1. 2017年2月21日 09:44:30 : ARF1lC6dTw : dyxGEQ1AHrc[1]
>簡単に問題点を指摘させていただきますと、そもそも「勇気」とは、「勇気とは
共同体感覚のひとつの側面である」( アドラー) と言われておりますように、「共同体感覚」と関係して理解されております。「共同体感覚」とは「共同体感覚は、人々が相互に理解し合い、一致に到達し、意見や信念を分かちあうことを可能にするものである」( ヘレーネ・パパーネク) と言われるように、他者と共同し協力して生活する能力のことを意味します。しかるに、ドラマ『嫌われる勇気』の中では、たとえば「私はただ、感じたことを口にしているだけ」と言っている主人公を「ナチュラルボーンアドラー」としているなど、「相互理解のための努力」や「一致に到達する努力」や「意見や信念を分かちあうための努力」の側面を放棄しているように見受けられます。
専門家の意見も聞きたいと考え、本学会所属のアドラー心理学指導者野田俊作氏
に相談したところ、「たしかに岸見氏がおっしゃるように、他者の評価でもって自
分の価値を判断する必要はないけれど、そういうことにとらわれずに、『他者の幸
福のため』に自分がすべきことをするというのが、アドラーの教えだと理解しています。ですから、自分の行為の結果が他者にどういう影響を与えるかについて、い
つも配慮をしなければならないと思います。ドラマの中の考え方には『他者の利害』という見方が完全に欠落している気がします。それではアドラー心理学とは言えません」というコメントをいただきました。
放映の中止か、あるいは脚本の大幅な見直しをお願いしたいと思っております。
早急にご検討いただき、善処いただければさいわいです。
http://adler.cside.ne.jp/common/pdf/fuji_tv.pdf
http://www.asyura2.com/16/hihyo15/msg/312.html#c1