58. 2017年1月04日 00:31:45 : sR7UEsU1V2 : Q865c6bWFZc[1]
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米国の外交官マクマリーは、1935年の時点で「我々は、日本が満州で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。しかし、日本をそのような行動に駆り立てた動機をよく理解するならば、その大部分が、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が『自ら求めた』災いだと、我々は解釈しなければならない」
としている。
今村均が『回顧録』に次のように記している
「私自身も、関東軍幕僚は、よく中央と協調し、機の熟するまで隠忍すべきであったと思わないわけではない。けれども現地満州に駐屯していた将校の身になってみれば、毎日毎日、幾千居留民が『また満人にぶたれた』『つばをはきかけられた』『内の子供が学校へ行く途中、石をぶちつけれられた』『家のガラスはめちゃめちゃに壊されてしまった』『排日排貨運動で、店の品物は一つも売れない』『満人はもう野菜を売ってくれなくなった』『満鉄は満州側の妨害、彼のつくった並行線のため、もう毎年毎年赤字つづきで持ちきれなくなってしまっている』と連続泣きつかれ、それらの事実を、目の前にしていては、血のつながっている同胞の苦境に、こごとく同情し、憤慨に血をわきたたせるようになったのは自然である。わが外交機関の行う幾十の抗議なり、交渉なりは、ひとつとして彼に顧みられず、軍の幕僚以下、鉄道沿線に駐屯している部隊将兵の興奮がもう押えきれないようになってしまったのはやむを得なかった」
満州にいた日本人が結束し、自衛のために立ち上がらなくてはならないと考えたのも当然である。しかし当時の日本政府、特に幣原外相は動かない。そこで関東軍が動いた。
満州事変は既得権を守る自衛の戦いであった。