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PeeaE92BHM8 コメント履歴 No: 100000
http://www.asyura2.com/acas/p/pe/pee/PeeaE92BHM8/100000.html
[政治・選挙・NHK224] ヒトラー「我が闘争」の教材使用可能と閣議決定の重大ニュース、時事通信以外は伝えず!  赤かぶ
5. 2017年4月17日 17:52:47 : xlJj47Yylo : PeeaE92BHM8[1]
>「我が闘争」の中でヒトラーが日本人に付いて述べた部分って自民党始め保守派は触れないんだよね。日本人は小賢しいから奴隷頭として適当に使うのが良いとの主旨だけど

欧米列強の植民地政策を知らないのか。

当時の欧米人はアジア人など人間だとは思っていない。

少しは歴史を勉強したらどうだ。

ヒトラーが日本に偏見を持っていたとしても何の不思議もない。

満州重工業の総裁であった鮎川義介氏が、

ドイツを訪れてヒトラーに面会した時のことである。

ヒトラーは鮎川氏に対し、次のような意味のことを語ったという。

「貴方の国が如何に努めてみても、

我がドイツのような工作機械は作れないだろう。

しかし、ドイツがどうしても日本にまね出来ないものがある。

それは貴方の国の万世一系の皇統である。

これはドイツが100年試みても、

500年間頑張っても出来ない。大切にせねば駄目ですよ……」

君民一体の理想的な国家形態を伝統的に継承している日本に対して、

率直に敬意の気持ちを表わしたものである。

1941年12月8日に日本が真珠湾を攻撃し、

太平洋戦争が始まると、

ヒトラーはその直後の12月11日の演説で「我々は戦争に負けるはずがない。

我々には3000年間一度も負けたことのない味方が出来たのだ!」

と日本を賞賛し、アメリカに宣戦を布告した。

ヒトラーは遺言で日本について次のように語っている。

「我々にとって日本は、いかなる時でも友人であり、そして盟邦でいてくれるであろう。この戦争の中で我々は、日本を高く評価するとともに、いよいよますます尊敬することを学んだ。この共同の戦いを通して、日本と我々との関係は更に密接な、そして堅固なものとなるであろう。日本がただちに、我々とともに対ソビエト戦に介入してくれなかったのは、確かに残念なことである。それが実現していたならば、スターリンの軍隊は、今この瞬間にブレスラウを包囲してはいなかったであろうし、ソビエト軍はブダペストには来ていなかったであろう。我々両国は共同して、1941年の冬がくる前にボルシェビズムを殲滅していたであろうから、ルーズベルトとしては、これらの敵国(ドイツと日本)と事を構えないように気をつけることは容易ではなかったであろう。

他面において人々は、既に1940年に、すなわちフランスが敗北した直後に、日本がシンガポールを占領しなかったことを残念に思うだろう。合衆国は、大統領選挙の真っ最中だったために、事を起こすことは不可能であった。その当時にも、この戦争の転機は存在していたのである。さもあらばあれ、我々と日本との運命共同体は存続するであろう。我々は一緒に勝つか、それとも、ともどもに亡ぶかである。運命がまず我々(ドイツ)を殲滅してしまうとすれば、ロシア人が“アジア人の連帯”という神話を日本に対して今後も長く堅持するであろうとは、私にはまず考えられない。」(1945年2月18日)


http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/281.html#c5

[政治・選挙・NHK224] 安倍晋三首相は、ユダヤ人を大量虐殺したヒトラーの著書「我が闘争」の「教材使用」を認め、全世界のユダヤ人を敵に回す 笑坊
5. 2017年4月17日 19:01:42 : xlJj47Yylo : PeeaE92BHM8[2]
本物のアンネの日記は複数出版されているが、

その原本に書かれた文章の筆跡は全て同じだ。

1981年、オランダ国立戦時資料館は、アンネ・フランク自筆の日記を、

真贋鑑定のため、法務省所属のオランダ国立法科学研究所に提出したことがる。

その国立法科学研究所は使用されている物質(インク、紙、糊など)と

筆跡を調査して270ページの報告書を発行した。

こうして、

「アンネの日記は1942年から1944年の間に書かれた」ということは

異論の余地無く論証され、誰かが意図的に追加したという説は消えたわけだ。

ところが、

アンネの日記の4巻はボールペンが使用されている。

しかし、ボールペンは1951年以後に使われるようになったものだ。

1945年に死んだ人間がボールペンで本を書けるわけがない

ボールペンを使って書かれたアンネの日記第4巻と、

それ以前の1,2,3巻が同じ筆跡ということは・・・・

日記の作者はアンネじゃない?

では誰が書いたか?というと。

アンネの日記の真の作者、それはユダヤ系アメリカ人作家メイヤー・レビンだ。

メイヤー・レビン自身がアンネ・フランクの父オットー・フランクから、

この日記作成に対する謝礼金として5万ドルを受取ったと認めているからだ。

オットー・フランクはこのレビンに5万ドルを払い、

その後レビンの作品をまるで自分の娘の作品にしてしまった。

その結果、

アンネの日記はピレッツァー賞を受賞し、父オットーは莫大な財産を築いた。

実はアンネの日記への創作疑惑は日記の発売当初からあった。

オットー・フランクはこの日記のおかげで財産を築いたが、

当然この本が創作なのかどうかは世論を騒がすことになった。

さらに困ったことに、

1947年に発売されたアンネの日記が大ヒットするにつれて、

ミュージカルや映画などの版権を誰が有するべきか?という問題が浮上した。

普通に考えれば、

著者のアンネが権利を持つべきだが、彼女はすでに亡くなっている。

で、その父オットーが持つのが妥当ということになるわけだが、

この日記が大ヒットしたのはメイヤーによる部分が大きい。

それで両者は対立。

醜い争いは裁判に発展し、

メイヤーは自分が権利を持つことを主張するために

自作であることを暴露してしまった。

というわけで、その判決でメイヤーが書いたことがはっきりしたのだ。



http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/295.html#c5

[政治・選挙・NHK224] 外国で報道されてるよ 〜 ヒトラーの『我が闘争』が日本の学校に教材として復活!  赤かぶ
16. 2017年4月17日 19:27:48 : xlJj47Yylo : PeeaE92BHM8[3]
ソ連は、第二次世界大戦終了後の10年間、

アウシュヴィッツへの立ち入りを全面的に禁止していた。

民族絶滅は人類史上最大の悪行と言ってもいいだろう。

だが、それほど重大なことなのに、ソ連は検証を許さなかったのだ。

10年後、ソ連がアウシュビッツを公開すると、

戦時中の連合軍が撮った写真にはなかった煙突などの施設が追加されている。

戦時中にソ連が撮った写真には存在しなかった施設が追加されているのに、

「我々は手を加えていません」と、平気で言い張るのだ。

アメリカ軍とともにドイツのダッハウなど約20箇所の収容所に入り、

発見した死者約百体の解剖検査をした「唯一の法医学者」、

チャールス・ラーソン博士は、「毒ガスによる死亡例は一つも見つからなかった」

と報告している。

このチャールス・ラーソン博士は戦後、

米国法医学アカデミーの設立者の一人にもなっている人物だ。

だが、これは極端な例でもなんでもない。

例えば、ガス室肯定派の重鎮であるユダヤ人歴史学者のラウル・ヒルバーグだが、

彼は、1985年1月17日、トロントの法廷で、

「ガス室で殺された死体の解剖記録を知っていますか?」と言う質問に対して、

Noと答えている。

つまり、「ガス室はあった」と言う側の歴史家の親分自身が、実は、

その「ガス室」で殺された死体の解剖記録など見た事が無いと言っていたのだ。

しかも、これは、法廷証言だから、偽証でない限り、 ヒルバーグ教授は、

ガス室で殺された死体の存在を証明する医学記録が見つからないまま、

「ガス室で大量殺人」なんていう話を書きまくっていた事になるわけだな。

このことは、カナダの新聞「TheSault Star」に報道されたため、

もはや言い逃れは不可能だ。


http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/289.html#c16

[政治・選挙・NHK224] 外国で報道されてるよ 〜 ヒトラーの『我が闘争』が日本の学校に教材として復活!  赤かぶ
17. 2017年4月17日 19:33:42 : xlJj47Yylo : PeeaE92BHM8[4]
ナチスによるガス室での大量虐殺というのは捏造だったわけだ。

連合軍が、根拠とする当事者たちの証言はほとんど当てにならない。

なぜならば、連合軍はドイツ人被疑者に拷問を加えて「自白」を得ていた。

これは米国の議会記録に、

アメリカがドイツ人被疑者に拷問を加えて「自白」を得ていた事が、

はっきり記録されている。

これは、日本でも、東京の国会図書館で入手可能だ。

http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/289.html#c17

[政治・選挙・NHK224] 外国で報道されてるよ 〜 ヒトラーの『我が闘争』が日本の学校に教材として復活!  赤かぶ
18. 2017年4月17日 19:45:22 : xlJj47Yylo : PeeaE92BHM8[5]
アウシュビッツの毒ガス室とされている部屋だが、

この部屋は現在もポーランド政府が平気で観光名所にしているが、

実は毒ガスを入れる穴もなければ、換気する穴もない。

ただ「ここはガス室でした」と言っているだけで、

誰がそう証明したのかは全く表示されてない。

なぜか?

それは、ガス室は技術的に不可能だと多数の専門家も証言しているからだ。

例えば、1985年 カナダのトロント地方裁判所では米国の専門家、

ボストンの技術者フレッド・A・ロイヒターが「不可能」だ

という調査結果をまとめた「ロイヒタ―・レポート」を提出している。

ロイヒターは、

米国ミズーリ州立刑務所のガス室設計を行ったガス室の第一人者で、米国人だ。

アウシュビッツをはじめとした全ての収容所には、

千人単位の死体を焼く焼却炉もなければ、灰を捨てる場所もない。

そもそも灰になるまで焼く燃料もない。

もし燃料が豊富ならば、

ドイツ軍が燃料不足で使える戦車を捨てまくった事実と矛盾が生じる。

ガス室が無ければ、ガス室の設計図も存在しない。

ガス室どころか絶滅計画の予算すら配備されてなかったことがわかっている。

なぜガス室とされている部屋、

つまり、今日ポーランド当局が「ガス室」として公開している

アウシュビッツの部屋には設備がまったくないのか?

この答えは簡単。

この部屋はガス室ではなく、死体安置室として作られたからだ。

そして、死体安置室の設計図は存在する。

ナチスは病死した囚人を死体安置室に置いていた。

だから死体から毒が検出されなかった。

死体安置室として設計されたことは設計図からも明らかだが、

これが死体安置室として使われていたことの根拠はまだある。

「チクロンB」から発生する青酸ガスは、

コンクリートの天井、壁、床などに浸透して残留し、

コンクリートの成分や鉄筋と結合してシアン化合物を形成する。

もしアウシュビッツのガス室と呼ばれている部屋で、

「チクロンB」によって人間が殺されたならば、

この部屋からシアン化合物が発見されるはずだ。

ロイヒタ―の調査は1988年に実施されたのだから、発見されるのが当然だな。

しかし、ツンデル裁判で提出された『ロイヒター・レポート』によれば、

アウシュビッツのガス室からはシアン化合物がほとんど発見されなかった。


http://www.asyura2.com/17/senkyo224/msg/289.html#c18

   

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