5. 2018年2月12日 13:47:27 : 1IMnyW8qpw : JFuCErX3tJE[1]
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>>吉田松陰は英国エセユダヤ死の商人グラバーのあやつり人形と
なって
意図してそのように手先となってあやつられたという訳ではないだろう。
そのような曲がった解釈による誤った捉え方をするものがいればこそ、売国奴連中の松陰支持が後を断たないのである。
だからといって、わたしはそこに反発はしない。
それで吉田松陰の生きた時代の人間の考え方、そして松陰の一途な生き方そのもの、そして学び、体現しようとした儒教の教え全般を傷つけたくはないからだ。自らの心の声を否定する者こそ、ただ時流の風潮に流されるだけのものを愚か者だと考える。
吉田松陰の考え方とは儒教の陽明学にある。
それは心の学問であり、官僚たちの学ぶ朱子学に反対する。
松陰は誰に対しても人と見て、犯罪人にも当たり前の人の心があると見て積極的に説得した。
どんな相手にも誠を尽くせば人の心が取り戻されて正気に至るとの信念そのものとして生きた。
純真でまっすぐな生き方を最後迄貫いた。辞世の句にそれが現れているのである。
「至誠をもって動かざるもの、未だこれ在らざるなり」。
だがそれでも最期に、「その誠がまだわたしには足らなかったのだ」自戒して首を刎ねられているのである。わたしは若い時、そこに強く共鳴し賛同し涙した。
それを理解できていない者が弟子と称する連中のなかに複数居たとしてもまったく不思議ではない。
言葉の解釈よりも、自身の感情が優るだけの若い人間がかなりの数居たはずだからだ。
それでは何も学べていないのである。
そうした部分をまったく理解出来ていない現代人が何をほざこうと一向に構わない。
だが、そうして正しくかくあるべきものの本来の性質が、そのように敵対するものの口車に乗り貶められるとき、それらがこのように「のっとり」に遭うということだけは知っておいてもらいたい。
この手法でユダヤ、キリスト、日蓮、あまたの正当なる人格が貶められることになっているのだから。
尚も心あるべき人のあり方を思い、敵対せず、正しいものだけを伝え、守り続けようという心がけさえあれば人はそれで良い。そしてそういう人間が増えれば世の中は変わらざるを得ないのだと考える。
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