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IsLokKthc64 コメント履歴 No: 100000
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[政治・選挙・NHK219] アパグループ元谷外志雄代表  / 「中国のみなさ〜ん、誤解です(でも、何が?)」  赤かぶ
19. 2017年1月25日 20:06:39 : xQ63tN0rZg : IsLokKthc64[1]
毛沢東、蒋介石、本多勝一の言動や朝日新聞の記事からも南京大虐殺なんて嘘・デマ・デタラメだとバレテいるんだよね。

「南京事件はなかった」とする根拠
@毛沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は生涯1度も南京虐殺などに言及していません。南京戦に触れているのは、南京戦の半年後に延安で講義し、『持久戦論』としてまとめられた本の中においてです。そこで毛沢東は「日本軍は、包囲は多いが殲滅が少ない」と批判しています。日本軍は敵を包囲しながら、殲滅(皆殺し)せずに逃がしていることを、戦争の常道に反するものとして批判し、中国共産党の幹部に教えているのです。
当方の指摘に対して、朝日新聞元記者・本田勝一は『中国占領区の日本帝国主義』という本に毛沢東が前書きを書いている、という事実を持ち出して反論しています。しかし、その前書きで毛沢東は、「調査なくして発言権なし」という立場から、「日本軍占領区の状況をよく研究してほしい」と述べているだけで、日本を虐殺の故をもって非難しているわけではありません。つまり、これは少しも反証になっていないのです。
A南京戦直前の1937年11月、中国国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置しました。「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」という秘密文書には、南京戦を挟む1937年12月1日から1938年10月24日までに、国際宣伝処は漢江において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均35人だったと記録されています。毎日のように開かれた記者会見の目的は、当然ながら、交戦中の日本軍を非難し国際世論を味方につけることでした。ところが、この300回の記者会見において、ただの1度として「南京で市民虐殺があった」「捕虜の不法殺害があった」などの話をしていません。
朝日新聞元記者・本田勝一は蒋介石の日記に日本非難の記述があるとして、中国国民党は知っていた、などと論じています。しかし、「南京虐殺」は蒋介石によって外国向けメディアに作られた反日プロパガンダです。それを蒋介石が知っていた、などと論じるのは間抜けな話であり、筋違いです。
B南京安全区に避難した南京市民の面倒を見たのが西欧人15人からなる国際委員会です。その活動記録が『Documents of the Nanking Safety Zone』として、国民政府の監修により、1939年に上海の英国系出版社から発行されています。それによりますと、南京の人口は日本軍占領直前が20万人、その後ずっと20万人で、占領1カ月後の翌年1938年1月には25万人と記録されています。朝日新聞元記者・本田勝一は「歴史上まれに見る惨劇が1938年2月上旬まで2か月ほど続けられ、約30万人が殺された」と書いています。市民は20万人なのに、どうして30万人も殺せるのですか。
C『Documents of the Nanking Safety Zone』には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されています。ところが、その中で殺人は合わせて26件にしか過ぎず、しかもその中で目撃されたものは1件のみです。その1件は合法殺害であるとわざわざ注記されています。西欧人は日本軍の大虐殺を記録しようとしたはずですが、逆に日本の無実を示す史料になっているのは皮肉です。
私は十数名の研究会メンバーとともに『Documents of the Nanking Safety Zone』を、既存の日本語訳や関連資料と付き合せながら1年かけて解読しました。それで、事件捏造のからくりがよく理解できるようになりました。例えば、次のようなことがあります。
日本軍部隊は夜間には外出禁止とされ、将兵が安全区に立ち入ることは出来ませんでした。南京市は日本軍が入城した後、全市停電となり、復旧したのはクリスマスの頃でした。ただでさえ不案内で恐ろしい外国の首都を、しかも電燈のない夜間の暗闇の中に飛び込んでいく日本兵がいたとは考えられません。ところが、強姦、略奪などの事件の3分の1は夜間に起こっているのです。これは誰が起こした事件なのでしょうか。英文の記録を読むと、犯人について単にsoldierとのみ書いてあるのに、洞富雄訳では「日本兵」となっているケースがあります。民間人20万人を収容していた安全区には推定1万余の中国国民党軍の敗残兵が、民間人の服装をした敗残兵となって潜伏していました。非行は彼らの仕業です。中国国民党軍のある元将校は、避難民キャンプから少女たちを引きずり出して強姦したあげく、翌日には日本兵が襲った風にしたと、外国人の前で告白しました。ニューヨークタイムズの記事です。
D南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の虐殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されています。全部で143枚になります。しかし、科学的な検証によって、そのうちのただの1点も南京虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかになっています。それどころか、『週刊新潮』(2014年9月25日号)には、そのうちの1枚が朝日新聞元記者・本田勝一自身が捏造に加担して掲載したものであることを認めています。これについて、まず、朝日新聞元記者・本田勝一は日本国民に謝罪すべきではありませんか?

2014年10月30日
南京大虐殺,歴史問題
本多勝一元記者が、「南京大虐殺」写真の捏造認める!
http://japan-plus.net/182/
朝日新聞が避けて通れない、もう一つの「戦後責任」
本多勝一元記者が捏造認める!
朝日新聞は速やかに「南京大虐殺」報道の検証と記事の取り消しを!
かつて朝日新聞のスター記者だった本多勝一氏が、日本軍による虐殺の証拠として使ってきた写真が、実は捏造であったことを、本多氏自身が初めて認めました。
問題の写真は、本多勝一氏の『中国の日本軍』に掲載されたもので、日本兵が中国の婦女子をかり集めてこれから虐殺するところであるとの説明がなされています。
ところが、この写真の出所は、実は本多氏が当時勤めていた朝日新聞社発行の『アサヒグラフ』(一九三七年十一月十日号)に掲載されたもの。日本兵は家路につく少女たちを護っていたとのキャプションがついていて、少女たちの笑顔もはっきりと写っており、「南京大虐殺」とは何の関係もない写真であることは、誰の目にも明らかです。
この矛盾点を問われた本多氏は、週刊新潮(9月25日号・下写真)に次のようなコメントを寄せています。
「『中国の日本軍』の写真説明はすべて中国側の調査・証言に基づくものです」「『中国の日本軍』の写真が、『アサヒグラフ』に別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです。確かに「誤用」のようです。」
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一切裏付け取材をしなかった本多勝一記者
本多勝一氏は1971年6月から四〇日間かけて中国を取材し、その衝撃のルポルタージュ「中国の旅」は朝日新聞紙面で連載されたほか、「中国の日本軍」「南京への道」などとともにシリーズで単行本化され、長らく「南京大虐殺」説の根拠とされてきました。
しかし本多氏のこの時の取材は実にいい加減なものでした。中国共産党が用意した証人の証言をただ聞き書きしただけで、一切裏付け取材を行っていなかったことを、本多氏自身も後に著書の中で認めています。
また、「中国の旅」の記事で「日本人による虐殺があった」と紹介された炭鉱に勤めていた日本人が、記事は事実と著しく異なると本多記者に抗議の手紙を送ったところ、本多氏からは「私は中国側の言うのをそのまま代弁しただけですから、抗議をするのであれば中国側に直接やっていただけませんでしょうか。」という、無責任な回答が返ってきました(※下写真参照)。
※本多勝一記者の直筆の書簡
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証言が真実かどうかを調べるのが記者の仕事ではないでしょうか。
これが『中国の旅』の報道の実態です。

当時の朝日新聞が報道!
「南京大虐殺はなかった!」
『中国の旅』(本多勝一著、朝日新聞社発行)には、中国側が提供した「日本軍による虐殺現場」と称する写真が多数掲載されています。
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当時の朝日新聞記者が撮影した 陥落直後の南京市内のようす
当時、南京戦には約80名もの朝日新聞の取材班が同行し、現地の状況をつぶさに報道していました。
下の写真はすべて、当時の「アサヒグラフ」に掲載されたものです。
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左:『アサヒグラフ』(昭和13年1月19日号)  右:『アサヒグラフ』(昭和13年1月12日号)
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『アサヒグラフ』(昭和13年1月12日号)
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『アサヒグラフ』(昭和13年3月23日号)
このように当時の朝日新聞の特派員たちは、我が国の名誉回復につながる貴重な報道写真を多数撮影していたのです。
本多勝一記者の『中国の旅』は裏付けも取っていない、いい加減な聞き書きで、写真もすべてニセモノであったことが判明しています。
本多記者のルポと、南京陥落当時の朝日新聞社特派員の報道。いったいどちらが「真実の南京の姿」なのでしょうか?
本当に「南京大虐殺」があったのなら、南京市民がこのように穏やかな表情で写真におさまるはずがありません。
確かに通常の戦闘行為はありましたが、日本兵は南京で虐殺などしていなかったのです。
日本は今、「南京大虐殺」の汚名をきせられ、ナチス同様の野蛮な民族として、世界中からレッテルをはられようとしています。その発端となったのが朝日新聞の「中国の旅」です。
わたしたちは朝日新聞社に対し、
1.朝日新聞者として、速やかに1971年に朝日本誌に掲載した本多勝一記者のルポ「中国の旅」と、それをまとめた書籍『中国の旅』(本多勝一著、朝日新聞社)、および一連の「南京大虐殺」報道に関する検証作業に着手すること
2.裏付けのない記事、および事実に反する記事の取り消しと訂正
3.『中国の旅』の絶版と回収 
を求めます。


中国の方向から飛んでくる有害物質といえば、黄砂やPM2.5を思い浮かべますが、中国の国家主席自身も国外で積極的に「有害」な発言を撒き散らし始めたようです。本当に迷惑千万です。
ドイツを訪問した習近平国家主席は、日中戦争で3500万人の中国人が死傷し、南京では旧日本軍が30万人以上の兵士や民間人を殺害したのだと講演しました。人口約20万人(当時)とされている南京で30万人も殺害するのは当然、無理です。そんなことはよく考えれば分かる、いや、よく考えなくても分かりそうなものですが・・・。
実は習主席もよく分かっているのに分からないふりをして、反日宣伝のために根拠のない数字を振りかざしている節もあります。突き合わされたドイツの人々も迷惑しているのではないのでしょうか。
冷戦が終わってアジアの派遣を争うライバルである日本を蹴落とすために、同盟国のアメリカ、そして同じ自由主義陣営の韓国に対し、日本との離間工作を仕掛ける、その材料として歴史問題を使っていくという方針を、1992年当時に中国共産党が立てたのです。
反日歴史教育を徹底させるた「愛国主義教育実施要綱」を1994年に江沢民が定めたことは知られていますが、それより前の1992年の段階でそうした路線変更があったことは、香港などのメディアで頻繁に流されています。中国共産党の公式文書で確認したわけではありませんが、アメリカの情報機関も把握していました。
日中戦争の中国側犠牲者数
中国共産党政権維持のための反日プロパガンダも加わり、中国側の「日中戦争の犠牲者数」は指数関数的な勢いで日々増加している。当時の中国人口よりも犠牲者数が増えるのではないかと揶揄する評論家もいる。
@発表年A犠牲者数B調査・出典C補足
@終戦時A132万BGHQ調査・発表C国民党軍人のみ
@終戦時A132万B国民党政府調査・発表
@1948年A438万B国民党政府報告書C1948年までの確認数 国民党軍人のみ
@1950年代A1000万B共産党政権発表
@1970年A1800万B共産党政権発表
@1985年A2100万B共産党政権発表(抗日勝利40周年)Cこれ以後 博物館や教科書で公式数字となる
@1998年A3500万B江沢民発表C江沢民の演説で発言後、南京大虐殺記念館での公式数字となる
@2005年A5000万B卞修躍博士発表(抗日勝利60周年)
日本はこの頃から国連の常任理事国入りを目指していたわけですけど、中国は「戦争犯罪の率直な謝罪が条件だ」と明確に主張し始めたわけです。
それは1993年8月のことで、中国共産党は日本の自立、政治大国化を阻むカードとして「過去」を使い始めたのです。
歴史が問題だと思っているのであれば、戦後50年も経った時点で国連の常任理事国入りの条件に取り上げるのではなくて、記憶が生々しかったはずの日中国交正常化の時点で条件にすべきだった。日本の政治大国化を阻むために反日であること自体、歴史の結果ではなくて、政治謀略であることを示しています。

「中国の旅」は1971年(昭和46年)8月から12月まで朝日新聞に掲載された。中国人が戦争中の日本軍を語る形を取ったルポルタージュで、毎回、残虐で非人道的な日本軍が語られていた。これほど残虐で猟奇的なことを新聞が掲載してよいのかと感じるほどだったから、その残虐さに度肝を抜かれた日本人はいただろう。
しかし、語られている日本軍の行為は日本人の感覚からは考えられないもので、常識的な日本人なら躊躇なく疑うものだ。もし日本軍の実情を知っている人なら言下に打ち消すだろうし、日本の歴史に照らし合わせれば、これも直ちに否定できる。「記事に対するごうごうたる非難の投書が東京本社に殺到した」(「朝日新聞社史」)というように、朝日新聞の読者ですら拒否したのである。
朝日新聞社内からも批判の声が上がった。「中国の旅」は4部に分けて連載され、残虐で非人道的な話の圧巻はそのうちの「南京事件」だが、当時従軍した記者たちが取材した南京と、「中国の旅」に書かれている南京とは全く違っていたからである。
改めて「中国の旅」が虚偽に満ちた内容であることを示す。「南京事件」に絞ると、その冒頭で南京に攻め入った日本軍はこう記述されている。
「日本軍がなだれこむ。大混乱の群衆や敗残兵に向かって、日本軍は機関銃、小銃、手榴弾などを乱射した。飢えた軍用犬も放たれ、エサとして食うために中国人を襲った。二つの門に通ずる中山北路と中央路の大通りは、死体と血におおわれて地獄の道と化した」
この記述が文字通りの虚偽であることはあまたの事実が示している。日本軍が南京城内に入ったのは1937年(昭和12年)12月13日で、城内の第三国人を保護するため、翌日には日本の外交官も入った。外交官の名は福田篤泰といい、戦後、衆議院議員となり、総務庁長官などを務めた人である。南京市民でごったがえす中心部で第三国人の応対に当たった福田領事官補はこう証言している。
「街路に死体がごろごろしていた情景はついぞ見たことはない」(『一億人の昭和史』毎日新聞社)
南京市の中心には日本の新聞社や通信社の支局があった。同盟通信(現在の共同通信と時事通信)の従軍記者である前田雄二は15日に城内に入った。前田雄二記者は支局を拠点に取材をするのだが、その時の支局周辺の様子をこう記述している。
「まだ店は閉じたままだが、多くの住民が行き交い、娘たちの笑い合う声があり、子供たちが戯れていた。生活が生き残り、平和は息を吹き返していた」(『戦争の流れの中に』)
死体もなければ、血にも覆われていない。南京は全くの落ち着いた街だった。
中国人の話だけで成り立つ「中国の旅」からすると、日本人の証言では不十分とされそうなので、第三国人の証言をあげる。
南京には数十人の第三国人がいて、一部は南京安全区国際委員会を作って南京市民の保護に当たった。彼らは南京にやってきた日本の外交官に手紙や要望書を出すが、福田領事官補が南京に入った14日、さっそく手紙第一号の冒頭はこう書かれている。
「謹啓 私どもは貴砲兵部隊が安全地帯に砲撃を加えなかった立派なやり方に感謝」(『「南京安全地帯の記録」完訳と研究』)
日本軍が南京市民を殺戮することなどなかったのである。
第三国人の証拠を持ち出すまでもない。14日の様子を朝日新聞がこう報道している。
「中山路の本社臨時支局にいても、もう銃声も砲声も聞こえない。14日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るような錯覚を起こす。住民は一人も居ないと聞いた南京市内には尚十数万の避難民が残留する。ここにも又南京が息を吹き返して居る。兵隊さんが賑やかに話し合って行き過ぎる」(東京朝日新聞 12月16日)
死体と血に覆われた地獄というのは全くの虚偽なのである。
軍用犬を放したという記述にいたっては腹を抱えて笑うしかない。軍用犬は、最前線と後方の連絡に使われるが、偵察に使ったり、傭兵を救護したり、軍需品の運搬にも使う。そのため飼育され、訓練が繰り返され、人間を食べることなどあり得ない。
虚偽の記述は冒頭で終わるわけではない。続いて「川岸は水面が死体でおおわれ、長江の巨大な濁流さえも血で赤く染まった」「どこへ行っても空気は死臭で充満していました」といった死の世界の描写が続く。
「中国の旅」とは、冒頭からこのような虚偽と噴飯ものに溢れ、それが最後まで続くのであった。

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