http://www.asyura2.com/acas/d/db/dbs/DbsSfawrpEw/100229.html
80. 2019年1月18日 10:58:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
東南アジアでみんなに嫌われているベトナム人の民族性とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/169.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/465.html#c80
1. 中川隆[-12910] koaQ7Jey 2019年1月18日 11:00:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
増え続ける外国人労働者 少子化解決せずに外国人に寄生する本末転倒 2018年5月7日
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/7952
少子高齢化を背景にした人手不足を追い風にして、国内企業で外国人労働者の導入が急速に広がっている。2012年から毎年過去最高を更新し、2017年10月末現在で前年比18%増の約127万9000人(5年間で60万人増)となった。「技能実習生」として来日する若者に加え、近年増加しているのが「語学留学」の名目で日本に出稼ぎに来る若者たちだ。「留学生30万人計画」のもと、なかでもベトナムからの留学生が増加しており、建設業、製造業、サービス業など幅広い分野で労働力となっている。24時間営業の飲食チェーンの深夜バイト、コンビニの食品製造工場など、彼らがいなければ成り立たない現場も増えている。下関市や山口県内でも増え続けている外国人労働者について、その実態はどうなっているのか、記者座談会を持って論議してみた。
A 最近、下関市内でも外国人が働く姿は珍しくなくなってきた。もともと水産加工に韓国や中国などの実習生が働いていたが、ここ数年でコンビニやチェーンの飲食店、居酒屋など個人の飲食店、造船関連の鉄工所などでも増えていて、出身国もベトナムやミャンマー、インドネシア、スリランカなど多彩になってきている。「なんだか最近多くなってきたな…」と思っているうちに急速に国際化が進んだ。10人とか20人が会社と寮の行き帰りだろうか、自転車で走っている姿を見かけるのも日常だ。下関市内の中小企業は人手不足が深刻で、水産加工にしても鉄工業や建設業などにしても人手不足による廃業や倒産の危機を技能実習生などの外国人労働力導入でなんとか回避している実情がある。
B 農漁業地域でも人手不足を補うために外国人労働者を雇うところが増えている。県内のある農家は、若い人材がいないため何年も人手不足が続いてきたが、ついに外国人労働者を入れることになった。ベトナム人の20代の男性だ。念願の労働力だが、経営者は「単純労働だから覚えさえすれば日本語が少少できなくても大丈夫。でも彼らは3年たてば帰ってしまう。とりあえず目の前の仕事を回すために人を入れることができたというだけで、数年先は見えない」と厳しさを語っていた。日本人の若手の確保・育成の困難さが解決されるわけではないので、多くの中小企業が外国人労働力に頼りながら、同時に倒産の危機を感じている。
ある鉄工関係の中小企業は何年も前から外国人労働者を雇用している。現地にも工場があり、当初は現地工場との連携もできたが、最近は日本側が高齢化して外国人労働者が貴重な労働力になっているという。「よく働くし覚えはいいが、小さな企業では実習生を受け入れる体制がきつい。定期的に仲介業者が見回りに来るし、毎日報告書を出さなくてはならない。実習生だから資格もとらせないといけない。片言の日本語しか話せない若者に一生懸命教えても、日本にいるのは3〜5年で、やっと覚えた頃になって帰国してしまう。現場には年をとった技術者が残されるだけだ。会社を担う人材が育たないのでは意味がなく、なんのために外国人労働者を受け入れるのかわからない。結局、外国人の方が給料が安いからというだけではないか。外国人で労働力を補うようなことをしていたら、その企業はだめになってしまう」と複雑な感情を伴って問題意識を語っていた。将来的に会社を担う人材を育てられるかどうかが企業存続の分かれ目になっていると指摘する人もいて、実習生を受け入れつつも、これでいいのかと疑問を感じている。
C 技能実習生は27万人をこえるが、その受け入れ先を見ると77職種のうちもっとも多いのが食品製造関係、ついで機械・金属関係、建設関係だ。人手不足が深刻になっている建設関係の実習生はここ3年ほどで約2倍になっている。食品製造関係は14年の約7000人が17年には約1万7000人と2倍以上に増加している。実習実施機関の半数以上が従業員19人以下の零細企業だ。制度の建前は日本の企業で修得した技能や技術、知識を母国の経済発展に役立ててもらうというもので、「開発途上国の経済発展を担う人づくりに寄与する」ことをうたっている。しかし人手の足りない現場に外国人労働者を補充し、かつ人件費抑制の最終手段になっているのが実態だ。
B 今年に入って福島第一原発で外国人技能実習生を除染作業などに従事させていたことが立て続けに発覚した。岩手県の建設会社で実習中の24歳のベトナム人男性が15〜16年に郡山市で除染作業に従事していたほか、郡山市内の土木関連会社などで型枠工や鉄筋工の実習生として働いていた24〜34歳のベトナム人男性が16年4月から18年3月にわたって道路などの除染作業に従事していた。
さらに今月、第一原発敷地内で6人の外国人技能実習生がガレキなどを処理する廃棄物焼却施設の建設作業に従事していたことが判明した。施設内は線量が低い管理区域外だったため、放射線防護に関する教育もおこなわれず、線量計の装着も義務づけられていない。東京電力は「第一原発施設内で実習生を働かせない」と発表していたが建前に過ぎず、日本人が集まらない労働現場に、何もわからないまま連れてこられた途上国の若者たちが働かされている。
A 不思議なのが、下関市内で実習生を受け入れている中小企業に聞くと、どこも「日本人と同じかそれ以上に経費がかかる」ということだ。実習生は最低賃金が多いので、その点では安い労働力には違いないのだが、その他に監理団体と呼ばれる実習生を斡旋する機関や出身国の送り出し機関など、間にマージンをとる機関が存在していることが関係しているようだ。結局、実習生の月の手どりは10万円ほどとなり、悪質な企業になるとまともに支払っていなかったり、むちゃくちゃな就労を強いていることが社会問題にもなっている。失踪して不法就労に走る実習生も昨年、一昨年と2年連続で5000人以上にのぼっている。賃金の不払いや長時間労働など、受け入れ先の中小企業による「人権侵害」も問題になっている。中小企業の方も立ち入った話をしたくないという空気もある。10年にわたり外国人労働者を取材してきたジャーナリストの出井康博氏は、そうした中小企業の「人権侵害」よりも、官僚もかかわったピンハネ構造が失踪や不法就労をひき起こしていると技能研修制度のいびつさを指摘しているが、そうした構造的な問題を明らかにしなければならない。
D 下関の実習生の変遷を見ていると、南風泊の水産加工団地が走りだった。当初は中国の都市部から若い女性たちが来ていて、研修を経て母国に帰り、それなりの地位につく場合も多かったという。だが経済発展し始めると都市部はだんだん賃金も上がっていき、農村部の子たちにかわってきた。農村部出身の子たちは、来てすぐは珍しいのか、菓子パンなどをたくさん買い込んで来るから地域の人にもわかるのだという。今も子どもを持つ30代の母親など中国人もいるが、最近はそれよりもベトナム人が増えてきているという。漁業関係はインドネシアの若者たちだ。ミャンマーから人材を送り込もうとしている人たちもいて、途上国のなかでもより賃金の安い地域へとシフトしている。
多額の借金抱えて留学 国内外に存在する日本語学校
A 実習生に加えて、最近増えてきたのが「留学生」として入国してくる若者たちだ。「留学生30万人計画」が始まってから急激に増えていき、30万人達成目前になっている。それにともなって日本語学校も急増し、現在600校以上と私立大学並みになっている。下関で見かけるベトナムやスリランカの人たちも日本語学校に留学してきた学生たちだ。
ある日本語学校の寮の近くに住んでいる人は、「数年前までは全員中国人だったのに、ある年突然、全員ベトナム人に入れ替わった」と話していた。朝早くから白い作業服を着て自転車で出かけていく学生がいたり、みんなでご飯をつくって食べる賑やかな声が聞こえてきたりと毎日何かしら見かけるが、中国人よりも言葉が通じないので話すことはほとんどなくなったという。
B 山口県内にある某コンビニの弁当やおにぎりを製造する工場では1、2年前からベトナム人が急増していて、日本人パートと同数かそれ以上になっているという。製造現場のどこを見てもベトナム人であふれ、ベトナムの言葉が飛びかっている。ネパール人やスリランカ人、イスラエル人などもいて国際的な職場だ。彼らは下関市や萩市にある日本語学校や大学、山口市内の専門学校などからマイクロバスに乗って集団でやってくるのだという。午後3時半〜午後11時半の組、午前1時〜午前6時までの組があるようだ。仕事に慣れるまでは決まりごとが守れず混乱をもたらすことも多いようだが、慣れてくると日本人とかわらず仕事量をこなす。
この工場も1年ほど前には「人手不足」だった。ベテランパートも残業で12〜15時間労働になることがしばしばで、5時間労働の派遣社員も早出をしたり2〜3時間の残業をしながら対応していたのだという。コンビニが店舗数を増やしていき、生産量は増えるのに労働者の方は定員割れ状態だったようだ。1年ほど前に物量がさらに増えることを見込んで日本語学校の学生を集団で働かせるようになり、人手不足はほぼ解消されたという。一方その余波で、日本人を送り込んでいた派遣会社の仕事が減るという事態も起こったようだ。24時間、商品が欠けることなく陳列されて便利なコンビニだが、その生産現場を支えているのは外国人留学生たちになっている。「留学生」とは名ばかりで、労働力として使われているだけにも見える。
D 下関は若者の流出が大きく、飲食店でもアルバイトが集まらず困っている。和食の店に入るとスリランカの店員が働いているからびっくりするが、そうとうな分野で外国人労働者が増えている。ある有名居酒屋は庶民的な味と価格で人気を博していたが、注文を受けたり配膳していた日本人女性スタッフがゴソッと外国人に入れ替わってしまい、最近は注文しても食べ物がなかなか来ないとか、素人がひいたような刺身が出てくることから、「板さんまで外国人になったのか?」と評判が広がっている。人件費を抑えるといっても常連客が逃げていったのでは元も子もないだろうにとその変化が話題になっている。
C 某日本語学校の場合、授業料が2年で120万〜130万円。それに入学金や斡旋会社への手数料なども必要だ。多くの途上国の留学生は「日本に行けば稼げる」と思って、母国で借金をして費用をつくって来日している。ベトナムの場合、一般国民の月収がおおよそ2万円といわれているから相当な借金だ。しかし留学生の場合、アルバイトは週28時間までしか許可されていないうえ、最低賃金だから法律を守っていると借金返済はもちろん、仕送りなどできない。実情を知る人は、「朝から働いて夕方は大衆食堂、深夜は飲み屋街の飲食店と2つ、3つのアルバイトをかけ持ちしている学生もいる」と話していた。3月に福岡県のラーメン店「一蘭」が留学生を週28時間をこえて働かせていたということで書類送検された事件がニュースになったが、そんなことは氷山の一角だ。
A 日本語学校の学生と製造ラインで一緒に働いていた人が話していたが、ネパール人の2年生に「ネパールに帰ったら何するの?」と聞くと、「帰ったら寝る。2年間寝てない」といっていたという。借金して来日した学生たちは働きづめでしんどくても、途中で帰国すると家族ごと破産してしまう。翌年分の学費と借金返済分と、さらに仕送り分を稼ぎ出すためにアルバイトをかけ持ちするようだ。日本語学校に在籍できるのは2年間なので、その後専門学校や大学などに進学するのだが、そうした留学生たちを少子化で学生数確保に悩む大学が受け入れていく。外国人留学生の実態を聞いていると、日本の大学生たちが奨学金という多額の借金を背負って社会に出て行く姿と重なってくる。彼らはさらに低賃金の日本人が集まらない現場を担っているともいえる。
C 日本社会は少子高齢化が深刻だが、外国人労働者の拡大は、それとセットで進んでいる。「技能実習生」とか「留学生」など国際貢献をしているような体裁で、その実、体のいい低賃金労働力になっている現実がある。少子化は日本の若者が子どもを産み育てることのできない社会にしてきた結末だが、そうして労働力が確保できなくなると、国境をこえて安い労働力を求めていく流れになっている。技能を本国に持ち帰るといっても、コンビニやチェーン店で働く「技能」が、その後の彼らの人生にとってどれほどの技能になるのか? 建前と現実はまるで異なる。
A 根本的な問題として少子化を解決しなければどうにもならないことははっきりしている。本来ならば、この深刻なる人手不足を解消するためには、子どもを産み育てられる社会にしなければならないのに、「女性活躍社会」などといってさらに女性を労働力として動員していく方向だ。働き方改革などの動きを見ても、さらに労働法を改悪して強烈な搾取社会にしていこうとしている。この1億総貧困化政策のもとで、外国人労働者は低賃金のアンカーとして機能しているのが現実だ。
先進国のなかでも少子高齢化の進行が著しいことは早くからわかっていたことだ。しかし、この解決方向は「ならば外国人を連れてきて解決しましょう」が政財界の導き出した答えだった。当初は多民族国家などを唱えていた。いま目の前でくり広げられているのは、海外の若者を3年なり5年引っ張ってきて、困っている自分たちの国の労働力として使い、彼らの人生を消費しているような構造だ。綺麗事の建前を剥がすとそういうことになる。本当に多民族国家でいくというのなら、きっちりと法整備もして外国人労働者の諸権利も定めなければならないが、そうはなっていない。きわめて中途半端かつずるい形で、社会全体に広がっている。
B 少子高齢化がすごいことになっているが、それは労働力の再生産を許さない社会になってしまっていることをあらわしている。資本にとっても、本来ならば搾取する相手がいてはじめて利潤があり、人口は国力であったり市場規模そのものとしても捉えられる。ところが、目先の利益ばかり追いかけてみずからが搾取する対象をも減らし、市場規模を縮小させ、社会そのものの存立基盤をぶっ壊してしまった。市場原理とか新自由主義というのは目先の利潤追及に汲汲として、広く社会全体のことであったりを心配するという脳味噌を持ち合わせていない。一言でいえば単細胞的な特徴がある。これが深刻なる人口減少に直面してなお、「それなら海外に進出しよう」「海外から労働力を引っ張ってこよう」と都合よく事を動かしている。
A 衰退国家にしてしまった原因を解決することなく、むしろ誤魔化すためにアジア諸国の若者を巻き添えにして、たいへん都合よく依存している。裏返すと、外国人実習生の力なしには社会が機能しないほど深刻な実態なのだということがわかる。中小零細企業が頼みの綱にしなければならないほど人手がおらず、また不景気で若者に満足いく給料を払えるほど体力もないという現実のなかで、急速に広がりを見せている。衰退国家がアジア諸国に寄生して、社会的機能を回そうとしている関係だ。
黒人奴隷の歴史を見てもそうだが、いつの時代も植民地から最底辺の労働力を調達してくるという暴力的なやり方がおこなわれる。前近代的であるか否かの違いこそあるが、まるで同じことをやっている。いま日本社会に在日朝鮮人がたくさん暮らしているのも、元はといえば労働力として引っ張ってきたのが原因だ。そして、ヘイトスピーチなどを浴びせているのだからひどい話だ。「外国人労働者が増えるのはけしからん」とかの単純な話ではなくて、どのような日本社会にしていくのか、もっと構造的な問題として捉える必要があるのではないか。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/7952
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/169.html#c1
2. 中川隆[-12909] koaQ7Jey 2019年1月18日 11:04:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
この騒動「人手不足」が理由ではなくてとにかく単純労働者階級の外国人を日本に移住させることが目的 2018年11月16日
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12419238400.html
Yahooニュースですが、混乱ぶりが見える画面だったのでコピーしてみました。混乱中
<外国人就労>受け入れ業界は歓迎 「焼け石に水」の声も
11/14(水) 22:56配信 毎日新聞
〜内容省略〜
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誰もが手放しで外国人を入れたいわけではないようです。
1の記事は面白いので少し紹介します。
日本建設業連合会の山本徳治事務総長は「日本人の処遇(待遇)改善に、外国人が入ってきて水を差すことがないようにしてほしい」「建設現場は大変危ない。必要な安全教育や技能指導ができるだけの日本語能力をお願いしたい」などと要望。さらに「建設業は仕事が減ることも考えられる。(職を失って)不法滞在になった技能者に対してどのように対処するのかも明らかにしてほしい」とも訴えた。
全国農業会議所の柚木茂夫専務理事は「(新たな在留資格に)現場の大変な期待があるが、一方で、地域住民とのトラブルや治安の問題など懸念の声も少なくない」と指摘。同会議所は政府にそうした懸念の払拭(ふっしょく)を求めており「受け入れ環境整備は万全の対応を求めたい」と訴えた。
介護分野では2国間の経済連携協定(EPA)に基づきインドネシア、フィリピン、ベトナムから介護福祉士候補者を受け入れている。全国老人保健施設協会の平川博之副会長は「ベトナムは今年の(介護福祉士の)国家試験合格率が93.7%で、日本人よりも高い。いかに日本語教育をしっかりやったかということだ」と強調。その上で「日本の高齢者に良いサービスを提供する上でも、とりわけ入国後の日本語(教育)への支援をお願いしたい」と述べた。
この3業界が何を政府に陳情しているかというと・・・
外国人を入れて儲けたいが、日本語もできないし、文化摩擦が起きるし、治安も悪化するので金のかかる部分は全部税金で対応してくれ!
虫のいいお願いですね。
ムキーじゃあ入れるなよ!そんな外国人は!
儲けたいなら自分で投資しろ!責任もとれ!
この記事のコメント欄で面白いコメントを見ました。
「猫の手も借りたい職場に本当に猫投入しますか?」拍手
5ではベトナムの偽造書類に驚いているようですが、何度も言うように偽造は当たり前なんです。EPAの介護できた人は留学や技能実習よりもレベルが上ですから優秀な人もいますが、昨年度の来日外国人犯罪(永住などは除く)最多はベトナム人でした。そのうち4割が留学ビザです。そういう同胞がいると影響されるものなのです。数が多いと同国人達のコミュニティができしまいます。腐ったリンゴが1人いるだけでも周りが腐るわけで、犯罪者が多い国からの移民など、「腐ったリンゴだらけ、まだ大丈夫なのが数個の箱」ということです。
こんなリンゴの箱売り誰が買いますか?
ベトナムは小さな中国です。性質や行動が似ていますので用心してください。
「猫の手も借りたい」というのは比喩ですよね、それを本当にやるのかという驚きです。
このコメント内に掃除とシーツ交換しかできないという意味のことが書いてあります。
その掃除すら怪しいはずです。雑巾1つでトイレから食卓まで掃除したって見た目わかりませんから。見た目が同じなら楽な方に流れます。使い捨てが原則のものだって繰り返し使い新品を盗んで横流しなんていうことも当たり前のことです。悪気もありません。
上辺さえよく見せればいいというその「文化」が、死者の出たベトナムの水銀入り美白化粧品であり、中国のメラミン混入ミルク、プラスチック米なのです。
それから、何でもズボラな管理をしていると少しずつ盗られます。相手を疑うようで失礼だからと相手を信用していると、「私を信じてくれた!」と感激するのではなく、いいカモだと思われるのが普通です。
工事現場では資材がなくならないよういつも気をつけなくてはいけませんし、勝手に教えたことと違うことをしてしまいます。教えたことがいつの間にか彼らの都合のいい方法に変更されて台無しになることはよくあることです。その工程の意味を理解して出来る人は優秀な人だけですし、そういう人はとても少ないです。見つからなければ何でもやる人が圧倒的に多いのです。まだこれがわかんないの?
3は当然です。対応は永遠に追いつきません。
多文化共生を謳えば、彼らのだらしなさや騒音、ゴミもまた文化なんですから。
移民を受け入れる最低限の条件は多文化共生の禁止です。受入国に合わせること、これが一番大事な条件です。これは人権侵害ではありません。日本に来なければいいだけで日本に来るのは外国人の場合全くの自由です。嫌なら来なくていいからです。
日本人は、まだ相手が何もしていないうちに「これをしてはいけない」とか厳しい禁止事項を言うのは礼儀に反すると思っているようですが、大間違いです。
最初に禁止事項を外国人に言い渡すことです。これは外国人にとってもとてもありがたいことなのです。
文明人に対しては「協力お願いします」でいいですが、安倍首相の客人には通用しません。
協力なら、しなくてもよいからです。はっきりと、相手が気分を害するのではと心配するくらい正確に伝えなくてはいけません。これがトラブルを減らします。
ついでに言うと、日本人はしつこいところがあります。例えば何かお土産をもらって「ありがとう」と言ったのに、また次の日に会っても「昨日はありがとう」とか。こういうのも途上国の人には通じません。下手すると相手はその場でもありがとうを言わないことがあります。あんまり言うと卑屈な印象を与えるのでやめた方がいいと思います。
日本に来る労働者はほとんどがアジア人です。西欧人とは違い階級社会であり平等というのは居心地が悪いのです。「対等な仲間」ではない人にそういう態度をとるとかえって馬鹿にされるので注意してください。中国人や朝鮮人はそういうことをしないので「尊敬」されています。
そして、彼らは家族や親類との絆が日本人以上にありますから、本人がどんなによくても背景が残念な場合トラブルに巻き込まれる事態は容易に想定されます。1人の稼ぎに親戚中がしがみつくこともありますし、身内の為なら不正をするのが正しい家族愛ですから。家族のために今の職場のポジションを利用することはやましいことではなくて誇らしいことなんです。
また忖度や以心伝心、淡い期待なども通用しません。昨日1時間も早く帰してあげたから今日30分くらいは「タダで」残業してくれるだろうとか、そういう取引はしません。契約社会が世界の常識ですからそれも気をつけるべきでしょう。トラブルの元です。
残業でもないのに「歓迎会」とか「○○飲み会」といって時間を拘束する習慣も受け入れられません(これは高度人材もそうかも)。たとえ高価な日本食をおごってあげても、その奢る金があるなら現金でくれ!となるので日本文化を教えてあげようとしてもそういう階級には無駄となります。
4の<北海道>企業7割「雇用したくない」は、リベラルに汚染され、朝鮮人のアイヌ民族とか、中国人の町まででき、外国人移民の弊害が理解され始めたのかもしれませんね。
日本は中国朝鮮とは付き合いがありましたが、海に囲まれているために独自の進化を遂げました。逃げられないので災害も飢饉も全部自分たちで何とかしなくてはいけませんでした。そこから知恵もつき協調的な性格も作られました。
考えてみてください。戦争終了時にアメリカが現代のような社会保障を持ち内外人平等で貧困外国人をどんどん受け入れていたら・・・そして日本人が、当時貧乏でしたからみんなアメリカに逃げていったら今の日本は無いわけです。他国へ行けないからみんなで頑張って地域や国を発展させることが出来るのです。そうやって治安のよい社会を作り上げたのが日本です。
日本の文化を世界に発信なんて言っていますが、それは金儲けの手段としてやっているだけです。文化はその土地の民族、気候、風土、歴史によって作られていきます。
日本の文化が大事で守りたいなら、この日本の地で守ることこそ必要なのです。
移民を受け入れるなら外国人にも日本の文化に染まってもらうしかないのです。それが嫌なら来るなと言って何が悪いんですか?
それを排外主義という人は、自宅に土足で踏み込まれても、庭先で羊の喉を切られても、飼犬を食べられても「多文化共生万歳!」と言って喜んでいる大バカ者です。ばかぁ
2「人手不足」と呪文のように唱えられているので、「日本は」と聞かれたら「人手不足」と条件反射しそうですが、東京オリンピックは東日本大震災の後で立候補しましたよね。止めたらよかったと思いますよ、人手不足になるんだから。はこ怒る
要は人手不足という状況を何が何でも作りたかったのだろうと思います。こんなもののために外国人、外国人、外国人のためにおもてなしをしろ!嫌なんです。外国人インフラを整える口実に使われているのでオリンピックなんか大嫌いです。はこ怒る
人手不足というのはブラック職場なんです。その環境を改善することがまず必要です。
職場環境が悪すぎるから改善していこうというのが健全な思想です。
職場環境が悪すぎるから外国人を連れてきて働かそう、これ健全ですか?
そのうえ、こっちも後ろめたいから外国人には好き放題させよう(多文化共生)、被害が国民に出ても構わない儲けさえすれば・・・もう本当に酷い話です。punpun#*
そしてブラックだからこそ濡れ衣も着せられます。日本人と同等以上の報酬(給与・賞与・退職金・諸手当など)、これも曲者ですよね。例えば家賃補助を考えてみます。寮などの現物なら問題ありませんが、ある職場に単純労働外国人が5人いるとします。都内で1人当たり5万円の家賃補助を出す場合、書類上は1人ずつですが実際には5人で1つの部屋を借り、残り4人分の20万円を5人で山分けします。5人1部屋は日本人には劣悪な住環境でも彼らにとっては何ともありません。母国と同レベルです。その状況をTVが報道し、人権屋があることないこと騒いで印象操作をしますが、もともと評判の悪いブラックですから正論を述べても報道されず日本人全体が外国人を搾取しているという構図が世界中にばら撒かれます。
雇用主が日本国籍とは限りませんが、日本で起きていることなので日本のせいになります。
奴隷として悪評の技能実習生制度は確かに受け入れ側の無知や両方のブローカーが本人を騙している場合がありますが、実習生も大人なんですから「何の取柄もなく日本語もできない自分が先進国で暮らし楽して大金が稼げる」という話を信じたと訴えるのもどうかと思います。そんな本人の無知まで私たちが申し訳なく思うのは筋違いで、そんな人はそもそも母国でも騙されるはずです。母国では被害を訴えることすらできませんが、日本で被害を訴えれば人権屋が守ってくれますから、そういう意味ではどうせ搾取されるなら日本へ行った方が余程うま味があります。なんかこの構図が「従軍慰安婦」と似ていると思いませんか?
私達には隣に韓国という有難い先生がいて、これでもかというくらい世界標準は性悪説なんだよと教え続けてくれているのにどうして学ばないんですか??*
「旧朝鮮半島出身労働者」は「徴用工」と呼ばれ、英訳はなんと「強制労働の犠牲者」となっていますが、これと同じようなことがこれから山のように起きてくるでしょう。
この外人を欲しがるブラックで不健全な業界は、日本を低レベル移民で溢れ返させ、うまくいけば戦時中から少しも反省しない極悪国家日本の実例として反日、グローバリスト勢力に利用されるのではないでしょうか。
労働者階級の受け入れを中国に約束させられているか、
国連に難民受け入れを強要されて、「日本人は外国人が嫌いなのでまずは労働者として入れてみてそれから徐々に外人嫌いを無くすよう努力する」と約束して実行中なのか、
法案の中身がスカスカでボロボロなのは、移民拡大の理由が「人手不足」とは別にあり、それを国民に知らせられないからではないかと思いました。
「外国人の人権を守る」こう政治家たちは口をそろえますが、自国民の屍を累々と積み上げながら外国人の人権を守り続けている欧米のおバカ政府の真似をどうやらしていくらしいです。
私たちは共同体を無くし個人でサバイバルをする原始社会に戻ろうとしているのです。
https://ameblo.jp/evening--primrose/entry-12419238400.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/169.html#c2
3. 中川隆[-12908] koaQ7Jey 2019年1月18日 11:15:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
ベトナム人が日本に来るとみんな犯罪者になる理由
「社会の規格に合わない人間」を排除したり病人扱いする現代社会のひずみ
かつて、タイやインドネシアの僻地ですることもなく時間をつぶしていたとき、現地の人々はのんびりしている私以上にのんびりと生きていた。
昼寝している人は、明けても暮れても昼寝したまま過ごしているし、井戸端会議している母親たちは、やはり朝から晩までそうやってのんびり暮らしている。
バングラデシュの郊外をさまよい歩いたとき、ひとりの男が自分の村を案内してくれたのだが、そこでも台所で近所の女性たちが自然に集まってくつろいでいて、何をすることもなく暮らしていた。
彼らはそうやって生きていけるからそうやっているわけで、東南アジアや南アジアの農村に流れている空気と時間は、先進国で流れている空気と時間とはまったく違ったものである。
彼らを無理やり都会のどこかに連れて行って、工場に放り込んで時間に合わせて働けと強制したら、多くの人がついていけなくなって心が壊れるかもしれない。
そして、そういった人たちは社会から「駄目な人間たちだ」と烙印を押されて排除されるかもしれない。(鈴木傾城)
そのうちに病気として扱われるようになる
しかし、重要なことがある。彼らは工場化社会では排除される人間かもしれないが、農村では別に何の問題もなく、普通に生きてきて暮らしていたということだ。
逆に私はどうなのか。私は先進国である日本の効率化社会で生まれ育って、何でも早く、何でも効率的に、何でも正確にやることを求められる社会に染まった。
そういった人間が東南アジアの農村に置いてけぼりにされると、私の姿はあのゆったりとした空気と時間の中で生きる人たちにどう見えただろう。
私の姿は、農村の人間からすると、せかせかして落ち着きがなく、細かいことを気にして、イライラしていて、ひとときもじっとしていられない「おかしな人」に見えるはずだ。
場合によっては、「あの人は、精神的に何か問題がある」と思われたかもしれない。
時間の捉え方が違い、感覚も違う。彼らが工業化社会で働くと、彼らは落ちこぼれになる。そして、先進国の人間が農村社会で働くと、体力も落ち着きもない病人と見なされる。
社会が変化すると、新しい社会に適合できない人が必ず出てくる。そういった人は、最初に「困った人」として扱われる。
しかし、ずっと困った状態のままでいると、どうなるか分かるだろうか。やがて新しい病名が付けられ、そのうちに病気として扱われるようになるのだ。
かつて病気と見なされなかった人も、社会に適合できないでいると「それは、病気」なのである。
頭の構造の方が問題視される社会
工業化に適した感性というのは、合理的であり、効率的であり、科学的であるというものだ。読み書きも、計算もできなければならない。
農業で生きていた頃は、別に合理的でなくても、効率的でなくても、読み書きができなくても、計算ができなくても、何の問題もなく生きて行けた。それは病気ではなかった。
しかし、今では何度教えても勉強ができない人間は「学習障害」という病名が付けられる。そして、劣っている人間として問題視される。
その学習障害児が人並み以上の体力があったとしても、そちらの方は評価されることはない。頭の構造の方が問題視されて、落ちこぼれとして評価されるのである。
牛を持ち上げる体力があったら、それこそ農村ではヒーローだ。すごい奴だ、と称賛されるだろう。実際、農村では力持ちが役に立つ。
しかし、そんな力持ちのヒーローでも、高度情報化社会に行くと扱いが変わってしまう。彼が計算を覚えようとしなければ、単なる愚鈍な馬鹿くらいの扱いでしかない。
高度情報化社会では、知性によって規格化されない人間はみんな不良であり、排除の対象になってしまう。
高度情報化した社会で重要なのは、何と言っても、「効率化・合理化・スピード」である。だから、学校でも家庭でも、しつけというのは、「早くしなさい、ルールを守りなさい、正確にしなさい」なのである。
間違えても、「力持ちになりなさい、たくさん食べて体力を付けなさい、細かいことはいいから大らかに生きなさい」ではない。そんな教育をしていたら、高度情報化社会では単純労働者にされてしまう。
たとえ、子供が力持ちタイプでも、何とか勉強させようとするのが現代社会なのである。
病気でない人間でも、病気扱いにされていく
効率化・合理化・スピード……。
ここで重要なのは、こういった社会が求める資質を教育しても身につけられない人間は、「病気」として見なされて、矯正の対象になっていくということだ。
何でもせかせかとできない人間は、「発達障害」と言われて矯正の対象になる。みんなと同じようにできない人間は、他に何らかの優れたものがあっても「障害」になってしまう。
社会が勝手に「ここまでは正常」「これができないと異常」と定義を作って、正常にまで至らない人間は病人となる。
仮に社会が変わって、40キロの荷物を抱えて走れる人間が重要な時代になると、現代人の多くは「社会に適合できない障害者」と定義されるだろう。
現代社会では別に重い者を担いで走れなくても障害者の扱いにはされないが、それが求められる社会になると、それができない私たちは立派な障害者と化す。
私たちは、社会の規格に合わない人間を排除したり、落ちこぼれとして烙印を押したり、時には病人扱いすらしているが、ここに現代社会のひずみが生まれる。
病気でない人間でも、社会に適合しないというだけで病気扱いにされていく。本来は病気ではないようなものまで、社会に合わないというだけで病気扱いされていく構造を私たちは知っておく必要がある。
たとえば、自律神経失調症という「病気」がある。
疲れたと仕事を勝手に休むのは、自律神経失調症。
急に何もしたくないと思うのも、自律神経失調症。
夜になってもきちんと眠れないのも、自律神経失調症。
満員電車に乗りたくないのも、自律神経失調症。
誰でも休みたいし、面倒なことはしたくないし、眠たくなるのは夜とは決まっていない。しかし、社会がそれを求めているので、仕方がなく社会に「合わせて」いる。
合わせることができなくなると、本当は「社会が悪い」のだが、社会は逆に「あなたが悪い」と糾弾して、あなたを病気扱いにする。
自律神経失調症は原因が分からないことが多いと言われる。それはそうだ。その人が悪いというよりも、ルールを押しつけている社会に問題があるのだから……。(written by 鈴木傾城)
効率化・合理化・スピード……。ここで重要なのは、こういった社会が求める資質を教育しても身につけられない人間は、「病気」として見なされて、矯正の対象になっていくということだ。
https://blackasia.net/?p=10919
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/169.html#c3
81. 2019年1月18日 11:57:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
フィリピン女性が男をメロメロにする理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/170.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/465.html#c81
1. 中川隆[-12907] koaQ7Jey 2019年1月18日 12:07:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
【フィリピーナの魅力】宗教を感じるエクスタシー 2013.01.03
フィリピン在住・ことぶき太郎が綴る、フィリピーナの魅力発見
「快感体験観察日記第14弾!」
宗教を否定するわけでも辱めるわけでもないが、セックスと宗教は切り離せないものがあると思う。それは、セックスは肉体的行為で、宗教は精神的なものだからだ。
まったく違うものだと思うだろうが、セックスの美味しい行為は精神的な要素が強い。心からその時を楽しみ、のめり込まなければ本当の快感は得られない。
心に迷いがあってはならない。宗教と同じだ。
フィリピンは8割以上がカトリックの国である。聖書に「セックスをしてはいけない」とは書いてない。他の欲望と同様に、溺れてはいけないと教えているだけだ。
人類史上最古の犯罪は、嫉妬がらみの性欲犯罪だという。それは、今でも変わってはいないかも。宗教が欲望を戒めるのも納得がいく。
某ホテルで仕事をしていたときだから、2004年だったと思う。見た目、敬虔なクリスチャンの女の子を面接し、雇った。ところが、彼女は未婚の母で、同居する子どもが一人と、それぞれに種の違う子供が他に二人いる、都合三人の子供を持つ28歳のオンナだったのだ。
日本人的感覚で言えば、一人の伴侶と生涯をともにして神の下に生きる、となるのがクリスチャンであると思う。それなのに、種違いの子供三人がいて未婚、別のオトコと同棲中では……。敬虔なクリスチャン、とはいえない。
その、同棲中のオトコと分かれた後に、オレは彼女とやってしまったのだから、文句は言えないけど。
ある日、仕事が終わり、帰る時間が一緒になったオレは、飲みに誘った。軽く食事をして、ビールを飲みながらバンド演奏を楽しんで、ホテルとなるまで、双方とも何の疑問も抱かなかった。
ホテルに入って、またビールで乾杯。つまらない話をしながら、笑い合っていたが、顔がほんのりと染まってきた頃、彼女は、オレの体にもたれかかってきた。
オレは彼女の頬に手を当て、唇を重ねた。彼女の手は、オレのバスローブを取り去り、ブリーフの中をまさぐり、黒なまこを探し当てた。
オレの手が、彼女の下着の中にもぐりこもうとすると、身体をよじる。息づかいは荒くなっているのに、オレの手が、再び下着を脱がせようとすると、身体をよじる。はて……。
(なるほど、そういうことか)
一人納得したオレは、ブラジャーの上からふくよかなおっぱいを、むぎゅっと掴んだ。彼女の首が、後ろへ倒れる。
(やっぱり、そうか)
納得が確信に変わったオレは、手を小さなパンティーの上へあてがった。薄い布切れを通して、恥丘のふくらみと叢の絨毯が、温かみをもって手に伝わる。彼女は、ビールの匂いの混ざった甘い吐息を吐く。
肌を露にして触れられる前に、下着を着けたままで愛撫されることを好むオンナがいる。そうしながら、高まっていくわけだ。彼女が、そうなのだ。
オレは、ブラジャーの上に顔を持っていき、鼻を押し付ける。コロンを下着につけているのか、甘くいい香りがする。ふくよかなおっぱいの谷間に顔を埋めながら、パンティーの上に置いた右手を、静かに下へと這わせる。
(はぁ〜っ)
と、彼女は、意外に大きなあえぎ声を出して、身体を弓なりにさせた。愛液で湿ったピンク色のパンティーが、オレの指を誘う。薄布の上から、クリトリスを転がす。ピンク色のパンティーが、おまんこに沿って、赤みを帯びた色に変色している。濡れに、濡れているようだ。オレは、中指と人指し指をパンティーの脇から滑り込ませた。
(ひぃや〜っ)
と、彼女は、日本語に聞こえるような声を上げる
滑り込ませた指は、陰毛でざらつく土手周りから柔らかな肉ヒダを、まさぐる。十分すぎるほどに、濡れたおまんこは、指に絡み付いてくる。
刺激的だ!
裸のオンナを、いじくりまわすのはもちろんだが、パンティーとブラを着けたオンナを撫で回すのは、視激的で刺激的だ。見て触りながら、想像力を掻き立てる。
彼女は、オレのブリーフを器用に脱がせ、むき出しにした黒なまこにキスをしながら、手でしごいている。横向きのまま、パンティーの中に指を入れ、想像鑑賞を楽しんでいたオレは、仰向けになって69の体制へ持っていった。
上になった彼女は、ブラジャーをはずし、やや大きめの乳輪と乳首を黒なまこの亀頭にこすりつける。すでに、涎を流していた黒なまこは、喜びに何度もうなずいている。
オレはパンティーの中へ入れた指を、もぞもぞと動かし続けていた。土手に生える短めの陰毛。
恥丘を覆うやや長めの陰毛。こりっとした、大きめのクリトリス。それらを、弄繰り回しながら、濡れたピンクのパンティーを見て、想像力を働かせ楽しんでいた。彼女の口に含まれた黒なまこにも、その想像力が伝わり快感倍増。
美味しい!
見て美味しい。
触って美味しい。
想像しながら、しゃぶられて美味しい。
ゴージャスな美味しさだ。
そして、両手を腰へもっていき、パンティーの縁をつまむ。そろりそろりと下げ、汗ばんだお尻を露にしていく。お尻の割れ目が見えてくる。片足を上げさせ、パンティーを脱がせる。
亀裂がオレの目の前に現れ、濡れてヒクヒクしているおまんこが、曝される。彼女は、黒なまこを舐め舐めしながら、呼吸を荒くして声を出す。
(んぐっ・・・ひぃいぃやぁ〜)
この興奮は、何ともいえない。
数多くのおまんこを見てきたけど、この眼前に迫るパンティー越しの想像快感は、中年過ぎても楽しめることに気付いた。変態かな……はははっ。
セックスには二通りある。子どもを作る生殖行為と、愛を確かめ合い快楽を求める行為だ。宗教が戒めるのは、快楽を求めすぎる欲望であって、生殖行為ではない。
フィリピン人は、堕胎や避妊には否定的である。理由は、カトリックだから。他に理由はない(決して、正しいとは思わないが)。
そして、愛を確かめる行為、快楽を得るための行為としてのセックスは、別だと考えているように思える。
しかし、その行為の結果、できてしまった子どもは、神からの授かり物なのだ(これも、決して正しいとは思わないが)から、ちょっとおかしいとも思う。
だからか、常にセックスパートナーを探し求めている。神の与えた快楽を楽しみ、生きている実感を味わいたいのだろう。もちろん、敬虔な真のカトリック教徒もたくさんいる。でも……ちょっと違うんじゃないかなと。
間違いを犯しても、謝れば神は許してくれると思っている。それが、フィリピンカトリックだ。確かに、聖書には何度でも許しなさい……と書いてはあるが。
……フィリピーナには、神が授けたたくさんの魅力と、魔力がある。
(文=ことぶき太郎)
■ことぶき太郎(ことぶき・たろう)
フィリピン在住、“ピノイタロウ”と呼ばれて10年以上(ピノイ=フィリピン人の意)。心身ともに癒してくれるその魅力を、日本のオンナと比較しながら書き綴る、自称「快感体験観察エロ作家」。弱り始めた腰に鞭打ち、いまでもピーナのいろんなところを観察し、食している。
https://www.menscyzo.com/2013/01/post_5236.html
【フィリピーナの魅力】バックナンバー
http://www.menscyzo.com/2013/01/post_5236.html
第1回【フィリピーナの魅力】固くてつるんとした土手マン
第2回【フィリピーナの魅力】大洪水に泣き叫ぶ濡れマン
第3回【フィリピーナの魅力】絶品舌技に果てた黒なまこ
第4回【フィリピーナの魅力】セクシーな処女林・処女沼・処女土手
第5回【フィリピーナの魅力】初めて出会った潮吹きピーナ
第6回【フィリピーナの魅力】三拍子のリズムでキュキュッと締め付けるマッスルマ●コ
第7回【フィリピーナの魅力】絶景の背面騎乗位に酔う
第9回【フィリピーナの魅力】レズだった剛毛処女
第10回【フィリピーナの魅力】遅い動きにあえぐ黒なまこ
第11回【フィリピーナの魅力】酔って悶えるピーナの心
第12回【フィリピーナの魅力】黒なまこを魅了する蘭の花
第13回【フィリピーナの魅力】名器にしびれる黒なまこ
2. 中川隆[-12906] koaQ7Jey 2019年1月18日 12:14:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
フィリピン移住に関する考察・・・・E 2013/1/10(木) 午後 6:38
フィリピンは物価が安いからこの位の預金でもOKだろう
年金がこれ位有るからOKだろう・・・・と言う考えで良いのかな?
例えば、日本から持ち込んだお金が1,000万円有ったとしましょう。
こちらでは無職(収入なし)
現在60歳で85歳まで25年間
大きな怪我も病気もせずに生きるとして預金利息等を考えなければ、年間40万円
月に約33,000円使えます。
それプラス、年金が仮に10万円有った場合合計で133,000円です。
大卒フィリピン人の平均的な月収が3万円ちょっとと考えれば4倍以上の金額ですから、楽勝で生活できる・・・・はず。
しかし・・・・・
例えばその1千万円、この間までのようなレートが良い時期に一気にペソに替えておけば5,6ミリオンペソ(1万円=5,600ペソとして)で25年間毎月約19,000ペソは使えます。
これに年金が加わりますが、年金はその時々のレートで、受け取るペソの額が変わります。
年金分の10万円、
この間までは56,000ペソでした
ですから合計で75,000ペソ/月です。
でも、
本日、10万円≒46,000ペソです。
合計で65,000ペソになってしまいました。
更に、4年前のように1万円≒3,600ペソになれば
10万円≒36,000ペソ
合計で55,000ペソにしかなりません。
しかしこれは、持ち込んだ1千万と言うのが基礎に有る場合でもし持ち込み金額が殆ど無いなら年金のみの生活で厚生年金等で10万〜それ以上有る場合でも
近年のペソ最高値=3,600ペソ(1万円)になれば36,000ペソ〜にしかなりません
国民年金等で7万円位しかなければ25,000ペソしかない
仮に持ち家があって、家賃の心配は無いとしてもこの金額で、多くのフィリピン人家族を抱えて楽しく余裕の有る生活が出来るでしょうか?
勿論その人の性格にもよりますけど。
生活資金が足りないから、仕事でも探して・・・・となっても高齢で特殊なスキルも無い、言葉も分らない・・・・
なんて言う状況では、雇ってくれる所なんて殆ど有りません。
フィリピンの物価上昇率も激しいですね?
電気代1つ取っても、2年前からすると約30%高くなっています。
食材他も10〜20%高くなっています。
更に物価の上昇は続くようです。
良くネット等で見かける物価の安いフィリピンで、優雅な夢の年金生活・・・と言う宣伝
年金が月額30万円位有れば
仮に1万円≒3,000ペソ位になっても9万ペソは有りますから、そこそこの暮らしは出来るでしょうけど
そうでなければ夢が悪夢になる可能性は大いに有りますよね(汗)
私が、以前円建てだった給料の約半分を当時のレートでペソのFIXにしてもらって残りの円は、日本へ振り込んでもらうようにしたのには円ペソの為替レートの変動が激しいから・・・と言うのも有ります。
勿論、嫁さんや家族に本当の給料が分らないように・・・・と言うのも当時は有りました。
ですから、嫁さんは私の本当の給料は知りません
現在こちらでペソで貰っている給料が全てと思っているはずです。
(ばれてるかも知れないけど・・・・笑)
http://blogs.yahoo.co.jp/berning_sun/53891302.html
▲△▽▼
2012年の外務省の海外邦人援護統計を見ると、海外でカネがなくなり、にっちもさっちもいかなくなって、大使館に駆け込んで助けを求める「困窮邦人」は395人いたという。
そして、そのうちの約6割がアジア地域だった。海外で困窮する人間の84%が男性で、20代と40代が突出している。
「日本を捨てた男たち」の著書である水谷竹秀氏は2010年のデータを元に困窮邦人の4割がフィリピンにいると記している。
その多くがフィリピン・パブで人生が狂って女性を追ってフィリピンに来た男たちだった。
フィリピン以外に困窮邦人が多いのはタイだが、この国も困窮者の圧倒的多数が男であることを考えると、やはりフィリピンと同じく女性で人生が狂った男たちの巣窟になっていることが窺える。
海外で困窮する人間のほとんどがアジア地区で、その中でタイ・フィリピンが突出しており、さらにほとんどが男であるのであれば、まさに彼らは売春女性に入れあげた挙げ句、破滅したということが分かってくる。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130911T2257500900.html?a=l0ll
3. 中川隆[-12905] koaQ7Jey 2019年1月18日 12:29:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
腹上死で本望、16才の処女を40万円で買う
フィリピン病患者
フィリピン病に罹るのは中高年男性が多いのですが、フィリピン移住の際の心得は
「家は買わない、女にはまらない、商売に手を出さない」
若くてピチピチのフィリピーナに誘われて渡比するパターンが多いので、フィリピン病患者はすでに女にはまっているわけですが…。
海外生活の適性はあるか
フィリピンに渡るきっかけはフィリピンクラブが多いのでしょうが、雑誌やネットで海外年金暮らしに興味を持つ場合もあります。
物価の安さが強調されますが、豊かな日本の生活に慣れた中高年が現地の人と同じ生活を送れるかは疑問です。
マニラ行きのジジババたち – 2002/6 浜 なつ子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E8%A1%8C%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%82%B8%E3%83%90%E3%83%90%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%B5%9C-%E3%81%AA%E3%81%A4%E5%AD%90/dp/4872336763
によりますと、
「PRAビザ取得を業者に依頼すると15〜25万円かかる。
これを自力でできるかがフィリピン移住の試金石」
このハードルを乗り越えられないのなら、短期や長期の滞在にとどめたほうが無難らしい。
リスクはいろいろある
「フィリピンでは外国人は不動産を取得できず、土地や建物を買うにはフィリピン人の名義を借りる」
これも危険。
コンドミニアムは外国人でも購入できるそうです。
「メイドやドライバーは安く雇えるが、使用者と雇い人間でのトラブルも多い」
フィリピン人の気質を理解できていないと、人を雇ってストレスを増やす結果になるかもしれません。
日本人詐欺師も多い
「退職金や預金を事業に投資しても、99%失敗する。
フィリピンでは人が余って仕事がなく稼ぐのは難しいので、年金がある退職者を狙った詐欺が多い」
フィリピン人と日本人の金銭感覚はズレており、金にまつわるトラブルは不可避かもしれません。
本書には「40代の日本人女性が 60代の日本人男性にPRAビザ取得に必要な銀行預金 7万5千ドルを立て替えさせて騙し取ろうとした事例」も載っています。
自由とトラブルがワンセット
フィリピンは多様な価値観、異質な環境の異国です。
日本と同じように周囲と阿吽の呼吸でやっていけると勘違いした年配の小金持ちは足元をすくわれます。刺激的な日常は自由とトラブルがワンセット。
「他人に依存せず、自己責任で自己決定せよ」
という当たり前の結論になります。
年の差婚?
フィリピーナと結婚してうまくいくケースもあり得るのかもしれませんが、女性が絡むトラブルは多い。
「老いてから若い女性と性交する喜びを知り、自分の中に別人格を見出す」中高年男性の例はたくさんあります。
「近年、日本人とフィリピーナとの結婚件数は、毎年6千組を下回ったことがないのだが、80才の日本人と30数才のフィリピーナが結婚した例もあった。70代の男性はザラである(P240)」
妻と離別、子供との接触もない単身者が多いようです。
ひんしゅくを買うけれど…
「63才の男性。
50代後半にフィリピンクラブで16才のチェリーに出会い、妻を捨てフィリピンに渡る。
16才の処女マルゥを40万円で買う。
その後 6年間に5人の女性と付き合って8人の子供を認知、養育費を送金している」
堕胎費用を請求されたり、重婚罪で訴えられたり、家を取られたりとカモにされています。
倫理的には周囲のひんしゅくを買いますが、それまで抑えてきた欲望を満たして充実した老後なのかもしれない。
18才の女の腹の上で死ねたら、ひとつのハッピーエンドなのかもしれませんが…。
経済的動機
日本での当たり前の生活を捨てて、海外で老後を送る動機は経済的な不安があります。
年金・退職金・持ち家などの資産はあるけれど、長い老後を考えると十分ではないかもしれない。
物価の安い東南アジアに住めば、同じ金で生活レベルが高い老後を送れるのではないか。
こうした中間層が海外年金生活ブームを作ったのだと思う。
医療費の自己負担はどうなる?
日本人夫婦の海外年金生活で、東南アジアに永住する割合はどのくらいなのだろう?
ロングステイや永住ビザを取っても元気な内だけ海外生活というパターンが多いんじゃないかな。
「フィリピン、タイ、マレーシア……憧れの「海外移住」の光と影」
http://president.jp/articles/-/8075?page=2
を見ると、海外でも日本の国民健康保険が使えるとあるけれどそうなのかな?
海外で年金を受け取るには、海外転出届を出してから社会保険事務所で手続きするはず。
海外転出届を出して住民票を抜けば、国民健康保険からも外れると思うのだけれど…。
帰国の余地は残すべき
言葉もペラペラで現地の生活に溶け込んでいるなどの特別な場合を除き、要介護になったり配偶者と死別すれば帰国するでしょう。
帰国できる余裕があれば、定年後の第2の人生を海外でリセットするのもおもしろそうです。ただ、体力・気力が衰えての帰国になりますから、新しい人間関係の再構築に苦労するかもしれません。海外生活の適性さえあれば、このあたりの選択は本人の自由です。
状況はドンドン変化する
もっと切羽詰っていて、まとまった資産はなく日本では人並みの老後は送れない人もいます。人間関係のリフレッシュといった精神的な動機より、少ない金で安く暮らすことを重視。
しかし、東南アジアも物価が上昇中、リタイアメント制度も国の都合で変更になります。
本書には「PRAビザの取得に預託金が50才以上は 5万ドル、50歳未満は 7万5千ドル」とありますが、
「2007年からは 50才以上は 2万ドル、50歳未満は 5万ドルに変更、
さらに2011年からは35才以上は 2万ドルまたは 1万ドルという新ルールが追加」
これは預託金の下限が下がった例ですが、逆も起こり得ます。
困窮邦人は惨め
日本にいれば福祉が充実しています。生きづらさがあったとしても、飢えて死ぬ心配はありません。生活保護受給条件を満たさなくても、「怠け者は飢え死にしろ」と放り出されることはない。
元気な内はフィリピン暮らしも悪くないけれど、帰国の道は残しておいたほうがいいんじゃないのかな。困窮邦人になって乞食をして食いつなぐのはしんどいでしょう。
何に突き動かされるのかな?
本書に登場するフィリピン病患者は、ある程度の財産はある。
しかし、海外生活の経験や適性はたぶんない。
家族関係や仕事でつまづいて、若い女に溺れて前後の見境なくフィリピンにやって来ます。
あまりに刹那的なので、初期の認知症かと疑ってしまう。
運よく気立てのいいフィリピーナと結婚して永住するのでしょうか。
ピンピンコロリの腹上死を迎えられるのでしょうか。
要介護になり家を追い出されて異国の地でホームレスになるのかもしれない。
最後にひと花咲かせられたら、どうなっても後悔しないのかな…。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2014/06/1640.html
1日3回、月に100回、年に1200回のSEX
アジアにハマった男たち
ひと頃、アジアにハマった男たちが話題になっていましたが、最近は下火なのでしょうか。フィリピンパブも2004年をピークに、ビザの発給条件が厳しくなって衰退している様子。
堅苦しい日本社会では生きにくいであろう、欲望に忠実でいい加減なおじさんたちはどうなったのかな?
右往左往しながらアジアの混沌に飲み込まれて、それでもそれなりに幸せだったのでしょうか。
きっかけはフィリピンパブw
「アジア行きの男たち – 2001/5 浜なつ子著
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2014/10/131001200sex.html
には、例によって怪しげな男たちが登場します。
まず一人目。
「大学は2年で除籍
→ 健康食品のセールス(催眠商法)
→ 21〜30才は消防署に勤務
→ パチンコで月に45万円ほど稼げるようになってパチプロに転向
→ フィリピンパブのフィリピーナに誘われてマニラに通うようになり、800万円で現地にマンション購入
→ 機械のコンピュータ化でパチプロ引退
→ パチンコと株式投資で稼いだ資金を持ってフィリピンに移住
→ 17才のアミュリットと結婚して商売開始」
40才で早期リタイヤ
パチプロというところが変わっていますが、フィリピンパブでフィリピーナと知り合ってのマニラ行きはよくあるパターン。
40才で早期リタイヤできる資金があったようですが、アミュリットと結婚してから商売を始めます。
「タクシー会社を起こすが1年で廃業、800万円投資して半分の損失
→ カラオケ店を開くがこちらも閉店
→ 中古携帯電話の販売で直営店6店舗展開、フランチャイズ化を目指す」
例外的に商売で成功
東南アジアで商売に手を出すと、現地の商慣習とのギャップにギブアップ。
投資した分だけ損をして、増やすつもりが資産を失ってしまう。
そういう話を聞きますが、Nさん(43才)は例外的に現在はうまくいっています。
資金に余裕があって、事業に失敗しても仕切り直しができる。
催眠商法の会社での営業経験があるから、ダーティーな交渉もできる。
その辺りが強みかもしれません。
小規模な自営業ですから、明日のことはわからない。でも、異国の地で商売を軌道に乗せ、10代の妻を娶る。正規のルートを外れたアジア行きの男の中では、数少ない成功者なんじゃないかな。50代になった今の状況はどんななのだろう?
異色の経歴
次に二人目。
「労働組合の専従活動家
→ NGOから声がかかり、フィリピンへ渡って仲間のカンパで活動
→ 交流の場となるペンションをオープン
→ 経営不振で結婚手続きアシスト業に手を出す」
マニラの日本大使館前で客引き、月に15人前後の結婚手続きを請け負うのだそうです。
「日本のフィリピンクラブで知り合った日本人男性とフィリピン人女性の組み合わせが多い。偽装結婚も少なくない」
男が女を騙している。女は男の金目当て。そんな組み合わせが目につくそうです。
女衒の如きビザ屋
Sさん(49才)はかつて
「日本の農村へのフィリピン花嫁問題は、人身売買的集団見合」
と批判しており、仲間からの風当たりは強い。
「日本人男性とフィリピン人女性が年間 6千組以上結婚するが、離婚も年間2千組以上」
という現実もあって、仕事に誇りが持てない。「女衒の如きビザ屋の仕事」と卑下しています。加えて、利益があまり出ていないのだとか。
煩わしい人間関係をパスしたい
心情的に抵抗がある仕事内容、しかもたいして儲からない。
「暑くて料理がまずいフィリピンは嫌い。フィリピーナに興味はない」
フィリピンに関わって18年になるのに、フィリピーナとの性的関係がゼロという珍しい人です。
「一人が好き。煩わしい人間関係に縛られたくない」
成人男性が仕事をしないでブラブラしていても干渉されない緩さがあるにしても、フィリピーナと深い仲になれば彼女の親族との関係に煩わされるかもしれない。
フィリピーナとの結婚は半減
マニラに行く日本人男性がみんな若いフィリピーナ目当てではないのでしょう。が、Sさんがフィリピンに住み続ける理由はよくわからない。
なりゆきでマニラに流れ着いて、帰国のきっかけがないだけなのかもしれません。好きではなくても、食っていける仕事があるのだからうまくいっている事例です。
ただ、
「夫が日本人で妻がフィリピン人の国際結婚は
2005年が 10,242件 → 2010年が 5,212件」
ブームが過ぎて半減しています。今でも商売として成り立っているのかな?
弱り目に祟り目…
3人目は典型的なハマり組。
「35才で中古機械販売の貿易会社設立
→ 商売は順調、カンボジアで22才のタムを身請け
→ 詐欺で2千万円の損失
→ さらに詐欺で7百万円の借金
→ また騙され銀行借入1500万円が返済不能、抵当に入れた静岡の自宅が競売にかけられる。この間にタムは脳血栓で死亡
→ 知り合いに経理で使ってもらう。19才のベトナム娘ティを愛人にする」
再起の可能性は低そう
Fさん(51才)には日本に妻子がいますが、帰国するとED(勃起障害)になるのだとか。
日本では同世代の男性に引け目を感じるのか、ひきこもり気味になるらしい。
気力と財力が回復したら、カンボジア以外の東南アジアで商売をしたいそうです。
カンボジアで3年間に4千万円の金と自宅を失っています。
落ち目の人間は食い物にされる。
死に体になって霊媒にすがるようでは、再起は難しいんじゃないかな…。
本人は満足なのかも
「一生の内に男性が性交する回数は2500回」だそうです。
Fさんはティとラブラブで「1日3回、月に100回、年に1200回のペースでセックスする」で、日本の妻が相手だと勃起不全。都合のよい ED患者ですw
女にだらしなく、商売が下手。明るい老後は想定しにくい。
本人も、若い女に溺れて現実逃避しているだけだということは、百も承知でしょう。
アジアにハマった男たちは、こうした刹那的なタイプが多かったように思います。
冴えない中高年男性がバラ色のひとときを過ごせるのだから、本人は腎虚で早死しても本望なのかな。
マレーシアロングステイ用ビザ
中高年の東南アジア暮らしには、「夫婦で定年後にロングステイ」という堅実なパターンもありました。が、「2014 TV番組 行ってみたらこんな所だった「マレーシア」編の反響とロングステイの真相」を見ますと、
「マレーシアロングステイ用ビザの50才以上の取得条件は
「1100万円の資産証明(不動産を含めず)、
手取りで月額約32万円の収入証明、
約500万円をマレーシア国内の銀行に定期預金する」」
かなりハードルが高いです。
資産家層がターゲット
「セミナーのターゲットはこれまでの「安い・暖かいアジアで暮らしたいと思う私のような年金弱者の人々」から「資金力のある資産家層」へ確実に推移 しています。
セミナーにブースを出しているのは、シニアの資産が目当ての、天下り官僚組織・不動産会社・旅行会社・語学学校斡旋業者・手続き代行会社・証券会社ばかりです」
海外生活は若者向き
一般的な年金生活者が「家賃や物価の安い東南アジアでワンランク上の暮らしを楽しみたい」という時代ではなくなっているようです。
かつては本格的な移住を目指した中高年もいましたが、医療や介護がネックになることがわかって下火になりました。
言葉も不自由、食事も違う、治安は悪い、医療・介護制度は未整備。
そんな環境は高齢者向きではありません。
そして、数ヶ月単位の滞在では家賃の安さを享受できない。
ストレスフリーの天国はない
とすると、中高年の海外ロングステイは「南の国でリフレッシュしたい金持ち」が対象なのかもしれません。
一般の年金生活者が節約しながら海外滞在を続けたとして、しばらくはしがらみからの開放や物珍しさで楽しいかもしれない。でも、金に余裕がなければできることは限られている。
暮らしている内に外国ならではのストレスも増えてくる。
体力・気力がある内に帰国して、老後の生活環境を再構築するのがベターなのでしょう。
はみ出し者の適性
本書のアジア行きの男たちは、欲望のままに生きているように見えて、異国の地でそれなりの暮らしを営んでいます。善し悪しは別にして、海外生活のスキルや適性を持っている。その代わり、日本人賃金労働者の正規のルートは外れています…。
サラリーマンを勤め上げた中高年には真似ができないだろうし、する必要もない。では、若者の海外長期滞在はどうなのか。これはちょっと違うかもしれません。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2014/10/131001200sex.html
ロリコンのハーレム、8〜17才の少女妻が13人
ロリコン男の桃源郷
何人もの少女を妻にしてハーレムを作る。ロリコン男の桃源郷かもしれません。
夢想はしても、実現しようと行動するのはごく少数。
東南アジアでなら妄想を実現できるのでしょうか…。
じゃぱゆきさんにハマる
浜なつ子著「アジア行きの男たち」(太田出版)の続きです。
4人目は優柔不断。
「大学は数ヶ月で退学、アパートにひきこもる
→ 広告代理店勤務
→ 編集プラダクション経営、秘密クラブのタイ人じゃぱゆきさんにハマる
→ 経営に行き詰まって300万円の盗難手形に手を出し、タイへ逃亡
→ バンコクのフリーペーパーの会社に雇われる
→ フリーの広告代理店下請けとなる、クラブで知り合ったタイ人女性の面倒を見る→ サブカルチャーの新聞が3号で廃刊、未払い金が500万円でシラチャに逃亡
→ ほとぼりが冷めてからバンコクに戻りなんでも屋で食いつなぐ」
金と引き換えに優しさを売っている
ひきこもりでも大学中退でも正社員になれる時代だったようです。
商売が下手なのにいろいろ手を出しては、借金を踏み倒している。
「頼りがいのある存在でありたいという下心」で若いタイ人女性の面倒を見ますが、金が続かずにあっさり関係は切れてしまう。
「感謝してもらっていないことに一抹の寂しさを感じる」そうですが…。
金と引き換えに優しさを売っているプロの女にそれを求めるのはムチャです。
優柔不断
「タイにいる限り、堅苦しい生活や家庭のしがらみは一切ない。
だらしなくても許される。どんな状況でいても誰も批判しない。
一度失敗した男、家族に迷惑をかけた男として、ケリを着けて帰りたい、という気持もやはり捨てられない(P169)」
Iさん(53才)には、妻も娘も高齢の父親もいます。
帰国してやり直せればベターです。
崖っぷちの自覚がない
しかし、金にも女にもだらしなくて、あちこちに不義理を重ねている。
バイアグラなどを扱っている現状に先の展望などなさそうですが、日本で働くことも難しい。
タイ社会にも日本とは異なるしがらみがあるはず。
体力がある内は「通りすがりの外国人」として気楽に暮らせますが、何かあった時に現地のネットワークには頼れないんじゃないのかな。
年齢的に切迫した状況なのに、本人には自覚なし。
海外困窮邦人になるパターンかもorz
打たれ弱いひきこもり予備軍
5人目はゲイにハマっている。
「医学部受験に失敗、2浪で早稲田の文学部
→ 出版社勤務
→ ホテル勤務、退職後は看護婦の妻から離婚を迫られる
→ 別居してスナックのママと同棲するが捨てられる
→ アル中と梅毒で入院→離婚後は実家に戻りガードマン
→ ベトナムを6回訪れ9ヶ月滞在
→ 45才でバンコクのフリーペーパーの編集者(月給3万バーツ≒8万4千円)、オカマに惚れるが金をせびられるようになる
→ フリーペーパーの会社設立を目指す」
よくある勘違い
「みんなの視線が優しかった。誰も僕を非難しない。
日本では働かないと「失格」の烙印を押された。
しかも「ちゃんとした」仕事をしていなければならなかった。
そのことが僕には苦しかった。いつもいつも疎外感と一緒だった」
Sさん(47才)には、「日本は偽善、東南アジアはオープン」と感じられるそうです。
そういう面もあるのかもしれませんが、浮いた存在の外国人だから、現地での暗黙の掟がよくわからないだけの可能性もある。
ゲイに貢ぐのは勝手だけど…
日本社会からはみだす → 疎外感・劣等感 → 東南アジアで現実逃避。
そんなパターンのようです。
外こもりほど働くことに抵抗はなく、親の経済力に頼ってはいますが、食べる分は稼いでいます。
ゲイに恋して貢ぐのも個人の自由。ただ、独立して会社経営というのは無謀なのでは。
現地のむき出しの感情や暴力の中を泳ぎ切るような打たれ強さはないみたい。
本書の出版は2001年ですから、Sさんも今では60才。どうなったのかなあ?
少女妻gs13人!
最期は「玉本ハーレム事件」で有名な玉本さんになるはずでしたが…。
「大卒で和歌山相互銀行入社、株で儲ける
→ 砂利採取会社の社長就任、頻繁に海外旅行
→ 30代なかばにタイのチェンマイで結婚、事業に投資し永住ビザ申請
→ 1973年に婦女暴行・幼年者の人身売買容疑でタイ警察に逮捕される」
この時の少女妻は13人、年齢は8〜17才とか13〜15才とかいろいろ伝えられています。玉本さんは39才。
前代未聞の破廉恥漢なのか
それまでの海外定住日本人の多くは、儲かる仕事を探す駐在員やその家族。
この頃から、日常の中のワクワクドキドキを求めるうさんくさそうな男たちも増えてきます。
彼らの目当ては「男であることの優位性を感じさせてくれる女性」
玉本さんはロリコンの欲望を露骨に実現して、「前代未聞の破廉恥漢」とマスコミに叩かれたそうです。
一夫多妻制を認める風潮
「タイやカンボジアでは、金持ちが貧しい人の面倒を見るのは当たり前。
結納金を納めれば何人かの女性を妻にすることは問題視されない。
60年代まではカンボジアの戸籍の妻の欄が4人分あり、一夫多妻制を認める社会だった」
今から40年前の日本と東南アジア諸国の経済格差は大きく、現地での玉本さんの評判は悪くなかったらしい。噂を聞きつけた日本のマスコミが現地のフリージャーナリストに取材させ、騒ぎが大きくなったのだとか。
覚せい剤の密輸が資金源?
「逮捕容疑は無罪だが、公序良俗を害する外国人として国外追放処分
→ 帰国後、覚せい剤取締法違反で逮捕
→ 保釈中に偽名パスポートでチェンマイを訪問し再逮捕
→ 懲役5年の刑が確定
→ 出所後、和歌山で木材ブローカー
→ 50代初めにタイ人現地妻を入籍」
その後の消息が不明だったのですが、「俺は玉本じゃないギョクモトだ」を見ると、2001年に入国が禁止されているタイで身柄を拘束されています。
ロリコン一筋、勝ち逃げの人生
出所後にマニラにもハーレムを作り、最終的にはカンボジアのシェムリアップのハーレムに落ち着いたのかな。
カンボジアの銀行預金が4億円とか大阪のマンションの家賃収入とか、いろんな噂がありますが資産の全貌は不明。1933年生まれだから今年で71才、ロリコン一筋、勝ち逃げの人生なのかもしれません。
意外と金は使っていない
変わったことをする人は自己顕示欲が強く、マスコミに露出したがる傾向があります。
が、玉本さんはマスコミ嫌い。やりたいことを実現できているので、ひっそりと自分の王国に君臨したいのかもしれません。
シェムリアップで少女妻15人と暮らしていましたが、あまり金は使っていない。
結納が20万円、月々の手当が1万円。
20万円×15人=300万円、1万円×12ヶ月×15人=180万円。
初年度が480万円、2年目以降が180万円。
目の付け所は悪くない
刑務所を出たのが1980年ですから、2001年まで21年間と仮定すると(現実には日本やマニラなどにいた時期もある)、480万円+180万円×20年=4,080万円。
東京の上流階級の奥様方は「年収 2千万円程度じゃあ暮らせない」とおしゃっておられます。
タイやカンボジアでは安上がりにハーレムを築けるようです。
しかも、周囲から道徳的な批判もでない。
金の使い方は上手かも
玉本さんは自分の服装にも無頓着だったそうですから、好きなことに金をつぎ込んだのでしょう。金の使い方を知っているようです。
ただ、治安が良くない途上国で大金をキープし続けるのは素人には難しいと思う。重度のロリコンであることは確かだとして、ダークな世界にもつながりがあるのかもしれない。ちょっと、一般人の参考にはならない感じです。
ライトな感覚で遊ぶ
億単位の金が手に入らないというのもありますが、今の若い人はもっとライトなんじゃないかな。
年金生活になるまで楽しみをとっておこうとも思わない。
かといって、労働を拒否して外こもりになる気もない。
高齢者の海外移住は経済的余裕が無いと非現実的、外こもりも年をとると惨めになりかねない。
そうした実例を知っているから、正社員になって安定した身分と収入は確保、長期休暇にLCCで東南アジアに飛んでひと遊び。割りきって楽しんでいるんじゃないのかな。
ハレンチな日本女性orz
ちなみに、筆者は取材に失敗して玉本さんに会えずじまい。その時に通訳兼コーディネーターの女性に軽蔑の視線を向けられます。
「アンコールワットもバリ島状態。非日常のときめきを求める日本人女性が、バイクタクシー運転手と簡単に寝てしまう」
アンコールワットの遺跡の中でセックスするハレンチな日本女性の一人、そう思われたのでした。男も女も暇と金を持て余すと、することは似たり寄ったりなのかなorz
職業は結婚詐欺
「バリ島のジゴロたち」から引用しますと、
「日本人の女の子と結婚するのが、俺たちの唯一のサクセス手段さ。
手っ取り早いし、遊びながら楽しめるし一石二鳥。
結婚して家を買ってもらうのが一番の目的。
買ってもらった後はもちろんバイバイ。
ここでは日本人の名前で土地を買えないから、離婚して家を売れば大金が入るんだ。
裁判するって騒ぐ女性もいるけど無駄なだけ。
法律はインドネシア人のためにあるし、結婚するなら同じ肌の色をした女性がいいに決まっている。
良いも悪いもないさ、俺たちにとってこれは仕事なんだから…」
現実逃避の夢から醒めたら
「異文化の中に飛び込んだ女性がそこに根を下ろし、アジアと日本の新しい一面を開く可能性もある」という筆者の期待は楽観的すぎるのでは。
現地のライフスタイルが性に合って永住できるのはごく少数の例外でしょう。
女性は、バカな男より現実的で計算ができるはず。
疑似恋愛が終了すれば、現実逃避の夢から醒める。
帰国して日本での生活レベルを享受したくなるんじゃないかな。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2014/10/81713.html
▲△▽▼
脱出老人は年の差婚をめざす
花嫁は40歳年下
年齢の離れた結婚は歓迎されない傾向にありました。
男が金で若い女を自由にする。金目当ての女が色ボケ男を手玉に取る。
そんなイメージがあったのでしょう。でも、今では年の差婚は流行りです。
ただ、花嫁が40歳年下のフィリピン女性だと微妙かも。
フィリピンでゆったりセカンドライフ?
脱出老人: フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち 2015/9/15 水谷竹秀 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B1%E5%87%BA%E8%80%81%E4%BA%BA-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E7%A7%BB%E4%BD%8F%E3%81%AB%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%82%92%E8%B3%AD%E3%81%91%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%B0%B4%E8%B0%B7-%E7%AB%B9%E7%A7%80/dp/4093884366
は、日刊マニラ新聞の記者によるノンフィクションです。
物価が安く、気候が温暖なフィリピンでゆったりセカンドライフを楽しみたいという高齢者は少なくない。
けれども、言葉・文化・自然災害・インフラ整備の遅れで不便な日常生活などに関する認識は低いようです。
500万円をどぶに捨てるorz
「日本人男性65歳(元タクシー運転手、年金は月額12万円)、フィリピン人女性25歳、1歳の息子あり。
フィリピンクラブで知り合った18歳の娘と結婚、約500万円送金するが浮気されて別れる。その後、23歳だった今の妻と結婚」
打算的だけど…
「フィリピンのアンケートで年の差婚を肯定するのは貧困層で38%、中間層以上で19%」
女性の側には、社会階層の底辺から浮かび上がりたいという経済的理由があります。
一方で、50歳以上の日本人男性が結婚したい理由は「寂しさからの解放、老後の安心」など。若い女性を求める本能に加えて、介護の心配もあるらしい。打算的との見方もできますが…。
行政主導の花嫁招致活動
「1980年代には、斡旋業者に手数料を払って過疎の村が行政主導で花嫁招致活動を行った。
1990年代に「アジア女性を商品化する人身売買」という批判を受け、民間業者の仲介による国際結婚へと移行した」
動機は金
「相手のことを好きじゃなくても結婚します。
東北は相手の男性がほとんど年寄りなので、とにかく50代でも70代でもビザが欲しいから結婚する。それが本当の理由(P37)」
自分と親戚の生活向上が目的という結婚は以前からあるようです。
私の人生はここで終わり
「若いフィリピン人女性が日本人のおっさんなんかに愛情がないのは承知の上です。
けちだったら女性は寄りつかないし、気前がよかったら有り金全部使われる(P17)」
「フィリピンに住む日本人の中には、いざとなったら帰国する人がおる。
でも、私はいざとなっても帰らないから。私の人生はここで終わり(P38)」
フィリピンの土になる覚悟
上述の65歳男性に錯覚はないようです。体力・気力が衰えても、フィリピンで最期を迎えられるかはわかりません。が、本人が「これでいいのだ!」と言うのですから、好きに生きて何の問題もないと思う。
結婚の条件は経済力
「年収400万円以下の日本人男性は女性に相手にされないとすら言われる時代である。
つまり、フィリピン人女性も日本人女性も男性に求める結婚の条件が「経済力」という点では一致している(P43)」
それならば、日本で家族難民になるより、フィリピン人と年の差婚をしたほうがよさそうに思えますが…。
離婚率が高いorz
「夫が日本人で妻がフィリピン人の婚姻件数は年間3118件、離婚件数は3547件(2013年)」
どうも金が目的の結婚は長続きしないみたい。
要介護状態になっても年金収入がある限り面倒を見てくれるのかな?
ホスピタリティが高いといわれるフィリピン人の国民性に期待するのは…楽観的すぎるのではないでしょうか。
粗食で糖尿病が治ったw
「日本人男性50歳、フィリピン人女性19歳。
マニラに隣接するルソンのスラムで、電気も水道もないサバイバル生活。
男は縫製工場の作業員で日当は200ペソ(約540円)」
極貧生活の粗食で糖尿病が治ったそうです(笑)。
困窮邦人もいる
これは「中高年の日本人男性と若いフィリピン人女性≒金が絡む」に当てはまらないケースのようです。
フィリピンの在留邦人は1万8870人(2014年)だそうですから、いろいろな人が混じっています。
金のない不法滞在者だけど
「フィリピンクラブの女性と結婚、
サラ金や闇金から500万円超の借金して彼女の親戚に送金、
浮気されて別れる」
ここまではよくあるパターンですが、金のない不法滞在者(当時の仕事は日当100ペソ)なのに30歳以上年下の女性と結婚しています。
彼はまだ若く、タガログ語ができてフィリピン社会に溶け込んでいるらしい。
貧困ラインは月額2万3700円!
「フィリピンの貧困ラインは一世帯の収入が月額8778ペソ(約2万3700円)、
国民の25,8%がこの貧困ラインを下回る(2014年)」
日当200ペソだと貧困ラインをさらに大きく下回るのですが、「人間関係を築きやすいフィリピンでの暮らしは幸せ」と言います。
綱渡りの不安定な生活
農場に転職し、月給が8000ペソになりアパートへ引っ越しますが…。
妻が病気になって看病のために退職、入院先は貧困層を含む庶民向けの公立病院だが医療費が払えないorz
「綱渡りの不安定な生活は不幸」と本音を吐きつつ、「金を貸してくれ」と筆者に迫ります。
野垂れ死にの覚悟があれば…
物価が安いといっても、日本人が現地で稼ぐのは容易ではないでしょう。
とすると、年金収入や金融資産がないと、安定した海外生活は無理なようです。
元気な内はどこでどんな生き方も可能かもしれませんが、貧乏人が異国で健康を損なえば困窮法人になるんじゃないかな。それを承知の自己責任・自己決断なら、外野の騒音は無視すればいい。
無責任男orz
ただ、子供を安易に作るのはどうなのだろう。
最初の日本人妻との間にできた2人の子供は、妻の母に預けっぱなし。
1人は覚せい剤の過剰摂取で自殺している。
次のフィリピン人妻との間にできた2人の子供とは音信不通。
今の妻との間の息子は、病気になると医療費が払えない状態。
貧困の連鎖の再生産
スラムに住む貧民が養育費を払えるはずもない。
「親はなくとも子は育つ」といいますが、無責任な貧困の連鎖の再生産に思えます。
大人の男女が sexしようと、別れようとそれぞれの選択ですが…。
子育てできそうもない状況なのに出産するのはどうしてなのだろう。
流れに任せて何も考えていないのかな。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2015/10/blog-post_29.html
極楽死はどこにある?
望ましい最期って…
多くの高齢者が望む最期は、「身内や知人に見守られながら安らかに旅立つ」といったイメージではないでしょうか。けれども、それは贅沢な願望になりつつあるのかもしれません。
よくあるパターン
水谷竹秀著「脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち(小学館)」
https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B1%E5%87%BA%E8%80%81%E4%BA%BA-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E7%A7%BB%E4%BD%8F%E3%81%AB%E6%9C%80%E5%BE%8C%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%82%92%E8%B3%AD%E3%81%91%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%B0%B4%E8%B0%B7-%E7%AB%B9%E7%A7%80/dp/4093884366
の続きです。
1人目は脱出老人のひとつの典型例。
「62歳男性、フィリピンクラブで知り合った20歳年下の女性を追って退職後に移住。
自宅を売却した2000万円を貢ぎ、年金2万5000円で女性の家に居候。
日本の預金を妹に送金してもらう」
本人の幸福度は?
若い女に手玉に取られた愚か者なのかもしれない。
預金が底をつくか、健康を損なえば困窮老人になるのかな。
日本に帰る場所はなく後悔しているのか、老後を好きにして諦めがついているのか…。本人にもよくわからないのかも。
マンゴー園を購入
2人目はもう少し地に足がついています。
「56歳男性、フィリピンクラブで出会った13歳年下の女性と結婚。
原発事故後に退職しフィリピン移住、同行した父は1か月後に没。
退職金と自宅売却代金で1,5ヘクタールのマンゴー園を購入(土地が200万ペソ(約40万円)、建物が500万ペソ(1350万円))」
フィリピンの土になる覚悟
男性は50代半ば、妻との年齢差も常識的な範囲内。
元気な内は広大な農園で第二の人生を楽しめそうです。
出会いで「女は男の金、男は若い女の体と老後の世話」という打算があったとしても、それは日本人同士でも大差ないはず。体が不自由になってからフィリピン人妻との関係がどうなるかはわかりませんが、先のことを考え過ぎると何もできないし…。
介護の人件費は安いけれど
「フィリピンの平均年齢は23歳、日本は46歳」
経済成長中ですが、日本に比べて物価も給料や人件費も低い。
ですから、若い介護の人手は安く手に入ります。しかし、医療費はそうではない。
日本人は自己負担 3割でフリーアクセスできる国民皆保険に慣れています。
さらに高額療養費や高額介護合算療養費などの制度もあって、医療費を軽視しがちですが…。
海外転出届と健康保険
負担が大きいけれど社会保障が完備した北欧諸国もあれば、医療を行う環境も整っていない発展途上国もあるでしょう。
「海外転出届け」
http://www.tkago.net/tmanual/notification.html
を見ると、「海外転出届を出して住民票を抜くと、健康保険料の支払い義務はなくなるが健康保険に加入し続けることもできない」
提出に関する細かな規定がない?
海外移住をする場合に海外転出届は義務です。
また、海外転出届を出した後で社会保険事務所で年金に関する海外転居の手続きが必要なはず。
ただ、提出に関する細かな規定がないらしく、海外滞在が1年以内ならば提出を求められないようです。
日本での治療費に換算した 7割が給付
「海外転出届けを出さずに、渡航中も健康保険に加入した場合。つまり、国外の滞在が1年以内の状態で、海外で医療機関に治療費を支払い、帰国後自分で手続きした場合、日本での治療費に換算した7割が給付される」
海外旅行傷害保険が必要
「盲腸の手術が日本で40万円、アメリカで400万円なら、
健康保険からの給付は40万円×0,7=28万円、
自己負担額は日本で手術を受ければ40万円−28万円=12万円、
アメリカで手術を受ければ400万円−28万円=372万円」
こうした事態を避けるために、海外旅行傷害保険を利用します。
民間の医療保険が必要
そして、滞在が1年以上に渡る本格的な移住であれば、日本の健康保険に加入できません。
その場合は民間の医療保険を利用することになります。
「フィリピンの保険事情」を見ると、「フィリピンは物価が安くても医療費は日本並み。
最大保障額25万ドルのベーシックな民間医療保険の年間保険料が、51歳〜65歳は1000ドル、71〜75歳で5000ドル、81〜85歳で約1万ドル、96〜100歳では3万ドル」
高齢者の保険料は高額orz
25万ドル(約3000万円)は大金ですが、高額な医療費がかかる病気なら足りないかもしれない。
81歳になれば保険料は年に約120万円です。
96歳になれば年に約360万円、3年で1000万円を超えますorz
フィリピンの庶民は金のかかる私立病院へは行かず、低料金の公立病院で最低限の治療だけを受けるのでしょう。
医療のビジネス化
民間の医療保険はピンキリです。
私立病院では医療のビジネス化が徹底していて、保険対応限度分の治療しか受けられません。
提携病院はどこか、どんな検査や治療がいくらで受けられるのか、そうした複雑な契約内容を素人が比較検討するのは難しそう。判断力の衰えた高齢者には不可能に近いのでは。
1000万円を現金で払えるか
「これまでに聞いた自己負担の最高額は1000万円。
フィリピンでボランティア活動中の日本人女性(60代)がくも膜下出血で倒れたが、何の保険にも入っていなかったため、日本からフィリピンに駆け付けた夫が現金で支払ったという。
国民健康保険に加入していない人が大病した場合、日本に帰国して再加入すればいいと考えるかもしれないが、各航空会社から搭乗を拒否される恐れがある(P280)」
医師や看護師の付き添いで帰国するにも、かなりの費用が必要でしょう。
病気でも日本に帰る場所なし
3人目は、「自宅を売却してフィリピンに移住した59歳男性、
脳梗塞で手術を受け左半身の一部が不随。
国民健康保険にも旅行者傷害保険にも加入しておらず、約100万円の自己負担。
20代の彼女とは別れるが、数百ペソで介護してくれる若い女性あり」
困窮邦人予備軍
「金の切れ目が命の切れ目。医療保険は要らない」そんな生き方もあるのでしょう。
しかし、杖をついて歩ける内は、少額のお礼で用を足してもらえば暮らせますが…。日常生活にも不自由するようになれば、医療費も嵩んで困窮老人になるんじゃないのかな。
逃げ道もあるけれど
小心者の私なら、「要介護度が進んだら、帰国して人権団体に泣きつき、生活保護を受給して介護施設に入る」などの逃げ道を準備すると思う。
けれども、若いフィリピン人を追いかけて日本を飛び出す人に、そんな発想はないのだろうな。良し悪しではなく、人生観の違いなのかも。
雪のない生活に憧れる
4組目は、「秋田県在住の日本人夫婦、年金生活。
雪のない生活に憧れて自宅を処分、冬はセブ島のアパート、夏は日本(自営業で使っていた事務所あり)」
温暖な気候なら沖縄でもよさそうですが、物価が安くしがらみのない海外で解放感を味わいたいのでしょう。
現実的な選択
当初は退職者ビザを取得しコンドミニアムを購入する予定でしたが、現地の台風被害に接して方針転換。冬季のみ短期滞在の海外生活を楽しむことにしました。
富裕層ではない中間層も、こうした老後を選択肢にできるようです。
「元気な内に海外生活をエンジョイ、健康が不安になったら日本に戻る」
日本に生活拠点が残っているのでリスクは小さい。
いいとこ取りでウィンウィンの関係
途上国に住むには、その国の医療環境も含めた現実を受け入れなければなりません。
が、そこまでの重い決断はなかなかできない。また、受け入れ側も「ある程度の年金があって保険に加入している日本人なら移住者として望ましい」と言います。
「自分で自分の面倒を見ることができ、金を落としてくれるなら歓迎」ということです。互いにいいとこ取りでウィンウィンの関係かな。
独り者の海外移住者が孤独死
最期は、あまり金もなく、人的ネットワークも切れている独り者の海外移住者の例です。
「結婚歴なしの63歳日本人女性、高校の英語教師だったが遺産相続をめぐるトラブルでフィリピンに移住。
ネグロス島に 6年住んだ後、セブ島のコンドミニアムに 4か月暮らす。
大腸がん闘病中で心筋梗塞による孤立死、本人の希望でセブ島の日本人墓地の埋葬される」
返金請求は煩雑
横道にそれますが、
「彼女が退職者ビザ取得のために定期預金した2万ドルは、ビザ解約で全額返金される。
が、この手続きは煩雑で時間がかかるため諦めるケースも多い」
この辺りの事情は
「退職ビザ預託金の行方 4.預託金の返却」
http://watami2008.pasco-ph.com/?p=11153
に詳しいです。
性差なのか?
フィリピンバンドを追いかけて移住する日本人女性もいたそうです。
が、夢が覚めた後も現地に残る人は少ないらしい。
女性は正気に戻れば現実的に判断してやり直せるのでしょう。
地縁・血縁のネットワークを持っている場合が多く、年金生活の日本人女性が海外で一人暮らしをするのは稀だと言われます。
幸福になる者も、不幸になる者もいる
ただ、女性にもいろいろなタイプがあるはずです。女性の経済力がアップするにつれ状況は変化するかもしれません。
「干渉されずに一人でひっそり暮らしたい」という上記の女性は、フィリピン社会に溶け込めず浮いていた。
海外移住で幸福になる者もいれば、不幸になる者もいる。客観的に見れば、彼女は後者なのでしょう。
環境を変えたら幸せになれる?
人は生きたように死ぬのならば、環境を変えたら幸せになれるというわけでもなさそうです。多少の変化のきっかけにはなっても、60年以上かけて形作られたライフスタイルを一変させるのはほぼ不可能。
居住地が日本でもフィリピンでも、都市部でも田舎でも、孤独死する人は孤独死するんじゃないのかな。
世間的な評価はどうでもいい
一人では生きていけませんが、対人関係にはプラスもマイナスもあります。
「絆=善」を押し付ける風潮はどうなのだろう。
人間関係に消極的な人間には、その人にふさわしい人との距離感があります。
世間的な評価が「かたくなな生き方で孤独な末路」だったとしても、死にゆく本人にとってはどうでもよいことでしょう。
ダメ元でやってみるしかない
海外ロングステイが多少話題になっても、実行するのはごく一握りの人たちです。
日本で暮らすような便利で安全な暮らしは保証されない。
それでも、日本での寂しい老後より、楽園を求めて海外移住を試すというのなら…。ダメ元でやってみるしかないのかも。
苦しみは少ない方がいい
「死亡する直前の数日間は、部屋で苦しみ悶えたのか、ボールペンで幾十にも丸い円が描かれていた。そして日付欄が空白になる。
遺体が発見されたのは、その二日後だった(P275)」
フィリピンでどんながん治療を受けていたかは不明。
日本の病院やホスピスでの死が、フィリピンでの孤独死よりマシかどうかは判断できません。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2015/11/blog-post.html
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フィリピンに生きる困窮邦人
パラサイトシングルのひきもりやニートでも、親が年金保険料を支払っている場合もあります。が、国民年金を満額受給しても月に6万5千円ほどです。親が亡くなった後、遺産を食い尽くせば生活保護が必要になるでしょう。国民年金は、高齢でも働き続けられるひと昔前の自営業を想定した制度だからです。
では、低年金や無年金が予想されるひきこもりやニート、さらに広げてワーキングプアの非正規雇用者が、物価の安い東南アジア諸国に移住すれば新たな展開が開けるのでしょうか。
日本を捨てた男たち フィリピンに生きる「困窮邦人」 2011/11/25 水谷竹秀(著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E6%8D%A8%E3%81%A6%E3%81%9F%E7%94%B7%E3%81%9F%E3%81%A1-%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%80%8C%E5%9B%B0%E7%AA%AE%E9%82%A6%E4%BA%BA%E3%80%8D-%E6%B0%B4%E8%B0%B7-%E7%AB%B9%E7%A7%80/dp/4087814858
を図書館で借りてきました。
困窮邦人は自己責任
「航空運賃+不法滞在分の罰金が払えず日本に帰国できない困窮邦人は768人、フィリピンは332人と最多」
フィリピンクラブの女性を追いかけて渡航し、所持金を使い果たして見捨てられるのがよくあるパターン。
女は金を、男は年齢差40〜50才以上の若い女を求めます。
駆け込み先の日本大使館は「自己責任の結果に国民の税金を貸し付けるのは納税者の納得が得られない」として厳しく対応。
海外で無一文になった日本人の帰国支援に関する国援法(飛行機代、宿泊費、食費、交通費、雑費などの貸付)が適用されるのは、年に20〜30人に止まります。
人手も予算も限られており、親族・知人に電話して送金を依頼しますが…。
不義理を犯していたり疎遠になっていたりで、断られるケースが多いようです。フィリピン日本人会も困窮邦人支援には消極的。
共通のパターン
筆者は日刊まにら新聞(東南アジア初の日刊邦字紙)の記者で、裏付け取材も丁寧に行っていますが、登場する困窮邦人が語る内容の真偽ははっきりしません。
困窮邦人は37〜59才の中高年男性。
元の仕事は派遣、新聞配達、トラック運送、ソフトウェア、自動車部品製造など様々。
自営業者もあれば、大手企業勤務もある。
渡比のきっかけはフィリピンクラブのフィリピーナである点は共通。
学歴は高卒以下。所持金なしのホームレスで、フィリピン人に食事を恵んでもらうなどして生き延びている。
親の貯金を使い込み、高利の借金を踏み倒し、罰金も未納で帰国すれば収監される者。
連帯保証で借金を背負い、偽装結婚の道具に利用された者。
海外移住に至った経緯はそれぞれですが、離婚や別居で円満な家庭生活だったとは言えないようです。
スポイルされていく
「マニラの最低賃金は1日400ペソ(約800円)、庶民の月収は1万ペソ(約2万円)ほど、物価は安い」
「彼らは日本に住めないんですよ。フィリピンが住みやすい。
日本では、ああいった人は受け入れてもらえないんですよ。
日本じゃ苦しくて生きていけない。
一生懸命に働いてお金を稼ぐことができない人たちなんだなあと思って。
女、薬にはまっている人が多い。
ああいう味を覚えちゃうと駄目なんですよ。
人間は堕落していくもんなんだと思いますね。
だいたい、60,70のおじさんを本気で愛してくれる若い女の子なんていませんよ。
結局はお金ですよ、お金(P64)」
著者は「異国の地で所持金もなくホームレス状態で生きているのは何らかのメッセージの発信か」との思いで取材を始めたそうです。
が、「困窮は自己責任ではない」という仮説は崩れ去った」
経歴詐称の常習犯
ソフトウェア会社勤務で年収1,000万円を超えていたという51才の男性は、アパートで寝たきりの垂れ流し状態。下半身不随で右目は失明しています。
家賃滞納で追い出された後、障害者施設に入れましたが、そこも半年で追い出される。
面倒を看てくれるフィリピン人の善意にすがっていますが、いずれ限界がきます。
フィリピンクラブ絡みの浮気で離婚、フィリピーナと結婚して渡比。
転職を繰り返す内に発病、フィリピーナとも離婚して現在の境遇になりました。
フィリピンクラブでの飲食代200万円、自宅売却時のローン残金500万円などを親に肩代わりさせており、70代後半の両親は受け入れを拒否しています。
見栄を張って経歴を詐称するこの男のプロフィールが、どこまで信用できるかは不明です。しかし、仮に帰国費用の目途がついても、日本に居場所はありません。
離婚するなら退職金は財産分与の対象
高卒後33年間大手企業に勤務した59才の男は、単身赴任先でフィリピンクラブにはまり 2年で1,000万円つぎ込む。
25才年下のフィリピーナと結婚、早期退職金4,900万円を持って渡比。
土地購入に1,000万円、妻の兄弟に買ったジープ3台で300万円、養鶏場ビジネスに1,000万円(4年で失敗)、退職ビザ取得条件の定期預金に650万円などの支出があって、残金は6万円。
妻名義の家を追い出されてアパート暮らし、ひと月5,000ペソ(約1万円)の節約生活をしながら60才からの年金受給を待つ。
フィリピーナのおねだり攻勢は、土地、家、自動車、事業の順で行われるそうです。
ぴったり当てはまります…。
ただ、フィリピーナが騙したというのは一方的でしょう。
体を張って勝負している彼女のところへ、4,900万円のネギをしょったカモが飛び込んできたというべきなんじゃないかな。
被害者はこの男ではなく、一方的に離婚され退職金も持ち逃げされた元妻です。
女もはまる…
身勝手すぎる男の話が続きますが、フィリピンバンドのメンバーと恋に落ちて渡比、現地に妻子がいることを知って失意の帰国をした日本人女性もいたそうです。フィリピン人男性が日本人女性を利用して家族を養うパターンもあったわけで、日本人は平和ボケしているのかもしれません。
ダブルスタンダード
本書の事例を読むと「自分はこれほどひどくはない」と優越感を感じます。
が、逆境にあれば、人間の弱さがむき出しになる瞬間は誰にでもあります。
傍から見れば、五十歩百歩と言えなくもない。
しかし、だからといって、フィリピン人の同情に甘えて、横着に世話になり続けることは肯定できません。日本に帰国し、社会的弱者支援を謳うNPOにでも頼って生活保護を申請するしかないのかな?
「日本でホームレスとして生活する人たちも各個人の選択の結果と言わざるを得ないのだろうか。個人の責任であれば、なぜ、社会問題として取り上げる必要があるのか。あるいはマスコミが「こんなかわいそうな人々がいます」と世間にアピールし、書籍や記事のネタに利用しようとしているだけなのか(P282)」
同感です。ダブルスタンダードです。困窮邦人に自己責任を求めるのならば、生活保護や障害年金も真に必要な人のみを対象にするべきです。
稼動年齢層に生活保護を与えたり、新型うつ病に障害年金を認めたりすることは、納税者の社会的常識と合致しないでしょう。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2013/09/4900_16.html
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メイドの最低賃金はひと月6750円!
人生の最期はどこで?
痴呆老人はフィリピンで暮らす方が幸せなのか。
フィリピンは日本人高齢者の姥捨て山になり得るのか。
水谷竹秀著「脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち(小学館)」の続きです。
人気の居住先は東南アジア
「1986年の通産省のシルバーコロンビア計画は高齢者の海外居住支援事業、欧米を居住先として想定。
バブル崩壊後は物価が安く白人社会より暮らしやすい東南アジア(マレーシア、タイなど)が人気の居住先」
海外ロングステイ人口は増加
「フィリピンは退職者ビザ取得の条件が緩く(35歳以上の外国人、指定銀行口座に1〜5万ドルの定期預金)、取得した日本人の総数は3020人」
「日本人海外ロングステイ人口の推計は1992年が90万7千人→2013年が155万6千人」
富裕層の第二の青春?
「フィリピン・マニラ 日本人高齢者を受け入れる介護サービスの現場」
http://diamond.jp/articles/-/36470
を見ますと、
「生活防衛のために年金を頼りに海外移住 → 高齢の富裕層が海外のセカンドハウスでショートステイをエンジョイ」
といった傾向の変化があるようです。上記の海外ロングステイ人口は滞在2週間以上をカウントしています。
ちょっと長めの観光
永住という重い決断ではなく、もっと軽いちょっと長めの観光なのかな。
元気な内に物価の安い海外でワンランク上の非日常を楽しむ。
健康が不安になったら日本に戻る。
いいとこ取りというか現実的な選択です。
この傾向を反映してるのか、英語習得に消極的な海外年金生活者が多いのだとか。
マニラ極楽暮らし
マニラ極楽暮らし―年金女性のフィリピン生活 – 1999/5 小松崎 憲子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%E2%80%95%E5%B9%B4%E9%87%91%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E7%94%9F%E6%B4%BB-%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%B4%8E-%E6%86%B2%E5%AD%90/dp/4838710682?ie=UTF8&*Version*=1&*entries*=0
の著者である小松崎憲子。
「1994年に68歳でマニラに建売住宅を購入(1350万円)、
40年近くの教員生活で月額30万円ほどの共済年金あり、年金者天国を謳歌」
小松崎さんは富裕層ではなく、この年代では少し余裕のある普通の年金生活者でした。
トラブルもあって…
「70代半ばでローズ・プリンセス・ホームに移り、その後は従業員とのトラブルで退職者ビザ取得代行業務を廃業。ローズ・プリンセス・ホームと金銭トラブルあり、病気を押して帰国し茨城県の病院にて85歳で没」
経済的弱者の孤立死
日本の高齢化率(65歳以上の割合)は25,1%、都内には高齢化率が3割を超える団地もある。家賃が7500円〜2万円の都営団地には生活保護受給者も多く、経済的弱者の孤立死が問題になっている。
貧乏な高齢者の多くは自ら行動を起こさず、「居場所がない、寂しい」とつぶやいている。
心が不健康だとダメ
強者の立場からは、
「高齢者は年金があって幸せ、日本にいて満足、それ以上夢か何か必要なのか?
体がついていくかどうか、やるかどうかは本人次第。
待っていても誰も来てくれない。体が健康でも心が健康じゃないとダメ」
などの意見も聞かれます。
海外永住はハードルが高い
筆者は「日本では経験できない華やかな老後を送れた」と小松崎さんを肯定的に評価しています。
が、海外長期滞在の不安として「医療、治安、言葉」が挙げられ、高齢者は医療・介護の問題を避けて通れません。
彼女の最期は海外永住の難しさを教えてくれました。
姥捨てなのか
「58歳の娘が 84歳の母をセブ島のコンドミニアムに入居させ、月に1回様子を見に来る。
3人兄弟の家をたらい回しの後で借りたアパートはごみ屋敷になったが、都内の介護施設は入所待ちの経緯あり。
娘は退職後にセブ島で年金生活を送る予定」
介護者の都合が優先される
母は離婚しており、娘は金融関係の営業社員とあるので、娘の経済力に頼っているのかもしれません。介護離職して娘が犠牲になるのが正解とも思えず、人件費が安いメイドの世話で暮らす母が不幸とも言えませんが…。
「セブ島の暮らしは楽しくなくはない」というのが母の本音なのかも。
医療や介護が必要になったら?
心身が衰えれば、介護の場所や方法は介護者の都合で決められます。
認知症ではなく、最低限度の日常生活がこなせる内はよいとして、要介護度が進んだり医療が必要になったらどうするのだろう。
その時は日本の介護施設に入所させるのかな。
ローズ・プリンセス・ホーム
「フィリピンの民間介護施設は月額4万5千〜8万ペソ(約12〜22万円)、マニラ首都圏の平均給与が1万ペソ(約2万7千円)なので利用者は富裕層」
一方で、「1996年にできた日本人高齢者向け介護施設であるローズ・プリンセス・ホームは入居費用120万ペソ(約324万円)で話題となり、ピーク時には年に700人もの見学者が訪れた」
ほぼ全滅状態orz
当時の日本の高級老人ホームは入居一時金が高額でしたから、割安感があったのでしょう。
が、「2014年の日本人入居者は4人、フィリピン人スタッフのみによる管理費ぎりぎりの運営」
類似施設はいずれも少数の関係者が利用しているだけで、ほぼ全滅状態だそうです。
海外介護ビジネスはもう終わっている
ローズ・プリンセス・ホーム創設者の棟朝淳州(むねともあつくに)は
「介護を受ける人も英語ができなかったり、フィリピンの事情を知らなかったりするからトラブルになるんです。私の中では海外の介護ビジネスはもう終わっています。今以上のことはできません(P246)」
と述べています。
セールストークの責任をとらない
途中で日本人スタッフがいなくなっても、医療費が予想外の高額であっても、確認を怠った入居者の自己責任ということです。
日本のように行政による救済措置などなく、儲からずに経営者が投げ出せばそれまでorz
安心を求める高齢者やその家族にとっては選択肢になりません。
行き場のない入居者が文句を言えずに残されたババ抜き状態に思えます…。
フィリピン人メイドによる介護
「81歳の認知症の妻を、91歳の夫が 43歳のフィリピン人メイドの手を借りて介護。
実家を売却しフィリピン人と結婚した息子が住むフィリピンへ渡る。
メイドの夫には数十万ペソ騙し取られるが、メイドの介護には満足」
介護中心の認知症患者
フィリピンの民間介護施設があてにならないなら、身内の介護が必要になります。
この事例は息子夫婦の家がフィリピンにあるのが特徴。
日本では在宅介護しきれない事情があってのフィリピン移住です。
妻は認知症で寝たきりですから、金の力であっても丁寧に世話してくれるメイドがいるほうがよいのかも。
残される夫はどうなる?
妻が天寿を全うしたら、「日本で死にたい」と言っていた90代の夫はどうするのだろう。
日本にも小規模低料金の住宅型老人ホームも作られるようになっています。
帰国するのか、フィリピンで息子夫婦の世話になるのか。成り行き次第なのかもしれません。
フィリピン人メイドの手を借りて介護
最後の事例は、
「認知症の90歳の母を娘(68歳)夫婦がフィリピンに移住して介護。
身体拘束する介護施設や精神安定剤を服用させる姉夫婦の介護に不満で母を引き取る。
メイドを月額4千ペソ(約1万800円)支払う約束で雇っても、値上げを要求されてトラブル続き。6年間に120人のメイドをチェンジ」
ちなみにマニラ首都圏のメイドの最低賃金はひと月2500ペソ(約6750円)です。
キュアよりケアの高齢者向き
治療より介護が必要な高齢者で、延命治療を望まないならば、介護の人件費が安いフィリピンも選択肢になり得そうです。
日本で家政婦を雇えば、1万円だと4〜5時間分にしかならないでしょう。
「施設のルールによるのではなく、在宅で介護したい」のなら、安価で丁寧な介護の人手を調達できるのは魅力的です。
フィリピン社会に溶け込んでいない
ただ、移住した娘夫婦の老後はどうなるのだろう。
フィリピン人はホスピタリティーに富むかもしれませんが、お人よしではない。
金で労働力を買い叩く感もある初老の日本人夫婦が、地域社会に溶け込んでいるとは思えません。体力・気力が衰えたら、フィリピンに住み続けることは難しそうです。
海外長期滞在の条件は…
まとめると、高齢者が元気な内は、経済力に合わせて海外でも好きに生きられる。
海外生活で介助・介護が必要になったら、現地の民間介護施設は当てにならない。だから、同居する身内の介護者とメイドを雇える程度の年金収入や資産が必要。
高額な医療費がかかるようなら、日本に帰国できる余地も残しておくのがベター。
困窮邦人以外のゴールもある
う〜ん、これだけの条件も満たすなら、日本でも海外でもそれなりの最期を迎えられるのは当然かなw
では、たいした年金収入もなく頼れる身内もいなければ、海外ロングステイは無理なのか。
貧乏な単身者が海外移住を強行すると、困窮邦人になるしかないのか。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2015/11/6750.html
マニラの欲ボケ婆、海外老人ホームの闇
日本人向けの介護付老人ホーム
年金だけでやっていけるか不安な高齢者は、物価の安い国で老後を送るという選択肢もあります。
お勧めはフィリピン、日本人向けの介護付老人ホームもあって安心です♪
ちょっと、情報が古いかも…。
海外年金生活者もいろいろ
マニラ行きのジジババたち– 2002/6 浜 なつ子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E8%A1%8C%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%82%B8%E3%83%90%E3%83%90%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%B5%9C-%E3%81%AA%E3%81%A4%E5%AD%90/dp/4872336763
によりますと、
「フィリピン退職者ビザを取得した日本人は763名(2001年)」
短期滞在ではなく、永住してフィリピンで余生を送る覚悟なのでしょう。
ハワイやオーストラリアなどの優雅な海外年金生活者ではなく、経済的不安を解消しようとするやや規格外れの人も含まれているそうです。
「ビザが取得し易い(銀行に定期預金するべき額が小さい)、物価が安い」
などがフィリピンの魅力です。
マニラの名物婆さん
本書の第1章に登場するのは小松崎典子さんで、
「75才。40年間の教員生活の後、退職金3千万円と田舎の家の売却代金を持ってマニラ暮らしを始める。
PRAビザ取得、現地に1500万円で家を購入、フィリピン年金暮らしの先駆者として有名。
月に30万円ほどの年金があり、メイド2人と運転手を雇う生活」
異母妹やその親族に資金援助したり、一泊 8千円で日本人をホームステイさせたりと現地の生活をエンジョイ中。
ボケたらアウト…
日本人が経営する介護付老人ホーム(ローズプリンスホーム)の介護権も購入して老後に備えます。
茨城の田舎の生活は完全に捨てており、フィリピンに永住するつもりでしたが…。
「真実が知りたい どうしても許せないのです」
http://blog.goo.ne.jp/srachai/e/496ebd4b801babd79eede7932f0383aa
を見ますと、海外で最後を迎えるのはハードルが高いようです。
本書の出版が2002年ですから、85才くらいで永眠されています。
日本にいてもリスクはありますが、体力・気力が落ちる高齢者にとって海外が住みやすいとはいえない。異国で認知症になるとアウトです…。
話題のローズプリンスホーム
第3章に登場するのは子供が3人いる60才のバツイチ女性で、
「半身不随の母親の介護でストレスが溜まる。
女性労働に支えられる在宅介護を前提とした介護保険制度に失望、
子供に迷惑をかけたくないとローズプリンスホーム(1996年にフィリピンに開設された有料老人ホーム)の短期研修に参加」
成功しそうなビジネスモデル
「フィリピンで箱もの施設の運営は至難」と言われる中、日本政府によるロングステイ推進の波に乗りローズプリンセスホームの経営は順調に見えました。
「3千坪の敷地にバストイレ付の個室、クリニック、歯科診療所、食堂、プール、リハビリテーション室などがあるホームとその周辺に一軒家が並ぶ。
施設の生涯賃貸料は290万円。
要介護になればホームの個室で24時間体制の介護が可能。
介護費用は月に軽度なら2万2千円、中度なら2万6千円、重度なら5万3千円、超重度なら8万9千円(いずれも当時の為替レート)」
労働力の安さが魅力
例えば、認知症で超重度の要介護状態になったとすると、介護費用・食費・管理費で月に16万5千円。
バブル崩壊後でも、このくらいの金額は年金でクリアできる高齢者は多いのでしょう。
「フィリピン・マニラ 日本人高齢者を受け入れる介護サービスの現場」
http://diamond.jp/articles/-/36470?page=4
によりますと、
「フィリピン国内には仕事のない介護士があふれている。
派遣会社に依頼しても、その費用は1日 8時間勤務で月額7000ペソ(約1万8000円)程度だ。
プライベートナースも可能で、月額1万5000ペソ(約3万8000円)も出せばいくらでも応募が来る。
月10万円で、自宅で24時間完全看護(介護)が実現するのだ」
人件費の安さがポイントです。
ジンクスを破れず、破綻…
しかし、17人の入居者が相次いで解約し、解約金支払いのために救急車を売却。
日本人スタッフが辞めて介護の質も低下。
2002年の時点で資金繰りは苦しかったようです。
検索すると
「2011年には経営者が蒸発し、2013年には「かつて100人ほどいた入居者は4人に激減」
とありますが、真偽不明です。他に行き場所のない者の吹き溜まりになっている感あり。
物価上昇、治安の悪さ
フィリピンの安い労働力を利用し、地元には雇用が生まれ、日本の高齢者には選択肢が増える。ビジネスチャンスに思えますが、フィリピンの他の日本人向け介護施設も経営難といわれています。
ローズプリンスホーム破綻の原因はよくわかりません。
「造成地の外はスラムで、施設の 18ある一軒家の内 7軒が窃盗にあった」
治安に問題があったのかもしれない。
物価の上昇が予想以上だったのかもしれない。
医療費の自己負担はどうなる?
「NHK「海外での老後をなぜ選んだのか」は片面の真実でしかなかった」
http://ameblo.jp/tomsoya1000/entry-11448481805.html
を見ますと、医療費の問題もあったようです。
「住民票を抜く=海外転出届けを出せば、住民税や健康保険料を払う必要がない代わりに、フィリピンでの医療費は全額自己負担になる。
住民票を残しておけば、住民税や健康保険料がかかるが、医療費の自己負担は 3割になる」
ということかな?
永住のためにPRAビザを取ってフィリピンに渡るのに、日本に住民票を残せるのだろうか。
居住の実態がなければ住民票は抹消される(不在住で職権消除)ように思うのだけど…。
ランナーズハイ、宴の後
小松崎さんがみじめな行き倒れ同然なのか、晩年の 10年ほどは思い通りの生活をエンジョイできたのだからもって瞑すべきなのか、評価はいろいろでしょう。
海外年金生活のリスクが明らかになり、ブームは下火のようです。
海外の日本人向け介護付老人ホームで機能しているところは、たぶんありません。
適性のある人以外は、高齢になってからの海外移住はリスキー。
日本に生活の本拠を残す → 元気な内に外国で楽しむ → 体力・気力が衰えたら帰国、
これが無難です。
金がなくても生活保護があるしw
まとまった預金とある程度の年金を持った高齢者は徐々に減っていく。
東南アジアの国は経済成長とともに物価が上昇する。
定年後の年金生活は20年30年という長期になる可能性がある。
日本の経済力をバックに東南アジアで優雅に暮らす、30年後にそんなことが可能だろうか。
国内の有料老人ホームも倒産します。が、条件が変更されるにしても、入居者は何らかの形で保護されます。平和ボケした日本人には、国内が安全・安心なのです。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2014/05/blog-post_25.html
13. 中川隆[-5446] koaQ7Jey 2018年3月17日 14:44:14: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
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海外移住の成功不成功 2013/11/10
3日ほど前に、ブックオフで105円で見つけた本、「マニラ極楽暮らし」小松崎憲子著を読んだ。
マニラ極楽暮らし―年金女性のフィリピン生活 – 1999/5 小松崎 憲子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E6%A5%B5%E6%A5%BD%E6%9A%AE%E3%82%89%E3%81%97%E2%80%95%E5%B9%B4%E9%87%91%E5%A5%B3%E6%80%A7%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E7%94%9F%E6%B4%BB-%E5%B0%8F%E6%9D%BE%E5%B4%8E-%E6%86%B2%E5%AD%90/dp/4838710682?ie=UTF8&*Version*=1&*entries*=0
日本は徐々に放射能だらけになるから、海外移住したい。しかし、お金はないので東電の元社長や会長みたいにシンガポールやドバイのように金のかかる国へは行けない。
近くて英語が通じ、生活費も安いフィリピンあたりがいいのでは、と思うようになり、何度かフィリピン行きの海外チケットも調べたりした。
ただ、。やはり心配なのは台風の発生地、今も大きな台風被害で死者が1万人を超すと言われるほど。
場所にもよるのでしょうが、頑丈な建物に住まないと吹き飛ばされる。
「マニラ極楽暮らし」では、小松崎さんという元小学校の教師が68歳でフィリピン移住した。
家も買い、車も買い、ダイビングを楽しみ、日本食を食べ、大きなショッピングモールで買い物したり、メイドを使って楽しく暮らしている、犯罪にも会わずにいるから大丈夫みたいなことが書いてあった。
それで最近はどうかな、とネットでブログを探すと驚きの結果だった。
小松崎さんは、2011年の8月に亡くなっていた。
1926年生まれだから、84歳だったのでしょうか。
彼女を知る人ー現地の友人みたいな・・・のブログには以下のように書いてあった。・・・・・・
真実が知りたい どうしても許せないのです 2012-09-26
棟朝淳州(むねともあつくに)さんのフィリピンはルソン島ラグナにあるローズプリンセスホームは事実上崩壊しているようです。現在そこに定住している人はわずか4人だけみたいなのです。
原因は、マニラ市内で開店した日本料理店(ふるさと)の経営がうまくいかなかったのではないかと推察されます。
小松崎憲子さんの最後は悲惨なものだったみたいです。
棟朝さんに預けしていたパスポートを返してもらえず帰国するのが大幅に遅れてしまいました。
人から聞いた話ですが、二カ月に一度53万円の振り込みがマニラの銀行にあったそうです。
棟朝さんが全部管理していました。
管理と言えば聞こえはいいのですが、小松崎憲子さんは毎月5000ペソのお小遣いだけしかもらえなくて、残りは全部棟朝さんのほうで管理していたようです。
三食の食事を二食に減らして節約していたと聞きました。
胸が詰まって涙を流しました。
他にも被害者は多いようですね。
定期預金をして利息で暮らしましょうという甘い言葉にひっかかって、全財産を棟朝さんに預けてしまった人もいるようです。フィリピンで裁判沙汰になっていますし、暗殺された人だっているみたいです。
推測ですが、棟朝さん、これらのお金を自分の事業(日本料理店)に回した。
事業は失敗し、二件目のお店も失敗、現在小さな焼き鳥屋を経営している。
これは犯罪じゃないでしょうか。
小松崎憲子さんは、最後の力を振り絞り、友人たちや大使館の人たちの手を借りて帰国を果たしました。
飛行機の座席を2席確保して、横になって搬送されたようなのです。
JALの親切なお方の手も借りたようです。
帰国後、入院し、わずか数カ月で天国に召されてしまいました。
エルシウムのテラスハウス、車も全部没収されたと聞いています。
許せないのはパソコンまで没収したことです。
死の直前まで、小松崎憲子さんは手書きで「マニラ極楽暮らし」の続編をしたためられておられました。
憲子さんの遺作を、何とかして、サイトで復活させてやりたいと言う思いは、親戚の方々たちにとっては迷惑以外のなにものでないのでしょうね。
天国の小松崎憲子さん、最後まで、手助けすることが出来なかったことを、深く、後悔いたしております。
http://blog.goo.ne.jp/srachai/e/496ebd4b801babd79eede7932f0383aa
以上のブログを読んで、やはり日本にいたほうがいいのかも、なんて思いました。
別のブログを見ると、小松崎さんが認知症になったから、その施設の管理者が預金などを管理していたというのだが。
今テレビで放映しているのは、海外移住をして現地で結婚し、子供を育て、レストランやカフェ、ホテルなどの経営をしながら成功している女性たちの話し。
こういうのを見ると、やはりもっと若い頃に移住して、現地で人の輪を広げ、仕事をしたり、家族を作るなどしないと成功するのは難しいのかもしれないと思います。
そして、どうせ介護施設に入るなら、しっかりとした所を選ぶべきかな、とも思うのです。
http://origotou.blog.so-net.ne.jp/_pages/user/iphone/article?name=2013-11-10
小松崎さんのご冥福をお祈りします, 2012/12/26
レビュー対象商品: マニラ極楽暮らし―年金女性のフィリピン生活 (単行本)
昨夜、NHK総合テレビの番組「追跡真相ファイル」で、小松崎憲子さんが入所されていたフィリピンの介護老人施設で、日本のテレビや書籍で何度も取り上げられていたローズ・プリンセス・ホームの日本人オーナー失踪と、経営破綻の例が紹介されていた。
現在この施設の日本語スタッフも不在になり、入所者はまともなケアが受けられない状況で、日常生活や医療費に困窮している姿が映し出されていた。
小松崎さんは番組では特に取り上げられていなかったが、その理由はすでに彼女はフィリピンの親戚にも知らされず日本に送り返されて、2011年8月に癌で死去されていたからだ。
なおインターネットの情報によるとローズ・プリンセス・ホームの経営難と、小松崎さんの痴呆が重なり、晩年は彼女もフィリピンでトラブルに遭った多くの日本人と同じように、大変な状態に追い込まれたという衝撃的な噂が出ていた。
この番組では他にもフィリピン人妻に、家や財産を奪われた日本人男性が泣き寝入りをせず、妻を窃盗罪で告発して逮捕に追い込んだだけでなく、現在は裁判を起こして財産を取り戻すために頑張っている姿を追っていたが、こんなことが出来るのは心身が健康だからこそ。
なお小松崎さんが必死で世話をした肝心のフィリピン人親戚は呑気なことに、彼女が人生最大のピンチになっているを知らず、トラブルの防波堤になってあげられなかったらしい。(本当にフィリピン人って頼りない!)
実は一時期、自分も老後に一人で海外生活をしたいと思い、海外移住を前向きに検討していて、ネットで色々な話を調べたり、直接現地(タイ・マレーシア・フィリピン)に行ったりした。
しかし現在は完全移住はあまりにもリスクが大きいので、1年のうち数ヶ月を海外で暮らすロングステイでいいと思うようになってきた。
つまり老後は主に日本で暮らしたいと思っている。
でも、もし海外移住をしたとしても、最後は日本に帰って生涯を終えるのがベストであり、そのためには日本にある財産も人脈も絶対に捨ててはいけないと、NHKの番組を見て強く思った次第だ。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1P9C8OC8PNL8Y/ref=cm_cr_arp_d_viewpnt?ie=UTF8&ASIN=4838710682#R1P9C8OC8PNL8Y
海外ロングステイの現実, 2014/2/27
レビュー対象商品: マニラ極楽暮らし―年金女性のフィリピン生活 (単行本)
十年ほど前にこの本を読んで比島移住の夢をかき立てられ、マニラの著者に連絡を取り比島へ数回訪れました。
その一年後に会社を早期退職し著者を頼って比島移住を決行しました。
そして、そのまた5年後には日本へ戻ってきました(苦笑)。
この本に書かれていることは
「比島と比人は、こんな国こんな人達だったらいいのにな」、
「比島在住の日本人がこんな暮らしができればいいのにな」etc
という「・・・れば」「・・・たら」の願望話と、比島の現実をごちゃ混ぜにした一種のファンタジーです。
(ですからこの本の内容は全てが出鱈目ではありません。本当のことも書かれています。と言うか、比島のネガティブな面はソフトに表現している、またはネグっている。ポジティブな面はデフォルメしている)
発展途上国とその国民の現実は半端なものではありません。
その発展途上国に住んでいる多くの邦人の現実も半端なものではありません。
筆者の知人の在比邦人や比人親族(異母妹一家)はなにゆえ認知状態になった筆者をぎりぎりまで放置していたのか。私にはその理由が分かるような気がします。
「老後は気候が温暖で物価の安い途上国で悠々自適」。
私が見た限りではそんな美味い話はありませんでした。
海外移住/ロングステイへの幻想をかきたてるのは止めて貰いたいものです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2RGECC6DSFA2X/ref=cm_cr_arp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4838710682
定期預金の金利が12,75%w
1億円貯めたら働かずに金利で暮らせる
私が勤め始めた頃はまだバブル崩壊前で、預貯金の金利は6〜7%ありました。
「1億円貯めたら働かずに金利で暮らせる」と言われていたのですが…今となっては過去のお伽噺(笑)。では、海外ではどうなのでしょう。
海外年金生活者のバイブル
小松崎憲子著「マニラ極楽暮らし 年金女性のフィリピン生活(マガジンハウス)」は、海外年金生活者のバイブルだったそうです。
1999年の出版なので、時の流れを感じます。
フィリピーナの異母妹
「53歳で茨城県に家を新築、退職金はローンの返済に消える。
60歳の定年退職後も現職時の生活水準を維持したいと物価の安い国への移住を検討。
同居の父の死後、異母妹テレシタに会いにフィリピンを訪れる。
ホームステイをしたりアパートを借りたりした後で、茨城の家を売却しフィリピンで家を買う(1350万円)」
計画的な移住計画
退職者ビザを取得しフィリピンで家を買うまでに、情報を収集し計画的に準備を進めています。
「外国人はフィリピンでは建物は所有できるが、土地は所有できない」そうなので、土地は長期リースで借り上げたのかな。
フィリピーナの異母妹あり
結婚歴はなく、父没後の日本に濃い人間関係はなかったのかもしれません。
フィリピーナの異母妹がいる点が特殊です。
「姪のヘレン、住み込みのメイド2人、通いの運転手1人で暮らす。
ヘレンには退職者ビザ取得代行会社を任せる。
テレシタには350万円の家をプレゼント」
年金収入とそれなりの貯金があるので大盤振る舞いしたのかな。
ちなみにメイドの月給は約6000円!
騙される二つのパターン
「日本人が日本人に騙される寸借詐欺」もありますが、話題になるのは
「フィリピンパブで知り合ったフィリピーナを追いかけて来て、女性名義で土地や建物を取得して結婚、金がなくなると離婚されて一文無し」
日本人男性が困窮邦人になるよくあるパターンです。
成功する確率は3%
「年金生活者が楽しく暮らすコツは何もしないこと。商売に手を出したら火傷する」
「言葉もしゃべれない、商売の経験もない、人脈もない、法律や商慣習も知らない、そんな日本人がフィリピンで商売して成功する確率は3%程度、妻がフィリピン人なら5%ぐらい」
為替も物価も変動する
「1997年4月1ペソ≒5円」とありますが、「2015年11月1ペソ≒2,6円」ですから、為替レートの変動は大きい。
「物価は安いが日本食品は高い」
こちらも「インフレ率が1998年9,36%、2008年8,18%、2014年4,17%」なので、物価はけっこう上昇しているはず。
今なら移住生活費はいくら?
P132に夫婦にメイド1人、運転手1人のフィリピン標準家庭の支出(月額約11万円)の内訳が載っています。
ちなみに筆者の支出は約15万円。
「1ヶ月の移住生活費シュミレーション(日本人感覚のA夫妻編)フィリピン」
http://www.naru-web.com/philippines/cost-of-living.html
を見ると、
フィリピン都市部で日本人感覚の暮らしをすればメイドや運転手なしで 18万円超。
あまりお得感を感じられないのでは?
ペソ建て定期預金の金利は12,75%!
「フィリピンの銀行のペソ建て定期預金の金利は10〜12,75%、税金が20%かかる」
ええと、仮に 5000万円の定期預金を組めば、税引きで年に400万円の利息を受け取れるってことです。一瞬、フィリピン移住を考えました(笑)。
で、2013年の情報だと…
が、
「意外と知られていない フィリピンのインフレと預金利息」
http://vagabond0321.seesaa.net/article/308634921.html
を見ると、預金が保証される銀行は5行で上限は各100万円ずつ。
そして、金利は2%ちょっと。
5行に 500万円預けても税引き後の利息は年に8万円…。
500万を超える預金には銀行の破綻リスクが発生する。
為替リスクも取ってこの金利だと…日本で投信をやった方がよいような気がするのだけれども。
国民健康保険に加入し続けられる?
「長期滞在者は国民健康保険+海外旅行傷害保険が多い。
フィリピンに本拠を移し、医療保険未加入の者もいる。
風邪なら診療代1000円+薬代1000円、虫歯2本の治療代6000円」
筆者は「厄介な病気になったら日本で治療するつもりなので、国民健康保険に加入し続けている」とあります。
海外転出届は任意らしいけれど…
海外転出届を出さず住民票を残して、住民税や国民年金保険料を払い続けていたのでしょう。
海外転出届は1年移住が目安で、強制ではないらしい。
本書執筆時点で、茨城の家を売ってマニラに移住してから5年は経っています。
日本に生活の本拠がないのに住民票が残っているのは、本来はおかしい。
法の不備はいずれ解消されるはず
法の不備のグレーゾーンはいずれ解消されるんじゃないのかな。
とすれば、高齢の年金生活者が医療保険に未加入なのはハイリスク。
民間の医療保険に加入する必要があり、高度な医療を私立病院で受けたいのなら保険料が嵩むはずです。
ローズプリンセスホームの入居者第1号orz
1994年に68歳でフィリピンに居を移し、マスコミに注目された70代半ばまでがゴールデンタイム。
「1997年にローズプリンセスホームの2部屋の終身利用権を購入(約656万円)、入居者第1号となる。
利用料金は月額14万円(夫婦は22万円)。
施設内に診療所、車で15分の場所に私立病院あり。
看護婦資格を持つ日本人スタッフがいる日本人専用の介護付き老人ホーム」
海外の姥捨て山かも
リゾート感覚の高級老人ホームをイメージした豪華な建物、安い人件費で介護の人手を確保。
目の付け所は悪くなかったのかもしれませんが、安心・安全を重視する保守的な日本人には受け入れられなかった。
「開業後2年以上経った1998年12月の入居者は5人」
立ち上げた日本人経営者は投げ出して、「ババを引いて行き場のない老人が残された姥捨て山」のようになってしまっているorz
過保護な日本は世界の例外
日本の老人ホームでも、事業がうまくいかず事業主が交代する、預かり金の入居一時金が使途不明になる等のトラブルはあります。が、行政指導や救済措置が取られて、入所者の保護が図られるはずです。
一方、海外で怪しげな業者に騙されると、100%自己責任…。
医療費の見積もりが甘い
「フィリピンには日本のような健康保険制度はない。
貧乏人は安い公立病院で最低限度の治療を受ける。
金持ちは高額な私立病院で最高水準の治療を受ける」
「ボトックス 始末記」
http://blogs.yahoo.co.jp/aspentower14042001/11260843.html
によりますと、ボトックス注射1本1万9000円!
上記の生活費シュミレーションの医療費は見積もりが甘すぎます。
最期は日本で迎えたくなる
「そろそろ幕を閉じさせて頂きます」
http://blogs.yahoo.co.jp/aspentower14042001/11296652.html
を見ますと、管理人さんは13年ほどフィリピンでの生活を楽しみ78歳で亡くなられたようです。日本に戻って治療を受ける前に亡くなりましたが、数日前までブログを更新しており寝たきりの期間はほとんどなし。二人三脚の奥さんの支えが大きかったろうと思われます。
最後まで思い通りが理想だけど…
残された奥さんは息子と日本に帰国したところで更新は終了。
理想に近い最期なのではないでしょうか。
フィリピーナと結婚する場合を除き、日本人が一人でフィリピンの土になるまで住み続けるのは至難なのでは。
老いるという現実を直視すれば、最後まで自分の思い通りに生きることは不可能とわかるはずです。
金と親身な身内
永住といった重い決断は高齢者には向きません。
生活の本拠を日本に残し、年金生活の夫婦が元気な内にリゾートでバカンスを楽しむ。
そんなノリでいいんじゃないのかな。
それなりの金があって、親身に関わってくれる身内(配偶者や子供)がいるなら、ハッピーエンドの可能性が高まるでしょう。
元気な内は思い通りになっても…
小松崎さんに話を戻せば、ローズプリンセスホームに移った70代後半以降は思い通りにならないことが多かったようです。
退職者ビザ取得代行業は廃業、広告塔として利用された感のあるローズプリンセスホームともトラブル、日本に帰国して85歳で亡くなっています。
不本意な暮らしという印象
移住生活前半が華やかだっただけに、後半は不本意な暮らしという印象が強い。
世間的評価は「プチセレブを気取った独り者の年金生活者が、業者の甘言に乗せられて惨めな最期」といった感じになるのかな。
向き不向きの問題
大多数の高齢者は、住み慣れた地域で穏やかに老いることを望んでいるのかもしれません。「治安、医療、言葉」のリスクを承知で、本格的な海外移住に挑戦する人はほんのひと握りです。
国内で平均的な老後を過ごすマジョリティ、海外で光と影が強い刺激的な老後を送るマイノリティ。
価値観の違いというか、向き不向きがあるのでしょう。
どこにいても死は管理しきれない
どちらがより賢明な選択かを比べることに意味はない。
できるうちにやりたいことをやっておけば、後悔は少ないかもしれない。
安らかな最期を求めるのも大切でしょうが、死が迫った生活をコントロールしきれるものでなし。それは日本にいてもフィリピンにいても変わらないでしょう。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2015/11/1275w.html
▲△▽▼
灰色の海外移住?
介護付き長期滞在施設
日本は国民皆保険ですから、介護保険料の徴収を拒めません。
それで、一人暮らしの高齢者が要介護認定されると、介護保険を利用して在宅介護ができるのかと言うと…たぶん無理でしょう。
介護保険は同居の家族を前提とした制度だからです。
では、貧乏な一人暮らしの高齢者が特別養護老人ホームに入所できるかと言うと…かなり難しいでしょう。
比較的安いので待機者が多く、順番待ち状態だからです。
待機者数は42万人とか、真に入所が必要なのは4万人とか、真に入所が必要な人だけでも16万人とか、実態ははっきりしませんが、申し込んでもすぐには入れません。
そこで、海外の日本人向け介護付き長期滞在施設が登場しました。
井出康博著「年金夫婦の海外移住」(小学館)の続きです。
フィリピーナの追っかけ
「フィリピン日本大使館の邦人保護事例は1066件(2006年)と多く、その2割が生活困窮者」
フィリピンに海外移住するひとつのパターンは、フィリピーナの追っかけ。
フィリピンパブにはまり、帰国したホステスを追ってフィリピンへ
→ 仕事もせず、所持金がなくなると女性の家を追い出される
→ 帰国する旅費もない困窮邦人となる。
店内の仮想恋愛と現実の区別がつかない中高年男性がいるようです。
「70代半ばの離婚歴ある男性、
家賃が月に1万3,000ペソ(約3万2,000円)の1LDKマンションは電気・水道・ガスが止められ、家賃滞納で立ち退きを迫られている。
生活費は5,000ペソ(約1万2,000円)は知り合いに無心。
一時帰国して生活保護を申請するが認められず、フィリピンに舞い戻る」
在比邦人ホームレス寸前なのに、フィリピン女性にたかられて300ペソ(740円)を渡しています。
海外で孤独死するかもしれませんが、自分で選んだ境遇です。もって瞑すべし、なのかな。
ローズ・プリンセス・ホーム
フィリピンへの海外移住には、日本人向け介護付き長期滞在施設を目指すパターンもあります。
十分な介護の人手を確保できる、有料老人ホームに入居する資産がある。そうした人達を除けば、日本での老後に不安を感じます。
介護士の人件費が安いフィリピンなら、日本では平均的な年金生活者も十分な介護を受けられるはずです。
「日本人向け介護付き長期滞在施設ローズ・プリンセス・ホーム、
35平米の部屋の生涯使用権が300万円、
健常者は1日3食の日本食込みで7万円、
24時間マンツーマン介護付きの寝たきりは13万円(医療費は別)、
月に1万円弱の管理費を払えば常時滞在の必要なし」
60部屋の大半は埋まっているとあります。ニッチ分野で成功したベンチャー企業なのでしょうか。
日本の介護付き有料老人ホームは、入居一時金も月々の費用も高額です。
取り崩せるかなりの資産がなければ、年金生活者(国民年金でも厚生年金でも)には高嶺の花。需要はあるでしょう。
トロピカル・パラダイス・ヴィレッジ
「治安のよいスービックにある介護付き長期滞在施設トロピカル・パラダイス・ヴィレッジ、
1泊 1万円、1週間 5万円、1ヶ月11〜16万円、1年132万円、10年900万円(いずれも介護費用を含む)」
離婚経験のある74才男性(年金15万円、生活費20万円)の例が挙げられています。
厚生年金+貯金の取り崩しで、日本より安くて手厚い介護が受けられるのですが…。
ニーズがあるはずなのに、永住者は少なく保養目的の利用が多いらしい。
金の問題をクリアできれば、最期は日本で迎えたいのは当然です。
言葉も通じない異国の施設を終の棲家とするには覚悟が要ります。
また、海外のうまい話は眉唾物という警戒心もあるのでしょう。
介護付き施設の契約金持ち逃げなどの詐欺事件が報道されているそうです。
医療費の全額負担
橘玲の「フィリピン・マニラ 日本人高齢者を受け入れる介護サービスの現場」
http://diamond.jp/articles/-/36470?page=4
によりますと、
「一時期は新聞やテレビでもたびたび紹介されたローズ・プリンセス・ホームは、経営の混乱で日本人職員が全員退職してしまい、いまは日本語を話せない介護士しかいない
(昨年12月にはNHK「追跡!真相ファイル」でその実情が取材された)」
ネットで断片的な情報を拾ってみると、
「ローズ・プリンセス・ホームは3000坪の敷地に50の部屋がある大規模な施設。
16年前にフィリピン初の日本人向けの老人ホームとして開設、入所を希望する人が殺到した。
しかし、施設を出る人が増え、部屋の多くが空いたままになっている。
日本の住民登録を抹消してフィリピンに住所を移すと、日本の国民健康保険は適用されず医療費は全額自己負担となる。
1日12万円の治療費の工面に苦労した末にすい臓癌で亡くなった人もいる」
高齢者の介護は医療とセットになることが多いのですから、介護が安上がりでも医療が高額ならメリットは感じられません。
杜撰な事業計画
「フィリピンの問題点というのは
コストが高くなった。人材の確保が難しくなってきている。
私自身、さじを投げちゃっている部分がある」
経営者の姿勢にも問題あり。倒産せずに譲渡先が見つかったようですが、「有料老人ホームの居住者の権利は利用権。
入居一時金を支払い、終身利用権を取得していても、事業者が変わればその権利は引き継がれない。
サービスのカット、入居一時金の追加徴収、月額費用等の改定が行われることになっても抗弁できない。
そのサービスでは生活が維持できない人や追加費用を支払えない場合は退居せざるを得ない」
日本人スタッフのいなくなったローズプリンセスホームは、もはや日本人向け介護付き長期滞在施設ではなさそうです。
日本に戻ると言っても、体力・気力・資力に加えて受け入れ先探しも必要です。ハードルは高いでしょう。
介護付き有料老人ホームが倒産したら
有料老人ホームは民間企業ですから、倒産やM&Aもあります。
終の棲家として介護付き有料老人ホームを選ぶのでしょうから、サービスが継続して提供されることが最重要です。
が、介護期間が長くなることもあるわけで、10年以上先のことは誰にもわかりません。わからない時は「みんなで渡れば怖くない」海外の介護付き長期滞在施設利用者はごく一部の少数者ですから、このサービスの利用は非常にリスキー。
倒産やM&Aという事態になっても、「うまい話に騙されたかわいそうな人」として一時話題になるだけ。自己責任が強調されます。
日本の介護付き有料老人ホームが倒産した事例では、特例として特別養護老人ホームが入居者を引き受けました。
老後は国内で暮らすのが無難です。施設に入る金がなければ、自宅でいけるところまでがんばるしかないでしょう。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2013/09/blog-post_13.html
ピンクのちブラック、フィリピン病患者の明暗
フィリピン病患者の末路
フィリピンパブが全盛だった頃、フィリピン病患者になる 30〜40代日本人男性が多かったそうです。
2000年代前半には年齢層は拡大し、フィリピン病は退職者にまで広がりました。
2004年に米国が日本のこうした状況を「外国人女性に対する人身売買による性的搾取」と非難し、2006年には興行ビザの発給が従来比1割程度に激減。フィリピンパブは大打撃を受けたそうです。
フィリピン病患者の末路はいろいろらしい。
フィリピーナへの偏見
「フィリピンパブファンの中で、若く素朴なフィリピン女性を騙し性的関係を持とうとする日本人客が年々増加した。
その一方、日本人の優越感、外国人コンプレックス等を裏手に取り、日本人客を騙し金銭的摂取をするフィリピン女性も増え、フィリピンを嫌う日本人も徐々に多くなる。
そういった悪循環が日本社会の中でフィリピンという国に対する偏見を多く生んでいった。
また、既婚者でありながら妻と家族を捨てて、フィリピン女性と恋に落ちる日本人男性もいたのが偏見を助長した〜
Wikipediaのフィリピンパブ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%96
日本人=金持ち・スケベ・シャイ
日本に出稼ぎに来たフィリピーナにとっては、日本人=金持ち・スケベ・シャイ。
フィリピーナの家族にとっては、日本人=金を運んでくるカモ。
諸々の体験談からそうした情報は広く知られています。
フィリピンの消費者物価指数は3〜5%の上昇、GDPの伸び率は7,2%(2013年)、東南アジア諸国の中では経済成長が遅れています。
が、日本人が経済力を背景に現地で大きな顔をできるのはいつまでか…。
退職金や年金でまとまった金を自由にできる中高年も少なくなっていくでしょう。フィリピン病は時代の仇花に終わるのかもしれません。
3人目でやっと結婚
マニラ行きのジジババたち – 2002/6 浜 なつ子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E8%A1%8C%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%82%B8%E3%83%90%E3%83%90%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%B5%9C-%E3%81%AA%E3%81%A4%E5%AD%90/dp/4872336763
の第2章は一応ハッピーエンド。
「55才の時にフィリピンクラブで16才のチェリーに誘われて渡比、1ヵ月で120万円使う。
800万円の銀行預金を持って再び渡比、20才のジェシカに1ヶ月で100万円使う。
銀行に 5万ドル預けてPRAビザを取得するか、結婚ビザを取得するか迷い、日本人が経営するコンサルティング会社の紹介で 36才のシェリーと結婚」
ネギを背負ったカモ
言葉ができない、お人よし、女好き、そして金を持っている退職者。
離婚し、子供たちとも絶縁状態で心が弱っている。
700万円の預金を抱えて周囲に頼りきりのこの男性は、典型的なネギを背負ったカモ。
若いピチピチのフィリピーナとの結婚を夢見て、金を毟り取られます。
仮に結婚できたとしても、金・男・家族とのゴタゴタで離婚され追い出される可能性が大きい。
見た目より気立て♪
ラッキーだったのは、3人目の女性と不承不承ながらも結婚したこと。
子供が2人いる不美人の中年女性ですが、気立てがいいらしい。
家の残金や屋台の権利金を支払ってくれる男性を、「日本人は金があって貧乏の苦しみを癒してくれる精神安定剤」と立ててくれます。
月に11万円の年金でも、女性にとっては貴重な収入源なのでしょう。
老後は不透明
50代半ばで労働意欲がわかなくなったという気持ちは、中高年のひきこもりにもわかります。
ここまではほんのりピンクのフィリピン病患者で、とりあえずハッピーエンドです。
が、20〜30年後に11万円の年金にどれくらいの価値があるのだろう。
体力・気力が落ちる老後の生活がどうなるかはわからない。
異国の地でシェリーとの生活に閉じこもり、言葉が通じない周囲とのコミュニケーションをめんどうくさがると…。
金を持っているだけの存在
「金を持っているだけの存在となり、彼から無理やり金を引き出そうとするでしょう。
家から放り出され、路上生活者となる可能性だってあります。
それでも、本人の意識次第では、結構、気楽に生きていけるものです。
また、そういう覚悟がなければ、フィリピンのような地獄と極楽が同居する国で老後を過ごそうなどと考えてはいけない。
「物価が安いから」
「メイドが月1万円以下で雇えるから」
そんな理由だけでフィリピンに住めば、後で痛いしっぺ返しを食うでしょう(P69)」
強盗殺人なのか?
本書の第5章は在比邦人が殺され、財産もどこかに消えたバッドエンド。
「養子、結婚後すぐに離婚、神経症で定職に付かずひきこもり。
土地とアパートの売却代金5千万円を持って51才で渡比。
PRAビザ取得、フィリピン人と結婚するが1年後に別居。
自宅を含め 5戸の住宅を購入、不動産はフィリピン人名義で取得しなければならないので、いずれも妻や知人名義」
57才で殺されてジ・エンド。
PRAビザ取得時に銀行に預けた 5万ドルもいつの間にか引き出され、5千万円の財産は雲散霧消。
詐欺師の標的
フィリピンで殺された場合、犯人は検挙されない可能性が高い。
5戸の住宅は賃貸に出して生活の足しにするためと説明されていますが…。
言葉が話せず事情に疎い在比邦人の中高年男性が食い物にされたようです。
PRAビザ取得者は5万ドル(当時の為替レートで約600万円)の銀行預金があるとわかるので、詐欺師のターゲットになるそうです。
愛想はいいが醒めるのも早い
「焼き鳥屋で隣りに座った若い女の子にその場で結婚を持ちかける」
フィリピンへ行けばバラ色の老後が楽しめるとハイになっていたらしい。
見知らぬ土地で生まれ変わって、結婚して家族を養うという一人前の男性を演じたかったのかもしれません。
「愛想のいいフィリピン人は、客をもてなす大天才である。
大いに歓迎してくれるけれども、醒めるのも早い。
最初はちやほやしてくれるが、言葉もできない、冗談も言えない、フィリピン人と仲良くなろうともしない日本人は、やがて、金を持っているというだけの存在に変わっていく(P205)」
リスクは分かっているはずなのに
親の遺産で一瞬の夢を楽しめたのだから本望…ではたぶんないでしょう。
妻子に迷惑をかけるわけではなく、「税金で助けれてくれ」とも言っていない。
相続した財産をどう使おうが自由です。
ただ、この頃は既に、「フィリピーナに誘われてノコノコ渡比するリスク」は語られていたはず。
結婚といっても、金で婚姻届を買うような例がほとんど。
フィリピーナを非難するのはお門違いな気がします。
50代ならば、認知症で判断力が衰えたわけでもないでしょう。
好きにすればいいのだけれど
他人に迷惑をかけず、自己責任で行うのなら、好きにすればいいとは思います。
ただ、「人生も先行きが見え、家族ともうまくいっていない。
そんな状況で若いキュートな娘に誘われたら、男ならクラッとくるのはわかる。
破滅しない程度の火遊びなら楽しみたい」
といった肯定論もありますが、理解しにくい。
海外生活の適性が低い中高年が、場当たり的に外国へ行ってうまくいく確率は低いでしょう。「金を毟られに行くようなもの」と考えないのはなぜだろう?
フィリピンの土になる割合は?
脳細胞が桃色に変化して判断能力が低下するのか。
すべてを承知で「最後にひと花咲かせたい」と達観しているのか。
何も考えずに刹那的に生きているのか。
殺されるのは例外として、フィリピンの地でフィリピーナに看取られて亡くなる邦人はどのくらいの割合なのだろう?
生きていれば年金が受け取れるので、最後まで下の世話もしてくれるのかな。
放り出されて困窮邦人になるのかな。
夢破れて帰国するのかな。
どうも、最終的なハッピーエンドは想像しにくいです…。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2014/05/blog-post_28.html
フィリピン移住に関する考察・・・・B 2013/1/7(月) 午後 5:15
思いっきり穿った考えで移住や結婚の事について書いてみます(汗)。
まず、どうして結婚しないといけないのでしょうか?
貴方の世間体
フィリピン人配偶者やその家族の世間体
愛し合っているから、結婚するのは当然
その他の理由・・・・・・・
結婚する事を決めた経緯を振り返った時どこかに大きな勘違いが有ったような気がしませんか?
フィリピンで暮らすに当たって、フィリピン人と結婚している事に対する
日本人のメリットはなんでしょうか?
身の安全ですか?
これは、今までに起きた色々な事件で
結婚している= 身の安全の確保
には必ずしもなっていないですね?。
本当に気持ちが有れば、結婚していようがいまいが余り関係ない気がします。
色々な手続き関係の手伝いをしてもらえる事も結婚とは関係無いし通訳、その他(夜の生活も含む)でも結婚している事とは関係が無い。
フィリピン人家族の体裁・・・・
フィリピン人同士でも結婚していないで同棲しお互いの家族とも良好な関係を持って子供を儲けている人も沢山居ます。
子供の日本国籍も、別に結婚していなくても認知する事で問題無い。
愛し合っている場合でも、結婚と言う儀式を通過しなくてもその関係は継続できるし結婚しても結局その関係を継続できないケースも多々有ります。
対家族に関しても、結婚しているしていないは実質的に大きな違いは無い気がします。
となれば・・・・・極端な話し
日本人がフィリピン人と結婚して得られるメリットは相手がどんな人であれフィリピンの永住資格 13A が取れると言う事だけではないでしょうか?
まぁ、SSSやフィルヘルス等はフィリピン人配偶者のベネフィシャリーとして入る事は出来ますが大したメリットとは言えません。
それに対して、フィリピン人配偶者が得られるメリットは
日本人の配偶者として、日本へも行き易くなる
日本人の配偶者である限りその日本人名義の預貯金、固定資産(コンド等)等ありとあらえる財産の相続権(日本の財産も含む)が有る。
→フィリピン人配偶者が死亡した場合、配偶者名義の土地や建物は日本人に相続はされません。
これと言った財産が無くても、ある程度の年金が有るなら安定した生活が望める
年金額が多ければ、毎月結構良い暮らしが出来る(家族も含め)日本人配偶者が死亡した後でも、条件により遺族年金の受け取り資格も有る。
日本人の経済力で、家族親戚等に対し大きな顔ができる(家族内で権力を持つ)等々フィリピン人配偶者には沢山のメリットが有ります。
多くの場合、日本人のメリットは1つだけ
にもかかわらず・・・・・
アウェイの地と言う遠慮も有るし、言語も侭なら無い、フィリピンの法律も分らないフィリピン人の配偶者と言う滞在資格の問題等で配偶者に見放されると、基本的な生活も侭なら無い・・・・と言う事で表向きは(対外的)どうであれ実際の主権は、フィリピン人配偶者に殆ど握られている・・・・
と言うのが実状ではないでしょうか?
まぁ、それ故に
「上手く行っている、安全に暮らせる」
と言う方々もいらっしゃいますが
「本当に心からその事に不満はないですか?」
と改めて聞いてみたいです。
本当に無い!!と言う心の広い方はそれで良いと思いますし、末永くそれなりに幸せな生活も出来るでしょう。
でも、そうでは無い場合
どこかで我慢の限界、またはちょっとした事で不満が表に出た時ほんの些細なトラブルから、悲しい結果になる・・・
と言う事も考えておかなければなりません。
アウェイの地では有りますけど、二人の関係は実質的にフィフティ・フィフティに近い事が最善であると思います。
その為には、日本人もフィリピン人配偶者に頼りっきり・・・
と言う状況をなくす努力をする事です。
基本的な日常生活に関する事(移動方法等も含む)、
言葉、最低限自分に必要な手続き
最低限知っておかなければならないフィリピンの法律等に関し
放り出されても、自分で何とかできる様に常に勉強する事。
卑怯なやり方かもしれないけど放り出したければ放り出しなさい、
私は自分一人でも何とかやって行けます。
殺したければ殺しなさい、
でも、自分がそこから居なくなったら、
困るのは、貴方達だよ!・・・と言う状況も準備しておく事。
例えばお金・・・・
家や車は上げてしまっても良い、
でも日本人がいなくなれば、収入が無くなる
家や車が有っても、それを維持するのが難しい、
場合によっては食うにも困る・・・・
と言う状況を作って置く事も大事ではないでしょうか?
その為に、日本の財産を処分して大金を持ち込む・・・なんて事はしない
日本に帰る場所と当面の生活費を日本側にキープしておく
年金生活まで間が有るけど
退職金等が有る場合は、日本に預金を置き
日本の国際キャッシュカードで、ATMから必要な分ずつ小出しに出す。(当分ATMの暗証番号等は教えない)
残高も決して教えない。
年金生活の方は、年金が振り込まれる口座の管理は自分だけができるようにしておく(ATMの暗証番号等は教えない)
と同時に、こちらに余計な預金等を置かず年金だけで暮らすようにする、
遺族年金の話などはしない、
でも、どこからか聞き付けて来るだろうからその為に「結婚しない」と言う選択肢も有る・・・・・
滞在資格に於いては、最近はSRRVも条件が緩和されています。
永住する為の滞在資格は 13A だけではありません。
http://blogs.yahoo.co.jp/berning_sun/53884160.html
フィリピン移住に関する考察・・・・C 2013/1/8(火) 午後 4:33
昨日は、色々なリスクやお互いの立場から結婚しないと言う選択肢も有る・・・と書きました。でもそれは、決して結婚しない方が良いと言う事では有りません。
あくまで、そう言う選択肢も有る・・・・と言う事です。
有る方のように日本に於いて10年も20年も夫婦としての良い関係を構築し、尚且つ充分な準備をされてフィリピンに移住されている方々はほぼ問題は無いはずです。
結婚して移住するでも、移住して結婚するでもまず先にやっておかないといけないのはフィリピンの事を良く勉強しておく事です。その為には、結婚(付き合い出して)して数年と言う状況や長く付き合っていても(結婚していても)日本とフィリピンで別々に暮らしていて年に1〜2回、数日〜1週間程度の滞在をした位では不十分のはずです。
ではなぜ、そんなに簡単に移住や結婚に踏み切るのでしょうか?
勿論、本人にとっては充分考えた上での事だったと思います。
問題なのは考える為、決断する為のデータをどこから引っ張ってきたか・・・・と言う事です。
日本人の大きな勘違い
フィリピン人配偶者(彼女)は、本当に日本人を愛しているのか?
殆どの方は「当り前」と思っておられますよね?
でもそれは、多くの場合大きな勘違いです。
中流層の上、富裕層のフィリピン人と付き合うとか結婚する以外では、僕の答えは「NO」です。寂しい事は言いたくありませんが
最初は「お金=経済力」だけと思う事です。
本当に愛されている・・・なんて妄想は抱かない事です。
家族の生活安定の為に、お金を稼ぐ方法として一番楽で、ほぼ確実な方法は日本人と結婚する事です。謂わば、お金の為に日本人の配偶者と言う仕事を契約したのです。でも、決してお金の為に結婚する・・なんて事は口にはしません。
「愛しているから結婚する」とみんなが言います。
貴方を愛しています=☓or△
貴方のお金を愛しています、家族の為に・・・=○
が真実だと思った方が良いでしょうね・・・汗
ですから、その様な場合金の切れ目が縁の切れ目であってもなんらおかしく無い事です。
フィリピン人配偶者名義で家を買っても車を買っても、金を使い果たして、生活費に困る状況が近付けば離れて行くのは当然ですし、自分名義の家を処分するのも当然です。
日本人だって、自分の会社が倒産するのが確実なら誰だってその会社辞めて、次の仕事を探しますよね?
無給で、たまには自腹切ってその会社に尽くす事なんて余程の事が無いとしませんよね?
それと同じ事です。
ですから、そのような事になってしまった場合にフィリピン人だけを悪者にして騙されたの何のと言う事がおかしい・・・と言う事になります。
本当の愛情が有るからこそ、辛くても、厳しくても配偶者は一緒に居てくれます。
でも本当の愛情は、長く一緒に住んだり子供が生まれたり・・・と言う状況下でお互いの信頼関係の元、少しずつ構築されていく物です。
ただ、これも一緒に居るだけ、子供がいるだけでは足りません
日本人と、フィリピン人がほぼ対等な立場に居れる事・・・これが大事だと思います。
お金だけによって保たれているバランスは簡単に崩れます。じゅうぶんな信頼関係が構築されていない状況でも家族や親戚等が日本人に優しかったり、親切なのはその日本人が好きなのでは無くその日本人が持っているお金が目的であると考えておいた方が良いと思います。
或る方がこのような事を言っておられました
人懐っこい笑顔のフィリピン人の背中にはピストルやナイフが隠されている・・・・
私は、この言葉は名言だと感じています。
最初から自分が嫁(彼女)、フィリピンの家族にほぼ完全に受け入れられていると思って安心しない事も大事な事だと思います。
http://blogs.yahoo.co.jp/berning_sun/53886639.html
フィリピン移住に関する考察・・・・D 2013/1/9(水) 午後 5:45
さて、日本人の勘違いの続きです。
フィリピンの事はフィリピン人に聞けと良く言われます。移住の準備や移住してからフィリピンの事に関しては最初は分らない事だらけです。この分らない事だらけを解消するのに多くの方は、自分で調べようとしません。
では、必要なデータをどこから引っ張っているのか・・・・
そう、奥さん(彼女)、その家族や親戚の話からが殆どではないでしょうか?
それらのデータだけで移住を決め移住先を決め家や車の購入を決め何の疑問も持たないで生活していて移住後暫くしたある日違う場所から違うデータが入って来た
それも沢山・・・・・・
しかも、そっちの方が条件が良い・・・・・
でも今更どうにもできないし・・・・汗
しまった!と思いながらもまぁ、今の生活も悪くは無いからこれはこれで良いやと思える人はOKです。
でも、なんだよ・・・騙されたんじゃないか?
と少しでも不信感を持つ人はNG
フィリピン人は嘘吐きだ!!
と騒ぎたくなる人は大NG
もう既に長くフィリピンに関っている方ならたいてい御存知でしょうけど多くの場合フィリピン人は嘘を付いているのでは無くただ単に、
他の事例を知らない
自分の生活エリアの事だけが全てであってそれ以外の事実は無い
と思っているだけです。
例えば、家を建てるのに安全で快適な場所はどこ?と聞けば当然、多くの場合
自分が長年住んだ場所
自分の家族が住んでいる所が一番安全快適なんです。
ですから、日本人にとっても安全、快適だろうと思うしそう答えるでしょう。
物価は?と聞けば
これもそうです、マニラは高い(だろう)・・・と言う事は知っていますが
じゃぁ、ここと比べて何がどれ位高いと言う具体的な事は知りません。
でも自分の所より高い(だろう)と言う事は知っていますのでここの方が安いとなり、それも嘘ではありません。
でも・・・実際はそれほど変わりません(爆)
それに、日本人が移住して来て日本食・・・とか日本食材が要るかもしれないと言う事は余り考えていません。
要るといったらマニラまで買いに行けば良い
交通費や掛る時間等は頭に有りません。
便利性は?と聞けば
これも同じ・・・・
自分が住んでいる場所の近辺には何でも有る
でも、この何でも有るは
フィリピン人が、小さい頃から生活して来て別に不便を感じていない
一応必要なものは、品質等を考えなければ何でも揃う、病院もある・・・・
そこに住み続けてきた一般フィリピン人にとって不満は無い、便利な場所であるから日本人にとっても問題は無い・・・・・と思う。
でも、日本人にとって、最初は物珍しさで何とかなっていても暫くすれば、不満が出てくる・・・・
でもそれは、フィリピン人が嘘を言った訳ではない。
車が有れば20分でマカティまで行けるよ
ちょっと郊外に住めば不便かもしれないけど車で20分ならまぁ良いか・・・・で車購入
でも・・・・・・実際走ってみると大渋滞で1時間も2時間も掛る・・・・・汗
イライラする人も居ますよね?
しかしこれも、渋滞が無い早朝とかなら本当に20分で行けるのだから嘘じゃないんですよね(苦笑)
実際僕も昔、何回も酷い目に遭いました(笑)
ここから1時間ちょっと位だから・・・と言われて付いて行ったら4時間掛ったとか5時間掛ったとか・・・汗
私の友人は、彼女の家に行く時に2時間半〜3時間と言われて一緒に行ったら7時間掛った・・・・・
なんて言うのも有ります。(爆)
これらの事も、嘘を言っているのとは違います。
渋滞がなければ、本当にそれ位+1時間位で行けるのですから。
色々な手続きや法律問題に関してもそうです。
自分の身の回りで必要な事すらきちんと知らない人が多いのです。
かなりいい加減、内容不足、はたまた全くデタラメな情報でも、それが本当だと信じているから聞かれたらその様に答えるだけで別に嘘を付いている訳ではない・・・・と言う事です。
もし、自分で調べて確認したりする事も無く自分で勉強もせずに鵜呑みにしていただけなら何か違った事が有った場合フィリピン人に騙された!!等と言ってはいけないのです。
でも、多くの日本人は何か不都合が有ると直ぐフィリピン人に騙されたと言います、フィリピン人は嘘吐きだと言います、フィリピン人はバカだと言います。
でもそれは、大きな勘違いで
本当は自分がバカだったと、自分を責めるべきですよね?・・・・・(汗)
http://blogs.yahoo.co.jp/berning_sun/53889049.html
4. 中川隆[-12904] koaQ7Jey 2019年1月18日 12:41:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
ピンクのちブラック、フィリピン病患者の明暗
フィリピン病患者の末路
フィリピンパブが全盛だった頃、フィリピン病患者になる 30〜40代日本人男性が多かったそうです。
2000年代前半には年齢層は拡大し、フィリピン病は退職者にまで広がりました。
2004年に米国が日本のこうした状況を「外国人女性に対する人身売買による性的搾取」と非難し、2006年には興行ビザの発給が従来比1割程度に激減。フィリピンパブは大打撃を受けたそうです。
フィリピン病患者の末路はいろいろらしい。
フィリピーナへの偏見
「フィリピンパブファンの中で、若く素朴なフィリピン女性を騙し性的関係を持とうとする日本人客が年々増加した。
その一方、日本人の優越感、外国人コンプレックス等を裏手に取り、日本人客を騙し金銭的摂取をするフィリピン女性も増え、フィリピンを嫌う日本人も徐々に多くなる。
そういった悪循環が日本社会の中でフィリピンという国に対する偏見を多く生んでいった。
また、既婚者でありながら妻と家族を捨てて、フィリピン女性と恋に落ちる日本人男性もいたのが偏見を助長した〜
Wikipediaのフィリピンパブ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%96
日本人=金持ち・スケベ・シャイ
日本に出稼ぎに来たフィリピーナにとっては、日本人=金持ち・スケベ・シャイ。
フィリピーナの家族にとっては、日本人=金を運んでくるカモ。
諸々の体験談からそうした情報は広く知られています。
フィリピンの消費者物価指数は3〜5%の上昇、GDPの伸び率は7,2%(2013年)、東南アジア諸国の中では経済成長が遅れています。
が、日本人が経済力を背景に現地で大きな顔をできるのはいつまでか…。
退職金や年金でまとまった金を自由にできる中高年も少なくなっていくでしょう。フィリピン病は時代の仇花に終わるのかもしれません。
3人目でやっと結婚
マニラ行きのジジババたち – 2002/6 浜 なつ子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%83%A9%E8%A1%8C%E3%81%8D%E3%81%AE%E3%82%B8%E3%82%B8%E3%83%90%E3%83%90%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%B5%9C-%E3%81%AA%E3%81%A4%E5%AD%90/dp/4872336763
の第2章は一応ハッピーエンド。
「55才の時にフィリピンクラブで16才のチェリーに誘われて渡比、1ヵ月で120万円使う。
800万円の銀行預金を持って再び渡比、20才のジェシカに1ヶ月で100万円使う。
銀行に 5万ドル預けてPRAビザを取得するか、結婚ビザを取得するか迷い、日本人が経営するコンサルティング会社の紹介で 36才のシェリーと結婚」
ネギを背負ったカモ
言葉ができない、お人よし、女好き、そして金を持っている退職者。
離婚し、子供たちとも絶縁状態で心が弱っている。
700万円の預金を抱えて周囲に頼りきりのこの男性は、典型的なネギを背負ったカモ。
若いピチピチのフィリピーナとの結婚を夢見て、金を毟り取られます。
仮に結婚できたとしても、金・男・家族とのゴタゴタで離婚され追い出される可能性が大きい。
見た目より気立て♪
ラッキーだったのは、3人目の女性と不承不承ながらも結婚したこと。
子供が2人いる不美人の中年女性ですが、気立てがいいらしい。
家の残金や屋台の権利金を支払ってくれる男性を、「日本人は金があって貧乏の苦しみを癒してくれる精神安定剤」と立ててくれます。
月に11万円の年金でも、女性にとっては貴重な収入源なのでしょう。
老後は不透明
50代半ばで労働意欲がわかなくなったという気持ちは、中高年のひきこもりにもわかります。
ここまではほんのりピンクのフィリピン病患者で、とりあえずハッピーエンドです。
が、20〜30年後に11万円の年金にどれくらいの価値があるのだろう。
体力・気力が落ちる老後の生活がどうなるかはわからない。
異国の地でシェリーとの生活に閉じこもり、言葉が通じない周囲とのコミュニケーションをめんどうくさがると…。
金を持っているだけの存在
「金を持っているだけの存在となり、彼から無理やり金を引き出そうとするでしょう。
家から放り出され、路上生活者となる可能性だってあります。
それでも、本人の意識次第では、結構、気楽に生きていけるものです。
また、そういう覚悟がなければ、フィリピンのような地獄と極楽が同居する国で老後を過ごそうなどと考えてはいけない。
「物価が安いから」
「メイドが月1万円以下で雇えるから」
そんな理由だけでフィリピンに住めば、後で痛いしっぺ返しを食うでしょう(P69)」
強盗殺人なのか?
本書の第5章は在比邦人が殺され、財産もどこかに消えたバッドエンド。
「養子、結婚後すぐに離婚、神経症で定職に付かずひきこもり。
土地とアパートの売却代金5千万円を持って51才で渡比。
PRAビザ取得、フィリピン人と結婚するが1年後に別居。
自宅を含め 5戸の住宅を購入、不動産はフィリピン人名義で取得しなければならないので、いずれも妻や知人名義」
57才で殺されてジ・エンド。
PRAビザ取得時に銀行に預けた 5万ドルもいつの間にか引き出され、5千万円の財産は雲散霧消。
詐欺師の標的
フィリピンで殺された場合、犯人は検挙されない可能性が高い。
5戸の住宅は賃貸に出して生活の足しにするためと説明されていますが…。
言葉が話せず事情に疎い在比邦人の中高年男性が食い物にされたようです。
PRAビザ取得者は5万ドル(当時の為替レートで約600万円)の銀行預金があるとわかるので、詐欺師のターゲットになるそうです。
愛想はいいが醒めるのも早い
「焼き鳥屋で隣りに座った若い女の子にその場で結婚を持ちかける」
フィリピンへ行けばバラ色の老後が楽しめるとハイになっていたらしい。
見知らぬ土地で生まれ変わって、結婚して家族を養うという一人前の男性を演じたかったのかもしれません。
「愛想のいいフィリピン人は、客をもてなす大天才である。
大いに歓迎してくれるけれども、醒めるのも早い。
最初はちやほやしてくれるが、言葉もできない、冗談も言えない、フィリピン人と仲良くなろうともしない日本人は、やがて、金を持っているというだけの存在に変わっていく(P205)」
リスクは分かっているはずなのに
親の遺産で一瞬の夢を楽しめたのだから本望…ではたぶんないでしょう。
妻子に迷惑をかけるわけではなく、「税金で助けれてくれ」とも言っていない。
相続した財産をどう使おうが自由です。
ただ、この頃は既に、「フィリピーナに誘われてノコノコ渡比するリスク」は語られていたはず。
結婚といっても、金で婚姻届を買うような例がほとんど。
フィリピーナを非難するのはお門違いな気がします。
50代ならば、認知症で判断力が衰えたわけでもないでしょう。
好きにすればいいのだけれど
他人に迷惑をかけず、自己責任で行うのなら、好きにすればいいとは思います。
ただ、「人生も先行きが見え、家族ともうまくいっていない。
そんな状況で若いキュートな娘に誘われたら、男ならクラッとくるのはわかる。
破滅しない程度の火遊びなら楽しみたい」
といった肯定論もありますが、理解しにくい。
海外生活の適性が低い中高年が、場当たり的に外国へ行ってうまくいく確率は低いでしょう。「金を毟られに行くようなもの」と考えないのはなぜだろう?
フィリピンの土になる割合は?
脳細胞が桃色に変化して判断能力が低下するのか。
すべてを承知で「最後にひと花咲かせたい」と達観しているのか。
何も考えずに刹那的に生きているのか。
殺されるのは例外として、フィリピンの地でフィリピーナに看取られて亡くなる邦人はどのくらいの割合なのだろう?
生きていれば年金が受け取れるので、最後まで下の世話もしてくれるのかな。
放り出されて困窮邦人になるのかな。
夢破れて帰国するのかな。
どうも、最終的なハッピーエンドは想像しにくいです…。
http://nojob-thrift.blogspot.jp/2014/05/blog-post_28.html
5. 中川隆[-12903] koaQ7Jey 2019年1月18日 12:44:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
身ぐるみ剥がれた日本人は「海外リタイア生活」の最期に何を見たのか?=鈴木傾城 2017年6月27日
http://www.mag2.com/p/money/250304
今すぐに会社を辞めて、一生のんびりと暮らしたい。だが完全にリタイアする金はない。そんな人が選ぶのが、物価の安い東南アジアでの暮らしだ。
現地の流儀で野垂れ死ぬ覚悟はあるか? 東南アジア逃避行の現実
「今すぐ会社を辞めたい」人たち
少子高齢化に苦しめられている日本政府は、定年を60歳から65歳に延長することを義務づけた定年延長義務化法を2013年4月から始めている。
これによって労働者は段階的に65歳が定年になっていき、65歳の定年後に年金生活に入ることになる。
しかし、誰もが65歳まで働きたいわけではない。それどころか、30代でも40代でも50代でも、今すぐに会社を辞めて一生のんびりと暮らしたいと考えている人も多い。
実際にそれを実行する人もいる。こうした人たちをアーリーリタイア組と呼ぶ。アーリーリタイアというのは「早期退職」という意味だが、働かないで暮らすというのは多くの人たちの垂涎の的になる。
人々がアーリーリタイア組を羨ましいと思っても、自分がそれを実行できないのは、「リタイアする金がない」ということに尽きる。
2017年5月16日に総務省が発表した「家計調査報告」で、二人以上の世帯における平均貯蓄在高の中央値は1064万円だ。アーリーリタイアするには無収入を補う資産が必要だが、一生を支えようと思ったら1064万円くらいでは話にならない。
年間300万円で生活するにしても、3年と少しで消えてしまう金額である。アーリーリタイアするというのは並大抵なことではない。
いくらあれば「アーリーリタイア」できるのか?
いくらあればアーリーリタイアできるのかは人によって違う。自分が今何歳なのか、家族がいるのか、リタイア後にどんな生活をしたいのかで、まったく違ってくる。
30代や40代でアーリーリタイアするとなれば、人生40年から50年を支えなければならないので貯めなければならない額は相当なものになる。
ただ年間300万円程度の生活を延々と続けるのであれば、1億円程度あれば何歳でアーリーリタイアしても問題ないと一般的には言える。
なぜなら、1億円を配当金3%以上で回していれば年300万円以上になるからである。贅沢しなければ配当だけで生活できる。仮に取り崩して生きるとしても、33年は生きられる。
しかし30代や40代で1億円を持っている人はほとんどいない。外資系で働いて有能で高給だったとか、FXや株式の投機で当てたとか、親の遺産が入ったとか、よほどのことがない限り、普通では貯められない。普通であれば、1億円どころか5000万円でも難しい。
もう1つの選択「東南アジア暮らし」
それでも、やり方によってはアーリーリタイアすることはできる。どうするのかというと、完全にリタイアするのではなくセミ・リタイアするのである。
セミ・リタイアとは週に数日働いて年間100万円程度の稼ぎを得ながら貯金や配当で生きる暮らしだ。1億円以下のアーリーリタイアは、ほとんどがこのセミ・リタイアとなる。
つまり100万円程度の収入のアルバイトと貯金の取り崩しで何とかしようというのがセミ・リタイアのあり方である。
それと同時に、さらにもっと生活費を削減する方法はないのかと考える人もいる。
方法はないこともない。たとえば、アーリーリタイアして物価の安い国で暮らせば、少ない資産でも帳尻が合うと考える人も多い。実際、東南アジアにはそうしたアーリーリタイア組がたくさんいる。
「仕事もしないでのんびり暮らす」ことの、本当の怖さ
東南アジアでは、1000万円や2000万円程度の貯えでアーリーリタイアする人たちも多い。タイでもフィリピンでも、そうした人たちが大勢いる。しかし、ほとんどが10年どころかほんの数年ももたないことがよく知られている。
アーリーリタイアは表面的には幸せに見えるのだが、資金が足りないアーリーリタイアの場合、精神的にどんどん追い込まれていくのである。特に海外アーリーリタイア組はそうだ。
仕事もしないでのんびり暮らしているのに、いったい何が問題なのか。
すべてのアーリーリタイア組に言えるのは、貯金を取り崩して生きることに対する底なしの不安感や焦燥感である。
働かない人間にとって貯金はとても大切なものだが、アーリーリタイアすると、その貯金がどんどん切り崩されて減っていくだけになるのである。
明るく豊かな未来に向かうのではなく、暗く欠乏の未来に向かっているのが減っていく預金額で明確に見える。働いていないのだから増えることはない。だから消費が恐怖になり、不安となっていくのだ。
「リタイア地獄」に嵌る日本人たち
さらに東南アジアはもう戦乱の地ではなくなっており、グローバル経済に取り込まれてインフレも進む。
年間100万円で何とかなると思っても、インフレが進むとそうは言っていられなくなってしまう。為替が少し円安に振れてもダメージを受ける。東南アジアでのアーリーリタイアも、想定以上の金がかかるようになっている。
しかし、異国の地で少し働くと言っても現地の言葉もしゃべれず、文字も読めないのでは大した仕事があるわけではない。アーリーリタイア組は人脈もないので尚さらだ。
そんなところで病気になったりホームシックになったりすると、しばしば日本に戻ることになるはずだが、それにも金がかかる。文化の違いや望郷の念も時間が経つごとに深まる。そういった問題がすべて同時並行で襲いかかってくる。
だから、東南アジアにいるアーリーリタイア組の多くは精神的にボロボロになって日本に戻ることになる。「仕事もしないでのんびり暮らす」は地獄になってしまうのだ。
「FXで稼ぎながらのタイ暮らし」に挑んだ男の末路
2000年の半ば頃、「タイで外こもりをしよう」と煽っていた人物がいた。外こもりに関しての著書も出していた人物だ。
外こもりというのは「国外で引きこもり生活をする」という意味なのだが、これもアーリーリタイアの一種と言える。
この人も充分な資産があったわけではないのだが、自己資金でFX(外国為替証拠金取引)を行いながら、タイで暮らす金を稼ぐというのがこの人のアイデアだった。
FXみたいなバクチで生計を成り立たそうというのだから大したアイデアだが、この人はタイで暮らす他人の金までFXで運用して吹き飛ばして、怒り狂った2人の男に殺された。
アーリーリタイアして「東南アジアで暮らしながらFXで金を稼ぐ」というアイデアは多くの働きたくない30代、40代を惹きつけたが、そのほとんどは成功していない。
FXはレバレッジを使ってトレードするのが普通なので、思惑が外れるとレバレッジ分が飛んでいく。そのため、資金は急激に減少してリタイア計画は破綻する。
身ぐるみ剥がされる「困窮邦人」
破綻と言えば、「困窮邦人」という言葉が2011年以後、広がるようになっている。この困窮邦人の中には、アーリーリタイアに失敗した人の数も少なくない。
2011年7月7日の朝日新聞は、現地の妻に現金も貴金属もすべて持ち逃げされ、不動産は借金の担保として入れられて取られた49歳のアーリーリタイアした日本人男性を取り上げていた。
彼は充分な資産があったが、何もしないうちにフィリピン妻に一切合切を持ち去られてしまったのだ。
彼のように現地の妻にすべてを持ち逃げされたり、殺されたりするアーリーリタイア組はいくらでもいる。一文無しになって困窮して日本にも帰れずに大使館に救援される。場合によってはフィリピン人の妻から大使館の前に置き去りにされる。
“No Money No Honey”(金の切れ目が縁の切れ目)
それは、東南アジアのアーリーリタイア組にとって、誰でも他人事ではない話である。
「稼ぐのを止める」のは、許されない贅沢と知れ
充分な資産と入念な計画がないのにアーリーリタイアに入ってしまう人は、次々と破綻していく人たちの姿をよく観察し、分析した方がいい。
資本主義の社会の中で「稼ぐのを止める」というのは、よほどの資産がない限りは許されない贅沢であると考えるべきだ。アーリーリタイアが許されるのは、だいたい以下の3点に当てはまる人ではないか。
(1)使い切れないほどの莫大な資産を所有する人。
(2)資産を減らさずに不労所得で生きられる人。
(3)寿命から逆算して緻密な収支計画が立てられる人。
自分がそのどれかに当てはまっていないのであれば、どれかに当てはまるように資産構築を行っておかなければならない。資産が少ない中でアーリーリタイアをすればするほど、ちょっとしたことで人生計画が破綻する。
東南アジアの物価が安いからと言って、少ない資産でアーリーリタイアをしても、想定外は次々と襲いかかってくると思って間違いない。
地獄の沙汰も金次第、身も蓋もない現実
人生は常に波瀾万丈である。決して順風満帆ではないのだ。
今後、インフレが来たらどうするのか。貯金を取り崩すだけの生活でも幸せを感じることができるのか。金がないからと言って無謀なビジネスやバクチにのめりこまない自己統制力は備わっているのか。
裏を持った人間を見抜く力があるのか。現地では大した仕事もできないという認識はあるのか。ホームシックに耐えられるのか。病気になっても日本並みの医療を要求しないで生きていけるのか……。
すべてに問題ないと言える人は優秀な人だ。若干問題があると考える人は、アーリーリタイアするよりも、むしろ今よりもさらに働いて資産形成に励む方が現実的だ。
当たり前の話だが、アーリーリタイアを成功させるには資産が多ければ多いほどいい。身も蓋もないが、それが現実だ。
6. 中川隆[-12902] koaQ7Jey 2019年1月18日 12:44:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
フィリピンでは高齢の日本人男性が片っ端から殺されている
国外では治安が悪い国が多いのだが、東南アジアもまた治安が悪い国としてタイやフィリピンがよく上げられる。
特にフィリピンは銃が野放しになっており、警察の汚職もひどいこともあって治安の悪さは東南アジアでも格別だ。
(フィリピン麻薬戦争。これが現場の血まみれ殺害光景だ)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20160831T0111310900.html
フィリピンの治安の悪さは、このドラッグ戦争だけではなく、フィリピン南部ミンダナオ島に巣食うイスラム過激派組織であるアブ・サヤフがドイツ人を拉致して斬首するという事件を起こしていることでもクローズアップされている。
ミンダナオ島とその周辺に広がる広大なジャングルの中に、イスラム過激派組織アブ・サヤフは今も潜んでいる。
(アブ・サヤフ(1)。誘拐ビジネスに邁進する狂気のテロ組織)
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20130921T0106430900.html
彼らは外国人を拉致して身代金を要求するという「誘拐ビジネス」に邁進して止まらない。フィリピンは他にも「モロ民族解放戦線」などのテロ組織も壊滅できていない。
旅人もまた安全ではない。歓楽街をウロウロしているのであれば、なおさらだ。
この他にも、フィリピンでは高齢の日本人男性が片っ端から殺されているのだが、その多くはフィリピン妻と結婚して、金目当てで妻に殺されるものである。
フィリピンは治安の面から見ると、なかなかハードな国であるとは言える。
しかし、こうした国外の治安の悪さを語るとき、いつも必ず出てくるのは
「自分は何年もフィリピンに通っているが何の問題もない」
「別にフィリピンは怖くない」
というものだ。
フィリピンにハマった男たちは10回以上も渡航したり、住み着いたりしている。
それで死んでいないのだから、「フィリピンは治安が悪いというのは大袈裟だ」と言う人が出てきたとしても不思議ではない。
国外では治安が悪い国が多いのだが、東南アジアもまた治安が悪い国としてタイやフィリピンがよく上げられる。特にフィリピンは銃が野放しになっており、警察の汚職もひどいこともあって治安の悪さは東南アジアでも格別だ。
無警戒でも生き残り、注意をして殺されるのが運
しかし、自分が死ななかったから安全だという話にはならない。「殺される人は殺されるのだが、そうでない人はそうでない」という確率が作用しているだけだ。
治安の悪い国でも治安の良い場所があり、本人の注意深さや環境によって、最大限の治安を確保することもできるので、一様にフィリピンだから死ぬとは言えない。
ちなみに、夜中に街をウロウロするような人間は、事件に巻き込まれる確率が高いのは言うまでもない。
私は真夜中をさまよい歩いていた関係上、金を盗まれたとか、脅されたとか、物を盗まれたというのは、もう数え切れないほどあって我ながら呆れるほどだ。
タイの歓楽街の女たちは気づかない間にポケットの財布を抜き取るし、知り合った女性が朝になって帰ったら後でいろんなものがなくなったりしているのに気付くこともある。
スラムも安全ではなく、特に真夜中の街をうろうろ歩いていると、銃からナイフまでいろんなものを突きつけられて脅し取られた。特にインドの治安の悪さには泣かされた。
それでも何とかなっているのは、財布に入れているのは見せ金だけだし、ポケットには常に金を分散して入れて、どれか1つを盗まれても問題ないようにしているからだ。
仮にすべてを盗まれても、部屋にも分散して隠しているから、まったく痛手にならない。
(信用できない宿に泊まる旅人は、現金をどう隠しているのか?)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20121227T0344440900.html
要するに私は盗まれる前提で旅をしているので、それだから何回盗まれても致命傷にならない。どのみち盗まれなくても、蕩尽してなくなってしまうものだから、たかがしれている。
命さえ助かっていれば、あとは何とかなるように準備しているので、それでダメだったら何をしてもダメだったということなのだろう。
あとは、運が良いか悪いかで人生が決まる。
ただ、この「運」というのは、本当に厄介なものだ。それこそ、まったくの無警戒で、半分酔っ払って歓楽街を歩いていても、運が良い人には何も起きない。
反面、どんなに警戒し、周りに気を配り、神経を尖らせていても、運が悪ければ犯罪に巻き込まれる。
アブ・サヤフに拉致された外国人。どんなに警戒し、周りに気を配り、神経を尖らせていても、運が悪ければ何かに巻き込まれる。
人間の運命は、どうなるのか分からないものだ
フィリピンやタイでは多くのビーチ・リゾートがある関係で、世界中から観光客がやってきてダイビングを楽しんでいる。そして、よく死亡事故が起きている。
ダイビングは意外に危険なスポーツで、潜水で身体の調子が急変したり、岩や珊瑚でケガをしたり、潮に流されたり、酸素ボンベが壊れたり、迷ったり、サメに襲われたり、いろんな事故が起きて、プロでも下手すれば死んでしまう。
最近もセブで白人が死んでいたりするのだが、どんなに注意しても不運に見舞われると助からない。まったく本人に責任はないことも多い。
こういったものは突発的な事故なのだから、事前の鋭い観察など何の役にも立たない。予知できないものに巻き込まれて、それが人生の終わりになってしまうのである。
こういった「不運」から逃れようと、昔の人は善行を積むとか、神に祈るとか、その類いの何かにすがっていたが、合理的に考えれば無駄だ。何をしても世の中の偶発性から逃れることはできない。
自分に降りかかるすべての現象は、突発的に起きるものだから、変えることはできない。
どんなに治安が良くて、安全な場所にいたとしても、巨大地震が来て津波に飲み込まれて死んでしまうこともある。逆に治安が悪い場所にいてもかすり傷ひとつ負わない人も多い。
日本にいても、タイにいても、フィリピンにいても、巻き込まれる人は巻き込まれるし、何もない人はどこにいても何もない。それが運・不運であると言える。
だから、フィリピンがどんどん治安が悪くなっているとしても、フィリピンに行って必ず殺されるとも限らないし、犯罪に巻き込まれるとも限らない。
セブのリゾートで、青い空と白い砂浜の中で楽しく過ごして、「フィリピンは全然危険じゃなかった」と言うこともできる。
しかし言うまでもないが、それは自分が運が良かったという証明であり、フィリピンが安全だという証明にはならない。
フィリピンは治安が悪いが、絶対に殺されるわけではない。しかし、運が悪ければリゾート地でアブ・サヤフに拉致されて斬首されるという運命もある。
人間の運命は、どうなるのか分からないものだ。最大限に注意して、あとは自分の運を試すしかない。フィリピンに関わっている男たちはみんなそう思っているのではないだろうか。
フィリピンはとても美しいビーチ・リゾートがある。フィリピンは治安が悪いが、絶対に殺されるわけではない。しかし、運が悪ければリゾート地でアブ・サヤフに拉致されて斬首されるという運命もある。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170325T0252070900.html
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「殺し屋」という職業
世界には数多くの職業があるのだが、途上国には当たり前にあって、日本にはほとんどない職業を思い付く人はいるだろうか。「殺し屋」もそのひとつだ。
信じられないかもしれないが、欧米も含めて日本以外の多くの国では本当に映画さながらの「殺し屋」が職業として存在しているし、それを知らない人はいない。
日本人にとって、その存在はフィクションでしかないのだが、世界では現実なのである。それこそ、タイやフィリピンでも「殺し屋」という職業は普通に存在して、たかだか10万円や20万円で仕事を請け負っている。
フィリピンでは、しばしば日本人が路上で撃ち殺されているが、その多くはフィリピン妻に雇われたプロの殺し屋の仕業であるというのは、フィリピンの裏事情をよく知っている人なら常識だ。
最近、コロンビアで日本人の学生が路上で射殺される事件もあったが、かつてのコロンビアは現在のメキシコのようにドラッグ・カルテルがライバルを潰すために、殺し屋を雇って相手を殺しまくってきた。殺し屋はどこにでもいるのである。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20161123T0050060900.html
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マニラで山梨の男性を殺害した疑い 4人逮捕
https://www.youtube.com/watch?v=Ol5lanK_boA
2016-05-13
なぜフィリピンで保険金殺人が多いか考えたことがあるか?
2014年10月18日深夜、フィリピンのマニラ首都圏ラスピニャス市の路上で、32歳の日本人が射殺された事件があった。
殺されたのは山梨県韮崎市で整骨院を経営する鳥羽信介氏で、タクシーの後部座席に乗っているとき、背後からやってきたバイクの男に銃撃されて死亡した。
実はこのとき一緒に乗っていた男がいた。この男の名前は菊池正幸と言った。殺された鳥羽信介氏は、このタクシーに乗る前に何人かの日本人と会食をして、その後に菊池正幸と一緒にタクシーに乗っていた。
その途上、菊池正幸は「トイレに行きたい」と言い出して車を途中で止めたのだが、菊池正幸が車から出た後に銃撃があって鳥羽信介だけが死ぬことになった。菊池正幸は銃撃があった後に現場から立ち去っていなくなっていた。
奇妙な事件だったが、鳥羽信介は強盗に殺されたのではなく、フィリピンに巣食う怪しい日本人に取り込まれていたというのは薄々と感じ取られた。
何があったのかは2015年3月に、その一端が明らかになった。日本に戻っていた菊池正幸が山梨県警に出頭し、「保険金目当ての殺害計画が存在した」と洗いざらい語ったのである。
殺された鳥羽信介は、本人が知らない間に複数の企業から保険金がかけられていた。
知り合いの得体の知れない話にのった鳥羽信介
かけられた保険は海外旅行保険である。その保険金の受取人になったのは、中村達也という男が経営する会社だった。鳥羽信介が「仕事」でフィリピンに来ていたときに、行動を共にしたのがこの中村達也という男だった。
鳥羽信介は山梨県韮崎市で接骨院を経営していたが、この接骨院に患者としてやってきた男がいた。それが岩間俊彦だ。
鳥羽信介はこの岩間俊彦と次第に親しく付き合うようになって、やがて儲け話を持ちかけられたという。
持ちかけられたのは「水を販売する事業の販路拡大」という得体の知れないものだった。この「仕事」の話には複数の日本人が関わったのだが、この日本人とは、久保田正一、菊池正幸、そして中村達也だった。
つまり、岩間俊彦という男が考えた儲け話に鳥羽信介含めた4人の男が乗ったということになる。そして、鳥羽信介は数百万を出資したのだが、それからこの話は進まなくなり、うやむやになっていったようだ。
鳥羽信介はここでおかしいと気付くべきだったが、すでに金を賭けている関係上、さらに深入りして怪しい男たちとフィリピンに向かった。
そして、2014年10月18日深夜に銃撃されてしまったのである。
しかし、鳥羽信介は即死ではなかった。病院では死ぬ前にしきりとひとりの男の名前を言っていた。それが「岩間俊彦」だった。黒幕は岩間俊彦だと死ぬ前に言っていたのである。
ところが、この事件の全容はなかなか解明しなかった。鳥羽信介を殺したのがプロの殺し屋で足が辿れない上に、殺されたのが日本人でフィリピン警察にはその背後関係を洗うのに苦心していたようだ。
そんなところに、2015年3月になって菊池正幸が山梨県警に出頭し、「保険金目当ての殺害計画が存在した」とぶちまけたので事件のおおよその全貌が見えてきた。
殺された鳥羽信介氏。胡散臭いビジネスを持ちかけられ、それに乗ってしまって最悪の結果を招いてしまった。
なぜフィリピンで保険金殺人が多いのかを知れ
岩間俊彦という男が、儲け話を鳥羽信介に持ちかけて出資金を詐取した。鳥羽信介がうやむやになっていく話に業を煮やして岩間俊彦に詰め寄るようになった。
そこで、岩間俊彦は今度は鳥羽信介をフィリピンにおびき寄せて殺すことにしたのだが、ただで殺しても金にならないので旅行保険をかけて殺すことにした。
それが事件のあらましだったのだろう。
しかし、旅行保険の受取人を自分にしたら自分が逮捕されるに決まっているので、受け取りを中村達也という男にした。岩間俊彦はこの男も儲け話で釣っていたようだ。
1億円に及ぶ海外旅行保険の受取人になった中村達也だが、当然のことながら中村達也が容疑者として警察に疑われる。
自分が犯人にされると思って焦った中村達也は話し合いを持ちにフィリピンに向かったようだ。ところが今度は、その中村達也が2015年9月1日の早朝にラスピニャス市の路上で撃ち殺されているのが発見された。
鳥羽信介が殺されたのもラスピニャス市、中村達也が殺されたのもラスピニャス市。中村達也が殺される前に会っていたのは久保田正一というフィリピン在住12年になる男である。
この男は岩間俊彦の高校の同級生で、元妻がスパン・ピンゴル・サリーというフィリピン女性だった。
そのため、鳥羽信介と中村達也を殺したプロの殺人者を現地で手配して、実際に殺害を実行させたのが久保田正一とスパン・ピンゴル・サリーであると見られている。
こうした事件の中で、山梨県警は証拠と裏付けを取るために動いていたが、2016年5月11日、やっと岩間俊彦、菊池正幸、久保田正一、スパン・ピンゴル・サリーを逮捕する方針を固めたようだ。
胡散臭い儲け話、保険金殺人、殺し屋……。
いかにもフィリピンを舞台にした殺人事件に相応しいお膳立てになっているのが分かるはずだ。ところで、なぜフィリピンで保険金殺人が多いか考えたことがあるだろうか。
それは言うまでもない。殺し屋が安く簡単に雇えて「殺しやすい」からである。
事件に関わった男たち。胡散臭い儲け話、保険金殺人、殺し屋……。いかにもフィリピンを舞台にした殺人事件に相応しいお膳立てになっているのが分かるはずだ。
胡散臭い人間が持ちかけるビジネスの結末はひとつ
胡散臭い儲け話は、たまたま知り合って意気投合した人間から、降って湧いたように持ちかけられる。
鳥羽信介氏が持ちかけられた「水を販売する事業」は、実は東南アジアや台湾を含めた儲け話としてしばしば話題にのぼるものである。他にもタイやマレーシアでは「うなぎの稚魚の輸出」だとか「エビの養殖」が絡むことも多い。
「絶対儲かるから出資しないか?」というのが殺し文句だ。
東南アジアに沈没していたら、このような話以外にも「パスポートを転売しないか?」という話を持ちかけられたりすることもある。私も歓楽街パッポンの女性にそういった話を持ちかけられたことがあった。
あと、パタヤでは「ルビーを日本人に売りつけたいのだが、一緒に組まないか」とバーのレディーボーイに言われたこともあった。ルビーはもちろん偽物だったはずだ。
フィリピンでは「M資金」や「マル福金貨」にまつわる詐欺もある。
(あなたが「マル福金貨」を見つけたなら、10億円が手に入る)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120409T2320190900.html
インドでは売春宿のオーナーに「旅行している日本女性を連れて来てくれないか。謝礼は出す」と言われて人身売買を持ちかけられたこともある。
(「日本の女を売ってくれ」人身売買することを薦められた日)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120525T1737450900.html
ドラッグの転売や密輸もよくある話で、こういったのに手を出して自殺したのがインドネシアで自殺した森田裕貴だった。
(森田裕貴。ドラッグで禁固19年の刑、獄中で首を吊って自殺)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20151029T0433360900.html
密輸と言えば、変わったところでは希少種の小動物を密輸するというものもある。
(トカゲや猿を10匹売れば、1年は遊んで暮らせる金額になる)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20121110T2106570900.html
「外こもりしていてもFXで儲けたら遊んで暮らせる」と言ってタイで資金運用を任され、失敗して殺されたのは棚橋貴秀という男だった。
(タイ邦人殺人の顛末。殺された棚橋貴秀氏、そして森宏年と浦上剛志)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20110612T1837000900.html
アンダーグラウンドに巣食っていたら、いろんな人間がいろんなパターンであれこれ儲け話を持ってくる。
こうした儲け話はその多くがリスクを伴うものであり、しかも「まず最初に自分が出資しなければならない」ところにワナがある。
胡散臭い人間が持ちかけるビジネスに乗って、誠実な結果が返ってくるはずがない。関わったら結果はひとつ、それは自分の破滅である。下手すれば自分の命が飛ぶ。
あなたは、大丈夫だろうか?
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160513T0237450900.html
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日本人の高齢者が現地で殺される事件があると、だいたいは内縁の妻が関わっているというのは、国外では常識になっており、特にその傾向が高いのはフィリピンだ。
2013年12月29日はフィリピンのカビテ州ダスマリニャス市で61歳の日本人男性、新倉英雄氏が殺害されるという事件があった。路上で射殺されて殺されていた。
この事件はフィリピンパブで知り合った妻メルリンダが殺し屋を雇って殺させたことが後に発覚しているのだが、その値段が約22万円だった。
(新倉英雄のフィリピン妻は22万円で殺し屋に殺害依頼した)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20140126T0450590900.html
日本人の高齢者は自分が信じていた最も親しい女性に、安い値段で殺されていくのである。若い女性は別に依頼殺人のような面倒なことはしない。金を持ち逃げして、あっさりと行方をくらませていなくなるだけだ。
しかし、30代や40代になると、日本人の高齢男性が持っている資産を根こそぎ奪うことを考えるので、最初から殺すことを考えて、じわじわと計画を進めていく。
タイでは2014年9月21日に、79歳の日本人男性である島戸義則氏が行方不明になって、後にバラバラ死体で発見されるという事件があった。
(タイで殺された日本人の、バラバラ遺体が発見された現場)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20141126T0243190900.html
この女性、ポンチャヌック・チャイヤッパなどは、まさにそのようなタイプだろう。
日本人の高齢者が東南アジアで一回りも二回りも歳の若い現地の女性と知り合って一緒に暮らすというのは、いろいろなワナがあるということをこれらの事件は示している。
アントン県の事件現場。アントン県はアユタヤ近郊で、バンコクからもそう遠くない。
殺された兵庫県出身の吉岡和雄氏。1996年にリタイアし、退職金をもらってタイに移住、日本とタイを行き来しながら内縁の妻ポラニー・ナパドルと暮らしていた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20151212T0213350900.html
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報道(比で転落:困窮邦人)
今、多くの日本人がフィリピンに亘り、お金をフィリピン人に取られ、捨てられる事例が増えてきており、これら日本人を「困窮邦人」と呼ばれていると朝日新聞は報じていますが、これは何も日本人だけではなく、韓国人も同じような目にあっていると報じており、フィリピンの暗部ということかも知れません。
韓国人はフィリピンに7万人以上おり、若い世代がカジノや女性に財産をつぎ込み困窮するケースが多いとしています。
日本人は年配層が困窮する事例が多いようですが、この記事では以下のような事例が掲載されています。
都内のフィリピンパブで日本人警察官(49歳)と39歳のフィリピン人が知り合い、2001年に結婚し、警視庁を退職して80歳を超える母親も、日本のマンションを売却してフィリピンに移住した。
そしてフィリピンに雑居ビルと高級住宅を買った途端に、このフィリピン人妻は男性と母親の現金と貴金属を持って愛人と消えた。住宅はフィリピン人妻らの借金の担保として人手に渡り、自分と母の全財産、1億5000万円相当を失った。
この元警官は妻と愛人を盗み等で訴え逮捕状が出ているものの、この愛人から「あなたの妻が訴えをやめさせようとして殺し屋を雇った」と電話があり、身を隠したとしています。
この事例は東南アジアではよくあるパターンであり、日本人=金持ち=カネを盗む対象、という対象に見られているのです。
しかも、フィリピンでは5万円もあればヒットマン(殺人請負人)を雇えるとも言われており、今までに何人の日本人が行方不明になっているか、想像もつかないとさえ以前言われていました。
死体が出てくるのは保険金殺人の際に必要の場合であり、それ以外では秘密裏に殺され、ワニやサメの餌にされて死体すら出てこないと言われている程なのです。
このような騙された困窮日本人は月間で60〜80人いるとされており、日本人は「金のなる木」と思われている以上、今後もこの手の被害者は出てくるでしょうが、世界中、どこでもこのような事件は起こっており、特に日本人はお金にルーズであり、いとも簡単に騙されているのです。
全てのフィリピン人・東南アジア人が悪いわけではありませんが、このような事例が余りにも多くあり、だからこそ朝日新聞が取り上げているのです。
世界的に経済が悪化する中、今後、この手の事件がどこでも多く出てきますので、くれぐれも気を付けられますように。
http://blog.livedoor.jp/nevada_report-investment/
668 :名無しさん@13周年:2012/06/14(木) 06:06:57.93 ID:U5sHA07Q0
俺の知り合い、フィリピン人と結婚した奴多くて、その内4人と日本人夫婦1組が永住目的で向こうへ渡った。
35〜51歳で、ビザは色々だが、4人とも1千万以上の金を作って渡った。
中には4千万程度を持って行ってる。
結果・・・
当時35歳1000万の奴は2年でギブアップしかけたが、現地で就職し暮らしてる。貯金0・嫁と不仲で困窮邦人予備軍。
42歳2000万の奴は2年で有り金のほとんどを使い果たし、フィリ嫁と帰国。
46歳2000万の奴は4年目、不法滞在になって間も無くマニラで殺された。
51歳2500万の奴は最初に現地に店を作ったが、2年で店を閉め、3年目に消息不明に。
66・61の夫婦は4000万+年金20万で現在2年目。田舎で平穏に暮らしていると聞く。
マニラの日本大使館には1日に3〜4人の困窮邦人からの救護要請が有る。
相手が日本人だと、悪徳警察官がトラップを仕掛け数百万の釈放金を要求したりする。
外人に生活保護を与える日本と違い、外国人には、ほとんど権利が無いと思って良い。 強盗に遭おうが、詐欺に遭おうが、殺されようが、泣き寝入り。
どこに住むかにもよるだろうが、【反原発】山本太郎は3年向こうの生活が維持&生きて帰国できれば御の字。
http://toro.2ch.net/test/read.cgi/occult/1339299112/
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フィリピンNews カビテ州で邦人射殺 2013/1/2配信
2012年12月29日 午後3時10分頃 カビテ州ダスマリニャス市サンタルシアの路上で新倉英雄さん(61歳)が何者に拳銃を頭部に撃たれ死亡しました。新倉さんは,昨年9月に日本の住居を引き払い、10月から妻と長女、親類らの6人で年金暮らしを始めたばかりでした。
http://www.youtube.com/watch?v=PDY4sWf_qMA
フィリピンNews 【日本人射殺】 ★最新情報★ 公開日: 2013/01/06
こんにちは,フィリピンのmoriさんです。
本日も 新倉さん61歳の射殺事件のお話です。
結局,新倉さんの殺害目的は 『遺族年金』 と 『預金』 である事が明らかになりました。
当初は,新倉さんからの暴力が原因で 新倉さんの奥さん(バカ女!)が怒り、その息子が中心になり 殺害計画をしたものだと考えられておりました。
続きは 動画をご覧ください
http://www.youtube.com/watch?v=s279SCRH1UE
予期せぬ出来事 2013年 1月4日のマニラ新聞から
@邦人射殺
新倉さんは新生活に夢と希望を持ち、周囲の反対押し切り移住。度重なる送金も
ルソン地方カビテ州ダスマリニャス市サンタルシアの路上で12月29日、
新倉英雄さん(61)=本籍・神奈川県=が射殺された事件で、新倉さんの兄や知人の証言から、新倉さんがフィリピンの新生活に夢と希望を持ち、周囲の反対を押し切って、昨年9月末に移住して来たことが分かった。
新倉さんは、中学校を卒業後に大手自動車メーカーに入社し、約25年間務めた
その後、警備会社に転職し、60歳近くまで正社員として働いた。
2005年6月にフィリピン人妻(42)と結婚するまで独身だった。
1990年ごろ、妻と首都圏マニラ市内のナイトクラブで出会い、日本とフィリピンを頻繁に往復する生活が、20年以上続いた。
移住前まで連絡を取り合っていた元勤務先の同僚によると、新倉さんは妻を愛しており、同僚が近況を報告するために電話した際に「何だ。嫁からか、と思った」と、興奮しながら受話器を取ったことがある。「フィリピンは良いところ
楽しかった」などと書いた手紙と現地で撮った写真が、たびたび送られてきた。
よく「娘はおれにそっくりだ」と喜んでいた。
約4年前から「ゆくゆくは移住する」と話し、そのための貯金を始めた。
移住直前の預金は1000万円を超えていたという。日本を出発する前に、電話でフィリピンにおける新生活の夢を話していた。気さくで人柄も良く「付き合いやすい人だった」と振り返る。
フィリピンへ渡航する際はいつも、数十万円から100万円の現金を持参し、
日本からも送金していた。マニラ空港で妻に現金約100万円を渡し帰国したところ、妻から「帰り道で強盗に襲われた」と言われ、慌てて送金したことも。
強盗に身ぐるみ剥がされた話は、同僚が知るだけで2回あった。
また「妻が病気になった」「娘が病気になった」と聞くと、治療費を送金した。
妻の親類が事業に失敗してかかえた負債を、新倉さんが埋め合わせたこともあった。
度重なるお金の催促に同僚は不信を抱き「今からでも遅くない。移住はやめろ」と何度も忠告した。新倉さんは「仕方がない。また稼げばいいから」と意に介さなかったという。同僚は「お人好しがすぎる」と悔しがった。
新倉さんの兄は「フィリピンへの移住には反対だったが、黙って行ってしまった」と述べた。兄弟の会話で、フィリピンの話題はなく「奥さんと子どもがどんな人なのか、全く知らない」と語った。性格は「おとなしかった」という。
移住から約1カ月後の昨年11月に、新倉さんに会った知人によると、新倉さんは、フィリピンに知り合いが少なく、暇を持てあましている様子だった。
会う時は、いつもTシャツに長ズボン姿で、服装は地味だった。ゴルフやナイトクラブに行くこともなく「つつましく生活する」と言っていた。新倉さんが英語とフィリピン語、妻も日本語をほとんど話せないため、互いの意思疎通が難しそうだった、という。(松浦健司)
A邦人射殺
新倉さんの比人妻の年齢は42歳でなく46歳と判明。
捜査は進展せず新倉英雄さん(61)の射殺事件で、国家警察ダスマリニャス署は2日、射殺現場周辺で聞き込み捜査をしたが、犯人逮捕につながる情報は得られなかった。同署は、犯人の報復を目撃者が恐れているため、とみている。
引き続き、有力な情報が寄せられなければ、捜査は難航する恐れがある。
また、新倉さんのフィリピン人妻(42)の実年齢が、46歳だったことが、妻への取材で3日、明らかになった。妻は「両親が出生証明書を提出しなかったか、国家統計局(NSO)が出生の年を書き間違えた」と釈明した。
妻の年齢は、身分証明書や新倉さんとの間に生まれた娘の出生証明書など、全ての公式文書に42歳と明記されていた。フィリピンでは、国家統計局に届け出た年齢と実年齢が違っていることがよくある。
[ 2013年1月4日のマニラ新聞 ]
コメント
Unknown (としくん) 2013-01-04 06:43:42
この事件…内容からすると人の良すぎる方で見事やられたそんな感じが九割方感じますね。私の大好きなフィリピンも一部の人達のせいで印象が益々悪くなるのは心苦しい思いですね
安全なフィリピンになる事を願わずにはいられません
テレビ番組の食堂はマカティにある事がわかりました親のいない子供達に月一食事会を開いたり従業員の為に学校に行かせたり自分は着の身着のままで元々NGOの関係で来て始めた方みたいですね
支払いの際に (yu) 2013-01-04 08:26:53
射殺される前にも、色々とあったようですね。
犯人が逮捕され、事件の真相が判明する事を願います。
Unknown (タガイタイ・ダニエル) 2013-01-04 10:12:28
>内容からすると人の良すぎる方で見事やられた
痛いおじさんのタイプだったのでしょうか、
でも生命までなくすとは、哀し過ぎますね、
お嬢さんをあやす姿も、写真からは、真面目過ぎる感じが漂うのです。
奥さんの年齢詐称からも、騙されて来たのでしょうかね、奥さんの子供も、連子と知って居たのでしょうかね、
>安全なフィリピンになる事を願わずにはいられません
としくんも、フィリピンでは恨まれないように、お気を付け下さいね、その心配はないか、(笑)
>食事会を開いたり従業員の為に学校に行かせたり自分は着の身着のままで元々NGOの関係で来て始めた方みたいですね
地球上の人類が全員このような人だらけですと前途は明るいのですが、(涙)
支払いの際に (タガイタイ・ダニエル) 2013-01-04 10:37:02
>射殺される前にも、色々とあったようですね。
犯人が逮捕され、事件の真相が判明する事を願います。
通り魔的反抗では無さそうですね、
極身近に犯人か、指図した人が居たのでしょうね、
虚しくなりますね、
意思の疎通 (タガイタイ・ダニエル) 2013-01-04 12:57:10
>カビテの事件は連日記事になっていますね。
今朝の新聞に娘と共に、被害者が出ていましたが、優しい面影の人なので、びっくりでした。もっと厳つい人物を、想像していましたが、温厚そうな人でした。
>それにも増して誤解を受ける場面も多いのでは無いでしょうか。
お友達もいないようで、ネット通信でもやっていれば、色んな情報を知り得、
寂しく無かったかも知れません。また被害も回避出来たかも知れませんね、
しかしこの様な真面目な方が殺されると心が痛いですね。
今年も宜しくお願いします (タガイタイ・ダニエル) 2013-01-04 15:21:32
>しかしこの様な真面目な方が殺されると心が痛いですね
真面目に生きた人が、撃ち殺されるとは、フィリピンの為にお金を落とし、
生命まで落すとは、哀しい運命ですね、
http://blog.goo.ne.jp/danial58/e/e5443e37e4e19423116c53c6ae67c752
戯言などアップします。
日本人夫 フィリピン人妻が殺人委託 2013-01-06
フィリピンのカビテで神奈川出身の日本人が射殺された。
この種の事件はフィリピンでは迷宮いりし、まず犯人はつかまらないのだが
今回は比較的はやく容疑者はと特定された。
殺された日本人のフィリピン人妻が60,000ペソ(約12万円)で殺しを依頼した。理由は怨恨らしい。何を恨んだのか今のところわからない。
12万の命・・安いが、もっと安い命はまだたくさんある。
ホールドアップでは抵抗されない限り、殺されることは少ない。
ただし「怨恨」が動機の場合、死の可能性はかぎりなく高くなる。
日本人夫が殺される場合、フィリピン人妻が絡む話は多く聞く。
フィリピン人タレントがフィリピンパブから消えて久しいため、最近日比カップルの誕生は激減しているが、全盛のころは年/6000組の日本人とフィリピン人が結婚した。
リタイヤ―メント後、日本人はフィリピン人妻の祖国に渡り、物価の安いフィリピンで余生を送り始めるのだが、何かの拍子で歯車が狂い始める。
ある日、妻に殺意が芽生える。どんな怨恨なのだろうか?
http://blog.goo.ne.jp/katayakun/e/f75ed9359f4ef239ddb4a746f94a8aec
フィリピンで殺された日本人夫の続報が本日朝日新聞に載っていた。
犯人ははフィリピン人妻、そのフィリピン人と付き合っていた男、その男との間にできていた子供(29歳)及びその他2名のフィリピン人で計5人が逮捕された。
新聞によると理由は怨恨ではなく遺族年金及びその他、預金などが目当てだと推測していたが、フィリピン人妻は家庭内暴力が激しかったからと弁明している。
思うに金銭と怨恨の相乗効果で殺人を敢行してしまったのだろう。
このフィリピン人妻には日本人と結婚する前にフィリピンに付き合っていたフィリピン人男がいた。日本人と結婚する前に関係は清算されず、継続され日本人と結婚した。二股だ。
このようなフィリピーナは意外と多い。 日比カップルで互いの年の差が5歳未満というは稀有だ。平均的には20歳以上離れているカップルが圧倒的に多い。
フィリピーナは日本女より、歳の差を気にしない傾向は確かにある。それに若いフィリピーナは老人にやさしい。
でもジジイよりは体力もあり、加齢臭がない若い男の方がいいに決まっている。
フィリピーナに限って「じじフェチ」が多いなんてありえない。
だから日本人夫とは別に言葉も文化も共有するフィリピン人の愛人をもっても
不思議ではない。
アウェイで暮らす日本人は何かと不利だ。 そこでアシストしてくれるのは奥さんしかいない。
多くの日本人に見られるが、アジア人を見下しながら接する。 これは怖い。
信頼と愛があってもこのような事件は再発するのだろうが、人間として誠心誠意 相手に接すれば、このような事件は少なくなると思うが、今回ショックなのは
「年金」まで狙われだされたこと。
今後増えそうな予感がする。
http://blog.goo.ne.jp/katayakun/e/81c93c2845d312e1f56f80fee9ac763f
やっぱり出てきちゃったね〜・・・汗 2013/1/7(月) 午後 0:53
以前、フィリピン在住のブロガーさんが書いた最近、悪いフィリピーナのターゲットは「遺族年金」に変わりつつ有る様だ・・・
と言う記事を拝見した時。
多分、今回の邦人殺人事件のような事が起こるのでは?
と、心配していましたがやっぱりな・・・・・と言う感じです(汗)
マニラ新聞を購読されている方は既に御存知でしょうけど記事の内容から
最終的に、殺人の引き金となったのは「遺族年金」と持ち込まれた「多額の現金」のようですね。
2013年 1月6日のマニラ新聞から
邦人射殺
新倉さんの比人妻ら5人を殺人容疑で送検。動機は遺族年金と新倉さんの預金
ルソン地方カビテ州ダスマリニャス市サンタルシアの路上で12月29日、新倉英雄さん(61)=本籍・神奈川県=が射殺された事件で、国家警察は5日、新倉さんのフィリピン人妻メルリンダ容疑者(46)ら5人を、カビテ州検察局に殺人容疑で送検した。国家警察ダスマリニャス署は5日、新倉さん殺害の動機について「遺族年金と預金目当て」との見方を示した。
新倉さんの1カ月当たりの厚生年金額は約14万円だった。
配偶者が死亡した場合、妻に対して遺族年金として、子どもが18歳に達するまで、
配偶者が生前受け取っていた年金の4分の3相当額が支給される。
メルリンダ容疑者には、新倉さんとの間に娘のステファニーちゃん(5)がおり、
1カ月当たり約10万円を向こう13年間、受け取る算段だった、という。
ダスマリニャス署によると、メルリンダ容疑者は事件直後、同市を訪れた日本大使館の領事に、遺族年金の受け取り方法を尋ねている。 このため、同署の捜査責任者は「遺族年金と新倉さんの預金を目当てにした犯行」との見方を示した。
新倉さんの元勤務先の同僚は、新倉さんのフィリピン移住前の預金額について
「1000万円以上」と証言している。
逮捕直前の3日、メルリンダ容疑者はマニラ新聞の取材に対し「事件後に日本大使館の領事に会い、遺族年金をもらえるかどうか尋ねた。 受給は止まる、との答えだった」と述べた。
同容疑者は取り調べに対し、新倉さんと一緒に事件前日の12月28日、新倉さんの預金口座から「90万円を引き出した」と供述した。 その使途は明らかでない。
当初は、新倉さんの妻への暴力が、妻や新倉さんの義理の息子(29)の「恨み」をかったことが殺害の動機とみられていた。ダスマリニャス署は5日、家庭内暴力をきっかけに新倉さんを疎ましく思い始め、殺害によって遺族年金と預金を奪おうとしたとの見方を示した。
新倉さんの射殺は計画的に進められた。
ダスマリニャス署によると、義子とその知人男性(25)が昨年12月22日、実行犯の男性(42)の勤務先を訪れ「日本人を殺してほしい。新年を迎える前にやってもらわなければならない」と依頼した。
実行犯は「分かった。まず拳銃を買う金が必要だ」と返事をした。
http://blogs.yahoo.co.jp/berning_sun/53883641.html
▲△▽▼
松尾国光。フィリピンで何もかも失って親族を射殺して回る
2012年7月23日、フィリピン警察はマニラ首都圏マリキナ市でひとりの日本人を逮捕している。
松尾国光という福岡県出身の56歳の男だ。
松尾国光はフィリピン女性と結婚してフィリピンでタクシー会社を経営していたのだが、経営が傾いて破綻して妻に逃げられていた。
妻の親族には多くの金を貸していたのでそれを取り返しに行っている。しかし、あえなく断られていた。
つまり、会社は倒産、妻には逃げられ、親族には金をむしり取られ、フィリピンで無一文で放り出されてひとりぼっちになっていた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20120725T0852010900.html
2012/7/25(水) 午後 3:26フィリピンの事事件
あれ? 聞いた事ある名前だな…
殺人容疑で邦人男逮捕 フィリピン6歳児含む親族らを銃撃
フィリピンのマニラ首都圏マリキナ市で22日、同市に住む日本人の男が短銃でフィリピン人の親族らを撃ち、1人を殺害、数人にけがをさせたとして殺人などの容疑で逮捕されていたことが24日、分かった。地元警察などによると、男は松尾国光容疑者(56)。
警察によると、松尾容疑者は22日夜、マリキナ市にあるフィリピン人の妻の親族宅に銃を持って押しかけ、6歳児を含む親族らに向けて次々と銃を発射し、殺傷した疑い。その後逃走したという。当時、酒に酔っていた。警察が23日、首都圏に隣接するリサール州アンティポロ市の知人宅に隠れていたのを見つけ逮捕した。借金をめぐり、親族とトラブルがあったといい詳しい動機を調べている。
警察によると、松尾容疑者は「2000年ごろ、福岡から来た」と供述。経営していたタクシー事業が最近頓挫し、事業をめぐる借金の支払いを親族に求めたが、断られていたという。(共同)
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120724/asi12072414230001-n1.htm
☆困窮化するのは 明日は我が身かもと書いとくテスト…
南国ではレンタル業 など車を貸すタクシー事業などが手っ取り早いのではあるが…
なぜならば、日銭が入ってくるのでコントロールしやすい…
だがしかしリスクもあって タクシー業のリスクとは…
事業と言うくらいだから恐らく10台くらい所有して回していたのだと思う。
運転手が 運転下手糞だったり 基本的に荒いのと 自分のものではないのでメンテをしない…
使用料なんかは だいたい一日3000円くらいなのだが、払わない奴 着服する奴も多いんだな…
そして 事故を起こした場合 オーナーの責任になってしまうのである。
保険会社を使うほどの事故ならばカバーできるのだが、こすったり凹ませたりするのは日常の風景で、
修理代やメンテ タイヤ代が思った以上に飛んでいくんだな…
そして収入面というと 毎日 フィリピン人の一ヶ月くらいの収入が入ってくるわけで、親戚が増えると言う不思議な現象が発生してしまうで御座るw
中には偉そうにアドバイスしてくる奴もいて 信用したら最後 骨の髄まで集られるw
日本では 夫婦仲良くってのが定番だったりするのではあるけれど、南国の場合は 名前など名義は借りても 絶対にビジネスの中身まで踏み込ませるパートナーにしてはいけないってのが鉄板なのであった。
なぜならば、嫁は恩がある人から 懇願されると絶対に断れないわけで 断るとその親戚を敵に回して、立ち回りってのはフィリピン人には無理w
その日を暮らすのが 精一杯の立場から、毎日その頃借りるのも無理なような金額が収入として入ってくるとコントロールもできず、明日も入ってくるから いいやんみたいな感情になるのねw
貯金とか留保の概念がないんだもんwww
一回事業が傾くと 借金なんてできるわけもなく…
月に2万程度しか稼げない国で 200万円の借金なんてできんだろう!
だから困窮しない為に必要な事とは…
普段からフィリピン人の生活に慣らしておき、日本人であるってのを忘れる事…
いざとなったら3万円でもしのげるって生活をする事でしょうか?
だってフィリピン人は3万円で生活してんだしw
この国では 貸して=頂戴と同じ意味であって、日当以上の金は貸さない事…
一回貸して返さなかったら二度と貸さない事…
事業 運用資金 利益は絶対に嫁に握らせてはいけない。
これが大事かな?
松尾容疑者もフィリピン人に翻弄されたんだろうけど、敵地であるってことを忘れちゃいけないんですよね…
http://blogs.yahoo.co.jp/minamisima_tonbo/31059274.html
日本人が殺人事件 2012-07-25
こんちわん、芋姐っすチューリップ
キョウモアリガトウ
アティス♡
すきっり爽やかタナワン♪
日差しは強いけど風があるから
そんなに暑くないよにこにこ
昨日もそうだったけど お昼すぎからちょっとずつ曇ってきて夕方にザザーっとくる、というのが今の時期のデフォだから今日もそのうち曇ってくるんじゃないかなにこにこ
にこ
もうみんな知ってると思うけど
ピリピン在住日本人が殺人容疑で逮捕ビックリ〜〜〜〜〜〜〜〜
殺人容疑で邦人男逮捕 フィリピン6歳児含む親族らを銃撃 2012.7.24 14:22
フィリピンのマニラ首都圏マリキナ市で22日、同市に住む日本人の男が短銃でフィリピン人の親族らを撃ち、1人を殺害、数人にけがをさせたとして殺人などの容疑で逮捕されていたことが24日、分かった。地元警察などによると、男は松尾国光容疑者(56)。
警察によると、松尾容疑者は22日夜、マリキナ市にあるフィリピン人の妻の親族宅に銃を持って押しかけ、6歳児を含む親族らに向けて次々と銃を発射し、殺傷した疑い。その後逃走したという。当時、酒に酔っていた。警察が23日、首都圏に隣接するリサール州アンティポロ市の知人宅に隠れていたのを見つけ逮捕した。借金をめぐり、親族とトラブルがあったといい詳しい動機を調べている。
警察によると、松尾容疑者は「2000年ごろ、福岡から来た」と供述。経営していたタクシー事業が最近頓挫し、事業をめぐる借金の支払いを親族に求めたが、断られていたという。(共同)
msn産経ニュースより
いつもは日本人が殺されるけど今回は日本人が殺してしまった・・・ちーん
この日本人が殺人事件を起こすまでに至ったストーリーとか心情とか
ピリピンに関わりのある人なら なんとなーく想像出来るよね
「なんて短絡的な・・」
とか
「だからピリピンなんかに住んでる日本人は・・」
とか
「殺す前に手立てはあっただろう」
っていうのが世間の感想かなぁ。
芋姐は・・・この容疑者の怒りと怒りと悲しみと怒りと虚しさが
ちょっとだけわかるから それより先に気の毒だなぁって思う。
もちろーん殺人は絶対駄目だから
殺されてもしょうがない
殺してもしょうがない
なんて言ってるんじゃないよ。
芋姐は容疑者もその周りの人物も知り合いじゃないから推測で言っちゃいけないけど
殺すことでしかピリピン脳と接点が持てなかったのかなって思う。
日本人とピリピン人は同じ人間だし日本とピリピンは4時間しか離れてないけど
一番遠いところにいるんじゃないかって思えるくらい脳構造が違うから
こっちの感情が丸っきり伝わらないことや向こうの感情が丸っきり理解出来ないことがホントにしょっちゅうあるから。
だから明日は我が身びっくり!
殺す殺さないは紙一重びっくり!
ということを胆に銘じて心静かに生きてゆきたいと思いました
怒ったらあかん泣く。
おしまいバイバイ
コメント
1. 憶測
やけど私もなんとなく見えるわ
日本にいる家族は悲しいなあ
「フィリピン人なんかと関わるからや」と思ってるよね きっと
でも いい人もいるのに残念やね
自分で復讐する前に神様を心から信ずる心が必要やね
いったりきたり 2012-07-25 14:00:55
2. 無題
私も昨日これ、ツイートのニュースで読んで
ああ、よほど腹に据えかねたんだろうな、ココに至るまで、大変だったんだろうなと
あと思ったのは、ああこの人はこの後、フィリピンの刑務所で余生を送るのかと思うと殺人はいけないけど、不憫にも..残念な事件ですね。
vesenaz0213 2012-07-25 14:19:07
3. 不謹慎ですが・・・
他の方のブログ等で事件のあらまし・背景は知りました。起こるべくして起こったことでしょう。そして、これまでには起きていなかったのでしょうか?
日本人のお金を宛にして、借金に来たがるP国民にとっては、良い教訓となってほしいです!
(日本人は決して大人しいだけの人種じゃないぞって!)
日本人(外人)が、P国民に合わせるだけではなくて、外人の事を少しは理解をし、合わせる努力をして欲しい物です!
亡くなられた方のご冥福と、怪我をされた方の早い回復を祈ります。
南無!
Hamrey 2012-07-25 14:30:47
4. Re:憶測
>いったりきたりさん
この人がどんな人やったか知らんけどここピリピンでピリピン人を殺そうと思うくらい怒りが渦巻いてたんやなぁと思うとなんともやり切れへん気持ちやわ。
大変やったやろなぁ。
殺人はアカンけどこの人の怒りはよくわかる気がするわ。
本当にこの国で信じられるのは神だけかも知れん。
dang 2012-07-25 15:46:06
5. Re:無題
>vesenaz0213さん
殺人は駄目だけどこの人の怒りを思うとなんとも居たたまれない気分・・。
でもこういうのって事件にならないだけで掃いて捨てるほどあるんだろうなぁ。日本人に限らず。
ピリピン人のタカリ性質のおかげで人生壊れた外国人は多いんじゃないかな。
今回のも自己責任っちゃあ自己責任だけど彼ばっかり責めるのは気の毒だと思う。
dang 2012-07-25 15:59:16
6. Re:不謹慎ですが・・・
>Hamreyさん
この人は実行してしまった、というだけで「殺したいほどの憎しみ」をピリピン人に対して持ったことのある人って結構いるんじゃないかなぁ。
芋姐だって・・・
ピリピンでピリピン人に何をされても正しいのはピリピン人、ということを忘れちゃいけないってことですね。
ピリピン人が合わせる努力?そういう脳細胞は持ち合わせていない模様(^▽^;)
dang 2012-07-25 16:15:57
7. お金を渡さない事
比国在住者の方なら事件迄の経過が想像出来るはずです。
私の親友の友人は お金を全て巻き上げられ帰国した日、電車で飛び込み自殺しました。
私も何回か自殺を考えた事も有ります。
一部の次元の異なる人種に 日本の感性で話しても憤りを感じるだけですね。
いつも 自分が相手からどう見られているのか良く考えて発言、行動しないと又同じ事件が起こる筈。
とにかくお金を渡せばろくな事は有りません。
今の私は比人に対して相手次第ですが割り切った交流しかしていません。
payaso 2012-07-25 17:01:52
8. 無題
なんとコメントしてよいのやら、、σ(^_^;)
お金が絡むと怖いですね(T . T)
☆クレア☆ 2012-07-25 17:35:58
9. 起こるべくして起こった事件!
私もピリピンに住んでいて、かみさんの兄弟と仕事でもしていたら、似たような事になっていたと思います。
あの国は決して深入りしてはいけない国だと確信しますね。
日本で稼いだ銭で遊んでいるだけの時は天国みたいな国ですが
生活基盤をピリピンに移したとたんに、地獄を見るのは明らかですから。
Ryuchan 2012-07-25 18:25:42
10. Re:お金を渡さない事
>payasoさん
おっしゃるとおりだと思います。
ピリピン人にスキを与えてはいけないしこっちも何かを求めてはいけない。
おなじ人間なんだから・・・なんて甘い甘い。
ちょっとでも心を許してしまうとどんどん付け入ってきますからね。
彼らそういう能力だけは素晴らしいから油断もスキもないです。
今回の事件で自分もちょっと考え直したほうがいいと気が付いた人も多いのではf^_^;
dang 2012-07-25 18:34:20
11. Re:無題
>☆クレア☆さん
よくさぁピリピンの紹介記事で
「貧しいけどホスピタリティが溢れてる」
なんて書いてあるけど「けっ」と思うわ。
「ホスピタリティが溢れてる・・・のはお金が取れそうだから」
って書かなくっちゃ。
ってクレアちゃんはそんなこといってる場合じゃないでしょ〜(///∇//)
dang 2012-07-25 18:39:43
12. 無題
私も勿論、殺人は人が最も犯してはならない事だと思いますが、その反面殺したいとまで憎しみをかう人もどうなんだろう?とも考えてしまいます。
何も6歳の子供にまで…。と思いますが、逆を返せばそこまで彼を追い詰めたフィリピン人ってとも考えてしまいます…。
マガンダララキ^^ 2012-07-25 20:59:16
13. 無題
頭にカビが生えたロロとしては、身ぐるみ剥がされたぐらいで殺人はノーだな。
家族を殺された仇討なら許す!
南国酔歌 2012-07-25 21:27:23
14. Re:起こるべくして起こった事件!
>Ryuchanさん
そうですね。ピリピンは遊びに来る国で住む国じゃないってつくづく思います。
だけどたとえそんな国でもうまくいかなかったからって殺しちゃいけませんよね。
というのは一般論で、もし自分がその人の立場だったら殺しはしなくてもそれに近いことをやってしまうんじゃないかと思います。
ピリピン人の恐ろしさを再認識させられた事件でした。
dang 2012-07-25 23:04:17
15. Re:無題
>マガンダララキ^^さん
相手の心なんてこれっぽちも考えない。
自分の家族が幸せになるためなら他人が死ぬのは仕方がない。
お金がある人から盗っても神様は怒らない。
こういうピリピン人ってすごく多いです。
大学を出てちゃんと働いているごく普通が真面目にこういう風に思ってたりするから恐ろしい国です。
この日本人は気の毒だし本当に辛かっただろうなと思いますが騙されたのは本人に甘さがあったからでしょうね。
dang 2012-07-25 23:21:11
16. Re:無題
>南国酔歌さん
この事件で改めてピリピンの怖さを思い知らされた気分です。
自分も騙されないように(盗られるものはないけど)、殺してしまわないように気を引き締めようって思いました。
「ピリピンに住んでる日本人はオカシイ」
っていうのはよく言われることだけどそうじゃなかったらこんな国で暮らしていけないよーって思います。。。
dang 2012-07-25 23:30:11
17. 無題
冷たい言い方ですが、諦めて日本に逃げかえれば、まだやり直しも効いたかも知れません。
相手が悪人でも殺してしまったら、自分自身が終わってしまいます。
でも戦争の仕方でも米軍は退路を考えて作戦を考えるけど、日本軍は退却は考えないから日本人ってそういう国民性なんでしょうね。
起こしてしまった事件はもう取り返しがつきませんから、せめてこれから救いが有ります事を祈ります。
南国酔歌 2012-07-26 11:13:25
18. Re:無題
>南国酔歌さん
騙されたことを認めたくなかったのかも知れませんね。
自分だけは違うと無理やり思い込んでいるうちに本当にもう戻れないところまできてしまったんじゃないでしょうか。
日本人がピリピン人ごときに負けてなるかという意地が諦めることをさせなかったんでしょうね。
もうこんな事件が起こらないといいのですが・・。
dang 2012-07-26 19:07:09
http://ameblo.jp/kuliit/entry-11311318578.html
▲△▽▼
バカにされ騙され続けた日本人の物語(4例掲載しました。)
(事例1.19年も会わずに送金し続けたコックさんのお話し)
数年前です。東京在住の年配の調理師さんが相談に来られました。数ヶ月前にフィリピン人女性と現地で結婚したので、妻を呼び寄せるために入国管理局に「在留資格認定証明書」を申請したが、認められず不許可(不交付)の通知が届いた。妻が入国できない。何とかして欲しい。これが相談の主旨でした。
私はいつも通り、お相手のフィリピン人女性との「出会いから結婚に至る経緯」をお聞きしたのですが、だんだんと我が耳を疑うようなストーリが展開したのです。
その調理師さんとフィリピン人妻の出会いは20年以上前で、出会いの場所は国内のフィリピンパブ。当然、彼女はビザの在留期限が到来したので帰国。その後、お決まりのコースの通り調理師さんがフィリピンに数回ほど渡航しました。その都度、マニラで数日間滞在してデートを重ねました。最後に会ったのが19年前とのことでした。
私が驚愕したのは、最後のデートから現在に至る19年間ずっと毎月10万円その女性に海外送金していたという事実でした。更に、直近の数年間で毎月の送金とは別に500万円以上も渡してしたのです。 話を聞けば、もう貯金も底をつき、自分自身は59歳となった。年齢的な問題と不景気の煽りをうけ、これまでのような給料では雇ってもらえない。今は6畳1間のアパートで暮らしている。それで、もうお金がなくなりフィリピンに仕送りできないので、結婚して呼び寄せて一緒に暮らしたいと思い、20年振りにフィリピンに渡航して、現地で結婚したとのお話でした。奥様の年齢を尋ねると「45歳位」という返事でした。
私が「何故、この数年間で500万円という大金を送金したのですか?」と尋ねると、「彼女は数年前に白血病に罹かり、アメリカで手術して入院するというので送金しました。フィリピンの病院はダメだと言ってました。」そして、「妻の母親が脳梗塞で倒れて、その手術と入院費用も必要でした。」「それから退院した妻の母親がジョギング中に交通事故に遭い(車に跳ねられ)、死亡したその葬式代も送りました。」
この調理師さんは、19年間この女性の暮らし振りを見ていないのに、いわれるが儘に送金し続けたのです。19年間毎月10万円。それプラス500万円です。そして、自分がオケラになったから、送金できないから「結婚し一緒に日本で暮らそう。」と20年振りにフィリピンに渡航したのです。
私はこの調理師さんに言いました。「どうも疑問が残ります。奥様の母親です。もうご高齢の筈ですよね。多分70歳前後ですよね。そのような高齢の方が脳梗塞に襲われて手術した後で、退院してジョギングなんかしますか?」そして、私は続けました。「私はフィリピンを訪れてもう35年近くなります。高齢者がジョギングする姿を見たことがありません。」「お相手の女性は、既にフィリピン人の男性と結婚して、子も数人設けているのではありませんか?」と、言うと。調理師さんは「そんな女じゃない!」と強い口調で言い返しました。
私はこれ迄、このような日本人男性を大勢見てきました。フィリピン人女性に何年も何年も仕送りし続けている男です。私はこれを「送金依存症」と呼んでいます。自分の生きがいが「送金」になっているのです。「送金」すること自体に喜びを感じて生きている人達です。思いますに、自分の仕事や自分も家族に生きがいを見出せず、周囲との人間関係が円滑でなく、或る意味で疎外されている人達なのかも知れません。フィリピン人女性に送金すること以外に自分の存在意義を見出せない人達なのです。
このような人達は貯金がなくなるまで「送金」を続けます。それどころか借金してまでも「送金」を続けます。止まらないのです。もう二進も三進も行かなくなり、金銭的に進退極って首が回らなくなって初めて気付くのです。「オレは騙されていた。バカだった。」と。それはフィリピン人女性に「もうお金がなくて送金できない。」と告げたときに初めて気付くのです。女は平然とこう言うでしょう。
「そう。お金がないの?可哀相ね。頑張ってね。」と。何年間も毎月のように送金しているのに、
(1) フィリピン人女性が結婚したがらない。
(2) 結婚したのに何だかんだと言訳して日本に来ない。
このような事例は数多くあります。何年間にもわたり送金を続けているのは、例外なく日本人の男です。男は単純ですから、フィリピン人女性の言葉を鵜呑みにします。一途に思い込むのです。一方、女性は、現実的ですから何年もずっと騙されて送金し続けるということはありません。
是非、身元調査と生活実態調査をお勧めします。フィリピン人が「アメリカで手術をする。」と言い出したら要注意です。日本人から大金をせしめる常套手段です。これまでに何度も聞きました。「アメリカで心臓手術をする。」と言われて数千万円騙しとられた上場企業の男性もいます。第一、アメリカ政府はそんなに簡単にフィリピン人女性にビザは発給しません。
私がこの調理師さんに「奥様の実態調査をしましょう! 婚姻歴、子の有無、同棲相手がいないかを調べましょう! どんな暮らしぶりなのか実態調査をしましょう! 絶対におかしいですよ!」と説得しました。すると、その調理師さんは私に「あんた。もし、彼女の言っていることが本当だったらどうするんだ!」と、大声で逆ギレされてしまいました。
誰が聞いてもバカバカしいと思う事例ですが、当の本人は大真面目なのです。私が「絶対におかしいですよ!」と言ったのには理由があります。その調理師さんが20年振りにフィリピンに渡航して現地で婚姻届出したのですが、その滞在中この女性は自宅に招かず調理師さんはホテルに宿泊させられて、挙句フィリピン人女性からこう言われたそうです。「私は白血病だからセックスはできないから。」と。
この59歳の調理師さんは私の事務所に、フィリピン人妻の「身元調査・生活実態調査」を依頼するお金もなく、相談料すら払うのがきつい様子でした。フィリピン人女性にさえ嵌(は)まらなければ、老後資金として3000万円ほどの貯金も残せて、贅沢しなければ不安のない老後生活を迎えられたことでしょう。
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(事例2.家族に内緒で入籍して死亡した或る高齢者のお話し)
東海地方に住む40代前半の女性からの電話でした。「父が癌で死亡しました。死亡届を出そうと役所に行って父の戸籍謄本を見たら、5年以上も前にフィリピン人と結婚していました。家族の誰も知りませんでした。驚いています。このままでは父の遺産(預貯金や土地建物)を処分できません。相続登記もできません。」
「私たち遺族は、父の妻であるフィリピン人女性に会ったこともなく、果たして日本に住んでいるのか、フィリピンに居るのか所在もわかりません。どうすればよいでしょうか?」そんな電話でした。父親名義の銀行口座には2700万円、父が経営する会社の口座には約1300万円。不動産物件として抵当権設定のない戸建が2軒あるとのことでした。
要するに「遺産分割協議」係る準備の相談でした。私は「身元調査をして相手にフィリピン人夫がいれば、重婚ということで裁判を申し立てて、遺産分割協議を非常に有利にすることはできます。それから所在地も突き止めます。」と回答しました。更に、お客様から「父親は、死の直前に意識朦朧(もうろう)とする中で、メトロバンク!メトロバンク!と、うわ言を申しておりました。どんな意味なのでしょう?」とも質問されました。
この事例の如く、フィリピン人と結婚した事実を家族に隠している日本人(特に高齢者の男)が多いのです。死亡後に、遺族が戸籍謄本を見て初めて父親が「フィリピン人と結婚していた事実」を知ったという例が実に多いのです。別の悲惨な例では、所有していた筈の土地がいつの間にか売却されていた。自宅には抵当権が設定されていた。銀行通帳も空で、生命保険も解約されていた。資産のすべてが消えていたケースがあります。
(調査結果)
お客様から提供された情報は、亡くなられた父親の戸籍謄本に記載されたフィリピン人の「カタカナ」の名前だけでした。それでも、いろいろなルートを駆使してフィリピン人女性の所在を突き止めて、当該フィリピン人女性の身分事項そして生活実態調査をしました。
その女性は、フィリピンの首都マニラ(ルソン島)から遠く離れた群島の町に住んでいました。マニラ空港から国内線の飛行機でも1時間以上かかる場所でした。確かに独身でしたが、数年前からフィリピン人男性と同棲していました。そのフィリピン人の男は元警察官(警察を解雇されていました)でした。二人の間に子も一人設けておりました。
女性は、過去にエンターティナー(タレント)として日本への入国歴がありました。多分、その滞在中にフィリピンパブでホステスとお客という関係で知り合ったのです。案の定、女性がビザの在留期限到来で帰国した後、亡くなられたお客様の父親が何度もフィリピンに渡航していたのです。そして、現地で婚姻届出して日本の役所の戸籍課にも婚姻届出をしていたのです。入籍していたのです。更に、このフィリピン人妻が結婚後5年以上も経過していたのに一度も日本に入国していない事実もわかりました。
調査の結果、その女性の家族は誰も仕事に就いておらず、家賃3000ペソ(約6000円)の中古住宅に住んでおり、家族全員が日本人夫の送金で暮らしていました。このフィリピン人妻は、入籍だけして、毎月のようにずっとお金だけもらい続けていたのです。
私は、依頼者(ご遺族)の意向で、フィリピン人妻に私の事務所が提携する現地スタッフを通じて日本人の夫が死亡した事実を伝えました。その頃、たまたま私もフィリピンを訪れる用事がありました。それで、現地のスタッフを通じて「マニラまで出て来れるなら、○○○ホテルのロビーで会って、亡くなられた遺族の方から託された言葉をお話します。」とも伝えました。○○○ホテルは、最近もAPECの会場になった有名ホテルで誰もが知っています。
(編集後記)
約束した当日の時間にその女性はロビーに現れませんでした。私の現地スタッフがその女性の携帯に電話すると「マニラには昨日(きのう)着いたけど、交通渋滞なので1時間ほど遅れる。」との返事でした。私は忙しく、「明後日の同じ時間にもう一度来るように。」と、そう指示して、別の約束の場所に向かいました。
二日後、そのフィリピン人女性は○○○ホテルのロビーに現れましたが、今度は親戚と称する女性が現れて、自分も同席させろと言い出しました。私は「個人情報に係わる大事な要件なので同席は認めない。」と、繰り返し申しましたが、その親戚と称する女性は執拗に同席することを求めました。私が語気を荒げて「私は帰る!」と言うと、その女は漸くロビーの隅の方に消えました。
驚いたことに、そのフィリピン人女性は、私に対して夫の死亡を知らせてくれた「お礼の言葉」も言いませんでした。ろくに挨拶(あいさつ)もせず、いきなりソファーにドカッと腰をおろしました。そして、筆記用具のメモ帳とかボールペンも持たずに現れたのです。一昨日に指定の時間に来れなかったお詫びの言葉もありませんでした。 要するに女の興味は、『財産がいくらあり、自分がいくら貰えて、いつ貰えるのか』それだけだったのです。
考えてもみて下さい。私はそのフィリピン人に日本人夫の死亡を教えてやり、フィリピンまで来て財産分与に関して遺族の意思を伝えに来てあげたのです。勿論(もちろん)、日本人の遺族からも渡航費用などもらっておらず、無論(むろん)フィリピン人女性に遺産分割協議に関する情報提供の謝礼を請求した訳でもありません。
このフィリピン人女性との会話から諸々のことが明らかになりました。この女性は過去6年以上も毎月7万円以上送金してもらっていたのです。そして、その送金が「メトロバンク(METRO BANK)東京支店」経由で、彼女のフィリピン国内のメトロバンク口座に振り込まれていたのです。加えて、女性は「産婆」の資格を取得するための専門学校の入学金や授業料も受け取っていたのです。
事前の調査で、この女性が「産婆」の資格を取得するために学校に通っていたことは掴んでいました。しかし、この女性は私に「看護婦」の資格を取得したと嘘をつきました。フィリピン人らしく見栄を張ったのです。メトロバンクに関する送金の事実は後日、遺族からも確認が取れました。押し入れの中から夥(おびただ)しい送金控えが出てきたのです。
フィリピン人女性は、日本人夫が死亡する前月あたりから送金がないので、毎日数十回も日本人夫の携帯に電話をしていたとも吐露しました。女性が質問する内容は夫が残した財産のことばかりでした。フィリピン人妻は、呆れたことに自分の夫が入院していた病院名や病名も知りませんでした。「癌」で亡くなられたのに、女は心臓病で入院していたとか出鱈目(でたらめ)なことを言い出しました。夫が小規模な会社を経営していたことも知らず、それがどんな職種の仕事であるかも知りませんでした。事実、夫がどんな仕事に就いているかなど興味などなく、どうでもよかったのです。お金を貰えればそれでよかったのです。
このフィリピン人妻は亡くなられた日本人夫の最後の様子などを尋ねることもなく、亡き夫の話をしている間も涙を浮かべることすらありませんでした。更に、私が遺族から頼まれて日本からとりあえず相当まとまったお金を持って来たと勘違いして、母親や家族を連れて、航空機でマニラまで来ていたのです。
私が、依頼人(遺族)の言葉を伝え終わり、ホテルのエントランスから出た直後、私の現地スタッフが私の耳元で囁きました。「あの女の愛人の元警察官がロビーにいました。携帯で宇波さんを盗撮していましたよ。」と、教えてくれました。
このフィリピン人女性の身元調査を実施したときに、私たちは同棲相手のフィリピン人男の顔写真を入手して調査の依頼主に渡していました。それで女の愛人であると確認できたのです。私の現地スタッフ二人がロビーにおり、私と離れた場所のソファーに座っていたのです。愛人の男はそれとは知らず、私を盗撮していたのです。この女の愛人も、恐らく、私が日本の遺族から頼まれて、当座の相当額の大金を持って来たのだと思い込んで女に付いて来たのだと思います。
余談ですが、フィリピンの「産婆」の資格で日本国内で「産婆」の仕事はできません。現地では「看護婦」の国家試験とは違い、「産婆」には国家試験がありません。誰でも学科を履修すれば資格が取得できます。なにより、フィリピンで数年かけて日本で使えない「産婆」資格を取得しようとしたことは、最初から、結婚しても日本入国して夫と一緒に暮らす意思がなかったことを物語るものだと思います。
私は既に(事例その1.19年間も会わずに送金し続けたコックさんのお話し)の中で「送金依存症」という言葉を使いましたが、「癌」で亡くなられたこの日本人の方も或る意味で、「送金依存症」に陥ったと思います。婚期を逃したり高齢で死別したり、家族とは疎遠。そんな時期に自分より若いフィリピン人女性に出会うと、そこに生きがいを求め、それに縋(すが)るようになるようです。
加えて、男は単純細胞ですからフィリピン人女性の言葉を鵜呑みにして言われるまま何の疑いもなく、将来は介護してもらおうなどと期待して送金を続ける日本人の男も大勢いるようです。将来、介護してもらおうと目論んで年の離れたフィリピン人女性との結婚を望む高齢者も多いのですが、その殆どが悲惨な結果をたどっているようです。日々の口論や喧嘩で「鬱」状態に追い込まれた中年男性・高齢者も大勢います。
既にお話ししましたが、遺族によれば、父親は意識朦朧として死ぬ直前まで「メトロバンク、メトロバンク」と、うわ言を繰り返していたそうです。自分の妻が現地でフィリピン人の男と何年も同棲していることも知らず、その病床で律義にも「メトロバンクから送金してやらなければ、送金してやらなければ」と、思い続けていたのです。悲しいというか、残念で哀れな物語です。
このフィリピン人女性ですが、ご遺族の話に拠れば、それから間もなく日本人の男を仲介人に仕立てて日本人弁護士を雇い、夫の預貯金と土地建物(戸建を2軒所有)の50パーセントを渡せと請求してきたそうです。この事例のように、結婚後一度も日本に来ることもなく日本人夫との同居実態がなくても、法律的に妻であれば遺産の50パーセントは渡さなければならないのです。
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(事例3.騙されてフィリピン人のダメ男と二度結婚した日本人女性のお話し)
北陸地方にお住まいのご夫婦でした。「娘がフィリピンに行き、向こうでフィリピン人の男と結婚しました。困り果てています。インターネットで出会ったのです。相手の男性ががどんな人物なのか調査して下さい。」そう依頼されました。ご両親は娘さんから、フィリピン人男性の「名前」と「誕生日」しか知らされていませんでした。
この娘さんは、既にフィリピンに数回渡航し、『現地で婚姻届出する前に相手の家族にも面会していました。娘さんの日本人のご両親はこの男とインターネットのスカイプの画面上で顔は見たと話しておられました。
依頼人であるご両親が不審に思ったのは、スカイプの画面で「結婚許可証」の申請用紙を見せて、「もう1回、申請をキャンセルしたり延期したら、自分はこちらの市役所のブラックリストに載せられる。」そう言い出して結婚を急がせたそうです。何よりパソコンのが画面上だけですが、その男は見るからにだらしない服装をしていたそうです。
(調査結果)
このフィリピン人男性は現地で35歳のとき出生届出をしていました。インターネットの出会い系サイトに登録する少し前に(別名)で出生届出していました。現地での聞き込み調査で、勿論、本名も分かりました。案の定、この男は本名でフィリピン人女性と結婚しており二人の子とともに一家4人で生活しておりました。
このフィリピン人の男は、日本人女性(依頼人の娘さん)に対して、自分の妻を「兄の嫁さん。」であると紹介して、「兄は数年前に失踪して、自分が一緒に住んで兄の嫁さんと二人の子供を世話している。」と、とんでもない嘘をついていたのです。私は、それらの証拠書類の公文書も添付して翻訳文も添付して依頼人にお渡ししました。 勿論(もちろん)、依頼者の娘さんはフィリピン人夫宅の近所に住んでいた親や兄弟姉妹にも紹介されて挨拶(あいさつ)していたのですが、相手の家族の誰一人「彼は結婚していて、奥さんがいて子供も二人いる。今も一緒に暮らしている」と、教えなかったのです。
家族ぐるみで騙したのです。
依頼者の娘さんはある程度英語が理解できたのですが、フィリピン人同士は都合が悪いことはタガログ語で話しますから、その家族が何を話しているのか分からなかったようです。調査の結果、このフィリピン人の男は定職に就いておらず、一日中近所を徘徊してブラブラしているような男でした。その男の住まいも写真に撮り、依頼者に提供しました。住まいはうらぶれて錆びたトタン屋根の家でした。その錆びたトタンが捲(めく)れて軒から垂れ下がり修繕もしないでほったらかしてありました。
依頼者の娘さんとフィリピン人の男は、現地で二人で婚姻届出した訳ですが、調査の結果、婚姻届出した役所は男が生まれ育った住まいがある市役所ではなく、遥か遠く離れた別の市役所で「結婚許可証」を取得し、その市役所で「婚姻届出」しておりました。
このフィリピン人の男は、「自分の住居登録地がここの市内。」と嘘をついて、自宅から遠く離れた市役所で婚姻手続きをしたのです。理由は簡単です。地元の市役所で婚姻手続きをすると市役所内には顔見知りも当然いるでしょうから。近所の人がたまたま用事で市役所に来ていることもあるでしょう。見られるとまずいのです。要するに重婚がバレる可能性があったのです。
依頼者の娘さん(以下、「Aさん」と言う。)は、フィリピンにも住民票があると思い込んでいたようです。フィリピンには「住民基本台帳法」のような法律はなく、住民票らしきものさえありません。
(編集後記)
私は、フィリピンから調査報告書が届き、依頼者であるご両親に送付しました。その後、ご両親の要望で、改めて場所を設けてAさんを交えて今後の善後策を話し合いました。しかし、私はAさんと話をして違和感を感じたのです。普通であれば、騙されたと知れば怒り心頭に達し、相手の男性は許せないとなるのですが、逆に私への質問が、どうも調査報告書の内容を相手のフィリピン人の男に漏らし、かつ、相手のフィリピン人と打合せを済ませたような質問をしてきたのです。
Aさんの立場としては、騙されていたのですから「直ぐに現地で裁判して結婚を解消したい。お願いします。」と、切り出すのに、Aさんは違いました。調査報告書を疑うような質問を続けました。
例えば、「彼の母親の前に彼を連れていって、この人は誰ですか。名前は何と言うのですかと確認したんですか?」そんな質問ばかり繰り返しました。身元調査は当然ながら相手に悟られないように密かに行動します。相手を母親の前に連れて行って、これば誰で何という名前ですか? などと質問できる訳がないのです。 話は変わります。後日、依頼者であるご両親からもう一度お会いしたいとの連絡がありました。お会いしたのですが、そこでAさんのご両親から打ち明けられた話を聞いて、私は仰天しました。
実はAさんは以前にもフィリピン人と結婚していたのです。聞けば、日本国内でオーバースティ(不法残留)していたフィリピン人と結婚して子どもまで設けていたのです。在留資格のない外国人が日本人と結婚して、結婚後に入国管理局に出頭して残留資格を願い出る制度を「残留特別許可」と言います。
その前夫のフィリピン人は「残留特別許可」されて残留資格を取得する前後から、Aさんにさんざんお金を無心し、Aさん名義で新車を購入してローンを申し込ませたりして、Aさんは自己破産寸前まで追い詰められ、遂に協議離婚したそうです。それだけでなく、後日判明したのですが、そのフィリピン人夫にはフィリピン現地に妻がいたことも発覚したそうです。
依頼者であるご両親にしてみれば、過去に一度、フィリピン人の男に痛い目にあわされているのに、またフィリピン人と結婚した。しかも今度の相手は身元調査の結果、妻子がいて、名前も変えて独身になりすまして娘と結婚している。以前と同じ結果になるのが目に見えている。是非とも何とかして欲しい。そう私に懇願したのです。
私はご両親に「現地での婚姻解消の裁判費用を用立てて下さるなら、現地の弁護士を紹介します。私もお手伝いします。でも、お嬢さまが裁判を申し立てる意思があるかどうかが問題です。」と、申しあげました。それから暫くして、Aさんは婚姻解消を申し立てることを決意し、私と一緒にマニラに渡航したしました。現地に渡航する前に、私はAさんとフィリピン人夫の「出会いから結婚に至る経緯」そして「身元調査結果」をすべて英文に翻訳して現地の弁護士に送付しておきました。
現地では、Aさんは通訳を交えて弁護士と打合せをして、「委任状」と「申立書」に署名して帰国しました。
裁判は順調に進行する筈でした。ところが、それから1ヶ月も経過しない頃にAさんから私に電話がありました。「裁判を取り下げます。」との連絡でした。申立人本人が裁判を取り下げると言えば、これは取り下げるしかありません。実はAさんは、ご両親や私に内緒でずっとフィリピン人夫と連絡をとり続けていたのです。電話に出たりすると相手のペースに巻き込まれるから絶対に電話が来ても無視するようにと厳重に注意していたのですが。「夫はそんな裁判のやり方は変だ。インチキだと申しています。ですから取り下げます。お支払いした裁判費用はどうなりますか?」そんな連絡でした。
私は直ちに依頼人であり裁判費用を拠出してくださったAさんのご両親に電話をしました。事態をご存じかとお尋ねしたところ「まったく、寝耳に水です。」と、震えるような声でお話になりました。その後、ご両親はAさんを説得したらしいのですが、Aさんは頑として親の言葉に耳を貸しませんでした。「彼を日本に呼んで一緒に暮らす。」と言い切ったそうです。
そう言えば、前兆と言うか思い当たる節(ふし)がありました。現地でフィリピン人の弁護士と打合せをしていたとき、弁護士はAさんにもう相手と連絡は取らないようにと釘をさしました。そのときAさんは「彼からメールが来たら見ることはいいですか?」と、質問したのです。
私はそのとき裁判を申し立てるというのに何故そんな質問をするのか?若しかして未練があるのではないか? そう感じたのです。そのAさんの言葉を聞いたとき、私は「絶対にメールなど開かず、無視して下さい!」と厳重に注意していたのです。 しかし、Aさんはフィリピン人の夫と連絡を続け、Aさんは婚姻解消の裁判を申し立てたことを自らバラしていたのです。重婚はフィリピンでは刑事罰の実刑(禁錮刑)ですから、相手は必死にAさんに裁判の取り下げを懇願したに違いありません。
前述の如く、Aさんは過去に不法残留していたフィリピン人男と結婚し、痛い目にあわされて自己破産寸前まで追い込まれて、子を引き取って離婚していました。しかし、それから数年後、またフィリピン人と交際を始めたのです。繰り返しますが、当事務所の「身元調査・生活実態調査」の結果、その男には妻子があり、別名を名乗っている事実を突き止めました。
そして、ご両親を交えて婚姻解消の裁判を申し立てることを決めました。本人もフィリピンに渡航して弁護士が作成した委任状や申立書に署名までしたのに、裁判を取り下げて、更にそのフィリピン人の男性(夫)を日本に呼んで一緒に住むことを決めたのです。
実は、このような日本人女性は多いのです。過去にフィリピン人の男に騙されて随分とお金を使わされ取られて酷い目にあわされたにも拘わらず、数年経過すると再度フィリピン人の男と付き合い始める女性が意外と多いのです。「今度の彼は大丈夫!」これを喉元過ぎれば熱さをなんとか・・・と、申します。
私の経験から申しあげます。フィリピン人との結婚を家族に猛反対されると、日本人の男性も家族や周囲の言葉に耳を貸そうとはしません。ですが、男性の場合は思い留まる事例が屡々(しばしば)あります。しかし、女性が思い留まることは滅多にないのです。
フィリピン人の男は不愛想な日本の男と違い(最初だけですが)優しいのです。日本人女性が舞い上がるような言葉を語ります。不謹慎な表現ですがお許し下さい。優しくされてベッドの中で英語で甘い言葉で囁(ささや)かれた日本人女性は一溜りもないようです。日本人女性は、そんな楽しい嬉しいことが頭から離れず、幸せを夢想し続けて、結婚に突き走るようです。これは私見ではありません。或る日本人女性から告白された実話です。
フィリピン人の男に騙される日本人女性の特徴として、少し英語(英会話)が理解できるという共通点があります。人前で、外国人と二人並んで街中を英語で話しながら歩いて、周囲から「かっこいい」と見られたいような見栄もあるようです。
それから「彼を現在の貧困生活から救ってあげたい」「私と結婚して日本で働けば高収入になる」「救ってあげられるのは私だけ」「彼はきっと感謝する」そんな自惚れた上から目線の勘違い使命感を抱いて結婚する日本人女性も多いと感じています。
フィリピン人の男が日本に入国しても、殆どの場合、単純労働(飲食店従業員、清掃員、日雇い工場作業員)のような仕事にしか就けません。日本語も満足に話せず、漢字も読めない、電話の対応もできない外国人を誰が雇用してくれるでしょう。この不景気風の吹く中、日本人ですら就職が難しい現実を認識していれば、フィリピン人との結婚を夢見るというのはいかがなものでしょう。
別の事案ですが、2012年晩秋。或るご両親から頼まれて、ご両親とフィリピン人男性と結婚したいと希望する「お娘さん」の四人で或る駅前のホテルの喫茶室でお会いして話を伺いました。私はフィリピン人男性の言動に疑問点や不審点を感じたので、結婚したいというフィリピン人男性の身元調査をすすめたのですが、そのお嬢さんから「彼の心の中までは調査できないでしょう!」と、反論されました。私もバカバカしいので、それ以上話しても時間の無駄だと思い、さっさと退散」した次第です。このような女性が実に多いのです。
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(事例4.結婚後、夫の知らない間に3人の子を産んでいたフィリピン人妻のお話し)
九州からの電話相談でした。お声から察して60歳くらいの女性でした。息子さんが現地でフィリピン人女性と結婚してもう7年経過するのに、フィリピンの嫁が、なんだかんだと理由を付けて、いっこうに日本に来る様子がない。以下は電話いただいたお母さまの話です。
息子はずっと結婚する以前から毎月送金し続けています。最近は、毎月6万円送金しています。息子の嫁は、以前は日本のフィリピンパブで働いておりました。フィリピンに帰ってから暫くして、息子に「妊娠していた。」と電話をかけてきました。息子は慌ててパスポートを取得してフィリピンに渡航して向こうで結婚しました。そして、帰国後に市役所の戸籍課にも婚姻届出をして戸籍謄本にも結婚が記載されました。
不可解なことに、生まれた子を実子として日本の戸籍に入籍するから、その子の「出生証明書」を送れと言っているのに、もう何年間も送ってこないんです。はじめは、その理由が「男」と「女」の性別を間違えて届出した。訂正しようとしたが、手続きが面倒で一端、届出を取り下げた。今度は簡単に二度目の出生届出が受理されない。最近では、裁判所の命令がないと出生届出できないと言い始めました。こんな言訳めいたことを何年も言い続けています。息子は嫁の言うことを信じて今も毎月送金しています。嫁や子どもに会うために、2年に1度くらいはフィリピンを訪れています。
ときどきフィリピンからは子どもの写真が送られてきます。子供の誕生日が近づくと必ず電話がかかって来て、息子は誕生日プレゼントを送っています。 「調査を依頼したいのですが、資料としては息子の戸籍謄本しかありません。戸籍謄本にフィリピン人妻の氏名が書かれています。息子の嫁があちらでどんな暮らしをしているのか、生まれた子はもう小学生のはずですが、どうなっているか調査していただけないでしょうか?」このような依頼でした。
私が依頼者である息子さんのお母さまに「フィリピン人のお嫁さんの住所とかわかりますか? お嫁さんの写真はお持ちですか?」そう尋ねると、息子さんは別に家を借りて暮らしており、息子の戸籍謄本の他に資料はありません。フィリピン人の嫁のことについて、いろいろ尋ねても何も教えてくれないとのことでした。
実は、結婚話が出たときに家族が大反対したために、それ以来、相手のフィリピン人の女性については何も語らなくなったとのことでした。実際、このような男性は多いのです。家族が結婚に反対した途端に、相手のフィリピン人女性について黙して語らなくなり口を噤(つぐ)む日本人男性が多いのです。
(調査結果)
1ヶ月間の調査の結果、唖然(あぜん)とするような事実が判明しました。まず、帰国後に産んだとされる子ですが、子の出生届出は生まれた直後に地元の市役所に提出されていたのです。そして、その出生証明書には子の出生から4年後にフィリピン人の男が認知したことが記載されていました。当該のフィリピン人女性が日本から出国してから出産日までを計算すると、女性はフィリピンに帰国してから265日目に子を産んでいました。女性は生まれた子がフィリピン人男の子であることを初めから知っていた筈なのです。
「興行(タレント)」の在留資格で就労していたフィリピン人女性は、このように帰国後に、関係した日本人男性に「あなたの子を妊娠していた。」と電話をかけて、通院費や出産費用そして毎月の養育費・生活費を要求し、それだけでなく結婚を迫ることがあります。身に覚えのある日本人男性は、慌ててフィリピンに渡航して結婚したり、毎月送金を始める例が数多くあります。酷いケースでは、子が生まれて数年経過してから「あなたの子を産んで育てている。」と、電話してくる女もいます。
調査の結果、このフィリピン人妻は、想像した通り子を認知したフィリピン人男と同棲していました。しかも、その女性がタレントとして日本で働く以前から、ずっと一緒に暮らしていたのです。近所の人達の証言から分かりました。更に、驚くべき事実が明るみに出ました。なんと、このフィリピン人妻は、日本人と結婚した後に、同棲しているフィリピン人男の子どもを3人も産んでいたのです。フィリピン人の男は無職でした。つまり、フィリピン人親子6人は日本からの送金で暮らしていたのです。
皆様は不思議に思われるでしょう。『依頼者の息子さん(日本人夫)は、ときどきフィリピンを訪れていたはずだ。3人も子を産んでいたのが分からなかったとは?』と。そこがフィリピン人の狡猾で上手なところです。恐らく、妊娠してお腹が大きく目立つときは、病気だとか怪我をしたとか、なんだかんだと言い訳してフィリピンに来させないようにしたのでしょう。
事実、後日この日本人夫に尋ねたところ、フィリピンを訪れたとき宿泊先のホテルにメッセージが届いており、そこには「親戚に不幸があり、葬儀でレイテ島に行かねばならないから会えない。」と書かれており、夜中になって「レイテにいる。」との電話をかけてきたそうです。
この日本人夫の依頼者の息子さんですが、初めは私の事務所の調査報告書を信用しませんでしたが、調査で撮影した数十枚の写真を提示するとガックリした様子で、調査報告書が正しい事実であると認めたとのことです。その写真の中には、自分の妻とフィリピン人男が並んで子供たちを抱いている写真なども数枚ありました。また、自分の子だと思っていた子の横に並んで双子かと思うような瓜(うり)二つの子がもう一人写っていたからです。
この親子6人の所在地ですが、日本人の夫に教えていたとは別の市内の実父の家に住んでいました。昔のように家の固定電話であれば、相手の所在も分かり転居したことも確認できるのですが、携帯電話では実際に調査しなければ本当の居住地は分かりません。調査報告書が届いてから1ヵ月後に、私はこの依頼者の息子さんと一緒にフィリピンに渡航しました。渡航目的は、現地の裁判所に婚姻無効・婚姻解消の申し立てるためです。現地で通訳を交えて、フィリピン人弁護士と打合せををして、「委任状」と裁判所に提出する「申立書」に署名して帰国しました。
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(番外編 1. 裁判費用を騙し取られてもなお送金し続ける男のお話し)
2005年頃からブームになりましたが、インターネットの婚活(出会い系)サイトで知り合い、日本人男性がフィリピンに渡航して結婚するケースが増えています。以前は、比較的若い20代30代の日本人男性が大勢でしたが、最近は、40代50代60代の男性が激増しているようです。
婚活サイトに登録しているフィリピン人女性も、以前は20代が多数でしたが、このところ30代40代の女性が急増しています。しかも、特徴的なのは過去に日本で「興行」在留資格(ダンサーなど)で就労していて日本語が話せるフィリピン人女性が増えているのです。その多くが自称「シングルマザー」であり、自称「離婚経験者」です。次の事例は、こんな婚活動サイトで知り合い、マニラで結婚届出し、更に日本の役所にも婚姻届出した男性のケースです。
近畿地方に居住する50歳前後の男性でした。それまでずっと独身を通していましたが、婚活サイトで自称「シングルマザー」のフィリピン人女性を見つけて、何度かメールを交換した後、写真を交換し、国際電話で話をするようになり、2度目のフィリピン国訪問で「結婚許可証」を申請して、3度目の訪問で現地で結婚したのです。
結婚後、広島入国管理局から「在留資格認定証明書」が交付されたのですが、在マニラ日本大使館がビザ(査証)発給を拒否したのです。拒否理由はフィリピン人妻の「重婚」でした。在マニラ日本大使館は、原則、ビザの申請人に拒否理由を説明しません。日本人夫の問い合わせには、漠然と「重婚」を仄めかすことがあります。
この日本人男性(以下、「Aさん」と言う。)は、フィリピン人女性と知り合い、最初の渡航で男女の関係になり、その後に女性から「実は、フィリピン人の夫がいる。」「別居しているが、裁判で離婚(婚姻解消「通称、アナルメント」)の手続きをしないとあなたと結婚できない。」と打ち明けられ、Aさんはどうしても結婚したいので、裁判費用と弁護士費用とで併せて40万円を送金したそうです。すると、女性からは4ヵ月ほどして裁判が結審したとの連絡があり、それでAさんはマニラに渡航して現地で結婚したのです。参考までに申しあげますと、通常、現地の裁判離婚(婚姻解消)は3ヶ月や4ヵ月では終わりません。
ところが、在マニラ日本大使館で査証発給拒否されると、女性は一転して「裁判は終わったけど、弁護士が判決を役所に提出するのを忘れていたので、フィリピン人夫との結婚が未だ解消されていない。」そうAさんに説明して、Aさんが「直ぐに役所に提出するように。」と指示すると、女性は今度は「弁護士が判決後に直ぐに死んだ。」と言い出したのです。
私に言わせれば、女の言うことは全部「嘘」です。最初からアナルメント裁判などやっていないのです。このフィリピン人女は40万円を騙し取ったのです。それから、毎月送金してもらうのが目的なのです。第一、裁判が結審して直ぐにフィリピン弁護士が死んで役所に届出できなかったなんて考えられません。フィリピン人は嘘とわかる嘘を平然と言います。
私が想像した通り、案の定、Aさんは弁護士にも会わずに、フィリピン人女性にお金を渡しただけでした。Aさんはアナルメント(婚姻解消)の「判決文」は勿論のこと裁判を提起したさいの「申立書」のコピーすら見ておりませんでした。それどころか弁護士の名刺も貰っておらず、40万円の領収書も見ておりませんでした。
在マニラ日本大使館で査証発給拒否されてから、Aさんは、広島入国管理局に2度目の「在留資格認定証明書交付申請」をしたそうですが、今度は入国管理局から不交付通知(不許可通知書)が届いたのです。Aさんの説明では、重婚状態にあるので、2度目の申請ではフィリピン人夫の「死亡証明書」を偽造して入国管理局にで提出したとのことです。が、それでも在留資格認定証明書不交付通知が届いたのです。当然です。入国管理局を甘く見てはいけません。入国管理局にしてみれば、重婚がバレたので、今度はフィリピン人夫を死んだことにしてきた。悪質だ。そう審査したに違いありません。
私は、Aさんにフィリピン人女性の嘘を幾つも指摘して、身元調査と生活実態調査をアドバイスしたのですが、Aさんは全く聞く耳を持ちませんでした。それどころか、女性が「もう一度、現地で、ちゃんとした弁護士に頼んでフィリピン人夫との婚姻解消裁判をしたい。」と言い出したと言うのです。つまり、もう一度、裁判費用を送金して欲しいと言っているのと同じです。Aさんも私に「是非、そうしたいのでまともな弁護士を紹介して欲しい。」と懇願しました。
私は、「変ですね。もう婚姻無効の裁判は判決を貰っているのですから、この判決を現地の役所に届け出るだけでよいのでは? どうしてまた裁判する必要があるのですか?」そう問い質すと、Aさんは次のように答えました。
「妻が判決文を持って役所の窓口(NSO、国勢調査統計局)に提出に行ったら、役所でこの判決文はにせ物だと言われたそうです。」
Aさんは、ここでも、またまた嘘をつかれてそれを鵜呑みにしたのです。実は、NSOに直に婚姻解消の判決文を持ち込んで結婚解消の登記をすることはできないのです。Aさんが何も知らないことをいいことに嘘をついて騙したのです。私は、そのこともAさんに説明したのですが・・・。
普通であれば、「そうかオレはまた騙された。お金も取られた。こんなに嘘ばかりつく女とは離婚しないと、将来えらいことになる。」と考えるのですが、Aさんは違うのです。騙される日本人男性の典型的な性格の人でした。
フィリピン人夫の「死亡証明書」を偽造して入国管理局に提出しようと女が言い始めたとき、「この女は危険だ。」と、察知すべきだったのです。ところが、Aさんはそのような不法行為(公文書偽造)に加担して、法務省入国管理局に偽造文書を提出したのです。
フィリピン人女性と接した、婚期を逸した男性や死別した高齢者に特に顕著に見られる傾向です。私は、何度も何度も見てきました。
もう過去の話です。空港での上陸時の指紋検査が実施される前です。退去強制処分(強制送還)されたフィリピン人女性が名前を変えて、不法滞在中に知り合った日本人と現地で結婚し、別人に成りすまして日本人の妻として日本に入国して来る事例は、数え切れないほどありました。
日本人夫も、結婚相手が偽名を使っていると知りながら、その事実を隠して「フィリピンを観光していたとき初めて出会いました。」「知人の紹介で現地で初めて会いました。」などと、入国管理局に虚偽申請して入国させて一緒に暮らすという事例は数え切れないほどありました。
一度、不法行為に加担すると、何度も不法行為に巻き込まれます。例えば、妻として入国した後、「フィリピンから妹や弟を親族訪問で呼びたいけど、身元保証人になって欲しい。」と言われ、いざ兄弟姉妹が入国すると、スナックや工場で不法就労を始めます。日本人夫はそれを止めることもしません。そしてビザの在留期限が到来しても帰国せず、不法残留(オーバーステイ)して捕まるまで不法就労します。あるいは、不法残留しながら、結婚相手となる日本人を物色して、結婚してビザを取得しようと目論見ます。このようなことを黙認している日本人夫が実に多いのです。
このAさんを含めて、日本人は現地の法律や婚姻手続きの法律に疎いのです。当然ですが、そのためフィリピン人の言い分を鵜呑みにするしかないのです。聞けば、Aさんは結婚を決意したときから、もう2年近く毎月のように送金していました。
Aさんは、私の忠告も聞かず、どこかの業者に現地のフィリピン弁護士を紹介してもらい、きっとまたフィリピン人妻とフィリピン人夫との婚姻解消(アナルメント)裁判を始めるでしょう。そして、裁判費用・弁護士費用を支払い、更に裁判中もずっと毎月のように送金し続けると思います。まったく相手の思う壺なのです。Aさんは、それを認識できないのです。
______
(番外編 2. マリキナ市の現地邦人事件簿 だまされ怒り爆発 )
だまされ怒り爆発
日本人男性(56)=本籍・福岡県=が別れたフィリピン人妻(35)の親類らを銃撃し、1人が死亡、5人が重傷を負った事件で、容疑者の日本人男性は7月24日、犯行の動機について、過去5年間で約300万ペソを元妻やその親類、友人らに使い込まれ「だまされたという怒りが爆発した」と語った。
日本人男性によると、フィリピン・パブで比人妻と出会い、2007年に日本国内で結婚した。比で長男(7)と長女(6)が生まれ、自身の両親や別れた日本人妻らとの関係も良くなかったため、比への移住を決意した。日本の家や資産はすべて売り払い、全財産を比移住のために準備した。日本へ戻る意思はなかったという。
移住する1年前から、比での収入源として、タクシー用の乗用車を買うための資金や、故障したという乗用車のエンジンの新規購入資金などを妻に送金し、妻の弟に仕事を手伝わせていた。ルソン地方リサール州アンティポロ市にある家の購入資金も送金した。
しかし、2008年に移住してみると、弟が買ったという新しいエンジンはなく、乗用車は売られていた。アンティポロ市の家も妻が売り払っていた。車も家も妻名義。男性が送金した現金は「妻や親類が勝手に使い込んでいた」という。
現金の使い道などをめぐり、移住直後から妻との口論が絶えなくなり、08年に離婚。男性はマリキナ市内の賃貸アパートで比人の友人らと一緒に暮らすようになった。
比での定収がなかったため、日本から持参した現金を元手に比人の友人らとタクシー業、駐車場経営などを試みた。銃撃で負傷した5人のうち、マリキナ市で撃たれた比人男性(42)とリサール州サンマテオ町で撃たれた比人男性(43)とは、3人で魚の仲卸業を始める計画だった。魚の運搬用の乗用車の購入費、事業立ち上げ資金を比人男性2人に渡した。しかし、いつまでたっても事業は始まらない。その後、サンマテオ町の男性の妻(42)が渡した資金を使ってしまったことが分かった。
比人男性2人とその妻の計3人は、22日夜、日本人男性に銃撃され、重傷を負った。
マリキナ市で銃撃された比人女性(56)については、女性の娘婿と乗用車の売買をめぐりトラブルがあったという。
比人妻の親類や友人らには、これらのほかに日々の生活費として頻繁に現金を貸していたが、返済されなかった。家賃を支払う余裕もなくなったため、借金返済を迫ると「金はない」と言われた。
犯行に使った9ミリ拳銃は、1年半前、子供が病気で入院し、治療費を工面するため銃を買ってくれと友人に頼まれ、2万ペソで買った。
「だまされた。いつも、大丈夫だから、大丈夫だからと言われながら(それを信じて)ばかにされた。5年間ずっとたまっていた怒りが突然、爆発した」という。
22日夜、犯行現場のマリキナ市コンセプシオン・ウノのメリット通りで、義弟に「偶然会った」。比人妻との間にできた子供2人はどこかと聞くと、「生意気な態度で『知らない』と繰り返された。怒りがこみ上げてきた」(日本人男性)。
犯行中は頭が混乱し、自制できない状態だった、とも話した。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~v-o-t/philippin1-jiturei4.htm
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/170.html#c6
7. 中川隆[-12901] koaQ7Jey 2019年1月18日 12:48:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
犯罪者が高飛びするならタイよりもフィリピンの方がいい
2018-01-12
白井繁治が13年も堂々とタイで逃亡生活ができた理由とは?
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180112T0207220900.html
2018年1月10日、タイ中部ロッブリー県でひとりの日本人が逮捕されている。白井繁治容疑者、74歳。
白井繁治は全身に刺青を彫っており、左手の小指は欠損していた。そのため、この男が「ヤクザ」であるのは現地の人々は誰もが知っていた。
実際、この男は自分がヤクザであることを隠そうとせず、現地で刺青を見せびらかし、自分が日本で人を殺したというのも身近な人たちに吹聴していた。
タイには2005年頃から潜伏していたと見られているが、パスポートもなく、ビザもとっくに切れて不法滞在の状態だった。
タイ人の妻もいたのだが喧嘩ばかりして離婚、現地では米の運搬などの仕事に関わって細々と暮らしていた。
ただ、白井繁治は特にコソコソと隠れて生きているわけではなかった。仕事もしていたし、現地の人々に混じって一緒にチェスを楽しんでいた。誰もこの男を通報しなかった。
しかし2017年8月、白井繁治の知り合いがフェイスブックにこの男の刺青を写して投稿した。
その知り合いは単に「全身に彫られた刺青が格好良い」という理由で何の悪気もなくそれを投稿したのだが、それがタイ警察当局の目に止まり、逮捕に至ったのだった。
米の運搬という肉体労働で生きていた白井繁治
白井繁治が本当に「ヤクザ」だったというのは、この逮捕で現地の人々も再確認することになった。
2003年7月に三重・津市高洲町で山口組系幹部である乙部和彦を射殺したとして指名手配されていた。乙部和彦は自分の家で頭部を撃たれて殺されていた。
白井繁治も同じ組に所属する幹部で、複数の仲間と共謀して事件を起こしたとみられている。
白井繁治の潜伏先には年に何回か日本人が訪ねてきて金を置いて帰っていることが確認されている。
しかし、それはタイで悠々自適で生活するにはまったく足りない額で、たかだか1万バーツほどではなかったかと現地のローカル紙は報道している。
1万バーツといえば、約3万4800円程度でしかない金だ。元ヤクザの幹部にしては実に少ない金なので、本当にこの金額であれば少し驚きではある。
それは、いくらタイの現地人価格だったとしても、食事代で2ヶ月も持たないような額である。
そうであれば、米の運搬という肉体労働でアルバイトしながら、小さな小屋で細々と生きていかなければならなかった境遇も納得できる。
もっとも、その生活で満足していたのであれば、白井繁治はフェイスブックの投稿写真さえなければタイで人生を全うできていた可能性もある。
白井繁治が不法滞在をしていたのは現地の人間であれば誰もが知っていたはずなのに、誰も通報しなかったというのは、白井繁治自身も貧しい生活に甘んじており、現地の人々の嫉妬や反感を買うことがなかったからだ。
もし、白井繁治が刺青を撮らせないようにしていたり、人前で脱がないように気をつけていれば、その潜伏生活は尚も続いていた。
撮られた写真がフェイスブックに載って警察関係者の目に止まるとは白井繁治にとっては盲点だったはずだ。
フェイスブックに投稿されたこの画像が、白井繁治の逃亡生活を終わらせた。もし白井繁治が刺青を撮らせないように人前で脱がないように気をつけていれば、その潜伏生活は成功していた。後の祭りだ。
東南アジアに高飛びしたのであればすべきこと
白井繁治は逃亡先にタイの田舎を選んだのは賢明だった。
東南アジアは、法律が緩い上に人々が異質な人間を受容する気質を持ち、自分に利益がなければいちいち他人を密告しようとはしない国だからだ。
ここで気付かなければならないのは、「金がなくてタイの田舎で貧困生活をしていたから逃亡生活は成功していた」ということである。
白井繁治がまとまった金を持っていれば話は違っていた。
「警察に密告されたくなければ金をよこせ」と誰かが言い出して、そこで白井繁治が渋ればすぐに密告されて逮捕につながっていた。
逃亡生活の失敗は、だいたいが金のトラブルから端を発しているのは多くの事件が証明している。
逃亡者が一文無しの極貧だったら、警察と関わるだけ時間の無駄なので現地の人間は誰も何もしない。たとえ白井繁治が元ヤクザで不法滞在の逃亡者であるという身の上を知っていたとしても別に何もしない。
白井繁治は現地で逃げ隠れして暮らしていたのではなく、実に堂々と市民生活を送っていた。なぜ堂々としても密告もされないで13年もタイで不法滞在できていたのかは、ここに理由がある。
金がなかったから、長く潜伏できたのである。
金があれば自分のタイ人妻もまた「密告者」になっていた可能性が強い。あるいはタイ人の妻が現地の殺し屋を雇って今頃はバラバラ死体となってどこかに埋められていたはずだ。
金があればそうなる。金がなければ何もない。つまり、犯罪者がタイやフィリピンで長く潜伏生活を送りたいのであれば、まったく金を持たないで極貧生活で暮らすのが正解なのである。
日本人の犯罪者が東南アジアに逃亡するのは、それほど珍しい話ではない。タイやフィリピンは、「高飛び」する犯罪者たちのメッカである。
しかし、ほとんどが数年も潜伏できずに、現地でトラブルを起こして逮捕される。なぜか。小金を持って潜伏し、現地の底辺の生活に馴染まないからだ。
東南アジアに高飛びしたのであれば、潜伏生活を成功させるために貧困での生活を徹底しなければならない。それができれば、長く潜伏できる確率が高まる。
白井繁治はそれができていた。だから堂々と暮らしていたと言える。
白井繁治は現地で逃げ隠れして暮らしていたのではなく、実に堂々と市民生活を送っていた。なぜ堂々としても密告もされないで13年もタイで不法滞在できていたのかは、ここに理由がある。金がなかったから、長く潜伏できたのである。
タイよりもフィリピンやインドネシアの方がいい
潜伏生活を成功させるもうひとつの注意点は、日本人の共同体からも離れることだ。
現地では、最も危険なのは常に同国人だからだ。
特に現地に長く滞在している現地人の中にはまともに仕事をしていないで困窮している人間も多く、こうした人間が詐欺を仕掛けてきたり、ワナを仕掛けてきたりする。
東南アジアでは、殺し屋を生業とする人間がまだ存在する。プロの殺し屋でなくても、金が欲しくて安い金で人を殺す人間がいくらでもいる。
だから、東南アジアではしばしば「知り合いの日本人に保険金をかけさせて、受取人を自分にして、殺し屋に殺させる」という手口が使われたりする。
誰が信用できる人間で、誰が信用できないのか、そんなことは最初から分からないのである。信用できる人間であっても、困窮すれば性格はいくらでも悪い方に変わる。
まして、日本人の共同体の中で暮らしていたら、そこから自分の過去の情報が漏れていく。その共同体の中には警察関係者もいれば、妙な正義感を持った人間もいる。
だから、最初から日本人の共同体からも切って、日本人が誰もいないような場所で、底辺の人々に混じって静かに暮らすのが潜伏を長引かせる方法となる。
タイとフィリピンではどちらがいいのかはよく議論になるが、私自身はタイよりもフィリピンの方が潜伏生活に適していると考えている。
最近のタイの警察は、調査能力も規律も向上して犯罪者には危険度が増している。日本の警察関係者がタイアップしてタイ警察の調査能力を引き上げている。
フィリピンは、まだまだ警察の汚職や腐敗の度が強くて調査能力も低い。さらに貧困層が多くてそこにうまく紛れて「身内」になると、貧困層の共同体が警察から自分を匿ってくれるようになる。
さらに、フィリピンは島嶼国家なので、島から島へと移動すれば警察の追跡もかなり難しいものとなる。同じことはインドネシアにも言える。ただ、インドネシアは地域によっては、やや排斥的な地区もあるので、場所の見極めは重要だ。
もし、犯罪者が日本に戻らないつもりで高飛びするのであれば、タイよりもフィリピンやインドネシアの方が成功する。すべての金を捨てて、現地の貧困層の波に潜めることができれば、かなり長期間の潜伏生活が可能となる。
もっとも、逃亡しなければならないような犯罪を犯さないのが一番いいのは間違いない。しょせん、逃亡生活には未来など何もないからである。
もし、犯罪者が日本に戻らないつもりで高飛びするのであれば、タイよりもフィリピンやインドネシアの方が成功する。すべての金を捨てて、現地の貧困層の波に潜めることができれば、かなり長期間の潜伏生活が可能となる。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180112T0207220900.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/170.html#c7
8. 中川隆[-12900] koaQ7Jey 2019年1月18日 12:51:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
旅慣れた人も事件に巻き込まれるのは、人は見抜けないから
タイのパッポンやスクンビット界隈では、片足がない男が観光地で地面を這って物乞いをしていることがある。服はドロドロになって、顔面も泥にまみれている。
同情した多くの観光客がこの男が片手に持つカップに次々と金を恵んでいく。
しかしこの男は、物乞いの仕事が終わると物陰でズボンを脱ぎ、片足を縛っていた紐をほどいて両足で歩きながら帰路につく。本物もいるのだが、そうでない人間も混じっている。騙される旅人はとても多い。
インドでは死んだようにぐったりしている赤ん坊を抱えた母親が物乞いしているが、これも他人の赤ん坊を借りた物乞いビジネスである。やはり、ウブな旅人の多くは見抜けない。
タイやインドネシアではニセ警官が現れて、いろんな難癖をつけて観光客から金を奪い取る詐欺師も出てきている。旅慣れた旅人でさえ、見抜けないはずだ。
世界中どこでも犯罪が起きているのを見ても分かる通り、すべての国に私たちを騙す人間がうじゃうじゃと存在する。
アメリカでも、ヨーロッパでも、東南アジアでも、南アジアでも、中東でも、南米でも、それはまったく変わらない。そして現実的な話をすると、次から次と現れる新手の「騙し」を前にして、旅人は赤ん坊の手をひねるように騙される。
日本人がフィリピン人を使って日本人を殺す現実
私が今まで知り合ってきた人たちは、東南アジアのアンダーグラウンドにいる人々ばかりである。では、彼らの多くが悪人だったのかと言えば、まったくそうではない。
むしろ、一緒にいて気持ちの良い人たちも多かった。
インドは壮絶に貧困がひどい国で、世界でも最悪の悪人密集国かもしれない。では全員が悪人だったのかというと、まったくそうではない。
悪人も確かにいるのだが、信じられないほど優しく思いやりのある人もいる。
したがって、個人の資質を見るというのは、非常に重要なことであり、結局は最後に「その人」の性格が重要になっていく。国籍は重要ではない。
海外に出たら、どこの国でも同国人に頼りがちなのだが、実はその同国人が一番危なかったりすることも多い。
タイやフィリピンに在住する日本人の間では、「一番、気を付けなければならないのは同じ日本人だ」という教訓のようなものが出回っている。日本人が、日本人を騙す。
フィリピンは日本人が最も殺されている国なのだが、日本人を殺しているのは現地人でも、実際には日本人の依頼で殺していることが多い。
つまり、日本人がフィリピン人を使って日本人を殺しているのである。
2014年10月18日に鳥羽信介氏が殺害された事件も裏に日本人の存在があった。
(なぜフィリピンで保険金殺人が多いか考えたことがあるか?)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20160513T0237450900.html
2017年にはブスアンガ島で2人の日本人がバラバラに殺害されて殺される事件があったが、この事件の裏側にも胡散臭い日本人が存在していた。
(長浜博之が完全否定するパラワン日本人バラバラ殺人の裏側)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170610T0239380900.html
「良い人」なのか「悪い人」なのかは見抜けない
こうした現象は日本だけの話ではない。世界中どこでも同じで、韓国でも「海外に出たら、同じ韓国人に気を付けろ」と言われている。
フィリピンでは韓国人も大量に殺されているのだが、その事件の多くは韓国人がフィリピン人に殺害を依頼して同国人を殺しているのである。
ところで当のフィリピン人も、海外に出ると「現地の同国人に気をつけろ」が合言葉である。
フィリピンは出稼ぎをする人が多い国なのだが、出先では同国人同士が互いに騙したりしており、同じ民族だからと不用意に信じてはいけないと言い伝えられている。
「インド人もインド人に騙される」と言い、中国人も他人を信用できないので、同じ郷里や同じグループの者としか付き合わないようにしている。
つまり、同国人が海外で同国人に騙されるケースが山ほどあり、むしろあまりにも同国人を狙った犯罪が多いので、同国人が一番信用のならない人間になってしまっている。
同国人は言葉が通じるという安心感があって気を許しやすいのだが、それを狙われてしまう。
逆に、その国の見知らぬ人が心から助けてくれたり、好意を寄せてくれたりすることもあるわけで、そう考えると国籍や人種よりも、最後には目の前の人の「個人的な人間性」が重要になるというのが分かってくる。
ただ、ここに問題がある。
とてもではないが、目の前に現れた人が「良い人」なのか「悪い人」なのかは見抜けないのである。
ほとんどの旅人はそうだと思うが、放浪していると実に様々な人々に声をかけられたり、予期せぬ出会いがあったりする。そして、そのたびに相手が信用できるのかできないのかを、直感や確率で導きださなければならない。
「見る目」を間違えると、不快なことになるし、トラブルも起きる。逆に、良い人を悪い人と間違えることもある。いったい、どうすれば良い人と悪い人を瞬間に区分けするのかというのは、旅人にとって非常に切実な問題である。
インドネシアのスラムにて。私はこの赤ん坊を抱いた青いシャツのインドネシア人を最初はまったく信用していなかった。しかし、彼は本当に誠実で優しい男で、私は彼を通してインドネシアの良さを知った。
彼は近所の子供たちにも好かれており、病気を抱えた少女も彼を頼りにしていた。貧しいスラムの共同体の中で、彼はとても頼りになる男だった。そんな男を私はずっと信頼しなかったのだが、それは逆のパターンも多かったからだ。
詐欺師は人を信用させるのが仕事だから印象が良い
私もずいぶん「裏のある人間を見抜けるかどうか」に取り組んできたが、結局はそれが不可能であることを悟った。
人の裏側は見抜けない。本当に演技のうまい詐欺師がやってきたら、それが良い人なのか良い人を演じる悪い人なのかは判別できないのである。
見栄えや立ち振る舞いや全体的な雰囲気や最初の印象のすべては、当てにならない。良い方にも悪い方にも騙される。薄々と何かを感じることもあるが、それも確証にならない。
考えてみれば当たり前の話なのだが、知的な悪人は最初のうちは、非常に好意的で友好的で柔和で物腰が柔らかい。
「なんて優しい人なんだろう」と思わせたり、感激させたりしてくれる。詐欺師は人を信用させるのが仕事だから、全力で演技をしてくる。だから、分からない。
プロがアプローチしてきた場合、その人間が悪人なのか善人なのかを見分けることは基本的には不可能だ。
とにかく旅行中は詐欺師に遭遇する確率が高い。彼らは「お金を落としましたよ」と、落としてもいない小銭をわざわざ優しい笑みと共に差し出してくれたりする。
「ここではお金を落としたら戻ってこないから気をつけて下さいね」と、こともあろうか詐欺師が優しく忠告してくれるのである。最後はともかく、最初はそうだ。
しかし良い人だと思っていた人が、徐々に、あるいは唐突に何かに誘導してくる。
「飲みに行きませんか?」「カラオケに行きませんか?」「家に来ませんか?」「安い店を知っているので一緒にどうですか?」「喉が乾きませんか?」
そのときに、はっと気がつくかどうかが勝負だ。もし全面的に相手を信じてしまったら、もう取り返しがつかない。
最後には有り金すべて巻き上げられて路上に転がっている。騙されて金を取られるくらいならまだいいが、レイプされたり、殺されたりする人も枚挙に暇がない。
どんな旅慣れた人でも、しばしば危険な目に遭う。2011年9月28日にはミャンマーで旅してきた女性が殺されたという事件もあったが、彼女は旅慣れた女性だった。
(ミャンマーで一人旅をしていた邦人女性が首を締められ死亡)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20111013T0037100900.html
ルーマニアでレイプされて殺された20歳の女性も、学生団体のNPOに所属して旅の知識のある女性だった。
(ルーマニアで残虐にレイプされて殺された20歳の日本女性)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20120911T1859230900.html
エクアドルで新婚旅行中に殺された男性も、旅慣れていた。
(人見哲生。新婚旅行先のエクアドルで事件に巻き込まれ死亡)
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20140108T0221270900.html
なぜ、旅慣れた人も事件に巻き込まれるのか。やはり、分からないからである。結局、最後に騙されても壊滅的な打撃を受けないようにするしかないのではないか。今も私はそう思っている。
フィリピン。空港を降りた瞬間、いろんな人が声をかけてくる。もちろん、その中には得体の知れない詐欺師のような男たちも多い。
フィリピンのスラム。いろいろ治安が悪く、気が抜けない場所ではある。
こうしたスラムにいると、やはりいろんな人たちが入れ替わり立ち替わり声をかけてくる。「カラオケに行かない?」「家に来ない?」と彼女たちは誘ってくる。信頼できるのかどうか、その場で判断しなければならない。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20171015T0332160900.html
▲△▽▼
日本人は、人間関係を壊してはいけないという刷り込みが強い 2013-01-04
日本で不文律のように言われていることがある。それは
「人間関係は維持しなければならない」
「どんな人間関係でも、それを壊すと自分が困る」
というものだ。日本人は農耕民族なので、協調性も非常に重要視されており、どうしようもない人間とも嫌々付き合わなければならないとも言われている。
「世の中、誰もが好きな人間とだけ付き合って生きていけるほど甘くない。ときには嫌な人間とも付き合わなければならないのだ。我慢しなければならない」
日本人は昔は「村」の人間関係から逃れられず、今は「職場」の人間関係から逃れられない。だから、自分の我を出すのは非常に嫌われ、子供の頃から「我慢」と
「孤独な人間には価値がない」
と徹底的に刷り込まれていく。日本人は、
「人間関係を壊してはいけない」
という刷り込みが、極度に強い社会なのだ。
金を失い、時間を失い、平常心も失ってしまう
嫌われたら「村八分」される。村八分されたら生きていけない。だから、日本人は仲間はずれにされたり、孤独にされるのを非常に恐れており、孤独にも恐怖を感じる人も多い。はた目から見ると、人間関係の強迫観念にとらわれているかのようにも見える。社会がそれを強制している。だから、日本人は、仲間はずれにされないように他人に合わせるようになり、主張することもできず、何でも流されるように受け入れてしまう。
夜の街、歓楽街、欲望の街、売春地帯では、これが致命傷になる。手練手管に長けた女性や、自由奔放でまったく他人のことを考えない女性に、とことん振り回されるのである。
相手に不満があっても、流されるように受け入れ、そのために、どんどん金を失い、時間を失い、平常心も失ってしまう。そうなってしまっても、相手を切れず、利用され、カモにされ、踏み台にされる。
怒ったり、たしなめると、
「本当はあなたを愛してる」
「次からはきちんとする」
と答えて反省するが、しばらく経つとまたもや同じことを繰り返す。こういった女性は、他の男とトラブルを起こし、社会的なルールを守らず、金銭トラブルを起こし続けるのである。それでも、切れずに、ずるずると付き合って行く。人間関係で、「流されている」典型的な例である。
売春地帯では、日本人が束になっても敵わないほど奸知に長けた恐ろしい女性もいて、セックスをエサに男を破滅させる光景を山ほど見る。売春地帯で男が飛び降り自殺したり、自棄になって女性を殺害したりする事件が多発している。時には最悪の事件を起こす男もいる。日本人に多いのは
「ずっと貢がされる」
「断り切れなくて金を毟られる」
「次々とタカられる」
というものである。
詐欺で逮捕されたタイ女性。外国人を手玉に取って騙すような女性は、どこにでもいる。
流される人間関係が致命傷になってしまう
フィリピンでも、タイでも、ずるずると金を毟り取られる一方の男が山ほどいて、すべて奪われたら大使館前に「捨てられる」ような男もいる。すべて毟り取られて乱射事件を起こす男もいる。
なぜ、そうなるまで関わってしまうのか。ここに、人間関係で我慢し、村八分を恐れ、人間関係を切ることができない日本人の「刷り込み」を見ることができる。日本社会が日本人に強要している「刷り込み」とは、
「我を殺して協調性を重視する」
ことと
「ノーと言って人間関係を壊してはいけない」
というものだ。日本人の多くは子供の頃からそれを「刷り込まれている」ので、まったく意識していないが、だから危険なのである。過度に協調性を意識すると、それを良いことに、ずるずると利用され、タカられ、毟り取られていく。
東南アジアで女性ひとりと知り合ったら、その女性の友人や家族や親戚が次から次へと出てきて、当たり前のように、毎日のようにタカられる。
日本人は、それに強烈な不満を感じても、決してそれを口に出さず、ただ耐えて耐えて耐え抜いて、タカられるがままになる。それに何とも思わないで溶け込める人間ならいいのだが、最後に爆発して事件を起こすのであれば、最初から人間関係は遠慮なく切り捨てるほうがいい。日本から一歩出ると、むしろ「人間関係の切り捨て」ができるようにならないと、どうしようもなくなってしまう。特に、アンダーグラウンドではそうだ。流される人間関係が致命傷になってしまうのである。
自分のためにならない人間関係は、容赦なく切る
裏社会(アンダーグラウンド)は、常に表社会とは、逆のルールが作用している。
愛は表社会では正しい感情。
愛は裏社会では間違った感情。
信じることは表社会では正しい感情。
信じることは裏社会では危険な感情。
疑うことは表社会では嫌悪されること。
疑うことは裏社会では重要なこと。
何もかもが、表社会と裏社会ではそっくりそのままひっくり返っていて、表社会のルールで裏社会を泳ぐと、たちまちのうちにカモにされてしまう。
特に日本人は、自分の我を出すのは非常に嫌われ、子供の頃から「我慢」と「孤独な人間には価値がない」と徹底的に刷り込まれているので、世界中どこでもカモだ。カモにされても、気がつかないほどだ。
そこから逃れるには、
自分のためにならない人間関係は「容赦なく切り捨てる」
「ノーと言う」
「付き合えないと言えるようにする」
べきなのである。あなたのためにならない人間関係は、長く生きていると必ず出てくる。単に、群れるための人間関係、流されてできてしまった人間関係、我慢しているだけの人間関係、自分をダメにしてしまう人間関係、破滅が目に見えるだけの人間関係……。
そんな人間関係を強いる人間が、必ずあなたの目の前に現れる。特に海外では「友達」を押し売りする男と、「愛」を押し売りする女が、高確率で現れる。そのときに、人間関係を切れるかどうかが命運を分ける。悲劇を避けるためには、一刻も早く、日本社会特有の「刷り込み」から脱して、「悪い人間関係を切る」経験を積まなければならない。
大切にしなければならない縁と、容赦なく切らなければならない縁を見極めて、切るべきものは早めに切るべきだ。
重荷になっている人間関係に囚われてはならない。日本社会特有の「刷り込み」から脱して、悪い人間関係を切る。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20130105T0000060900.html
108. 2019年1月18日 13:30:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
溝口健二 夜の女たち(松竹 1948年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/171.html
1. 中川隆[-12899] koaQ7Jey 2019年1月18日 13:59:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
ドラマ「コウノドリ」1話ゲストに志田未来、耳が聞こえない妊婦役に 2017/09/29
https://news.nicovideo.jp/watch/nw2994403
鈴ノ木ユウ原作によるテレビドラマ「コウノドリ」新シリーズの第1話ゲストとして、志田未来が出演する。
志田が演じるのは、ろうあ者の妊婦・早見マナ。同じく耳が聞こえない夫・健治と支え合って生きているマナは、出産への不安を抱えていた。手話や唇の動きだけでは医療用語を伝えるのは難しく、綾野剛演じる担当医師の鴻鳥サクラや、吉田羊演じる助産師長・小松留美子と、ホワイトボードを使った筆談でコミュニケーションを取るが……。
2006年に放送されたテレビドラマ「14才の母」以来、約10年ぶりにテレビドラマで妊婦役を務めることになった志田は「妊娠や赤ちゃんを産むということを実際経験したことがない中で、さらに耳が聞こえないという大きな壁があり、演じていて率直に難しいな……と思いました」とコメント。また約10年ぶりに妊婦役を演じることについては「周りの友人も実際に母親になったり、年齢的にも出産というものが身近になってきたので、だからこそ命の重みを考えるようになり、実感しながら演じました」と語っている。
またペルソナ総合医療センターの産科にスーパーローテート研修でやってくる赤西吾郎役を宮沢氷魚が担当。産婦人科医を父に持つ吾郎は、同じジュニアである星野源演じる産婦人科医・四宮春樹から、愛ある鞭を受けながら成長していく。さらに産科過疎地の離島で総合医を務める荻島勝秀役として、佐々木蔵之介も出演する。
「コウノドリ」のドラマ新シリーズは、10月13日22時より初回15分拡大で放送開始。サクラ役の綾野、助産師長・小松役の吉田、四宮役の星野をはじめ、産婦人科医・下屋加江役を松岡茉優、新生児科の医師・白川領役を坂口健太郎、新生児科の部長・今橋貴之役を大森南朋が前作から続投する。
モーニング(講談社)にて連載中の「コウノドリ」は、出産に関する医療従事者と患者の人間ドラマをベースに、妊娠や出産の過酷な現場を描くヒューマン医療ドラマ。単行本は19巻まで発売されている。
志田未来(早見マナ役)コメント
「コウノドリ」第1話出演が決まって
もともと前作を拝見していて、しっかり命と向き合っている愛に溢れた作品だなという印象をもっていました。今作の1話のゲストということもあって、呼んでいただけたことに喜びとプレッシャーを同時に感じ、皆様からとても愛されている作品だと思いますので、しっかり自分の役をリアルに伝えていかなくてはいけないなと感じました。(実際に演じてみて)出産シーンというとてもハードで緊迫するシーンの中、出演者、スタッフの皆さんがとても温かく声をかけて下さり、心強く感じました。そして、現場の皆さんそれぞれが話し合って丁寧に1つのシーンを作り上げていく姿を拝見し、すごく素敵な現場だと思いました。
マナを演じるにあたって
妊娠や赤ちゃんを産むということを実際経験したことがない中で、さらに耳が聞こえないという大きな壁があり、演じていて率直に難しいな……と思いました。手話指導をしていただいた時に、実際耳が聞こえない方の出産のお話を聞かせていただきました。「耳が聞こえないことが今まで当たり前だったから、そのことをあまり不利だと思ったり、大変に感じなかった」とおっしゃっていたので、マイナスな気持ちを背負って演じないようにしました。
2度目の“出産”について
(「14才の母」に出演した)当時は13才という年齢もあり想像で演じるしかなく、母や周りの出産を経験している方にアドバイスとして話を聞いていたな……ということを思い出しました。約10年という時間が経っていますが、まだ実際には出産を経験していないので、今回もまた想像したりして演じました。
(10年前は)お腹に物を詰めても、どこに手を置いたらいいか、どう歩けばいいか、といったことなどがよくわからなくて注意されていたのですが、今回はそれが自然にできたこともあり、その経験が体にまだ染み付いているのかなと思いました。周りの友人も実際に母親になったり、年齢的にも出産というものが身近になってきたので、だからこそ命の重みを考えるようになり、実感しながら演じました。
テレビドラマ「コウノドリ」
2017年10月13日(金)22:00より放送開始
スタッフ
原作:鈴ノ木ユウ「コウノドリ」(講談社 「モーニング」連載中)
製作著作:TBS
キャスト
鴻鳥サクラ:綾野剛
下屋加江:松岡茉優
小松留美子:吉田羊
白川領:坂口健太郎
大澤政信:浅野和之
向井祥子:江口のりこ
赤西吾郎:宮沢氷魚
倉崎恵美:松本若菜
四宮春樹:星野源
今橋貴之:大森南朋
荻島勝秀:佐々木蔵之介
早見マナ:志田未来
https://news.nicovideo.jp/watch/nw2994403
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/168.html#c1
2. 中川隆[-12898] koaQ7Jey 2019年1月18日 14:03:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
コウノドリ 2期 第1話
https://www.youtube.com/watch?v=E8KskFQpptw
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B3%E3%82%A6%E3%83%8E%E3%83%89%E3%83%AA2%E6%9C%9F
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/168.html#c2
79. 中川隆[-12897] koaQ7Jey 2019年1月18日 14:12:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
ピアノの音響特性 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%81%AE%E9%9F%B3%E9%9F%BF%E7%89%B9%E6%80%A7
▲△▽▼
音階の周波数
https://tomari.org/main/java/oto.html
音階は、「音を高低の順番に並べたもの」あり、音の高低は周波数で表します。
音は、周波数が半分になると1オクターブ低くなり、周波数が倍になると1オクターブ高くなります。
1オクターブには12の音があり
(@ド、Aド#(レ♭)、Bレ、Cレ#(ミ♭)、Dミ、Eファ、Fファ#(ソ♭)、Gソ、Hソ#(ラ♭)、Iラ、Jラ#(シ♭)、Kシ)、
その12の音は、隣り合う半音間での周波数の比率が同じです。
(音階に対して等比数列的に増える)
音の周波数を a0,a1,a2・・・・a12 とし、この等比数列の公比をrとすると、
a12 = a0r12 = 2a0 であるから、r12 = 2 より r=12√2(r=1.059463094)、
よって
an =a0rn = a0*(2(1/12))n
となります。
通常常音階の基準音として使用される「ラ」の音 (ピアノ鍵盤の49番目) は、440Hz の音が使われております。
この基準音階周波数と上記の式より、ピアノの鍵盤(通常88)の周波数を計算すると下記の表になります。音のサンプル波形は正弦波形です。
ピアノの鍵盤の音階と周波数
鍵盤番号 周波数(Hz) 音階名※
1 27.500 ラ A0
2 29.135 A#0
3 30.868 シ B0
4 32.703 ド C1
5 34.648 C#1
6 36.708 レ D1
7 38.891 D#1
8 41.203 ミ E1
9 43.654 ファ F1
10 46.249 F#1
11 48.999 ソ G1
12 51.913 G#1
13 55.000 ラ A1
14 58.270 A#1
15 61.735 シ B1
16 65.406 ド C2
17 69.296 C#2
18 73.416 レ D2
19 77.782 D#2
20 82.407 ミ E2
21 87.307 ファ F2
22 92.499 F#2
23 97.999 ソ G2
24 103.826 G#2
25 110.000 ラ A2
26 116.541 A#2
27 123.471 シ B2
28 130.813 ド C3
29 138.591 C#3
30 146.832 レ D3
31 155.563 D#3
32 164.814 ミ E3
33 174.614 ファ F3
34 184.997 F#3
35 195.998 ソ G3
36 207.652 G#3
37 220.000 ラ A3
38 233.082 A#3
39 246.942 シ B3
40 261.626 ド C4
41 277.183 C#4
42 293.665 レ D4
43 311.127 D#4
44 329.628 ミ E4
45 349.228 ファ F
46 369.994 F#4
47 391.995 ソ G4
48 415.305 G#4
49 440.000 ラ A4
50 466.164 A#4
51 493.883 シ B4
52 523.251 ド C5
53 554.365 C#5
54 587.330 レ D5
55 622.254 D#5
56 659.255 ミ E5
57 698.456 ファ F5
58 739.989 F#5
59 783.991 ソ G5
60 830.609 G#5
61 880.000 ラ A5
62 932.328 A#5
63 987.767 シ B5
64 1046.502 ド C6
65 1108.731 C#6
66 1174.659 レ D6
67 1244.508 D#6
68 1318.510 ミ E6
69 1396.913 ファ F6
70 1479.978 F#6
71 1567.982 ソ G6
72 1661.219 G#6
73 1760.000 ラ A6
74 1864.655 A#6
75 1975.533 シ B6
76 2093.005 ド C7
77 2217.461 C#7
78 2349.318 レ D7
79 2489.016 D#7
80 2637.020 ミ E7
81 2793.826 ファ F7
82 2959.955 F#7
83 3135.963 ソ G7
84 3322.438 G#7
85 3520.000 ラ A7
86 3729.310 A#7
87 3951.066 シ B7
88 4186.009 ド C8
※音階名は国際式音名表記です。
人間が聞くことが出来る周波数は、個人差や年齢差はありますが20Hz〜20000Hzと言われています。
聴力は年齢を重ねるとともに衰えていき、とくに高い周波数の音が聞こえづらくなっていき、15000Hz以上の音は20代後半ごろよりだんだん聞こえなくなるようです。
下記の周波数音も、どのように聞こえるかお試しください。
https://tomari.org/main/java/oto.html
▲△▽▼
ピアノの一番低い音は聞こえない
http://myamada.my.coocan.jp/003-piano.html
楽器の音というと,心地よく聴けて当然と思っていた.しかも,誰もが聞いたことがあるピアノが出す音ならば聞こえて至極当然だ.しかし,驚いたことに3割の人にはピアノの一番低い音(一番左端の白鍵)の周波数(27.5Hz)(参照)の音が全く聞こえていないし,残りの7割の人にもあまりはっきりとは聞こえていない.
人の可聴域は 20Hz〜20000Hz ときく.可聴域には個人差があるし,高齢になると高音域が聞こえにくくなるので,誰にでも 20Hz〜20000Hz が聴こえるわけではない.よく話題に上るのは,お年寄りが耳が遠くなって大声を出さないと会話できなくなることだ.私の父も,普段はテレビを高音域を強めに調整して且つ大音量で鳴らしている.母は父より耳が聞こえるのでその音量に少々げんなりしているようだ.たまに帰省したときは,少し音量を下げてもらったり,耳栓をしたりしている.要するに,可聴域というと高音域側が問題になることが多い.
「可聴域と音程の判別能力」について記述したサイトによると,138名へのアンケート調査(有効回答の年齢幅は5〜56才)で,可聴域の上限は,およそ 9000Hz〜22000Hz で,平均は約 18000Hz とのこと.また,別のサイトで可聴域の年齢テストをやってみたら,私は 16000Hz までは辛うじて聞こえた(音程の違いは判らなくて,鳴っていること だけが判る)が,17000Hz は全く聞こえなかった.さらに,また別のサイトの可聴周波数域チェッカで自分の可聴域をチェックすると 13750Hz だった.2つのテストで少々結果が違うのだが,聴こえる高い音には限界があるということは実感できた.音程が非常に高い音や非常に低い音は,アンプやスピーカーの特性によっては鳴りにくいことも考えられるので,正確にはちゃんとしたスピーカーでテストした方がよい(今回は,PC用のスピーカーでやったので鳴りにくかったということはあり得る).いずれにしても,ピアノや他の楽器の一番高い音は 4000Hz 程度なので,健常者には充分に聴こえる周波数だ.
さて,本題の低音側だが,上記サイトによると,可聴域の下限は,およそ 11Hz〜73Hz で,バラつきが大きく,年齢による傾向は特に認められないとのこと.私がここに掲載されていたグラフの点を数えてみると,下限が30Hz以上の人は(2点以上が重なっているものは1点として数えた),16人/57人=0.281 となった.つまり,約3割の人は30Hzの低音が(音量をいくら大きくしても)全く聞こえない.私の場合,低音に関しても,可聴周波数域チェッカで自分の可聴域をチェックしてみると(10Hzきざみ),30Hz は何とか聴こえたが,20Hz は音量を上げても全く聴こえなかった.こんな私には,いったいピアノの最低音 27.5Hz が聴こえているのだろうか?
そんなことを考えながら,家のピアノの一番左側のキーを叩いて耳を澄ましてみると,最低音のあたりは「ビーン」という雑音ばかりが目立ち,ピアノらしい澄んだ音色とは掛け離れた音であることにあらためて気づく.以前から,ピアノの一番低い音の辺りはビンビンした音で,あまりきれいな音ではないなあと感じており,ピアノの性能が悪いのが低音の音色の悪い原因と思っていた.しかし,実は自分の耳が悪かったためなのかもしれない.きっと倍音ばかりが聴こえていて肝心の基音がほとんど聴こえていないのだ.今まで,聴こえている気がしていただけだったのか‥‥‥ (;_;)
ネットで調べていて,ピアノよりも低い音がでる楽器を見つけた.ベーゼンドルファー社のピアノには,一般的なピアノの最低音のラ(27.5Hz)よりさらに低音のド(16Hz)まで出るものがあるという.16Hzになると過半数の人が聴こえないのではないか.そして,極めつけは,パイプ・オルガンで,さらに1オクターブ下のド(8Hz)の音が出るものがあるらしい.ここまでになると殆どの人が聴こえないはずだ.だいたい,8Hzというと,1秒間に8回だ.太鼓を1秒間に8回叩くぐらいなら私にもできるが,それによって聴こえる超低周波音だ.何か聴こえる人いますか?
http://myamada.my.coocan.jp/003-piano.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/845.html#c79
65. 中川隆[-12896] koaQ7Jey 2019年1月18日 14:14:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
ピアノの音響特性 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E3%81%AE%E9%9F%B3%E9%9F%BF%E7%89%B9%E6%80%A7
▲△▽▼
音階の周波数
https://tomari.org/main/java/oto.html
音階は、「音を高低の順番に並べたもの」あり、音の高低は周波数で表します。
音は、周波数が半分になると1オクターブ低くなり、周波数が倍になると1オクターブ高くなります。
1オクターブには12の音があり
(@ド、Aド#(レ♭)、Bレ、Cレ#(ミ♭)、Dミ、Eファ、Fファ#(ソ♭)、Gソ、Hソ#(ラ♭)、Iラ、Jラ#(シ♭)、Kシ)、
その12の音は、隣り合う半音間での周波数の比率が同じです。
(音階に対して等比数列的に増える)
音の周波数を a0,a1,a2・・・・a12 とし、この等比数列の公比をrとすると、
a12 = a0r12 = 2a0 であるから、r12 = 2 より r=12√2(r=1.059463094)、
よって
an =a0rn = a0*(2(1/12))n
となります。
通常常音階の基準音として使用される「ラ」の音 (ピアノ鍵盤の49番目) は、440Hz の音が使われております。
この基準音階周波数と上記の式より、ピアノの鍵盤(通常88)の周波数を計算すると下記の表になります。音のサンプル波形は正弦波形です。
ピアノの鍵盤の音階と周波数
鍵盤番号 周波数(Hz) 音階名※
1 27.500 ラ A0
2 29.135 A#0
3 30.868 シ B0
4 32.703 ド C1
5 34.648 C#1
6 36.708 レ D1
7 38.891 D#1
8 41.203 ミ E1
9 43.654 ファ F1
10 46.249 F#1
11 48.999 ソ G1
12 51.913 G#1
13 55.000 ラ A1
14 58.270 A#1
15 61.735 シ B1
16 65.406 ド C2
17 69.296 C#2
18 73.416 レ D2
19 77.782 D#2
20 82.407 ミ E2
21 87.307 ファ F2
22 92.499 F#2
23 97.999 ソ G2
24 103.826 G#2
25 110.000 ラ A2
26 116.541 A#2
27 123.471 シ B2
28 130.813 ド C3
29 138.591 C#3
30 146.832 レ D3
31 155.563 D#3
32 164.814 ミ E3
33 174.614 ファ F3
34 184.997 F#3
35 195.998 ソ G3
36 207.652 G#3
37 220.000 ラ A3
38 233.082 A#3
39 246.942 シ B3
40 261.626 ド C4
41 277.183 C#4
42 293.665 レ D4
43 311.127 D#4
44 329.628 ミ E4
45 349.228 ファ F
46 369.994 F#4
47 391.995 ソ G4
48 415.305 G#4
49 440.000 ラ A4
50 466.164 A#4
51 493.883 シ B4
52 523.251 ド C5
53 554.365 C#5
54 587.330 レ D5
55 622.254 D#5
56 659.255 ミ E5
57 698.456 ファ F5
58 739.989 F#5
59 783.991 ソ G5
60 830.609 G#5
61 880.000 ラ A5
62 932.328 A#5
63 987.767 シ B5
64 1046.502 ド C6
65 1108.731 C#6
66 1174.659 レ D6
67 1244.508 D#6
68 1318.510 ミ E6
69 1396.913 ファ F6
70 1479.978 F#6
71 1567.982 ソ G6
72 1661.219 G#6
73 1760.000 ラ A6
74 1864.655 A#6
75 1975.533 シ B6
76 2093.005 ド C7
77 2217.461 C#7
78 2349.318 レ D7
79 2489.016 D#7
80 2637.020 ミ E7
81 2793.826 ファ F7
82 2959.955 F#7
83 3135.963 ソ G7
84 3322.438 G#7
85 3520.000 ラ A7
86 3729.310 A#7
87 3951.066 シ B7
88 4186.009 ド C8
※音階名は国際式音名表記です。
人間が聞くことが出来る周波数は、個人差や年齢差はありますが20Hz〜20000Hzと言われています。
聴力は年齢を重ねるとともに衰えていき、とくに高い周波数の音が聞こえづらくなっていき、15000Hz以上の音は20代後半ごろよりだんだん聞こえなくなるようです。
下記の周波数音も、どのように聞こえるかお試しください。
https://tomari.org/main/java/oto.html
▲△▽▼
ピアノの一番低い音は聞こえない
http://myamada.my.coocan.jp/003-piano.html
楽器の音というと,心地よく聴けて当然と思っていた.しかも,誰もが聞いたことがあるピアノが出す音ならば聞こえて至極当然だ.しかし,驚いたことに3割の人にはピアノの一番低い音(一番左端の白鍵)の周波数(27.5Hz)(参照)の音が全く聞こえていないし,残りの7割の人にもあまりはっきりとは聞こえていない.
人の可聴域は 20Hz〜20000Hz ときく.可聴域には個人差があるし,高齢になると高音域が聞こえにくくなるので,誰にでも 20Hz〜20000Hz が聴こえるわけではない.よく話題に上るのは,お年寄りが耳が遠くなって大声を出さないと会話できなくなることだ.私の父も,普段はテレビを高音域を強めに調整して且つ大音量で鳴らしている.母は父より耳が聞こえるのでその音量に少々げんなりしているようだ.たまに帰省したときは,少し音量を下げてもらったり,耳栓をしたりしている.要するに,可聴域というと高音域側が問題になることが多い.
「可聴域と音程の判別能力」について記述したサイトによると,138名へのアンケート調査(有効回答の年齢幅は5〜56才)で,可聴域の上限は,およそ 9000Hz〜22000Hz で,平均は約 18000Hz とのこと.また,別のサイトで可聴域の年齢テストをやってみたら,私は 16000Hz までは辛うじて聞こえた(音程の違いは判らなくて,鳴っていること だけが判る)が,17000Hz は全く聞こえなかった.さらに,また別のサイトの可聴周波数域チェッカで自分の可聴域をチェックすると 13750Hz だった.2つのテストで少々結果が違うのだが,聴こえる高い音には限界があるということは実感できた.音程が非常に高い音や非常に低い音は,アンプやスピーカーの特性によっては鳴りにくいことも考えられるので,正確にはちゃんとしたスピーカーでテストした方がよい(今回は,PC用のスピーカーでやったので鳴りにくかったということはあり得る).いずれにしても,ピアノや他の楽器の一番高い音は 4000Hz 程度なので,健常者には充分に聴こえる周波数だ.
さて,本題の低音側だが,上記サイトによると,可聴域の下限は,およそ 11Hz〜73Hz で,バラつきが大きく,年齢による傾向は特に認められないとのこと.私がここに掲載されていたグラフの点を数えてみると,下限が30Hz以上の人は(2点以上が重なっているものは1点として数えた),16人/57人=0.281 となった.つまり,約3割の人は30Hzの低音が(音量をいくら大きくしても)全く聞こえない.私の場合,低音に関しても,可聴周波数域チェッカで自分の可聴域をチェックしてみると(10Hzきざみ),30Hz は何とか聴こえたが,20Hz は音量を上げても全く聴こえなかった.こんな私には,いったいピアノの最低音 27.5Hz が聴こえているのだろうか?
そんなことを考えながら,家のピアノの一番左側のキーを叩いて耳を澄ましてみると,最低音のあたりは「ビーン」という雑音ばかりが目立ち,ピアノらしい澄んだ音色とは掛け離れた音であることにあらためて気づく.以前から,ピアノの一番低い音の辺りはビンビンした音で,あまりきれいな音ではないなあと感じており,ピアノの性能が悪いのが低音の音色の悪い原因と思っていた.しかし,実は自分の耳が悪かったためなのかもしれない.きっと倍音ばかりが聴こえていて肝心の基音がほとんど聴こえていないのだ.今まで,聴こえている気がしていただけだったのか‥‥‥ (;_;)
ネットで調べていて,ピアノよりも低い音がでる楽器を見つけた.ベーゼンドルファー社のピアノには,一般的なピアノの最低音のラ(27.5Hz)よりさらに低音のド(16Hz)まで出るものがあるという.16Hzになると過半数の人が聴こえないのではないか.そして,極めつけは,パイプ・オルガンで,さらに1オクターブ下のド(8Hz)の音が出るものがあるらしい.ここまでになると殆どの人が聴こえないはずだ.だいたい,8Hzというと,1秒間に8回だ.太鼓を1秒間に8回叩くぐらいなら私にもできるが,それによって聴こえる超低周波音だ.何か聴こえる人いますか?
http://myamada.my.coocan.jp/003-piano.html
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CDのスペクトラム(周波数帯域) Uploaded Jan.28th,2010
http://web1.kcn.jp/oshikuma_lab/theatertopics4.html
市販CDソース(新旧)の中から優秀録音と思われるものを含めてそのスペクトラムを調べて各々のソースに必要とされる帯域とそのピークエネルギ−に対する情報を得ることにする。測定は各ジャンル毎に分類して行った。測定サンプル数は多くないが傾向を把握することができる。詳細な測定結果を次に示す。
1) オーケストラのスペクトラムは全帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっている。フルバンドジャズやフュージョンのスペクトラムは広帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっており、オーケストラ同様に全体のバランスをチェックする目的に適している。
2) 大太鼓の基音は約40Hzであるから、大太鼓を十分再生するには40Hz以上の再生帯域が必要である。一方、オルガン曲では、測定した2曲共にアナログ録音であるが、約30Hzから録音されている。オルガン曲を十分再生するには30Hz以上の再生帯域が必要である。
3) オーケストラやフルバンドジャズのピーク音圧は高いので、広帯域特性とダイナミックレンジを備えたスピーカを選択することが必要である。
4) これらとは対照的に小編成のジャズ、室内楽、ソロ楽器、ボーカルの帯域は相対的に狭いので、広帯域でなくとも必要とする帯域をカバーするスピーカであれば大きな問題は発生しないと思われる。
かって、故池田圭氏宅で男性ボーカル録音をWE555で試聴したことがあったが、再生帯域上の問題は感じられず堂々とした再生音が得られていたと記憶している(WE555+15Aホーンの組み合わせによる音圧周波数特性は 5kHz以上でロールオフ特性となるが、高音域成分の少ない男性ボーカル帯域を再生する目的には特性上の問題は少ない)。
5) (1)、(4)からスピーカ再生帯域は、通常言われているクラシック向き、ジャズ向きという分類でなく、種類や編成によることがわかる。
以下の測定では、測定用として特性を管理したCDプレーヤと半導体アンプ(プリ部)を用いて、プリ出力として得られる各曲のピーク値を記録している。
オーケストラ
スペクトラムは全帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっているため、全体のバランスをみる目的に適している。
橙: ミネソタオーケストラ/RR907CD/Track7(Tchaikovsky/Hopak from Mazeppa)/Eiji Oue
緑: ドイツグラモフォンベストレコーディング(Stereo Sound Reference Record Vol.9)/C30G00102/Track10&11(ストラヴィンスキー火の鳥)/ブーレーズ指揮、シカゴ交響楽団
紫: ワーグナー ニベルングの指輪/SICC20008/Track2(ワルキューレの騎行)/ジョージ・セル指揮, クリーブランドオーケストラ
黄: ストラビンスキー春の祭典/SICC 20040/Track2-3/ブーレーズ指揮,クリーブランドオーケストラ
青: ベートーベン前奏曲集/TDGD90013/Track2(Coriolan)/サー・コリン・デイヴィス指揮, バイエルン放送交響楽団
室内楽
測定した2曲の帯域は狭く高域のエネルギーが少ない。広帯域特性よりも質感の再生が重要となってくる。
緑: モーツァルト ピアノトリオ/UCCG-1285/Track7/アンネ・ソフィー・ムター, アンドレ・プレヴィン, ダニエル・ミュラー・ショット
紫: ヴィヴァルディ 四季/UCCP-9057/Track1(春 第一楽章)/イ・ムジチ
オルガン
2曲共にアナログ録音であるが、約30Hzから録音されており、低域テスト用として十分である。
緑: サンサーンス交響曲第3番/3UCCD7056/Track2/エルネスト・アンセルメ指揮, スイス・ロマンド管弦楽団
紫: 菅野レコーディング Best Sound Selection/SSSA1(TGGS119)/Track2(JSバッハ/オルガン・コラール)
ピアノ曲
測定した3曲のスペクトラムは、非常によく似ており、帯域は70Hz-数kHzとなっている。
紫: リスト 超絶技巧練習曲/UCCG-1440/Track13(ラ・カンパネラ)/アリス=紗良オット
緑: 献呈/TOCE55880/Track3(ショパン 幻想即興曲)/蔵島由貴
橙: Stereo Sound Best Sound Selection柳沢功力/SSRR1/Track7(シューベルト 楽興の時)/内田光子
弦楽器(ソロ)
バイオリンソロに比べてチェロソロは低域に伸びており、しかも高域にもスペクトラムが広がっている。スペクトラムの観点からみるとチェロがソロ楽器として全帯域のスムーズなつながりのテストに用いることができる。
緑: バッハ & イザイ/NF-53002/Track7(Obsession)/ジョゼフ・リン(violin)
紫: 菅野レコーディング Best Sound Selection/SSSA1(TGGS119)/Track1(パガニーニの主題による変奏曲/ヤーノシュ・シュタルケル(cello))
女性ボーカル
4曲/4人とも非常によく似た狭帯域スペクトラムとなっている。8kHz付近のピークに違いがありレベルこそ低いものの声の特徴に影響を与える(聴感上の違いと一致する)。ボーカルを生かすために伴奏のエネルギーが控えめとなっていることが読み取れる。
紫: イタリア歌曲集/POCL1753/Track1(アラゴネーゼ)/チェチーリア・バルトリ(メッゾ・ソプラノ)
青: スペイン歌曲集/457 726/Track4(エリザベート・シュワルツコップ(ソプラノ))
橙: 鮫島有美子/SD104/Track2(この道)
緑: さくら横丁/VICC60276-3/Track3(からたちの花)/佐藤美枝子
男性ボーカル
男性ボーカルは女性ボーカルに比べて数100Hzのエネルギーが大きいことが特徴であり、この帯域の再生能力が影響する。また、5-10kHz付近のピークはレベルこそ低いものの声の特徴に影響を与える。
緑: ロンドンベストレコーディング(Stereo Sound Reference Record Vol.9)/C30L00101/Track4(ペーター・シュライアー(バリトン))
紫: スペイン歌曲集/457 726/Track1(ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ(バリトン))
ジャズ&フュージョン
フルバンドジャズやフュージョンのスペクトラムは広帯域(35Hz-20kHz)にわたり概ね一様となっており、オーケストラ同様に全体のバランスをチェックする目的に適している。オーケストラやジャズのピーク音圧は高いので、広帯域かつ大音圧再生可能なスピーカを選択することが必要である。
一方、これらとは対照的に、小編成のジャズの帯域は50Hz-5kHzに偏っており、新旧録音で大差ない。そのため、古典的な30-38cmシングルコーンでも再生できそうな特性である。
緑: My Funny Valentine/TKCV-35348/Track6(It's all right with me)/Eddie Higgins Quartet
紫: 甦るビッグバンドサウンド/MLZJ2001/Track10(シング・シング・シング)/角田健一ビッグバンド
橙: マーカスミラー/VICJ-61266/Track9(シルバー・レイン)
青: Alfie/A9111/Track1(Alfie's Theme)/Sonny Rollins with orchestra conducted by Oliver Nelson
ポップス
スペクトラムの主要な帯域は、50Hz-5kHz程度で低域のエネルギーを必要する一方、高域にかけてなだらかに減衰する。中低域中心の伴奏とボーカルという構成となっているためと思われる。
緑: ビートルズフォアエバー(1993年版)/UND-2/Track3(Rock and Roll Music)/ザ・ビートルズ
橙: Stereo Sound Best Sound Selection ノンサッチ/SSRR2(WQCP745)/Track1(After the Gold Rush)/k.d.Lang
青: Stereo Sound Best Sound Selection ノンサッチ/SSRR2(WQCP745)/Track8(Tan Bi)/Youssou N'Dour
紫: 大吟醸/YCCW0034/Track8(時代)/中島みゆき
黄: Taking a Chance on Love/SICP 632/Track5(I won't dance)/Jane Monheit, Michael Buble
80. 中川隆[-12895] koaQ7Jey 2019年1月18日 14:17:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
耳トレ!
耳トレ!-こちら難聴・耳鳴り外来です。 – 2011/10/3 中川雅文 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E8%80%B3%E3%83%88%E3%83%AC-%E3%81%93%E3%81%A1%E3%82%89%E9%9B%A3%E8%81%B4%E3%83%BB%E8%80%B3%E9%B3%B4%E3%82%8A%E5%A4%96%E6%9D%A5%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82-%E4%B8%AD%E5%B7%9D%E9%9B%85%E6%96%87/dp/476781202X
大学教授で現役のお医者さんが書いたこの本には「耳の健康」に対する情報が満載で実に”ため”になる本だった。
☆ 日本語は世界一「難聴者」にやさしい言語
どの国の言語にもそれぞれ固有の周波数帯というものがあり、母国の言語を繰り返し聞いて育つうちにその周波数帯以外の音を言語として聞き取る脳の感受性が失われていく。
そのため生後11歳くらいまでには母国語を聞いたり発音する能力に特化した脳が出来上がる。
日本語で頻繁に使われる周波数帯は125〜1500ヘルツで、英語は200〜12000ヘルツと随分と違う。日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。
したがって、英語民族は高齢になると早い段階で高い音が聞き取りにくくなって不自由を感じるが、日本人はすぐには不自由を感じない。その点で日本語は世界一難聴者にやさしい言語である。
※ これは一人で二か国の言語を操るバイリンガルの「臨界期」が10歳前後と言われる所以でもある。また、英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多いが、これで謎の一端が解けたような気がする。その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がる。
☆ 聴力の限界とは
音の高い・低いを表す単位がヘルツなら、音の強さや大きさ(=音圧レベル)は「デシベル(dB)」であらわす。
人間が耳で聞き取ることのできる周波数の範囲は「20〜2万ヘルツ(空気中の1秒間の振動が20回〜2万回)」の間とされているが、イルカやコウモリなどは耳の形や構造が違うのでこの範囲外の超音波でさえ簡単に聞き取れる。
ただし人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。
※ 人間の耳は一人ひとりその形も構造も微妙に違うし、音を認知する脳の中味だって生まれつき違う。したがって同じオーディオ装置の音を聴いたとしても各人によって受け止め方が千差万別というのが改めてよくわかる。
自分でいくら「いい音だ」と思ってみても、他人にとっては「それほどでもない」という日常茶飯事のように起こる悲劇(?)もこれで一応説明がつくが、音に光や色彩感覚があるように感じるのは超高音域のせいだったのだ!
☆ 音が脳に伝わるまでの流れ
耳から入った空気の振動は外耳道と呼ばれる耳の穴を通り、アナログ的に増幅されて鼓膜に伝わり、アブミ骨などの小さな骨に伝わってリンパ液のプールである蝸牛へ。そこで有毛細胞によって振動が電気信号に変換され、聴神経から脳に伝わる。これで耳の中の伝達経路はひとまず終了。
この電気信号が言語や感情と結びついた「意味のある音」として認識されるまでにはもう少し脳内での旅が続く。
電気信号が聴神経や脳幹を経て脳内に入ると、まず、大脳の中心部にある「視床」に送られる。ここは、脳内の情報伝達の玄関口となっている。視覚、聴覚、皮膚感覚などあらゆる感覚情報が必ず通る場所で、単純に音だけを聴いているつもりでも、様々な感覚情報とクロスオーバーしている。
また「視床」を通過すると音の伝達経路は「言語系ルート」と「感情系ルート」の二つに大きく分かれる。前者は最終的に「言語野」に到達するが、後者は大脳の一次聴覚野を通らず、いきなり「扁桃体」に直結していて「イヤな音」「うれしい音」というように音を直感的・情緒的に受け止める。
※ 音楽を聴くときにカーテンなどでスピーカーを隠してしまったり、あるいは目を瞑って聴いたりすると、機器の存在を意識しないでより一層音楽に集中できるのは経験上よく分かる。
さらに、直感的なイメージとしてオーディオマニアが音楽を聴くときには主として「感覚系ルート」がはたらき、それ以外の人たちが(音楽を)聴くときには主として「言語系ルート」が働いているように思うが果たしてどうだろうか・・・。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c85e3a32c3aca5331dd2fb7adaf73d2a
66. 中川隆[-12894] koaQ7Jey 2019年1月18日 14:17:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
耳トレ!
耳トレ!-こちら難聴・耳鳴り外来です。 – 2011/10/3 中川雅文 (著)
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大学教授で現役のお医者さんが書いたこの本には「耳の健康」に対する情報が満載で実に”ため”になる本だった。
☆ 日本語は世界一「難聴者」にやさしい言語
どの国の言語にもそれぞれ固有の周波数帯というものがあり、母国の言語を繰り返し聞いて育つうちにその周波数帯以外の音を言語として聞き取る脳の感受性が失われていく。
そのため生後11歳くらいまでには母国語を聞いたり発音する能力に特化した脳が出来上がる。
日本語で頻繁に使われる周波数帯は125〜1500ヘルツで、英語は200〜12000ヘルツと随分と違う。日本語は世界の言語の中でもっとも低い周波数帯の言語で、英語は世界一高い周波数帯の言語である。
したがって、英語民族は高齢になると早い段階で高い音が聞き取りにくくなって不自由を感じるが、日本人はすぐには不自由を感じない。その点で日本語は世界一難聴者にやさしい言語である。
※ これは一人で二か国の言語を操るバイリンガルの「臨界期」が10歳前後と言われる所以でもある。また、英語圏の国で製作されたアンプやスピーカーなどのオーディオ製品には、高音域にデリカシーな響きをもったものが多いが、これで謎の一端が解けたような気がする。その一方で、とかく高音域に鈍感な日本人、ひいては日本のオーディオ製品の特徴も浮かび上がる。
☆ 聴力の限界とは
音の高い・低いを表す単位がヘルツなら、音の強さや大きさ(=音圧レベル)は「デシベル(dB)」であらわす。
人間が耳で聞き取ることのできる周波数の範囲は「20〜2万ヘルツ(空気中の1秒間の振動が20回〜2万回)」の間とされているが、イルカやコウモリなどは耳の形や構造が違うのでこの範囲外の超音波でさえ簡単に聞き取れる。
ただし人間の場合は20ヘルツ以下の音は聴覚ではなく体性感覚(皮膚感覚)で感じ取り、2万ヘルツ以上の音(モスキート音)は光や色として感じ取りその情報を脳に伝えている。
※ 人間の耳は一人ひとりその形も構造も微妙に違うし、音を認知する脳の中味だって生まれつき違う。したがって同じオーディオ装置の音を聴いたとしても各人によって受け止め方が千差万別というのが改めてよくわかる。
自分でいくら「いい音だ」と思ってみても、他人にとっては「それほどでもない」という日常茶飯事のように起こる悲劇(?)もこれで一応説明がつくが、音に光や色彩感覚があるように感じるのは超高音域のせいだったのだ!
☆ 音が脳に伝わるまでの流れ
耳から入った空気の振動は外耳道と呼ばれる耳の穴を通り、アナログ的に増幅されて鼓膜に伝わり、アブミ骨などの小さな骨に伝わってリンパ液のプールである蝸牛へ。そこで有毛細胞によって振動が電気信号に変換され、聴神経から脳に伝わる。これで耳の中の伝達経路はひとまず終了。
この電気信号が言語や感情と結びついた「意味のある音」として認識されるまでにはもう少し脳内での旅が続く。
電気信号が聴神経や脳幹を経て脳内に入ると、まず、大脳の中心部にある「視床」に送られる。ここは、脳内の情報伝達の玄関口となっている。視覚、聴覚、皮膚感覚などあらゆる感覚情報が必ず通る場所で、単純に音だけを聴いているつもりでも、様々な感覚情報とクロスオーバーしている。
また「視床」を通過すると音の伝達経路は「言語系ルート」と「感情系ルート」の二つに大きく分かれる。前者は最終的に「言語野」に到達するが、後者は大脳の一次聴覚野を通らず、いきなり「扁桃体」に直結していて「イヤな音」「うれしい音」というように音を直感的・情緒的に受け止める。
※ 音楽を聴くときにカーテンなどでスピーカーを隠してしまったり、あるいは目を瞑って聴いたりすると、機器の存在を意識しないでより一層音楽に集中できるのは経験上よく分かる。
さらに、直感的なイメージとしてオーディオマニアが音楽を聴くときには主として「感覚系ルート」がはたらき、それ以外の人たちが(音楽を)聴くときには主として「言語系ルート」が働いているように思うが果たしてどうだろうか・・・。
http://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/c85e3a32c3aca5331dd2fb7adaf73d2a
12. 中川隆[-12893] koaQ7Jey 2019年1月18日 14:55:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
秋篠宮様とタイの怪しい関係 その1 2017-05-07
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-3.html
秋篠宮様の過去を振り返る上でまず欠かせないのが、タイとの関係でしょう。
週刊新潮1996年4月18日号では、下記のような記事が掲載されています。
★今後、記事等を引用する場合は文字色を変えて引用箇所が分かるようにします。
『秋篠宮殿下 度重なる「タイ訪問」に流言蜚語』
>秋篠宮殿下(30)が今月十七日から単身でタイを訪れる。
>目的はお馴染みのナマズの研究ということだが、折りしも来日するクリントン大統領夫妻の宮中晩餐会は欠席することになった。
>なぜ公務よりも私的な旅行を優先されたのか。
>しかも、昨年九月、今年三月と度重なるタイ訪問。殿下の決断を訝る声も出ているのだ。
>そして、あろうことか「タイに親しい女性がいるから」なんて流言蜚語まで飛び交って・・・
という文章で始まる記事。
この冒頭文だけで衝撃的な言葉がいくつも登場します。
以下、記事の続きを引用します。
>「クリントン大統領の公的な行事を欠席してタイに行く、という報道を見たとき、
>また秋篠宮さまの性格が出たなと思いました。
>秋篠宮さまは幼いときから良くも悪くもわがままでしたから」 と、話すのはあるベテラン皇室記者である。
>「お世継ぎとして厳しく育てられた皇太子殿下に対して、
>秋篠宮さまは自由奔放に育てられました。だから秋篠宮さまは車も運転すれば、
>カラオケにもでかけるような親しみやすさを持っているわけです。
>ただし、奔放過ぎて問題を起こすこともあった。皇太子との待遇の違いから“皇籍離脱” を口にしたこともありましたし、
>昭和天皇の喪が明けぬうちにご結婚を決められたことにも、宮中では批判の声が強かった」
これまた衝撃的な言葉のオンパレードです。
しかし当時から秋篠宮が「こういうご性格」であるということは、大半の国民にとって「織り込み済み」事項と言えたかもしれません。
当時の国民はこの記事を読んで「そんなはずはない」という感想よりも、
「まあ天皇陛下の次男だし、皇位を継がないから昔からお気楽だったでしょう」
という感想の方が多かっただろうと想像します。
★「皇籍離脱を口にした」とか「昭和天皇の喪が明けぬうちにご結婚を決められた」という点については、また後ほど別の雑誌記事で検証する予定でおります。
更に記事は続きます。
>皇籍離脱騒動のときは「ご両親への反抗」などと言われたが、
>平成二年に紀子さまと結婚されて、ここのところ持前の奔放さも鳴りを潜めていた。
>が、突然、公務を欠席してナマズの研究に出掛けると言いだしたのである。
>本来なら天皇ご一家でクリントン夫妻をお迎えするところなのに、
>秋篠宮さまが不在では両陛下も心配されていることだろう。
>宮内庁は“苦渋の選択”を強調するのだが、タイ訪問はあくまで私的な旅行なのである。
>両陛下主催の宮中晩餐会が開かれるのは十七日の夜。
>この日の午前中に秋篠宮さまは関西空港からバンコクに出発する予定になっている。
>訪問を一日か二日遅らせれば済むことなのに、なぜ秋篠宮さまはそれほど急がれるのか。
>公務を蹴って私的用事を優先することに対して、皇室ジャーナリストの岸田英夫氏も異論を差し挟む。
>「今回は公務である晩餐会と趣味であるナマズの研究ですよ。公務を欠席していいわけはありません。
>本当に変更の余地がなかったのか疑問です」
>外交評論家の加瀬英明氏はこう話す。
>「“一視同仁”というように、分け隔てなく、どこの国も平等に見るべきであって、
>同じ国ばかりに頻繁にお出かけになるのはどうでしょうか。決して好ましいことではありません」
>立て続けの訪問に、ある大新聞のバンコク特派員は驚きを隠さない。
>「半月くらい前から秋篠宮が来るという噂はありました。
>でも、宮様という立場にある方がそんなに頻繁にくるわけはない、と話していたんです。
>四月五日の閣議で訪問が決まり、正直なところ驚きました。
>今回はバンコクには一泊するだけで、北部を中心に一週間見て回られるということですが、
>全体的に“お忍び”というか、かなりプライベートな旅になると聞いています」
おやおや〜。公的行為(しかも一国の大統領の晩餐会という重要公務)を放り出して
純粋な私的旅行の方を優先してきたのは秋篠宮の方じゃありませんか!!
東宮家アンチ連中は、雅子皇太子妃殿下のことを「公務をしない」と必死に叩き続けてきましたが
秋篠宮のこういう過去はスルーするんでしょうか??それはおかしくありませんか?
また雅子様は、公務を欠席してまで私的なお遊びをなさったことなど一度もないと思います。雅子様はご病気で公務を欠席されたときは、養生やリハビリに専念しており(体調回復に専念することも皇族として大事な務めです)、“遊びに”出かけられたということはただの一度もないはずです。
記事は更に核心というべきことに言及していきます。
>公務を振り切ってまで出掛ける一人旅ということで憶測を呼んでいるのか、
>殿下と関係が浅からぬ周辺からあらぬ噂が聞こえてくるのである。曰く、
>「殿下には結婚前から親しくしているタイ人女性がいて、その女性に会うためにタイに行くのではないか」
>いくら自由奔放な殿下でも海を越えた“ロマンス”など信じがたい話だが・・・。
>紀子様と婚約する以前、「恋人は七人います」と宣言したり、
>居酒屋で席が隣だった若い女性に声を掛けて一緒に飲んだといったエピソードは伝わっている。
>現地在住の邦人ジャーナリストも、
>「よほどこちらの水が合うのか、日本にいるときよりも自由に行動されていますね。
>タイ警察にも“あまり警備を厳しくしないで、自由にやらせてくれ”と頼んでいるようです。
>四、五年前でしたか、殿下が研究のためバンコクの大学に滞在されたとき、
>甲斐甲斐しくアシスタントを務めていた若い女性がいた、と地元の女性記者から聞きましたよ」
「秋篠宮がタイにだけ頻繁に行かれるのは、現地に親しくしている女性がいるせいだ」
この件は当時の方が根強く噂になっていたと記憶しています。
そしてこのタイの女性以外にも、秋篠宮が女性に気軽に接したがるというご性格を元々お持ちでいらっしゃるということも
国民は何となく「ああそんな感じがするね」と感じているようでした。
さて記事の続きです。
>皇室ジャーナリストの河原敏明氏が話す。
> 結婚されて二、三年たったころ殿下と紀子さまの間で家庭内騒動があったのですよ。
>何でもタイの女性が殿下を追いかけて日本に来たのが原因だという噂が流れました。
>結局、真偽のほどは分かりませんでしたが、そのころお二人がほとんど口をきかなかったことは事実のようです。
>いまは紀子さまもお強くなられ、家庭内では紀子さまの方がリードしているそうです」
>赤坂御用地にある屋敷から聞こえてくるお二人のやり取りを耳にした
>宮内庁の職員も少なくないそうだから、激しく一戦を交えることもあるようだ。
>お二人そろって記者会見されたときに「夫婦喧嘩はしょっちゅうします」と笑いながら話されていた。
>にもかかわらず、いわゆる取巻き連中からタイ女性に関する噂がまことしやかに流されているのだ。
>ことに、クリントン大統領の晩餐会を欠席してタイに出掛けることが発表されると、いっそう高まっている。
そして秋篠宮ご夫妻の仲が冷えていったということも書かれています。
夫婦ですから当然喧嘩も発生するでしょうが、その原因にタイ人女性が関わっていることが一番大きいと思われます。
そして周囲からも秋篠宮に対して辛辣な意見が次々と…。
>学習院の同窓で、陛下と親しい会社役員は歎きとも怒りともつかぬ調子でこう話す。
>「困った問題ですね。このことでは両陛下もお心を痛めていることでしょう。
>タイに親しい女性がいることは間違いないみたいですよ。
>結婚する前からの付合いで、ナマズの研究所のスタッフかアシスタントと聞いています。
>身分の高い女性で、エキゾチックな美人だそうです。
>日米関係が微妙なときだけに、両陛下を安心させるためにもタイ旅行は中止していただきたい。
>“やんちゃ”を反省してもらうチャンスだと思っています」
>女子学習院の卒業生を中心とした常盤会の幹部も、
>「皇太子さまと比べると秋篠宮さまはわがままで自分勝手なところが目立ちます。
>紀子さまひとりで宮中晩餐会に出るのは可哀相じゃありませんか。
>学生のころからいろいろありましたけど、お諌めするときは思い切ってやらないと駄目でしょう。
>どうしてもタイに行くなら皇籍離脱してから行っていただきたい」
>別の常盤会関係者の矛先は紀子さまにまで向けられる。
>「こういうことは奥様が気を配るべきなんです。奥様がしっかりアドバイスしてあげないといけないのに、
>やはり夫婦仲がうまくいってないのかしら」
>さらに、攻撃はエスカレートして、
>「殿下の女好きは何とかならないかとずっと思っていたんです。
>今回の旅行だってタイ女性とプライベート・ビーチに行くんだと聞きましたよ」
>取巻きの間ではこういう流言蜚語が、寄ると触ると飛び交っているのだ。
>そして、宮内庁の中からもこんな声が洩れてくる始末なのである。
>「タイに親しい女性がいらっしゃいます。今度の訪問は私的な旅行になっていますが、
>実は殿下からもっとプライベートな日を二、三日作ってくれないか、という申し入れがあったくらいですから」
>宮内庁の職員や殿下に直接話しができる取巻きならば、なぜ殿下に進言、直言しないのか。
>批判の声は結局、天皇皇后両陛下に向かうことを、殿下も宮内庁も取巻きも忘れているのではないか。
(記事終わり)
この当時から「口の軽いご学友(取り巻き)」とか「口の軽い宮内庁職員」というのがいたようですね(笑)。
それは置いておくとして、この記事一本だけでも既にお腹いっぱいです。
このひとつの記事だけでも、以下のことが分かってしまうからですね。
●秋篠宮様は皇太子殿下に比べて相当自由にわがままに生きてこられたこと。
●秋篠宮様は女性がお好きであり結婚後も直っていないこと。
●秋篠宮様が公務を放り出してまで私的にタイに行くことを優先したこと。
●広く交友を持たねばならない皇族なのにタイという特定国にばかり行っていたこと。
●タイの現地女性と親しくしているという噂が根強かったこと。
●紀子妃との夫婦仲もしっくりいっていなかったこと。
●このような秋篠宮様のお振る舞いを苦々しく感じていた人が少なくなかったこと。
今では圧力がかかって到底世に出すことができないと予想できる秋篠宮記事でした。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-3.html
秋篠宮様とタイの怪しい関係 その2〜愛人問題詳細と銃弾事件 2017-05-07
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-4.html
1996年当時、秋篠宮様とタイの関係性を批判した記事は、一つだけではありませんでした。
以下、「噂の真相 1996年7月号」も同様の記事を書いています。
更に一歩踏み込んだ、驚くべきことにも触れています。
(前ブログ内容の新潮記事と重複する箇所は省きます)
『秋篠宮タイ不倫報道の“真相”と保守化強める宮内庁』
(前略)
>宮内庁担当記者が語る。
>「秋篠宮殿下がクリントンの歓迎宮中晩餐会を欠席してタイに出掛けることは、
>閣議報告の前日の4月4日に発表されたんですが、途端に記者の間から疑問の声があがりましたね。
>大谷茂宮務課長は(タイ訪問が)あらかじめ決まっていたため日程は動かせなかった等、
>理由にならない理由を強弁していましたが、報道陣は納得せず、
>一時、会見が紛糾したほど。実際は、宮内庁も秋篠宮の行動に困惑している様子がありありでしたよ」
当時の秋篠宮様の行動は、マスコミからも相当の怒りと顰蹙を買ったことが見てとれます。
このマスコミの怒りや疑問は「雅子様に処方されている薬の詳細を明かせ!」と理不尽なことを迫るような記者とは違い、
マスコミ以外の国民とも共有しうる正当なものだったと言えるでしょう。
以下、「噂の真相」独自の内容を順次引用していきます。
>実をいうと今回、タイ愛人報道が出た際の宮内庁周辺の反応は「まさか」「信じられない」といったものではなく、
>「やっぱり」「殿下なら十分ありえる」といった声が大勢を占めていたのである。
(中略)
>中でも象徴的なのが、学習院大学時代のエピソードだろう。当時、秋篠宮は「パレスヒルズテニスクラブ」 という
>サークルを主宰しており、キャンパスで気に入った女子学生を見付けたら、
>必ず学友に命じてこのサークルに勧誘させていたのだ。
>そして、その勧誘された女性の一人が紀子妃だった。
>当時の同級生がこう話す。
「この 『 パレスヒルズテニスクラブ 』 というのは、殿下の恋人選びのために作られたクラブだったんですよ。
>紀子様以前にも、複数の女性を勧誘してアプローチしていましたし、
>紀子様が入ってからも、同時進行していた女性がいたんじゃないかな。
>お二人が婚約した際、宮内庁は『自然文化研究会』というサークルで顔を合わせているうちに
>親しくなったと発表していましたけど、おそらく体裁が悪いので嘘をついたんでしょう。
>『自然文化研究会』 なんてお二人が付き合いはじめた後に作ったサークルですからね」
>秋篠宮のこうした女性関係の噂は紀子妃と結婚した後も、なくなることはなかった。
>「もうひとりの学習院出身の女性がいて密かに付き合っていた」
>「一時期タカラジェンヌに夢中になり、深夜まで戻ってこず、警護官が大慌てした」などだ。
紀子妃との馴れ初めについては諸説ありますが、
「紀子妃が学習院の売店でアルバイトをしている姿を、礼宮(秋篠宮)様が見染めて交際が始まった」
ということが一番流布されている“説”だと思います。
しかしこの「噂の真相」記事には、全く違う馴れ初め理由が書かれてありました。
「自然文化研究会」以外にもこのような出会い系組織を作っていただなんて衝撃です。
現代では大学の「ヤ○サー」による女子学生への深刻な暴行事件が後を絶たず事件化してるケースもありますが
秋篠宮様はそこまで下劣でなくても、「ヤ○サー」のハシリを行っていたと言えるのではないでしょうか。
そして秋篠宮様の女性関係の記事を巡り、事態は深刻な方向へ行くことになりました。
以下その部分を引用します。
>実は3年前、ある週刊誌が秋篠宮のこうした浮気問題を記事化しようと動いたことがある。
>その週刊誌とは他でもない、当時、美智子皇后バッシングの中心的役割を果たしていた『 週刊文春 』 だ。
>「編集部は、当時、美智子皇后批判キャンペーンをやっていたんですが、それが一段落したら
>次は秋篠宮の浮気の噂を追い掛けるつもりだったんですよ。
>ところが、宮内庁からの抗議、さらには社長宅に銃弾が撃ち込まれるという事件があって、
>皇室批判そのものができなくなって頓挫してしまったんです」 (元 『週刊文春』 関係者)
「銃弾撃ち込まれ事件」は、何となく聞いたことがある国民も多いのではないでしょうか。
この引用箇所からも分かるように、秋篠宮様に対する批判記事はこの銃弾事件によって筆を折ることを余儀なくされ、
現代でも秋篠宮様(と美智子様)に関してはその脅迫状態が続いている、というのが実情だと思われます。
しかしここで一つの疑問が湧きあがります。
この銃弾事件を契機に「皇室批判そのものができなくなって頓挫してしまった」と上記記事は書いていますが、
東宮ご一家に対するバッシング記事は10年以上も放置され、この件で出版社や記者が脅されたという話は
まったく聞いたことがないという点です。
東宮ご一家に対する悪意に満ちた記事はもう数えきれないほど出ているのに、なぜどこからも抗議がこないのか?
東宮ご一家バッシング記事についてはなぜどこからも銃弾が飛んでこないのか?
この銃弾による言論統制事件を起こした連中は一体誰なのか?
皇室や皇族を敬愛する純粋右翼や保守だったら、東宮ご一家へのバッシング記事についても何らかの抗議運動を起こしていてもおかしくないはずです。しかし実際に右翼や保守が動いたという話は聞いたことがありません。
この銃弾事件を起こした連中は、ただの保守や右翼ではないと考えられます。
「噂の真相」記事はその後もタイの愛人の件で話が続いていき、具体的な身元まで取り沙汰されています。
★一人目の噂:タイ外務省の東アジア課につとめる女性
>「彼女は日本の皇室関係者が来ると、必ずといっていいほど通訳をつとめている外務省きっての日本通。
>逆に王族が日本に出かける際に同行したこともありますし、日本の大学に留学した経験もある。
>もちろん、秋篠宮とは以前から面識はありますよ。
>今回、マスコミの前では親しげな素振りはなかったということですが、
>マスコミは24時間、すべての行動を把握しているわけではありません。
>一行はバンコク入りした後、北部のチェンライという都市に移動。
>ズシタニホテルという一流ホテルに滞在していたんですが、ホテルの中での行動まではまったくわかりませんから」
★二人目の噂:タイの前国王・プミポンの末娘であるチュラポン王女
>もしこれが事実なら、外交問題に発展しかねないような大スキャンダルである。
>しかも、チュラポン王女といえば、秋篠宮が結婚した際、宮内庁が結婚の儀に
>海外からの来賓は呼ばないという方針で臨んでいたにもかかわらず、強引に出席を要求。
>とうとうごり押しして来日してしまうという一件もあった。
>もしかすると、これも秋篠宮との特別の関係が原因なのだろうか。
★三人目の噂:カセサート大学付属水産研究所の20代後半(当時)の女性研究員。
「王族ではないが、名字にタイ特有の王族を示す称号が入っており、王室とは縁戚関係にある」とのこと。
>バンコク・ドンムアン国際空港近くにある国立カセサート大学。
>秋篠宮が本格的にナマズ研究に夢中になり始めたのは、学習院時代、ここを訪れたのがキッカケだった。
>以来、秋篠宮はタイ訪問の際、必ずといっていいほど、ここに立ち寄り、昨年は同大学から名誉博士号を貰っている。
(中略)
>同大学関係者が話す。
>「彼女は数年前、プリンス・アキシノがナマズ研究のためにバンコクに1ヵ月滞在した時、
>ずっとアシスタントをつとめていた女性です。 以来、二人は親しくなり、
>彼女はプリンス・アキシノが来るたびにアシスタントに指名され、世話をつとめてきたようです。
>出会った当時は学生だった彼女は現在、研究所の正式研究員になっていますが、
>学内でもプリンス・アキシノのガールフレンドということで、かなり有名です」
>今回のタイ訪問でも、マスコミレベルでは二人が会ったことは確認されていないが、
>秋篠宮は同大学付属水産研究所に立ち寄っており、密かに会っていた可能性は十分ある。
>いや、二人が会っているのは、何もタイでだけではないようだ。
>実をいうと、彼女は頻繁に日本にきて、秋篠宮と会っているという噂も流れている。
>「彼女が日本にくると、秋篠宮は知人の持っているマンションに宿泊させ、そこに通うという形をとるらしい。
>最近はあまり聞かないが、一時、そういう噂でもちきりになった時期がありました」(宮内庁関係者)
3人も違う女性が出てくることに驚きですが、どの女性も知性があり身分も高い、という共通点が面白いと感じました。
しかし愛人の一人と言われている女性が来日まで果たしているというのはかなり大胆ですね。
秋篠宮様は「自由に行動できなくなるから重い警備はいらない」とつい最近も言っていたようですが、
こういう自由な私的行動に支障が出るから警備など不要と考えているのでしょうか。
逆に紀子妃は「東宮家並みの警備を付けてほしい」と望まれてるようですが…
記事は更に「愛人との愛の巣」について言及していきます。
>実は、本誌はまさにその2年前、ある奇妙な情報をキャッチしていた。
>東横線沿いにあるバブル絶頂期に建てられた超高級マンション。
>その最上階にある一室に出入りする秋篠宮の姿がかなり頻繁に目撃されているという話だ。
>「秋篠宮様がくると、SPの人が廊下に立っているのですぐわかります。
>ええ、住人の間では、宮さまの借りている部屋として有名ですよ」 (マンションの住人)
>しかも取材を進めていくと、このマンションを借りているのは、思わぬ人物だった。
>その人物とは、秋篠宮のナマズ研究の師で、
>今回も含めたタイ旅行には必ずといっていいほど同行している某国立大学教授。
>だが、この教授は自宅は別に持っており、普段、この部屋にはまったく人気がない。
>それより何より、この部屋はワンルームとはいえ、専有面積が50平米近くもある超豪華マンション。
>家賃は30万円は下らないといわれ、どう考えても一介の国立大学教授が
>セカンドハウスとして借りられるような部屋ではないのだ。
>もしかしたら、このマンションは秋篠宮とタイ人女性との密会のために、その教授がダミーとなって借りているのではないか。
>そして、カセサート大学にいるという女性との密会の手引きもこの教授がやっているのではないのか・・・
>そんな疑惑さえ浮かんでくるのである。
かなり攻めますね、噂の真相。
今ではこのマンションはどうなっているのか定かでありません。
しかし、この高級マンションの家賃、もしかしたら国民の血税から出ている可能性もあるんですよね。
もしこれと同様のことが今でも続いているのだとしたら、秋篠宮が皇嗣と呼ばれるようになったあかつきに
今の3倍にまで増加される皇族費も、こういうふざけた案件に使われる可能性があるんですよ。
あまりにも国民を馬鹿にした酷い話です。
こういうことが過去にあったから、秋篠宮に支給される予算の使途を明らかにしてほしいと国民は思うわけです。
マンションを借りる際の名義で使われた「某国立大学教授」、思い当たる名前はいくつかあるのですがここでは触れないことにします。
「噂の真相」記事はまだ続くのですが、ページを変えてそこで改めて検証することにします。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-4.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c12
223. 中川隆[-12892] koaQ7Jey 2019年1月18日 16:31:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
>>52, >>53, >>64, >>66, >>74, >>77, >>85, >>129, >>186, >>195, >>204, >>210, >>221 の続き
千葉県の人間はみんな頭がおかしい(14)
少年ら「1万円で殺人安い」 茂原女性強殺初公判
千葉日報2019年01月15日22時15分
強盗殺人などの罪に問われた少年(19)の初公判で、事件当時に少年らと茂原市内のアパートで同居していた男性が証人として出廷し、事件前後の少年らの様子を証言した。
事件を知った男性が少年を問いただすと、「最初は首を絞め、疲れたから包丁を持ってきてもらい刺した」と認め「証拠をなくした(事件当時に履いていたスニーカーを捨てた)から大丈夫」などと話したと述べた。
共謀した別の19歳と17歳の2人が、ふざけた様子で少年を「殺人鬼」と呼び、少年は「うるせーよ」と答えたと証言。2人は「1万2、3千円取った」「1万円で殺人は安いよな」などと話したという。
また、男性は共謀の2人らと事件前日に金品を盗む目的で被害者宅に侵入し、共謀少年が被害者の通帳を見つけ、多額の預金があることを確認。現金が見つからなかったことから、共謀少年らが強盗を意味する「“たたき”をしないか」と話していたとした。
「怒りで思考停止に」 19歳少年が供述 茂原女性強殺 被告人質問
2019年1月18日
茂原市東茂原の住宅で昨年2月、住人の椎野芳子さん=当時(85)=が現金を奪われ殺害された事件で、強盗殺人罪などに問われた少年3人のうちの当時18歳の土木作業員だった少年(19)の裁判員裁判の被告人質問が17日、千葉地裁(川田宏一裁判長)であった。少年は「あると聞いていたお金がなかった焦りやいら立ちがあった。怒りに任せて思考停止になった」と殺害動機を述べた。
当初は被害者の首を絞めて気絶させ、その間に金を盗んで逃げるつもりだったが、金が見つからず、気絶した被害者が目を覚まし「金は腹の中にある」「殺すなら殺せ」と話したため、「頭が真っ白になり、どうにでもなれと思った」という。取りに行かせた包丁で首を1回刺した後、共謀した19歳少年から「とどめを刺せよ」と言われ、さらに2回刺したとした。
強盗を行った理由を、19歳少年から「そんなこと(強盗)もできないのかよ」と挑発され、「ばかにされたくない思いから誘いに応じてしまった」と説明。報酬とされる1万円札について、共謀の17歳少年が犯行後の帰宅途中に手渡したと証言したのに対し「(自宅アパートの)リビングで受け取った」と述べた。
また、被害者と遺族へ「人生を奪ってしまい申し訳ない。取り返しのつかないことをしてしまった。心から反省しています」と謝罪の言葉を口にし、「更生することが自分ができる償いだと思います」と続けた。
http://www.asyura2.com/13/lunchbreak53/msg/390.html#c223
137. 中川隆[-12891] koaQ7Jey 2019年1月18日 18:00:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
ゴーン被告、不正報酬10億円
三菱自動車、損害賠償請求検討
2019/1/18 16:56 一般社団法人共同通信社
三菱自動車の前代表取締役会長カルロス・ゴーン被告の不正行為に関する内部調査結果を公表し、取材に応じる益子修会長兼最高経営責任者=18日午後、東京都港区
三菱自動車は18日、前代表取締役会長カルロス・ゴーン被告の不正行為に関する内部調査結果を公表し、ゴーン被告がオランダにある日産自動車との合弁会社「日産・三菱B・V」から不正な報酬約782万ユーロ(約10億円)を得ていたと明らかにした。日産から情報開示を受け合同調査した。
調査結果を受け、三菱自の益子修会長兼最高経営責任者(CEO)は東京都内で記者団に、日産と共同でゴーン被告に対し損害賠償請求を検討する考えを表明した。一方、日産、三菱自との3社連合の主導権を握るフランス自動車大手ルノーは近く、取締役会を開いてゴーン被告を解任する見通しだ。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c137
13. 中川隆[-12890] koaQ7Jey 2019年1月18日 18:35:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
噂の真相記事続き〜秋篠宮様はやはりこういう方 2017-05-07
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-5.html
秋篠宮様のタイ愛人問題にかなり迫っていた「噂の真相 1996年7月号」ですが、記事の最後は秋篠宮様の人となり全体についてまとめています。
>たしかに秋篠宮は皇族としてはけっして優等生とはいえないだろう。
>大学時代にはまったく勉強せず、成績はほとんど最下位。
>そのため、大学側は秋篠宮と同じ学年に落第生を一人も出せなかったという逸話もあるほどだ。
>服装や生活も皇室らしからぬ派手なもの。若いときから髭をたくわえ、ブランドものを身につけ、外車を乗り回す。
>皇太子家でさえ私有車は雅子妃が嫁入りの際に持ってきたカローラだけなのに、
>秋篠宮はワーゲンにベンツまで所有している。
>天皇制の根幹をなす宮中儀式などもおざなりで、なんとブレスレットをつけて儀式に出席し、顰蹙を買ったこともある。
>また、紀子妃との結婚も「若すぎる」という周囲の反対の声を強引に押し切って強行したものだった。
>この時、秋篠宮が周囲に「結婚を認めてくれないなら、皇族をやめる」とダダをこねたのは有名な話だ。
>しかもこの時は、昭和天皇の喪があけないうちに婚約の儀をすませるという、前代未聞の荒ワザもやってのけている。
>そして、今回の宮中晩餐会を欠席してのタイ行き強行、前述した女性問題・・・。
>秋篠宮の派手な消費生活に我々の血税が使われているということは納得しがたいし、
>その行動が自らの公的立場をまったく自覚していないものであることもたしかだろう。
(記事終わり)
今の時代では考えられないような「秋篠宮の実像」を追及した記事といえます。
敬宮愛子様はグッチのキッズラインの4万円程度のバッグをお持ちになっただけでバッシングされました。
しかしまず秋篠宮様の方が「ブランド品」や「外車(ワーゲンやベンツ)」を先にお持ちでいらしたのです。しかも数万円程度では済まない、随分高い買い物をしていたようですね。
敬宮愛子様のバッグの報道が出た時、果たして秋篠宮様の過去の「ブランド品・外車好き」の一件は蒸し返されたりしたでしょうか?
それに秋篠宮はこの頃私的行動を優先して公務を欠席したり、宮中儀式でもTPOに反した格好をするなどという事実があったのですから、東宮家アンチ・秋篠宮家シンパが言うような
「公務をきちんとしているからこういう贅沢も許される!」という言い訳や擁護も全く通用しません。
秋篠宮様の成績が良くなかった件も割と有名ですが、これも後ほど上げる予定であるブログ記事と関連してきます。
「皇族やめる」という発言、紀子妃との婚約の件も、後ほどブログに順次掲載する予定です。
秋篠宮様のこのようなお振る舞いに血税が使われることへの怒りで記事は締めくくられていますが、
今でもこの話が通用してしまうのが恐ろしい所です。しかも金額は更に増やされる予定なのですから。
なお、「噂の真相」は2004年4月号を最後に休刊となっています。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-5.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c13
14. 中川隆[-12889] koaQ7Jey 2019年1月18日 18:43:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
秋篠宮様とタイの怪しい関係 その3〜関係はまだ終わっていない? 2017-05-08
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-7.html
平成以降の秋篠宮様のタイ渡航歴は下記のようになっています。
秋篠宮様Wikipediaより。なぜか平成19年までの情報しか掲載されていませんでした。
1989年(平成元年)7月16日 - 8月18日(イギリス・オックスフォード大学留学中)
魚類の調査研究のため。
1992年(平成4年)9月13日 - 9月28日
魚類の調査研究のため。
1992年(平成4年)11月5日 - 11月24日(同妃紀子同行)
タイからの同国シリキット王妃の還暦祝賀式典への招待による。
1995年(平成7年)9月16日 - 9月22日(同妃紀子同行)
カセートサート大学名誉学位授与式、ブーラパー大学名誉学位授与式出席のため。
1996年(平成8年)3月9日 - 3月11日(同妃紀子同行)
前年7月18日に死去したタイ国王ラーマ9世生母シーナカリンの葬儀参列のため。
1996年(平成8年)4月17日 - 4月23日
魚類の調査研究のため。
1999年(平成11年)6月27日 - 7月8日(同妃紀子同行)
秋篠宮および同妃への招待による。
2001年(平成13年)8月2日 - 8月5日(同妃紀子同行)
シーナカリンウイロート大学名誉学位授与式、チュラーロンコーン大学名誉学位授与式出席のため。
2003年(平成15年)8月7日 - 8月21日(同妃紀子同行)
眞子内親王、佳子内親王同行。同国シリキット王妃が72歳を迎えるに際しての祝意表明、並びにウボンラーチャタニー大学名誉学位授与式出席、家禽類に関する共同研究のため。
2005年(平成17年)8月17日 - 8月24日
家禽類に関する日タイ共同調査研究のため。
2007年(平成19年)3月14日 - 3月23日
私的訪問。タイ同国と共同で進めている鶏の研究に関する会議に出席、野生の鶏について現地調査・並びに同国のスラユット首相が理事長を務めるキングモンクット工科大学名誉学位授与式出席のため。
2007年(平成19年)8月13日 - 8月25日: マダガスカル(タイ立ち寄り)
私的訪問。眞子内親王同行。家畜や絶滅鳥の研究のほか、大統領や首相への表敬訪問、宮殿視察。眞子内親王の同行は国際的視野を広めるため。
(Wikipediaはここまで)
宮内庁HPには、秋篠宮家のご活動についてはなぜか平成16年7月以降のものしか掲載されていません。
平成17年8月17日(水) 〜 平成17年8月24日(水)
タイご旅行(家禽類に関する日タイ共同調査研究)
平成19年3月14日(水) 〜 平成19年3月23日(金)
タイご旅行
平成19年8月13日(月) 〜 平成19年8月25日(土)
マダガスカルご旅行(眞子内親王殿下ご同伴)
>東京御発(バンコク経由)
>アンタナナリボ御発(バンコク経由)
平成23年3月8日(火) 〜 平成23年3月11日(金)
タイご旅行
平成24年11月27日(火) 〜 平成24年11月29日(木)
タイご旅行
(宮内庁HPはここまで)
補足1:2003年(平成15年)の旅行は未成年だった眞子様と佳子様もお連れしています。ほとんど私的旅行と判断してよいものでしょう。
補足2:2007年(平成19年)は秋篠宮様と眞子様がマダガスカルに私的旅行に行く際に、行きと帰りにそれぞれタイを経由しています。
補足3:秋篠宮様は平成28年8月18日からもタイに私的旅行する予定だったようですが、テロの脅威があるということで渡航を中止にしています。
こうして見ると、やはり他国に比べて秋篠宮様のタイ行きは多いと言えるでしょう。ほぼ2〜3年に一回、同じ年に二回も行かれているケースもあります。
紀子妃同伴のものもありますが、「研究」や「調査」という名目で秋篠宮様単独で行かれているパターンが特に怪しいと思います。
平成19年、23年、24年にも秋篠宮様はお一人でタイに行かれていますが、普段は文字数をなるべく多くして秋篠宮家が公務をたくさんしているように見せかけている宮内庁HPが、このタイ行きだけ「ご旅行」と文字数少なく投げやり(?)に書かれているのが不自然だと思いました。公務でなく私的旅行なので大っぴらに宣伝できないという雰囲気が漂っています。
こうして見ると、昔に比べて頻度は減ったもののつい最近まで秋篠宮様はタイへ私的に行かれていたことが分かります。タイとの関係性は終わっていないと思われます。
(平成28年もテロがなければ行かれていたと思うので)
前述したように平成19・23・24年のタイ行きに至っては「○○のため」という名目すら書かれておらず「詳細を明かせない」という感じで怪しさ倍増となっています。
ここにひとつの逸話があります。
2008年(平成20年)9月11日(紀子妃のお誕生日ですね)、映画監督のW氏が、自作映画である『天皇伝説』の宣伝ポスターを無許可で掲示したとして、警視庁公安部に軽犯罪法違反で逮捕されています。W氏は「反天皇制を掲げる活動を続けている」という理由で公安の尾行対象となっていたそうです。ポスター掲示の件では不起訴になったようですが。
この事件のニュースのテレビ映像があるのですが、そこには「7月30日(木)豊島公会堂」(映画上映のお知らせか)という文字のほかに
「秋篠宮のタイの女性問題に皇室が三億支払う」
という文字の貼り紙が見えるのです。
天皇伝説
(2008年9月11日 TBS系ニュースより)
まあこの貼り紙の内容の真偽はわかりませんが、「ありそう…」と思えてしまうのが何とも。
『天皇伝説』のポスターはこれ以外にも色々あるようですが、内容的に「これはちょっと…」というような過激な貼り紙や、信憑性の薄い都市伝説的内容の貼り紙も見受けられるので「あくまでも一つのネタ」として捉えた方がいいかもしれません。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-7.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c14
15. 中川隆[-12888] koaQ7Jey 2019年1月18日 19:11:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
いつの間に生物「博士」に??−秋篠宮様のハリボテ学歴 その1 2017-05-14
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-13.html
秋篠宮様が「ナマズ」に関心があり研究(?)をしていたことは有名ですね。「ナマズ殿下」と呼ばれていたこともありました(今も一定世代以上の国民にはその愛称で十分通じます)。
しかし、秋篠宮様は元々「学習院大学法学部政治学科」ご卒業なのです。それがいつの間にかナマズなどの生物研究者扱いとなり、いつの間にか「理系学者」のような感じで報道されるようになりました。
宮内庁HPの秋篠宮様ご略歴・ご学歴のページには下記のように掲載されています。
昭和63年 学習院大学法学部政治学科ご卒業
昭和63年〜平成2年 英国オックスフォード大学大学院動物学科にてご修学
平成8年 理学博士(国立総合研究大学院大学)
政治学科卒業から動物学科、そして理学博士という飛躍は訳がわからないことになっています。
ちなみに今上陛下の弟君である常陸宮様のご学歴は下記のように掲載されています。
昭和33年 学習院大学理学部化学科ご卒業
昭和44年〜平成13年1月 (財)癌研究会癌研究所客員研究員
こちらは違和感がありません。
しかし、美智子様は昭和62年10月15日の会見で、秋篠宮様の研究についてこう述べられています。
>礼宮は、大学の政治学科で勉強しておりますが、これと並行して御所で生物学や動物学、博物館学など自然科学10科目ほどをそれぞれ専門の教授の下でこの3年間学び続けてきました。
(『新天皇家の自画像 記者会見全記録』薗部英一編より)
また秋篠宮様は政治学科所属の頃から財団法人進化生物学研究所(旧東京農業大学育種学研究所)で家禽類研究に従事し、昭和61年から財団法人山階鳥類研究所総裁に就任しているとのこと。秋篠宮様が昭和60年に「自然文化研究会」というサークルを作っていたことは有名ですが、このサークルが純粋な研究サークルでなく「恋人を見つけるための合コン的サークル」であったこともバレています(川嶋紀子さんもここに所属していた)。このサークル活動が高じて生物研究に従事するようになったというには少し無理があると思います。
それに「そんなに生物に関心があるなら最初から生物学を学べる大学や学部に行くか、転部すればいいのに」と国民は思うわけですが、秋篠宮様は学力が足りなくて(噂の真相過去記事でも「大学時代はまったく勉強せず成績はほとんど最下位、同じ学年からは落第生を一人も出せなかった」と書かれてしまっていたほど)希望の学部に行けず「それなら外部から複数の専門家を呼び付けて学んだり、皇族の地位を利用して研究所に従事すればよい」と判断したということでしょうか?随分手間と費用をかけた「家庭教師」だな、と思います。
まあ何事にも興味を持って「学びたい」と思うこと自体は悪くありません。皇族の多くはそれぞれ興味ある分野をお持ちになって研究を続けている方が多くいらっしゃいますから。
しかしそれを「博士号」だの何だのと学歴に結び付けようとするのは何かが違うと思ってしまいます。
秋篠宮様の「学歴」や「博士号」については過去の雑誌も疑問を呈するような記事を書いていました。ページを改めて記事を紹介したいと思います。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-13.html
いつの間に生物「博士」に??−秋篠宮様のハリボテ学歴 その2
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
まずは週刊新潮1996年10月17日号の記事をご紹介します。
『秋篠宮に博士号をおくった変な大学』
>秋篠宮殿下といえばナマズ研究で有名だが、先月三十日、ニワトリの起源に関する研究で理学博士号を授与された。
>なぜナマズがニワトリに変わってしまったのか。しかも学位をおくった「国立総合研究大学院大学」は名前もほとんど知られていない存在。なんとも唐突な印象。
>殿下は一昨年、タイのカセサート大学から魚類生物学の名誉博士号をおくられているのだが、自ら学位の取得には積極的だったようだ。
>母校の学習院大学や東大に提出せずに、神奈川県葉山町にある国立総合研究大学院大学という耳慣れない大学に学位の申請をしたのは不可解である。
>研究を手伝った国立遺伝学研究所の五條堀教授が、総研大の教授を併任していたこともあるのだろうが、そもそも総研大とはどういう大学なのか。
>同大の高畑尚之・教育研究交流センター長が説明する。
>「文部省はもちろん政財界から高度教育の必要性が叫ばれ、日本で初めて設立された大学院大学が総研大です。葉山の本部キャンパスは入学式や学位授与式を行う事務中枢があるだけで、学生はいません」
>「昭和天皇の考え方として、天皇や皇族は一般の学者と競合しない分野で研究するというものがあったんです。つまり、自分の学説を発表すれば他の人の学説と論争になる可能性がある。ですから、昭和天皇は海洋生物のヒドロゾアを敢えて選んだのです。生物学者は何度か学位をと申し入れましたが、名誉博士号をもらうことはあっても、博士号はお受けにならなかった。天皇陛下も皇太子時代に学位の話がありましたが、“いやあ、いいよ”と、ご遠慮なさいました」と、あるベテラン皇室記者は話す。
>昭和天皇も、ハゼの研究をされている天皇陛下も、またオリエント古代史に詳しい三笠宮殿下も博士論文に値する業績を残されているが、学位論文は提出されていない。
>「殿下の場合は研究環境があまりにも恵まれています。協力者や相談相手がまわりにたくさんいますし、標本にしても材料にしても欲しいと言えばどんどん持ってくるでしょう。しかし、皇族はあくまで公務優先で学問は趣味ですからね」(先のベテラン記者)
>そして、実際に家禽の専門家からこんな声もあがっているのである。
「家禽学会のなかに殿下とまったく同じ研究をしていたライバルの学者がいたのです。もちろんこの世界は先手必勝ですし、早く発表して印刷物にした方が勝ちなのは分かっています。もたもたして自説を発表しなかったその学者にも非があるんです。でも、ひとりで研究している一介の学者と殿下では相手になりません」
>あらぬ誤解を受けることになれば、皇室全体に与える影響は少なくない。
(記事終わり)
国立総合研究大学院大学は今でこそ下記のような立派なHPまで設けている施設ですが、1988年に設置された新しい施設であり当時は「歴史も実績もない無名の教育機関」という目で見られていても不思議ではなかったかもしれません。日本で初めての博士課程専門の国立大学院大学であり次世代の研究者を養成することを目的としているようです。
国立総合研究大学院大学公式HP
ttps://www.soken.ac.jp/
国立総合研究大学院大学は当初は東京工業大学長津田キャンパス内に設置されていました。
しかし平成6年(1994年)、神奈川県の斡旋により葉山町に本部を設置することが決まったとのことです。本部用地は三井不動産からの寄附により取得したようです。
葉山町といえば天皇家の御用邸があることで有名です。
平成7年(1996年)に本部が移転し、秋篠宮様は同年9月30日にこの本部で博士号を授与されています。
上記新潮記事には「本部には事務中枢があるだけであり学生はいない」と書かれていますが、その後葉山町キャンパスにはどんどん大学の施設が増えていき大規模な機関となっていきました(上記公式HPの「沿革」を見るとよく分かります)。
秋篠宮様に博士号を授与した当時は「変な大学」「無名」と言われていた国立総合研究大学院大学、現在ではそこまで馬鹿にできる機関ではなくなっている感じがします。
しかし「秋篠宮様への博士号付与」と「大学本部の移転と規模の拡大」のタイミングが合致するのは何か都合が良すぎると感じるのは気のせいでしょうか?
なお、文春も全く同時期に同じような内容の記事を出しています。それは次のページで引用させていただきます。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
いつの間に生物「博士」に??−秋篠宮様のハリボテ学歴 その3
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-15.html
週刊文春1996年10月17日号にも、秋篠宮様の博士号取得に疑問を呈するような記事が書かれていました。以下引用いたします。
『秋篠宮ニワトリ研究博士論文の「水準」』
>ナマズではなく、家鶏の起源に関する研究で博士号授与に驚かれたむきも多いに違いない。クリントン大統領歓迎晩餐会欠席など、このところ何かと風当たりの強かった秋篠宮だが、これで一挙に汚名返上となるか。
>九月三十日。激しい雨の中、マスコミをシャットアウトして神奈川県葉山町にある国立総合研究大学院大学(総研大)の講義室で博士号の授与式が行われた。
集まった“新博士”は19名。その中に、秋篠宮(30)の姿があった。
お付きは警備の側衛だけで、完全なお忍び。
後ろに儲けられた一般関係者席では、学生の父母らに混じって、紀子さまが満足そうにその様子を眺めていた。
>「授与式の後に行われた茶話会にも殿下は出席され、若い女子学生との記念撮影にもきさくに応じていらっしゃいました」(総研大総務課長・馬場剛氏)
>ナマズ見物のためにクリントン大統領の歓迎晩餐会を欠席して批判されたり、女性問題が取り沙汰されたりと、このところ“御難”続きの秋篠宮だが、総研大の理学博士号取得に、この日ばかりは晴々とした気持ちだったにちがいない。
>まずはめでたい限りだが、一方で秋篠宮の順風満帆すぎる研究者としての門出に、手厳しい意見があるのも事実。遺伝学の研究者が指摘する。
>「秋篠宮さまを指導してきた五條堀教授といえば進化遺伝学のボス的存在。さらに、秋篠宮さまの過去三本の論文には、アメリカのシティ・オブ・ホープ研究所の大野乾先生が共同研究者として加わっている。大野先生は米国科学アカデミーの会員でノーベル賞候補とも言われる世界的権威。
無名の学者ではそんな先生と共同研究なんてなかなかできません。実際、秋篠宮さまがどこまでご自分で研究されたのか疑問です」
>実際、ある宮内庁関係者は胸の内を語る。
>「昭和天皇にも学位の話はありましたが、『私の研究は趣味ですから』と常におっしゃり、 学問に対して謙虚な姿勢を持っていらっしゃった。しかも公務に差し支えないようにと いうことで、ご研究の範囲も相模湾とか、那須の御用邸に限られていたほどです。 それが皇族の伝統なのに、どうして突然、博士号なんだ、という感じはやっぱりしますね」
(記事終わり)
新潮と文春がほぼ同時期に同じような記事を書いていることは興味深いです。
そして双方とも、
●秋篠宮様がご自分の力だけで博士号が取得できたわけではないと推測できること
●研究成果は著名な共同研究者の力が大半を占めていたと思われること
●皇族なのになぜそこまで学位にこだわるのかということへの疑問
などが述べられています。
当時、マスコミをシャットアウトして完全お忍び状態で博士号の授与式に出席したのは「堂々と公開できるような話ではない」ということの表れだったのか、それとも「学位取得は完全にプライベートなことなので報道する必要がないと思った」からなのか…。
しかし、進化遺伝学のボス的存在と言われていた国立遺伝学研究所の五條堀孝教授が国立総合研究大学院大学の教授を併任していたからという理由だけでなぜ彼に白羽の矢が立ったのかまでは新潮も文春も追及していません。秋篠宮様が研究の対象をそれまでの「ナマズ」から「ニワトリなどの家禽類」に変更したのもこの辺りに理由がありそうに思うのですが。
(秋篠宮様は昭和61年から財団法人山階鳥類研究所総裁に就任されています。「鳥」関連でこの研究所も秋篠宮様に手を貸していた可能性は高そうです。)
五條堀孝教授はその後今上陛下とも「ハゼ」の遺伝子研究を共同して行うなど、皇室とのコネクションを強めているようです。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-15.html
いつの間に生物「博士」に??−秋篠宮様のハリボテ学歴 その4
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-16.html
国立総合研究大学院大学から謎の博士号を取得した後、秋篠宮様は今度はタイの複数の大学から名誉博士号を授与されています。
秋篠宮様のWikipediaより。
●1995年(平成7年)9月、タイ・カセートサート大学から名誉博士号(水産生物学)、ブーラパー大学から名誉博士号(理学)授与。
●1999年(平成11年)、タイ・コンケン大学から名誉博士号(水産学)授与。
●2001年(平成13年)8月、タイ・シーナカリンウィロート大学から名誉博士号(理学)、チュラーロンコーン大学から名誉博士号(理学)授与。
●2003年(平成15年)8月、タイ・ウボンラーチャタニー大学から名誉博士号授与。
●2007年(平成19年)3月、タイ・キングモンクット工科大学から名誉博士号(水産学)授与。
●2011年(平成23年)3月、タイ・カセートサート大学から名誉博士号、チェンマイ大学から名誉博士号授与。
●2012年(平成24年)11月、タイ・タンマサート大学ランシット校から名誉博士号(農業技術)授与。
見事にタイの大学ばかりですね(笑)。こちらでは家禽類ではなくて水産学での名誉博士号が多いです。「国内では家禽類(ニワトリ)、タイでは水産学(ナマズ含む?)」という区別をしているようにも見えます。
これらの情報は宮内庁HPには掲載されていません。
「秋篠宮様がタイに足繁く通っていた理由」は愛人がいたからか、研究と博士号のためなのかあるいは両方なのか…いずれにしても秋篠宮様は皇族なのですから、一つの特定国にここまでこだわるのはやはりおかしいと思います。
秋篠宮様がここまで異様に博士号取得にこだわられたこと、文系学部卒なのになぜかニワトリだのナマズだの生物を対象にしたことは傍から見ていて滑稽でもあります。
おそらく秋篠宮様は単純に「動物・生き物」を見るのがお好きなのでしょう。しかし、生物を自然科学的観点から専門的に研究するような頭脳は持ち合わせていない。だけどこのままでは「秋篠宮様はお勉強ができない、頭が良くない、女性にだらしない」という悪いイメージが付いて回ってしまう。
そこで周囲が苦肉の策で編み出したのが「大好きな生き物関連でハクを付けてイメージアップさせるためにその道の権威の協力を得た上での“ハリボテ”博士号の取得」という結論だったのではないかと思うのです。元々動物を見ることがお好きなら、それ関連で「研究したフリ」を続けることはあまり苦にはならなかったのではないでしょうか。
そして秋篠宮様を博士にして恩を売れば、自分たちも「おいしい思い」ができるようになる、という思惑もあっただろうと推測します。
イメージを回復したい秋篠宮様と、見返りを期待したい人々の思惑が合致した結果がこれだと思います。
秋篠宮様のこのハリボテ博士号や学歴は、現在まで秋篠宮様の公務にも影響しています。公務の件についてはまた別途検証したいと考えています。
秋篠宮様のハリボテ学歴と公務で色々な利権関係が形成されていることが分かります。
余談ですが、秋篠宮様は以前はナマズ研究が有名でしたが、実はナマズを「食べる」こともお好きだったとか。2008年に閉店してしまったようですが新大久保にあった「なまず家」というナマズ料理専門店がお好きでよく通っていらしたという噂も。
胃袋でもナマズを研究するなんて、よほどお好きだったんですねえ。でもそちらでは国内で博士号を取れなかったようで…
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-16.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c15
30. 中川隆[-12887] koaQ7Jey 2019年1月18日 19:32:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
いつの間に生物「博士」に??−秋篠宮様のハリボテ学歴 その1 2017-05-14
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-13.html
秋篠宮様が「ナマズ」に関心があり研究(?)をしていたことは有名ですね。「ナマズ殿下」と呼ばれていたこともありました(今も一定世代以上の国民にはその愛称で十分通じます)。
しかし、秋篠宮様は元々「学習院大学法学部政治学科」ご卒業なのです。それがいつの間にかナマズなどの生物研究者扱いとなり、いつの間にか「理系学者」のような感じで報道されるようになりました。
宮内庁HPの秋篠宮様ご略歴・ご学歴のページには下記のように掲載されています。
昭和63年 学習院大学法学部政治学科ご卒業
昭和63年〜平成2年 英国オックスフォード大学大学院動物学科にてご修学
平成8年 理学博士(国立総合研究大学院大学)
政治学科卒業から動物学科、そして理学博士という飛躍は訳がわからないことになっています。
ちなみに今上陛下の弟君である常陸宮様のご学歴は下記のように掲載されています。
昭和33年 学習院大学理学部化学科ご卒業
昭和44年〜平成13年1月 (財)癌研究会癌研究所客員研究員
こちらは違和感がありません。
しかし、美智子様は昭和62年10月15日の会見で、秋篠宮様の研究についてこう述べられています。
>礼宮は、大学の政治学科で勉強しておりますが、これと並行して御所で生物学や動物学、博物館学など自然科学10科目ほどをそれぞれ専門の教授の下でこの3年間学び続けてきました。
(『新天皇家の自画像 記者会見全記録』薗部英一編より)
また秋篠宮様は政治学科所属の頃から財団法人進化生物学研究所(旧東京農業大学育種学研究所)で家禽類研究に従事し、昭和61年から財団法人山階鳥類研究所総裁に就任しているとのこと。秋篠宮様が昭和60年に「自然文化研究会」というサークルを作っていたことは有名ですが、このサークルが純粋な研究サークルでなく「恋人を見つけるための合コン的サークル」であったこともバレています(川嶋紀子さんもここに所属していた)。このサークル活動が高じて生物研究に従事するようになったというには少し無理があると思います。
それに「そんなに生物に関心があるなら最初から生物学を学べる大学や学部に行くか、転部すればいいのに」と国民は思うわけですが、秋篠宮様は学力が足りなくて(噂の真相過去記事でも「大学時代はまったく勉強せず成績はほとんど最下位、同じ学年からは落第生を一人も出せなかった」と書かれてしまっていたほど)希望の学部に行けず「それなら外部から複数の専門家を呼び付けて学んだり、皇族の地位を利用して研究所に従事すればよい」と判断したということでしょうか?随分手間と費用をかけた「家庭教師」だな、と思います。
まあ何事にも興味を持って「学びたい」と思うこと自体は悪くありません。皇族の多くはそれぞれ興味ある分野をお持ちになって研究を続けている方が多くいらっしゃいますから。
しかしそれを「博士号」だの何だのと学歴に結び付けようとするのは何かが違うと思ってしまいます。
秋篠宮様の「学歴」や「博士号」については過去の雑誌も疑問を呈するような記事を書いていました。ページを改めて記事を紹介したいと思います。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-13.html
いつの間に生物「博士」に??−秋篠宮様のハリボテ学歴 その2
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
まずは週刊新潮1996年10月17日号の記事をご紹介します。
『秋篠宮に博士号をおくった変な大学』
>秋篠宮殿下といえばナマズ研究で有名だが、先月三十日、ニワトリの起源に関する研究で理学博士号を授与された。
>なぜナマズがニワトリに変わってしまったのか。しかも学位をおくった「国立総合研究大学院大学」は名前もほとんど知られていない存在。なんとも唐突な印象。
>殿下は一昨年、タイのカセサート大学から魚類生物学の名誉博士号をおくられているのだが、自ら学位の取得には積極的だったようだ。
>母校の学習院大学や東大に提出せずに、神奈川県葉山町にある国立総合研究大学院大学という耳慣れない大学に学位の申請をしたのは不可解である。
>研究を手伝った国立遺伝学研究所の五條堀教授が、総研大の教授を併任していたこともあるのだろうが、そもそも総研大とはどういう大学なのか。
>同大の高畑尚之・教育研究交流センター長が説明する。
>「文部省はもちろん政財界から高度教育の必要性が叫ばれ、日本で初めて設立された大学院大学が総研大です。葉山の本部キャンパスは入学式や学位授与式を行う事務中枢があるだけで、学生はいません」
>「昭和天皇の考え方として、天皇や皇族は一般の学者と競合しない分野で研究するというものがあったんです。つまり、自分の学説を発表すれば他の人の学説と論争になる可能性がある。ですから、昭和天皇は海洋生物のヒドロゾアを敢えて選んだのです。生物学者は何度か学位をと申し入れましたが、名誉博士号をもらうことはあっても、博士号はお受けにならなかった。天皇陛下も皇太子時代に学位の話がありましたが、“いやあ、いいよ”と、ご遠慮なさいました」と、あるベテラン皇室記者は話す。
>昭和天皇も、ハゼの研究をされている天皇陛下も、またオリエント古代史に詳しい三笠宮殿下も博士論文に値する業績を残されているが、学位論文は提出されていない。
>「殿下の場合は研究環境があまりにも恵まれています。協力者や相談相手がまわりにたくさんいますし、標本にしても材料にしても欲しいと言えばどんどん持ってくるでしょう。しかし、皇族はあくまで公務優先で学問は趣味ですからね」(先のベテラン記者)
>そして、実際に家禽の専門家からこんな声もあがっているのである。
「家禽学会のなかに殿下とまったく同じ研究をしていたライバルの学者がいたのです。もちろんこの世界は先手必勝ですし、早く発表して印刷物にした方が勝ちなのは分かっています。もたもたして自説を発表しなかったその学者にも非があるんです。でも、ひとりで研究している一介の学者と殿下では相手になりません」
>あらぬ誤解を受けることになれば、皇室全体に与える影響は少なくない。
(記事終わり)
国立総合研究大学院大学は今でこそ下記のような立派なHPまで設けている施設ですが、1988年に設置された新しい施設であり当時は「歴史も実績もない無名の教育機関」という目で見られていても不思議ではなかったかもしれません。日本で初めての博士課程専門の国立大学院大学であり次世代の研究者を養成することを目的としているようです。
国立総合研究大学院大学公式HP
ttps://www.soken.ac.jp/
国立総合研究大学院大学は当初は東京工業大学長津田キャンパス内に設置されていました。
しかし平成6年(1994年)、神奈川県の斡旋により葉山町に本部を設置することが決まったとのことです。本部用地は三井不動産からの寄附により取得したようです。
葉山町といえば天皇家の御用邸があることで有名です。
平成7年(1996年)に本部が移転し、秋篠宮様は同年9月30日にこの本部で博士号を授与されています。
上記新潮記事には「本部には事務中枢があるだけであり学生はいない」と書かれていますが、その後葉山町キャンパスにはどんどん大学の施設が増えていき大規模な機関となっていきました(上記公式HPの「沿革」を見るとよく分かります)。
秋篠宮様に博士号を授与した当時は「変な大学」「無名」と言われていた国立総合研究大学院大学、現在ではそこまで馬鹿にできる機関ではなくなっている感じがします。
しかし「秋篠宮様への博士号付与」と「大学本部の移転と規模の拡大」のタイミングが合致するのは何か都合が良すぎると感じるのは気のせいでしょうか?
なお、文春も全く同時期に同じような内容の記事を出しています。それは次のページで引用させていただきます。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-14.html
いつの間に生物「博士」に??−秋篠宮様のハリボテ学歴 その3
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-15.html
週刊文春1996年10月17日号にも、秋篠宮様の博士号取得に疑問を呈するような記事が書かれていました。以下引用いたします。
『秋篠宮ニワトリ研究博士論文の「水準」』
>ナマズではなく、家鶏の起源に関する研究で博士号授与に驚かれたむきも多いに違いない。クリントン大統領歓迎晩餐会欠席など、このところ何かと風当たりの強かった秋篠宮だが、これで一挙に汚名返上となるか。
>九月三十日。激しい雨の中、マスコミをシャットアウトして神奈川県葉山町にある国立総合研究大学院大学(総研大)の講義室で博士号の授与式が行われた。
集まった“新博士”は19名。その中に、秋篠宮(30)の姿があった。
お付きは警備の側衛だけで、完全なお忍び。
後ろに儲けられた一般関係者席では、学生の父母らに混じって、紀子さまが満足そうにその様子を眺めていた。
>「授与式の後に行われた茶話会にも殿下は出席され、若い女子学生との記念撮影にもきさくに応じていらっしゃいました」(総研大総務課長・馬場剛氏)
>ナマズ見物のためにクリントン大統領の歓迎晩餐会を欠席して批判されたり、女性問題が取り沙汰されたりと、このところ“御難”続きの秋篠宮だが、総研大の理学博士号取得に、この日ばかりは晴々とした気持ちだったにちがいない。
>まずはめでたい限りだが、一方で秋篠宮の順風満帆すぎる研究者としての門出に、手厳しい意見があるのも事実。遺伝学の研究者が指摘する。
>「秋篠宮さまを指導してきた五條堀教授といえば進化遺伝学のボス的存在。さらに、秋篠宮さまの過去三本の論文には、アメリカのシティ・オブ・ホープ研究所の大野乾先生が共同研究者として加わっている。大野先生は米国科学アカデミーの会員でノーベル賞候補とも言われる世界的権威。
無名の学者ではそんな先生と共同研究なんてなかなかできません。実際、秋篠宮さまがどこまでご自分で研究されたのか疑問です」
>実際、ある宮内庁関係者は胸の内を語る。
>「昭和天皇にも学位の話はありましたが、『私の研究は趣味ですから』と常におっしゃり、 学問に対して謙虚な姿勢を持っていらっしゃった。しかも公務に差し支えないようにと いうことで、ご研究の範囲も相模湾とか、那須の御用邸に限られていたほどです。 それが皇族の伝統なのに、どうして突然、博士号なんだ、という感じはやっぱりしますね」
(記事終わり)
新潮と文春がほぼ同時期に同じような記事を書いていることは興味深いです。
そして双方とも、
●秋篠宮様がご自分の力だけで博士号が取得できたわけではないと推測できること
●研究成果は著名な共同研究者の力が大半を占めていたと思われること
●皇族なのになぜそこまで学位にこだわるのかということへの疑問
などが述べられています。
当時、マスコミをシャットアウトして完全お忍び状態で博士号の授与式に出席したのは「堂々と公開できるような話ではない」ということの表れだったのか、それとも「学位取得は完全にプライベートなことなので報道する必要がないと思った」からなのか…。
しかし、進化遺伝学のボス的存在と言われていた国立遺伝学研究所の五條堀孝教授が国立総合研究大学院大学の教授を併任していたからという理由だけでなぜ彼に白羽の矢が立ったのかまでは新潮も文春も追及していません。秋篠宮様が研究の対象をそれまでの「ナマズ」から「ニワトリなどの家禽類」に変更したのもこの辺りに理由がありそうに思うのですが。
(秋篠宮様は昭和61年から財団法人山階鳥類研究所総裁に就任されています。「鳥」関連でこの研究所も秋篠宮様に手を貸していた可能性は高そうです。)
五條堀孝教授はその後今上陛下とも「ハゼ」の遺伝子研究を共同して行うなど、皇室とのコネクションを強めているようです。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-15.html
いつの間に生物「博士」に??−秋篠宮様のハリボテ学歴 その4
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-16.html
国立総合研究大学院大学から謎の博士号を取得した後、秋篠宮様は今度はタイの複数の大学から名誉博士号を授与されています。
秋篠宮様のWikipediaより。
●1995年(平成7年)9月、タイ・カセートサート大学から名誉博士号(水産生物学)、ブーラパー大学から名誉博士号(理学)授与。
●1999年(平成11年)、タイ・コンケン大学から名誉博士号(水産学)授与。
●2001年(平成13年)8月、タイ・シーナカリンウィロート大学から名誉博士号(理学)、チュラーロンコーン大学から名誉博士号(理学)授与。
●2003年(平成15年)8月、タイ・ウボンラーチャタニー大学から名誉博士号授与。
●2007年(平成19年)3月、タイ・キングモンクット工科大学から名誉博士号(水産学)授与。
●2011年(平成23年)3月、タイ・カセートサート大学から名誉博士号、チェンマイ大学から名誉博士号授与。
●2012年(平成24年)11月、タイ・タンマサート大学ランシット校から名誉博士号(農業技術)授与。
見事にタイの大学ばかりですね(笑)。こちらでは家禽類ではなくて水産学での名誉博士号が多いです。「国内では家禽類(ニワトリ)、タイでは水産学(ナマズ含む?)」という区別をしているようにも見えます。
これらの情報は宮内庁HPには掲載されていません。
「秋篠宮様がタイに足繁く通っていた理由」は愛人がいたからか、研究と博士号のためなのかあるいは両方なのか…いずれにしても秋篠宮様は皇族なのですから、一つの特定国にここまでこだわるのはやはりおかしいと思います。
秋篠宮様がここまで異様に博士号取得にこだわられたこと、文系学部卒なのになぜかニワトリだのナマズだの生物を対象にしたことは傍から見ていて滑稽でもあります。
おそらく秋篠宮様は単純に「動物・生き物」を見るのがお好きなのでしょう。しかし、生物を自然科学的観点から専門的に研究するような頭脳は持ち合わせていない。だけどこのままでは「秋篠宮様はお勉強ができない、頭が良くない、女性にだらしない」という悪いイメージが付いて回ってしまう。
そこで周囲が苦肉の策で編み出したのが「大好きな生き物関連でハクを付けてイメージアップさせるためにその道の権威の協力を得た上での“ハリボテ”博士号の取得」という結論だったのではないかと思うのです。元々動物を見ることがお好きなら、それ関連で「研究したフリ」を続けることはあまり苦にはならなかったのではないでしょうか。
そして秋篠宮様を博士にして恩を売れば、自分たちも「おいしい思い」ができるようになる、という思惑もあっただろうと推測します。
イメージを回復したい秋篠宮様と、見返りを期待したい人々の思惑が合致した結果がこれだと思います。
秋篠宮様のこのハリボテ博士号や学歴は、現在まで秋篠宮様の公務にも影響しています。公務の件についてはまた別途検証したいと考えています。
秋篠宮様のハリボテ学歴と公務で色々な利権関係が形成されていることが分かります。
余談ですが、秋篠宮様は以前はナマズ研究が有名でしたが、実はナマズを「食べる」こともお好きだったとか。2008年に閉店してしまったようですが新大久保にあった「なまず家」というナマズ料理専門店がお好きでよく通っていらしたという噂も。
胃袋でもナマズを研究するなんて、よほどお好きだったんですねえ。でもそちらでは国内で博士号を取れなかったようで…
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-16.html
▲△▽▼
秋篠宮様とタイの怪しい関係 その1 2017-05-07
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-3.html
秋篠宮様の過去を振り返る上でまず欠かせないのが、タイとの関係でしょう。
週刊新潮1996年4月18日号では、下記のような記事が掲載されています。
★今後、記事等を引用する場合は文字色を変えて引用箇所が分かるようにします。
『秋篠宮殿下 度重なる「タイ訪問」に流言蜚語』
>秋篠宮殿下(30)が今月十七日から単身でタイを訪れる。
>目的はお馴染みのナマズの研究ということだが、折りしも来日するクリントン大統領夫妻の宮中晩餐会は欠席することになった。
>なぜ公務よりも私的な旅行を優先されたのか。
>しかも、昨年九月、今年三月と度重なるタイ訪問。殿下の決断を訝る声も出ているのだ。
>そして、あろうことか「タイに親しい女性がいるから」なんて流言蜚語まで飛び交って・・・
という文章で始まる記事。
この冒頭文だけで衝撃的な言葉がいくつも登場します。
以下、記事の続きを引用します。
>「クリントン大統領の公的な行事を欠席してタイに行く、という報道を見たとき、
>また秋篠宮さまの性格が出たなと思いました。
>秋篠宮さまは幼いときから良くも悪くもわがままでしたから」 と、話すのはあるベテラン皇室記者である。
>「お世継ぎとして厳しく育てられた皇太子殿下に対して、
>秋篠宮さまは自由奔放に育てられました。だから秋篠宮さまは車も運転すれば、
>カラオケにもでかけるような親しみやすさを持っているわけです。
>ただし、奔放過ぎて問題を起こすこともあった。皇太子との待遇の違いから“皇籍離脱” を口にしたこともありましたし、
>昭和天皇の喪が明けぬうちにご結婚を決められたことにも、宮中では批判の声が強かった」
これまた衝撃的な言葉のオンパレードです。
しかし当時から秋篠宮が「こういうご性格」であるということは、大半の国民にとって「織り込み済み」事項と言えたかもしれません。
当時の国民はこの記事を読んで「そんなはずはない」という感想よりも、
「まあ天皇陛下の次男だし、皇位を継がないから昔からお気楽だったでしょう」
という感想の方が多かっただろうと想像します。
★「皇籍離脱を口にした」とか「昭和天皇の喪が明けぬうちにご結婚を決められた」という点については、また後ほど別の雑誌記事で検証する予定でおります。
更に記事は続きます。
>皇籍離脱騒動のときは「ご両親への反抗」などと言われたが、
>平成二年に紀子さまと結婚されて、ここのところ持前の奔放さも鳴りを潜めていた。
>が、突然、公務を欠席してナマズの研究に出掛けると言いだしたのである。
>本来なら天皇ご一家でクリントン夫妻をお迎えするところなのに、
>秋篠宮さまが不在では両陛下も心配されていることだろう。
>宮内庁は“苦渋の選択”を強調するのだが、タイ訪問はあくまで私的な旅行なのである。
>両陛下主催の宮中晩餐会が開かれるのは十七日の夜。
>この日の午前中に秋篠宮さまは関西空港からバンコクに出発する予定になっている。
>訪問を一日か二日遅らせれば済むことなのに、なぜ秋篠宮さまはそれほど急がれるのか。
>公務を蹴って私的用事を優先することに対して、皇室ジャーナリストの岸田英夫氏も異論を差し挟む。
>「今回は公務である晩餐会と趣味であるナマズの研究ですよ。公務を欠席していいわけはありません。
>本当に変更の余地がなかったのか疑問です」
>外交評論家の加瀬英明氏はこう話す。
>「“一視同仁”というように、分け隔てなく、どこの国も平等に見るべきであって、
>同じ国ばかりに頻繁にお出かけになるのはどうでしょうか。決して好ましいことではありません」
>立て続けの訪問に、ある大新聞のバンコク特派員は驚きを隠さない。
>「半月くらい前から秋篠宮が来るという噂はありました。
>でも、宮様という立場にある方がそんなに頻繁にくるわけはない、と話していたんです。
>四月五日の閣議で訪問が決まり、正直なところ驚きました。
>今回はバンコクには一泊するだけで、北部を中心に一週間見て回られるということですが、
>全体的に“お忍び”というか、かなりプライベートな旅になると聞いています」
おやおや〜。公的行為(しかも一国の大統領の晩餐会という重要公務)を放り出して
純粋な私的旅行の方を優先してきたのは秋篠宮の方じゃありませんか!!
東宮家アンチ連中は、雅子皇太子妃殿下のことを「公務をしない」と必死に叩き続けてきましたが
秋篠宮のこういう過去はスルーするんでしょうか??それはおかしくありませんか?
また雅子様は、公務を欠席してまで私的なお遊びをなさったことなど一度もないと思います。雅子様はご病気で公務を欠席されたときは、養生やリハビリに専念しており(体調回復に専念することも皇族として大事な務めです)、“遊びに”出かけられたということはただの一度もないはずです。
記事は更に核心というべきことに言及していきます。
>公務を振り切ってまで出掛ける一人旅ということで憶測を呼んでいるのか、
>殿下と関係が浅からぬ周辺からあらぬ噂が聞こえてくるのである。曰く、
>「殿下には結婚前から親しくしているタイ人女性がいて、その女性に会うためにタイに行くのではないか」
>いくら自由奔放な殿下でも海を越えた“ロマンス”など信じがたい話だが・・・。
>紀子様と婚約する以前、「恋人は七人います」と宣言したり、
>居酒屋で席が隣だった若い女性に声を掛けて一緒に飲んだといったエピソードは伝わっている。
>現地在住の邦人ジャーナリストも、
>「よほどこちらの水が合うのか、日本にいるときよりも自由に行動されていますね。
>タイ警察にも“あまり警備を厳しくしないで、自由にやらせてくれ”と頼んでいるようです。
>四、五年前でしたか、殿下が研究のためバンコクの大学に滞在されたとき、
>甲斐甲斐しくアシスタントを務めていた若い女性がいた、と地元の女性記者から聞きましたよ」
「秋篠宮がタイにだけ頻繁に行かれるのは、現地に親しくしている女性がいるせいだ」
この件は当時の方が根強く噂になっていたと記憶しています。
そしてこのタイの女性以外にも、秋篠宮が女性に気軽に接したがるというご性格を元々お持ちでいらっしゃるということも
国民は何となく「ああそんな感じがするね」と感じているようでした。
さて記事の続きです。
>皇室ジャーナリストの河原敏明氏が話す。
> 結婚されて二、三年たったころ殿下と紀子さまの間で家庭内騒動があったのですよ。
>何でもタイの女性が殿下を追いかけて日本に来たのが原因だという噂が流れました。
>結局、真偽のほどは分かりませんでしたが、そのころお二人がほとんど口をきかなかったことは事実のようです。
>いまは紀子さまもお強くなられ、家庭内では紀子さまの方がリードしているそうです」
>赤坂御用地にある屋敷から聞こえてくるお二人のやり取りを耳にした
>宮内庁の職員も少なくないそうだから、激しく一戦を交えることもあるようだ。
>お二人そろって記者会見されたときに「夫婦喧嘩はしょっちゅうします」と笑いながら話されていた。
>にもかかわらず、いわゆる取巻き連中からタイ女性に関する噂がまことしやかに流されているのだ。
>ことに、クリントン大統領の晩餐会を欠席してタイに出掛けることが発表されると、いっそう高まっている。
そして秋篠宮ご夫妻の仲が冷えていったということも書かれています。
夫婦ですから当然喧嘩も発生するでしょうが、その原因にタイ人女性が関わっていることが一番大きいと思われます。
そして周囲からも秋篠宮に対して辛辣な意見が次々と…。
>学習院の同窓で、陛下と親しい会社役員は歎きとも怒りともつかぬ調子でこう話す。
>「困った問題ですね。このことでは両陛下もお心を痛めていることでしょう。
>タイに親しい女性がいることは間違いないみたいですよ。
>結婚する前からの付合いで、ナマズの研究所のスタッフかアシスタントと聞いています。
>身分の高い女性で、エキゾチックな美人だそうです。
>日米関係が微妙なときだけに、両陛下を安心させるためにもタイ旅行は中止していただきたい。
>“やんちゃ”を反省してもらうチャンスだと思っています」
>女子学習院の卒業生を中心とした常盤会の幹部も、
>「皇太子さまと比べると秋篠宮さまはわがままで自分勝手なところが目立ちます。
>紀子さまひとりで宮中晩餐会に出るのは可哀相じゃありませんか。
>学生のころからいろいろありましたけど、お諌めするときは思い切ってやらないと駄目でしょう。
>どうしてもタイに行くなら皇籍離脱してから行っていただきたい」
>別の常盤会関係者の矛先は紀子さまにまで向けられる。
>「こういうことは奥様が気を配るべきなんです。奥様がしっかりアドバイスしてあげないといけないのに、
>やはり夫婦仲がうまくいってないのかしら」
>さらに、攻撃はエスカレートして、
>「殿下の女好きは何とかならないかとずっと思っていたんです。
>今回の旅行だってタイ女性とプライベート・ビーチに行くんだと聞きましたよ」
>取巻きの間ではこういう流言蜚語が、寄ると触ると飛び交っているのだ。
>そして、宮内庁の中からもこんな声が洩れてくる始末なのである。
>「タイに親しい女性がいらっしゃいます。今度の訪問は私的な旅行になっていますが、
>実は殿下からもっとプライベートな日を二、三日作ってくれないか、という申し入れがあったくらいですから」
>宮内庁の職員や殿下に直接話しができる取巻きならば、なぜ殿下に進言、直言しないのか。
>批判の声は結局、天皇皇后両陛下に向かうことを、殿下も宮内庁も取巻きも忘れているのではないか。
(記事終わり)
この当時から「口の軽いご学友(取り巻き)」とか「口の軽い宮内庁職員」というのがいたようですね(笑)。
それは置いておくとして、この記事一本だけでも既にお腹いっぱいです。
このひとつの記事だけでも、以下のことが分かってしまうからですね。
●秋篠宮様は皇太子殿下に比べて相当自由にわがままに生きてこられたこと。
●秋篠宮様は女性がお好きであり結婚後も直っていないこと。
●秋篠宮様が公務を放り出してまで私的にタイに行くことを優先したこと。
●広く交友を持たねばならない皇族なのにタイという特定国にばかり行っていたこと。
●タイの現地女性と親しくしているという噂が根強かったこと。
●紀子妃との夫婦仲もしっくりいっていなかったこと。
●このような秋篠宮様のお振る舞いを苦々しく感じていた人が少なくなかったこと。
今では圧力がかかって到底世に出すことができないと予想できる秋篠宮記事でした。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-3.html
秋篠宮様とタイの怪しい関係 その2〜愛人問題詳細と銃弾事件 2017-05-07
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-4.html
1996年当時、秋篠宮様とタイの関係性を批判した記事は、一つだけではありませんでした。
以下、「噂の真相 1996年7月号」も同様の記事を書いています。
更に一歩踏み込んだ、驚くべきことにも触れています。
(前ブログ内容の新潮記事と重複する箇所は省きます)
『秋篠宮タイ不倫報道の“真相”と保守化強める宮内庁』
(前略)
>宮内庁担当記者が語る。
>「秋篠宮殿下がクリントンの歓迎宮中晩餐会を欠席してタイに出掛けることは、
>閣議報告の前日の4月4日に発表されたんですが、途端に記者の間から疑問の声があがりましたね。
>大谷茂宮務課長は(タイ訪問が)あらかじめ決まっていたため日程は動かせなかった等、
>理由にならない理由を強弁していましたが、報道陣は納得せず、
>一時、会見が紛糾したほど。実際は、宮内庁も秋篠宮の行動に困惑している様子がありありでしたよ」
当時の秋篠宮様の行動は、マスコミからも相当の怒りと顰蹙を買ったことが見てとれます。
このマスコミの怒りや疑問は「雅子様に処方されている薬の詳細を明かせ!」と理不尽なことを迫るような記者とは違い、
マスコミ以外の国民とも共有しうる正当なものだったと言えるでしょう。
以下、「噂の真相」独自の内容を順次引用していきます。
>実をいうと今回、タイ愛人報道が出た際の宮内庁周辺の反応は「まさか」「信じられない」といったものではなく、
>「やっぱり」「殿下なら十分ありえる」といった声が大勢を占めていたのである。
(中略)
>中でも象徴的なのが、学習院大学時代のエピソードだろう。当時、秋篠宮は「パレスヒルズテニスクラブ」 という
>サークルを主宰しており、キャンパスで気に入った女子学生を見付けたら、
>必ず学友に命じてこのサークルに勧誘させていたのだ。
>そして、その勧誘された女性の一人が紀子妃だった。
>当時の同級生がこう話す。
「この 『 パレスヒルズテニスクラブ 』 というのは、殿下の恋人選びのために作られたクラブだったんですよ。
>紀子様以前にも、複数の女性を勧誘してアプローチしていましたし、
>紀子様が入ってからも、同時進行していた女性がいたんじゃないかな。
>お二人が婚約した際、宮内庁は『自然文化研究会』というサークルで顔を合わせているうちに
>親しくなったと発表していましたけど、おそらく体裁が悪いので嘘をついたんでしょう。
>『自然文化研究会』 なんてお二人が付き合いはじめた後に作ったサークルですからね」
>秋篠宮のこうした女性関係の噂は紀子妃と結婚した後も、なくなることはなかった。
>「もうひとりの学習院出身の女性がいて密かに付き合っていた」
>「一時期タカラジェンヌに夢中になり、深夜まで戻ってこず、警護官が大慌てした」などだ。
紀子妃との馴れ初めについては諸説ありますが、
「紀子妃が学習院の売店でアルバイトをしている姿を、礼宮(秋篠宮)様が見染めて交際が始まった」
ということが一番流布されている“説”だと思います。
しかしこの「噂の真相」記事には、全く違う馴れ初め理由が書かれてありました。
「自然文化研究会」以外にもこのような出会い系組織を作っていただなんて衝撃です。
現代では大学の「ヤ○サー」による女子学生への深刻な暴行事件が後を絶たず事件化してるケースもありますが
秋篠宮様はそこまで下劣でなくても、「ヤ○サー」のハシリを行っていたと言えるのではないでしょうか。
そして秋篠宮様の女性関係の記事を巡り、事態は深刻な方向へ行くことになりました。
以下その部分を引用します。
>実は3年前、ある週刊誌が秋篠宮のこうした浮気問題を記事化しようと動いたことがある。
>その週刊誌とは他でもない、当時、美智子皇后バッシングの中心的役割を果たしていた『 週刊文春 』 だ。
>「編集部は、当時、美智子皇后批判キャンペーンをやっていたんですが、それが一段落したら
>次は秋篠宮の浮気の噂を追い掛けるつもりだったんですよ。
>ところが、宮内庁からの抗議、さらには社長宅に銃弾が撃ち込まれるという事件があって、
>皇室批判そのものができなくなって頓挫してしまったんです」 (元 『週刊文春』 関係者)
「銃弾撃ち込まれ事件」は、何となく聞いたことがある国民も多いのではないでしょうか。
この引用箇所からも分かるように、秋篠宮様に対する批判記事はこの銃弾事件によって筆を折ることを余儀なくされ、
現代でも秋篠宮様(と美智子様)に関してはその脅迫状態が続いている、というのが実情だと思われます。
しかしここで一つの疑問が湧きあがります。
この銃弾事件を契機に「皇室批判そのものができなくなって頓挫してしまった」と上記記事は書いていますが、
東宮ご一家に対するバッシング記事は10年以上も放置され、この件で出版社や記者が脅されたという話は
まったく聞いたことがないという点です。
東宮ご一家に対する悪意に満ちた記事はもう数えきれないほど出ているのに、なぜどこからも抗議がこないのか?
東宮ご一家バッシング記事についてはなぜどこからも銃弾が飛んでこないのか?
この銃弾による言論統制事件を起こした連中は一体誰なのか?
皇室や皇族を敬愛する純粋右翼や保守だったら、東宮ご一家へのバッシング記事についても何らかの抗議運動を起こしていてもおかしくないはずです。しかし実際に右翼や保守が動いたという話は聞いたことがありません。
この銃弾事件を起こした連中は、ただの保守や右翼ではないと考えられます。
「噂の真相」記事はその後もタイの愛人の件で話が続いていき、具体的な身元まで取り沙汰されています。
★一人目の噂:タイ外務省の東アジア課につとめる女性
>「彼女は日本の皇室関係者が来ると、必ずといっていいほど通訳をつとめている外務省きっての日本通。
>逆に王族が日本に出かける際に同行したこともありますし、日本の大学に留学した経験もある。
>もちろん、秋篠宮とは以前から面識はありますよ。
>今回、マスコミの前では親しげな素振りはなかったということですが、
>マスコミは24時間、すべての行動を把握しているわけではありません。
>一行はバンコク入りした後、北部のチェンライという都市に移動。
>ズシタニホテルという一流ホテルに滞在していたんですが、ホテルの中での行動まではまったくわかりませんから」
★二人目の噂:タイの前国王・プミポンの末娘であるチュラポン王女
>もしこれが事実なら、外交問題に発展しかねないような大スキャンダルである。
>しかも、チュラポン王女といえば、秋篠宮が結婚した際、宮内庁が結婚の儀に
>海外からの来賓は呼ばないという方針で臨んでいたにもかかわらず、強引に出席を要求。
>とうとうごり押しして来日してしまうという一件もあった。
>もしかすると、これも秋篠宮との特別の関係が原因なのだろうか。
★三人目の噂:カセサート大学付属水産研究所の20代後半(当時)の女性研究員。
「王族ではないが、名字にタイ特有の王族を示す称号が入っており、王室とは縁戚関係にある」とのこと。
>バンコク・ドンムアン国際空港近くにある国立カセサート大学。
>秋篠宮が本格的にナマズ研究に夢中になり始めたのは、学習院時代、ここを訪れたのがキッカケだった。
>以来、秋篠宮はタイ訪問の際、必ずといっていいほど、ここに立ち寄り、昨年は同大学から名誉博士号を貰っている。
(中略)
>同大学関係者が話す。
>「彼女は数年前、プリンス・アキシノがナマズ研究のためにバンコクに1ヵ月滞在した時、
>ずっとアシスタントをつとめていた女性です。 以来、二人は親しくなり、
>彼女はプリンス・アキシノが来るたびにアシスタントに指名され、世話をつとめてきたようです。
>出会った当時は学生だった彼女は現在、研究所の正式研究員になっていますが、
>学内でもプリンス・アキシノのガールフレンドということで、かなり有名です」
>今回のタイ訪問でも、マスコミレベルでは二人が会ったことは確認されていないが、
>秋篠宮は同大学付属水産研究所に立ち寄っており、密かに会っていた可能性は十分ある。
>いや、二人が会っているのは、何もタイでだけではないようだ。
>実をいうと、彼女は頻繁に日本にきて、秋篠宮と会っているという噂も流れている。
>「彼女が日本にくると、秋篠宮は知人の持っているマンションに宿泊させ、そこに通うという形をとるらしい。
>最近はあまり聞かないが、一時、そういう噂でもちきりになった時期がありました」(宮内庁関係者)
3人も違う女性が出てくることに驚きですが、どの女性も知性があり身分も高い、という共通点が面白いと感じました。
しかし愛人の一人と言われている女性が来日まで果たしているというのはかなり大胆ですね。
秋篠宮様は「自由に行動できなくなるから重い警備はいらない」とつい最近も言っていたようですが、
こういう自由な私的行動に支障が出るから警備など不要と考えているのでしょうか。
逆に紀子妃は「東宮家並みの警備を付けてほしい」と望まれてるようですが…
記事は更に「愛人との愛の巣」について言及していきます。
>実は、本誌はまさにその2年前、ある奇妙な情報をキャッチしていた。
>東横線沿いにあるバブル絶頂期に建てられた超高級マンション。
>その最上階にある一室に出入りする秋篠宮の姿がかなり頻繁に目撃されているという話だ。
>「秋篠宮様がくると、SPの人が廊下に立っているのですぐわかります。
>ええ、住人の間では、宮さまの借りている部屋として有名ですよ」 (マンションの住人)
>しかも取材を進めていくと、このマンションを借りているのは、思わぬ人物だった。
>その人物とは、秋篠宮のナマズ研究の師で、
>今回も含めたタイ旅行には必ずといっていいほど同行している某国立大学教授。
>だが、この教授は自宅は別に持っており、普段、この部屋にはまったく人気がない。
>それより何より、この部屋はワンルームとはいえ、専有面積が50平米近くもある超豪華マンション。
>家賃は30万円は下らないといわれ、どう考えても一介の国立大学教授が
>セカンドハウスとして借りられるような部屋ではないのだ。
>もしかしたら、このマンションは秋篠宮とタイ人女性との密会のために、その教授がダミーとなって借りているのではないか。
>そして、カセサート大学にいるという女性との密会の手引きもこの教授がやっているのではないのか・・・
>そんな疑惑さえ浮かんでくるのである。
かなり攻めますね、噂の真相。
今ではこのマンションはどうなっているのか定かでありません。
しかし、この高級マンションの家賃、もしかしたら国民の血税から出ている可能性もあるんですよね。
もしこれと同様のことが今でも続いているのだとしたら、秋篠宮が皇嗣と呼ばれるようになったあかつきに
今の3倍にまで増加される皇族費も、こういうふざけた案件に使われる可能性があるんですよ。
あまりにも国民を馬鹿にした酷い話です。
こういうことが過去にあったから、秋篠宮に支給される予算の使途を明らかにしてほしいと国民は思うわけです。
マンションを借りる際の名義で使われた「某国立大学教授」、思い当たる名前はいくつかあるのですがここでは触れないことにします。
「噂の真相」記事はまだ続くのですが、ページを変えてそこで改めて検証することにします。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-4.html
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噂の真相記事続き〜秋篠宮様はやはりこういう方 2017-05-07
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-5.html
秋篠宮様のタイ愛人問題にかなり迫っていた「噂の真相 1996年7月号」ですが、記事の最後は秋篠宮様の人となり全体についてまとめています。
>たしかに秋篠宮は皇族としてはけっして優等生とはいえないだろう。
>大学時代にはまったく勉強せず、成績はほとんど最下位。
>そのため、大学側は秋篠宮と同じ学年に落第生を一人も出せなかったという逸話もあるほどだ。
>服装や生活も皇室らしからぬ派手なもの。若いときから髭をたくわえ、ブランドものを身につけ、外車を乗り回す。
>皇太子家でさえ私有車は雅子妃が嫁入りの際に持ってきたカローラだけなのに、
>秋篠宮はワーゲンにベンツまで所有している。
>天皇制の根幹をなす宮中儀式などもおざなりで、なんとブレスレットをつけて儀式に出席し、顰蹙を買ったこともある。
>また、紀子妃との結婚も「若すぎる」という周囲の反対の声を強引に押し切って強行したものだった。
>この時、秋篠宮が周囲に「結婚を認めてくれないなら、皇族をやめる」とダダをこねたのは有名な話だ。
>しかもこの時は、昭和天皇の喪があけないうちに婚約の儀をすませるという、前代未聞の荒ワザもやってのけている。
>そして、今回の宮中晩餐会を欠席してのタイ行き強行、前述した女性問題・・・。
>秋篠宮の派手な消費生活に我々の血税が使われているということは納得しがたいし、
>その行動が自らの公的立場をまったく自覚していないものであることもたしかだろう。
(記事終わり)
今の時代では考えられないような「秋篠宮の実像」を追及した記事といえます。
敬宮愛子様はグッチのキッズラインの4万円程度のバッグをお持ちになっただけでバッシングされました。
しかしまず秋篠宮様の方が「ブランド品」や「外車(ワーゲンやベンツ)」を先にお持ちでいらしたのです。しかも数万円程度では済まない、随分高い買い物をしていたようですね。
敬宮愛子様のバッグの報道が出た時、果たして秋篠宮様の過去の「ブランド品・外車好き」の一件は蒸し返されたりしたでしょうか?
それに秋篠宮はこの頃私的行動を優先して公務を欠席したり、宮中儀式でもTPOに反した格好をするなどという事実があったのですから、東宮家アンチ・秋篠宮家シンパが言うような
「公務をきちんとしているからこういう贅沢も許される!」という言い訳や擁護も全く通用しません。
秋篠宮様の成績が良くなかった件も割と有名ですが、これも後ほど上げる予定であるブログ記事と関連してきます。
「皇族やめる」という発言、紀子妃との婚約の件も、後ほどブログに順次掲載する予定です。
秋篠宮様のこのようなお振る舞いに血税が使われることへの怒りで記事は締めくくられていますが、
今でもこの話が通用してしまうのが恐ろしい所です。しかも金額は更に増やされる予定なのですから。
なお、「噂の真相」は2004年4月号を最後に休刊となっています。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-5.html
14. 中川隆[-12889] koaQ7Jey 2019年1月18日 18:43:12: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告
▲△▽▼
秋篠宮様とタイの怪しい関係 その3〜関係はまだ終わっていない? 2017-05-08
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-7.html
平成以降の秋篠宮様のタイ渡航歴は下記のようになっています。
秋篠宮様Wikipediaより。なぜか平成19年までの情報しか掲載されていませんでした。
1989年(平成元年)7月16日 - 8月18日(イギリス・オックスフォード大学留学中)
魚類の調査研究のため。
1992年(平成4年)9月13日 - 9月28日
魚類の調査研究のため。
1992年(平成4年)11月5日 - 11月24日(同妃紀子同行)
タイからの同国シリキット王妃の還暦祝賀式典への招待による。
1995年(平成7年)9月16日 - 9月22日(同妃紀子同行)
カセートサート大学名誉学位授与式、ブーラパー大学名誉学位授与式出席のため。
1996年(平成8年)3月9日 - 3月11日(同妃紀子同行)
前年7月18日に死去したタイ国王ラーマ9世生母シーナカリンの葬儀参列のため。
1996年(平成8年)4月17日 - 4月23日
魚類の調査研究のため。
1999年(平成11年)6月27日 - 7月8日(同妃紀子同行)
秋篠宮および同妃への招待による。
2001年(平成13年)8月2日 - 8月5日(同妃紀子同行)
シーナカリンウイロート大学名誉学位授与式、チュラーロンコーン大学名誉学位授与式出席のため。
2003年(平成15年)8月7日 - 8月21日(同妃紀子同行)
眞子内親王、佳子内親王同行。同国シリキット王妃が72歳を迎えるに際しての祝意表明、並びにウボンラーチャタニー大学名誉学位授与式出席、家禽類に関する共同研究のため。
2005年(平成17年)8月17日 - 8月24日
家禽類に関する日タイ共同調査研究のため。
2007年(平成19年)3月14日 - 3月23日
私的訪問。タイ同国と共同で進めている鶏の研究に関する会議に出席、野生の鶏について現地調査・並びに同国のスラユット首相が理事長を務めるキングモンクット工科大学名誉学位授与式出席のため。
2007年(平成19年)8月13日 - 8月25日: マダガスカル(タイ立ち寄り)
私的訪問。眞子内親王同行。家畜や絶滅鳥の研究のほか、大統領や首相への表敬訪問、宮殿視察。眞子内親王の同行は国際的視野を広めるため。
(Wikipediaはここまで)
宮内庁HPには、秋篠宮家のご活動についてはなぜか平成16年7月以降のものしか掲載されていません。
平成17年8月17日(水) 〜 平成17年8月24日(水)
タイご旅行(家禽類に関する日タイ共同調査研究)
平成19年3月14日(水) 〜 平成19年3月23日(金)
タイご旅行
平成19年8月13日(月) 〜 平成19年8月25日(土)
マダガスカルご旅行(眞子内親王殿下ご同伴)
>東京御発(バンコク経由)
>アンタナナリボ御発(バンコク経由)
平成23年3月8日(火) 〜 平成23年3月11日(金)
タイご旅行
平成24年11月27日(火) 〜 平成24年11月29日(木)
タイご旅行
(宮内庁HPはここまで)
補足1:2003年(平成15年)の旅行は未成年だった眞子様と佳子様もお連れしています。ほとんど私的旅行と判断してよいものでしょう。
補足2:2007年(平成19年)は秋篠宮様と眞子様がマダガスカルに私的旅行に行く際に、行きと帰りにそれぞれタイを経由しています。
補足3:秋篠宮様は平成28年8月18日からもタイに私的旅行する予定だったようですが、テロの脅威があるということで渡航を中止にしています。
こうして見ると、やはり他国に比べて秋篠宮様のタイ行きは多いと言えるでしょう。ほぼ2〜3年に一回、同じ年に二回も行かれているケースもあります。
紀子妃同伴のものもありますが、「研究」や「調査」という名目で秋篠宮様単独で行かれているパターンが特に怪しいと思います。
平成19年、23年、24年にも秋篠宮様はお一人でタイに行かれていますが、普段は文字数をなるべく多くして秋篠宮家が公務をたくさんしているように見せかけている宮内庁HPが、このタイ行きだけ「ご旅行」と文字数少なく投げやり(?)に書かれているのが不自然だと思いました。公務でなく私的旅行なので大っぴらに宣伝できないという雰囲気が漂っています。
こうして見ると、昔に比べて頻度は減ったもののつい最近まで秋篠宮様はタイへ私的に行かれていたことが分かります。タイとの関係性は終わっていないと思われます。
(平成28年もテロがなければ行かれていたと思うので)
前述したように平成19・23・24年のタイ行きに至っては「○○のため」という名目すら書かれておらず「詳細を明かせない」という感じで怪しさ倍増となっています。
ここにひとつの逸話があります。
2008年(平成20年)9月11日(紀子妃のお誕生日ですね)、映画監督のW氏が、自作映画である『天皇伝説』の宣伝ポスターを無許可で掲示したとして、警視庁公安部に軽犯罪法違反で逮捕されています。W氏は「反天皇制を掲げる活動を続けている」という理由で公安の尾行対象となっていたそうです。ポスター掲示の件では不起訴になったようですが。
この事件のニュースのテレビ映像があるのですが、そこには「7月30日(木)豊島公会堂」(映画上映のお知らせか)という文字のほかに
「秋篠宮のタイの女性問題に皇室が三億支払う」
という文字の貼り紙が見えるのです。
天皇伝説
(2008年9月11日 TBS系ニュースより)
まあこの貼り紙の内容の真偽はわかりませんが、「ありそう…」と思えてしまうのが何とも。
『天皇伝説』のポスターはこれ以外にも色々あるようですが、内容的に「これはちょっと…」というような過激な貼り紙や、信憑性の薄い都市伝説的内容の貼り紙も見受けられるので「あくまでも一つのネタ」として捉えた方がいいかもしれません。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-7.html
16. 中川隆[-12886] koaQ7Jey 2019年1月18日 19:36:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
いつの間に生物「博士」に??−秋篠宮様のハリボテ学歴 その5〜利権関係はこうして生まれる?
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-18.html
先日、「旅先でも気まぐれ、自由気ままに (05/14)」という当ブログの記事で「秋篠宮様は湧永製薬と遺伝子研究で関わりを持っている」ということに少し触れましたが、秋篠宮様がニワトリなどの家禽類で疑惑の博士号を取得する前後から湧永製薬が絡んでいたことが判明しました。
そして秋篠宮様が総裁を務める山階鳥類研究所も予想通り名前を連ねていました。
下記はその博士号論文の概要です。
(6) ニワトリの起源の分子系統学的解析:秋篠宮文仁1,三宅哲雄2,高田 勝3,新宮良介4,遠藤俊徳,五條堀 孝,近藤典生3,大野 乾5(1山階鳥類研究所,2湧永製薬,3進化生物学研究所,4大阪大学第二内科,5Beckman Research Institute of the City of Hope, USA)
ミトコンドリアDNAを用いた分子系統学的解析により,ニワトリの起源を調べた.とくに,キジ科に属する30種以上の個体から血液サンプルを抽出し,ミトコンドリアDNAのD-loop領域のDNA配列を決定した.また,現在家禽として飼育されているニワトリの多数の品種からもミトコンドリアDNAも抽出してDNA配列を決定した.決定されたDNA配列は,multiple alignmentを行って,各種間における塩基置換数を推定した.推定された塩基置換数に基づいて,分子系統樹を作成した.その結果,調査されたすべてのニワトリは,インドシナ半島に住んでいた赤色ヤケイを単一の起源としており,ニワトリ起源の単系統説を裏付けるものであった.この成果は Proc. Natl. Acad. Sci., 93, 6792-6795に発表した.
内容的にどう見ても、元政治学科という文系人間で勉強をほとんどしてこなかった秋篠宮様がメインで書けるような論文ではないことがわかります。
湧永製薬と博士論文のつながりの概要を説明すると下記のような感じです。
●湧永は世界にはバイオの湧永として有名である。
●昭和55年にはレベル3(万一遺伝子組み換え微生物が漏れても外部には室内の空気が漏れないようになる)の研究棟を建て、最先端のバイオ研究で有名なアメリカのシティオブホープ研究所(秋篠宮様の共同研究者(?)の一人である大野乾氏が所属している機関)に研究員を派遣してきた (日本から他ではサントリーだけ)。
●湧永の遺伝子工学技術が評価され、秋篠宮様のご研究「鶏の家禽化」における遺伝子解析統計的分類法に大きく貢献した。
●1992年から1999年まで、計10回、秋篠宮様が湧永バイオ研究所にご来所され、研究を進められてきた。
(なお拡大する需要に対応するため広島県に新工場を建設したのが、秋篠宮様と研究を始めた1992年とのこと)
●その成果は、権威あるアメリカの科学アカデミーの紀要(PNAS:Proceedings of National Academy of Science)の1994年12月号に発表され、ニューヨークタイム紙などにも大きく取り上げられた。
●秋篠宮様様は1996年9月に国立総合研究大学院大学で理学博士の学位を取得された。
ちなみに湧永製薬はHPで下記のような紹介分を掲げています。
http://www.wakunaga.co.jp/study/bio/index.html
>ワクナガのバイオは、1970年代末にバイオテクノロジー研究に着手したことから始まりました。
>日本初の遺伝子工学によるセクレチン産生、世界初であった EGF(上皮細胞成長因子)の微生物による大量生産の成功を経て、1990年代からは、遺伝子解析技術とモノクローナル抗体技術をコアテクノロジーとして、種々の研究用試薬および診断薬(体外診断用医薬品)を開発しています。
>また、遺伝子のわずかな違いを検出するために開発したPCR-PHFA法は、1996年からガン遺伝子K-rasの変異検出試薬などに用いられています。
>さらに2003年に、多検体処理に適した検査技術であるxMAPR Technology(蛍光ビーズ法)を米国Luminex社から導入しました。
>当社はこの技術を遺伝子解析に応用し、『WAKFlowR HLAタイピング試薬』シリーズを完成させ、2005年から従来の試薬に代わり骨髄バンクのドナー登録検査用の試薬として供給しております。
はい、このような内容に関しての研究を秋篠宮様がメインで行えるとはどうしても思えません(笑)。しかも秋篠宮様が湧永製薬に訪れたのは7年間でたったの10回!
しかしこの博士論文をきっかけに、様々な利権関係が生まれたのは確実だと思われます。
●国立総合研究大学院大学→秋篠宮様への博士号授与の後キャンパスの施設をどんどん拡大していった
●五條堀孝氏、大野乾氏→ともに今上陛下とのハゼの共同研究も許されている
●湧永製薬→「バイオのワクナガ」という世界的地位を更に強固なものにした
●山階鳥類研究所→秋篠宮様と更に強固な関係になり現在でも秋篠宮様の「公務」に多大な影響を与えている
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-18.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c16
31. 中川隆[-12885] koaQ7Jey 2019年1月18日 19:36:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
いつの間に生物「博士」に??−秋篠宮様のハリボテ学歴 その5〜利権関係はこうして生まれる?
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-18.html
先日、「旅先でも気まぐれ、自由気ままに (05/14)」という当ブログの記事で「秋篠宮様は湧永製薬と遺伝子研究で関わりを持っている」ということに少し触れましたが、秋篠宮様がニワトリなどの家禽類で疑惑の博士号を取得する前後から湧永製薬が絡んでいたことが判明しました。
そして秋篠宮様が総裁を務める山階鳥類研究所も予想通り名前を連ねていました。
下記はその博士号論文の概要です。
(6) ニワトリの起源の分子系統学的解析:秋篠宮文仁1,三宅哲雄2,高田 勝3,新宮良介4,遠藤俊徳,五條堀 孝,近藤典生3,大野 乾5(1山階鳥類研究所,2湧永製薬,3進化生物学研究所,4大阪大学第二内科,5Beckman Research Institute of the City of Hope, USA)
ミトコンドリアDNAを用いた分子系統学的解析により,ニワトリの起源を調べた.とくに,キジ科に属する30種以上の個体から血液サンプルを抽出し,ミトコンドリアDNAのD-loop領域のDNA配列を決定した.また,現在家禽として飼育されているニワトリの多数の品種からもミトコンドリアDNAも抽出してDNA配列を決定した.決定されたDNA配列は,multiple alignmentを行って,各種間における塩基置換数を推定した.推定された塩基置換数に基づいて,分子系統樹を作成した.その結果,調査されたすべてのニワトリは,インドシナ半島に住んでいた赤色ヤケイを単一の起源としており,ニワトリ起源の単系統説を裏付けるものであった.この成果は Proc. Natl. Acad. Sci., 93, 6792-6795に発表した.
内容的にどう見ても、元政治学科という文系人間で勉強をほとんどしてこなかった秋篠宮様がメインで書けるような論文ではないことがわかります。
湧永製薬と博士論文のつながりの概要を説明すると下記のような感じです。
●湧永は世界にはバイオの湧永として有名である。
●昭和55年にはレベル3(万一遺伝子組み換え微生物が漏れても外部には室内の空気が漏れないようになる)の研究棟を建て、最先端のバイオ研究で有名なアメリカのシティオブホープ研究所(秋篠宮様の共同研究者(?)の一人である大野乾氏が所属している機関)に研究員を派遣してきた (日本から他ではサントリーだけ)。
●湧永の遺伝子工学技術が評価され、秋篠宮様のご研究「鶏の家禽化」における遺伝子解析統計的分類法に大きく貢献した。
●1992年から1999年まで、計10回、秋篠宮様が湧永バイオ研究所にご来所され、研究を進められてきた。
(なお拡大する需要に対応するため広島県に新工場を建設したのが、秋篠宮様と研究を始めた1992年とのこと)
●その成果は、権威あるアメリカの科学アカデミーの紀要(PNAS:Proceedings of National Academy of Science)の1994年12月号に発表され、ニューヨークタイム紙などにも大きく取り上げられた。
●秋篠宮様様は1996年9月に国立総合研究大学院大学で理学博士の学位を取得された。
ちなみに湧永製薬はHPで下記のような紹介分を掲げています。
http://www.wakunaga.co.jp/study/bio/index.html
>ワクナガのバイオは、1970年代末にバイオテクノロジー研究に着手したことから始まりました。
>日本初の遺伝子工学によるセクレチン産生、世界初であった EGF(上皮細胞成長因子)の微生物による大量生産の成功を経て、1990年代からは、遺伝子解析技術とモノクローナル抗体技術をコアテクノロジーとして、種々の研究用試薬および診断薬(体外診断用医薬品)を開発しています。
>また、遺伝子のわずかな違いを検出するために開発したPCR-PHFA法は、1996年からガン遺伝子K-rasの変異検出試薬などに用いられています。
>さらに2003年に、多検体処理に適した検査技術であるxMAPR Technology(蛍光ビーズ法)を米国Luminex社から導入しました。
>当社はこの技術を遺伝子解析に応用し、『WAKFlowR HLAタイピング試薬』シリーズを完成させ、2005年から従来の試薬に代わり骨髄バンクのドナー登録検査用の試薬として供給しております。
はい、このような内容に関しての研究を秋篠宮様がメインで行えるとはどうしても思えません(笑)。しかも秋篠宮様が湧永製薬に訪れたのは7年間でたったの10回!
しかしこの博士論文をきっかけに、様々な利権関係が生まれたのは確実だと思われます。
●国立総合研究大学院大学→秋篠宮様への博士号授与の後キャンパスの施設をどんどん拡大していった
●五條堀孝氏、大野乾氏→ともに今上陛下とのハゼの共同研究も許されている
●湧永製薬→「バイオのワクナガ」という世界的地位を更に強固なものにした
●山階鳥類研究所→秋篠宮様と更に強固な関係になり現在でも秋篠宮様の「公務」に多大な影響を与えている
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-18.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c31
17. 中川隆[-12884] koaQ7Jey 2019年1月18日 19:52:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
番外編〜紀子妃もハリボテ博士号 2017-06-01
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
本日、下記のニュースが報じられました。
紀子さま お茶の水女子大研究員に
6/1(木) 7:11配信
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20170601-00000037-jnn-soci
宮内庁は、秋篠宮妃・紀子さまがお茶の水女子大学の研究所の特別招聘研究員に就任されたと発表しました。
紀子さまは今月1日付けでお茶の水女子大学人間発達教育科学研究所の特別招聘研究員に就任されました。今後は、研究所における人間発達科学や健康科学に関する研究プロジェクトに、共同研究者として参加される予定だということです。
紀子さまは2009年から日本学術振興会の名誉特別研究員として健康心理学の観点から結核予防の研究を続けていて、2013年にはお茶の水女子大学で人文科学の博士号を取得されていました。(01日05:02)
(記事ここまで)
このニュースにつき上のサイトで1000人越えの人々のコメントが読めるのですが、見事に批判意見ばかり!それも言いがかりのようなものは一切なく、大半がまともな感覚によるまっとうな批判であることに、一種の感動すら覚えました…ああ、秋篠宮家の実態が徐々に若い世代にも浸透しつつある、もう国民はこの一家には騙されないだろう、そういうことが分かったことが何よりも有り難いと感じました。
※最初の方は紀子妃アゲの明らかに工作と思われる不自然なコメントが多いのですが、工作活動が一段落したらドッと普通のまともな感覚の人々のコメントが押し寄せ、最初の方の工作コメントが埋もれてしまっている状況のようですね(笑)。しかもその「紀子妃アゲ、雅子様(東宮ご一家)サゲ」のコメントも「自分はそうは思わない」というチェックの方が圧倒的に多くなっており、秋篠宮家アゲの工作活動の実態がバレていよいよ終焉を迎えつつあるように見受けられます。
さて、上記ニュースが報じられたことですし、せっかくの機会なので紀子妃の謎の博士号についても改めて記録に残しておきましょう。
4年ほど前、秋篠宮様の奥方である紀子妃も「博士号」を取得しています。
下記のHP「お茶の水女子大学博士論文リスト」に掲載されています。
ttp://www.lib.ocha.ac.jp/gakui.html
乙第325号
授与年月日:平成25年3月22日
種類:博士(人文科学)
氏名:秋篠宮 紀子
論文名:結核予防の意図と行動について
―結核予防婦人会講習会参加者・女子大学生の調査より―
また「CiNii」のサイトにも紀子妃の論文情報が掲載されています。
「結核予防の意図と行動に関連する心理学的要因についての探索的研究 : 結核予防婦人会講習会参加者と女子大学生との調査より」
http://ci.nii.ac.jp/naid/10031183702#ref
論文自体はページ数も数頁程度で非常に少なくお粗末なものだったようです。
国立国会図書館のデータでは「525〜533ページ」と割り振られていますのでわずか9ページ…?博士号論文ってこんなにボリューム少なくても取得できるものなのでしょうか?
また、宮内庁HPの紀子妃のご学歴は下記のようになっています。
平成元年 学習院大学文学部心理学科ご卒業
平成7年 学習院大学大学院人文科学研究科心理学専攻博士前期課程ご修了
平成25年 博士(人文科学)(お茶の水女子大学)
一見、秋篠宮様に比べればそこまで不自然な学歴ではないように見えます。上記お茶の水の博士号も一応心理学についてのものであり、秋篠宮様よりはまだ一貫性があると思われます。
しかし紀子妃は、平成元年に大学卒業後すぐに大学院に進み、同年礼宮様(秋篠宮様)との例の喪中婚約会見を開き、平成2年の秋篠宮様との結婚、平成3年の眞子様出産、平成6年の佳子様出産を通じて、平成7年まで博士前期課程だけで実に7年間も大学院に籍を置いていたようです。
もちろん、社会人として働き、また育児をしながら大学院に通っている人々も大勢いるでしょうが、彼(女)らは自分の稼ぎで学費を支払っているケースがほとんどだと思うのです。
しかし紀子妃のこの学費は大半が国民の血税から出ていると思われます。
秋篠宮ご夫妻の喪中婚約の経緯を見ている国民からすれば「きちんと大学院修了してから結婚すればよかったじゃないか!」という怒りが湧くのは致し方ないことです。
紀子妃はあの喪中婚約会見で「勉強は可能な限り一生続けていきたいと思います〜」と能天気で呑気な発言をしていましたが、学費を自分で出すつもりなどないという心づもりでいるからこそそういうことが言えるのだと思えてなりません。
秋篠宮様もハリボテ博士号、その妃もハリボテ博士号、そして妃の方は研究員とやらに就いて更なるキャリアを積むように見せかけている。
見掛け倒しの学歴にすぎないのに、このご夫妻は一体何が目的でハリボテ学位を得たのでしょうか。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c17
32. 中川隆[-12883] koaQ7Jey 2019年1月18日 19:52:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
番外編〜紀子妃もハリボテ博士号 2017-06-01
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
本日、下記のニュースが報じられました。
紀子さま お茶の水女子大研究員に
6/1(木) 7:11配信
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20170601-00000037-jnn-soci
宮内庁は、秋篠宮妃・紀子さまがお茶の水女子大学の研究所の特別招聘研究員に就任されたと発表しました。
紀子さまは今月1日付けでお茶の水女子大学人間発達教育科学研究所の特別招聘研究員に就任されました。今後は、研究所における人間発達科学や健康科学に関する研究プロジェクトに、共同研究者として参加される予定だということです。
紀子さまは2009年から日本学術振興会の名誉特別研究員として健康心理学の観点から結核予防の研究を続けていて、2013年にはお茶の水女子大学で人文科学の博士号を取得されていました。(01日05:02)
(記事ここまで)
このニュースにつき上のサイトで1000人越えの人々のコメントが読めるのですが、見事に批判意見ばかり!それも言いがかりのようなものは一切なく、大半がまともな感覚によるまっとうな批判であることに、一種の感動すら覚えました…ああ、秋篠宮家の実態が徐々に若い世代にも浸透しつつある、もう国民はこの一家には騙されないだろう、そういうことが分かったことが何よりも有り難いと感じました。
※最初の方は紀子妃アゲの明らかに工作と思われる不自然なコメントが多いのですが、工作活動が一段落したらドッと普通のまともな感覚の人々のコメントが押し寄せ、最初の方の工作コメントが埋もれてしまっている状況のようですね(笑)。しかもその「紀子妃アゲ、雅子様(東宮ご一家)サゲ」のコメントも「自分はそうは思わない」というチェックの方が圧倒的に多くなっており、秋篠宮家アゲの工作活動の実態がバレていよいよ終焉を迎えつつあるように見受けられます。
さて、上記ニュースが報じられたことですし、せっかくの機会なので紀子妃の謎の博士号についても改めて記録に残しておきましょう。
4年ほど前、秋篠宮様の奥方である紀子妃も「博士号」を取得しています。
下記のHP「お茶の水女子大学博士論文リスト」に掲載されています。
ttp://www.lib.ocha.ac.jp/gakui.html
乙第325号
授与年月日:平成25年3月22日
種類:博士(人文科学)
氏名:秋篠宮 紀子
論文名:結核予防の意図と行動について
―結核予防婦人会講習会参加者・女子大学生の調査より―
また「CiNii」のサイトにも紀子妃の論文情報が掲載されています。
「結核予防の意図と行動に関連する心理学的要因についての探索的研究 : 結核予防婦人会講習会参加者と女子大学生との調査より」
http://ci.nii.ac.jp/naid/10031183702#ref
論文自体はページ数も数頁程度で非常に少なくお粗末なものだったようです。
国立国会図書館のデータでは「525〜533ページ」と割り振られていますのでわずか9ページ…?博士号論文ってこんなにボリューム少なくても取得できるものなのでしょうか?
また、宮内庁HPの紀子妃のご学歴は下記のようになっています。
平成元年 学習院大学文学部心理学科ご卒業
平成7年 学習院大学大学院人文科学研究科心理学専攻博士前期課程ご修了
平成25年 博士(人文科学)(お茶の水女子大学)
一見、秋篠宮様に比べればそこまで不自然な学歴ではないように見えます。上記お茶の水の博士号も一応心理学についてのものであり、秋篠宮様よりはまだ一貫性があると思われます。
しかし紀子妃は、平成元年に大学卒業後すぐに大学院に進み、同年礼宮様(秋篠宮様)との例の喪中婚約会見を開き、平成2年の秋篠宮様との結婚、平成3年の眞子様出産、平成6年の佳子様出産を通じて、平成7年まで博士前期課程だけで実に7年間も大学院に籍を置いていたようです。
もちろん、社会人として働き、また育児をしながら大学院に通っている人々も大勢いるでしょうが、彼(女)らは自分の稼ぎで学費を支払っているケースがほとんどだと思うのです。
しかし紀子妃のこの学費は大半が国民の血税から出ていると思われます。
秋篠宮ご夫妻の喪中婚約の経緯を見ている国民からすれば「きちんと大学院修了してから結婚すればよかったじゃないか!」という怒りが湧くのは致し方ないことです。
紀子妃はあの喪中婚約会見で「勉強は可能な限り一生続けていきたいと思います〜」と能天気で呑気な発言をしていましたが、学費を自分で出すつもりなどないという心づもりでいるからこそそういうことが言えるのだと思えてなりません。
秋篠宮様もハリボテ博士号、その妃もハリボテ博士号、そして妃の方は研究員とやらに就いて更なるキャリアを積むように見せかけている。
見掛け倒しの学歴にすぎないのに、このご夫妻は一体何が目的でハリボテ学位を得たのでしょうか。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-27.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/110.html#c32
138. 中川隆[-12882] koaQ7Jey 2019年1月18日 20:17:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019年1月18日
ゴーン被告が不正報酬10億円、三菱自と日産の統括会社から
[東京 18日 ロイター] - 日産自動車(7201.T)と三菱自動車(7211.T)は18日、会社法違反(特別背任)などの罪で起訴された前会長のカルロス・ゴーン被告が、オランダに設立した折半出資の統括会社「日産・三菱B.V.(NMBV)」から報酬名目で不正に約10億円を受け取っていたと発表した。両社が進めていた内部調査で判明した。
記者団の取材に応じた三菱自の益子修会長兼最高経営責任者(CEO)は判明した不正について、昨年11月19日のゴーン氏逮捕を受けて内部調査を開始した後に「日産幹部から、ゴーン氏にNMBVから不正の疑いのある支払いがあったとの情報開示を受け、初めて認識した」と説明。「それまでは私を含め、当社関係者は一切知らなかった」と語った。
また「日産の社内でも知っていたのは限られた人だけ。(日産の)西川(廣人)社長にも知らされていなかった」といい、「日産と協力し、ゴーン氏に対する責任追及を検討していく」として損害賠償請求などを検討する意向を示した。日産も「不正に支払われた金銭は返還されるよう今後検討していく」としている。
内部調査によると、ゴーン氏は独自にNMBVと雇用契約を締結。この契約に基づき、2018年4月末から11月にかけて総額約782万ユーロ(約10億円、税額含む)の支払いを受けていた。
NMBVの取締役の報酬決定や報酬を定めた雇用契約の締結は、本来は同社取締役会の決議が必要だが、同氏は他の取締役らと協議せずに雇用契約を結び、不正な報酬を手にしていた。
NMBVの取締役はゴーン氏のほか、西川社長、益子CEOの3人だが、西川、益子両氏は報酬を受け取っていないという。NMBVは日産と三菱自の相乗効果の追求を目的に設立された会社だが、両社の連結対象外で、報酬は開示されていない。
内部調査に関わった弁護士によると、雇用契約は権限がない日産の秘書室幹部(提携以降は三菱自の秘書室幹部も兼務)の署名入りで作成されており、「この契約は無効」であること、取締役会の決議がないことなどを踏まえ、「支払いは不正と判断した」という。刑法上では業務上横領罪の可能性があるとの見方を示した。
同弁護士はまた、両社の戦略的提携契約が結ばれた16年5月の1カ月後となる6月ごろに、ゴーン氏、日産の前代表取締役だったグレッグ・ケリー被告、日産幹部らの間でNMBVを通じたゴーン氏への報酬支払いの検討が始まったと説明。日産の三菱自への出資完了は同年10月で、「資本提携が正式に発足する前から今回の支払いの仕組みを計画していた」と明らかにし、三菱自側は一切、知らなかったと話した。
益子会長は、逮捕に続くゴーン氏の新たな不正発覚について「率直に言わせてもらうと悲しい」と述べた。ただ、今回の問題と日産やルノー(RENA.PA)との提携関係(アライアンス)は「峻別して考えるべきだ」とし、「アライアンスのメンバーになったことは選択として間違っていたとはまったく思っていない」と強調した。今の自動車産業が抱える数多くの問題に「1社で対応していくのは難しい。アライアンスの力を有効に活用していくことが不可欠だ」と語った。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c138
18. 中川隆[-12881] koaQ7Jey 2019年1月18日 20:36:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
秋篠宮様の“逆襲”、宮内庁と週刊誌の攻防戦 その12〜噂の真相によるより詳細な記事B
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-43.html
本日は「噂の真相」 1998年9月号『秋篠宮告白本でわかった皇室と宮内庁“暗闘の構図” 』の最終部分を引用させていただきます。
(記事続き)
今回の単行本の中で秋篠宮はタイ愛人問題を<捏造>と完全否定しているが、実をいうとこれもけっして無根拠な噂ではない。
前出の宮内庁OBがこう話す。
「本の中で、夜は研究仲間とホテルで懇談しているだけでそんな時間はないとあったが、この『研究仲間』というのが問題なんです。秋篠宮殿下はタイに行く際、ナマズ研究の師である多紀保彦・東京水産大学教授、タイ政治の専門家である赤木攻・大阪外大教授、それから今回の本の著者である江森氏ら個人的な取り巻きを必ずといっていいほど連れて行くんだが、朝から晩まで彼らが殿下を囲い込んで、大使館や宮内庁関係者から遠ざけてしまうんです。彼らが協力すれば、ホテルに女性を連れ込むことなど いとも簡単ですよ」
しかも、秋篠宮はもうひとり、宮内庁にとって招かれざる人物をタイ旅行に必ず同行させている。
その人物とは、ソムチャイ・コシタポンというタイ人男性。
「コシタポン氏は殿下がはじめてタイを訪れて以来、ずっと現地ガイドとしてすべてのタイ旅行に同行しています。もちろん宮内庁やタイ政府が雇っているわけではなく、むしろ宮内庁は彼の存在に困っているんですが、殿下が勝手に呼んでしまうんです。殿下のプライベートでのスケジュールはすべて彼が仕切っていて、お忍びで色々な所に連れていったり、色々な人間に会わせているらしい。彼はタイの警察にも顔が利く地元ではかなりのヤリ手ですから・・・」(前出・宮内庁OB)
実際、89年の訪問で秋篠宮が一時的に行方不明になるという騒ぎがあったが、これもコシタポンが地元の警察に警備を依頼して、いわゆる「売春窟」に案内していたという事実が判明している。
▼引き払われていた隠しマンション
実は秋篠宮が紀子妃と結婚してから2、3年後、タイの女性が日本にやってきて、隠しマンションで密会しているという噂が流れたことがあった。しかも取材してみると、秋篠宮の姿が頻繁に目撃されているマンションがあったのだ。
この部屋は、渋谷区東1丁目にあるバブル絶頂期に建てられた「P」というマンションの1511号室。部屋の前には「アジア魚類研究会」という小さな表札がかかっていたが、いついっても人気はない。
だが、住民に 聞いてみるとこんな答えが帰ってきた。
「秋篠宮様の姿はたまにお見かけしますよ。それに秋篠宮様が来ると、SPの人が廊下に立っているのですぐわかります」
そしてこの部屋の借り主を調べてみると、なんと秋篠宮の側近であり、パノム博士の恩師でもある多紀教授だったのである。
しかも不可解なことに、本誌がこの事実を96年7月号で報じた少し後、この部屋は跡形もなく引き払われてしまっていた。
(記事終わり)
上記記事では詳細な実名や肩書まで出ていて、秋篠宮様がいつもだいたい同じ「お取り巻き」や「お仲間」を引き連れて好き勝手に行動している様子が改めてよく分かるというものです。例のソムチャイ氏も再登場ですが、この人物は宮内庁などからは良く思われていなかったとも書かれていますね。まあ、彼が一人で勝手に秋篠宮様のスケジュールを管理してしまうので当然ですが。
しかし、秋篠宮様は色々とフリーダムな方なのでそれにつけ入れられ「秋篠宮様は腐っても皇族だし、仲間に入れば色々とおこぼれに預かれそうだ」と民間人に利用されているだけにしか見えませんね。秋篠宮様ご本人は「自分は頼れるアニキ分」を気取っているつもりでも、取り巻き連中はそうは思っていないでしょう。
仮に秋篠宮様が皇族をやめた(皇籍離脱した)場合、ただの一般人となった“文仁さん”にどれくらいのお取り巻き連中が付いてくるでしょうか。
そして驚いたのが「噂の真相1996年号」で取り沙汰されていた「例のマンション」が、あの記事が出た後に引き払われていたこと。そして今回の記事ではそのマンションの名義が「多紀保彦教授」であることが暴露されています(前回の記事では名前は伏せられていた)。
「ここは秋篠宮様が愛人と密会しているマンションではないか?」という疑惑が出た途端に引き払うとは、分かりやすすぎではありませんか。本当に「アジア魚類研究会」のための部屋なら引き払う必要などないはずですし、堂々と「魚類研究」を続ければ良かったではありませんか。
この部屋で秋篠宮様と会っていた女性は、果たして誰だったのでしょうね。
タイの研究員か、それとも例の王女か、それともまだ表に出ていない別の第三者か…
秋篠宮様とタイの関係性ですが、平成28年8月にもテロが無ければタイに私的旅行(目的は明らかにされていません)に行く予定であったことを考えると、秋篠宮様とタイの関係はまだ続いているようです。表向きは「研究」となっていますが、それなら堂々と渡航目的を「研究」と言えばいいはず。なぜ目的を伏せる必要があるのでしょうか。
自分に都合の良いことを語りたい時は饒舌になるくせに、不都合なことには沈黙を決めたりごまかしたり、そこに触れるなといわんばかりの態度になる。秋篠宮ご一家にはそういう印象しかありません。
なお、1996年当時に生じた「秋篠宮様愛人疑惑」を2年後に蒸し返した形になるこの「噂の真相」記事ですが、この記事について宮内庁が抗議したという形跡はないような気がします。
新潮にはあれだけ執拗に謝罪と訂正を求めた宮内庁だったのに。
「川嶋教授の件に触れていなければ別に抗議しないよ」というのが、やはり宮内庁の本音だったということでしょうか?
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-43.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c18
19. 中川隆[-12880] koaQ7Jey 2019年1月18日 20:55:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
当主不在の“ブラック宮家” その1〜秋篠宮家担当の皇宮警察の相次ぐ自死 2017-06-27
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-44.html
秋篠宮家のパワハラ問題について、まずは週刊新潮2005月8月11・18日合併号の記事からご紹介したいと思います。
いきなり重いタイトルのもので恐縮ですが、なるべく時系列に沿って記事をご紹介した方が、秋篠宮家に潜む問題がずっと以前から続いているということがお分かりになるかと思いました。
「皇宮警察」また出た自殺者は「秋篠宮」担当
皇室の守護を目的とする皇宮警察。その本部に所属していた警視(58)が7月15日、自ら命を絶った。実はこの人、秋篠宮家の護衛を担当する侍衛官だったという。
昨年夏にも自殺者か出たというが、一体、皇宮警察で何か起きているのか。
亡くなったのは、護衛部の侍衛官、加藤達夫氏(仮名)だ。侍衛官とは、護衛部長の直轄で皇室警護の現地指揮をとるのが主な仕事。皇宮警察本部にはたった3人しかいない。天皇皇后両陛下、皇太子ご一家、秋篠宮家の下に各一人ずつ配置され、加藤氏は秋篠宮家を担当していた。お出かけの際には必ず身辺の警護にあたっていたというから、秋篠宮ご夫妻もさぞやお心を痛めていらっしゃるに違いない。
むろん、スキャンダルを極度に嫌う皇宮警察だけに、内部でも厳しい箝口令が敷かれているという。
皇宮警察の広報も、「自宅近くに車を止め、その中で縊死していました。原因については、全くわかりません」と言うだけだ。だが、
「昨年8月にも加藤の後輩が、首を吊って自殺しているんです」
と明かすのは、皇宮警察関係者のA氏だ。
「加藤氏と一緒に秋篠宮家の護衛にあたるのが、護衛部の護衛3課。自殺したのは、3課の高山弘(当時47)=仮名=という側衛官です。高山は、眞子さまや佳子さまをよく学習院に送り迎えしており、紀子さまの大のお気に入りだった。加藤は高山を直接の部下のように面倒を見ていました」
もっとも、高山氏は私生活ではかなりいい加減だったという。
「大の女好きで、生活がハデでね。一千万単位の借金を作り、それか原因で白殺したんです。高山は私に“加藤さんに借金の保証人になってもらっている”と言っていた。もしかすると加藤は、高山の残した借金の返済を迫られていたのかもしれません」(同)
秋篠宮家担当の護衛官がたて続けに自殺するとは、尋常ではない。
皇宮警察関係者のB氏はこんな話をする。
「加藤さんを含め、護衛3課の3〜4人が監察から調べられていました。少なくとも、加藤さんは7月11日に監察に呼ぱれています。
その直後、加藤さんは樵悴しきっていたといいますからね、金に関することで何らかの不正があったのではないでしようか」
やはり、監察に呼ばれたことと自殺には、何らかの因果関係がありそうだ。
そこで、皇宮警察の広報(前出)に間くと、
「11日に加藤氏は監察に呼ばれていません。監察としては、随時、様々な案件について調査を行っております。調査の過程で何らかのコメントをするのは、適当でないと考えます」と、微妙な言い方をする。
しかし、B氏はさらにこう話した。
「加藤さんが亡くなった前後に、護衛3課で監察に調べられていた警視が辞意を伝えています。表に出せないようなヤバイ話があるのは確実ですよ。これじゃ、秋篠宮家担当の護衛体制はガタガタじゃないですか。関いたロが塞がらない」
最後に、残された加藤氏の妻は涙ながらに語った。
「何故、こんなことになってしまったのか。理由もさっぱりわからず、それだけに残念でなりません。主人が監察に呼ぱれたことは聞いていましたが、内容については知りません。でも、そんなに弱い人ではないと思っていたのですが……」
皇宮警察がこんな体たらくでは、皇室も心もとない限りだろう。
(記事終わり)
上記記事は、あくまでも二人の皇宮警察は借金問題が原因で自殺をした、という方向で書かれてはいます。しかしその一方で、「表に出せないようなヤバイ話もある」という感じで、記事に書けないような恐ろしい噂もあるということも匂わせています。
遺族は「自殺の理由はさっぱり分からない」と答えており、遺族にも知らされていないような闇があるのではないかと思われます。
遺書はなかったのか、遺書は見つかったがその内容が明らかにされていないだけなのか、分からないこともあります。
ここまでくると「死人に口なし」で、本当は借金以外の理由があったのではないかと?という見方もできます。
そもそも警察の先輩後輩同士で、借金の保証人になるということがありうるのでしょうか?
仮にそういうことがあったとしても、なぜ二人とも死を選ぶしかなかったのか?
秋篠宮家担当になっていた皇宮警察が立て続けに二人も自殺を選ぶということ自体、非常に怖いものを感じます。
秋篠宮家という存在自体、何か関係しているのか、それともただの偶然か…
もちろん、上記記事だけでは「パワハラが関係している」と決め付けることはできませんが、言葉にできない不気味さを感じます。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-44.html
当主不在の“ブラック宮家” その2〜女官に続いて料理人まで…
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-46.html
今日は「パワハラ・ブラック宮家」編として、週刊現代2007年10月20日号の記事を抜粋してご紹介いたします。
当該記事は、雅楽で有名な東儀家の13代目雅季氏の夫人、真由美氏が2007年9月に詐欺容疑で逮捕されたことに関する記事です。罪の詳細は省きますが、東儀夫人は“現代のお公家さま”という感じで金銭感覚が極めてルーズであり、あちこちから借金しては踏み倒しているということを繰り返していたようです。詐欺罪もそのルーズな金銭感覚の一環として行われたもののようです。
この東儀真由美氏の口から語られたエピソードの中に秋篠宮家に関する興味深い内容が含まれていたので、該当部分のみ抜粋いたします。
「詐欺で逮捕」宮内庁楽部・名家13代目夫人が漏らしていた「天皇家の秘密」
(引用開始)
カネにだらしない夫人は口元の締まりも悪いようで、“最高機密”のはずの天皇家の内情を、惜しげもなく話しまくるという。夫人が周囲に漏らしていたエピソードを集約すると、
「天皇陛下が亡くなる瞬間って、楽部はつきっきりで演奏しなければいけなかったの。大喪の礼の前(昭和天皇の崩御までの数カ月間)、ウチの旦那は何日もつきっきりで大変だったんだから。そもそも、ウチの旦那のお父さんは、昭和天皇に楽器を教えたくらいの人だしね。
秋篠宮殿下ってホント、お酒が好き。天皇ご一家はみなさん召し上がるけど、あの人は特別ね。それと、紀子さま。あの人、自分が好きな料理を作らなかったっていう程度の理由で料理人をクビにしたの。あの人の子どもに近所の犬が寄っていったことがあったけど、そのとき子どもが 『 イヤだ 』 って言ったら、その犬、いつのまにか“消えた”のよ。本当にワガママな人だけど、男の子も産んで公務もちゃんとこなすから、美智子さまも邪険に出来ないだけよ。雅子さまの子どもじゃなく、紀子さまの男の子が(皇位を)継ぐなんて“ガセ”よ。だって宮内庁は女帝を推してるんだから」
(引用ここまで)
「宮内庁が女帝推し」ということの真偽はともかく(もしこれが事実なら敬宮愛子内親王殿下はもっと大事にされているはずなのにそうではないので、真由美氏の言うことは信じがたいですが)、秋篠宮家に関する発言は「さもありなん」という感じです。
紀子妃が皇室に入ったばかりの頃、紀子妃を気遣ってサーヤ(黒田清子さん)の気心が知れた女官をわざわざ紀子妃付きの女官にしたのに、紀子妃がその女官とウマが合わず結局女官が辞めることになり、サーヤがショックを受けたというエピソードも過去に残されているくらいですから(詳細は当ブログの下記記事をご参照ください)、「料理人クビ」ということもありうると思ってしまいます。
参考までに:
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-30.html
礼宮様と川嶋紀子さんの婚約 その9〜よくこんな女性が皇室に入れたものですね
この数年後、2011年くらいからしばらくの間、秋篠宮家から次々に職員が離れていくという深刻な事態についての雑誌記事が大量に出てくることになりました。詐欺罪をはたらいた東儀真由美氏の言うことに信憑性はないというご意見も当然あるかと思いますがこうも立て続けに職員が離れていくことが続くと、やはり秋篠宮家には「職員が居づらくなる要因」が何かしらあるという疑惑が出てくるのです。
そして秋篠宮家の子どもたちが嫌がった犬が「消えた」というのも、怖い話ですね。問答無用で処分されてしまったということであれば酷い話だと思います。秋篠宮家は「一家揃って動物好き」をアピールすることが多いですが、本当に動物を可愛がっているとは思えない話も多いのです。
次回からは、怒涛のようなブラック宮家の実態記事が続きます。
主に紀子妃中心の内容になると思いますが、「当主の秋篠宮様はどこ行った?」と思いながらお読みください。
1996年頃は色々な意味で話題になっていたのに、現在は当主のくせに存在感皆無になってしまった秋篠宮様です。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-46.html
当主不在の“ブラック宮家” その3〜次々に去る職員らと、なぜか頼りにされる3人の側近
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-48.html
今回は、週刊文春2011年9月22日号の記事をご紹介いたします。
深層レポート 紀子さま45歳 秋篠宮家をウラで牛耳る「3人の側近」
10人以上の職員が交代!
なぜ職員が体調を崩し次々に去るのか。書かれざる“人間関係”を明らかにする
「我々に人事権はありません。命じられた場所で働くだけ。だから堪えられない人は夜逃げ同然で去る人もいる」。ある関係者はこう話した。普段は退嬰的な宮内庁がなぜこれほど頻繁に人事を行ったのか。知られざる秋篠宮家職員たちの真実を初めてつまびらかにする。
国道246号線。通称・青山通りを東に走り、豊川稲荷の手前を左に折れると、すぐ左側に見えるのが「巽門」。門番である赤坂護衛署第四警備待機所を通過し、緑豊かな敷地を道なりに150メートルほど進むと、秋篠宮邸の重厚な鉄門に行き着く。
今の季節はツクツクボウシの蝉しぐれが響く赤坂御用地のなかで、宮邸は背の高い木立に囲まれ、周囲からは中の様子を窺い知ることはできない。
秋篠宮邸は平屋建ての公室棟と、二階建の私室棟に分かれており、この公室棟の玄関で、今年も紀子さまの誕生日にあたり、祝賀の記帳が受け付けられた。
参列者の一人が話す。
「玄関を入って左手にある記帳台には、和紙でできた帳簿と硯、筆が備え付けられています。参列者は一人ひとり墨を擦り、氏名を揮筆する。帳簿には政府関係者からメーカーやホテルなどの大手企業の名前まで、ずらりと並んでいました」
近頃にわかに注目を浴びている秋篠宮ご一家―。9月11日、紀子さま45歳のお誕生日当日、小誌ではある宮内庁関係者を取材した。この人物いわく、かつて宮家職員が打ち明けた一件が「忘れられない」のだという。
「その人は紀子さまに叱責されたことが強烈な記憶として残っているようでした。『ただ正直、何のことで咎められたのか、憶えていない』という。普段のイメージとは違う迫力に、慄然として、頭の中が真っ白になってしまったと語っていました」
秋篠宮家に仕える職員の人事はこの数年、不安定な状況が続いている。
まず事務方トップである宮務官と、オクと呼ばれるプライベートを一手に取り仕切る侍女長が、この一年以内に二人とも交代している。この二つのポストだけでも、この4年で6人が辞め、他のポストも含めれば10年の間に10人以上が交代している。
だが前出の職員は、「お辞めになる方の気持ちはわかる」とも洩らしたという。
「半ば神経症のようになって宮家から下がる職員もいるようですが、『あそこで働いていれば、日々積もりに積もるものがあるのは当然です』というのです」(前出・宮内庁関係者)
悠仁さまがお生まれになる前と比較すると職員数は増えている。現在は侍女長を支える侍女長補と、料理を担当する技官が一人ずつ増えたほか、運転技官も2名増え、4名になった。
だが、今でも本質的な人手不足は解消されていない。本庁や東宮職の経験者が、秋篠宮家に移るとその仕事量の差に驚くという。
◆気配を消して働く職員たち
「16名しかいない秋篠宮家では、職員は何でも出来るオールラウンダーにならなければなりません。不得意な分野を任され、万が一ミスをすれば目立ってしまう。常に仕事を見られているような雰囲気はあります。さらにこれまで女官などの経験がない者がいきなりオクの仕事を任されるのでは、やはり厳しいものです」(別の宮内庁関係者)
張り詰めた空気の中、職員は物音ひとつたてないように働いている。秋篠宮邸は絨毯敷きで、みな靴を履いたまま仕事をするが、
「底の固いパンプスなどでは靴音が響いてしまう。女性はみな絨毯の上でも音がでないようなローヒールの靴を履いています」(同前)
そして地味な色のスーツを着て、気配を消すようにして働くのだという。
「かつては飯島蘭子さんという侍女長が目を光らせていた。08年頃まで宮家の切り盛りを長いこと任されていました」(同前)
飯島氏は現職時代から、職員に相当厳しかったようだ。元宮家職員が話す。
「たいへんな貫禄の女性でした。アメリカ初の女性国務長官だったマデレーン・オルブライトと雰囲気がそっくり。予算管理が厳しく、職員たちは、しょっちゅう『あるもので済ませてください』とお説教されていた。なんでも頭ごなしにおっしゃるので、話しかけるのも憚れるようなオーラがありました」
だが、彼女さえも去り際には心身のバランスを崩してしまったようだ。
「最後はほとんど出勤できなくなっていたらしいですね。忙しさと人手不足、そして何が理由か存じませんが、殿下との関係にも縺れがあったと聞きました。それでも10年間頑張ってこられたのは、お子さんのことがあったからでしょう。女手ひとつで子供を医学部に入れるまで育てたそうですから」(別の宮内庁関係者)
秋篠宮家のスタッフが安定しなくなったのは、たしかに飯島氏がいなくなった頃からだ。
「“重し”が無くなってしまったのでしょう。もちろん、職員の悩みはケースバイケースですが、飯島氏がいなくなった現在の宮家を陰で牛耳っているのは、宮務官でも侍女長でもなく、常勤職員ですらない。“3人の両殿下の側近”なのです。この3人が職場環境に与えている影響は大きい」(前出・宮内庁関係者)
この“3人の側近”とは、一体どんな人物なのか。
「一人は元宮務官・富士亮氏の妻、富士幸子氏。二人目は御用掛で、外務省のフィリピン大使を務めた松田慶文氏。三人目は、飯島氏の前に侍女長を務めていた犬伏紗知子氏。彼女は悠仁さまがお生まれになったこともあって、非常勤扱いで宮家に戻ってきたのです。急場を手伝うために再び呼ばれたのでしょう」(同前)
3人が秋篠宮家と深くかかわるようになった背景はそれぞれだ。
「富士氏の夫・亮氏は、陛下が皇太子の時代から東宮侍従を務めた人物。農学博士で音楽にも造詣が深く、皇太子と同じくビオラが趣味の朗らかな“名物侍従”でした。秋篠宮家が創設されたときには初代宮務官に起用され、朝日新聞にもインタビューが掲載された“明るい秋篠宮家”の象徴のような人でした。ただ数年の勤務の後、食欲がなくなり、物忘れも多くなったそうです。94年には陛下の侍従を最後に退官。06年にはひっそりと亡くなりました。
奥さまは小柄でテキパキと仕事をこなす方。紀子さまと同じように手話がお出来になります」(富士氏知人)
非常勤だった富士氏は今年3月で退職しているが、いまでも両殿下からのご信頼は篤いという。
富士氏と犬伏氏には同窓という接点がある。
「お二人はキリスト教に基づいた一貫教育を行う自由学園女子部のご出身です。学年は違いますが、犬伏氏が侍女長になったのも、お二人の繋がりからだと聞いています。人当たりの良い方ですよ」(同校関係者)
松田氏は、秋篠宮家の外国交際などを任されていた。外務省関係者が話す。
「彼は自治省入省組には珍しく、外務省に出向したんです。外務報道官を務めていた時に、宮内庁との関わりができ、秋篠宮両殿下がフィリピンを訪問された際、主席随員を務めています。両殿下、特に殿下と波長があったようですね」
現在のように人事が落ち着かない秋篠宮家においては、両殿下のご相談相手が多いことに越したことはないようにも思えるが、小誌でも報じたとおり、最近では「秋篠宮家では働きたくない」と洩らす、宮内庁職員が多いのも事実だ。
◆職員評をお聞きになる両殿下
「船頭多くして、ということがあります。いま両殿下がご信頼を寄せているのはその3人。でも、最終的な責任は宮務官や侍女長が取らなければならない。また、両殿下が3人から『あの方はどうですか』と、職員についての意見を内々に聞くこともあるのだとか。それが伝わりプレッシャーに思う職員もいるのです」(前出・宮内庁関係者)
これらの指摘を本人たちはどう聞くのだろうか。
松田氏本人が語る。
「私の場合は、現在も秋篠宮付の御用掛で、3月までは月に一度、宮邸に上がり国際情勢のご進講をしておりました。国体などの行事には随行し、その際には職員とのやり取りもありましたが、私はほとんど職員の方とは関わりはありません。犬伏さんが職員に指図することもないはずです」
ほかの2人にも話を聞こうとしたが、犬伏氏は拒否。富士氏の自宅を訪れたが不在だった。
この現状を皇室ジャーナリストが解説する。
「そもそも宮内庁の人事が行き届いていないのです。将来、天皇になる可能性が大きい悠仁さまをお育てになる宮家なのですから、様々なご苦労があるのは当然です。人事異動をする前に、どういった人材が必要か、まずは両殿下によくよくご相談するべきなのです」
職員の不和が、秋篠宮ご一家の負担になるようなことがあってはならない。適正な人事体制を整えるのが宮内庁の急務ではないか。
(記事終わり)
「ここ数年における怒涛の秋篠宮家ブラック記事」の第一弾として上記の記事を挙げましたが、「何でこんなに仕事量が多いのか?そしてなぜ職員が次々に秋篠宮家を去っていくのか?単純に仕事量が多くてきつい、というだけではないのではないか?」という疑問がまず頭に浮かびます。
上記記事でも触れている通り、悠仁様がお生まれになったことでちゃんと職員数も増やしてもらえているのです。
「夜逃げ同然で去る職員もいる」
「あそこで働いていれば日々積もりに積もるものがあるのは当然」
「気配を消して仕事している」
「やり手のベテラン職員すら心身のバランスを崩して辞めてしまった」
これらの文章からも分かる通り、物理的な仕事量の多さだけでここまでの事態になるのはかなり異常でしょう。
そういう物理的な忙しさだけでなく、人間関係的な問題、パワハラ的問題が潜んでいることは間違いないと思います。
「叱られた相手が頭の中が真っ白になるくらいの紀子妃の怒りっぷり」
「常に仕事を見張られているような感覚になる」
「ベテラン侍女長は殿下(どっち?)との間に軋轢があった」
「3人のお気に入りの側近から両殿下が他の職員についての意見を聞くこともある」
どうやら、この辺りに職員が居付かない要因があるような気がします。これがパワハラでなくて一体何なのでしょうか。
しかし、上記記事で名前が出ている3人の側近のように、秋篠宮家とウマが合いうまくやっていける人たちも一定数いるのかと少し驚いています。彼らは「常勤職員ですらない」と書かれているため秋篠宮家に常駐しているわけではなく、必要な時にたまに呼ばれてちょっと話を聞くだけのことしかやっていなかったのかもしれませんね。そうだとしたら彼らの心身の負担は少なくて済みますし、常に秋篠宮家に詰めていなければならない職員に比べたら気楽だと思います。だからそこそこうまくやっていけただけではないでしょうか?
このように「たまにしか秋篠宮家と関わらない」ような側近が秋篠宮ご夫妻と結託して、立場の弱い職員たちを見張っているような状況では、辞めたい・逃げたいという気持ちになるのは当然でしょう。
ちなみに上記記事が出た2011年は、東日本大震災があった年でもあります。
紀子妃は、宮内庁HPのスケジュールにわざわざこのようなことを書かせて「自粛アピール」をしていました。↓
http://www.kunaicho.go.jp/page/gonittei/show/3?quarter=201103
平成23年9月11日(日)
文仁親王妃殿下 東日本大震災発生から半年に当たるため,お誕生日のお祝い行事はお控えになりました。
それなのに、お祝いの記帳は止めてなかったんですね。そういうものなのでしょうか?
しかし平民上がりの一宮妃のために、政府関係者や大企業らがこぞってお誕生日お祝いの記帳に駆け付ける様、何とも皮肉めいています。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-48.html
当主不在の“ブラック宮家” その4〜いつもイライラ、氷の妃殿下
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-50.html
今回は週刊新潮2011年11月18日号をご紹介したいと思います。普段雑誌を買わない私が当時思わず購入してしまったほど、インパクトのある記事でした。一連の「秋篠宮家のブラックな実態記事」連発のきっかけともなった記事でもあるでしょう。
秋篠宮家「紀子妃殿下」氷のごときミーティング
侍女長がノイローゼで出勤不能
東宮職の侍従や女官の去就については、これまでも度々メディアで報じられてきた。が、お身内に2人の皇位継承者を抱える秋篠宮家でも、「侍女長」の重職にある女性が人知れず去っていた。その背後には、筆頭宮家ゆえ懊悩される紀子妃殿下のお姿が見てとれるのだ。
侍女長とは、宮内庁に設けられた特別職公務員ポストの1つである。
「御所における女官長、あるいは東宮での東宮女官長に相当する役職といえます。お妃のおる各宮家に置かれ、おもに身の回りのお世話を担当します。これとは別に、宮家は私費でで『侍女』を雇うこともできます」(宮内庁担当記者)
秋篠宮家が創設されたのは1990年。以来21年を経て、紀子さまにお仕えする侍女長は6人を数える。が、その職に関して昨年発令された「ある人事異動」を巡り、宮内庁内部では現在、ひそかに波紋が広がっているというのだ。
菊地明子さん(仮名)という60代の女性が、その当事者である。
「09年7月に5人目の秋篠宮付侍女長に任命された彼女は、昨年11月末をもって退任したのですが…」
そう切り出すのは、さる宮内庁関係者である。後任には、予算を取り扱う主計課で管理職を務めるベテラン職員が抜擢されたという。
「不思議なことに、本来は『官報』に掲載されて然るべき人事であるにもかかわらず、今に至るまでこの件の記載が全くなされていないのです」(同)
国の機関紙である官報には、原則として各省庁の課長相当以上の人事異動が掲載される慣わしになっている。特別職の場合もこれに準じ、秋篠宮家をはじめ、侍女長の人事は従来より公表されてきた。
官報を印刷・編さんする独立行政法人国立印刷局に聞くと、
「私どもは各省庁から出稿されたものを正確に刷り上げるだけで、校閲などは行わず、内容までは関知しておりません」(広報室)
続いて宮内庁によれば、
「侍女長は内閣総理大臣による任命であり、官報掲載も内閣府で行っているため、掲載されなかった理由はこちらでは分かりかねます」(総務課報道室)
埒が明かないまま、今度は内閣府に尋ねてみた。すると、
「官報は政府の広報紙という位置づけであり、情報を載せなかったことに対する罰則はありません」(人事課)
そう前置きしながら、意表を突く回答が―。
「今回の人事は、原稿としての情報はあったのですが、おそらく私どもの掲載漏れ、内閣府のミスになるかと思われます」
お役所らしからぬ潔さ。
かくもあっさり非を認めるあたり、却って勘繰りたくもなるのだが、案の定というべきか、「単純ミス」で片付けたがるその裏には、尋常ならざる“事態”が横たわっていたのだ。
内閣府関係者が言う。
「菊地さんは、旧総理府時代からの職員。70年に採用され、内閣官房への出向が長く、総理官邸事務所で歴代内閣の裏方を務めてきた、いわば事務のエキスパートです」
その活躍ぶりは、5人の総理のもとで8年7カ月の長きにわたって内閣官房副長官を務めた古川貞二郎氏の回顧録にも記されているほどである。
「09年3月に定年退職し、40年にわたる役所勤めを終えた菊地さんは、『これまでのキャリアが勿体ない』といった周囲の勧めもあって、秋篠宮付侍女長のポストに推され、同年7月に就任したのです」(同)
が、実務のスぺシャリストである彼女を待ち受けていたのは、想像を絶する世界であった、
「自身が過ごしてきた役所とはまるで異なるしきたりに戸惑い、またイメージと実際の仕事が余りに乖離していたことで神経をすり減らした彼女は、体調を崩してしまいました。結果、ノイローゼのような状態に陥り、着任してわずか1週間余りで出勤できなくなってしまったのです」(同)
一体、宮邸で何があったというのか。
◆朝礼が「反省会」に
秋篠宮家には現在、15人の職員がおり、その内訳は宮務官と侍女長のほか、事務官が7名、運転技官4名に調理師が2名。いずれも国家公務員である。このほか、冒頭で述べたように民間人扱いとなる侍女が数名、お仕えしている。
秋篠宮家の事情に詳しい宮内庁の古参職員が言う。
「通い勤めの職員らが出勤し、3人のお子様方がそれぞれ幼稚園や学校に出かけられたのち、宮邸では仕事についての打ち合わせが行われます」
主だったスタッフを一堂に集め、あるいは職種ごとに個別ミーティングを開くなど、その形式は議題の内容やメンバーによってフレキシブルに変わるという。
それでも大枠では、
「両殿下が同席され、その日の予定について職員との間で確認がなされるとともに、一日の仕事のご指示が出されます。いわば『朝礼』のようなものでしょうか。公務については、おもに殿下と宮務官がやり取りされ、私的な生活に関する事項は、妃殿下からご指示が出されるのです」(同)
後者の中心となるのは、やはり侍女長である。
「宮邸は大別して平屋造りの公室棟と2階建ての私室棟に分かれていますが、公室のなかでもご一家が暮らされる私室に近い場所に『女子詰め所』と呼ばれる侍女らのスペースがあります。その統括者たる侍女長は連日、妃殿下にお時間を賜り、その日の仕事のご説明を受けます。ひと口に身の周りのお世話といっても、ご家族は5人ですから、あらゆる作業が生じます。『今日はお庭の掃除をいたしましょう』、あるいは『この部屋のお片づけを』といった風に、妃殿下が公室棟で指示を出されることもあれば、侍女長が私室に呼ばれることもあります」(同)
そうした折、前日までの仕事ぶりについても紀子さまは細やかに、そして時には厳しいご意見を述べられ、いわば“反省会の様相”を呈することもしばしばだという。さきの宮内庁関係者が言うには、
「この流れをみても、秋篠宮家のミーティングが単なる一日のスケジュール確認以上の性格を帯びていることは明白です」
つまりは『ダメ出し』を賜りつつ、新たに細密で高水準のリクエストが出されるという日々なのである。
◆診断書を出した侍女長も
先述した通り、秋篠宮家のスタッフはわずか15名。これに比して東宮には50人が詰めているという。絶対的な人手不足の中で3人のお子さまを育て、さらにご家族内に皇位継承者が2人もおられるとあっては、紀子さまの背負われる重圧は計り知れない。
そんな状況で、筆頭宮家を支えていくという強固な責任感が、スタッフに対するご指示の「ハードル」を自ずと上げていく形になっているのではないか―。
皇室ジャーナリストの松崎敏弥氏も言う。
「侍女の仕事は微に入り細を穿つ内容です。赤坂御用地内にある宿舎から通うため、24時間勤務のようなもの。基本的には紀子さまの身の回りのお世話が中心ですが、被災地にも随行するなど、両殿下の生活に関わる全てがその対象となります。両陛下とのご関係や他の宮家とのお付き合いもある上、お子さまの教育については前例がほとんどない。両陛下のご意向を伺いながら進めるわけですから、むろん過酷だと思います」
その上で、こう指摘する。
「紀子さまはご自分のお考えをはっきりと仰るようですし、何よりお子様も多いですから、宮邸での仕事がきつくなるのは道理です。『こうしてください』というご指示も、細かくならざるを得ないのでしょう」
酷暑の熱気にむせ返った途端、体感温度が一気に零下へ。あたかも氷のごとき峻厳で鋭利なお言葉が、連日発せられるわけである。
菊地さんについて、あらためて宮内庁に問うと、
「体調を崩し就任直後から勤務が出来ませんでしたが、明確な理由については本人から聞いておりません」
ちなみに彼女の前任者もまた、わずか1年と数カ月でその任を退いているのだが、これについては、
「家庭の介護のこともあり、退職を願い出たもの」(同)
という。が、“異変”を訴えた侍女長は、実は菊地さんだけに留まらない。さきの古参職員が明かす。
「かつて11年にわたって秋篠宮付侍女長を務めた方がいたのですが、やはり最後は体をこわし、『仕事は年度末までとするように』と書かれた診断書を提出するまでに至りました。彼女は、傍から見ていても“今にも逃げ出してしまうのではないか”と思えるほどに憔悴しきっていました」
この女性は直後、侍従職へと配置換えされ、ほどなく職を辞していった。
◆警視庁にも「ご懸念」を
紀子さまのお人柄について、宮内庁幹部に聞くと、
「かつては、妃殿下から漢字の読み間違いを指摘された側近もおりました。沖縄の染料にご興味をお持ちの妃殿下の前で、この職員は『紅殻』という字をうっかり誤読してしまった。すると即座に『それはベンガラと読むのですよ』と仰ったのです。言うなれば、男性のネクタイの結び目が曲がっていると気になってしまう、といった類のお話でしょうか。また、現在の宮邸は旧秩父宮邸を増改築されたわけですが、工事が始まった98年頃、備品のことで妃殿下はたびたび用度課の職員をお呼びになり、応接セットの配置やカーテンの色をどうするか、といった内容のご指示を適宜、出されていました」
それらもまた、お立場を全うしたいとの使命感からもたらされる行動であることは疑う余地もない。そして、有形無形に発露されるそのご心情は、時に“外部”へと向けられることも。
08年1月26日、ご夫妻がインドネシア外遊を終えて帰国された翌日、悠仁さまが宮邸のお庭で遊ばれている際に転倒、唇を4針縫うというケガを負われたことがあった。この時、
「悠仁さまは愛育病院まで救急搬送されたのですが、およそ2週間後にこの件がTBSのニュースで報じられてしまいました。その直後、妃殿下は警備を担当する、警視庁警備部警衛課の警察官らに対し、『あなた方から情報が漏れてしまったのではありませんか』と、直接に強いご懸念を表されたのです」(前出・古参職員)
言うまでもなく、お子さま方のお世話もまた、侍女長らの大切な職務である。それにしても、菊地さんの体調不良を受け、宮家における重要ポストが実質1年半近く「空位」だったわけである。その後を継いだベテラン職員とて、
「彼女は昭和天皇の侍従職、その後は皇太后職などを歴任してきたプロパー職員。その経験を買われて抜擢されたのですが、異動ポストが比類なき激務であるのは重々承知しており、当初は固辞していました。そこで上司が『2年で戻すから』と必死に説得し、宮邸に入ったのです」(前出・宮内庁関係者)
皇室ジャーナリストの神田秀一氏が指摘する。
「さきの大震災に際して、皇族として最初に動かれたのは秋篠宮家でした。3月末には紀子さま、眞子さまと佳子さまが被災者のために約3400枚のタオルを袋に詰める作業をされ、5月に入ると紀子さまは三沢市や八戸市へ、6月中旬にはいわき市に入られている。それもただの視察ではなく、避難所でお見舞いをされているわけで、男子のお子さまを育てながら次々と公務をこなす紀子さまは、相当なストレスをお感じになっていることと思います」
秋篠宮家にあっては、仕える者もまた「心構え」が必要とされるというのだ。
「侍女というのは宮家の生活に合わせて動く仕事。規則はあっても細則は殆どなく、日々の判断が重要になります。公務員といえども役所の仕事とは180度異なり、『書類に判子がないから動けない』ではつとまらない。どんなに優秀でも、能力を発揮できない方もいるかもしれません」(同)
現在は体調も快復し、新たな仕事に就いている菊地さんを訪ねると、
「こんな季節にわざわざお越し頂いて申し訳ありませんが、今は一市井人ですので、官報のことなど、何も存じ上げないのです」
そう口にすると、足早に立ち去って行った。
(記事終わり)
上記記事は神田氏だの松崎氏だのが出てきて必死に「紀子妃が職員に厳しい態度にならざるをえない理由」を述べて彼女を庇っていますが、私の目からは「職員数の少なさに不満を持ち、常にイライライしていて理不尽な形で職員に八つ当たりをして憂さを晴らしている」ようにしか見えません。記事の受け取り方は人ぞれぞれだと思いますが、私個人はそういう印象です。
被災地訪問や公務云々の件も、国民が「そうしてほしい」とお願いしているわけではないのに一人で張り切っているようにしか見えないのです。それに対してストレスを感じるくらいなら、むしろやっていただかなくて結構ですと言いたい気持ちです。
紀子妃のイラつきが職員にまで悪影響を及ぼしているのは問題があるでしょう。
悠仁様のお怪我の件がすぐに外部に知られてしまった件についても、何の根拠もなく警察官を疑うことなどもってのほかですし、そういう態度を繰り返していたら職員からの信頼を受けられなくて当然ではないでしょうか。
我が子が怪我をした、ということで「親としての責任」を追及されることがそんなに嫌だったのか?としか思えません。
「お子様の人数が多いから」という言い訳も、ほかのお子様の多かった宮家の方々を拝見する限り紀子妃を庇う根拠としては弱すぎますし、ご自分たちが好んで3人もお子様を持たれたのに、そういうことを理由にするのは卑怯だと思います。
神田氏も松崎氏も紀子妃に同情的な姿勢でコメントを寄せていますが、紀子妃の方に非はないとは言い切れないと思います。紀子妃は一般の平民家庭出身なので(この点は婚約会見でも触れられていたし紀子妃ご自身も認めていること)、お手伝いさんがいる世界とは無縁だったとお見受けしますし「人の使い方がわからない方」なんだろうという印象を受けます。「人を褒める・評価する」ということができない方なのかもしれません。
それに「何でもかんでもオールラウンダーとしてできなければならない」ことを職員に要求するのも正しいやり方とは思えません。ある分野でのエキスパートな人を別の分野までできるようにしろ、ということが果たして正しいやり方なのか。
「職員数が少ないんだから仕方ないでしょう!」という紀子妃の言い分もあるかと思いますが、それなら秋篠宮家よりももっと職員数が少なかった宮家(三笠宮家や高円宮家など)では、どうして記事のような問題が起きていないのか?という疑問が湧くのです。
紀子妃をはじめ秋篠宮家“だけ”が一身に公務を背負わされてそれに対する不満を抱いているというならまだ分かりますが、紀子妃は逆に公務が自分たちの所に回ってくることを待っているような発言もしているのです。
高円宮家の次女の典子元女王(現・千家典子さん)がご結婚で降嫁されることが決まった際、紀子妃は典子元女王が受け持っていた公務が秋篠宮家に回ってくると思い込んでいたらしく「これから忙しくなるわ」という発言をなさっていたという記事もありました(その記事も可能であればここでご紹介したいと思います)。
つまり、紀子妃は公務が回ってくることに不満を抱いているどころか、むしろ喜んでいるように見えるのです。
それなのに「公務などでストレスを抱えている、だから職員に厳しくなるのは仕方ない」という論調に違和感を覚えるのです。
秋篠宮家の職員数の少なさについても、これでも以前よりかなり改善されている(増員されている)のです。
東宮家というずっと格上の内廷皇族を基準にするから「少ない!足りない!」となりますが、そもそも東宮家と秋篠宮家は格が全く違うのです。
自分たちを東宮家と同格のように考えるその姿勢こそ「立場をわきまえていない」のではないでしょうか?
しかし、紀子妃が1998年頃(秋篠宮邸の備品等についてのエピソード)からすでに「こういう態度」だったことから、東宮家との比較云々の前から「職員に厳しく口出しの多い方」であったようですね。
それにしても、いくら秋篠宮様が公的な面でしか宮務官とやり取りしないとは言え、あまりにも当主の存在感が無さ過ぎではないでしょうか。もし紀子妃が私的なことで指示を出すことにイラついてストレスをためているようなら、当主がもっと妃をフォローしてもよいのではないかと思ってしまいます。
こういうパワハラ・ブラック記事を挙げる際、どうしても当主の存在感の無さ、フォローの無さが気になってしまいます。
http://princeakishino.blog.fc2.com/blog-entry-50.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/109.html#c19
146. 中川隆[-12879] koaQ7Jey 2019年1月18日 23:02:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019年秋、世界株式市場のバブル崩壊!?いまはまだ認識されていない世界バブルの要因=吉田繁治 2019年1月18日
https://www.mag2.com/p/money/623424
リーマンショックから11年目を迎える今年、バブルの崩壊は間近に迫っているのでしょうか。世界と日本の経済状況と現在の株価について詳しく解説していきます
2019年はリーマン危機から11年目、バブル崩壊のリスクへの考察
2019年秋の危険
現在の投資家の期待との、「認識のズレ」が明らかになって来ると、秋の暴落(S&Pで30%安)があるかもしれません。
現在の株価は(=投資家の意識は)18年7月に始まった米中貿易戦争から、まず中国の経済成長の低下があり、複雑な経路を通ってそれが、世界のサプライチェーンに波及していく実体経済のファンダメンタルズをまだ織り込んでいないからです。
バブル崩壊の始まりは、資産(株価、不動産)の高値の中で、些細に見えることが、自己強化して波及し、ダムの決壊に至るものです。米国のサブプライムローンの不良化も、リーマン危機に至る1年前の2007年には、小さなものでした。
バブルとその崩壊はいずれも行き過ぎる
今回のように、中央銀行が増刷したマネーから生じた過剰流動性の中にある株価は、高くなるときも下がるときも、「行き過ぎ」が起こります。
投資家の期待で売買され、取引市場で日々の価格が決まる株価には、理論価格はあっても「適正価格」はありません。
「現代ファイナンス論」では、理論価格を下の式に示すように考えています。(1997年のノーベル賞のロバート・マートン等、オプション価格を計算するブラック・ショールズ方程式の正当性を証明)
理論価格にも投資家の、将来の期待金利、純益実現の期待リスク率、企業の期待利益という、将来への予想が入っています。実現した純益や金利データからではなく、株を売買している投資家集合の予想が入ってるのです。
わが国の経済紙・アナリスト・証券会社はしばしば、日本の株価は米国に比べて「出遅れている」と論評します。米国に比較したときの予想PERの倍率(株価÷次期予想純益)が11.67倍と低く、PBR(純資産倍率=株価/純資産)も1.08倍と低いからです(19年1月:日経平均225社)。
※参考:日経平均PER 日経平均比較チャート
しかし、この株価は、
・日本の企業の利益と金利の結果ではない
・日経平均225社の将来利益に対する、投資家の予想値が低いことを示す。これが、日本より高い期待値の、米国のPERとの差
この意味で「出遅れ」はありません。
理論株価=(企業の期待純利益の累積額)÷(期待金利+純益のリスク率)
=(企業の期待純利益の累積額)÷期待収益率
=次期予想純益×PER倍率
(注)PER=現在株価÷次期期待純益
(1)企業純益への期待が上がり
(2)予想金利が下がって
(3)GDPへの成長率期待から、利益の実現リスク率が下がると株価は上がる。逆なら株価は下がるというのが、理論株価の方程式の意味するところ
投資家の集合的な心理である将来への期待純益と、その純益の実現のリスク率は、高くも低くも行き過ぎます。日本では、ソフトバンクがそれです。米国の代表はアップル、アマゾン、グーグル、中国ではテンセントやアリババグループです。
これらの企業では、いずれも現在の純益ではなく、将来利益への過剰な期待から株価が作られています。この集合的な心理は、個人の思いとかけ離れることも多い。「集団心理」と表現してもいいでしょう。
価格を決める市場は集団心理
人は集団になると、違った心理になります。国と国の戦争や、チームスポーツを想定すれば、集団心理のありようが分かります。
心理は、自発的で能動的な理性と違い、現象に対する受動的な感情であり、行動を促すものです。同じく行動を促す意思は、理性の領域のものでしょう(カントに基づくものですが、用語は変えています)。
株価・不動産の資産バブルと、バブルの後100%の確率で起こる崩壊も、集団心理が引き起こします。人は影響を及ぼしあって、社会を作っています。国外には脱出できても、社会からは遁走ができないため、バブルとバブル崩壊は一定の時間をおきながら「繰り返し」ます。
交易のない孤島に1人なら社会はなく、本能で食をとる動物のように自然のものはたタダで、資産バブルも崩壊もない。もともと価格がないからです。経済の価格は所有者があり、それを人が買うときのものです。
商取引と価格は、心理が影響し合う社会の中で生じます。経済は、人が影響し合っている社会で起こる商取引です。人の心理は「社会と組織の場」で交流し合っています。組織の空気、社会の空気がそれです(山本七平)。その状態を書くのが経済紙です。
<20世紀から21世紀のバブルの崩壊>
資産バブルの大きな崩壊は、
(1)まず、米国の1929年からの大恐慌
(2)世界大戦(経済的には蕩尽と大規模破壊)を挟んだので61年間起こらず
(3)戦後は、日本の1990年から崩壊した資産バブル
(4)その10年後は、米国の2000年に崩壊したIT株バブル
(5)8年後の2008年は、米国のサブプライムローンの不良債権(デリバティブ)から始まったリーマン危機
いずれも、利下げによる過剰なマネーが資産バブルを引き起こし、不良債権の増加から崩壊しています。
GDPの成長率に対して、マネーの総量(世帯と企業の預金であるマネーサプライ+中央銀行が発行するベースマネー)の増加率が高いことが続くと、過剰になったマネーは、資産(株と不動産)に向かいます。
日本以外の世界では、今、不動産バブルの最中です。日本は、人口減の予想から、ゼロ金利の体制でもさして上がっていない。空き家も820万戸もあり(2013年)、1年に13万戸は増えるので、現在は880万戸〜900万戸でしょう。
そして、数年から10年は、株と不動産が経済非合理的な価格に上がっても、買われ続けてバブルになります。
そのバブルは、(1)金利の上昇、(2)マネー量の縮小、(3)あるいは、高すぎたGDPの期待成長率の低下、といういずれかの要因によって、100%の確率で崩壊します。
マネーは資産であり、負債である
マネーは持ち手にとっては資産です。しかしそれは、借り手にとっては収益からの利払いと返済が必要な、負債です。このため、マネーの過剰な増加は誰かの負債の過剰になり、借り手の収益にとって大きすぎる負債が返済と利払いができず、不良化し、バブルを崩壊させます。
…そして、次のバブル崩壊は、米国と中国の2019年から2020年になるでしょうか。
以前、バブル崩壊を想定していた2021年から22年より、トランプ大統領によって、早まったように思います。資産バブルとその崩壊が、8年から12年のサイクルになっているのは、1990年からはGDPの伸び率より、「資産=負債」の構造をもつ信用通貨の量の増加率が過剰に大きいからです。
(注)世界はいま、株長者だらけです。たとえば、株価の時価総額が、アップルとマイクロフトを超えて1位になったアマゾンの創業者ジェフ・ベゾスの資産は、時価総額の約15%の15兆円です。今度の離婚で50%分割なら、7.5兆円。想像を絶しますが、1万円札で750トン。大型トラックの10トン車で75台分(!)です。カルロス・ゴーンの偽装報酬もオプション株が多いのですが、検察が誤魔化したとする80億円が可愛く見えます。所得格差の時代であり、これは、株価の高騰が生んだものです。
「過剰な警戒だ」と考える人々も多いかもしれません。立ち直れないくらいの損をしないための、心の準備を述べています。副次的には、ロスチャイルド家が行ってきたように、長期サイクル的な底値で買う機会を見極めるためでもあります。
資産バブルの中では、バブルとは認識されない
資産バブルは、高騰のただ中ではバブルには見えないのが特徴です。1992年までの、地価高騰の狂乱の中で体験しました(東京約4倍)。100人のうちおそらく99人は、「土地は、まだ上がる」と思っていたのではないでしょうか。親族も、バブル末期の土地投資が原因で破産しました。
土地神話という空気に支配されていた財務省は、1992年から地価が下がり始めても、1994年まで「土地はまた上がる」としていました(西村銀行局長など)。「日本は他国とは違い特別だ」というのが土地神話です。今、郊外では「畑も維持できない空き地だらけ」ですが…。
公的年金を160兆円運用しているGPIFの資産リスク(米国株、日本株)が案じられます。理事は、株神話に支配された運用をしています。GPIFの160兆円の所有権は、年金保険金を払っている国民です。GPIFは、運用を委託されているにすぎません。
日米の株を買い過ぎてしまったため(合計80兆円)、今も今後も売るに売れません。大株主になったGPIFが売れば、暴落するからです。世界のどこも行ったことのない日銀による、株ETFの買いの目的と同じです。価値を減らさない運用のためではなく、株価上昇が支える安倍政権の方針を受け、株価を上げるために買ったからです。
109. 2019年1月19日 08:49:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
溝口健二 山椒大夫 (大映 1954年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/172.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c109
3. 中川隆[-12878] koaQ7Jey 2019年1月19日 08:54:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
猛吹雪「ホワイトアウト」で家見えず 自宅数十センチ手前で凍死 北海道当別町
毎日新聞 2019年1月18日
17日午後10時25分ごろ、北海道当別町茂平沢の無職、古市栄治さん(66)の自宅玄関の数十センチ手前で古市さんが倒れているのを警察官が見つけた。
古市さんは搬送先の病院で死亡が確認され、死因は低体温症による凍死だった。
現場付近は当時、吹雪で視界が遮られる「ホワイトアウト」で、古市さんは玄関前にたどりつきながら、力尽きたとみられる。そばには玄関の鍵が落ちていた。
北海道当別町で男性が凍死した17日、隣接する札幌市でも今季一番の冷え込みとなる氷点下12.3度を記録し、雪の中を足早に歩く人たちが目立った=札幌市中央区で2019年1月17日、竹内幹撮影
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/679.html#c3
4. 中川隆[-12877] koaQ7Jey 2019年1月19日 08:55:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
当別町は札幌市の北側にあり、札幌管区気象台によると、当時の当別町内の気温は不明だが、隣接する石狩市は氷点下11・2度にまで冷え込んでいた。
道警札幌北署によると、古市さんから17日午後4時20分ごろ、「車が雪山に突っ込んだ」と110番があった。「自力で脱出できる」とも語ったが、その後、連絡が途絶えた。署員が捜したところ、午後10時過ぎ、自宅から約120メートルの路上で雪山に突っ込んだ車を発見。自宅に向かい、古市さんを見つけた。
古市さんは1人暮らし。運転中にホワイトアウトで視界が利かず、雪山に数回突っ込んだ後、車を置いて徒歩で自宅に向かっていたとみられる。【真貝恒平】
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/679.html#c4
19. 中川隆[-12876] koaQ7Jey 2019年1月19日 09:27:03 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
外貨建て保険に「説明不十分」の声 販売増で苦情も急増
1/19(土) 朝日新聞デジタル
生命保険協会が外貨建て保険の苦情に関してまとめた非公開資料には、高齢者からの苦情の多さが記されている
生命保険会社が銀行窓口などを通じて販売する「外貨建て保険」で苦情が急増している。超低金利下でも高利回りの資産運用として高齢者に売り込んでいるが、為替相場次第で元本割れとなり損失を被るリスクがある。販売増で苦情も増え、各社にはリスクなどに関する「事前説明が不十分」との声が多く寄せられている。業界は苦情の実態を公表しておらず、その販売姿勢が問われている。
【写真】生命保険協会が外貨建て保険の苦情に関してまとめた非公表資料では、高齢者への販売手法の問題点が指摘されている
生命保険協会が昨年末まとめた内部資料で実態が判明した。2017年度に協会や生保41社が銀行窓販の外貨建て保険・年金で受けた苦情は、前年度比12・3%増の2076件で、12年度(626件)の3・3倍。17年度の新契約は60万件程度と12年度の5倍近くに増えており、苦情件数も右肩上がりだ。
内訳は「元本割れリスクについて適切な説明を受けなかった」が43%で最も多く、「その他説明不十分(解約時の税金など)」(14・7%)、「その他(強引な勧誘など)」(11・8%)が続く。「預貯金と誤認した」(2・8%)との内容もある。不十分な説明への苦情が圧倒的に多く、年齢別では60歳以上からの苦情が過半を占めた。
外貨建て保険は、高齢者が退職金や配偶者の生命保険金で多額の保険料をまとめて払い、比較的高金利の米ドルや豪ドルで運用、10年ほど後の満期時に利回りが上乗せされて戻るケースが多い。ただ満期時に円高ドル安になれば円換算では資産が目減りし、元本割れもあり得る。
超低金利で定期預金の金利がほとんどない中、保険各社は高利回りをPRして銀行で売り込む主力商品としている。手数料が入る銀行も販売に積極的で、年間数兆円規模を売り上げる。一方、苦情の実態は一部を国民生活センターが公表していただけで、業界は情報開示に消極的だ。生保協会は調査結果を公表するかに関しては「実効性のある改善策について十分に議論を尽くした後に検討する」としている。(柴田秀並)
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/841.html#c19
110. 2019年1月19日 09:59:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
文学も人間も全然わからなかった黒澤明の 白痴 (松竹 1951年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/173.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c110
1. 中川隆[-12875] koaQ7Jey 2019年1月19日 10:06:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
ドストエフスキーの原作通りに、何も手を加えないでそのまま映像化しておけば物凄い傑作になったんですけどね:
「あたし今酔ってますの、将軍、」
ナスターシャ・フィリッポヴナはいきなり笑い出した、
「あたし浮かれ騒ぎたいわ! 今日はあたしの日、あたしのたった一度のお祭りの日、あたしの閏の日、あたしこれを長いこと待ってたのよ。
ダーリヤ・アレクセーエヴナ、ごらんなさいよ、この花束紳士、ほらこの monsieur aux camelias [椿の紳士]、ほら座ってあたしたちを笑ってる・・・」
「私は笑っていません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、私はただ非常に注意して聞いています」とトーツキーは重々しく応酬した。
「あーあ、何のためにあたし、まる五年その人を苦しめて解放してあげなかったのかしら! それに値する人かしら!
単にああいう人なのがあたりまえだったってこと・・・
むしろあたしがあの人に対して罪がある、ってあの人思ってるのよ。教育だって受けさせたし、伯爵夫人みたいに養ったし、お金だって、お金だって、どれだけかかったか、立派な夫をあっちにいた時も見つけてくれたし、こっちでもガーネチカをね。
あんたどう思うかしら、あたしこの五年あの人と暮らさないで、お金だけは取って、それが正しいって思ってたのよ! まったくあたしどうかしてたのね!
あんた言ったわね、いやなら十万取った上で追い出せって。 確かにいやだけど・・・
あたしだってとっくに結婚できたし、それもガーネチカじゃないけど、それだってもうすごくいやだった。 それになんのためにあたし、あたしの五年間を意地悪なんかで失ってしまったんでしょう!
ねえ信じられる、あたし四年前に時々考えたの。 もうほんとにアファナシー・イワノヴィチと結婚しちゃだめかなって。 あたしその時は悪意でそう考えたの。 その頃はどんなことだって頭に浮かんだものよ。
あら、ほんとよ、こっちが無理強いすればね! 自分からにおわしていたことだし。
あんた信じない?
確かにあの人、嘘をついてたんだけど、そりゃもうすごい欲張りで我慢できないからよ。それから、まあありがたいことに考えついたわ。
あの人、そんな意地悪をする価値があるかしら!
するとその時急にあの人がいやになってね、あっちから求婚してきたって、するもんじゃないわ。 それでまるまる五年、あたしはお高くとまってた。
いいえ、もう街角に立った方がいい、それがあたしには当然なのよ!
でなきゃラゴージンと浮かれ騒ぐか、でなきゃ明日には洗濯女になるわ!
だってねえ、あたしには自分の物は何もないのよ。
行くわ、何もかもあの人に投げつけて、最後のぼろきれまで捨てて、それで何もないあたしを誰がもらってくれる、 ほら、ガーニャに訊いてごらんなさいな、もらってくれるかどうか?
あたしなんかフェルディシチェンコももらってくれないわ!・・・」
「フェルデシチェンコはもしかするともらいません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、僕は率直な人間です、」
フェルディシチェンコがさえぎった、
「かわりに公爵がもらいます! あなたはそこで座って泣いていますが、ちょっと公爵を見てごらんなさいよ! 僕はもうずっと観察してますが・・・」
ナスターシャ・フィリッポヴナは公爵に好奇の目を向けた。
「本当?」と彼女は尋ねた。
「本当です」と公爵はささやいた。
「もらってくれるの、このまま、手ぶらで!」
「もらいます、ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・」
公爵は、悲しげな、厳しい、鋭い目つきで、相変わらず彼を眺め回しているナスターシャ・フィリッポヴナを見つめた。
「ほらまた現れたわよ!」
彼女は不意に、再びダーリヤ・アレクセーエヴナの方を向いて言った。
「ともかくほんとに優しい心からなのよ、あたし知ってるんだから。
篤志家を見つけたわ! ああでも、ほんとうかもしれないわね、この人のことをほら・・・あれだって。
どうやって暮らしていくの、もしほんとにそんなに夢中になって、ラゴージンの女を、自分のその、公爵夫人にするって言うなら?・・・」
「僕がもらうのは立派ななあなたです、ナスターシャ・フィリッポヴナ、ラゴージンのものじゃありません」
と公爵は言った。
「立派ってあたしのこと?」
「あなたです。」
「ああ、それはどこか・・・小説の中のこと!
それはねえ、公爵さん、昔の空想。
現代では世の中利口になって、そんなのはみんなナンセンスなのよ!
それに何で結婚するの、あんたには自分にまだ乳母が必要よ!」
公爵は立ち上がり、おずおずとした震える声ではあるが、同時に深い信念を持った様子で話した。
「僕は何も知りません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、僕は何も見たことがありません、おっしゃる通りです、
が、僕は・・・僕は思うんです、あなたは僕の、僕があなたのではなく、名誉です。 僕はつまらないものですが、あなたは苦しんで、そんな地獄から汚れなく現れた、これは大変なことです。
なぜあなたは自分を恥じてラゴージンと出かけようとするんです?
それは熱病です・・・ あなたはトーツキーさんの七万を返したし、
すべて、ここにあるものすべてをなげうつと言いますが、そんなことはここでは誰一人しません。
僕はあなたを・・・ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・愛します。
僕はあなたのために死にます、ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・
僕は誰にもあなたのことで何か言わせません、
ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・僕たちが貧乏したら、僕が働きましょう、ナスターシャ・フィリッポヴナ・・・」
____________
「聞いてる、公爵、」
ナスターシャ・フィリッポヴナは彼に話しかけた、
「あんなふうにあんたのフィアンセを下種が売り買いしてるわよ。」
「酔ってるんです」と公爵は言った。
「あの人はあなたをすごく愛しています。」
「それであんた後で恥ずかしくならないかしら?
あんたのフィアンセは危うくラゴージンと行ってしまうところだったのよ。」
「それは熱のせいです。あなたは今も熱があって、熱に浮かされているようです。」
「それと後であんた、あんたの女はトーツキーの愛人だったって言われて恥ずかしくない?」
「いいえ、恥ずかしくありません・・・あなたは自分の意志でトーツキーさんの所にいたのではありません。」
「では決して責めない?」
「責めません。」
「ナスターシャ・フィリッポヴナ、」公爵は静かに、同情するように言った、
「あなたが今、取り返しのつかないほど自分を破滅させようとしたのは、あれから決して自分を許そうとしないからです。あなたには何の罪もないことなのに。
あなたの人生がすっかりもう滅びたなんてはずはありません。
誇り高いあなたですが、ナスターシャ・フィリッポヴナ、でも、あるいはあなたはもう、不幸せのあまり、本当に自分が悪いと思っているかもしれません。
あなたには充分ないたわりが必要です、ナスターシャ・フィリッポヴナ。
僕があなたをいたわりましょう。
僕はさっきあなたの写真を見て、よく知っている顔を認めたような気がしました。
僕にはすぐに、その時まるであなたが僕を呼んでいるかのように思われました・・・
僕・・・僕はあなたを一生大切にします、ナスターシャ・フィリッポヴナ。」
「ありがとう、公爵、今まで誰も私にそう言ってくれなかった、」
ナスターシャ・フィリッポヴナは言った、
「私は売り買いされるばかりで、結婚はまだ誰一人ちゃんとした人は申し込んでくれなかったわ。
お聞きになった、アファナシー・イワノヴィチ?
公爵の言ったこと、あなたにはどう思われたでしょう?
あまり慎みがないかしらねえ・・・
ラゴージン!あんた行くのはちょっとお待ちよ。
でもあんた、どうやら行きゃしないわね。
もしかしたらあたし、まだあんたと一緒に出かけるかもしれないわよ。
あんたどこへ連れて行くつもりだったの?」
「エカテリンゴフですよ」と、隅からレーベジェフが告げたが、ラゴージンは身震いひとつすると、自分を信じかねるように一心に見つめていた。
彼は頭を強打したかのように、すっかり麻痺していた。
「まああんたどうしたの、あんたどうしたのよ、ねえ!
ほんとに発作を起こしてるんじゃないの。 それとも気が違ったの?」
ダーリヤ・アレクセーエヴナはびっくりして飛び上がった。
「あらあんた本気にしてたの?」
ナスターシャ・フィリッポヴナは笑いながらソファから飛び上がった。
「こんな赤ちゃんをめちゃめちゃにしちゃうわけ? それならちょうどアファナシー・イワノヴィチがいるじゃない。 あの人はね、小さな子が大好きなのよ。
行くわよ、ラゴージン! 自分の包みを持って!
結婚したいってのもかまわないけど、そのお金はやっぱりちょうだいね。
あたしはまだあんたと一緒にならないかもしれないわ。
あんたはさ、結婚もするつもりだけど、包みも手元に残ると思ってたんでしょ?
ばかね! あたしだって恥知らずよ!
あたしはトーツキーの愛人だったのよ・・・
公爵!
あんたに今必要なのはアグラーヤ・エパンチナであって、ナスターシャ・フィリッポヴナじゃないの、でないとフェルディシチェンコに後ろ指さされることになるわ!
あんたは怖くなくたって、あたしはあんたをだめにしてそれを後であんたに責められるのが怖いの! それにあんたは堂々とあたしがあんたに名誉を与えるって言ってくれたけど、それについちゃトーツキーさんがよく知ってるわ。
それとアグラーヤ・エパンチナといえば、ガーネチカ、あんた取り逃がしたわね、あんたそれわかってる? あんたが駆け引きしたりしなければ、あの人きっとあんたと一緒になったわ!
あんたがたはみんなそんなふう。
相手にするなら恥ずべき女か、立派な女か、どちらかひとつよ!
でないときっとごたごたするから・・・見て、将軍たら、口をぽかんと開けて見てる・・・」
「こりゃソドムだ、ソドムだ!」と将軍は肩をすくめながらつぶやいた。
彼もソファから立ち上がった。
再び皆が立ち上がっていた。
ナスターシャ・フィリッポヴナは狂乱状態のようだった。
「まさか!」公爵は両手をよじりながらうめいた。
「あんたは違うと思った?
あたしはね、高慢かもしれないけど、かまわないわ、恥知らずで!
あんたさっきあたしを完璧と言ったわね。
見事な完璧だわ、虚栄心ひとつで、百万も公爵の身分も踏みつけにして、スラムに行くのよ!
さあ、こうなるとあたし、あんたにとってどんな奥さん?
アファナシー・イワノヴィチ、なにしろ百万だってあたしはほんとに窓から放り投げちゃったのよ!
あなたどうして思ったの、あたしがガーネチカと、あなたたの七万五千と結婚するのを幸せと考えるなんて?
七万五千はあんた取っときなさい、アファナシー・イワノヴィチ、
十万とまでいかなかったのは、ラゴージンの勝ちね!
ああ、ガーネチカはあたしが慰めてあげなくちゃ、ひとつ思いついたわ。
ああ、あたし歩きたくなったわ、だって街の女だもの!
あたしは十年牢獄に座って過ごして、今が幸せなの!
どうしたの、ラゴージン?用意して、行くわよ!」
「ねえあんた何わめいてるの!」ナスターシャ・フィリッポヴナは彼を笑った。
「あたしはまだここでは主人よ。その気になればまだ一突きであんたを追い出すわよ。
あたしはまだあんたからお金をもらってないわ、ほらそこにある。 それをこっちにちょうだい、包みごと!
この包みの中が十万ね? へ、なんていまわしいこと!
どうしたの、ダーリヤ・アレクセーエヴナ? いったいあたしにこの人をだめにしたりできる?
(彼女は公爵を指さした。)どうしてこの人に結婚できるの、まだ自分に乳母が必要なのに。
そこにいる将軍がこの人の乳母になるわ。 ほら、彼につきまとってる!
見て、公爵、あんたの花嫁は金を取ったわよ、堕落した女だからね、
あんたはそんなのをもらおうとしたのよ!
でもあんた何よ泣いたりして?
ねえ、悲しいの?笑ってちょうだいよ、あたしみたいに」
と、話し続けるナスターシャ・フィリッポヴナの両の頬にも大粒の涙が二つきらめいていた。
「時を信じること−−何もかも過ぎてしまうわ。
後で考え直すより今の方がいい・・・
ああ、でもなんであんたたちみんな泣くの。 カーチャまで泣いて!
どうしたの、カーチャ、ねえ? あたし、あんたとパーシャにいろいろ残しとくからね、もう言いつけておいたのよ、でも今はさようなら!
あたしはあんたみたいな立派な娘にあたしの、堕落した女の世話をさせたりして・・・
これでいいのよ、公爵、ほんとにいいのよ、後であたしを軽蔑するようになって、あたしたち幸せにはなれないわ!
誓ってもだめ、信じないわ! それにどんなばかげたことになるやら!・・・
いいえ、気持ちよくさよならにしましょう
、だってそうしないとね、あたしは夢想家で、何の役にも立ちゃしないんだから!
あたしがあんたを夢見なかったと思って?
あれはあんたの言う通り、長いこと夢想したわ、
まだ村のあの人のうちにいて、五年間ひとりぼっちで過ごした頃。
考えて考えて、夢ばかり見続けたものよ。 するといつも、思い浮かんだわ、
あんたのような、優しくて、誠実で、いい人で、それでやっぱりばかそうな人が突然現れて言うの、
『あなたに罪はありません、ナスターシャ・フィリッポヴナ、
私はあなたを崇拝します!』
よくそんな空想をすると気が狂いそうになるものよ・・・
そこへほら、この人が到着するの。
年に二ヶ月滞在して、辱め、傷つけ、怒らせ、堕落させ、帰っていく。
それで何度も池に身を投げようとしたけど、卑劣だったし、心が弱かったから、
ええ、それでこうして・・・
ラゴージン、用意は?」
「いつでもこいだ!近寄るんじゃねえ!」
「いつでもこいだ!」といくつかの声が聞こえた。
「鈴のついたトロイカが待ってるぜ!」
ナスターシャ・フィリッポヴナは包みをつかんだ。
「ガーニカ、あたしひとつ思いついたの。 あたしあんたにご褒美をあげたいの。 だってあんた何もかもなくしちゃっちゃねえ。
ラゴージン、この人は三ルーブリでワシリエフスキー島まで這っていくのね?」
「這っていくさ!」
「さあ、それじゃ、お聞きなさい、ガーニャ、あたしはこれが最後、あんたの心を見てみたいの。 あんたはまる三月あたしを苦しめた。 今度はあたしの番よ。
この包みを見て、十万入ってるのよ!
それをあたしは今、暖炉に投げ込むわ、火の中へ、みんなの前で、みんな証人よ! 火が全体を包んだ瞬間に、暖炉に手を突っ込むのよ、ただし手袋なし、素手で、袖をまくってね、それで包みを火から引っ張りだすのよ!
引き出したら、あんたのものよ、十万全部、あんたのものよ!
少しばかり指を焦がしても、なにしろ十万よ、考えてごらんなさい!
つかみ出すのは簡単よ!
あたしはね、あんたがどんなふうにあたしのお金のために火の中に突っ込むかであんたの魂を見るんだから。 みんなが証人、包みはあんたのものになるわ!
突っ込まなければ、そのまま燃えてしまうのよ。 誰にも許さないからね。
どいて!みんなどいて!あたしのお金よ!
あたしが一晩でラゴージンから取ったのよ。あたしのお金よね、ラゴージン?」
「おまえのだとも!おまえのだ、女王様!」
「さあ、それじゃみんなどいて、あたしがしたいようにするの!
邪魔しないで!フェルディシチェンコ、火を直して!」
「ナスターシャ・フィリッポヴナ、手が言うことを聞きません!」ぼう然としてフェルディシチェンコが答えた。
「ああもう!」とナスターシャ・フィリッポヴナは叫んで火ばしをつかみ、くすぶっているまきを二つ掻き起こし、火が燃え上がるやいなや、その上に包みを投げた。
まわりに叫び声が起こった。それどころか多くのものは十字を切った。
「気が狂った、気が狂った!」まわりの人たちは叫んだ。
「い・・・いいのかな・・・彼女を縛らなくて?」将軍がプチーツィンにささやいた
、「それとも入れてしまうか・・・だって気が狂ったんだろ、気が?狂ったんだろう?」
「い、いいえ、これは完全な発狂ではないかもしれません」と、ハンカチのように青ざめ、震えながらプチーツィンは、くすぶりだした包みから目を離すこともできずにささやいた。
「狂ってるね?狂ってるんだね?」と将軍はトーツキーを煩わせた。
「毛色の変わった女だと言ったでしょう」と、やはり少し青ざめたアファナシー・イワノヴィチがつぶやいた。
「ラゴージン、出発よ!
さよなら、公爵、初めて人間に会ったわ!
さようなら、アファナシー・イワノヴィチ、メルシー!」
ラゴージンの一団は騒々しく大声を立て、叫びながら、ラゴージンとナスターシャ・フィリッポヴナの後に続き、部屋部屋を通り抜け、出口へ殺到した。
ホールでは娘たちが彼らにコートを渡した。
料理女のマルファは台所から駆け出してきた。ナスターシャ・フィリッポヴナは彼ら皆にキスをした。
「では本当に奥様、私たちをすっかり見捨ててしまわれるんですか?
ではいったいどこへおいでですの? それにお誕生日に、こんな日に!」
と尋ねながら娘たちは泣き出し、彼女の手にキスしていた。
「街へ出るのよ、カーチャ、
あんた聞いてたでしょ、そこがあたしの場所なの、でなけりゃ洗濯女よ!
アファナシー・イワノヴィチとはもうたくさん!
あの人にあたしからよろしくね、悪く思わないでね・・・」
2. 中川隆[-12874] koaQ7Jey 2019年1月19日 10:08:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
1. 『白痴』における虐げられた女性たちの考察
―ナスターシャ・フィリポヴナの形象をめぐって 高橋誠一郎
はじめに ―― 『白痴』の主人公について
『白痴』においてドストエフスキーは、ムイシュキンにフランスの処刑制度を批判させながら
「聖書にも『殺すなかれ!』といわれています。それなのに人が人を殺したからといって、その人を殺していいものでしょうか? いいえ、絶対にいけません」
と明確に語らせていた。
つまり、決定稿におけるムイシュキンは、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老や、若きアリョーシャにつながる風貌を持っている。
そしてこのような「哲学者」的な風貌を持つムイシュキン像は、5000万人以上の死者を出した第二次世界大戦の反省を踏まえて製作された黒澤明監督の名作「白痴」でも、登場人物を日本人に移し替えながらも、
「滑稽」に見えるが、「一番大切な知恵にかけては、世間の人たちの誰よりも、ずっと優れて」いる人物
として、きわめて説得的に描き出されていた。
そして、そのようなムイシュキン像は本場ロシアや海外の研究者たちによってきわめて高く評価された。
さらに、新谷敬三郎氏が「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いているように、「ドストエーフスキイの会」に集った日本の研究者たちも、同じような感想を抱いていた。
たとえば、「ドストエフスキーと黒澤明とはいわば私の精神の故郷である。他の多くの人にとってそうであるように」と記した国松氏も、ラストのシーンでアグラーヤ役の綾子が、
「そう! ……あの人の様に……人を憎まず、ただ愛してだけ行けたら……
私……私、なんて馬鹿だったんだろう……
白痴だったの、わたしだわ!」
と語っていることに注意を促している。
私はキリスト者ではないが、初めて『白痴』を読んだときからムイシュキンという主人公に、ドストエフスキーが与えようとした「キリスト公爵」としての風貌の一端を感じ、彼が語る「哲学」からは強い知的刺激や励ましをも受けてきた。
私も、重要な登場人物たちとの関係をとおしてドストエフスキーが描こうとしたムイシュキン像を再考察することにより、私が考える『白痴』の意義をドストエフスキーの愛読者に率直に提示して批判を求めたい。ただ、時間や紙数などの関係から、本発表ではナスターシャ・フィリポヴナの形象を中心に考察する。
(1) 『白痴』の時代とナスターシャの形象
多くの研究者が指摘しているように『白痴』には、死にまつわるエピソードが多い。
たとえば江川卓氏は、
「とくに目立つのはムイシュキン公爵が死について語り、あるいは死に遭遇する機会が異常に多いことである」
とし、
「とにかくこの『白痴』では、いたるところに殺人、自殺、死がちりばめてある」
と記している。
亀山氏もドストエフスキーが
「ロシアから送られてくる新聞を貪るように読み、徐々に剣呑な状況へはまりこんでいく祖国の姿を遠方から固唾をのんで見守っていた」
とし、
「紙面にあふれかえる凶悪事件に、彼は文字通り圧倒された。
ウメツキー一家事件、マズーリン事件、ジェマーリン一家惨殺事件、商人スースロフ殺人事件。
『罪と罰』執筆時とは比べものにならぬほどの強い危機感が彼をとらえようとしていた」と書いている。
たしかにこの指摘はドストエフスキーの当時の気持ちの一端をうがっているだろう。
しかし、ドストエフスキーは『罪と罰』(1866年)で「悪人」と見なした「高利貸しの老婆」の殺害を行ったラスコーリニコフに、自分が犯した殺人と比較しながら、
「なぜ爆弾や、包囲攻撃で人を殺すほうがより高級な形式なんだい」
と反駁させていたが、同じ年に起きたプロシア・オーストリア戦争は、近代的な兵器による殺戮の大規模化と普仏戦争など新たな戦争の勃発をも予想させた。
このような戦争の拡大や軍国主義に危機感を抱いた平和主義団体は「民族の平和と自由の思想」を広めるためとして、翌年の9月にジュネーブで国際会議を開いた。
そこでロシアの代表として演壇に立ったのが、プラハやドレスデンの蜂起に参加し、「サクソニヤとオーストリヤとロシヤでは囚人」となり、二度も死刑宣告を受けながらも、脱出に成功したことで英雄視されるようになっていたミハイル・バクーニンであった。
そのバクーニンは、ロシヤ帝国を「人間の権利と自由の否定の上に成立している」と糾弾し、「未来のヨーロッパ連邦」を築くために滅亡させることを要求した。
グロスマンは「国際会議」でバクーニンが行った演説の内容を知ったドストエフスキーが「バクーニンを主人公にしてロシヤ革命を扱った小説を書こうという自分の意図」を固めたと書いている。
「平和のため」としながらも「火と剣」を要求し、「あらゆるものが絶滅したあとに初めて平和が訪れる」としたバクーニンの主張が、ドストエフスキーにきわめて深刻な印象を残したことは確かだろう。
1862年の夏に「長いことあこがれ」ていた西欧への初めての旅行を行い、『冬に記す夏の印象』において
「数百万の富を有し、全世界の富を支配する」ロンドンの繁栄だけでなく、
労働者たちの住む貧民窟や「毒に汚されたテムズ河、煤煙にみちみちた空気」
など近代科学が生み出した環境の悪化をも記したドストエフスキーは、そこでゲルツェンやバクーニンとも会っていたのである。
それゆえ、1869年11月にロシアでバクーニンとも深いつきあいのあったネチャーエフによる陰湿な殺人事件が起き、その翌月にはペトラシェフスキー・サークルの旧友でもあったドゥーロフの死を知ると、ドストエフスキーは『悪霊』のノートをとりはじめ、「スタヴローギン像の創造」に着手することになる。
なぜならば、非凡人は
「自分の内部で、良心に照らして、血を踏み越える許可を自分に与える」
のだとラスコーリニコフに説明させて、「良心」理解が誤った思いこみに陥った際の危険性を具体的に示していたドストエフスキーは、予審判事のポルフィーリイに
「もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見苦しいことをしでかしたかもしれませんよ」
と批判させていた。
そして、そのエピローグでは旋毛虫に犯されて自分だけが真理を知っていると思いこんだ人々が互いに殺しあって、ついに人類が滅亡するというラスコーリニコフの悪夢が描かれていたのである。
ドストエフスキーがロシアのキリスト公爵として描こうとしたムイシュキンに、フランスの「死刑」を批判させることによって、「文明」の名のもとに自らの「正義」によって人を裁き、「他者」を殺すことへの鋭い疑問を投げかけていたことを思い起こすならば、『白痴』において死が多く描かれているのは、ある意味で当然だと思える。
ドストエフスキーはムイシュキンに
「骨の髄まで悪のしみこんだ者でも、…中略…自分の良心に照らして悪いことをしたと考えている」
が、自分の思想に基づいて殺人を行った者は、
「自分のしたことは善いことだ」と考えていると指摘させている。
『罪と罰』でラスコーリニコフの「自己中心的な理論」の問題点を指摘しただけでなく、暴利を貪る「高利貸し」の非道性も鋭く批判していたドストエフスキーは、『白痴』においても
「こんな男なら、お金のために人殺しでもするでしょうよ。
ねえ、いまじゃ人は誰でもお金に眼がくらんで、まるでばかみたいになっているんですからね」
とナスターシャ・フィリポヴナに語らせ、
「まだまったくの子供みたいな人までが、高利貸しのまねをしているんですからね」
と続けさせているのである。
ナスターシャのこの言葉は、近代西欧社会の現実を踏まえた上でのドストエフスキーの鋭い問題意識を反映しているといえよう。
つまり、ドストエフスキーは『白痴』において金銭ばかりが重視され、金儲けのためには殺人をも厭わないような傾向をも示し始めたロシア社会を厳しく分析しているのである。
(2) ナスターシャ・フィリーポヴナとトーツキイの関係をめぐって
『白痴』における主人公がムイシュキンであることには誰も異議はないだろうが、この作品を書いていたときにドストエフスキーはマイコフに宛てた手紙で、この長編小説には「二人の主人公」がいると書いて、ナスターシャの重要性を強調していた。
このことに注目したロシアの研究者フリードレンデルは、ドストエフスキーがその作品において女性が虐げられていることの「社会的原因」や「女性のたどる運命の問題」を描き続けて来たとして、『椿姫』との関連も指摘している。
実際、両親が所有していた村が火事で焼け、そのために苦労した母親が病死したあとでは妹たちが親戚に引き取られたという苦い体験をしていたドストエフスキーは、
第一作『貧しき人々』において、村の管理人を務めていた父親がリストラされたあとでの少女の苦難に満ちた人生を描き、
『白痴』においても両親が亡くなった後のナスターシャの苦難に満ちた人生に読者の注意を向けているのである。
すなわち、ナスターシャの父は軍隊を退役した後で「所有地の少ないきわめて貧しい地主」となり、
借金を重ねるような貧乏暮しをしながらも、「幾年か百姓同様の怖ろしく辛い労働をつづけ」、
「財政をどうにか建てなおすことができた」矢先に、
債権者たちと話しあうために出かけた先で、自分の屋敷が火事で焼け、妻も焼け死んだという報せを受けて、
絶望のあまり「気が狂って、一カ月後には熱病で死んでしまった」。
その後、「焼けた領地は、路頭に迷った百姓たちもろとも、借財の返済にあてられ」たが、
生き残った二人の女の子は、隣りに豊かな領地を所有していたトーツキイが「持ち前の義侠心から」手もとに引き取り、「支配人である大家族持ちの退職官吏のドイツ人の子供たちといっしょに」育てたのである。
ナスターシャの妹は病気で亡くなったが、5年後に自分の領地を訪れた際に12歳になったナスターシャが美しく成長していたのをみたトーツキイは、「この道にかけては」、「決して眼に狂いのない玄人であった」ので、
ナスターシャに貴婦人としてふさわしいような特別な教育を施し始める。
こうして、
「年頃の娘の高等教育に経験のある、フランス語のほかに一般学科を教えるりっぱな教養あるスイス婦人が家庭教師として招かれ」、
「ちょうど四年後にこの教育は終り、家庭教師の婦人は立ち去った」。
その後で訪れた女地主は、
16歳になったナスターシャを「慰めの村」と呼ばれていたトーツキイの領地の一つである小さな村に「トーツキイの指図と委任とによって」、連れていき、
「しゃれた飾りつけ」の「建ったばかりの木造の家」に住まわせた。
「慰めの村」と呼ばれていた小さな村でのトーツキイとの生活について、ナスターシャは
「そこへあの人がやってきて、一年に二月ぐらいずつ泊まっていって、
けがらわしい、恥ずかしい、腹の立つようなみだらなことをして、帰っていくんです。(……)
あたしは何べんも池に身投げしようと思ったけれど、卑怯にもその勇気がなかった」
と告白している。
この言葉に注目した亀山氏は、
「わしらのなにより楽しみっていえば、娘っこに鞭打ちの仕置きを食わせることでしてね。
鞭打ちの役はぜんぶ若い衆にまかせるんですがな。
そのあとで、今日ひっぱたいたその娘っこを、明日はその若い衆が嫁にとる。
だから、娘っこたちにしてもそいつが楽しみなんですな」
という『カラマーゾフの兄弟』のフョードルが聞き及んだ田舎の老人の話を紹介しながら、
「トーツキイの快楽とは、田舎地主のサディズムないしはマゾヒズムの儀式だったと私は思います」
と結論している。
しかし、「慰みの村」におけるトーツキイとナスターシャの関係から、「鞭の快楽」を連想することは妥当なのだろうか。
なぜならば、亀山氏はトーツキイとナスターシャの関係を「領主と農奴の娘」の関係に擬しているが、
「慰みの村」でナスターシャが与えられた家には、「年寄りの女中頭とよく気のつく若い小間使い」がいたばかりでなく、「さまざまな楽器、少女むきのすばらしい図書室、絵画、銅版画、鉛筆、絵具が揃っており、素敵な猟犬までがいた」。
つまり、ナスターシャはそこで「農奴の娘」どころか、「領主夫人」なみの扱いを受けていたのであり、
それゆえ、
「四年あまりの歳月が、何事もなく幸福に、優雅な趣のうちに、流れていった」と記されているのである。
これらの文章はナスターシャと正式には結婚していなかったものの、おそらくトーツキイが将来的な結婚の約束を「慰みの村」で与えていた可能性が強いことを物語っていると思われる。
そして下線の文章に注目するならば、
「トーツキイがペテルブルグでも富も家柄もある美貌の女(ひと)と結婚しようとしている」という「噂(うわさ)」を伝え聞いたときになぜナスターシャが、それまでとは「全く別の女性」として現れ、トーツキイには「結婚を許さない」と宣告したかが分かるだろう)。
しかも、「小ねずみ」を語源とする「ムイシュカ」という単語から派生した「ムイシュキン」という滑稽な感じの名字をもつ主人公が、かつての名門貴族の出身であったと記したドストエフスキーは、
「子羊」を語源とするバラシコーワという名字を持つナスターシャの家柄についても
「かつては由緒ある貴族の出身」であり、「かえってトーツキイなどよりも家柄」がよかったとも記している。
つまり、自分の所有する領地の一つの隣に住んでいた名門だが没落した貧しい貴族の夫婦が焼け死んだことで、トーツキイは慈善家のような形で名家の娘を育て、さらに愛人として所有していたのである。
それゆえ、トーツキイの結婚の噂を聞いたときに、初めて自分がパリの「高級娼婦」のような存在に過ぎなかったことを思い知らされたナスターシャは、「からからと大声で笑いながら、毒々しい皮肉を浴びせ」たのだと思える。
このように見てくるとき、彼女が語る「腹の立つようなみだらなこと」とは、鞭打ちに快楽を感じるような性愛を指すのではなく、
それまで自分が愛の営みとして受け取っていた行為が、トーツキイの快楽の手段であったことへの怒りの言葉と見なすべきであろう。
ただ、「鞭の快楽」が「田舎地主のサディズムないしはマゾヒズムの儀式」とされているが、それは『地下室の手記』や『死の家の記録』など重要な作品の解釈とも密接に結びついているので、もう少しその点に触れておきたい。
すなわち、亀山氏は、『地下室の手記』にはクレオパトラが
「自分の女奴隷の胸に金の針を突き刺し、彼女たちが叫び、身もだえるのを見てよろこんだという」
というエピソードが書かれていることを紹介して、ここでは「ドストエフスキーの変貌は決定的なものになった」と断言しているのである。
そして、「おあいにくさま、歯痛にだって快楽はある」と語る「地下室の男」の言葉を引用して亀山氏は、ここでは「受け身の快楽をことさら強調してみせることで、暗に虐待する人間の快楽を正当化するという戦法」がとられていると続けている。
しかし、『イギリス文明史』で「楽観的な進歩史観」を主張した歴史家バックルにたいして、ドストエフスキーは「地下室の男」を敢然と立ち向かわせているとイギリスの研究者ピース氏が指摘しているように、
「歯痛にだって快楽はある」と語る主人公の論理は、屈折しながらも、きわめて鋭い西欧文明批判を秘めている。
つまり、「地下室の男」はここで、
「自分の女奴隷の胸に金の針を突き刺し」て喜んだクレオパトラの「野蛮さ」と、
「血はシャンパンのように」多量に流されている近代の戦争とを比較することで、「自己の正義」を主張して「他国」への戦争を正当化している近代西欧文明の方が、古代エジプトよりもいっそう「野蛮」であることを指摘して、バックルの主張に厳しい反駁を加えていたのである。
さらに、貧しい人々を治療する医師だった父が、農奴の所有者になると一変して、農奴を鞭打つことも当然としたことを厳しく批判していたドストエフスキーは、亀山氏も指摘しているように、『死の家の記録』で笞刑を行うことに慣れた刑吏の心理を分析して、
「もっとも残酷な方法で」、「他者」を「侮辱する権力と完全な可能性を一度経験した者は、もはや自分の意志とはかかわりなく感情を自制する力を失ってしまうのである」
と指摘していた。
つまり、「他者」にたいする鞭打ちという体刑を認めないドストエフスキーの姿勢は、『カラマーゾフの兄弟』まで変わることなく一貫していたのであり、そのように理解しないと子どもの虐待をめぐるイワンとアリョーシャの白熱したやり取りもその意義を失うことになると思われるのである。
(3) ナスターシャとロゴージンの形象をめぐって
ナスターシャ・フィリポヴナのバラシコーワという名字が、「子羊」を語源とする「バラーシェク」という単語から採られていると記した亀山氏は、ムイシュキンの名前がライオンという意味のレフであることにも注意を促している。
そして、バラシコーワという名字は「アベルによって神に捧げられた犠牲の子羊のイメージ」と重なり合っているとし、「旧訳聖書の文脈に従うなら、ナスターシャはアベル=ムイシュキンによって屠られるべき存在です」と主張している。
ただ、このような亀山氏のナスターシャ像は突然生まれたのではなく、ナスターシャの名前や父親の名前から造られるロシア独特の父称などに注目して、
ドストエフスキーには明らかに
「ナスターシャ・フィリッポヴナを鞭身派の一信徒に擬そうとする意図」
があったと解釈した江川卓氏の 『謎とき「白痴」』 から強い影響を受けていると思われる。
すぐれた語学力と読解力を活かして、登場人物の名前や動詞の意味だけでなく、フォークロアや法律書にまで踏み込んだ鋭い分析がなされている江川卓氏の『謎とき「罪と罰」』(1986年)から私は、多くの知的示唆を受けた。
しかし、『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』(1991年)の後に書かれた『謎とき「白痴」』(1994年)を読んだ時には強い違和感が残った。
おそらくそれは、ロゴージンやナスターシャの名前について言語的なレベルからの考察をとおして、旧教徒のセクトとのかかわりが指摘される一方で、『罪と罰』のテーマとの深いつながりや、ナスターシャとムイシュキンの関係を分析する上ではきわめて重要な役割を担っている『椿姫』などへの言及などがほとんどなかったためだろう。
たとえば江川氏は、
「情熱の権化のように言われていた」ロゴージンの名前が、ギリシャ語で「童貞」を意味する「パルテノス」を語源とするパルフョンであることや、「死人のような蒼白さ」という表現から去勢派の教義に従った人物と読み取っている(185)。
たしかに、
ロゴージンの父親が去勢派や鞭身派などの旧教のセクトに強い関心を持っており、
伯母も「職業的な修道女で、旧教派の中心地であるプスコフに住んでいる」
と描かれており、ムイシュキンもロゴージンが将来
「二本の指で十字を切ったり」、
「ニコンの改革前の聖書を読んだりするようになる」
可能性を示唆している。
しかし、「熱病にかかってまる一月も」寝込んでいたロゴージンが、病みあがりにもかかわらずナスターシャと会うために夜汽車で駆けつけようとしていたと書かれていることに留意するならば、ここでは彼の情熱が強調されていると考える方が自然だろう。
しかもグロスマンが書いているように、
ドストエフスキーはここで「プーシキンの名前すら知らない」、文盲に近いロゴージンが
「民族の伝統や、昔の民間信仰と固く結びついて」いる一方で、
「西欧化した新しい風俗のハイカラさ、つまりひげを短く剃りこんだり、色つきのチョッキを着て、めかしこんだりする『大商人』のタイプとはおよそ掛け離れて」いた
ことを強調しているのである。
そして、ムイシュキンはロゴージンのことを「情欲だけの人間ではない」、「人生の闘士」だと感じ、
「彼は苦悩することも同情をよせることもできる大きな心を持っている」とも考えている。
ことに、「二人でプーシキン」を「すっかり読んだ」と語っていることに注目するならば、
吝嗇な父親と息子の対立と父親の殺害にいたる経過を描いたプーシキンの『吝嗇の騎士』
をも彼らが読んでいたことは確実だろう。
すなわち、『白痴』を書いていたころのドストエフスキーは、旧教徒にも一定の意味を認めていたのである。
ムイシュキンは情熱に駆られて極端にまで走りかねないロゴージンの民衆的なエネルギーとその可能性を信じて、彼とともにプーシキンの作品を読むことで、彼に正しい方向性を示そうとしていたのだと考えられるのである。
さらに、「権力を重視し」、他者の「処刑」を認めていた当時のカトリックを、「ゆがめられたキリストを説いている」と厳しく批判したムイシュキンは、
「自分の生れた国を見捨てた者は、自分の神をも見捨てたことになる」
といった旧教徒の商人の言った言葉を紹介しながら、
ロシアの「鞭身派」でさえ、「ジェスイット派や無神論」などよりも、「ずっと深遠でさえあるかもしれません」
と語っている)。
この言葉に注目するならば、ここに見られるのは「クレオパトラ」と比較しつつ、「近代西欧文明」の「野蛮さ」を指摘した「地下室の男」と同じような論法であるといえよう。
すなわち、自らを傷つけたロシアの「鞭身派」と比較することで、「異教徒」や「皇帝」の「殺害」をも正当化する「ジェスイット派や無神論」の「野蛮性」をムイシュキンは強調しているのである。
しかし、ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を『ロシア報知』に掲載した1880年には、以前から交際していた保守的な政治家で、ロシア正教以外の宗教的な価値を認めなかったポベドノースツェフが、ロシアの教育と宗教を総括する総務院の総裁となっていた。
それゆえ、このころには再び厳しさを増していた検閲のために、ロシア正教の異端とされた旧教徒をも否定的に描かざるをえなくなっていたと思える。
去勢派などとの関わりが暗示されている『カラマーゾフの兄弟』におけるスメルジャコフの否定的な形象はこのような時代状況のなかで生み出されたのである。
こうして、スメルジャコフに「去勢派(スコペッツ)」の影を色濃く見て、『白痴』論でもその連想から「新しい」ロゴージン像を描き出した江川氏は、そのような視点からナスターシャ・フィリポヴナにも「鞭身派」の影を強く見出している。
たとえば、第三編では
「もうこうなりゃ、ぴしゃりとやらなくちゃだめだ。
それよりほかにあんな売女(ばいた)をやっつける法はないさ!」
と一人の青年将校から大声で批判されたのを聞いたナスターシャが、
「相手のステッキを引ったくって、その無礼者の顔をはすかいに力いっぱい打ちすえた」
という場面が描かれている。
ここで「ぴしゃりとやらなくちゃだめだ」という表現に用いられている
「鞭(フルイスト)」という単語が、「鞭身派(フルイストフシチナ)の名称の起りとなったことばである」
ことを指摘した江川氏は、
734年に処刑された「鞭身派の聖母」がナスターシャ・カルポヴナという名前を持っているばかりでなく、
ナスターシャの父称が「鞭身派の教祖ダニイラ・フィリッポヴィチ」の父称とも同じであることに注意を促して、
「ナスターシャ・フィリッポヴナという名が、鞭身派の神話を背負った名であることは自明である」
と断言していた。
しかし、当時のロシアでは妻や子供に対する「躾」のために鞭をふるったりすることは伝統的に認められていたのであり、軍隊では兵士に対する殴るなどの体罰が日露戦争の最中にも行われていた。
このことを考えるならば、とりわけ青年将校が「鞭でこらしめねばならない」と語るのは特別なことではないと思える。
しかも、『白痴』ではしばしば高級娼婦と貴族の若者の悲恋を描いた『椿姫』が話題となっていることを思い起こすならば、
「ぴしゃりとやらなくちゃだめだ。それよりほかにあんな売女をやっつける法はないさ!」
という言葉に激しく反発したナスターシャの反応には、娼婦と呼ばれたことへの彼女自身のプライドの問題や、女・子供や農民出身の兵士の教育には「鞭」が必要だと考える伝統的な道徳の問題が提起されていると考えるほうがむしろ自然であろう。
つまり、『謎とき「白痴」』が『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』の後で書かれたという事情もあり、
江川氏がロゴージンやナスターシャの形象を1860年代の大地主義的な世界観によってではなく、厳しい検閲によって制約を受けていた晩年の記述によって、ロゴージンやナスターシャを旧教徒のセクトと結びつけて解釈している可能性が強いと思えるのである。
そして、亀山氏の『白痴』論では重要な登場人物とムイシュキンとの関係の考察が省かれことにより、ナスターシャにおけるマゾヒズムへの傾向がいっそう強調されることになったのだと思える。
4.『白痴』の現代性
ところで、長編小説『椿姫』は、『三銃士』などの作品で知られるアレクサンドル・デュマの私生児として生まれたデュマ・フィスによって、2月革命が起きた1848年に書かれた。
そして、主人公がアルマンの腕に抱かれて亡くなるというメロドラマ的な筋書きのオペラ『椿姫』とは異なり、到着が遅れたために主人公がマルグリットの死に目に会えないという発端を持つこの『椿姫』は、フリードレンデル氏などが指摘しているように、ドストエフスキーの『白痴』にもきわめて強い影響を与えている。
つまり、訳者の新庄嘉章氏が書いているように、この作品でデュマ・フィスは高級娼婦であったマルグリットの純愛と犠牲的な死をとおして、「男性の利己主義的な行為」や、「それを助長させる金銭の力」や「それを黙認している世間の慣習」を厳しく批判していたのである(新潮文庫、1950年)。
そしてドストエフスキーも『冬に記す夏の印象』(1863年)において、
ナポレオン三世治下のフランス社会には「すべての者が法の範囲内で何でも行える同一の自由」があることを認めたあとで、次のように「フランス的自由」を厳しく批判していた。
「いつ欲することをすべて成すことができるのだろうか?
百万をもっている時である。自由は各人に百万を与えるだろうか?
与えはしない。
百万を持っていない者は何者だろうか?
百万がない者は、何でも好きなことができる者ではなく、何でも好きなことをされる者である」。
実は、敗戦後まもない1951年に上映された黒澤明監督の映画『白痴』では、キリスト教的な背景ばかりでなく、このような社会的背景をもきちんと描かれていた。
さらに私見によれば、この作品で黒澤明はムイシュキンの存在を
ロゴージン・ナスターシャ・ムイシュキンという「欲望の三角形」的な関係に縛られる者としてではなく、むしろ精神科医的な視点から、
「何でも好きなことをされる者」としてのナスターシャの苦悩を、治癒しようとして果たし得なかった者として描いているのである。
この意味で注目したいのは、ロンドンで開かれていた万国博の会場である水晶宮を訪れて、
「全世界から集ったこれら無数の人間の全てをここで一つの群に集めた恐るべき力」を感じたドストエフスキーが、
イギリスの社会はキリスト教を名乗りながらも、実際には儲けの神である異教の神、「バール神」に屈服した
と厳しく批判するとともに、
「バールの神を偶像視したりしないようにするには」、「幾世紀にもわたるおびただしい精神的抵抗」が必要とされるだろうと記していたことである。
つまり『白痴』における考察は、市場原理主義に基づいた極端な「規制緩和」により格差社会が生まれる一方で、それまでアメリカ企業の模範とされてきたリーマン・ブラザーズが、カジノ資本主義的な手法のサブプライム・ローンによって破綻し、世界が金融危機に陥った現代の状況をも予測するような深いものだったといえよう。
http://dokushokai.shimohara.net/t111.htm
果たしてムイシュキンは殺人の「使嗾者」か?
――黒澤明監督の映画『白痴』を手がかりに 高橋誠一郎
黒澤自身が最も高く評価した自作の一つが、ドストエフスキーの『白痴』を終戦直後の混乱した時代の日本に置き換えて描いた映画『白痴』(1951)であった。
上映時間四時間二五分という大作となったこの作品は、観客の入りを重視した経営陣から大幅なカットを命じられたために、時折、字幕で筋の説明をしなければならないなど異例の形での上映となり、日本では多くの評論家から「失敗作」と見なされた。
それにもかかわらず、新谷敬三郎氏が「初めてみたときの驚き、ドストエフスキイの小説の世界が見事に映像化されている」と書いたように、映画『白痴』は原作を熟知している本場ロシアや海外、そして日本の研究者たちからはきわめて高く評価された。
一方、近年の日本は「グローバリゼーション」の名の下に、「新自由主義」が幅をきかすようになって「格差社会」が一気に進んだ。
ちょうどその頃に出版された研究書で亀山郁夫氏は、
ナスターシャの殺害をロゴージンに「使嗾」したのはムイシュキンであり、
「現代の救世主たるムイシキンは、じつは人々を破滅へといざなう悪魔だった」
と結論した(『ドストエフスキー 父殺しの文学』上巻、NHK出版、2004年、285頁)。
そして、亀山氏のこのようなドストエフスキー論はマスコミで賞賛され、学校などでも読書コンクールの対象図書とされたことで若者たちの間でも広まっている。
亀田(ムイシュキン)を「真に美しい善意の人」として描いた黒澤明の『白痴』理解は、全くの誤読だったのだろうか。
この意味で注目したいのは、大著"Dostoyevsky―― An Examination of the Major Novels"(Cambridge University Press, 1971)において、
『白痴』のロゴージンやナスターシャが古儀式派から派生した過激なセクトである去勢派や鞭身派への強い関心を示していたことや、
『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコフが去勢派に属していた可能性が強い
ことを語義的なレベルから明らかにして、世界中のドストエフスキー研究者に強い影響を与えたイギリスのすぐれた研究者ピース氏のムイシュキン解釈である。
後に、"Dostoyevsky's Notes from Underground"で、ドストエフスキーの作品が緻密な論理構造を持っているだけでなく、登場人物もきわめて有機的に配置されていることを明らかにすることになるピース氏はすでにこの大著で、
「死刑を宣告された者」と自ら名乗っていたイポリートの考察をとおして、
当時の「弱肉強食の論理」とそれに対抗する「弱者の権利の理論」との対立を浮き彫りにしていた。
そして1864年の裁判改革の流れにのって、弁護士の資格も取っていたレーベジェフの問題点だけではなく、彼の娘ヴェーラの肯定的な意義も示すことで、ムイシュキンという主人公がプーシキンに依拠しつつ、「美は世界を救う」という理念によって世界を和解させる道を必死に模索していたことを明らかにしていた。
これらの指摘をふまえて黒澤映画を見直す時、『白痴』(1951)とその前後に撮られた『醜聞(スキャンダル)』(1950)と『生きる』(1952)が、『白痴』三部作と呼べるような深いつながりを有していたことに気づくのである。
今回の報告ではピース氏の『白痴』論や黒澤明監督の映画を手がかりにしながら、モスクワから半年ぶりに帰還したムイシュキンの行動を描いた第2編を次のような順序で分析する。
まず、最初にレーベジェフと甥との会話に注目することで、
弁護士も営むようになったレーベジェフが、「真心は持っている」ものの、酔っぱらいの「ペテン師」である可能性が示唆されていることを確認する。
そして、ロゴージンの古い家を訪れた際にはムイシュキンが、ホルバインの絵画『キリストの屍』や「分離派」について会話を交わしただけでなく、別れ際にはC氏との出会いや殺人事件の話、そして百姓の女性から受けた印象についても語っていることに注目する。
さらに、ロゴージンとの間では歴史書についての会話もなされていたが、『死の家の記録』で重要な役割を与えられているペトロフも歴史的な事実についての強い関心を持っていたと記されていることに注意を払うことで、
ロゴージンという人物が1861年の農民一揆を指導した「古儀式派」教徒のペトロフをモデルとしている可能性があることを示唆する。
最後に、エパンチン夫人がコーリャに無神論を教えて「誘惑」したとイポリートを批判していることに注目しながら彼の『キリストの屍』観などを分析することにより、
ロゴージンを殺人へと「使嗾」したのはムイシュキンではなく、多くの研究者が『白痴』を解く鍵と見なしているイポリートである可能性が高いことを明らかにする。
http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost09.htm
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2. ナスターシャ・フィリッポヴナは鞭身派の聖母 復活のナスターシャ
「時代」廃刊騒ぎのさなか、ドストエフスキーは愛人と連れ立って2度目の外国旅行に旅立とうとしていました。
1861年、「時代」にアポリナーリヤ(ポリーナ)・スースロワという女子大生の短編が掲載されました。
2度目の外国旅行に同行する予定だったのは、このスースロワでした。
スースロワの父親はもともと農奴でした。
しかし、強靱な意志、人並みはずれた能力で農奴の身分を脱し、手広く企業を営むようになったやり手でした。
そして、その資産で娘たちに高等教育を受けさせ、そのかいあって、ポリーナの妹ナデージダはロシア史上最初の女性医師となっています。
姉のポリーナのほうは妹のような栄光とは無縁でしたが、アレキサンドル二世時代の開放感に充ちた空気に鋭敏に反応し、自由奔放に生きる「新しいタイプ」の女性でした。
しかも、父親からは鋼鉄のような性格を譲り受けていたようで、のちにポリーナと結婚したローザノフは彼女のことを「異常なまでの集中力、決断力を持つ女性」と評しています
(ドリーニン編 中村健之助訳 「スースロワの日記」みすず書房)。
「気性は完全にロシア女でしたが、ロシア女はロシア女でも、分離派の”無僧派”の女でした。
いや ”鞭身派の聖母”といった方がいいでしょう」
とも書いています。
ローザノフはのちにドストエフスキーの伝記も書いた文学者でしたが、結婚後数年して、男を作ったスースロワに逃げられてしまいます。
復縁を哀願するローザノフにスースロワは
「何千という夫があなたのような立場に立たされますが、吠えたりはしませんよ、
人間は犬ではないのですからね」
とすげなく答えています。
当初、ドストエフスキーはこのスースロワと一緒にペテルブルグを出発して1863年の夏の間フランス、イタリアを旅行する予定でした。
しかし、妻マリアの転地療養の手配、借金の手続き、旅券更新に手間取って、その間に愛人は先にパリへ旅立ってしまいます。
ドストエフスキーはポリーナに一ヶ月以上遅れて出発します。
にもかかわらず、途中、ヴィースバーデンに立ち寄り、ルーレット賭博に4日間を費やします。
ようやくパリに着いたドストエフスキーを待っていたのは
「あなたは来るのが少し遅すぎた」
というポリーナの言葉でした。
ポリーナはパリで新たにスペイン人の恋人を作っていたのです。
しかし、ドストエフスキーがパリに着いた頃、そのスペイン人の恋人はポリーナに飽きがきていたようで、病気を理由にポリーナと会おうとしなくなっていました。
愛人に捨てられかかったドストエフスキーと新たな恋人に捨てられたポリーナは「兄と妹」という関係を保つことを条件にイタリアに出発します。
しかし、途中、二人はまたもヴィースバーデンに立ち寄り、ルーレットで有り金すべてをまきあげられてしまいます。
ミハイルをはじめとする親戚、出版社からかきあつめた借金でようやくヴィースバーデンを出立、ジュネーブ、トリノ、ジェノア、ローマ、ナポリと南欧各地を転々とします。
そして、10月になってようやく二人は別れることになり、この奇怪な情事旅行は終幕をむかえます。
この2ヶ月間で、ドストエフスキーのポリーナに対する情熱はかなり冷めたようです。
しかし、しばらくポリーナとの関係は続き、2番目の妻アンナと結婚してからも二人は手紙をやりとりしています。
そして、この「鞭身派の聖母」は「賭博者」「白痴」などかれのさまざまな小説に出没することになります。
http://www009.upp.so-net.ne.jp/aoitori/tenkan/Dostoyevski.htm
スースロワと「白痴」ナスターシャ
名前:ぼんやり読者 投稿日時:2009/11/17(火) 13:27 [ 返信 ]
スースロワはドストエフスキーだけでなく、性関係を持った相手や結婚相手に深い憎悪をいだく性質の女性だったようです。
彼女がサルヴァドールをいう男性に対して行った仕打ちを見てみましょう。
この二人は合意のもとに関係を持ち、その後彼女は捨てられました。
そこで彼女は彼に何をしたかというと、「お金」を送りつけたのです。
「拝啓、以前わたしはあなたからある親切を受けました。
世間ではそういう親切に対してはお金を払うのが通例です。
無料で親切を受けていいのは、自分の友だちである人と自分が尊敬している人からだけである、とわたしは考えています。
わたしはあはたを誤解していましたので、自分の間違いを訂正するためにこのお金をお送りします。
このわたしの考えをさまたげる権利はあなたにはありません。」
(スースロワの日記、みすず書房)
まるで「白痴」のナスターシャみたいです。
ガーニャに暖炉に投げ込んだ金を取らせるシーンを思い出します。
スースロワは、性を売る相手に金を払うように、もともとは恋愛関係だったものを金銭関係にすりかえて相手を侮辱し、自分の自尊心を守るため「借りは作らない」という態度をとったようにも見えます。
ちなみに相手からは無視され、返事はありませんでした。
23歳のスースロワのはじめての相手が41歳のドストエフスキーだったとのこと。
ドストエフスキーは
「粗野なものではない。 そこから本質へ突き進むことのできるもの」
と考えていたかもしれませんが、性急な性の要求は深く彼女を傷つけたともいいます。
「白痴」ではナスターシャは年端のいかないうちにトーツキーの囲い者にされた憐れな女と設定され、ムイシュキン公爵は彼女を深く憐れみ、彼女の救いの存在となります。
これはもしかしたらスースロワという女性を怪物のようにしてしまったという、ドストエフスキーの悔恨と懺悔と憐憫の気持ちの産物なのかもしれません。あくまで想像ですが。
http://dostef.webspace.ne.jp/bbs/dostef_tree_r_706.html
946 :吾輩は名無しである :2009/04/23(木) 00:05:49
アタシャ女だが、よくトルストイは女が描けるけど、ドストはダメというのがいるが、
それこそ、男の見方だよね。
ドストのあのヒステリックで自虐的かつサディステックな女性群こそ、本物の女だぞ。
もちろん誇張があるけど。
もてない男が描く理想像がトルストイの女たち。
『戦争と平和』のナターシャにも、アンナ・カレーニナにもさっぱり感情移入できん。
私がトルストイですきなのは、いかに自分がブオトコで持てなかったかを綿綿と綴った『幼年時代』等の自伝的作品と、女は登場しない『イワン・イリッチの死』だけ。
小谷野敦はほんと、もてない男だな。
今度出した新書も、女がわからない男の見方という意味で面白いといえば面白い。
http://logsoku.com/thread/love6.2ch.net/book/1232204701/
江川卓著「謎とき『白痴』」と 「謎とき『カラマーゾフの兄弟』」 を読む。
このたび『白痴』と『カラマーゾフの兄弟』読了記念企画として読んでみました。
いやはや、なんとも濃かった。
軽いタイトルとは裏腹に、著者の卓見がいたるところにちりばめられている。
登場人物の名前から語源探索してその秘められた意味を見出すなんて作業は、これは素人にはとても無理なわけで。
カラマーゾフのミーチャの弁護人の名「フェチュコヴィッチ」が、日本語にすると「阿保田」になるなんてのは、
あの裁判の場面でミーチャに肩入れして、弁護人がんばれみたいな気持ちで読んでいた私にとっては、
「え、それじゃ最初から勝ち目ない法廷闘争だったんじゃん」てなわけで。
鞭身派と去勢派という異端についての説明も詳しくてよかった。
この二つのキリスト教異端は、ドストエフスキーについての評論を読むと結構目にすることが多いのだが、それが一体どういう人たちなのかはあまり深く紹介されることがなかったので。
命名の語源探索や、『カラマーゾフ』の「3と13」なんかは、素人の私としては、若干トゥー・マッチに思えるところもないではないが、全体としては、『カラマーゾフ』の裏表紙に埴谷雄高が絶賛を寄せているように、名作だと思う。
で、印象に残ったことを、一つ二つ。
『白痴』で、
ムイシュキンは言うまでもなく、ロゴージンもナスターシャと性交渉を持たなかったことは、
ナスターシャを殺害した後にロゴージンがムイシュキンに
「(ナスターシャの裸体を)初めて見たが、綺麗な体だぜ」
という内容の言葉を言うことからも明らか。
では、なぜロゴージンはナスターシャと性交渉をしなかったのか。
江川氏は、ロゴージン(およびムイシュキンも)インポテンツ説である。
私としては、目からうろこと言うか、とにかく、そっちの角度(どっちの角度?)から考えたこともなかったので、「その手があったか!」と思った次第。
ただ、欲望の塊のようなロゴージンがインポだったなんてことが、いやいや、インポテンツな男性がロゴージンのような行動をすることがありえるのかというのが若干疑問。
ヤリたくてたまらないのに、いざとなったら萎えてしまったというのが「インポテンツ」の範疇ならば納得。
ムイシュキンが、ナスターシャを「気狂い」呼ばわりするのは、ナスターシャからセクハラ行為を受けたから。
納得。ただただ納得。
イワン・カラマーゾフの譫妄状態。
アル中説。
うーん。そうでないとは言い切れないが、そうであるとも言い切れないような気が。
悪魔がイワンの前に姿を現す場面は、スメルジャコフとの三度の対面でイワンの心がずたずたになっていたからと言うだけでも十分なような気がするんだが。
http://ameblo.jp/nisekagami/entry-10346336923.html
この本を読むと、まずドストエフスキーって一般には悪文家と言われているけれど、俗語や学生隠語、古風な言い回しにはちゃんと意味があって、そこにはドストエフスキーの意図が働いている、ということが指摘されている。
たとえば小説のはじめに、ラスコーリニコフが「ナスーシチヌイな仕事もすっかりやめてしまい」、とある。
「ナスーシチヌイ」ということばは「日々の」という意味なんだけど、日常めったに使われない文語的なことばだそうだ。
ところがこれがじつは聖書のなかに「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という一句の、「日用の」と同じなんだな。
そもそもこれは、当時のロシアの子供たちが暗唱させられるお祈りで、「ナスーシチヌイな仕事も・・・」とくればこの聖書から採られたお祈りが連想される、というわけだ。
だから、ここでは主人公が日用の糧を稼ぐ仕事もやめようとしている、と読みとることができる
そうだとすると、併せて日々のお祈りもしなくなった、とも連想できますね
それにラスコーリニコフという主人公の名前・・・
この名前は17世紀ロシア正教から分裂した「ラスコーリニキ(分離派)」に由来している。
その証拠に、創作ノートには主人公の母親のことばとして「ラスコーリニコフ家は二百年来、有名な家系」と記されている。
この小説が書かれたのは1865〜1866年、そこから200年さかのぼると、まさに17世紀の'60年代で、分離派運動の発生期に一致するんだよ
分離派って、どんな信仰形態なんですか?
「分離派」にもいくつかあって、
身体をたたき合いながら法悦状態に達する「鞭身派」、
肉欲から逃れるために生殖器官を切除する「去勢派」などがあったそうだ
また、ラスコーリニコフという姓はロシア語の動詞「ラスコローチ(割り裂く)」とも無関係ではない。
まさにこの青年は金貸しの老婆の脳天を斧で割り裂くわけだ
でも・・・斧が凶器ですけれど、たしか峰打ちでしたよね?
優美、よく気がついたね(^^ )そう、峰打ちであることが妙に強調されている。
つまり、斧の刃はラスコーリニコフ自身の方を向いていたんだね
それはドストエフスキーの意図するところだったと・・・?
うん。これまた証拠があって、後にラスコーリニコフがソーニャに老婆殺しを告白するとき、
「あのときぼくは、ひと思いに自分をウフローパチしたんだ、永遠にね・・・」と言っている。
ここはふつう「ひと思いに自分を殺した」と訳されているけれど、「ウフローパチ」というのは俗語で、もとはものが激しく打ち当たる擬音語「パチン、パシリ」にあたることばなんだそうだ。
つまり「ひと思いに自分をパシリとやった」・・・
割り裂いたのは自分自身だったというわけだな
はあ〜見事な分析ですね
名前の話に戻るけど、主人公のフルネームは「ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ」で、頭文字はロシア語のR音だから「PPP」になる。
著者の江川卓によれば、ロシアでもこんな名前はほとんどあり得ない、可能性としては600万人にひとり、当時のロシアなら5人もいたかどうかという計算になるそうだ
頭文字が「PPP」となることに意味があるのですか?
これは裏返しにして「666」、つまりヨハネ黙示録に記述されたアンチクリストをあらわすのではないか、というのが著者の推理だ。
神の掟に背いて殺人を犯しながらなお人間の掟を「踰えた」とうそぶく主人公に、すこぶるふさわしい設定―「刻印」だろう。
じっさい、非凡人論をぶちあげたラスコーリニコフに、予審判事ポルフィーリイが「何か生まれながらのしるしでもないのですか?」と質問している
名前だけでそれだけの意図が込められているなんて驚きですね・・・(・o・)
主人公に次いで重要な登場人物である聖娼婦ソーニャについてちょっとだけふれておこうか。
この小説にリザヴェータという登場人物が出てくるだろう?
金貸しの老婆に使われていて、運悪く殺人の現場に来合わせてしまったために主人公に殺されてしまう女性ですね
うん。ラスコーリニコフが安料理屋で、たまたま隣に立った将校と学生がリザヴェータについて噂しているのを聞くよね。
それによると、リザヴェータは「ひどい醜女」で「善良」「柔和」「静か」、そして未婚でありながら「ほとんどいつも妊娠している」ということだった。
ここで「柔和」と「静か」はソーニャとの共通点なわけだけど、同時に「醜女」でありながら「いつも妊娠している」のはなぜだろう?
・・・(・_・;
ヒントがいくつかあって、はじめてソーニャの部屋を訪れた主人公は、ふとたんすの上に置かれたロシア語訳の「新約聖書」に目をとめる。
ソーニャによればリザヴェータが持ってきたものだということだ。
ところがこの「新約聖書」は、ドストエフスキーが持っていた、発行後40年を経た稀覯書を模している。
どうしてこんなものをリザヴェータが持っていたんだろうか?
たしか、ソーニャがリザヴェータのことを「あの人は神を観ずる方です」と言っていましたね。
そのことと関係があるんでしょうか?
まさにそれだ( ・_・)♭
さっき話に出た、ロシア正教から分裂した「分離派」に、「観照派」という宗派がある。
「鞭身派」と「去勢派」がそれで、「観照派」とは文字どおり神や聖霊を観照する、つまり目に見ることだな。
「鞭身派」というのは信徒たちが密室でお互いの身体をたたき合い、集団的な法悦状態にまで高まったとき、キリストや聖霊が儀式の場にあらわれるのを観照する。
そしてその法悦状態から信徒たちは乱交に至ることもあり
(このことが、この鞭身派の勢力を急成長させた要因ではないかという説もあるらしい)、
この儀式の際に授かった子供は未来のキリスト候補として宗派の共同体によって育てられるという習慣もあったそうだ
するとリザヴェータは・・・
「鞭身派」のあるセクトの巫女―「聖母マリア」だったのではないか、というわけだ。
それならいつも妊娠していて、しかも生まれてくる子供の養育については心配する必要もなかっただろう
・・・それでは、ラスコーリニコフは「聖母マリア」を殺したということにもなりますね・・・
でも、ソーニャはリザヴェータがそのような立場にあったことを知っていたのでしょうか?
「神を観ずる方」と言っているくらいだから、当然知っていたんだろうね・・・
いや、それ以上かもしれない。
ソーニャがリザヴェータについて語るとき、妙な言い淀みが頻発しているのに気がついた?
「ええ・・・あの人は心正しい方でした・・・
ここへも来ました・・・たまにですけれど・・・
そうそうは来られなかったんです。
わたしたち、いっしょに読んだり・・・お話ししたりして」
たしかに「・・・」が多いですね
公然化されていない儀式のことを思っていたのだろうか・・・
「わたしたち」って、ソーニャとリザヴェータのふたりのことだけだろうか・・・
するとソーニャも・・・
ちょっと考えにくいけど、彼女の部屋は窓が三つもあって家具がほとんどない「大きな」部屋とされている。
娼婦の部屋としては似合わないよね。
じつは鞭身派の儀式は、窓がたくさんあって明るく広い部屋が使われるのが通例だったそうだ
というわけで、ドストエフスキーの「罪と罰」は、この本によって意味論を超えた次元で徹底的に読み解かれている。
http://amadeushoffmann.web.infoseek.co.jp/dialogue29.html
「君は確実に病気で死ぬ」
私の好きな小説「罪と罰」 ソーニャについて
当時のロシアペテルブルグは梅毒蔓延が社会問題で客の8人に一人は梅毒持ちのロシアンルーレット状態だったそうな。
黄色い鑑札を受けるってのは、何週間かおきに、警察に出頭して発症してないか性器を調べられるという意味。
ラスコがねちねちねち「君は確実に病気で死ぬ」といじめるのも、意地悪いが事実の指摘だね。(2chより)
現代において、売春少女は不幸か?
と言えば、援助交際とか気楽に言っているので、そんなにこの女主人公ソーニャは悲劇なのか?
やはり、時代背景と言うものを少しは知らなくては、ソーニヤの悲劇性はわからないと思う。
時代は19世紀である。
避妊具とかが発達していなので、性病・妊娠の危険は売春の仕事をする中では大きいと思う。
それゆえに社会的な排他・阻害感も、現代よりも強いと思う。
亡くなった飯島愛さんのようにTVタレントにはなれないだろう。
小説にも出てくるが、一般の家族と娼婦は同じ部屋に一緒にいることはない。
ソーニャが父の葬儀の出席依頼をしにラスコの下宿を訪ねて来る場面がある。
そこに偶然、ラスコの母と妹がいるのだが、それを見たソーニヤは決してラスコの部屋に入ろうとせずにドアの外で用件を伝えようとする。
たぶん、性病への感染リスクがある為だと思う。
ソーニャの最初の相手は16歳の時に、売春をはじめた時の相手である。
当然、恋愛もなにも知らずに、いきなり売春である。
(これは現代においても、かなり悲劇ではないか・・・)
それから、家族の為にほぼ毎日、お客の相手をするのだが、残念ながら、彼女は性的な快感はない。
18歳にして、重度の不感症・冷感症なのである。
それ故に、彼女は「純粋な売春婦」と称されるのである。
当然ながら、彼女には友人はいない。
唯一の友人であった知的障害を持つリザベーダーは、ラスコに斧で殺されたのである。
彼女に知的障害を持つ「神がかり」と言われる人しか友人がいないことが、彼女の社会的境遇を物語る。
彼女は虐げられた人である。
ラスコ曰く、
「あなたは自分で自分を殺してしまったのだ」
ラスコーニコフは自分の老婆殺しについて
「あれは斧で老婆を殺したのではなく、自分自身を殺したのだ」
人間として一線を超えてしまった2人の若者は、お互いに強く惹かれ合うのである。
http://psjfk.blog23.fc2.com/blog-entry-797.html
江川卓 謎とき『カラマーゾフの兄弟』
外国文学を日本語で読むと、その面白さは半減する。
たとえば、日本文学で、谷崎の流麗な上方言葉の魅力を、では、どう英語に、フランス語に、ロシア語に翻訳することができるか。
京都や大阪という土地の土着性など、その細かいニュアンスを他言語圏に伝えるのは相当無理があると思う。
訳者でもある著者は、そのロシア語と日本語の間に立って、ロシア語で読まれるはずの『カラマーゾフの兄弟』の魅力を、詳しく、丹念に解説してくれる。ロシア語のできん者にはとてもありがたい。
たとえば、なぜ一連の騒動を巻き起こす一族の姓名が「カラマーゾフ」でなければいけないのか。
「カラ」は日本語で「黒い」、「マーゾフ」は「塗りたくる」の意味らしい。
さらに、「カラ」が「カーラ」だとすると、それはロシア語で「罪」となり、さらに「カラ」は泥棒の隠語で「男性性器」の意味でも用いられるという。
作者も指摘するように、語の多義性を最大限に利用するのが「ドストエフスキーの小説作法の真髄である。
ところが、この「カラ」起源説はこれに留まらない。
「カラ・ゲオルギイ」というセルビアに実在した民族英雄がいたらしい。
この人、王朝の始祖、ゲオルギイ・ペードロヴィチが父親殺しをしたことから、「カラ・ゲオルギイ」、つまり「黒いゲオルギイ」とあだ名されたらしい。
さて、父親殺しとはこの小説の主要テーマであり、この事件を中心に小説は進行するのだが、このカラ・ゲオルギイは父を殺し、王朝を築き上げた。
つまりそれは、旧制度の討伐、であります。
何よりもスリリングなのは、あんなにも信仰深く敬虔だったアリョーシャが、のちに革命家となり、皇帝暗殺を企てるだろうという説!
これは著者のみならず、多くの学者が指摘しているという。
もちろん、小説にはそんな事実はどこにも書かれてない。
父・フョードルを殺したのは私生児(その事実の真偽もこの本の中では取り上げられている)とされているスメルジャコフであり、殺害の嫌疑にかけられたのは長男のドミートリイだ。
アリョーシャの父親殺しはどこにも書かれてない。
しかし、小説冒頭、ドストエフスキーは、これは第1の小説で、この小説には13年後の、現在の小説が予定されていると断っている。
つまり、この『カラマーゾフの兄弟』には続きがあり、それこそは33歳になったアリョーシャの現在進行形の小説になるはずだったのだが、すでにドストエフスキーは死んでしまった。
33歳とはキリスト処刑の年齢に重なる。
「現代のキリスト」であるアリョーシャは、既存宗教から抜け出し、革命を起こす。
皇帝暗殺とは、ロシアの「父」を暗殺する事に他ならない。
予定されていた続編ではアリョーシャによる父親殺しが書かれるはずだったと言うのだ。
であるとすれば、「カラマーゾフ」とい姓が「カラ・ゲオルギイ」から引用されている事は、容易に結びつける事ができる。
ちなみに、ドストエフスキー死後1ヶ月、皇帝アレクサンドル2世は暗殺されている。
こんな謎ときです。
他にも、スメルジャコフは去勢していたという説。
ロシア正教の分派の中で「鞭身派」というのがある。
読んで字のごとく、身を鞭で打つのだが、
この宗派は、教会や聖書を介さずに直接にキリスト、精霊と交わることを求め、そのために、
男女の信徒が一部屋に集まって、祈祷、歌、踊りのあげくに、
最後には手や鞭で各々の身体を打ち合って、集団的恍惚を得る
儀式が行われていたのだという。
しかし、これ、キリストや精霊との直接の交感を求めていたこの儀式も、次第に乱交パーティー化していったという。
そうして、その反動として現れたのが「去勢派」である
性的堕落を激しく糾弾し、男は睾丸を、女は乳首を切除したり乳房を抉り取ったりするのだそうだ。
ゆえに、去勢派の人間はそろって顔色が悪く、傍から見ても「あいつは去勢派だ」ということが分かるくらいなのだという。
これはスメルジャコフの描写に見事に呼応している。
ちなみに、筆者はグリゴーリイは鞭身派だと指摘している。
さて、今では考えられないようなオカルト宗派(現在でも案外あるかも)、について、小説中ではどこにも直叙はされていないが、この分派は当時のロシアに、マイノリティではあるものの結構広く信仰されていて、認識はされていたようだ。
つまり、当時のロシアの読者であるならば、
スメルジャコフの描写や、マリヤとの同棲ではない同居を読むと、彼らが去勢派であるということは容易に推察できることなのである。
『カラマーゾフの兄弟』はロシアの民族的、土俗的信仰生活に深く根を下ろしている。
アリョーシャを「黒いキリスト」、スメルジャコフを「白いキリスト」と設定したり、
イワンは実はアル中ではなかったかとか、3と13という数字の意味、蛇と龍と男性性器。作者の行間にするする入り込んでいく、その快感は、中々である。
さらに、ドストエフスキーの名はフョードルというが、夭折した彼の息子の名はアリョーシャらしい!
古典が古典であるゆえんは、それが幾時代を超えてもなお読まれる、その力である。
それはつまり、幾通りもの読み方ができる言う事だ。
『カラマーゾフの兄弟』はもはや古典だが、この古典小説も数多くの神話や民話や古典を引用している
(ちなみに三島由紀夫は『仮面の告白』の冒頭で、美とソドムに関するミーチャの名高い演説を引用していた)。
それらについての素養ができていないと、真正面からこの小説に立ち向かう事はできない。
とりわけ聖書、ギリシア神話を暗誦できるくらいに読み込んでいないと、積み上げられたドストエフスキーの謎は紐解けないのです。
まあ、しかしアリョーシャがやがて革命家となり、国家的犯罪を犯し、皇帝暗殺に乗り出すとは、本当にビックリだ。
心優しいアリョーシャが! しかしその犯罪(ソドム)は美しい。
これこそがカラマーゾフ的だ。
最後の12人の少年たちに向けて行われるアリョーシャの演説は、そのまま12使徒に向けられたキリストの演説である。
と、すると、この中には絶対にユダがいる。
ゆえに、アリョーシャは密告されて殺されてしまうのだろうか。
ドストエフスキーが書くはずであった、そのアリョーシャの物語が読みたかったし、ドスト本人も書きたかったろうに。
しかし、これだけ膨大な伏線めぐりの末にたどり着いた最後の演説の場面が、それこそも続編への伏線だったとは。この巨大で精緻な構成力は、本当に圧巻である。
http://www.geocities.jp/maxi_japan/dokusyo_egawataku_nazo-k.html
「去勢派」については、江川さんが「謎ときカラマーゾフの兄弟」で次の様に書いています。
「ロシア分離派史上でも最大の人物と目されるコンドラーチイ・セイワーノフが登場した。〜〜〜
やがてセイワーノフは、鞭身派の性的堕落にいきどおり、自分は人類を肉欲から救い、「魂を滅ぼす蛇を退治する」ためにこの世にやってきた「神の子」であると宣言した。
むろん「蛇」とは男性の性器官の象徴であり、「蛇退治」は「去勢」の意味である。
このような形でセイワーノフによって開かれた新しい宗派が「去勢派」であり、信徒は「ぺチャ−チ」(刻印)と呼ばれる術を受けることになった。
女性の場合は、乳首だけを切除するのが「小ぺチャーチ」、
乳房まで切り取るのが「大ぺチャ−チ」と呼ばれた。
男性の場合の「小ぺチャ−チ」は睾丸を切断するわけだが、
「大ぺチャ−チ」については、手術を終えたあと、術者が切除部分を被術者の目の前に突きつけ、
「見よ、蛇の頭は砕かれたり、キリストはよみがえりたまえり」
と唱える、のだという。
〜〜〜鞭身派の聖母アクリーナから正式に「キリスト」と認められたセリワーノフは、
「魂を滅ぼす蛇を退治する」自身の事業をしだいに広め、十八世紀中葉には、信徒の数ももはや無視できなくほどの数に達していた。〜〜〜
ついに一七九七年には、ピョ−トル三世とエカチェリーナ女帝の遺児であるパーべェル一世と対面し、二人の間には次のような問答がかわされたという。
パーべェル帝「汝はわが父なるや?」
セリワーノフ「われは罪の父ならず。わが業(去勢)を受けよ。さすれば汝をわが子と認めん」
ファンタスチックとしか形容のしようのない対話で、パーべェル帝がセリワーノフを狂人と認定し、オブホフの精神病院に収容してしまったのも無理からぬことであった。
ところが奇妙なことに、パーべェル帝の後を襲ったアレクサンドラ一世は、すでに白髪の老爺となっていたセリワーノフの人柄に魅惑され、一八〇二年に彼を解放したばかりか、数次にわたつて彼と親しく面談し、セリワーノフのほうでも、大去勢によるロシア救済計画を帝に建議したといわれる。〜〜〜
つまり、「カラマーゾフの兄弟」の舞台となっている十九世紀の六十年代、七十年代にも、この奇怪な信者たちの問題は、けっしてたんなる昔語り、あるいは僻地のエキゾチックな風習ではなく、むしろすぐれて現代的な関心事であったということができるように思う。
「まぎれもなく「好色な人たち」である「カラマーゾフの兄弟」の作中人物たちのなかで、スメルジャコフ一人はいくぶん例外的に見える。
まず彼の少年時代の大好き遊びが猫の葬式ごっこだったことが想起される。
彼は幼い頃から、猫を首吊り台にかけ、そうしておいてその葬式ごっこをするのが大好きだった、と言われている。
葬式のときには、祭服に見立ててシーツをひっかぶり、香炉代わりに何やら猫の死体の上で振りまわしながら、歌をうたうのだという。
モスクワへ、コック人の修業に出されて戻ってきた彼は、
「すっかり面変わりがしていた。なんだかふいにめっきり老けこんだ感じで、年齢にまったくそぐわないくらい皺だらけになり、顔色は黄ばんで、去勢者に似た感じになっていた」
「大審問官」伝説をアーリョーシャに語った直後、家に戻ったイワンは、門のわきのベンチで夕涼みをしていたスメルジャコフを目にする。
「イワンは怒りと嫌悪の目で、びんの毛を櫛できれいに撫でつけ、ふっくらと前髪を立てたスメルジャコフの去勢者のように痩せこけた顔をにらめつけた」
見るとおり、スメルジャコフはドストエフスキーによって、ことさら「去勢者」に、あるいはさらに進んで「去勢派信徒」になぞえられている。
さらに注目されるのは、マリアの家に移ったスメルジャコフが、母娘によっていたく尊敬され、二人はスメルジャコフを「一段上の」人間のように見ていた、という指摘である。
「一段上の」という言葉にこだわるのは、
鞭身派以来、代替わりのいわゆる「新キリスト」は、旧キリストあるいはマリアによって「一段上の人、最上の人」として彼らの共同体である「船」に迎えられる慣行があったからである。〜〜〜
スメルジャコフが「花婿」の資格でマリアの家に移ってきた、とされていることも見逃せない。
ロシア正教会においてばかりでなく、西欧のキリスト教会においても、「花婿」という言葉は、ヨハネ黙示録の「子羊」、つまり 花嫁たる教会を聖化する「花婿」、別の言葉でいえば、再来するイエスキリストその人を指す言葉であった。〜〜〜
ところで、スメルジャコフが去勢派の「白いキリスト」だということになれば「蛇退治」(フョードル殺し)は、当然、彼の宗教的、社会的使命だということになる。
こうして、もともとは多分に個人的であったかもしれないスメルジャコフの犯行の動機が、いわば去勢派流に「聖化」され、普遍的な意義を獲得することになるのである。〜〜〜
前にも触れたが、幼児期の彼が大好きだったという猫の葬式ごっ子のエピソードがそれに当ることは、あらためて言うまでもあるまい。
このようなスメルジャコフが、鞭身派、去勢派の「船」が数多くあったモスクワへ「修業」に出て行ったとき、「猫」ないし「蛇」に対する彼の憎悪は一つの基礎ずけを与えられ、同時に深く内攻していくことになった。
こうして彼は外なる「蛇」を挫く以前に、まず自身の内なる「蛇」を挫くことを決意するのである。
つまり、「去勢者に似た感じ」になってモスクワから戻ってきた彼は、すでに「白いキリスト」の自覚をもち、フョードル殺害にあたっては、もはや完全な確信犯として行動することができたのである。
ところで、スメルジャコフの犯行がそのような「使命感」に裏ずけられたものだったすれば、当然、彼の憎悪はたんに個々の「蛇」だけにではなく、「蛇」一般に、さらにはそのような「蛇」のはびこる現世そのものにも向けられていたと考えなければなるまい。
事実、彼の憎悪は、カラマーゾフ一族を生み出した土台であるロシアそのものにも向けられていた。
「私はロシア全体が憎くてならならないんですよ」とは、彼のマリヤへの告白である。
〜〜〜
スメルジャコフの憎悪は、むろん、ロシアだけに局限されはしなかった
「女にだらしがない点しゃ、外国人もロシア人も似たり寄ったり」だからである。
〜〜〜
一方、スメルジャコフが目撃するカラマーゾフ一家の「淫蕩」が、全ロシア的な、あるいは世界的な「淫蕩」の象徴的な縮図とするならば、それは、「大審問官」伝説に登場する「野獣にまたがる淫婦」を媒介にして黙示録的終末のイメージとも重なってくることになる。
折りしもいまは「蛇の季節」でもあった。
スメルジャコフはこの終末の世に、「蛇」を退治し「淫婦」を辱めるべき「白いキリスト」として再来したのだった」
(謎解き「カラマーゾフの兄弟」 江川卓 新潮選書 Z 白いキリストより)
去勢を血統転換に置き換えれば、統一教会の教えそのものになります。
(「謎ときカラマーゾフの兄弟」V好色な人々・Z白いキリスト ページ158〜159より
江川卓 新潮社)
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誰もが関心を持つのは、去勢派、鞭身派共に各派の聖女ですね。
去勢派の聖女マリア(スメルジャコフの花嫁?)はスメルジャコフの元にスープをもらいにやって来ます。
寄生派の花嫁は「○○○の毛まで抜かれる」と言われている通りに、はるばる海を越えて○○○の毛を抜きにやって来ます。
「合同結婚でも日本人同士のカップルならば安心だろう」と思うのは、早とちりです。
友人の場合は、結婚当初、現金で預金をしていたら奥さんがすべて教会に献金してしまうので、すかさず預金をマンションのローン頭金にあてて、間一発のところで無一文にならずに済みました。
お気に入りの食器やレコード類も、生活必要品としてすばやく居間に配置したので無事に残りました
それでも、僕の友人はまだ恵まれているほうで、献身者(統一教会系列会社で働いている夫婦)の場合は数家族の共同生活の家賃や食費はかかりませんが、朝から夜遅くまで働きずめで一家族1万二千円の月収です。
「カラ」兄弟でも、スメルジャコフは、フョードル宅からいつのまにか去勢派の共同生活場?らしきマリアの丸太小屋に移されていますね。
http://dostef.webspace.ne.jp/bbs/dostef_topic_pr_287.html
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3. 鞭身派のキリストと聖母マリアとは
17世紀に分離派の一派として生れた宗派に鞭身派というのがある。
1700年1月1日に生きながら天に召されたダニイロ・フィリッポフが開祖とされており、この点では作中(カラマーゾフの兄弟)に登場する聖痴愚フェラポント神父にその面影が映されている。
鞭身派の教義の特質は、教会や僧を否定し、直接にキリスト、聖霊との交わりを求める点にあり、そのための手段として、
男女の信徒が一部屋に集まり、祈祷、歌、踊りのあげく、
最後には手や鞭でおたがいの全身を打って、集団的な恍惚状態に達する独特の儀礼が行なわれた。
この瞬間にキリストないし聖霊が信徒たちの胎内に入ると信じられたのである。
この教義の当然の帰結として、鞭身派には、初代キリストのイワン・スースロフをはじめ、何人ものキリストがつぎつぎと現われることになった。…
むろん「十二使徒」も信徒たちの中から選ばれ、「船」と呼ばれた信徒たちの共同体には、かなり厳格なヒエラルキーが確立していた。…
http://www5a.biglobe.ne.jp/~outfocus/page-he.htm
●ロシアの異端
鞭身派−肉、魚、にんにく、ジャガイモを食べず、酒も飲まない。
女はプラトークをまぶかにかぶる。
一部屋に車座になってすわり、入れ替わり立ち代わり踊り、罪のもとである肉を鞭で打ち続ける。
最後は乱交パーティーになる。
ラスプーチンもこの一派といわれる。
モンタヌス派−別名跳躍派。
集会で男女が手を取り合って飛び跳ね、そのあとで性交する。
聖書のロトと娘の性交、ソロモンの300人の妻にちなむ。
去勢派−淫行に走りがちな鞭身派を批判。
罪のもとである陰茎、乳首を切除する。
男性ホルモンの欠如からひげが生えず女性的な声なので外見からすぐに分かる。
「カラマーゾフの兄弟」のスメルジャコフは去勢派といわれる。
http://www.sapporo-u.ac.jp/~oyaon/kyozai/08.txt
鞭身派
17世紀末に起こった〈霊的キリスト者〉のセクトで、聖書と聖職者を認めず、
精霊(Святой дух)との直接的な交わりを求めて、熱狂的に踊り、歌い、互いに体を鞭打ったところから、その名が生じた。
神の化身である複数の〈キリスト〉、〈聖母たち〉あるいは〈母君(マートゥシカ)たち〉のもとに集まり、
祈り、祈りの最後に執り行なわれる独特の儀式(ラヂェーニエ)。
それが始まると、宗教的エクスタシーに達するまでみなが踊り狂ったという。
自らを〈神の人びと〉と称した。
旧タムボーフ、旧サマーラ、旧オレンブールグの各県、北カフカースやウクライナに彼らの小さな共同体が存在した。
http://www.seibunsha.net/prishivin/p15.html
帝政ロシアは政教一致を国是とし,ロシア正教が国教でしたが,国民のうちにはこの国教を奉じようとしない者もあり,政府と正教会はこれに手を焼いていました。
この反正教会的宗教潮流は,通常「ラスコールと諸セクト」と総称されます。
ラスコールは通常「分離派」と訳されるとおり,十七世紀の教会改革の際正教会を離れた人々のことで,改革を受け容れず古い儀式に固執したことから,「古儀式派」とも称されます。
分離派には穏健派から過激:派にいたる様々な流派がありますが,大略,司祭の存在を認める「司祭派」と,これを認めない「無司祭派」に分かれます。
無司祭派は教導者を擁するのみで,司祭も正典も宗規も有さぬところがら,次第に正教会はもちろんキリスト教そのものから離れ,キリスト教的要素を多く保持しつつも,新たな道をもとめて独自のセクトを生み出す傾向があります。
フルイスト派(鞭身派)の場合も,その発生時期(十七世紀半ば)からして,もとは無司祭派に端を発していると考えられます。
フルイストが鞭を意味するところがら,日本ではこれまで鞭身教徒と訳されていますが,この訳語は不適切であり,見当違いな憶測のもとになりかねません。
鞭身教徒という言葉から,人は漠然と,鞭打ちがこのセクトの特徴であると思うでしょう。
確かに鞭打ちは,中世の修道僧などが自らに課した苦行です。
しかしフルイストゥイの儀式において鞭打ちはなんの役割も演じておらず,この場合フルイストゥイの語はまったく別の由来を有しています。
このセクトの信者たちがなぜ「キリストたち」と呼ばれたかというと,それは彼らが多くのキリストを輩出したからです。
彼らの地域集団をカラーブリ(船の意。フリーメイソンのロージにあたるもの)と呼びますが,各カラーブリは必ず教導者たるキリストと生神女,さらに大抵は複数の預言者と女預言者を擁していました。
その儀式の主たる内容は輪舞(これをラジェーニエと言います)で,彼らはこの激しい身体運動によって法悦に達し,キリスト,生神女,預言者たちは忘我の気惚状態の内にあって,天候の如何,収穫の良し悪し,個人の身上等々を預言しました。
預言者には原則として誰でもがなれた。
もちろん預言者たる能力には個人差があって,預言者や女預言者になるのは,人一倍霊感を受け易い者たち,恍惚状態に陥り易い者たちでした。
フルイストたち自身の言い伝えによれば,その教祖たちの行実とは次のようなものです。
皇帝アレクセイ・ミハイロヴィチ(在位三64546)の時代,ウラジーミル県コヴロフ郡なるゴロジン山の頂に二軍のエホバが降り,コストロマ県の農民ダニーラ・フィリッポヴィチの内に入って彼を生ける神とした。
当時はニコンの改革に端を発する教会分裂の真最中で,人々はいかなる書物によって救われるかをめぐって争っていた。
人が救われるのは古い書物によってか,それとも新しい書物によってか。ダニーラ・フィリッポヴィチは,新たな啓示によってこの書物の新旧論争にけりをつけた。
すなわち,救われるためにはいかなる書物も要らない。
聖神そのものさえあればよい。
内心の祈りによってのみ神は人間に宿り,人は救われる。
彼は新旧の書物をすべてかますに詰め,ヴォルガに捨てさせました。
ダニーラ・フィリッポヴィチははじめコストロマ近郊のスターラや村に住み,のちコストロマに移った。
以来コストロマは「天上のエルサレム」,彼の住む家は「神の家」と呼ばれ,多くの信者を集めます。
書物の(つまり教会の)教えに頼らず,わたしの言葉のみを信ぜよ。
あるいは,預言者たちが忘我状態で口にする言葉(預言)のみを信ぜよというのが,彼の教えでした。
別の伝説によると,ダニーラのことを知った総主教ニコンは彼を幽閉したが,彼が釈放されてコストロマへ帰るまでの間,地上を一面の霧が覆った。
コストロマに帰った彼は,弟子たちに「十二誠」を与えた。
この十二誠とは次のようなものです。
1.我は預言者たちにより預言された神であり,人間の魂を救うため地に降り来たった。
我以外に神はない。
2.他に教えはない。他の教えを求めてはならない。
3.汝の置かれたところに留まれ。
4.神の受命を守り,世の漁人となれ。
5. 酒を飲むな。肉の罪を犯すな。
6. 結婚するな。既婚者は妻と兄妹のごとく生きよ。未婚者は結婚するな。既婚者は離婚
せよ。
7. 悪罵を口にするな。悪魔,悪鬼等の言葉を口にするな。
8. 婚礼,洗礼式に行くな。宴会に出るな。
9.盗むな。一コペイカでも盗んだ者は,あの世でこの一コペイカを頭頂に貼りつけられ,
これが地獄の火で融けるまで,赦されることはないであろう。
10.これら二二を秘表せよ。父にも母にも明かすな。たとえそのため鞭打たれ,火で焼か
れようと,耐えよ。耐えきった者こそ信者であり,天国を,また地上では霊の喜びを,
受けるであろう。
11.互いに訪れ合い,もてなし合い,愛し合い,我が誠命を守り,神に祈れ。
12.四神を信ぜよ。
もっとも,コンラート・グラスというリトワニアの研究者によると,フルイスト派の伝説が伝える教祖たちのうち,ダニーラ・フィリッポヴィチについてはその実在を確証することができない。
歴史資料により実在が確証されるのは,次のスースロフからだというのです。
万軍のエホバがゴロジン山に降りダニーラを生ける神とする十五年前,ウラジーミル県ムーロム郡マクサコフ村に,母親のアリーナ・ネーステロヴナが百歳の時,神の息子たるキリスト,イワン・チモフェーヴィチ・スースロフが生まれた
(これは,アリーナ・ネーステロヴナが生神女を務めていたカラーブリで,スースロフが霊的啓示を受けキリストとなった,という意味でしょう)。
イワン・スースロフが三十歳になった時,ダニーラ・フィリッポヴィチは彼をコストロマへ呼び,神性を授け,彼を生ける神とした。
すなわち,スースロフはダニーラ・フィリッポヴィチにより三日間天へ上げられたのちオカ河の岸へ帰り,以後ここの一村を根拠地として教えを弘めた。
彼は若く美しい娘を連れており,彼女は生ける神の娘として,また生神女として崇められていた。
彼はまた,弟子たちのうちから十二人の使徒を選び,彼らと共に村から村へ布教を続けた。
アレクセイ・ミハイロヴィチ皇帝(在位1645−76)はスースロフの布教活動のことを知って,彼を四十人の信者と共に捕らえ,訊問のためモスクワへ連行させた。
しかし司直は彼らから一言の供述も引き出すことができなかった。
拷問の火もスースロフの身体を傷つけえず,結局彼はクレムリン前の赤の広場で心墨に処された。
彼は木曜日に息を引取り,金曜日に埋葬されたが,土曜日から日曜日にかけての夜に甦り,モスクワ近郊の村に姿を現した。そこで再度逮捕され,拷問と礫刑に処され,再度甦った。
三度目に捕らえられた時,皇后ナタリヤ・キリーロヴナはピョートル・アレクセーヴィチ(のちのピョートル大帝)を懐妊中で(つまり1672年のこと),スースロフの釈放なくして出産は無事にはすまないという預言があったため,皇帝はスースロフを釈放した。
以後三十年間(つまり1702年まで),スースロフはモスクワを中心に布教を続けたが,うち十五年間は政府の監視を避けてモスクワを去り,諸所の弟子たちのもとを転々とし,迫害が下火となったのちモスクワへ帰り,ここで男女の修道院に果多しく信者を増やした。
彼の住むクレムリン近くの家は,「神の家」とも噺しきエルサレム」とも呼ばれた。
1699年には,百歳のダニーラ・フィリッポヴィチがコストロマからモスクワの「新しきエルサレム」へ移り来たり,ここから1700年1月1日,永い輪舞ののち,多くの会集者たちの見守るなか天に昇った。
以後それまでの9月1日に代えて,この日を新年の始まりと定めた。
三年後,スースロフ自身も多くの信者たちに見守られつつ昇天した。
ダニーラ・フィリッポヴィチは地上に遺骸を残さなかったが,スースロスは残した。
信者たちは遺骸を乞い受けてイワノフスカや女子修道院に埋葬し,石碑を建てた。
スースロフのあとを継いでキリストとなったのは,ニージニー・ノヴゴロト(現ゴーリキー市)の元込士プロコフィー・ダニーロヴィチ・リープキンなる人物で,一部フルイストたちは,彼をダニーラ・フィリッポヴィチの実の息子であるとしています。
彼は1713年から1732年の死まで,キリストの地位にありました。
彼の妻アクリーナ・イワーノヴナは生神女で,二人の息子は剃髪して修道院へ入り,ここで教えを弘めます。
十八世紀半ばから十九世紀初頭までの問に,フルイスト派はほぼロシア全域に行き渡り,国外ではガリシア地方に住むロシア人たちにまで及びました。
モスクワには四つのカラーブリがあった。
とりわけ信者が多かったのは,オリョール県とタンボブ県であったそうです。
信者はさまざまな階層にわたりましたが,主として農民都市の職人,小商人たちで,また多くの修道院がこのセクトの拠点でした。
フルイスト派は結婚と生殖を認めませんが,ダニーラ・フィリッポヴィチやキリストの家系には血統が絶えぬよう配慮がなされていたようです。
コストロマから三十キロのスターラや村には,十九世紀半ばまでダニーラの門下と言われるウリアナ・ワシーリエワという女性が生存しており,彼女が修道院へ幽閉されてのちも,スターラや村はフルイスト派の聖地ベツレヘムといったものでしたし,ループキン直系の子孫もやはり十九世紀半ばまで存続していました。
十九世紀の六十年代に至り,フルイスト派は個々のキリストを戴く多くのカラーブリに分裂し,それらカラーブリ同士が互いに対立し合うという事態を生じた。
フルイスト派は,のちの去勢派ほどにはよく組織された教団ではありません。
それは半ば自然発生的にさまざまな地方に興つた,とすら見える。
諸カラーブリ間の横のつながりも,さして緊密なものではなかったらしい。
しかし各カラーブリにひとりのキリスト,ひとりの生神女がいて,ひとり,あるいは数人の預言者・女預言者がいるという構造は,共通していたようです。
また,儀式のうえではすべてのカラーブリが輪舞(ラジェーニエ)を採用していたことは事実ですが,儀式の細目については地方により時代により種々食い違いもあり,このことは,セクトが時とともに様々な派に分かれていったことを証するものです。
体系的な教義が成文化されず,教導者の意思が神の意思と見倣され,カラーブリの全成員がこれに絶対服従するような集団にあって,これは至って自然なことでしょう。
ロシア正教というのは,概して形式にすこぶる拘泥する宗教です。
十七世紀の教会分裂自体,儀式や礼拝の細目における形式の変更をめぐって生じた。
そして分離派は,正教会以上に形式主義者でした。
彼らは,ニコンの改革が伝統的形式を歪めるものであるとして,旧来の伝統と形式の名において改革に反対したのです。
フルイスト派は,ロシア正教のこの形式主義への反動として興つたと言えます。
その意味で,ダニーラ・フィリッポヴィチがあらゆる書物をヴォルガへ捨てたという挿話が,フルイスト伝説の冒頭に位置していることは象徴的です。
書物や普通の祈りでは生ぬるい。
彼らは神性との一層直接的な接触・融合を求めた。
つまり激しいラジェーニエに訴えて肉体を疲労特牛させ,神を自らの内へ直接呼び降ろそう,神と合体しようとするのであって,これが彼らの祈りなのです。
彼らは,使徒行伝に引かれた預言者ヨエルの言葉が実現したものと信じていました。
「神いひ給はく,末の世に至りて,我が霊を凡ての人に注がん。
汝らの子女は預言し,汝らの若者は幻影を見,なんじらの老人は夢を見るべし。
その世に至りて,わが僕・師団に,わが霊を注がん,彼らは預言すべし」
(使徒2.17)。
法悦に達するための舞踏としては,古代の宗教やシベリアのシャーマン等が思い浮びますが,フルイスト派の輪舞(ラジェーニエ)は他から借用されたものではなく,フルイストたち自身の内で見出され徐々に完成されたものらしい。
ミリューコフは,このセクトの民衆起源に鑑み,先ず初めにその外的・儀式的側面が成立したのであり,教義が整えられたのは遙かのち(おそらくは十九世紀)のことであったろうと言っています。
ローザノブも,ダニーラ・フィリッポヴィチは神との直接交流の手段たるラジェーニエを案出したことで,このセクトの教祖となり,生ける神として崇められたものであろうとしています。
神性と直接合体せんという望みは,彼らが人格化された生ける神を求めたことと結びついています。
人間が神と直接合体しうるというのは,人間が神になりうるという人神思想なのです。
神の霊感を受けるものにとって,この霊感を神から受けたと考えることから,この霊感が自分の内から流れ出たと考えることへはほんの一歩です。
彼らが自らを神的な霊感の源泉,つまり自らの内に神を孕む者と考えるに至ったのは,至極当然の成行きでした。
あらゆる魂の奥所には聖神の萌芽がある。
自らの内へ降りゆく者は,ここに聖神のことば言を聞き,自らの魂の内に神の国を見出す。
自らの内にこの内的福音の声を聞いた者は,その瞬間から「神の宮」となり,もはや肉の内にはなく霊の内にある。
これこそ聖神を自らの内に宿すということです。
彼らにとってはイエス・キリストも,自分たちと同等な「神の言の籍身」にすぎない。
彼らはラジェーニエで,
「主よ,われらにイエス・キリストを与え給え」
と唱えながら踊りますが,その意味するところは,
主よ,かつてイエスに霊感を与えたように,われらにも霊感を与え給え
ということなのです。
こうしてフルイスト派の世界には無数のキリストと生神女が出現したのであり,多くのカラーブリでは,信者同士が互いを神として拝し合うことも行われました。
輪舞(ラジェーニエ)のやり方については,個々のカラーブリにより多少の違いはあるものの,大筋のところはほぼ一致しており,大略次のようなものであったようです
(十九世紀前半におけるニジェゴロト県アルザマスのカラーブリ,コストロマ県ガーリチのカラーブリ等。メーリニコフによる)。
晩の六時頃,カラーブリの成員が一軒の家に集まる。
人数は十人から四十人。
百人に及ぶことは稀である
(もっとも,ペテルブルクでのセリヴァーノブのラジェーニエは,六百人を集めたと言われます)。
部屋には窓がないか,あっても塞がれていて,音が外部に洩れないよう,しばしば地下に造られている。
ラジェーニエの行われる家は,「神の家」とも「エルサレム」とも呼ばれる。
部屋の一隅に生神女が座を占め,信者たちは男女に分かれてベンチに腰掛ける。
全員裸足で,長い白衣を着ている。
はじめに福音書,使徒の書簡,教父の文章,聖者伝等が読まれることもある。
それから自家製の祈りの文句を唱える。
やはり自家製の歌を歌うこともある。
その際両手で両膝を打ち拍子をとる。
歌の合間に十字を切り,主の祝福を乞う。
次いでキリストなり預言者なりがラジェーニエを命じ,一同立って輪になる。
時として預言者自らラジェーニエを始め,他の観たちがそれに従う。
出たちの輪の外に女たちの輪が形成されることもあるが,大抵は男女入り混じっての輪である。
彼らは
「主よ,われらにイエス・キリストを与え給え」
と歌いながら,飛び跳ねつつ,右回りに回る。
輪舞も各人の旋回も,必ず右回りである。
つまり,南面したとき太陽が東から西へ動くように,右回りでなくてはならない。
この踊りに酒神が降るのであり,「聖なる輪」に入る者は霊により国勢するとされる。
踊りは次第に速くなり,人々は息を喘がせて跳ね上がり,手を振り,両足で床を踏み鳴らす。
舞踏者たちの回転の速いことは旋風のようで,顔も見分けられないほどである。
彼らが旋回と跳躍の間中,畷り泣き,声を震わせて奇声を発するさまは,傍目にも恐ろしいほどで,壁越しにこれを聞くと,まるで何かを鞭打っているように聞こえる。
フルイスト派が樽の周りで自分たちを鞭打っているという噂が弘まったのは,このせいかもしれない。
踊る者たちが自らのうちに霊を感ずるや,踊りはますます速くなる。
輪の外で拍子をとり声をかけている者たちは,舞踏者のとりわけ激しく速い動作を認めるや,
「彼に恵みが降った」
と言う。こうして預言者や女預言者が出現する。
ラジェーニエ中はなにも考えてはいけない。
さもないと霊は降らない。
預言者や女預言者になる人々は,概してラジェーニエへの強い嗜好を有しており,彼らにとってラジェーニエは,集中した断食ののち,言い知れぬ喜びを伴って自ずと起こるのだという。
人々はラジェーニエを,それがもたらす陶酔ゆえに「霊的ビール」と呼んでいる。
フルイスト派の教義が肉食,飲酒,夫婦の交わり等の厳しい禁欲的節制を課するものであったことに鑑みれば,ラジェーニエによる心理的陶酔が彼らにとって不可欠であったことは,想像に難くありません。
踊りは大抵夜半まで続く。
白衣が汗でぐっしょりになると,白衣を脱ぎ捨て,裸のまま倒れるまで踊る。
踊りが終わると全員が腰をおろし,手で膝を叩いて拍子をとりながら歌を歌う。
それから教導者に向かって脆き,十字を切り,聖神が預言者の口を通って彼らを訪れるよう祈る。
選ばれた預言者が人々に向かい合って立ち,身体を動かしながら,大きな声で預言を始める。
はじめに全員への預言があり,そのあと個々人への預言がある。
預言者は個々人の罪を暴き,罪人は十字を切って罪を悔い,時に涙を流して預言者を拝する。
預言はしばしば明け方近くまで続く。預言が終わると全員で
「キリストは甦り給いぬ」
を歌い,教導者は十字架を聖像の下に置き,一同は脆拝して十字架に接吻する。
フルイスト派にとって霊は善であり,肉は悪であり,ラジェーニエは霊によって肉を克服する手段であるわけですが,日常生活においても霊は肉に打ち勝たねばならない。
最初の罪はアダムとエヴァの肉の交わりによって生じた。
普通の正教徒たちは変わることなく罪のうちに孕まれ,罪のうちに生まれ,罪のうちに生きている。
罪を免れるには,この世と訣別せねばならない。
これは祈りと断食と,肉欲を断つことによって達せられる。
概して,女と交わることは,フルイストにとって最も重い罪です。
肉,魚,玉葱,大蒜を食べてはならない。
酒を飲んではならない。
遊びの集まりに行ってはならない。
悪罵を口にしてはならない。
女は華美な服や飾りを身につけてはならない。
被ったショールはなるべく深く眼まで下ろして結び,常に慎ましくあらねばならない。
これらの誠命をすべて厳しく守る者は,来世で永遠の生命を得るばかりか,ここ現世でも聖神の恵みに与り,神の息子ないし娘に等しいものとなる。
つまりキリストないし生神女となる。
「我が誡命を守りわが道を保つ者は我に在り,我もまた彼に在るなり」
(ヨハネ第一書3.24)。
イエス・キリスト自身そうした神の籍身に他ならなかった。
罪と訣別し新たな生へと生まれ変わり新たな霊となったわれわれは, 言たる神が宿るに相応しい者たちである。
男たちは皆キリストであり,女たちは皆生神女である。
仲間に引き入れようとする者には,先ず自分たちが正真正銘の正教徒であることを確信させる。
「司祭たちはわれわれに何も教えてくれない。だから自分で本を読まねばならない」
と言い,絶えずキリストに祈り,なるべくしばしば教会へ行き,正教の司祭を敬うよう教える。
やがてこう教えるようになる,
「この世:には聖神の恵みを有する試しい人々がいる。
こうした人々の内にこそ神は生きている。
彼らこそ縛り審くカをもち,罪深い魂を地獄から天国へ導くことができる」。
しかしこうした人々が誰で,何処にいるかは言わない。
新人がセクトへの加入に同意するや,彼は数日間の断食と斎戒を命じられる。
定められた日に,セクトの教導者ないし長老が彼を迎えに来て,信者たちの集会へ導く。
そこには信者たちが全員裸足に白衣姿で,男と女に分かれてベンチに坐っており,前方にひとりの女性(生神女ないし女預言者)が聖像の下に腰掛けている。
広い部屋には沢山の蝋燭が明々と灯されている。
生神女は新人に尋ねる,
「ここへは何のために来たか」
「魂を救うために」
と新入は,予め教えられていたとおりに答える。
「魂を救うのはよいことである。で,汝は誰を保証人とするか」
「天の王たるキリスト自身を」
「キリストを辱めることのないよう努めよ」
次いで新人は聖像に向い誓いを立てる。
誓いは次の三点から成る。
1. 聖なる信仰を受け容れ,決してこれに背かない。
2. しばしば教会へ行き,痛悔をし,聖体礼儀を受けるが,司祭に新たな信仰のことは一言も洩らさない。
3. 聖なる信仰のためにはいかなる苦難にも耐え,牢獄も,シベリアへの流刑も,死すらも恐れず,自らの信仰を誰にも決して明かさない。
そのあと新参者は教導者の命ずるところに従い,一同が彼のために祈るよう頼む。
一同は円くなって坐り,彼らが「主への祈り」と称するものを民謡の節で歌う。
一同歌いながら,右手で膝を叩いて拍子をとる。
次いで三,四人の男女が円のなかへ出て,跳ねながら右回りに回り始める。
こうして新信者加入の儀式は,ラジェーニエへと移行する。
ロシアにあっても国外にあっても,フルイスト派は永いこと忌まわしい淫祠邪教のたぐいと考えられてきました。
下着姿の男女により深夜人目を避けて行われるラジェーニエが,人々に性的放縦と乱交を連想させたのです。
フルイスト派の儀試について,バクストハウゼンはロシア人の秘書から聞いた話としてこう記している,
「……祈祷の富士を満たした樽のなかに十五,六歳の少女を坐らせる。
数人の老女が彼女に近づき,その胸を深く切開し,左の乳房を切り取り,驚くべき巧みさで出血を止める。
〈……〉それから切り取った乳房を皿に載せ,小片に切りわけて一同に配り,一同はこれを食べる。
この人肉食が終わると,特にしつらえた高い台に少女を坐らせ,歌いながらその周りを回る」。
バクストハウゼンのこの記述を信頼に値すると見,わたしも同様の話を聞いたとして,同じ乳房嗜食の話を紹介したのは,メーリニコフです。
そして彼はここに,嬰児供犠の話をつけ加えた。
生神女である少女が男の子を産んだ場合,この男子は生まれて八日目に,キリストに倣い脇腹を刺されて殺され,一同はその生血で聖体礼儀をとり行い,屍体は乾燥させて粉にし,パンに焼いてやはり聖体礼儀に使われる。
やはりメーリニコフの挙げている例ですが,
ワシーり一・ラダーエフというアルザマスのキリストは,
「神秘的な死を死に,神秘的に甦って」キリストとなった者にはすベてが許される
という,一種の超人思想の持主で,これに基づき自らのカラーブリの十三人の女たちと関係をもっていました。彼は女たちに向って,自分がこれを要求するのではない,自分の内なる神が要求するのだ
と言って女たちに関係を迫り,彼女たちはこれを拒否できなかったといいます。
カラ〜ブリの成員は,自分たちのキリストに対しては絶対服従の義務を有し,キリストの命令とあらばいかなる法も眼中にないという有様でしたから,このキリストが不心得者であった場合はとんだ事態が生じかねない,ということはあるでしょう。
深夜の密儀と乱交,人肉食,嬰児供犠等は,大衆の猟奇趣味にはなはだ適っていました。
また,ロシアをヨーロッパの秘境と見倣したがる西欧人の好みにも適っていた。
ハクストハウゼンとメーリニコフのこの記述は,大衆のフルイスト像を決定してしまった。
ロシアの作家たち自身例外ではなかった。
https://qir.kyushu-u.ac.jp/dspace/bitstream/2324/5362/1/slc013p121.pdf
"真説ラスプーチン(上/下)" Edvard Radzinsky 著
http://www.amazon.co.jp/%E7%9C%9F%E8%AA%AC-%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%B3-%E4%B8%8A-%E6%B2%BC%E9%87%8E-%E5%85%85%E7%BE%A9/dp/4140808578
時代は、ロマノフ王朝の末期。
最後の皇帝ニコライ2世は闇の力に操られたと言われる。
その闇で君臨したのが怪僧と言われたラスプーチンである。
彼は読み書きもままならない農民、つまり「ムジーク」であるにも関わらず皇族への影響力は絶大であった。
聖書に関しては優れた知識をもち、素朴で、教養がある人間よりも物事がわかっている。
彼の言葉には、謎めいた格言のような形で、神がかりなうわ言のような予言力がある。
また、彼のまなざしと、人に軽く触れる手には、催眠効果があったという。
その一方で、売春婦や無数の婦人などを宗教と色欲を混同した半狂乱の中に陥れた。
まさしくオカルトの世界である。
ラスプーチンは、自分自身の暗殺を予言している。
その予言は、暗殺が親類の陰謀によるものならば、皇族一族も暗殺されるだろうというもの。
そして、予言通り皇族一家も暗殺される。
暗殺者によると、毒を盛られたのに生きていた、また、何発かの弾丸を打ち込まれたにも関わらず生きていたという証言がある。
彼の逸話には魔人伝説が散乱する。
@ ロシアで流行るカルト宗教
暗殺や謎の死、様々な矛盾と恐怖にむしばまれた時代、こうした時代がオカルト的な雰囲気を蔓延させ、人々の日常生活は霊的なものを求めていたという。
確かに、降霊術がこれほど発展した国はないのかもしれない。
ロシアでは、ドストエフスキーやトルストイのような文学者を生み出した一方で、超能力者を生み出している。
こうした背景は非公認の異端宗派を乱立させる。
本書は、中でも「鞭身派」と「去勢派」について言及している。
鞭身派における乱交は、肉欲を抑制するためであり、自らを清める儀式である。
これをキリストの兄弟愛と称する。
敬虔な人間は、罪を犯すと、苦悩を味わい懺悔する。
その結果、魂の浄化が起こり罪人は神に近づく。
罪と懺悔の間を行き来することに意味があり、神への道を示すものとされる。
清らかな体にこそ聖霊が宿り、罪によって罪を追い払うという奇妙な理屈があるようだ。
子供は肉から生まれたのではなく聖霊から生まれると信じるので、女性自身が聖母と自覚できる瞬間がある。
18世紀半ばに、鞭身派から分かれた去勢派という新たな狂信者を生む。
鞭身派の性的堕落を非難し絶対的な禁欲を唱える。
男根の去勢処置は、灼熱した鉄を使い、斧も用いられる。
女性の手術は、外陰部、乳首、乳房が切り取られる。
本書は、この罪を犯すことの重要さを理解しなくては、ラスプーチンを理解することができないと語る。
A ラスプーチンの教え
ラスプーチンは、鞭身派からスタートしたという。
磔にされたキリストは復活せず、復活したのはキリストが説いた永遠の真理のみ。
そして、「すべての人間がキリストになれる」と主張する。
そのためには、自らの内にある肉欲、つまり、旧約のアダムや罪の人を殺さなければならないというのだ。
ラスプーチンの使命とは、神の弱い創造物である女性たちを、罪から解放してやることだという。
彼にとって愛こそ神聖なもの。
自然の万物に対する愛。キリスト教的な家族愛。
女性が夫を愛していれば、それは触れるべきではないが、夫を愛さずに結婚生活を送っているならば罪深い。
結婚という制度には、従属する愛と反対の立場をとる。
真実の愛が存在しないものはすべて罪と考える。
同性愛者で偽りの結婚生活をしていた皇帝の妹には、彼女を抱き、愛を伝染してやろうと試みる。
ラスプーチンから愛を授かったものには、性的な放埒から解放され、見えない糸で永久に結ばれると考えていたのだ。
なんとも神秘的というか幼稚というか、巧みな触れ合いで催眠状態に陥れる。
悪魔のいちばんずる賢いところは、人々に悪魔などいないと信じ込ませることである。
だが、ラスムーチンは書き残す。「悪魔はすぐそばにいる」と。
B皇族との結びつき
ロマノフ王朝は、血族同士の殺し合いの伝統をもつ。そこには閣僚の暗殺も横行する。
そうした陰謀の渦巻く王家にあって、皇帝ニコライ2世は数々の試練を迎える。
皇太子アレクセイの血友病。日露戦争の敗北。1905年の血なまぐさい革命。
こうした背景は、皇族一家が「神の人」を待ち望むという状況にあった。
そんな時期に、予知能力と千里眼を備えるという評判のあったラスプーチンが近づく。
予言、奇蹟、死者と話す能力を備え、ロシア艦隊が日本艦隊に敗れることを予言していたという。
彼には、催眠的な力を持った目、予言者、治癒者、民衆から出てきたなど、条件は整っていた。
ロシアでは、読み書きのできな農民、素朴な人間にこそ貴重な才能が宿るという思想があるらしい。
彼は、病気の皇太子に謁見して心を静め、医者が治らないと宣言した病も将来治ると予言した。
また、革命で自らの殻に篭った皇帝にも、恐怖心を払い勇気を与えた。
特に、皇后は、自身の神経発作を取り除いてくれたラスプーチンの神秘的な力を崇拝するようになる。
これぞ催眠療法である。
彼は霊的な高みに到達した存在であり、詩的な瞑想をしきりに働かせたという。
ラスプーチンが書き記したとされる文章には、催眠的な力と見事な文学的センスがうかがえる。
http://drunkard-diogenes.blogspot.com/2008/06/edvard-radzinsky.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/173.html#c2
111. 中川隆[-12873] koaQ7Jey 2019年1月19日 10:26:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
黒澤明にはわからなかった女性の恐ろしさ _ 黒澤明 羅生門 (大映 1950年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/174.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/452.html#c111
1. 中川隆[-12872] koaQ7Jey 2019年1月19日 10:31:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
黒澤の「羅生門」は何かがおかしい_この映画を欧米人しか評価しなかった理由1
橋本忍は、黒澤の助監督であった野村芳太郎(『砂の器』監督)に尋ねた。
「黒澤さんにとって、私、橋本忍って、いったいなんだったのでしょう?」
野村「黒澤さんにとって橋本忍は会ってはいけない男だったんです」
「そんな男に会い、『羅生門』なんて映画を撮り、外国でそれが戦後初めての賞などを取ったりしたから、映画にとって無縁な、思想とか哲学、社会性まで作品へ持ち込むことになり、どれもこれも妙に構え、重い、しんどいものになった」
橋本「しかし、野村さん、それじゃ、黒澤さんのレパートリーから『羅生門』、『生きる』、『七人の侍』が?」
野村「それらはないほうがよかったのです」
「それらがなくても、黒澤さんは世界の黒澤に。。現在のような虚名に近いクロサワではなく、もっとリアルで現実的な巨匠の黒澤明になっています」
「僕は黒澤さんに二本ついたから、どれほどの演出力。。つまり、力があるかを知っています。彼の映像感覚は世界的なレベルを超えており、その上、自己の作品をさらに飛躍させる、際限もない強いエネルギッシュなものに溢れている。だから。。。いいですか、よけいな夾雑物がなく、純粋に。。純粋にですよ、映画のおもしろみのみ追求していけば、彼はビリーワイルダーにウイリアムワイラーを足し、2で割ったような監督になったはずです」
「ビリーワイルダーより巧く、大作にはワイラーよりも足腰が強靱で絵が鋭く切れる。その監督がどんな映画を作るのか。。橋本さんにもわかるはずです。。。文字どおり掛け値なしの、世界の映画の王様に。。橋本さんはそうは思いませんか?」
字を書く職人であれ。伊丹万作はこのことを橋本忍に何度も述べたそうだ。
橋本忍は、シナリオライターとは職人である、芸術家であろうとおもうな、という戒めであると解釈した。
1946年9月21日肺結核で伊丹万作死す。橋本は伊丹の死を、新聞の死亡欄を読んで知った。
橋本が療養所で最初に書いたシナリオ『山の兵隊』を、伊丹万作に送ったのは療養所を無断退院して姫路でサラリーマンをしていた頃。1942年のこと。伊丹からは丁寧な返書が来た。橋本は京都に伊丹を尋ねて指導を受けた。シナリオは会社までの通勤電車で書いた。
伊丹万作法要の席で、伊丹の奥さんが伊丹万作の助監督を務めた佐伯清を紹介した。佐伯は黒澤明と知人であった。この縁で、橋本の書いたシナリオ『雌雄』に黒澤が目をつけた。が、このシナリオは短すぎる、と黒澤が言う。芥川の『羅生門』を追加することを伊丹が提案した。
http://furuido.blog.so-net.ne.jp/2008-05-05
橋本 忍(はしもと しのぶ、1918年4月18日- )は、昭和期の脚本家、映画監督。男性。兵庫県神崎郡鶴居村(現・神崎郡市川町鶴井)に生まれる。
中学校卒業後、1938年応召したものの、粟粒性結核に罹り、療養生活に入る。シナリオに興味を持ち、伊丹万作のもとに作品を送り、指導を受ける。伊丹死去後、上京し、伊丹夫人より佐伯清監督を紹介される。
1949年、芥川龍之介の短編小説『藪の中』を脚色した作品を書く。
伊丹死後、未亡人が伊丹の手元にあった橋本脚本を佐伯に渡し、黒澤明がそれを譲り受ける。黒澤は『藪の中』の脚色作品に注目、黒澤の助言により芥川の同じ短編小説『羅生門』も加えて完成。
この脚本を基に翌1950年黒澤が演出した映画『羅生門』が公開され、橋本忍は脚本家としてデビュー。同作品はヴェネチア国際映画祭グランプリを受賞するなど高い評価を受けた。
◆映画『羅生門』のアイデアは突発的に・・・
「あんたの書いた、『雌雄』だけど、これ、ちょっと短いんだよな」
「じゃ、『羅生門』を入れたら、どうでしょう?」
「羅生門?」
「じゃ、これに『羅生門』を入れ、あんた、書き直してみてくれる?」
「ええ、そうします」
同じ不条理ではあっても、真相は分らないとするテーマから、人間とは得手勝手なものであるとするテーマへの移行が感じられ、映画全体を少し難解で分りにくいものにしている。
http://book-sakura.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/2006_4e39.html
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B しかし、黒澤の「羅生門」は何かがおかしい_この映画を欧米人しか評価しなかった理由2
芥川龍之介「藪の中」を読む 植島 啓司
01 男と女
男と女のあいだで隠し事をしないというのはなかなかむずかしい。この世で起こるほとんどの事件が男女の問題と深くかかわっているわけだが、それは男女の関係のうち3割くらいに嘘が混じっているからではなかろうか。そこに「事件」が入り込む隙間が生じるのである。自分ではそうと意識しないで嘘をついていることもあるし、相手のためを思ってのこともあるだろう。しかし、皮肉なことに、この嘘がからんだところに恋愛のもっとも甘美な部分がひそんでいるのである。なにも正しいことだけが必要とはかぎらないし、それではかえって社会はうまく動かないかもしれない。あえて言い切るならば、恋愛というものも嘘がなければ成立しないのではないか。そうなってくると、実際のところ、いかに相手に誠実かということよりも、いかに相手に寛容でいられるかが、愛情のバロメーターになるのかもしれない。
02 謎
山科の藪の中で、夫婦が盗人(多襄丸)に襲われ、縛られた夫の前で妻はレイプされる。そして、残るは夫の死骸のみ。殺されたのは金沢の武弘26歳、妻は真砂19歳、彼女は「男にも劣らぬぐらい勝気な女」で「まだ一度も武弘のほかには、男を持ったことがない」(媼の話)。妻・真砂を凌辱した盗人はそのまま逃げ去ろうとしたのだが、妻に「あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ。二人の男に恥を見せるのは死ぬよりつらい」と請われ、夫を殺害する(多襄丸の白状)。遺留品は「一筋の縄」と「櫛」のみ。殺された夫の死霊が巫女の口を借りて語るところによっても、彼女はやっぱり「あの人を殺して下さい」と言ったということになる(武弘の死霊の物語)。ところが、後に清水寺に現れて懺悔した妻によれば、「我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました」となり、何を叫んだのかは不明のままとなっている(真砂の懺悔)。いったいそこでは何が起こったのか。
1922年1月『新潮』に発表された芥川龍之介の「藪の中」は、これまで多くの人々の関心を集めてきており、「真実は藪の中」という流行語にもなった。物語は、京都の山科近くの藪の中で見つかった男の死骸をめぐる7人の証言からなっている。最初の4人の証言は事件の当事者によるものではなく検非違使による取調べによって明らかにされたものである。それゆえ、いわゆる事件の当事者3人による陳述とは性格が異なっている。問題なのは、盗人・多襄丸、彼によって犯された妻・真砂、殺された真砂の夫・武弘(死霊の言葉を語る巫女)の陳述がそれぞれ矛盾していることである。それも無罪を主張するのではなく、それぞれ自分が男を殺した張本人(夫の場合は自殺)だというのだから、まったく奇妙はことではないか。いったい本当はだれが彼を殺したのか。だれが真実を語り、だれが嘘をついているのか。さらに、最後に「そっと胸の小刀を引き抜いた」のはいったいだれなのか。
03 主題と論争
芥川龍之介の「藪の中」が『新潮』に発表されたのは1922年。これを読んだ多くの人々は、結局、「事件は迷宮入り」と思ったのだった。ところが、1970年6月に中村光夫「『藪の中』から」(『すばる』)が発表されるや、1970年10月に福田恆存「『藪の中』について」(『文學界』)が中村光夫説を批判し、さらに、1970年12月に大岡昇平「芥川龍之介を弁護する」(『中央公論』)が発表されて、論争は異常な高まりを見せたのだった。
中村光夫は次のように述べている。
―「藪の中」では、妻、夫の「陳述」はそれぞれ前の「陳述」を否定する性格のものであり、結局、夫の死は他殺か自殺かという疑問に解決が与えられないし、他殺なら犯人は誰かもわからず仕舞いです。これでは活字の向うに人生が見えるような印象を読者に与えることはできないのではないでしょうか。ある事実に三つの面から異なった解釈をあたえるのは、それを人の三倍考えぬくことですが、ひとつの「事件」について事実が三つあるのは、考えの整理がつかぬということです。
そして、彼は、「この作品のもっとも重要なテーマは、強制された性交によっても、女は相手の男に惹きつけられることがあるということ」だと論じている。果たして本当にそうだろうか。
福田恆存はそれに対して以下のように反論を試みている。
心理的事実もまた事実である。「藪の中」について言えば、多襄丸、女はそれぞれ自分が殺したと言い、男は自殺したと言っており、この三つの「陳述」は現実の事実としては矛盾しているが、もしそのいずれも現実の事実ではなく、三人が銘々そう思いこんでいる心理的事実に過ぎぬものだと解すれば、その矛盾はかえって主題を強調するものとして成り立つのではないか。
すでに、吉田精一は「当事者達の事実に対する迫り方、受けとり方が各種多様で、めいめいの関心、解釈、感情によって、単純な一つの事実がいかに種々の違った面貌を呈するかを、従って人生の真相がいかに把握し得ぬものかを語ろうとしたのが、この作の主題と思われる」(『芥川龍之介』1942年)と述べており、福田恒存説はこれを踏襲しているともいえるだろう。
それでいながら、福田恒存は次のように結論づけている。「どうしても「事実」というものが必要なら、それはこういう風に考えられないか。すでに書いたように多襄丸は女を犯した後、その残虐な興奮状態から、武弘を刺して逃げた。だが、武弘はそれだけでは死に切れなかった。そして互いに不信感を持った夫婦が後に残され、妻は心中を、夫は自殺を欲した。そういう両者が小刀を奪い合い絡み合ううちに、夫は多襄丸の負わせた深手によって死んだ」。つまり、多襄丸真犯人説である。
しかし、これはどう考えても不自然ではなかろうか。高田瑞穂は「『藪の中』論」(『芥川龍之介論考』1976年)において、福田説に対して、まもなく息の絶えるほどの重傷を負った武弘にそんな余力などあるはずがないし、そもそも「妻は心中を」「夫は自殺を」欲したというが、なぜ夫が自殺しようとしたか動機が不明である、と疑問を投げかけている。彼の結論は、「藪の中」は危機に直面した人間の自己暴露を描いたものであるとして、最終的には武弘自殺説を取り上げている。
それに対して、大岡昇平はなかなか慎重である。
申すまでもないことだが、ここで問題になっている「事実」とは現実の事実ではなく、作品の中に述べられている事実である。さらに三人の人物が陳述している事実である。人物が一人称で述べるので、福田がいう心理的事実という性格を持ち、同時に人物の性格描写の役割を果たすものである。
このことは実は意外に大きな意味を持っている。ただし、大岡昇平もそれほど歯切れがいいわけでもない。「『藪の中』には、多くのテーマが含まれている。芥川の意図は福田のいうように「真相はわからない」というような観念的なものではなく、当事者の陳述を並置して、その間の矛盾と一致によって、緊張と緩和の交替を作り出すことにあったと思われるのだが(それが奏功しなかった)」と書いている。それでいながら、結論としては、「死霊が口を利くのは現代の常識に反するが、死者は生者のように、現世に利害を持っていない。それは刑死を覚悟した犯罪者、懺悔する女よりも、真実を語っている、と見なしてよいのではないか。…三つの陳述の最後におかれているということによっても、信じられる資格があろう」と武弘自殺説を採用している。
こうなってくると、何がなんだかよくわからなくなってくる。駒尺喜美も、「『藪の中』は探偵小説的な興味を持たせる作品ではあるが、しかし、もちろんそうではない。探偵小説は、言うまでもなく真相究明の面白味をねらったものだが、『藪の中』はその逆である。つまりその真相が絶対に解けぬところに面白さがある」(「芥川龍之介『藪の中』」1969年)と述べており、海老井英次『芥川龍之介論攷―自己覚醒から解体へ』(1988年)になると、「基本的には三つの陳述がそれぞれ〈真相〉を語っているのであり、したがって読者は、その中からそれぞれ自分で一番「美しく」語られていると思うものを選ぶ他ないのである」と(ある意味では)さじを投げている。
ここでまとめてみると、結局のところ3つの見解があるということである。
01 だれか一人だけが真実を語っている。
02 だれにも心理的な真実がある。矛盾を矛盾として受けとめるのが人生だ。
03 みんなが嘘をついている。
ここで注意したいのは、多襄丸の「白状」、真砂の「懺悔」、武弘の死霊の「物語」を、それぞれ同じ平面で捉えることはできないということである。多襄丸の「白状」は検非違使の前だが、真砂の「懺悔」は清水寺でのもので、いくら告白しても罪に問われることはないのである。さらに、武弘の死霊の「物語」となれば、それがどこで語られたにせよ、武弘自身によるものでも、死霊の手によるものでもなく、あくまでも巫女の口から出たものでしかないのである。
04 研究と解釈
それに対して、大里恭三郎『芥川龍之介―『藪の中』を解く』(1990年)は、これを徹底的に推理小説として捉えて解読しようと試みたものである。芥川龍之介はあくまでも真犯人を特定して「藪の中」を書いているはずで、一つの真相に向けて焦点が合わさっていかなければ、それは明らかに作品の破綻を意味すると考えたのである。
彼らの陳述が三者三様であるのは、彼らが真相を知らなかったからではなく、むしろ全く逆に、彼らは真相を知るゆえにこそ、自分にとって都合の悪い何事かを伏せ、事実を歪めた陳述をしていると考えるべきであろう。
「作品が非常に曖昧に見える」のは、言うまでもなく彼らが「わざと嘘をついている」からであって、この作品ははじめから、「事実の相対性」などを主題とはしていないのである。
そういう意味では、はじめに登場する木樵り、旅法師、放免、媼による証言も、すべてを手放しで事実と認めるわけにもいかない。そうなると、最後に「そっと胸の小刀を抜いた」のはだれなのか、そして、
「その小刀はどこに行ってしまったのか」という疑問も、「目撃者である木樵りが持ち去った」という解釈だって可能になってくる。実際、黒澤明は映画『羅生門』においてそういう解釈を下している。
なによりもまず物語のクライマックスをここで再現してみよう。いったいそれは各自によってどのように表現されているのか。
武弘の死霊の「物語」はそれを次のように語っている。
「あの人を殺して下さい。」
―この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様におれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪わしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか?
たしかに「武弘の死霊の怨念はここに激しく渦巻いている。この小説の異様な迫力、不気味なまでのリアリティは、ここを源泉として溢れ出ているものである」(大里)と言うとおり、巫女の口を通して噴出するこの武弘の死霊の独白こそ、この作品のクライマックスにふさわしいものといえよう。
では、女は本当に「あの人を殺して下さい」と言ったのだろうか。多襄丸の「白状」では次のようになっている。
女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、―そうも喘ぎ喘ぎ云うのです。
ここで、「二人の男に恥を見せるのは、死ぬよりもつらい」とは言うものの、実際には夫に見られるのがつらかったのであり、実質的には「あの人を殺して下さい」と言うに等しいように思われる。
「生き残った男につれ添いたい」と言われながら、もし夫が生き残ったとして、なんとも気まずいことにならないだろうか。
では、真砂の「懺悔」ではこの場面はどのように表現されているのか。
口さえ一言も利けない夫は、その刹那の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかし、そこに閃いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、―ただ私を蔑んだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。
このとき「あの人を殺して下さい」と叫んでいたとすれば、彼女が清水寺での懺悔において、その言葉を具体的に述べられなかったのも当然であろう。
真砂は、夫の冷たい視線に曝されて、「わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまった」と語っているが、おそらく真砂は夫のそばに駆け寄ろうとして、多襄丸によって蹴り倒されてしまったのであろう。それは、彼女にとって、多襄丸の度重なる乱暴な振る舞いに絶望すると同時に、夫の冷たい視線を感じ、もはや二度と夫のもとには戻れないことを感知するきっかけとなったのだった。動揺し、気を失う真砂。
さらに、「死霊の言葉を語る巫女の陳述」を見てみよう。それは、あくまでも夫・武弘の死霊がみずから語ったことではなく、巫女の口寄せであり、彼女自身が語ったことだという点にも注意する必要があるだろう。巫女の語り口の中には、同性ゆえにか、真砂に対する憎悪と侮蔑の念が垣間見られるようである。
よく考えてみよう。たとえば、自分を凌辱した男の誘いの言葉に「うっとりと顔を擡げ」「では、どこへでも連れて行って下さい」「あの人を殺して下さい」なんて果たして言うものだろうか。それこそ夫・武弘の嫉妬がえがきだした妄想だったとしても、そこに巫女の感情がまったく含まれていないとは言えないだろう。「突然迸るごとき嘲笑」などのト書きをも参照されたい。
たしかに武弘は妻に憎しみの目を向けたかもしれない。しかし、それは、真砂が多襄丸に犯されたからでもなければ、また、彼女が多襄丸の肉体に反応したからでもない。それは彼女が多襄丸に向かって「あの人を殺して下さい」と叫んだからである。
「夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たい蔑みの底に、憎しみの色を見せているのです」というように、「憎しみの色」が追加されたのも、彼女が「あの人を殺して下さい」と叫んだ後のことなのである。
05 嘘
おそらく、これまで「藪の中」についてうまく語られてこなかったのは、「だれか一人だけが真実を語っている」と考え、それぞれの陳述をつき合わせて真実を明らかにしようとしたか、または、「だれにも銘々そう思いこんでいる心理的事実がある」として、それぞれの言い分を認めてしまったからではなかろうか。実際には、多襄丸も、真砂も、死んだ夫も、三人が三人ともに嘘をついていたのである。では、いったい彼らはなぜそんなことをしたのであろうか。
http://shinsho.shueisha.co.jp/column/aikake/080421/index.html
06 みんなが嘘をついている
山科の藪の中で、夫婦が盗人(多襄丸)に襲われ、縛られた夫の前で妻はレイプされる。残るは夫の死骸のみ。後にそれぞれの陳述が明らかにされる。それも、多襄丸は検非違使の取調べの前で、妻は清水寺での懺悔というかたちで、そして、夫の場合は、殺された夫の死霊が巫女の口を借りて語るというやり方で、それぞれの言い分が明らかになっていく。
ところが、各自の言い分はそれぞれまったく矛盾するどころか、普通ならば自分がやったことではありませんと弁解するところを、それぞれが夫の武弘の死は自分がやったものであると(殺された夫の場合は自害であると)自白しているのである。果たしてだれが本当のことを言っているのだろうか。そして、だれが嘘をついているのだろうか。前回は、まず、全体の見取り図のかわりに、次のような問題提示を行った。
01だれか一人だけが真実を語っている。
02だれにも心理的な真実がある。矛盾を矛盾として受けとめるのが人生だ。
03みんなが嘘をついている。
そして、これまでうまく理解されてこなかったのは、「だれが本当のことを言っているのか」「だれが嘘をついているのか」という点にばかりとらわれて、肝心な点が抜け落ちてきたからではないかと思うのである。そう、この小説の中では「みんなが嘘をついている」という点がやや見過ごされてきたのではないかというのである。だれもが、自分が自分に嘘をつくことをも含めて、さまざまな虚偽の申告を行っているのである。
07 矛盾
物語のポイントとなるのは、夫の前で多襄丸に犯された後で「突然、女がなにやら叫んだ」という一節に集約されるのではなかろうか。それについての証言をもう一度まとめてみよう。
(1)多襄丸の「白状」:すでに目的を達してその場を去ろうとしたまさにそのときに、真砂が「突然わたしの腕へ」「縋りつき」なにかしら叫んだ。実際は、とんでもない悪党で好色な男で、すべて自分に都合のいいように理解する男である。だが、縄を解いて戦いあったのは事実かもしれない。武弘を殺した後、女にはすっかり興味を失って、その場を去る。
(2)真砂の「懺悔」:真砂は手込めにされた後で、夫のそばに駆け寄ろうとして、盗人に蹴り倒される。そして、そのときに夫の自分を蔑(さげす)んで冷たく光る夫の眼に気づき、なにやら叫んだきり気を失ってしまった。彼女の意識はとぎれとぎれで現実感がまるでない。「夢うつつの内に」小刀で刺したというが、本当のところはどうなのか。意識が戻ると、「夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました」と言う。そして最後に縄を解いたというが、それもすべては妄想のなせるわざかもしれない。
(3)死霊の言葉を語る巫女:真砂が盗人の腕にすがりついて「あの人を殺して下さい」と言うのを聞いて、多襄丸が「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか?」と言ってきたので、もうそれだけで盗人の罪は赦してやりたいと思った。妻はおれがためらううちに、なにか一声叫ぶがはやいかたちまち藪の奥へ走り出した。これは最後への伏線となっているのかもしれない。
では、その後、「真砂はどこへ行ったのか」。逃げたか、そこに昏倒していたのか、それとも、いったん逃げて、また戻ってきたのか。いや、おそらく彼女は最初から最後までその場にいた可能性大なのである。武弘の死霊が「誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか?」というが、この科白は、武弘の悲しみとともに付近の真砂の存在を暗示している。これは真砂が「わたしは泣き声を呑みながら、死骸の縄を解き捨てました」と語っている箇所とも重なっている。
よく考えると、真砂の清水寺での懺悔はけっして罪に問われることのないものである。彼女は「(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐ないものは、大慈大悲の観世音菩薩も、お見放しなすったものかも知れません」というが、ここにも彼女のごまかしがあると高田瑞穂(「『藪の中』論」1976年)は指摘している。なぜ「お見放しなすったにちがいありません」と言わなかったのか。まさに夫が死んだのだからもはや自分が死ぬ必要はなくなったと言わんばかりではないか。彼女の生きることへの本能的執着を感得せざるを得ないというのである。
そうはいっても、高田の結論はあくまでも自殺説である。彼は大岡昇平の次の語句を引用し、私見と重なると述べている。「ではなぜ、夫は自殺しました、といわなかったか。彼女の失心(女性の常用の武器)したと言明することによって自分の重大な言葉と、その結果について証言を回避し、逃走をかくしたことによって、夫の自殺をとめなかった事実を合理化する根拠を失っているからである。もっとも失心から醒めたら、夫は自殺していた、と合理化することができるが、そうしなかったのは、自分が夫の自殺の原因になったことについて、深い罪障感があり、自己処罰欲があったかたであろう」と。
ここで、だれが縄を解いた(切った)かという問題が浮上してくる。いったいだれが武弘の縄を解いたのだろうか。おそらく多襄丸ではないだろう。刀で切ってしまえば、残留品は「一筋の縄」というわけにはいかなくなる。もちろん本人にはとてもムリだ。となれば、夫の縄を解いたのは真砂以外の何者でもないということになる。
さらに、上野正彦(『「藪の中」の死体』2006年)は、法医学の立場から、多襄丸が男を刺したとは到底考えられないと述べている。「木樵りの話にあったように、創口に乾血が付着し、死骸の周りの落ち葉には血液が染み込んでいた。とすると、現場に血液が飛散したような著しい流血はなかったということでもある。さらに、受傷から死亡までの時間が短いようなので、刺創はおそらく心臓に達していたと思われる」「この場合、胸に刃物を刺しすぐに引き抜けば、心臓からの出血はものすごい勢いで体外に飛散し、現場は血だらけになるのが一般的である。しかし、刃物を刺したままに放置すれば、心臓からの出血はあっても、創口は刃物で塞がっているから胸腔内(体内)の出血にとどまり、からだの外に大きく飛び散るほどの出血はなくてよい」。ということであるから、刃物を胸に刺されたまま放置したと考えるべきで、凶器も大刀ではなく小刀であった可能性が高いことがわかると結論づけている。
つまり、縄を解いたのは真砂、刺し傷は小刀によるものとなれば、結論的にいうと、多襄丸は、女の叫び(「あの人を殺して下さい」)を聞いて、恐れをなして逃げていったというのが本当のところではないかと思われる。彼はすでに性欲と物欲が満たされており、これ以上無益な殺生をする必要がなかったのである。しかも、多襄丸は真砂の要求には応じなかった。「となれば、真砂は自ら夫を刺殺するほかなかったであろう。夫に対する裏切りの意識は、逆に、自ら夫を殺すほかないところまで、彼女を追いつめていたのである」という大里恭三郎説(『芥川龍之介―『藪の中』を解く』1990年)を支持したくなる。多襄丸が去り、二人して残されたという状況下で自殺するというのはなかなか考えにくいのではなかろうか 。
08 女は諸悪の根源
ここに、さらに事件の真相を知るための三つのデータがある。一つは物語の出典『今昔物語集』であり、一つは芥川自身の残したメモ(手帳)であり、一つは執筆当時の彼をめぐる交流関係である。
まず、出典についてだが、この物語が『今昔物語集』巻第二十九第二十三話に依拠したものだということは、よく知られたことである。平安末期に集められたという『今昔物語集』(1120年代以降成立)の説話の記述は、あまり修辞に凝らず、事実をそのまま述べるような坦々としたもので、口語体も多く混じっており、読みやすい。この『今昔物語集』にも出典があって、『日本霊異記』、『三宝絵』、『本朝法華験記』などを典拠にしたものが多いのだが、ここではそれに言及するのは控えよう。なにより巻第二十九第二十三話がどういう話なのか簡単に要約してみたい。それは「妻を具して丹波の国に行く男、大江山において縛られたる語」と題されている。
男が妻を馬に乗せて大江山にきたとき、大刀を持った男(盗人)と道づれになり、あなたの持っている弓矢とこの大刀を交換しないかと持ちかけられ、男はなかなか立派な大刀だったので喜んで交換してしまう。では、そろそろ昼食をということになり、人前では見苦しいので、ちょっと藪に入ったところでと誘われ、そこで、弓に矢をつがれて「ちょっとでも動いたら殺す」と居直られ、木に強く縛りつけられてしまう。そして、盗人はようやく女のもとに戻ると、あまりの魅力に心を奪われ、その場で裸にして(自分も裸になって)地面に押し倒して犯してしまう。その後、盗人は「そなたに免じて男は殺さずにおく」と言い残し、馬に乗って去る。女は男に近寄って縄をほどくが、男は茫然自失の様子。これではどうしようもない(情けない)と思いつつ、ともに丹波の国に向かったのだった。
ここでは、男の情けなさばかりが強調されており、三者三様の交わりという側面は出てこない。芥川の興味は「目の前で自分の最愛の妻を犯された男の話」という域から、さらにそれぞれの心理状態の移り変わりへと向かうことになるのだが、それはどのように構想されることになったのか。
その秘密を垣間見せるのが、芥川自身が残したメモである。そこには、「―心中。かけ落ちの途中、女rapeさる。男を殺す」と書かれている。芥川にとって「女人は我我男子には正に人生そのものである。即ち諸悪の根源である」(『侏儒の言葉』)というようにも考えられており、その点からすると、どうも「藪の中」は殺された男の妻・真砂に厳しい内容ではないかと想像されるのである。
さらに、この小説が書かれた背景に実際の三角関係が隠されているのではないかという推理も成り立つ。たしかに当時、芥川龍之介は、自分の友人でもあり門下生でもあった南部修太郎と秀しげ子との間の三角関係に悩んでいた。高宮檀は『芥川龍之介の愛した女性』(2006年)において、アナグラムまで持ち出して(KANASAWA NO BUKOU(TAKEHIRO)は「南部修太郎、若様」となるという)、多襄丸は芥川自身で、武弘が南部、真砂がしげ子に相当し、「藪の中」は彼ら三者の関係を描いたものだと述べている。高宮は、1922年8月7日付けの芥川から南部への手紙に、「僕のした事の動機は純粋ではない。が、悪戯気ばかりでした事ではない。純粋でない為にはあやまる」と書かれているのを見て、それは「藪の中」のことを指しているのではないかと推測している。どうもしげ子は(芥川にとって)なかなか一筋縄ではいかない女だったようである。
そういうわけで、さらに、妻・真砂犯人説がもっとも説得力があるように思えてくるのだが、その当否はともかくとして、彼らの告白の背後に隠された真実とはいったいなんだろうか。なぜ彼らは三者三様に嘘をつかなければならなかったのか。その点について簡単にコメントしておきたい。
09 秘密
彼らがどうしても隠しておかなければならなかった事柄とはいったいどういうことだったのか。大里説を援用させてもらいつつ、なぜ彼らがウソをつかなければならなかったのか、その心理状態をここで推測してみる。
まず、武弘の死霊だが、おそらく、欲に目が眩んで盗人に一杯食わされ、縛られた上、眼前で妻を犯され、しかもその妻によって自分が刺し殺されたなどとは、侍としてあまり惨めで、語るにしのびなかったのではなかろうか。彼は自殺というフィクションを捏造することによって恥辱の底から這い上がろうと思ったのである。盗人に殺されたというのも恥だが、妻に殺されたとは口が裂けても言えなかったに違いない。
多襄丸は、自分の好色を精一杯否定した上で、結婚の話まで持ち出し、真砂から依頼された決闘(それも縄を切って公明正大な戦いを挑んだと主張)という大義名分までつくりあげたのだが、自分が女の叫び(「あの人を殺して下さい」)を聞いて、恐れをなして逃げたという事実を隠蔽しようとしたのである。
すでに他の事件でも嫌疑をかけられており、ここでは「ケチな女好きの小悪党」というイメージを払拭するのに懸命だったのだ。そういうことなら、そちらの事件とは無関係と言い逃れしつつ、また、こちらの罪も軽くなるだろうし、おまけに面目も立つというものである。さらに、もうひとつの見方として、どうせ創口(傷跡)などを調べれば彼の仕業ではないことは一目瞭然と踏んでいたのかもしれない。さんざん検非違使や放免らをおちょくっているところをみると、そちらの可能性もまた否定できないだろう。
真砂の懺悔は、なんとか多襄丸に自分の夫を殺すように依頼した自分の夫への背信行為を伏せ、重要な場面では失心していたと言い逃れしつつ、かつ、自殺幇助、心中未遂という言い訳をも用意して、ようやく夫の殺害を告白しているが、そこにはエゴイズムからくる自己正当化が隠されているように思われる。
夫が「冷たい蔑みの底に、憎しみの色」まで見せたのは、そして、事態が最悪の結末を迎えたのは、本当は自分の裏切りによるものだからである。おまけに、先ほど指摘したように、彼女の懺悔は清水寺でのもので一切罪に問われるものではないという点も見逃すことはできない。
男と女がまともに付き合えば必ず破綻する。
もし二人だけでずっと密室に閉じ込められたとすると、いつか相手の存在に耐えられなくなってしまうのである。相手の身体の匂い(臭い)とか、口ぶり、受け答えのまずさ、乱雑な振舞い、思いやりのなさ、等々。相手のいやなところばかりが気になってくる。そうしたことはどんなに努力しても仕方がないことなのである。
それよりなんとか二人のあいだにある(根源的な)ひび割れ(「一緒にいればいるほど関係は綻びていく」)を隠し通さなければならない。ささいな不満がそこまでたどり着いてしまうともはや修復は不可能となる。もしかしたらそのギャップを埋めるのが嘘の働きなのかもしれない。
嘘は、単に自己正当化のためのものではなく、もっと大きな社会的役割を持っているということである。人間同士のあいだにひそむひび割れ(ギャップ)をなんとか見えないようにするための無意識的な振舞いなのかもしれない。われわれは心の底ではだれにも真実を語ってほしいとは思っていないのではないか。わざわざ見えないものを暴き出す必要がどこにあろう。ぼくには「藪の中」の隠された主題はそのことをひそかに物語っているように思われるのである。
http://shinsho.shueisha.co.jp/column/aikake/080516/index.html
黒澤明の作品群の中で、ただ一つだけ、見終わった後にどうしても釈然としない作品がある。それが皮肉にも彼の名を一躍世界に知らしめるきっかけとなった映画「羅生門」(50)なのである。いかに黒澤作品といえども、最後まで犯人が分からないストーリー展開に、他の黒澤映画に慣れ切つた僕たちは、映像の美しさなどさしおいて、不遜にも軽いいらだちすら覚えてしまう。こんなことは彼の作品においては極めて稀なことなのだ。
果たして彼はこの作品で何を表現したかったのだろうか?などと普段しなくてもよいはずの詮索をついしてみたくなる。黒澤の代表作といわれ、世界的にも評価の高い作品であるだけにもっと思う存分楽しみたいと思うのは僕だけではないだろう。そのためには、僕たちはどうしてもその原作に一度立ち返つてみる必要がありそうだ。
ご存じのように、この映画の題名は芥川龍之介の短篇小説からとったものだが、実際に小説「羅生門」の中の描写があるのは冒頭の1シーンだけで、ストーリーそのものは同じ芥川の短編「薮の中」が原作となっている。
<時は戦乱と天災で荒れ果てた平安時代の乱世。一人の侍が森の中で胸を刺されて死んでいるのが発見される。この事件の犯人をめぐって、検非違使庁の庭において一種の法廷劇が展開される。木樵り、旅法師、放免の状況説明に続いて尋問されるのは悪名高き盗賊の多襄丸、死んだ男の妻、そして巫女の口を借りた男の死霊。この三人によって事件の経緯が次々と説明されるのだが、何故かこれらの供述が微妙な食い違いをみせる。果たして真犯人は誰だったのか。真相は最後まで明らかにされない。>
この小説に関しては従来から何人もの人たちによって分析が試みられてきた。その結果、<薮の中>という常套句に代表されるように、「犯人を特定すること」がこの作品の主題なのではなく、「あえて作者がそれを明瞭にしないところ」にこの小説の真髄があるという考え方が、現在における定説になっている。
黒澤の「羅生門」は、木樵りにも男を殺した可能性があるとした点を除いてほぼ忠実に原作を再現しているのだが、僕ら観客にとっては、そもそも三人の証人かいずれも"自分が犯人だと言い張つている点"がどうしても賦に落ちない。
普通、証言台で嘘をつくのは罪を逃れるためなのに、このニ人はそうではない。
山賊はいとも簡単に男を殺したことを認め、
妻も無意識のうちにせよ夫を殺したと言い、
男自身も自分で命を絶つたと頑なに主張している。
めいめい自分の有罪を認めており、決して罪のなすりあいはしていない。最後に述懐する短刀を盗んだと思われる心樵りはともかく、他の三人は嘘をついても何の得もないように思われる。それなのに何故彼らは嘘をつくのか。
学者らの説によれば、作者は「すべてのモラル、すべての真実に疑問を投げ付けることでアナーキーな自分の心情を吐露したかった」とか、あるいは、「最初から事件の真相などというのはさしたる重大事ではなく、告白の欺瞞性を通して現実社会の裏側を透視したかった」とかいった解釈が主流なのだが、しかし、それではあえて作者が三人に殺人を犯したと告白させている必然性がない。
芥川といえば志賀直哉とともに、大正期における短篇作家の双璧であり、その作風は理知的で洗練巧緻を極めているにもかかわらず、きわめて大衆的であり、しかも分かりやすい風刺に富んでいる。そんな彼が、何故この作品だけことさら分かりにくくする必要があったのだろうか。なぜこの作品を同じ中世の「今昔物語」から題材をとった他の平易な作品(例えば「鼻」や「芋粥」など)と並列に論じてはいけないのか。
この小説を難しくしているのは、かえって後世の「不条理劇」に影響された学者たちではないのか。芥川が言おうとしていたことは、実はもっと単純で、誰の心にも思い当たるような、人の心理の"あや"だったのではないのだろうか。
真相は思いの外、単純なのかもしれない・・・・・。
事件の鍵は、見知らぬ頑強な男に夫の前で「強姦」された女性(真砂)が何を考えるかということだ。
第一に思いつくことは辱めを受けた我が身を恥じて自殺をはかるということ。次には自分を犯した男を殺害して復讐を遂げるということ。しかしこの小説の場合、彼ら二人は生きているわけだからいずれも当たっていないことになる。
残るはもう一つの可能性、さして愛してもいない夫であれば(中世の男尊社会では、女性の意に反する結婚は十分考えられることだ)唯一の目撃者である夫を殺し、その忌まわしい事実を抹殺するということである。
彼女は最初、それを多嚢丸に頼んだ。彼女の心には「憎むべき多嚢丸を殺人犯にすれば、同時に彼をも死刑にできる」という考えが一瞬浮かんだかもしれない。 そこで彼女はそれまでとはうって変わった妖艶さを漂わせながら、多襄丸にささやく。「あの人を殺して下さい!あなたについていきます」。
ところが彼は世間の噂とは大違い、実は口先だけ巧みな、女好きの盗人にすぎなかった。彼がおじけ付いて逃げだした後、彼女は自分の貞操と引き換えに、止むを得ず自らの手で木に縛り付けられている夫を殺害したのである。
最初の目論みは見事に外れたものの、「人は行きずりの強盗殺人と思うはず・・・・・」。現場から逃れる道すがら、真砂は冷静にそう考えたに違いない。
ところが清水寺で心を落ち着けている彼女のもとに、思いがけない情報が入る。多嚢丸が捕らえられたというのだ。
彼女はてっきり事の一部始終が彼の口から明らかにされたと思い、半ば観念して懺悔を始める。(原作では彼女の述懐は検非違便庁ではなく、あえて清水寺という別の場所が設定されている)
しかし実はこの懺悔も真っ赤な嘘。彼女はとっさの機転で架空の心中劇をでっちあげ、多襄丸への殺人依頼のことは伏せた形で供述した。
「無理心中を拒んだうえでの殺人なら、よもや死刑にはならないだろう・・・・。」恐るべきしたたかな計算である。
一方、多襄丸の方は別件の殺人で、もはや死刑はまぬがれない身、どうせならこの侍も雄々しい立ち回りの末に自分が殺したことにして、悪名高い極悪人のまま死してなお名を残そうと考えたのではないか。
それでは死んだ侍はどうか。小説ではこの男の言葉は巫女の口を借りて最後に語られていて、いわば種明かし的な位置を占めている。したがって、ほとんど真相を語つているのだが、
この男も死してなお自分の名誉を重んじるあまりただ一点だけ嘘をついた。
「妻を犯された上、その妻に殺されるのではあまりにも男として情けない」。
そう思つた彼は武士の面目を守るために、妻の無礼をひとしきり非難した後、妻の犯行は明かさず、最後の瞬間だけは自分で自分の胸を刺したことにしたのである。
この推理が正しいとすると、この小説の構図は自ずから明らかになってこよう。すなわち、死んでもなお名誉や名声にこだわろうとする男の"哀れさ"や"愚かさ"と、それ対比される女の"したたかさ"である。
芥川は「侏儒の言葉」の中で「女人はまさに人生そのものである。すなわち諸悪の根源である」と書いている。 彼は十才の暗に、実の母親を発狂の末亡くしているのだが、この事件が原体験として彼の心象に深く根ざしていることを思えば、最初の傑作といわれる「羅生門」の中にこのような彼の悲観的な女性観が反映していても不思議ではない。
(先頃出版された大里恭一郎氏の「芥川龍之介・『薮の中』を解く」によれば、芥川は大のミステリーファンだったという。彼はこの中で、芥川の作風や"小説"というものののもつ根源的な問題に触れながら、証言の事実はいく通りあっても真実は一つと断定し、「薮の中」を芥川会心の推理小説であると決め付けている。 実は氏の結論も、"真砂"真犯人説なのだが、古い文献や原作の一字一句をつぶさに検証しながらの詳細な分析は大変興味深い。)
さて、以上の原作分析をふまえて、再び映画「羅生門」に戻つてみると、冒頭から極めて修辞的な演出が施されていることに気付かされる。タイトル画面に続き現われるのは、凄まじい雨に煙る羅生門の遠景。それが次のショットではやや近づいた形で映し出され、さらに次のショットでその細部があらわになる。この一瞬の三ショットの中に、後に展開される三人の証言の信憑性が何気なく暗示されてはいまいか。 さらに、
明らかに演技過剰な三船敏郎扮する多襄丸の勇ましい台詞が、どこか小心者の遠吠えのように聞こえてこないか。
それまでの殺陣場面の常識を打ち破る、太刀を片手に持ちながら、猛獣のような叫び声をあげてのたうち回る多襄丸と侍の死闘の描写からは、どこかしら滑籍で哀れな男たちの本性が見えてこないか。
そして顔を覆つた両手の指の間からその決闘を垣間見る真砂の表情から、恐怖以上のしたたかな"何か"が感じられないだろうか。
映画化にあたって黒澤らがこの辺のことをどう考えていたのか分からないが、京マチ子扮する真砂に、女のもつ"したたかさ"を見ていたことだけは確かだろう。
なぜ「羅乍門」が海外でも国内でもこんなに有名になったかときかれて、黒澤は「まぁー強姦の話だからねっー」とだけ答えたというエピソードは有名だが、これを彼一流のジョークとだけ笑い飛ばすわけにはいかない。芥川のこの短篇は強姦、殺人に伴う女作の"性"がテーマになっていることは確かで、これがよく言われる黒沢の悪女趣味にピッタリしたのではないか。
そういえばマクベスに題材をとった「蜘蛛巣城」にしても、リア王を基調にした「乱」にしても典型的な悪女が登場する。「羅生門」の女性は確かに表面上は聖女か悪女か判然としてはいないか、原作を読んだ時、黒澤はここに登場する妻を"悪女"と断定するにいたり、その時点から映画化に興味を待つたのではなかろうか。
この映画の終盤で語られる、原作にはない<木樵り>のエピソードは、事件をことさら複雑にするために新たに付け加えられたのではなく、黒澤がこの映画の中で"真砂"の人格をより強烈に描くために"是が非でも必要だったのだ。原作の中で、母親に「男にも劣らぬくらい勝ち気な娘」と言わせているこの女性のイメージ作りに、演技指導の点でも映像表現の面でも極端な情熱が注がれていることに注目したい。
http://www.asahi-net.or.jp/~ij9s-ucym/rasyoumon.html
この映画の終盤で語られる、原作にはない<木樵り>のエピソードが黒澤明の想定していた真相ですが完全な見当外れでした。
まあ,黒澤明が「藪の中」を理解できていたら,これを映画化するのは諦めていたでしょうね.
最初の三人の話からおかしい部分だけ取り除いて組み合わせたのが真相ですから,単純過ぎて映画のシナリオにならないですからね:
杣売(焚き木売り・・志村 喬)の証言 : 黒澤明の想定した”真相 ”
多襄丸は女の前に手をついて謝っていた(写真4)。「俺の妻になってくれ!
妻になると言ってくれ!」多襄丸はしつこく迫った。
やがて、女が言った。「無理です。女の私に何が言えましょう」
「そうか、男同士で決めろというのだな」多襄丸は武士の縄を解いた。
「待て!俺はこんな女のために命を賭けるのはごめんだ。」と武士は妻に言った。
「二人の男に恥じを見せ、何故自害しようとせん!・・・
こんな女は欲しけりゃくれてやる!」
多襄丸も急に嫌気が差し、立ち去ろうとした。「待って!」と女。
「来るな!」再び女の号泣。「泣くな!」と武士。
「まあ、そんなに未練がましくいじめるな。女は所詮このように他愛無いものなのだ。」と多襄丸。
泣いていた女の声がいきなり狂ったような嘲笑に変わった。
「ハハハハハハッ・・・他愛無いのはお前達だ!・・・夫だったら何故この男を殺さない!
賊を殺してこそ男じゃないか!・・・お前も男じゃない!多襄丸と聞いた時、
この立場を助けてくれるのは多襄丸しかないと思った。・・・お前達は小利口なだけだ。
・・・男は腰の太刀に賭けて女を自分のものにするものなんだ!」
まったく面目のつぶれた二人は、刀を抜いた。男達は口ほどにも無くだらしない。
お互いを怯え、剣を交えるやさっと逃げる体たらくである。
しかし、多襄丸がやっとの思いで武士を刺した時、女は悲鳴を上げて逃げ去った。 多襄丸にはもはや、女を追う気力は無かった。
http://homepage2.nifty.com/e-tedukuri/Rasyoumon.htm
E 黒澤明には全くわからなかった日本女性の恐ろしさとは_「羅生門」を欧米人しか評価しなかった理由3
黒澤明ってアホ?
この映画の終盤で語られる、原作にはない<木樵り>のエピソードは西部劇で良く出てくる奴だね。
黒澤明って西部劇ばかり見ていて日本人の考え方がわからなくなったんだ.
これは絶対に日本の女の発想ではあり得ない :
「ハハハハハハッ・・・他愛無いのはお前達だ!・・・夫だったら何故この男を殺さない!
賊を殺してこそ男じゃないか!・・・お前も男じゃない!多襄丸と聞いた時、
この立場を助けてくれるのは多襄丸しかないと思った。・・・お前達は小利口なだけだ。
・・・男は腰の太刀に賭けて女を自分のものにするものなんだ!」
黒澤明の「羅生門」での真砂の強さというのはあくまで欧米女性の持つ意志的な強さであって日本女性が無意識に持っている母性的な強さとは全く次元が違うもの。
欧米女性の強さとは男性と全く同じ自我意識の強さであって、グレートマザーの強さとは本質的に違うんですね。
______________
これが日本女性の強さ:
今昔物語集巻二十九第二十三「具妻行丹波国男於大江山被縛」より
妻と伴い丹波の国へ行く男が大江山で縛られる話
若い男は、太刀と短刀を取り上げ、男を押さえつけ、馬の手綱で木にきつく
縛り付けた。そして、女に近寄って見ると、二十歳過ぎで、身分は賤しいけれど
魅力がありたいそう美しかった。
男は、女に心を奪われ、ほかに何も考えられなくなったので、女の衣を
脱がそうとすると、女は拒むことができそうにないと思い、言われるがままに衣を脱いだ。
そして、男も着物を脱ぎ、女を押し倒して交わった。
女はしかたがなく、若い男に言われるがままに男が縛り付けられている様子を見たが、その時見られた男はどのような気になったのだろうか。
その後、若い男は起きあがり、もとのように服を着て、箙を背負い、
太刀を帯び、弓を手に持ち、馬に乗り、女に言った。
名残惜しく思うけれども、どうしもようもないから、このまま行くことにする、
あなたに免じてその男は殺さずにおいておくが、急ぎ逃げるために馬はいただいていくぞ、 と言って、一散に馬を走らせ、いずこともなく去っていった。
その後、女は男の縄を解いてやると、男は呆然としていたので、女は、
あなたはほんとうに頼りない、これからもこのように頼りないようでは、
いいことがありっこないですよ、
と言うと、夫は黙ったままだったが、そこから二人は連れだって丹波まで行った。
http://www.lares.dti.ne.jp/~ttakagi/diary/translation/konzyaku29_23.htm
それから、最後に「そっと胸の小刀を抜いた」のは誰なのか?
黒澤明は 「目撃者である木樵りが持ち去った」 という解釈を下している。
しかし、武士の遺体の発見者が死体から金目の物を盗む訳ないだろ.(呆れ)
後で追及されるに決まってるからね.
そもそも、元話では木樵りは単に事件の説明をするだけの脇役で、話の本筋に関わる様な重要な役ではない.
武士を殺したのも胸の短刀を引き抜いたのも真砂(武士の妻・・京マチ子)の仕業に決ってるよ.
胸の短刀をそのままにしておいたら,盗賊に夫が殺されたという言い訳が嘘だとバレテしまうから短刀をどこかに隠したのさ.
黒澤明は唯の西部劇オタクの映像マニアで、人間の事が全くわからないんだ。
人間がわからないから,話の筋だけを追いかける事になる.
そして,話の筋は変わっても,中身は黒澤明が何時も見ていた西部劇と何も変わらない.
要するに、黒澤明は最初から最後まで西部劇の翻案をやっていただけさ.:
黒澤明の「隠し砦の三悪人」、このタイトルと内容が個人的に一致していないと思っています。
隠し砦からすぐに出ていくし、悪人が3人出ているわけでもない。
この謎は黒澤明が西部劇が好きだったことで氷解する。「隠し砦」「三悪人」
というのは西部劇で出てくる言葉です。三船敏郎のデビュー作「銀嶺の果て」
の脚本は黒澤明ですが、原題は「山小屋の三悪人」だったそうで、
(悪人は3人出てくるがすぐに2人になった)いかに、「三悪人」という言葉が好きだったか。
「用心棒」も西部劇の匂いがする。居酒屋のテーブル席は江戸時代には存在しない。卓袱台も江戸時代では使わない方が良いみたいです。居酒屋でも膳であったらしい。 江戸時代の絵でもテーブルはない。それはさておき、
「用心棒」も「七人の侍」も西部劇になった。西部劇と時代劇の相性は良いのでしょうか。
同じ時代ものというだけではないのです。実は明治政府ができた折に前時代の江戸的なものを禁止した。 歌舞伎や落語まで江戸時代とは異なるものを強要した。
「剣術」が「剣道」になったのもこの頃の様です。時代劇映画が作られる頃には明治生まれの人々だけで江戸の実情を知る者がいない、語り継がれることが禁止されていて、考証がおぼつかない時期に始まった様です。
「鞍馬天狗」が「怪傑ゾロ」を下敷きにしたように、製作者たちはチャンバラ映画の基礎を西洋の活劇に頼った。だからというわけではないのでしょうが、時代劇は西部劇に変化しやすかったのではないでしょうか。黒澤明は西部劇と時代劇の類似性を感じ取っていたのでしょう。
http://gimpo.2ch.net/rmovie/subback.html
昨夜、NHK−BS2で放送されたジョン・フォードの名作「荒野の決闘」。
この映画は僕にとって特別な映画だ。まず第一の理由は、作られたのが、僕が生まれた年、1946年であること。そしてもう一つは西部劇にとどまらず、映画というものの見方を開眼させてくれた一本であること、この二つだ。
初めて観たのがたしか1961年、最初のリバイバル上映だった。 ブループリントという妙な映像ではあったが、何回かリピートして観にいったことを憶えている。
実はこの作品が、黒澤明監督が最も好きな西部劇であったことを数年前まで知らなかった。 調べてみたら、たしかに「黒澤明が選ぶ世界の名画100本」などにロバート・D・ウェッブの「誇り高き男」とともに入っている。 100本のうち、西部劇はこの2本だけだ。
あれほどジョン・フォードをお手本にしたと公言して憚らなかった黒澤監督が選んだフォードの西部劇がなぜ、一本だけなのだろう。 もっと言えば、なぜ「駅馬車」や「捜索者」じゃないのだろう。もちろん、100本を選んだ企画の趣旨もあったとは思うが、「七人の侍」のような大活劇を選んでいないことは僕にとってずっと謎だった。しかし、昨夜の放送でその謎を解く手がかりみたいなものがつかめた。
それは放送後のシネマ・レビューで、山本監督がいみじくも言われたことだ。
山本監督は
「『シェーン』が成瀬巳喜男的な西部劇なら、『荒野の決闘』は溝口健二的西部劇である」と。
つまり、黒澤監督の選んだ100本には、「自分には描けないもの」に対する憧憬の念が大きく影響していないだろうか。 その象徴的な一本が「荒野の決闘」だったのではないかと。ちなみに100本の中に入った自らの作品は「赤ひげ」だけであることは興味深い。
http://blog.goo.ne.jp/np4626/e/1793ce4fad62d9146b5299511483c3c9
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さらに言うと、黒澤明だけでなく芥川龍之介自体が日本人の心性を理解できていなかったのかもしれませんね:
『今昔物語集』巻二十九第二十三話「具妻行丹波国男 於大江山被縛語(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛らるること)」の説話が題材となっている。
ここでは、若い盗人に弓も馬も何もかも奪われたあげく、藪の中で木に縛られ妻が手込めにされる様子をただ見ていただけの情けない男の話で、語り部は妻の気丈さと若い盗人の男気を褒め称えて、話を締め括っている。
この情けない男を殺し、殺人事件に仕立てたのが芥川龍之介『藪の中』
藪の中 芥川龍之介
検非違使(けびいし)に問われたる木樵(きこ)りの物語
さようでございます。あの死骸(しがい)を見つけたのは、わたしに違いございません。わたしは今朝(けさ)いつもの通り、裏山の杉を伐(き)りに参りました。すると山陰(やまかげ)の藪(やぶ)の中に、あの死骸があったのでございます。あった処でございますか? それは山科(やましな)の駅路からは、四五町ほど隔たって居りましょう。竹の中に痩(や)せ杉の交(まじ)った、人気(ひとけ)のない所でございます。
死骸は縹(はなだ)の水干(すいかん)に、都風(みやこふう)のさび烏帽子をかぶったまま、仰向(あおむ)けに倒れて居りました。何しろ一刀(ひとかたな)とは申すものの、胸もとの突き傷でございますから、死骸のまわりの竹の落葉は、蘇芳(すほう)に滲(し)みたようでございます。いえ、血はもう流れては居りません。傷口も乾(かわ)いて居ったようでございます。おまけにそこには、馬蠅(うまばえ)が一匹、わたしの足音も聞えないように、べったり食いついて居りましたっけ。
太刀(たち)か何かは見えなかったか? いえ、何もございません。ただその側の杉の根がたに、縄(なわ)が一筋落ちて居りました。それから、――そうそう、縄のほかにも櫛(くし)が一つございました。死骸のまわりにあったものは、この二つぎりでございます。が、草や竹の落葉は、一面に踏み荒されて居りましたから、きっとあの男は殺される前に、よほど手痛い働きでも致したのに違いございません。何、馬はいなかったか? あそこは一体馬なぞには、はいれない所でございます。何しろ馬の通(かよ)う路とは、藪一つ隔たって居りますから。
検非違使に問われたる旅法師(たびほうし)の物語
あの死骸の男には、確かに昨日(きのう)遇(あ)って居ります。昨日の、――さあ、午頃(ひるごろ)でございましょう。場所は関山(せきやま)から山科(やましな)へ、参ろうと云う途中でございます。あの男は馬に乗った女と一しょに、関山の方へ歩いて参りました。女は牟子(むし)を垂れて居りましたから、顔はわたしにはわかりません。見えたのはただ萩重(はぎがさ)ねらしい、衣(きぬ)の色ばかりでございます。馬は月毛(つきげ)の、――確か法師髪(ほうしがみ)の馬のようでございました。丈(たけ)でございますか? 丈は四寸(よき)もございましたか? ――何しろ沙門(しゃもん)の事でございますから、その辺ははっきり存じません。男は、――いえ、太刀(たち)も帯びて居(お)れば、弓矢も携(たずさ)えて居りました。殊に黒い塗(ぬ)り箙(えびら)へ、二十あまり征矢(そや)をさしたのは、ただ今でもはっきり覚えて居ります。
あの男がかようになろうとは、夢にも思わずに居りましたが、真(まこと)に人間の命なぞは、如露亦如電(にょろやくにょでん)に違いございません。やれやれ、何とも申しようのない、気の毒な事を致しました。
検非違使に問われたる放免(ほうめん)の物語
わたしが搦(から)め取った男でございますか? これは確かに多襄丸(たじょうまる)と云う、名高い盗人(ぬすびと)でございます。もっともわたしが搦(から)め取った時には、馬から落ちたのでございましょう、粟田口(あわだぐち)の石橋(いしばし)の上に、うんうん呻(うな)って居りました。時刻でございますか? 時刻は昨夜(さくや)の初更(しょこう)頃でございます。いつぞやわたしが捉(とら)え損じた時にも、やはりこの紺(こん)の水干(すいかん)に、打出(うちだ)しの太刀(たち)を佩(は)いて居りました。ただ今はそのほかにも御覧の通り、弓矢の類さえ携(たずさ)えて居ります。さようでございますか? あの死骸の男が持っていたのも、――では人殺しを働いたのは、この多襄丸に違いございません。革(かわ)を巻いた弓、黒塗りの箙(えびら)、鷹(たか)の羽の征矢(そや)が十七本、――これは皆、あの男が持っていたものでございましょう。はい。馬もおっしゃる通り、法師髪(ほうしがみ)の月毛(つきげ)でございます。その畜生(ちくしょう)に落されるとは、何かの因縁(いんねん)に違いございません。それは石橋の少し先に、長い端綱(はづな)を引いたまま、路ばたの青芒(あおすすき)を食って居りました。
この多襄丸(たじょうまる)と云うやつは、洛中(らくちゅう)に徘徊する盗人の中でも、女好きのやつでございます。昨年の秋鳥部寺(とりべでら)の賓頭盧(びんずる)の後(うしろ)の山に、物詣(ものもう)でに来たらしい女房が一人、女(め)の童(わらわ)と一しょに殺されていたのは、こいつの仕業(しわざ)だとか申して居りました。その月毛に乗っていた女も、こいつがあの男を殺したとなれば、どこへどうしたかわかりません。差出(さしで)がましゅうございますが、それも御詮議(ごせんぎ)下さいまし。
検非違使に問われたる媼(おうな)の物語
はい、あの死骸は手前の娘が、片附(かたづ)いた男でございます。が、都のものではございません。若狭(わかさ)の国府(こくふ)の侍でございます。名は金沢(かなざわ)の武弘、年は二十六歳でございました。いえ、優しい気立(きだて)でございますから、遺恨(いこん)なぞ受ける筈はございません。
娘でございますか? 娘の名は真砂(まさご)、年は十九歳でございます。これは男にも劣らぬくらい、勝気の女でございますが、まだ一度も武弘のほかには、男を持った事はございません。顔は色の浅黒い、左の眼尻(めじり)に黒子(ほくろ)のある、小さい瓜実顔(うりざねがお)でございます。
武弘は昨日(きのう)娘と一しょに、若狭へ立ったのでございますが、こんな事になりますとは、何と云う因果でございましょう。しかし娘はどうなりましたやら、壻(むこ)の事はあきらめましても、これだけは心配でなりません。どうかこの姥(うば)が一生のお願いでございますから、たとい草木(くさき)を分けましても、娘の行方(ゆくえ)をお尋ね下さいまし。何に致せ憎いのは、その多襄丸(たじょうまる)とか何とか申す、盗人(ぬすびと)のやつでございます。壻ばかりか、娘までも………(跡は泣き入りて言葉なし)
× × ×
多襄丸(たじょうまる)の白状
あの男を殺したのはわたしです。しかし女は殺しはしません。
ではどこへ行ったのか? それはわたしにもわからないのです。まあ、お待ちなさい。いくら拷問(ごうもん)にかけられても、知らない事は申されますまい。その上わたしもこうなれば、卑怯(ひきょう)な隠し立てはしないつもりです。
わたしは昨日(きのう)の午(ひる)少し過ぎ、あの夫婦に出会いました。その時風の吹いた拍子(ひょうし)に、牟子(むし)の垂絹(たれぎぬ)が上ったものですから、ちらりと女の顔が見えたのです。ちらりと、――見えたと思う瞬間には、もう見えなくなったのですが、一つにはそのためもあったのでしょう、わたしにはあの女の顔が、女菩薩(にょぼさつ)のように見えたのです。わたしはその咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に、たとい男は殺しても、女は奪おうと決心しました。
何、男を殺すなぞは、あなた方の思っているように、大した事ではありません。どうせ女を奪(うば)うとなれば、必ず、男は殺されるのです。ただわたしは殺す時に、腰の太刀(たち)を使うのですが、あなた方は太刀は使わない、ただ権力で殺す、金で殺す、どうかするとおためごかしの言葉だけでも殺すでしょう。なるほど血は流れない、男は立派(りっぱ)に生きている、――しかしそれでも殺したのです。罪の深さを考えて見れば、あなた方が悪いか、わたしが悪いか、どちらが悪いかわかりません。(皮肉なる微笑)
しかし男を殺さずとも、女を奪う事が出来れば、別に不足はない訳です。いや、その時の心もちでは、出来るだけ男を殺さずに、女を奪おうと決心したのです。が、あの山科(やましな)の駅路では、とてもそんな事は出来ません。そこでわたしは山の中へ、あの夫婦をつれこむ工夫(くふう)をしました。
これも造作(ぞうさ)はありません。わたしはあの夫婦と途(みち)づれになると、向うの山には古塚(ふるづか)がある、この古塚を発(あば)いて見たら、鏡や太刀(たち)が沢山出た、わたしは誰も知らないように、山の陰の藪(やぶ)の中へ、そう云う物を埋(うず)めてある、もし望み手があるならば、どれでも安い値に売り渡したい、――と云う話をしたのです。男はいつかわたしの話に、だんだん心を動かし始めました。それから、――どうです。欲と云うものは恐しいではありませんか? それから半時(はんとき)もたたない内に、あの夫婦はわたしと一しょに、山路(やまみち)へ馬を向けていたのです。
わたしは藪(やぶ)の前へ来ると、宝はこの中に埋めてある、見に来てくれと云いました。男は欲に渇(かわ)いていますから、異存(いぞん)のある筈はありません。が、女は馬も下りずに、待っていると云うのです。またあの藪の茂っているのを見ては、そう云うのも無理はありますまい。わたしはこれも実を云えば、思う壺(つぼ)にはまったのですから、女一人を残したまま、男と藪の中へはいりました。
藪はしばらくの間(あいだ)は竹ばかりです。が、半町(はんちょう)ほど行った処に、やや開いた杉むらがある、――わたしの仕事を仕遂げるのには、これほど都合(つごう)の好(い)い場所はありません。わたしは藪を押し分けながら、宝は杉の下に埋めてあると、もっともらしい嘘をつきました。男はわたしにそう云われると、もう痩(や)せ杉が透いて見える方へ、一生懸命に進んで行きます。その内に竹が疎(まば)らになると、何本も杉が並んでいる、――わたしはそこへ来るが早いか、いきなり相手を組み伏せました。男も太刀を佩(は)いているだけに、力は相当にあったようですが、不意を打たれてはたまりません。たちまち一本の杉の根がたへ、括(くく)りつけられてしまいました。縄(なわ)ですか? 縄は盗人(ぬすびと)の有難さに、いつ塀を越えるかわかりませんから、ちゃんと腰につけていたのです。勿論声を出させないためにも、竹の落葉を頬張(ほおば)らせれば、ほかに面倒はありません。
わたしは男を片附けてしまうと、今度はまた女の所へ、男が急病を起したらしいから、見に来てくれと云いに行きました。これも図星(ずぼし)に当ったのは、申し上げるまでもありますまい。女は市女笠(いちめがさ)を脱いだまま、わたしに手をとられながら、藪の奥へはいって来ました。ところがそこへ来て見ると、男は杉の根に縛(しば)られている、――女はそれを一目見るなり、いつのまに懐(ふところ)から出していたか、きらりと小刀(さすが)を引き抜きました。
わたしはまだ今までに、あのくらい気性の烈(はげ)しい女は、一人も見た事がありません。もしその時でも油断していたらば、一突きに脾腹(ひばら)を突かれたでしょう。いや、それは身を躱(かわ)したところが、無二無三(むにむざん)に斬り立てられる内には、どんな怪我(けが)も仕兼ねなかったのです。が、わたしも多襄丸(たじょうまる)ですから、どうにかこうにか太刀も抜かずに、とうとう小刀(さすが)を打ち落しました。いくら気の勝った女でも、得物がなければ仕方がありません。わたしはとうとう思い通り、男の命は取らずとも、女を手に入れる事は出来たのです。
男の命は取らずとも、――そうです。わたしはその上にも、男を殺すつもりはなかったのです。所が泣き伏した女を後(あと)に、藪の外へ逃げようとすると、女は突然わたしの腕へ、気違いのように縋(すが)りつきました。しかも切れ切れに叫ぶのを聞けば、あなたが死ぬか夫が死ぬか、どちらか一人死んでくれ、二人の男に恥(はじ)を見せるのは、死ぬよりもつらいと云うのです。いや、その内どちらにしろ、生き残った男につれ添いたい、――そうも喘(あえ)ぎ喘ぎ云うのです。わたしはその時猛然と、男を殺したい気になりました。(陰鬱なる興奮)
こんな事を申し上げると、きっとわたしはあなた方より残酷(ざんこく)な人間に見えるでしょう。しかしそれはあなた方が、あの女の顔を見ないからです。殊にその一瞬間の、燃えるような瞳(ひとみ)を見ないからです。わたしは女と眼を合せた時、たとい神鳴(かみなり)に打ち殺されても、この女を妻にしたいと思いました。妻にしたい、――わたしの念頭(ねんとう)にあったのは、ただこう云う一事だけです。これはあなた方の思うように、卑(いや)しい色欲ではありません。もしその時色欲のほかに、何も望みがなかったとすれば、わたしは女を蹴倒(けたお)しても、きっと逃げてしまったでしょう。男もそうすればわたしの太刀(たち)に、血を塗る事にはならなかったのです。が、薄暗い藪の中に、じっと女の顔を見た刹那(せつな)、わたしは男を殺さない限り、ここは去るまいと覚悟しました。
しかし男を殺すにしても、卑怯(ひきょう)な殺し方はしたくありません。わたしは男の縄を解いた上、太刀打ちをしろと云いました。(杉の根がたに落ちていたのは、その時捨て忘れた縄なのです。)男は血相(けっそう)を変えたまま、太い太刀を引き抜きました。と思うと口も利(き)かずに、憤然とわたしへ飛びかかりました。――その太刀打ちがどうなったかは、申し上げるまでもありますまい。わたしの太刀は二十三合目(ごうめ)に、相手の胸を貫きました。二十三合目に、――どうかそれを忘れずに下さい。わたしは今でもこの事だけは、感心だと思っているのです。わたしと二十合斬り結んだものは、天下にあの男一人だけですから。(快活なる微笑)
わたしは男が倒れると同時に、血に染まった刀を下げたなり、女の方を振り返りました。すると、――どうです、あの女はどこにもいないではありませんか? わたしは女がどちらへ逃げたか、杉むらの間を探して見ました。が、竹の落葉の上には、それらしい跡(あと)も残っていません。また耳を澄ませて見ても、聞えるのはただ男の喉(のど)に、断末魔(だんまつま)の音がするだけです。
事によるとあの女は、わたしが太刀打を始めるが早いか、人の助けでも呼ぶために、藪をくぐって逃げたのかも知れない。――わたしはそう考えると、今度はわたしの命ですから、太刀や弓矢を奪ったなり、すぐにまたもとの山路(やまみち)へ出ました。そこにはまだ女の馬が、静かに草を食っています。その後(ご)の事は申し上げるだけ、無用の口数(くちかず)に過ぎますまい。ただ、都(みやこ)へはいる前に、太刀だけはもう手放していました。――わたしの白状はこれだけです。どうせ一度は樗(おうち)の梢(こずえ)に、懸ける首と思っていますから、どうか極刑(ごっけい)に遇わせて下さい。(昂然(こうぜん)たる態度)
清水寺に来れる女の懺悔(ざんげ)
――その紺(こん)の水干(すいかん)を着た男は、わたしを手ごめにしてしまうと、縛られた夫を眺めながら、嘲(あざけ)るように笑いました。夫はどんなに無念だったでしょう。が、いくら身悶(みもだ)えをしても、体中(からだじゅう)にかかった縄目(なわめ)は、一層ひしひしと食い入るだけです。わたしは思わず夫の側へ、転(ころ)ぶように走り寄りました。いえ、走り寄ろうとしたのです。しかし男は咄嗟(とっさ)の間(あいだ)に、わたしをそこへ蹴倒しました。ちょうどその途端(とたん)です。わたしは夫の眼の中に、何とも云いようのない輝きが、宿っているのを覚(さと)りました。
何とも云いようのない、――わたしはあの眼を思い出すと、今でも身震(みぶる)いが出ずにはいられません。口さえ一言(いちごん)も利(き)けない夫は、その刹那(せつな)の眼の中に、一切の心を伝えたのです。しかしそこに閃(ひらめ)いていたのは、怒りでもなければ悲しみでもない、――ただわたしを蔑(さげす)んだ、冷たい光だったではありませんか? わたしは男に蹴られたよりも、その眼の色に打たれたように、我知らず何か叫んだぎり、とうとう気を失ってしまいました。
その内にやっと気がついて見ると、あの紺(こん)の水干(すいかん)の男は、もうどこかへ行っていました。跡にはただ杉の根がたに、夫が縛(しば)られているだけです。わたしは竹の落葉の上に、やっと体を起したなり、夫の顔を見守りました。が、夫の眼の色は、少しもさっきと変りません。やはり冷たい蔑(さげす)みの底に、憎しみの色を見せているのです。恥しさ、悲しさ、腹立たしさ、――その時のわたしの心の中(うち)は、何と云えば好(よ)いかわかりません。わたしはよろよろ立ち上りながら、夫の側へ近寄りました。
「あなた。もうこうなった上は、あなたと御一しょには居られません。わたしは一思いに死ぬ覚悟です。しかし、――しかしあなたもお死になすって下さい。あなたはわたしの恥(はじ)を御覧になりました。わたしはこのままあなた一人、お残し申す訳には参りません。」
わたしは一生懸命に、これだけの事を云いました。それでも夫は忌(いま)わしそうに、わたしを見つめているばかりなのです。わたしは裂(さ)けそうな胸を抑えながら、夫の太刀(たち)を探しました。が、あの盗人(ぬすびと)に奪われたのでしょう、太刀は勿論弓矢さえも、藪の中には見当りません。しかし幸い小刀(さすが)だけは、わたしの足もとに落ちているのです。わたしはその小刀を振り上げると、もう一度夫にこう云いました。
「ではお命を頂かせて下さい。わたしもすぐにお供します。」
夫はこの言葉を聞いた時、やっと唇(くちびる)を動かしました。勿論口には笹の落葉が、一ぱいにつまっていますから、声は少しも聞えません。が、わたしはそれを見ると、たちまちその言葉を覚りました。
夫はわたしを蔑んだまま、「殺せ。」と一言(ひとこと)云ったのです。わたしはほとんど、夢うつつの内に、夫の縹(はなだ)の水干の胸へ、ずぶりと小刀(さすが)を刺し通しました。
わたしはまたこの時も、気を失ってしまったのでしょう。やっとあたりを見まわした時には、夫はもう縛られたまま、とうに息が絶えていました。その蒼ざめた顔の上には、竹に交(まじ)った杉むらの空から、西日が一すじ落ちているのです。わたしは泣き声を呑みながら、死骸(しがい)の縄を解き捨てました。そうして、――そうしてわたしがどうなったか? それだけはもうわたしには、申し上げる力もありません。とにかくわたしはどうしても、死に切る力がなかったのです。小刀(さすが)を喉(のど)に突き立てたり、山の裾の池へ身を投げたり、いろいろな事もして見ましたが、死に切れずにこうしている限り、これも自慢(じまん)にはなりますまい。(寂しき微笑)わたしのように腑甲斐(ふがい)ないものは、大慈大悲の観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)も、お見放しなすったものかも知れません。しかし夫を殺したわたしは、盗人(ぬすびと)の手ごめに遇ったわたしは、一体どうすれば好(よ)いのでしょう? 一体わたしは、――わたしは、――(突然烈しき歔欷(すすりなき))
巫女(みこ)の口を借りたる死霊の物語
――盗人(ぬすびと)は妻を手ごめにすると、そこへ腰を下したまま、いろいろ妻を慰め出した。おれは勿論口は利(き)けない。体も杉の根に縛(しば)られている。が、おれはその間(あいだ)に、何度も妻へ目くばせをした。この男の云う事を真(ま)に受けるな、何を云っても嘘と思え、――おれはそんな意味を伝えたいと思った。しかし妻は悄然(しょうぜん)と笹の落葉に坐ったなり、じっと膝へ目をやっている。それがどうも盗人の言葉に、聞き入っているように見えるではないか? おれは妬(ねたま)しさに身悶(みもだ)えをした。が、盗人はそれからそれへと、巧妙に話を進めている。一度でも肌身を汚したとなれば、夫との仲も折り合うまい。そんな夫に連れ添っているより、自分の妻になる気はないか? 自分はいとしいと思えばこそ、大それた真似も働いたのだ、――盗人はとうとう大胆(だいたん)にも、そう云う話さえ持ち出した。
盗人にこう云われると、妻はうっとりと顔を擡(もた)げた。おれはまだあの時ほど、美しい妻を見た事がない。しかしその美しい妻は、現在縛られたおれを前に、何と盗人に返事をしたか? おれは中有(ちゅうう)に迷っていても、妻の返事を思い出すごとに、嗔恚(しんい)に燃えなかったためしはない。妻は確かにこう云った、――「ではどこへでもつれて行って下さい。」(長き沈黙)
妻の罪はそれだけではない。それだけならばこの闇(やみ)の中に、いまほどおれも苦しみはしまい。しかし妻は夢のように、盗人に手をとられながら、藪の外へ行こうとすると、たちまち顔色(がんしよく)を失ったなり、杉の根のおれを指さした。「あの人を殺して下さい。わたしはあの人が生きていては、あなたと一しょにはいられません。」――妻は気が狂ったように、何度もこう叫び立てた。「あの人を殺して下さい。」――この言葉は嵐のように、今でも遠い闇の底へ、まっ逆様(さかさま)におれを吹き落そうとする。一度でもこのくらい憎むべき言葉が、人間の口を出た事があろうか? 一度でもこのくらい呪(のろ)わしい言葉が、人間の耳に触れた事があろうか? 一度でもこのくらい、――(突然迸(ほとばし)るごとき嘲笑(ちょうしょう))その言葉を聞いた時は、盗人さえ色を失ってしまった。「あの人を殺して下さい。」――妻はそう叫びながら、盗人の腕に縋(すが)っている。盗人はじっと妻を見たまま、殺すとも殺さぬとも返事をしない。――と思うか思わない内に、妻は竹の落葉の上へ、ただ一蹴りに蹴倒(けたお)された、(再(ふたた)び迸るごとき嘲笑)盗人は静かに両腕を組むと、おれの姿へ眼をやった。「あの女はどうするつもりだ? 殺すか、それとも助けてやるか? 返事はただ頷(うなず)けば好(よ)い。殺すか?」――おれはこの言葉だけでも、盗人の罪は赦(ゆる)してやりたい。(再び、長き沈黙)
妻はおれがためらう内に、何か一声(ひとこえ)叫ぶが早いか、たちまち藪の奥へ走り出した。盗人も咄嗟(とっさ)に飛びかかったが、これは袖(そで)さえ捉(とら)えなかったらしい。おれはただ幻のように、そう云う景色を眺めていた。
盗人は妻が逃げ去った後(のち)、太刀(たち)や弓矢を取り上げると、一箇所だけおれの縄(なわ)を切った。「今度はおれの身の上だ。」――おれは盗人が藪の外へ、姿を隠してしまう時に、こう呟(つぶや)いたのを覚えている。その跡はどこも静かだった。いや、まだ誰かの泣く声がする。おれは縄を解きながら、じっと耳を澄ませて見た。が、その声も気がついて見れば、おれ自身の泣いている声だったではないか? (三度(みたび)、長き沈黙)
おれはやっと杉の根から、疲れ果てた体を起した。おれの前には妻が落した、小刀(さすが)が一つ光っている。おれはそれを手にとると、一突きにおれの胸へ刺(さ)した。何か腥(なまぐさ)い塊(かたまり)がおれの口へこみ上げて来る。が、苦しみは少しもない。ただ胸が冷たくなると、一層あたりがしんとしてしまった。ああ、何と云う静かさだろう。この山陰(やまかげ)の藪の空には、小鳥一羽囀(さえず)りに来ない。ただ杉や竹の杪(うら)に、寂しい日影が漂(ただよ)っている。日影が、――それも次第に薄れて来る。――もう杉や竹も見えない。おれはそこに倒れたまま、深い静かさに包まれている。
その時誰か忍び足に、おれの側へ来たものがある。おれはそちらを見ようとした。が、おれのまわりには、いつか薄闇(うすやみ)が立ちこめている。誰か、――その誰かは見えない手に、そっと胸の小刀(さすが)を抜いた。同時におれの口の中には、もう一度血潮が溢(あふ)れて来る。おれはそれぎり永久に、中有(ちゅうう)の闇へ沈んでしまった。………
(大正十年十二月)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/179_15255.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/174.html#c1
2. 中川隆[-12871] koaQ7Jey 2019年1月19日 10:36:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
芥川龍之介は石打ち刑の事が念頭に有って、真砂に夫を殺させたのでしょうね:
狂った宗教_ キリスト教、ユダヤ教、イスラム教
生きたまま火をつけられて殺される。生き残った女性の小説があります。
イスラム教は女性を差別している宗教です。女性を守っているとか何とか理由をつけて美化しようとしますが、冗談ではありません。自分たちの地位を脅かされないように法律と言う形で宗教を成立させている信じられないほど人道的ではない宗教です。
女性は男性を乱す悪魔と同等の扱い。だからレイプと言う犯罪すら悪魔に惑わされた結果だから悪魔を成敗するという意味で被害者であるはずの女性が加害者に仕立てられるのです。
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イランで女性7人に石打ち刑の判決
貧困のため夫に売春を強要され、姦通罪で石打ちによる死刑判決を受けている女性など7人のうちほぼ全員が、姦通罪での石打ちによる死刑判決である。
シャリア法に従い、囚人は胸まで埋められ、手の自由も奪われる。 さらには即死せずに苦しんで死ぬよう投げる石の大きさまで定められている。
石打ちによる死刑は男女ともに対象であるが、石打ち刑の適用は女性が圧倒的に多い。 自分が強姦されたと4人以上の証言によって証明できない限り、その女性は姦通罪に問われることになる。
石打刑の映像
http://d.hatena.ne.jp/free_jamal/20090129/p1
51才の男性にレイプされた16才の少女が死刑
事件が起きたのは今から2年前のイラン。2004年8月15日、Atefah Sahaalehという16才の少女がイランの公共広場で絞首刑に処されました。
イスラムの法律である「シャリーア」によると、死刑に相当する罪は大きく3種類。殺人、麻薬密輸入、そして婚外交渉、だそうで。
少女が死刑にされた理由は「姦通」の罪と言うことですが、もちろん結婚なんてしていないわけで。 このことは出生証明書と死亡証明書の双方が揃っていることから証明されており、これがきっかけで調査が行われたそうです。
彼女は13才の頃にパーティに出席した際、自動車の中で少年と2人きりでいたという理由で「道徳警察」によって「純潔に関する犯罪」で逮捕され、刑務所で短期間ではあるが放り込まれ、むち打ち100回の刑を受けたそうです。
また、刑務所からの釈放後、彼女の年の3倍と同じくらいの年齢の男性から暴行を受けていたそうで。
それが、Ali Darabiという既婚で子どもがいる51才の男性。この男から数回にわたってレイプされていた、とのこと。 彼女はこの事実を警察や家族にも言わず、結果として再び道徳警察によって逮捕されたそうです。
さらに追い打ちをかけるようにしてとんでもないことに、彼女が不道徳の原因であり、地域の同年代の少女に対して悪影響を与えている、という申し立ても地元民によって行われたそうです。 逮捕されてから3日後、彼女は裁判にかけられ、この段階にいたってついにレイプされた事実を告白したのですが、年齢を考えると、レイプされたことが証明できなければ彼女の罪となり、そしてレイプされた事実を証明することがイランの法廷では極めて難しく、さらに男性の証言の方が女性の証言よりも重視されるため、絶望的状況となりました。
彼女は自分の主張が全く受け入れらないため、裁判官に叫んで訴え、挙げ句の果てにベールを脱ぎ捨てたそうです。その行為が致命的な打撃となり、彼女には死刑が宣告されました。翌朝の午前6時、絞首刑となりました。
彼女の死刑は家族には通知されず、裁判所の記録によると彼女の年齢は「22才」ということで処理されたそうです。一応イランもいろいろな国際法に批准しており、18才以下の場合にはイスラム法を適用しないとなっているのですが、それを無視するために「22才だ」ということにしたようです。
22才という年齢は裁判官が彼女の体を見て決めたそうです。
ちなみにレイプした男性の方は95回のむち打ち刑で済みました。
http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20060728_execution_teenage_girl/
詳細は
独占インタビュー 元弟子が語るイエス教団「治療」の実態!!
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/605.html
狂った宗教 イスラム教 _ 頭がおかしいのは中国人と朝鮮人だけではない
http://www.asyura2.com/13/dispute31/msg/332.html
147. 中川隆[-12870] koaQ7Jey 2019年1月19日 17:44:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
日銀の量的緩和政策は失敗に終わった…目的を果たせなかったのはなぜか=吉田繁治 2018年12月25日
https://www.mag2.com/p/money/612611
日本には現在、4,099兆円の金融資産があります。この資産はどこでどのように使われているのでしょうか。その内訳の詳細から今後の展望について解説します
日本にある4,099兆円のマネーは、どのように投資されているのか
すべての金融資産は、国内と海外の誰かの負債である
当メルマガでは前回、資金の供給源になる世帯(1,848兆円)、企業(1,176兆円)、政府が管理する金融資産(572兆円)と、日銀の負債(503兆円)の内容を見て行きました。
わが国の合計では、現金、預金、株式、証券の合計で4,099兆円のマネーがあるのです。後編では、この4,099兆円が、どの主体に、どんな理由で貸し付けられているのか(=投資されているのか)を見て行きます。
(注)株式も、企業にとっては返済の順位がもっとも低く、解散のときに純資産から返済される「劣後債の負債」です。株の利益配当は、借り入れの金利に相当します。株主にとっては、持ち株は金融資産ですが、企業にとっては預かり資本になる負債です。国債を含む証券は、返済順位が高い優先債です。株も証券も、その持ち手から発行元への貸付金です。この貸付金は、持ち手にとっては金融資産、借り手にとっては負債です。預金は持ち手の金融資産ですが、銀行にとっては負債です。
「すべての金融資産=国内と海外の誰か負債」という構造をもっています。金融資産が価値をもつには負債が返済できるものであり、利払いもできることが必要です。
返済できない負債は、価値の低い不良債権になります。4,099兆円になった金融資産が価値を保ち続けるには、借り手が、増えた負債の返済ができ、利払いができるという条件がなければならない。
この点で、政府の負債である国債はどうでしょう。国債が増えたため、政府は1%以下の低い金利しか払えない。普通の金利は3%から5%ですが、その金利になると、政府は利払いのための借り入れが増えるという「破産の過程」にはいります。
企業は、1985年からの日銀の金融緩和を起点とした土地バブルの時期、返済できない借り入れを増やして、土地を買いました。担保だった土地は1992年から下落し、銀行の貸し出しが、銀行の自己資本合計を超える不良債権になった(約200兆円)。この不良債権のため、1998年の金融機関が倒産する金融危機に至ったのです。
政府の対抗策は、ゼロ金利と国債を買う量的緩和と、銀行への資本注入でした。2008年の米国のリーマン危機と同じです。
企業はその後、借り入れによる増加設備を抑え、借り入れの返済をしました。一方で、負債がどんどん膨らんだのが、政府部門です。
わが国の負債
(1)世帯の負債は318兆円(2018年6月末)
世帯の負債は、住宅ローンと自動車ローン、カード、消費者ローンなど318兆円です。住宅ローンは、2018年で193兆円と集計されています(住宅金融支援機構)。1年に21兆円(130万件)くらいが貸し出されています。平均残存期間は約10年です。
日本の世帯の負債は少ない。一方で、世帯の金融資産は、1,848兆円ですから、「1,848兆円−318兆円=1,530兆円」が負債を引いた純金融資産。1世帯当たりでは2,886万円です。
(2)企業部門の負債は1,736兆円
世帯の貯蓄を借りる企業部門の負債は、借入金と証券(株式を含む)で1,736兆円です。
借入金 396兆円
証券 1,031兆円(うち上場株式589兆円)
その他負債 307兆円(買掛金など)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
負債合計 1,736兆円
負債総額は1,736兆円です。ただし企業は金融資産を1,176兆円持っているので、純負債は560兆円(平均2.2億円)と少ない。
前述したように、土地バブル崩壊以降、設備投資を抑えて、キャッシュフロー(=減価償却費+利益−税金−配当)で、借入金の返済をしてきたからです。
国の資金循環では、GDPの成長期の正常な姿は、
・世帯の預金の増加分を、
・企業が銀行から借り、
・設備投資をすることです。
1980年年代までの資金循環がこれでした。
【世帯の預金と国債発行】
1990年代からは、世帯の預金は1年に約40兆円も増えているのに、企業は借り入れをしない。
誰が預金増加を吸収したのか?政府の国債です。政府が国債を発行して預金増加を吸収し、資産バブル崩壊後のGDPが減少する経済への対策としての公共投資を行った。90年代の10年で400兆円の公共投資というおおきなものでした。90年代から、政府の国債の増発が1年に40兆円と大きくなっています。
・1990年代の10年は、公共投資のための国債発行
・2000年代からは、増えた社会保障費(特に年金、医療費)の支払いが主目的の国債発行
政府の負債は1,291兆円
1990年代から、企業に代わって30兆円から40兆円/年で増えてきたのが、政府の負債です。
【GDPの原理】
「所得=消費+貯蓄」です。「GDP=消費+投資=需要」です。「貯蓄=投資」にならないと貯蓄に見合う投資がない。ケインズが指摘した需要不足から経済は不況になり、失業が増えます。つまり、貯蓄の増加に見合う借り入れがあり、借り入れが投資にならないと、経済は不況化します。
2000年代は企業の借り入れ増は減り、設備投資が減りました。企業は、資金不足の部門から資金余剰のある貯蓄の主体になったのです。
世帯と企業の貯蓄の増加(30兆円〜40兆円/年)を吸収したのは、正常な経済のときの企業ではなく、財政が赤字の政府部門でした。
政府は、国債という負債証券を発行して余剰貯蓄を吸収し、それを財政支出(政府需要)に使いました。
毎年、30兆円から40兆円も大きくなった政府の負債は、2018年6月時点で以下です。
【政府の負債】
借入金 159兆円(金融機関からの借り入れ)
国債残高 1,087兆円(日銀所有が471兆円:営業毎旬報告)
その他負債 46兆円
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
政府負債合計 1,292兆円
前稿で述べたように、政府は572兆円の金融資産を「管理」しています。この金融資産は、例えば年金基金(残高170兆円:18年9月末)のように、国民が保険として給料から天引きされて納めてきた国民の所有資産です。政府のものではない。政府はそれを管理しているだけです。
政府管理の金融資産572兆円を政府の負債1,292兆円から引いて、政府の純負債は720兆円とするエコノミストがいます。これは、「所有と、管理での専有」を区分できない誤りです。政府の負債は、1,292兆円から自治体と政府の日銀当座預金を引いたものとみるべきでしょう。
税収を上回る財政支出で、政府負債は年30〜40兆円の赤字に
<政府負債の問題は、償還がなく増え続けること>
政府負債の問題は、税収を上回る財政支出のため、構造的な赤字が1年30〜40兆円で続くことです。
政府の借り入れは毎年30兆円から40兆円は増えていきます。1%分が2.2兆円になる消費税に換算すると、財政赤字は16%分に相当します。
現在、日銀のゼロ金利策のため国債の利払いは9兆円と、とても少ない(2018年度)。残高となっている既発国債の、平均の約定金利が0.9%に低下しているからです。
<利払い額はむしろ減ってきた>
1990年から、国債の残高は6倍に増えましたが、日銀の金利の低下策のため利払い費は変わっていないのです。
政府が国債発行の抑制をしないのは、国債の残高が増えても金利低下のため、一般会計からの国債の利払い額が増えないためでもあります。借金を6倍に増やしても金利が下がって利払いが減った企業と同じです。
<日銀の保有国債は43%>
2012年4月からの量的緩和(日銀が金融機関から国債を買って通貨を発行)のため、国債の1087兆円(地方債を含む)のうち、日銀の保有が471兆円に増え、日銀の構成比は、43%に増えています。
日銀は2019年も、国債を40兆円買い増すでしょう。日銀の国債所有は「471+40兆円=511兆円」になる。毎年の新規国債の発行分に相当する国債は、日銀が買い取っているのです。
新発債分の国債は、事実上、市場引き受け(金融機関の買う受け)ではない。日銀が全額を買い取っているため、金融市場の資金収支では、国債が発行されいないことと同じです。
<出口政策は不可能>
リーマン危機のあとの大きかった金融緩和からの出口政策として、利上げをしている米国FRBと、量的緩和を停止したユーロのECBの方針に反して、日銀は国債の買いを停止して「出口政策」に向かうことはできない。
日銀が国債の買い上げ額を順次減らすテーパリング策を採ると、
・マイナス金利(8年債以下)
・0.093%の金利(10年債)
・0.347%の金利(15年債)
・0.953%の金利(40年債)
である国債の金利が高騰します
(注)国債価格は、金利1%の上昇につき8%(80兆円)下落します。
民間金融機関は日銀が買ってくれない限り、マイナス金利、0.1%の金利、0.3%の金利の国債を発行額分、買うことはない。
<ゼロ金利の国債への入札がある理由>
現在、例えば0.1%の約定金利の国債に金融機関が入札しているのは、直後に、日銀がそれより低い金利で(=国債価格は額面より高く)買ってくれる量的緩和を続けているからです。この買いがあるので、低い金利の国債を買っても日銀への売りで利益が出るからです。
日銀が出口政策に転じ、国債を増加買いしなくなれば、利下げによる国債価格上昇の利益はなくなります。逆に、金利上昇による国債価格の下落リスクが、高まります。国債の利益は、発行金利のみになります。マイナス金利の国債は、買った側が利払いをしなければならない。直接に損をする国債を買うことは、ない。
現在のマイナス金利と超低金利の国債は、もっていれば日銀が買ってくれるという期待から売れているのです。試みに、日銀が国債の買いを2019年4月から停止と発表してみて下さい。
市場の金利は、ほぼ1か月で3%に向かって上がり、国債価格は平均で24%下がるでしょう。
<金利の上昇と既発国債の下落:1%で81兆円>
さらに、出口政策で金利が上がると、1,087兆円の既発国債は1%の金利の上昇につき、7.5%(=81兆円)は価格が下がります。
国債の持ち手(儀日銀と金融機関)には、金利1%上昇につき81兆円の国債時価の保有損が生じるのです。
既発国債の価格下落と金利の上昇(借換債と新発債(合計149兆円:2018年)、利払いの増加による政府財政の破産を避けるためには、日銀は国債の買い増し(=量的緩和)を続けねばならない。
<政府の予定>
政府が語らない予定は、物価の上昇と所得の上昇(=税収が増える)、および消費税の増税により、次第に40兆円の財政赤字を減らして年度予算の国債依存を低下させていくことでしょう。
2019年には、円金利の大きな上昇はない。あっても、わずかでしょう。財政破産もない。2020年はどうか、2021年は?となると怪しくなります。政府財政は、金利が3%になるだけで破産に向かうからです。
対外純投資324兆円(2018年6月末)
日本は、
・貿易収支は時々赤字になっても、年間では黒字である(4.0兆円:2017年)
・海外投資の利回りと海外生産からの所得が約20兆円(2017年)ある
・ほぼ、両者を合計した額である、経常収支は22兆円の黒字です(2017年)
※参考:財務省 国際収支の推移
<国の経常収支と、資本収支の関係>
経常収支の黒字分が、資本収支(現金の流れ)では出超になって赤字になります。経常収支+資本収支=国際収支=0、です。海外の国債の買い、証券・株の買い、海外工場へ投資は資本(=マネー)の海外流出であり、国の資金収支では赤字になります。
(注)メディアや評論家が時々、国際収支が黒字というのは、経常収支というべきことの間違いです。
日本は経常収支の黒字のため海外へ資本を流出し、その資金の赤字の結果が対外資産の残高になっています。株を買うと現金が減る(現金収支は赤字)ことと同じです。一方、借り入れは、資金収支ではお金が入って来るので黒字になります。貸付は現金が減るので、資金収支では赤字です。
海外から日本への投資は、日本にとっては対外負債です。以下のような内容です。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
対外資産 998兆円 対外負債 674兆円
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
海外証券 574兆円 円証券 392兆円
対外貸付 156兆円 借入金 181兆円
その他 286兆円 その他 101兆円
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
対外純資産 324兆円
この対外純資産の残高324兆円が、資金上では円の海外流出分です。これは対外純貸付といっても同じです。ドル国債を買うことは、米国政府に対する貸付と同じことです。
<円の海外流出>
1995年以降の日本は、世界で一番金利が低い。このため、比較金利(イールドスプレッド)の高いドル国債、ユーロ債を買って来ました。
株も同じです。米国株の値上がりが大きかった。このため、銀行と投資家が米国株を買った。これらの合計が、上表の海外証券574兆円です。
海外貸付の増加も、国内の貸付金利(0.6%)より海外の金利の高いからです(三大メガバンク)。
その他の主なものは、工場の直接投資です(174兆円)。国内の生産コストが高いので、海外生産をするようになってきたのです。
トヨタでは、国内の生産が319台、海外生産が582万台と、1.8倍です。日産はもっと多い。国内生産は102万台、海外生産は4.7倍の474万台です。ホンダも、海外生産が5倍です(2017年)。
これが工場の直接投資です。海外の販売が大きな自動車では、海外工場での生産がはるかに多くなっています。
※参考:自動車産業ポータル 2017年 日系メーカー世界生産台数
2000年以降、国内の設備投資を増やさず、海外に工場投資をしてきたのが日本です。
対外資産998兆円、対外負債674兆円の結果が対外純資産324兆円です。金利の低い円は、海外に324兆円純流出したのです。
長期金利は、「実質GDPの期待成長率+期待物価上昇率」です。1995年以降の23年間、円の金利は世界1低い。これは、日本GDPの成長期待と物価の上昇予想が、主要国で一番低いということです。
(注)タックスヘイブン目的の、海外からの資本流入が多いため、利下げしてスイスフランの買いを抑制しているスイスと並んで低い。スイスの10年債の利回りは-0.159%です。
<海外(特に米国)のための異次元緩和だったのか>
このゼロ金利のため、円は海外に流出しました。日銀の量的緩和の目的は、国内の銀行貸し付けを増やして、企業の投資と世帯の商品需要を増やして、物価を上げることでした。
しかし、国内の貸付の増え方は、異次緩和前の2%〜3%増と同じであり変化がない。異次元と銘打った量的緩和は、2%の物価上昇という政策目的の達成には、完全に失敗しています。
代わりに、経済成長力が日本より高いために、金利のつく海外への貸付と証券購入が増えました。「日銀は海外(特米国)のために量的緩和を行った」と言えるくらいでした。
ここまでは、日本の資金循環の2018年6月時点での残高と、内容の動きです。
次回メルマガでは、金利と国債価格のカギになっている日銀の異次元緩和の先行きを予想します。通貨変動(円高、円安)を含んで、日本経済のカギにもなるものがここにあるからです。米国FRBとECBの金融政策も関連します。
53. 中川隆[-12869] koaQ7Jey 2019年1月19日 20:18:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
日銀の量的緩和政策は失敗に終わった…目的を果たせなかったのはなぜか=吉田繁治 2018年12月25日
https://www.mag2.com/p/money/612611
日本には現在、4,099兆円の金融資産があります。この資産はどこでどのように使われているのでしょうか。その内訳の詳細から今後の展望について解説します
日本にある4,099兆円のマネーは、どのように投資されているのか
すべての金融資産は、国内と海外の誰かの負債である
当メルマガでは前回、資金の供給源になる世帯(1,848兆円)、企業(1,176兆円)、政府が管理する金融資産(572兆円)と、日銀の負債(503兆円)の内容を見て行きました。
わが国の合計では、現金、預金、株式、証券の合計で4,099兆円のマネーがあるのです。後編では、この4,099兆円が、どの主体に、どんな理由で貸し付けられているのか(=投資されているのか)を見て行きます。
(注)株式も、企業にとっては返済の順位がもっとも低く、解散のときに純資産から返済される「劣後債の負債」です。株の利益配当は、借り入れの金利に相当します。株主にとっては、持ち株は金融資産ですが、企業にとっては預かり資本になる負債です。国債を含む証券は、返済順位が高い優先債です。株も証券も、その持ち手から発行元への貸付金です。この貸付金は、持ち手にとっては金融資産、借り手にとっては負債です。預金は持ち手の金融資産ですが、銀行にとっては負債です。
「すべての金融資産=国内と海外の誰か負債」という構造をもっています。金融資産が価値をもつには負債が返済できるものであり、利払いもできることが必要です。
返済できない負債は、価値の低い不良債権になります。4,099兆円になった金融資産が価値を保ち続けるには、借り手が、増えた負債の返済ができ、利払いができるという条件がなければならない。
この点で、政府の負債である国債はどうでしょう。国債が増えたため、政府は1%以下の低い金利しか払えない。普通の金利は3%から5%ですが、その金利になると、政府は利払いのための借り入れが増えるという「破産の過程」にはいります。
企業は、1985年からの日銀の金融緩和を起点とした土地バブルの時期、返済できない借り入れを増やして、土地を買いました。担保だった土地は1992年から下落し、銀行の貸し出しが、銀行の自己資本合計を超える不良債権になった(約200兆円)。この不良債権のため、1998年の金融機関が倒産する金融危機に至ったのです。
政府の対抗策は、ゼロ金利と国債を買う量的緩和と、銀行への資本注入でした。2008年の米国のリーマン危機と同じです。
企業はその後、借り入れによる増加設備を抑え、借り入れの返済をしました。一方で、負債がどんどん膨らんだのが、政府部門です。
わが国の負債
(1)世帯の負債は318兆円(2018年6月末)
世帯の負債は、住宅ローンと自動車ローン、カード、消費者ローンなど318兆円です。住宅ローンは、2018年で193兆円と集計されています(住宅金融支援機構)。1年に21兆円(130万件)くらいが貸し出されています。平均残存期間は約10年です。
日本の世帯の負債は少ない。一方で、世帯の金融資産は、1,848兆円ですから、「1,848兆円−318兆円=1,530兆円」が負債を引いた純金融資産。1世帯当たりでは2,886万円です。
(2)企業部門の負債は1,736兆円
世帯の貯蓄を借りる企業部門の負債は、借入金と証券(株式を含む)で1,736兆円です。
借入金 396兆円
証券 1,031兆円(うち上場株式589兆円)
その他負債 307兆円(買掛金など)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
負債合計 1,736兆円
負債総額は1,736兆円です。ただし企業は金融資産を1,176兆円持っているので、純負債は560兆円(平均2.2億円)と少ない。
前述したように、土地バブル崩壊以降、設備投資を抑えて、キャッシュフロー(=減価償却費+利益−税金−配当)で、借入金の返済をしてきたからです。
国の資金循環では、GDPの成長期の正常な姿は、
・世帯の預金の増加分を、
・企業が銀行から借り、
・設備投資をすることです。
1980年年代までの資金循環がこれでした。
【世帯の預金と国債発行】
1990年代からは、世帯の預金は1年に約40兆円も増えているのに、企業は借り入れをしない。
誰が預金増加を吸収したのか?政府の国債です。政府が国債を発行して預金増加を吸収し、資産バブル崩壊後のGDPが減少する経済への対策としての公共投資を行った。90年代の10年で400兆円の公共投資というおおきなものでした。90年代から、政府の国債の増発が1年に40兆円と大きくなっています。
・1990年代の10年は、公共投資のための国債発行
・2000年代からは、増えた社会保障費(特に年金、医療費)の支払いが主目的の国債発行
政府の負債は1,291兆円
1990年代から、企業に代わって30兆円から40兆円/年で増えてきたのが、政府の負債です。
【GDPの原理】
「所得=消費+貯蓄」です。「GDP=消費+投資=需要」です。「貯蓄=投資」にならないと貯蓄に見合う投資がない。ケインズが指摘した需要不足から経済は不況になり、失業が増えます。つまり、貯蓄の増加に見合う借り入れがあり、借り入れが投資にならないと、経済は不況化します。
2000年代は企業の借り入れ増は減り、設備投資が減りました。企業は、資金不足の部門から資金余剰のある貯蓄の主体になったのです。
世帯と企業の貯蓄の増加(30兆円〜40兆円/年)を吸収したのは、正常な経済のときの企業ではなく、財政が赤字の政府部門でした。
政府は、国債という負債証券を発行して余剰貯蓄を吸収し、それを財政支出(政府需要)に使いました。
毎年、30兆円から40兆円も大きくなった政府の負債は、2018年6月時点で以下です。
【政府の負債】
借入金 159兆円(金融機関からの借り入れ)
国債残高 1,087兆円(日銀所有が471兆円:営業毎旬報告)
その他負債 46兆円
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
政府負債合計 1,292兆円
前稿で述べたように、政府は572兆円の金融資産を「管理」しています。この金融資産は、例えば年金基金(残高170兆円:18年9月末)のように、国民が保険として給料から天引きされて納めてきた国民の所有資産です。政府のものではない。政府はそれを管理しているだけです。
政府管理の金融資産572兆円を政府の負債1,292兆円から引いて、政府の純負債は720兆円とするエコノミストがいます。これは、「所有と、管理での専有」を区分できない誤りです。政府の負債は、1,292兆円から自治体と政府の日銀当座預金を引いたものとみるべきでしょう。
税収を上回る財政支出で、政府負債は年30〜40兆円の赤字に
<政府負債の問題は、償還がなく増え続けること>
政府負債の問題は、税収を上回る財政支出のため、構造的な赤字が1年30〜40兆円で続くことです。
政府の借り入れは毎年30兆円から40兆円は増えていきます。1%分が2.2兆円になる消費税に換算すると、財政赤字は16%分に相当します。
現在、日銀のゼロ金利策のため国債の利払いは9兆円と、とても少ない(2018年度)。残高となっている既発国債の、平均の約定金利が0.9%に低下しているからです。
<利払い額はむしろ減ってきた>
1990年から、国債の残高は6倍に増えましたが、日銀の金利の低下策のため利払い費は変わっていないのです。
政府が国債発行の抑制をしないのは、国債の残高が増えても金利低下のため、一般会計からの国債の利払い額が増えないためでもあります。借金を6倍に増やしても金利が下がって利払いが減った企業と同じです。
<日銀の保有国債は43%>
2012年4月からの量的緩和(日銀が金融機関から国債を買って通貨を発行)のため、国債の1087兆円(地方債を含む)のうち、日銀の保有が471兆円に増え、日銀の構成比は、43%に増えています。
日銀は2019年も、国債を40兆円買い増すでしょう。日銀の国債所有は「471+40兆円=511兆円」になる。毎年の新規国債の発行分に相当する国債は、日銀が買い取っているのです。
新発債分の国債は、事実上、市場引き受け(金融機関の買う受け)ではない。日銀が全額を買い取っているため、金融市場の資金収支では、国債が発行されいないことと同じです。
<出口政策は不可能>
リーマン危機のあとの大きかった金融緩和からの出口政策として、利上げをしている米国FRBと、量的緩和を停止したユーロのECBの方針に反して、日銀は国債の買いを停止して「出口政策」に向かうことはできない。
日銀が国債の買い上げ額を順次減らすテーパリング策を採ると、
・マイナス金利(8年債以下)
・0.093%の金利(10年債)
・0.347%の金利(15年債)
・0.953%の金利(40年債)
である国債の金利が高騰します
(注)国債価格は、金利1%の上昇につき8%(80兆円)下落します。
民間金融機関は日銀が買ってくれない限り、マイナス金利、0.1%の金利、0.3%の金利の国債を発行額分、買うことはない。
<ゼロ金利の国債への入札がある理由>
現在、例えば0.1%の約定金利の国債に金融機関が入札しているのは、直後に、日銀がそれより低い金利で(=国債価格は額面より高く)買ってくれる量的緩和を続けているからです。この買いがあるので、低い金利の国債を買っても日銀への売りで利益が出るからです。
日銀が出口政策に転じ、国債を増加買いしなくなれば、利下げによる国債価格上昇の利益はなくなります。逆に、金利上昇による国債価格の下落リスクが、高まります。国債の利益は、発行金利のみになります。マイナス金利の国債は、買った側が利払いをしなければならない。直接に損をする国債を買うことは、ない。
現在のマイナス金利と超低金利の国債は、もっていれば日銀が買ってくれるという期待から売れているのです。試みに、日銀が国債の買いを2019年4月から停止と発表してみて下さい。
市場の金利は、ほぼ1か月で3%に向かって上がり、国債価格は平均で24%下がるでしょう。
<金利の上昇と既発国債の下落:1%で81兆円>
さらに、出口政策で金利が上がると、1,087兆円の既発国債は1%の金利の上昇につき、7.5%(=81兆円)は価格が下がります。
国債の持ち手(儀日銀と金融機関)には、金利1%上昇につき81兆円の国債時価の保有損が生じるのです。
既発国債の価格下落と金利の上昇(借換債と新発債(合計149兆円:2018年)、利払いの増加による政府財政の破産を避けるためには、日銀は国債の買い増し(=量的緩和)を続けねばならない。
<政府の予定>
政府が語らない予定は、物価の上昇と所得の上昇(=税収が増える)、および消費税の増税により、次第に40兆円の財政赤字を減らして年度予算の国債依存を低下させていくことでしょう。
2019年には、円金利の大きな上昇はない。あっても、わずかでしょう。財政破産もない。2020年はどうか、2021年は?となると怪しくなります。政府財政は、金利が3%になるだけで破産に向かうからです。
対外純投資324兆円(2018年6月末)
日本は、
・貿易収支は時々赤字になっても、年間では黒字である(4.0兆円:2017年)
・海外投資の利回りと海外生産からの所得が約20兆円(2017年)ある
・ほぼ、両者を合計した額である、経常収支は22兆円の黒字です(2017年)
※参考:財務省 国際収支の推移
<国の経常収支と、資本収支の関係>
経常収支の黒字分が、資本収支(現金の流れ)では出超になって赤字になります。経常収支+資本収支=国際収支=0、です。海外の国債の買い、証券・株の買い、海外工場へ投資は資本(=マネー)の海外流出であり、国の資金収支では赤字になります。
(注)メディアや評論家が時々、国際収支が黒字というのは、経常収支というべきことの間違いです。
日本は経常収支の黒字のため海外へ資本を流出し、その資金の赤字の結果が対外資産の残高になっています。株を買うと現金が減る(現金収支は赤字)ことと同じです。一方、借り入れは、資金収支ではお金が入って来るので黒字になります。貸付は現金が減るので、資金収支では赤字です。
海外から日本への投資は、日本にとっては対外負債です。以下のような内容です。
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対外資産 998兆円 対外負債 674兆円
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海外証券 574兆円 円証券 392兆円
対外貸付 156兆円 借入金 181兆円
その他 286兆円 その他 101兆円
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
対外純資産 324兆円
この対外純資産の残高324兆円が、資金上では円の海外流出分です。これは対外純貸付といっても同じです。ドル国債を買うことは、米国政府に対する貸付と同じことです。
<円の海外流出>
1995年以降の日本は、世界で一番金利が低い。このため、比較金利(イールドスプレッド)の高いドル国債、ユーロ債を買って来ました。
株も同じです。米国株の値上がりが大きかった。このため、銀行と投資家が米国株を買った。これらの合計が、上表の海外証券574兆円です。
海外貸付の増加も、国内の貸付金利(0.6%)より海外の金利の高いからです(三大メガバンク)。
その他の主なものは、工場の直接投資です(174兆円)。国内の生産コストが高いので、海外生産をするようになってきたのです。
トヨタでは、国内の生産が319台、海外生産が582万台と、1.8倍です。日産はもっと多い。国内生産は102万台、海外生産は4.7倍の474万台です。ホンダも、海外生産が5倍です(2017年)。
これが工場の直接投資です。海外の販売が大きな自動車では、海外工場での生産がはるかに多くなっています。
※参考:自動車産業ポータル 2017年 日系メーカー世界生産台数
2000年以降、国内の設備投資を増やさず、海外に工場投資をしてきたのが日本です。
対外資産998兆円、対外負債674兆円の結果が対外純資産324兆円です。金利の低い円は、海外に324兆円純流出したのです。
長期金利は、「実質GDPの期待成長率+期待物価上昇率」です。1995年以降の23年間、円の金利は世界1低い。これは、日本GDPの成長期待と物価の上昇予想が、主要国で一番低いということです。
(注)タックスヘイブン目的の、海外からの資本流入が多いため、利下げしてスイスフランの買いを抑制しているスイスと並んで低い。スイスの10年債の利回りは-0.159%です。
<海外(特に米国)のための異次元緩和だったのか>
このゼロ金利のため、円は海外に流出しました。日銀の量的緩和の目的は、国内の銀行貸し付けを増やして、企業の投資と世帯の商品需要を増やして、物価を上げることでした。
しかし、国内の貸付の増え方は、異次緩和前の2%〜3%増と同じであり変化がない。異次元と銘打った量的緩和は、2%の物価上昇という政策目的の達成には、完全に失敗しています。
代わりに、経済成長力が日本より高いために、金利のつく海外への貸付と証券購入が増えました。「日銀は海外(特米国)のために量的緩和を行った」と言えるくらいでした。
ここまでは、日本の資金循環の2018年6月時点での残高と、内容の動きです。
次回メルマガでは、金利と国債価格のカギになっている日銀の異次元緩和の先行きを予想します。通貨変動(円高、円安)を含んで、日本経済のカギにもなるものがここにあるからです。米国FRBとECBの金融政策も関連します。
139. 中川隆[-12868] koaQ7Jey 2019年1月19日 20:34:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019年1月19日
前会長、海外の住宅に27億円
共同通信
私的な投資の損失を日産自動車に付け替えたなどとして、会社法違反(特別背任)の罪で起訴された前会長カルロス・ゴーン被告(64)が、海外子会社などを通じ、国籍を持つレバノン、ブラジル、フランス3カ国の高級住宅の購入や改装に計約27億円を日産側から支出させていたことが19日、同社関係者への取材で明らかになった。日産は東京地検特捜部による捜査に支障がないと判断した段階で、ゴーン被告に関する社内調査の結果を公表する方針だ。
関係者によると、2005年と08年にフランス・パリの住宅を購入。計910万ドル(当時のレートで約9億6千万円)を日産側に支払わせていた。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c139
163. 中川隆[-12867] koaQ7Jey 2019年1月19日 21:07:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
座談会 「日本海学の新世紀」
2000年11月25日 富山県赤坂会館
http://www.nihonkaigaku.org/library/other/i001125-i2.html
伊東俊太郎
大塚 和義
安田 喜憲
小泉 格(司会)
本座談は、『日本海学の新世紀』創刊号の特別企画として、
2000年11月25日、富山県赤坂会館で開催されました。
1 「逆さ地図」からの発想
小泉(司会)
きょうは三つの柱をあらかじめ立ててあります。一つは、「逆さ地図」を中心にしてみなさんに意見を述べていただく。二つ目は、日本海、環日本海地域の特色について、もう一度みなさんのご意見をいただく。三つ目は、新世紀に期待される「日本海学」ということで、学際的な、あるいは相互性のメリットを生かして何をどこまで解明、あるいは提示できるか。この三つのテーマを考えておりますので、よろしくお願いいたします。
まず、私からは自然環境にかかわる意見を述べます。安田さんには自然と人類、あるいは自然と生物圈のお話を、大塚さんには主として民族と文化のお話、伊東さんには三人の話をふまえて文明論的な、あるいは全体のまとめ的なことをお願いいたします。三つの柱それぞれについて、小泉・安田・大塚・伊東という順番でまず基調的な発言をいただきまして、そのあとで追加することがあれば追加していただくということで進めてまいります。
それでは、最初に「逆さ地図」をながめながら日本海、環日本海地域の魅力、また逆さ地図というのは日ごろ私たちが見なれていないものですので、そこから従来と違ったどういうイマジネーションが出てくるかということについて、ご意見をいただきたいと思います。
口火を切るかたちで、私が地質学的な、あるいは自然環境の立場からすこし申し上げます。私はもともと地質学を勉強していましたので、陸域がフィールドでありました。いまから40年ぐらい前に、陸から海のほうに調査する場所を移しました。そういう人たちを世界では「sea-going geologist(海に向かう地質学者)」というふうに呼んでいます(笑い)。陸上の地質屋の目で海を見ようということです。
私はこれまで二つのことを勉強してきました。一つ目は、海洋地質学という分野です。ペーリング海、オホーツク海、日本海といった縁海(えんかい、marginal sea)がありますが、この縁海はじつは北西太平洋の部分にしか発達していません。環太平洋地域以外では発達しておりません。縁海は、背弧海盆(はいこかいぼん、backarc basin=島弧の後ろに海ができるという意味)、島弧(islandarc)、海溝の三つが一つのセットとなって構成されています。このセットを説明するのがプレートテクトニクス(→注1)という考え方です。これはいまでは実証されています。プレートテクトニクスを考える場合には、太平洋のほうから日本列島、あるいは日本海を見ていくわけですから、逆さ地図とはまるっきり見方が違います。これが海洋地質学です。
逆さ地図が出てきた段階で、先ほど申しました二点と趣が違うわけです。すなわち大陸から海を見る見方、あるいは視野を実感させました。私の場合は原点に戻ったのです。陸地から海へ行ったということは、行動の範囲や活動の範囲がだんだん広がっていっている。それは個人的にもそうだし、日本の歴史を考えた場合も、背景にある中国の大陸から始まり、日本海、日本列島、太平洋というように日本の歴史がだんだん拡大していった。そして、まずいことに太平洋の場合には太平洋戦争ということで悪い終着になっている。
それがいまはまた逆方向に戻りつつあって、日本列島における生活域というか、内海としての日本海と一体になった意識革命をしようとしているのではないか。そういう意味で、認識、あるいはわれわれの意識にかかわってきている。これは人々がもつ思いみたいなものがひとつあります。もうひとつは行政には、人々の認識とか意識を実現させるという仕事があるのだと思います。これは三つ目の柱のときにもう一度、話したいと考えています。
以上、逆さ地図を見て感じたことを、自分史も含めて最初に問題提起のかたちで述べました。
次は安田さんにお願いします。もう少し陸域のほう、日本列島、中国大陸を含めてお願いします。
安田
逆さ地図を見せていただいて感じることは、日本民族にとっては日本海があったということは、たいへん幸せだったのではないかということです。日本海というのは平和の海であったということです。
なぜかというと大陸部にいる人々は牧畜民です。基本的に農耕と牧畜をやる人なのですが、そういう牧畜民が幸いにして海に出かけることが非常に下手だったということがあります。同じ海を考えても、地中海のギリシャ文明はドーリア人(→注2)の文明ですが、彼らはもともと牧畜民でした。しかし、彼らが地中海のギリシャにあった森の中に定住することで森林資源を利用することを学び、船を造ることを学び、海に出かけて巨大な海洋国家の仕組みをつくっていった。これがギリシャ文明ではないかと思うのです。それに対して、ペルシャという国があります。同じ牧畜民なのですが、ペルシャの牧畜民は海に出かけることができなくて、海洋民になれなかった。
同じようなことがモンゴルにも言えると思うのです。大陸にいたモンゴルの人は牧畜民なのですが、彼らはやはり船を使ってバイキングのように海上に出ることができなかった。そのことによって日本海というのは、大陸の牧畜民の嵐から長らく隔離されることができたなあという感じがするのです。
だから、日本に大陸からの文化の影響がより強くやってくるのは、むしろ日本海ではなくて東シナ海なのです。東シナ海を通して大量の難民(ボートピープル)がやってくる。それはどうしてかというと、東シナ海、つまり中国大陸の南部には、船を操ることにたけた人々がいる。これが稲作漁撈(ぎょろう)民です。この稲作漁撈民は船を操ることが巧みですから、彼らは東シナ海を対馬(つしま)暖流に乗って一気に日本にやってくることができたわけです。
日本海の対岸の少数民族、ニヴフ(ギリヤーク)などがどういう生活をしていたかわかりませんが、モンゴルという巨大な帝国があって、元寇(げんこう、→注3))のときに日本に攻めてきました。彼らは少なくとも海洋民族になれるほど船の技術にたけていなかった。船に乗っていた大半の人々は、長江(ちょうこう)以南から駆り出された人々でした。それが日本を幸福に導いた要因であったと思うのです。
富山県は越国(こしのくに)といいます。越前が福井県、越中が富山、越後が新潟です。そのように、越国というのが日本海側にあるのですが、対岸の沿海州にはその名前の起源はないのです。では、その起源はどこにあるか。じつは長江の下流域の百越(ひゃくえつ)と呼ばれる越人(えつじん)からきています。ですから、日本海といっても、われわれは対岸から強い文化的な影響を受けたと考えるし、実際にそういうこともあるのですが、同時に、日本海は東シナ海を通って長江の下流域にまでつながっており、それをつなげているのは対馬暖流という大きな海流であって、そういう南の東シナ海からさかのぼってくる文明の影響が日本にはたいへん大きい。それは船を持ち、技術を持った人々が大陸にいたかいないかということに大きくかかわるのではないかと思われます。
小泉
いま、東シナ海と日本海の関係を稲作漁撈民を例にあげて話されました。東シナ海と日本海とをつなぐ対馬暖流の話は、二番目の柱のところでもういちどおさらいします。安田さんのほうから自然環境と人間とのかかわりのお話が出ましたので、引き続きまして、人間のほうにウエ−トをおいて大塚さんからご発言いただきたいと思います。
大塚
小泉さんが自分史を語られたように、私も自分史というか、なぜ日本海地域に関心をもっているのかお話します。私はとくに人間そのものに対して強い関心をもっているわけですが、日本海沿岸の諸民族に対して強い関心をもつにいたったのは、最初、旧石器研究を始めまして、北海道に行き、そこでアイヌと出会ったことによります。日本にもいわゆる日本語を語るだけではない人たちもいる、しかも、およそ100年前までは採集狩猟の文化を維持していたということを知り、そこからさらに北方世界に関心をもった。しかし残念ながら、1960年代というのは、ソ連でのフィールドワークなどは全然できなかった、日本人による北方民族はもとより学術的フィールドワークの空白の時代です。
考古学というのは、ご存知のように大部分が文字のない社会を扱い、現実に生きた人間との対話がまったく不可能なわけです。そこで、狩りなどの自然物と向き合ってきた人間的魅力にとんだアイヌの人たちと語り、北方世界にも行ける時代状況になって、自分の民族学的(人類学的)な関心が非常に強まりました。
私は、日本民族学の開拓者である鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう、→注4)が歩んだ道といいましょうか、彼には『黒熊江(こくりゅうこう)と北樺太(きたからふと)』という名著がありますが、アムール川(黒龍江)を下ってサハリンヘ到るというルートをたどり、さらに別に朝鮮半島まで行っている。くしくも、私も鳥居のたどったルートを歩いたことになりました。この鳥居の歩いた沿岸諸地域をずっと歩いてみたとき、生業の形態で分類すれば大きく二つに分けることができると思いました。一つは、農業地帯で農耕民文化が根を下ろし稲作や雑穀栽培が支配的に行なわれている地域。もう一つは、非農耕地域や採集民社会というか、依然として農耕がほとんどできない地域。そういうふうに二つに区分されるのではないか。
そして、先ほど安田さんが言われたように、日本には牧畜民が渡って来なかったのですが、樺太(サハリン)にはウイルタ(オロッコ)というトナカイ飼養民が入ってきていました。アムール川流域にも、中国の大典安嶺(だいこうあんれい、大シンアンリン山脈)にもシベリアからトナカイ飼養民は進出しているのです。ただ、この牧畜の一形態であるトナカイ飼養民は、安田さん的にいえばほとんど「脅威」にはならないというか、彼らは大きな軍事的脅威にはなりえなかったのです。
民族学の面からこの逆さ地図を見ていておもしろいなと思ったのは、間宮(タタール)海峡、宗谷(そうや)海峡、津軽海峡を見ますと、それぞれが近代になるまで、あるいは現代もなお、たとえば間宮海峡でいえば、その北部のサハリンとアムール川流域には、ニヴフという、かつてギリヤークといわれた人たちが両岸で伝統的な漁撈生活を基本にしている。要するに、あくまでも先住民地域なのです。宗谷海峡をはさむ二つの島も、樺太アイヌと北海道アイヌというように古くから先住民が居住する地域でして、一つの先住民が海峡をリンクしている。つまりつながっている。あるいはまた津軽海峡にしても、菅江真澄(すがえますみ、→注5)の『蝦夷廼天布利(えぞのてぶり)』をはじめ宇鉄アイヌ、あるいは外浜アイヌとか、彼らのいろいろな記述に見られるように、アイヌの人たちが海峡を往来して津軽や下北でかなりの人数が生活していた事実もあるわけです。
対馬や朝鮮海峡はもっと歴史的にみて大きな波動を受けているわけで、諸国家の囲い込みで先住民の存在というものが不明確になってしまう地域なものですから、ここのところは別の切り口で言わないとならないと思うのですが、沿岸各地で先住民というものがいまなお大きなインパクトをもっているのではないか。この逆さ地図で見ると、ハバロフスクからアムールの河口までは森林地帯であり、しかも現在、先住民が散発的ではありますが居住しており、伝統的な社会をある程度維持している。
生業の面でいうと、ここで私のとりあげている地域のいわゆる先住民社会というのは「サケ・マス文化」というものをもっている。漁撈といってもいいのですが、象徴的にはサケ・マスです。ですから、日本海の北部域、この逆さ地図でいうと左手は漁撈民のサケ・マス文化であり、採集民文化である。一方、右手のほうは、農耕民文化であり、そこには都市文化がある。都市民かおり、農耕民かおりという状況だと思うのです。ですから、都市化され農地化された地域とまだ原生林の残る自然環境の豊かなところというふうに大きく二分されているということが言えるのではないか。
そして注目したいことに、この地域の先住民文化の俯瞰図(ふかんず)が大きく変わるのは、中国の元(1271〜1368年)から明(1368〜1644年)の時代にかけて、東アジアの商業交易活動が活発化する時期です。その時期にアムール川の先住民社会も大きく商品経済に組み込まれていく。それによって彼らの生業形態が、商品としての毛皮生産や海産物の捕獲といった、自家消費から商品生産に大きくドラスティック(徹底的)に社会が変わる。そして、互いの接触や交易が不可欠となり文化的な類似性が出てくるわけです。しかし、それでも強固にそれぞれの集団が特色ある文化的伝統を維持しているということが、先住民社会の大きな特徴としていえるのではないか。
私はこの地図を見ながら考えてみました。陸と海峡をつなぐルートが一つある。それから、日本海という全方位のルートもあるわけです。日本海にも、意図的に日本海を横断するものと、日本海沿岸沿いに航行しているのだけれども漂着し、それによって文化的な刺激が沿岸諸地域に与えられたということもある。
これに関した注目すべき研究成果一つが、池内敏さんの「朝鮮漂流民」に関するものです。池内さんによると、1599年から1872年、だいたい江戸時代ですが、その274年間に967件、朝鮮から日本海沿岸への「漂着」があったということであります。約1万人の人が日本海沿岸に漂着していたという事実にまず驚かされます。漂着民は当時の鎖国体制のなかにありながら釜山にあった倭館(わかん、→注6)を通して朝鮮のほうに引き渡すという日朝両国のルールがあった。漂着民といっても実質は交易民だったようです。漂着民の積荷はその場所の藩で売却していいという幕府の方針でした。日本の鎖国時代の「四つの口」(→注7)は有名ですね。しかし、それ以外にも日本海というのは、対岸貿易の役割もはたしていた。おしなべて平和的なんですけれども、かなり精力的に商業活動が行われていた。それによる文化的な刺激や経済的意味が大きかったといえるでしょうか。
安田
なぜ平和的だったかというと、交易活動は盛んだったけれども、富山県の真北の沿海州に支配・被支配の関係が成立しにくかったからです。つまり、巨大な帝国が日本海の対岸には出現しなかった。だから、交易は非常に活発だったけれども、基本的に対岸の人々が狩猟・採集・漁撈を生業活動の中心としていたために、日本海が長いあいだ平和の海であったんだろうと、ぼくは思うのです。
小泉
ありがとうございます。大塚さんのところでは、生業活動を中心とした商業活動にかかわって先住民の問題を提起されたかと思います。
次に伊東さんにお話いただくわけですが、大塚さんは、北のほうに上がるにつれて、地形的、あるいは地理的に二またに分かれていって、あるいは表現が適切でないかもしれないけれど、日本海地域における一種の南北問題のようなものがあるのではないか。南のほうが豊かで、北に行くにしたがって自然環境がきびしくなる分だけじゅうぶんに文化の発達していないところがあるのではないかということ。それと先住民のことを多少ひっかけて、お話しになったと思います。そのへんのことも含めまして伊東さんのほうから文明論的なことをお願いします。あるいは伊東さんが以前、お話しになった文明交流圏という視点でお願いします。
伊東
お三方からいろいろ興味深いお話をうかがいました。私は科学史が専門ということになっていますが、このごろは比較文明学という領域に深入りしているわけです。その立場からこの逆さ地図を見てどう考えるかというところから始めると、日本海は地中海に似ているなあ、とあらためて思います。逆さまにして見るとそれがいっそうはっきりします。もっとも地中海にくらべると緯度がすこし北になるかもしれません。しかし、そんなに離れていない。経度の幅の広さでいうと、地中海の半分ぐらいでしょう。そのくらいの違いはあるけれども、基本的に似ているじやないかという感をもたざるをえない。
いま、私は日本海のことに引っ張りだされているけれど、じつは長いあいだ、地中海文明とはどういうものなのかということをやっていたのです。地中海の文明というものを腑分けして分析していくと、実はあれは単一な文明圈ではないんです。ラルフ・リントン(→注8)は「地中海文明圈」という言葉を使うのだけれど、あれは、いま小泉さんもおっしゃったけれども「文明交流圈」です。地中海の北のほうにはヨーロッパ系の人たちがいて、その文明を、ギリシャ以来、近代ヨーロッパにいたるまで続けて発展させてきましたが、それだけが孤立して発展したわけではないのです。地中海の東側を見ると、フェニキアその他ですが、シリアその他のセム系の文化というものが断固としてあって、これはある意味ではギリシャ文明の先駆者です。アルファベットはそこから出たともいわれています。それがカルタゴに移りますが、それにさらにイスラムの世界が南のほうにずっと広がって、地中海はイスラムの海であったこともある。
そうなると、セム・ハム系(→注9)の文化が東から南一面、あるときはスペインまで含んでずっと広がっていたわけです。そして、地中海のダイナミズム(活力)とは何かということを考えると、その二つの系統、インド・ヨーロッパ圈とセム・ハム圈のものが、地中海という一つの媒介の海を通して相互に渉り合って発展させたものである。もちろんあるときは戦争もあったが、基本的にいって、この間の緊密な連携と相互作用からあの地中海文明のダイナミズムが生まれたのだろう。
そう考えると、地中海というのは、結局、一つの「文明交流圈」(cross-civilizational sphere)といえるのではないか。こうした文明交流圈というのは、ここだけではなくていろいろなところに複数あるのです。そういうふうに私は考えています。それまでは、地中海文明というのはギリシャ・ローマの文明だとか何とか言っていて、ヨーロッバ中心の考えがあったのですが、そんなものではないぞということをはじめて言ったのですが、そして、いまではそれがむしろ常識になりました。
しかし私が、比較文明学を始めたころなどは、まだ「地中海と言ったらギリシャ・ローマですよ」と言っていたわけです。でも、そうではないということがわかってきた。むしろヨーロッパ系のものがすごく発展していくのも、セム・ハム系のものとの交流があったからだし、セム・ハム系のものが発展していくうえでもヨーロッパ系の影響があるという相互作用を見てとらなければいけない。そういうことで、「文明圈」というものも考えなければいけないが、それよりも文明の発展には「文明交流圈」というものに注目しなければならないということを『比較文明』という雑誌に書きました。
そして、とくに海の文明交流圈が非常に重要だということを力説しました。いままでは陸ばかりやっていた。陸の文明交流圈で思い出すのはシルクロードです。これももちろん重要です。その他にもいろいろあるけれど。海の文明交流圈は、たとえば地中海文明交流圈、インド洋文明交流圈などいろいろあるのだけれど、こういうものをよく見なければ文明のダイナミズムの本当のところはわからない。これこそ非常に大きな文明のダイナミズムを生んでいくのではないか、ということを考えてあらためて「日本海」を見ました。
そうしたら、なんと日本海は孤独で孤立してあつかわれているのでしょう。つまり、日本史の人たちは日本列島の内部のことだけを考えているじやないですか。その先の向こうにあるものを全然考えないで、出てきたものはなんとか日本のなかでちんまりまとめてしまうことばかりを考えている。でも、いま、海洋学、考古学、民族学、生態学など、さまざまの分野を考えても、相互交流の現実を理解すべきことが明らかになってきました。だから今、まさに日本海文明交流圈を考えなければいけない。
もちろん日本列島を考える場合も、日本海文明交流圈、東シナ海文明交流圈、大平洋文明交流圈の三つで考えなければいけないということを私は言いましたが、東シナ海はじつは南シナ海と結びつけて考えなければ意味がないのです。だから、それをみんないっしょにして、「東アジア海文明交流圈」としたらどうかと思っています。そうしたら、もっとずっと実体がはっきりすると思うのです。日本海もそういう文明交流圈だということで考えていかなければいけないと思います。
ところが、いままで、「日本の鎖国」ではなく「日本史の鎖国」が長いこと行われていました。要するに、風通しの悪い日本列島史がずいぶん幅をきかせていた。これをひとつ、ここで大きく打ち破らなければ、21世紀における東北アジアにおける日本の位置、東アジアにおける日本の位置、あるいはもうちょっと広げたら世界における日本の位置というものがわかってこないですよ。こういうセクショナリズム(縄張り主義)、ナショナリズム(民族主義)、アイソレーショニズム(孤立主義)といったものを一回とりのぞいて、もういちど見直したらいいのではないかと思うのです。
地中海では、見ればみるほど、いくつもの文明が渉り合っているということが、ブローデル(→注10)が明らかにしたように非常にはっきりしていますね。しかし、日本海についてはそれほどでもない。それはなぜかというと、そういう事実がなかったのではなくて、そのようにして広い視野で見ようとする意識がなかった。そういう意識がなかったら、事実はあっても無視され、あるいは曲解されますよ。非常に挟いところに閉じ込めていつも解釈してしまう。もっと広い日本海全体の連関のなかから日本の文明の形成を考えたらよいと思うのです。
歴史は「事実の学」だといわれています。しかし同時に、その「事実を見る目の学問」だともいえると思う。ですから、ここでそういう新しい目で発見される事実に目を向けましょうよ。それで、いままで積み重ねてきた海洋学、気象学、考古学、民族学、生態学など、統合的、相互関連的な新しい目で見直したらずいぶん変わってくる。そういう突破口になればいいんじやないでしょうか。
小泉
ありがとうございました。伊東さんからは、地中海と日本海が非常に類似してるが、研究のしかたにおいて非常に異なっているというふうな、たいへん大事な発言がありました。ブローデルの地中海学は有名ですし、地中海と日本海の自然環境につきましては、私自身話したいことが多々あります。ほかの方もそうでしょうが、地中海と日本海の関係については、これでひとまずおいておきます。
二つ目には、これまでの日本文化、あるいは日本の歴史は、日本海とか太平洋を通して海の交流の歴史にいろどられていたにもかかわらず、歴史観とか文明観は、陸地に視点をおいて政治、経済、社会などの事件を記述するのが主体であった。歴史の背景、根底に存在しているものについて考慮をしなかったということを言われていまして、伊東さんはじめ網野善彦さん、川勝平太さん、入江隆則さん、上田正昭さんたちが、「海からの視点」というものを大事にされております。そのことは、今般、私どもが日本海学を富山県庁の熱意のもとで動かしている原点にもなっているのだと思います。
一つ目の柱につきまして補足するようなことがございますか。
大塚
確かに伊東さんがおっしゃられたような近年まで「ちんまりとした」日本史だった。日本国家史という非常に狭い領域のなかで論述を自己完結させるというようなきらいがあったと思います。列島史からさらに巨視的にみていく必要がある。日本海沿岸の諸国を見ますと、先住民社会というのは無文字社会なのです。支配を受けたアムールとかサハリンなどにも元が攻め入ったりしていますが、記録は少なくて断片的である。古くからそこに居住してきた先住民の人たちが書いた文字記録がない。伝承があるのみです。ですから、先住民にはアイヌのユカラ(→注11)と同じく口承による叙事詩などもありますが、そういうものの比較分析もまだじゅうぶんに行われていないわけです。
そういう意味で、日本海は地中海ほど、諸地域間の交流が国家というレベルまでいっていないところが多い。いわゆる周辺民族的というか……。
伊東
たしかにそうですね。
大塚
ええ。小泉さんがすでにおっしゃられましたように、ここは南北問題というか東西問題というのか、地図でいうと左右問題ですが、そこにはかなりの落差があるわけです。
伊東
だけど、歴史というのは文字だけじゃないですからね。
小泉
そう。イマジネーションと同時多発的なことですね。
伊東
民族資料とか考古資料とかいろいろなものがあるから、それを総合化していけば、かなりの構造が明らかになると思うんです。ですから、文字の歴史は歴史の半分だと思ってください。そのほうがずっと実体に迫られる。いままであまりにも文字にかかわりすぎたために、ほかのものを軽視しすぎた。そしてまた、イマジネーションというものがない。文字が出てくると初めてなんだか言えるけれど、あとのことははっきりしないとか言って、じつは、こじつけをやっているところがある。だから、そこのところはもうすこし新しい目で見て、考古・民族・生態・文字資料などを含めた総合的な歴史をつくっていくということも、この日本海学の重要な部分ではないかと思うんです。
2 日本海、環日本海地域の特色
小泉
次に二つ目の柱です。いま伊東さんから「海のシルクロード」「狭い内海としての日本海」、これは安田さんも指摘されましたように、東シナ海、南シナ海を通して、日本海でいうと対馬暖流で世界と一体になっていた。つまり、日本海が孤立していたのではないという思いを私は持っていますので、二つ目の柱として、日本海、環日本海地域の特色について、あらためて見てみようというわけです。非常に豊かな循環共生体系のなかに、日本海・環日本海地域があるのではないか。そのなかで生命、自然、文化を生み、育んできた海の環境のカをもう一度、復習してみようということであります。
最初に日本海・環日本海地域が置かれている自然環境設定の様子について簡単に述べてみたいと思います。
一つは、東シナ海を通り、対馬海峡を通って、いわゆる対馬暖流が日本海に入ってきます。そして、これまでの観測によりますと、約2か月後に津軽海峡から太平洋に出ていきます。一部が宗谷海峡から出て、残りは、間宮海峡は水深が非常に浅いものですからUターンして、いわゆるリマン海流となります。北緯40度より北のところは水深が3000メートルぐらいの深海盆(日本海盆)になっております。この海域は冷水海のエリアになっています。地図で見ると白くなっているところ、薄い青で描かれているところはその境界で、だいたい北緯40度ぐらいのところに、いま話しています日本海の南と北の境界線があります。そんなことから、対馬暖流は世界の情報を日本海に伝えてくるメッセンジャーであるという見方ができます。
流入してきた対馬暖流は日本海のなかで枝分かれします。朝鮮半島沿いに上がっていくものと、偏西風が吹いていることで日本海側に支流がありますが、それと、日本海のまん中のところを上がっていくものと、だいたい大きく三つの分流に分かれています。そして、その分流のあいだに冷水域が形成されます。この冷水域は主として深いところにあります。冷水域と対馬暖流との境のところで海水が混合することによって非常に豊かな漁場を形成します。日本海がその意味でたいへん豊かな海であることがわかります。もう一つは、先ほど指摘されました日本海の流れが「海のシルクロード」となっていて、太古の昔から隣国どうしをつないでいく交通路であったという話が、伊東さんが主宰されました比較文明学会でのシンポジウムのなかでありました。これを引用させていただきます。
一つは、江戸時代以前における日本海沿岸交通。二つは、江戸時代の日本海海運。これは北前船(→注12)の全盛期です。三つは、明治時代の交通近代化政策(→注13)と日本海交通の衰退。この三つのことで、歴史の活動空間が日本海から太平洋に移っていったということを、全体のなかの一つとして提示されております。
最後に、対馬暖流の大きい力は熱を運んでいるということです。南にある低緯度の熱を1日に4千万キロワット分も運んできまして、環日本海地域、とくに日本列島に温和な海洋性気候をもたらしております。その結果として、冬場には降雪がありまして、北海道・東北ではいままさに雪のシーズンですが、これは邪魔者ではなくて、農作に水の恵みをもたらしてくれています。いま、都市部では水問題は深刻になりつつありますが、日本海側では、雪が降るかぎり水の問題はないのです。
以上、簡単に日本海、環日本海地域の特色をふまえた自然環境の様子についてお話しました。
安田
先ほど私は、日本海は「平和の海」と申し上げましたが、もうひとつ言えることは、日本海は「森の海」であるということです。日本海の局辺は深い森で、沿海州も日本列島も国土の67パーセントは森である。そこは地中海とは根本的に違うところですね。深い森が日本海の周辺に存在している。先ほど小泉さんがおっしゃったように、日本海にはたくさんの魚がいるという背景には、その豊かな森の栄養分が海に流れ込むということがある。これが、日本海の豊饒(ほうじょう)性をもたらしているもう一つの大きな要因です。その日本海の豊饒性をもたらす原因の基本は、小泉さんがおっしゃった対馬暖流にあると思います。
日本海の大きな特色は、最終氷期が終わって対馬暖流が日本海に流れ込むようになった途端に積雪量が急激に多くなって、大陸的な気候とは根本的に異なる海洋的な風土が形成されたということです。これが日本列島に大きな影響をおよぽしています。
小泉さんは具体的におっしゃいませんでしたが、いまから2万年ぐらい前は海面が100メートル以上低いわけですから、対馬暖流は日本海に入っていないわけです。その後、急激に海面が上昇してきて、対馬暖流が日本海に入りはじめるのはいつごろでしょうか。
小泉
最終氷期が終わって、いちばん最初の徴候は1万数百年、本格的に入ってくるのは8千年ぐらい前ですね。
伊東
B.P.(before the present=現在から…年前)ですね。つまり、いまから8千年ぐらい前ということですね。
小泉
そうです。
安田
それよりも前に、すでに南九州ぐらいまでは対馬海流の影響が来ているのでしょうか。
小泉
そうです。
安田
私は何を言いたいかというと、対馬暖流が入ることによって、冬の積雪量あるいは降水量が増大するということは、温帯の落葉広葉樹の森の生育に非常に適した環境が世界に先駆けてできるということなんです。対馬暖流の海面が急激に上昇して、日本海にちょっとでも影響を及ぽすと、日本列島の気候が変化して、ブナやナラの温帯の落葉広葉樹の森が生育する環境が世界に先駆けていち早くできるわけです。そのことが日本列島の文明の発展に根本的な大きな影響を及ぼしている。たとえば対岸の朝鮮半島や沿海州にはかならずしもそういう影響は及ばないのですが、とりわけ日本列島には対馬暖流が強く影響している。
いまわかっていることは、暦年代で1万4千5百年前にたいへん大きな環境の変動があったことです。それ以前は氷河時代の気候で、トウヒ、モミ、ツガのような高山帯から冷温帯の針葉樹の疎林の森が広がっていたわけですが、1万4千5百年前に突然ブナ、ナラなどの温帯の落葉広葉樹の森が拡大していくのです。その背景にあるのは、対馬暖流がすでに近くにやってきていて、日本列島が海洋的な気候になりはじめたからではないか、と考えているわけです。
1万4千5百年前に温帯の落葉広葉樹の森が拡大するというところは、世界広しといえども、いまのところ日本列島と西アジアのレバント地方だけです。西アジアのレバント地方でも、1万4千5百年ぐらい前に、落葉のナラ、ピスタチア、アーモンドなどの森が拡大してきます。それ以前は、アカザやヨモギの草原が広がっているわけです。この西アジアのレバント地方が、やはり氷河時代から後氷期(→注14)の移行期にもっとも早く森が拡大するところなのです。
そこでいったい何が行われたか。もっとも早く森が拡大したところで、人類がもっとも早く定住革命をやっているわけです。森が拡大することによって、いままでは草原で狩猟・採集をして移動していた人間が、森の資源を利用することによって定住生活を始める。そして、定住を始めることによって縄文土器というものを使った生活を始める。だから、対馬暖流の流入でちょっと海面が上昇すれば日本の気候が温帯の落葉広葉樹の生育に適した海洋的な気候になる。そういう特色によって、日本の縄文文化は世界最古の土器を持つようになったのだろうと思います。
では、同じように森が急激に拡大したレバント地方ではどうかというと、レバント地方でもやはり1万4千5百年前に定住革命が起こるわけですが、そこでは土器はつくらないで、むしろ農耕が引き起こされるようです。ですから、森が氷期から後氷期に大きく気候が変わるなかで、温帯の落葉広葉樹の森がいち早く拡大したところ、それが旧石器時代から新石器時代へと大きく人類史を塗り替える役割を果たしたパイオニア的な場所であって、その一つが日本列島なのです。その理由は日本海にあるとみなしてよいでしょう。日本海に対馬暖流がちょっと入れば、急激に日本列島の気候が温帯海洋的な気候になるということではないかと思われます。
小泉
1万4千5百年前に非常に劇的な環境の変化があったのではないかというご指摘であります。残念ながら、日本海の海底堆積物のなかには、いま安田さんが言われたような1万4千5百年という非常に古い年代に対馬暖流が流入した証拠が見つかっておりません。安田さんも話されましたように、東シナ海あるいは太平洋でそういう徴候があって、それが大気のなかの湿潤さをもたらし、それが森林の形成に影響したという筋道のほうが、1万4千5百年を説明するには適していると思います。
ご存知のように、海と大気とをくらべていった場合、運動性、伝播、熱容量等が千倍ぐらい違いますので、海流系の変動が出るまえに大気の変動があったのではないかということで、先ほどお話したように、海と陸との関係を調べるような段階に連しております。
安田
ということは、いままで100メートル以上海面が低かったのが、50メートル、60メートルになって、対馬暖流が日本海に流入しなくても、海の環境が近づいてきたということによって日本列島が海洋的な環境になってきたということですか。
小泉
ええ。どこかに熱がプールされていましてね。そういう意味で東シナ海あるいは南シナ海が日本海と連動していて非常に大事だということです。われわれの視点をもうすこし広げていかなければいけないということであります。
安田
小泉さんがおっしゃったように、日本海に海底堆積物からはっきりと対馬暖流が流入したということがわかる8千年前というのは、まさにブナ林が日本列島の本州の北部まで一気に拡大する時期なんですね。対馬暖流が流入した時代が8千年前であって、しかもその時代、8千年から8千5百年前に世界的にたいへん大きな気候変動があったということもわかっているわけですね。だから、その時代が日本の海洋的な文明への第一歩がほぼ確立した時代であると言っていいだろうと思うのです。
小泉
それでは大塚さん、日本海ないし環日本海地域での人類学的な特色についてご発言いただけますか。
大塚
多少話がそれますが、時間軸で言いますと、日本海そのものの新たなる誕生ということで1万4千5百年という年代が出たわけです。その時期は奇しくも考古学でいうと細石器文化(→注15)と同時代なのです。これらの担い手はモンゴル高原などから押し出してきた人たちと思われるのです。それがアムール流域に達し、逆さ地図でいうと左手回り(時計の針の動く方向)でサハリン、北海道に入る。もう一方は西北九州を中心とした、たとえば福井洞穴遺跡(→注16)とか、そのあたりとほぼ年代的に平行し、日本列島全体が細石器文化圏に入るわけです。ですから、細石器文化の形成というのは、環日本海をつなぐ海を中心軸におきながら、陸と海峡を結ぶ円環状のルートの成立という点を問題にしておく必要があると思っているわけです。
そういう流れのなかで、大ざっぱに言いますと、大きな激動期が日本海にやってくるのは「東アジア経済圏の成立」が一つの大きな時期であったろうと思います。さらに江戸時代のいわゆる北前交易の時期に蝦夷(えぞ)地・北蝦夷地、現在の北海道やサハリンでは大陸との山丹(さんたん)交易などが行われていた。
山丹交易というのは、中国の浙江(せっこう)省周辺、要するに長江流域で出来た絹製品が北京や東北地方のほうにもたらされて、逆さ地図でいえば下がっていって、それがアムールのほうに流れていった。アムール下流域をアイヌはサンタンと呼んでいましたから、アイヌはそれを山丹地方からもたらされることからサンタチミプ山丹服と呼び、和人(わじん)社会はアイヌ(蝦夷人)から手に入れたから蝦夷錦(えぞにしき)と言うようになった。そういう錦の造、まさにシルクロードがあるわけです。
同じような状況は、当時の琉球、沖縄のほうにも同時に起こっているわけです。12、3世紀、ちょうど、沖縄で王国ができるころですが、北海道のアイヌ世界(アイヌモシリ)でチャシ(砦)がつくられたり、沖縄でグスク(城)がつくられたりする。そういう同じような状況のもとに、ある意味で首長制社会といえるものが、両方に生まれてくる。
しかし、それが「国家」という形成までにはいたらなかったというのがアイヌ側です。琉球王朝は明確に中世から近世において強力な国家的様相を持つわけですが、両者の権力構造の段階と発展のテンポというものが違います。アイヌ側はどちらかというと北方系であり、成熟した採集民ですが、寒冷地であり、冬を越すことで食糧の備蓄が必要であり、寒冷地におけるとか生産手段の面でやはり弱さというものがあろうかと思うのです。そういう両者の大きな違いがあったのです。
私が言いたいことは、先はども述べましたが、元から明にかけての時期13〜14世紀を中心に、いわゆる東アジア世界、中国を軸とした商品経済圏のなかで、それぞれの地域集団で存在した人たちが民族的なかたちでまとまりをもってきた。それぞれが交易によって経済力をもち、自らの利益を守るために武装化までもした。たとえば樺太アイヌは元の軍隊とアムール下流域で戦ってさえいます。これはアイヌが樺太全域を制覇した時期があったことを意味する。アムールのそれぞれの地域の先住・小数民族も占有の地域や小集団のまとまりを拡張したり縮小したり、少数民族といえども、かなりの力を待ったり弱体化したりということの繰り返しをしている。そういう伸び縮みのありようというものが、環日本海地域諸民族の興亡のありようが、歴史的な文化的色どりをおもしろくしているわけです。
このへんは関連諸科学の力を借りて、もっと立体的に浮かび上がらせることができるのではないかと思っています。そういう意味で大いに期待しているわけです。
小泉
ありがとうございました。環日本海地域、とくに中国における商業化に伴う日本海とのかかわりにおける海のシルクロードが南と北に首長制社会を同時に形成したが、それが国家形成にまで至ったか否かについてお話されました。それでは、伊東さんには日本海文明交流圏の歴史的展望というか、あるいは時間を通しての変質みたいなことをお話いただければ、日本海ないしは環日本海地域の特色、歴史的な変遷が見えてくるのではないか。あるいはわれわれにそれが見えていないとすれば、どういうやり方をして、それを見えるようにしていくか。伊東さんは、歴史学はこれまで陸域だけで、海からの視点を欠いていたということを問題として指摘されていましたが、それでは具体的にどうすればよろしいのかということもお話しいただければと思います。
伊東
日本海文明交流圈ということは、もちろん何の根拠もなく言っているわけではないのです。それには交流の事実があるんです。だけど、それをいろいろな人が断片的に研究しているだけでした。私はそれをもうすこし統合して考えてみる必要があるのではないかということで、私自身が興味あるトピック(話題)をいくつかあげて、『比較文明』の11巻、「日本海文明交流圈」のなかで述べています。
時間的な順序でいうと、まずおもしろいなと思ったのは、けつ状耳飾りというのがあるでしょう。これの分布を藤田富士夫さんが研究されて、『古代の日本海文化』のなかでも述べておられますが、それが富山あたりを中心として沢山発見されているんですね。たとえば極楽寺遺跡とか明石(あげし)A遺跡とか、富山県から石川県にかけてずっと分布している。それはだんだん広がっていくのですが、その起源をたどると、なんと、これはもとが中国江南の河姆渡(かぼと、→注17)なのです。B.P.6千年前に、そこでけつ状耳飾りが使われていたのです。
それは中国のいろいろなところに伝播(でんぱ)するけれど、いちばん早く日本へやってきた。いまから5千年前後(縄文時代中期)のところで、ここ北陸までやってきたわけです。中国各地へはB.P.4千年以後です。だから、中国各地への伝播よりも早く日本の富山県のほうにけつ状耳飾りが伝播してしまったのはすごい。これはかなり精細な研究がなされて、地図の分布などは藤田さんのご本に出ています。非常におもしろいと思う。
そして、これはけつ状耳飾りだけではないのです。中国の安志敏(アンシーミン、→注18)という人が言っているように、いろいろなものが東シナ海と日本海を通してやってきた。安田さんがご専門の鳥浜貝塚の漆や高床式の建築も同じルートではないかと言われている。そういうようなことが一つあります。
次におもしろいなと思ったのは、四隅突出型方墳(よすみとっしゅつがたほうふん)というお墓がありますね。これも藤田さんたちが調査したら、富山県だけでなく出雲のほうで出たのですが、四十基ぐらい出てきたそうです。どうして日本海側だけにできているのかが不思議なのですが、全浩天(チョンファチョン、→注19)という朝鮮の研究室がこうした古墳を研究していますが、さかのぼっていくと、鴨緑江(おうりょくこう)の中流にその起源がありそうだということがわかってきたようです。
これは森浩一さん(同志社大学名誉教授)なども興味をもってやっておられますが、もっともっと研究されなければいけない。こういう点では北朝鮮の学者、韓国の学者、中国の学者が共同研究をして、ディスカッションをしなければいけないですね。日本人だけで納得する日本史、これは絶対やめなければいけない。近隣諸国の人々も納得する歴史でなければいけない。日本人だけで抱き合ってバンザイしているようではいけない。それだから、考古学の捏造(ねつぞう)まで出るんです。もっとほかのところの人を入れた共同研究をやるべきなんです。日本だけでなく、日本の周辺の人も納得するような研究をする。そのほうが日本史もずっとおもしろいじゃないですか。
もうひとつだけあげれば巨木大型建造物です。これも日本海沿岸で非常にユニークなものではないですか。ただこれも今のところバラバラですね。秋田県の杉沢台、富山県の不動堂、能登半島の真脇、金沢近くのチカモリ遺跡などから巨木大型建造物が出ている。そして、これは結局出雲大社にまで結びついていくのでしょう。出雲大社のは現在のものよりずっと大きかった。大きかったどころじゃなく、空中神殿じゃないかといわれているが、あれはすごい柱で支えなければいけない。これらは一連の日本海的現象として相互連関的に研究してみたらいい。時代はもちろん違うが、三内丸山から始まって点々とあるわけです。
これは朝鮮の学者によると、朝鮮半島では見られない。では、どうして日本海沿岸にすごい大木を使った、巨大な建造物が造られたのか。そこにはどのような気候的、社会的、あるいは宗教的要因があったのか。これは相互に連関している現象だと思います。そういうような研究の機運も日本海学が始めていいんじやないですか。いままで別々にやっていたわけですが、私から見ると、なにかそこに共通性があるな。おもしろい日本海的連関性がある。
これは何も富山県のことだけではないということになります。秋田県もあれば、石川県のほうにもあるわけです。それらを通して日本海沿岸のおもしろい現象が出てくるのではないかと思う。その他、神祇(じんぎ)信仰、朝鮮の神様との関係、嫁入り婚の習俗など、日本独特だと思われていたものが沿海州のほうにあったとか、そういう研究もあるわけです。
そういう開かれた研究テーマというものを設定すれば、これからどんどん伸びていくと思います。しかも、それが今まではバラバラにやられていた。それはそれで進めていいし、それぞれの特色もあるでしょう。しかし、それをつなげて関連させて観察し、考察してみるということが、日本海学というのだったら、あってもいいのではないかと思うのです。
日本海文明交流圈の具体相を相互連関的に考える。そうすると、これは中国・朝鮮との関係、あるいは沿海州との関係というものが、重要なものになってあぶりだされてくるに違いない。これはおもしろい未来があるのではないか。これは、日本海文明交流圈の研究というのが、国際的でなければいけないということにもなります。
小泉
伊東さんには、時空的な、あるいは時空を超えたさまざまな事象、ないしは時点における相互連関の大切さをご指摘いただきました。これは富山県の県庁の人たちが強調されている日本海、あるいは日本海域における循環とか共生の体制につながってくることだと思います。
安田
一つ、地図を見ながら思ったのですが、大陸の文明が繁栄したところと日本列島との関係を見たとき、もちろんいちばん近いのは朝鮮半島と北九州ですね。北緯40度よりも北はあまり文明が繁栄しないわけですが、北でもっとも近いのが東北地方の北部と沿海州。それから、もう一つは揚子江(ようすこう、長江)の下流と南九州ですね。意外に近いですね。いままでわれわれは太平洋側から見ていたから距離が遠いと思っていたけれども、こういうふうに日本海側から逆さにして見ると、ものすごく近いということがわかる。だから、先ほど伊東さんが、河姆渡遺跡と鳥浜貝塚に深い関係があるとおっしゃったが、古代の人々には船を使って移動できる範囲だったと思います。
日本列島と大陸との3つの近接ルートは、第1が河姆渡から直接南九州へ来るルート、第2が朝鮮半島から北九州と日本海沿岸に来るルート、第3が沿海州から東北地方北部へ来るルートです。
伊東
そう。沿海州を考えなければいけない。そこはまだ非常に不十分です。これはやはり考えなければいけないですね。
3 新世紀に期待される「日本海学」
小泉
では、最後の3つ目の柱に移りたいと思います。「新世紀に期待される日本海学」ということで、これから先における日本海学のあり方について、みなさんのご希望をうかがいたいと思います。最初に私から簡単に述べさせていただきます。
先ほど安田さんが、争いのないおだやかな内海として日本海をとらえる視点を述べられました。ということは、荒々しい外海、たとえば日本海に対して太平洋のようなものが対峙的にあると思います。いま、3番目の未来志向の大きいことを考えようとしていますが、私たち人間だけでなく、いま陸上にすんでいる生物はみんな海から上陸してきました。血液や、赤ん坊がお母さんのおなかの中にいたときの羊水は海水の成分と同じです。生理的食塩水というのは約0.9パーセントの食塩を含む水で、体液と同じ浸透圧をもちます。そういう背景があるものですから、私たちは海に対するあこがれみたいなものを無意識に待っている。その海というのは、けっして外海の荒々しい海ではなく、内海のおだやかな海が私たちの生命が陸上に上陸してきた場所であったはずです。そのことが私たちの脳裏に刻み込まれていて、たとえば夏休みに海水浴に行く。山に行く人もいますが、リゾートには海に行く人が圧倒的に多い。お正月、冬場になると禊(みそぎ)という行為があります。あれは海水を頭からかぶったりして汚れを流すわけですが、そういったことにも海に対する思いが込められているわけです。
そこで私は、海と陸とをつなぐ渚(なぎさ)の部分を大事にして保存していかないといけないと思うのです。いままで、その部分をコンクリートで固めたり消波ブロックを置いたりしてきましたね。それはまずいことなので、そういうことをやらないようにしたい。昔は松林があったはずです。その松林を復活させたり、渚を復活させる必要があるのではないかと思います。
そして、伊東さんが先ほどちょっとお話しになっていましたが、環境問題とのかかわりです。中央と地方との関係が環境問題を境にしてなくなったのではないかと思います。環境問題というのは、環境問題があるその場所が問題の場所なんですね。あらゆる環境問題はそこから始るので中央と地方との違いがないということです。いま、中央から地方に行政が移りつつあります。そして、21世紀はライフスタイルを豊かにしよう、生きがい、充実した生活のあり方というところにウエートが移ってきています。ガリガリ働いているばかりでなく、生活圏のアイデンティティ(主体性、独自性)みたいなものを充実させていこう。それには教育、スポーツ、文化が関与してきているんだと思います。
大塚さんが研究されたり、関心を持たれていることで、これから日本海学にかかわっていくことで、こういうことをやっていかなければいけないのではないか、というようなメッセージを述べていただければと思います。
大塚
一つは、日本海というものの持っている水域の利用です。それは海の道としての利用があるわけですが、もっとたいせつなことは、魚をはじめとする、マンガン鉱とか深層水とか何でもいいのですが、いわゆる海岸資源です。沿岸諸国がその資源をどうやって分かち合うかという問題です。とくに、日本海を再生産させ、豊かに常に豊富な海産物を持続的に保証しているのは、むしろ開発されていない陸地が、自然のままの森が陸地にある地域です。問題は、そこに現在でも先住民が生活しているわけです。国家と先住民とのこれからの関係ですが、現代において鋭く利害が対立してきており、強大な国家権力を横暴に行使すれば、先住民とその豊かな資源の大地はいっぺんに吹き飛んでしまうわけです。
地球も終わりが来るかもしれませんので未来永劫(えいごう)とは言えないかもしれませんが、ある意味で永久にわれわれ人間と自然との関係を保っていくには、民族の問題と国家の関係、資源の共有化、経済戦略だけでなく文化戦略をどうするのかということを、沿岸諸国がこれから真剣に考えていかなくてはならない時代に来ているのではないかと思います。
多様な先住民が現在でも居住している沿海州やサハリンは、いまでもサケ・マスが遡上する清らかな場所です。豊かな海と陸を持っている先住民の世界があります。珍しいからといって、そういう先住民文化を残すというのではなく、日本海沿岸に生きる人々が運命共同体として、国家と先住民の利害のバランスをどうはかっていくかが、これからいちばん問われるのではないかと思っています。
伊東
私は日本海学の未来ということでいうと、まず言いたいのは「日本史の解放」(emancipation)であり開放です。日本史も日本というものだけに閉じ込めてやってきたが、これを国際的に開放しようということです。文明交流のダイナミズムを明らかにすることによって、「北東アジア共生の意識」がおのずと育つのではないかと思う。お互いに負うところが多いということがますます明らかになることによって、日本文明の本当の意味でのアジアにおける位置づけというものもはっきりしてくる。これの持つ意味は大きい。他のアジア諸国とこれからどういうような交流をしていくか。そして、その関係を健やかなものにしていくためには、こうした研究を推し進めることだと思います。
これは日本海だけではないんだけれども、日本海に限っていえば、それによって北東アジアの共生の意識というものがおのずと育つだろう。歴史的に、民族学的に、考古学的に、過去・現在・未来を含んで、よりよい関係をつくっていくことができるだろうと思います。
いま「国際的に開く」と言いましたが、中国やロシア、とくに朝鮮・韓国の人たちといっしょにやらなければいけない。こういうふうにして開放していく。
この場合、「日本海」という名称も問題になるかもしれません。私はこのことをじゆうぶん意識していますが、それはちょっとおいておくことにして、仮に「日本海」ということで進めることにして、これは日本だけの海だという意味を持たないということを確認したうえで使います。日本史の開放の第2は、中央からの開放です。
いままでの日本史は日本国家の歴史です。ヤマトの政権ができて、それがどんなふうにほかのところに支配したかということをいろいろ書いている。だけど、歴史的遺産とは何かということを考えたときに、すごく重要なものを落としていると思う。アイヌや沖縄のこともそうだ。いま地方史というものが盛んになっているが、それはそういうことだと思うんです。
国家史としての歴史というのは19世紀の産物で、私の予想だと21世紀にはまずまずあまり重要ではなくなるのではないか。いつまでもこんなことばかりやっていたら自分の国も世界のなかで、もたなくなりますよ。国際的に開くと同時に、中央からでなくて地方そのもの、その土地その土地の特徴に注目していく。そして、そこの住民の立場に立って考えていくという歴史がなければならないですよ。今まではそれが中央に吸い込まれるかぎりにおいて、歴史を記述していたんじゃないですか。それでは事実の一片だけがわかるだけにとどまります。
そうすると、これは小泉さんが言われた環境問題とも結びつくと思います。環境問題は地域住民の問題です。中央の連中はわかっちゃいないし、これからわからなければいけないんだけれど。これまでは日本列島改造論(→注20)みたいな、上からの強引な手法でやってきて、そのためにいろいろな弊害が起こっているわけでしょう。だから、地域住民の立場に立ったものでなければいけない。いま大塚さんが生活圏と言われたが、そこに基盤をおいてやっていかなければいけない。そういう中央からの「開放」がもう一つ必要だろう。そして、それは環境問題と結びついていく。
それと同時に、もう一つは大塚さんが取り上げられた先住民の問題です。これも大きな問題で、アイヌ、沖縄だけではないと思う。日本海周辺には先住民的なものが残る可能性が大きかったと思う。そこは中央から離れていても、中央から支配される関係にあったところなので、そういうものが日本海周辺を通じてずっとあった。中央の立場ではなくて、地域の立場に立って見たら、日本海地域にはこれから据り起こしていくことがたくさんある。それが日本海学の未来ではないだろうか。そういう意味でこれはおもしろい問題を提起しています。
では、安田さんにまとめてもらいましょう。
安田
いま、伊東さんのお話をうかがっていて思いついたのですが、ぼくは日本海は「平和の海」であって「森の海」だと言いました。なぜ森の海であったかというと、それは日本海が平和の海であったからだと思うんです。地中海はかつては深い森に囲まれていた海だった。それなのに、なぜ森がなくなったか。ギリシャ、ローマが戦争をして、大量の木材を船に使っていったからです。つまり、かならずしも地中海というのは平和の海ではなかった。
ところが、日本海は縄文時代以来、きわめて長いあいだ平和の海であった。だから、森が維持された。それは偶然のことだといままでわれわれは思っていたのですが、そうではない。日本海を取り巻く地域に住んでいる人々の生活のあり方、ものの考え方が、森、自然と共存するというディシプリン(規律、作法)をどこかに持っていた。だから森が残った。戦争を回避するという知恵を持っていたというように、もういちど見直す必要があるだろうと思うのです。
いままでは、生活の貧しい先住民が住んでいたから日本海の周辺に森が残った、地中海は文明が発展しているから森がなくなったんだという見方だったのだけれど、そうではなくて、日本海が森の海であったということの背景には、日本海周辺に住んでいる人々が、森を破壊しつくさない哲学を持ち、森と共存するライフスタイルを長いあいだ維持してきたからではないでしょうか。そして、森や自然を破壊しつくすようなことに対する、ある種の欲望のコントロールのようなものを持っていた。だから、日本海が森の海でありつづけたということができるのではないかと思うのです。
そういう視点で見ると、伊東さんがおっしゃるように日本海文明交流圈というものは、じつは新しい文明の発見なのです。いままでは日本海の周辺にいる先住民、あるいは縄文が文明を持っていたとは思わなかった。われわれが言っている文明というのは地中海文明で、これが文明の典型でした。しかし、それは地中海沿岸の森を徹底的に破壊しつくしてしまった。そして、荒野に変えた。ところが、日本海周辺には森を破壊しつくさない、地中海文明とはまったく違う文明があったのではないでしょうか。それが日本海文明ではなかったかと思うのです。
だから、これから日本海の研究会をやっていくことで、いままでわれわれが文明だと思っていたものとは違う、新しい文明の発見というものが21世紀にあるかもしれない。
伊東
なるほど。おもしろいなあ。私は日本海は地中海に似ていると言ったけれど、それは日本海を地中海ダッシュにしようということでは全然ない。日本海文明のユニークさというものを地中海文明をおいてみることによってあぶりだしていくということもあると思う。安田さんはそういう点で非常に貴重な発言をされています。私もそういうふうに考えていきたい。とくに森の問題、森と人類との将来の関係、こういうものも含めた新しい文明の形成ということも視野に入れていいのではないかと思います。
小泉
おっしゃる通りですね。この次は、地中海と日本海との文明、あるいは環境という、まったく違う二つの地域での人間とのかかわりについてのシンポジウムを催したいと思います。
本日はありがとうございました。
注1 地震や火山の噴火、造山運動などの原因・メカニズムをプレートの水平運動で説明する理論。プレートは地球の表層部をおおう厚く硬い板で、一枚の厚さは約100キロメートル、これが何枚もおおっている。各プレートは違う方向へ動いているために、プレートの境界で離れたり衝突したりずれたりして、その結果、海嶺(かいれい)や地溝帯、海溝、山脈などの地形ができる。
注2 紀元前1100年ごろ、もっとも遅くギリシャ半島に入ってきた古代ギリシャ人の一派のこと。ペロポネソス半島に侵入して定住、先に栄えていたミケーネ文明を滅ぼした。
注3 鎌倉時代中期の元(蒙古、もうこ)の日本襲来のこと。文永の役(ぶんえいのえき、1274年)と弘安の役(こうあんのえき、1281年)の二度にわたったが、襲来した船団が嵐で壊滅状態になるなどしていずれも失敗に終わった。
注4 鳥居龍蔵(1870〜1953年)は徳島市生まれ。独学で考古・民族・人類・史学にわたる諸領域を開拓、生涯国内外の研究を続ける。明治・大正年間に、満州、台湾、千島列島、西南中国、東部蒙古、樺太、東部シベリア、朝鮮などへ何度も調査旅行をしている。
注5 菅江真澄(1754?〜1829年)は三河(愛知県)生まれ。国文学者であり紀行家。1783年(天明3)、東北から蝦夷地(北海道)へ渡って3年間行脚(あんぎゃ)、その後、弘前(ひろさき)藩を経て秋田藩に身をおき、永住。江戸後期の東北の歴史や地理を克明に記録して浮き彫りにした。
注6 倭館は日本からの使客接待のために朝鮮に設けられた施設。室町時代には三浦(富山浦(ふざんぽ)、薺浦(せいほ)、塩浦(えんぽ))にあったが、江戸時代には富山浦(現在の釜山)のみになる。幕府から日朝貿易の独占権を認められた対馬藩からの代官が派遣されて貿易を行った。
注7 対外交易の窓口として幕府より公認された長崎のほか、対馬、琉球、そして北方に秘かに開かれた蝦夷の四つの交易ルートが存在した。
注8 ラルフ・リントン(1893〜1953年)。アメリカの文化人類学者。北米大陸で先史考古学のフィールドワークを、太平洋の島やマダガスカルで民族学的なフィールドワークを行い、ヨーロッパ圏外の諸文化の研究で多くの重要な貢献をする。また、多岐に分かれがちな文化人類学を総合化する努力もした。
注9 セム語やハム語を使う民族のこと。前者はバビロニア人・アッシリア人・フェニキア人・ヘブライ人、後者はエジプト人・エチオピア人などが属し、エジプト・メソポタミア文化をはじめとする古代オリエント文化の担い手となった。
注10 フェルナルド・ブローデル(1902〜1985年)。フランスに生まれ、第二次世界大戦中、ドイツの捕虜収容キャンプにいたとき、記憶をもとに『フェリペニ世下の地中海と地中海世界』を書きおろし、戦後出版してフランスの歴史学に大きな影響を与えた。人文地理学や社会諸科学の成果を取り入れた総合的な歴史の把握をめざした。
注11 アイヌの口承文学の一つで、ユーカラと記されてきたが正しくない。文字をもたなかったアイヌは口承によって叙事詩や物語を伝え残してきた。なかでも超人的な力をもつ少年の冒険を物語る英雄叙事詩がユカラを代表するものとして知られている。長いものでは語り終えるのに一昼夜もかかる。
注12 近世から明治の中ごろにかけて、大坂から瀬戸内海をぬけて日本海沿いに蝦夷地(北海道)を結ぶ海運で活躍した船。北を前にして進むから、北国松前(まつまえ)の略、北回りの略などの諸説がある。春の彼岸のころ大坂を出発、各港に寄港していろいろな物を買いながら北上。蝦夷地でそれらを売り、帰りは蝦夷地で買った産物を各地で売りさばき、11〜12月ごろ大坂に戻った。
注13 江戸時代には、大量の荷物を運ぶのための河川や海上航路を利用した水上交通が盛んだったが、明治以降は鉄道を中心とする陸上交通に切り替えられた。
注14 地球の歴史では、人類が活躍する第四紀(いまから約160万年前から始まる)は氷河が存在する氷河時代にあたる。氷河の規模は時代によって違い、現在よりも寒冷で広く氷河が発達する時代を氷期、温暖で氷河が縮小する時代を間氷期という。現在は間氷期にあたり、先の氷期が終わった後の時代なので後氷期ともいう。一般には氷河時代という用語は氷期のこととして使われている。
注15 約1万2千年前から世界のほとんどの地域に分布。細石器は長さ3〜5センチ以下の小さな各種の石器組成。木や骨製の柄の縁側に溝を込み、そこに複数の細かい石刃を装着して刃部として使用、欠けたりするとその部分の石器を取り替えて使った。シベリアから環北太平洋地域には、石刃を著しく小型にした細石刃が分布する。
注16 長崎県吉井町にあり、日本でもっとも古いタイプに属す土器が細石器とともに発見されている。また、ここでは、円盤状に整形された中央に孔のあいた土器片が出土している。
注17 河姆渡遺跡は中国の浙江省にあり、1973〜78年に発掘調査が行われ、ここの最下層からけつが出土、またその上の層からは、大量の稲籾(いなもみ)や稲作農具が出土している。放射性炭素測定では、これらはいまから7干〜6千年前のものと推定されている。
注18 安志敏は、東シナ海を通じた先史時代の中国と日本の関係を論じている。すなわち河姆渡やそれに続く長江下流の文化が日本の先史時代に影響を与え、縄文時代のけつ状耳飾りや漆器、また稲作、高床式建築などの文化は、長江下流域に起源があるとしている。
注19 全浩天は、山陰地方の四隅突出形方墳の源流を朝鮮民主主義人民共和国と中国の国境を流れる鴨緑江中流域にある高句麗の積石塚に求めている。要旨は『朝鮮から見た古代日本』未来社、(1989年)を参照。積石塚にあるを貼石(はりいし)が四隅突出形方墳のまわりにもあり、四角い外形も似ているという。
注20 高度成長時代の末期(1970年代初め)、自民党の田中角栄が打ち出した国家政策。当時、欧米諸国との経済摩擦と自由化で行き詰まった日本経済を活性化するために、国家資金で行う大規模な建設事業を地方に誘致する主張。
http://www.nihonkaigaku.org/library/other/i001125-i2.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c163
177. 中川隆[-12866] koaQ7Jey 2019年1月19日 21:56:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019年秋、世界株式市場のバブル崩壊!?いまはまだ認識されていない世界バブルの要因=吉田繁治 2019年1月18日
https://www.mag2.com/p/money/623424
リーマンショックから11年目を迎える今年、バブルの崩壊は間近に迫っているのでしょうか。世界と日本の経済状況と現在の株価について詳しく解説していきます
2019年はリーマン危機から11年目、バブル崩壊のリスクへの考察
2019年秋の危険
現在の投資家の期待との、「認識のズレ」が明らかになって来ると、秋の暴落(S&Pで30%安)があるかもしれません。
現在の株価は(=投資家の意識は)18年7月に始まった米中貿易戦争から、まず中国の経済成長の低下があり、複雑な経路を通ってそれが、世界のサプライチェーンに波及していく実体経済のファンダメンタルズをまだ織り込んでいないからです。
バブル崩壊の始まりは、資産(株価、不動産)の高値の中で、些細に見えることが、自己強化して波及し、ダムの決壊に至るものです。米国のサブプライムローンの不良化も、リーマン危機に至る1年前の2007年には、小さなものでした。
バブルとその崩壊はいずれも行き過ぎる
今回のように、中央銀行が増刷したマネーから生じた過剰流動性の中にある株価は、高くなるときも下がるときも、「行き過ぎ」が起こります。
投資家の期待で売買され、取引市場で日々の価格が決まる株価には、理論価格はあっても「適正価格」はありません。
「現代ファイナンス論」では、理論価格を下の式に示すように考えています。(1997年のノーベル賞のロバート・マートン等、オプション価格を計算するブラック・ショールズ方程式の正当性を証明)
理論価格にも投資家の、将来の期待金利、純益実現の期待リスク率、企業の期待利益という、将来への予想が入っています。実現した純益や金利データからではなく、株を売買している投資家集合の予想が入ってるのです。
わが国の経済紙・アナリスト・証券会社はしばしば、日本の株価は米国に比べて「出遅れている」と論評します。米国に比較したときの予想PERの倍率(株価÷次期予想純益)が11.67倍と低く、PBR(純資産倍率=株価/純資産)も1.08倍と低いからです(19年1月:日経平均225社)。
※参考:日経平均PER 日経平均比較チャート
しかし、この株価は、
・日本の企業の利益と金利の結果ではない
・日経平均225社の将来利益に対する、投資家の予想値が低いことを示す。これが、日本より高い期待値の、米国のPERとの差
この意味で「出遅れ」はありません。
理論株価=(企業の期待純利益の累積額)÷(期待金利+純益のリスク率)
=(企業の期待純利益の累積額)÷期待収益率
=次期予想純益×PER倍率
(注)PER=現在株価÷次期期待純益
(1)企業純益への期待が上がり
(2)予想金利が下がって
(3)GDPへの成長率期待から、利益の実現リスク率が下がると株価は上がる。逆なら株価は下がるというのが、理論株価の方程式の意味するところ
投資家の集合的な心理である将来への期待純益と、その純益の実現のリスク率は、高くも低くも行き過ぎます。日本では、ソフトバンクがそれです。米国の代表はアップル、アマゾン、グーグル、中国ではテンセントやアリババグループです。
これらの企業では、いずれも現在の純益ではなく、将来利益への過剰な期待から株価が作られています。この集合的な心理は、個人の思いとかけ離れることも多い。「集団心理」と表現してもいいでしょう。
価格を決める市場は集団心理
人は集団になると、違った心理になります。国と国の戦争や、チームスポーツを想定すれば、集団心理のありようが分かります。
心理は、自発的で能動的な理性と違い、現象に対する受動的な感情であり、行動を促すものです。同じく行動を促す意思は、理性の領域のものでしょう(カントに基づくものですが、用語は変えています)。
株価・不動産の資産バブルと、バブルの後100%の確率で起こる崩壊も、集団心理が引き起こします。人は影響を及ぼしあって、社会を作っています。国外には脱出できても、社会からは遁走ができないため、バブルとバブル崩壊は一定の時間をおきながら「繰り返し」ます。
交易のない孤島に1人なら社会はなく、本能で食をとる動物のように自然のものはたタダで、資産バブルも崩壊もない。もともと価格がないからです。経済の価格は所有者があり、それを人が買うときのものです。
商取引と価格は、心理が影響し合う社会の中で生じます。経済は、人が影響し合っている社会で起こる商取引です。人の心理は「社会と組織の場」で交流し合っています。組織の空気、社会の空気がそれです(山本七平)。その状態を書くのが経済紙です。
<20世紀から21世紀のバブルの崩壊>
資産バブルの大きな崩壊は、
(1)まず、米国の1929年からの大恐慌
(2)世界大戦(経済的には蕩尽と大規模破壊)を挟んだので61年間起こらず
(3)戦後は、日本の1990年から崩壊した資産バブル
(4)その10年後は、米国の2000年に崩壊したIT株バブル
(5)8年後の2008年は、米国のサブプライムローンの不良債権(デリバティブ)から始まったリーマン危機
いずれも、利下げによる過剰なマネーが資産バブルを引き起こし、不良債権の増加から崩壊しています。
GDPの成長率に対して、マネーの総量(世帯と企業の預金であるマネーサプライ+中央銀行が発行するベースマネー)の増加率が高いことが続くと、過剰になったマネーは、資産(株と不動産)に向かいます。
日本以外の世界では、今、不動産バブルの最中です。日本は、人口減の予想から、ゼロ金利の体制でもさして上がっていない。空き家も820万戸もあり(2013年)、1年に13万戸は増えるので、現在は880万戸〜900万戸でしょう。
そして、数年から10年は、株と不動産が経済非合理的な価格に上がっても、買われ続けてバブルになります。
そのバブルは、(1)金利の上昇、(2)マネー量の縮小、(3)あるいは、高すぎたGDPの期待成長率の低下、といういずれかの要因によって、100%の確率で崩壊します。
マネーは資産であり、負債である
マネーは持ち手にとっては資産です。しかしそれは、借り手にとっては収益からの利払いと返済が必要な、負債です。このため、マネーの過剰な増加は誰かの負債の過剰になり、借り手の収益にとって大きすぎる負債が返済と利払いができず、不良化し、バブルを崩壊させます。
…そして、次のバブル崩壊は、米国と中国の2019年から2020年になるでしょうか。
以前、バブル崩壊を想定していた2021年から22年より、トランプ大統領によって、早まったように思います。資産バブルとその崩壊が、8年から12年のサイクルになっているのは、1990年からはGDPの伸び率より、「資産=負債」の構造をもつ信用通貨の量の増加率が過剰に大きいからです。
(注)世界はいま、株長者だらけです。たとえば、株価の時価総額が、アップルとマイクロフトを超えて1位になったアマゾンの創業者ジェフ・ベゾスの資産は、時価総額の約15%の15兆円です。今度の離婚で50%分割なら、7.5兆円。想像を絶しますが、1万円札で750トン。大型トラックの10トン車で75台分(!)です。カルロス・ゴーンの偽装報酬もオプション株が多いのですが、検察が誤魔化したとする80億円が可愛く見えます。所得格差の時代であり、これは、株価の高騰が生んだものです。
「過剰な警戒だ」と考える人々も多いかもしれません。立ち直れないくらいの損をしないための、心の準備を述べています。副次的には、ロスチャイルド家が行ってきたように、長期サイクル的な底値で買う機会を見極めるためでもあります。
資産バブルの中では、バブルとは認識されない
資産バブルは、高騰のただ中ではバブルには見えないのが特徴です。1992年までの、地価高騰の狂乱の中で体験しました(東京約4倍)。100人のうちおそらく99人は、「土地は、まだ上がる」と思っていたのではないでしょうか。親族も、バブル末期の土地投資が原因で破産しました。
土地神話という空気に支配されていた財務省は、1992年から地価が下がり始めても、1994年まで「土地はまた上がる」としていました(西村銀行局長など)。「日本は他国とは違い特別だ」というのが土地神話です。今、郊外では「畑も維持できない空き地だらけ」ですが…。
公的年金を160兆円運用しているGPIFの資産リスク(米国株、日本株)が案じられます。理事は、株神話に支配された運用をしています。GPIFの160兆円の所有権は、年金保険金を払っている国民です。GPIFは、運用を委託されているにすぎません。
日米の株を買い過ぎてしまったため(合計80兆円)、今も今後も売るに売れません。大株主になったGPIFが売れば、暴落するからです。世界のどこも行ったことのない日銀による、株ETFの買いの目的と同じです。価値を減らさない運用のためではなく、株価上昇が支える安倍政権の方針を受け、株価を上げるために買ったからです。
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c177
178. 中川隆[-12865] koaQ7Jey 2019年1月20日 08:39:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019年01月20日
「ミセス・ワタナベ」資金を刈り取る外国投資機関
実際は男性が多く一般投資家より投資機関のドル買いが多いので都市伝説に近い
画像引用:http://blog-imgs-98.fc2.com/d/o/b/dobonsokuhou/2016111223062542f.jpg
ミセス・ワタナベとは誰か
ミセス・ワタナベが登場したのは小泉景気に沸いていた2005年頃で、雑誌か新聞記事になったのが最初でした。
当時1ドル124円で1995年の1ドル79円に比べて大幅な円安となり、つかの間の好景気に沸いていました。
当時日本でもようやくネット環境が整備され、FX(外国為替証拠金取引)を自宅のパソコンでできるようになった。
FXでは2つの通貨の金利差でスワップが発生し、ドル円だと円売りドル買いで毎日お金がもらえました。
当時FXのレバレッジ規制は無制限だったので、レバ100倍だと1万2千円の投資で毎日100円のスワップを受け取れました。
1万2千円の投資で1年に3万6500円ももらえるので「FX主婦」がブームになり、書店には主婦でもできるFXみたいな本が溢れました。
巨額の経常黒字を増やし続けている日本の通貨が円安になっている理由として「ミセス・ワタナベのドル買い」が考え出されました。
実際にはミセスワタナベという人は存在せず、円安時にさらに円売りドル買いする一般投資家を総称しています。
日本のFXポジション状況を見るとドル円は常に8割以上が円売りドル買いで、他の通貨にも円売り8割です。
ミセス・ワタナベになってはいけない
これは日本の金利が世界最低なので、どの通貨に対してもスワップがマイナスになっているためです。
もし他国通貨を売って円を買うと毎日スワップを支払うことになるので、よほど急激に円高にならない限り損をするからです。
当然ながら円安時に円売りドル買いする手法は円高時に破綻し、リーマンショックでは多数の破産者を出しました。
機関投資家が金利収入目当てに円売りドル買いするのを「円キャリー」と言い、海外投資機関もやっていました。
問題は円安時に円売りドル買いをしていると、次にやってくる円高局面で必ず逃げ遅れる事です。
投資本に書いてあるように素早く損切して円売りすれば儲かるのだが、そんな事が出来る人を見たことがありません。
ドル買いしている人は円高時はナンピンしてさらにドル買いし、耐えきれなくなって最後にロスカットされます。
ロスカットされても損失を取り戻そうとさらにドル買いし、サラ金で借金してナンピンしてまたロスカットを繰り返します。
リーマンショックで破産した投資家の多くは、FXでなくてもこうした事をやって失敗していました。
円安時にドル買い、株高時に株買い、土地バブルで土地を買うのは後で振り返るとばかな投資なのは誰でも分かります。
だがその時点では上がるか下がるかは五分五分だったので、景気は良いし今後も好景気は続くだろうと皆思っています。
不況はある日突然やってくるというか、あらゆる不況は気づいた時にはもう深刻な状況になっています。
相場の頂点でポジションの8割がドル買いに偏っていたら、それを刈り取ればゴッソリ自分の物に出来ます。
円安進行時にドルを買う理由だったのが、反転すると今度は円を買う理由になり、すべて刈り取るまで超円高が進みます。
そして円高を仕掛けた張本人たちは、円高の大底で今度は円売りドル買いに転じ、円安になった時も儲けます。
http://www.thutmosev.com/archives/78773226.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/822.html#c178
23. 中川隆[-12864] koaQ7Jey 2019年1月20日 08:40:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2019年01月20日
「ミセス・ワタナベ」資金を刈り取る外国投資機関
実際は男性が多く一般投資家より投資機関のドル買いが多いので都市伝説に近い
画像引用:http://blog-imgs-98.fc2.com/d/o/b/dobonsokuhou/2016111223062542f.jpg
ミセス・ワタナベとは誰か
ミセス・ワタナベが登場したのは小泉景気に沸いていた2005年頃で、雑誌か新聞記事になったのが最初でした。
当時1ドル124円で1995年の1ドル79円に比べて大幅な円安となり、つかの間の好景気に沸いていました。
当時日本でもようやくネット環境が整備され、FX(外国為替証拠金取引)を自宅のパソコンでできるようになった。
FXでは2つの通貨の金利差でスワップが発生し、ドル円だと円売りドル買いで毎日お金がもらえました。
当時FXのレバレッジ規制は無制限だったので、レバ100倍だと1万2千円の投資で毎日100円のスワップを受け取れました。
1万2千円の投資で1年に3万6500円ももらえるので「FX主婦」がブームになり、書店には主婦でもできるFXみたいな本が溢れました。
巨額の経常黒字を増やし続けている日本の通貨が円安になっている理由として「ミセス・ワタナベのドル買い」が考え出されました。
実際にはミセスワタナベという人は存在せず、円安時にさらに円売りドル買いする一般投資家を総称しています。
日本のFXポジション状況を見るとドル円は常に8割以上が円売りドル買いで、他の通貨にも円売り8割です。
ミセス・ワタナベになってはいけない
これは日本の金利が世界最低なので、どの通貨に対してもスワップがマイナスになっているためです。
もし他国通貨を売って円を買うと毎日スワップを支払うことになるので、よほど急激に円高にならない限り損をするからです。
当然ながら円安時に円売りドル買いする手法は円高時に破綻し、リーマンショックでは多数の破産者を出しました。
機関投資家が金利収入目当てに円売りドル買いするのを「円キャリー」と言い、海外投資機関もやっていました。
問題は円安時に円売りドル買いをしていると、次にやってくる円高局面で必ず逃げ遅れる事です。
投資本に書いてあるように素早く損切して円売りすれば儲かるのだが、そんな事が出来る人を見たことがありません。
ドル買いしている人は円高時はナンピンしてさらにドル買いし、耐えきれなくなって最後にロスカットされます。
ロスカットされても損失を取り戻そうとさらにドル買いし、サラ金で借金してナンピンしてまたロスカットを繰り返します。
リーマンショックで破産した投資家の多くは、FXでなくてもこうした事をやって失敗していました。
円安時にドル買い、株高時に株買い、土地バブルで土地を買うのは後で振り返るとばかな投資なのは誰でも分かります。
だがその時点では上がるか下がるかは五分五分だったので、景気は良いし今後も好景気は続くだろうと皆思っています。
不況はある日突然やってくるというか、あらゆる不況は気づいた時にはもう深刻な状況になっています。
相場の頂点でポジションの8割がドル買いに偏っていたら、それを刈り取ればゴッソリ自分の物に出来ます。
円安進行時にドルを買う理由だったのが、反転すると今度は円を買う理由になり、すべて刈り取るまで超円高が進みます。
そして円高を仕掛けた張本人たちは、円高の大底で今度は円売りドル買いに転じ、円安になった時も儲けます。
http://www.thutmosev.com/archives/78773226.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/892.html#c23
101. 中川隆[-12863] koaQ7Jey 2019年1月20日 08:48:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
自分の人生に重要ではないものには、決して「継続は力なり」を当てはめるな
「継続は力なり」という言葉がある。これは、目的を達成する前に早々とあきらめる人を戒め、つらくても継続することに意味があると知らしめる格言である。
何でもそうだが、何かを始めたときは最初から目的のものがすんなりと手に入るわけではない。
むしろ、目的を達しようと思えば思うほど、むしろ道は遠ざかるような目に遭う。「良くなる前には悪くなる」という現象がどこの世界にもある。
努力すればするほど成果から遠ざかっていき逆境になる。ところが、それでも努力を続けていると、あるときから物事が好転し始めて、やっと目的に到達することができるのだ。
いったん落ちて、高みに浮上するというのは、「Jカーブ効果」とも言われる。(ダークネス:「良くなる前には、いったん悪くなる」という現象を認識せよ)
浮上するためには、誰もがダメだと思うところで、もがくような努力をしなければならない。それが「継続は力なり」という言葉に表されている。(鈴木傾城)
無駄なものは無駄だというケース
しかし、努力すれば何でも叶うのかと言われれば、まったくそういうわけでもない。どんなに努力しても、どんなに継続しても、自分には何ともならない目標もある。
人間は誰でも超人ではない。無駄なものは無駄だというケースもある。努力しても叶わないものは叶わないこともあるし、努力する以前に目標が成り立たないこともある。
(1)肉体的な能力が備わっていない。
(2)遺伝的能力・才能が備わっていない。
(3)目的に到達するのに時間がかかりすぎる。
(4)それに本気になれない。
(5)自分が心から目指しているものではない。
こういった場合、いくら「継続は力なり」と言っても、それが実現されることはない。肉体的・遺伝的に到達できない目標である場合の努力は意味がないし、やりたくないものを目指しても意味がない。
難しいのは、最初からそれが分かる人はどこにもいないということだ。
目が見える人は、誰でも画家になる自由はある。しかし、目指す前は、自分にその才能があるかどうかは分からない。自分がそれに最後まで深い関心や興味を持てるかどうかも分からない。
やってみて初めて、自分に向いていないと思ったり、関心を持てないと思ったり、才能もないと思ったり、それでもやりたいというエネルギーもないということに気付く。
最初は、誰でもいろんなものに試行錯誤する。すべてに「継続は力なり」と言っていれば、すべてが中途半端になる。ということは、「継続は力なり」の一方で「さっさとやめる」ということも重要であることが分かる。
続けるという決断の裏に必要なもの
自分が実現したいというものがあって、それに関しては血だるまになっても取り組むつもりならば、その一方で自分の人生の枝葉末節のものはすべて切り捨てるという別の決断も必要になる。
つまり、「続ける」という決断の裏に、「やめる」という決断をも必要になるのだ。
自分に向いていないもの、関心のないもの、自分の人生に必要のないもの、好きになれないもの、意味のないものは「やめる」ことが重要だ。
他人にとってそれは重要かも知れないが、自分にとって重要でなければ、やめるのは悪い選択肢ではない。自分にとって大したものではないと思えばやめるしかないし、間違えたと気付いてもやめるしかない。
余計なことを「やめる」ことによって必要なことに集中できる。それによって人生がすっきりする。迷いもなくなる。どうでもいいものを「やめる」と、それだけで時間も、情熱も、資金も、重要なものに集中させることができる。
何でもかんでも、ただ続ければいいというものではない。
優れた企業は常に選択と集中をして、余計なものを切り捨てるのだが、この選択と集中は、どちらも一点に全力投球する行為であることに気付かなければならない。
つまり、他の枝葉を切り取らなければ、選択も集中もできないのである。逆に言えば、選択と集中を実現するためには、どうでもいいものをすべて「やめる」しかない。
行き当たりばったりの人が言う「やめる」と、選択と集中に取り組んでいる人が言う「やめる」とは、同じ「やめる」でもまったく意味合いが違う。
やめる決断ができるかどうか
「重要なことを続ける」と決意した人の「別のものをやめる」という決断は、非常に意味のあるものなのだ。
駄目なものにしがみつかない。自分には意味がないと思うものにしがみつかない。いたくない会社、やりたくない仕事に、しがみつかない。実りのないプロジェクトを続けない。
経営者が大成できるかどうかというのは「やめる決断ができるかどうか」にかかっていることが多いと言われている。続ける決断は簡単だが、やめる決断は覚悟がいるからだ。
やめると言うと、失敗したと言われるし、格好が悪いと思われるし、挫折したと陰口を叩かれることもある。
力がないと思われることもあるし、時には中途半端だと罵られることもある。
しかし、それが自分の目指すものではないと途中で気付いたり、他人はどうであれ、それが自分には意味がないと思えば、「やめる」という選択と決断は、逆に毅然と決断しなければならないのである。
「やめる」というのは、失敗したという意味で捉えられることが多い。しかし、他に目的があった場合は「やめる」ことが大きな前進となる。
プライドが傷ついて、やめなければならないのにやめれない人もいる。
しかし、たかがプライドごときで時間も金も人生もすべて失って撤退を迫られるより、袋叩きに遭っても毅然として「やめる」という勇気が必要なのである。
あなたは、やめる勇気、引き返す決断ができるだろうか。ゆっくり休んで自分の人生をよく見つめ、「やめるべきもの」をピックアップすればいい。
自分の人生にとって重要ではないものに「継続は力なり」という格言を当てはめてはならない。自分にとって重要なものに選択・集中して、枝葉は毅然と「やめる」のが重要だ。(written by 鈴木傾城)
登ることが自分の人生に意味がないのであれば、やめなければならない。自分の人生にとって重要ではないものに「継続は力なり」という格言を当てはめてはならない。自分にとって重要なものに選択・集中して、枝葉は毅然と「やめる」のが重要だ。
https://blackasia.net/?p=10989
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/564.html#c101
164. 中川隆[-12862] koaQ7Jey 2019年1月20日 09:39:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
大陸文化の縦断路−日本海文化圏−
縄文人の ファッションを彩った玦(ケツ)状耳飾
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_11_1nihonnkai_bunnkakenn.html
長江中・下流域に、「黄河文明」に先行する「長江文明」があったことが、近年認知されてきた。その長江文明で、最も繁栄した良渚遺跡(5,500〜4,000年前)から実に4,000に上る多数の、且つ精緻で優美な玉器が出土した。次の写真はそのうちの優品である。
これらの高度な玉製品の数々から、現代に続く中国人の玉信仰は、長江流域で誕生したと、これまで固く信じられてきた。
一方、この列島に「玉」が現れるのは、大阪府藤井寺市の国府(こう)遺跡からである。ここからは100体に及ぶ人骨が発掘されているが、縄文前期の人骨の一部にケツ状耳飾りをつけ
て埋葬されていたものがあった。(右図)
このケツ状耳飾りと同様のものは、古くから長江下流域で見られたものであったが、それが列島では突然、縄文早期末から前期に、北海道から九州にかけて一斉に出現したので
ある。
玉は長江からという常識に沿えば、照葉樹林文化の一環として西日本地区に伝播した、というのならよく理解できるのだが、 このケツ状耳飾りに関する限りは、西日本地区というような偏りはなく、列島全体に一気に拡散した。
この不自然さは、中国サイドの発掘発見で解決されつつある。すなわち、ここ十数年来俄かに、中国東北部の内モンゴル自治区から遼寧省にかけて、8,000〜7,000年前の新石器時代に高度な玉文化が存在していたことが、明らかとなってきたのである。
その遼寧省西部の興隆窪(こうりゅうわ)文化と呼ばれる遺跡のうちの一つ、査海遺跡(7,000年前)の墓地から、全く予想外のことだが、耳に玉ケツを着けた遺体が発見された。それだけではなく、玉匕(ぎょくひ)や玉斧などの玉製品が発見された。
長江流域における最古の玉は、6,500年前
まで遡るのがせいぜいであり、7,000年前の査海遺跡の玉は、正しく中国最古の玉であることが明確となった。玉の起源は、中国南部ではなく、東北部であったのである。
しかも、この査海遺跡の玉ケツ(ケツ状耳
飾り)や玉匕とよく似ている遺物が、福井県金津町の縄文早期末〜前期(6,000年前)の桑野遺跡から出土していた。
桑野遺跡だけではない。類似したケツ状耳飾は、前節の鳥浜貝塚をはじめ、新潟県清水上遺跡、京都府浦入遺跡など日本海側の遺跡
を中心に、日本全国に分布しているのである。
即ちこの玉ケツ(ケツ状耳飾)は、実は長江流域から照葉樹林文化の一つとして伝播したものではなく、中国東北部(旧満州)から日本海を縦断して伝播し、桑野遺跡を含む北陸地方を生産拠点として、全国的に拡がったと今では考えられている。
また、こう考えることが、ケツ状耳飾りが地域の植生や、それが醸す文化とは関係なく、全国的広がりを見せたことを、無理なく説明できると思うのである。
安田喜憲は、以上述べてきた文化の伝播や交流について、「龍の文明 太陽の文明」(PHP新書)のなかで、次のような図を提示して“中国東北部→長江流域”“中国東北部→日本列島”という文化の流れを想定している。
(なお、紅山文化は興隆窪に続く6,000年前の牛河梁遺跡を中心とする文化。)
列島の縄文人と大陸の中国東北部の人々が日本海を挟んで、黒曜石などを通じて旧石器時代から続けてきた日本海圏の交流を、縄文時代に入っても途切れることなく続けていたことが、これで証明されたと言い切っていいだろう。
そして、これは少々余談になるが、いろいろ描かれている縄文時代の生活の想像図やイラス
トが、貧しく質素であるのに反し、実は、縄文早期末という極めて古い時代から、縄文人がファッションに拘る人々であり、流行にも敏感であったことがこれで明らかとなった。
そして、縄文人の美への情念ともいえるものが、あの火焔土器などの類稀な装飾性の高い土器を生み出したのだと思う。
縄文女性達(もちろん、何らかの意味で選ばれた)は、ハレの日には、きっと左の写真のように着飾って、近隣の部落から集まった若者たちを魅了したことだろう。
日本海を渡った北からの文化…ナラ林文化論
前節で照葉樹林文化が日本人の心の故郷であるとしてきたが、この文化は、又、西日本地域に伝播した文化でもあった。
縄文文化が“東日本を中心とする文化”であることを熟知する佐々木高明は、照葉樹林文化論の提唱者の一人として、逆に「ナラ林文化」という視点を提起した。
ナラ林文化圏は、右図のように青線で囲まれた、東日本のミズナラやそれによく似た東北アジアのモンゴリナラの分布圏を指すと、
佐々木は定義している。右上図は原図を90°右回転させているが、こうしてみると、ナラ林文化圏が環日本海文化、すなわち直ぐ目の前の“海の向うの文化”であり、一方、照葉樹林文化圏は環東シナ海の文化であることが明瞭となる。
現在、我々には、狩猟とサケマスの漁撈文化をベースとする、ナラ林文化の名残を見出すことはほとんど出来ない。むしろ、ナマハゲなどの特異な照葉樹林文化の一つが、東日本地域の奥深くまで浸透していることに驚く。
おそらくこれは、後に詳しく調べる大和朝廷の、まつろわぬ土着民などに対する懐柔や殲滅政策の結果なのであろう。
しかし、ナラ林文化の痕跡は、何食わぬ顔で作物の品種や遺伝子の中に残っていた。
日本の在来種のカブには、洋種系と和種系の二種類があり、洋種系は主として東日本に分布し、和種系は西日本に分布している。
そして洋種系のカブの系統は、朝鮮半島北部、中国東北部からシベリアに連なるという。明らかに東日本から、日本海を挟んだ対岸、すなわち、
ナラ林帯から渡来した作物であるということが出来る。
また、栽培種のオオムギは、野生植物当時の脱粒性を防止する遺伝子の組合せから、W型とE型に分けられるという。
そして、E型がインド東部、チベットから中国南部をへて西日本に分布し、W型は西アジア・ヨーロッパからシベリア・中国東北部・朝鮮半島北部をへて東日本に分布している。
このようにこの列島の在来作物の中に、シベリア、中国東北部から、サハリン・北海道を経由し、あるいは日本海を縦断して直接に、乃至は朝鮮半島を経て入ってきたものがある。それはカブやオオムギだけでなく、ほかにもゴボウ、ネギ、カラシナなどや、アワやキビ、それに一部ソバも加えて、北方系作物群と呼ばれている。
これらの作物群は、黄河流域の農耕地帯から中国東北部に入ってきたというより、もっと北の南シベリアから東北アジアのナラ林帯に伝わり、その地域にいわゆるナラ林型雑穀畑作文化を形成し、それが日本列島にまで達したと考えられる。
このナラ林文化圏が、民族や一定規模以上の集団の移動・交流を伴っていたか、明らかではない。これは現在のところ、佐々木高明が掲げた仮説に止まっている。しかしそれは上記、興隆窪文化や、沿海州の遺跡の解明が進むことによって次第に明らかになると思われる。
不思議な朝鮮半島の黎明期
ケツ状耳飾りや北方系作物群の伝播は、中国東北部や沿海州との交流を通じてのことであった。日本海文化圏の一角である、より近しい朝鮮半島との交流はどうであったのだろうか。
これまで筆者は、最初の日本人が〔華北(黄河)文化センター→朝鮮半島→日本列島〕という経路で渡来し、その後もこのルートが断続的な文化流入ルートであったことを調べ、且つ確認してきた。
そして当然、半島の南端で、対馬海峡に乗り出すグループと渡海を断念するグループに分かれただろうと想定していた。
断念したグループは、半島南部の照葉樹林帯か、少し戻って中部以北のナラ林帯で、旧石器時代以来、日本列島におけると同様に、各々の文化を発展させてきたはずだと筆者は迂闊にも信じていた。
しかし、韓国の前国立中央博物館長、韓炳三(ハンビョンサム)が示す、右の図は衝撃的である。朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は、50ヵ所程度しか発見されていなかった。このレベルの遺跡ならば、日本列島の旧石器時代の遺跡数は3,000〜5,000ヵ所に上るというのに、である。
これはどうしたことであろうか。半島の厳しい気候が
一度、半島の南端まで達した人々を、また大陸まで引返させてしまったのであろうか。
大陸の気候も決して厳しくないわけではないはずだが、次の表は更に衝撃的である。
なんとB.C10,000〜5,000年の間(上表で赤で塗りつぶされた部分)、遺跡が、すなわちヒトの気配が、半島からなくなるのである。新たに遺跡が出てくるのは、7,000年前、世界がヒプシサーマル期を迎えようとする時期からである。
全く不思議なことに、日本列島の最初の土器が隆起線文土器であったのと同様、5,000年以
上の年代格差があるにもかかわらず、朝鮮半島の新石器時代も、右写真のように同じく隆起線文土器で始まる。
このような年代格差をもって、同じような文化が起こる現象は、河姆渡遺跡の環濠が
この日本列島では4,000年遅れで北九州の稲作集落(例えば平塚川添遺跡など)に出現するということに似ている。
それにしても、国境のない時代とはいえ、7,000年前、ようやく朝鮮半島に現れた新石器文化の土器が、直ちに海峡を越えて対馬(上の写真の右の説明書き)に渡って来ていた事は、列島と半島の交流がいかに密であったかということを示す。
西北九州と朝鮮半島の漁撈文化
その後、時を経ずして、九州を大地変が襲った。6,300年前(7,300年前 較正年代?)
九州・大隈半島の南、鬼界カルデラが大噴火したのである。アカホヤ火山灰と呼ばれる膨大な
火山灰が遠く東北地方まで降った。
当然、南九州の生態系は破壊され、ヒトの住めるところではなくなったであろう。中九州でも事情はそれほど大きく異なることはなかったであろう。
そういう時、西北九州では生き残りをかけて、新たな漁撈文化が生まれた。
おそらく、アカホヤ火山灰の打撃の少なかった西北九州には、九州南部・中部からの避難民が押し寄せたに違いない。それは、堅果類、芋類の植物食をベースにし、タンパク質の供給を魚に求める、補完的な小規模漁業という旧来からの生業パターンの変更を迫ることになったと思われる。
堅果類や芋類の自然の供給量は西北九州でも減少し、それを補うために漁業資源の比重を大幅に引き上げる必要性に迫られたに違いない。
新たな漁撈文化は、そうした情況変化に対応して、必然的にこれまでの沿岸漁業から大型魚(マグロ、サワラ、シイラ、サメ)を対象にした、外洋性の大規模漁業が必要とされた。
大型魚を釣るには当然大型の針が必要となる。そのとき導入されたのが、沿海
州辺りから朝鮮半島の東海岸まで南下していた、結合式釣り針(5〜10cmの大きさ)の技術
であった。
この漁撈技術の交流は、生活物資である土器の意匠の共通性をも生み出した。
右の土器は、アカホヤ降下直後に西北九州と朝鮮半島に現れたいずれも沈線の幾何学文様をもつ土器である。
考古学の江坂輝弥によれば、模様の共通性だけでなく、滑石や石綿を混ぜた土器生地にも共通性が認められ、櫛目文系土器が西北九州地方に波及して曽畑式土器が成立したと見做して差し支えないとしている。
また、祭りの道具と考えられる“貝面”、文字通り貝殻製の面が、韓国東三洞貝塚と縄文中期の熊本県有明海沿岸で出土している。材料は違うものの、作り方には共通性が認められる。
この対馬海峡を挟む地域は、半島の東三洞貝塚に見るように、旧石器時代以来、黒曜石の供給で繋がっており、また、弥生時代以降の交流は説明を要しないであろう。
すなわち、この地域は、国境のない時代、ほとんど継続的に交流のあった、日本海文化圏の主要な地域であり、遺伝子の混交、言語や文化・習俗の共通性などを視野に入れねばならぬ地域であったと言えるだろう。
注)較正年代・・・正式には暦年代較正と呼ばれる。筆者は暦年代という表現に違和感があり、単純
に較正年代と言っている。従来の放射性炭素年代測定いわゆるC14年代が、いろいろな誤差を含んで
いるので、年輪年代法などを使って補正しようという方向にある。ただ、統一して使わないと混乱
を生じるだけなので、筆者は本稿では、縄文時代までは従来のC14年代で、弥生時代以降を較正年代
で統一している。
以上、人類学者や考古学者から、縄文時代を鎖国状態と規定された縄文人の真の姿を捉えようと、照葉樹林文化圏と日本海文化圏を調べてきた。本節に収めきれない部分は追って研究ノートに掲載したい。
縄文人が実は行動的で、美に対する情念が激しく、先祖からの繋がりを大切にする、新しい文化にも閉鎖的ではない、そうした人々であったことは証明できたのではなかろうか。
したがって、縄文時代が、日本人の形成という面からも、決して無視できる時代ではなかったと言っていいだろう。
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_11_1nihonnkai_bunnkakenn.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html#c164
26. 中川隆[-12861] koaQ7Jey 2019年1月20日 09:44:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
「事故物件」、知らずに契約しないための知恵
1/20 東洋経済オンライン
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190120-00260604-toyo-bus_all
事故物件を見抜く方法ってあるの?(写真:recep-bg/iStock)
殺人や自殺、火災、孤独死などで人が亡くなった物件を事故物件と呼ぶ。そんな事故物件と知らずに不動産を購入したり、賃貸契約を結んでしまったりしたら、どうだろうか。事故物件であることを隠して、高い賃料で入居させたい。そんな大家や不動産会社もいるかもしれない。
■事故物件の可能性を疑ったほうがいい場合とは
事故物件を、入居する側はどのように見抜いたらいいのだろうか。事故物件公示サイト「大島てる」の運営者である、大島てる氏は事故物件を見分けるコツについて、主に3つあると言う。
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@ 不動産屋に案内されたときに、ほかの部屋に比べて、異様にリフォームされている
これは、「事故物件の可能性を疑ったほうがいい」というのが大島てる氏の見解だ。物件の内覧では事故物件かどうかはわからない。事故のあった物件は、床下に体液が染み込んでいるなど、物件そのものの損傷が激しいことが多い。体液がフローリングの下まで染み込んだせいで、通常は行わないフローリングの総取り替えをしていたら、フローリングはピカピカで新品になっている可能性がある。また、浴室で自殺していたら、浴槽ごと新品に取り替えるなどのケースもある。
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部屋は普通でも、通常ならば取り替えないような一部の箇所が丸ごとリフォームされている場合も要注意というわけだ。
A アパートやマンション名が最近、急に変わった
殺人事件などで、新聞などで繰り返し物件名が報道されて有名になってしまうと、それだけでイメージがついてしまい、入居者が減ることも考えられる。また、物件名がインターネット上に残り続けるということも。そこで物件名を丸ごと変えてしまうのだ。また、事故物件の場合、アパートの塗装の色が急に全面的に塗り替えていることもある。これは、少しでもイメージを払拭したいという狙いだろう。
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B 1人目には告知するが、2人目には言わないという不動産会社の慣行を悪用
定期借家契約などで、更新を2年などに定めて、1人目を追い出し、2人目からは、通常の家賃に戻すというケースだ。場合によっては、先に少し述べたように会社の社員を数カ月住まわせてその後、何事もなかったかのように貸し出す業者も中にはいるという。ほかにも、家賃が相場よりも安い物件も、事故物件の可能性が高い。
ただし、これらの項目が当てはまるからといって、当然ながら必ずしも事故物件であるとはいえない。事故物件が平気な人もいるが、敬遠したい人も少なくないだろう。そういう人たちにとっては、賃貸物件の一般的な慣習とされる1人目だろうが、2人目だろうが、きっと関係ないだろう。何を“瑕疵(かし)”とするかは個人の考え方によるのではないか。
しかし、賃貸の場合、事故物件の告知義務は1人目のみで、2人目以降は告知しなくてよいというのが通例になっている。
そもそも賃貸物件においての事故物件の1人目告知という通例は、いつ頃できたのだろうか。大島てる氏によると、そもそもこの1人目告知が不動産業界で通例になったのは、東京都内のアパートで、自殺した借り主の連帯保証人に対して損害賠償請求を行った裁判だ。
東京地裁は、この裁判で「1人目の賃借人には告知しなければいけないが、その賃借人が退去したら、次の入居者に対して告知する義務はない」という判決を下した。それに基づいて賠償請求が認められたわけだ。これは、そもそも連帯保証人である遺族が、過重な負担を負わないためだと考えられる。しかし、この裁判が元となり、不動産業界には「事故物件はその後に借りる1人目へは告知すること」の通例が生まれた。
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ちなみに、「これはあくまで業界の慣行であって、裁判で争ってその理屈が通用するかどうかは別問題だ」と大島てる氏は語っている。つまり今後の裁判によっては、この1人目告知の慣行が覆される可能性があるのだ。
■事故物件の裁判からわかること
しかし、事故物件であることを知らずに借りてしまったり、買ってしまったりしたらどうすればいいのだろうか。また、仲介業者さえもその事実を知らずに、物件を売買して、後でその事実を知ってしまったら……?
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実は、事故物件において、告知義務を怠ったために、宅建業者が損害賠償請求をされるケースが過去にはある。いわゆる心理的瑕疵の物件をめぐる裁判である。
心理的瑕疵の物件の裁判では、個別のケースによって、それぞれの判断にばらつきがあり、なかなか断言できない部分があるのが現状である。殺人事件ならば、事件が起こってから何年まで告知すべきだとか、マンションならば、隣やほかの部屋にどこまで告知すべきだという明確な基準はまだ定まってはおらず、あいまいであるがおおむね義務はなしというのが、大まかな裁判所の判断となっている。
まず、ざっとポイントを説明すると、物件のある場所が都会なのか、それとも田舎なのかで大きな違いが生じることが挙げられる。これはたとえば、人の入れ替わりが激しい都心部の物件だと、人の記憶も薄れやすいとの判断が働いている。そのため、心理的瑕疵の度合いも低いとされるのだ。
ところが、田舎だと例え何年経っても、殺人や自殺などの記憶がそこに住む人々の間で、風化せずにずっと残り続けることが多いことから、心理的瑕疵の度合いが高くなるとされている。
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■建物がすでに取り壊されている場合は?
2つ目は、死因が自殺であるか、他殺であるかだ。当然ながら、病気を苦にした自殺と凄惨な殺人事件とでは同じ死でもやはり住み心地に影響するとされるからだ。そして、事故が起こってからどのぐらい経過しているかも重視される。契約をした日に近い日にちに自殺などが起こった場合、それは、心理的瑕疵として認められるケースが多い。逆に何十年も経過していた場合、一般的に心理的瑕疵は薄れてくるとされる。
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さらに、事故があった建物がすでに、取り壊されているかどうかなどは、心理的瑕疵の程度を判断するうえで、重要な判断材料となってくる。つまり、一般的に自殺や殺人があった建物がすでに取り壊されて土地だけになっている場合は、心理的瑕疵は認められていないケースが多い。建物がなくなったから、いいじゃないかという考えだ。
また、居住目的なのか、店舗なのかによっても違ってくる。家族などで住む場所としては瑕疵があるが、お店として使用するのだったら、それは薄れるというのが一般的な判断だ。
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今後、さらなる情報化の発達によって、不動産業界にとって、「大島てる」のようなサイトの発達は抗えないと感じる。事故物件をめぐる裁判も増えるだろう。事故物件を隠蔽するのではなく、初めから貸す側、借りる側の双方にとって結果的によく、共存していく道なのではないだろうか。
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菅野 久美子 :フリーライター
60. 2019年1月20日 09:51:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
日本人は「狂ったアメリカ」を知らなすぎる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/464.html#c60
1. 中川隆[-12860] koaQ7Jey 2019年1月20日 10:04:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
今こそ合州国の正体直視を 本多勝一 週間金曜日 2003年 3月14日号「風速計」
この一文が出るころ、アメリカ合州国の体制主流は、イラク侵略を開始または開始寸前にあるだろう。
国連安保理外相級会合に米英ら3国が今月7日提出した修正決議案は、国連安全保障理事会で11日に採決にかけられる見通しだが、ここで否決されても、合州国は単独で開戦・侵略に踏み切る構えである。
あたりまえだ。アメリカ合州国の歴史は、こういうことの連続の末に今日の地球史上最強・最悪の帝国となった。ワシントン初代大統領以来の二百余年間は、手段を選ばぬ詐欺・脅迫・テロ・虐殺による侵略史にほかならぬ。そのことはこれまで機会あるごとに触れてきたが(注)、目前でまたしても超大軍事力によって同じことが強行されようとしている今、「正確な合州国史」にうといままその正体に気付かぬ例が多い日本人のためにも、このさい改めて正面から指摘しておきたい。
ただし、こんどのイラク侵略が開戦されてもされなくても、これはコロンブス以来のヨーロッパによる世界侵略500年史の中で、ベトナム戦争とともに画期をなす歴史的事件となるかもしれない。
米西戦争などで世界制覇競争に勝った合州国は、それまでに北米大陸での先住民族侵略をウンデッドニー虐殺によって終了していたが、以降そのままハワイ・グアム・フィリピンへと「西部へ西部へ」を進めた。朝鮮戦争につづくベトナム戦争で、合州国軍隊はワシントン初代大統領以来初の敗戦を喫したものの、侵略のための巨大軍需産業や体質に傷はつかなかった。その成りゆきとしてのイラク戦争(12年前も今回も)である。ところが、合州国の正体に気づき始めた人々の世界的盛上りによって、開戦寸前での中止か、開戦してもベトナム以上の反戦の広がりで帝国の没落となるかもしれない。この500年来の画期をなすゆえんである。
合州国は“民主主義”をタテマエにしている。実態はともかく、民意を完全・明白に無視した侵略は支持されない。そこで開戦のとき必ずといえるほど使われるテこそ、相手が先に攻撃したとみせかける捏造事件である。これは先住民族への侵略以来イラクまで一貫してきた。
戦艦メーン号爆破事件(米西戦争)をみよ。トンキン湾事件(ベトナム戦争)をみよ。真珠湾(太平洋戦争)をみよ。その他その他。
これを書いている9日の朝日放送(サンデープロジェクト)は、イラクのクウェート侵入(これも裏に合州国あり)にさいして、イラク兵が乳児を哺育器から出して次々と放り投げた様子をクウェートの少女に証言させたこと、これが繰り返し放送されて世論を憤激させ、開戦に有利になったこと、ところが後に、この少女は駐米クウェート大使の娘で、証言は捏造だったこと等を放映した。
こんどはどんな捏造が、いいように操作されるマスコミによって“報道”されることだろうか。
開戦寸前の今、このテーマは「未完」としておく。
http://www.kinyobi.co.jp/KTools/fusoku_pt?v=vol451
ウンデッドニー以来…… (本多勝一)
アメリカ合州国が、一方的な「ブッシュの戦争」でアフガニスタン空爆を続けている。予測されていたとおり、一般住民に多数の死傷者が出た。そして、そんなことは一切おかまいなく空からの無差別虐殺をつづけるであろうことも、予想通りである。なぜか。
合州国の「はじまり」から点検してみられよ。この国は500余年前の「コロンブスの大虐殺」で始まる。すなわち南北アメリカ両大陸(および付属諸島)の、何千万人とも知れぬ先住民族たちの、おそらく人類史上最大の悲劇の始まりである(注1)。合州国に直接関連するものとして、北米の先住民族が最近までにどんな虐殺をされてきたかは、日本人による世界に誇れる報告『アメリカ・インディアン悲史』(藤永茂・朝日新聞社・1972年)がある。
ワシントン初代大統領時代から強行された侵略は、最後の組織的虐殺「ウンデッドニー」で一応終るものの、そのわずか10年後(1900年)、フィリピンを侵略した米軍による「10歳以上すべて」の全男女が、ルソン島・サマル島で大虐殺された。のちの日本占領軍司令官マッカーサーの父親たるアーサー=マッカーサー将軍の命令だ。この虐殺軍の指揮官たるや、なんと米本国でのベテラン対先住民戦闘兵自身だった。つまりアメリカ先住民大虐殺の歴史は、アジア人大虐殺へと直結する(注2)。
息子のマッカーサーを最高司令官とする米軍は、東京大空襲や広島・長崎への明白な無差別大虐殺を、「真珠湾」への“反撃”として強行する。真珠湾は軍事施設だけを目標としていたが、東京や広島・長崎等は住民の生命そのものが目標である。
その5年後、朝鮮戦争が始まる。そこでの米軍による住民大虐殺については、たとえば松本昌次『朝鮮の旅』での「信川大虐殺」などで明らかだが、つい最近も「老斤里大虐殺」が暴露された(注3)。
朝鮮での終戦後10年と経たぬうちに、ベトナム戦争への米軍介入だ。ソンミ事件その他、アメリカ先住民大虐殺と全く同じ無差別婦女子大虐殺が、カウボーイ米兵らによって“楽しく”行なわれた。
ベトナム戦争終了26年後の今、父親ブッシュによるイラク戦争(湾岸戦争)を経て息子のブッシュが、国連を無視してアフガニスタンに開戦した。ウンデッドニー当時の大統領と現在のカウボーイ父子大統領とで認識に基本的違いがない以上、非白人で異教徒住民への無差別爆撃(虐殺)は当然である。良心的アメリカ人は、あくまで非主流だ。
ここまで書いた直後、ミニコミ誌『シサム通信』10月号が届いた。その中から、アフガニスタンで長年医療活動をして今回脱出した中村哲医師の言葉――「一連の動きを見て思うのは、西部劇の続きである。勇敢な白人がバッタバッタとインディアンをなぎ倒していく。」
<注1>たとえばラス=カサスの『インディアス破壊を弾劾する簡略なる陳述』(石原保徳訳・現代企画室)などに詳しい。
<注2>詳細は拙著『アメリカ合州国』(著作集12巻=朝日新聞社)収録の「マイアミ連合からベトナムまでの合州国の道程」参照。
<注3>1950年7月に韓国・忠清北道老斤里で避難民数百人を米兵が無差別射殺。AP通信が一昨年9月に報道。
http://www2.kinyobi.co.jp/old/fusoku_oldf/386
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c1
2. 中川隆[-12859] koaQ7Jey 2019年1月20日 10:06:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
回心者ブッシュの演説に聞き入る「十字軍」兵士達
アメリカには「ポーン・アゲン」を なのり、そう呼ばれる人びとがいる。 人生の道半ばで、神に、キリスト に、聖書に出会い、キリスト教徒とし て新しく生まれ変わった人びとであ る。改宗ではなくて、回心と再生を誓 う、プロテスタント教会のなかの行動的な一派である。
◆40歳にして「回心再生」
ブッシュニ世はボーン・アゲンのひ とりになった。飲酒にふけって、安易 な生活を送っていたのが、名高い伝道師の説教を聞いてからは、四十歳にし て酒を断ち、回心再生の人となった。
朝は祈りと聖書の読誦にはじまり、閣議も祈りではじまる。
演説には聖書 のことばがちりばめられている。
「ア メリカに昧方しないやつは敵だ」というブッシュニ世の人物を特色づける発 言も聖書からでている。
「わたしの側 に立たない者はわたしに逆らう者、わたしと共に集めない者は散らす者である」
神仏の信仰を問わず、ボーン・アゲ ンの宗教体験をもつ人びとのおおく は、個人の内面の間題として回心をうけとめている。
ところが、アメリカの 「生まれ変わり」は異様に猛烈である。かれらは公の場で回心の体験を声高 に語って、人間は罪を負って生まれた存在であるから回心しなさい、改俊しなさいと、説得と折伏の活動に訴えることを神に奉仕する使命と信じている。
その特徴は徹底した二元論である。人間は神に選ばれて救われる者と、救 われない者に分かれている。回心者に は永遠の平和、福音に耳ふさぐ者は悪魔の子で永遠の地獄が待っている。
善と悪、神と悪魔、味方と敵、白と黒、光と闇が現世を二分して戦ってい るという論理を用いて、迷える小羊に選択をせまるのである。
原理主義(ファンダメンタリズム) はイスラムの 「専売」のように思われて いるが、この 言葉と運動は はじめて一九 二〇年代アメ リカの白人プロテスタントの環境からうまれた。
ボーン・アゲンは原理主義の三つの 教条を継承している。
聖書に書かれてあることはすべて神の言葉であって、解釈や考証はゆるされない。
人間は神によってつくられた被造物で、サルから進化したなどという「妄説」はゆるされない。
やがてキ リストがこの世に再臨して至福の千年 が始まるから、神への奉仕にいそしまなければならない。
◆悪魔うけいれる土壌
最近のギャラップ世論調査による と、アメリカ人の48%は神が人間をつ くったと信じ、28%が進化論に傾いている。そして、悪魔の存在を68%が信 じている。
テロリズムも「九・一一」の悲劇も、バグダッドに巣食う悪魔の仕業だ という圧倒的な政治宣伝がたやすくう けいれられる精神的土壌がそろっている。 プロテスタント教会の少数派であっ たボーン・アゲン原理主義と、帝国を夢みる新保守覇権主義の二つの特殊な 潮流と人脈が、アメリカ政治の中枢を乗とってしまった。
神の下なる道義の国アメリカの指揮 官ブッシュニ世は、「万軍の王の王、主の主」(ヨハネ黙示録)として、神の御業を実践する十字軍に立つのであ る。
しかし、利得の追求を宗教的熱狂で紛飾した十字軍は、中東のみならず、 世界の現状にひそむ限りない複雑さ と、そして、人間の惨害を無視して強行されるのだから、前途には、とほうもない魔の陥弊が待っている。
現在の狂ったアメリカ人の精神構造を探るには、アメリカを覆っているキリスト教原理主義的教義が分からないと理解できない。
回心再生と言ったって何のことか分からない。
回心再生して神に仕え、そうでない福音に耳を塞ぐ者たちを、悪魔の子として永遠の地獄に突き落とすことが、彼らの使命なのだ。
このようなキリスト教原理主義の教義が分かっていれば、ラムズフェルドの冷酷さも理解できる。
彼はアフガニスタンの戦場における、タリバン兵の捕虜達をクンドゥスに集め、爆撃して皆殺しにした。悪魔の子として地獄に突き落としたわけだ。
彼らにとっては異教徒は人間とはみなさないのだ。
http://www.asyura2.com/0304/bd25/msg/114.html
キリスト教原理主義
キリスト教原理主義の本質は、主に米国が過去に行った過失を正当化できるからこそ普及しているのであり、キリスト教よりもユダヤ教の亜種に近い性質を帯びている。
プロテスタントといえば、多くの日本人はルター派とカルバン派しか思いつかないだろうが、英米のプロテスタントの多くは、英国国教会の亜種である。
英国国教会は、設立当初から血塗られている。
ローマ教会が離婚を許さないのを理由に、ローマ教会を離脱して英国王が首長となる教会を設立したのであるが、そのヘンリー8世は6人の妻を持ち、2番目の妻アン・ブーリンと5番目の妻キャサリン・ハワードを姦通罪で処刑している。6人のうち死別は3番目の妻ジェーン・シーモアのみである。
英国国教会の成立には、ローマ教会を通して仏の影響力を廃したかったのもあるだろう。アビニョン捕囚(1309〜77)の影響でフランスはローマ教会への影響力を強化していた。
また、ローマ教会自体が各国の王の上に己の存在を置く状態であり、英国内の反発があるからこそ、英国国教会は存続したのだろう。
つまり、設立自体が、エゴイズムとナショナリズムが動機である。
そのため、エリザベス一世時代に英国国教会から清教徒が反発して分離するのだが、彼らがローマ教会へ戻らずに新しい諸派を建てていった理由も、ナショナリズムによるローマ教会への反発があった。
もちろん、当時のローマ教会は相当腐敗していたのも事実だ。
つまり、英米のプロテスタントの場合、ルター派とカルバン派ほど純粋な動機とは言い難い部分が元来強かったのである。
ローマ教会を離れた時に、教皇に替わる宗教的権威は、何になるか。
自派内のヒエラルキーの頂点である。
古い宗派の中で頂点を極めることは難しいが、新派を建てれば己自身が頂点になりうる可能性がある。
「英国人は六十の宗派を抱えているが、料理のソースは一つだ」というイタリアの諺があるほど、英米のプロテスタントは多数の派がある。
己が宗教的権威になりたいという我欲こそが、多数の派が存在する理由の最大の要因ではないかと憶測している。
一番の問題は、聖書無謬性という偏向なのだが、これはルター派が聖書中心主義を唱えた影響から英米のキリスト教原理主義に多い。
キリスト教において本来一番大切なのは、イエス=キリストの言葉であった筈だが、イエス=キリストの言葉と矛盾する見解を米国人が頻繁に出すのは、聖書無謬性の影響ではないかと思う。
聖書無謬性、というよりも、旧約聖書無謬性こそが、キリスト教原理主義の中心に存在するのではないか。
旧約聖書は、無謬どころか矛盾だらけだが、キリスト教原理主義で重要視されているのは、旧約聖書の内容とヨハネの黙示録なのである。
ヨハネの黙示録の諸派にとって都合の良い解釈することと、旧約の内容が、キリスト教原理主義の根本のようだ。
これでは、キリスト教というよりも、選民思想が極端に強いユダヤ教の亜種である。
まず、北米インディアンの土地を奪ったことについては、「アメリカは約束の地である」と説明する。
鉄砲隊に向かって「特攻」を続けた北米インディアンを、虐殺し続けるのに当たって、「北米インディアンは聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と説明する。
奴隷貿易の中心は実は英国だったが、「黒人は聖書に書かれていない。だから、あれらは人間ではない」と同様に説明している。
聖書の無謬性という信仰を利用することによって、自分達のエゴイズムや貪欲な物欲、選民思想を合理化できるのだ。
どんな人間だとて、異民族でも多数の人間を無差別虐殺すれば、潜在的に罪悪感を感じるものである。
もちろん、本物の「見せかけだけの善人」ならば、潜在的にも罪悪感を感じないだろうが。
米国人の心に在った潜在的罪悪感や不安感を薄れさせ、自らの虐殺・軍事的及び経済的侵略を正当化するために、聖書無謬性は、実に利用価値の高い説なのである。
聖書無謬性は、選民思想を強化し、エゴイズムの発現と経済侵略を正当化する。
だから、英国は「死の商人」として長年成功できたのだろう。日本で有名なグラバーも、英国の武器商人である。
第二次世界大戦後、英国の国土は荒廃していた。
戦争の被害のない米国が「世界の中心」となったのは必然であるが、その世界の中心とは、「世界の武器工場」なのである。この情けない地位は、この先当分揺るぎそうにない。
人殺しで儲ける「商売」は、私は世界中で最も卑しい職業だと思う。
殺傷兵器を多数生産することにも、自己正当化と合理化が必ず必要になる。
「我々は、民主主義を世界に普及するために武器を製造しているのである」とか工場で合理化の言葉を言わなければ、現場の労働意欲が必ず低下していく筈だからだ。
米国で武器を多数製造しなくても、たくさんある別の産業に大半を転換すればいいだけの筈だ。日本は、戦後ちゃんとできたのだから。
だが、恐らく、最早不可能だろう。
なぜなら、米国は「民主的な豊かな社会」から「憎悪と恐怖の対象」「言論を弾圧する強国」へと変質して行っているからである。
報復を恐れて先制攻撃し、無差別攻撃するために、他国民の憎悪と怒りが増し、死を賭しても抵抗を表したいという人々をどんどん増やしているという、ごく当たり前の論理が、米国人には理解できないようだ。
恐らく、欧米人以外の人々を、無意識下で「人間」と認めていないからである。
世界中から恨まれ憎まれていることを、米国人の大半が9.11まで気づかずに済めたのは、エバンジェリカルが米国民が潜在的に持つ罪悪感や不安感を合理化し、選民思想を強化してくれているためである。
戦争があるたびに、米国内のエバンジェリカルは信者数を増していく。
今や、聖書無謬性を信じる米国人が半数以上なのではないか。
例え、神が言ったことが正しかったとしても、転記を続けた古代ユダヤ人が自分達に都合の良い内容に書き換えなかったと何故信じられるのかは、理解に苦しむ。
古代ユダヤ人の知っている世界しか書かれていないからといって、それ以外の土地に住むのは人間ではない、あるいは被差別民族だと信じられるのは、何故なのか。
「木を見る西洋人 森を見る東洋人」に従えば、西洋人の世界観があまりに単純だからと説明できるだろう。
そんなに、世の中、単純なわけなかろうが。
あらゆる物事は、複雑に絡み合っている。
人体の一部が悪くなれば、全体に影響が及ぶようにだ。
潜在的罪悪感を引きずるからこそ、米国は犯罪大国になったのではないか。
エバンジェリカルは「核戦争を待望する人びと―聖書根本主義派潜入記 朝日選書」によると、ヨハネの黙示録の「ゴグとマゴク」、つまりイスラエルに進攻して戦う二つの大国とは、ロシアと中国だと教えているそうだ。
信者を増やすために、「核戦争はすぐ来る」とエバンジェリカルが米国民の恐怖を煽れば煽るほど、「どうせ先はないんだから」と自暴自棄の心境に陥り、犯罪に走る者は増えていったのだろう。
潜在的罪悪感や不安感は、潜在的犯罪者を増加させていき、米国民の人心を荒廃させて行ったのである。
「人のふり見て我がふり直せ」と言う。
経団連が武器輸出を求めた結果、内閣が勝手に、当座米国にのみミサイルを輸出することに決めてしまったが、これは米国の轍を踏むことになるだろう。
潜在的罪悪感を合理化する装置としての宗教は、日本において国家神道と靖国である。
次第に国粋主義者が再度増えて行っている現状を、よく考えてほしい。
米国の事実上支配下に入っている日本では、精神的には戦後の混乱が続いたままなのである。
恐らく、潜在的罪悪感や社会の矛盾を合理化するために、日本人の多数が、再び自発的に国家神道と靖国に縋り始めたのである。
それを否定する者に対して、「非国民」扱いが始まっている。
戦後の精神的混乱を「日教組の偏向が」等とする、安易な合理化を続けているようでは、昭和初期と同じ状況を自ら作り出してしまうだろう。
そして、潜在的罪悪感と社会の矛盾を合理化するのに、靖国では駄目だと考える人々が新・新興宗教に縋っていくのである。
この状況が長く続けば、オウムのような極端な教義を必要とする人々が増えていくはずだ。
武器輸出は、第二・第三のオウムを作り出し、アーレフを強化する。
エゴイズム、利己主義と物質主義、利益優先主義、選民思想などの、「アメリカナイゼーション」が「グローバリズム」の名で一層進行していけば、犯罪発生率が増加するのは当然である。
物事は連鎖していると考えるのは、東洋的発想らしいが、過去の清算が充分に済まないならば、潜在的罪悪感や不安感が、国を誤った方向へと導くのは避けがたいだろう。
良い商品を世界に供給するのを止めて、死の商人への道を進むのが、日本国の将来のために素晴らしいことと思いますか。
経済的論理のみを追求すれば、犯罪発生率は高まり、要人暗殺や報道機関への武力攻撃等の右翼テロが頻発する時代をもたらすだろう。
その先にあるのは、五‐一五事件(1932年犬養毅首相暗殺)、二‐二六事件(1936年陸軍クーデター)のような時代が来るだろう。
貴方は、奥田経団連会長や小泉首相が、そういうことまで考えて武器輸出を決めたと思いますか。
重要案件が国会の議決を経ないで決まる事態は、民主主義の形骸化の進行です。
「誰がなっても変らない」と賢しらに言う人々が多数日本にはいますが、本来、日本の未来を選ぶのは、国民の一票の筈です。
貴方は、どんな未来を選びたいと考えていますか?
何もせずに他人(政治家や官僚)のせいにするというのも、一つの選択であり、その選択に相応しい未来が待っているはずです。
【福音派】聖書の外典・偽書と「聖書の絶対不可謬性」
キリスト教史の中で、旧約聖書が正式に聖典の扱いを受けるようになった歴史は意外に浅く、トリエント公会議(1545)の時である。
2世紀には既に旧約聖書を認めない派が存在し、それに反対するためにも4世紀に聖書のラテン語訳が始まり、397年「正典」が一応決まった。
特に、ヨハネの黙示録を新約に残すかどうかで、随分揉めたらしい。
東方正教会は、長く認めていなかったという。
1世紀末に書かれたもので、「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」の著者とは別人が書いているが、今でも諸説あり、作者が福音書作者でないと文献学等で否定されていることを聞くと激怒する宗派もあるらしい。
どの文書が聖書として認められるべきか否かで、長く揉めて来た歴史というのは、大抵の宗教にあることだ。例えば、「北伝仏教の経典の多数は偽書である」という研究もある(「梅原猛の授業 仏教」をご参照下さい)
そんな歴史があるのに、特に、キリスト教原理主義者達を中心に「聖書の絶対不可謬性」を固く信じているキリスト教徒が結構いるのだそうだ。
聖書の中には、これを聖書に含めるかで揉めた文書があるという歴史等を、清教徒は全く知らなかったらしい。そのため、アメリカを中心に「聖書の絶対不可謬性」という、珍奇な教義をもつ教団が多いのだそうだ。
しかも、彼らが「間違いがない」と主張するのは、大抵、本来は聖典ではなかった旧約聖書のほうで、新約と違って間違いだらけの書物だ。
281投稿者:狂ったアメリカ人の精神構造 投稿日:2007年06月10日(日) 08時50分55秒
旧約聖書は盲信されると、世界の迷惑になる話が多すぎるのだ。
聖書と言っても旧約聖書は、基本的に泊付けのために導入されたものであり、どう考えても新約聖書の「神」と矛盾している。
旧約聖書の「神」は、所詮民族宗教の神なので、イエスと違い、人を幸福にすることのない神なのだ。
その「神」とイエスが三位一体であると言ったものだから、それから、キリスト教の神は相当残虐な「神」に変化し、教会の教えも残虐なものに変質してしまったのかもしれない。
ローマカトリックが新教の発生と共に今までの教会のあり方を見直して現在に至るのと対照的に、「自分達こそ、(旧教の輩と違って)汚れなき者である」と主張し続けて来た人々は、随分人殺しが好きな人々になっていき、全く自分達の行動を振り返ろうとはしない。
「神に選ばれた」とか「(自分達だけは)清浄なるものである」とか、「アメリカは『神の国』である」とか言うのは、明らかな(誇大)妄想である。
民族宗教の神ならともかく、キリスト教の神が、そんなに驕り高ぶり尊大で、「自分達は選ばれているから何をやっても許される」といった論理で他国民を無差別虐殺するような信者を、そんなに高く評価するだろうか。
「汝の敵のために祈れ」と言った神がだ。
聖書を書き記したのは所詮古代ユダヤ人であり、聖書の中にサハラ以南の黒人、インド以東のアジア人、北米南米・オーストラリア・ミクロネシアの現地人の存在が書かれていないのは、単に、当時の古代ユダヤ人の知識が足らなかっただけである。
ところが、「聖書の絶対不可謬性」を盲信する人々は、聖書に出て来ない人々を「人間として認めてはならない」という、見解になりがちだ。
清教徒が最初にこの考え方を米国に伝え、英国の清教徒が奴隷貿易を擁護した。自分達は清い名を名乗り、その行動は実に血なまぐさい。
聖書が誤っていることを認めぬ代わりに、世界や現実のほうを自分達の信念に合わせようとすると、随分多数の人々の人権を侵害し、戦争を次々起こし、多数の国を弱体化させ、...たくさんの異教徒をアジア・アフリカ・南北アメリカで殺さなければならない。
実際に、合わせようと今まで努力してきたのが、アメリカ合衆国という国の「裏の歴史」ではないのだろうか。
「キリスト教原理主義のアメリカ」(p.94)では、「聖書の絶対不可謬性」を信じる信者の割合を表示している。
ユニタリアン・ユニバーサリスト 6%
統一キリスト教会 12%
アメリカン・福音ルーテル教会 21%
エビスコーパル・チャーチ(聖公会) 22%
統一長老派教会 25%
統一メソディスト教会 34%
エホヴァの証人 51%
チャーチ・オブ・クライスト 55%
サザン・バプティスト会議 58%
チャーチ・オブ・ナザレン 58%
アセンプリーズ・オブ・ゴッド 65%
ユナイテッド・ペンテコスタイル・チャーチ 69%
チャーチ・オブ・ゴッド 80%
http://hoffnungenlied.cocolog-nifty.com/kaizen/cat1966234/index.html
「敵を妥協せず徹底的に叩く」というアメリカの精神的背景について
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html
アメリカに移住したピューリタンは、「キリスト教原理主義」を貫いて、「エルサレムの建国」を「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」として、西部開拓(実際は先住民殺戮)を推し進めた。
この「キリスト教原理主義」の精神性が連綿と続いているという。
「キリスト教原理主義」は聖書(:福音)絶対であるのと同時に、選民思想であるという。これが他部族みな殺しを正当化させているとのこと。
元々、ヨーロッパ自体が
「古代・地中海周辺における皆殺し戦争の結果としての共同体の徹底破壊」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=330205
により、選民思想も登場してきているという背景があります。
ヨーロッパは、17世紀中頃に徹底殺戮の宗教戦争(:「神」と「悪魔」の戦い)をやめる条約を取り交わしました。しかし、アメリカ(に渡った移民)はその後も長きにわたって、みな殺しの殺戮を繰り広げてきたことが、今尚「敵を妥協せず徹底的に叩く」という精神性に繋がっているのだと思います。
以下、
からの紹介です。
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■アメリカを新しいエルサレムの地にする
イギリスでピューリタン革命が起こる前、宗教的な迫害を受けたピューリタンの一部の人たちは、新天地を求めてイギリスからアメリカ大陸に向いました。1620年にピルグルム・ファーザーズがメイフラワー号でアメリカに渡ったのです。
ピューリタン(清教徒)というのは、purity(純水、清浄)という言葉から来たものですが、文字通り、宗教的な純粋、純化を求めていた人たちです。
彼らは、当時のカソリックの腐敗した状況を見て、ルターの宗教改革をさらに徹底してやらなければいけないと考えました。
ある意味で、キリスト教の原理主義であり、相当極端な過激な思想であったと思われます。それゆえに、イギリス国内での迫害も強かったのでしょう。ピューリタンたちはイギリスで食い詰めた最下層の人たちだったという説もあります。
いずれにせよ、彼らの一部はイギリスを逃れてアメリカに移住しました。
彼らピューリタンは、司祭の言葉ではなく、聖書の言葉こそ神の言葉と考えて、聖書の言葉を忠実に実践しようとしました。そして「この地に自分たちにとってのエルサレムを建国しよう」と考えたのです。
ピューリタンたちは旧約聖書を重視しましたが、旧約聖書に忠実に従ったという点ではユダヤ人たちと考え方は同じです。
ユダヤ人は自分達を選民と考えていましたが、ピューリタンも自分達を現代の選民と考えて、アメリカという地をエルサレムにして、神の福音を世界に伝えようと考えました。これが「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命)」と呼ばれるものです。建国の精神に立ち戻って考えれば、アメリカと言うのは宗教国家であることが分かります。
彼らは、神の福音を伝えることを使命と考えていましたから、それを妨害する勢力は皆敵と見なしました。その観点に立てば、先住民の殺戮も正当化されました。
そして神の福音を妨害する勢力を西へ、西へとなぎ倒していったのがフロンティア・スピリットです。フロンティア・スピリットは、ピューリタニズムと表裏一体です。
西へ、西へと進んでいって最終的にたどり着いたのがカリフォルニア。そこから先は海に遮られています。しかし、太平洋を越えて福音を伝えようと考え、アメリカはハワイ、フィリピンに進出し、さらに日本、中国にも福音を伝えようと考えました。
このように、アメリカのたどってきた歴史は、マニフェスト・デスティニーの歴史と考えると筋が通ります。
■宗教国家のアメリカには「妥協」がない
現代のアメリカには、ピューリタニズムの精神はもうほとんど残っていません。アメリカの国体はすっかり変わってしまいました。国体は変質してしまいましたが、彼らのマニフェスト・デスティニーの考え方は変わっていません。アメリカ的な発想を世界に普及させる、あるいは押し付けるというやり方を続けています。つまり、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を世界に広げることが、一貫したアメリカの世界戦略です。
彼らは、「自分達は植民地主義者ではない。帝国主義者ではない」とずっと主張し続けていますが、実際の現象を見れば、遅れてきた帝国主義者の様相を呈しています。彼らは「門戸開放」という言葉を使いましたが、言い方を変えれば、「オレたちにも分け前をよこせ」という意味です。
神の福音を伝えることが目的であったにせよ」、「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」を広げることが目的であったにせよ、実質的には帝国主義と同じです。
建国の経緯を見れば、アメリカと言う国の本質は宗教国家であることが見えてきます。宗教を広げることを理念としている以上、彼らに妥協というものはありません。その点を理解しておくことが重要です。宗教国家の側面は、アメリカの戦争のやり方にも影響しています。
ヨーロッパにおける戦争というのは、妥協が成立することがよくあります。17世紀に宗教戦争によって疲弊しきったヨーロッパ諸国は、1648年にウェストファリア条約を結んで宗教戦争を止めることを決めました。
宗教戦争というのは、「神」と「悪魔」の戦いですから、悪魔は徹底的に叩くほかなく、どちらかが破滅するまで行われます。続けていけば際限が無くなり、ヨーロッパ全体が破壊されてしまうため、宗教を理由とした戦争を止めるウェストファリア条約が結ばれました。
ウェストファリア条約以降は、ヨーロッパでは戦わずして対立が終わることもありましたし、話し合いによって妥協が成立することもありました。
アメリカの場合は、選民思想によるマニフェスト・デスティニーが根本にあるため、アメリカにとっての戦争は、いずれも宗教戦争的意味合いが濃く、彼らには妥協というものがありません。
第二次世界大戦においては、アメリカは日本を徹底的に攻撃して壊滅状態に追い込みました。その後の占領政策では日本の国体を徹底的に潰そうとしました。一切の妥協はありませんでした。それが宗教国家のやり方です。
今は、ピューリタニズムのアメリカ的な精神を持った人たちは、ほとんどいなくなりました。アメリカの国体が変質して、宗教国家の要素はなくなっていますが、妥協しないやり方は変わっていません。
http://www.kanekashi.com/blog/2017/10/5503.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c2
3. 中川隆[-12858] koaQ7Jey 2019年1月20日 10:13:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
John Anderson - Freedom Isn't Free (Houston 02.08.14) HD - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=ZMTD9IVcYMc
「自由はただではない」という言葉の裏には何があるのか?
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180128T0257490900.html
ドナルド・トランプが大統領になって、アメリカの言動は荒々しさと暴力傾向を増している。しかし、アメリカはもともと「暴力的な国家」でもある。ドナルド・トランプが大統領になって、アメリカの言動は荒々しさと暴力傾向を増している。しかし、アメリカはもともと「暴力的な国家」でもある。
アメリカ大陸に白人が上陸した時、この大陸はもちろん無人の大地ではなかった。そこにはネイティブ・インディアンたちが営々と長い文化と伝統を紡いで生きてきたのだ。アメリカ大陸に白人が上陸した時、この大陸はもちろん無人の大地ではなかった。そこにはネイティブ・インディアンたちが営々と長い文化と伝統を紡いで生きてきたのだ。
それを白人たちは苛烈な暴力で奪ってアメリカを「建国」した。暴力こそがアメリカの建国史なのだ。だから、アメリカは暴力で世界に君臨する傾向が今もある。それを白人たちは苛烈な暴力で奪ってアメリカを「建国」した。暴力こそがアメリカの建国史なのだ。だから、アメリカは暴力で世界に君臨する傾向が今もある。
暴力と成功体験がリンクしている。暴力と成功体験がリンクしている。
そのため、根本的なところで暴力的であることが悪いとは思っていない。アメリカは特に建国史から暴力にまみれており、暴力的な色彩が際立っている。そのため、根本的なところで暴力的であることが悪いとは思っていない。アメリカは特に建国史から暴力にまみれており、暴力的な色彩が際立っている。
もちろん、暴力的であることが世界に支持されるとは今のアメリカは誰も思っていない。もちろん、暴力的であることが世界に支持されるとは今のアメリカは誰も思っていない。
そこで、アメリカが振る錦の御旗が「自由と正義」である。どこかの国を「悪」に仕立て上げて「悪を倒す」という名目で暴力を振るう。そして何を得るのか。「自由」である。そこで、アメリカが振る錦の御旗が「自由と正義」である。どこかの国を「悪」に仕立て上げて「悪を倒す」という名目で暴力を振るう。そして何を得るのか。「自由」である。
歴史を見ていくと、アメリカの正体が浮かび上がる
アメリカが関与した歴史の一覧がある。
アメリカ独立戦争から始まって、チカマウガ戦争、北西インディアン戦争、シェイズの反乱、ウィスキー税反乱、擬似戦争、第一次バーバリ戦争、テカムセの戦争、テカムセの戦争、米英戦争、クリーク戦争、第二次バーバリ戦争……。アメリカ独立戦争から始まって、チカマウガ戦争、北西インディアン戦争、シェイズの反乱、ウィスキー税反乱、擬似戦争、第一次バーバリ戦争、テカムセの戦争、テカムセの戦争、米英戦争、クリーク戦争、第二次バーバリ戦争……。
そして、第1次セミノール戦争、テキサスのインディアン戦争、アリカラ戦争、エーゲ海の海賊掃討作戦、ウィネベーゴ戦争、第一次スマトラ遠征、ブラック・ホーク戦争、第2次セミノール戦争、第二次スマトラ遠征、米墨戦争、カイユース戦争、アパッチ戦争……と挙げても挙げても挙げきれない戦争が続く。そして、第1次セミノール戦争、テキサスのインディアン戦争、アリカラ戦争、エーゲ海の海賊掃討作戦、ウィネベーゴ戦争、第一次スマトラ遠征、ブラック・ホーク戦争、第2次セミノール戦争、第二次スマトラ遠征、米墨戦争、カイユース戦争、アパッチ戦争……と挙げても挙げても挙げきれない戦争が続く。
さらに第一次世界大戦以後も、ロシア内戦、Posey戦争、第二次世界大戦、朝鮮戦争、レバノン危機、ピッグス湾事件、シンバの反乱、ドミニカ内戦、ベトナム戦争、第二次シャバ紛争、レバノン多国籍軍、グレナダ侵攻、リビア爆撃、パナマ侵攻、湾岸戦争、ソマリア内戦、ハイチ介入、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争、アフガニスタン紛争、イラク戦争、リビア内戦……と続いていく。さらに第一次世界大戦以後も、ロシア内戦、Posey戦争、第二次世界大戦、朝鮮戦争、レバノン危機、ピッグス湾事件、シンバの反乱、ドミニカ内戦、ベトナム戦争、第二次シャバ紛争、レバノン多国籍軍、グレナダ侵攻、リビア爆撃、パナマ侵攻、湾岸戦争、ソマリア内戦、ハイチ介入、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、コソボ紛争、アフガニスタン紛争、イラク戦争、リビア内戦……と続いていく。
ここで挙げた戦争・紛争・内乱の介入は、一瞬で勝負がついたものもあれば、何年もかかって泥沼の戦争を繰り広げたものもある。ここで挙げた戦争・紛争・内乱の介入は、一瞬で勝負がついたものもあれば、何年もかかって泥沼の戦争を繰り広げたものもある。
アメリカが建国されたのは1776年だが、それから今日までの242年で、アメリカは90%以上もの年月を戦争しながら過ごしてきたのである。アメリカが建国されたのは1776年だが、それから今日までの242年で、アメリカは90%以上もの年月を戦争しながら過ごしてきたのである。
このように歴史を見ていくと、アメリカという国の「正体」が鮮明に浮かび上がってくるはずだ。アメリカがもともと「暴力的な国家」であるというのは、そういう意味だ。このように歴史を見ていくと、アメリカという国の「正体」が鮮明に浮かび上がってくるはずだ。アメリカがもともと「暴力的な国家」であるというのは、そういう意味だ。
しかし、この暴力性をアメリカ人は正当化できている。これらの戦争はすべて「正義と自由のために必要だった」というものである。しかし、この暴力性をアメリカ人は正当化できている。これらの戦争はすべて「正義と自由のために必要だった」というものである。
「悪い指導者が強圧的に国民を弾圧している。だからアメリカは悪い指導者を倒して民衆に自由を与える。それは正義だ。だから、暴力で悪い指導者を倒すアメリカは正義の味方なのだ」「悪い指導者が強圧的に国民を弾圧している。だからアメリカは悪い指導者を倒して民衆に自由を与える。それは正義だ。だから、暴力で悪い指導者を倒すアメリカは正義の味方なのだ」
これが戦争に邁進するアメリカ人の論理だ。これが戦争に邁進するアメリカ人の論理だ。
リビアに君臨していたカダフィ大佐。「悪い指導者が強圧的に国民を弾圧している。だからアメリカは悪い指導者を倒して民衆に自由を与える。それは正義だ」という論理で、葬り去られた。
「自由はただではない。これまでも、これからも」
「自由は尊い。しかし、自由はただではない。それは血と暴力で勝ち取らなければならない」とアメリカ人は考える。尊い自由は、暴力で勝ち取らなければならないのだ。「自由は尊い。しかし、自由はただではない。それは血と暴力で勝ち取らなければならない」とアメリカ人は考える。尊い自由は、暴力で勝ち取らなければならないのだ。
アメリカは国家戦略の中に暴力を埋め込んでいる。アメリカは国家戦略の中に暴力を埋め込んでいる。
米軍も、CIAも、アメリカ政府も、みんな暴力を否定しない。「言うことを聞かない国は叩きつぶせ」と米軍が言うと、「相手が悪ならば、自分はそれ以上の悪になれ」とCIAは説く。米軍も、CIAも、アメリカ政府も、みんな暴力を否定しない。「言うことを聞かない国は叩きつぶせ」と米軍が言うと、「相手が悪ならば、自分はそれ以上の悪になれ」とCIAは説く。
アメリカの暴力哲学は歴史上、ほぼ一貫して行われていることは誰でも知っている。そもそも世界最大の軍需産業はすべてアメリカに集中している。アメリカの暴力哲学は歴史上、ほぼ一貫して行われていることは誰でも知っている。そもそも世界最大の軍需産業はすべてアメリカに集中している。
ロッキード・マーチン、ボーイング、レイセオンを筆頭として、そこにぶら下がる無数の企業がアメリカを支えている。ロッキード・マーチン、ボーイング、レイセオンを筆頭として、そこにぶら下がる無数の企業がアメリカを支えている。
ノースロップ・グラマン、ユナイテッド・テクノロジー、ゼネラル・ダイナミックス、ハネウェル、アライアント、ロックウェル・コリンズ、L3コミュニケーションズ。ノースロップ・グラマン、ユナイテッド・テクノロジー、ゼネラル・ダイナミックス、ハネウェル、アライアント、ロックウェル・コリンズ、L3コミュニケーションズ。
これらの企業はアメリカの雇用を支えると同時に、多くの政治家を輩出して、アメリカの国防を支えている。だから、アメリカの政治が暴力と縁が切れないのは当然のことである。これらの企業はアメリカの雇用を支えると同時に、多くの政治家を輩出して、アメリカの国防を支えている。だから、アメリカの政治が暴力と縁が切れないのは当然のことである。
雇用を支える必要があるから、そういった意味でも暴力は正当化される。暴力の正当化の歴史が長かったので、それがアメリカのDNAになっている。雇用を支える必要があるから、そういった意味でも暴力は正当化される。暴力の正当化の歴史が長かったので、それがアメリカのDNAになっている。
フロリダ州出身のアメリカのカントリー歌手ジョン・D・アンダーソンは、このように歌う。フロリダ州出身のアメリカのカントリー歌手ジョン・D・アンダーソンは、このように歌う。
俺は祖国アメリカに誇りを持っている。自由の大地と勇者の家だ。それは完璧じゃないさ。だけど俺はいつもそれを取る。しかし、いつまでホーク(軍用ヘリ)は飛ぶんだ。それに、どれだけの母が泣くのか。たくさんの息子や娘が死んでしまった。それが、俺たちの辿ってきた道だった。自由はただではない。これまでも、そしてこれからも。しかし、それは払い続ける価値がある。自由はただではない。そのようにあんたや俺に伝えられてきた。ずっとそうなんだ。自由はただではない。自由はただではない。俺は祖国アメリカに誇りを持っている。自由の大地と勇者の家だ。それは完璧じゃないさ。だけど俺はいつもそれを取る。しかし、いつまでホーク(軍用ヘリ)は飛ぶんだ。それに、どれだけの母が泣くのか。たくさんの息子や娘が死んでしまった。それが、俺たちの辿ってきた道だった。自由はただではない。これまでも、そしてこれからも。しかし、それは払い続ける価値がある。自由はただではない。そのようにあんたや俺に伝えられてきた。ずっとそうなんだ。自由はただではない。自由はただではない。
「暴力の時代」は、まだまだこれからも続いていく
アメリカは自分たちの暴力を「正義と自由のためである」と正当化する。そして、国民に「相手を倒すのが正義と自由のためである」というコンセンサスが立った時、容赦ない軍事作戦に踏み出していく。アメリカは自分たちの暴力を「正義と自由のためである」と正当化する。そして、国民に「相手を倒すのが正義と自由のためである」というコンセンサスが立った時、容赦ない軍事作戦に踏み出していく。
ベトナムではナパーム弾、絨毯爆撃、枯葉剤と、おおよそ考えられる非人道的な皆殺し作戦を実行していたが、これもアメリカ国内では正当化されている。ベトナムではナパーム弾、絨毯爆撃、枯葉剤と、おおよそ考えられる非人道的な皆殺し作戦を実行していたが、これもアメリカ国内では正当化されている。
湾岸戦争では劣化ウラン弾を使用して現地を放射能まみれにした。アフガニスタンでの激しい空爆、パキスタンでの無人機攻撃もすべて「正当化」された。湾岸戦争では劣化ウラン弾を使用して現地を放射能まみれにした。アフガニスタンでの激しい空爆、パキスタンでの無人機攻撃もすべて「正当化」された。
カダフィ大佐の死も、アメリカの正義戦略の中で行われて目的が達成され、正当化された。カダフィが死んだ時、時の国務長官だったヒラリー・クリントンは、満面の笑顔を浮かべて喜んでこのように言った。カダフィ大佐の死も、アメリカの正義戦略の中で行われて目的が達成され、正当化された。カダフィが死んだ時、時の国務長官だったヒラリー・クリントンは、満面の笑顔を浮かべて喜んでこのように言った。
「アメリカは来た、見た、カダフィは死んだ」「アメリカは来た、見た、カダフィは死んだ」
このヒラリー・クリントンの満面の笑みは、実はアメリカ人の多くが共有したものであった。このヒラリー・クリントンの満面の笑みは、実はアメリカ人の多くが共有したものであった。
どういうことか。それは「カダフィ大佐という国民に暴政を振るう独裁者が殺されることによって、リビア国民は自由になった」という暗黙知がアメリカ人にあったのである。どういうことか。それは「カダフィ大佐という国民に暴政を振るう独裁者が殺されることによって、リビア国民は自由になった」という暗黙知がアメリカ人にあったのである。
カダフィ大佐の死は、アメリカ式の「正義と自由が達成された」ことの象徴であり、だからカダフィ大佐の死にヒラリー・クリントンは満面の笑みを浮かべたのである。カダフィ大佐の死は、アメリカ式の「正義と自由が達成された」ことの象徴であり、だからカダフィ大佐の死にヒラリー・クリントンは満面の笑みを浮かべたのである。
自由はただではない。自由を手に入れるには戦って勝ち取らなければならず、そのためには多くの血が流れる。しかし、その血と暴力は「払う価値がある」とアメリカ人は考えている。自由はただではない。自由を手に入れるには戦って勝ち取らなければならず、そのためには多くの血が流れる。しかし、その血と暴力は「払う価値がある」とアメリカ人は考えている。
「自由はただではない。これまでも、そしてこれからも」とジョン・D・アンダーソンはメッセージを歌っている。「自由はこれからもただではない」と言っているのだ。「自由はただではない。これまでも、そしてこれからも」とジョン・D・アンダーソンはメッセージを歌っている。「自由はこれからもただではない」と言っているのだ。
つまり、アメリカはいつでも自分たちが考える「正義と自由」のために戦って血を流す覚悟をしているということだ。つまり、アメリカはいつでも自分たちが考える「正義と自由」のために戦って血を流す覚悟をしているということだ。
こういった状況を見ると、「暴力の時代」はまだまだこれからも続いていくというのが分かる。アメリカの歴史が暴力の歴史であることは、昔も今もこれからも変わることがない。どういうことなのか。端的に言えばこうだ。こういった状況を見ると、「暴力の時代」はまだまだこれからも続いていくというのが分かる。アメリカの歴史が暴力の歴史であることは、昔も今もこれからも変わることがない。どういうことなのか。端的に言えばこうだ。
「アメリカは、再び戦争をする」「アメリカは、再び戦争をする」
アメリカはいつでも自分たちが考える「正義と自由」のために戦って血を流す覚悟をしている。こういった状況を見ると、「暴力の時代」はまだまだこれからも続いていくというのが分かる。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20180128T0257490900.html
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2018.01.15
戦争で金儲けしようと考える企業は多そうだが、それを可能にする仕組みを守ることも戦争の目的
兵器産業や傭兵会社にとって戦争はビジネスチャンスにほかならず、そうした企業に融資したり投資している金融機関にとっても同じことが言えるだろう。国の機関では軍、情報機関、治安機関の権益が拡大する。アメリカが戦争を続ける理由をここに求める人がいても不思議ではない。
しかし、戦場になった国では破壊と殺戮が繰り広げられて悲惨なことになる。軍需産業が「死の商人」と呼ばれるのはそのためだ。それに対し、そうした企業を儲けさせる、つまり戦費を負担する庶民は困窮、国は疲弊して衰退する。
アメリカが戦争を続けられるのは、世界が不換紙幣であるドルを基軸通貨として受け入れてきたからだ。アメリカ支配層は必要なだけドルを発行できる。が、勿論、発行されたドルを放置しておけばハイパーインフレになってしまう。
本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカ経済は1970年頃までに破綻している。そこで1971年にリチャード・ニクソン大統領はドルと金の交換を停止すると発表した。ドルを兌換紙幣から不換紙幣に切り替えたわけだ。1973年から世界の主要国は変動相場制へ移行する。
そうした状況でドルの貨幣価値を維持するための仕組みが考えられている。そのひとつがペトロダラー。つまり産油国に対して石油取引の決済をドルで行うように求め、世界がドルを集める環境を作った。集まったドルはアメリカの財務省証券を買ったり、1970年代にロンドンのシティを中心に整備されたオフショア市場へ沈めたり、金融規制の大幅な緩和で準備された投機市場へ流れ込んでいく。投機市場はバブルになり、相場は暴騰、評価益で巨大資本や富豪たちの資産は飛躍的に膨らむ。その資産力は支配力につながった。
日本にもペトロダラーと同じ仕組みが存在しているように見える。企業がアメリカで売った商品の代価として受け取ったドルを日本はアメリカへ還流させなければならないが、企業は利益を確保したい。そこで日本政府は庶民のカネでドルを買い、アメリカへ還流させてきた。もし日本政府が保有するアメリカの財務省証券を売却したなら、その責任者は社会的な地位、資産、収入を失うことになるだろう。いや、そうなる前に処分されるに違いない。
この仕組みは世界がドルを基軸通貨として認め、投機市場へ資金が流入し続けることが前提になっている。ドルが基軸通貨の地位から陥落、相場が天井を打つと加速度的にアメリカの支配体制は崩壊していく。
アメリカの傀儡である安倍晋三首相は黒田東彦日銀総裁と組んで「量的・質的金融緩和」を実施してきたが、それによって流れ出た資金も投機市場へ向かう。そうした道筋ができあがっているわけで、安倍や黒田もその程度のことは認識しているだろう。投機市場の縮小を防ぐため、ETF(上場投資信託)やGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)も利用されている。こうした政策で彼らが日本経済を回復させようとしているわけではない。アメリカの支配システムを支えようとしているのだ。
資金の流れ以上に深刻な問題がドルの立場。すでにロシアや中国を中心としてドル決済を放棄する動きが広がっているのだ。つまり、ドルが基軸通貨の地位から陥落しそうになっている。中国が創設したAIIB(アジアインフラ投資銀行)やNDB(新開発銀行)、あるいは推進中のプロジェクト「一帯一路(シルク・ロード経済ベルトと21世紀海のシルク・ロード)」は不気味だろう。
アメリカやイギリスは遅くとも20世紀の初頭から世界制覇、つまり世界帝国の建設を目指すプロジェクトが存在する。ユーラシア大陸の沿岸を支配し、その三日月帯でロシアを締め上げ、最終的には制圧しようとしている。その三日月帯の東端部に中国、朝鮮半島、そして日本がある。ジョージ・ケナンにしろ、ズビグネフ・ブレジンスキーにしろ、そのベースにはこの戦略があった。
アメリカが戦争をカネ儲けのために使っていることは事実だろうが、それは短期的な目的にすぎない。米英支配層には中期的、そして長期的なプランがある。その中長期的なプランを支えている仕組みが今、揺らいでいるのだ。その原因である中国やロシアを制圧、あるいは破壊しない限り、米英中心の支配システムは崩壊するだろう。世界規模で軍事的な緊張が高まり、ロシアとの関係改善を訴えたドナルド・トランプが有力メディアから激しく攻撃された理由はそこにある。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801150001/
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2018.01.17
差別反対は許されても戦争反対は許されないアメリカという国(前)
ドナルド・トランプ大統領が批判されているひとつの理由に彼の差別的な言動がある。そのトランプは2016年の大統領選挙、あるいはその選挙で当選した直後はロシアとの関係を修復しようとしていた。その政策は彼を当選させた一因だが、有力メディアはそれが許せずに「ロシアゲート」なる話を作り上げ、特別検察官を任命させることに成功した。大統領選挙でライバルだった民主党のヒラリー・クリントンは戦争ビジネスや巨大金融資本を後ろ盾にする人物だ。
1929年1月15日に生まれたマーチン・ルーサー・キング牧師は人種差別と戦い、ベトナム戦争に反対、そして50年間の1968年4月4日に暗殺された。キングと親しくしていたロバート・ケネディは同じ年の6月6日に殺されている。ロバートの兄で大統領だったジョン・F・ケネディと同じように公式見解は単独の個人的な犯行だが、「政府機関」が暗殺に関与したと疑う人は少なくない。
1968年2月、アメリカがベトナム戦争で負けていると印象づける出来事があった。解放戦線が南ベトナムのサイゴン(現在のホーチミン)や古都のユエなどで攻勢、北爆の停止とパリ和平会談の開催へとつながったのだ。アメリカ支配層は大きく揺れていた。
アメリカはドワイト・アイゼンハワー政権の時代にベトナムへ軍事介入を始めていたが、ケネディ政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラの回顧録によると、大統領は1963年10月にアメリカ軍をベトナムから撤退させる決断をしていた。(Robert McNamara, “In Restrospect”, Random House, 2005)そのために出されたのがNSAM(国家安全保障行動覚書)263だが、これは副大統領から昇格したリンドン・ジョンソン大統領が取り消し、本格的な軍事介入へと進んだ。
軍事介入を正当化するために使われたのが1964年8月の「トンキン湾事件」。アメリカの駆逐艦マドックスが8月2日に、また4日にマドックスと僚艦のC・ターナー・ジョイが北ベトナムの魚雷艇に砲撃されたとジョンソン大統領は宣伝、7日にアメリカ議会は「東南アジアにおける行動に関する議会決議(トンキン湾決議)」を可決したのだ。(Douglas Valentine, "The Phoenix Program," William Morrow, 1990)そして1965年2月には報復と称し、北ベトナムに対する本格的な空爆「ローリング・サンダー作戦」を始めた。
このトンキン湾事件はOPLAN34Aと名づけられた計画が関係していた。この計画をジョンソン大統領は1964年1月に承認、統合参謀本部直属の秘密工作部隊SOG(特別作戦グループ、後に研究監視グループに名称変更)が編成された。そのメンバーは陸軍のグリーン・ベレー、海軍のSEALs、そして空軍特殊部隊から集められ、司令官は陸軍大佐が務めている。(John L. Plaster, "SOG," Simon & Schuster, 1997)
この作戦の一環として1964年7月30日に南ベトナムの哨戒魚雷艇が北ベトナムの島、ホンメとホンニュを攻撃、北ベトナムは高速艇を派遣して対抗した。攻撃した哨戒艇は姿を消してしまうが、そこではアメリカの駆逐艦、マドックスが情報収集活動をしていたのだ。31日にはSEALsのふたりが20名の南ベトナム兵を率いてハイフォン近くのレーダー施設を襲撃している。この襲撃に対する報復として北ベトナムは8月2日にマドックスを攻撃したと言われている。なお、マドックスを攻撃した北ベトナムの艦船はアメリカ軍機などの攻撃で撃沈された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801160000/
2018.01.17
差別反対は許されても戦争反対は許されないアメリカという国(中)
こうして始められたベトナム戦争は泥沼化、1965年10月にはアメリカ国内で組織的な反戦運動が始まり、67年にはマクナマラ国防長官の指示で「ベトナムにおける政策決定の歴史、1945年-1968年」が作成されている。この報告書の要旨、つまり好戦派にとって都合の悪い部分を削除したものをニューヨーク・タイムズ紙は1971年6月に公表する。これがいわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」だ。
この報告書を有力メディアへ渡したダニエル・エルズバーグはその後、宣誓供述書の中でキング牧師を暗殺したのは非番、あるいは引退したFBI捜査官で編成されたJ・エドガー・フーバー長官直属のグループだと聞いたことを明らかにしている。
エルズバーグは1964年からマクナマラ国防長官の下で特別次官補を務め、2年間を南ベトナムで過ごしている。その時の上司はCIAの破壊工作部門に所属し、旧日本軍の略奪物資を回収するプロジェクトに参加していたエドワード・ランズデール少佐(後に少将)。その後、ランズデールはCIAのキューバに対する秘密工作を指揮、ジョン・F・ケネディ大統領暗殺でも名前が出てくる。
ベトナム戦争でCIAは軍の特殊部隊と手を組み、反米色が強いと見られる地域の住民を皆殺しにする秘密作戦、フェニックス・プログラムが1967年から始められた。「解放戦線と関わりを持つと殺される」という恐怖心をベトナム人に植えつけるための一種の心理戦だったと見る人もいる。似た戦略をCIAはその後も繰り返す。例えばラテン・アメリカにおける「死の部隊」、そして中東におけるアル・カイダ系武装勢力やダーイッシュ(IS、ISIS、ISILとも表記)だ。
フェニックス・プログラムを提案したNSC(国家安全保障会議)のロバート・コマーは1967年5月にDEPCORDS(民間工作と革命的開発支援担当のMACV副官)としてサイゴン入りし、MACVとCIAは共同でICEXを6月に始動させている。本ブログで何度か言及しているジェドバラにその人脈はつながる。ICEXはすぐ、フェニックス・プログラムと呼ばれるようになるが、それを現地で指揮したひとりが後のCIA長官、ウイリアム・コルビーだ。このコルビーがエルズバーグにペンタゴン・ペーパーズを明らかにするよう命令したとも言われている。CIA長官時代、コルビーは議会で情報機関の秘密工作の一端を明らかにし、支配層の逆鱗に触れることになった。
1968年3月16日にソンミ村のミ・ライ地区とミ・ケ地区で住民がウィリアム・カリー大尉の率いる部隊に虐殺されている。犠牲者の数はアメリカ軍によるとミ・ライ地区だけで347人、ベトナム側の主張ではミ・ライ地区とミ・ケ地区を合わせて504人だという。この虐殺もフェニックス・プログラムの一環だった。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801170001/
2018.01.18
差別反対は許されても戦争反対は許されないアメリカという国(後)
ソンミ村での虐殺が広く知られるようになったのは1969年11月のこと。この事件に関するシーモア・ハーシュの記事が報道されたのだが、虐殺の直後に従軍していた記者やカメラマンはその事実を知っていたにもかかわらず報道していない。後の国務長官、コリン・パウエルは少佐としてベトナムへ派遣されているが、彼もこの事件について知ったいたことを明らかにしている。(長くなるのでこの話はこれ以上深入りしない。)
ところで、エルズバーグにキング牧師を暗殺したのはFBIのチームだと話したのはブラディ・タイソンなる人物。アンドリュー・ヤング国連大使の側近で、エルズバーグは1978年に開かれた国連の軍縮特別総会で親しくなったという。タイソンは下院暗殺特別委員会に所属していたウォルター・ファウントロイ下院議員から説明を受けたとしているが、ファウントロイ議員はその話を否定している。(William F. Pepper, “The Plot to Kill King,” Skyhorse, 2016)
キング牧師が人種差別と戦う切っ掛けになる出来事が引き起こされたのは1955年12月。アラバマ州モンゴメリーで公営バスで白人に席を譲ることを拒み、ジム・クロウ法(人種分離法)違反の容疑でローザ・パークスが逮捕された事件を切っ掛けだ。その後、キング牧師は公民権運動の指導者として知られるようになり、FBIの監視対象になる。
しかし、この段階では要注意人物にすぎない。危険人物と見なされるようになるのは1967年4月4日だと考える人もいる。この日、キング牧師はニューヨークのリバーサイド教会でベトナム戦争に反対すると宣言したのだ。
ロン・ポール元下院議員によると、当時、キング牧師の顧問たちは牧師に対してベトナム戦争に焦点を当てないよう懇願していたという。そうした発言はジョンソン大統領との関係を悪化させると判断したからだが、牧師はそうしたアドバイスを無視した。その結果、支配層の中でリベラル派とされる人々と対立することになる。差別反対は許されても戦争反対は許されないとポール元議員は考えている。
FBIは1950年代に国民監視プロジェクトのCOINTELPROを開始、CIAは1967年8月にMHケイアスという監視するプログラムを始めている。当初、COINTELPROはコミュニストをターゲットにしていたが、途中でその矛先を平和運動に向ける。CIAも監視対象は戦争に反対する人々だ。デタント(緊張緩和)に政策を切り替えようとしたリチャード・ニクソンがスキャンダルで排除され、ロシアとの関係修復を訴えたトランプが激しく攻撃されたことも偶然とは言えないだろう。
キング牧師暗殺から2カ月後、次の大統領選挙で最有力候補だったロバート・ケネディ上院議員はカリフォルニア州ロサンゼルスのホテルで殺された。上院議員を暗殺したのは60センチ以上前を歩いていたサーハン・サーハンだとされているが、検死をしたトーマス・ノグチによると、議員の右耳後方2.5センチ以内の距離から発射された3発の銃弾で殺されたのだという。この結果は現場にいた目撃者の証言とも合致する。サーハン・サーハンが犯人だとするならば、議員の前にいた人物の発射した銃弾が議員の後ろから命中したことになる。
(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201801180000/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c3
4. 中川隆[-12857] koaQ7Jey 2019年1月20日 10:16:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
伊藤貫氏に聞く _ 日本人は何故アメリカの犬になりたがるのか
【平成30年 年末特別対談】伊藤貫氏に聞く[桜H30-12-30] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=0bwlpoETjxQ
2018/12/30 に公開
多くの災害に見舞われ、国際情勢も大きく動いた平成30年を振り返りながら、これからの道標となり得るような達見を伊藤貫氏に伺う年末特別対談をお送りします。
ゲスト:伊藤貫(国際政治アナリスト)
聞き手:水島総
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3S 政策より:
https://ja.wikipedia.org/wiki/3S%E6%94%BF%E7%AD%96
「・・・戦略家のガブリエル・コルコはアメリカがベトナム戦争での失敗を契機に、大規模な戦闘という事態を避ける為に低強度紛争としてソフト・パワーを用いた情報戦を軍事戦略の中枢に置くようになる課程を紹介。この戦略が最も成功した例が日本であり、各種の工作は日本支配のための「軍事戦略であり戦争であった」と述べた。
1. アメリカを無条件に支持し、アメリカに服従する政党と政権を他国に成立させ、そのための資金をアメリカが提供する。
2. この買収資金は、アメリカの税金ではなく、他国でアメリカが麻薬を密売した利益を提供し、アメリカが経済的負担を負わない方策を取る。
3. マスコミ操作を通じアメリカが常に「善」であると他国の市民を洗脳し、アメリカを批判する言論をマスコミに「登場」させない。アメリカ映画、音楽を大量に流し、アメリカが「すばらしい」国だと連日宣伝する。
4. 学校教育においては、丸暗記中心の学校教育で思考能力を奪い、アメリカへの批判能力を奪う。
5. 教師への絶対服従を学校教育で叩き込み、「強い者=アメリカへの絶対服従」を「子供の頃から身に付けさせる」。
6. 逆らう言論人、ジャーナリストは、そのジャーナリストのセックス・スキャンダル等をマスコミに流し失脚させ、必要であれば軍の諜報組織を用い、事故に見せかけ殺害する。
7. 他国の食料、エネルギー自給を破壊し、米国に依存しなければ食料、エネルギーが入手出来ないようにシステム化し「米国に逆らえないシステム」を作る・・・」
関連情報:
一億総白痴化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%84%84%E7%B7%8F%E7%99%BD%E7%97%B4%E5%8C%96
愚民政策
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9A%E6%B0%91%E6%94%BF%E7%AD%96
反知性主義
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E7%9F%A5%E6%80%A7%E4%B8%BB%E7%BE%A9
パンとサーカス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%81%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B9
ディストピア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2
etc.
5. 中川隆[-12856] koaQ7Jey 2019年1月20日 10:25:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
終戦後、アメリカはわざと日本人を飢えさせた
醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?
空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg
アメリカはわざと日本人を飢えさせた
テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。
そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。
またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。
GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。
戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。
都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。
それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。
多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。
占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。
農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。
終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。
経済破綻するように仕向けた
戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。
「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。
戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。
困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。
物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。
あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。
空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。
この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。
自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。
一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。
生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。
さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。
アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg
美しくない戦後
NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。
内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。
だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。
愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。
人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。
実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。
学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。
じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。
終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。
集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。
アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。
こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。
この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。
ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html
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2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面
マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0
憲法改正の日程
安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。
首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。
また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。
自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。
日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。
改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。
国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。
日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。
GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。
2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。
その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。
2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。
日本国憲法の根本的矛盾
2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。
緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。
衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。
世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。
この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。
少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。
なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。
この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。
誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。
だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?
連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。
1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。
トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。
独裁者になった尿漏れ男
1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。
マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。
厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。
マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。
マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。
1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。
1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。
特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。
イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。
脅迫で可決した日本国憲法
マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。
GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。
ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。
ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、
GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。
若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。
東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。
例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。
東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。
日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。
リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html
6. 中川隆[-12855] koaQ7Jey 2019年1月20日 10:30:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
アメリカ人の原爆観
フィラデルフィアで林間学校に参加していた16歳の時だった。ラジオで原爆投下を知った。周囲の子どもたちは歓声を上げた。私は我慢できず、一人で森の中に入り数時間戻らなかった。
もっと衝撃を受けたのは、ポルノ映画との触れ込みで50年代にボストンで上映された「ヒロシマ」という題の映画で、被爆者が沸騰した川に飛び込む映像を見ながら、観客が大笑いしていた光景だ。
http://www.asyura2.com/0505/idletalk14/msg/428.html
トルーマンは自分の行動を正当化するために、「原爆投下により100万のアメリカ兵の生命が救われた」とする「原爆神話」を積極的に広めた張本人でもある。
トルーマン大統領は原爆の惨状についての報道を一切禁止し、被爆治療を徹底的に妨害した。
そして、被爆者を「治療」せず「実験動物」のように観察する組織「ABCC」(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_2/jog099.html
広島・長崎への原爆 米で「実験」と記載
【ラスベガス(米ネバダ州)4日=杉本宏】ネバダ核実験場を管轄している米エネルギー省ネバダ事務所が発行している刊行物「公表された米核実験」の中に、太平洋戦争末期に実施された広島、長崎への原爆投下が「核実験(テスト)」として記載されていることが4日、明らかになった。
この刊行物は同事務所が毎年、編集・発行しており、昨年5月に出された第12版が最新のもの。米国が1945年7月から91年12月までの間、同実験場などで実施した843回の核実験(英国との共同実験も含む)について、103ページにわたり実施時期、場所、爆弾の威力などを記載している。
この中で、米国の手による核爆発はすべて「公表された米核実験」としてくくられている。広島、長崎のケースは「第2次世界大戦、実戦使用──広島」などと表記され、その目的も「実戦」と書かれているが、時期別、実験名別のいずれの区分でも「公表された米核実験」の欄の中に分類・記載されている。
原爆の対日使用は「人体実験」だった。
「広島・長崎への原爆攻撃の目的は何だったのか。1つには戦後世界でのアメリカ
の覇権確立である。そしてもう1つは、原爆の効果を知るための無数の人間への
『人体実験』である。
だからこそ、占領後にアメリカ軍が行なったことは、第1に、原爆の惨状について
の報道を禁止し、『人体実験』についての情報を独占することだった。
第2に、史上前例のない火傷、放射能障害の治療方法を必死に工夫していた広島・
長崎の医者たちに治療方法の発表と交流を禁止するとともに、死没被爆者の
ケロイドの皮膚や臓器や生存被爆者の血液やカルテを没収することだった。
第3に、日本政府をして国際赤十字からの医薬品の支援申し出を拒否させることだった。たしかに、『実験動物』を治療するのでは『実験』にならない。そこでアメリカ軍は全力を尽くして被爆治療を妨害したのである。
第4に、被爆者を『治療』せず『実験動物』のように観察するABCC
(原爆障害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)を広島・長崎に設置することであった。加害者が被害者を観察するというその目的自体が被爆者への人権蹂躙ではなかったか。」
広島で女学生(14歳)のときに原爆にあい、現在も原爆後遺症で苦しむ詩人の 橋爪文さんは、「ABCC」(原爆傷害調査委員会と訳されたアメリカ軍施設)について、次のような恐ろしい事実を述べている。
「私は広島の生き残りのひとりです。 〈中略〉 ここで、ひとつ触れたいことは『ABCC』についてです。これは日本でもほとんど知らされていないことですが、戦後広島に進駐してきたアメリカは、すぐに、死の街広島を一望のもとに見下ろす丘の上に『原爆傷害調査委員会』(通称ABCC)を設置して放射能の影響調査に乗り出しました。そして地を這って生きている私たち生存者を連行し、私たちの身体からなけなしの血液を採り、傷やケロイドの写真、成長期の子どもたちの乳房や体毛の発育状態、また、被爆者が死亡するとその臓器の摘出など、さまざまな調査、記録を行ないました。
その際私たちは人間としてではなく、単なる調査研究用の物体として扱われました。治療は全く受けませんでした。そればかりでなく、アメリカはそれら調査、記録を独占するために、外部からの広島、長崎への入市を禁止し、国際的支援も妨害し、一切の原爆報道を禁止しました。日本政府もそれに協力しました。こうして私たちは内外から隔離された状態の下で、何の援護も受けず放置され、放射能被害の実験対象として調査、監視、記録をされたのでした。
しかもそれは戦争が終わった後で行なわれた事実です。私たちは焼け跡の草を
むしり、雨水を飲んで飢えをしのぎ、傷は自然治癒にまかせるほかありません
でした。あれから50年、『ABCC』は現在、日米共同の『放射線影響研究所』となっていますが、私たちはいまも追跡調査をされています。
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc700.html
ビキニ核実験も広島・長崎の人体実験の続きだった:
@米側は、気象変化について気象学者らの警告を事前に受けながら無視し、実験を強行した。
A死の灰が出ることが予測されていたうえ、過去の実験から居住地域に向かうことがわかっていた。
Bロンゲラツプなど風下の4環礁の住民に対し、意図的に事前警告をせず、避難措置もとらなかった。
C米兵は34時間以内に救出されたのに、住民の救出には最大4日かかった。同程度被ばくしたアイルツク環礁には避難措置はなく汚染した水や食料でさらに被ばくした。
D汚染の残るロンゲラツプ環礁に対する安全宣言を出して避難した住民を帰還させ、人体への放射能の長期的影響を調べた。
E全島が被ばくしたにもかかわらず、人体研究の対象となった環礁以外では、医療援助や総合的な検診がない―などだ。
マーシャル住民らに実施した人体研究「プロジェクト4・1」は、これまで 「医療ケア」プログラムとして知られていた。同研究の存在が明るみに出たことで、「ケア」の裏側で「放射能が人体に長期的に及ぼす影響」についての徹底的なデータ収集を進めていたことが判明した。現在も研究はエネルギー省の手で続けられており、特定の被ばく者集団を対象に40年以上にわたって追跡調査されたデータは、原爆傷害調査委員会(ABCC、放射線影響研究所の前身)が集めた広島、長崎の被爆者データとともに同省健康研究室で一括して管理されている。
セリグマン同省次官補代理(同室長)は、一連の資料を「完全なデータセツト」と呼び、放射能の人体への影響を調べるうえでの基本資料であることを隠さない。マーシャル側が「モルモット扱いだ」と批判してきたのも調査目的の「二面性」とかかわる。
これまでの調査から、「医療ケア」では説明できない事例も判明している。赤血球の追跡調査目的で、放射性クロムを注射した事例と、主として被ばく直後に放射性物質の除去のために使われるエチレンジアミン四酢酸(EDTA)という物質を被ばくから七週間たってから投与した例だ。
米軍による一連の「放射能人体実験」について調査した米大統領諮問委員会は95年、「全体が人体実験だったとはいえない」としながらも、二例は患者の治療目的を逸脱した研究だったと結論づけた。
こうした事例について、米政府は当時、マーシャル住民への説明や同意を得ずに実施したうえ、現在も「担当医師のプライバシー」などを理由に、対象にした住民らの氏名公表に応じていない。
マーシャル側は、独自調査で少なくとも20人以上が放射性物質を注射されたことを突き止め、うち生存者5人も特定した。ロンゲラツプ環礁の議員ナビ・クンさんの母アトミネさん(58)もその一人で、乳がんや脳しゅように苦しんでいる。クン議員は、「本人への情報開示がないため、『実験』との因果関係を調べることが難しい」と話す。
これに対し、研究にかかわった医師らは現在でも「ケアのために必要な措置だった」と強弁する。エネルギー省当局者はマーシャル側に「注射は、X線検査のようなもので害はない」と説明したという。
放射能実験にかかわる人権問題に詳しい米国人弁護士クーパー・ブラウン氏によると、米側が実施した被ばく者の甲状せん摘出手術についても、「摘出する必要がないのに、放射能以外の原因のがんや肥大との比較研究のために摘出された疑いがある」という。
ブラウン氏は同時に、当時の米原子力委について、
「(マーシャル住民は)文明化されていないがネズミよりは我々に近いと公言する幹部もいた」
と述べ、人体実験の対象になったアラスカ先住民らと同様、「人種差別的」な要素が合まれていた疑いを提起する。
http://www.ask.ne.jp/~hankaku/html/bikininews.html
米国防総省 広島、長崎の原爆被爆者データ 核戦争研究に利用
ABCC収集解禁文書で「モルモット説」裏付け
【ワシントン30日共同】米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)が広島、長崎の被爆者から収集した医学データを、国防総省が将来の核戦争を想定した軍事目的の研究にも利用していた事実がこのほど、同省や全米科学アカデミーなどの解禁文書で確認された。
国防総省は、核使用の際の医療対策に収集データが役立つと期待。広島、長崎のデータとビキニ環礁での原水爆実験の資料を比較し、爆心周辺で放射線から身を守るには服装をどうするか、などといった分野も研究していた。
ABCC設立当初から被爆者が抱いていた「モルモット扱いしているのでは」という疑いを裏付けるものだ。
また日本で「ABCCの研究は非人道的」との非難が強まることを恐れた米側が、病理標本やデータを重要機密資料として、その保護に極度に配慮していたことを示す文書も見つかった。
1946年11月26日、トルーマン大統領は「原爆が人間に与える長期的影響の研究を継続すべきだ」との陸、海両軍医務総監の勧告を承認。これを受けて全米科学アカデミー研究評議会に原爆傷害委員会(CAC)が設置され、現場機関として広島、長崎にABCCが発足した。
CAC議事録によると、47年3月のCAC第1回会議で海軍の代表が「防御的措置」と「攻撃的措置」の両面で被爆者データを利用することを提案した。またパターソン陸軍長官は同月、ジュエット科学アカデミー総裁に送った書簡で被爆者研究の「軍事的重要性」を強調し、極東司令部による協力を約束した。
翌48年6月に「特殊兵器プロジェクト」(国防総省国防核兵器局の前身)のハズブルック参謀長がまとめたメモは、被爆者データは「放射能戦争研究に非常に重要」だとして、核攻撃の際の死傷者数や負傷者の治療などに関する情報への利用に期待を表明した。
ABCCで収集されたデータや生検、解剖標本はこうして同プロジェクトや陸軍病理研究所で保管され、47−49年にまとめられた核戦争防護の各種研究に生かされた。
同プロジェクトのワイナント放射線防衛局長の論文は広島、長崎より良い防護施設がなければ「米国の大都市では10万人以上の死傷者が出る」と核シェルターの重要性を強調。ホートン同局医療部長の論文は、広島の被爆者の生殖能力や遺伝的影響などのデータを引用した。
さらにクーニー原子力委員会軍事応用局放射部長の論文は、広島、長崎でのデータとビキニ実験との比較から身体器官への影響を分析。「爆心から1.5キロ離れた地点なら軍服、シャツの着用でも防護になる」などと指摘した。
今さら驚かないが…
近藤幸四郎・広島県被団協事務局次長の話 中学生の時、先生に(調査のためABCCへ)行ってくれんか、と言われた。アメリカにはとても協力する気になれず断った。モルモット扱いは、我々は前々から言っていて今さら驚かない。50年たって、ようやく証明されたかという感慨が強い。
<ABCC> 原爆放射線の長期的な医学影響調査を主な任務として1946年11月、トルーマン大統領が設立を指示した。47年から広島、長崎で調査を開始、予算は米国原子力委員会などから出された。日本からは国立予防衛生研究所が参加。約12万人を対象に寿命(死亡)調査、成人健康調査、病理学的(解剖)調査、遺伝的調査などを実施した。(共同)(毎日新聞 1995/07/30)
核戦略用に設置? 米の研究所、治療はせず
米国は47年、原爆傷害調査委員会(ABCC)を設立。広島、長崎に研究所をつくり、原爆が人体に与えた影響を調べ始めた。75年からは、米国エネルギー省と日本の厚生省が費用を折半する財団法人の放影研が調査を引き継いでいる。
87年から全米に散らばるABCC関連の文書を探し集め、ABCCの元所員らにインタビューして被爆者研究の歴史を調べているペンシルベニア大のスーザン・リンディー教授に尋ねた。
──ABCCの研究は軍事目的だったのですか。
「研究は、核兵器が人類にとってどんな意味を持つかを決めるためのもので、冷戦戦略の一部だった。米国の将来の核戦争に備えるためだったことは疑いの余地がない。ニューヨークに原爆が落とされたら社会的にどうなるか、人問がどうなるか、というモデルでもあった」
──ABCCは調査だけで治療はしないといわれてきました。なぜでしょう。
「治療すれば、原爆投下の謝罪につながると考えていたようだ」
ABCCは、多い時は1000人を超える職員を抱えていた。16万の被爆者を選び、どこでどんな状況で被爆したかを数年かけて1人ひとりにインタビューし、亡くなった7500人を解剖した。
現在も母集団の12万人について、亡くなるたびにその死因を追跡し、2万人を2年に1度健康診断する。8万人の被爆2世、そして2800人の胎内被爆者の調査も継続中だ。放射線以外でも、疫学調査としてこれを超える規模のものは世界に存在しない、といわれる。
被爆者をモルモット扱いしたと言われるABCCの姿勢は、放影研にも引き継がれてはいないだろうか。
占領史研究者、笹本征男さん(54)は、今年末に発行される「通史日本の科学技術〈国際期〉I・II」(学陽書房)の中で、ABCCの研究を引き継ぐ放影研の設立目的にも不明確さが残る、と指摘している。
財団法人の目的には「被爆者の健康保持及び福祉に貢献する」ことをうたっている。一方、両国政府が74年に交わした公式の外交文書では、目的は「放射線が人に及ぼす影響の調査研究活動」とされ、「被爆者のため」という文言はどこにもないのだ。
■年20億円の投入
6月末に訪れたワシントン郊外のエネルギー省で、「シーダ」という名前のデータベースを見た。
ハンフォード、ロスアラモス、オークリッジといった核兵器製造現場で働いた人たちの健康状況を1人ひとり追跡するデータベースだ。その中に「JALSSA01」というファイルがあった。
ABCC、放影研が集めた被爆者7万5991人の被ばく線量、性別、死因などの関連がオンラインで分析できる。利用するにはエネルギー省の許可が必要だという。
被爆者のデータは、実は原爆をつくり、落とした国の、核兵器をつくる省に管理されていた。
同省のセリグマン次官補代代理は「放射線の人体への影響を知るには、日本の被爆者の研究が最も基本となる」と話す。被爆者のデータは、核兵器、原子力関係の労働者から得られたデータと違い、一挙に放射線を浴びせられた子供から老人までの男女多数が、長期にわたって追跡されているからだ。
米国が今も年間約20億円を広島・長崎の研究に投じ、威力の見直しなども進めているのは、データの重要性が極めて大きいからと思えば納得できる。原子力発電、X線などの医療分野、そして核兵器工場でも、放射線をどれだけ浴びると有害かという基準づくりに、被爆者を追跡したデータは必要不可欠となっている。
被爆者治療せず 50年代の米公文書
原爆投下後に広島、長崎に設置された米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)をめぐり、米政府が「原爆は特別な兵器ではない」との主張が揺らぐのを避ける意図で、被爆者の治療をさせなかったことが50年代の米公文書で明らかになった。
原爆投下への謝罪と受け止められることも懸念し、被爆者と他の戦災者を区別しない方針を固めていた。米国は当時の冷戦下で、非人道的と非難されて原爆が使いにくくなるのを防ごうとしていたとされ、研究者は「被爆者への対応も核戦略の中に位置づけられていた」とみている。
朝日新聞が米国立公文書館に対し、ABCCに関する複数の公文書の閲覧を請求した。いずれも50年代に作成された当時は機密扱いで、機密期間が過ぎた80年代以降に開示対象になった。
ABCCは被爆者を検査してデータを収集したが治療はせず、被爆者の間に批判があった。
50年代になって日本の報道機関も取り上げるようになっていた。
今回閲覧したうち、パーソンズ駐日公使が国務省北東アジア部にあてた文書(54年2月)には、治療しない理由について「ABCCには日本での医療資格がない」ことなどを列挙。さらに重要なこととして「(治療すれば)被爆者に特別な意味があり、他の兵器の被害者とは異なるという見方を支持することになる」と説明した。「原爆投下への謝罪と解釈されかねない」とも指摘した。
また、ロバートソン極東担当国務次官補にあてた文書(同年1月)の中で、北東アジア部の担当者は米政府の公式見解として「被爆者支援の責任は負わないし、その他の爆撃による被害者と区別することはできない」と述べている。
こうした考え方の背景について、核問題を研究する米ジョージタウン大歴史学部博士課程の樋口敏広さん(28)は「旧ソ連とにらみ合った冷戦下で、米国は原爆を使用可能な兵器と位置付ける必要があった。ABCCが被爆者を治療しなかった理由は核戦略と結びついていた」とみている。(朝日新聞 2007/08/06)
http://homepage.mac.com/ehara_gen/jealous_gay/atomic_bomb.html
●「マンハッタン計画」の舞台裏については、まだまだいろいろな情報がある。
「原爆の製造には、原料のウランが必要だった。ロスアラモス研究所では原爆製造のために、アフリカのコンゴ(現ザイール)からウランを調達していた。コンゴは当時最大のウランの産地であり、この鉱山利権を握っていたのがロスチャイルド財閥であった。そのためウラン原料を調達する監督官として国際的な役割を果たしたのがチャールズ・ハンブローであり、彼は戦時中にスパイ組織OSS(CIAの前身組織)を設立した大物でもあった。のちに『ハンブローズ銀行』の会長となり、イングランド銀行と南アフリカの大鉱山利権を支配した男である。」
「第二次世界大戦はユダヤ人にとってホロコーストの悪夢の時代であった。そのユダヤ人であるヴィクター・ロスチャイルド男爵、チャールズ・ハンブロー、ロバート・オッペンハイマーは、〈系図〉をみてお分かりのように、血のつながりを持つ一族だったのである。イギリスのロスチャイルド・ファミリーは金融王ネイサン・ロスチャイルドに源を発する一族だが、ちょうどその5世代ファミリーに、彼らが同じ血族として記録されているのである。オッペンハイマーは突然にニューメキシコ州の砂漠に現れた科学者ではなかった。
そしてここに、世界史の大きな謎がある。1989年にベルリンの壁が崩壊するまで続いた米ソの東西対立が、事実危険な対立であったか、それとも半ば両者が示し合わせた人為的な対立だったかという謎である。」
「ヴィクター・ロスチャイルド男爵の再従妹にナオミ・ロスチャイルドがいるが、その夫はベルトラン・ゴールドシュミットというフランス人だった。後に国際原子力機関IAEAの議長となるのだが、この男は『マンハッタン計画』の指導的立場にいた。その『マンハッタン計画』に物理学者として参加していたユダヤ人、クラウス・フックスは、原爆に関する極秘資料をせっせと旧ソ連政府に流し、旧ソ連の原爆第1号が製造される。(フックスはスパイ容疑で逮捕され、1950年に懲役14年の判決を受けたが、1959年に釈放された)。
このクラウス・フックスを操っていたのがイギリス内部に深く根差した『ケンブリッジ・サークル』という組織だった。共にケンブリッジ大学出身のイギリス諜報機関MI5、MI6の最高幹部4人が、この組織を通じてソ連に核ミサイルに関する極秘情報を流していたのだった。そしてその中にMI5のソ連担当官アンソニー・ブラントという人物がいた。ブラントは女王陛下の美術鑑定家としても名高くナイトの称号を与えられていたが、実はソ連の二重スパイとして女王陛下を裏切っていたのだった。そしてこのブラントはアーサー・ブラントという父を持ち、その血縁者エディス・ボンソワを通じてハンブロー・ファミリーと結ばれている。」
「先にオッペンハイマーの一族として示した〈系図〉のヴィクター・ロスチャイルド男爵は、1990年にこの世を去るまで、このソ連の原爆スパイとして有名なイギリスの『ケンブリッジ・サークル』の最大の黒幕とみなされてきたのである。」
「このように東西を密かに流通する大きなパイプが走っていたのだ。しかも、パイプの東側ではシベリアの原爆開発が進められ、西側では彼らが全世界のウラン鉱山を支配して、今日まで人類史上最大のカルテルを形成してきた。南アフリカから生まれた利権は、想像できないほど天文学的なものだったのだ。」
「核実験は、2つの目的を持っていた。1つは、高度で破壊力のある兵器を作るための軍事的開発である。しかしもう1つは、核爆弾を1発爆発させるごとに大量の札束を吹き飛ばす利権であった。東西の緊張が高まれば高まるほど、核兵器の開発は容易になったのである。」
「そして次に彼らに必要となったのは、原子力の平和利用へ移っていくなかでの“放射能の安全論”であった。ここで数々の生体実験を行なってきた科学者たちが所有しているデータに目がつけられたのだ。『マンハッタン計画』の命令系統には、大きく分けて2つの部門があった。第1が広島・長崎への原爆投下を実行した『原爆開発班』である。世界有数の科学者が集められ、核分裂を実用化した著名なグループだ。しかしそこに第2の部門として『医学班』が存在していたのである。放射能の危険性を研究した最高責任者がスタッフォード・ウォーレンであり、彼自身が生体実験を認可した当人であった。 〈後略〉」
「1947年にアメリカで『原子力委員会(AEC)』という国家機関が創設され、『マンハッタン計画』が受け継がれた。引き継ぎの際、明らかになったことは、過去7年間に原爆生産に投下された経費が22億ドルの巨額に達していたということである。その後、冷戦が展開されるに及んで、原子力予算は、まず年額10億ドル台になり、ついで20億ドルを超えた。
『1つの新しい産業が突如出現した。それは、初めてベールを脱いだその時からすでに巨体であったが、やがて体全体が成長し、単一の産業としては現代最大の産業になっている』と、1948年末、当時のAECの委員W・W・ウェイマックは原子力産業の巨大なスケールについて述べている。
原子力産業は、『死の商人』にとっては、もっともすばらしい活動分野であった。何しろ、その規模がどえらく大きい。年額20億ドルもの巨費が建設や運営のためにばらまかれる。その設備はといえば、『USスティール』『GM』 『フォード社』 『クライスラー社』の4つの巨大会社を合わせたよりも大きく、数十万の技術者、労働者を擁している。
この土地、建物、機械などの固定設備はむろん、AEC、つまり国家がまかなうが、その建設、運営は『デュポン社』だとか、『ユニオン・カーバイド社』(ロックフェラー財閥系)や、『GE』(モルガン財閥系)のような巨大企業にまかせられる。建設、運営をひきうける会社は自社製品を優先的に売りこみ、すえつける特権があり、また、運営の代償として『生産費プラス手数料』の原則でAECに請求して支払いをうけるが、この『手数料』は純然たる利潤だとAEC担当官さえ認めている。このほか、運営に当たっていれば、科学技術上の機密が自然入手できるが、これらの機密は、将来原子力産業が民間に解放される場合には、ごっそりいただくことができる。
『死の商人』にとって、こんなボロもうけの分野がかつてあったであろうか。
ジェイムズ・アレンが『原爆崇拝のかげで景気のいい一つの商売がおこなわれている。それは、国家の権威をまとい、えせ愛国主義の霊気に包まれているが、いうなれば“ボロもうけの商売”である。しかも、この事業の目的たるや、大量殺人でしかない』と慨歎しているのも当然である。」
■■冷戦で肥大化していった「軍産複合体(MIC)」
●陸・海・空・海兵隊・予備を含めて350万人以上の人間を擁し、あらゆる近代兵器を持ったアメリカ軍部は、そのメカニズムと力において他に類を見ない組織である。しかもその軍は、2万以上の企業と組んで、巨大な「軍産複合体(ミリタリー・インダストリアル・コンプレックス)」を形成している。
●軍産複合体の根幹を成しているのが「ウォー・エコノミー(戦争経済)」である。そもそも軍産複合体は第二次世界大戦と、それに勝つために必要であった複雑な兵器とともに起こったものであった。「軍事省」や「戦時生産局」は、航空機・大砲・戦車などを作り出すためには産業に頼らざるをえなかった。電子工学や原子力が兵器となるとともに、頭脳力を供給するために大学が選ばれた。大学は、戦争に勝ち、民主主義を救うための必要な協力者であった。
●そしてこの「軍」と「産業」の癒着構造(軍産複合体制)を生み出す大きなきっかけとなったのは、軍・産・官・学の連携によって進められた「マンハッタン計画」である。冒頭でも触れたように、「マンハッタン計画」では、5万人にのぼる科学者・技術者を使い、総計20億ドル(7300億円)の資金が投入された。(ちなみに、1940年の日本の一般会計は60億円、1945年で220億円)。
ニューメキシコ州の山奥に新設された秘密軍事研究所「ロスアラモス研究所」で、科学者たちは「原子爆弾」を完成させるべく日夜研究に没頭したのである。
●そして第二次世界大戦が終結すると、今度はソ連を相手にした兵器近代化競争に打ち勝つため、アメリカ政府は膨大な補助金を大学の研究室に注ぎ込み、優秀な頭脳を結集して新しい武器の開発を求めてきた。
そこで得た研究成果は、「ダウケミカル社」「デュポン社」「ロッキード社」「ダグラス社」などに下ろされ、これら軍需産業が大量に生産。大学の研究室と産業と政府ががっちり手を結び、冷戦という獲物を手にして巨大な怪物へと成長した。
●この「軍産複合体」の中核に位置するのが、ペンタゴンとCIAである。1947年に「国家安全法」に基づいて、それまで独立機関であったアメリカ4軍を一元的にコントロールするために設けられたのが「国防総省(ペンタゴン)」で、更に同じ「国家安全法」に基づいて作られたのが「中央情報局(CIA)」であった。
このペンタゴンとCIAの誕生により、軍産複合体は一つのガッチリした“中央集権的組織”となって、アメリカに根を下ろしたと言えよう。
●軍産複合体は年々肥大化し、ペンタゴンから発せられる莫大な「軍需注文」は、2万2000社もある「プライム・コントラクター(ペンタゴンと直接契約する会社)」と呼ばれる巨大な航空機メーカーやエレクトロニクス企業に一括して流されている。
更に、その周辺に彼らの下請け・孫請け会社1万2000社、彼らの金融面を司る多国籍銀行団、スタンフォードやハーバードなどの大学研究室が70以上、ランド研究所、フーバー研究所などペンタゴンと契約している「シンク・タンク」が16……などといったように、何百何千万人もの労働者や科学者、研究家、政治家、退役軍人、ロビイストたちが張り付いているのである。
●ちなみに、ペンタゴンと直接契約している企業は、まだ兵器を製造している段階で、多額の「推奨金(無利子の貸金)」を受け取ることができる。
例えば「ロッキード社」は、1968年12月の12億7800万ドルという支払い済み経費に対して、12億700万ドルの「推奨金」を与えられた。15億ドル近くの経費や設備を含む取引に対して、同社が調達しなければならなかったのは、7100万ドルの自己資金だけであった。
●ペンタゴンからの退役軍人の天下りの多さも無視できないものがある。
プロクスマイア上院議員のいうところによると、1968年財政年度には、主要軍需業の3分の2以上をやっていた100社は、その給与名簿に「2072人の大佐もしくは艦長以上の階級の退役軍人」を抱えていたという。トップは「ロッキード社」の210人で、その次に「ボーイング社」の169人、「マクダネル・ダグラス社」の141人、「ジェネラル・エレクトリック社」の89人と続くという。ペンタゴンの制服を着ていた時に、民間企業との多額の取引の交渉をやっていたその同じ人間の多くの者が、退役後は、その影響力や内部の知識を国防会社の利益のために行使していたわけだ。
●「軍産複合体」がアメリカ経済に対し、依然として強い影響力を持っていることに関し、国防産業協会の会長J・M・ライル元提督は以下のように言っている。
「もしも我々が軍産複合体を持っていなかったとするならば、我々はそれを考え出さねばならなかったであろう。というのは、今日の複雑な兵器を考案し、生産し、そして維持することは、必然的に、それを要求する軍部とそれを供給する産業との間の、最も緊密な協力と連携を伴うからである。」
●「ディロン・リード社」のジェイムス・フォレスタルや「ジェネラル・エレクトリック社」のチャールス・ウィルソンなどは、以下のような率直な見解を示している。
「アメリカが必要としているのは、永久的な“戦争経済”である。」
●ベトナムのある高官は以下のような告発をしている。
「……結局、一番もうかるのは、より性能のいい兵器により高い値札をつけてどんどん売りさばくことのできる“ビッグ5(国連常任理事国)”の兵器産業である。」
「ベトナム戦争ひとつを振り返ってみても、本当の“死の商人”が誰であったか一目瞭然だろう。まず、フランスが膨大な兵器を流し込み、その後をアメリカが引き継いだ。もちろん、そうなるとソ連も放っておけないから、北ベトナムやベトコンにどんどん新兵器を与え、やがては中国も介入していった。そうやって戦争がエスカレートして行きさえすれば、それぞれの国の兵器産業を中心とした軍産複合体もまたどんどん肥え太っていくわけだ。」
7. 中川隆[-12854] koaQ7Jey 2019年1月20日 10:41:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。
米中密約の内容
1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない
この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976
ここに1971年7月、米国キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領特別補佐官が中国周恩来と交わした秘密会談の内容がある。2002年7月公開された外交文書である。40年近くも以前から米国と中国は裏で繋がっていたことは周知の事実ではあるが、今の日本の立場を見極める意味からも大変重要である。
二人の秘密会談の内容の1/4は日本に関することであったという。当時より経済大成長した日本に対し、米中とも非常に警戒心をもっていた。
米中の日本に対する見方は今も昔も同じである。この事を踏まえて、対米、対中外交方針を決定しないと、何時まで経っても日本は米中の「お財布さん」でしかない。また、両国が一番恐れているのは日本の再軍備であり、日本の核保有である。相手の嫌がることをし、カードとするのが外交の基本である。日本のある首相は、「相手の嫌がることはしない」で通したが・・・。
北朝鮮の核保有を米中が嫌がるのは、これを認めると日本の核武装化を止められないからで、6ヵ国協議と称して北朝鮮をなだめるのに必死のふりであるが、真の目的は日本の核保有を阻止する為に他ならない。
以下の会談の一部を見ると、この流れがここ40年間、めんめんと流れていることがよく理解できる。いつまでも米国に頼っていると大変なことになることを、我々は自覚しなければならない。
(「敵国になり得る国米国」青木直人著より)
日本人観
周恩来 「ものの見方が狭く、とても変わっている。島国の国民だ。」
キッシンジャー「中国は伝統的に普遍的な視野があるが、日本は部族的な視野しかない。日本人はほかの国民がどう感じるかに何の感受性もない。日本には何の幻想ももっていない。」
日本経済
周恩来 日本は第2次大戦の賠償も払わず、戦争から利益を得た。経済拡大は軍事拡大につながる。米国は日本を今の状態に太らせた。」
キッシンジャー「日本を経済的に発展させたことをいまでは後悔している。」
日本の防衛政策
周恩来 「日本は過去二十五年あまり、防衛に必要以上の金を使ってきた。いまや羽が生え、飛び立とうとしている。一度日本が軍事拡大に走れば、どこまでいくかわからない。」
キッシンジャー「日本が米軍撤退を希望すればいつでも出てゆく。日本が自主防衛すれば周辺の国にとって危険だ。米国が日本のために核兵器を使う可能性は実際には小さい。米軍が撤退すれば、日本は平和利用計画で得た充分なプルトニウムで核兵器を作ることが出来る。日本が大規模な再軍備に走るような事態になれば、伝統的な米中関係が再びものをいう。米国は日本の拡張を抑えるために、他国と協調できることをする。日本について我々は同じ方向の利害を持っている。」
http://isukeya.iza.ne.jp/blog/entry/977743/
そして米中が組んでやった事は:
中国は当面は軍事力よりも外交で影響力を強めてきている。PKO活動もその一環ですが、日本は金だけ出して自衛隊の活動には消極的だ。米中の見えない同盟関係は日本に対するものであり、アメリカは日本の円は360円から80円にまで4倍に吊り上げて、中国の元は1ドル=2元から8元にまで4分の1に引き下げを認めた。これは対ドル相場なのだからアメリカが認めなければ出来ない事だ。
アメリカの90年代からの中国に対する経済的支援は、日本の弱体化と中国の台頭を促した。80年代の日本経済はアメリカに脅威を与えるほどになったからですが、日本の弱体化はアメリカにとって国益になったのだろうか? 普通ならば中国が世界一の黒字大国になったのだから人民元が上がるのが常識だ。しかしアメリカはそれ元安を容認してきた。
この事によって中国は西村眞悟氏が言うように世界に「失業」を輸出しているのであり、世界的に労働者の賃金を引き下げさせてきた。それに対して日本は人民元の安さに対抗する為に中国に工場を進出させて雇用を輸出している。職を失った日本の若者は結婚も出来なくなり少子化が進むようになった。これらは米中の思惑通りの結果なのでしょうが、アメリカは同盟国の日本の弱体化はプラスであるとどうして考えたのだろうか?
それに対して日本の政治家は見えない米中同盟に気がつくのが遅すぎた。アメリカは露骨に日本に対しては政治介入してくるのに、中国の人権問題や人民元安には口を出さずに寛容だ。アメリカ自身の国力の衰退がそうさせていると見えますが、その穴を中国が埋めている。そうなれば日本には小沢一郎のような政治家が出てきて、アメリカと距離を置いて中国の属国になろうという政治家が出て来る。そうなる事はアメリカの利益なのだろうか?
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu208.htm
米中同盟
中国は当面は軍事力よりも外交で影響力を強めてきている。PKO活動もその一環ですが、日本は金だけ出して自衛隊の活動には消極的だ。米中の見えない同盟関係は日本に対するものであり、アメリカは日本の円は360円から80円にまで4倍に吊り上げて、中国の元は1ドル=2元から8元にまで4分の1に引き下げを認めた。これは対ドル相場なのだからアメリカが認めなければ出来ない事だ。
アメリカの90年代からの中国に対する経済的支援は、日本の弱体化と中国の台頭を促した。80年代の日本経済はアメリカに脅威を与えるほどになったからですが、日本の弱体化はアメリカにとって国益になったのだろうか? 普通ならば中国が世界一の黒字大国になったのだから人民元が上がるのが常識だ。しかしアメリカはそれ元安を容認してきた。
この事によって中国は西村眞悟氏が言うように世界に「失業」を輸出しているのであり、世界的に労働者の賃金を引き下げさせてきた。それに対して日本は人民元の安さに対抗する為に中国に工場を進出させて雇用を輸出している。職を失った日本の若者は結婚も出来なくなり少子化が進むようになった。これらは米中の思惑通りの結果なのでしょうが、アメリカは同盟国の日本の弱体化はプラスであるとどうして考えたのだろうか?
それに対して日本の政治家は見えない米中同盟に気がつくのが遅すぎた。アメリカは露骨に日本に対しては政治介入してくるのに、中国の人権問題や人民元安には口を出さずに寛容だ。アメリカ自身の国力の衰退がそうさせていると見えますが、その穴を中国が埋めている。そうなれば日本には小沢一郎のような政治家が出てきて、アメリカと距離を置いて中国の属国になろうという政治家が出て来る。そうなる事はアメリカの利益なのだろうか?
http://www5.plala.or.jp/kabusiki/kabu208.htm
1995年 オーストラリアを訪問した李鵬は、豪首相との首脳会談中に、 「 日本など20年も経てば地球上から消えてなくなる 」と発言
李鵬の発言はまるでオカルトのようにも聞こえるが、平成9年当時の国会でも取り上げられた発言である。
武藤国務大臣
「そのオーストラリアへ参りましたときに、オーストラリアの当時のキーティング首相から言われた一つの言葉が、日本はもうつぶれるのじゃないかと。
実は、この間中国の李鵬首相と会ったら、李鵬首相いわく、
君、オーストラリアは日本を大変頼りにしているようだけれども、まああと三十年もしたら大体あの国はつぶれるだろう、こういうことを李鵬首相がキーティングさんに言ったと。
非常にキーティングさんはショックを受けながらも、私がちょうど行ったものですから、おまえはどう思うか、こういう話だったのです。」
http://hanzibakuro.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/20-ea32.html
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c7
8. 中川隆[-12853] koaQ7Jey 2019年1月20日 10:44:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
アメリカはソ連崩壊後に NO.2 になった日本をどうやって叩き潰したのか
1929年10月24日、ニューヨーク・ウォール街では、世界大恐慌の引き金となって、株式大暴落が起こりました。そして、あれから60年後、今度は日本を叩き潰す為に、1990年2月、巨大な経済の逆回転が始まり、平成バブル経済が崩壊しました。
平成バブルが崩壊するバブル・ピーク時、CIA(Central Intelligence Agency/アメリカ大統領直属の中央情報局)は、ベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦後の次の敵は、日本だと考え始めていました。
事実、1989年秋から始まった、アメリカ系証券会社の株価動向は不気味な動きをし始めました。バブルと、その崩壊に携わったのは、ユダヤ系の金融機関であるソロモン・ブラザーズ(現在のソロモン・スミスバーニー)という証券会社でした。
ソロモン・ブラザーズは資本主義の歴史に詳しく、また日本の昭和初期の経済にも精通していて、1989年11月、ニューヨークで「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という『プット・ワラント』のデリバティブ商品を機関投資家や大口投資家に大量に売り始めたのでした。それ以来、ソロモン・ブラザーズが中心になって、債券、為替、株価のトリプル安が始まります。これがバブル崩壊の裏側に隠れたメカニズムだったのです。
バブル崩壊のシナリオは、どのようにして仕組まれたのか、その筋書きを追ってみましましょう。
バブル絶頂期は、1989年にそのピークを迎え、株価は天井でした。この時、多くの日本人は、株価の高騰(こうとう)並びに地下の高騰に、湧きに湧き、怕(こわ)いもの知らずで、日本の投機家達は今迄になく傲慢(ごうまん)になっていました。そしてこの頃、事実CIAは、アメリカの敵は日本であると考え始めていました。
CIA経済部門のスペシャリスト達は、アメリカ系証券会社のソロモン・ブラザーズ(現在はソロモン・スミスバーニー)と手を組み、日本経済の崩壊作戦に向けて本格的に動き出しました。これが今日の不況を長引かせる要因を作ったのです。これが日本株式市場に於ける下落のシナリオ「バブル崩壊作戦」でした。
ソロモン・ブラザーズは、1989年当時の沸き立つような好景気も、60年前のアメリカ・ニューヨーク.ウォール街での大恐慌と同一のものであると、そのバブル崩壊を予測したのです。
かつて、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの配下であったロックフェラーやデュポン(世界最大の化学メーカー)らは、この大恐慌を利用して天文学的な巨富を手にしていました。ソロモン・ブラザーズはこれに因(ちな)み、バブル崩壊を企てる研究に取りかかったのです。
「どうしたら一儲けできるか」からはじまり、「どうしたら日本経済を徹底的に叩く事が出来るか」という結論を導き出し、日本経済崩壊に向けて模索し始めたのです。
60年前のウォール街での「暗黒の木曜日」の立役者は、国際金融資本の総帥・ロスチャイルドの息の掛かる東部のエスタブリュシュメント達(ロックフェラーを筆頭に、デュポン、ケネディ、オナシス、アスター、バンディ、コリンズ、フリーマン、ラッセル、ファンダイン、リー・クアンシューの超大富豪十二家)でした。
この者達は手持ち株を売り捲り、その結果、下落に下落を重ね、二束三文になった株式を買い叩いたのです。それで巨万の富を手にしたのですが、今日とは情況が違うことに気付きます。この難題に、しばらく苦慮しますが、ついに糸口を掴んだのです。
その糸口とは、「何が株価を暴落させる要因になるか」と言うものでした。つまり株価が暴落する切っ掛けを作ればよいのです。そして、「下落によって、下がった株で大儲けできる商品を持っていればよい」ということに行き当たったのです。それが「デリバティブ」でした。
デリバティブとは、金融派生商品(通貨・金利・債券・株式・株価指数などの金融商品を対象とした先物取引)のことで、「先物取引」という意味合いを持っています。
次の研究課題は「どうやったら大暴落を人工的に作り出し、然(しか)も、そのタイミングに合わせて、自分達の狙うポイントに、総てを集約することが出来るか」という研究に取りかかったのです。
人工的に大暴落を作り出す場合、60年前の大恐慌では、アメリカの大富豪達による「大量売浴せ」という手法が使われました。
大量売浴せとは、売方が買方の買数量より、多量の売物を出して買方を圧倒し、相場を押し下げようとすることで、「売り崩し」とも言われます。
しかし、それでは巨額な資金が必要であり、当時と違って、それほど経済構造は単純なものではなくなっていました。研究に研究を重ねた結果、巧妙(こうみょう)な手口を考え出します。
それは、「膨らんだ風船を、更に膨らませる手口」だったのです。
風船は、空気を送り込んで膨らませれば、それだけ膨らみますが、その実体は「バブル」です。膨らむものは、いつか破裂して、大爆発を起こす物理的法則に制約されます。経済とて、この法則下に制約されているのです。彼等はこれに気付いたのでした。
彼等はそのシナリオを、綿密なストーリーで組み立てました。徐々に膨らみを見せる風船に、意図的に、頃合いを見計らって、更に膨らませ、次に急激に膨らませるという巧妙なストーリーを演出したのです。風船は、今まで徐々に、周囲の状態に馴染みながら膨らんでいたのですが、これに急激な吹圧を掛け、パンパンの膨張状態を作っておいて、一挙に破裂させるという巧妙な演出を画策したのでした。
彼等は、この原理を東京株式市場に応用して、バブル崩壊を目論んだのです。
そして彼等は「デリバティブ」という、風船を一突きにする「針」を手に入れ、膨張し過ぎて破裂状態になったところで、一突きにする演出を手がけたのでした。
1989年当時、日本人エコノミスト達は「デリバティブ」という「先物」の実体を知りませんでした。経済や金融の専門家でも、この実体が何なのか、未だに分からず仕舞いでした。またこの事が、バブル崩壊の悲劇を大きくし、当時の日本経済界は全く無防備であったと言えます。
ソロモン・ブラザーズは裁定取引を使って、意図的に、無防備な日本経済に先制攻撃を仕掛けたのです。「梃子(てこ)の原理」(レバレッジ)を利用して、なるべく少ない資金で、効果的にバブル崩壊に導く人工爆発の状態を作り上げる研究をしたのです。次に、バブル崩壊に導く為に、彼等は日経平均の株価操作の研究に没頭しました。
彼等は、この二つの研究から面白い現象に気付きます。それは日経平均株価(日本経済新聞社が、東京証券取引所一部上場の代表的な225銘柄について算出し、発表しているダウ式平均株価)が単純平均(相加平均のことで、算術平均ともいわれ、n個の数を加えた和をnで除して得る平均値のこと)で作られた「指数」から出来ている事と、もう一つはこれらの指数の分析から、品薄な銘柄を意図的に買うと、少ない資金で日経平均株価を持ち上げることができるという経済現象に気付いたのです。
こうして研究の成果を、実行に移した時期が1989年の秋から冬に掛けての事でした。日経平均株価は瞬(またた)く間に膨らみ、バブルは天井へと向かっていました。
その頃、日本の話題はベルリンの壁が崩壊し、東西冷戦構造が終焉(しゅうえん)を迎えれば、世界市場に進出できる等と、日本人経営者の多くが高を括(くく)っていた頃で、日本人の思い上がりの裏側では、こうした巧妙な仕掛けが、水面下で仕掛けられていたのです。
大蔵官僚も、エコノミストも、この仕掛けには全く気付いていなかったのです。
ソロモン・ブラザーズの真の狙い
当時の多くの日本人投資家は、「日経平均株価は10万円に到達する」と信じて疑わない人が多くいました。誰もが強気で、今こそ、この好景気に乗って、買いに転じる時機(とき)だと確信していたのです。その結果、バブルは急速な加速度をつけて、瞬く間に膨らみ始めました。
この時、ソロモン・ブラザーズは信じられない事をニューヨーク・ウォール街で展開していました。
1989年11月、彼等は「東京株式大暴落の図式」に則り、『プット・ワラント』という金融派生商品を売り始めていたのです。
『プット・ワラント』とは、「日経平均株価が大暴落したら大儲け」という新商品であり、この商品をアメリカの大口機関投資家に大量売り込みを図っていたのです。また、これには大口投資家も飛びついたのです。
彼等の新商品に対するキャッチ・フレーズは「年末から年始に掛けて、日本の株式は大暴落するから、60年前の《1929年10月24日の暗黒の木曜日》の時と同じくらいの大儲けが出来ますよ」でした。
1990年1月2日、ニューヨーク・ウォール街では、日本とは逆に、信じられない現象が起こっていました。突然、為替が円安へと向かったのです。この円安はソロモン・ブラザーズが『プット・ワラント』販売に因(ちな)み、債券や為替や株価の「トリプル安」を企てたものでした。
そして1月が過ぎ、2月に入り、その月は既に中旬に入っていました。この頃、日経株価はジリ安でしたが、大暴落の兆しは現われていませんでした。
日本人はまだ、この時にも何も気付いていなかったのです。そして日本経済が、瀕死(ひんし)の重傷に陥っている自覚症状すら、エコノミスト達は感じ取ることが出来なかったのです。
当時の政治背景としては、自民党の政治家は2月中旬の衆議院選挙で大勝したことに祝杯を上げていた頃で、政界も財界も危機管理意識はなく、全く無防備でした。
日本人は、まさに「ライオンに、餌を差し出す為に手を伸す呑気(のんき)な兎」でした。腕ごと食いちぎられるか、体ごと丸呑みされるかの、こうした危険すら感じる事もなく、呑気な行動をとっていたのです。
日本人投資家が、株を買いに奔走している頃、アメリカの金融の裏側ではソロモン・ブラザーズの売り攻勢が激化を極め、これまでジリ安で状態であった株価は、一挙に大暴落へと転じました。バブル崩壊の引き金はこの時に引かれたのです。
ついに1990年2月末には、膨らむだけ膨らんだバブルは、日経平均15,000円台を大幅に割れ込みました。一挙に大暴落が起こったのです。
ソロモン・ブラザーズの秘密兵器はデリバティブでした。
デリバティブは説明の通り、現物と先物との価格差を狙った「サヤ取り」であり、「裁定取引」と「オプション」で、日本の株価は下落したら大儲けという派生商品です。この派生商品を、至る処に仕掛けておいて、株価を自由に操ったのです。バブル崩壊の大暴落は証券会社のみならず、大蔵省までを翻弄(ほんろう)の渦に巻き込んだのです。
この巧妙な仕掛けでソロモン・ブラザーズは、僅か三年の研究とその実行で、一兆円にも昇る莫大な利益を手にしたのです。
そしてこの後、日本では更に悲惨な状態が続くことになります。
日経平均株価の大暴落は、株式市場の株価下落だけに止まらず、不動産の分野にも悪影響が及びます。この悪影響は、政府が不動産融資へのマネー供給を停止するという事から始まり、今まで高騰(こうとう)を見せていた大都市の不動産の資産価値が急速に下落したことでした。
この現象は大都会だけに止まらず、地方にまで波及していきます。不動産の資産価値が下落するとは、それを担保にしていた金融機関の担保価値も大幅に減少したということになります。こうして不良債権の波及が表面化するのです。
これに対して政府の後手政策は、次から次へと傷口を広げ、日本の資産とマネーの急速な収縮は、今日に見る不景気と連動し始めることになります。
昇り詰めたものは、いずれ落ちる。これは物事の道理です。この道理に随(したが)い、ソロモン・ブラザーズは、次のプロセスへと準備にかかります。
ソロモン・ブラザーズの真の目的は、ただ単に、日経平均株価を下落させて大儲けすることだけではなかったのです。彼等の真の目的は、日本人の個人金融資産の1300兆円にも上る郵貯(郵便局で取り扱う国営の貯金事業で、元金・利子の支払いは国によって保証される)の食い潰しでした。日本のエコノミスト達は、この事すらも見抜けなかったのです。
ソロモン・ブラザーズが研究の末に計画した事は、こうした下落が生じた時、政治家はもとより、財界人を始めとして、証券会社等が「これを何とかしろ」と、政府に詰め寄り、殺到することを計算に入れていたのでした。これこそ彼等の真の目的であり、ここに「日本発世界大恐慌」を画策した真の狙いが、ここにあったのです。
http://www.daitouryu.com/iyashi/shinizama/shinizama20.html
▲△▽▼
その昔、日本は国民総ででバブルに踊った時代がありますたね。
バブルを起こして潰す。奴らの詐欺手口の最たるものですた。
バブルがはじけて今では失われた10年と言われていますが、今だに日本経済はその後遺症を引きずっています。自殺者はバブル崩壊から毎年3万人。今だにその数は変わっていません。
その手口を見れば分かるのですがいつもワンパターンです。
最初は甘い話でカモを釣る。こうやれば儲かりますよ。おいしい話でカモを誘います。
そしてころ合いを見計らって真っ逆さまに突き落とす。詐欺師の典型的なパターンです。
最初に奴らはバカスカ札束を刷って、バブルを引き起こす。銀行は貸して貸して貸しまくる。株に投資すれば儲かるよ。土地を買えば儲かるよ。そしてカモが罠にかかったころ合いで急に蛇口を閉める。貸し渋りをやるわけです。
これをやられたら投資家はいきなり資金難に陥ります。そして、資金難に陥ったカモ達から担保として株、土地、あらゆる資産を奪い取るのです。昔からやっていることは同じです。
いい加減気付いたらどうかと思うのですが、今だに引っ掛かっている人がいます。
その当時の日銀総裁であった澄田智(すみださとし)と言う方をご存じでしょうか。日銀退官後は日本ユニセフ協会の会長などをやっていた方です。
澄田さんがバブル潰しの張本人と言われています。
プラザ合意以降、5%だった金利を2.5%に下げ、銀行は貸して貸して貸しまくった。その当時は、黙ってても銀行が頭を下げて貸しに来たという話は誰でも覚えているはずです。そういうジャブジャブ溢れた資金が株や不動産に流れ込んだ。借金しても金利は安いし土地や株を買えば値上がりするしで猛烈なバブルが起きたのですた。
そしてバブルが膨らみきったころ合いを図って、澄田さんはいきなり公定歩合を8%、長期金利は 10%まで引き揚げた。蛇口を閉めたのですた。借金すると金利が高い。値下がりリスクのある株や不動産よりも安全な銀行預金の方が良いということで投資家は一斉に株と不動産から資金を引き上げた。土地や株は一気に値下がり=バブル崩壊と言われています。
バカスカ金を貸し出して狂乱状態を作ってからブルを破裂させる。
その後には膨大な焼け野原、不良債権の山だけが残る。
それを二束三文で奴らが買い叩く。
昔からの手口。ばればれの三文シナリオだったのですた。
さて、それにしても、そのバブル潰しの張本人澄田さんはどのような経歴の持ち主だったのでしょうか。
澄田さんと言えばフランスに留学した留学組で、その後ベルギー大使館、フランス大使館の一等書記官からキャリアをスタートしたエリート官僚ですた。
そしてその後は、順調に大蔵省で出世して日銀総裁になっています。
澄田さんとフランス財界のつながりはお父様の代から囁かれていますた。
澄田智さんは、日銀総裁を辞めた後、ロス茶イルドフランスの旗艦、投資銀行ラザール・不レールに最高顧問として天下りしています。
ちっとはカモフラージュでもして隠せと思うのですが、親子二代に渡って奴らの充実な部下だったという、そのまんまの経歴の持ち主ですた。
http://goldentamatama.blog84.fc2.com/
▲△▽▼
アメリカの日本叩き落とし戦略
アメリカではFRB議長グリーンスパンの超低金利政策の結果住宅産業バブルが起こり、これが今日まで消費を支えてきたが、ここへ来て住宅バブルに「ローソクの最後の炎現象」が見えてきた。前述のようにアメリカには日本のような「潜在消費・投資力」の備蓄がないから解決策を他国に求めるしかなくなる。
そこでアメリカに狙われたのが日本、つまり竹中平蔵大臣である。
実は竹中平蔵氏は1980年から90年のJapan as No.1(「日本の世紀」と言われるほど日本経済が世界を制覇した)時代にハーバード大の客員研究員や准教授をしていた。日本の銀行が世界ランキング1位から10位を占める事態に危機感を抱いたアメリカはハーバード大等の叡智を結集して「日本叩き落とし戦略」を打ち出して見事に成功し、その結果日本の大不況はまだ続いている。竹中氏(当時、大蔵省財政金融研究所主任研究官)は日本の大蔵情報提供者として重要な働きをしたと考えられる。
だから現在のブッシュ政権の経済担当責任者とも親交が深い。異例とも言われた経済財政・金融担当の二つの経済ポストが竹中に与えられた時、グレン・ハバード米大統領経済諮問委員長は「竹中氏は申し分のない改革論者で、ブッシュ政権は竹中氏を全面的に支持している」との見解を発表すると同時に「不良債権処理と日銀の金融緩和の必要性」を強調した。
竹中大臣が10月に訪米した時、「大手銀行だからといって容赦しないぞ!」と言わんばかりの不見識な「大失言」(竹中ショック)のためニッケイは大暴落となり日本は時価総額で約50兆円の資産を失った。この時ハバード委員長をはじめ、バウチャー米国務省報道官、テーラー米財務次官らは必死になって竹中大臣をかばった。アメリカが日本に経済高官を送り込んでまでの竹中支援ぶりは異常。ここでまた経済の基本に戻るが、不良債権処理が日本経済の現況下では不要であることは再三解説したのでご理解いただいたと思う。
日本企業は現在リストラ中であり、総需要も資金需要もマイナスだから特に銀行機能を求める環境にない。こうした時、銀行の脆弱な財務体質を目の敵にするのは不自然である。しかも国会でもマスコミでも世を挙げて不況の結果である不良債権処理とデフレ対策に議論が集中し、不況の真の原因から目を避けている。異常ではないか。何故竹中大臣とアメリカはこの時期に不良債権処理と金融緩和を急ぐのか。
それはアメリカの国益の立場になって考えればすぐ分る。自ら打つ手がなくなったアメリカは日本の「打つ手」(現金備蓄)を奪うしか手が無いのである。竹中大臣はアメリカの国益の立場に立っているのである。不良債権で金融機関のパイプが詰まったままの状態で金融緩和をすると緩和された資金はアメリカに流れず、資金需要がない日本の資本市場で浮遊資金の増大となる。資金は当然土地と株にヘッジし、地価と株価を押し上げる結果となる。これこそ日本経済再生の道だが、アメリカにとっては許し難いこと。すなわち日本の土地と株が上がりだすとアメリカから資金が逃避し日本市場に向かうからである。
今アメリカは戦争と言う無駄な公共投資を前倒しで実行しているが(前述のごとく)潜在的財源が無い。どんなことをしても日本の「備蓄資金」をアメリカへ還流させなくてはならない。住宅バブルが弾けるのも時間の問題。
不良債権処理を急ぎ、日本の国民に痛みを与え、デフレをさらにスパイラル化し、大銀行や大企業を破綻に追い込んでまでもアメリカの国益の為に尽くす竹中平蔵。さらなる「詭弁」で小泉首相と国民を騙し続ける竹中大臣。まるで邪教の亡者のごとき竹中大臣の強烈な意志と情熱は、多分1980年代に洗脳された「日本叩き落とし精神」の具現だろう。今日本は「気違いに刃物」を与えてしまった。
竹中平蔵は、もともと日本からハーバード大学に留学していった。米国では世界各国から来るエリートを選び、その人物に、洗脳教育を施していると聞く。つまり、「国際金融資本に、すべて任せることがよい」という洗脳である。
○ 竹中の推し進めてきた政策を振り返るとあることに気づく。それは、すべて日本の企業を倒産させて、米国の企業に買い取らせるという結果になっている政策ばかりであり、しかも竹中はこれを「すばらしい」と表現している。
○ここでハーバードまで留学して、結局、「すべて国際金融資本に任せるべきだ」という思想を植えつけられているとする。
<竹中の破壊の歴史>
振り返ってみれば、日本は世界最強の銀行として、誇っていたのを台無しにしたのは自己資本比率規制の導入であった。これを導入することを熱心にやっていたのが竹中であり、金融ビッグバンも竹中の提案であり、不良債権処理も竹中路線であり、就任以来54もの金融機関を次から次へと倒産させてきたのは彼の政策のためである。
小泉内閣になってついに、竹中金融担当大臣が就任した。
周囲は、机上の空論の大臣だといって猛烈に反対していたが、小泉は、
「すぐれた頭脳で貢献していただく」といって任命した。
竹中はそれまでやっていた慶応大学教授からいきなり金融大臣となった。
それでは竹中がやってきた日本の金融政策を振り返ってみよう。
竹中が、日本に、自己資本比率規制を導入した。その結果、世界でも最強を誇って
いた日本の銀行は軒並み、貸し出しを減らし、貸し渋りを行うようになった。
そして不況になっていった。 それまでは世界のベスト10バンクに日本の銀行が
6行も入るすごい状態にいたのだった。
竹中がやってきた日本の金融政策を振り返ってみよう。
竹中が、日本に、自己資本比率規制を導入した。その結果、世界でも
最強を誇っていた日本の銀行は軒並み、貸し出しを減らし、貸し渋りを行うようになった。そして不況になっていった。 それまでは世界のベスト10バンクに日本の銀行が6行も入るすごい状態にいたのだった。
○竹中が時の橋本首相に「金融ビッグバンをやるべきです」と進言して、
それをやった。すると山一證券は自主廃業となり、メリルリンチ証券となり、
長期信 用銀行はf経営が傾き、一時国有化し、リップルウッドに買収された。東
邦生命は、買収されてGEキャピタル生命となり、日興證券は、 これも経営が傾き、外資に助けを求め、外資の傘下にはいった。
日興コーデイアル証券となった。
倒産は続出して、金融恐慌の一歩手前までいった。時の橋本政権は選挙で大負けした。日本経済にとって致命傷となった。
竹中金融大臣が、「不良債権処理をやるべきです」といい、それを強化すべ きだといった。すると、銀行は貸しだしを抑制するためさらに不況となる。不良債権
と認定された企業は次から次へと倒産していくため小泉政権の自殺者数や、倒産件数は歴代1位である。
この竹中金融担当大臣が就任している間、UFJ銀行は経営不安に陥り、54も
の金融機関が倒産した。足利銀行も倒産した。建設会社が倒産したときに、竹中
金融担当大臣は、とてもよろこんだ。 「これが構造改革の進展している証拠だ」
そして、竹中金融担当大臣は、4月1日からペイオフを唱えている。
ペイオフは世界各国でどこもやっていない政策である。ところが、竹中が「どこもやっている」とテレビでいうことで、このとんでもない破壊的な政策をやる流れ
になっている。
そしてこの数年間、日本を痛めつける政策をずっと立案してきた人物の竹中が郵政を解体してしまおうとしている。 というわけだ。
http://ime.nu/www.asyura2.com/0505/hasan41/msg/915.html
▲△▽▼
私達は洗脳されていました。不良債権の処理こそが構造改革だと。。。
彼等のやり口はこうでした。
一、株式は自己資本の半分以下にすること。
二、不良債権は二年で半減すること。不良債権処理に充てた資金には税金を課す ただし繰り延べ資産として7年間分認める
私達は国の命令で株式の売却を始めました。株の暴落が始まり長銀は国有化され長銀の株券は一夜で紙くずとなりました。数兆円の血税をつぎ込み身奇麗にした 長銀は瑕疵担保条項までつけて外資の手に渡りました。その後私達は恐ろしい光景を目にすることとなりました。
瑕疵担保条項によって死ななくても良い企業まで次々と息の根を止められて行きました。 その時つぶせばつぶすほど外資がもうかる条約だった事に私達は気づきました。
そんな時あの竹中が金融中枢に入ってきたのです。
そしていきなり繰り延べ資産は認めないと言い出したのです。税金は取っておきながら、です。人々はパニックに落ちました。株価は大暴落し、旧額面で80円を割り込んだ時、外資の増資申し入れを受け入れました。
四大メガバンクすべてが外資に自社株を叩き売ったとき、りそな銀行の国有化が決まり、長銀の時と同じく数兆円の国民の税金がつぎ込まれましたが、驚いたことに減資なし、株主責任は問わないという寛大な措置でした
あれほど株主責任を厳しく追及していた竹中 木○コンビの豹変でした。
その翌日から外資の数千億単位の株式購入が連日のように続きました。
日本の国富が外資の手に落ちて行くのを私達は茫然と見ているしかありませんでした・・・。
私達は竹中によって株式をもっと売り払えと指導されていたからです。
9. 中川隆[-12852] koaQ7Jey 2019年1月20日 11:02:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
日本の官僚の上司が日本の大臣や政治家ではなくアメリカ軍人である理由
「「日米合同委員会」「国会を関与させないための仕掛けだったんです」吉田敏浩氏インタビュー:岩上安身氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/21239.html
2016/12/6 晴耕雨読
https://twitter.com/iwakamiyasumi
12月2日(金)「岩上安身による『日米合同委員会の研究』著者・吉田敏浩氏インタビュー」の実況を行います。
戦後日本社会における最大のタブーとも言える「日米合同委員会」の実態について、岩上安身が吉田氏にお話をお聞きします。
岩上「吉田さんは今はフリーのジャーナリストですけれど、どういった所から取材を始めましたんですか?」
吉田氏「大学在学中からビルマ(現・ミャンマー)のことを取材を始めました。これまでに新聞社などの社員になったことはなく、ずっとフリーです」
岩上「まず、そもそも日米合同委員会とはいったい何か?といったところから入っていきたいと思います。日米合同委員会は、港区南麻布のニューサンノー米軍センターというところで開催されているんですね」
吉田氏「最寄り駅では地下鉄広尾駅です」
吉田氏「日米合同委員会について本格的に調査した記事や本はほとんどありません。ここで密約を作り、国会での審議を通すことなく、米軍に有利な取り決めが次々と作られているのです」
吉田氏「ニューサンノー米軍センターには、銃を持った日本人警備員がいます。本来は日本人は銃刀法違反になるので銃を持ってはいけないんです。しかし、日米合同委員会での密約で持ってよいことになっているんですね」
岩上「米国と日本の関係というよりも、在日米軍と日本の関係になっているんですね。日本は米軍の下部組織にすぎないと」
吉田氏「日米合同委員会で話し合われている内容は、在日米軍から本国の統合参謀本部まで上がっています」
岩上「基本的には、在日米軍の利益を図ることが最優先になっているんですね」
吉田氏「辺野古新基地建設について、キャンプ・シュワブの水域を立ち入り禁止にしたのも、日米合同委員会での決定によります。しかし、どう話しあわれたかは分からないのです」
吉田氏「既存大手メディアの中でこの日米合同委員会について報じたのは、1957年の読売新聞の記事くらいです。やはり文書が出てこないということと、メディアまでもが日米同盟を神聖不可侵なものと捉えているからではないでしょうか」
岩上「この、黒塗りになっている『日米合同委員会議事録インデックス』とは何ですか?」
吉田氏「私の開示請求に対して、表紙だけが出されました。つまり表紙があるということは、中身があるということですよね。しかし、肝心のその中身はすべて不開示です」
岩上「さて、次のチャプターに移りたいと思います。なぜ、在日米軍兵士は正当に裁かれないのか。その背景には、日米合同委員会で合意された『裁判権放棄密約』『身柄引き渡し密約』『民事裁判権密約』がある、と」
吉田氏「『裁判権放棄密約』とは、米軍兵士の公務外の犯罪を日本が裁くな、というものです。その理由は『兵士の士気の維持』と『部隊の人員充足』というもの」
岩上「ちょっと、呆れ返るような理由なんですけど」
吉田氏「米兵犯罪者は、不起訴が多いんです。その一件一件の報告書が存在するはずです。しかしこれを法務省に情報開示請求をしても、文書が出てこないし、出てきたとしても黒く塗りつぶされているんです。これでは、検証のしようがありません」
吉田氏「民主党政権の時、岡田克也外相のもとで外務省の密約調査が行われました。その時に、この『裁判権放棄密約』に関する文書が部分的に出てきたんですね」
岩上「しかしこういうことがあったため、民主党政権はつぶされたのだとも言えるでしょう」
吉田氏「この『裁判権放棄密約』に関しては、法務省から『米軍関係者を特別扱いしますよ』という通達が出されています」
岩上「日本の司法が在日米軍に完全に従属してしまっている、ということですね」
岩上「その結果、日本の裁判が今どうなっているか、ということです。この密約は今も生き続けている、と」
吉田氏「公務外の米軍人・軍属の刑法犯は起訴率17.4%。一方で、全国の一般刑法犯は起訴率45.4%です。明らかな違いがあるのです」
岩上「さらなる驚きの事実です!なんと最高裁にも在日米軍のための裏マニュアルがあったと」
吉田氏「これは、最高裁判所の事務総局が作成したものです。民事裁判で、米軍は証拠提出も証人出頭もしなくてもよい、という内容です」
吉田氏「日米合同委員会での密約文書には、『合衆国の利益を害すると認められる場合には、かかる情報を公表し、又は使用に供することができない』と書かれています。これが、最高裁判所の裏マニュアルに書かれているのです」
岩上「これはショックです」
岩上「この『民事裁判権密約』が事件の真相解明を阻んだ事例が、1977年9月27日の横浜米軍機墜落事件なんですね」
吉田氏「この裁判では、米軍関係者は最後まで出廷せず、事故調査報告書の提供も行われませんでした」
岩上「さて、次のチャプターが米軍による航空管制の問題です。米軍の横田基地上空は『横田ラプコン』と呼ばれ、日本の民間航空機が入れないようになっていますね」
吉田氏「はい、これもまた日米合同委員会での密約にもとづいています」
吉田氏「これも密約文書そのものは不開示なのですが、外務省の裏マニュアル『日米地位協定の考え方』からその内容は分かります。それによると横田空域について『合同委員会の合意のみしかなく、航空法上積極的な根拠規定はない』などと書いてあります」
吉田氏「日米合同委員会の密約文書では『事実上の問題として委任した』となっています。つまり法的根拠はなにもないけれど、既成事実を合同委員会が追認する、ということなんです」
岩上「つまり占領体制が、今も既成事実として今も続いているということですね」
岩上「こうした空域は、横田だけではなく沖縄にもありますね。それが嘉手納ラプコンです。これは一応、2010年に日本側に移管されました。しかし実態は、新たに『アライバル・セクター』というものが設置されていたと」
岩上「密約というものは、1950年代に生まれたものだと思われてきました。ところがこの嘉手納ラプコンの問題でも分かるように、今も日米合同委員会の中でドンドン密約が生まれているんですね!? これは本当に驚きです」
岩上「ここまでは沖縄の空域に関する話だったんですけど、実はこうした空域制限は全国に拡大されていると。それが『アルトラブ』ということだというのですが」
吉田氏「移動型と固定型がありますが、日本列島を縦断するかたちで米軍専用に設定されています」
岩上「さて、最後のチャプターです。いったい、この日米合同委員会はそもそも何のために作られたのか、という点です」
吉田氏「日米合同委員会の前身に予備作業班というものがありました。これが、国会を関与させないための仕掛けだったんです」
吉田氏「そしてその上で、米軍の特権を保障するための国内立法措置が次々と講じられていくことになります。例えば国有財産管理法では、米軍基地のために国有地を無償で提供できることになっています。他にも土地等使用特別措置法では、民有地の強制収用も」
吉田氏「なんでこんなことになってしまっているかというと、日本には『安保法体系』と『憲法体系』の2つが存在しているからだと思います。そして、前者が後者を侵食している。そのことを可能にする装置として機能しているのが日米合同委員会なのです」
岩上「そしてこの、『安保法体系』の前身が『占領管理法体系』であると。天皇による勅令のうえに、連合国最高司令官(マッカーサー)の指令や覚書が位置していたと」
岩上「長時間となりましたが、最後にまとめをお願いします」
吉田氏「戦後の日本には、『憲法体系』の外に『安保法体系』と日米合同委員会の『密約体系』がある。そしてそれが、今も米軍の占領体制を継続させているのではないでしょうか」
以上で「岩上安身による『日米合同委員会の研究』著者・吉田敏浩氏インタビュー」
の実況を終了します。動画アーカイブは準備が整い次第、IWJのホームページ(http://iwj.co.jp/ )にアップいたします。
2. 中川隆[5364] koaQ7Jey 2016年12月09日 10:07:08: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5800]
▲△▽▼
「米側の代表者が軍人であることは、現在も日本がGHQの占領継続下にあることの象徴です:兵頭正俊氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/21257.html
2016/12/9 晴耕雨読
https://twitter.com/hyodo_masatoshi
日米合同委員会。
米側の代表者が軍人であることは、現在も日本がGHQの占領継続下にあることの象徴です。
日本もいずれ「制服組」がこの場に出席することになるでしょう。
日本には、すでに文官統制も文民統制(シビリアンコントロール)も、ありません。
観念の「制服組」(安倍晋三)が、武器輸出を可能にしました。
集団的自衛権行使を可能にし、これからアフリカ・中東に参戦し、改憲もやるでしょう。
制服を着ているか否かの違いだけであって、この国の軍事は「背広を着た制服組」(安倍政権)にすでにとって代わられています。
日米合同委員会。
米日1%は、植民地を永続化するために、日本を軍事国家に変えます。
軍人の権力を拡大し、最終的には日米合同委員会を、宗主国の軍人と植民地の軍人とで仕切ることになるでしょうね。
>矢部宏治日米合同委員会を特集した報道ステーションに拍手。こうした形でジワジワと事実が国民に広まっていく。しかしなぜメイン・コメンテーターに、安保村代表の後藤謙次などを使っているのか。「日米合同委員会は単なる手続き機関」というコメントは全くの虚偽。それなら協議内容を完全非公開にする筈がない
日米合同委員会。
米側代表は在日米軍司令部副司令官。
これは戦勝国にして宗主国の軍人が、まだ占領の延長上であることを威圧的に示していますね。
同時に、実際の政治的な権力者が出席しているのだと思います。
軍人の位置づけが米国は高いですからね。
>Tad #報ステ 日米合同委員会 鳩山元総理「日本側は高級官僚が出席しても、アメリカ側は高級官僚ではなく軍人が出席する。まさに占領されているのに等しいと思います」
日米合同委員会からは多くの検事総長を出しています。
つまり、日米合同委員会には官僚の最高のエリートが出席しています。
実質的な日本の重要な政策はここで決められます。
ここで決められたことが官僚によって法案化され、政府に降ろされるのです。
>萩原 一彦 見てない人は見たほうがいい。今の日米政府がとっても不均衡な力関係にあることがわかる。国民の代表ではない日本の高級官僚と、米国民の代表ではなく高級官僚ですらない米軍人が日本の運命を決める。→報ステ特集「日米合同委員会と日米地位協定」憲法を越える存在!?非公開の日米合同委員会20161206houdoustation @gomizeromirai より - http://www.dailymotion.com/video/x54jwia_%E6%86%B2%E6%B3%95%E3%82%92%E8%B6%8A%E3%81
日本の現実は、上位法として、日米合同委員会で作る不可視の「密約法体系」があります。
続いて安保法体系が存在しています。
その後に下位法として憲法が存在しているのです。
これが植民地日本の現実です。
>徳永みちお 官僚が服従を誓う相手は国民でもなく、政治家でもなく、日米合同委員会だ。日本の政治、行政、司法の歪さの原因の一端は日米合同委員会という存在にある。
実は、自民党がいくら気張って新しい憲法を作ったとしてもあまり意味はないのです。
憲法の上に安保法体系が存在し、さらにその上位に日米合同委員会などの不可視の密約法体系が存在するからです。
日本は大きな虚妄の上に成り立った国家なのです。
>よーすけ 鳩山由紀夫のこの証言により日本の基本政策が、日米合同委員会で決められてる事が明らかになったと言える。いわばGHQの延長がこれである。これに逆らったために鳩山氏も嘗ての田中角栄も総理の座を追われたとも言える。許しがたい仕組みである。
安倍晋三が、極端なまでに軍事国家建設に走っています。
これは、背広を着た制服組(安倍晋三)が、背広組のトップに立っているのと同じです。
すでに文民統制(シビリアンコントロール)は、実質的な制服組(安倍晋三)に奪われているのです。
いずれ日米合同委員会に、自衛隊の幹部が出席するようになるでしょうね。
つまり植民地を永続化するために、日本を軍事国家に変える。
軍人の権力を拡大し、日米合同委員会を、宗主国の軍人と植民地の軍人とで仕切る。
その可能性が強くなっています。
安倍晋三は、12月の26、27両日、ハワイでオバマに会うが、プレゼントに「カジノ法案」を強行採決する。
宗主国でのカジノが斜陽になった現在、自国にうじゃうじゃといるギャンブル依存症には目をつぶり、わずか6時間の審議で衆議院可決させた。
安倍晋三が真珠湾を訪れる。
保守の反発を恐れて、首相周辺は、首相は訪問に際して謝罪は予定していない、と必死だ。
「犠牲者の慰霊のための訪問だ」。
バカである。
戦争のできる国へと日本を堕落させ、軍拡に努め、南スーダンにも派兵している。
矛盾したその場しのぎを平気で口にする。
安倍晋三がハワイの米国記者たちに「謝罪はしない」といえるかといえば、とてもおぼつかない。
しかし、こういうことは明確にいわねば、米国では一方的に謝罪にきた、と喧伝され、その見方が定着するだろう。
相手がどう受け取るか。
これが、かれの世界では一貫して欠如している。
「主観の嘘」ばかりだ。
太平洋戦争は、米国に開戦へと追い込まれた、強いられた戦争であった。
真珠湾攻撃も、事前に米国は知っており、参戦の大義を得るために、あえて日本に奇襲させたのである。
このことは米国ばかりか、すでに世界の共通理解になっている。
日本国民だけが米日1%に都合の悪い歴史を知らされていないのだ。
@米国の言い分は、太平洋戦争は日本の宣戦布告なしのパールハーバー急襲から始まり、広島・長崎への原爆投下によって終わった、というものだ。
原爆投下は、戦争を終わらせるためにやむを得ないものであった、とする。
オバマの広島見物はこのストーリー強化の第一幕だった。
A卑怯な真珠湾奇襲、のストーリーを完成させるためには、第二幕として日本の首相にパールハーバーを訪問させ謝罪させなければならない。
そこで初めて米国は太平洋戦争の贖罪意識を払拭できるのだ。
パールハーバーによって広島・長崎を相対化するのだ。
広島とパールハーバーを両国の首脳が相互訪問する戦略は、 1 米国の広島・長崎への贖罪意識の払拭 2 米日軍事同盟の強化 の2点から成っている。
行き着く果ては米日軍事同盟の強化なのだ。
第一幕はすでに上がった。
オバマの広島見物で日本が失ったものは大きい。
相当に国民の暮らしが苦しくなり、生活保護の受給者が増えてきています。
「死ね死ね団」安倍晋三の悪政が、追い詰めているのです。
結局は社会コストの増大になって跳ね返っています。
安倍には自分のやっていることの意味がわかっていませんね。
▲△▽▼
なぜ日本はアメリカの「いいなり」なのか?知ってはいけないウラの掟 内閣改造でも絶対に変わらないこと
2017.08.05 矢部 宏治 現代ビジネス
http://www.asyura2.com/17/senkyo230/msg/292.html
私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が数多く存在し、社会全体の構造を大きく歪めてしまっているという。
たとえば2016年、安倍晋三首相による「北方領土返還交渉」が、大きな注目を集めたが、日本での首脳会談が近づくにつれて事前交渉は停滞し、結局なんの成果もあげられなかった。なぜ、いつまでたっても北方領土問題は解決しないのか。はたして、この国を動かしている「本当のルール」、私たちの未来を危うくする「9つの掟」とは?
『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』の著者・矢部宏治氏が、「戦後史の闇」を解き明かす。
■事実か、それとも「特大の妄想」か
それほどしょっちゅうではないのですが、私がテレビやラジオに出演して話をすると、すぐにネット上で、「また陰謀論か」「妄想もいいかげんにしろ」「どうしてそんな偏った物の見方しかできないんだ」などと批判されることが、よくあります。
あまりいい気持ちはしませんが、だからといって腹は立ちません。自分が調べて本に書いている内容について、いちばん「本当か?」と驚いているのは、じつは私自身だからです。「これが自分の妄想なら、どんなに幸せだろう」いつもそう思っているのです。
けれども、8月17日発売の新刊『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』をお読みになればわかるとおり、残念ながらそれらはすべて、複数の公文書によって裏付けられた、疑いようのない事実ばかりなのです。
ひとつ、簡単な例をあげましょう。
以前、田原総一朗さんのラジオ番組(文化放送「田原総一朗 オフレコ!」)に出演し、米軍基地問題について話したとき、こんなことがありました。ラジオを聞いていたリスナーのひとりから、放送終了後すぐ、大手ネット書店の「読者投稿欄」に次のような書き込みがされたのです。
<★☆☆☆☆〔星1つ〕 UFO博士か?
なんだか、UFOを見たとか言って騒いでいる妄想ですね。先ほど、ご本人が出演したラジオ番組を聞きましたが(略)なぜ、米軍に〔日本から〕出て行って欲しいというのかも全く理解できないし、〔米軍〕基地を勝手にどこでも作れるという特大の妄想が正しいのなら、(略)東京のど真ん中に米軍基地がないのが不思議〔なのでは〕?>
もし私の本を読まずにラジオだけを聞いていたら、こう思われるのは、まったく当然の話だと思います。私自身、たった7年前にはこのリスナーとほとんど同じようなことを考えていたので、こうして文句をいいたくなる人の気持ちはとてもよくわかるのです。
けれども、私がこれまでに書いた本を1冊でも読んだことのある人なら、東京のまさしく「ど真ん中」である六本木と南麻布に、それぞれ非常に重要な米軍基地(「六本木ヘリポート」と「ニューサンノー米軍センター」)があることをみなさんよくご存じだと思います。
そしてこのあと詳しく見ていくように、日本の首都・東京が、じつは沖縄と並ぶほど米軍支配の激しい、世界でも例のない場所だということも。
さらにもうひとつ、アメリカが米軍基地を日本じゅう「どこにでも作れる」というのも、残念ながら私の脳が生みだした「特大の妄想」などではありません。
なぜなら、外務省がつくった高級官僚向けの極秘マニュアル(「日米地位協定の考え方 増補版」1983年12月)のなかに、
○ アメリカは日本国内のどんな場所でも基地にしたいと要求することができる。
○ 日本は合理的な理由なしにその要求を拒否することはできず、現実に提供が困難な場合以外、アメリカの要求に同意しないケースは想定されていない。
という見解が、明確に書かれているからです。
つまり、日米安全保障条約を結んでいる以上、日本政府の独自の政策判断で、アメリカ側の基地提供要求に「NO」ということはできない。そう日本の外務省がはっきりと認めているのです。
六本木ヘリポート(googlemapより)
■北方領土問題が解決できない理由
さらにこの話にはもっとひどい続きがあって、この極秘マニュアルによれば、そうした法的権利をアメリカが持っている以上、たとえば日本とロシア(当時ソ連)との外交交渉には、次のような大原則が存在するというのです。
○ だから北方領土の交渉をするときも、返還された島に米軍基地を置かないというような約束をしてはならない。*註1
こんな条件をロシアが呑むはずないことは、小学生でもわかるでしょう。
そしてこの極秘マニュアルにこうした具体的な記述があるということは、ほぼ間違いなく日米のあいだに、この問題について文書で合意した非公開議事録(事実上の密約)があることを意味しています。
したがって、現在の日米間の軍事的関係が根本的に変化しない限り、ロシアとの領土問題が解決する可能性は、じつはゼロ。ロシアとの平和条約が結ばれる可能性もまた、ゼロなのです。
たとえ日本の首相が何か大きな決断をし、担当部局が頑張って素晴らしい条約案をつくったとしても、最終的にはこの日米合意を根拠として、その案が外務省主流派の手で握り潰されてしまうことは確実です。
2016年、安倍晋三首相による「北方領土返還交渉」は、大きな注目を集めました。なにしろ、長年の懸案である北方領土問題が、ついに解決に向けて大きく動き出すのではないかと報道されたのですから、人々が期待を抱いたのも当然でしょう。
ところが、日本での首脳会談(同年12月15日・16日)が近づくにつれ、事前交渉は停滞し、結局なんの成果もあげられませんでした。
その理由は、まさに先の大原則にあったのです。
官邸のなかには一時、この北方領土と米軍基地の問題について、アメリカ側と改めて交渉する道を検討した人たちもいたようですが、やはり実現せず、結局11月上旬、モスクワを訪れた元外務次官の谷内正太郎国家安全保障局長から、「返還された島に米軍基地を置かないという約束はできない」という基本方針が、ロシア側に伝えられることになったのです。
その報告を聞いたプーチン大統領は、11月19日、ペルー・リマでの日ロ首脳会談の席上で、安倍首相に対し、「君の側近が『島に米軍基地が置かれる可能性はある』と言ったそうだが、それでは交渉は終わる」と述べたことがわかっています(「朝日新聞」2016年12月26日)。
ほとんどの日本人は知らなかったわけですが、この時点ですでに、1ヵ月後の日本での領土返還交渉がゼロ回答に終わることは、完全に確定していたのです。
もしもこのとき、安倍首相が従来の日米合意に逆らって、「いや、それは違う。私は今回の日ロ首脳会談で、返還された島には米軍基地を置かないと約束するつもりだ」などと返答していたら、彼は、2010年に普天間基地の沖縄県外移設を唱えて失脚した鳩山由紀夫首相(当時)と同じく、すぐに政権の座を追われることになったでしょう。
■「戦後日本」に存在する「ウラの掟」
私たちが暮らす「戦後日本」という国には、国民はもちろん、首相でさえもよくわかっていないそうした「ウラの掟」が数多く存在し、社会全体の構造を大きく歪めてしまっています。
そして残念なことに、そういう掟のほとんどは、じつは日米両政府のあいだではなく、米軍と日本のエリート官僚のあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としているのです。
日米安全保障条約:外務省外交史料館で展示されている署名(1960年1月19日・Photo by World Imaging creativecommons)
私が『知ってはいけない――隠された日本支配の構造』を執筆したのは、そうした「ウラの掟」の全体像を、「高校生にもわかるように、また外国の人にもわかるように、短く簡単に書いてほしい」という依頼を出版社から受けたからでした。
また、『知ってはいけない』というタイトルをつけたのは、おそらくほとんどの読者にとって、そうした事実を知らないほうが、あと10年ほどは心穏やかに暮らしていけるはずだと思ったからです。
なので大変失礼ですが、もうかなりご高齢で、しかもご自分の人生と日本の現状にほぼ満足しているという方は、この本を読まないほうがいいかもしれません。
けれども若い学生のみなさんや、現役世代の社会人の方々は、そうはいきません。みなさんが生きている間に、日本は必ず大きな社会変動を経験することになるからです。
私がこの本で明らかにするような9つのウラの掟(全9章)と、その歪みがもたらす日本の「法治国家崩壊状態」は、いま沖縄から本土へ、そして行政の末端から政権の中枢へと、猛烈な勢いで広がり始めています。
今後、その被害にあう人の数が次第に増え、国民の間に大きな不満が蓄積された結果、「戦後日本」というこれまで長くつづいた国のかたちを、否応なく変えざるをえない日が必ずやってきます。
そのとき、自分と家族を守るため、また混乱のなか、それでも価値ある人生を生きるため、さらには無用な争いを避け、多くの人と協力して新しくフェアな社会をいちからつくっていくために、ぜひこの本を読んでみてください。
そしてこれまで明らかにされてこなかった「日米間の隠された法的関係」についての、全体像に触れていただければと思います。
本書の内容をひとりでも多くの方に知っていただくため、漫画家の、ぼうごなつこさんにお願いして、各章のまとめを扉ページのウラに四コマ・マンガとして描いてもらいました。全部読んでも3分しかかかりませんので、まずは下に掲げたマンガを読んでみてください。
http://www.asyura2.com/17/senkyo230/msg/292.html
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なぜ、日本では国会議員が地方議員の仕事をしているのか 2015年6月15日
http://www.yamamotomasaki.com/archives/1991
日本政治を図らずも30年近く見てきて、いつも不思議に感じてきたことがある。
それは、「地方分権」と言われながら、いまだにすべての情報は中央、東京に集中し、内政における大枠の情報がほとんど東京に集中していることである。しかも国家主権にわたる外交、安全保障、国の経済政策、教育政策、福祉政策、医療政策、その他の分野でも大きな方針、政策は、すべて霞ヶ関から、国会議員に「勉強会」という形で官僚から卸されてくるのである。
そこで国会議員になった人間は、その中の一つか二つの分野に精通し、期数を重ねることによっていわゆる族議員というものになって、その内政の利権のお裾分けに預かる。この仕組みが、今も続く戦後の日本政治である。
さらに不思議なことは、その霞ヶ関に大きな政策を棚卸ししてくるのが、戦勝国であるアメリカなのである。
今回は、その大きな役割の一つを担っている「日米合同委員会」なるものを改めて紹介したい。不勉強の小生はこの組織のことを知ったのが、十年ちょっと前である。2011年の311以降、ネットや一部の本でもやっと言及されるようになったが、多くの日本人はマスコミがほとんど報道しないので全く知らないのではないだろうか。
そのためにいまだに一般の日本人には、認識されていないが、「日米合同委員会」というものが、戦後日本政治をコントロールしてきた最重要会議であることは間違いないのである。憲法で規定された国権の最高機関である国会を現実には超越していると言っても過言ではない。今回の安保法制を巡ってもテレビのニュース等で、あたかも日本が独立国としてこの法制を審議しているかのような報道がなされているが、残念ながら、このような報道は戦後に創られた共同幻想を維持するためものでしかない。
ところで、話題の書である矢部宏治氏は『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』で、矢部宏治氏は、「日米合同委員会」についてこう書いている。
日本はなぜ帰途と原発を止められないか
「官僚というのは法律が存在基盤ですから、下位の法体系(日本の国内法)より、上位の法体系(安保法体系)を優先して動くのは当然です。裁判で負ける側には絶対に立たないというのが官僚ですから、それは責められない。
しかも、この日米合同委員会のメンバーがその後どうなっているかを調べてみると、このインナー・サークルに所属した官僚は、みなそのあと、めざましく出世している。
とくに顕著なのが法務省で、省のトップである事務次官のなかに、日米合同委員会の元メンバー(大臣官房長経験者)が占める割合は、過去17人中12人。そのうち9人は、さらに次官より格上とされる検事総長になっているのです」
日米合同委員会の構成メンバーを見ると、米側がほとんど軍人である。
米側代表は在日米軍司令部副司令官である。
代表代理として在日米大使館公使、在日米軍司令部第五部長、在日米陸軍司令部参謀長、在日米空軍司令部副司令官、在日米海軍司令部参謀長、在日米海兵隊基地司令部参謀長である。在日米軍の軍人が威嚇するかのごとく居並んでいる。
日米合同委員会の日本側代表は外務省北米局長である
代表代理は、法務省大臣官房長、農林水産省経営局長、防衛省地方協力局長、外務省北米局参事官、財務省大臣官房審議官である。選挙で選ばれた政治家は一人も入っていない。
これは極めて象徴的な演出で、米国側は意識的に軍人を出している。現在も日本が米国の軍事占領下にあることの象徴なのだろう。わかりやすく言えば、日本官僚はネイティブの日本支配者であり、在日米軍の意向を受けて官僚の利権を維持拡大しているというわけである。
そして、日米合同委員会から多くの検事総長を出す。そして日本の対米隷属に異を唱え、真の独立を目指す人間を裁判にかけて攻撃する。その対象になったのが、最近では小沢一郎氏であった。
また、日米合同委員会で決まったことが公表されることはない。記録として残されることもない。いわば密約である。それが日本官僚を通じて政権与党である自民党に降ろされている。前回のレポートでも指摘した覇権国である米国経済の実情を考えると、もっと多くの日本人がこのことを知るべき時を迎えている。
日米合同委員会1日米合同委員会2
下記の参考資料を読んでいただければ、総理になった人間ですら、日米合同委員会のことを知らなかったことがわかる。日本の政治は見事なまでに空洞化しているのである。
<参考資料>
(*週プレNews 2014年12月16日より)
「日本はなぜ基地と原発を止められないのか」で話題の矢部宏治が鳩山友紀夫と“日本の真の支配者”を語った!
矢部宏治
鳩山友紀夫元首相(右)と矢部宏治氏が日本が「真の独立国」として新しい戦後を歩むための方法を議論
<民主党・鳩山政権の崩壊と沖縄の基地問題を出発点に、日本の戦後史を振り返った話題の新刊
『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(集英社インターナショナル)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E3%80%8C%E5%9F%BA%E5%9C%B0%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%80%8C%E5%8E%9F%E7%99%BA%E3%80%8D%E3%82%92%E6%AD%A2%E3%82%81%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E7%9F%A2%E9%83%A8-%E5%AE%8F%E6%B2%BB/dp/4797672897
の著者・矢部宏治(やべ・こうじ)氏。
そして、まさにこの本を執筆するきっかけとなった鳩山友紀夫元首相。
このふたりが、辺野古移設反対派の圧勝に終わった11月の沖縄県知事選や総選挙を踏まえ、事実上、今も米軍の占領状態が続いているこの国の姿と、日本が「真の独立国」として新しい戦後を歩んでいくためにはどうすればいいのか、その方法を考えた!>
首相の時はわからなかった「見えない敵」の正体
―まずは鳩山さんに、矢部さんの本を読まれた率直な感想から伺いたいのですが?
鳩山 正直申し上げて“ぶったまげた”というか、矢部さんがここまで勇気を持って取材され、この本を書かれたことに敬服しました。先にこの本を読んでいれば、私も総理を辞めずに済んだかもしれない、と(笑)。
もちろん、私は自分の非力について言い訳する気はありません。総理として一度は沖縄県民に期待感を与えながら(県外移設を)実現できなかったのは私に大きな責任があります。
ただ、この本を読んで、当時、自分がもっと政治の裏側にある仕組みを深く理解していれば、結果が違っていた部分もあるのかなとは思いました。それだけに、自分が総理という立場にありながら、この本に書かれているような現実を知らなかったことを恥じなきゃいかんと感じるわけです。
矢部 鳩山さんは以前、インタビューで「官僚たちは総理である自分ではなく『何か別のもの』に忠誠を誓っているように感じた」と言われていましたが、その正体がなんであるか、当時はわからなかったのでしょうか?
鳩山 物事が自分の思いどおりに進まないのは、自分自身の力不足という程度にしか思っていませんでした。本来ならば協力してくれるはずの官僚の皆さんには、自分の提案を「米軍側との協議の結果」と言って、すべてはね返されてしまって。分厚い壁の存在は感じながらも「やっぱりアメリカはキツイんだなぁ」ぐらいにしか思っていなかった。その裏側、深淵の部分まで自分の考えは届いていなかったのです。
しかし、矢部さんのこの本はもっと深いところで米軍と官僚組織、さらには司法やメディアまでがすべてつながって一体となった姿を見事に解き明かしてくれて、いろんなことが腑(ふ)に落ちました。この本を読んで、目からうろこが何枚落ちたかわからないくらい落ちましたね。
矢部 在日米軍と日本のエリート官僚で組織された「日米合同委員会」の存在は、当時ご存じなかったということでしょうか?
鳩山 お恥ずかしい話ですが、わかりませんでした。日米で月に2度も、それも米軍と外務省や法務省、財務省などのトップクラスの官僚たちが、政府の中の議論以上に密な議論をしていたとは! しかもその内容は基本的には表に出ない。
私が総理の時にアメリカから「規制改革をやれ」という話があって、向こうからの要望書に従って郵政の民営化とかがドンドンと押しつけられた。そこで「この規制改革委員会はおかしいぞ」というところまでは当時もわかっていたのですが。
矢部 日米合同委員会は基本的に占領以来続く在日米軍の特権、つまり「米軍は日本の国土全体を自由に使える」という権利を行使するための協議機関なのですが、この組織が60年間続いていくうちに、そこで決まったことには、もう誰も口出しできないという状況になってしまった。
なかでも一番の問題は、日米合同委員会のメンバーである法務官僚が、法務省のトップである事務次官に占める割合は過去17人中12人、そのうち9人が検事総長にまで上り詰めている。つまり、米軍と日本の高級官僚をメンバーとするこの共同体が、検察権力を事実上握っているということなんです。
しかも、在日米軍基地の違憲性をめぐって争われた1959年の砂川裁判で、当時の駐日米国大使だったダグラス・マッカーサー2世が裁判に不当な形で介入し、「日米安保条約のような高度な政治性を持つ問題については、最高裁は憲法判断をしない」という判例を残してしまった。ですから日米合同委員会の合意事項が仮に憲法違反であっても、日本国民にはそれを覆(くつがえ)す法的手段がない。
鳩山 それはつまり日米合同委員会の決定事項が、憲法も含めた日本の法律よりも優先されるということですよね。そのことを総理大臣の私は知らなかったのに、検事総長は知っていたし役人も知っていたわけだ。
矢部 ですから、鳩山さんの言う「官僚たちが忠誠を誓っていた何か別のもの」、つまり鳩山政権を潰(つぶ)したのは、この60年続く日米合同委員会という米軍と官僚の共同体であり、そこで決められた安保法体系だというのが現時点での私の結論ですね。
―そうした仕組みの存在を知った今、鳩山さんはどのような思いなのでしょうか。
鳩山 日米合同委員会に乗り込んでいきたいぐらいだね。「何をやってるんだ、おまえら!」みたいな感じで。
ただ、そういうものが舞台裏で、しかも、憲法以上の力を持った存在として成り立っていたとしても、決してメディアで報道されることもないし、このメンバー以外にはほとんど知られないような仕組みになっているわけですよね。
矢部 このような「見えない力」の存在は、政権内にいないと、野党の立場ではまったく知り得ないものなのでしょうか?
鳩山 私も自民党時代がありましたので、8年は政権党にいたわけですが、当選1回や2回の新人議員の間は、官邸内部で何が動いているか知りようもありませんでした。でも与党の一員としては扱ってもらっていたと思います。
それが野党となると、与党、特に与党の中枢の方々とは情報量が圧倒的に違う。官僚も野党に話す場合と与党に説明に行く場合では、丁寧さも説明に来る人の役職も全然違う。そのぐらい野党に対しては、官僚は区別し、冷たい対応をしていました。
つまり、自民党政権と官僚機構が完全に一体化していたということです。野党は圧倒的に情報過疎に置かれているのは事実で、国民はその野党よりも情報が少ない。
この先、特定秘密保護法によって、ますます国民には何も知らせない国になるわけで、非常に恐ろしいことだと思います。
日本全土が「米軍の基地」という現実
矢部 「横田空域」という、1都8県の上に米軍が管理している広大な空域がありまして、日本の飛行機はここを飛べない。これなんか典型的な「米軍が自由に日本の国土を使える」事例ですね。
鳩山 私も横田空域のせいで、日本の航空会社が非常に不自然な飛行ルートで飛ばされていることは知っていましたが、「沖縄と同じように、米軍の優位性というのが東京や関東周辺にもあるんだな」という程度にしか理解していなかった。
しかし、具体的に図を見ると、関東上空がこれほど広範囲に米軍に「占領」されているという事実に仰天しますよね。沖縄だけではなくて、実は日本全体がアメリカに今でも支配されているも同然ですから。
矢部 飛行ルートの阻害もありますが、それより問題なのは、米軍やCIAの関係者が日本の国境に関係なく、この空域から自由に出入りできる、入国の「裏口(バックドア)」が存在することです。これはどう考えてもおかしな話で、こんなことは普通の主権国家ではあり得ません。
この問題なんて国際社会にアピールしたら、みんなすごく驚くと思うんです。これは今、日本で起きているほかの問題、特に原発の問題にも絡んでくる話ですが、日本という国が置かれている状況の歪(ゆが)みやおかしさを伝えるいい事例になると思っています。
結局、日米安保条約とは、米軍が「日本の基地」を使う権利ではなく、「日本全土」を基地として使う権利を定めたものなのです。
旧安保条約の第1条で米軍にその権利が認められ、60年の安保条約で文言は変わっていますが、その権利は残されている。これを「全土基地方式」というのですが、これはなんとしても国際社会にアピールして変えていかないといけない
鳩山 矢部さんの本だと、米軍がそんなことをできる根拠は、敗戦国である日本を今でも「敵国」と見なした、国連憲章の「敵国条項」があるから、という話でしたが。
矢部 そこの説明は少し複雑で、旧安保条約第1条には、そうしたメチャクチャな軍事利用のあり方は、日本側が望み、アメリカ側がそれに応えたものだということが書かれている。そうした戦後処理を日本が望んだ以上、日本の主権や国民の人権がいくら侵害されていても、国連は口を出せないというロジックになっているんです。一種の法的トリックと言ってもいい。
ですから、日本にちゃんとした政権が誕生して、国際社会で堂々と議論し、「全土基地方式はやめてくれ」と言ったら「それは敵国条項があるから無理だ」とは絶対ならないと思います。
米軍の占領状況を米国民に訴えろ!
鳩山 矢部さんのような方の努力もあって、私もようやく目隠しが外れて真実が見えてきたわけですが、問題はそこから先をどうするかです。やはり一部の人たちだけが目隠しを外すんじゃなくて、日本の国民の多くに触れられるPR戦術というか、日本の戦後の背後には何があるのかをきちんと解き明かす手段が必要だと思いますね。
それと、日米関係に関わっている米軍関係者を除けば、アメリカの議会や国民は日米合同委員会なるものがどういう役割を果たしてきたのか、それが今も日本の主権をさまざまな形で侵害している事実も知らないと思います。しかし、こうした状況はアメリカの国民から見ても「異常なこと」だと映るはずですから、われわれが海外、特にアメリカの議会や国民に対して「日本は今も事実上、米軍に占領されているけれど、本当にこれでいいのか?」と訴えることが重要です。
矢部 情報発信という意味では、今、ドイツなど多くの国が日本の原発汚染に対して「何を考えてるんだ!」って相当に怒っている。基地の問題だけだと「勝手にやっててくれ」となるかもしれないけれど、原発の問題はそうはいかない。全地球的な問題です。
あれだけ深刻な原発事故を起こした日本がなぜ、今再び原発推進への道を進もうとしているのか? その背景には「日米原子力協定」という、自国のエネルギー政策すらアメリカの同意なしには決められないという、客観的に見ても非常に歪(いびつ)な構造がある。それをうまく国際社会にアピールできたら、こうした日本の歪んだシステムに世界の光が当たる可能性はあります。
鳩山 そうですね、日本のメディアも完全に取り込まれてしまっているのであれば、基地の問題だけではなく、原発も併せて海外に訴えるほうが、圧倒的に意義があると思います。
ただし、そうした「外圧」に頼るだけでなく、結局はこの国の政治を変えない限り、そして多数派にならない限り、こうした流れは大きく変えられません。
*2015.03.16 NEWSポストセブンより
「米軍幹部と日本の官僚が進路決める「日米合同委員会」の存在」
東京都港区南麻布。都内屈指の閑静な高級住宅地も、そこだけは異空間が広がる。
入り口には屈強なガードマンが立ち、脇には「100%、IDチェック」と書かれた案内書きがある。米軍施設の「ニューサンノーホテル」である。
在日米軍関係者は、
「ここは赤坂の米国大使館以上に、米国にとって重要な施設。表向きは来日した米軍関係者の宿泊施設ですが、米海軍情報部や CIA の拠点が置かれていて、日米のインテリジェンスの集積地です」
と説明する。
日本のメディアどころか、政治家も立ち入れない。そんな場所で、日本の高級官僚と在日米軍関係者は、定期的に会合を重ねていた。それが日米合同委員会後述するが1960年に締結された日米地位協定(※注1)をどう運用するかを協議する実務者会議だ。
※注1/1952年に旧安保条約と同時に発効した「日米行政協定」が前身。1960年に日米安全保障条約を締結した際に改めて交わされた。
そこでは、日本の安全保障の根幹に直接かかわる問題から、米軍基地と周辺住民の諍いまで協議される。 前者は在日米軍基地の移転・縮小、米海兵隊の新型輸送機オスプレイの配備といった問題、後者は基地内のゴミ処理、航空機の騒音問題などだ。
かつては、米兵の犯罪並びにその処遇も、開かれた法廷ではなく、密室の話し合いによって、解決がなされたこともあった。
日米合同委の組織は、米国側は在日米軍司令部副司令官、在日米大使館公使など、日本側は外務省北米局長を代表として法務省大臣官房長、防衛省地方協力局長といった面子だ。
日本側の代表者及び代表代理は、将来的に事務次官を狙えるポストにある。そんな高級官僚が、在日米軍や米大使館の有力者と密議を交わすことから、日米合同委は「影の政府」との異名もつく。
ただし、彼らが一堂に会するわけではない。同委員会は、基地問題、刑事、環境など35の分科会や部会に分かれ、担当ごとに参加者が決まる。実際に出席したことのある官僚が明かしてくれた。
「日米の責任者(担当者)が最低一人、書記および通訳などの職員が最低二人は出席する。対話は基本的には日本語で行なわれますが、日本側も英語の話せる通訳を連れているため、微妙なニュアンスで日米の解釈が異なるという事態は生じない」
関係者らの話をまとめると、毎月2回ほど開かれ、開催場所は米国と日本で持ち回りとなる。米国ならニューサンノーホテル、日本の場合は外務省を中心に、分科会や部会ごとに代表者の所属する官庁内で開催されているという。
だが、会合の中身は一切明かされない。合意の一部は外務省、防衛省のホームページに公表されているが、それも簡潔に記されているだけだ。
同委員会を所管する外務省北米局に日米合同委の詳細を問い合わせても、「回答できるのは、既に公表しているものだけ」の一点ばりで、防衛省広報課に問い合わせても、「外務省が所管なので、外務省に聞いてください」という堂々巡りだった。
元琉球新報論説委員で、在日米軍基地問題に詳しい沖縄国際大学大学院教授・前泊博盛氏は語る。
「日米合同委に合意内容を公表する義務はない。日米双方の合意がない限り公表しない取り決め(※注2)になっているからです。」
※注2/1996年2月に、日米両政府は日米地位協定の9項目についての運用改善で合意。「日米合同委員会の公表」もそこに含まれた。しかし、結果的に「合意内容」の公表こそ一部改善はされたものの、会合内容が公表されることはなかった。
「基本的に軍事関係の取り決めなので米軍側は、情報を出したくない。また、米軍に有利に推移した合意内容を表に出して、日本人の神経を逆なでしたくないという思いもある。日本側としても、米国との交渉に負けた、との誹りを避けるために、できるだけ隠密に事を収めたい」
必然的に日米合同委は「密約の温床」になってしまう。(終わり)
http://www.yamamotomasaki.com/archives/1991
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c9
10. 中川隆[-12851] koaQ7Jey 2019年1月20日 11:05:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
アメリカが中南米を支配する方法
CIAがリリースした1950年代から1970年代にかけての機密文書「家族の宝石」の中には、1970年代にヘンリー・キッシンジャーが関与したキプロスとチリのクーデターについても書かれている。
1974年、キッシンジャーは、ギリシアのキプロスへの介入を推進したこと、また1970年、チリの総選挙で社会党のサルバドール・アジェンデが当選しそうになっていた時、キッシンジャーが中心となって「反アジェンデ」のプロパガンダを開始し、チリにおける左翼政権の誕生を妨害。
クーデターでアジェンデは射殺され、ピノチェトの軍事政権が成立したが、このことを促進し、ピノチェトを強くサポートしたのも彼であったこと、なども今回公開された文書には書かれている。
http://www.asyura2.com/07/war93/msg/591.html
2019.01.06
ブラジル新大統領が米軍基地の建設を目論む(1/2)
ブラジルの新大統領、ジャイール・ボルソナーロは同国にアメリカ軍の基地を建設する意向を示している。
この人物はチリの独裁者だったオーグスト・ピノチェトを信奉、つまり表面的な手法はともかく、巨大資本に奉仕するという政治経済的な立場はドナルド・トランプよりヒラリー・クリントンに近い。フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領とは正反対の立場だ。軍事政権時代に拷問を行ったことで悪名高いカルロス・アルベルト・ブリリャンテ・ウストラも彼は褒め称えている。軍事政権時代に政治犯だったルセフも拷問されているが、その責任者でもあった。
ピノチェトは1973年9月11日、軍事クーデターで民主的に選ばれたサルバドール・アジェンデ政権を倒した。アメリカの巨大資本がクーデターの資金を提供していたが、政権転覆に命令は大統領補佐官だったヘンリー・キッシンジャー。その命令でCIAの秘密工作(テロ)部門が動いたのである。
アジェンデは国民の大多数である庶民の立場から政策を推進しようとしたが、これはラテン・アメリカに利権を持つアメリカの巨大資本やその代理人である現地の支配層にとって許しがたいことだった。
選挙期間中、CIAは新聞、ラジオ、映画、パンフレット、リーフレット、ポスター、郵便物、壁へのペインティングなどを総動員してプロパガンダを展開したが、アジェンデが勝利する。
それに対してチリの支配層は生産活動を妨害、アメリカの巨大金融機関はチリへの融資をストップ、世界銀行も同国への新たな融資を止め、1972年になるとトラックの運転手がストライキを実施、商店主、工場経営者、銀行なども同調して全国的なロックアウトに発展した。
こうした揺さぶりはNSC(国家安全保障会議)の「オペレーション40」が指揮していたが、キッシンジャーは軍事クーデターを計画する。CIA長官だったリチャード・ヘルムズの下、秘密工作(テロ)部門が動いた。
この計画はCIAの内部でも秘密にされていたが、それでも計画の一端は外部に漏れてしまう。例えば、ワシントン・ポスト紙のコラムニストだったジャック・アンダーソンが1972年3月にコラムで多国籍企業のITTがチリで秘密工作を実行していると暴露したのである。フランク・チャーチ上院議員を委員長とする「多国籍企業小委員会」はこの件に関する聴聞会を実施した。
それでも工作は続き、キッシンジャーたちはチリ軍を支配するために護憲派だった陸軍総司令官を暗殺、その後任も憲法を遵守する立場だったために排除した。
アジェンデは1973年8月にオーグスト・ピノチェトを陸軍総司令官に任命する。ピノチェトも護憲派だと判断したのだが、これが致命傷になった。
クーデター後、ピノチェトはシカゴ大学のミルトン・フリードマン教授の政策、つまり新自由主義を世界に先駆けて導入する。その政策を実際に実行したのがフリードマン教授やアーノルド・ハーバーガー教授の弟子たち、いわゆるシカゴ・ボーイズだ。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901060001/
ブラジル新大統領が米軍基地の建設を目論む(2/2)
軍事クーデターで実権を握ったオーグスト・ピノチェトは1979年に健康管理から年金、教育まで全てを私有化しようと試み、関税を撤廃、資本や売買の規制を緩和、交換レートを固定した。(James S. Henry, “The Blood Bankers”, Four Walls Eights Windows, 2003)
一連の規制緩和でチリの民間部門は外国の金融機関から多額の資金を調達、1980年代に入ると債務額は倍増。債務危機が起こると外国の金融機関は銀行の国有化を求め。国有化された彼らの債権は私有化された国有企業の株券と交換することが許された。その結果、チリの年金基金、電話会社、石油企業などチリの重要な企業を外国の投資家は格安のコストで支配することになる。(James S. Henry, “The Blood Bankers”, Four Walls Eights Windows, 2003)
当然のことながら、こうした政策で庶民は貧困化、その子供は教育を受けるチャンスを奪われ、さまざまな不平等を再生産することになった。これが「チリの奇跡」だ。
新自由主義が庶民に塗炭の苦しみを強いることは事前に予測されていたことで、そのためには反対勢力を殲滅する必要があった。そうした意味でもピノチェトの軍事クーデターは重要な意味を持っている。
後に設置される「チリ真実と和解委員会」によると、軍事政権の時代に殺されたり「行方不明」になった人は「少なくとも2025名」だというが、実際の犠牲者はそれを上回り、一説によると約2万人が虐殺されている。ブラジルの新大統領、ボルソナーロに言わせると、「ピノチェトはもっと多くの人間を殺すべきだった」。
21世紀に入った直後、ブラジルはアメリカから自立する動きを見せていた。その当時の指導者、ルイス・シルバやジルマ・ルセフをアメリカは議会を使って排除する。
議会でシルバやルセフの政治的な抹殺を先導していたのはブルーノ・アラウージョやエドアルド・クーニャだが、前者は巨大建設会社から違法な資金を受け取った容疑をかけられ、後者はスイスの秘密口座に数百万ドルを隠し持っていることが発覚した。
ブラジルを再び植民地化するためにアメリカ支配層が使った組織としてMBL(自由ブラジル運動)やEPL(自由を求める学生)が知られている。両団体を創設したキム・カタグイリはミルトン・フリードマンの新自由主義を信奉する「活動家」。MBLを率いているジュリアーノ・トレスとファビオ・オステルマンが学んだアトラス・リーダーシップ・アカデミーはアメリカの富豪、チャールズとデイビッドのコーク兄弟から資金が出ている。EPLのスポンサーもコーク兄弟だ。
シルバやルセフを支えていた人々はアメリカ巨大資本の支配システムを壊さなかった。資金力、情報力、軍事力で圧倒しているアメリカ支配層が反撃してくるのは必然だったと言える。
そのアメリカ支配層は邪魔な存在を皆殺しにしてきた。チリもそうだが、1965年のインドネシアは悪名高い。現在のインドネシアをカルト国家と呼ぶ人もいるが、確かに欧米権力層はカルトを支配の道具として使っている。その一例がワッハーブ派だ。
アメリカ支配層は支配の仕組みとしてNATOや日米安保のような軍事同盟も利用している。ボルソナーロがブラジルにアメリカ軍の基地を建設すると言っている意味もそこにあるはずだが、そうした事態になるとブラジル軍はアメリカ軍の支配下に入ることになる。それをブラジル軍が受け入れるかどうかが問題になってくるだろう。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201901060001/
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c10
11. 中川隆[-12850] koaQ7Jey 2019年1月20日 11:07:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225]
2017年01月17日 世界を支配しているCIA3派とは・・・・
http://blog.livedoor.jp/wisdomkeeper/archives/52001108.html
ソ連崩壊後、パパブッシュとブッシュのネオコン攻撃部隊(Vulcans)はロシア及びソ連から独立した国々から全ての資産(特に石油)を奪った。パパブッシュとキッシンジャーは、ブッシュCIAのごろつき集団の犯罪を介して個人的に巨額の富を得た。
ヘンリー・キッシンジャー、サイラス・バンス、ジェームズ・ベイカーが国務長官だったときに副次官補を務めたスティーブ・パチェニクはWikiLeaksについて、クーデターを阻止しようとしている情報機関内のグループが作り上げたのではないかと推測している。
___
非常に長い記事ですので一部をざっくりと訳してみました。全てをお伝えできず残念ですが、残りの部分はサイト内の本文をご覧ください。
この記事はCIAについて非常に詳細に説明してくれています。そして世界を実際に支配しているのはCIAの3派閥だとも言っています。これらの3派閥で内紛が勃発しているそうです。またCIA 対 NSAの闘争も起きているそうです。彼らの戦いが激化して共倒れすることを願うばかりです。
日本の政治家もCIAに暗殺されていますが、トランプ氏もケネディ大統領と同様に彼らに暗殺される危険性があります。CIAとは関係がなくスキャンダルも少ないトランプ氏はCIAと主要メディアと戦っていることがよくわかります。主要メディア(日本のマスコミも含め)は、大統領就任式間近の今、反トランプの情報操作を激化しています。マスコミはトランプ氏の暴言について嘲笑しながら伝えていますが、トランプ氏の暴言の内容は非常にまともで本当のことを言っています。これほど本当のことをストレートにいう政治家はいままでいなかったでしょう。
激しくののしっているように聞こえますが、トランプ氏はオルターナティブ・メディアが伝える内容をそのまま言葉にしているだけです。想像以上にアメリカの闇を知り尽くしているのでしょうね。
http://themillenniumreport.com/2017/01/exposed-cia-the-swamp-monsters/
(一部のみ)
1月14日付け
EXPOSED: CIA –The Swamp Monsters
世界を支配しているCIAの3派
By the Anonymous Patriots
The Millennium Report Exclusive
(非常に長い記事ですので、一部しかお伝えできません。ご了承ください。残りの部分はサイト内の記事をご覧ください。)
CIAの国内におけるスパイ活動は全ての米国民を標的にしている。いつ米国民がCIAに狙われ銃で撃たれてもおかしくない状況にある。
大統領選での様々なハッキング騒動は大統領選を無効にするためにCIAが行った偽旗であり、これには国を混乱に陥れているCIAの派閥争いも絡んでいる。
現在、CIAの派閥闘争及びCIAとCIAほど重要でない他の諜報機関(FBI、NSA、国土安全保障省、NIA国家情報機関、その他)の闘争が進行中である。
このような諜報機関同士のスキャンダル合戦は今に始まったものではないが。
米政府の代弁者でしかない主要メディアでさえ、米諜報機関同士の争いが起きていることを報道している。
CIAは他の全ての政府系諜報機関のトップに君臨している。
大統領令は極秘に扱われ、CIA以外の諜報機関には知らされることはない。
大統領の国際的な極秘事項に対してはCIA以外の諜報機関は部外者となる。
現在、オバマ大統領は、米議会、最高裁判所、米国民の承認を得ずに国際戦争を行っている。オバマ大統領は、NDAA(直訳:国防権限法)を修正し大統領の権限を増大させたため、米議会の承認なしに国内外で様々な戦争を行うことができるようになった。オバマはこの8年間で数々の違法な大統領令を確立させ、大統領の権限をかつてないほどに増大させた。
オバマが確立させた大統領令の下で国の安全を理由に大統領はアメリカの全資産を強奪できるようになった。
更に恐ろしいことは、CIAは、国際安全保障の名の下に大統領の上に立つことができるということだ。
CIAは、米連邦議会、大統領、米国民よりも優位な位置に自らを置き、秘密裡に何でも行えるようになってしまった。
CIAの絶大な権限で主要メディアはトランプ次期大統領に関するねつ造報道(ロシアのハッキングやロシアの脅迫など)を展開している。イギリスからこの国へ偽の調査書類が送られた。そしてCIAはトランプ次期大統領に対する
組織的誹謗中傷キャンペーンを実施している。
DNI国家情報長官のジェームズ・クラッパー氏(James Clapper)はCIAが提出した偽の調査書類に同意したことで、政府諜報機関の無能さが露呈した。
1981年にレーガ大統領が大統領令によりDNI国家情報長官を創設した主な理由は、米軍の高級将官が運営していたNSAをなくすためだった。DNIの職務はCIAの監視役として定義され、全諜報機関のトップに立った。しかし彼はCIAを支配することはできない。
国内外の情報活動に携わっている政府機関は世界各地に1271機関あり、政府から委託された民間会社は1931社存在する。つまり、85万4千人以上の職員が機密情報を取り扱っている。
諜報部員は85万4千人以上存在する。
クラッパーDNI国家情報長官は米議会で真実を話すことを宣言したにも関わらず、NSAは米国民の個人情報を収集していないと嘘をついた。
クラッパー氏はDNIに任命される前に、英軍に機密情報を提供している会社(Detica)の業務最高責任者を務めていた。同時に他の民間諜報機関(SRAとBoozAllen Hamilton)にも勤務していた。
クラッパー氏は諜報活動のための約75億ドルの年間国家予算を管理している。また彼はイギリスの元民間スパイである。それでも彼はトランプ氏に関する主要メディアのねつ造報道を見抜けなかったのである。
つまりこの男はプロの諜報部員を従えて年間75億ドルの予算を管理してるのにもかかわらず、CIAがトランプ氏を中傷するために偽の情報を流していることにさえ気づいていないのだ。
一方、我々市民は独立メディアの情報によりその真実を知っている。
法治国家であるならば、CIAによる次期大統領に関するねつ造報道は違法行為と見なされるがアメリカは法治国家ではない。
クラッパー氏は、現在、17の諜報機関(CIA、NSA、国土安全保障省、FBI、国務省、財務省、国防情報局、空軍情報局、陸軍情報局、米海兵隊情報局、沿岸警備情報局、エネルギー省、国家偵察局、麻薬取締局、国家地理空間情報局)のトップに君臨している。同時に彼は今でも3つの政府請負会社(Detica、BAE Systems、SRAインターナショナル、Booz Allen Hamilton)の取締役である。
クラッパー氏はアメリカの全ての情報機関を支配しているが、同時にアメリカの敵でもある。
彼は外国の諜報機関に所属してアメリカをスパイしていたこともある。
彼はアメリカの国家諜報機関のトップに上りつめ、全権力とカネを手に入れた。
オバマがクラッパー氏を国家諜報機関のトップに任命してから、アメリカではねつ造報道のオンパレードとなり、多国籍グローバリストの利益のために売国されるようになった。
CIAは国外の違法なハッカーを雇ってサイバー攻撃を行わせている。ヒラリーと民主党全国大会は彼らのサーバーがハッキングされた後にその調査を国外の民間会社に依頼した。しかしロシアが彼らのサーバーをハッキングした証拠は一切見つかっていない。
ほんの数人に権力が集中すると、必ず誤った方向へ進んでしまう。クラッパー氏は正確な情報を提供することに興味はない。彼はナチスの情報局と同様に単なるプロパガンダ・マシーンなのだ。
クラッパー氏は17の諜報機関を使って、彼らが流す情報は全て正しいと証拠もなしに我々に信じさせようとしている。
オバマの大統領令により、NSAは米国民と世界人類を監視することが可能となった。NSAが盗みとった個人データは全諜報機関が共有している。
スイス、ジュネーブのCIA海外本部はスイスの金融スキャンダルやCIAの犯罪活動に関わっている。
CIAのCiscoルーターやサーバーはNSAによってスパイされCIAの犯罪活動がNSAに知られてしまった。その結果、CIAと共謀したスイスの金融エリートらが逮捕された。NSAは今後もCIAに対するスパイを行っていく。
CIAのスイス本部は極秘施設であり、そこのサーバーがハッキングされたことでCIAは激怒した。
NSAに対するCIAの反撃として、CIA請負エージェントのエドワード・スノーデンを使って、NSAが米国民の個人情報を盗んでいることを示す大量のデータをリークさせた。
CIAは、CIAの3派閥を暴露したNSAがこれ以上CIAをスパイできないように対策を講じている。
クラッパー氏は米議会に呼ばれる度にNSAはスパイ活動を行っていないと嘘の証言をした。
CIAとNSAの闘争の中で、CIAはCisco SystemsやDARPAなどの活動情報をNSAに盗まれないようにした。
現在、CIA、NSAそして他の諜報機関の情報操作、情報収集合戦が進行中である。
しかしCIAは国際安全保障を担っているため国家安全保障を担当するNSAよりも優位に立っている。
CIAは国際的な紛争や事件に必ず関与している。通貨戦争、市場戦争、金融戦争、サイバー戦争、麻薬戦争そしてテロは常にCIAの関心事である。
オバマのNDAAは軍隊がテロリストと見なされた米国民を攻撃することを可能にした。愛国法により、CIAは米国民、企業、機関がテロリストでないことを証明できるまでテロリストと見なすことが可能となった。
CIAは3つの派閥に分類されており、世界中のスパイ活動を通して大きな利益を得ている。
アメリカはCIAに支配されており、ワシントンDCはCIAの泥沼の怪獣に包囲されている。
CIAは国内外で偽旗事件や非人道的犯罪を繰り返している。CIAによる殺人行為で無数の人々が犠牲になり、3兆ドルものアメリカの納税者の血税が無駄に使われた。CIAは国際戦争を勃発させるための偽旗事件を仕掛ける。またCIAはメディアを支配しサブリミナル・メッセージを流すことにより人々を洗脳している。
CIAは、元祖CIA(金に裏付けられたCIA=GB-CIA)、ブッシュCIA、Ex−CIAの3派閥に分かれている。それらの3派閥がアメリカや世界を支配してきた。
GB-CIA:Gold backed CIA
元祖CIA(OSS)は第二次世界大戦中に世界の国々から金(Gold)を盗んだ。ドイツや日本が他の国々から奪い取った金もCIAが奪った。しかしCIAは盗んだ金を返還するつもりはない。CIAが盗んだ金はアメリカには保管されておらず、フィリピンとスイスに保管されている。
GB-CIAはアメリカの国益のために海外で活動することになっているが、彼らは通貨市場、債券市場、株式市場に関与し世界中に影響をあたえている。
GB-CIAのメンバーは米財務省及びアメリカの経済政策を決めるESF経済安定資金に多く入りこんでいる。 ESFは通貨、債券、株式市場を操作し、FRBに金融政策を指示している。ESFはGB‐CIAにとってアメリカの金融市場を支配する上で最も都合の良いツールである。
GB-CIAこそがアメリカ経済を支配している。
GB-CIAは欲深く、世界中に戦争を仕掛けて富を強奪している。邪魔者は容赦なく殺害する。CIAは世界中で数々の残忍な犯罪活動を行っている。
ブッシュやクリントン周辺では、彼らに批判的な銀行のトップ、ブローカー、内部告発者が次々に不審死を遂げている。これまで数百人が殺害された。
また、GB-CIA は、彼らの性的異常行為、ピードフィリア(小児性愛犯罪)、悪魔崇拝の生贄儀式に多くの政治家や企業家を取り込んでいる。彼らは世界的な小児性愛犯罪ネットワークを構築させた。また、彼らは、難民のチャリティ団体を活用して世界最大の性奴隷の人身売買市場を運営している。また世界の麻薬密売も牛耳っており、イランーコントラ・スキャンダルやアフガニスタンのケシ栽培を行ってきた。
彼らは、麻薬、セックス、権力、支配、悪魔崇拝という通貨で絶大な権力を買っている。
Bush CIA (ブッシュ、クリントン、オバマ犯罪ファミリーとも呼ばれる):
パパブッシュが副大統領時代にブッシュCIAが正式に創設された。アメリカの16の諜報機関は国家情報長官によって支配されている。パパブッシュはCIA長官も務めたことがある。レーガン政権を支配していたのはパパブッシュである。彼はレーガンによってアメリカの外交政策の責任者に任命された。当時、パパブッシュはCIAの戦術を使ってソ連を崩壊させた。
パパブッシュ政権時代にジョージ・ソロスとレオ・ワンタが米財務省の偽の米国債を使ってロシア通貨を攻撃し不安定化した。
パパブッシュの兄(弟)は、Riggs Bankを経営しており、その傘下にVelment Bankを創設し、ロシアから奪ったお金とゴールドをロンダリングしている。一部のお金はミット・ロムニーの会社、Bain Capitalを介してロンダリングされた。
ソ連崩壊後、パパブッシュとブッシュのネオコン攻撃部隊(Vulcans)はロシア及びソ連から独立した国々から全ての資産(特に石油)を奪った。パパブッシュとキッシンジャーは、ブッシュCIAのごろつき集団の犯罪を介して個人的に巨額の富を得た。
パパブッシュはブッシュCIAのごろつき集団にホワイトハウス、司法省、国務省を取り込み、勢力を拡大した。その結果、CIAの犯罪は全て連邦判事や国務省の高官によって見逃された。
ブッシュ家はクリントン家とビル・クリントンがアーカンソー州知事になる前から親しい関係にあり、オバマの母親は元CIAエージェントである。そのためオバマは生まれた時からCIAと深い結びつきがあった。オバマは完全にCIAの創造物である。
オバマが抱える問題は、CIAの3派閥ともつながりがあることであり、どの派閥に属してよいのかわからない。彼のめちゃくちゃな政策は、GB-CIAとブッシュCIAの両派閥を満足させようとしたからに他ならない。
ピザゲートで悪名高いジョン・ポデスタ氏と彼の兄(弟)はワシントンで最も有力なロビーストであり、レーガン政権時代から米政府の小児性愛組織を牛耳ってきた。
パパブッシュはレーガン政権の事実上の権力者だったが、当時からホワイトハウスでは小児性愛犯罪が日常的に行われていた。
ホワイトハウスがこのような性犯罪を堂々と行っていたことで連邦議員らの倫理が完全に崩壊した。
パパブッシュはケネディを暗殺したCIAを当時から支配し続けており、やりたい放題のことをやってきた。誰もそれを止めることはできなかった。パパブッシュはレーガン大統領の暗殺も企てたが失敗した。
ホワイトハウスも司法省も国務省もCIAの犯罪行為に慣れてしまい、CIAや政治家の犯罪をひたすら隠蔽してきた。
ケネディが暗殺されたとき、パパブッシュはCIAエージェントだった。
当時GB-CIAは世界の地政学的領域で独占するようになり、政治リーダーの暗殺を行うことで政権を変えることが可能になったとパパブッシュは認識した。
当時、パパブッシュは外交政策の責任者としてCFR(元CIA、政府の諜報部員及び企業の諜報部員で構成されている)の命令に従って政策を実行していた。また、パパブッシュは自分が任命した政治家全員の脅迫状リストを作成し彼らに命令に従うことを約束させた。
パパブッシュはサウジ王族と非常に親しい関係を築いた。そして彼の人生の多くをサウジの宮殿で過ごすことになった。パパブッシュは世界最大の武器商人、麻薬王、マフィア、王族、金融詐欺集団と協力関係にあった。彼はどこの国を訪れてもセキュリティに引っかかることなく自由に入国を許され、彼のビジネス(犯罪活動)を世界中で展開することができた。
最終的にGB-CIAはブッシュCIAの活動に気が付き、両者間の緊張が高まった。
パパブッシュは、配下のジョージ・ソロスとレオ・ワンタがロシア通貨を崩壊させ巨額の富を得た時、ロシアから大量の
金(ゴールド)を盗んだ。
そしてその2年間でパパブッシュは絶大な権力と富を獲得し、ブッシュCIAとGB-CIAのいがみ合いが悪化した。GB-CIAはブッシュの協力を得て政府とのつながりを持ちたかった。彼らはクリントン大統領が単にパパブッシュの命令で動いていることを知っていた。
Ex-CIA:
既にGB-CIA対ブッシュCIAの対立が激化している中で、Ex-CIAがそれに参戦している。
政治家を脅迫して政権を変えることが好きなGB-CIAと非常に欲深く際限のない権力闘争に明け暮れるブッシュCIAの対立を逆手に取りEx-CIAはこれらの2派閥の戦術と利権を盗もうと考えた。多くのEx-CIAは、政府を去り、利益の多い民間の諜報機関に籍を置いている。民間諜報機関はアメリカの諜報活動の65%を行っている。
Ex-CIAは、政府、銀行、企業の最高の地位にいた元CIAエージェントたちである。また、Ex-CIAは、GB-CIA及びブッシュCIAで働いていたエージェントらによる無秩序スパイ集団として創設された。
Ex-CIAのメンバーは政府や大企業で最高の地位を獲得している。
弁護士のジミー・コメィ氏は、FBI長官になる前に、ニューヨーク南部の連邦検事、検事副総長、米最大の軍事契約企業、ロックヒードマーチン社の上席副社長、CIA関連企業の相談役、CIA銀行のHSBC及びGB-CIAの金を保管しているHSBCホールディングズの理事を務めていた。
CIAの高級エージェントはこのよう昇進の梯子を上っていく。
コメィ長官はFBIを去ったあとに別の場所で高い地位を得ることで、 彼が犯罪によって獲得した巨額の富は守られることになる。コメィ長官はCIAの3派閥の命令に従って動いていた。
ジョン・ブレナンCIA長官は、長官になる前に国土安全保障省の副補佐官、サウジアラビアのステーションチーフ、国家反テロセンターの所長、諜報ネットワークのAnalysis CorporationのCEO、National Security Allianceの会長、 Global Strategies 、GlobalIntelligence SolutionsそしてGTECの主任エージェントだった。
これらの3派閥はシリアで破壊活動を行っている。シリアでCIAはペンタゴンが支援している部隊を攻撃していることが明らかになった。
アレッポの外側でアメリカが支援している3つの集団がお互いに戦っていることが分かった。この事実を隠蔽するためにオバマはクラッパー氏に偽の情報を流すよう命令した。
それこそが、ロシアがトランプ氏を脅迫していることや大統領選でロシアがハッキング行為を行ったとするねつ造報道である。また、国土安全保障省が有権者のデータベースをハッキングしたと報道されたのはシリアにおけるオバマの個人的な戦争の実態を隠すための偽装工作である。
クラッパー氏、ブレナン氏、コメィ氏は共に17の諜報機関がメディアを介してねつ造報道を行うことに賛成した。トランプ氏に対する彼らの攻撃により、CIAの3派閥の汚職、共謀、グローバリズム・アジェンダ、反米姿勢が明らかになった。
トランプ氏はCIAに刃向かう戦士である。
トランプ氏はグローバリズムと戦い法の支配を推し進めているため、CIAの3派閥の一番の敵となった。
CIAの3派閥は法の上に君臨して権力を悪用しているが、反グローバリズム、反NWOのトランプ氏が大統領に選ばれたことで彼らはかなりの衝撃を受けている。そのため、3派閥はトランプ氏の信用を落とすためにあらゆる情報操作を行っている。また、彼らが継続的に行ってきた数々の邪悪な犯罪を隠蔽しようとしている。また、ケネディがやろうとして失敗したことをトランプ氏がやろうとしているため、それを阻止しようとしている。
トランプ氏は、CIAがCIAメンバーとCIAの利権を守るためなら容赦なく人を殺すことを知っており、彼の命が危険にさらされていることを十分認識している。
CIAはトランプ氏についての調査書類を持っておらず、彼がワイルドカードだったことをCIAは知らなかった。トランプ氏にはこれまで明らかになったスキャンダル以外は何もないのである。トランプ氏はCIAの3派閥とは一切関わり合いを持っていない。
トランプ氏はワシントンDCの関係者を一切信用していない。なぜなら彼らは既にCIAに取り込まれている恐れがあるからだ。
トランプ氏が1600ペンシルベニア・アベニューのビルにオフィスを構えることをしなかったのは賢い選択である。なぜなら、そのビルの隅々にCIAのスパイ装置が設置されているからである。
愛国者は、トランプ氏が使うことになるホワイトハウスの内装及びリフォームの費用を支援すべきである。
CIAはあらゆる手法を使ってトランプ氏を公然と攻撃しはじめた。CIAの3派閥と繋がりのあるジョージ・ソロスも世界の舞台で公然とトランプ氏を攻撃している。
ビルダーバーグや三極委員会、ボヘミアングローブ、CFRが一同に集まり会議を開いた。そこでトランプ氏を大統領にさせないための作戦を練った。世界中の邪悪なカバラ犯罪集団は神経をとがらせている。既に彼らはトランプ氏を殺害しようとした。また、彼に賄賂を贈ろうともした。彼らは他の政治家に対してならうまくいく戦術がトランプ氏にはうまくいかないことを知った。トランプ氏はCIAが日常的に行っている活動に一切関心がない。
以下省略
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http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/175.html#c11