10. 2018年8月22日 23:42:29 : 0zCSmOLaxA : JRiZew8xHOU[1]
私は、今のオリンピックの価値を全く認めておらず、大金を使って開催する意味がないと考えているので、ボランティアにも興味がない。
人々がオリンピックというと、どうしてこんなにも乗せられるのかわからない。従って、尾畑さんについてとやかく言おうとは思わない。
今やオリンピックは、プロや国策プロが大手を振って参加し、アマチュアの祭典ではなくなって久しい。
「見通しがアマチュアリズムのクーベルタン 今や五輪はプロとセミプロ」
各国が国策でオリンピックにサーカスの役割を演じさせるため、またメデイアを含むコマーシャリズムで利益を得るため、IOCに媚を売り、大金を使って自国での開催を競っているのは愚かしい限りである。
勝負を伴うスポーツは勝つのが良く、負けるのが悪いのであり、単純明快で楽しみやすい。しかし、ともすれば弱肉強食という風土となりやすく、頭も単純になりがちである。スポーツ界の不祥事多発は、このあたりにあるのかもしれない。
すなわち勝つためには、何でもありの世界となり易く、現に競技終了直後に選手は、同性の検査官が見守る前で尿を直に採取しなければならない。100%疑われているわけであり、フェアプレイを旨とする選手にとって、こんな不名誉なことはないのではないか。
私も若い時から大いにスポーツを楽しんできた。スポーツは本来、国民一人一人が人生を楽しむ(副産物として健康維持増進)ために行うべきであって、一握りのプロやそれに近い者が必要以上に崇められるという風土は、本末転倒している。
身体や運動神経がよいのは頭がよいのと同じで、人の持つ能力の一つでしかなく、記憶力だけが秀でていても評価されないように、トータルな人格としての評価が求められている。
スポーツマンが「健全な精神は、健全な身体に宿る」と自画自賛しそうだが、「宿れかし」が正しく、上述のように、そうならないから「宿れかし」と古代ローマの風刺詩人が揶揄しているのである。「パンとサーカス」、まさしく昔から人はそんなに進化していないのではないか。