委員会からも課長が出席して、地区の子供たちの夏休みの過ごし方を指導する為の会合でした。
学校の先生からは、海水浴の時の安全確保、交通事故に巻き込まれない様に注意させるとか、規則正しい生活に留意させるとかの一般的注意を学校の夏休み中の行事とも関連させて発言しておられました。
次に教育委員会の課長は次のように発言されました。 「学校では子供が自主性を発揮するように常に指導を行っております、夏休み中も、先生が言われたことを子供が自主的に出来る様に、指導してやってください」
何気ない発言に議事は順調に進むはずでしたが、その場にふさわしくない者が今年は紛れ込んでおりました。
私の発言
最近、教育の場でよく自主性が言われていて、修学旅行の行先も子供の意見を聞かれているそうです。 何事でも自主的に出来ると言うことは、その事に関しては、すでに人間として完成できている事ではないでしょうか。 我々社会人におきましても、簡単なことから難しい事までそれぞれに任しきるには、慎重な考慮を必要とされます。
その人が結果の責任を取れる範囲において、本人にまかす(自主性にまかす)様にしないと、事業などは維持出来ません。 もちろん自主性は大切な内容ですが、それを身に付けさせるのは、成人も含めて大変なことです。 また自主性を発揮する為の自身の判断力を醸成させる為に、人は、広く他の意見を取り入れる習慣を身に付けないと出来るものではありません。
生まれながらにして社会的に有効な自主的な判断力を持った子供などいるはずがありません。 正しい自主性などは、その内容に応じて(簡単な事例から複雑な内容のものまで)教導されねば育つはずはないし、年少のころより、そういった、指導をきっちりされる方が、子供はより早く、正しい自主性を身につけることになるのではないでしょうか。
子供達に正しい判断力が育っておれば自然に自主的にものを行うことが出来、結果として我々父兄が喜ぶことであります。 真に子供の成長を願うならば、自分のことでも責任の取れもしない子供の判断の自由にまかせて、成り行きを見ているような悠長なことは、日々成長を繰り返すべきこの時期に適切では無いはずです。
子供の判断の誤りはその都度きっちりと指摘してやる事の連続が教育であり、その必要がなくなった部分に比例して自主性が芽生えたと思うべきです。 しかるに、最初に自主性ありきの今の発言が子供の成長にどの様な意味で有効かを、具体的な根拠を示して説明していただきたいものです。 (またまた一同 シーン ・・・ )
これらは私の子育ての過程での出来事を中心に述べてきました。 その中によく出て来た、表題の「平等」と「自主性」について考えることにします。
広辞苑を引きますと「平等」とは「かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと」その用例としては「・・・に扱う」とか「男女・・」のように、あるものとあるものの関係において平等の概念を当てはめることが正しい使い方であり、また「平等に分ける」の場合のように、平等の概念が適用できる対象について可能な言葉であります。
しかるに、我々人間の能力・環境など、それ自体が平等になりえないものに、平等の概念を適用しようとする行為は、愚劣を通り越していて、このような概念を教師が持っているとすれば、直ちに矯正すべき内容であります。 我々人間は、与えられた環境・身体・能力に応じて精一杯生きてゆく事が大切なのです。
年少者の教育の場での神様になるような教育は、子供達が長じて社会生活に入って行く上に、大変な弊害をきたす以外のなにものでもありません。 頭の良い子はそれを生かし・身体の頑丈な子はそれを利用するもよし、成長と共に、自分に応じた生き方を身に付けさせること、自分の長所を認識させることが義務教育時点での重大な課題ではないでしょうか。
民主主義の世の中で、機会とか情報とか、社会的各種差別に対して平等を主張するのは結構ですが、人間自身が平等に生きられると思い込ませかねない教育は、この世ではやって欲しくないものです。
同様に「自主性」について、広辞苑では「他人の干渉を受けないで、自分で決定して事を行うさま」とあります。 子供でも、成人でも、自らを成長させるにおいて、一番大切な心がまえは、見習うことです。 その昔、我々老人の時代には、親は生活に追われていて、我が子の教育などは、ただ叱り付けることでした。 その中で子供達は、やってならない事、善い事を自然に習ってきました。 成人に達してからも、先輩達の仕事を盗むようにして覚えていったものでした。 年少のころから、少しずつ確実なものを身に付けて、それが自信になり、判断力の根拠となって、他の人からも信頼されるようになりました。
自主性などは、その過程で無意識のうちに醸成されてゆく、責任感を伴った自我に基づくものでなければなりません。 自我とは、これも広辞苑によりますと哲学的には「認識・感情・意志・行為の主体を外界や他人と区別して言う語」、また心理学的には「意識や行動の主体を示す概念」、精神分析の世界では「イド」(注)から発する衝動を、外界の現実や良心の統制に従わせるような働きをする」とあります。 自我の発育は心理学で言っておりますように、思春期に反抗期を伴って顕著になってくるものであり、個人の心的体験等によりそれぞれに差異があるものです。
発育途上の子供に対して、択一的に、他動的に、まず先に、自主性の概念を教え込む等の手法によって、正常な自我を醸成させることが出来ると思っているのでしょうか。 自主性と言う言葉を自我と置き換えて考えればそんなに単純に、教えて身につけさせられることではないはずです。 自我の未成熟のまま自主性の概念のみが発達した、能力も責任感もない多くの人間が社会に出た時、社会の秩序が崩壊するのは目に見えております。
教育の場で「自主性」を云々するのは、如何にして正当な自主性を身に付けさせることが出来るかを、教育者自身が己に問う問題であり、子供に自主性を安売りするものではありません。 まして、事例を与えて子供に実験させて悦に入っているのみの教育現場のあり方は、もってのほかの状況と考えます。 「自主性」にたいする考え方が逆立ちしている様です。
最近発表された教育基本法のなかにも「自主性を育てる教育」が方針として盛り込まれておりますが、その抽象的概念をかかげるだけで、教育現場の現状に対して余りにも無責任な対応といえます。 子供の内面を伴わない自主性の意識を発揚させる教育が、それだけが全てと申しませんが、やたらと親や教師に反抗し、物事に責任を取れない子供が氾濫している原因となっていると思います。
以上、申し上げました様に、多くの教育関係者様におかれましては、広辞苑等をひも解かれまして、まず自らの語学力の再教育をされた方が、よいのではないでしょうか。 従来の認識を変えられたほうが、自らの教員生活にゆとりも出来、崇高なる職業意識の満足にも効果のある事と、御提案申しあげます。
(注) id = 精神の奥底にある本能的エネルギーの源泉。快を求め不快を避ける快楽原則に支配される。 エス(es)ともいう。 精神分析の用語。
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/162.html#c1
こんな事を言ってるから多くの人には支持されないのだ。
自民党の地方創成も、
池田の、小さくてもキラッと光る新潟も、
何も変わらず、言葉遊びに過ぎない。
此れじゃね!
手っ取り早く、自民党の公共事業の方を選ぶよ。
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/174.html#c7
色々とレスがある様ですが、貴方の解釈が一番、的を得ていると思います。
>貴方の“理”と“情”に同意します。
という言葉の中に、理屈を超えた思いを感受されているようですね。
後の御方は知識を突き合わせておられるだけの様です。
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/162.html#c9
本当に精神的障害を背負った人も身の廻りに何人かいる。
また、一旦社会へでて、いじめられか、想いが違ったとかで閉塞感に陥り閉じこもっている人間とか、真面目に真剣で働かなくなっている人間は、それ以上に多い。
そのような人間の多くは、親と同居したり、仕送りで生活している。
こうした人間が廻りの支援が受けられなくなると自暴自棄に走り何をするか解らない。
このような種類の人間まで、発達障害という概念で括っていても、何の対策にもならず、今後は益々、このような事件が増えることになる。
しかしながら、実際はすでにこのようになってしまった人間を救う事は出来ない。
これ以上、増やさないように何をするべきか考えなければならない。
で、あるのに、小賢しく発達障害と言う言葉をつかい規定したがるコメンテータの姿勢について問題を感じる。
今回の事件ばかりではなく、容易に人殺しをしたり、レイプ、ストカー事件が多発している事も、同じ原因があることを認識するべきである。
武士道に言い及んだコメントを削除されているが、公務員の姿勢を検討するに及んで、江戸時代の武士道は、まさに的を得ている意見である。
江戸時代の公務員、つまり武士階級は武士道を念頭に職務についていた。
明治時代のそれは天皇の吏僚としてのそれであり、公僕の言うものからは外れているが、れっきとした公務員の姿勢を現していて、それなりに評価できる。
私が問題にしているのは現代の公務員には拠るべく理念がない。
公僕の意識に欠け、結局は公務員の為の公務員となっている事を指摘している。
また明治時代に、内村鑑三などが、キリスト教精神と武士道の融合を図った事は有名であり、結局は成就しなかったものの、試みとしては評価できる。
このような流れのコメントは、この投稿文にとって決して迷惑なものではない。
削除される謂れはないとおもうが、如何に!
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/158.html#c17
トランプも言っている様に実務者同士の文書の中で日本が「拉致問題」の解決を希望していると言う程度のもののはずである。
一応は要求なので北朝鮮は検討をしても、核問題でアメリカに譲歩する代わりに「拉致問題」にアメリカは関与するなと、言うくらいの要求がなされるであろう。
要するに「拉致問題」などは米朝の交渉の中で沈んでしまうのだ。
アメリカも、北朝鮮も「拉致問題」を取り上げられて却ってやりやすくなったであろう。
何処まで行っても、安倍は馬鹿だ!
米朝共に弄ばれているのである。
最も、表面的には、外交的には慇懃無礼に扱われるがね。
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/206.html#c2
要するに支持率対策の芝居なのだ。
我が国の対応として、何時までも「拉致問題」を正面に掲げていては動きが取れない。
他の方面も含めて総力戦で対抗する事である。
「拉致問題」が解決するとすれば、その中で出来るもの。
それが、現実は「拉致問題」が解決できなければ何もしない、出来ないと言う戦略であり、これが問題である。
しかしながら、無能極まりない自民党政権では出来る事でもない。
勿論、野党の軟弱者ではさらに無理な事であろう。
あんたは理屈の世界に入り込んで実態は何も解っちゃいないぜ。
社会生活不適格症と呼んでも発達障害と呼んでも事態は変わらない。
実社会に適合できず、中途半端な人生を送っている人間が、学生から中年にかけても随分と増えているのだ。
こうした人たちの症状を判読しても何になるのだ。
あんたは、しきりと自分の規定に合う、合わないに拘っている。
私が、このスレッドで非難している無責任なコメンテータと同じだよ。
>少々荒っぽく書いてしまったが、問題は複雑だと言いたい・・。
勝手に言っていればよい。
まだこのスレッドを去っていないなら言って置くが、
あんたのコメントは削除には値しないと言ってはいるが、その内容は独りよがりの屁理屈にすぎないよ。
もう少し、広い視野で考えられることだ。
アメリカ資本主義のトランプと、独裁者、金正恩の虚飾に満ちた会談を、同じく中国、ロシアなどの狡猾者が評価する事はあっても、国民レベルで評価することはないでしょう。
それに過去の不幸な歴史などに拘っても何の利益も解決もないことなど国民は知っているはず。
そんなものを持ち出すのは、単なる貴方のこだわりであり、知ったかぶりの意見の開陳に過ぎないのでは。