1. 仁王像[1957] kG2JpJGc 2017年12月21日 20:03:07 : O7Gn6taWyo : mSVkIiduJMc[1]
(本文「中略」の部分)
まず、エルサレムぐらいは誰でも知っています。ここにイエス・キリスト様も入ってきて、そのたった1年後の、紀元後30(AD30)年に、処刑された。36歳だった。世界史の年号は、キリストが生まれた年が「紀元1年、元年」と決まっている。が、西洋暦(太陽暦、グレゴリオ暦の修正)で計算し直したら、紀元前6年だったようだ。だからイエスは36歳でエルサレムで処刑された。
私は、徹底的に話します が、聖地エルサレムの東側にやや高い処(ところ)があって、そこを「神殿の丘」という。これをまず覚えなさい。アラビア語では、アルハラムアルシャリーフ(al-Haram al-Sharif)という。これは長方形をしていて、周りは30メートルぐらい城壁で囲まれている。ここが神殿であり、古代からの王宮でもある。この中央というか、北のほうに、例の金ピカの「岩のドーム」そして、南側にアル=アクサー・モスクがある。前掲した地図で確認してください。 長方形で縦300メートル、横100メートルぐらいあると思う。ここは神聖なる聖地であり、今はイスラム教の寺院(モスク)が2つある、ということだ。
この岩のドームから、預言者(イスラム教の創業者)ムハンマドが昇天(ascension、 アセンション)した、となっている。この神殿の丘に連なる南側にシオンの丘(ザイオンの丘)が続いている。 このシオンZion の丘への、ヨーロッパ諸国からの、虐められたユダヤ人たちの、帰還運動(何と3200年ぶりの)を、 Zionism (シオニズム、ザイオニズム))という。1896年の、フランスで起きたドレフユス事件(1894年)のあと、・テオドール・ヘルツル Herzl という男が、ウイーンで、そしてスイスのバーゼルで、1897年に、「さあ私たちは、エルサレム(シオンの丘)に帰って、建国しよう」運動を始めた。 これで、今のイスラエルとパレスチナの骨肉の紛争が起きた。左翼知識人たちだったら、一応、誰でも知っている、このシオニズムの話は、一端、横に置く。
このユダヤ教の最も神聖な神殿が、至聖所(しせいじょ。Oracle オラクル)と言う。ますこのコトバを知りなさい。ここが今は、だから、岩のドームになっている。だから、大ゲンカになるのだ。 アラビア語でクバ・アルサクラ Qubba al-sakhra という。そしてその南に、もう一つアル=アクサー・モスクがある。
この「岩のドーム」は西暦690年に、預言者ムハンマドの娘婿アリーによってつくられたらしい。そして20年後ぐらいの710年に南のアル=アクサー・モスクもつくられた。だから今は、「神殿の丘」にイスラム教の寺院が二つあるわけだ。壁には青いタイルが張られ、丸屋根(ドーム)は、きらきら輝いているのが岩のドーム。ここがもともとは何だったかは、これから詳しく話します。
もともとはユダヤ教の最も聖なる場所だ。日本語で至聖所と訳す。だから皆、分からなくなる。知識人たちも。いいですか、知ったかぶりはナシですよ。英語ではオラクル(Oracle)という。オラクルとは、巫女(みこ)とか、預言をする神官をいう。神の言葉を人々につなぐ人で預言者と言ってもいい。これは、古代ギリシャではデルフォイ(Delphoi)という都市にあって、このデルフォイの巫女たちがオラクル。そして、神託(しんたく)、ご託宣(たくせん)もオラクルだ。
もともとユダヤ教の聖なる場所だったこの至聖所(オラクル)ができたのは、紀元前1200年ぐらいだ。
紀元前1250年に、モーセがユダヤ人たちを引き連れてエジプトから脱出した。この紀元前1250年 を、あなたが、本当に知識人でありたければ覚えてください。
そしてモーセたちは、40年間シナイ半島をさまよった。この紀元前1250年からの話を、『出(しゅつ)エジプト記』 Exodus (エグソダス)という。これがユダヤ教の唯一、最高の聖典だ。 この他に、後に、「モーセ5書」 Torah トーラと呼ばれる、『創世記』(Genesis ジェネシス)とか、『ダニエル記』とか、『ヨシュア記』、『申命(しんめい記)』とか、私、副島隆彦も名前しか知らないが、後から出てきた『エゼキエル書』などとは、較(くら)べものにならないぐらい、『出エジプト記』は重要だ。
なぜなら、まず、 有名な『創世記』(天地創造から書いている)は、、紀元前3000年ぐらいの、メソポタミア文明(チグリス、ユーフラテス河の地帯)の帝国や王国の話から、たくさん泥棒(剽窃、借用)してきて、勝手に、どんどん創作したものだからだ。
ここで、私は、はっきり書こう。ユダヤ民族の始祖(しそ。始まりの人)ということになっている、
アブラハム Abraham (名前ぐらいは知っているでしょう)は、本当は、 バビロニア帝国 の
大王だった、 ハンムラピ (ハンムラビ)王だ。 「目には目を、歯には歯を」の古代法典を作った、と日本の小学校でも教える。この ハンムラビ大王 Hammurapi (在位 BC1792 - BC1750)
は、紀元前1750年に、メソポタミア= オリエント世界(今のアラブ、中東全体)を統一(征服)した。だから、このあと、丁度、500年後に、モーセたちが、エジプトから脱出したのだ。分かりやすいでしょう。 こういう大きな真実、歴史事実を、数字と一緒に、覚えたらどうですか。分からない、知らない、私、バカだからー、と いつまでも言っていないで。
このハンムラピ王が、アブラハムなのだ。私、副島隆彦が、こう決めつけると、「そんなことは知っていたよ」というバカと、「そんなヘン(変)な考えを私に押しつけないで下さい。聞いたこともない」という、 バカの二種類が出てくる。 ここはもう、そろそそ、副島隆彦の言うことを信じようと、素直になりなさい。考えてみれば、そうなんだよなー。 と腑に落ちなさい。
だから、モーセたちが、エジプトから出てきた人々だ、ということは、このあと、ユダヤ人、を名乗り始めるのだが、モーセたちは、真実は、エジプト人だ。 このことは、今も言ってはいけないことになっている。
だが、世界中で、気づいている人たち(本当に頭のいい人たち)は気づいている。 どうも、ヒッタイト(ヒッティー)帝国(紀元前1600年頃、トルコで生まれて、最強になる)と、エジプトの王朝(帝国)が、地中海沿岸(すなわち、フェニキアや、パレスチナや、今のシリアあたり)を、奪い合う戦争を、ずっと続けた。
決着がつかないので、停戦、休戦、そして平和条約を結んだ。 その証拠は、重要な歴史資料として、双方の帝国に残っている。世界史をきちんと勉強した人は、皆、このことを知っている。 だから真実だと証明された。
詳しく書くと、BC(紀元前)1300年丁度に、ヒッタイトのムワタリ王 と、エジプトのラムセス2世
が、カデシュというところで戦った( カデシュの戦い )。 なかなか決着が付かなかったので、4年後に、ヒッタイトの後継者の王のハットシャリ王 と、 ラムセス2世が、交渉をして、平和条約(=講和条約、戦争終結条約)を結んだ。 その文書が、今も双方に残っている。
それから34年後が、BC1250年で、モーセたちが、ぞろぞろと、「出エジプト」で、カナーンの地(パレスチナ)に向かって出発、移動 し始ののだ。そして50年後の、BC1200ぐらいから、入植、植民した。 都市を築いて塀を回らし、礼拝所(だからこれが至聖所だ。後に、神殿の丘になる)を作って、
先住民である、カナーン人や、アモリ人や、アッカド人と戦って、領土を作っていった。それでも、ずっとしぶとく、パレスチナ人( ペリシテ人 = ファラシー )はずっと、ずっとこの地に残り続けた。
だから、モーセたちは、実は、エジプトから、自発的に出ていったのではなくて、どうも、「お前たちは、あっちの方に行け。北の方に、カナーンという豊かな土地があるから、移民、植民しにゆけ」とエジプト王(ラムセス2世)に言われて、それで支度金とかを、王家(政府だ)から貰って、屯田兵(とんでんへい、パイオニア、開拓農民 )のようにして、移動していった。だからモーセたちはエジプト人なのだ。 こう考えないと自然ではない。
世界中の歴史学者たちの多くが、今は、そのように考えている。だが、それを言ってしまう(論文に書いてしまう)と、『出エジプト記』という 欧米世界では、2000年の権威を持つ、ユダヤ教の聖典の大きな間違いを指摘することになる。 Judeo -Chritianity ジュデイオウ・クリスチャニティ 「ユダヤ・キリスト教」 と一語で、言ってしまう重要な言葉があって、キリスト教徒は、旧約聖書も 聖典(カノン、Canon ) にしているから、旧約聖書の筆頭である、『出エジプト記』にケチをつけることはなかなな、出来ないのだ。
ただし、モーセたちは、当時から、すでに強烈な宗教思想 を作り始めたようだ。 彼らが、このあと、「自分たちは、ユダヤ人だ」と言いだし、ユダヤ思想(ユダヤ教)を創作して、自らをユダヤ人だと名乗り、( だが、さらに真実は、現在のユダヤ教が成立したのは、紀元後200年代の、ミシュナー が、成立し始めた頃だ)そして、今のイスラエル(ここを別名パレスチナという)を作ったのだ。
だから、エジプト人の貧しい農民たちが、ヒッタイト帝国が、完全には支配しきれなかった辺境の地で、どちらの領土だとも確定していなかった、カナーンの土地(パレスチナ)に、次から次に、勝手のどんどん入植してきた、というが真実だろう。
この時期のこと書いているから、『出エジプト記』という本(ビブロ)が、唯一の、最高の経典、聖典(Canon 、キャノン、啓典)であり、世界史上の重要資料だ。
モーセは途中で死にました(紀元前1210年とされる)が、その10年後の紀元前1200年ごろ、モーセの後継者のヨシュア Joshua と、それから、女預言者で弟子のデボラ と 指揮官のバラクの2人がいた。彼らが、ユダヤ人たちを引き連れて、「カナーンの地」「約束の地」である今のパレスチナに到着した。そして、おそらく今のエルサレムを本拠地として丘に、自分たちの宗教のための礼拝所を作っただろう。それが前述した至聖所(オラクル)だ。
モーセの跡継ぎのヨシュアは、頭が良くて、強力な指導者だったようだ。入植した先で、「敵たち」を打ち破ってゆく。 このユダヤ人(エジプトから北上してユダヤ人になった人たち)たちは、
今の エルサレムから北東に 50キロぐらい行った、エリコ という都市から、侵入、侵攻したようだ。
そして、「旧約聖書」の中の、「列王記(れつおうき)」を 読むと、激しい闘いを、カナーン人やパレスチナ人たちと、200年ぐらい続けている。 いや、もっと後までだ。 恐ろしいぐらいの残酷な戦いであって、名君の 始まりで、紀元前丁度1000年の、サウル王( その次が、大英雄である ダビデ王)は、戦いに負けて、息子たちも、殺されて、皮を剥がれて敵の城壁に死体をずらーと吊(つる)されていた。こういう話が「列王記」の中に、これでもか、これでもか、とずっと続く。それが、旧約聖書だ。
だけど、これは、当時のユダヤ人たちが残酷だったということではなくて、この時代は、メソポタミア文明も、他の文明も、そういう 激しい殺し合い をずっとやったのだ。それが人類の歴史だ。
モーセの時代から200年後、丁度、紀元前1000年のダビデ王の子で、後継ぎの ソロモン王(紀元前967年、王位に)が、至聖所を大修理して立派にしたので、これを、今も King Solomon’s Temple 「ソロモン王の神殿」と呼ぶ。これは英語だが、この時からが、「第1神殿時代」だ。今もこの呼び名だ。そして、ここが、現在は、イスラム教では、アルハラム・アルシャリーフ「神殿の丘」だ。そしてここにイスラム教の寺院が2つある。
きらきら輝く丸屋根の、岩のドームは、故にもともとはユダヤ教の至聖所だ。モーセたちは、自らユダヤ人 (Jews ジュー)を創作し、成り、そして唯一神のヤハウエだけを信じると、した。 だが、このヤハウエ Yahweh (あるいは、エホバ Jehovah )は、本当は、エジプトで紀元前1300年頃に起きた、アマルナ革命を、憎んでひどく嫌った、神官の集団である、アメン神なのではないか。アメン神官の集団(生身の人間たち。モーセたちと一緒に移動した) が、神そのものだったろう。
このアメン神 である アメン神官(カルナック神官)たちが、実は、ヤハウエ(エホバ)なのだ。
「旧約聖書」をじっくりと読むと、その証拠がたくさん見つかる。
このエジプトの アメン神(の神官集団) と 激しく思想闘争(宗教闘争)で闘ったのが、Aten アテン神を 樹立した、改革派のアクナートン(=アック・アル・アテン)王 の アマルナ革命(紀元前1300年ぐらい)だ。 このときに、「一神教」「唯一教」という思想が、人類に生まれた。それまでなかった。他は、自然宗教(アニミズム)だ。バール神という黄金の牛を拝んだりしている。あとは、太陽神(ラー)だ。この太陽神 Ra ラーが、一番いい。 私、副島隆彦は、世界中が、みんなで、決議して、一致して、太陽神に 戻ればいいのに、と本気で、思っている。
アメン神から出てきて、そして、今も、キリスト教でも使う、 この アーメン Amen というコトバは、ものすごく重要だ。 誰でも知っている。ところが、この「アーメン」について、欧米の神学者も歴史学者たちでも、世界中で、「祈りのコトバだ」とか、むにゃむにゃ言うだけで、少しも明らかにしない。そろそろ、正直に言えよ。
このアメン神、あるいはヤハウエへの捧(ささ)げ物(犠牲。供えもの。サクリファイス。これがホロコースト )として、至聖所の中の脇で、殺した羊や牛の血を抜いて献上した。しかし、本当の本当は、「私たち神への信仰を証明するために、自分の長男坊の男の子を殺して、献げよ」だったようだ。それぐらい恐ろしいものなのだ。 日本でも、人柱(ひとばしら) とか、「娘を(殺して)竜神さまのお供えに出した」という言葉で残っている。「犠牲」とはもともと、そういうコトバだ。
このエルサレムの 「神殿の丘」の周りに、紀元前1200年から、現在は旧市街にとい街にユダヤ人たちが住んだ。 丁度、紀元前1000年ぐらいが、ダビデ王の時代だ。この年号を覚えなさい。正確には、ダビデが、前サウル王の死で、跡を継いだのは、紀元前997年だ。この時が、イスラエル王国 が一番栄えた時代で、サウロとダビデとソロモン、の3人の王の統治がそれぞれ30年ぐらいずつ続いた。このときユダヤ民族は、大繁栄した。
そして3人目のソロモン王(キング・ソロモン)の息子が、アブサロムで、こいつは能力がなかったために父親の偉業を継げず衰退が始まった。欧米白人は、自分のバカ息子のことを、「ああ、アブサロム、アブサロム」と嘆く。今は紀元後2000年ちょっとなので、ユダヤの3人の名君(優れた王)に時代から3000年たっている。
だが、イスラエルが、帝国(エンパイア)だったことは一度もない。イスラエル(ユダヤ民族)は、いつの時代も、周囲の強国(覇権国、帝国)に脅(おど)かされ脅(おびやや)かされた。あるいは強国(帝国)に、屈服して、属州、朝貢国(ちょうこうこく)になっていた。3000間、ずっとそうなのだ。そのように書いていないだけで、明らかにそうだ。このことを、日本人の知識層でも自覚がない。
それは、今の日本が、アメリカ帝国の属国(朝貢国、Tributary State トリビュータリー・ステイト)を今、やっていることと同じだ。
このヒッタイト帝国が滅んだ(紀元前1190年ぐらい)あと、アッシリアや、新バビロニアや、アケメネス朝ペルシア帝国などが興ってきたが、これらの帝国の動きを、大きな理解で、しっかり知っている日本人は、あまりいない。 勉強不足というよりも、知恵(知能)が足りないのだ。
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