18. 2017年2月01日 03:21:15 : zCdz5R9rSo : R4ZN1bNY03U[1]
蒋介石は、「南京空襲で民家を誤爆された」「毒ガスを使用された」(実は催涙ガスだった)といった類の日本の行為を、細かくあげつらって国連に報告していたのに、肝心の「南京大虐殺」を提訴した記録はない。
当時の南京は国際都市だったから、各国のジャーナリストたちが大勢いた。それなのに、当時日本に対して反日的な国々からも、正式な抗議は無かった。
南京大虐殺について毛沢東は、長い人生の中で一度も言及しなかった。当時もその後も。
「南京虐殺」を証明し得る公式記録、即ち歴史学でいう一等・二等・三等史料がひとつもない。(「南京大虐殺徹底検証」東中野修道) 証拠として提示されているものは、全て…
◇「四等史料」
(史料作成者が明らかでない)と
◇「五等史料」
(いかなる基準で作成されたのかわからない)
…であり、それらを歴史記述の根拠とすることは事実無根のプロパガンダ(宣伝)である。歴史における正当性を評価するのは、「史料批判」である。つまり歴史資料の信憑性を徹底的に審理しなければならない。
中国兵は、安全区域内で撹乱工作員となって強姦や略奪を繰り返し、それを日本兵の仕業に見せかけていた…という記事が当時の「ニューヨーク・タイムズ」や「チャイナプレス」に載っている。
「大虐殺」で一番困るのは、死体の異臭と伝染病である。モンゴル軍も都市を丸ごと滅ぼした後は、そこを退去せざるをえなかった。
南京に入城した時、総司令官・松井大将は外国人記者を集めて記者会見に応じたが、大虐殺など話題にもならなかった。
南京は世田谷区くらいの広さしかなく、そこで30万人もを殺したら死臭で住めないし、道も歩けない。しかし、人口は増加した。どういうことか?
南京で戦闘能力のない中国人に何万発も銃弾を浴びせるなど、とうてい考えられない。当時日本は貧乏だったから弾だって貴重だった。石油をかけて焼いたというのも同じ。石油はものすごい貴重品で「石油の一滴は血の一滴」と言われていた。
市民が日本軍に撃たれていたのであれば、ラーベ(国際委員会の委員長)は日本大使館に抗議したはずである。ところがラーベたちは最後まで抗議せず、それどころか国際委員会の1号文書は、日本軍が安全地帯を攻撃しなかったことに感謝の意すら表明していた。
第二次大戦を描いた出色の作品「裸者と死者」の著者ノーマン・メイラーは、ベストセラーになっている理由を書いている。「アメリカ人にはヒロシマに関して深い罪の意識がある。だから日本人が1937年に南京で中国人にひどいことをしたと耳にすると、ほっと安堵するのだ。それにしてもこれまで南京虐殺なんて聞いたこともなかった。少なくともこの50年間は。それがいま突然に話題になった」
大阪朝日新聞上海支局員・山本治氏は、南京での虐殺について「全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことをいったことがありません。朝日新聞では話題になったこともありません」と証言している。
この証言は特派員に限らない。従軍画家・外交官・軍人・カメラマン等の視点から、実際の南京の様相を目の当たりにした回想は、どれもこれもこのようであった。処刑もあり死体もあったが、虐殺に相当することは見たことも聞いたこともないという点で、ほぼ全ての証言が一致している。「戦争ですから、殺す殺されるのは当然です」「戦場を知らない人が、それを虐殺と言っているだけです」。
南京陥落と同時に300名もの日本の報道関係者が、南京城内に入って取材活動に従事したが、彼らの中に「大虐殺」の現場や虐殺死体を目撃した者が全くいない。それどころか、噂さえ聞いたことがないと口々に証言している。
林芙美子・大宅壮一・石川達三といった優れた文化人が、南京陥落直後に従軍報道班員として現地を見ているけど、虐殺があったなんて一行も記していない。死体は見たけれど、大虐殺の跡などは無かったと述懐している。(石川は率直な物言いをする人、大宅は体制に属するような人ではない)
中国国民党は、南京陥落前後から約300回もの記者会見を行っているが、その中で1度も「南京虐殺」があったとは言っていない。