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「不通政治」朴氏の孤立 原点は母の死、チェ一族接近 辞意表明
2016年11月30日05時00分 朝日新聞
韓国の朴槿恵(パククネ)大統領は、高度経済成長を成し遂げつつも側近に暗殺された朴正熙(パクチョンヒ)元大統領の娘だ。「悲劇の主人公」「韓国と結婚した女性」などと呼ばれてきた。任期途中で辞意表明する事態に至った背景には、特異な体験や環境が大きく影響している。▼1面参照
今回、朴氏が最も批判を浴びたのは、「不通(意思疎通の不在)」といわれる特殊な政治手法だった。
朴氏は外部の人間とほとんど面会せず、政策遂行に必要な側近たちとの対面すら避けた。ある国家情報院長経験者は在職中、一度も単独で面会できなかった。政権のナンバー2とされる秘書室長の経験者も、単独で面会したのはわずか2回だった。大統領府で働く人々は、主に書類と携帯電話で朴氏に報告した。
代わりにそばに置いたのが、長年の支援者チェ・スンシル被告だった。
なぜ、「不通政治」に陥ったのか。元閣僚の一人は「原点は1974年8月だった」と語る。母親の陸英修(ユクヨンス)氏が、朴元大統領を狙った凶弾に倒れた。22歳だった朴氏は深く悲しみ、父のためにファーストレディーを務めた。
そこに接近したのが、チェ被告の父親で新興宗教「永世教」の開祖、崔太敏(チェテミン)氏だった。崔氏は亡くなった後の母親の「言葉」を朴氏に伝え、取り入った。
79年10月、朴元大統領が、側近である韓国中央情報部(KCIA)の金載圭(キムジェギュ)部長に暗殺された。その後、朴氏は98年の補欠選挙で国会議員になるまで、ソウル市内で一般社会から隔離された生活を送った。
両親と関係がある財団の仕事をする程度。父に仕えていた側近が次々と去るなか、朴氏を支えたのが、94年に死亡した崔氏と、チェ被告夫婦だった。
朴氏は2004年3月、与党セヌリ党の前身であるハンナラ党の代表に就き、金権政治の批判を浴びて衰えていた党勢の立て直しを図った。ハンナラ党は同年4月の総選挙で善戦し、朴氏は「選挙の女王」と呼ばれた。
07年大統領選の党内公認争いでは李明博(イミョンバク)氏に僅差(きんさ)で敗れたが、12年選挙では党公認を得て勝利。第18代韓国大統領に選ばれた。
権力の座にたどり着いても、朴氏はチェ被告との関係を絶てなかった。
当時は朴氏を支援し、その後、たもとを分かった野党「国民の党」の李相敦議員は、「チェ被告は朴氏の衣装の世話をしていた。相談役は、朴氏の秘書だったチェ被告の夫だと思っていた」と語る。
■批判嫌悪、周囲の助言聞かず
周囲の者が、チェ一族との関係を絶つよう朴氏を説得する大きな機会は3度あった。
1度目は母親が亡くなって間もなくだった。朴氏とチェ一族の関係を危ぶんだ金載圭KCIA部長が朴元大統領に報告。朴元大統領、金部長、朴氏で話し合った。2度目は大統領選公認争いの最中だった07年7月で、専門家がチェ一族と朴氏の関係を指摘した。
3度目は12年末だった。大統領選で当選した直後で、朴正熙政権時代の閣僚や将軍ら元老7人が関係を絶つよう求めたという。
だが、朴氏はそのたびに強く抵抗した。3度目の時は元老たちに「そんなことを言うために私を支持してきたのですか」と怒り、その後は二度と会おうとしなかったという。
元閣僚によれば、朴氏の人物評価のやり方は、わずかな機会に知り合った人との「会話と外見」で判断することだった。安倍晋三首相に対しても当初は会談を避け続けたが、昨年11月に初めて日韓首脳会談が実現。すると、安倍氏への見方を肯定的な評価に変えたという。
他人への不信感からか、朴氏は批判されることも極度に嫌った。そのような性格から、セヌリ党の金武星(キムムソン)・前代表、劉承ミン(ユスンミン)・元院内代表ら側近が次々と離れた。極め付きは、今年4月の総選挙の党公認選びだった。「非朴派」とされる候補者を次々公認せず、助言が聞き入れられなかった政府高官も去った。
最終的に朴氏が辞意を固める直接のきっかけは、頼みとした「親朴派」たちからの「任期短縮」の申し入れだった。
(ソウル=牧野愛博)
http://www.asahi.com/articles/DA3S12682511.html
http://www.asyura2.com/16/senkyo216/msg/735.html#c2