14. 2018年5月03日 10:31:10 : eJciCOxNUc : fg42JIESlJY[1]
中川コメは当然全て削除されおるが、止むを得ず復元流し読みでも、雑多な知識の切り貼りで、読むに堪えないが、シロタ女史関連のところだけ、反論しとこう。中川コメは、官邸グループからお下がりの薄汚いゼニコ狙いの駄文だが、一応行数稼ぐために、資料には当たっちょるようで、シロタ女史に関しては、ベアテ・シロタ・ゴードン『1945年のクリスマスー日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(平岡磨紀子構成・文、柏書房、1995)くれえは読んじょるようだな。
中川コメは,シロタ女史が何故日本国憲法作成にタッチしたか、外国の小娘が書いたんだぞ、こんたなもん従えるかとかで、日本国憲法にケチ付けたい一心で表面的・現象的な側面だけ強調する。しかし、表面や現象の背後にある、大きな歴史の流れや人類の理想等には、無知か意図的にか知らんが一切言及しない。中川コメが、工作員臭プンプンの、底の浅い浅薄な、プロパガンダたる所以だな。
丁度1年前の、昨年今頃の憲法週間前後に、日本国憲法制定関連について、シロタ女史が憲法作成に何故そして如何に関与したか等も含めて、阿修羅にコメ投稿したので、中川コメに反論の趣旨も込めて、再掲する。
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「9条は、その時代の思い、人類全体の思いだった」
1946年早春、街にはひばりちゃんの東京キッドが流行ってたが、GHQは当初は日本側に新憲法つくらせようとしたのは事実だ。日本側は、松本烝治を中心に新憲法案(憲法改正要綱、松本案)をまとめ、2月8日にGHQへ提出した。実は、そのおおよその内容は、GHQは事前に知っていた。2月1日に、毎日新聞が松本案の概要(正しくは宮沢甲案)をスクープしていた。その記事を即座に分析したGHQは、そんときの率直の感想は、。”コラア駄目だ、新憲法作る気も無ければ、能力もない” というのが偽わざる気持ちだった。何せ帝国陸海軍も存続、天皇主権もそのままだった。慌てたGHQは、3日に今の第一生命ビル8階に、GSスタッフ30数名を中心とするメンバー集め、基本骨子(マッカーサー三原則、軍備廃止・国民主権・基本的人権尊重等)だけホイットニーが示し、新憲法の基本案準備作業に入った。30数名の中に、ベアテ・シロタがいたというのは有名な話だ。全員が、各担当分野を、一週間でまとめると言われ、不眠不休だった。女性の権利を担当したベアテなんざ、東京中をジープで駆け巡り、図書館に行き、日本人学者に話しを聞き、骨子まとめた。こうして、マッカーサー草案がおおよそまとまったことろへ、2月8日に松本烝治等が松本案をもってきた。当然GHQ側は、基本的な所では明治憲法と大差ないことを知っていたから、代わりに出来たばかりのマッカーサー草案を示し、これを参考に新憲法を作れと、命じた。このことを、「押しつけ」ととるか、確かに形は押しつけだが、日本側は軍部存族や天皇主権は変える気なかった、形式でなく前後の状況で考ええれば、押しつけとは言えないだろう。マッカーサー草案をもって帰った松本烝治等は、腰も抜かさんばかりに驚いた、軍備廃止とか天皇主権否定だ。ここから、松本烝治等はGHQに日参して、自分達の案(松本案)による新憲法をと陳情始めた。しかし、GHQは認める筈ない。とうとう痺れきらしたGHQは、2月18日に、マッカーサー草案をベースに新憲法作るのか否か、24時間以内に答えもってこいと、最後通牒を突きつけた。”否”のときは、天皇制の存続が危険になるよ、との一言が決め手になった。じつは、GHQ側は、ここまでの記述で、相当慌てたり焦ったりの状況が分かっただろうが、ある事情があった。極東委員会開催、極東裁判開始が刻々と迫っていた。ソ連やオーストラリアなど、天皇制存続に厳しい考えもっていた。GHQとしては、開始前に、新憲法を完成させ、そこへ天皇を位置付け、天皇制を続ける意向があった。こうして、日本側も止むを得ずと、受諾して新憲法作製に入り、ついに3月5日に、「憲法改正草案要綱」が発表された。旧権力側が、”避雷針憲法”とか”山吹の実の一つ・・・”憲法と自嘲した所以である。草案要綱は、ほぼ現憲法と同じであった。
現憲法にケチつけたい連中がよく強調する、<当初の日本側の案がダメなので、GHQは自ら作って強引に>と言うのは、全て間違いでないが、その<ダメ>の内容が、現行自民党改憲草案に通じる内容なので、GHQはダメと言った、という点を注視すべきだ。
9条は、ハーヴァード・ロースクール出身のケーデイス大佐(本業弁護士)が担当したが、これには、人類と時代の相当な思いが込められている。彼が、多感な高校・大学時代を送った1930年代は、悲惨な一次大戦の実体から戦争を法律で禁止(Outlawry of War)しようという不戦運動がアメリカで燃え広がった時代だった。ケーデイスは、こうした影響を強く受け、何とか戦争を法的に禁止できないか、という思いを強め、大学でも戦争の法的禁止をテーマに研究した。日本憲法作製で、戦争放棄を担当することになったとき、彼の思いを9条条文に込めたのは当然だが、それは彼の個人的なものだけでなく、その時代の思い、人類全体の思いだった。9条がノーベル平和賞とれるか落選か不明だが、もしとれる場合は、ケーデイスも日本人共々、正しい方向の努力したし、少しは報われたと、思うのでないか。
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