1. 2017年12月04日 11:00:39 : plIntPKPUM : KP91MiwmywY[1]
仮にニューヨーク市長のデブラシオがニューヨークタイムズを市長室では購読しなと言ったら、侮蔑、軽蔑の対象になっただろう。
もっとも、異色の左翼活動家と評されるデブラシオがNYタイムズを購読しないわけはないが、ガチガチの共和党支持派だったジュリアーニにしろ、ブルームバーグにしろ、NYタイムズを読まなかったということはないだろう。
朝日とNYタイムズの比較がぴったりと当て嵌まるわけではないが、ざっくり言って、似たような主張のメディアと言ってもいいのでは?(反論を承知の上で…)
区であっても市レベルであっても、県であっても、国であっても、その行政レベルのリーダーたるものは右の声から左の声、小さな声であっても大きな声であっても、すべての耳を傾けるのが民主国家である。こうした声の中からの取捨選択がリーダーとしての資質につながる。
気に入ったメディア(らしき)ものの報道しか読まない、あるいは観ないのであれば、その好き嫌いは偏狭な国粋、“県粋”、“市粋”、“区粋”の独裁へとつながる懸念が膨らむ。それぞれの行政レベルの長の気に入らない意見の抹殺である。
平戸市長のツイッターに「いいね」をしたフォロワーが果たして平戸市民だったのか。いわゆるウヨ連中が「いいね」をしているのであれば、まだ平戸市は救われるが、平戸市民が「いいね」の主体であったとすれば、悲しいかな、日本に、少なくても平戸市に民主主義は根付いていないと断言できる。
まあ、デブラシオが右に偏向的なフォックス・テレビのニュースを観なかったとしても、それを自慢げに「わたしはフォックスを観ない」と言うようなことはない。それは最低限の人間としての品格である。
わたしが「産経と読売は読まない。NHKとフジは観ない」と口にしてしまうのとは違うデブラシオの豊かな人間性だ。
デブラシオという人物が台頭し、彼をリーダーに選んだニューヨーク市民をうらやましく思う。
http://www.asyura2.com/17/senkyo236/msg/634.html#c1