1. 2017年2月09日 07:53:30 : BtCjAx4agY : FE8ayW7_eWk[9]
安倍総理と長谷川三千子女史の対極性
http://oshosina.blog.so-net.ne.jp/2017-02-09
これまで思ってもみない新たな視点を提供してくれている。安倍総理を見る目が変わったといっていい。
実はこれを読む前々日、中学の同級生数人と温泉に行って、宴会を終えて部屋に帰ってから、3人で議論になった。こちらの真意を汲み取ってもらえないことにイライラしつつ、とにかく1時間以上やり合ったと思う。得ることがないではない議論ではあったが、その議論についていろいろ思いを巡らせていたときに出会ったのがこの文章だった。考えてみると、ネット上のやり取りも含めて世の中の会話のほとんどは、「正確さ」や「厳密さ」などは二の次となって会話は成立していることに思い到った。言った方が勝ち、おのずと声の大きな人が優勢を占めることになる。
はじめてヴィトゲンシュタインに心を向けてみた。松岡正剛氏が『論理哲学論考』に拠って言っている。http://1000ya.isis.ne.jp/0833.html
《日常的な会話こそが、そのあるがままの姿において完全なのではないか》そして《人々が勝手にしゃべっている会話に言語の本質もコミュニケーションの本質もみんなあらわれているというわけだ。つまり、論理とか論理学はそれらをもっとダメにした姿なのではないか、茶殻や茶滓のようなものだというんだね。》
要するに極端な話、「論理(スジミチ)」なんてどうでもいい。世の中は「論理」で成り立っているわけではない。「論理」なんて後付けのミネルヴァの梟(ふくろう)。「でんでん」批判にひるまぬ安倍総理が堂々と存在できる理由(ワケ)である。
ヴィトゲンシュタインについては、「人生の謎はすべて解けた!?ウィトゲンシュタイン哲学が解るまとめ」 がよくわかった。曰く、《「私はなぜこの世に生まれてきた?」「本当に正しいものは何?」「宇宙はなんのためにある?」「神様はいる?いない?」「死んだらどうなる?」などなど。/現実の世界を超えたところに「意味」や「根拠」を求める学問を、形而上学と言います。/哲学でも科学でも、いまだにはっきりとした答えが出ない疑問です。/ウィトゲンシュタインは、そんな疑問がそもそもまちがっていると言った。》形而上学を「上空飛行的思考」として斬って棄てた現象学のメルロー・ポンティと軌を一にします。まさにメディアによる記号・象徴の大量消費という高度情報化社会に見合っている。
私にとってある時期道しるべであったメルロー・ポンティであったが、その頃から40年以上経って3年前、長谷川三千子著『神やぶれたまわず』を読んでこう書いた。
《私自身を省みても戦後日本が見失ったもの、それがまさに「神学」であり「形而上学」ではなかったか。メルロー・ポンティは形而上学を「上空飛行的思考」として斬って棄てた。ある意味私もそれに納得していた。しかし最近になって井筒俊彦に出会った。以下は『井筒俊彦 叡知の哲学』(若松英輔)からの孫引き。 /《現世に於ける人間生活の極致としてのvita contemplativa(観照的生)の理念こそ、まさしくアリストテレス独特の人生観に由来する生の理念なのではなかったか。あらゆる種類の行為的実践的徳に対して、知性的叡知的徳の絶対的優位を断乎として揚挙せるかのスタゲイラの哲人にとっては、神々の生にもまがう純粋観想の浄境こそ、何物にもかえがたき人生の醍醐味であり、地上的幸福の極致であった。》(井筒俊彦『神秘哲学』) /スタゲイラの哲人とはアリストテレスを指す。アリストテレスは、プラトンのイデア論あるいは神秘論の否認者であったはず。しかしそのアリストテレスによって井筒は、現実世界を超えて在る至福の浄境へと導かれていたのだった。そこはまさに形而上学的な世界である。そこで人間は「脱自(エクスタシス法悦)」を経験する。《すなわち人間の内なる霊魂が肉体の外に脱出して、真の太源に帰没する》(井筒俊彦『神秘哲学』)ことに他ならぬ。/若松氏は言う。《古代ギリシアの哲人たちにとって、観照とは超越者を思慕する神聖な営みだった。それは内面の修道ではあるが、私たちが、外面的世界で経験する以上の試練と危機に直面しなくてはならない、身を賭すべき営為だったのである。・・・彼らは、哲学の始源が人間にあるとは考えない。プラトンが哲学における始源的営為を「想起(アナムネーシス)」と呼んだように、哲学とは考えることではなく、想い出すこと、叡知界の記憶を手繰りよせることだった。》(若松英輔『井筒俊彦 叡知の哲学』)/ヒューマニズム(人間中心主義)に席巻された戦後日本に対するアンチテーゼと言っていい。私は『神やぶれたまはず』で言う「神学」という言葉を、井筒を思い起こしつつ「形而上学」に置き換えて読んでいた。》
長谷川女史は、今のままの状態がつづけば、日本人の精神はずるずるとメルトダウンしてゆくしかない。そのぎりぎりの瀬戸際にあって、防戦一方の体勢から反撃に転じる確かな橋頭堡を築くという切実な課題をもって『神やぶれたまはず』を書いた。日本人にとって、昭和20年8月15日のあの一瞬ほど重大な「精神史」的体験はない。《昭和20年8月のある一瞬――ほんの一瞬――日本国民全員の命と天皇陛下の命とは、あひ並んでホロコースト(供犠)のたきぎの上に横たはっていたのである。》(282p)
その意味するところ、「イエスの死」に通ずる。すなわち、《「イエスの死の意味」とは、(単にイエスが起こしてみせた数々の「奇蹟」とは違って)まさにキリストが自らの命を差し出すことによって、神と人との直結する関係を作り出した、ということであった。》(278p) キリスト教は、この一回限りの事件に「超越的」意味を付与することで「神学」を生み出した。とすると、われわれはあの一瞬の出来事に如何なる意味を与えることで「神学(形而上学)」を打ち樹てることができるのか。著者が投げかけた問いである。
ヴィトゲンシュタイン的現実をそのままの安倍総理に、長谷川女史に通ずる「ずるずるメルトダウン化する日本人の精神」への危機感を感ずることはまったくできない。安倍総理側と見られている長谷川三千子女史であるが、私から見れば二人は対極である。
http://www.asyura2.com/17/senkyo220/msg/280.html#c1