1. taked4700[6864] dGFrZWQ0NzAw 2018年3月06日 14:52:45 : 8ZZcWj884s : H_PP_2vXPQk[1]
818年の地震 とは、記事中に
>平安時代初期の弘仁(こうにん)9(818)年、記録に残る関東最古の大地震が起きた。
とある様に、弘仁地震と呼ばれるものです。
地震の年表_(日本)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E9%9C%87%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
より、
>818年8月頃(弘仁9年7月) 弘仁地震 - M 7.9、上野国、武蔵国などの関東内陸で液状化を伴う地震。死者多数(『類聚国史』) [注 5][41][42]
上の注42のリンク先:
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/19/9/19_9_38/_pdf
弘仁地震の被害と復興、そして教訓
田中広明
弘仁9年(818)7月、関東地方を未曽有の大
地震が襲った。弘仁地震である。その被害は、
千葉県南部の安房・上総国を除く関東全域に及
んだ。とくに上野国(群馬県)と武蔵国(埼玉
県)は被害が大きく、『類聚国史』は、「山が崩
れ谷を数里にわたって埋めた。圧死した人々が
どれほどいたか、計り知れない。」と伝える。
いっぽう、遺跡を発掘調査すると、弘仁地震
の痕跡が、しばしば発見される。地割れや地滑
り、土砂崩れ、液状化現象、洪水などの痕跡や
堆積層である。これらは、人類の歩んだ険しい
道のりを物語る。
ここでは、弘仁地震の震度や被害の状況、復
興の歩みなどを遺跡に残る地震痕跡に求め、地
殻災害を考古学から解明し、その教訓を探りたい。
1.地震痕跡の検出と分析
弘仁地震の主な痕跡は、次のとおりである。
@地割れ 地盤の状況にもよるが、地割れは、
激震以上の揺れでおこる。弘仁地震による地割
れは、赤城山南麓から大間々扇状地にかけて集
中的にみられる。地震以前に埋没した竪穴住居
跡や溝跡は切り裂かれ、それ以後は地割れを壊
してつくられている。
A洪水 山間の脆い表層が、地震の震動で土
砂や樹木とともに渓谷や小河川に流れ込み、土
砂ダムを形成する。そこに台風や梅雨の影響で
土石流が発生し、沖積地の水田や集落を壊滅さ
せた。赤城山南麓の荒砥川、粕川、早川下流に
みられる。
B液状化現象 利根川や荒川の流域では、砂
と粘土が互層に堆積した自然堤防が発達し、そ
こに集落や水田が営まれた。液状化現象は、砂
の詰まった樹枝状の亀裂として検出される。埼
玉県北部(深谷市、熊谷市、行田市)から群馬
県南部(伊勢崎市、前橋市)の遺跡にみられる。
C構造物の破壊 地震の振動や圧力は、建築
物や工作物を破壊する。建築物の被害は、屋根
瓦の損傷や落下(前橋市上野国分寺、山王廃寺)、
自重による不同沈下(深谷市皿沼西遺跡)、版
築基壇の地割れ(太田市天良七堂遺跡)、礎石
から柱の移動などがある。また、赤城山南麓の
古墳では、横穴式石室の左壁が崩壊する現象が
みられた。
つぎに、B・Cについて詳しく述べたい。
2.液状化現象と震度
表層地質と液状化現象の関係から、地震の震
度を推定した海野芳聖氏の指標(海野2011)を
もちいて、弘仁地震の震度を求めたい。海野氏
は、震度5以上となると、河川近くの自然堤防
上に液状化現象が発生し、震度6強になると側
方流動が発生するとした。これに基づき分布図
を作成した。側方流動のある遺跡は○で囲った。
これによって、液状化現象の発生した遺跡が、
利根川、小山川、福川、忍川、荒川などの形成
した自然堤防上に分布(a)し、なかでも側方
流動のみられる遺跡は、福川と小山川の間の地
域(b)に集中することがわかった。aは、震
度5から6弱、bは震度6強以上となる。なお、
bの西南部は、液状化現象の発生しないローム
台地(櫛引台地)が続く。
この台地の縁辺には、飛鳥時代から平安時代
にかけて、武蔵国幡羅郡の役所や古代寺院、祭
祀の場などが営まれた。やはり、震度6の揺れ
で甚大な被害となったことが予測される。たと
えば、郡役所の建物や
寺の仏堂から屋根瓦の
落下、建物の倒壊、仏
像や調度の破損などで
ある。
また、深谷市皿沼西
遺跡では、震動と液状
化現象で不同沈下した
高床倉庫を発見した。
この高床倉庫は、地面
に穴を掘り、柱をすえ
て土を埋めた掘立柱建
物である。梁間二間、
桁行三間の農村では一
般的な総柱建物であっ
た。
この建物の発掘状
況、復元過程を通じて、
詳細は省くが、以下の
ことがわかった。@床
高が、1.1 mであること、A通し柱であること、
B板壁であること、C大引きに継手があること、
D扉は北向きであること、E糒を櫃か俵に納め
て建物の南側に置いたことなどである。
このことから当時の農村の倉庫について、使
用方法、建物構造、倒壊の経過、建物の倒壊率
などが解明できた。
3.弘仁地震からの復興
@寺院と官衙 深谷市岡廃寺(榛沢郡家の隣
接寺院)や熊谷市西別府廃寺(幡羅郡家の隣接
寺院)では、弘仁地震によって破損や倒壊した
建物、物品を修理する補修工房(修理所)が営
まれた。また、上野国分僧寺(群馬県前橋市)
でも補修工房がみられる。それは、仏師や木工
が、寝泊りや炊事をしながら作業にあたった小
型の竪穴住居である。
さらに、山王廃寺(群馬県前橋市)では、塔
跡から「天長八年」銘の瓦が出土した。弘仁地
震から13年たった天長8年(831)に破損した
堂塔が修復され、いよいよ屋根に瓦を葺かれた
のである。この瓦と共通の瓦は、上野国や武蔵
国北部の国分寺、定額寺、私寺や官衙を問わず
広範に用いられた。古墳時代から続く地域の根
強い紐帯と、仏教への傾斜が、寺院の復興に大
きく寄与したのであろう。
『類聚国史』は、「正税をもって賑恤(支援)し、
屋宇(建物)の修理を補助」するとある。官舎
や堂塔の修理は、目に見える国家再建の大事業
だったと考えられる。
また、坂東の各地では、いわゆる「村落内寺院」
が建立され、集落遺跡から仏鉢や水瓶などの仏
教系遺物が出土するようになる。弘仁地震の3
年前、最澄が東国へ下向したことで上野、下野、
武蔵国は、宗教的にも高揚していた。復興に仏
教が果たした役割は、想像以上に大きかったと
考えられる。
A集落遺跡と勅旨田 詳細は別稿(田中2013)
に譲るが、弘仁地震の液状化現象がみられた地
域について、復興の経過を探るため、集落ごと
に竪穴住居の構築数の推移をたどった。
その結果、7世紀後半、古墳時代の農耕集落
から律令制下の班田集落へ転身した古代集落
は、8世紀前半、8世紀後半と順調に竪穴住居
数が、増加して弘仁地震の発生をむかえる。そ
して、地震発生後の9世紀第U四半期、竪穴住
居数、集落総数はともに減少した。しかし、9
世紀第V四半期に竪穴住居数は、再び上昇に転
じる。ただ、集落の総数はかわらない。地震を
乗り越えた集落が、疲弊した集落や被災者を吸
収し、急成長を遂げたのである。一辺90 mに
及ぶ方形区画、密集する竪穴住居、愛知県や岐
阜県の陶器を大量消費する拠点的集落が、成長
を牽引したのである。
いっぽう、時の政府は承和から天長にかけて、
坂東諸国に勅旨田を矢継ぎ早に設置した。勅旨
田は、「王家の庄園」ともいわれ、「荒廃田」(耕
作放棄地)や「野」(未墾地)などを囲い込み、
近隣の農民を雇役して灌漑水路(溝)の開削や
墾田を拓いた。
液状化現象の顕著に発生した武蔵国の幡羅郡
には、承和元年(834)、123町に及ぶ勅旨田が
設置され、冷然院に充てられた。同国には天長
6年(829)、同7年(830)、承和8年(841)に
も勅旨田の設置がみられる。
国家にとって勅旨田は、肥大化する院宮王臣
家の経済を救う切り札であり、そもそも征夷や
防人などで疲弊した坂東の復興を担う施策であ
る。取りも直さず幡羅郡は、急成長を遂げた。
その象徴が、灌漑水路の取水口付近に営まれた
拠点的集落(用水の家)であり、衰退する郡家
の機能の一部も補完していたと考えられる。
まとめ
遺跡には、様々な情報が閉じ込められてい
る。そのひとつが、地震の痕跡である。地震に
よって地割れや液状化現象、津波、洪水などが
発生し、その痕跡が残る。瓦葺きの建物から瓦
が落下し、建物は不同沈下を起こす。地質的条
件と研ぎ澄まされた調査者の眼が、これらの情
報を導き出すことができる。
ここでは、弘仁地震による液状化現象と建
物被害について紹介した。まず、液状化現象の
状態を検討し、弘仁地震の震度分布図を作成し
た。埼玉県深谷市北郊で震度6強、埼玉県北部
全体で震度5強以上とわかった。
また、地震で倒壊した高床倉庫の復元を試み
た。その結果、建物の構造や倒壊の状況、収納
物の配置などが明らかとなった。農村の標準的
な高床倉庫の姿を解明できた。
つぎに、弘仁地震からの復興をまとめた。一
時は、地震で衰退した地域が、国家の施策や仏
教の支援、そして自力回復によって成長したこ
とがわかった。そこには、地域を牽引した「用
水の家」や、いわゆる王朝国家の幕開けとなる
勅旨田の開発などがあった。
以上を通じ、得られた教訓を記しておきた
い。まず、遺跡の情報を分析することで1200
年前の地震が、今起きた地震のように震度分布
を示せたことから、これから起こりうる地震に
備えた防災に十分活用していただきたい。
また、弘仁地震の発生から復興までの国家の
対応、地域の自力回復、仏教の果たした役割な
ども解明できた。平安時代と現代では、政治や
経済、人口など全く異なるが、歴史に学び未来
へ生かす「種」が、そこにはあると確信する。
地震列島に住むわたしたちは、どのような地
殻災害に対応した未来の社会を構築したらよい
か。「歴史から地殻災害を学ぶ」ことを社会と
ともに考え、伝えていきたい。
参考文献
海野芳聖(2011)「史料からみた埼玉県の液状化履歴―近世以
後の概観―」『大震災を考える』NPO法人野外調査研究所.
田中広明(2013)「武蔵国北部の液状化現象と復興」『古代の災
害復興と考古学』高志書院.
http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/467.html#c1