108. 2018年4月30日 22:50:12 : XKbQ6WpbnA : lxT29kQec2w[1]
報道規制の枠組みに囚われないフリージャーナリストの記事です。
2011年3月13日14日ごろに取材した証言のようです。無断転載ご容赦。
(リンク先が消えていたため、活字として残しておきます。)
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福島原発危機
現場ジャーナリストが伝える「生々しい証言」
ヨーコ 2011年3月31日 11:33 コラムニュースマガジンT24」
冷却しなければならないのに放射能に汚染された水が漏れ、八方塞がりの福島第一原発。いち早く現地に入り、取材活動を続けている記者のヨーコさんが避難者たちの生々しい証言を寄稿してくれた。証言をしてくれた人の中には東電の下請け作業員もいて、その言葉は重い。
ヨーコさんが避難した人々の話を聞いたのは福島第一原発からわずか21.6キロしか離れていない避難場所、川内中学校だ。
証言者A(東電の下請作業員 4号機タービン建屋作業員 50代ぐらい 川内中学校避難所にて)
「原因は津波でも地震でもなんでもない。老朽化が原因だ。
満潮や干潮の時期には、海水が地下二階のフロアーに漏れ出すような、酷い状態だったが、東電はあと10年は運転させると言っていた」
証言者B(東電下請け作業員 (4号機タービン建屋) 38歳 川内中学校避難所にて)
「震災時は地下1階で作業中でした。4号機は運転を停止していて、点検作業中でした。
慌てて逃げたんですが、作業員は4号機に何千人もいます。その人数が一気に出口に殺到し、6つしかないゲートに殺到していたから、4号機を出るまでに3〜40分ぐらいかかりました。運転を停止し、点検をしていた4号機までこんなことになるとは......。東電社員はミサイル攻撃にも耐えられると言っていましたし、車の幅ぐらいもあるコンクリート壁が、あちこちにあるので私たちもその言葉を信じていました」
証言者C(東電作業員(詳しい役職は不明) 50代 川中中学校避難所にて)
「どうやってここまで来た?」と筆者に聞くC氏、私がガソリンの予備タンクを2つ用意したことを伝えると......
「そのタンクをいくらで売る? そのタンクを売ってくれたら、こんな所からオレはとっとと逃げ出すよ。
ここの避難所の人間は東電関係者しかおらんよ。この村も周辺一帯の村も、東電しか仕事がないから。事故の原因は老朽化が原因だと、絶対に書いておいてくれ!!」
証言者D(年金生活者 (福島第一原発の元労働者) 70代 川内中学校)
「老朽化した原子炉を建て直すコスト。すなわち廃炉にした原子炉の放射能を何万年も封じ込めるコストと、新しい土地を確保し、新たな原子炉を建てるコスト。ゴミのように移動させて捨てる訳にはいきませんから、建て直すにはこの二つのコストがかかる訳です。
点検と補強を繰り返し、村に金を落とし、住民を潤し、議員を丸め込むコストの方が、圧倒的に安かったということです」
証言者E(年金生活者の老人 詳細不明 川内中学校)
「考えてもみなさい、30年前、40年前のテクノロジーで出来た建造物ですよ。30年前、40年前のテレビにリモコンが出来ただけでも画期的な技術だったでしょう。でも今となってはたかがリモコンでしょう? あの原子炉はその程度の技術でしかないんです。そんな技術で作った原子炉、老朽化した原子炉が壊れない方がおかしくないか?」
証言者F(詳細不明 50代 川内中学校)
「ああ、この避難所にも東電社員は一人いるよ。女だけどね。でも、インタビューしたって無駄だよ。なんにもしゃべらないだろうね」
証言者G(息子が東電で働いているという女性 60代ぐらい 川内中学校)
「インタビューにはお答えできません。うちの家族はみな東電で働いているんです。お世話になっている会社の内情をお話しすることなんて出来ないでしょう?インタビューはお断りします!!」
(※周りの方の情報によると、彼女の息子は13日の時点で、第一原発内で作業をしており、まだ避難できていなかったとのこと)
証言者H(東電孫請け作業員 31歳 4号機タービン建屋 川中中学校)
「タービン建屋は地下2階まであります。地下一階の踊り場のような所で地震に遭いましたが、壁に背をもたせてへばりつき、踏ん張らないと立っていられない、そんな揺れが2分ぐらい続きました。
逃げるどころかその場にいることしか出来ない。崩れ落ちる粉塵状態のコンクリート片の中、停電はしていましたが、車ぐらいの大きさの配管が、1メートルぐらいの幅で揺れていました。
うちの親父もここで働いていますが、初めての出来事だと言っています。
仮設電源も機能せず、懐中電灯で煙のような粉塵の中を、退路を探していた時にも地震がありました。偶然仲間を見つけ一緒に待避しましたが、靴を脱ぐべき所、作業着を脱ぐ場所などが、本来は事細かに決められているのですが、何千人かの靴や作業着が散乱している中、それらを踏み分けて、まずは"退出モニター"のゲートを通りましたが、横で東電社員が「認証は行わずに出られます」と、避難誘導を行っていました。しかしゲートの数が圧倒的に少なすぎ、雑踏のなかで列は全く進まず、6つしかない回転式のゲートをくぐり抜けて、ゲートの右手上階にある、更衣所で私服に着替えるまでに、30分ぐらいはかかったと思います。ゲート左手の一階にある更衣所にロッカーを持っている人は、もっと早く退出できていたと思います。階段に人が殺到してとにかく混乱していました。あとで聞いた話によると、筋彫りの入れ墨の人が、パンツ一丁で逃げてきたという話もある程です(笑)。
老朽化の問題は確かにあります。構内で(地震前から)地割れしているところもあった。4号機の地下二階で、海水が染み出しているのも、貴女が仰るとおり事実です。第二原発では放射能を浴びない場所でも、第一原発では浴びました。第一の方が古いからです。こう言ったことを、東電は公表すべきだと思います。
今の心配事は、いつまでここにいるのか? ということでしょうか。ストレスで役場の人や消防、この学校の教頭とケンカになる人もいる。オレだって被災者だと教頭は言ったそうですが、家があるだけマシ、仕事があるだけマシですよ。
今のところは3食おにぎりが一個ずつ配られています。川内村の炊き出しもたまにありますが、豚汁を作ってもらっても、皆に行き渡る量はお玉に一杯分です。毎日食べれるのかという不安もありますね。水はありますが、お風呂はありません。衛生面も心配ですし、放射能の不安、帰れないことによる孤独感。家を失い、仕事を失い、家族の安否も解らない人ばかりですから、皆、何重もの絶望感の中で過ごしています。
この避難所にも前は1000台近く車が止まっていました。でも、今はかなり減っています。もっと安全な所へという気持ちからでしょうが、野宿になるぐらいならここにいようかと考えています。ここを一度出てしまえば、他の避難所が気に入らないからと言って、舞い戻ってくることは出来ないからです。
それにガソリンも不足していますから、どこまで行けるのか不安もあります。
4号機で被災して、自宅に戻りました。原発から10キロぐらいの所の自宅ですが、思った程損壊はなかった。家族全員が無事で自宅に戻ってきたのですが、翌日全員が避難しました。
今後の仕事に対する不安はあまりない。いつ帰れるのかという焦りだけです。いつまで休んでいいのか、原発の避難勧告の解除があれば、すぐに仕事に行きたい。現場をみてみたいです。
でもしばらくは仕事もないだろう。足場解体や片付けの仕事はあるでしょうが......。再開したならば耐震性に関する仕事は増えると思います」
(取材・文 ヨーコ)