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p9PnnbSZQUg コメント履歴 No: 100000
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[政治・選挙・NHK219] 政界地獄耳 共産党大会にサプライズ小沢(日刊スポーツ) 赤かぶ
64. 2017年1月17日 16:30:21 : 8FvsKNrfJw : p9PnnbSZQUg[1]
>共産主義や日本共産党について論じるのなら、せめてはマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」と日本共産党の綱領ぐらいは読んでからやってほしいね。

そんなもの読んでたら、あんたのようになる。

読むなら資本論を読め。

マルクスの経済論が、如何に空想(こじつけ)か解る。

その資本論の中の、新しい経済論(マルクス経済論)が本質であり、そのたは装飾品に過ぎないのだ。

多くの人は、その装飾品に惑わされているのである
http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/233.html#c64

[政治・選挙・NHK219] 政界地獄耳 共産党大会にサプライズ小沢(日刊スポーツ) 赤かぶ
65. 2017年1月17日 16:41:04 : 8FvsKNrfJw : p9PnnbSZQUg[2]
(エンゲルス「空想から科学へ」から一部引用)

しかし、株式会社やトラストへの転化も国有への転化も、まだ生産力の資本としての性質を廃棄するものではない。株式会社やトラストではこのことは明白である。
そして、近代国家もまた、資本主義的生産様式の一般的な外的諸条件を、労働者や個々の資本家の侵害からまもるために、ブルジョア社会が自分のためにつくりだした組織でしかない。
近代国家は、その形態がどうであろうと、本質的に資本主義的な機関であり、資本家の国家であり、観念的な総資本家である
近代国家が生産力を自分の所有に移せば移すほど、それはますます現実の総資本家になるのであり、ますます国民を搾取するのである。
労働者はあいかわらず賃金労働者であり、プロレタリアである。資本関係は廃棄されないで、むしろ極端にまでおしすすめられる。
しかし、その極端に達すると、資本関係はひっくりかえる。生産力の国有は、衝突の解決ではないが、しかしそれはそれ自身のなかに解決の形式上の手段、その手がかりを宿している。

(引用終わり)

この文章自体が空想ではないか。
マルクス、エンゲルスの言う共産主義は資本主義(現代では新自由主義)の後に表れると思うか。

グローバル化で疲弊した現状を思うとき、それが出現するか否か、もう我々自身で予想できるであろう。

資本主義経済のシステムを改修しなければならないことは解るが、少なくとも、それが資本論のような世界では決してないのである。

そこのところをゴチャマゼニするべきではない。
http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/233.html#c65

[政治・選挙・NHK219] 政界地獄耳 共産党大会にサプライズ小沢(日刊スポーツ) 赤かぶ
68. 2017年1月17日 17:34:52 : 8FvsKNrfJw : p9PnnbSZQUg[3]
先のコメントで、共産主義(マルクス主義)を理解するなら資本論を読むべきだと言いました。

その資本論でも、大方は資本主義経済論の分析であり、この分析の領域は卓越したものであり、真正面から資本主義の展開、欠陥を指摘したものとしては唯一と言ってよいものでしょう。
共産主義を支持する多くの人は、この分野のマルクスの分析に心酔しています。
しかしながら、それはあくまでも批評であり、対案ではありません。

資本論の中の本当のマルクス経済論は、余剰価値論であります。
余剰価値と言ってもそれはマルクスの独創ではなく、言葉は異なるが、資本主義の理論でもあります。

マルクスは富の分配と言う側面から、企業を公有(国有化)することによって公平性、平等性を作り出すと言っています。
しかしながら、具体的に剰余価値を決定するとなると、とても多くの問題が出てきますが、それには触れてはいません。

また現代の商品の多様さ、流通の多様さは、簡単には一律の基準でそれを求めることは不可能でしょう。
商品の生産力も飛躍的に伸び、需要と供給の関係も単純ではありません。

さらには、資本主義社会でも剰余価値をして国家が吸収する部分を法人税として取り上げ国家財政に使っています。個人の所得税も、そのようなものです。
累進課税を徹底すれば、マルクスが言うように企業の公有化をしなくても集められるのです。

マルクスが言う剰余価値論と現代の資本主義経済の有り様は基本的には変わらないのです。
ただし、手法が私企業に任せるか公有企業にするかの、大きな違いがあります。
市場主義経済の欠点もありますが、企業のすべてを公有化することへの欠点には触れていません。

このことこそ、実際に共産主義の体制をとった多くの国の破たんを招きました。
経済論以前の人間論、哲学論において欠陥があったのです。
唯物論的思考が華やかですが、肝炎論、唯物論は、どちらが正しいか、否かの設定はできません。
唯物論思考のマルクスがなしたマルクス主義経済学、要するに剰余価値論が正しいとはならないのです。

資本論の内容は、その程度であるのに、マルクスが言ったことのうち資本主義の批評の部分が必要以上に評価され、これが各種の政治勢力と結びつき権力抗争となっています。
まあ、その気持ちは解るが、資本主義のシステムへの改革として、マルクス主義は参考にはしても、それで解決できるものではないことは自覚しなければなりません。

マルクス主義、現在の共産主義を簡単に言えばこのようなものなのですが、ここでも言われているように、マルクス主義の亡霊のようなものに取りつかれている人が多くいます。

現在の日本共産党などは、亡霊に基づく政党であり、政権を取れば我々をどこへ導くか解ったものではありません。
みなさんの共産党観もそんなものでしょう。


http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/233.html#c68

[政治・選挙・NHK219] 政界地獄耳 共産党大会にサプライズ小沢(日刊スポーツ) 赤かぶ
70. 2017年1月17日 17:43:39 : 8FvsKNrfJw : p9PnnbSZQUg[4]
階級とか、搾取とか言う言葉を使って論じるのは江戸時代の武士道で現代社会を論じているようなもの。

もう、そんなかび臭い意見は御免こうむる。


http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/233.html#c70

[政治・選挙・NHK219] 政界地獄耳 共産党大会にサプライズ小沢(日刊スポーツ) 赤かぶ
72. 天橋立の愚痴人間[177] k1aLtJengsyL8JJzkGyK1A 2017年1月17日 18:03:51 : 8FvsKNrfJw : p9PnnbSZQUg[5]
マルクス主義者と言う場合、

マルクス経済論(剰余価値説)の実現を指標とした人間の事であるべきであるが、ほとんどの場合、マルクスが言った資本主義批判に同調する人間の事を言う様である。

要するに中身は空っぽなのである。

マルクスが資本主義批判を言ったように、マルクス経済学(剰余価値説)批判も山ほどできることを自覚されるべきである。



http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/233.html#c72

[政治・選挙・NHK219] 政界地獄耳 共産党大会にサプライズ小沢(日刊スポーツ) 赤かぶ
73. 天橋立の愚痴人間[178] k1aLtJengsyL8JJzkGyK1A 2017年1月17日 18:16:09 : 8FvsKNrfJw : p9PnnbSZQUg[6]
71氏

ならば聞こう。

レーニン・スターリンがやった共産主義に対して、純粋なマルクス経済論を基盤にした国家像(経済論)を展開されてみよ。

現代労働者は、何を基準に給料を支給されるのだ。
単なる時間給で計算するのか。

国会議員も時間給で計算するのか。
仮に時間給であっても
労働者間の差異は作るのか、
作るるとすれば、その基準はどうするか。

発明、発見に対する評価はどうするか。
具体的には何もできないであろう。

強引にやることは、国家の独裁ではないか。
そういう手法がとられる社会の有り様を、公平、平等として受け入れられるのか。

少なくとも、一般労働者への剰余価値配分の基準でも示されよ。

小沢と同じようにマルクスは総論だけを言っているのだ。
実際には実現不可能なことを示しているだけ。

>階級とか、搾取とか言う言葉を使って論じられている書物こそ資本論だ

資本論を読んで、このことが解らないとは、あんたは資本論など読んでいないであろう。

恰好付けをするならまだしも、
それを超えて人を中傷するではない。

http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/233.html#c73

[政治・選挙・NHK219] 政界地獄耳 共産党大会にサプライズ小沢(日刊スポーツ) 赤かぶ
74. 天橋立の愚痴人間[179] k1aLtJengsyL8JJzkGyK1A 2017年1月17日 18:28:27 : 8FvsKNrfJw : p9PnnbSZQUg[7]
マルクス主義を標榜する人は数々いるが、剰余価値説の内容を具体的に説いてマスクス主義を主張する人はほとんどいない。

具体的と言うのは、総論として言うのではない。
実際の我々の経済活動(労働者の給料の有り様)を数字で解明することである。

日本の労働者の平均年収は450万と言う。
GDPから換算して、マルクスならば、どのような結果がでるのだ。
ワーキングプアーと言われている人の年収は、もともと、どれくらいを保証できるのか。

そういうことを示すことができて、初めてマルクス経済学を取り入れられるのではないか。

マルクスを称賛する人はいても、このような具体的事例を示している人間はいない。
マルクスが本当に有益ならば、その一旦くらい言えよう。
http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/233.html#c74

[政治・選挙・NHK219] 政界地獄耳 共産党大会にサプライズ小沢(日刊スポーツ) 赤かぶ
76. 天橋立の愚痴人間[180] k1aLtJengsyL8JJzkGyK1A 2017年1月17日 19:08:27 : 8FvsKNrfJw : p9PnnbSZQUg[8]
面倒くさいので、資本論の原文の極一部を紹介する。
マルクスが言う労働価値、剰余価値の概念を説明する内容であり、下記のような文章が連綿と続く。


商品の要素は二つ。使用価値と
価値(価値の実体と価値の大きさ)である。

 (1)資本主義的生産を行う社会では、その富は、商品の巨大な蓄積のようなものとして現われる。その最小単位は一商品ということになる。従って、我々の資本主義的生産様式の考察は、一商品の分析を以て始めねばならぬ。

 (2)一商品は、とにもかくにも我々の面前に存在して、その特質をもって、人間の様々な欲求を満足させて呉れる。 その欲求が、例え胃からであろうと、幻想からであろうとかまわない。
 ただこの商品要素の考察という段階においては、一商品が、直接的に生存のための欲求にであれ、間接的に生産に用いるための欲求にであれ、どのようにこれらの欲求を満足させるかについては、特に知る必要はない。  

 (3)鉄や紙などの有用物を、その質と数量という視点から見て行くことにしょう。 これらのものは、 様々な特質の集合体であり、様々な用途に使える。 これらの用途の発見は 歴史的な所産である。
 また、これらの有用物の数量を計る標準的な方法も、社会的に確立されてきたものである。様々な計量方法があり、計られる物の性状の違いによるものもあれば、習慣的に用いられてきた方法もある。

 (4)ある物の有用性が、その物の使用価値である。物の有用性は空中に浮かんでいるものではなく、あくまでもその商品の物質的な特質の内に限られ、その商品の外に存在してはいない。 つまりは、一商品、鉄とかトウモロコシとかダイヤモンドとかは、一現物であり、使用価値であり、有用物なのである。
 この一商品の使用価値という特質は、その有用さの質のために必要とされた労働の量からは独立している。 我々が使用価値を論じる場合は、常に、その数量の確認が大切である。1ダースの時計とか1ヤードのリネンとか1トンの鉄とかのように。  しかしながら、商品群の各使用価値の諸々については、それしか知識を要さない商品学に任せておけばいい。
 使用価値は、使用や消費においてのみ、実現する。また、富の実体となる。それがいかなる社会的な富であろうともである。現資本主義社会においては、その富がさらに加えて、交換価値の保管物であるということが、我々の資本主義的生産様式の考察への手がかりなのである。     

  (5)交換価値は、ちょっと見た限りでは、数量的な関係に見える。あるものの有用さと他のものの有用さの比例的な関係に見える。しかもその関係は時や場所によって常に変化する関係に見える。このため、交換価値は偶然的で全く相対的なものであるように見える。しかしながら、一方では、商品とは切り離せない固有の価値にも見える。この相対性と固有という関係には言葉の矛盾を感じるだろう。これらの内容をもう少し細かく考えて行くことにしょう。

  (6 )与えられた一商品、例えば、1クオーターの小麦は、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々と交換される。これらの商品はそれぞれ全く違う特質を有しているにも関わらず、交換される。小麦という一つの交換価値は、従って、様々な交換価値を持つことになる。
 しかし、交換した結果から見れば、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々の交換価値は、1クオーターの小麦の交換価値ということになるので、さらに、x量の靴墨、y量の絹、z量の黄金 等々それぞれの商品は、相互に交換価値があり、交換することができることになる。
 これらの事を踏まえれば、第一に、様々な量の商品達の交換価値は同一の何かを表しているということになる。第二に、交換価値とは、一般的に、商品に含まれ、識別できる何んらかのものの、一つの表現形式・現象形式だということになる。  
(中略)

第三章 貨幣、または 商品の流通
第一節
価値の尺度

(18 ) 価格は、商品に実現された労働の貨幣名である。だから、商品の等価を、その価格を構成する貨幣総数で表すことは、同語反復である。ちょうど、一般的に、一商品の相対的価値の表現が、二つの商品の等価と云うみたいなものである。しかし、商品の価値の大きさを示す価格が、貨幣との交換比率を説明しているとはいえ、交換比率の説明が、商品価値の大きさの説明に必要であるわけではない。二つのそれぞれ同量の社会的必要労働で表されるもの、1クオーターの小麦と2ポンド(約1/2オンスの金)を考えてみよう。2ポンドは、その小麦の価値の大きさを貨幣で表したものである。またはその価格である。今、状況が、この価格を3ポンドに上昇させることを許したとしよう、または、1ポンドに引き下げるよう強いられたとしよう、そうなれば、1ポンドと3ポンドとは、小麦の価値の大きさを表すには、小さ過ぎたり、大き過ぎたりするかも知れないが、それにも係わらず、それらがその価格である。まず第一に、それが、それによってその価値が現われる形式、すなわち貨幣だからである。第二に、貨幣によるその交換比率の説明だからである。もし、生産の条件、別の言葉で云えば、労働の生産力が一定に留まるとするならば、同量の社会的労働時間が、価格が変わる以前・以後とも、1クオーターの小麦の再生産に支出されねばならない。この状況は、小麦生産者の意志にも、他の商品の所有者の意志にも依存しない。

(19 ) 価値の大きさは、社会的生産関係を表す。ある品物とそれを作るために必要となる社会的総労働時間の割合との間に必要的に存在する諸関連を表す。価値の大きさが価格に変換されるやいなや、上記の必要な関係が、一商品と他の商品、すなわち貨幣商品である、との間の交換比率として、多少偶然的ではあるが、姿を現わす。しかし、この交換比率は、商品価値の実際の大きさと、それとは別に、状況にもよるが、その価値から逸脱した金の量をも表す。だから、価格と価値の大きさとの間にある量的な不適合の可能性、また前者と後者の乖離は、価格形式自身の起因的特質なのである。これは欠陥ではない、いやそれどころか、ある生産様式によく適合している価格形式なのである。その生産様式に起因する慣例が、互いを釣り合わせるが、明らかに、無法・違法な、ただ一つの手段としての役割を、それらに賦課している。

(以上)

資本論の内容は、こんなものですが、おそらく読まれる人は退屈この上ないでしょう。
問題は、こうした説明をいくらしても、人間の経済活動の全容などは把握できないことです。
把握できないことを切り捨ててなっているのが資本論。
そこのところの致命的な欠陥をマルクス主義者はみようとしません。

これが問題であり、書かれていることを読んでいるだけではだめでしょう。
ところがマルクスの経済論を実際に施行するためには、国家などの中央権力が必要です。
要するに、人間の生活のうち経済の分野のために国家を想定しなければならなくなるのです。
経済のシステム=国家の体制となるのです。

現代社会も経済が政治を牛耳るようになっていて、これが大きな問題ですが、マルクス主義は、どっぷりと国家=経済となるのです。

唯物史観というものは、論理的には有効でも、それを実施に移す場合、上意下達の独裁国家の様相を帯びることになります。
かつての共産主義国家の有り様を見れば明らかでしょう。

http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/233.html#c76

   

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