25. 2018年6月23日 08:08:24 : kHQW8WALGA : Jf@433O79TQ[1]
選挙が、仮に不正であったとしても^^
それは、総務省を支配する小沢さんの意図でしかない^^
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/654.html#c25
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それは、総務省を支配する小沢さんの意図でしかない^^
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/654.html#c25
これがCIAの常套手段^^
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/666.html#c11
そもそも^^
民主主義とは、先ず国家主義の否定が前提条件だ^^
国家主義が捨てられ、国際主義(グロバリズム)の定義の中において^^
Social(エリート)による共和制でいく=socialism(社会主義)^^
いや、エリート主義である社会主義も否定する=democracy(平民主義)^^
日本では、国家社会主義のマスコミが、democracyを民主主義と訳すが、正しくは平民主義^^
民主主義と呼ばれる媒体の正体は、“グロバリズムである、かつ、エリート主義の否定”だ^^
そのグロバリズムを否定している阿修羅ドパヨクが^^
民主主義に成り得るわけがない^^
なんの間違いもなく国家社会主義^^
法ではなく、官僚の規制が最上位に来る=行政独裁の体制を良しとする考え方だ^^
“官僚の規制を主権者”という、“官僚”を分別して、特別な存在として表現する単語が“commune”である^^
故に^^
“communism”日本語訳=共産主義とは、“法は無効で、官僚による人治と成る”ため、絶対主義であるのだ^^
この共産主義と偽称される“communism”に対するアンチテーゼ体制こそ、国家社会主義体制である^^
“communism”における当該国家の生産体制は、“共産”体制に成っていない^^
“共産に成らないもの”を“共産主義と呼称する”との偽計が採用されているが^^
共同生産に当たる単語は、“conservative”である^^
con 共に serve at 生産を tive 可能にするシステム^^
共の主語は“国家”と“市場=社会”で、故に国家社会主義とは、保守と呼ばれる^^
国際主義を排除=グロバリズムを否定して、国家による共同生産(共産)体制が保守なのである^^
加計学園と共同にて^^
阿修羅掲示板を威力業務妨害で訴えるべきである^^
阿修羅掲示板管理人は^^
96億円の賠償請求先について^^
当該、威力業務妨害投稿をしたIPアドレスを当局に開示することで^^
その罪を転嫁し得る^^
威力業務妨害を行なった投稿者は^^
1投稿につき96万円を支払う責務を負う^^
君の発言を権力側が許すはずはない^^
程なく、君は検挙されることだろう^^
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/699.html#c23
保守(=共産制)とは相容れない政治家である^^
小沢さんは、完全なグロバリスト(=国際主義者)である^^
しかし、国際主義の中での左派(=民主主義者・新自由主義者)であるかと言えば、そうではない^^
小沢さんは、国際主義の中では右派(=自由主義または社会主義・新保守主義者)である^^
日本での呼称を共産主義と偽る多極主義者(=コミュニスト)は^^
commune(コミューン=身内)communism(コミュニズム=身内主義)に裏打ちされた国際会議の結成を完成理想とする者^^
すなわち、科学的社会主義者であって、共産制(保守)を否定するグロバリストである^^
日本での共産主義と称する多極主義者とは、国際主義者であるのだが^^
その国際主義者を構成する者について^^
socialist(社会主義者)でこれを構成すれば新保守主義(neo-conservative)に成るところ^^
これを(commune=身内主義者)でさらに先鋭化されるという、ネイコンの強化版を共産主義と呼んでいる^^
だから、英語でcommunismと書けば、共産(共同生産)を目指し、其れを担保する考え方は何も無いことがわかるはずだ^^
コミュニスト(communist)とは、思想で分別される^^
そして、同じ(多極的)考え方を洗脳によって有した個人が^^
その目的とする被国家の国籍を取得する=すなわち当事国に植民される個体となる^^
植民地とは、この様に、国家経営者を当時国民として植え込まれる•寄生される被対象国を云うのであり^^
利益を交換するのに、有利があった不利があったと云うのは、植民地の定義に合致しない^^
科学的社会主義とは^^
この『植民を行う事で、同じ思想をした身内=communeを、狙いを定めた国家に植民させる』主義・・・と、云う事なのである^^
日本陸軍は^^
八紘一宇政策として^^
日本において高等学校(今でいう国立大学)卒業生について^^
満州国や、内モンゴル共和国、さらにはフィリピン、ラオス等に当事国の国籍取得者として送り込み^^
その同じ考え方をしている身内(commune)が、その国の国会議員と成り^^
その国の決議として、大東亜共栄圏構想に賛成するという手段において^^
日本陸軍の理想の連邦国家を建国しようとした^^
この大日本帝国陸軍の在り方=理想が、国王を廃した共和制の経済圏の確立=日本を裏切り、現在、日本官僚機構として生き延びたもの正体だ^^
大日本帝国陸軍が、科学的社会主義者=日本での自称:共産党員なのである^^
そのため、大日本帝国陸軍のうち、関東軍の高級参謀の家柄である志位和夫が^^
日本共産党の最高指導者であるのだ^^
日本共産党こそ、植民を行う犯罪実行者であり、日本における共産主義と発するcommunismこそ^^
“植民という手法”で、“他国を支配しようとの意思を持った団塊”を表す用語なのだ^^
朝鮮では「だたし」と発音するのかな?^^
特定三国人の使用する言葉で、日本人と会話するには無理がある^^
はははははははははははははははははははははははははははははは^^
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/654.html#c83
こうするも^^
ない^^
国際標準では「右翼」だからね^^
現代国際社会において、禁制とされている国家社会主義(シオニズム)的な概念を^^
民主主義と誤認するという、“おまけ”までついてる国家社会主義者=阿修羅コテ^^
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/733.html#c25
官僚の任命・罷免について^^
憲法の定めた、国民による当該行使権について^^
具体的に、その用法を定めた安倍政権に対し^^
憲法に違反して、其れを永久の受益権としていた官僚機構が^^
己の利権を受益し続けるため^^
憲法の遵守を果たそうとした安倍政権を葬り去ろうと^^
偽計と共謀によって画策された、官僚による政権自爆テロである^^
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/715.html#c8
まだ、暴露てないとでも思ってるのか?^^
聞き慣れん言葉を使いよるが^^
ネオコン=新保守主義者のことだ^^
要するに^^
共和制とは、少数主権=メンシェビッキーである^^
この辺り、民主主義の絶対的真理である「多数決至上概念」との対立構図と言える^^
また^^
『共和制とは世襲の禁止』との意味をも有する^^
この時点において^^
国王制(皇室)の廃止と共和制至上主義=社会主義は同一概念である^^
卑堕神が皇室や陛下を尊重しうるわけがない^^
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/654.html#c93
共和制=社会主義の原語である(social)とは^^
斯様↓な意味を有する^^
『社会的な・上流社会の』^^
そして^^
日本国憲法14条は、然様に記されている^^
第十四条
すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
↑^^
日本において、socialism(社会主義=共和制)の結成・結社は^^
憲法違反のため、憲法改正なき現在^^
結社を許されては、ならないのである^^
左翼=新自由主義者とは、私のような者のことを云う^^
私は、何処から見ても、正真正銘の左翼^^
国際主義者=globalist であり、かつ、非エリート主義者(民主主義者)である^^
国際主義者=globalist であるけれども、エリート主義者(社会主義者)である場合^^
民主主義を否定する者=共和制信奉者と云うことになり^^
これを新保守主義者(neo-conservative)と呼ぶ^^
国際主義を否定して=国家主義である場合^^
反グローバル主義のうち^^
国家の定義が単一民族であって、民族自決を理念の第一に掲げることをnationalism(民族主義)^^
民族主義者がnationalist^^
反グローバル主義のうち^^
前者=民族主義概念よりも、重商主義である(社会そのものと国家の一体化概念=共同生産至上主義)^^
国家社会主義=シオニズム(Zionism)と呼ぶ『保守主義=共産体制』である^^
日本では、保守(conservative)と、英語で共産体制を意味する保守主義のことを共産主義と呼ばない^^
日本で共産主義と呼ばれる物とは^^
communism(身内主義)のことである^^
また、communism(身内主義)とは^^
国家の中にあって身内主義であるばかりではない^^
なんと^^
communist(身内主義者)ばかりが国家の代表と相成って、国際社会を構成しようと云う^^
この→国際社会(左派)の完成形態を科学的社会主義(scientific socialism)と呼び^^
scientific socialismを形成する、それぞれの分子国家がcommunism(身内主義)にて構成される形^^
これが、共産主義と日本で呼称される、共産体制ではない統治形態である^^
戦前の日本における、陸軍の統治概念に極似している^^
communist(身内主義者)とは^^
(第1段階)^^
すなわち、陸軍第一高等学校(東京大学)卒業生が^^
大東亜と呼ばれる非日本である他国に対し^^
“植民”と呼ばれる現地国籍人となることで^^
その国家の軍隊ならびに議会を制御する^^
(第2段階)^^
陸軍の傀儡国家となった当事国首脳(これを八紘一宇政策と云う)によって^^
『大東亜共栄圏なる国連の地域版』が結成される^^
(第3段階)^^
その時、陸軍は、日本の陸軍ではなく、共栄圏の陸軍として^^
大日本帝国においては、天皇陛下の私兵である地位を捨て^^
天皇陛下をも配下に従える、大東亜共栄圏加盟国全ての頂点に立つ^^
(結論)^^
第二次世界大戦に参加していった日本の実態とは^^
陸軍官僚=東京大学卒業生と云うcommuneによる、天皇陛下に対するcoup d'État または^^
陸軍官僚=東京大学卒業生と云うcommuneによる、日本に対する独立戦争だったのである^^
ウラン型原爆の製法を学ぶため^^
スイスに赴いて、その設計書を日本に持ち帰ろうとした陸軍官僚の姿が描かれている^^
映画の副題『D機関』とは^^
当時、スイスに赴いて、デビッドロックフェラーの名代を務めた、サリバン法律事務所のアレンダレス^^
この、ダレス長官のイニシャル「D」である^^
ナチスドイツは^^
ブラウ作戦の頓挫によって^^
第二次世界大戦における敗戦を確実なものとされていた^^
しかし^^
ナチスドイツとスイスのバーゼルは、ウラン型原爆の生成には成功したのである^^
ナチスは、敗れ、滅び去るが^^
ナチスドイツに攻め込もうとする全ての軍隊を^^
自爆テロで道ずれに相討ちにて仕留める、自爆兵器は手にしたのであった^^
映画は^^
ドイツを敗戦国として滅ぼすけれども^^
ナチスは、ユダヤに成り済まさせて逃げ果せる様に仕組むオデッサ機関と^^
ウラン型原爆の製法を得ることによって^^
日本においても、また^^
祖国日本を敗戦国として滅ぼし^^
本当の戦犯である陸軍官僚は、中国共産党として逃げ果せられる様^^
ナチスドイツが、それを連合軍に呑ませる最大の要因であった=ウラン型原爆^^
(上陸してきたなら、国民もろとも上陸部隊をウラン型原爆の餌食にする)との^^
交換条件をマッカーサー元帥に突きつけられる様^^
陸軍研究棟(理研として現在に至る)にて、ウラン型原爆の完成を目指した陸軍官僚の姿が描かれている^^
アメリカ軍が上陸してきたら^^
陸軍官僚は、日本の国民もろともアメリカ軍をウラン型原爆の餌食にする^^
↑これをマッカーサー元帥に見せつけるため^^
1945年8月6日^^
広島は、陸軍研究棟にて生成されたウラン型原爆によって、核攻撃に見舞われることになるのである^^
当時^^
アメリカ合衆国には、黒鉛炉原発しか存在しなかった^^
すなわち、アメリカ合衆国には、プルトニウム型原爆の生成しか成すことはできなかった^^
ウラン型原爆の生成を^^
アメリカ合衆国が行うことは、絶対に不可能だったのである^^
しかし^^
広島は、間違いなくウラン型原爆の攻撃を受けたのだ^^
便衣兵として陸軍が抵抗し、その抵抗媒体としてウラン型原爆の使用を厭わないと知るや^^
便衣兵の潜む地域について^^
日本国民もろとも、核攻撃で消し去る報復攻撃を行わない限り^^
日本の上陸と占領は不可能な事態を迎えた^^
マッカーサー元帥は^^
後々、朝鮮戦争において^^
鴨緑江で突如参戦した中国共産党との交戦後^^
本国のトルーマン大統領に対して^^
ファットマンを送って来い^^
そうでないと、奴らには太刀打ち出来ないと通告することで^^
自身が罷免されるという事態に直面している^^
すなわち^^
駐留米軍は、ファットマンを保有して日本にやって来ていなかったのである^^
それでは^^
1945年8月9日^^
長崎を核攻撃したプルトニウム原爆とは?^^
何者が製造し、何者が仕掛けたのであろうか?^^
当時の日本において^^
プルトニウム原爆の完成を目指していたのは^^
海軍と湯川秀樹博士のチームであった^^
裕仁天皇と海軍は^^
陸軍と大政翼賛会(中枢は満州日日新聞社=現在の「電通」)によって^^
教化されてしまった日本国民の洗脳を解くには^^
アメリカ軍の駐留による、共産化した陸軍勢力の排除が必須と覚悟していた^^
なんとしても^^
アメリカ軍の日本上陸と駐留を達成しなければならないが^^
陸軍は、ウラン型原爆のテロ的使用を厭わないことを宣告するため、広島を犠牲にしている^^
もしも^^
上陸軍に対してウラン型原爆のテロ使用が行われるなら^^
アメリカ軍、海軍、そして裕仁天皇は^^
そこに日本国民がいようとも^^
陸軍のテロ分子を地上から消し去らねばならない^^
その覚悟があるのか?^^
それが問われた^^
裕仁天皇も、今上陛下も^^
御身について、ご自身にて罪人と取り扱われた^^
しかし^^
両陛下は敗戦国の国家元首であるけれども^^
当時、世界中が覇権・軍国の重商政策を取っている真っ只中にあって^^
日本だけが、それを放棄せねばならない理由は何も無い^^
もしも^^
お二方が、御身を罪人と認知し得るとしたら^^
それは、大多数の日本国民を救うための止むを得ない判断であったとしても^^
一部の人々に対して^^
その犠牲とし得ることについて^^
此れを黙認される何事かが、あったとしたなら^^
お二方は、それによって、終生、自らを罪人としてお取り扱いになられたのではないか?^^
そのように推察されるのである^^
プルトニウム原爆の完成を成し遂げていた湯川秀樹博士は^^
トルーマン大統領より^^
その目的地を告げられたはずである^^
トルーマン大統領とは、KKK出身の大統領だ^^
KKKとは、反ユダヤ、反カトリックの白人至上主義団体である^^
ユダヤとカトリックとは不倶戴天の敵同士であった^^
このとき日本には、東洋で最大のカトリック教徒が暮らす街があった^^
長崎である^^
広島に仕掛けられたウラン型原爆は^^
何も遮るものが無い^^
その爆風によって^^
少しでも広い地域に、少しでも多くの人々を殺傷させようとの意図にて、此れを設置されている^^
長崎に仕掛けられたプルトニウム原爆は^^
縦長の峡谷の狭間に仕掛けられ^^
そこに原爆の設置と爆破が為されたとして^^
少しでも被害を狭く、僅かでも照射・爆風の届く範囲を小さくしようとして設置されている^^
私たちは、此処に、2つの原爆の設置を行なった者が^^
明確に異なる意図を有していたことを知ることが出来るのである^^
アメリカ軍の日本上陸と駐留を可能にするには^^
陸軍が、ウラン型原爆のテロ使用をなさせないよう^^
そんなことをしたら、如何なる犠牲を払おうとも、国民に紛れて潜む陸軍の残党に対し^^
国民もろとも皆殺しにする覚悟を見せねば成し遂げられなかったのである^^
諭吉が嫌いと見える^^
http://www.asyura2.com/18/hasan127/msg/572.html#c8
全貌を把握するには、非常に上手く捉えている^^
天木にしては、珍しい^^
アメリカ合衆国は^^
トランプ政権の誕生によって、覇権国家に変貌しようとしている^^
これは間違いない^^
逆に言えば^^
それまで、『アメリカが覇権国家である』との風評が、偽りの拡散であった^^
アメリカ合衆国を覇権国家に変貌させるよう^^
アメリカ国民に選択させたのは^^
国際社会における、覇権国家としての活動を止めない中華人民共和国への許容だった^^
アメリカ国民には^^
アメリカ合衆国は、国際社会に貢献するべく、当該の負担を請け負っているのに^^
中華人民共和国は、覇権国家としての自分勝手な行動に対して、何の制約も受けない^^
此れへの怒りが^^
アメリカ国民に、アメリカ合衆国の覇権国家に向かうよう、選択させた最大の要因なのだ^^
はっきり言おう^^
アメリカ国民は^^
中華人民共和国との間で、雌雄を決したがっている^^
直接=戦争行為に及ぶか否かは、さて置き^^
これ以上の中華人民共和国の勝手は、アメリカ国民には許すことは出来ないのである^^
日本国民が、在日コリアンに対して、もう此れ以上の勝手は許すことは出来ないと感じているのと^^
ほぼ同義の不満と葛藤と言えるだろう^^
アメリカ合衆国は^^
イスラエルと同様の道を選択しようとしているが^^
此れは誤りである^^
しかし、アメリカを然うさせたのは、日本を含む国際社会でもある^^
安倍さん個人は^^
日本国憲法前文の精神を守るため=すなわち其れは^^
@われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ^^
Aわれらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる^^
B日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ^^
この憲法を遵守しようとした、この憲法が出来て以降、初めての総理大臣であった^^
しかし^^
日本国民の一部の、共和体制構成部族の国家社会主義者どもは^^
この『日本国民の誓い』を破らせてしまったので^^
ついに^^
この日本国民が誓った国際貢献の在り方について^^
日本国民に先んじて、此の誓いと債務を果たしていたアメリカ合衆国までも^^
全ての国家が然う為ていれれば、戦争を無くし=平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去出来た^^
その先鞭を付ける地位を捨て去り^^
人類は、再び国家の都合で、国家を構成する個々の民族の利益を至上の目的と据え^^
その目的に合致しないものを相手に戦う=全ての国家が覇権国家としての国際社会における地位を目指すことを正当化することで^^
国家が、国民の利益に貢献し合う体制=戦争の世代へと先祖返りを始めてしまったのである^^
もはや世界大戦は避けられない^^
国家社会主義を人類の究極と自覚出来た^^
そのため、其れを果たす目的で^^
宿敵関係にあったロスチャイルドとイルミナティは^^
お互いの切り札を捨てた^^
コミンテルンもナチス(国際シオニスト会議)も^^
両者の仲裁人と成ったデビッドロックフェラーの手に、その轡を委ねられた^^
洋の東にあっても^^
ロスチャイルドがコミンテルンとのコンタクトの末、誕生させた=日本陸軍は^^
デビッドロックフェラーの手に、その轡を委ねられるはずであった^^
しかし^^
東洋の此の団塊は^^
本体のコミンテルンや、後にイスラエルを建国させた偽ユダヤの様に、デビッドさんの傘下に収まらなかった^^
中華人民共和国は建国され^^
陸軍第一高等学校(東大)卒業後、アジアから太平洋、インド洋に及ぶ諸国に^^
その諸国民として、国家経営する目的で植民したエリート(commune)は^^
大日本帝国敗戦後は、『元日本人であり当事国国家経営者』としての地位について^^
『我々は、中国人である=華僑』と、その出自を偽ることで、当事国国家の国民とは全く異なる異民族にありながら^^
『当事国の国家経営者と成った者=華僑=中国人に成り済ました元日本人の植民官僚』=これが華僑の正体である^^
植民しない、敗戦当時日本人であった生粋の陸軍は^^
中国共産党を乗っ取り^^
中華人民共和国を建国することで、陸軍軍務官僚もまた生き延びたのである^^
是等が^^
中華人民共和国の覇権国家としての大国化を成し遂げさせた^^
日本陸軍は、第二次世界大戦に勝ったのである^^
しかし^^
其れは、国家日本としての勝利ではなかった^^
元日本人でありながら、非日本人と名乗り、日本人と皇室を敗者とすることで^^
communeとしての覇権の獲得を成し遂げた姿=中華人民共和国=共産主義者なのだ^^
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/772.html#c27
現在、華僑が国家経営に関与していない地域など無い^^
フィリピンのマルコス氏を除いて^^
各国の国家元首は代々華僑であって、現地民族の国家元首とは^^
タイの国王家ただ1つである^^
そのタイでさえ、首相一族はタクシン家=華僑である^^
フィリピンのアキノ氏や、ラオスのアウン=サン将軍など、A級戦犯として起訴を受ける者とは現地軍産共同体の指導者であり、華僑とされているものの、対戦中の日本の駐留区域においては、満州国でさえ、当事国の軍務は日本軍が独占している^^
日本軍人であった彼らが、華僑と名乗るのは、裕仁天皇の『戦ってはならない』との御通知の後である^^
(陛下に「戦うな!」と命じられても戦うことを止めなかった=華僑)^^
この2つの勢力が^^
今も=アメリカと戦う!鬼畜米英!と叫ぶ者共の正体なのだ^^
自分たちの出自=元日本人であるにも関わらず^^
もう一度、日本国民を人柱としてアメリカ合衆国と戦わせ^^
日本国民の死と引き換えに^^
今度こそ、アメリカ合衆国に勝利しようと企んでいる^^
是等が、日本国民の本当の敵である^^
二重国籍を抜く手続きについて^^
東京の韓国大使館にて、その措置を行なっている^^
此の事実は^^
台湾華僑である蓮舫の日本での国籍の取り扱いについて^^
在日コリアンとして処理されていたことを暗示している^^
在日コリアンとは^^
血統的にコリアンとは無関係であり^^
韓国大使館が、韓国人との認識を表明したならば^^
そもそも血統は、何であろうと一切問題は無く^^
その元々の国籍も^^
台湾人であろうと、満州人であろうと、もちろん本当のコリアンであろうと、果ては日本人を成り済まさせる方便であろうと^^
まったく問題は無いのだ^^
そして^^
在日コリアンが、在日コリアンの称号得る終戦直後において^^
韓国は、未だ建国されていない^^
韓国は、1948年に建国され、当然、韓国大使館も当年以降に設置されている^^
すなわち^^
(コリアンとは無関係)である(在日コリアン)に、(在日コリアンの称号)を与えた者とは^^
1943年6月7日にOSSとして設置されて、後にCIAと名称変更した者たち^^
1953年3月の、スターリンの死まで、CIAの執行部として日本に駐留した者たちで^^
1954年に、KGBを設置する者=コミンテルンと、その背後資本:ロスチャイルドなのである^^
華僑の資本について^^
ユダヤと呼ばれる=(華僑は華僑)で、ユダヤとは無関係に資本との区別は為されない^^
何故、日本において、華僑はユダヤ(ロスチャイルド)に組み込まれて語られるのか?^^
その理由は、此処にある^^
自分たちの出自を隠すため、サクソンを、血統的に曖昧な者(ユダヤ)と定義することで^^
是等を殺した^^
葬り去ろうとした^^
地上から抹殺しようとしたわけであるが^^
サクソンとは、アングロサクソンの本当の血統的出自元である^^
中国共産党も、華僑も^^
東洋におけるアングロサクソンである^^
(西洋におけるサクソン)に当たる者とは、日本国民だ^^
アングロサクソンが、サクソンを皆殺しにすることで、自分たちの出自を隠そうとしたように^^
中国共産党と華僑も、日本人を皆殺しにしない限り、自分たちの出自を隠すことは出来ない^^
日本国民の本当の敵が、本当は何処にいるのか?^^
そろそろ日本人は、知っても良い頃である^^
^^↓
南京の虐殺の記憶をとどめた雨花台公園には、「人民英雄碑」が建てられており、そこには毛沢東の揮毫により「国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士」(国民党政府は雨花台においてかつて30万人の共産党烈士を殺した)と書かれているのです。
さて、1949年に毛沢東が南京市の雨花台に立てた「雨花台烈士稜園」には、南京虐殺の記念碑があります。これには、毛沢東の筆によって、「死難烈士万歳(死せる烈士万歳)」の文字とともに、「国民党政府在雨花台曽経屠殺了三十万共産党烈士」と書かれているのです。
これは翻訳すると、「国民党政府は雨花台において、かつて30万人の共産党烈士を虐殺した」という意味です。実際に中国国内の現在の40代以上の大人は、学校で「蒋介石が革命軍集と共産党員30万人を殺した」と教えられているのです。そもそも、中国が南京事件を騒ぎ出したのが1980年代になってから。これを聞いて驚いたのは中国人だった、と日本に帰化した元中国人が教えてくれました。
この石碑の存在は日本人にはほとんど知られていません。雨花台に関して画像検索してみると、いくつかの石碑の画像が出ています。
http://ittm.tumblr.com/post/870643845/さて1949年に毛沢東が南京市の雨花台に立てた雨花台烈士稜園には南京虐殺の記念碑がありますこ
↑^^
胡錦濤国家主席閣下への公開質問状
このたび中華人民共和国国家主席胡錦濤閣下のご訪日に当たって、日中両国の友好を願う者として心より歓迎申し上げます。
さて、われわれは1937年12月に行なわれた日中南京戦に伴って起こったとされる所謂南京事件を検証すべく、研究して参りましたものです。貴国のこの事件に対する見解とその取り扱いにつき、深刻な憂慮を感じております。昨年南京屠殺記念館が大規模に拡張改装されましたが、一方で友好を唱えながらこのような非友好的なことを平然と行なう貴国に対して強い不信の念を感じざるを得ません。そもそも南京で大虐殺があったという論拠は最近の研究によって根本的に否定されつつあります。以下重要な5つのポイントについて閣下のご見解を伺いたく、謹んでご質問申し上げます。
一、 故毛沢東党主席は生涯にただの一度も、「南京虐殺」ということに言及されませんでした。毛先生が南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義され、そして『持久戦論』としてまとめられた本の中で「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」という批判のみです。30万市民虐殺などといういわば世紀のホロコーストとも言うべき事件が本当に起こったとすれば、毛先生が一言もこれに触れないというのは、極めて不自然で不可解なことと思います。閣下はこの事実について、どのようにお考えになられますか?
二、 南京戦直前の1937年11月に、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』によりますと、南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均35名と記録されています。しかし、この300回の記者会見において、ただの一度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」と述べていないという事実について閣下はどのようにお考えになられますか。もし本当に大虐殺が行なわれたとしたら、極めて不自然で不可解なことではないでしょうか?
三、 南京安全区に集中した南京市民の面倒を見た国際委員会の活動記録が『Documents of the Nanking Safety Zone』として、国民政府国際問題研究所の監修により、1939年に上海の英国系出版社から刊行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前20万人、その後ずっと20万人、占領1ヵ月後の1月には25万人と記録されています。この記録からすると30万虐殺など、到底ありえないとしか考えられませんが、閣下はいかがお考えでしょうか?
四、 さらに『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されておりますが、殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害と注記されています。この記録と30万虐殺という貴国の主張とは、到底両立し得ないと考えますが、閣下はいかが思われますか?
五、 南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の屠殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。しかし、その後の科学的な研究 (『南京事件の「証拠写真」を検証する』(東中野他・草思社)など) によって、ただの1点も南京虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかとなっております。もし、虐殺を証明する写真が存在しているのでしたら、是非ご提示いただきたいと思います。そのうえで検証させていただきたいと思います。
以上述べました5つの点は南京で大虐殺があったなどということを根本的に否定しているものとわれわれは考えざるを得ません。上記5つの点につきまして、閣下のご見解を承ることができれば幸いです。この問題は多くの日中国民の関心事と考えますので、公開質問状として提出させていただきます。子子孫孫までの日中友好を願うものとして、閣下のご高配を、衷心から期待しております。
平成20年5月5日
南京事件の真実を検証する会委員一同
(会長)加瀬英明 (事務局長)藤岡信勝 (監事)冨沢繁信 茂木弘道
(委員)阿羅健一 上杉千年 小林太巌 杉原誠四郎 すぎやまこういち
高池勝彦 高山正之 西村幸祐 花岡信昭 東中野修道 溝口郁夫 宮崎正弘
2、300回の記者会見で一度も南京虐殺を言わなかった
東中野修道亜細亜大教授は、2005年に台北の国民党党史館において国民党国際宣伝処の極秘文書『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』を発見した。教授は、この一級資料を基に『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』と言う本を書いた。(英訳版:Top-secret Chinese Nationalist Documents Reveal the Truth about Nanking Incident: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/27_S4.pdf)
この極秘文書に国際宣伝処が漢口において1937年12月1日から38年10月24日までの11ヶ月間に300回の記者会見を外国人記者などを招いて行なったことが詳しく書かれている。ところが、既に述べたようにここでただの一度も南京虐殺の発表を行っていないという事実である。中国国民党=中国政府は自分の口からは当時一度も南京虐殺などということを言ってもいないし、従って南京虐殺非難を行っていないという事実である。この事実を突きつけられた胡錦濤がその理由を答えられないのは当然だろう。
われわれが、南京虐殺など存在しなかったということを根拠を示して説明しても、それにまともに反論するのではなく、「お前は Holocaust denierだ!」というレッテルで非難する人が多い。しかし、事実が示しているのは Holocaust denierは、毛沢東と当時の中国国民党であるということである。『マオ』の著者と同じように、毛沢東をこそ非難しなければならなくなるのでが、しかし南京虐殺など存在しなかったのだから、その非難も見当はずれとなるのである。
3、 南京の人口は占領後減少しないばかりか1ヵ月後に増加した
Documents for the Nanking Safety Zone という、南京安全区国際委員会の活動記録をまとめた本がある。上海のKelly & Walsh 社から1939年に出版された本であるが、この監修者は国民政府国際問題研究所となっている。南京市民は唐生智防衛司令官の命令により全員安全区に避難していたが、この市民の面倒を見ていたのが、アメリカ人、ドイツ人など15名が組織した国際委員会である。したがって、当時の南京市民の状況を誰よりも把握できる立場にあったのが国際委員会である。
この文書によると、南京の人口は陥落する直前に20万であったのが、12月17日、18日、21日、27日に20万と記録されていて、12月中に顕著な人口減、30万は愚か、万単位の人口減など全くなかったことが分かる。しかも、1月14日には25万と人口増加が記録されているのである。南京市民の面倒を市政府に代わって見ていた委員会の記録なので、限りなく実態に近い数字と見ることができる。この記録だけで30万虐殺説は100%否定されることになる。
4、 殺害記録は26件のみ、うち目撃は1件のみ
Documents of the Nanking Safety Zone には、市民から訴えられた日本軍の非行が詳細に記録されている。そこに殺害は26件記録されている。しかし、目撃のあったものは内1件だけである。しかも、逃げ出した兵士が撃たれたもので、合法的な殺害と注記されている。すなわち、目撃された違法殺害はセロというのが、この文書が示すところである。国際委員会は市民の訴えを事実を確認することなしにそのまま記録したので、正確性には欠ける。25件についても死体の確認があるのは3件のみ。従って、残り22件は単なる風聞の可能性もある。
なお、南京の面積はマンハッタンより狭く、安全区はセントラルパークほどの広さである。ここに20万人が集中していた。殺害などが40万の目から見逃される可能性はほとんどないのである。上記の殺害記録と、3、で述べた人口減が全く記録されていないこととは、よく符合している。胡錦濤が30万虐殺を説明できないことは当然のことなのである。
5.虐殺を証明する写真はただの一枚もない
アイリス・チャンのThe Rape of Nanking をはじめとする南京大虐殺を主張する本や、「南京大屠殺記念館」には、虐殺の証拠写真と称するものが大量に掲載されている。しかしながら、今ではこのうちただの一枚として、南京の虐殺を証明する写真がないことが科学的に証明されている。これは、『南京事件の「証拠写真」を検証する』(東中野修道他共著、草思社、東京、2005年)(英文版:Analyzing the Photographic Evidence of the Nanking Massacre:http://www.sdh-fact.com/CL02_1/26_S4.pdf に詳しく述べられている。ほとんどの写真は、国民党宣伝部が製作した戦争プロパガンダ本である『日寇暴行実録』『外人目撃中の日軍暴行』に掲載された、捏造写真、偽キャプションのものである。よく掲載される日本刀で首を切ろうとしている写真は、周りの人物の影の方向が一つでないことから合成写真であることが明らかである。更に言えば、こんな写真は日本軍自身か、日本軍の許可を受けたものでなければ撮ることはできないが、そんなことを日本軍が行う理由もなければ、又日本でこんな写真は見つかっていなし。要するに偽造の宣伝写真であるということである。詳しくは上記の本を読んでいただきたい。また、その概要はわれわれのサイトの There Is Not a Single “Real Photograph” Documenting the Nanking Incident: http://www.sdh-fact.com/CL02_1/42_S4.pdf に解説されている。
なお、公開質問状では、もしこのほかに南京虐殺を証明する写真があると言うなら、是非提出してほしい、科学的な検討にかけたい、といっているが、当然のことながらこれ以上ニセ写真を出してその正体が明かされるようなことを胡錦濤がするはずがない。
このように、基本的なところで、南京大虐殺なる事件が成り立ち得ないことを、この公開質問状は証明している。幾ら、ニセ写真だとか、もっともらしい証言だとかをでっち上げてみても、それらは、Documents of the Nanking Safety Zone という、当時の一次資料と矛盾してしまわざるを得ない。大量虐殺が起り、しかも人口が減らないで増える、などという事はありえない奇跡である。プロパガンダの世界でのみ起りうることである。。
第四次南京事件
昭和24(1949)年
1945年8月15日、日本は太平洋戦争(Pacific War)に敗戦しました。
日本に対抗するために米英は軍事物資等の豊富な援助を蒋介石軍に与えていましたが、戦争が終われば用済みで、終戦とともに米英からの援助物資が途絶えてしまいました。
一方、終戦直前に満州に攻め込んだソ連は日本軍から得た銃器や弾薬を大量に手にし、それをまるごと毛沢東率いる支那共産党軍に引き渡します。
蒋介石軍と毛沢東軍の間には圧倒的な物資の差が生じ、各地で毛沢東側が圧勝します。
当時の南京には汪兆銘率いる南京政府があり、1937年からこの時まで豊かで平穏な社会を維持していましたが、蒋介石軍は南京に逃げこみ、物資を略奪し、多くの人が殺されました。
南京にとっての本当の悲劇はその後で、国民党軍の乱入によって南京の街は荒れ、市民が疲弊しているところに、今度は支那共産党軍がやってきました。国民党軍は逃げました。
共産党軍が城内に乱入しました。彼らは市民を、国民党に協力したとして次々と虐殺し、収奪し、婦女子を強姦し、殺戮しました。
この第四次南京事件における死傷者の数は、10万人とも15万人ともいわれています。南京市民の3人にひとりが殺害されたのです。
時期的に一番新しく、また虐殺の規模が大きかったことから、一般に記憶されている南京大虐殺とはこの第四次南京事件ことです。
http://hop.verse.jp/japan/jp/massacres-jp.htm
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このページはTwitterやフェイスブックで拡散して欲しいほどの内容なのですが、支那の南京市にある「南京大虐殺記念館」をご存知でしょうか。
ありもしない南京大虐殺の写真を沢山ねつ造して、南京大虐殺をご丁寧に世界に広める為に建てられた政治色の強い記念館なんですが、あれ、実は「日本人がお金を持って行って建てています」。
建てたのは、元社会党の田邊誠という元衆議院議員で現在(2015年)は、民主党の党群馬県総支部連合会常任顧問をしている人なんですが、1982年に田邊誠が総評から3000万円も持って行って建てています(建設費は870万円で残ったお金は共産党関係者で分けたらしい)。
ちなみに総評とは、日本労働組合総評議会のことです。自治労や、日教組、その他、全国の労働組合による組織です(1989年11月に解散)。
当時、支那は「文化大革命」の時代で、支那国民党に虐殺された兵士への追討がブームでした。
支那人は広島の原爆被害者に祈りを捧げに行く人は居ても、南京大虐殺の犠牲者は「支那国民党が殺したもの」として誰も犠牲者と弔う人などいませんでした。
学術界でも南京大虐殺の研究はタブーでした。
つまり、支那において南京での大虐殺と言えば、支那国民党の蒋介石だったのです。
日本軍による南京大虐殺を言いだしたのは、1983年ぐらいからです。
それどころか支那共産党の毛沢東は、1938年5月の延安の抗日戦争研究会で公演したが、日本軍の攻城戦について「包囲は多いが殲滅は少ない」として日本軍の甘さを指摘しているぐらいです。
ユン・チアン&ジョン・ハリディ著の「マオ」には、「毛沢東が長い人生で一度も言わなかったことがある、南京大虐殺だ」という記述があるくらい支那共産党にとっては南京大虐殺は問題ではありませんでした。
それが、田邊誠の存在で一気に変わります。
この辺りは靖国参拝問題と流れが全く一緒です。全く気にしていない支那を叩きつけて、一度は拒否した支那を動くように仕向け、支那全土に広まっていくという流れです。
靖国参拝問題もこの田邊誠が、わざわざ北京まで行って胡耀邦総書記( 当時 )に『 なんでもっと怒らないのか! 』と抗議します。それでも民主改革派で経済重視派だった胡耀邦総書記は、中曽根首相の靖国参拝に対して抑制的でした。
すると田邊誠は旧満州に行き、そこで演説などで更に煽ります。
その結果、『 靖国参拝反対 』が中国全土に広がり、胡耀邦は政治生命が危うくなった。 『 胡耀邦が危ないぞ 』というので、中曽根首相は翌年から靖国参拝をやめることになります。
南京大虐殺記念館も田邊誠が、南京市に訪れた際に建設するように提案しています。
しかし当時、中国側は資金不足を理由として建設に消極的でした。しかし、田邊誠の再三の提案と建設資金の寄付の申し出により、1983年に同記念館の建設が始まっています。
その結果、何も気にしていなかった南京大虐殺が支那において、日本非難の急先鋒になっているのは悲しい事実です。
それでは当時、中国共産党および共産軍は南京事件をどのようにみていたか?
もし伝えられるごとき何十万もの大虐殺―――いうところの南京アトロシティーがあったとするならば、これこそ絶好の抗日宣伝の材料であり、人民に味方し、国民党を批判する立場にある彼らが黙って見過ごすはずはない。
ところが共産党も共産軍も、南京陥落については国民党のだらしなさを非難しているだけで、「南京虐殺事件」のことなどどの文献にも出てこない。
「何応欽将軍の軍事報告同様、南京に大虐殺があったという記録はどこにも見当たらない」―――高木桂蔵氏は次のように指摘する。
「抗戦中の中国軍事」という本が中国大陸で出ている。
当時の中国側の軍事に関する刊行物を集めたもので、この中に当時出版された中国共産党の「軍事雑誌」1938(昭和13)年6月20日、刊行第109号があり、その中に初めて南京の戦闘記録が出ている。
その部分は次の通りである。
「十二日夜、敵軍侵入城内・激烈之巷戦・自此開始・同時機空軍亦協同作戦・迄十三日午・城内外仍在混戦中・戦軍以政府業巳西移・南京在政治上・軍事上・巳失其重要性・為避免無謂的犠牲・乃退出南京・・・・・」(原文のまま)。
アメリカ人ジャーナリストで共産党支持者のアグネス・スメドレー
アグネス・スメドレー(上写真)
ドイツ人でソ連共産党スパイであったリヒアルト・ゾルゲ
リヒアルト・ゾルゲ(上写真)
朝日新聞上海特派員であった尾崎秀美はゾルゲのスパイでもあった。
尾崎秀美(朝日新聞上海支局特派員)上写真
すなわちどこにも、日本軍による市民の虐殺とか捕虜の大量殺戮のことなど出てこない。
http://www.history.gr.jp/nanking/reason11.html
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質問状
三河実行委員会 実行委員 天野義裕殿
「南京虐殺事件」を、あったことを前提にする演劇会を開催する貴殿に対し、以下の質問をいたします。
なぜに蒋介石、毛沢東は生前一度も南京事件に触れなかったのか
南京入場に際して中国政府は三十万以上の虐殺があったと主張しておりますが、当時の安全区において確保されていたのは二十万人。後には二十五万人まで増えてきているとされ、また安全区国際委員会のラーべ委員長は公文書第一号(十二月十四日付け)にて「貴軍(日本軍)の砲兵部隊が安全区に攻撃を加えなかったことに対して感謝申し上げる」と書いている。そこにおいて三十万の虐殺があったとはとても考えられない。その安全区に逃げ込んだ一万に近き兵士が便衣兵であるがその摘発で三・四千名の処罰をしたと判断されるが、戦時のこと、充分な調査がされたか否かは不明なるも、戦時法に違反するものではない。
中国軍司令官の逃走後の無秩序な同士討ちの結果多くの中国人兵士の死者が出たのもまた戦闘行為にて軍人が多く亡くなったなどの悲惨な結果には胸迫るものがあります。しかし日本軍が虐殺をしたとの指摘は決して当たらない。
蒋介石毛沢東とも生前は南京虐殺に一度も触れていず、また南京入場後九年もたって突然東京裁判にて事件がだされた感がある。さきの衆院内閣委員会で質問に立った戸井田とおる議員による南京事件質問にて、きわめて重要な事実が明らかにされた。それは国際連盟第十八回総会(昭和十二年八月十三日から十月六日まで)にて南京広東に対する《日本の空爆を非難する案》を中国が提訴し、委員会総会で採決されている。翌十三年一月二十六日から第百回期国際連盟理事会が開かれ「支那を支援する決議案」が採択されていた。しかし、にもかかわらず、支那代表顧維きんによる南京事件提訴さえなされなかったとの説があったのでしたが、今回の資料開示の結果わかったこと、それは実際には、中国代表はこのとき国連の行動要請をしていた事実。しかるにあまりの荒唐無稽のプロパガンダに理事会ですら、さすがに一笑に付し無視した事実であります。
演説の中で中国は「南京における旧日本兵による無差別殺戮女性への暴行市民殺害がなされ米国教授の報告や書簡にもとづく数として二万人が虐殺され数千の女性が暴行された」と主張。それに対して同理事会は、申し入れを拒絶。当時、日本の軍事行動を「非難決議」として採択した親中的理事会すら、中国が訴える「南京虐殺」を、政治宣伝と見抜き、却下。対日非難決議にもその文言は入らなかった。これらの事実に基づき考えられるのは「南京虐殺論」は中国の政治的プロパガンダに過ぎないと考えるべきではないのではないでしょうか。それを反日に傾いていた国際連盟ですら一笑に付した。なぜなら南京には当時何百人もの全世界からのマスコミが入っており、虐殺に当たる事実はないからと判断するのが妥当ではないでしょうか。もし万を越す虐殺がほんとになされたとしたならば、蒋介石が言わぬわけはないと思うが如何。見解を求めます。
何百人のマスコミが入っていたのに写真一つない矛盾をどう解釈するのですか。
フィルム撮影をしたマギー牧師も東京裁判にて残虐行為を証言していますが「私が見たのは一人だけ」と証言。揚子江岸の下関で死体を見たとあるが何万ではなく三百から五百と言っています。それがいかなる理由でなくなったか(戦闘での死か他の理由か)。死体があったからといってまさか虐殺と言えるわけもありますまい。
貴殿発行のチラシ中の「告白」文中の殺された中国人の「生首」を己の誉れの為にもって笑っている軍人の写真を中国で見せられた旨の文がありますが、証拠とされた写真のほとんど全てが中国政府によって作られたものとの実証がされているのをご存知でしょうか。この渡辺さんという方も見破ることができなかったと考えられます。専門的な知識なく罪悪感で見ていくと誰もが驚きのなかで冷静なる眼を失わされますので。それだけ中国の戦略に乗せられ易いものです。東中野氏の詳細な写真分析をご覧になりましたか。それでも中国の作為を読み取られないとしたらその理由をお示しください。
とりあえずの疑問点に誠意あるご回答を必ず約束通り開催期日までにお示しください。
再質問状
十月十一日になって電話にてご回答くださいましたが、内容に付き、全く承知できませんので改めて再度質問をいたします。
電話にての回答の件は一については「中国は内乱状態であり、国内統一の混乱の中で忙しく対日批判まで手が回らなかったと思われる」とのご見解でありました。三十万を越す虐殺の主張をしている現中国政府が政権奪取した後も毛沢東が南京に触れず、蒋介石も触れない理由にはならないと電話にて申し上げたとおりです。とても納得できる説明となっておりません。再度納得できる研究成果をお示しください。荒唐無稽な虐殺論はまだ構築できず、日本軍の不法行為がなかったことを責任者として当然知っていたからと判断すべきではないのですか。
第二項について。マギー氏のフイルムを見て死体がのっていた。虐殺を記録にとどめる資料も発見されている。証言者の話もある。よって虐殺は会ったと私は考える。との電話回答。しかし残念ながらマギー氏のフイルムには三十九の光景を映し出しながら、虐殺を示すものは何も映し出されていません。病院の様子や数体の死体の情景もありますが、死体があるから虐殺だと言う貴殿の論はまったく理論になりません。戦闘にてなくなった兵士が虐殺であるといえるはずもないでしょう。そもそもマギー師は東京裁判にフイルムを証拠に提出していませんね。これを最初に虐殺論に利用したのが国民党顧問ハロルド・ティンバーリ記者でしたね。字幕説明を加えて作り変え加工編修しなおしたのですから貴殿が見られてその雰囲気に呑まれたのは残念ですが、ふ通に見てみれば、証拠になりえないのは明らかでしょう。裁判での反対尋問で、永く南京にて日本の不法行為に目を光らせていたマギー師が実際目にした殺害は一人だけと証言。中国政府の言う数十万の虐殺の主張はどうなのでしょう。ティンバーリは国民党宣伝部が工作員として使っていた人物であることはご存知でしょう。べイツ師もフィッチ師もティンバーリ師とともに「宣伝本」を書いた人ですね。
ドイツ大使館の公文書綴りが発見されたといわれるが、そのジョン・ラーべなるジーメンス社南京支社長の「三万の死体」説も伝聞記事であり、南京特務機関丸山進氏によれば埋葬遺体は一万四・五千。戦闘での死体であるという。貴殿の言われる虐殺証拠とはなりえないものです。電話にてご説明したとおり他誌掲載写真も東中野教授はじめ、研究者に虐殺があったと主張されるならば、納得できる根拠を提示すべきです。
「虐殺はむごたらしい殺し方でもある。数もそうである。千人以上は虐待死させている」との見解をとり、虐殺があったといわれましたが、それは推測であり証拠ではありません。マギー師証言やフィルムを根拠にしてみえましたが、一人の殺害現場をしか見ていなかったといっており、その殺害理由も明らかでない。安全地帯に逃げ込んだ逃亡兵は数千から万とされる。彼らは「捕虜」でもなければ市民でもない。便衣兵であり、戦闘員の資格四条件を悉く踏みにじっているため、いかなる権利も有しない不法戦闘員。とらえられても国際法上の保護は得られないのは自明。捕虜になりえないのである。
東京裁判においてすら捕虜処刑を明言する欧米人は誰もいなかった。日本が残敵掃蕩の際の処刑について世界の誰も非難していない。不法でも残虐行為でもない。銃殺等が残虐な殺害方法だと言う意味で虐殺と言われるなら、論外であり、犯罪者の死刑廃止論でも論じられておられればよい。南京事件とは無関係である。
中国政府は三十万を越す人間を日本軍が殺したとキャンペーンを張っております。その人数には意図的重大な過ちがあることを貴会もお認めになっていると判断してよろしいでしょうか。中国のためにする論を批判する立場に立たれると解釈してよいのでしょうか。そうでないといわれるのならば虐殺があったと主張されるその規模についても、さらにその推測を裏付ける根拠を示さなければ無責任極まりなきことです。
一週間以内に文書でご回答ください。
https://plaza.rakuten.co.jp/seimeisugita/diary/200803040000/
1〜2では、在留邦人も被害にあっています。
3は、中共政府が宣伝する南京大虐殺の「前」に実際にあった出来事です。
4は、昭和24年ですから、すでに大東亜戦争も終わり、日本とはまるで関係のない状態で起こった事件です。
以下、順にその概要をみてみます。
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第一次南京事件
大正2(1913)年
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この事件は、大正2(1913)年8月に起こりました。
支那では清朝政府が辛亥革命によって倒れるのですが、このあと孫文の後を受けて袁世凱が新政府の大統領に就任します。
ところが袁世凱の狙いは、支那の民主化とはほど遠く、単に自らが皇帝となろうとする卑しいものであったため、これを不服とする孫文派の革命功績者たちが、袁世凱と激しく対立します。
その対立者たちを押さえこむために、袁世凱は軍事力にものを言わせるのですが、この年の8月31日に南京城内に乱入した袁世凱派の張勲が、南京城内で約一ヶ月にわたり、虐殺、強姦、略奪の限りをつくしています。
この事件で、南京城内では、支那人の市民に数千人におよぶ死者がでたのですが、それだけでなく張勲らは、外国人居留区にまで侵入し、そこで日本人商店も襲撃して、少なくとも日本人10数名を殺害しました。
このとき襲われた商店は、ちゃんと日章旗を掲げていたにもかかわらず、張勲らは日本人を襲撃し、日本人商店で働く邦人を虐殺し、女性を強姦し殺害しています。
当然のことながら、このとき日本国内の世論は激昂しましたが、支那との紛争を回避したい日本政府は、あくまで穏便にと報復措置をとらず、襲われたのは単に張勲軍の何かの手違いにすぎなかったのではないか、などと理屈にもならない答弁をしています。
このため怒った暴徒によって、9月5日には、阿部政務局長が日本国内で斬殺されるという事件まで起こりました。
本来なら、このとき外地にいる邦人居留民保護のため、軍が即応できる体制をとっていれば良かったのです。
欧米諸国は、すべてそのようにしていました。自国民が被害にあった場合、即時断固とした報復攻撃を行っていたのです。
ところが日本政府は、穏便な事態の収拾を図るためにと、軍の動員をしていません。
当時の日本陸軍は、国家対国家の大きな戦争を前提として組織されており、勅命がなければ一切動くことができない機構になっていたのです。
このことが後日、支那人たちを増長させ、さらに被害を拡大する原因となったことは、歴史に学ぶべき大きな反省事項だと思います。
一方、これも大事なことなのですが、この第一次南京事件の主犯である張勲は事件後、なんと功績者として江蘇都督に昇格し、次いで長江巡閲使となり、挙げ句の果てが、定武軍元帥にまで出世しています。
日本ではとても考えられないことです。
日本人の感覚では、戦(いくさ)でもないのに、無辜の市民を欲しいままに虐殺、略奪、強姦しまくるような不埒な人物は、どんな場合でも尊敬などされることはないし、そうした人物が政府要人として、あるいは軍の幹部として出世することなど、まずあり得ません。
歴史をひもといても、そうした極悪非道な人物が、日本史において成功者となったという事例は、まったくない。
こう書くと、信長が比叡山の焼き討ちをしているじゃないか、という声が上がりそうですが、当時の比叡山は僧兵を抱えた一種の仏教軍閥です。そしてこれを討つ信長には、ちゃんとした大義名分が備わっています。
他方、支那という国は、権力者ないし軍事強者が弱者を虐殺、強姦、略奪するのは、むしろあたりまえの風習です。秦の始皇帝の時代から、その歴史は繰り返され続けている。
暴れ出したら、虐殺強姦収奪は当たり前の支那社会に対し、あくまで国家として軍は正々堂々とあるべきであり、奉勅があってはじめて軍が動員されるという日本社会。
両者のこの違いは、さらに東亜を共倒れにし、漁父の利を狙おうとする欧米諸国に付け入る隙を与え、政情をますます複雑なものにしていきます。
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第二次南京事件
昭和2(1927)年
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第一次南京事件が、ある意味、堂々と南京城に攻め込んだ張勲一派が、城内で略奪等をほしいままに行った残虐な事件とするならば、この第二次南京事件は、その不法行為にさらに「騙し討ち」の要素が加わった悪質きわまりない事件です。
昭和2(1927)年3月24日の早朝、国民軍総司令の蒋介石が率いる北伐軍が南京城に入城しました。
支那国家の独立、未来の民主政権の樹立を謳う蒋介石軍は、当初、きわめて平和裏に南京城に入城しているのです。
ところが、入城した蒋介石軍は、南京城内で反帝国主義を叫び、外国人居留区に乱入して領事館や居留地などを突然、襲撃し、各国の領事らを暴行し、掠奪と破壊の限りを尽くしたのです。
この事件で、日本人1名、英国人2名、米国人1名、イタリア人1名、フランス人1名、他1名の死者が出、さらに2名の行方不明者が出ています。
29日の東京日々新聞に、このときの模様が詳しく報じられています。
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弓削南京特派員二十九日発
24日午前5時頃である、国民第二軍、第六軍、第四十混成旅団の各軍から選抜された約2000名の決死隊は南京南部の城門を押開き侵入して来た。
市民は各戸に「歓迎北伐軍」の小旗を掲げ爆竹を揚げて歓迎した、
われ等在留日本人は、「南軍(蒋介石軍)が入った以上もう大丈夫だ」と安堵の胸を撫でていた矢先き、6時半頃、平服隊や左傾派学生に手びきされた約百余名の国民軍が突如我が領事館に向って一斉射撃を行い、餓狼の如く闖入して来た。
そしてピストル、銃剣を突きつけて、第一に現金を強奪し、眼鏡や時計、指輪をはじめ、身に着けたものは着物まで剥ぎ取った。
入り代り立代り入って来る国民軍兵士。それに勢を得た群衆まで交って、手に手に領事館内の畳から便器、床板に至るまで一品残らず持ち去った。
かくて領事館内は阿鼻叫喚の巷と化し、居留民は数家族ずつ一塊りとなって何等の抵抗もせず、婦女子をかばいつつ身を全うするにつとめた。
国民軍の闖入と同時に(陛下の)御真影は、金庫の中に奉安したが、これを警護申上げていた木村警察署長は第一番に右腕に貫通銃創を負い、さらに右横腹を突かれた。
病気で臥床中の森岡領事は、二回にわたって狙撃されたが幸いに命中しなかった。
また根本駐在武官は銃の台尻で腰をしたたか打たれた上、左横腹をつかれ二階から地上に墜落して人事不省に陥った。
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新聞記事にある根本駐在武官は、このとき乱入したシナ人集団に素手で立ち向かい、乱闘の中で眼鏡を奪い取られ、目が見えないままの状態で二階から飛び降りたところを、国民党軍の兵士に腹と足を刺されて重傷を負っています。
さらに日本領事館に侵入した支那人たちは、銃を突きつけて身体検査を行い、「金を出さねば皆殺にする」と威嚇し、金品を強奪し、あろうことか領事夫人を強姦しています。
当時、南京城内に居住していた日本人は約500人だったのですが、その家屋は軒並み襲撃を受けました。
そして約200名が生死不詳となっている。
被害を受けたのは日本人だけではありません。
このとき英、米、仏その他の外国人全部が惨澹たる被害を受けたのです。
英国領事館では、チャイルズ領事が足に重傷を負い、領事館職員4名が射殺され、多数の負傷者を出し、米国は金陵大学長が射殺され、数名が負傷しています。
このことは当時、日本だけでなく諸外国で報道された事実です。
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第三次南京事件
昭和12(1937)年
──────────
次に起こったのが、第三次南京事件です。
第二次南京事件からちょうど10年後の出来事です。
そしてこの第三次南京事件のあとに起こったとねつ造されているのが、いわゆる「南京大虐殺」です。
第三次南京事件には前段があります。
それが第二次上海事件です。
第二次上海事件については、以前このブログで詳しく書いていますので、ご興味のある方は、その記事をご参照ください。
◆第二次上海事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-780.html
概要をかいつまんで申し上げると、まずこの年の7月7日に、盧溝橋事件が起こっています。
事件の詳細については、以前の記事にあります。
◆盧溝橋事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-710.html
当時の支那は、清国政府が倒れて、いまのソマリアのような無政府状態になっていたのです。
しかも欧米列強の駐留に対し、一方には露骨な外国人排斥運動があり、諸国は治安維持と自国民の保護のために支那に駐留軍を国際協調で置いていたのです。
そうした中で、露骨な日本への挑発行為として起こったのが盧溝橋事件で、この事件のあと近衛内閣は支那の華北地区への派兵を決定しています。
ただしこの派兵は、すでに支那に駐屯していた兵力の移動だけで、内地からの派兵は行っていません。
つまりこの派兵は、あくまで戦闘の不拡大を目的とした支那への既存の派遣軍の移動にすぎないものだったのです。
ところが日本のこうした戦闘の不拡大方針を「甘い」と見て取った蒋介石は、すかさず北京で日本兵が乗っていたトラックを爆破し、日本人4人を殺害する。
それでも戦闘不拡大を唱える日本の近衛内閣をさらに「甘い」と見て取った蒋介石は、「日本の出方次第では徹底抗戦する」とオダをあげています。
これは非常に政治的な言い回しです。
日本が戦闘行為を行わないと宣言したから、日本と戦うぞと宣言しているのです。
国際社会で「舐められる」というのは、こういうことを指します。
同様のことは昨今の韓国でも起こっています。
日本の新藤議員他の国会議員が竹島問題に怒って韓国に乗り込もうとしたら、韓国は露骨に入国拒否をしました。
韓国は日本人国会議員の竹島は日本の領土であるという主張を認めないという、これはポーズです。
けれど、そんなポーズをとった韓国は、一方では日本が本気で怒るのを恐れ、あれだけ派手に韓国国会議員等が竹島に不法に乗り込んだりするパフォーマンスをしていたものが、以後、パッタリと途絶えて、竹島に対して何のアクションも起こさなくなったのです。
ところがその韓国は、つい先日、野田総理が韓国で竹島問題についての言及を避けた弱腰な姿をみると、すかさず竹島でのコンサートの実施や、国会議員等の竹島上陸を決めている。
国際政治というのは、そういうものです。
行っていることと、やっていることは、まるで異なる。
さて、昭和12年の日本は、なんとか支那との和平の道を探ろうと外交上の努力をしようとするのだけれど、盧溝橋事件のわずか12日後には、再び盧溝橋で今度は日本軍に対して一斉射撃をしてくる。
さらに7月25日には、郎坊駅で国民党軍が、少数の日本兵を襲撃する。
7月26日には、国民党軍の「依頼を受けて」広安門居留民保護に駆けつけた日本兵が、広安門で国民党兵に襲撃されるという広安門事件が起きています。
この事件などひどいもので、支那側の市当局とちゃんと交渉して、居留民保護のために日本兵が26台のトラックに分乗して、現場に向かったのです。
城砦都市の門が閉められていたので、城砦側の国民党と交渉し、ちゃんと了解を得て、門を開けてもらい、トラックを中に進ませた。
すると、半分強のトラックが城門をくぐったところで、突然、城門が閉ざされた。
城門をくぐるトラックというのは、門の外で終結し、一台ずつ城門から城内にはいります。
城内に入ったトラックは、後続車を待つために、門の内側に集結している。
つまり、塀の高い城門の、中と外に日本兵の乗ったトラックが分断された状態で集結している。
そういう情況で、突然城門が閉ざされ、城門の上やら、塀の上から、不意打ちに国民党軍が手榴弾や機関銃で猛射を浴びせてきたのです。
この事件で、日本側は、兵士15名が死亡し、他に民間人の通訳、新聞記者など4名、合計19名が命をおとしています。
そしてさらに3日後の7月29日に起こったのが「通州事件」です。
通州事件については、詳細記事を載せていますので、是非、一度お読みください。
◆通州事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html
この事件では、北京にほど近い通州で、支那軍が三千名の大軍で、過半数が婦女子だった日本人居留民420名を突然襲い、約230名を虐殺しました。
これにより通州特務機関は全滅し、女性は子供から老婆まで全員強姦され、裸体のまま膣部にほうきを刺すなどして殺害され、腹から腸を出されて殺害されている者、針金で鼻輪を通された子供、両手を合わせて針金を通されて結ばれ、10本の指を全部切断されている子供など、あまりにも酸鼻極まりない姿で嬲り殺しに遭っています。
ここまで日本を挑発すれば、日本はついに支那大陸に攻め込んでくるに違いない。
これを待ち受け、徹底して日本を叩こうとする蒋介石は、ドイツから豊富な最新式兵器の供給を受け、上海に部隊を集結させたのです。
本来、当時の上海は、昭和7年の多国間上海事変停戦協定によって、国際的に「非武装地帯」に指定されていたのです。
ところがドイツ軍によって指導された蒋介石軍は、日本軍を上海に上陸させ、ここで大殲滅作戦を展開しようと、上海の港から市街に至るエリアに、なんと2万カ所もの重武装したトーチカを築き、日本を待ち受けた。
そして8月19日午前10時半、上海商務館付近にいた国民党軍が、突然日本軍陣地に機関銃射撃を行って来たのです。
このとき、上海にいた日本軍は、海軍陸戦隊の4千名です。
これを包囲して機関銃を撃ち込んで来た蒋介石軍は、なんと5万の兵力です。
機関銃をめくら撃ちに撃ちまくる国民党軍に対し、それでも日本の海軍陸戦隊は応戦していません。
戦闘状態になることを防ごうとしたのです。
ですから支那軍の爆撃機が超低空飛行で、日本の陸戦隊を挑発したときも、日本側は対空砲火をしていない。
そんな日本軍の姿を見て、蒋介石軍は、午後4時54分には、市内各所の橋を爆破してしまいます。
日本軍の戦車などの援軍が来れなくなるようにし、日本海軍陸戦隊を孤立させるためです。
そして日本の海軍陸戦隊4千名を包囲し、猛烈な砲撃を開始してきた。
このままでは、日本側は全滅してしまいます。
やむなく午後5時、大川内上海特別陸戦隊司令官は、陸戦隊全軍に、戦闘配置を命令した。
けれど支那軍は最新鋭の重装備の5万の兵力、包囲された日本の海軍陸戦隊はわずか4千の兵力です。
戦力差はあきらかで、このままでは、4千の兵士全員が死んでしまうのは時間の問題です。
そこで8月22日、日本は、ここまできてようやく松井石根大将率いる上海派遣軍三個師団を、上海北部沿岸に上陸させます。
けれど上陸した上海派遣軍が海軍陸戦隊が立てこもる上海租界地まで到達するには、支那軍が構築した2万個のトーチカ群を突破しなければなりません。
しかも支那軍の兵員は、中央軍の精鋭14〜15師であり、トーチカはドイツ参謀部が詳細に検討して構築した、網の目状に張り巡らされた火点です。
それだけではありません。支那軍は、追加兵力を次々と投入し、ついにその数、60万の大軍に膨れ上がります。
松井石根大将は、その中でおよそ2ヶ月半果敢に戦い、死者2,528名、負傷者9806名というたいへんな損害を被りながら、ついに支那軍を蹴散らします。
そしてなんと11月9日までに、支那軍60万の兵力のうち20万人以上を倒し、支那軍をほぼ壊滅させてしまう。
そして11日までに、上海から支那軍を全員追い払ってしまいます。
ところがこのときひと悶着が起こる。
支那軍は、退却の際に上海市内で徹底した掠奪、破壊、強姦をしぬいているのです。
支那軍は、撤退する際には、掠奪や強盗・強姦を行うのが常態です。
あるフランス将兵によると、彼は支那の住民側も掠奪されるばかりではなく、数で勝る住民側が国民党兵士たちを袋叩きにして殺害する光景を何回も見たと記録にあります。
また、支那の敗残兵によって、上海のフランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵や便衣兵らと、フランス人の警官隊が銃撃戦を行ったという記録もある。
要するにこれは事実なのです。
そして国民党兵士たちが去った後、上海の「英字新聞」には、次のような記事が載りました。
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国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである。
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こうして上海の治安は回復されました。
そして上海を追われた蒋介石以下の支那軍の兵士たちが、次に向かったのが「南京」だったのです。
支那軍(支那軍最強の訓練され最新式装備を施された正規軍)の兵士たちは、南京に向かって落ちのびる途中、民家を襲っては、略奪、殺戮、強姦をほしいままにしています。
11月25日の湖州での出来事を書いた記事があります。
湖州は、上海から南京に向かう途中の小さな都市です。
以下に引用します。
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湖州は浙江省の首都、呉興県政府の所在地。
城壁をはいると家屋は焼けて一面の焼け野原となり、殆ど瓦礫の巷と化していた。
とくに商店街は影も形もなく、処々に多数の支那兵の死骸が生々しい姿で倒れ転がっていた。
誠に見るも無残な有様であった。
街には人影がみられない。
それでもどこからか若い女が3人でてきた。
我々の姿を見ると、彼女らは我々をぽつんと残った唯一の焼け残りの小屋へ招きいれ、いち早くズボンを脱ぐと、進んで下半身を丸出しにした。
助けてくれと一心にわれわれを拝んだ。
我々は3名で巡察の途中で思いかけぬ出来事に遭遇してしまった。
一人は娘、残る二人は人妻らしい体つきだった。
自分達は彼女らをそっとして置いてやった。
それでも恐怖に怯え、彼女ら3人はおののいて、脱いだ紺色のズボンを容易に身につけようとしなかった。
体を提供しても生命さえ助けてもらえれば、これに越したことはないと観念していたかに見えた。
また、ある民家では中年の女性が寝てうめいており、下半身を露出して指さして示し、何かわからぬ言葉を喋っていた。
支那兵は逃亡の際、この女性に迫り、拒絶されると腹を立て、銃剣を一突きにそこに突き刺したに違いなかった。
夥しい出血で苦しんで訴えている。
すぐに治安維持会(既に結成されていた中国人の自治組織)に連絡して看護員を連れてきた。
さて助かったかどうか。
このようにして略奪と暴行のあとを見せつけられた。
〜〜〜〜〜〜〜〜
まことにもって痛ましい限りです。
上海に集結した国民党軍は、約60万の兵力でした。
そのうち20万が、我が軍に敗れて死傷し、残りの40万の兵力が南京方面に向かって逃走したのです。
逃走した国民党軍のうち10万は、途中の街に隠れ、追撃する日本軍と応戦し、5万が死傷し、5万が逃散しています。
そうして南京には、30万の国民党軍がなだれ込んだのです。
武力を持たない南京市は、この敗残兵を城内に招き入れるしかなかった。
国民党の正規軍なのです。よもや非道はするまいと考えた。
その甘さが悲劇を招きます。
南京城内に入り込んだ国民党軍は、そこにいる市民の誰もが「漢奸(日本びいきの人々を彼らはそう呼んだ)」に見えた。そして南京市民を虐殺し出したのです。
当時の南京市民たちは、そういう国民党軍を恐れ、多くが南京市から逃げ出します。
そして逃遅れた者たちは、国民党兵士に捕まり、ある者は虐殺され、ある者は城外のトーチカに縛り付けられ、またある者は強姦され、家屋には侵入して財物を片端から強奪され、挙げ句、市民の住むエリア全部に火をつけられ一切合切を燃やされた。
そういうところに、12月4日、上海にいた松井岩根(まついいわね)大将率いる帝国陸軍中支那方面軍12万が到着したのです。
到着した日本軍は、使者を送り、国民党南京守備隊に降伏勧告を行いました。
けれどなんの反応もないので、やむなく松井大将は、9日の正午に、南京城内に飛行機で和平開城勧告文のビラをまいています。
そして10日の午後一時まで、投降を待った。
けれど、城内からは、何の回答も反応もなかったのです。
南京城を囲んだのが12月4日です。そしてこの日が10日です。
もう6日も待っている。
その間、南京城の城外では、一部の国民党兵士からの発砲もあったし、便衣兵(民間服を着て、民間人を装った支那兵士)による執拗な攻撃も受けています。
けれど松井大将は、待った。
つまり松井大将は、6日間もの間、南京城に立て篭もる国民党に対し、和平と降伏の呼びかけを続けたのです。
戦場において、これほどの相手に対する誠意はありません。
そこまでして、それでもなんの反応もないから、やむなくこの日の午後から、日本軍は総攻撃を開始したのです。
日本国内では、松井大将が4日に南京を囲んでいるのだから、もうとっくに南京城は陥落したものだろうと、なんと11日には、全国的な南京陥落の祝賀行事などが行われています。
けれどその日は、現場ではまだ南京城外で、激しい攻防戦が行われている最中でした。
そして13日、南京城は陥落し、日本軍が南京城内に入城しました。
入城した日本軍は、兵を城内の左右いっぱいに横一列に並べ、城内を前進します。
城内の敵の掃討のためです。
この「城内を横一列で」という部分には注意が必要です。
本来なら城内には民家が建ち並び、横一列での行進は無理なのです。
けれどそのときの南京城内は、民家がすべて焼き払われ、焼土と化した状態にありました。
だからこそ、日本軍は、横井一列による前進ができたのです。
こうして東西と南から城内に入った日本軍に対し、国民党軍の兵士たちは南京城の北側の下関と呼ばれる門から、いっせいに逃げ出そうとします。
そこは南京城が揚子江と接しているところで、川を渡って逃げ延びようとしたのです。
ところが川に浮かんでいた筈の船は、総大将の蒋介石や、南京城の防衛司令官だった唐生智らが、戦いの最中にそくさくと逃げ出した際、後ろから日本軍が船で追いかけて来たら困るからと、そこそこの大きさの船は、みんな底に穴をあけて沈めてしまっていた。
つまり、下関には小舟しか残っていなかったのです。
そこに国民党の兵士たちが逃げようとして押し寄せた。
船に乗れずに、舷側に捕まろうとする者、多人数が舷側につかまったら、船が沈んでしまうからと、そのつかまる仲間の手を切り落とす者、すさまじい地獄絵図がそこで描かれています。
一方、日本軍は、13日から15日までの3日間、城内掃討(ほとんど戦いらしい戦いはない)を実施し、城内の平穏を確保したあと、17日に陸海軍合同で南京城入城式典を行います。
当日は南京の避難民たちにも、お菓子や煙草が支給され、町中が笑顔と万歳の声にあふれた。
さらに18日には、両軍の死者を弔うため、合同慰霊祭を行い、敵味方の区別なく、慰霊を捧げています。
そしてその翌日には、上海派遣軍の各部隊は、部隊毎にそれぞれ他の戦闘地域への移動を開始しています。
また日本軍の入城によって治安が回復した南京城には、もともとそこに住んでいて城外に避難していた避難民たちが続々と帰って来ています。
そうして帰還した支那人たちに対し、日本軍は無償で医療を施し、食事を与え、子供達にはお菓子まで配っている。
南京城に、笑顔が戻ったのです。
この昭和12(1937)年の南京事件において、日本軍による南京大虐殺が行われたと主張する者たちは、12月13日の日本軍の南京入城直後から、約6週間にわたって日本軍が無辜の市民30万人を大量虐殺したと主張しています。
けれど攻城戦が行われる前の時点で南京にいた市民の数は20万人。
戦闘開始前に、市民の多くは城外に避難し、日本軍の入城後に城内に帰って来ています。
そして近隣の都市からも安全と安心を求めて避難民が集まり、南京の人口は25万人に膨れ上がった。
どこでどうやったら、そこで30万人の虐殺が行われたことになるのか、さっぱりわかりません。
要するに南京虐殺など、「なかった」のです。
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第四次南京事件
昭和24(1949)年
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昭和12年の日本軍の南京城入城によって治安が回復した南京市では、日本軍に勤務する若い女性が、ひとりでショッピングのために市場に出かけても、まったく安全で、豊かな経済生活が行われる普通の街に戻ります。
当時南京にいた方々のお話を聞くと、戦時中、内地(日本国内)では、食事が制限され、国民はひもじい生活を余儀なくされていたと聞いているが、自分たちは食べ物も豊かで、明るく安心な南京生活を楽しむことができて、なんだか申し訳ない気がする、などとおっしゃいます。
けれどそうした治安の保たれた南京市も、大東亜戦争の終戦によって様相が一変します。
そして起こったのが、第四次南京事件です。
昭和20(1945)年8月15日、日本は大東亜戦争における戦闘行為を終結させました。
これに先だつ8月14日、蒋介石率いる国民党は、中ソ友好同盟条約を締結しています。
要するに日本と対立するために、ソ連と同盟関係を結んだわけです。
この頃の蒋介石軍は、米英から軍事物資等の豊富な援助を得ていました。
米英にとって、人種の平等、民族の自立を主張する日本は、白人種が有色人種を支配し収奪する植民地主義を維持するにあたり、ひらたくいえば「邪魔な存在」だったのです。
だから同じく有色人種である支那人の蒋介石に武器弾薬、食料、資金を与え、双方を疲弊させる戦略を採っています。
おかげで蒋介石率いる国民党は、連合国の一員であり、戦後は戦勝国として高い地位を与えられ、東京裁判においても判事を出す国となっています。
ところが、ではこの当時において、支那が蒋介石率いる国民党軍によって成立する「国家」であったかというと、実はそんなことはない。
当時の支那には、南京に汪兆銘を首班とする南京政府があり、支那奥地には毛沢東率いる支那共産党があり、三者がそれぞれ、我こそは正当な支那の国家政権であるとそれぞれに主張していたのです。
そして戦争が終わった。
米英が蒋介石に支援物資を与えていたのは、あくまで日本と戦うためです。
当然、日本が戦争を終わらせれば、蒋介石は用済みで、終戦とともに蒋介石のもとには米英からの援助物資が途絶えてしまう。
数十万の兵を養わなければならない蒋介石にとって、兵を養うカネがないというのは、まさに党の死活問題です。
一方、終戦直前に満州に攻め込んだソ連は、終戦にともなって日本軍の武装解除によって日本軍から得た銃器や弾薬が大量に余ってしまった。
その銃器弾薬を、ソ連は毛沢東率いる支那共産党軍にまるごと引き渡します。
すでに補給を失った蒋介石軍、突然豊富な補給物資を得た毛沢東軍、両者はあちこちで戦い、毛沢東側が圧勝します。
蒋介石は追われ、ついに南京に向かって逃げ出した。
南京には、戦時中、汪兆銘率いる南京政府がありました。
この南京政府は、親日政権で、おかげで南京は戦時中、ずっと豊かで平穏な社会を維持することができた。
要するに、蒋介石にとって、豊かな南京に行けば、失った米英からの援助に代わる富を得ることができる。
こうして蒋介石は再び南京に攻め込みます。
そして南京市民から再び収奪を行った。
さらに前年の昭和19年に亡くなっていた汪兆銘の墓をあばき、遺体を焼き、さらに彼の一族50余名を逮捕し、虐殺すると、その遺体をゴミとして廃棄した。
また親日的だった支那人たちを次々と殺害し、婦女を暴行しています。
そして資産家の家に乱入し、戦時徴発と称して、金品をさかんに巻き上げた。
けれど、南京市民にとって、まだ汪兆銘憎しと目先の利益を追求した国民党軍はまだマシだったのです。
事件はその後に起こった。
国民党軍の乱入によって南京の街は荒れ、市民が疲弊しているところに、今度はその国民党軍を追った支那共産党軍がやってきたのです。
この時点でろくな武器を持たない国民党軍は、共産党軍がやってくると算を乱して逃げ出します。
その後に、共産党軍が城内に乱入する。
乱入した共産党軍にとって、南京市民の全部が敵です。
彼らは市民を、国民党に協力したとして次々と殺害し、通州同様に南京市民を虐殺し、収奪し、婦女子を強姦し、殺戮した。
なにせ共産主義者たちにとって、普通の経済生活を行う市民はブルジョアです。
そしてブルジョアから富を奪い、それを共産主義者たちに分配することが、彼らにとっての正義なのです。
そして奪うものは財物だけではない。
人としての尊厳や貞操、生きる権利の全てが否定の対象だった。
この第四次南京事件における死傷者の数は、10万人とも15万人ともいわれています。
南京市民の3人にひとりが殺害されたのです。
いまだに日本には、共産主義は平和主義であり、中共政府は平和を希求する政府であると本気で思い込んでいる日本人がいます。
けれど、戦後67年、この間に中共が起こした戦争行為は、主なものだけでも19回に及びます。
そこで彼らが虐殺した人の数は、いったい何千万人に及ぶのでしょうか。
日本が大東亜戦争で失った将兵の数、あるいは広島、長崎に落とされた原爆で、あるいは空襲や艦砲射撃で失った人命の数十倍ではきかない人の殺害を、彼らはいまも続けているのです。
南京事件だの虐殺だのという議論になったら、みなさまにお願いがあります。
それを言う方に対して「どの南京虐殺事件のことなの?」と質問していただきたいのです。
そうして事実をきちんと調べ上げれば、日本軍による南京大虐殺など起こりようがなかったし、実際には同じ支那人による南京に住む支那人への虐殺、暴行、陵辱、収奪、強姦、殺戮の歴史がおのずとあきらかになってくるからです。
尚、本件について、アネモネさんがご自身のブログ「東アジア黙示録」でも、詳しい紹介が出ていますので、是非ご参照ください。
http://dogma.at.webry.info/201203/article_1.html
(参考)◆中共が戦後行った戦争行為◆
1949年 東トルキスタン侵略、占領(ウイグル大虐殺)、民族浄化継続中
1950年 大躍進、文化大革命3000万人大虐殺開始
1950年 朝鮮戦争参戦
1951年 チベット侵略、占領(チベット大虐殺)、民族浄化継続中
1959年 インド侵略(中印戦争)アクサイチン地方を占領
1969年 珍宝島領有権問題でソ連と武力衝突
1973年 中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射
1974年 ベトナム、パラセル諸島(西沙諸島)を軍事侵略、占領
1976年 カンボジア、クメール・ルージュによる大虐殺を強力支援
1979年 ベトナム侵略(中越戦争)、中国が懲罰戦争と表明
1988年 スプラトリー諸島(南沙諸島)を軍事侵略、占領
1989年 天安門事件
1992年 南沙諸島と西沙諸島の全てが中国領土と宣言
1995年 フィリピンのミスチーフ環礁を軍事侵略、占領
1996年 台湾総統選挙恫喝、台湾沖にミサイル攻撃
1997年 フィリピンのスカーボロ環礁の領有を宣言
1997年 日本の尖閣諸島の領有を宣言
2003年 スーダンのダルフール大虐殺を強力支援
2005年 日本EEZ内のガス資源を盗掘
南京虐殺の嘘 1/3
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第二次南京事件
昭和2(1927)年
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第一次南京事件が、ある意味、堂々と南京城に攻め込んだ張勲一派が、城内で略奪等をほしいままに行った残虐な事件とするならば、この第二次南京事件は、その不法行為にさらに「騙し討ち」の要素が加わった悪質きわまりない事件です。
昭和2(1927)年3月24日の早朝、国民軍総司令の蒋介石が率いる北伐軍が南京城に入城しました。
支那国家の独立、未来の民主政権の樹立を謳う蒋介石軍は、当初、きわめて平和裏に南京城に入城しているのです。
ところが、入城した蒋介石軍は、南京城内で反帝国主義を叫び、外国人居留区に乱入して領事館や居留地などを突然、襲撃し、各国の領事らを暴行し、掠奪と破壊の限りを尽くしたのです。
この事件で、日本人1名、英国人2名、米国人1名、イタリア人1名、フランス人1名、他1名の死者が出、さらに2名の行方不明者が出ています。
29日の東京日々新聞に、このときの模様が詳しく報じられています。
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弓削南京特派員二十九日発
24日午前5時頃である、国民第二軍、第六軍、第四十混成旅団の各軍から選抜された約2000名の決死隊は南京南部の城門を押開き侵入して来た。
市民は各戸に「歓迎北伐軍」の小旗を掲げ爆竹を揚げて歓迎した、
われ等在留日本人は、「南軍(蒋介石軍)が入った以上もう大丈夫だ」と安堵の胸を撫でていた矢先き、6時半頃、平服隊や左傾派学生に手びきされた約百余名の国民軍が突如我が領事館に向って一斉射撃を行い、餓狼の如く闖入して来た。
そしてピストル、銃剣を突きつけて、第一に現金を強奪し、眼鏡や時計、指輪をはじめ、身に着けたものは着物まで剥ぎ取った。
入り代り立代り入って来る国民軍兵士。それに勢を得た群衆まで交って、手に手に領事館内の畳から便器、床板に至るまで一品残らず持ち去った。
かくて領事館内は阿鼻叫喚の巷と化し、居留民は数家族ずつ一塊りとなって何等の抵抗もせず、婦女子をかばいつつ身を全うするにつとめた。
国民軍の闖入と同時に(陛下の)御真影は、金庫の中に奉安したが、これを警護申上げていた木村警察署長は第一番に右腕に貫通銃創を負い、さらに右横腹を突かれた。
病気で臥床中の森岡領事は、二回にわたって狙撃されたが幸いに命中しなかった。
また根本駐在武官は銃の台尻で腰をしたたか打たれた上、左横腹をつかれ二階から地上に墜落して人事不省に陥った。
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新聞記事にある根本駐在武官は、このとき乱入したシナ人集団に素手で立ち向かい、乱闘の中で眼鏡を奪い取られ、目が見えないままの状態で二階から飛び降りたところを、国民党軍の兵士に腹と足を刺されて重傷を負っています。
さらに日本領事館に侵入した支那人たちは、銃を突きつけて身体検査を行い、「金を出さねば皆殺にする」と威嚇し、金品を強奪し、あろうことか領事夫人を強姦しています。
当時、南京城内に居住していた日本人は約500人だったのですが、その家屋は軒並み襲撃を受けました。
そして約200名が生死不詳となっている。
被害を受けたのは日本人だけではありません。
このとき英、米、仏その他の外国人全部が惨澹たる被害を受けたのです。
英国領事館では、チャイルズ領事が足に重傷を負い、領事館職員4名が射殺され、多数の負傷者を出し、米国は金陵大学長が射殺され、数名が負傷しています。
このことは当時、日本だけでなく諸外国で報道された事実です。
↑^^
これを日本軍の仕業であると^^
すり替えられた=南京大虐殺とは、そう謂うこと^^
そろそろ^^
阿修羅ドパヨクが、小泉さ〜ん!と言い出す日も近ずいた^^
ははははははははははははははははははははははははははは^^
http://www.asyura2.com/18/senkyo246/msg/821.html#c48
優秀な様で、そうでもないな^^
「官僚がいる」⇦この瞬間^^
民主主義はありえない^^
官僚とは、軍人だけで良い^^
日本は、国防軍を編成しないと誓った^^
日本の国防軍は、国連軍と同義一元の媒体であるので^^
国連軍が、日本の安全保障に脅威との判断を下さない侵略者から、日本の防衛インフラの使用は得られない^^
日本国民は、当該判断を国連軍に委ねたまま^^
“専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。”^^
此の様に宣誓した^^
拠って、日本における官僚とは^^
当該事態が差し迫った際、国連統合軍に自動的に組み込まれ、国連統合軍の命令に従うことで^^
憲法に誓った日本国民の代表として、正に、この対談における消防士の様に、戦役に付くものを謂うのである^^
それ以外に^^
官僚を設置することは、日本国憲法に違反する^^
全ての公務員は、日本国民の認否判断を受けることが、日本国憲法に拠って定められているからだ^^
緊急時に^^
極東地域において^^
国連統合軍参謀本部を編成する在日米軍に従い、戦場に立つ者のみが官僚である^^
戦場に立たない可能性のある官僚は、即刻、罷免されねばならない^^