6. 2018年2月15日 20:52:11 : C9xstQaNyY : TTyNKuxBohg[1]
と、いうことは?
今、現代の「一般道徳」と言うものを「単なるおしつけがましい教養」とみて(誰もが)「疎ましく思っている」と言うことの証拠だろう?いわずもがな、わたしもそう感じている人間の一人だ。
道徳は押し付けられて守るものではない。心を外から縛る決まり事を幾ら守ったとしても人は育たない。逆にその弊害で、積極的に法の精神を遵守しようなど言う気概は人々の中から薄れ、法ギリギリもしくは法の精神を踏みにじる、如何に法スレスレの犯罪を犯せるかにチャンスを見出す下手物ばかりが横行する。
まずは、自分の考えを尊重できる人間になること。何を学ぶにもまず「自分みずからを信用できる人間」と思えるような人間が育てる感環境を整えることが先決だ。衣服足りて礼節を知るというではないか。
つまりこのことは、本来的に「心の学問」というものは善人でありつづけるために学ぶべき教養であったはずのもののはずだが、残念ながら現在のそれはそう看做すことは出来ないものになってしまった、謂わば、本来そうであるはずものがいまでは違った意味へと変化してしまった、ということを皆、誰もがいちいち口にはしないが理解はしていると云う事である。
ではそれを知っていて、それならばなぜ、人は本来的な心のあり方、望ましい人々の姿をもとめようとしないのか? 心のあり方を取り戻そうとしないのか?
いまある全ては他人任せ、行政まかせで事が進むからだ。何かを変える力、考える力を奪われているのである。
そしてそれはいまそれでよい、「その方が都合が良い」と云う事になってしまっているのだ。誰もが。
皆が求める心とは何か、どの学問がそのヒントをくれるのか?
そうしたものをここに居るものには追い求め探してもらいたい。歳が幾つになってもだ。
わたしは学問が嫌いだった、だが、孟子、老子、儒教は楽しく、全般よくこのんで考えては眺め、眺めては考えるのが好きだった。
そうして書物にてであった歴史上の人物。
元官職(官僚)で政治の不義を嫌って米騒動を起こした大塩平八郎、
貧しい中でも幼くしてひとり儒教を学びにいくつも山を越えた場所の寺子屋に通い詰めた熊沢蕃山、
いまだにわからずやの大衆にテロリスト養成の汚名を着せられている吉田松陰あたりの生涯の足跡を辿ってみてもらいたい。
わたしならば、学校教育の現場の中でも本来、道徳と呼ぶに相応しい授業は出来ると考える。教材さえ良ければうまくいくはずだ。そこで間違った愛国心など強要すれば、そこで問題は表面かする。いずれにしてもすぐメッキは剥がされるというものだ。
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