117. 2018年8月22日 03:06:29 : Uns085XcO6 : u@1BexT4l_A[1]
【日米交渉の発足】
日米国交調整は、1940(昭和15)年11月末以来近衛首相によって密かに裏面工作が行われていた。
12月5日 ウォルシュ司教、ドラウト神父が、松岡外相を訪問。
※ これは当時の民間外交であったと考えられる。西の「欧州戦争」・東の「支那事変」の流れに日米双方がどう認識し対処するのか、アメリカから見て、日本の「軍事同盟交渉に関する方針案」(1940.9.6日)で「第東亜新秩序建設の為の生存圏」の範囲を規定し、太平洋地域への進出を事実上決定していた動きにどう対処するのか、その為に的確な情報を得ようとしており、仮に米国が対独参戦をした場合に、太平洋地域がどうなるのかという日米双方の思惑が交差していた。
この当時の「日米了解案」の内容は、ハル・ノートと基本的には同じもので、日本軍の中国からの撤退も入っていたようである。但し、一定の条件の元で「満州国の承認」、汪兆銘政権と中華民国政府の合流などが盛り込まれていた。しかし、日本は交渉の一方でベトナム進駐を進め、独ソ戦が始まるや、ソ連に対して開戦すべく約80万の兵力を満州に動員していた。 対ソ戦は中止となったが、ベトナム進駐が交渉の重要項目になってきていた。ベトナム進駐へ向かえば、目と鼻の先のフィリピン、マレー半島、インドネシアに向かうことが趨勢でもあった。
12月28日 ウォルシュ、ドラウト帰米。
以降、1941(昭和16)年になると本格的な政府間交渉へ入っていった。
2月11日 野村吉三郎駐米大使ワシントンに着任、日米交渉が本格化。
【第一回目の野村・ハル会談 】
3月8日ハル国務長官と野村吉三郎駐米大使との間で、非公式会談が開始された。これは爾後開戦に至るまで数十回にわたって行われた会談の最初のものであった。