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M1e@Z7au8iI コメント履歴 No: 100000
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[政治・選挙・NHK219] ネトウヨ対処法  赤かぶ
20. 2017年1月23日 21:21:22 : 9gbrICxBpw : M1e@Z7au8iI[1]
アパホテル、素晴らしい。
よく調べている。
自信があるのだろう。
どこからでもかかってこい、と。
日本政府や外務省も是非見習うべき姿勢だ。
中国外務省が事実に基づいた反論が出来ずに不当な圧力をアパホテルにかけたこと自体、中国外務省自らが「南京大虐殺は捏造」と認めたに等しい。

客室設置の書籍について
https://www.apa.co.jp/newsrelease/8325
弊社ホテル客室に設置している『本当の日本の歴史 理論近現代史』等について、南京大虐殺を否定するものだとして批判的に取り上げる動画がインターネット上にアップされたことをきっかけに、昨日からご意見やお問い合わせをいただいていますので、ここで弊社の見解を述べさせていただきます。
ご指摘のあった書籍は、本当の日本の歴史を広く知っていただくことを目的として、弊社グループ代表の元谷外志雄が「藤誠志」のペンネームで月刊誌『Apple Town』に連載している社会時評エッセイを1年分まとめたものに、まえがきとして解説を付して制作したもので、日本語の他に、英語訳も付いています。
本書籍の中の近現代史にかかわる部分については、いわゆる定説と言われるものに囚われず、著者が数多くの資料等を解析し、理論的に導き出した見解に基づいて書かれたものです。国によって歴史認識や歴史教育が異なることは認識していますが、本書籍は特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたものです。したがって、異なる立場の方から批判されたことを以って、本書籍を客室から撤去することは考えておりません。日本には言論の自由が保証されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならないと考えます。なお、末尾に本書籍P6に記載しています、南京大虐殺に関する見解を掲載いたしますので、事実に基づいて本書籍の記載内容の誤りをご指摘いただけるのであれば、参考にさせていただきたいと考えています。 

『本当の日本の歴史 理論近現代史学』P6
二、南京三十万人大虐殺
中国は日本軍が南京で三十万人を虐殺したと主張しているが、そもそも当時の南京市の人口は二十万人であり、三十万人を虐殺し、その一ヶ月後には人口が二十五万人に増えていたなどあり得ないことだ。しかも国民党中央宣伝部に雇われていた二人を除いて、欧米人など第三国の人が虐殺を目撃した日記も手紙も写真も、記録したものが一つもないことなど、更には、上海大学の朱学勤教授が「いわゆる南京大虐殺の被害者名簿というものは、ただの一人分も存在していない」と論文で発表したにもかかわらず、辞職もさせられていないことなどから、いわゆる南京虐殺事件が中国側のでっちあげであり、存在しなかったことは明らかである。
そもそも日本軍が南京に侵攻したのは、一九三六年、張学良が蒋介石を西安で拉致監禁した西安事件をきっかけに、コミンテルンの指導で第二次国共合作が成立したことで、国民党政府軍は中国共産党への攻撃をやめ、国民党政府軍に共産党勢力が入り込み、日本軍を挑発して、日本を戦争へ引きずり込んでいったことが背景にある。
一九三七年七月七日、中国盧溝橋付近で北京議定書に基づき合法的に駐留していた日本軍の軍事演習中に、日本軍とその近くにいた国民党政府軍の双方に対して実弾が発射されたことをきっかけに、戦闘状態になった(盧溝橋事件)。この双方への発砲は、後に中国共産党国家主席となった劉少奇(りゅうしょうき)が指示したものであることを、彼自身が告白している。事件不拡大を望んだ日本軍は、その四日後には停戦協定を結んでいる。
しかし、日本を激怒させ国民党政府軍と戦争をさせる為に、同年七月二十九日、中国保安隊によって日本人婦女子を含む二百二十三人が残虐に虐殺された「通州事件」や、同年八月九日に起こった「大山大尉惨殺事件」、更には、同年八月十三日、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中(ちょうじちゅう)の謀略によって、上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊四千二百人に対して、三万人の国民党政府軍が総攻撃を仕掛けた第二次上海事変を起こすなど、中国は日本に対して次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を取っていた日本も、中国との全面戦争を余儀なくされたのであり、不当に日本が中国を侵略したわけではない。
上海事変で勝利した日本軍は、敗走する国民党政府軍を追撃し、国民党政府の首都であった南京を攻略し、同年十二月十三日に南京占領。このとき敗残兵が住民に対して略奪、虐殺を行なった。それらの敗残兵が民間人の衣服を奪って便衣兵(ゲリラ)となったことから、日本軍は便衣兵の掃討作戦を行った。便衣兵(ゲリラ)の殺害は国際法上認められているものであり、一般住民を虐殺したのはこの敗残兵達(督戦隊が撃ち殺したのは、逃亡中国兵であった。)であった。しかし、こうした事実が歪められて、情報謀略戦として、「南京三十万人虐殺説」が流布されたのである。そもそも既に南京を攻略した日本軍にとって、南京で虐殺行為をする理由はない。一方、通州事件や大山大尉惨殺事件、第二次上海事件などでの日本人に対する残虐行為には、日本軍を挑発し、国民党政府軍との戦争に引きずり込むというコミンテルンの明確な意図があったのである。

理論 近現代史学
数々の事実を付き合わせ、あり得ることかあり得ないことか考えて、矛盾なく、理論的に説明ができる近現代史が、理論近現代史である
「南京大虐殺」が「虚構である」証拠の数々
1.まず、「『南京大虐殺なること』に関する『犠牲者名簿なるもの』は唯の一人分も無い。」(上海大学歴史学部・朱学勤教授による。平成十九年十二月二十日付産経新聞)。この一点だけ捉えても「南京大虐殺なること」が如何に荒唐無稽な作り話であるかは既に立証された様なものである。(仮に、「南京大虐殺」なることが真実であるならば、「三十万人」という数字の何割かの「犠牲者名簿」が存在しないはずがない。)
2.「南京大虐殺」の犠牲者は、「三十万人」ということになっているが、日本軍が南京を制圧した昭和十二年十二月十三日当時、南京市内には、約二十万人の民間人しかいなかったという記録があり、併せて、約一カ月後、昭和十三年一月十四日の時点では、人口が五万人以上増えて、約二十五万人〜三十万人になっていたという「南京安全区国際委員会記録」が残っている(田中正明著『南京事件の総括』二十九頁)。
3.日本軍が南京を占領する約一カ月前、昭和十二年十一月より翌年の九月迄、蒋介石率いる国民党は、ほぼ毎日の様に、欧米のマスコミ関係者を集めて、記者会見を開き、日本軍に対するイメージダウンの目的で、日本軍の不法行為等について嘘八百の発表、宣伝工作を続けていた。そして、その回数は延べ三〇〇回にも及んだという。処が、当時、国民党は「南京大虐殺」などという事を一度も言ったことが無かったという。何故か?それは、その様な事は全く起きていなかったから言わなかっただけである。仮に、当時、南京で「大虐殺」が起きていたならば、其の事を其の記者会見の場で取り上げないはずがなかったであろう。
4.「南京大虐殺記念館」等に展示されている写真は、全て合成写真または、「通州事件」等、中国人が日本人を虐殺した写真を始めとする、全く別の写真であることが、東中野修道教授(亜細亜大学)によって証明されている。もしも、南京大虐殺なる事が真実であるならば、その証拠写真が一枚も無いはずがない(東中野修道・小林進・福永慎次郎共著『南京事件「証拠写真」を検証する』草思社)。 (所謂)「南京大虐殺なること」が有ったと問答無用で決めつけたのは、「極東国際軍事裁判」、(所謂)「東京裁判」の中である。それでは同裁判の内容は一体如何なるものであったのか?  東京裁判を傍聴した冨士信夫氏は、『南京大虐殺はこうしてつくられた』(展転社)の中で、「南京大虐殺」なることが全くの虚構であることを裁判記録として記している。
5.朝日新聞は昭和十二年十二月二十日の朝刊半頁を費やして、『甦る平和都市南京』と題する(平和この上ない、当時の南京の)写真特集を掲載している。この風景こそ虐殺否定の何よりの証拠と言えよう(『南京大虐殺の総括』三十二頁)。
6.「南京に大虐殺が有ったと言う様な記録は、中国側の第一級公式資料である何應欽上将の軍事報告の中にさえ、その片鱗も見出せない。」(『南京事件の総括』八十二頁)。
7.「当時、朝日、東日、読売、日経、など全国紙の各支局を始め、地方紙や通信社も、南京に特派員を派遣していた。これらのプレスマンが異口同音に言うことは、『東京裁判で、南京でのあの様な事件が有ったと聞いて驚いた。』」(同百十一頁)。
8.「中国国民党が、作り話を含めて、日本軍の不法行為を糾弾する為に、一九三八年七月七日、国民党の中央宣伝部が「印刷」した蒋介石の『国民に告ぐる書』のどこを探しても、そこには『南京大虐殺』の文字は見当たらない」(同二百九十六頁)。
その他、多々ある。


南京大虐殺肯定派は説得力のある証拠を出せ、もっともそんなものがあればの話だが。
今まで1度も南京大虐殺があったという説得力のある証拠を見たことがない。
訴訟上,裁判所は,ある事実の存否について証拠から判断できない場合,その事実は存在しないと仮定する。
だから南京大虐殺の有無を証明する責任は「あった」と主張する側にある。
これを挙証責任、証明責任という。
なぜなら「なかった」ことを証明するのは「悪魔の証明」だからだ。
悪魔の証明とは、「ある事実・現象が『全くない(なかった)』」というような、それを証明することが非常に困難な命題を証明すること。例えば「アイルランドに蛇はいる」ということを証明するとしたら、アイルランドで蛇を一匹捕まえて来ればよいが、「アイルランドに蛇はいない」ということの証明はアイルランド全土を探査しなくてはならないので非常に困難、事実上不可能であるというような場合、これを悪魔の証明という。

難民区は安泰、感謝状を受け取る
http://www.history.gr.jp/nanking/reason05.html
中国にドイツの武器を売っていたジーメンスの社員でもあったドイツ人ジョン・H・D・ラーベ
(1)婦女子の殺害なし
南京在住の婦人・子供を含む非戦闘員は、すべて国際委員会の管理する安全区(難民区)内に居住していた。
日本軍は南京占領の12月13日、この地区の掃討を歩兵第7連隊(金沢・伊佐一男大佐)に担当せしめた。
第7連隊長伊佐大佐は、翌14日、この難民区の出入り口10数ヶ所に歩哨を立て、無用の者の出入りを厳禁した。
歩兵第36連隊長の脇坂次郎大佐が難民区内に立ち入ろうとしたが歩哨にとがめられて入ることが出来なかった――ということを脇坂大佐は東京裁判で証言している(極東国際軍事(東京)裁判速記録・・・第309号22・11・6)。
大佐でさえも入ることを拒否されたところをみると極めて厳重であったとみてよかろう。
松井軍司令官の厳命により、ここには一発の砲弾も撃ち込まれておらず、空爆もなかった。放火もなく、従って1件の火災事故も起きていない。文字通りの安全区であった。
一部の不心得者による、強姦・暴行・窃盗事件等が、国際委員会の公文書の中に記録されているが、婦人・子供の殺害事件等は全然起きていない。
そういう記録もない。又、紅卍字会の埋葬死体一覧表の中にも、婦人・子供は皆無にちかい。ただ便衣兵の摘出に際して、良民が誤認されてまきぞいをくい、あるいは徴用、拉致等の厄に遭った若干の犠牲はあったものと思われる、が、概してこの地区は平穏であり、安泰であったことは、諸記録からみて疑う余地はない。
難民区が安泰ということは、当時の南京の全市民が安泰であったということである。
なぜなら全市民は例外を除き全員ここに蝟集(いしゅう)していたからである。
国際委員会の委員長ジョン・H・D・ラーベ氏は、国際委員会を代表して次のような書簡を日本軍に送っている(「法廷証」323号=検察番号1744号抜粋で弁護人が朗読したもの、極東国際軍事(東京)裁判速記録210号)。
「拝啓 私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡をとり得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります。」
以下は金陵大学病院医師マッカラム氏の日記及び手記からの抜粋(法廷証第309号=検察番号246号)である。これを松井大将の弁護人伊藤清氏が東京裁判の弁護側立証段階で抜粋朗読しているので紹介したい(極東国際軍事(東京)裁判速記録・・・第210号)。
1、(日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本人がありました。
私は時々一日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました。
2、12月31日、今日私は民衆の群が該地帯から中山路を横断して集まるのを目撃しました。あとで彼らは、行政院調査部から日本軍の手によって配分された米を携帯して帰って来ました。今日は若干の幸福な人々がおりました。
3、(1月3日)今日は病院職員の半数の登録をするのに成功しました。私は若干の日本兵によってなされた善行を報告せねばなりません。
最近7、8名のたいへんに立派な日本兵が病院を訪問しました。私どもは彼らに病人に与える食物の欠乏を語りました。
今日彼らは若干の牛肉を見つけて、100斤の豆をもって来ました。われわれは一ヶ月も病院で肉なんか食べなかったので、これらの贈り物は大いに歓迎されました。彼らはわれわれに他にどんなものが欲しいかを尋ねました。
このようにラーベ氏は国際委員会を代表して感謝の手紙をしたためており、マッカラム氏は日本兵の善行を日記の中にしたためている。日本を憎悪していたマギー牧師でさえ「安全区は難民たちの“天国”だったかも知れない」(秦郁彦著『南京事件』84ページ)といい、スミス博士も調査報告書の中で「難民区内には火災もなく平穏であった」「住民のほとんどはここに集まっていた」と述べている。
当時同盟の特派員であった故前田雄二氏(元日本プレスセンター専務理事)は、内外ニュース社発行の「世界と日本」(59・4・5、413号)の中でこう述べている。
「いわゆる“南京大虐殺”というのは、2、30万人という数は別にしても、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが殺されなければならない住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。
そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあり、入城4日目には私たち全員はこの支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。
すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活を回復していた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたのだ。
こういう中で、万はおろか、千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずはなかった。
すなわち「捕虜の処刑・虐殺」はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の大量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されていることは、見過ごしていいことではない。なぜ歴史がゆがめられたのか。それは、戦後の東京裁判史観によるものだろう。」
この前田氏の証言は、100パーセント信用してよかろう。当時反日的な報道をしていた「ライフ」でさえ、「日本軍は“安全区”をちょっぴり可愛がった」と評しているほどである。
しかるに教科書には、「婦女子・子供も含む一般人だけで7〜9万人を殺害し」(東京書籍)とか、「子供や婦人を含むおびただしい数の住民を殺害し」(教育出版)というように、どの教科書にも女性や子供も殺害したと書いてある。
いったいその根拠は何なのか?
日本に悪感情を持っていた第三国人でさえ、難民区内の平穏な生活や日本兵の親切な行為に感謝しているというのに、日本の教科書がどうしてこのような事実を曲げてまでねつ造記述をのせ、自虐的教育を小国民に植え付けなければならないのか、私にはわからない。

(2)難民区からの感謝状
ことのついでにもう一つ難民区について紹介したい。
大量戦死者を出した激戦地下関(シャーカン)から北へ1.8キロの所に宝塔橋街(ほうとうきょうがい)という町がある。
この街の保国寺には、6、7千人の難民が蝟集(いしゅう)していた。
13日には旗艦安宅(あたか・司令官近藤英次郎少将)を先頭に第11戦隊は、劉子江陣地からの猛射を反撃しつつ、閉塞線を突破して、下関に向かった。
保津、勢多を前衛とし、江風、涼風、比良、安宅等主力がこれに続いた。
江上、江岸は敗走する敵の舟艇や筏(いかだ)で充満していた。
各艦はこれに猛攻撃を加えた。14日、砲艦比良は下関下流1浬(カイリ)の中興碼頭(まとう)に停泊し、宝塔橋街の状況調査に任じた。
ここは軍需倉庫の所在地で、引き込み線があり、兵器、食糧、被服等軍需消耗品が蓄積され、付近一帯は地下壕もあり、敗残兵が出没し、治安も乱れ危険きわまりない状態であった。
比良の艦長土井申二中佐(千葉県松戸市在住)は自ら願い出て該地区の整備確保に任じた。
この町の中ごろに紅卍字会の前記の保国寺難民区があり、数千人の難民と約2万人の市民は不安に脅えていた。土井中佐はまず、下関との境の宝塔橋を改修し、あるだけの食糧や被服を給与して民心の安定をはかった。
町の名称も平和街と改名し、敗残兵の跳梁(ちょうりょう)から市民を守った。
町はみるみる復興したが、食糧難が最大の頭痛の種であった。
年末のこと、たまたま烏龍山砲台の閉塞線で第一号掃海艇が触雷沈没し、これが救援に赴くべしとの命令に接し、比良はただちに現場に急行した。
救援作業を終え、多数の死傷者を収容して上海へ急行した。
土井中佐は、上海停泊中に出雲を訪れ、艦隊司令部に出頭して、平和街難民の窮状を訴えた。
土井中佐の熱意と誠実に動かされた司令部は、中佐の申し出通り食糧の救恤を認めた。
比良はこれらの品を積んで中興碼頭に帰ってきた。
13年正月元旦のことである。紅卍字会支部長陳漢林総代表を通して難民区に贈られた品々は次の通りである。
貯蔵牛豚肉 10箱   白砂糖大袋 10袋   乾魚類 10箱
大豆油 10箱 食塩 10包 乾餅 20箱
世界紅卍字会平和街会長 陳漢森(右写真)による領収書(左写真、下は日本語訳)
日本海軍第11戦隊砲艦「比良」艦長、土井申二に送られた領収書 紅卍字会主任、陳漢森(南京下関平和街にて)
領収書
貯蔵肉 十箱、 砂糖 十箱、 魚 十箱、
大豆油 十箱、 食塩 十箱、 ビスケット 二十箱、
艦長様から右の如く多くの難民救済の食料品を頂戴致しまして、ご恩に誠に感謝致します
平和街世界赤十字会難民収容所
主任 陳 漢森
(写真説明)大量の戦死者を出した下関(シャーカン)と下関に隣接する宝塔橋街の地図(「証言・南京大虐殺」より)
難民達は爆竹をあげ、各戸に日の丸の旗をかかげて比良を歓迎した。
難民だけではなく市民全員が歓呼して迎えた。
街の入り口には「南京下関平和街」の横断幕をはり、歓喜は街にみなぎった。
明くれば正月2日、代表らは正装して保国寺に整列し、土井中佐始め比良の乗組員全員を迎えた。
陳代表から昨日の救恤品の受領証と感謝状とが贈られた(地図参照)。
私が言いたいのは、光華門外で一番乗りを果たした脇坂部隊(歩兵第36連隊)が、13日夜、味方の戦死体はこれを荼毘(だび)にふし、敵の戦死体には卒塔婆をたて、花香をたむけて、これをねんごろに埋葬し、一晩中読経をあげて弔ったという。(土井申二「花と詩」)
こうした脇坂次郎大佐といい、海軍の土井申二中佐といい、何も特殊な例外ではなくて、日本武士道の伝統をふまえた血も涙もある当時の武人の心境であったということだ。
吉川猛参謀は松井大将に、中国軍の死者の取り扱いがおろそかだ!といって、きついお叱りを受けたと語っている。
このような将兵や司令官がどうして、罪とがもない婦女や子供をむげに殺害するようなことがあろうか?
また、地図にもあるすぐ近くの煤炭港、和記公司でも数千、数万の大虐殺があったと中国側は宣伝しているが、土井艦長はそんな事実も、噂さえも聞いていないとはっきり否定している。
中国側の宣伝がいかに大デタラメかこの一事でもわかろう。

中韓を知りすぎた男
南京大虐殺の真実 8月19日(水)
http://kkmyo.blog70.fc2.com/blog-entry-1061.html
「そこまで言って委員会」17日分の放送を見ました。
そこでは「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「731部隊」の検証をしていました。
全て納得できる内容でしたが、放送の関係で少し説明不足の感は否めま
せん。そこで今日は南京大虐殺の虚構を暴きたいと思います。
1939年12月に日本軍は支那事変を終結させるために蒋介石の拠点である南京に侵攻しました。その前に南京侵攻を理解していただくために1937年7月7日の支那事変の発端となった盧溝橋事件から筆を進めてみます。
どの歴史書を見ても日中全面戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件が発端だと書かれています。それも戦後左翼学者によって、日本軍が中国侵略を正当化するために日本の部隊に自ら発砲をして戦争のきっかけを作ったと書かれています。
ところが後年 中国共産党が日本軍と国民党軍(蒋介石)を戦わせるために両方に発砲したのだという真相を中国側から示されました。日本軍の規律から見て盧溝橋で日本側から国民党側に発砲した可能性は皆無です。
戦勝国が戦敗国を裁いた理不尽な東京裁判でさえも盧溝橋事件から支那事変に至る戦争は日本が始めたものではないとして、事変の開戦責任は日本にあるとはしていません。
このことをもってしても左翼学者たちが日本をいかにも残虐な侵略者として扱ってきたことがよくわかります。彼らが戦後、日本側が意図的に侵略を開始したと言い続けたことによって、日本国民は中国に対して負い目を感じて謝罪クセがついてしまいました。
日本の近現代史が進歩的文化人と称される左翼学者の偏向史観によって引き裂かれ、そして彼らは戦後の日本に害毒を流し続けてきました。
この事件は現地の日本軍も国民党軍にも腑に落ちない事件であって、共産党軍が仕掛けたワナだということが分かり、数日後には現地停戦が成立しています。
これで収まってしまえば共産党軍が意図している国民党軍と日本軍の戦争拡大には繋がっていきません。そこで7月26日に広安門事件を起こします。
それは日本軍が北京城内に帰ろうとして、広安門を通過中、中国側が通過半ばで門を閉じて、城外に残された部隊に一斉に銃撃を加えました。このような卑怯なことをすればどこの国でも戦争になります。そして日中全面戦争突入の決定的な事件は1937年7月29日の通州事件です。
通州事件の惨劇「Sさんの体験談」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2717.html
通州は長城以南では最も安定した地域として多数の日本人が安心して暮らしていました。ところが、日本軍隊が盧溝橋事件で町を離れた留守に、本来日本の居留民を守るのが目的の中国保安隊3千人がいきなり日本の居留民に襲いかかり中国側の手によって260名全員が惨殺されました。これにより通州特務機関は全滅しました。
その惨状は目をおおわしめるほどの残虐ぶりでした。強姦され陰部にほうきを刺された女性の遺体、テーブルの上に並べられていた喫茶店の女子店員の生首、斬首後死姦された女性の遺体、腹から腸を取り出された遺体、針金で鼻輪を通された子供など、尋常ならざる殺害の状況は今も昔も中国人は獣そのものです。
通州事件のようなことになれば、全中国で多年事業を営んできた在留日本人が皆殺しにされます。日本は遂に、見通しのない戦争に入っていきました。
不可解なことに、戦後この残虐な通州事件に対する報道は左翼学者によって隠されて、歴史の闇に消えようとしています。

この通州事件が1937年の7月です。その年の12月に日本軍は支那事変を終結させるために蒋介石の拠点である南京へ侵攻しました。しかし蒋介石は、日本軍が攻めてきたことを知ると、一早く部下に任せて南京を逃げ出しています。
南京侵攻を戦後南京大虐殺という虚偽で戦後長く日本人を苦しめてきました。最近はいろんな資料や本が出て大虐殺はなかった、非道行為を行ったのはむしろ中国兵たちだという真実が明らかになってきました。
中国側がでっち上げた被害者30万人というような数字は、まさに荒唐無稽で、中国側の宣伝上の数字であることはいろんな資料から常識で分かります。
日本軍人は日清戦争、日露戦争、義和団の事件で世界中が認めたように軍記厳正で、敵に対して寛仁であり、模範とすべき武士道的軍隊です。
南京戦で日本軍は非常に人道的で、攻撃前に南京市内にいた民間人全員を,戦火が及ばないように、南京市内に設けられた「安全区」に集めた為に日本軍の攻撃で、安全区の民間人は誰一人死にませんでした。
その証拠に安全区のリーダーであったドイツ人、ジョン・ラーベは「日本軍が安全区を設けて民間人を傷つけなかったことを深く感謝いたします」(速記録210号) という感謝状を松井大将に手渡しています。
その速記録210号の中でマギー牧師は「安全区は難民の天国」、安全区国際委員会の書記長のスマイス博士(米)も、その調査報告書の中で「住民のほとんどはここに集まっていた、難民区内は1件の火災も無く平穏であった」と述べています。
ところが後年発見されたラーベの日記には、安全区内に毎日のように火事と強姦が続いていたという地獄絵が描かれています。しかしラーベの日記には、自分が書いた日本軍に対する「感謝の書簡」について一行も触れていません。
どちらが真実か一目瞭然です。
創作されたラーベの日記には、「局部に竹を突っ込まれた女の人の死体をそこら中で見かける。吐き気がして息苦しくなる」とあるが、強姦のあと「局部に竹を突っ込む」などという残虐性は、中国にあっても日本には絶対ない。
この尋常ならざる殺害の状況の描写は通州事件での中国兵の残虐ぶりとそっくりに記述されています。
通州事件の惨劇「Sさんの体験談」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2717.html
またラーベの日記には「日本兵はモーゼル拳銃を持っていた」とありますが、当時日本軍にはモーゼル拳銃など一丁もありません。モーゼル拳銃は中国兵が持っていました。
戦後東京裁判でこのラーベの日記が証拠となり、有りもしない「南京大虐殺」がひとり歩きします。国際委員会が告発した日本軍の非行は全て伝聞,噂話、憶測でこれらを全て集めても、殺人49件、傷害44件、強姦361件などです。
この数は南京占領の12月13日から翌年2月9日までの南京における日本軍の非行を記録した国際委員会の総トータルです。
それにしても殺人は、わずか49件です。誰も見たものはおらず全て伝聞によって集めた記録においてすら、この低度です。
また南京占領後、日本軍の指揮のもとで南京の中国人団体が、死んだ中国兵の埋葬作業を行いました。彼らは埋葬した人々のリストを残していますが、その中に女性や子供の遺体はほとんど含まれていません。つまり民間人の犠牲者がほとんどいなかったことをこの資料は証拠づけています。
ところが南京占領が確定すると多くの中国兵は軍服を脱ぎ捨て、中国市民を殺して服を奪い 、民間人に化けて南京の安全区に逃げ込み、安全区内で強姦や略奪、殺人などを行いました。
そして民間人の服装で日本軍人を背後から攻撃(便衣隊)しました。その数数千人も居り、日本軍から多くの犠牲が出ました。そのために日本軍は彼らを見つけ出すために掃討作戦を行わなければなりませんでした。
民間人の格好をした中国兵を見つけ出すために、数万にも及ぶ安全区の住民の手を検べました。もし兵士ならば度重なる銃の発射でタコが出来ています。それだけでは間違いもありますので、南京市内に家族がいるかどうかを調べました。もし兵士ならば南京市内に家族はいません。
このようにして日本軍は兵士と市民を区別し、逮捕しました。もちろん人間のやることだから誤認逮捕もあったとしても、その数はわずかだと思われます。このように南京占領において日本軍によって殺された民間人はほとんどゼロに近いと言っても過言ではありません。
それでは何故南京大虐殺というオドロオドロシイ言葉が一人歩きしたのか?
アメリカのジャーナリストであるベイツが「日本軍による南京での市民虐殺」という虚偽を世界に広めたのです。
彼はアメリカの命令で蒋介石率いる中国国民党の顧問をしていました。彼の使命は「中国市民の悲惨」と「日本軍の残虐」を世界に広め、アメリカ世論を喚起させてアメリカが日本と戦争するための正義の旗を立てることでした。
しかしその他の良心あるジャーナリストたちは中国兵らの残虐な悪事の数々を記述しています。ティルマン・ダーディン記者は南京で日本軍を迎える中国軍の様子を「中国軍による焼き払いの狂宴」としてほとんどすべての建物に火が付けられ、多くの中国民間人が死んだと記述しています。
また南京のアメリカ領事館のジェームズ・エスビーが「日本軍入城前の最後の数日間に中国兵は略奪、強姦、殺人と狂わんばかりの狂態であった」と報告しています。
南京大虐殺が中国の捏造であることを証拠付ける資料を書き出せばきりがありません。そこで最後に確定的な証拠を書いてみます。
南京市の人口は、日本軍の南京への攻撃開始前に約20万人でした。20万人しかいない所で、どうやって30万人を殺せるのですか?しかも日本軍の南京占領後、南京市民の多くは平和が回復した南京に戻ってきて、1ヶ月後に人口は25万人に増えています。もし虐殺があったのなら、人々は日本占領下の南京に戻ってきたりするはずもありません。
当時の中国市民は自国民である中国兵を恐れ嫌っていました。日本兵のいるところが一番安全であると信頼していたのです。敗戦後日本軍が惜しまれながら去った、日本軍の後にどんな軍閥、野党軍団が来るかも知れず、日本軍が去るのを不安な気持ちで見送った中国市民の気持ちがわかります。
このように日本人の伝統は中国には100%もない遵法精神と規律があり、武士道が日本軍隊の精神的支えとなっていました。
ところが絶対許せないことに戦後の教育で、日本軍が中国で、暴虐、非道の限りを尽くしたという虚偽を左翼先生たちは子供たちに教えてきたのです。この先生たちは本当に日本人だろうか?
まだ中国や韓国のように自国を良く見せるために、数々の悪事を隠し、歴史を捏造するのは少しは理解できますが、日本のように良いことを隠し、全くしてもいない悪事の罪を着せるなど私には信じられないことです。
日本人でありながら何故反日になるのか?何故歴史を捻じ曲げて日本を非難し攻撃できるのか?また先生だけでなく捏造歴史の言立てを持って、自分の言論活動の基本方針として生計を維持している左翼学者たちは恥ずかしくないのだろうか?
安倍首相は「戦後70年談話」の中で、「私達の子や孫、そしてその先の世代の子供たちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と言いました。
そのためにも我々日本人は中国や韓国、日本の左翼達が、日本軍人に罪をなすりつける大嘘と戦わなければいけません。
戦後70年、我が国の論壇を占拠し、日本の世論を間違った方向へ誘導してきた学者、評論家たちの国を売る人々の大罪は果てしなく重い。

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