45. 2017年1月20日 22:54:00 : FaRY7P3nvA : l9xpcCSgO2Q[1]
アパホテル、よく言った、よくやった、グッドジョブ。
南京大虐殺はない。
そもそも国民政府の蒋介石や軍幹部が首都陥落直前に敵前逃亡し、南京ではあまり戦闘はなかった。中国兵が軍服を脱いで(民間人に偽装した)便衣兵や不良捕虜となったため、日本軍は処断を余儀なくされた。こうした捕虜の処断は国際法に準じて行われたが、大量に処断された。このことは悲惨だった。ただし、日本軍による中国人の処断の数について中国政府が主唱し、一部の識者が追随している万の単位を超えるようなものではなく、20万、30万人という虐殺などあったはずはない。中国の反日プロパガンダ(謀略宣伝戦)だ。(事態を招いた)責任は第一義的に敵前逃亡した国民政府にある。日本軍だけに責任を負わせるのは非道で、蒋介石の責任が問われるべきだ。
安全地帯は皇居前広場の4倍しかない狭い地域で、そこに約20万の南京市民が密集していた。しかもこの人数は、日本軍入城以後、一貫して増えこそすれ、減少していない。国際委員会は住民の食糧を引き受けていたので、人口については敏感であったはずである。その彼らが人口の減少を1度も言っていない。常に、「人口は20万だ、25万だ」と言っているのである。要するに、安全地帯の中では目に立つ殺人はなかったということである。
また、安全地帯を警備した日本軍は金沢聯隊の第一、第二大隊で、合わせて1600人ほどであった。しかも、日本兵は夜間の外出を禁止されていた。それなのに、日本兵は一晩に1000人もの女を強姦したという。荒唐無稽な話である。
しかるに、日本軍の入城を前に中国軍は逃亡し、日本軍は平和裡に城内に進入したので、日本軍入城とともに安全地帯はすでにその必要性を失っていた。
だが、アメリカ人の宣教師たちは安全地帯の存続に固執し、住民の住居と食糧の配分権を握って、彼らを行政的に支配しようとした。しかし、これは日本軍の占領政策に違背することが多く、日本側はこの動きを止めさせようとしたため、日本軍とアメリカ人との間には確執が絶えなかった。
そこでアメリカ人たちは、日本軍が兵士を統制できず、兵士は残虐行為をして住民を苦しめているという噂を集めて日本側に突き付け、自分たちが行政を司る必要があると主張した。この集積が『南京安全地帯の記録』という日本軍の暴虐事例集となり、後の「南京事件」の骨格をなしたのだ。
食糧と住居を握られた中国人は、アメリカ人の意のままに動いた。宣教師たちがこういう行動をとったのは、南京市民を日本軍に渡さないことで中国に恩を売り、布教上の地位を有力にするためであった。
これを「原初的南京事件」と呼んだが、そこではただ日本軍の無統制を立証できればよく、殺人など事件の種類やその程度は問題ではなかったのである。
そして、この日本軍の暴虐事例は、国民党政府の直ちに利用するところとなった。蔣介石の顧問をしていた南京大学のベイツがその意を受け、この事例を『戦争とは何か』を通じて編集し直し、「南京安全地帯の事例」から「南京事件」を作り上げたのだった。
中国の首都・南京で起こった罪もない市民の大量殺人事件、つまり戦時プロパガンダとして、諸外国に日本軍の戦時における残虐性を示すものとして宣伝したのである。
2014.12.28 11:10
【歴史戦 第8部 南京「30万人」の虚妄(4)後半】
「責任は敵前逃亡した蒋介石に」 NYタイムズ元東京支局長に聞く
http://www.sankei.com/world/news/141228/wor1412280009-n1.html
ーーなぜ『南京大虐殺』は事実ではないのか
「文献によると、南京市内のあちこちで散発的な暴力行為はあったが『大虐殺』という言葉を使って南京で起きたことを語るべきではない。虐殺はとても血なまぐさく目撃した人の記憶に残るものだが、むしろ日本軍が占領したことで、治安が回復した。『虐殺』より『事件』と呼ばれるべきだ」
ーーその理由は
「そもそも国民政府の蒋介石や軍幹部が首都陥落直前に敵前逃亡し、南京ではあまり戦闘はなかった。中国兵が軍服を脱いで(民間人に偽装した)便衣兵や不良捕虜となったため、日本軍は処断を余儀なくされた。こうした捕虜の処断は国際法に準じて行われたが、大量に処断された。このことは悲惨だった。ただし、日本軍による中国人の処断の数について中国政府が主唱し、一部の識者が追随している万の単位を超えるようなものではなく、20万、30万人という虐殺などあったはずはない。中国の反日プロパガンダ(謀略宣伝戦)だ。(事態を招いた)責任は第一義的に敵前逃亡した国民政府にある。日本軍だけに責任を負わせるのは非道で、蒋介石の責任が問われるべきだ」
ーー「外交は無形の戦争である」と語った蒋介石は国際情報戦に力を入れた
「国民政府は戦わず情報戦を仕掛けた。中央宣伝部が巧みに欧米のジャーナリストを取り込み『大虐殺』を捏造(ねつぞう)した」
英語で立場発信を
ーー著書では、慰安婦問題について「実体は、『性奴隷』では全くない。『売春婦』だ」と記した
「中国と韓国は日本が反論しないため、捏造してプロパガンダを繰り返し、欧米のメディアが追随している。『南京』も『慰安婦』も、このままでは世界から糾弾され続ける。日本は全ての事実を明らかにし、英語で日本の立場を世界に発信してゆくべきだ。訴え続けなければ歴史的事実として確定してしまう」
ーー『虐殺』の存在を否定した欧米人ジャーナリストとなった
「この10年で北村稔、東中野修道ら日本の学者によって研究が進み、中国側史料からもいわゆる『虐殺』はなかったということが明白になってきたからだ。日本を深く知れば知るほど、『南京虐殺』に対する認識が変わった」
ーー他の欧米ジャーナリストから批判されたか
「出版以来、外国特派員の同僚や英国の友人から『クレージー』『子供じみている』など多くの批判を受けた。しかし、仲間から『リビジョニスト(歴史修正主義者)』『右翼』などと呼ばれようと自分の主張は変えない。この主張に自分の存在をかけている。たとえ1人で孤立しても、それを誇りに、信念を持って世界に伝えたい」
東京裁判は復讐劇
ーー「勝者の裁き」を受け入れた「東京裁判史観」からの脱却を著書で訴えた
「来日当時は戦勝国史観を疑うことなく信奉していたが、半世紀にわたり日本と日本人を知るうちに、そもそも東京裁判は戦勝国の復讐(ふくしゅう)劇であると考えるようになった。戦勝国が全能の神であるかのように日本の罪を裁くことに違和感を覚えた。実際にインド人判事のラダ・ビノード・パールは『全員無罪』とした。オーストラリア人高裁判事のデール・スミスは30年研究して『司法殺人?』と題する本を出版している。ところが戦後の日本が東京裁判に基づいた歴史観を受け入れたかのような政治・外交姿勢を取り続けているのは、情けなく愚かなことだ。史実に反するプロパガンダである東京裁判史観から脱却しなければいけない」
具体策は
「外務省はじめ政府が真実を世界に発信しなければいけない。国を挙げて宣伝のためのシンクタンクを設立するのも一考だ」
◇
【プロフィル】ヘンリー・S・ストークス 1938年英国生まれ、61年オックスフォード大学修士課程修了後、62年英紙フィナンシャル・タイムズ社に入社し、64年に初代東京支局長に就任。その後も英紙タイムズや米紙ニューヨーク・タイムズの東京支局長を歴任した。作家の三島由紀夫とも親交があった。
◇
この企画は岡部伸、上海・河崎真澄、田北真樹子、ロサンゼルス・中村将、北京・矢板明夫が担当しました。次回は南京攻略に参加した日本兵の証言を特集します
2017.1.18 00:09更新
【歴史戦】
アパホテルを中国外務省が批判 客室の書籍「南京大虐殺」を否定
http://www.sankei.com/politics/news/170118/plt1701180004-n1.html
【北京=西見由章】日本のビジネスホテルチェーン大手のアパグループが運営するアパホテルの客室に、「南京大虐殺」や「慰安婦の強制連行」を否定した書籍が備えられていることに対し、中国外務省の華春瑩報道官は17日、「日本国内の一部勢力は歴史を正視しようとしない。正しい歴史観を国民に教育し、実際の行動でアジアの隣国の信頼を得るよう促す」と述べた。中国外務省が日本の民間の言論にまで批判の矛先を向けるのは異例だ。
華氏は「強制連行された慰安婦と南京大虐殺は、国際社会が認める歴史的事実であり、確実な証拠が多くある」と主張した。
この問題はアパホテルに宿泊した中国人と米国人の男女が12日、中国版ツイッター・微博で書籍について指摘し、中国国内のネット上で非難の声が上がっていた。中国共産党機関紙、人民日報系の環球時報は、日本で営業している中国の旅行社がアパホテルの取り扱いを中止したと報じた。
2017.1.18 00:11更新
【歴史戦】
「南京大虐殺」否定書籍 アパホテル「撤去しない」
http://www.sankei.com/politics/news/170118/plt1701180005-n1.html
中国国内で非難の声が上がっているのは、アパグループの元谷外志雄代表のエッセーをまとめた本とされる。アパグループは17日、客室から撤去する考えがないとする見解を公式サイト上に掲載した。
同社は「特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたもの」と説明。その上で「日本には言論の自由が保障されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならない」との考えを強調した。
アパホテル、よく言った、よくやった、グッドジョブ。
南京大虐殺はない。
「城内は空っぽでした。兵隊どころか、住民も、誰もおらんでした」
南京攻略戦に参加し、昭和12年12月13日の陥落後に南京城に中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)の目の前には、無人の市街地が広がっていた。
少し前まで、門をめぐって日中両軍の激しい攻防戦が繰り広げられていたが、壊滅状態になった中国軍兵士が城外へ一斉に逃げ、城内は一転して静寂に包まれていた。中に入ると、厚さが約40センチもある門扉の内側に、進入を阻むための土嚢(どのう)ががっちりと積まれていたのを覚えている。
南京城の広さは約40平方キロメートル、JR山手線が囲む面積の3分の2程度だ。城内には、れんが造りの平屋の民家が多かったが、どれも無人だった。住民らは城内に非武装中立地帯として設けられた「安全区」に逃げ込んでいた。
「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」と城は断言する。
当時の軍隊に欠かせない馬を管理する任務を帯び、前線部隊と行動をともにしてきた城は、戦闘の様子をつぶさに見てきた。
多数の死傷者を出しながらも11月中旬に上海を攻略した日本軍は、長江(揚子江)の上流約300キロにある南京を目指した。当時、中華民国の首都だった南京は周囲を堅牢(けんろう)な城壁で囲まれ、約20の門があった。
中華民国トップの蒋介石は11月中旬、内陸にある重慶への遷都を決断し、12月7日に南京を脱出。南京市長ら要人の脱出が続く中、日本軍は降伏を勧告したが、拒否してきたため12月10日、総攻撃を開始した。
上海攻略戦で杭州湾に敵前上陸した第6師団も、南京に向けて敵と交戦しながら進軍。南京の南側から攻撃に参加した。
「それは激しか戦いでした」。城らの前には、高さ20メートルほどのれんが造りの城壁がそそり立っていた。城壁に構えた敵陣地からの攻撃、城壁の前に横たわった水濠(すいごう)が行く手を阻んだ。「重砲や野砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ壁にはしごをかけて日本の兵隊がよじのぼって占領していったとです」
戦後、東京裁判はこう断定した。
「南京占領直後から最初の2、3日間で少なくとも1万2千人の男女子供を殺害、1カ月で2万の強姦(ごうかん)事件を起こし、6週間で20万人以上を虐殺、暴行や略奪の限りを尽くした」
その後、中国側は「30万人が虐殺された」と主張するようになったが、城は首を横に振る。
「城内では遺体も見とらんです」
上海から南京に進軍する途中では、中国人の遺体を目撃している。塹壕(ざんごう)で何十人の中国兵が死んでいることもあった。
「そりゃ、敵と交戦しながら進むけん。こっちもあっちにも遺体はありましたが、女や子供、年寄りの遺体は見たことはなかです」
進軍は不眠不休で続き、夜が明けると敵兵約30人が目の前を歩いていたこともある。夜間に敵と交戦した後、同じ連隊の兵士が「多くの敵を斬った」と話しているのを聞いたこともあった。1週間ほど滞在した南京でも何かあれば仲間内で当然耳に入るはずだが、虐殺は一切聞いていない。
城が所属した第6師団は熊本で編成された精鋭部隊で、中国では「世界で一番強い」と恐れられていた、という。その師団の一員だったことは、城らの誇りだった。だが、南京攻略時に師団長だった中将、谷寿(ひさ)夫は戦後、「南京虐殺の責任者」との罪で戦犯となり、処刑された。
「哀れですばい。師団長は何もしとらんのに」
城は憤りを隠せない。77年たった今も脳裏に浮かぶのは仲間の姿だ。南京城壁から狙い撃ちされ、敵弾に次々と倒れていった。
「それでも日本の兵隊は強かですばい。弾がどんどん降る中でも前進していく。国のため国民のため突っ込んでいくんですけんね」
戦後、獣医師として働き子供4人、孫とひ孫計22人に恵まれたが、当時を語り合える戦友は誰もいなくなった。間もなく99歳を迎える城は、無数のしわが刻まれた手をかざしながら仲間の無念を代弁する。
「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。貶(おとし)められるのは我慢ならんです」
2017.1.18 20:24更新
【歴史戦】
中国外務省がアパホテルの「書籍」批判 愛国キャンペーン強化か 今秋の共産党大会控え
http://www.sankei.com/world/news/170118/wor1701180048-n1.html
【北京=西見由章】日本のビジネスホテルチェーン大手のアパグループが運営するアパホテルの客室に「南京大虐殺」や「慰安婦の強制連行」を否定した書籍が備えられていることに対し、中国外務省の報道官が異例の批判を行った。5年に1度の中国共産党大会を今秋に控え、国内では歴史問題を前面に出した愛国キャンペーンで党や指導部の求心力を高めようとする兆しもある。
これまで中国外務省は日本の靖国神社について「戦争を美化している」と決めつけながら一般国民の参拝には反対しない立場を示すなど、歴史問題に関しては政府や政治家と国民の間で一定の線引きをしてきた。
この問題は中国共産党機関紙、人民日報系でタカ派の論調で知られる環球時報が連日報道し、外務省報道官のコメントも同紙の記者の質問に答えたものだ。同紙が17日、ネット上で「中国による国家としてのアパグループ制裁を支持するか」とのアンケートを実施したところ、3万3千人以上が参加し、うち82.9%が支持を表明したという。
中国の歴史教育をめぐっては、教育省が「抗日戦争」の期間についての歴史教科書の記述を8年から14年に修正するよう各地方に通知したことが判明。抗日戦争の意義を拡大し共産党の貢献を強調する狙いがあるとみられる。一方、中国北京市の蔡奇代理市長は14日、人民代表大会(市議会)で今年の任務として「愛国主義教育を強化し、全民族抗戦勃発80周年の関連イベントを成功させる」と述べた。抗日戦争の開始時期を1931年の「柳条湖事件」にさかのぼらせる一方で、従来の起点とされてきた「盧溝橋事件」の記念イベントも盛大に行う姿勢を示した格好だ。
2017.1.18 17:13更新
【歴史戦】
中国のアパホテル批判に菅義偉官房長官「過去の歴史に過度な焦点当てるな」と応戦
http://www.sankei.com/politics/news/170118/plt1701180028-n1.html
菅義偉官房長官は18日の記者会見で、アパホテルの客室に「南京大虐殺」や「慰安婦の強制連行」を否定した書籍が備えられていることを中国外務省の華春瑩報道官が批判したことについて「報道官の発言一つ一つに政府としてコメントすることは控えたいと」述べた。
その上で「過去の不幸な歴史に過度な焦点を当てるのではなく、日中両国が国際社会が直面する共通の課題、そして未来志向に向けて取り組んでいる姿勢を示すことが重要だ」と指摘した。
2017.1.18 00:11更新
【歴史戦】
「南京大虐殺」否定書籍 アパホテル「撤去しない」
http://www.sankei.com/politics/news/170118/plt1701180005-n1.html
中国国内で非難の声が上がっているのは、アパグループの元谷外志雄代表のエッセーをまとめた本とされる。アパグループは17日、客室から撤去する考えがないとする見解を公式サイト上に掲載した。
同社は「特定の国や国民を批判することを目的としたものではなく、あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたもの」と説明。その上で「日本には言論の自由が保障されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならない」との考えを強調した。
アパホテル、よく言った、よくやった、グッドジョブ。
南京大虐殺はない。
盧溝橋事件を発端に昭和12年7月に始まった日中戦争は、局地紛争にとどめようとした日本政府の思惑と裏腹に中国全土に飛び火し、抗日運動を活発化させた。そんな中、占領した地域の治安を回復させ、これに感謝した中国人が留任を求めた日本軍指揮官もいた。
福建省厦門を海軍第5艦隊の作戦部隊が占領したのは南京事件から約5カ月後の13年5月のことだった。14年11月から島(とう)嶼(しょ)部、禾山地区の海軍陸戦隊司令(部隊長)を務めた大佐(当時は少佐)、堀内豊秋は住民と交流を深め、荒廃した地域を復興させた。公正な裁判を実施し、治安を回復させ住民の信望を集めた。
15年5月、堀内交代の報が伝わると、住民は転任延期を求める嘆願書を現地最高司令官の少将、牧田覚三郎に提出した。
広島県呉市江田島にある海上自衛隊第1術科学校(旧海軍兵学校)内にある教育参考館には、嘆願書の複製がある。元館長、三村広志(97)が見つけた。
黄季通ほか103人の連名、押印の中華民国29(昭和15)年5月1日付嘆願書にはこう書かれていた。
「蒋(介石)政権が無理に抗日を唱えて民衆を扇動したことから禍が始まった。彼らは強制的に壮年男子を徴兵し、献金を強要するなど区民は痛ましい不幸に遭遇した。事変(日中戦争)が起こって住民は離散し、豊かな土地は廃虚と化し、田畑は荒れて家々は傾き、見る影もなくなった」
「堀内部隊が本島に駐留して以来、利を起こして弊害を取り除き、信賞必罰を徹底して教育を普及し、農業を振興して橋や道路を造り、廃れていた衛生設備を直し、短期間に荒廃の区を良くさかえる域に戻した。海外に出ていた多くの華僑も(中略)善政のもとに復興しつつあることを知って、島に帰って(中略)昨年1年間に復帰定住した人の数は10年来の記録となった」
「堀内部隊長らを長期にわたって駐留させて頂ければ、島民を幸福に導き、種々の業務がさらに復興すると考える(中略)。全島の住民が安住して生活を楽しみ、東亜和平の人民となろう。謹んで衷心から転勤延期を切望するものである」
堀内が15年10月に去るに当たり、住民108人は寄付を募り「去思碑」という記念碑を建立し、堀内の徳をたたえた。しかし、戦後、中国共産党によって碑は破壊され、残存していない。三村は「占領した地域を復興させ、治安を回復させ、中国の住民から感謝された堀内大佐の遺勲を忘れず、語り継いでほしい」と話している。
昭和12年12月の南京攻略戦をめぐる東京裁判の判決は、旧日本軍が残虐の限りを尽くしたと断定した。
日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。まるで野蛮人の一団のように放たれ、何の規律もなく、多くの兵は酔っていた。何ら口実もないのに中国人男女や子供を殺害し、死体は大通りに散乱、幼い少女や老女も含めて強姦(ごうかん)事件を起こし、射殺しては多くの住宅から略奪品を運び去った…。
これが真実ならば、規律と統制を失った集団の、見るに堪えない不法行為の数々である。だが、元将兵の証言によると攻略後の城内は虐殺とはほど遠い平穏さがあった。加えて、軍には厳しい規律があったとの証言もある。
「私だけでなく戦友や日本軍の名誉にもかかわる。悔しい思いをしました」
元陸軍第16師団歩兵第20連隊伍長の橋本光治(99)は、身に覚えのない「虐殺者」の汚名を着せられたことに、今も怒りを禁じ得ない。
昭和62年から平成元年にかけて、橋本の部下だった元上等兵らが出版した3冊の本の中で、橋本は「中国人を郵便袋の中に入れ、ガソリンをかけて火をつけ、手榴(しゅりゅう)弾を袋のひもに結びつけて沼の中にほうり込んだ」と描写された。
橋本は名誉毀損(きそん)で元上等兵らを訴え、「客観的証拠もなく、真実とは認めるに足りない」として、1審から最高裁までいずれも橋本勝訴の判決が下った。そもそも、当時の郵便袋の大きさでは、成人男性を到底入れることはできなかった。
「戦争中も軍紀は守られていた。そんな残虐行為ができるわけがない」
橋本は昭和12年12月13日に南京入りし、23日まで城内外の敗残兵の掃討に参加した。翌月下旬に南京を離れるまで、1度だけ長江(揚子江)河畔の下関という場所で、捕虜となった中国人の男が使役されているのを目撃したが、一般住民の姿は見かけていない。
「婦女子に手をかけてはいけないと厳命されていたし、夜間外出は禁止され、任務以外に自由な時間はありませんでした」
橋本は日本の司法制度のもと、名誉を回復することができた。しかし、東京裁判は、元将兵にとって「身に覚えのない蛮行」の数々を断罪、弁護側の反論は一切聞き入れられなかった。
判決では「攻略後最初の2、3日で1万2千人の殺害」という検察側の証言だけを採用した理由には触れられず、「1カ月間で2万の強姦」も数字の明確な根拠が示されなかった。
こうした「不法行為」の多くが行われたという城内の「安全区」で、将兵はどう振る舞ったのか。軍は細心の注意を払っていたという証言がある。
「安全区の掃討には厳重な命令がありました」
南京戦に参加した元将兵らが集まり平成19年に東京で開かれた「南京陥落70年国民の集い 参戦勇士の語る『南京事件』の真実」で、元第9師団歩兵第7連隊伍長、喜多留治=当時(89歳)=はそう話した。
安全区では、軍服を脱ぎ捨てて民間人になりすました便衣兵の掃討が、南京城陥落直後の昭和12年12月14日から始まり、喜多はこれに参加。安全区の警備も担当した。住民に十分配慮することや、掃討では将校の指揮に必ず従うことを命じられたという。
掃討は同じ師団の金沢と富山の連隊が担当し、他部隊が安全区に入らないよう「金沢」「富山」という合言葉まで使っていた。喜多は略奪や強姦は「ありえないことです」と語った。
南京攻略戦に参加した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)も軍紀で思い出すことは多い。
城は日米開戦後の昭和17年末に南方作戦に参加するまでの5年間の大半を中国戦線で過ごした。その間、城らは中国人の集落に駐留することもあった。日本軍と住民を分けるため集落の中央に線を引き、住民側に一歩も入ってはならないと厳命された。
「憲兵がおりますけん、違反はできんし、われわれも絶対にせんかった。軍紀はそれほど厳しかったとです」
東京裁判で弁護側は南京攻略戦はほかの戦場と変わりなかったと反論している。城も中国戦線で軍の規律が一様に保たれていたと強調した。
ではなぜ、南京での「残虐性」がここまで突出するのか。城は「おかしかことですたい」と言って、ため息をついた。
2017.1.19 18:41更新
【歴史戦】
華春瑩・中国報道官「日本の頑迷な人々は大虐殺記念館訪問を」
http://www.sankei.com/politics/news/170119/plt1701190019-n1.html
【北京=西見由章】中国外務省の華春瑩報道官は19日の記者会見で、アパホテルの書籍問題に関連して菅義偉官房長官が未来志向の重要性を示したことに反論し、「日本国内で誤った歴史観を頑迷に固持する人々に、南京大虐殺記念館を訪れ良識を取り戻すよう心から提言する」と述べた。
2017.1.19 12:00更新
【歴史戦】
新華社の女性記者らが新宿のアパホテルに潜入 「右翼思想宣伝に全力」と批判
http://www.sankei.com/politics/news/170119/plt1701190013-n1.html
中国外務省が日本のアパホテルに対し、「南京大虐殺」や「慰安婦強制連行」などを否定する書籍を客室に備えたと批判している問題で、国営新華社通信は18日、女性を含む複数の記者を東京新宿区のアパホテルに派遣して“潜入取材”を行い、「実地調査、怒りの上にまた怒り」と題する映像ニュースを配信した。
映像によれば、ホテルに入った記者らはまず、フロントに「右翼書籍」が販売されていることを“発見”した。その後、客室に入った女性記者は、「このような狭い空間にもかかわらず、アパホテルは右翼思想の宣伝に全力を傾注している」と話しながら、テーブルの上の鏡のわきに備えた書籍「本当の日本の歴史」などを手に取り、「これはこのホテルのCEO(最高経営責任者)が書いた本だ。南京大虐殺と慰安婦を否定している」と説明した。
その上で、書籍は日本語と英語で書かれていること強調し、「アパホテルはこのような形で日本国民と、世界各地からくる外国人観光客に右翼思想を広めようとしている」と話した。
映像の最後は、ホテルを出た記者の取材を受けたオーストラリア人と中国人の観光客の「歴史を否定するホテルなら私は利用しない」「このホテルに二度と行くなと広く呼びかけるべきだ」といった同ホテルへの不満のコメントを紹介した。
同記事は中国国内の各インターネットサイトに広く転載された。「中国人の日本への渡航を禁止すべきだ」「みんなでアパホテルをボイコットしよう」といった批判な書き込みが多く寄せられた一方、「この記事はアパホテルへの営業妨害行為ではないか」といった冷静な声も散見された。
◆動画はこちら(外部サイト)
http://v.ifeng.com/news/society/201701/017ae4db-e28e-4750-84cf-35430e723d1d.shtml
札幌冬季アジア大会の組織委員会、アジア・オリンピック評議会(OCA)、アパホテルに言いたいが、「南京大虐殺」などを否定する書籍を撤去したら、日本が不快に思う。
「南京大虐殺」などを否定する書籍を不快に思う国があれば、2017年2月19日に開幕する札幌冬季アジア大会に参加しなければいい。
札幌冬季アジア大会の組織委員会、アジア・オリンピック評議会(OCA)、アパホテルは中国の不当な圧力に屈してはいけない。
2017.1.20 20:17更新
【歴史戦】
アパホテル、札幌冬季アジア大会中は書籍撤去か 組織委が「快適な空間の提供」を要請 中国からの批判受けての措置は否定
http://www.sankei.com/life/news/170120/lif1701200038-n1.html
アパホテルの客室に置かれている「理論 近現代史学II」
http://www.sankei.com/life/photos/170120/lif1701200038-p1.html
「南京大虐殺」などを否定する書籍を客室に備えたとして、中国外務省が日本のアパホテルを批判した問題で、2月19日に開幕する札幌冬季アジア大会の組織委員会が、選手村となっているアパホテルに「選手が快適に過ごせる空間の提供」を要請していることが20日、分かった。
組織委によると、選手村になるのは札幌市南区のアパホテルと中央区の別のホテル。2月16〜27日は組織委がアパホテルを借り上げ、31カ国・地域の選手ら約1500〜1600人が滞在する。
NHKは19日、組織委が中国側に配慮して、ホテル側に問題となっている書籍の撤去を要請したと報道。組織委は具体的な要請はしていないと主張し、NHKに抗議したことを明らかにした。
ただ、かねてから「偏見や差別がないよう宗教、文化、民族に配慮した対応をすること」を申し入れていることは認めた。最終的には、大会を主催するアジア・オリンピック評議会(OCA)と協議するとしている。
高橋はるみ知事は20日の定例会見で、「冬季アジア大会、観光立国・北海道という立場からすると、それぞれの国々の方々に気持ちよく泊まっていただきたい。あまり不快な思いを持ってもらうのはどうなのかなと率直に思う」と述べ、アパホテルの今後の対応を見守る考えを示した。
一方、ホテルを運営するアパグループは、選手村としての打診があった段階で、組織委の担当者から口頭で「客室内すべての情報物の撤去」を要請されたと説明した。
その上で、「言論の自由があり、批判されたことで書籍を撤去することは考えていないが、ホテルとして利用者の要望にできるだけ沿うようにするのは当然のため、組織委の意向に従うことになると考える」と書籍の撤去を示唆した。
南京大虐殺はない。
南京攻略戦で旧日本軍を率いた元司令官の大将、松井石根(いわね)にとって「南京大虐殺」は寝耳に水だった。戦後、東京裁判で松井はこう証言している。
「(大虐殺は)公的な報告を受けたことがなく、終戦後米軍の放送で初めて知った」
戦勝国による追及が始まる中で現れた「南京大虐殺説」。その責任者として松井は昭和23年11月12日、戦犯として死刑判決を受け、12月23日に絞首刑に処せられた。70歳だった。
「松井大将は清廉潔白だった」
元陸軍第36師団歩兵第224連隊の少尉、内貴(ないき)直次(93)は戦後、松井の元私設秘書、田中正明から幾度となく聞かされた。田中は11年に松井に随行し中国を訪れた。戦後は近現代史の研究者として活動、平成18年に94歳で亡くなるまで虐殺説に反論した。
昭和18年夏ごろ、南京に約1カ月間滞在した経験のある内貴自身もこう言う。
「南京に入ったのは攻略戦から6年後。街は商店や人であふれ、平和な様子だった。もし、大虐殺があれば、住民の恨みを買い、われわれは平穏に駐留できなかったはずだ」
国際法に留意
昭和12年7月、日中戦争が勃発すると、予備役だった松井は上海派遣軍司令官に就任。上海、南京攻略戦で軍を率いた。南京攻略を控え、松井は部下に「注意事項」を示し、何度も軍紀・風紀の徹底を図り、捕虜を正しく扱うことや、住民に公正な態度を取ることを指示。顧問として法学者を南京に帯同しており、国際法に注意を払っていたこともうかがえる。
12年12月17日に南京に入城した松井は、当時の様子をつづった日記を基にした供述書で「巡視の際、約20人の中国兵の戦死体を見たが、市内の秩序はおおむね回復した」といった内容を述べている。一方で入城後に一部の兵による軍律違反の報告を受けており、法廷でこうも証言した。
「南京入城後、非行が行われたと憲兵隊長から聞き、各部隊に調査と処罰をさせた」
非行件数はどの程度なのか。松井の部下は裁判前の尋問で「10か20の事件だった」と述べている。だが、判決はこう断罪した。
「自分の軍隊に行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももたらさなかった。自分の軍隊を統制し、南京市民を保護する義務と権限をもっていたが、履行を怠った」
また、南京攻略後に松井が帰国したことをめぐり、検察側は日本が南京での多数の不法行為の責任を問い、司令官の職を解き召還したという構図を持ち出した。松井は「それは理由にはならない。自分の仕事は南京で終了したと考え、制服を脱いだ」と明確に否定したものの、反論は一切聞き入れられなかった。
「南京で2万の強姦(ごうかん)、20万人以上の殺害があった」と断定した東京裁判だが、松井に対する判決では「南京陥落から6、7週間に何千という婦人が強姦され、10万人以上が殺害」とそれぞれ数を引き下げた。
蒋介石と親交
もともと松井は、孫文が唱えた「大アジア主義」に共感し、志願して中国の駐在武官を務めたほどだった。中華民国トップの蒋介石とも親交があり、蒋が日本で暮らした際には生活の支援をした。その蒋が喧伝(けんでん)した「大虐殺説」によって松井は命を落とした。
松井は昭和15年、上海と南京の土を使い、静岡県熱海市に興亜観音像を建立。日中両軍の戦死者を弔い続けた。戦後、傷みだした建物などを保護しようと、陸軍士官学校58期の元将校らが「守る会」(平成23年解散)を設立、田中が会長を務めた。
58期の元少尉の和田泰一(89)は、「普通は敵兵の慰霊はしない。だからこそ、松井大将の思いを残さなければと皆が感じていた」と語り、こう続けた。
「当時の記録を読めば事実は別にあることは明らかなのに大虐殺説を許してきた私たちの責任も大きい」
戦前・戦中を全否定するような風潮の中で大虐殺説は日本人にも「定説」としてすり込まれていった。
昭和21年春、松井は収監前夜、親しい人を集めた席で次のような言葉を残した。
「願わくば、興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々(うんぬん)では浮かばれない」(敬称略)
◇
【戦犯】連合国は戦争指導者らを通常の戦争犯罪ではない「平和に対する罪」(いわゆるA級戦犯)として、東京裁判で裁いた。東条英機、広田弘毅両元首相、松井石根大将ら7人が絞首刑、16人が終身禁錮刑の判決を受けるなど途中死亡者ら3人を除く25人全員が有罪となった。
ドイツで行われたニュルンベルク裁判では有罪となった19人のうち16人までが「人道に対する罪」に問われた。日本ではこの「罪」はだれにも適用されなかった。
日本人で唯一「人道に対する罪」の嫌疑を掛けられたのは中国の首都南京を攻略した松井石根大将です。連合国側(検事)はあらゆる手段を用いて、松井大将を中国人の大量虐殺(南京大虐殺)を計画実行した罪で有罪にしようとしましたが、結局これを立証できませんでした。つまり、全ての検事・判事を連合国側が独占し、被告側に著しく不利な状況にあっても、日本がナチスドイツのような、国家の政策(軍の作戦)として計画的に民間人を大量虐殺したこと(「人道に対する罪」)を立証することはできなかったのです。
しかし、結局連合国(判事)側は、松井大将を、「部下の虐殺を止めようとしたが効果がなかった」という「不作為(積極的な行動を取らなかった)」の罪で強引に絞首刑にしました。松井大将の処刑は、首都南京を占領された中国の復讐心を満たすために必要なものだったのでしょうか。
松井石根大将は、青年時代からの日中友好論者で、孫文の中国革命を支援したが、1937年(昭和12年)の第2次上海事変の際は陸軍きっての知中派として上海派遣軍司令官に任命された。
中国の首都南京の攻略戦では、全軍に対し「一般居留民並びに中国民衆を紛争に巻き込まざるよう常に留意」するよう訓令を出し、軍規風紀の厳正を伝達、「外国の権益を犯した者、掠奪行為や火を失する(誤って火事を出す)者は厳重に処罰すべし」と命じた。1937年(昭和12年)12月13日、日本軍の攻撃で、南京は陥落、松井石根大将は、それから5日目に入城したが、軍規違反の報告(今日言われるような民間人大虐殺の報告ではなかったが)を受けると直ちに違反者を出した部隊を南京から退城させた。また、松井石根大将が上海に引き揚げた後、南京警備で残した部隊に不法行為のあることを聞くと、違反者の厳罰と損害賠償を訓令している。
翌1938年(昭和13年)凱旋帰国した松井石根大将は、熱海伊豆山に居を構えたが、両軍に多くの戦死者が出たことを悲しみ、日中両軍将兵の霊を弔い両国の友好を願ってこの地に観音像の建立を思いたつ。この観音像は、大場鎮や南京などの激戦地の土を取り寄せて作られ「興亜観音」と名付けられるのである。松井石根大将は、雨の日も風の日も、山上の観音堂まで2qの道を登って参詣し、読経三昧の生活を送ったという。
しかし、1948年(昭和23年)12月23日、 松井石根大将は、理不尽にも東京裁判で戦犯として裁かれ、絞首刑に処せられるのである。
辞世には次の一首がある。
<天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く>
http://www.asyura2.com/17/senkyo219/msg/378.html#c45