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[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
78. 中川隆[-13709] koaQ7Jey 2018年11月29日 19:15:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21400]

こんな女に誰がした(パンパン編)__天皇陛下を恨んでね


終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた 「次から次へ、体じゅう痛くて…」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962

2018.08.15 貴志 謙介 元NHKディレクター・プロデューサー 現代ビジネス
ようやく見えた「戦後ゼロ年」の真実

今年も8月15日がめぐってきた。だが、73年前の敗戦をめぐる記憶は日々確実に薄れている。

とりわけ記憶の劣化が著しいのは、敗戦直後の一年間、いわゆる「戦後ゼロ年」であろう。みじめな焼け跡暮らし、占領の屈辱、飢え、虚脱感、思い出したくもないヤミ買い。高度成長という威勢の良い華やかなサクセス・ストーリーの陰で、暗い役回りを押し付けられたせいかもしれない。

だがもっと本質的なことは、敗戦直後の時代には、その時代を経験した人であっても知ることのできなかった秘密がたくさんあるということだ。

占領軍は、情報をコントロールしていることを悟られないような巧妙なやり方で検閲をおこない、メディアを支配する情報戦を仕組んでいた。その結果、占領政策にとって都合の悪い出来事や情報は隠されたまま、いわばブラックホールのなかへ姿を消してしまった。

「戦後社会の原点」とみなされる時代であるにもかかわらず、多くの真実が欠落し、核心がぼやけたまま風化してしまったのである。

ところがここへ来て、思いがけず、戦後ゼロ年をめぐる新しい視野がもたらされようとしている。原動力のひとつは、機密資料の公開である。たとえば、2007年に機密解除された10万ページのCIA文書があり、150万点に達するGHQの検閲記録がある。A級戦犯に対するIPS(国際検察局)の尋問記録やアメリカ戦略爆撃調査団の調査報告も公開された。

こうした極秘文書を多くの証言とつきあわせていくと、驚くべき真実が続々と浮かび上がってくる。まず、時計の針を敗戦から3日後の1945年8月17日にあわせてみよう。

日本政府がつくった「性の防波堤」

この日、組閣された東久邇内閣の国務大臣に就任した近衛文麿がなによりも急いだことは何だったか。

実は近衛は入閣直後、ただちに警視総監の坂信弥を呼びつけ、米軍相手の売春施設を作るよう要請したのである。

40万人の占領軍上陸を2週間後に控え、日本の戦争指導者がもっとも恐れたことは、兵士による性犯罪であった。そして「性の防波堤」と位置づけられたのが、「国策売春組織」、すなわち「特殊慰安施設協会(RAA)」であった。

RAAをめぐる公式記録『R・A・A協会沿革誌』はこう述べている。

〈R・A・A協会が、その使命を忠実に達成する為、真先に開業したのは慰安所である。進駐軍将兵にとって、何よりも先ず慰安すべき面はセックスの満足であった〉

電光石火のごとく霞が関が動いた。外務省・内務省・大蔵省・運輸省・東京都・警視庁など、主要官庁がこぞって協力。座長役を務めたのは、大蔵省の主税局長・池田勇人(のちの首相)である。池田の号令で大蔵省がポンと3300万円を出す。現在の価格に換算すれば10億円を超える。

占領が始まる前に、政権の中枢にいた政治家や軍人、そして官僚が何を置いても、外国の軍隊による性暴力にこれほど強い恐怖感を抱いたのは、なぜだろう。国家が主導した売春施設を準備した警視総監・坂信弥は、内務省の資料のなかでこう証言している。

「東久邇さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。(略)それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」(大霞会編『続内務省外史』、地方財務協会)

軍国主義者がおびえていたのは、結局のところ、来るべき占領軍の蛮行というよりも、鏡に映った己の姿、日本軍の影だったのではあるまいか。

「からだじゅうが痛くて…」

8月28日、午前9時、RAAの幹部20名が皇居前広場に集合した。『R・A・A協会沿革誌』によれば、ここで全員が宮城に向かい宣誓式を行ったという。宣誓の主旨はこうである。

〈(RAA協会は)戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる。(略)『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、(略)「国体護持に挺身せんとするに他ならざることを重ねて直言し、以て声明となす〉

敗戦国であるドイツやイタリア、あるいはソ連に占領された東ヨーロッパの国々にも、占領軍を相手にする売春婦は大勢いた。しかし、国家が号令を発して、莫大な予算を投じ、官僚がプロジェクトを組み、「国体護持」のために女性を犠牲にするという“理想”を高らかに掲げた国はほかにない。

8月27日、RAAは、占領軍の上陸地点に近い品川の大森海岸に「慰安所第一号」として、「小町園」を開店した。ポツダム宣言の受諾からわずか2週間しかたっていない。

50人の女性、それも大半はシロウトの女性が送り込まれ、10畳、20畳の大部屋をカーテンや屏風で仕切り、30ほどの部屋が作られた。待ちかねたように、米兵がどっと押し寄せ、障子や襖を蹴破って、土足のまま押し入ってくる。女たちは恐怖のどん底へ投げ込まれた。

「恐怖におびえるまもなく、兵隊が入ってくるなり私を抱くと、しびれるほど唇を吸う。(略)入れ替わりに、つぎの兵隊がくる。(略)つぎからつぎへと抱いては送り、送っては抱き、(略)からだじゅうが痛くて……。」(『東京闇市興亡史』より)


RAAが横須賀に設けた慰安施設「安浦ハウス」(米軍資料)

女とみると、手あたりしだい

『R・A・A協会沿革誌』によれば、小町園を皮切りに、立川「キャバレー富士」、調布「調布園」、福生「福生営業所」、北多摩「ニューキャッスル」、築地「宮川」、人形町「花家」、向島「迎賓館大蔵」、若林「R・A・Aクラブ」が次々とオープン。

東京だけで33か所。従業員は450人。ダンサー2000人。350人の「慰安婦」。ひとりの女性が最高で一日60人を相手にした、との証言もある。


銀座松坂屋近くにRAAがつくったキャバレー“Oasis of Ginza”(Photo by gettyimages)

一方、RAAの幹部連中は何をしていたか。戦前に吉原で遊郭を経営していた経歴を持つRAA営業所長・岡本清次の談。

「RAAの仕事は国家の肝煎りですから、国から給料もらっているような身分でした。基本給千百円、手当て千百円の計二千二百円というのは、当時としてはそうとうな高給取り」

「食事のほうは、米兵からの土産もあったし、なにしろ警視庁から食券がきていましたから。(略)兵隊がもってくる牛肉は、ブ厚くてスキヤキにするとほんとうにうまかった」

当時、警視総監であった坂は、「RAAがあったおかげで占領軍兵士による強姦事件はほとんどなかった」と主張している。しかし、近年公開された米軍の極秘資料は、それがまぎれもなく“虚偽の申告”であり、実態はむしろ逆であったことを示唆している。

米兵による暴行事件は、8月30日にはじまり、RAAの営業によっても止むことがなかった。1945年11月中に発生した米兵の犯罪は、婦女暴行、強姦、盗み、おどし、たかりなど、554件に達している。報道が禁止されていたゆえ、一般に知られなかっただけなのである。

特に強姦事件や強盗事件が多かったのは、小町園に近い大森海岸であった。売春婦の紹介業を務めていた菅原道雄は、その理由をこう証言している。

「大森で、強盗・強姦事件が頻繁におきたのも慰安所と関係ありますね。タバコや洋服を『金にかえてくれ』といってくるヤツが多かったし、それもないヤツは強盗をしてまで女を抱く金を得ようとする。慰安所にはGIが行列をなしていてあぶれちゃうヤツがでるんですよ。そうなると、手あたりしだい、女とみると襲いかかるのです。

夜の八時ころだったでしょうか。大森から大森海岸へ行くまっ暗な道で女の人の悲鳴をきいたことがあります。たぶん素人の人でしょうが強姦されていたんです。私は一目散に逃げましたよ。だって、アメちゃんは刃物をもってましたからね」

RAAの組織と人脈から、占領終了後、赤線や基地売春が生まれた。国家がつくりだした巨大売春施設こそ、戦後の売春産業の源泉であったのである。

いまも残る「東京ブラックホール」

戦後ゼロ年のブラックホールに迷い込んだのは、国家の「いけにえ」となった女性ばかりではない。占領下の東京には、いたるところに、ブラックホールが存在していた。

あらたに発掘された映像からも、その痕跡がみつかる。たとえば、東京湾から引き揚げられた大量の金塊の映像。数兆円にもおよぶ日本軍の隠匿物資の一部である。もとはといえば、本土決戦のために軍が国民から徴用した物資であり、こうした莫大な財産は国民には返還されず、高級軍人や官僚など特権階級に横領されて、ヤミ市に横流しされていたのである。

戦後ゼロ年、飢餓やインフレは、戦争中より深刻だった。もし、隠匿物資が国民を救うために使われていたら、どれほど多くの戦災者が救われていたことだろう。

人々を苦しめた敗戦直後の地獄は、物資の隠匿に狂奔したエリートの不正によってもたらされたのである。その事実を、私たちの記憶のなかに、あらためて刻み込んでおかなくてはならない。

膨大なCIA文書から、戦後ゼロ年にどのような権力構造が生まれていたかを知ることもできる。たとえば、占領軍は、表向きは「日本を民主化し、軍国主義者を追放する」政策を推進したが、裏では大本営の参謀を戦犯の訴追から外し、対ソ諜報戦の手先にしていた。

米軍の諜報機関に囲い込まれた軍や特務機関の残党は、アメリカの後ろ盾を利用して密輸や謀略を重ね、密かに影響力を拡大していく。軍国主義の残党、ヤミ成金、官僚や政治家を問わず、占領軍に深く食い込んだ者だけが権力を確保し、利権を得た。

こうして戦後ゼロ年を出発点として、アメリカの秘密工作に積極的に協力した日本の支配層との合作で「世界最大の親米国家ニッポン」が造られていく。そのときできあがった権力構造のDNAは、いまも日本を支配している。

戦後ゼロ年は、戦前のしがらみを断ち切った年ではなく、むしろそれを温存し、戦争を推進した旧支配層を取り込んで、アメリカの国益に沿った日本社会の改造が開始された年だったのである。

『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』という本では、いままで視界から失われていた闇を見つめ、わたしたちの記憶の欠落を埋めていくことを試みた。復元された戦後ゼロ年の姿を現在の日本と重ね合わせれば、いまの日本を呪縛する仕掛けも見えてくるにちがいない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962



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こんな女に誰がした(パンパン編)__天皇陛下を恨んでね

 『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。

 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。

 この売春施設の目的は性のハケ口を設けることによって、占領軍がレイプ事件などを起こさないためにという「性の防波堤」とも言うべきものであった。が、実際は占領軍によるレイプ事件は日常茶飯事であった。

 さてRAAであるが、東京の大森を皮切りに各地に作られ全盛期にはそこで働く「パンパン」と呼ばれた女性は7万人を数えるようになった。しかしその後占領軍兵士が持ち込んだ性病が蔓延し、GHQは21年3月10日慰安所への兵士の立ち入りを禁止し、RAAは崩壊する。パンパンの彼女たちの多くは私娼となって街で客を求めるようになる。

 そのころ吉原はというと、戦時中に東京大空襲で焼け野原になるも政府の援助によってすぐに復興。そして終戦を迎えると、前述のRAAの慰安施設となる。

 GHQは占領軍のRAAの立ち入りを禁止すると同時に、日本政府に対して公娼廃止を求める。日本政府はこれを受けて公娼を廃止するが、実際は特殊飲食街を指定しその地域内での売春行為は取り締まらないようになった。これが「赤線」の始まりである。

 赤線地帯は吉原や新宿二丁目など戦前は貸座敷があったところが指定され、風俗営業取締法(以下風営法)によって「カフェー喫茶」などが営業されていた。この「カフェー喫茶」であるが、もちろん「喫茶」といってもただ単にお茶を飲むのではない。かつて花魁として働いていた女性が今度は女給という呼称で売春をしていたのである。その後赤線は朝鮮戦争の特需景気により営業する店が急増した。そのころの泊まりの料金は1000〜3000円。

 赤線が一応風営法というかたちで許可をとっていたのに対し、その許可を取らないで売春行為をしていたのが青線である。青線は表向き料理屋の形をとっているが客と交渉が成立したときは店を閉め売春をする。青線のほうが基本的に価格は安く、比較的所得・階層の低い人が利用していたと言う。

 しかし、赤線・青線地帯もやがて崩壊する。昭和33年4月1日売春防止法(以下売防法)が施行される。これはこれまで黙認してきた売春行為を禁止するものであった。なぜこの次期に売防法が公布・施行されたのか。それは日本が国連に加盟するためである。国連は昭和24年「人身売買及び売春行為の搾取禁止のための条約」を決議しており、国連に加盟するためには娼婦をなくすことが必要であったからである。

 売防法について、赤線で働いていた女性は猛反対していた。もし赤線がなくなれば彼女達は生きる術を失うことになる。政府は何も生活の保障や仕事の斡旋などはしてくれない。東京では「東京都女子従業員組合連合会」を結成し、売防法に反対するビラまきなどを行った。

 しかしながら売防法は施行され、そして吉原をはじめとする赤線地帯は消えていったのである。職を失った女性たちは、厚生施設に通い手に職をつけようとした者もいたが、白線・黒線と呼ばれる結婚相談所の形をとった売春組織で働く者もいたし、それ以外の性風俗で働く者もいた。 
http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html


赤線地帯 溝口健二監督 撮影・宮川一夫

出演者 若尾文子
三益愛子
町田博子
京マチ子
木暮実千代
http://www.youtube.com/watch?v=vBE4favGFZw&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=0&playnext=1
http://www.youtube.com/watch?v=CnfoMLE1uvc&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=1
http://www.youtube.com/watch?v=CsE9BH31D0c&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=2

http://www.youtube.com/watch?v=K_bfxPVbEZs&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=3
http://www.youtube.com/watch?v=oo54ArDnCxc&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=4
http://www.youtube.com/watch?v=9ZFbsOfFqiA&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=5

http://www.youtube.com/watch?v=zCBAQZWKGQM&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=6
http://www.youtube.com/watch?v=sdeSrCGqrvI&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=7

「戦争が終わってアメリカさんが来たら、素人さんを守ってくれ、防波堤になってくれなんて、いーい調子でおだてられちまってね」というセリフ!

映画のラスト。初めて吉原の店に出る生娘の少女が、ようやくのことで男を誘う呼び声を出すが、すぐに柱の陰に隠れてしまう。

彼女は、これから男に体を売って生きていかなければならない。その未来の始まりが映画の終わりだ。何という終わり方!

また、それが溝口監督の映画の最後のシーンになった
http://bojingles.blog3.fc2.com/blog-entry-682.html


記録映画「赤線」  官許遊郭の実態
http://www.youtube.com/watch?v=WOZEV7sh_TU&feature=related

赤線
http://www.youtube.com/watch?v=Czjvt2wB3Z8

記録映画『赤線』・ネオンきらめく吉原 1958
http://www.youtube.com/watch?v=w3b6A9fxSE0&feature=related

記録映画『赤線』・東京パレス(小岩) 1958
http://www.youtube.com/watch?v=tM45aDtaU-4&feature=related

記録映画『赤線』・洲崎パラダイス 1958
http://www.youtube.com/watch?v=I9iF39c-Hdk&feature=related


怒れる占領軍を親日家に変えたこの手腕__昭和天皇は偉大だった


昭和天皇は主席検事キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った(?)。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


田中隆吉は、すぐに、主席検事キーナンに親しいボディーガードとなった。二人は、両者に共通するフランス語を使い、田中はバーボンをあたかも「特級酒」ように楽しむことを覚えた。田中が出版した回顧録によれば、キーナンは田中を日本暮らしのガイドのように使った。

もし、キーナンが女性関係を望んだ時は、彼はただ会話に「Je suis fort. (私は強い)」 とだけ言えば、田中は電話をかけてその段取りをととのえた。

実際、田中は何事にも明るく、靴を脱ぐのを嫌うキーナンが、靴のまま畳の間に入り込んでも問題を起こさないような、そんなくつろぎの場をも手配した。キーナンは、アメリカ人将校と日本の上流婦人との間の関係を良しとしていなかった。彼はよく言った。

「私もちょっとしたあそびは好きだが、素人に手を出したりはしない。それはよくない。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


マッカーサーの部下職員の宿泊所として徴用された旧東京記者クラブでは、22人のメイドと電話交換手が、夜、そうした職員の部屋で過ごしているところを発見された。占領後半年までに、少なく見積もっても、半分以上のアメリカ軍将校たちが日本人の愛人を持つと見られていた。

 10月、幣原内閣が発足しようとする頃、特殊慰安協会はその供給について、下士官と将校を分離し、50万人の占領軍全体がすべて同じように魅力的なサービスが受けるのは難しいと強調し始めた。そしてその日より、下士官には下級のホステスバーが、兵卒には「ウィロウ・ラン」となり、上等な老舗旅館は将校向けとなった。つまり、もはやだれもが十分に満足しえるものではなくなっていた。

みごとな庭園を持つ豪奢な別荘の幾つかにはアメリカ式浴室が設けられ、そして人々の視界からは消えた。米軍士官にもっとも人気のあったのは、東京中心部のネオン街にある、招待客のみを受け入れる、プライベートクラブだった。

 そうしたクラブの筆頭が「大安」で、裕仁の弟、海軍大佐の高松宮の親友、安藤明が経営しており、戦時に便乗して暴利を稼いできていた。

トラック運送あるいは建設業界のボスとして、最初の占領軍の着陸に際し、厚木基地のまたたくうちの修復工事を成し遂げて名を売っていたのが安藤だった。

そのクラブ「大安」では、米軍の高級将校に、活発で英語の話せる貴婦人を紹介し、夜ごと、その記念にと、御木本の真珠のネックレスが贈呈されていた。

彼の気前の良い商風は、幾度も彼を倒産の崖淵に追い込んでいたが、地下商売で大当たりを上げては再起していた。そして最後に短期の刑務所暮らしをした後は、引退して安楽な生活を楽しんだ。

 そうしたクラブとは別に、内閣官房楢橋渡や東久邇元首相の別荘では、極めて興味深い享楽が繰り広げられていた。東久邇のパーティーの様は余り記録に残されていないが、楢橋のそれは、見るからに露骨な誘惑そのもので、今日。老いたアメリカ人将軍たちが当時を思い出して顔を赤らめるものとなっている。

楢橋は熱海に別荘をもっていた。熱海の入江や山々、そして名高い温泉やホステスたちと、当地はその持ち味をあえて強調する必要もなく、かつ、楢橋は名うてのもてなし上手だった。その裕福な弁護士は、戦争中、北京で最大かつ最も儲けの良い情報収集源ホテル〔北京飯店〕を経営していた。

その彼の部下の鳥尾〔鶴代〕子爵夫人が、コトニー・ウィットニー准将に仕える将官〔民政局次長チャールス・ケーディス〕の愛人となった。ウィットニーは、連合軍最高司令部民政局を動かし、日本の法制改革の草案作りをしていた。その元ホテル経営者の楢橋は、自分と自分の「貴婦人」たちが、最後にはウィットニーの部下たちすべてを「とりこ」にするだろうと豪語していた。

 性的わいろに加えて、さらに特異な投資機会も存在していた。

マッカーサーの会計担当ハロルド・R・・ルース大佐は、占領軍将兵たちは、毎月、支払われる給料より800万ドルも余計に故国に送金をしているとの報告を行った。

日本人が中国から略奪してきた数々の骨董品は、日本産の秘蔵品とともに、米国へ送られる雑のうの中に入れられていた。

天皇の叔父、東久邇宮自身も骨董業を手がけ、後になって、要職にあるアメリカ軍士官たちに安売りし過ぎて破産したと、よく語っていた。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm


8月15日の降伏の日、近衛宮は警視庁長官、伴信也を呼んで言った。「我々は日本の娘たちを守らなければならない。特に君にはそれを理解してもらいたい」。用意周到な中産階級の人々は、女たちを山中に隠れさせ、いざという時のために青酸カリ剤を持たせていた。

スラム街には、貞淑であろうとする権利も、国を思って自ら愛国者であろうと考える暇すらも与えられたことのない数千人の女たちが残されていた。今や、そうした女たちの出番であった。

伴長官は、東京の主要な娯楽業界――旅館、レストラン、麻雀荘、お茶屋、バー、売春宿など――の代表を招集した。

8月23日、こうしたお歴々によって、連合軍下士官のための「特殊慰安施設協会」が設立された。この団体は、勧業銀行による二百万ドル相当の株発行を資本とし、その株券は天皇の友人たちに販売された。数週間のうちに、同協会は、東京で33個所、地方で5個所、そして二つの婦人専門病院での事業を始めた。 

また同協会の別事業として、東京下町にあった軍需品工場がホテルに改造された。刀を鍬に作り直す事業などより、はるかに儲かるビジネスだった。

後にこの施設が最終的に廃止されるまでに、 「ウイロー・ラン」 と呼ばれたその工場は、250人の女たちによる生産ラインを持ち、一日に平均3,750人の兵士たちを受け入れるという生産高をあげた。

 特殊慰安施設協会とその付属組織は、 「一年一円」衆と称して天皇に仕える工業界人団体によって支援され成長した。

この団体は、化学、海運業界の重鎮であり、過去十ヶ月、和平派に属し、木戸内大臣と幾度も会談を重ねてきた、山下太郎によって組織、統率されていた。山下とその賛同者は、二億円、およそ1,400万ドルの基金を集め、天皇に献上した。

この贈呈が、その受け入れに木戸内大臣が二日を要したところからみて、何らかの見返りが要求されていたことが伺える。


 山下と 「一年一円」衆が引き受けた仕事のうち、最も難しかったものは、マッカーサー及びその側近との間の連絡業務であった。

宮中のご婦人たちの助言によれば、無能な国内警察による通訳用務が放棄され、外国語に通じたそうした国際経験ある婦人たちがそれを代行するようになれば、連合軍司令部との関係ははるかに円滑になる、というものであった。そこで、パリやロンドンに暮らしたことのある王妃や侯爵夫人たちの一団は、米国での良好なコネを持つビジネスマンの一団と協力し合うことに同意した。折角の貯蓄も目減りして見る影もない戦争未亡人には、新しい着物を買うための資金も用意された。名家の別荘は、その品格と遊興施設の程度によってランク付けされた。西洋の首都で見られるようなものをまねて、会員制のクラブが作られた。

裕福な才女たちのグループは名うての芸者を招き、男たちをもてなす芸に取り組んだ。

 日本は、マッカーサーが自分の兵隊たちに予測していた気の緩みにつけ込むための準備を万全に整えていた。和平派の特殊慰安施設協会は、まさしくその目的のために、国をあげての娼婦力を動員していた。

最初に米軍の機動部隊が東京に到着し、所定の兵営や工場に収まり、そこに検問所を設置した時より、兵員たちは、幾台ものトラックに満載されてきた女たちが検問所前で下車して準備が整い、通訳から「特殊慰安施設協会からの御挨拶です」と説明されてびっくり仰天した。

この最初の進呈は受け取りを拒絶され、そのトラック満載の贈り物は未開封のまま返品された。だが数週間のうちに、それが日本側の騙し打ちではないと判ると、アメリカ人たちはそれに打ち解け始めた。そしてすぐににマッカーサーは、「広がっていると報じられる占領軍メンバーと不品行な日本女性との間の乱れた関係に大きな懸念と深い困惑」を表すこととなった。

 戦前、日本の売春婦は、その小柄さ、その恥じない快楽主義、そして彼女たちの自尊と誠実さを込めた甘美なサービスで、国際的な評判を得ていた。

彼女たちは、主要都市の街外れにある、壁で囲まれ、飾り立てられた街区に住み、働いていた。その最も著名なものは、東京の吉原で、きらめく提灯とごった返す小路を持つ40エーカー〔16万m2〕ほどの治安の良い一画を形成し、金張りの龍と朱塗りの門、着飾った客引きや曲芸師と砂糖菓子売り、格子を通して垣間見える池や庭と縁側や格子窓の向こうの女たちといった、集積された東洋の魅惑と悪徳の場であった。

 空襲を生き延びたそうした女たちは、首都圏全体に霧散していた。少しでも英語が話せるものは、特殊慰安施設協会に雇われ、郊外の古びた宿屋や、同協会が下町に作ったキャバレーや売春宿で、そのサービスを提供するのを待ち構えていた。

アメリカ人による需要は、ついには、横浜の「ビック・ティッツ〔「大きなおっぱい」の意〕・バー」や。東京の「ハード・オン〔「勃起した」の意〕・カフェ」のような目立った歓楽場所を生みだし、占領が始まって1ヶ月も経たない時点で、歓迎されるとみられる所では、目立たないようにながら、あたかも偶然を装い、そうした女たちが商売を始めていた。

 米兵のうちには、まるで麻薬の幻覚であるかのような、そうした初期の出来事を経験したものがいる。日本の地方で、武器の隠し場所を捜索していた元第8軍団の軍曹が、1945年10月末のある日の経験を述べている。


 彼と同僚は、その日、東京の東方にある小さな海辺の町のほこりっぽい広場に、彼らの乗るジープを止めた。そこで彼らが、昼食のためにK号携帯糧食を開こうとしていた時、シルクハットを被り、黒く盛装した一人の紳士がやってきて、たどたどしい英語で、粗末な場所だがその屋根の下で、食事を摂ったらいかがかと申し出てきた。彼は、ジープの後方バンパーに立ち、海を見下ろす崖の上へと、砂利道を案内した。竹藪の前で車を止めさせ、崖の淵にある、古い宿屋へと小道を下った。

その玄関では、着物を着た四人の麗しい娘が、彼らの靴を脱がせ、二階の、漆塗りの食卓の置かれた畳敷きの部屋へと通した。座布団が差しだされ、ふすまが開けられると、素晴らしい景色がそこに広がり、眼下では波が磯に砕け散っていた。女中が、K号携帯糧食に加えるべく、ビール、おひつに入ったほかほかのご飯、数々の前菜を持って入ってきた。娘たちは、間違った英語をにぎやかにしゃべり、はしを使って米兵たちにそれを食べさせた。そして、指やマッチ棒やビール瓶をもちいた接客ゲーム――言葉を超越した遊び――を彼らに教えた。とっくり入りの燗のついた酒も出され、それを杯で飲んだ。

やがて、食事と歓談に満腹したところで、娘たちが言った。「お風呂に入りましょう」。

 折り返した階段を下りて、崖下のほら穴状の部屋へと案内された。その岩の床はおだやかに傾斜し、一方の壁は海に向かった開口部だった。その床の中央に、タイル張りの湯気をあげる浴槽があった。

娘たちは着物を取り、男たちの服を脱がせ始めた。娘たちは、手おけで火傷しそうなその熱いお湯を自らあびた。その行為は繰り返され、兵士たちは大喜びしてそれをまねた。皆がそうして洗い終わった時、娘たちは浴槽の中に身を沈めた。男たちは、それに従い、その40度を越える熱いお湯に体を入れ、ゆっくりと首までつかったが、火傷はしないようだった。彼女たちは、兵士たちの顔を手ぬぐいでふいて、女中が運んできたビールを小さなグラスで飲ませた。遠くでは、崖の影が、海面の上に長く延びていた。

 皆がよく浸かった頃、女中が清潔な木綿の浴衣を持ってきて、男たちはそれを着て、その帯を前で結び、その結び目を背に回すことを教わった。そして娘たちは、彼らを、二階の個室へと案内した。そこでは、畳の床の上に厚い布団が敷かれ、またしても、ビールが幾本か、食膳の上に並べられていた。

一人の娘が、「アメリカ風の愛し方をして」と、軍曹に手を巻きつけながら言った。軍曹は、一瞬息をのみ、圧倒され、夢中となって、そして、それを拒むには自分が余りに誇らしくなっているのを感じていた。

翌朝、彼は一人で眼を覚ました。隣の部屋の仲間を起こし、そのぜいたくな遊びの代金を請求された場合を心配して、彼らの手持ちの金をかき集めた。

女中がお茶とご飯をもってきた。朝食の後、彼らは、その黒の盛装の男にそれでよいかを尋ねた。その男は、その代金は、一人につき、煙草二箱で結構と言った。玄関では、昨夜の相手をしてくれた娘たちが、靴べらを手にして待っており、満面の笑みをうかべて礼をして、彼らが帰途につくのを見送った。


 そのような、初期の接触がもたらした体験や物語は、親密関係無しといった公式占領政策をアメリカのMPによって徹底させることを不可能にした。ジャングルで闘ってきた精鋭部隊が、すべて「米国内」に帰還し終わるまでに、そうした女たちは、米国人宿泊所や定期的な一掃取締についてのあらましを知っていた。

連合軍隊員によって占められたかつての日本軍兵舎や武器改造工場は、消灯時ともなると、ヒールの音や漂う香水の香り、溜息や何かのきしみ音などが響く、不可思議な時間帯となった。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm


「米軍の本隊がまもなく到着する。宿舎は内村旅館である。

どのくらいの期間滞在するかわからないが、
署長は米軍から知覧の町民を守るようにとの中央の命令を受けている。

一番怖いのは婦女暴行であるが、これについては各方面の協力を得て、
彼らに当てがう女たちを確保した。

その女たちは、いわゆる慰安婦である。
 (赤羽礼子 石井宏著「ホタル帰る」草思社p188)

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   ゙'!,,,い:    ,‐ .,!.gl,,|i,,j,,\  .,l 私のせいで多くの女性が犠牲になった?
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     ll,  ゜,,l゙`:;,,,,l,ll,,、.゚ト.,,i   あ、そう! だから何?
    ,,,i'llr゚''ri,,,,,_ : :   : : _,r°
  ,,,iilllli,゙h,、`゚゙゙゙lllllllllilllllll"】 

米兵は日本の「慰安婦」を常用していた

エリック・タルマッジ
AP通信 2007年4月25日18時44分

http://c.fc2.com/imgsa/http%3A%2F%2Fblog-imgs-13.fc2.com%2Fr%2Fe%2Fd%2Fredfox2667%2F51064_640x480.jpg/

この日付のない写真は横須賀市によって公開された。東京の南に位置する横須賀の安浦遊郭前に集まる米水兵。日本の降伏後米兵に売春を提供するために日本側によって設置された多くの慰安所の一つ(提供:AP通信/横須賀市)

【AP通信:東京】 第二次大戦中、軍のために女性を奴隷化した日本の忌まわしい行いには、余り知られていない続編がある。降伏後日本は米兵に対しての同様な「慰安婦」を提供したのである。米占領当局の黙認の下に。

 これまで英訳されてなかったものを含むAP通信の史料再調査は、女性が売春を強要されていると言う内部報告に関わらず、米当局が公的な売春システムを許可していたことを明らかにした。またアメリカ側は、日本が戦時中に占領したアジア諸国で女性に残忍な扱いをしていた事も熟知していた。

 1946年春にダグラス・マッカーサー司令官が売春宿を閉鎖させたが、それまでに何万人もの女性が安値で米軍相手の売春婦として雇われていた。1945年8月に米軍の日本進駐を期に多くの売春宿が営業を開始した事が記録には書かれている。

 東京の東北に位置する茨城県警の公式記録には「遺憾ながら、我々警察は占領軍のために慰安所を設けなければならなかった。それが経験豊富な女性の特別任務であったのは、一般の女性や少女を守るための防波堤とする目的であった」とある。

 日本の降伏と占領に関して協議するため日本の代表団がフィリピンに発つ前日の1945年8月18日に、内務省の指令があった。茨城県警は直ちに準備に取りかかったが、丁度良い施設は独身警察官の寮であり、それはすぐに売春慰安所に模様替えされた。20人の慰安婦と共に海軍施設から寝具が運び込まれた。慰安所は9月20日に営業を開始した。


売春宿は大繁盛
http://c.fc2.com/imgsa/http%3A%2F%2Fblog-imgs-13.fc2.com%2Fr%2Fe%2Fd%2Fredfox2667%2F2007050102564097_1.jpg/


記録には「慰安所が開設されて以降予想通りに大繁盛だった。慰安婦たちは...昨日の敵に自らを売ることに抵抗があり、言語や人種の違いなど彼女達にも最初は大きな戸惑いがあった。しかし彼女達は高額の賃金を受け取り、徐々にその仕事を受け入れるようになった」と書かれている。

 政府の財源で運営された「保養慰安協会」(RAA) の援助の下に、警察と東京の業者は売春宿のネットワークを設立した。1945年8月28日、東京の南隣の厚木へ進駐軍の先行隊が到着、その日の夕暮れまでに軍は最初の売春宿を見つけることになる。

 RAAの情報課長だった鏑木清一氏は「私はRAA幹部と共にそこに急いで向かったが、路上に500-600人の米兵が列を作っているのを見て驚いた。アメリカの自治警察が兵達をコントロール出来ない状態だった」と1972年の回想録でそう書いている。

 警察と民間によって運営されていたとしても、このシステムは戦時中の海外の日本軍によって設立された慰安所を手本にしている。

 鏑木氏はまた「進駐軍の兵は前払いでチケットとコンドームを与えられた」と書いている。最初のRAAの売春宿「小町園 - The Babe Garden」は当初38人の売春婦だったが、必要に迫られててすぐさま100人に増員した。女性一人当たりが一日に15-60人を相手にした。

 アメリカ人の歴史学者ジョン・ダウアー氏の著書『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本』によると、売春婦との一回が15円で、タバコ一箱の半額であり、「突然の高需要のために売春宿の運営者は、認可された売春婦でない女性をやむなく公募した」とある。

 戦争で身内を失った小町園の滝田ナツエさん (当時19) は、事務職募集広告で応募したが、空いてる唯一の職が慰安婦であると言われ、仕事につくように説得された。1952年の占領終了後に出版された鏑木氏の回想録によると、滝田さんは売春宿開業の数日後に列車に身を投げたとのことだ。「最悪の犠牲者は...『新日本女性』の広告に応募して来た、未経験の女性であった」とダウアー氏は書いている。

 鏑木氏によると、1945年の末までに35万人の米軍が日本に駐留し、米兵のためにRAAは最高時7万人の売春婦を雇っていたとある。そのためにそこに日本人以外の慰安婦が海外から来たと言う説があるが、それに関する明確な証拠はない。

 広島歴史研究所の田中利幸教授は、鏑木氏の提示した数字は根拠に乏しいとしているが、RAAはそのごく一部であり、公式記録に載っていない民間売春業者の数は更に多いであろうとしている。田中氏が発見した記録によると、米駐留軍幹部は、進駐軍の相手をする慰安婦のためにペニシリンを日本政府に提供し、RAAの売春宿のそばに予防施設を作り、兵隊達に使用を許可したとある。

 旧日本軍のための慰安婦と、進駐軍のために募集された慰安婦の類似性を駐留軍幹部は見過ごさなかった。GHQ衛生福祉厚生部のヒュー・マクドナルド上級士官の1945年12月6日の回想録によると、日本の慰安婦はしばしば強要されていたことを米進駐軍は把握していたと言う。「貧困の極致の両親に促され少女は契約を無理強いされた。時には自ら進んで家族のために犠牲になったとあるが、しかしながらそれは情報提供者の主観であり、かつてよりは一般的ではなくなったにせよ、都市部では少女の奴隷化の習慣はまだ存在している」と書いている。


RAAの崩壊

 従軍牧師達の苦情と、売春宿の発覚が米国に帰国後の進駐軍に不名誉となる懸念から、1946年3月25日、マッカーサーは全ての売春宿や慰安所その他の売春所への立ち入り禁止を指令し、間もなくRAAは解散した。

 マッカーサーの主な心配事はモラルの問題ではなかった。田中氏によると、進駐軍の米兵の1/4以上がその時点までに性病に感染していたとのことだ。「全国規模の立ち入り禁止令は、15万人以上の日本人女性を突然失職させた」と田中氏は2002年の性奴隷に関する著書でそのように書いている。元慰安婦の大半が兵士相手の違法ビジネスを続けたが、その多くが性病を持ち貧困であったとある。
http://redfox2667.blog111.fc2.com/?mode=m&no=2


 アメリカの朝鮮戦争時における慰安婦施設について

 朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人女性の売春婦(慰安婦)を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

朝鮮の戦場から一定期間毎に交代で米軍の兵隊が送られてきた。
 (中川八洋「歴史を偽造する朝鮮」徳間書店p225) 
http://www.tamanegiya.com/iannfudoitu18.5.302.html


「国体護持」へ国策売春

『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。


 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。
 http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html


 1945年8月18日、俗に言う終戦の日の三日後、内務省警保局長は進駐軍用に慰安施設を整備するように全国に無電を発した。9月4日には内務省保安課長も同様の命令を出している。内務省警保局というのは今日で言う警察庁のような物であり、全国の警察の元締めである。

「これを受けて各警察は慰安所の設置や慰安婦確保に奔走する。その模様を詳述しているのが『神奈川県警察史』だ。それによると空襲で焼けた花街に女性は残っておらず、警察が業者に公務乗車証明書を発給し、疎開先を回って勧誘させた。また、慰安所の布団や衣類、化粧品、消毒薬などの手配や運搬には、直接警察官が携わったという。」
とある。

 東京では警視総監坂信弥が指示して売春業者と飲食店経営者に「特殊慰安施設協会」を作らせ対応したという。この特殊慰安施設協会には、後に吉原などのソープランド経営者に連なる者達が沢山いたという。更に当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。

「警察と大蔵省がバックの国策事業ゆえ、協会は堂々と新聞広告まで出して慰安婦を募っている。」

「進駐軍売春作戦の発案者とされる坂は、国務大臣近衛文麿から国体護持のために婦女子対策をと指示され、慰安所設置を決めたと生前語っている」
のである。占領下では米兵による強姦事件なども多かったために、反米感情が爆発して折角天皇制を存続させることに成功したのにそれが元の木阿弥となることを未然に防ぐためである。花街の女性を強姦に対する防波堤とした訳だ。

 で、特殊慰安施設協会に参加した売春業者達が戦時中に何をしていたかというと、当然の話であるが大日本帝国陸海軍の将兵相手に商売をしていた訳である。つまり従軍慰安婦=戦時性奴隷の手配に手を染めていたものも多数いた。

米軍相手に政府機関が売春婦を斡旋するという政策を取った背景には、日本軍将兵の間に強姦事件によって性病が蔓延したり占領地での人心掌握に支障が出ないように配慮した経験が生かされていた。

実際には日本軍の士気やモラルは非常に劣悪で、強姦殺人は日常茶飯事であった。毎日のこの記事だけでは従軍慰安婦=戦時性奴隷に日本政府や軍部が関わっていたことに対する状況証拠でしかないが、軍人に女性をあてがうという発想が、当時の日本人の感覚として極々普通の物であったことが分かるだろう。 
http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2007/08/post_cfe5.html


「江東区女性軍」強制連行……。
「本土決戦が叫ばれた昭和二十年(一九四五年)に、国土防衛軍である「江東区女性軍」の編成にくりこまれた女性青年団埼玉第一中隊の百三人は、終戦の日に帰してもらえなかった。

「耐えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき……」

 と、お上が手早くつくった「国際親善協会RAA」(占領軍慰安婦)のうち、都内の四カ所に強制連行され、やみくもに米軍との交接を強いられた。
 そのことは埼玉らず、広島の女子青年団、そして川崎のM軍軍需工場など、他地区にも多くみられた。
 当時−−天皇のために捧げてたてまつると、血の宣紙を捧げてあった娘たちは、

「血書を捧げた君たちの忠誠を、天はみそなわしたもうたものであろう。君たちでなければ、日本人の操を、進駐軍の手から守り通すことはできない」

 占領軍慰安婦の持ちかけがお上からだされたのは敗戦直後の八月二十一日、RAAの誕生とともに二十六日には慰安婦の徴募がなされ、二十八日はRAAが宮城前で誓詞をなし、同日は厚木進駐の米兵に横浜の小町園が開所した。
 RAA発表による占領軍慰安婦は、昭和二十年十一月まで二万人、最盛期七万、閉鎖時の昭和二十一年(一九四六年)三月二十七日、五万五千であり、閉鎖は性病兵が増えたという米軍側の主張によった。」


横須賀……。

「横須賀に上陸した兵は、バイラーと呼ばれる客引きに案内された。−略−
 街は建物のかげ、ボートの中、神社、学校、いたるところで性行為が見られた。
「外人が船に乗ってくるから、パンパンがよってくる。横須賀へ来た船の着くところをこわした方がいい」(『日本の売春問題』神崎清)」

子どもたちが目撃して、作文にしている……。
−−小泉はこんな環境で育ったのだろうか?

自己責任は小泉政権のスローガンでしたね。直接は関係ですが……。

「閉鎖までの慰安所料金は、ショートで百円、オールナイトで三百円であり、RAAは充分にもうかっていた。政府融資の国策事業なのに、慰安婦たちからは部屋代、食費、衣裳、雑品、化粧品などと、昔からの廓のしきたりをむしろ越えるほど取り上げ、揚句の果てに、病気や怪我も、慰安婦の自己払いであった。」


閣議より前に、業者たちを集めたという。
「前述の慰安婦指令は、閣議よりも四日も早く、広尾小学校の警視庁保安課より出されてたのだ。高橋保安課長と大竹風紀係長らが、さっそく業者を集めてかたりかけた。」


調布、三鷹……。
「RAAの仕事では、立石は黒人用慰安所とされた。
 調布の日本楽器の建物は「調布園」として、九月十日に慰安婦三十人で開店し、三鷹はキャバレー慰安所として、ニューキャッスルが開所した。」

「娘を売る光景」
「人売は昭和二十三、四、五年と、売春婦に売られたが一番多いとされている(労働省婦人少年局の調査による)。」

http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/0b9d55f0b563f7420ee0432b3a409d22


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   ノ .| |:::|  _/   /   /  |:. :.:.:.:.:.:.:|


確かに売春婦ですが一般の女性を米兵によるレイプから守るためでもありました。
進駐軍がモラルがあったから日本は幸せだったというのはGHQの報道管制のたまもの
白人は昔から現地の女性をレイプし生まれた混血児をその植民地の支配層にするという政策を取り続けていました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1430857764


進駐軍犯罪史

 読売新聞の調べによる昭和32年の国内10大ニュースのトップはジラード事件。これはちゃんとした世論調査に基くものなので、当時の国民が最も関心を示したニュースが直接、反映されるものだ。ジラードとは進駐軍の兵士の名前である。ジラード事件とは進駐軍の兵士が村議夫人を射殺したという事件であった。
 
 進駐軍犯罪といえば大規模なものでは松本清張が「黒地の絵」で描いた、小倉の黒人兵大量脱走劇に伴う地域住民への大規模なレイプ、暴力沙汰がある。昭和25年7/11、およそ160人の黒人兵による祗園祭の日の犯罪事件は進駐軍によって厳重な報道規制が行われ、事件をうかがわせるような記事は当時の在京各紙にはまるで見えない。結局、この事件は7/15に進駐軍による鎮圧で市街戦となるまで続いた。この市街戦についても徹底した報道規制が行われた。
 
 昭和20年8/15から昭和27年4/28の平和条約発効までの間、日本はアメリカ進駐軍の支配下にあった。この間、都内での進駐軍犯罪被害の届出は318件、全国では2万5500件であったが、この数字は「氷山の一角」とされていた。なぜなら進駐軍犯罪被害の届出は非常に困難だったので、実際の犯罪被害は届出件数の数倍はあったのではないかと当時の人の生活感覚では感じられていたのである。
 
 進駐軍犯罪被害で役所に届出を出すと、まず加害者が本当に進駐軍という証明書を要求される。さらに市町村長の証明書、警察の証明書正副5通を要求され、少しでも不備があれば受理されない。これをようやく揃えて、やっと届出が受理される。その数字が全国で2万5500件であった。つまり届け出なかった、書類に不備がありつき返された、揉み消されたなどの犯罪被害の件数は2万5500件の中には入っていないのである。
 
 届出が受理されても、その審理は粗末なものだった。子供が酔っ払いのアメリカ兵のジープに轢殺された母は被害届をようやくCID(陸軍犯罪調査部)に受理されるも、何の連絡もなく放置され、呼び出されて「裁判でお前が負けた」と言い渡されて終わり。裁判があったのかなかったのか、あったとしたらどんな審理がされたのか何も伝えられないというシロモノだった。さらには仕事帰りにアメリカ兵にジープに拉致されて走行中に道に飛び降りて死んだ娘は「身元不明の売春婦」として処理され、家族が訴え出てもまともにとりあってもらえぬという酷さ。他にも道路を横断しているのが誰の目にも明らかなのに、アメリカ兵の運転するトラックがスピードを落さずにそのままその歩いて道を渡っている日本人をひき殺すという事もあった。あるいは突然、理由なくアメリカ兵に射殺されたり、道を歩いていて殴り殺されたり、強姦されたりなどの犯罪被害は総計3万4000件と言われたが、うち2万件は泣き寝入りしたとされている。
 
 終戦直後、進駐軍の到着に備えて政府は婦女子に警戒を呼びかけてはいた。「婦女子は淫らな服装をせぬこと、また人前で胸をあらはにしたりすることは禁物である。外國軍人が『ハロー』とか『ヘイ』とかあるいは片言まじりの日本語で呼びかけても、婦女子は相手にならず避くること」。
 
 しかしアメリカ兵によるレイプ事件は昭和20年8/30、占領部隊の日本上陸第1日目にすでに発生している。これはワシントンの米政府機関が保管していた当時の日本の内務省警保局「米兵の不法行為」に記載されており、8/30午後1時30分には神奈川の横須賀市旭町で車運転手の家にアメリカ兵2人が押し入り、留守番をしていた運転手の妻(36)と長女(17)をピストルを手にレイプした事件が起きている。このアメリカ兵2人は午前11時30分に件の家を下見しており、中に女性しかいないのを確認して犯行に及んだのだった。また同日午後6時には横須賀市の鎮守府正門にあったガラス商の家で、女中(34)が1人で留守番をしていたところをアメリカ兵2人にレイプされている。アメリカ兵は交互に見張りに立ってレイプしたという。
 
 アメリカ兵の上陸したところにレイプ事件あり。9/1にはアメリカ兵による日本人女性レイプは房総に飛び火した。千葉の安房郡の漁村の漁師の家に3人のアメリカ兵が押し入って、出征中に戦死した漁師の息子の妻(28)が留守番中に輪姦されたのをはじめ、同じ村では押し入ったアメリカ兵4人のうちの1人が別の漁師の妻(36)をレイプする事件が起きた。同日午後6時には横浜市中区でアメリカ兵2人と日本人2人に連れ出された女中(24)が野毛山自然園の中の米軍宿舎でアメリカ兵27人に輪姦される事件が起きている。この女中は翌日、意識不明となっているのを元の家へと送り返されている。
 
 アメリカ兵の理不尽な暴力の被害に遭ったのは女性ばかりではない。9/15午後10時30分には川崎市木月の国民酒場で、店主の田中(47)と長男(16)が酔ったアメリカ兵3人によって射殺される事件が起きている。特に深い理由もなくアメリカ兵に突然、射殺されて泣き寝入りという実例となる事件であるが、こうした事件はほとんどが表沙汰となる事はなかったのである。
 
 アメリカ兵による犯罪が公に報じられたのは、9/9に事もあろうに葉山の御用邸に乱入して略奪の限りを尽くしたというニュースが最後であった。9/10よりGHQの報道管制が始まったため、それ以降は進駐軍のレイプ、強盗、暴行殺人などの犯罪は全く報じられず、こうした犯罪に対しては日本警察も手が出せないという状態が続いた。政府は性の防波堤としてRAA(特殊慰安施設協会=進駐軍相手の売春公社)を設置したが、当の進駐軍から廃止にされて街頭には米兵相手のパンパン(売春婦)が溢れるようになった。こうしたパンパンは蔑視の対象にされたが、米兵の一般婦女子への際限ないレイプへ歯止めをかけた功績は大きい。
 
 このようにしてアメリカ兵による犯罪はどんな些細な事件でも新聞での報道は厳禁とされたので、総じて日本人のアメリカ進駐軍への感情は悪くはなっていない。占領中のアメリカ進駐軍犯罪には損害賠償法令がなかったため、日本独立後の昭和31年5/22、進駐軍被害者連盟が結成されて政府に補償とそれまで報道が控えられていたアメリカ兵の犯罪事実の公表へ向けて活動するなどとした。
 
 ジラード事件は昭和32年であるから進駐軍犯罪への報道はタブーではなくなっていたものの、日本の裁判管轄権が進駐軍には通用しないという構図が日本国民の前にさらされてこうした事が反米感情などに火をつける事となっていく。
 
 1/30の事であった。アメリカ軍の群馬県相馬ヶ原演習場はアメリカ軍が演習中には立ち入り禁止区域となっていて、それを破った者には刑事特別法による懲役1年以下、罰金2000円以下という罰則規定まであった。しかしこの相馬ヶ原は地元住民らが地べたに落ちている銃弾の薬莢を拾って生計の足しとするのが慣わしで、この日も相馬村議の妻、坂井なか(46)が仲間らと薬莢拾いのために相馬ヶ原に立ち入っていた。
 
 なかと一緒にいた男性(30)ら5人の証言によれば、なかは米兵に追われて逃げる最中に突然、撃たれてそのまま絶命した。この事件は当初、伏せられていたものの、2/2に5人の目撃者の中から社会党の茜ヶ久保重光衆院議員に相談を持ちかけた者があり、一気に政治問題化していく。一般の国民が事件の概要を知ったのは2/3の新聞報道によってであった。
 
 なかを撃った米兵は第1騎兵師団第8連隊第2大隊のウィリアム・S・ジラード特務三等兵(21)で、なかには2発銃弾を浴びせていた事も判明。1発目が外れて2発目を発射したというから、事故などではなく完全な確信犯である事は明らかであった。
 
 事件が表に出されて慌てたアメリカ進駐軍は2/4、熊谷の籠原キャンプの憲兵隊から群馬県警へジラードが事件を自供したと報告、その後、ジラードは地裁に告発されたものの、日米行政協定がネックとなってジラードは公務中なので裁判権はアメリカにあるというアメリカ軍の主張に押し切られそうになる。日本の反米感情の激化を恐れたアメリカが結局は裁判権不行使という裏技で、ようやく日本側の手でジラードは起訴された。これが5/18である。アメリカではジラードの日本への身柄引き渡しを認めないよう訴訟が起こされ、7/11にアメリカ最高裁によってようやく日本での裁判権が認定された。11/19に前橋地裁は傷害致死で懲役3年、執行猶予4年の判決を下し、控訴されずに12/6、ジラードはアメリカへ帰国して事件は日本国民に割り切れない感情を残したまま幕を下ろした。
 
 ジラードがなかを撃つ前にも別の弾拾いの住民に向けて発砲していた事や、なかと小野関英治に「パパサン大丈夫、ママサン大丈夫」と話しかけて近くの壕を指して「ママサン、タクサンネ」と言っていた事が明らかになったのは公判によってであった。ジラードは発砲時にはビクター・ニール・ニクル特務三等兵と一緒におり、最初は小野関に向けて空砲を発砲、続けて「ゲラルヒヤ」となかを誘い、逃げたところを背中から撃っていた。さらになかが倒れた後、ジラードはなかに近寄って触っており、なかを殺害した事は認識していたものと思われた。
 
 ジラードは7/5に日本人女性と結婚、帰国の際には同伴しており、味噌樽を土産にアメリカに持ち帰った。昭和33年4月にオタワのジラード邸を訪問した松田ふみ子によれば、ジラード邸はペンキが剥げ落ちて板は腐って2間きりの狭い家だったが、当時、日本では珍しいテレビ、電気冷蔵庫、ガスレンジが完備していた。ジラードは帰国後、工場で荷物運びをしていたが失業し、妻のハルは英語が下手なのでジラードと意思疎通が出来ず、さらに5ヶ月でわずか5ドル(1800円)しか貯金がたまらない事もあり日本に手紙も出せない状態だったという。
 
 相馬ヶ原は榛名山の南側に広がる原野で大正9年に陸軍の演習場となり、周辺住民の薬莢拾いはその頃から軍に黙認された「権利」であった。周辺住民の土地を一部強制収容して演習場にしたため、周辺住民の生計の足しのための薬莢拾いについて陸軍でもとやかく言えなかったのである。演習場は戦後はアメリカ進駐軍に接収されたが、旧日本陸軍時代と違って実弾射撃で農家の萱などに被害が出るようになり、戦前よりかえって周辺住民の生活は圧迫されてしまう。
 
 相馬村の上新田地区では地域住民全員が薬莢拾いを主な収入源としており、桃井村住民と合わせ3、400人が薬莢拾いを行っていた。1日に2、3貫(7.5キロから11キロ)を拾い、週に1度来る鉄くず屋に1貫(3.75キロ)を7、800円で売り、いい稼ぎとなっていた。月平均で1人あたま2万円の収入となったという。勢い、薬莢拾いにも熱が入り、演習の最中に演習場の中に立ち入ったり、演習場の中に穴を掘って潜み、演習中の砲弾の爆発を待つ者までいた。こんな事をすれば生命の危険にさらされるのは無理もなく、1月には砲弾の破片で薬莢拾いの住民に死者が出ている。アメリカ軍側では再三にわたって危険だからと地域住民の演習場立ち入り規制を日本側に求めていたが、地域住民は送検されても過去に起訴された事はなかった。
 
 薬莢拾いは相馬ヶ原だけの風習ではなく、演習場のある地域ではどこでも行われていた普通の事であった。静岡の御殿場にあるアメリカ軍の東富士演習場の狐塚でも昭和31年9/7午前7時30分に地元の農婦(31)が演習中のアメリカ兵に撃たれて重傷を負っている。農婦が立ち入り禁止区域にいた事から農婦側の過失として事件は処理されていたが、ジラード事件では被害者女性が死んでしまった事や社会党が政治問題化した事から一気に国民の反米感情に火をつける事となったのである。ところが相馬村ではジラード事件調査に訪れた社会党県議団には非協力的な姿勢で、今回の騒動で薬莢拾いの「特権」が奪われる事を村民らは恐れていた事も当時の報道には記されている。事件後も相馬ヶ原では地域住民ら100人が毎日、薬莢拾いを続けていた。
 
 ジラードがなぜ薬莢拾いの村議夫人を撃ったのかは、演習の最中に手袋をはめてまだ熱い薬莢を拾ったりする地元住民らの姿をジラードの所属する部隊の中でどのように感じてどういう話題にしていたかがわかれば、その理由のいくばくかが見えてきそうな気はする。禁止された区域に立ち入ってくるのだから非は向こうにあるという意識がジラードの中にはなかったか。或いは薬莢拾いの地元住民だって家に戻れば人並みの暮らしをする普通の人間であるというところまでジラードの意識が思い及ばなかったか。
 
 このジラード事件で日本の対米世論が硬化する最中の昭和32年8/2午後3時、茨城の那珂湊市前浜の県道で工員の北条清(24)が母親のはる(63)を自転車に乗せて走行中、突然、低空飛行の飛行機が2人に接触してはるは胴体を真っ二つにされ即死、清は重傷を負った。この飛行機の正体はアメリカ軍水戸補助飛行場から飛来したL22型連絡機で、2人は尾翼に引っかけられたのだった。
 
 目撃者の男性(35)の証言によれば、アメリカ軍機は機首を落として畑すれすれに飛んできてそこで曲がりかけた後、再び地面すれすれを超低空飛行、尾翼を芋畑でバウンドさせて上昇する最中に2人を引っかけたのだという。2人は阿字ヶ浦に向かう途中であった。
 
 このアメリカ軍機を操縦していたのはジョン・L・ゴードン中尉(27)、ほかに下士官も同乗していたとされる。現場に飛来する直前にこのアメリカ軍機は近くの海水浴場でも低空飛行をして海水浴客が驚くさまを楽しんでいるかのようだったというから、故意に危険な飛行をしていたのは明らかであった。しかしアメリカ軍側は異常気流で操縦不能になったための事故と主張、茨城県警ではこのアメリカ軍側の主張を斥けて8/8、ゴードンを書類送検としたが8/21には不起訴となっている。
 
 ゴードンはなぜ危険な低空飛行をしたのか?実は類似の事件は戦前にもあった。操縦士が無意味な低空飛行を地上に人がいる場所で試みて、飛行機に人を引っかけて死なせてしまう事件である。昭和2年10/21、東京の芝区愛宕小学校で運動会が行われている最中、下志津飛行学校生徒の操縦する飛行機が低空飛行をして校庭の小学生のうち3人が引っかけられて1人が死亡した。この件では操縦士は後に不時着を試みたなどと弁明している。ゴードンの例も、この飛行学校生徒の例も、自らの操縦の腕を得意がっていたのではないか。衆人環視の場所で低空飛行を繰り返して地上の人たちが騒いだり驚くのを面白がる、そういう心理から危険極まりない行為に及んだのではないか。
 
 ジラード事件、低空飛行殺傷のゴードンの事件の記憶さめやらぬ昭和33年9/7午後2時、西武線下りの飯能行き列車が埼玉の狭山市入間川ジョンソン基地内の武蔵藤沢−稲荷山公園間を走行中、1両目に銃弾が飛び込み、乗客の武蔵野音大絃楽科1年の宮村祥之(21)の背中に命中、午後3時に運ばれた基地内の病院で死亡した。列車を撃ったのはジョンソン基地憲兵隊臨時勤務のピーター・E・ロングブリー三等航空兵(19)で、「空射ちの練習をしていたところ実弾が入っているのを忘れて撃った」としたがすぐさまアメリカ軍に逮捕された。
 
 宮村は母子家庭で、母は郷里の熊本の荒尾で日雇人夫をしながら女手一つで宮村を育て、音楽家を夢見ていた息子を東京の大学へと進ませていた。宮村は昭和30年に上京、初めは東洋音楽短大に通っていた。事件の直前にはコントラバスのバイトが見つかり、母に仕送りをもう受けなくても大丈夫と連絡があったばかりであったという。
 
 アメリカ軍では当初、公務中の出来事で事故だとしたものの、いくら空射ちのつもりだったと主張しても列車に向けて発砲したのでは言い逃れのしようがなく、公務時間中の出来事ではあるが列車を撃ったのは公務とは到底認められないという見解を出した。早速埼玉県警はロングブリーを書類送検、昭和34年5/11に地裁で禁固10ヶ月の判決が出ている。
 
 アメリカ進駐軍がらみの事件ではこうして全国的な話題になった事件以外にも無数の犯罪が起きているが、それらは公にされる事は稀であった。昭和34年4月には青森の上北郡六ヶ所村で三沢基地の米軍機が訓練に際して爆弾を誤って落としていく事が頻繁となり、東京でも報道されている。六ヶ所村は米軍三沢基地の天ヶ森演習場と高瀬川を隔てた場所にあり、以前より米軍機が爆弾を誤って落としていたが、およそ3ヶ月に1発の割合だったので特に問題化していなかった。3ヶ月に1発のレベルでは報道すらされていなかったという事で当時はこの手の米軍の無法ぶりが基地の近くでは日常的だった事がわかる。
 
 しかし昭和33年9月より米軍ジェット機の練習用爆弾が昭和34年4月までに六ヶ所村に30発落下しており、うち10発は民家から2、30メートル以内の場所で爆発していた。米軍機の速度が向上して爆弾を標的に当てにくくなり誤爆しやすくなったらしい。昭和33年12月には125キロ爆弾が六ヶ所村倉内の農家の近くに落下し馬小屋に穴が開いて山火事となったほか、昭和34年3月下旬には農作業中の男性の3、4メートルの場所に爆弾が落ちて男性は気絶、さらに3/20、同じ男性の水田に爆弾が落下し爆発して5、6メートル四方の穴が開く出来事があった。米軍は模擬爆弾なので大丈夫だなどと説明していたが、死傷者が出ないのが不思議なほどであった。六ヶ所村では米軍機が爆弾を落とす標識を海上にするように陳情していた。
 
 昭和35年3/10午前10時、沖縄の伊江島の伊江村の米軍演習場の立ち入り禁止区域で弾拾いをしていた農業の島袋武盛(20)と大城敏一(19)が、米空軍ジェット機から機関砲で砲撃されて島袋は右足を銃創貫通、大城は右腕切断という重傷を負った。米軍演習場での弾拾いは沖縄に限らず内地でも付近の農民の「特権」として暗黙の了解事項になっており、伊江島ではそのための信号旗を持って農民は弾拾いをしていたが砲撃されたのだった。
 
 昭和36年11/20午後3時30分には茨城の那珂湊市釈迦町の旅館など民家8軒が、アメリカ軍水戸射撃場からの機関砲弾13発を浴びた。米軍機の誤射によるもので、旅館では窓ガラスが撃ちぬかれて座布団に直径20センチ、長さ75センチの砲弾が突き刺さっていた。ほかにも家の中や庭先などに被弾しており、旅館の女将は寝ていたら音がして、座布団や畳から煙が出ていたという。過去にも被弾事件は200件起きていた。
 
 昭和37年5/5午前3時30分、神奈川の横須賀市汐入町巡査派出所に私服の米兵5人が酔って市民を暴行していると通報があり巡査2人が駆けつけたが、うち遠藤寛巡査(37)が米兵1人に蹴られ倒れそうになったので警棒で押し返したところ、警棒を奪われたのでピストルで威嚇しながら交番へと連れて行こうとした。しかし50メートルの途中で遠藤巡査は5人の米兵に組み伏せられ、奪われたピストルで頭と右腕を撃ち抜かれて死亡、犯人の米兵はそのまま逃走した。午後7時30分、在日米海軍は20歳4人、19歳1人の二等水兵が遠藤巡査殺害の際の5人であったと発表、いずれも横須賀港に入港していたLST(戦車揚陸艦)トモグリー号の乗員で、裁判は日本で行われるとされた。
 
 昭和39年7/20午前1時30分には静岡の御殿場市中畑の米海兵隊キャンプ・フジで近所の農家の妹、勝又(45)が立ち番中の米兵に小銃で下腹部を撃たれ死亡する事件があった。この女性は酔っており、うずくまっていて米兵の日本語、英語の呼びかけに答えなかった。3回呼んでも返事がない時は撃ってもいいという管理規則だった。この女性は独身で知恵遅れ、酔うと放浪癖があったという。アメリカ軍は撃った兵士は不明であるとし、また公務中なので裁判管轄権はアメリカにあるとした。この事件については報道はなされたものの、ジラード事件と違って社会問題化せず、実際に事件自体について知らない人がほとんどである。
 
 昭和47年9/20午後には沖縄の米海兵隊基地キャンプハンセンで、米海兵隊第4師団第3大隊のジェームス・S・ベンジャミン上等兵(25)の部屋で靴を磨いていた基地従業員の栄野川盛勇(37)にベンジャミンが10ドル紙幣が消えたと難癖を付けて口論となり、ベンジャミンがライフル銃で栄野川を射殺した事件があった。9/21に警察庁がベンジャミンは公務中ではないと見解を出してアメリカ軍に犯人引き渡しを要求したが、アメリカ軍は公務中として応じなかった。9/22、インガソル米駐日大使は1次裁判権は日本にあるとし、在沖縄米海兵隊基地司令部もベンジャミンは公務中ではなかったと認め、9/23午後11時50分、沖縄県警はベンジャミンを書類送検した。10/3、ようやくベンジャミンの身柄は日本に渡されて殺人罪での起訴となった。しかしその後、ベンジャミンには心神喪失で無罪の判決が出ている。

http://www.geocities.jp/showahistory/history04/32c.html


占領時、米軍も「慰安婦」調達を許可 

【ワシントン=古森義久】終戦直後の日本国内で占領米軍の許可により売春施設が多数、開かれ、日本人「慰安婦」数万人が米軍に性の奉仕をして、その中には強制された女性もいたことが米側にいまになって伝えられ、米議会下院に慰安婦問題で日本を糾弾する決議案を出したマイク・ホンダ議員は4日、議会調査局に調査を依頼した。しかし同議員は戦争中の日本の慰安婦は旧日本軍が政策として一様に拘束し、強制した女性ばかりだった点が米軍用慰安婦とは異なると述べた。

 AP通信の4日の報道によると、終戦直後の1945年9月、日本当局が占領米軍からの許可で東京都内などに多数の米軍用の売春施設を開き、合計数万人の日本人「慰安婦」が雇用、あるいは徴用されたことを証する日本側書類が明るみに出て、ホンダ議員は米軍用慰安婦に関して米軍自体がどんな役割を果たしたかなどの調査を議会調査局に依頼したという。

 AP通信は4月26日、東京発で米占領軍が進駐直後、日本の政府や旧軍当局に売春婦の調達や売春施設の開設を許可した一連の日本語書類が発見されたと報じ、その内容として(1)1945年8月末から9月にかけ、米軍の命令を受けて日本政府の内務省などが東京はじめ茨城県などの地方自治体に「慰安婦」集めを指示し、合計7万人以上の女性が売春に従事した(2)米軍当局はそれら女性の一部は強制徴用されたという報告があることを知りながら、慰安所開設を認め、連日連夜、米軍将兵が詰めかけることを許した−と報道した。同報道はこの米軍慰安所にかかわって当時の日本側関係者数人を実名で紹介し、その談話をも引用した。しかしこれら日本の米軍用慰安所は連合軍最高司令官のマッカーサー元帥の命令で1946年3月末には閉鎖されたという。

 日本側でも終戦直後に米軍から売春施設開設を許可されたことについては旧日本軍が米軍進駐受け入れの準備組織として結成した「有末機関」のメンバーたちの証言が残っている。
(19/05/06 03:21)
http://tamezou.at.webry.info/200705/article_1.html


1945年9月28日、進駐軍は都衛生課に慰安施設の開設を要求した
『占領秘録』 中公文庫 住本利男著

坂信弥氏の話

それから婦女子の問題は内閣でも非常に心配した。私は内閣に呼ばれ近衛公から

『日本の娘を守ってくれ、この問題は一部長に任せず君が先になってやるように』

と言われた。一般の婦女子を守るために防波堤を築くことも考えました。慰安施設を作り、そうしたところで働く女性を集める。こう言う矢面に立とうという人があったればこそ、あとの若い人たちが救われたのだと思う。

なにしろ、米軍が進駐したその晩に、早くも左官級の人々がジープを飛ばして東京にきた。そして丸の内警察署を警視庁と間違えてか、入ってきて、女を世話しろという。そういうものはないと答えると、あの辺に大勢いるではないかといって、日比谷辺りを歩いている女の人たちを指さした。あれは良家の子女だといって納得させるのに骨が折れたようだった。

良家の子女が間違われる心配は多かったのです。

とにかく警視庁で、この際国民のためになるならという人を集め、向島や大森などに設備をした。それからすぐに特殊慰安施設協会(RAA)というものが料亭SやYの主人達によって作られ、資金は三百万円を勧銀から借り出して経営したわけです。


ペニシリン 東京へ

都衛生課が一番はじめに受けた命令は、「女」の問題だった。

九月二十八日に総司令部に来い、というので、与謝野博士がでかけてゆくと、軍医総監のところへつれてゆかれた。総監は、大きな東京の地図を前にしていて、女の問題を持ち出したのだった。その時に公衆福祉局長のサムス准将(当時は大佐)に紹介され、それから同氏との交渉がはじまった。

赤坂は焼けてしまい、新橋は休業、柳橋はない、という有様で、都内の花柳界で残っていたのは五ヶ所きりだった。それに特飲街が十七ヶ所あったが、博士は先方の要求で進駐軍用としての割ふりをやった。

葭町は将校用とか、向島はなに、というふうに決めたのだが一番困ったのは黒人兵の割当てであった。与謝野博士は、業者からやみ打ちをうける覚悟で、五、六ヶ所を考えて相談した。初めは女たちも泣いて嫌がったようだが、黒人兵のほうからすれば、日本人は「白人」の部類に入る。だから女に対しては親切をきわめ、サーヴィスにつとめたものだった。それでニ、三日すると、黒人兵大歓迎ということになり、博士も心配していただけにホッとしたものである。
その時の命令は、

「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはならない。だから都の責任で検診を厳重にやるように・・・」

ということだった。週一回の検診では不足だという。「花柳病予防法」というものがあったが、それではやれないので、すぐに「性病予防規則」を作り、花柳界、特飲街、それから「特殊慰安施設協会」(RAA)などに検診や治療をやったのである。もっとも都側は、日本には治療するにも薬がない、完全に命令を履行するため薬をもらいたい、と申し出た。その結果、ダイヤジンやペニシリン、梅毒のマハルゾールの三種の薬品が大量に与えられたのであった。ただその代償として女から治療費などをとってはならぬ、無料でやれ、ということだった。

こうして、進駐軍用に、焼け残った都内の花柳界、特飲街が割りあてられてしまい、日本人用はたった一つ特飲街の千住があるだけだった。

引揚者や家族を疎開させた単身者が多かったので、風紀上何か問題が起きはしないかと心配されたのだが、事故も起こらなかった。ニ、三ヶ月後には千住だけでなく、ニ、三の場所もよいことになったが、こんどは、日本人の客があまり歓迎されない、という妙な現象が起こった。

翌年の四月ごろになると、進駐軍兵士で性病にかかるものが多くなってきた。これが理由で、総司令部は全部の花柳界を「立ち入り禁止」(オフ・リミット)にしてしまった。

病気のことも原因だが、花柳界のことが米国の新聞特派員によって本国に報道されたため、兵士の母親や家族では大問題となったからであった。我々の師弟が、そういういかがわしい特飲街に行っているのは怪しからん、という非難がサムス准将のところへ殺到したものだった。花柳病は実際はそんなに多くはなく、むしろ減っていたのだが、これを口実にして、サムス准将は政策の切りかえをやったのである。


「パンパン」の発生

占領下にできた新しい社会現象は「パンパン」であろう。軍隊の後には女が行進する、ということは歴史が語る事実である。進駐してから形もかわり、場所も移ったが、いつも軍隊の後を追っていた。
米国の軍人や軍属などが日本に落とす金は一億八千五百万ドルといわれるが、「パンパン」のかせぐドルは、その半ばに達するだろうという。

パンパンの発生は二十一年の夏頃であった。最初は立川、東京市内の日本劇場の周り、有楽町などで、数も五百人ぐらいだったが、そえがまたたく間に二千人、三千人になろうという有様だった。「パンパン・ガール」は健康診断を受けないから性病の罹患率が高くなってきた、と言うので、進駐軍の方が困ってしまった。

東京都が性病予防規則をつくった時、厚生省は、自治体だけでああいう規則をつくるのはけしからん、というので叱ったことがあった。しかし、都側は進駐軍から命ぜられたから仕方がない、という立場をとっていた。与謝野課長はハーグの陸戦法規に、「出先官憲は占領軍の命令を守らなければならない」と書いてあるのを見て、厚生省に説明し、そこで初めて厚生省は、花柳行予防特例によって、全国府県知事の責任で検診をやることにした。占領軍当局は、進駐軍を相手とするダンスホールのダンサー、ビャホールの従業員まで検診をやれ、といいだした。ダンサーも気の毒だったが、ビヤホールの従業婦などは、年少の人たちが多くて、ひどい飛ばっちりを受けたものだと、関係者は言っている。

特例の規定にしたがって、検診をしたものは、写真入のカードを持たせたが、これを思っていれば安全、というわけで、ヤミ屋がカードを売り出すような始末となった。そこで進駐軍はカード制はだめだといいだし、特例はすぐに廃止するわけにも行かないので、「申合せ」で発行を中止してしまった。

「パンパン」に対しては無検診だからというので進駐軍は一斉検挙を日本側に申し入れた。日比谷にあった憲兵司令官とか軍医関係のものがやればよかったのだが、東京には十一の憲兵分隊があり、分隊では下士官が命令し、警察官が協力して逮捕したものだから、場合によっては行きすぎもあった。とうのは何人捕まえたという報告を出さなくてはならなかったので、数をあげようとする傾向があった。

社会的な問題となったのは、東上線大山駅で、電車をとめて、乗っていた若い女たちを全部引っ張った事件だった。日本の警察官がついていたのだから、これはそうじゃない、といえばよかったのだし、またその意見もきけばよかったのだが、先方は日本の警察はヤミ取引があるのではないかと疑う。それで商売女でないことが判っていながら、みすみす吉原病院に送るというようなことがあった。病院のほうは、きたものは検査する義務を持っていたから、送られて来たものはすべて検査した。普通のお嬢さんがそうした目にあうことはしばしばだった。警視庁に、負けたとはいえ日本は法治国家ではないか、という抗議がいくたびかきた。


与謝野光氏の話

「我々のほうは進駐軍の命令にしたがった、国際公法によってやったのだとい理屈はある。しかし、これはやり方の問題で、やはり警官が弱かった。私は、なるべく前によく聞きただせ、といっておいたし、幾人かは帰しもしたけれど、ひどい目にあった人が相当あったと思う。米軍は自分の国の兵隊を守ることに急なため、日本の女性に迷惑をかけることになった。

進駐軍が性病を持ち込んだこともあったろう。しかし特に悪性のものもでなかった。むしろ米兵から、どこで遊んだら病気になったというような報告が多かったので、日本側は信用されず、米軍の軍医が直接検診に乗り出したこともある。

たとえば日本橋のどこで、目が黒いとか、背丈がどのくらいだが、というだけで名前も判らない。これを探すのは容易ではなかった。

 『パンパン狩り』は、狩り込みを先方がやってこちらが検診するというやり方だったが、後に、二十六年の九月からは、先方が検挙するのはやめて、日本側でやることになった。総司令部の公安課から、日本の法務府検務局長に対して、今後は日本でやること、ただし今までの成績を落とすようなことがあったら、責任者を即刻クビにする、という強い命令がでた。検務局長と警視庁、それに私が総司令部によばれて、依頼をうけた。しかしどうして検挙するかが問題だった。私のほうでやるには性病予防法の第十一条でやるほかない。

第十一条というのは、常習売淫の疑いあるものは、地方長官が検診の命令を出すことができる、というものでした。私は検務局長に対し、私のほうでやれといっても、第十一条は検診の命令で、検挙してもよいとは書いていないがいいのか、と聞いたものです。いいからやってくれ、というので警視庁は暴力で妨害するものを防ぐために『売春班』をつくった。ところで警察のほうは、検挙すると調書をとらなくてはならない。事務手続きが厄介で、そうしないと人権蹂躙になる。とにかく、今でも周一回、警視庁、私のほう、それから混成の三種類でやっていますが、私たちのほうはやめたいのです。

おかしなことに総司令部も二つに意見が分かれていた。公衆衛生局と憲兵司令官は病気をなくしたいといって我々に強く要求してくるが、法務局のアップルトン検務局長は、私をよびつけて、

『怪しからん、人権蹂躙ではないか。君は連れて行く権限は無い。第十一条は禁止命令で、lつれていく権限は書いていない。文化国家のやるべきことではない。また常習淫売というのは、一回だけではだめで、二回以上行わなければなりたたない。しかも現行犯だけをつかまえること、また検診命令も即刻出頭なんていう命令ではいけない。四十八時間のうちに出頭するように命じ、納得ずくでやれ』というのだが、四十八時間内に出頭しろといっても、来るものではないのです。

検務局長の意見に従っていても、たとえば立川基地などの現地の司令官は軍人なのだから、こちらのいうことなどはききはしません。週一回やらない限り、『立入禁止』(オフ・リミット)にするという。業者などは、これをやられると困るので、我々のほうになんとかやってくれ、といってくる。占領下では先方の命令でやられたのだが、独立したこれからは、法律的な根拠がなければやれないのであって、法の改正を厚生省などに要望してもなかなか実現しないのです。

性病が増えたように思う人が多いが、戦前に比べるとぐんと減っています。性病についての統計は今までは発表してはいけないというので公にされていないが、減少しています。東京だけをみても終戦当時に比べて四分の一位に減っている。これからもますます減ると思います。パンパンのよな野放しのものも減っているのです。初め彼女らの罹病率は60パーセントくらいだったが、今は10−15パーセントくらい。まして花柳界は減っている。いずれにしろ、占領行政のうちで、我々公衆衛生に関係した部門は一番めぐまれていたといえましょう。積極的に援助を受け、総司令部が先にたってやってくれたので、業績は大いにあがったのでした。」
http://urara225.iza.ne.jp/blog/entry/203155/


堕ちた大和撫子たち

 パンパンが街を闊歩する

 アメリカ軍が進駐して来て、大方の兵隊は市民には危害を加えないということが分かってくると、ようやく街も落ち着きを取り戻し、市民の表情にも安心感が現れ始めた。

 この頃、パンパンという言葉が流行った。パンパンというのは、進駐軍の兵士を相手にして、春を売る日本女性のことである。これには、オンリーというのがあって、兵隊の中でも上級階級専属で、このクラスになると住居も与えられ、いわゆるダンナから手当てをもらい、アメリカの、当時の一般の日本人がとても手にすることの出来ない衣食物を供与されて、贅沢な生活をしていた。

そうでない、不特定多数の下級の兵士を相手にするクラスの彼女らは、街角に立ってアメリカ兵の袖を引いていた。当時は、小倉には米軍の24師団が駐屯していたので、街にはアメリカ兵が多く、商売相手には事欠かなかったらしい。小倉の真ん中を流れる紫川にかかる常盤橋(当時)のたもとには、夜になると彼女たちがズラリと並んでいたものである。

 彼女たちの化粧や服装は、完全にアメリカナイズされていた。今なら普通と言えるかも知れないが、当時、人々は目をみはった。茶色に染めた髪、真赤な口紅、ピンクや紫などの手足の爪、肩をあらわにしたドレス、踵の高いカラフルなハイヒール、どれをとっても昨日まで、「撃ちてし止まむ」と化粧気もなく、耐乏生活に耐えていたモンペ姿の日本女性だとは思えなかった。

 人々は「大和撫子も堕ちたもんよ」と眉をひそめた。しかし、中には「あれらのおかげで、普通の家庭の娘が、アメ公(アメリカ兵の蔑称)どもに悪さをされなくて済んでるんだから」とそれなりの評価をする大人もいたが、ほとんどは陰で「パン助」と言って白い目でみていた。

 しかし、彼女たちは、そんな視線を尻目に、ハイヒールの音を響かせて、アメリカ兵の片腕にすがって街を闊歩した。それは夜だけでなかった。昼間も堂々としていた。敗戦という現実に心身ともに打ちひしがれた市民のなかにあって、彼女たちだけが生き生きとしていた。

 パンパンの語源は定かでないそうである。英語のpompom(これは性交という意味があるそうだが)が基になったという説もあるし、単純にペンペンという三味線の音、つまり芸者を意味しているというのもあったりする。しかし、広辞苑には原語不詳とあるが、「第二次大戦後の日本で、街娼、売春婦のことを指した」とある。

 私は、最初に彼女たちを目の当たりに見た時にはとても驚いた。それまで接してきた女性と言えば、母であり、姉、近所のおばさんたち、学校の教師などの通常の女性であったから、まるで異国人を見る思いがしたものである。しかし、それにはすぐに慣れた。彼女たちは、戦後の風俗となって、一時期世間に定着していた。

 確かに売春というのは、道徳的ではない。しかし、終戦を境に、彼女たちは自分の女体を武器にして、それまで鬼畜と喧伝されてきたアメリカの兵士といち早く関わり、その持てる金やモノを吸い取って、人々が一夜にして変わった混乱の中で、空腹を抱えて打ちひしがれている時に、図太く生きていた。大人たちは、彼女たちを口では軽蔑していながら、心のどこかで羨望していた。一見しただけで、その服装や持ち物が違っていた。物資の豊富なアメリカがそこにあったのである。

 常盤橋の両側には、靴磨きが多く並んで客待ちをしていた。中には、戦災孤児と言われた少年もいたが、戦闘帽を目深に被った白衣の傷痍軍人も多くいた。その中には義手を着けた人もいて、椅子に座って客が片方づつ履いたまま磨き台に載せる靴をかがみ込んで器用に磨いている。客のほとんどは、アメリカ兵や彼らと手を組んで歩くパンパンたちであった。日本の大人たちには、金を払って靴を磨かせる余裕などなかったということだ。

 あの白衣の傷痍軍人たちは、昨日まで誇り高き天皇陛下の軍隊として、日の丸の下で、聖戦完遂に命を賭けて鬼畜アメリカ兵と戦っていたに違いない。それが今日はその元敵兵の足元に膝を屈して靴磨きをせねばならないように、一夜にして世の中が変貌してしまった、ということだ。同時に私は、少年の幼い心情ではあったかも知れないが、そのアメリカ兵が磨き終わり、交替して椅子に座ったパンパンが、その元軍人の鼻先に足に履いたままの真っ赤なハイヒールを突き出して磨かせる光景に、何かしら義憤めいたものを覚えたものである。

 彼女は、普通では手に入らない洋モク(当時、憧憬を込めて外国のタバコをこう呼んだ)を、チュウインガムを噛みながら紅い唇に咥えてくゆらし、隣のアメリカ兵と何やら片言の英語を交わしながら、時にキャッ、キャッと甲高い笑い声を発している。その靴磨きは、下を向いたまま、黙々と彼女の靴を磨いている。私は、こんな光景に出くわす度に、なんだかこのような元軍人が可哀想で、同国人にいささかの遠慮もなく、思いやりを示さないそのパンパンが心から嫌いになった。
http://enjoynaming.cocolog-nifty.com/sudou34/2008/11/post-f3d2.html


パンパン狩り

性病が蔓延したため、強制検査のために街娼の狩込みを強化する警察やMP。有病者は強制入院させられる。池袋でもよく行われた西口闇市での取締りの光景。

RAA慰安所(米兵相手の慰安施設)や花柳街・特殊飲食街では GHQの要請で米兵を性病から保護するため 公娼や私娼に強制検診が行われていた 公娼制度廃止でRAAの慰安婦たちが何の補償もなく解雇されると 街娼(戦後自然発生)が急増 性病罹患数も増え
 強制検査のために「パンパン(米兵相手の街娼)狩り」が行われるようになる
http://com-support.co.jp/war_and_peace/after_johoku-daikusyu/index7.html


パンパンの狩り込みは、昭和二十一年(一九四六年)一月二十八日から東京ではじまった。GHQの要請でだが、占領軍の性病防止のためといえた。

京都は昭和二十三年の検挙者は二千四百二十二名であった。年齢は大正生まれが七十八名、昭和生まれがほとんどで、彼女のように十九歳から二十四歳ぐらいまでが百三十六名と一番多かった。(国家地方警察本部防犯課の資料による)


昭和21年、パンパンの一斉手入れ。こんな女に誰がした?

昭和21年の朝日新聞に、品川駅付近のホテルに出没する売春婦、いわゆるパンパンの一斉取り締りが報じられているそうです。

全部で300人が検挙されたが年齢は16歳から38歳までいた。けっこう若いじゃんと思われるかもしれません。暮らしに困って売春をなさる方の中には、恐ろしいほどの年配の方もいます。 専業は少なく、官庁や会社の事務職の者も混ざっていた。 参考資料によれば、「ダンサー、女給」など、売春業に手を染めやすい方々もおいでですが、「女工や会社の事務職、公務員」など、いわゆる堅気の女性もいたらしい。

300人のうち、性病にかかっていた者が60人いた。2割ほどの確率で病気をもらって帰るのでしょうか。当時、一番恐れられていたのは梅毒です。HIVと比べれば可愛い病気かもしれません。

「どうせ日本は負けたのだから、私たちが好きなことをするのは勝手だ」と取調べで煙草を吸う女もいた。
http://blog.q-q.jp/200702/article_17.html

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c78

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
79. 中川隆[-13711] koaQ7Jey 2018年11月29日 19:29:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21403]
日本の1946年預金封鎖

フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようとした。

それで平等主義的な日本国憲法を制定、
農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後のインフレはそういう目的で意図的に起こされた  



株も不動産も奪われる! 預金封鎖よりも怖い「財産税」の傾向と対策=東条雅彦 2016年9月25日
http://www.mag2.com/p/money/23235

メルマガのQ&Aコーナーで「過去に不動産や株式に資産課税が実施された事例がありましたか?」という質問を受けました。「はい、あります!」……それは日本です。

以前に解説したキプロスの預金封鎖では銀行預金だけが対象でしたが、我が国で起きた1946年の預金封鎖・財産税では、株式も不動産もあらゆる資産が課税の対象となりました。

本稿では、できるだけ歴史的・客観的な事実をベースに、様々な諸事情で新聞、テレビ、他メディアでは積極的に報道しにくい領域に踏み込んでいきます。特に財産税の課税手順については、どこよりもわかりやすく解説したつもりです。2013年に発生したキプロスの預金封鎖との違いに注意しながら、読み進めてください。


一体いくら奪われる? 資産課税の手順を知り危機を乗り越えよ

預金封鎖、2つの目的

預金封鎖の目的は、「資産課税」と「取り付け騒ぎを起こさせないこと」の2つです。2013年のキプロスの預金封鎖では、10万ユーロより多い預金が没収されました。

もし預金封鎖の情報が事前に漏れると、取り付け騒ぎが発生します。

銀行の経営者は少しの現金を手元に置いておけば、十分だということを知っています。預金残高の一定比率の金額しか保有していなくて、この比率を「預金準備率」と呼びます。

預金準備率は預金の種類や金額によって様々ですが、概ね1%程度です。残りの資金は企業への貸し付けや債券や株式への投資に回しています。そのため、大勢の人々が一気に預金の引き出しをしようとすると(取り付け騒ぎが起きると)、その銀行は倒産してしまいます。

預金封鎖の情報が事前に漏れて、国民全員が一気に銀行に押し寄せて、預金を引き出そうとすると、その国の銀行が全て破綻するリスクがあるのです。取り付け騒ぎになる前に、預金封鎖を実施しなければいけません。


銀行休業日が危ない

キプロスでは2013年3月16日に預金封鎖が発表されました。この日は土曜日で銀行は営業していません。預金封鎖の発表は土曜日、日曜日、祝日など、銀行の窓口が営業していないタイミングを狙います。

土日に営業している銀行でも、現金の取り扱いはどこも行っていません。365日、休みなしで銀行に営業を許可している国はありません(営業時間が最も長いと言われている米国でも、日曜日はお休みです)。どの国も過去の歴史から、預金封鎖・資産課税に備えて、銀行には休業日が必要であることを知っているからです。


日本でも1946年に預金封鎖が実施された!

1946年2月17日、日本で預金封鎖、新円切り替えが実施されました。政府が発表したのは、前日の2月16日土曜日でした。

キプロス預金封鎖と同じで、やはり銀行の窓口が休んでいる時に発表されます。繰り返しになりますが、事前に情報が漏れて取り付け騒ぎが起こると全てが水の泡です。

1946年の日本の預金封鎖も、2013年のキプロスと同様、事前に情報が漏れずに実施できた、預金封鎖の成功例となりました。

預金封鎖では引き出しが完全にできなくなるのではなく、引き出し額を大幅に制限されました。銀行預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円、世帯員は1人各100円でした。

預金封鎖と呼ぶより、「出金制限」と言う方が実態に沿っています。

1946年の国家公務員大卒初任給が540円だったので、現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が11万円前後、世帯員が1人各4万円弱まで引き出せました。

そして、封鎖預金中に引き出されたお金は全て「新円」でした。このとき、1946年3月3日からは「旧円」の市場流通を停止すると、同時に発表されていました。

これが「新円切り替え」と呼ばれる政策で、その目的は市場でのお金の流通量を制限して、急激なインフレを抑止するためだとされていました。

ところが、国民は逆に3月3日までに旧円を使い切ろうとしたために、インフレが加速してしまいました。

インフレを抑制するという意味では、預金封鎖&新円切り替えは大失敗でした。しかし、実は、この預金封鎖の目的はインフレ抑制ではなかったことが明かされたのです。

69年後に明かされた預金封鎖「真の目的」とは?

2015年2月16日、NHKの報道番組「ニュースウオッチ9」にて、「『預金封鎖』もうひとつのねらい」という特集が組まれました。(※参考動画 – YouTube)

放送では、当時の大蔵大臣である渋沢敬三氏と、大蔵官僚である福田赳夫氏(後、総理大臣)の証言記録が公開されました。

福田氏:「通貨の封鎖は、大臣のお考えではインフレーションが急激に進みつつあるということで、ずっと早くから考えていられたのでございますか?」

渋沢大臣:「いや、そうではない。財産税の必要からきたんだ。まったく財産税を課税する必要からだった」

証言記録では、「インフレを抑制させるためですか?」という質問に対して、渋沢大臣は「そうではない(インフレ抑制ではない)」と明確に否定しています。

しかし、当時、政府は国民に向けてインフレ抑制のためだと説明していました。やむを得ないことですが、こういうことは往々にして起こります。

財産税を課税するには出金制限(預金封鎖)が必須だった

日本では1944年、日本国債の発行残高が国内総生産の2倍に達したために、償還が不可能となっていました。

1945年に第二次世界大戦が終わり、その翌年の1946年、政府は最後の手段、資産課税(財産税)で国債を償還する(借金を返済する)しか方法がなかったのです。

今、日本では「国債は国の借金ではなく政府の借金である」「国民は政府の債務者ではなく債権者だ」と主張する論者もいます。

残念ながら、それは俗論です。

政府が財政破綻した場合、国内の個人も法人も、政府に対して請求権はありません。一方、政府は国内の個人、法人への徴税権を持っています。このことは日本だけではなく全世界共通のことなので、俗論に惑わされずに、正確に把握しておくことが重要です。

結局、この預金封鎖(出金制限)は1948年6月まで続きました。2年以上も出金制限が続いたのです。銀行預金から出金を制限することが極めて重要でした。

1946年2月17日から約2週間後の3月3日に財産税が実施されます。それは、1946年3月3日午前0時における個人の財産全額を対象に課税するというものでした。

財産全額なので、銀行預金だけではなく、株式、不動産、ゴールド(金)等も含まれます。

3月3日午前0時において、政府が把握できる国民の銀行預金を減らさないため、預金封鎖をして、出金制限をかけておく必要があったのです。

月額あたり世帯主で300円、世帯員1人につき100円までの出金制限は、当時「500円生活」と呼ばれていたそうです。500円は現在の貨幣価値で25万円前後です。

一見、十分な金額に見えますが、インフレが急激に進行しており、当時の生活はかなり厳しい状況になりました(1946年の物価上昇率は300%強でした)。

いくら奪われたのか?「最高税率90%」財産税の中身

財産税の税額は次の通りです。

<財産税 当時の課税価格と税率>

課税価格 税率
10万円超-11万円以下 25%
11万円超-12万円以下 30%
12万円超-13万円以下 35%
13万円超-15万円以下 40%
15万円超-17万円以下 45%
17万円超-20万円以下 50%
20万円超-30万円以下 55%
30万円超-50万円以下 60%
50万円超-100万円以下 65%
100万円超-150万円以下 70%
150万円超-300万円以下 75%
300万円超-500万円以下 80%
500万円超-1,500万円以下 85%
1,500万円超 90%

「ええーっ、1500万円を持っていたら、85%も取られちゃうの?」とビックリしてしまった人もいるでしょう。ところが、この財産税には2つの誤解があります。
1.上記の課税価格は当時の資産価値であり、今の価値とはまったく異なる
2.各段階でスライスされた資産に対して課税される

つまり実際には、1500万円を超えた金額に90%、500万円を超えた金額に85%、300万円を超えた金額に75%…というように、段階的に課税されました。

上記の課税価格のままでは、当時の状況が少しイメージにくいので、これを現在の価値に換算して説明していきましょう。

当時の財産税を現在の価値に換算すると

終戦直後は激しいインフレに見舞われており、1946年の貨幣価値を現在の価値に換算する際に何を基準にすべきかには諸説あります。

1946年の大卒初任給は400〜500円程度なので、今の大卒初任給20万円から計算すると、400〜500倍ぐらいの物価上昇が発生しています(計算しやすいように本稿では500倍を採用します)。

当時の財産税を現在の価値になおすと、次のようなイメージになります。

<現在の価値に置き換えた課税価格と税率>

課税価格 税率
5000万円超-5500万円以下 25%
5500万円超-6000万円以下 30%
6000万円超-6500万円以下 35%
6500万円超-7500万円以下 40%
7500万円超-8500万円以下 45%
8500万円超-1億円以下 50%
1億円超-1億5000万円以下 55%
1億5000万円超-2億5000万円以下 60%
2億5000万円超-5億円以下 65%
5億円超-7億5000万円以下 70%
7億5000万円超-15億円以下 75%
15億円超-25億円以下 80%
25億円超-75億円以下 85%
75億円超 90%

次ページではこの表を元に、さらに詳しく資産課税の手順を説明します。

資産課税の流れ

財産税は、次の手順で確定されました。

<Step1>

各個人が保有する資産額(銀行預金、株式、不動産、ゴールド等)を合算する。この金額を課税対象価格とする。一緒に住んでいる家族全員の課税対象価格を合計する。

<Step2>

合計の課税対象価格に応じて、段階的に上記の税率を適用する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円、母の資産額:1,800万円、合計の資産額(=これが課税対象価格となる)が6000万円だった場合:

5000万円×25%=1,250万円
1000万円×30%=300万円

課税対象価格6000万円に対する財産税額は、1,550万円となります。

<Step3>

Step2で算出された財産税額を、家族の保有資産額に応じて按分して各個人が納税する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円 按分率70%
母の資産額:1,800万円 按分率30%

財産税額1,550万円×70%=1,085万円…父の財産税額
財産税額1,550万円×30%=465万円…母の財産税額

このように、財産税のポイントは「同居家族の資産を合算して、後で各個人に按分する」という点にあります。現在の価値では最低ボーダーラインが5000万円ほどとなりますが、同居家族の合計資産額がこの金額に達していれば、課税されていたのです。


キプロスと日本、預金封鎖の共通点と相違点

キプロスの預金封鎖との相違点を探っていくと、我が国で起きた預金封鎖がより鮮明にイメージできるようになります。

<共通点>

いずれのケースでも、少額預金者は保護された。
キプロス:10万ユーロ(当時のレートで約1130万円)未満の資産には課税されなかった。
日本:現在の価値で5000万円未満の資産には課税されなかった。

<相違点>

キプロス:資産課税の対象は銀行預金だけだった(株式、不動産等は関係なし)。
日本:銀行預金だけではなく、不動産、株式、ゴールド(金)等の資産も対象になった。また、個人毎の資産ではなく、同居家族の合計資産が対象になった。

日本の国債は「内国債だから安心」という俗論に要注意!

日本政府の負債は、1941年3月の310億円から、1946年3月には2,020億円に膨張しました。当時のGDPの2倍を超えたあたりで、事実上のデフォルトとなったのです。

現在の政府財務残高対GDP比は、230%を超えています。戦後の状況と今の状況は、とても似通っていると言えます。

キプロスの場合、EUとIMFから10億ユーロの支援が約束されていたため、銀行預金のレイヤーを侵食するだけで済みました。

銀行預金は資産額の査定が簡単で、最も浸食されやすいレイヤーです。このレイヤーに多額のポジションを取っていると、被害が大きくなります。

内国債を抱えて財政破綻に向かう場合、対外的な支援者がいないことが、逆にデメリットになりえます。1946年に起きた日本の預金封鎖&資産課税では、銀行預金のレイヤーだけではカバーできませんでした。

対外的な支援者がいない場合、銀行預金レイヤーを突き破って、純資産レイヤー(株式、不動産、ゴールド)まで侵食されてしまうという見本になってしまったのです。

「日本の国債は内国債だから安心」というのは俗論です。むしろ逆で、ギリギリまで財政ファイナンスができるため、政府の負債額が大きくなって、ダメージも増幅される側面があることを忘れてはなりません。
http://www.mag2.com/p/money/23235  





▲△▽▼

醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html




▲△▽▼

日本共産党はマッカーサーが創設した
http://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more

マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:http://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
mig


日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。





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GHQが日産にしかけた時限爆弾

戦前の日産は日本最大の自動車メーカーだったが、その事でGHQの攻撃対象になった
引用:http://www.tanken.com/nissan1.jpg


日産の創業者

先日ルノー日産は買収した三菱自動車を含めて、2017年上半期の世界販売が世界一になったと発表しました。

2位VWは伸び率が低いうえに新たな排ガス不正が発覚し、下半期も苦戦が予想されています。

3位のトヨタはEVなど次世代技術開発に注力したいとして、早々に世界一レースから棄権を申し出ている。

          
日産は創業以来始めて、年間を通じて世界一になるのが確実だが、知ってのとおり90年代に経営破たんしルノーに買収されている。

事実上日本に本社を置くフランス企業だが、日産が経営破たんした経緯はすでに忘れ去られている。

日産の破綻は日本の終戦前後から周到に用意され、なるべくして破綻した時限爆弾のようなものだった。


戦前の日産はトヨタは言うに及ばず、三菱や三井、住友などを押しのけて日本最大の財閥だったが、どうしてこうなったのか。

まず話は日産の創業に遡り、創業者の鮎川義介は明治13年生まれと明治維新後に生まれ、財閥創業者としては非常に遅い。

旧長州藩士の出身で、外務大臣や大蔵大臣を勤めた井上馨の親戚筋で、東京帝国大学卒というエリートだった。


日本で就職した後、アメリカの鋳鉄工場で技術を会得し明治43年、30歳の時に現在の戸畑鋳物(現在の日立金属)を創設した。

日立と日産はどちらも井上馨が主導して創設した長州系財閥で、いずれも久原鉱業の鉱山を基盤に発展した。

日立は鉱山で使用する機材、日産は鋳鉄業を中心に事業を拡大し、大正期に日産は各種エンジンを製作する機械メーカーになっていた。


軍需で急成長

日産の鮎川義介は既存の財閥創業者と違い、機を見るに敏であり、次々に新たな事業に進出していった。

第一次大戦後の不況で久原鉱業を吸収し、日本産業と改名し、日産コンツェルンを形成しました。

鮎川義介はさらに勢いに乗って、当時最先端の産業だった自動車生産に乗り出し、1931年にダットサンを傘下に収めた。


ダットサンは大正3年(1914年)には脱兎号を開発していて、当時としては進んだ国産技術を持っていました。

日産という巨大財閥の傘下に入ったダットサンはまたたくまに日本最大の自動車会社になったが、需要の大半は軍部だった。

当時の日本は朝鮮、清国、ロシアを次々に倒し、満州国を建国し大陸を開発しようとしていました。


大陸には膨大な輸送需要があり、民間経済は未発達だったので軍部が鉄道や道路を建設し、トラック輸送をしていた。

1945年までに大陸で使われていたトラックのほとんどを日産が製造したが、これが敗戦後に仇となった。

軍事企業としては三菱の方が有名だが、どうしたことかあまりお咎めを受けず、GHQの批判の矛先は日産に向けられた。


日産と日立は井上馨という同じ親をもつ長州藩の兄弟会社ですが、長州藩は戊辰戦争に勝った事で帝国陸軍に支配力を持っていました。

軍と一体になって侵略戦争を行ったとして、久原財閥(日産、日立の母体)の久原房之助はA級戦犯として公職追放された。

鮎川義介も戦犯として逮捕され公民権停止され、以降日産と関わるのを一切禁止されたが、後に参議院議員になっている。


自称”労働者の代表”達は働きもせず暴動に明け暮れた。
このような活動を背後で操り、支援していたのはGHQだった。
引用:http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg


GHQによる日産虐め

日産はGHQによって戦後の自動車生産が制限されたが、GHQは日産をこのまま滅ぼそうと考えていた。

生産制限と同時に刑務所から出所した反政府活動家を日産工場に送り込み、労働争議を起こさせてこれを「民主化」と称していた。

民主化の実態は酷いもので、暴力を振るったり打ち壊したり、物を盗んだりして操業を妨害したのが実態だった。


工場労働者は仕事をせず、上司を監禁して「裁判」と称して大勢で丸一昼夜責め続け、精神を破壊していった。

工場にいる一番偉いのは課長だったので、日産の課長の多くが精神に異常をきたしたり、自分も「民主活動」に加わった。

労働者側の仲間になれば裁判の標的にならず、監禁されたり暴力を振るわれずに済むからだった。

こうした出来事をGHQは「日本でも民主化が根付き始めた」と称賛し、暴動を奨励しては、面白おかしく眺めていた。


GHQは「民主化」を支援したので日産工場の混乱は続き、この間に自動車産業のトップに躍り出たのがトヨタだった。

トヨタは戦前には小規模な自動車生産を行っていたが、軍部との関係は限られていたので、GHQのお気に入りになった。

1950年に朝鮮戦争が始まると日産、トヨタとも突然フル生産を命じられ、以降は急激に成長しアメリカのビッグ3も倒してしまった。


だがGHQによって日産に送り込まれた民主活動家達は、60年間日産の活動を妨害し続け、ついに会社を事実上倒産させてしまいルノーに買収された。

日産の末期がいかに酷かったを物語る伝説として、経営会議でモデルチェンジが決まると、工場長に伺いを立てる。

工場長は労働組合の幹部で、組合は事実上の日産の「本当の経営権」を握っていたとされている。


日産の時限爆弾

組合が同意しないとモデルチェンジできず、日産のモデルチェンジはどんどん遅くなり、内容も陳腐になった。

特にエンジンやシャシーなどを含むフルモデルチェンジは、労働者を酷使するとして一切認めなかった。

こうしてスカイラインもサニーもマーチもブルーバードも、同じエンジンの使いまわし、モデルチェンジ期間の長期化が進行した。


初代マーチが好評だったのに10年間モデルチェンジされなかったのはこれが理由で、2代目も10年、3代目も8年間モデルチェンジしなかった。

日産の労働組合は「労働貴族」という小説にもなったほど有名で、日産社内は社会主義国ソ連のようだったと言われている。

日産の労使協定では「日産車は労組の合意なしにいかなる改良もできない」と書かれていて、モデルチェンジを決めるのは組合長なのだった。


もちろんトヨタやホンダは社長がモデルチェンジを決めていたので、日産がホンダに抜かれたのは当たり前でした。

連合会長の塩路一郎は塩路天皇と呼ばれ、日産の重役人事や経営方針も事実上労組が決めていました。

こうした種を撒いたのはGHQで、種は大きく育って日産を乗っ取り、ついには経営破たんさせてフランス企業になりました。


敗戦前後の混乱期については日産の社史や公式な自動車史でも、知られたくないのかあまり書かれていない。

GHQは戦後すぐ日産を解体倒産させようとしたが、吉田茂首相や池田勇人首相らの抵抗によって、中途半端な虐めに留まったとされている。
http://www.thutmosev.com/archives/71982031.html  




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戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したことを語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、いうまでもなくアメリカの占領政策によるものであった。


 ▼マッカーサーは、GHQに到着してすぐの1945(昭和20)年9月22日、「日本は産業、通商、軍事その他いかなる部門においても、完全に壊滅の状態にある。食糧供給はほとんど止まり、破局寸前の状況にある。日本が犯した罪に対する懲罰は、始まったばかりであり、長く厳しいものになるであろう」と公言し、懲罰としてこの様な状態を強いる意図を隠さなかった。GHQが貿易を全面的に禁止したことは、日本人の食糧事情を戦前の水準以下におしとどめるためでもあった。

 ▼名古屋に駐留した米第25師団長モラン少将は「連合国軍の日本占領を成功させる手段としては、まず日本の食糧不足を利用し、当面は食糧を封鎖して、日本人の抵抗意欲の抑止を第一目標とする。つまり、食糧攻めにすることだ」とのべた(中西薫著『名古屋戦乱物語』)。

 ▼モランはさらに、「(日本の)軍国主義体制を崩壊させ、武装解除が完了した段階で、徐々に米国の余剰農産物を活用し、無償・有償援助を実施して日本人に恩義を感じさせる。それまではたとえ日本農業の米麦が増産されたとしても、配給量を増加する許可を絶対に日本政府に与えてはならない」と訓示していた。名古屋では、熱田造兵廠に備蓄されていた大量の古米、小麦がすべて没収された。それは日本国内の食料難に供するのではなく、「損害賠償物資」として国外に流された。

 ▼GHQは、「闇米が出回るから、遅配・欠配が続く」などといって、買い出し列車に警察官を乗り込ませるなど、「闇米」の徹底的な取り締まりとともに、直接ジープで農家に乗りこみ、強制的に供出させることまでやった。


[戦後余剰農作物を日本に押しつけ]

 ▼こうしたなかで1946(昭和21)年、元大統領フーバーが食糧事情調査団として来日。予定どおり「食糧援助」への布石を打った。そしてこの年11月30日「ララ物資」第一便としてミルク・衣類・薬品など450トンが横浜港に到着した(写真あり:学校給食用の脱脂粉乳などの「ララ物資」第一便の歓迎に動員された横浜の子供たち)。戦後、学校給食に使われた脱脂粉乳はこの「ララ物資」によるものであった。

 ▼マッカーサーは「経済的扼殺」の成果を踏まえて、1947年2月23日、「飢餓は社会不安、混乱、暴動を生み出すに違いない。国民はどんなに邪悪な思想だろうが、食べ物を与えてくれるものに、安易に走るのだ」と「食糧援助」を本国に要請した。

 ▼こうして11月6日、「アメリカに感謝いたしましょう」と放出された輸入食糧の多くは、もともと家畜飼料で栄養値に劣るコーリャンやトウモロコシであった。それはアメリカでの市場買付け価格の二倍の高値で日本国民に押しつけられたが、「我慢して食べてもたちまち胃腸をこわす」という悪質なものであった。

 ▼「米価審議会委員」「食品流通審議会委員」などを歴任した岸康彦氏は著書『食と農の戦後史』のなかで、「フーバーは単なる慈善のために食糧援助に力を入れたわけではない。第一次大戦後、米国は大量の余剰小麦を抱え込んだ。食糧援助は飢餓救済と合わせて、米国の倉庫から、余剰小麦をへらして国際市況の低落を防ぐこと、さらには共産主義の浸透に対する防壁として農産物を利用することも狙っていた」と指摘している。

 ▼国会での感謝決議をおこなって受け入れたこれらの「援助物資」は、ガリオア・エロア基金という「見返資金制度」によるものであった。それは、物資に相当する金額を日本側が積み立てて、その30%は在日米軍基地の費用にあてるなど、資金の運用はすべてアメリカの許可を必要とした。

 ▼アメリカはそのうえに1953年、「ガリオア・エロア返済」を日本政府に要求した。そして60年「安保改訂」後の1962年、「日本はアメリカの妾(めかけ)みたいなものだから、だんなのご機嫌をとるのは当然だ」と放言した池田勇人が首相となって、4億9000万ドルの返済を実行したという屈辱的な事実も消し去ることはできない。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/252217217.html




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戦後の日本のインフレは戦時中の借金とは何の関係もない

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

 当時の我が国の供給能力は、戦前と比較して実に2割の水準にまで落ち込んだと考えられている。供給能力の8割を喪失してさえ、インフレ率が500%程度で済むわけだから、日本国の生産力や技術、さらには「人材」の蓄積は凄まじい限りだ。


戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではないですね。


戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したと語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、アメリカの占領政策によるもの。

終戦直後は大したインフレは起きなかった。

円がその後安くなったのはアメリカの命令で戦時国債を踏み倒す為に意図的に紙幣をそれまでの何十倍も発行したからだ

アメリカが日銀にやらせたのは、それまでの 1円札を100円札に名称変更して、戦時国債の額面だけは昔と同じままにしておいた。


戦後の農地解放と同じで、アメリカは地主の金を貧農・小作人に再分配させる為に円の額面を変えたんだ。 だからハイパーインフレとは全く違う。
その結果、農民はすべて自民党支持層になって日本が共産化する可能性がなくなったたんだ。

ドイツやジンバブエのハイパーインフレとは中身が全然違うよ


因みに、日本が一億総中流、世界で一番成功した社会主義国と言われる様になったのは

・GHQ の農地改革で富農の土地をインフレ前に強制買い取り、小作農にインフレ後にインフレ前の金額と同額(タダ同然)で売ってその金額だけ売主に渡した

・意図的なインフレと預金封鎖で富裕層の預金を没収


が原因

要するに、日本を共産化させない為にブルジョアジーの持つ農地と銀行預金・国債を没収してプロレタリアートに再分配したんだ

一億総中流の無階級社会になったらもう共産革命を起こす必要がなくなるからね

損したのは預金を没収された資産家と農地改革で農地を昔の地価と同じ額面のままインフレで安くなった新円札で売らされた大地主だけ

農地を地主からタダ同然で買わせて貰った小作人は一気に土地持ちの資産家になって、それ以降自民党とアメリカの支持者になった

それが自民党一党独裁が今迄ずっと続いた理由




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戦後のインフレと言われているのはアメリカの指示で戦時国債を返さなくても良くする為に、意図的に円の価値を下げて、借金の額面だけ据え置いただけの話
デノミの逆をやって資産家の財産を取上げたんだ

インフレは供給より需要が大きい場合にしか起きない
日銀がいくら金融緩和しても株式市場や海外投資に廻るだけで物価は上がらない


そもそも日本は常に供給過剰な国でハイパーインフレになった事は一度もない

ハイパーインフレーションとはフィリップ・ケーガンにより、「インフレ率が毎月50%を超えること」と定義されている。毎月のインフレ率50%が継続すると、一年後には物価が130倍に上昇することになる。すなわち、インフレ率13000%である。


戦後の日本は確かにインフレ率が高まったが、別にハイパーインフレになどなっていない。

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではない。

戦時中も終戦後しばらくも大したインフレにならなかったんだから、農業が再開されれば食料不足は有り得ない、

従って戦後のインフレはアメリカが意図的に作った偽りのインフレという事

元々日本は供給能力が高かったから輸入と上手く組み合わせればインフレになる訳ないんだよ

米軍は食料の流通と配給制度を破壊した上で、ララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとったんだよ。

GHQは小麦や脱脂粉乳などのアメリカの余剰農産物を大量に日本に輸出したかったので、日本の農業を壊滅させる占領政策を取ったんだ。
それが農家には食料が有り余っていたにもかかわらず餓死者が出た理由

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。




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米国の食糧輸出戦略

(1)、ガリオア、エロア、ララ援助
ちなみに敗戦後の小学校では、昭和二十一年(1946年)十二月から、米国産の脱脂粉乳を中心とする学校給食が始まりました。

それが米国産小麦粉から作るパンを主食とする完全給食になったのは、大都市では昭和二十五年(1950年)二月からで、全国の都市部では翌年二月からでした。

この給食はガリオア = GARIOA(Government Account for Relief In Occupied Areas)占領地救済資金、及びエロア = EROA(Economic Rehabilitation in Occupied Areas)占領地経済復興基金、からの援助プログラムによる米国産の小麦の払い下げを受けて発足したもので、ガリオア援助には食糧以外にも原綿、肥料、燃料、医薬品もふくまれていました。

日本に対する援助はこれ以外に国連が管理したララ=LARA(Licensed Agency for Relief of Asia)アジア救済機関による援助があり、これにより米国産の粉ミルクが日本全国の小学校児童に配給されました。

ガリオアによる援助は昭和二十三年(1948年)にエロア援助に吸収されましたが、基金の性格、その目的(米国における余剰農産物の処理)から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」でした。


(2)、だまし、と脅し(Bluff)の手法

これは欧州に対する対共産主義政策の一環としての無償援助であるマーシャル・プラン(注:1)に対応したもので、日本に対しても当初は無償援助と言っておきながらサンフランシスコ講和条約締結を前に、昭和23年(1948年)1月に米国政府が突然総額二十億ドル(注:2、当時の為替レートで七千二百億円)の援助の立て替え代金(?)を請求したので、日本政府は「寝耳に水」と驚きました。


無償援助ではなく有償でもない、貸与したとする口実を米国は考えついたのです。

品質、鮮度が商品価値を左右する農産物について、大量の現物貸与などという話はこれまで聞いたことがありません。

しかも日本政府はそれまで援助は無償であると信じていて、占領中には国会で「米国の援助に対する感謝決議」までして来たのです。


もし仮に貸与であるとするならば、政府間の貸借契約書があるはずですが、そのような書類は存在しませんでした。

また小麦や脱脂粉乳の援助が有償、つまり売買契約に基づくものであるならば、その売買契約書が存在し、売買金額(トン当たりいくら、または総額いくら)が当然その契約書に記載されているはずです。


ところがガリオア、エロア援助に関する公文書には売買契約に関する文書やそれに関する条項がなく、金額の記載も全くありませんでした。

値段も決めずに何千億円もの品物を買う愚か者など、たとえ占領下でもいるはずがありません。

日本は米国から詐欺に遭ったのです。


最初に巨額な金額を要求して交渉相手をひるませるブラフ(Bluff、脅し)と呼ばれる交渉テクニックは、アメリカでは弁護士の常套手段です。

相手をひるませて交渉の主導権を握り、次に要求を少し減額して譲歩の姿勢を相手に示し、交渉解決に誠意のあるような振りをするのです。


それにより交渉を有利に進め、最後には目的とした金額を相手に支払わせる、とする戦術です。

交渉は難航しましたが、昭和三十七年(1962年)一月に、米国が援助の経緯を勘案した結果、当初請求した金額を定石通りに四億九千万ドル(千七百六十四億円)に減額して交渉成立に誠意を示した(?)ので、日本は十五年の年賦での返済に応じることとなり、後にはそれを完済し解決しました。


かなり減額したように思えますが、それまでに日本は占領に要する経費である終戦処理費として、五十億ドルもの大金を占領軍の為に支出したのです。

あたかも刑務所の看守の給料を、囚人が負担したようなものです。

その一方でマーシャル・プランによる経済援助を受けたヨーロッパの国々で、債務(?)返済に応じた国はありませんでしたが、アメリカ政府は赤子の手をひねるが如く簡単に、支払い義務の無い大金を日本から巻き上げました。

(3)、パン食導入計画、その影響

昭和二十九年(1954年)には学校給食法が国会を通過し、「小麦の粉食形態を基本とした学校給食の普及拡大をはかること」が明文化されて、米作地帯の農村までもコッペパンによる学校給食の普及が進められました。

当時米国の小麦栽培農家連盟の資金で作られた、パン食普及協議会が作成した小冊子「学校給食とパン」には、


コメを食べていると身体が弱く、頭が悪くなり、ガンや脳溢血になり易い
と書かれていました。

実は米国からの農産物援助には米を主食とする日本人を、子供の頃からパン食に慣れさせて、自国産小麦の輸出を図るアメリカ政府の遠大な戦略があったのです。

敗戦後の学校給食のパン食で育った子供が増加、成長し、親になるにつれて、日本人の食生活にも次第にパン食が普及して、その計画は見事に成功しました。


昭和三十九年(1964年)にマクガバン上院議員が米国上院に提出した報告書によると

米国がスポンサーとなった学校給食プログラムによって、日本の子供達が米国のミルクとパンを好むようになり、日本が米国農産物の最大の顧客となった

と書かれています。


具体的には米国産小麦の日本への輸入量は昭和二十八年度(1953年)の百六十八万トンから、昭和三十九年度(1964年)には三百五十九万トンと二倍以上に増加しました。

それ以来パン食が普及するのに伴い主食である米の需要が次第に減少して行き、米の生産過剰の状態が長年続いています。

その結果政府が保有する米の在庫や備蓄については、適正備蓄量百六十万トンのところ、平成十二年度では二倍近い二百八十万トンにも達していて、食糧倉庫には古米(生産後一年以上経過したもの)、古々米(二年前以上経過したもので、長期保存のために味が落ち、米飯には使用されず、せんべいなどの加工用や家畜のエサに振り向ける)が溢れています。

それにもかかわらず日本は米国をはじめ、オーストラリア、カナダから、毎年六百万トンを超える小麦を輸入していて世界最大の小麦輸入国となっていますが、その小麦の七割は米国産です。

つまり米国は自分のカネではなく、日本人の税金を使ってパン食普及の確固たる基盤を日本に作り上げて、大量の小麦の、しかも恒久的輸出先を確保したのです。


(4)、食糧自給率の低下

その後、昭和三十一年(1956年)には「米国余剰農産物に関する日米協定」を結ばせ、農産物輸入義務化により、大きな市場を米国農業に提供しました。

それ以来日本は米国にとって農産物の最大の輸出先となりましたが、その結果、主食の米離れが進み、日本の農業は衰退し、食糧自給率の試算を始めた昭和三十五年度(1960年)の七十九パーセントから、平成十四年度(2002年)ではカロリー換算で四十パーセントまで低下しています。

これほど低い自給率の国は フランスの百三十五パーセント、米国の百二十五パーセントなどに比べて先進国では日本だけですが、小麦をはじめ、牛肉、大豆など食糧に関する限り、日本は米国の「五十一番目の州」になり下がったと言えます。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm




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「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活 – 2003/2 鈴木 猛夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%A3%9F%E7%94%9F%E6%B4%BB-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E7%8C%9B%E5%A4%AB/dp/4894343231

より抜粋


■昭和20年代(1945年〜)---アメリカで農産物の過剰生産、過剰在庫

 戦後日本人の食生活が急速に欧米化した裏にはアメリカの存在があった。
アメリカは昭和20年代、小麦、大豆等の過剰生産、過剰在庫が深刻化し、その余剰農産物のはけ口として標的にされたのが日本である。


■昭和29年(1954年)---余剰農産物処理法(PL480)成立。

 昭和29年、アメリカは余剰農産物処理法 (PL480)を成立させ、日本に対する農産物輸出作戦に官民挙げて本格的に乗り出した。

当時の日本側栄養関係者も欧米流の栄養学、食生活の普及、定着が必要だとしてパン、畜産物、油脂類などの普及を意図した「栄養改善運動」に取り組み、日米共同の食生活改善運動が推進された。


■アメリカ小麦戦略

 活動資金の多くがアメリカ側から提供されたが、そのことは当時も今もタブーとして長く伏されてきた。 

これを一般に「アメリカ小麦戦略」という。


■昭和30〜40年代(1955〜1975年)---フライパン運動、学校給食など

 パンの原料である強力小麦は日本では産出できず、日本人がパン食を始めれば永久的に日本はアメリカのお得意になる。

戦前まで少なかった油料理を普及させるためにフライパン運動を展開し、油の必要性を強調する栄養指導が熱心に行なわれた。

トウモロコシ、大豆は家畜のエサであると同時に油の原料でもある。
余剰農産物処理の観点から欠かせない重要な戦略であった。

学校給食ではパンとミルクが無償援助され、子供のうちから洋食嗜好の下地を作ることにも成功した。


■昭和52年(1977年)マクガバンレポート(アメリカは気が付いた)

 アメリカ合衆国政府は1977年に

『ガン、心臓病、脳卒中などの現代病は食生活の間違いで起こる"食源病"である』(マクガバンレポート)

と解明して、欧米型の食生活の改善を促した。

欧米型とは、脂肪と動物性たん白質、砂糖の過剰摂取。ビタミン・ミネラルや食物繊維の減少のこと。


■食料自給率たった四割

 「アメリカ小麦戦略」の成功で、小麦、大豆、トウモロコシの九割以上がアメリカをはじめとする輸入品。
食糧自給率は四割以下で先進国中最低。


■問題は命にかかわる

 ここまでは、食生活が変わった〜。美味しい食べ物のバリエーションが拡がった〜。程度の認識でいいかもしれない。

しかし、問題は・・・別にある。


■子供が糖尿病にかかり、アレルギー疾患が蔓延している

 問題は、欧米型食生活にともなって病気もまた欧米型となり、日本人の健康状態が非常に懸念される状況になってきたことである。

戦前まで少なかったガン、糖尿病、動脈硬化、心臓病、痛風などのいわゆる欧米型疾患は子供にまで広がり、アトピー、花粉症、喘息などのアレルギー疾患も増加の一途である。

糖尿病は予備軍を含めて1620万人にのぼり糖尿病に子供が苦しむという前代未聞の事態になってしまった。痛風患者も予備軍を含めて560万人とも言われる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=124643&g=132107





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真珠湾アリゾナ記念館での安倍総理の演説

総理は米国の寛容さを示すエピソードとして、終戦直後の食料援助に言及している。本文は

「日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました」

である。

終戦直後の米国の援助物資はララ物資(LaRa・・Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救援公認団体))と呼ばれている。これによって命を助けられた日本人は多数いる。またこのララ物資が発端となり学校給食が始まったという話がある。


日本人は、長い間、ララ物資を100パーセント米国民の自主的な善意の援助と思っていた。しかしこの裏には浅野七之助氏という日系米国人の大きな働きがあった。浅野氏は岩手・盛岡出身のジャーナリスト(サンフランシスコ邦字紙「日米時報」を発刊)である。氏は終戦直後の日本の惨状にいたたまれず、「日本難民救済会」を設立し日系人に声を掛け祖国日本に救援物資を送ることに奔走した(ブラジルの日系人からも寄付を募った)。

浅野氏は、食料などの援助品を米軍に掛け合い日本に送ってもらったのである。戦後間もない頃の日本人は、これを米国の善意のプレゼントと勘違いしていた。たしかにその後、金額的に見てもララ物資は大きくなりとても日系人の寄付だけではとうてい賄えないものになっている。おそらく米国の援助部分が大きくなったと思われる。しかしララ物資の先鞭をつけたのはこの浅野七之助氏という事実を忘れてはいけない。

この話は決して米国民の寛容さを否定するものではない。米国民の対日感情が非常に悪かった時代に、米軍が日本に援助物資を届けてくれたことはむしろ画期的なことである。むろん日系ではない米国人の大きな協力もあった。ただララ物資の裏に浅野氏等の日系人の働きがあったことは戦後長い間伏せられていた。安倍総理の演説を聞き、この話を思い出したしだいである。
http://www.adpweb.com/eco/





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日本の農地改革

一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。

もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる。

1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。

この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。

不在地主の小作地の全て

在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等

また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。

しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。

譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。

この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。

一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。

この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、市場価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。

また、この農地改革は当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており、政府や GHQ もその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。

従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである

(当時の共産主義諸政党の政策方針では集団化(農地は自給用の田畑のみがコルホーズの協同組合経営として認められ、残りはソフホーズとして国有化され、農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9



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旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

(2003/2/17) 華族の話

1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。


大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?

つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。


5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。

1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。

当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。
加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。


この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。

伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。

旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。

学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。

侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。

華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。

1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。


財産税の税率

財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%


すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。

現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。

多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。

このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。

1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。

秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。

ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。

皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。

1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。

◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
http://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/288.html






http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c79

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
51. 中川隆[-13710] koaQ7Jey 2018年11月29日 19:31:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21403]

日産の労働組合が異常に強かった理由


GHQが日産にしかけた時限爆弾

戦前の日産は日本最大の自動車メーカーだったが、その事でGHQの攻撃対象になった
引用:http://www.tanken.com/nissan1.jpg


日産の創業者

先日ルノー日産は買収した三菱自動車を含めて、2017年上半期の世界販売が世界一になったと発表しました。

2位VWは伸び率が低いうえに新たな排ガス不正が発覚し、下半期も苦戦が予想されています。

3位のトヨタはEVなど次世代技術開発に注力したいとして、早々に世界一レースから棄権を申し出ている。

          
日産は創業以来始めて、年間を通じて世界一になるのが確実だが、知ってのとおり90年代に経営破たんしルノーに買収されている。

事実上日本に本社を置くフランス企業だが、日産が経営破たんした経緯はすでに忘れ去られている。

日産の破綻は日本の終戦前後から周到に用意され、なるべくして破綻した時限爆弾のようなものだった。


戦前の日産はトヨタは言うに及ばず、三菱や三井、住友などを押しのけて日本最大の財閥だったが、どうしてこうなったのか。

まず話は日産の創業に遡り、創業者の鮎川義介は明治13年生まれと明治維新後に生まれ、財閥創業者としては非常に遅い。

旧長州藩士の出身で、外務大臣や大蔵大臣を勤めた井上馨の親戚筋で、東京帝国大学卒というエリートだった。


日本で就職した後、アメリカの鋳鉄工場で技術を会得し明治43年、30歳の時に現在の戸畑鋳物(現在の日立金属)を創設した。

日立と日産はどちらも井上馨が主導して創設した長州系財閥で、いずれも久原鉱業の鉱山を基盤に発展した。

日立は鉱山で使用する機材、日産は鋳鉄業を中心に事業を拡大し、大正期に日産は各種エンジンを製作する機械メーカーになっていた。


軍需で急成長

日産の鮎川義介は既存の財閥創業者と違い、機を見るに敏であり、次々に新たな事業に進出していった。

第一次大戦後の不況で久原鉱業を吸収し、日本産業と改名し、日産コンツェルンを形成しました。

鮎川義介はさらに勢いに乗って、当時最先端の産業だった自動車生産に乗り出し、1931年にダットサンを傘下に収めた。


ダットサンは大正3年(1914年)には脱兎号を開発していて、当時としては進んだ国産技術を持っていました。

日産という巨大財閥の傘下に入ったダットサンはまたたくまに日本最大の自動車会社になったが、需要の大半は軍部だった。

当時の日本は朝鮮、清国、ロシアを次々に倒し、満州国を建国し大陸を開発しようとしていました。


大陸には膨大な輸送需要があり、民間経済は未発達だったので軍部が鉄道や道路を建設し、トラック輸送をしていた。

1945年までに大陸で使われていたトラックのほとんどを日産が製造したが、これが敗戦後に仇となった。

軍事企業としては三菱の方が有名だが、どうしたことかあまりお咎めを受けず、GHQの批判の矛先は日産に向けられた。


日産と日立は井上馨という同じ親をもつ長州藩の兄弟会社ですが、長州藩は戊辰戦争に勝った事で帝国陸軍に支配力を持っていました。

軍と一体になって侵略戦争を行ったとして、久原財閥(日産、日立の母体)の久原房之助はA級戦犯として公職追放された。

鮎川義介も戦犯として逮捕され公民権停止され、以降日産と関わるのを一切禁止されたが、後に参議院議員になっている。


自称”労働者の代表”達は働きもせず暴動に明け暮れた。
このような活動を背後で操り、支援していたのはGHQだった。
引用:http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg


GHQによる日産虐め

日産はGHQによって戦後の自動車生産が制限されたが、GHQは日産をこのまま滅ぼそうと考えていた。

生産制限と同時に刑務所から出所した反政府活動家を日産工場に送り込み、労働争議を起こさせてこれを「民主化」と称していた。

民主化の実態は酷いもので、暴力を振るったり打ち壊したり、物を盗んだりして操業を妨害したのが実態だった。


工場労働者は仕事をせず、上司を監禁して「裁判」と称して大勢で丸一昼夜責め続け、精神を破壊していった。

工場にいる一番偉いのは課長だったので、日産の課長の多くが精神に異常をきたしたり、自分も「民主活動」に加わった。

労働者側の仲間になれば裁判の標的にならず、監禁されたり暴力を振るわれずに済むからだった。

こうした出来事をGHQは「日本でも民主化が根付き始めた」と称賛し、暴動を奨励しては、面白おかしく眺めていた。


GHQは「民主化」を支援したので日産工場の混乱は続き、この間に自動車産業のトップに躍り出たのがトヨタだった。

トヨタは戦前には小規模な自動車生産を行っていたが、軍部との関係は限られていたので、GHQのお気に入りになった。

1950年に朝鮮戦争が始まると日産、トヨタとも突然フル生産を命じられ、以降は急激に成長しアメリカのビッグ3も倒してしまった。


だがGHQによって日産に送り込まれた民主活動家達は、60年間日産の活動を妨害し続け、ついに会社を事実上倒産させてしまいルノーに買収された。

日産の末期がいかに酷かったを物語る伝説として、経営会議でモデルチェンジが決まると、工場長に伺いを立てる。

工場長は労働組合の幹部で、組合は事実上の日産の「本当の経営権」を握っていたとされている。


日産の時限爆弾

組合が同意しないとモデルチェンジできず、日産のモデルチェンジはどんどん遅くなり、内容も陳腐になった。

特にエンジンやシャシーなどを含むフルモデルチェンジは、労働者を酷使するとして一切認めなかった。

こうしてスカイラインもサニーもマーチもブルーバードも、同じエンジンの使いまわし、モデルチェンジ期間の長期化が進行した。


初代マーチが好評だったのに10年間モデルチェンジされなかったのはこれが理由で、2代目も10年、3代目も8年間モデルチェンジしなかった。

日産の労働組合は「労働貴族」という小説にもなったほど有名で、日産社内は社会主義国ソ連のようだったと言われている。

日産の労使協定では「日産車は労組の合意なしにいかなる改良もできない」と書かれていて、モデルチェンジを決めるのは組合長なのだった。


もちろんトヨタやホンダは社長がモデルチェンジを決めていたので、日産がホンダに抜かれたのは当たり前でした。

連合会長の塩路一郎は塩路天皇と呼ばれ、日産の重役人事や経営方針も事実上労組が決めていました。

こうした種を撒いたのはGHQで、種は大きく育って日産を乗っ取り、ついには経営破たんさせてフランス企業になりました。


敗戦前後の混乱期については日産の社史や公式な自動車史でも、知られたくないのかあまり書かれていない。

GHQは戦後すぐ日産を解体倒産させようとしたが、吉田茂首相や池田勇人首相らの抵抗によって、中途半端な虐めに留まったとされている。
http://www.thutmosev.com/archives/71982031.html  


http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c51

[政治・選挙・NHK254] 原子力大国のフランスでさえ、再生エネルギー依存に転換。(かっちの言い分) 一平民
1. 中川隆[-13712] koaQ7Jey 2018年11月29日 20:05:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21406]
太陽光発電は国家経済を破綻させ環境も破壊する

【三橋貴明】メディアが報じない太陽光発電の恐るべき現実を暴露!
20170705 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=_P9CGmdEWDY

インドに必要なのは風力発電やソーラーパネルではなく原子力発電

 サンジーンによるとインドでは未だに水力発電が50%を占めており石炭火力を中心に火力発電が48%という。原子力発電は現状わずか数パーセント。

安定した電力供給体制を作るためにはフランス並みに原子力発電を拡大するべきという。ドイツのように再生エネルギー依存を増やすのはインド経済には負担が大きすぎると批判的だ。

 彼の村でも政府から補助金をもらってソーラー発電を試行してみたが供給が不安定で実用化を断念した経緯があるという。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/10601?page=2

ドイツは太陽光など自然エネルギーに熱心だが、国民はそのせいで2倍の電気料金を支払わされている。
しかも太陽光発電が不安定なために停電が増え、夏に冷蔵庫の中身が腐るような事態が起きている。

メルケルは「原発を廃止する」と言ったが実際には廃止していないし、廃止する予定も一切ない。


当分の間新規原発を建設しないと決めただけなのだが、日本のマスコミは「ドイツは原発を廃止した」と嘘の報道を行った。

ドイツ経済はまだ好調を続けているが、これは単一通貨ユーロとEUの閉鎖経済によって、域内で輸出しても「円高」のようにならないのが原因です。

EU加盟国は無制限にドイツの輸出を引き受けなくてはならないので、ドイツが栄える分だけ貧しくなっている。


あまりに貧しくドイツに頼らなくては経済破綻するので、EUに留まらざるを得ない状況になっている。

こうした状況に持続性があるとは考え難く、いつかは「メルケルの魔法」が解けるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/74945089.html


2017年12月31日
ソーラー利権 電気代の1割が太陽光補助金に使われていた

太陽光発電を増やすほど電気代は上がり、原発を稼動させないとCO2排出量も増える
引用:http://www.enecho.meti.go.jp/about/special/shared/img/pq0g-26imiecn.png


電気代の1割が太陽光補助金

日本では電気料金を政府が決めているので、全国どこに住んでいても大きな違いは無いことになっています。

多くの家庭の電気料金は1kWhあたり27円前後と思われますが、現在その1割が『再生可能エネルギー発電促進賦課金』(賦課金)に使われています。

賦課金を決めているのも政府で、2012年度0.22円/kWhだったが、2017年度は2.64円/kWhに増加しました。

これはそのまま太陽光など再生可能エネルギーの買い取りに使われていて、太陽光発電が増えるほど賦課金も増額されます。

賦課金が必要になったのは再生エネルギー特に太陽光電力の買い取り価格が異常に高いからで、最初42円でした。

太陽光買い取り価格は現在28円/kWhに下がり、将来は20円以下になると予想されているが、売電価格はほとんど変わらない。


なぜなら政府は契約時の買い取り価格を20年間変えないとしているからで、2012年に契約した事業者は2032年まで42円/kWhで買い取ります。

さらに政府は、太陽光発電の新規申し込みを制限する方針で、これ以上太陽光発電を増やしたくないと言っています。

再生可能エネルギーは4.7%で、内訳は4%近くを太陽光が占めているとみられます。


再生可能エネルギーをたった5%弱に増やしただけで、標準家庭で月に792円、年間9504円の電気代を余計に支払っています。

国全体では2017年に年間2.1兆円の賦課金を支払い、2030年には3.6兆円に増えると試算しています。(電力中央研究所)

しかも「太陽光や再生エネルギーでco2が削減され地球を保護している」は真っ赤な嘘で、CO2排出量は増えました。


原発事故が作った利権

CO2排出量が増えた理由は原発を停止しているからで、原発が発電していた分は太陽光ではなく、主にLNGで発電しています。

2011年に原発が停止するとLNG発電が倍増し、原発の発電量をすべて引き受けたので、新たにCO2を排出しています。

LNG発電を補うために石炭発電も増加したが、石炭はLNGよりもっと多くのCO2を排出します。


こういう状況なのに国民と政府は「太陽光発電が増えたから環境に良い」と喜んでいました。

電気代については原発の発電コストは事故処理や保証金、廃炉費用などすべて込みで10円/kWhと言われています。(諸説ある)

事故処理などの費用を含めないと原発の発電コストは推定5円から7円、天然ガス10円、石炭9.5円、太陽光28円などとなっています。


事故前は原発7円以下、天然ガス10円、石炭9.5円でほとんどの電力を発電していました。

これが事故後は天然ガス10円、石炭9.5円、太陽光42円から28円になり電気料金を多く支払う羽目になりました。

電力会社は発電した電気を家庭に送電し、予備電力も必要なので、さらに15円/kWh前後のコストがかかっています。


自由化で参入した小売電力は発電するだけで、予備電力や送電設備を負担せず、「安全コスト」を大手電力が負担しているだけです。

原発が停止しても停電しないのを見て「やっぱり原発は要らない。火力も廃止して100%太陽光発電にできる」と言っていた人が居ました。

本当に再生エネルギーだけにすると、電気料金は事故前の数倍に値上がりし、しかも再生エネルギーは発電量を調整できないので停電が多発します。


実際太陽光や風力への依存を高めたドイツやカリフォルニアでは、停電が多発して夏に冷蔵庫の中が腐る事態が多発しています。

しかも太陽光発電は建設や製造、保守管理、廃棄に多くの工業製品や人手を要するので、トータルで本当に「地球に優しい」のか疑問が持たれています。
http://www.thutmosev.com/archives/74293927.html


入札失敗で改めて分かった太陽光発電導入における政策の不備
導入量は世界第2位に達するも価格は下がらず
朝野賢司 (一橋大学特任講師)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11690

 再生可能エネルギー(再エネ)に対する固定価格買取制度(FIT)が2012年7月に導入されて、5年半が経過した。FITとは、再エネで発電された電気を20年間等の長期にわたって、「固定」した価格で電力会社(送配電事業者)が買い取ることを政府が義務づけるものだ。FIT開始当初、高すぎた買取価格が太陽光発電(PV)バブルとも呼べる偏った大量導入をもたらし国民負担を増大させた。

 これまで買取価格は、有識者による調達価格等算定委員会(調達委)において、設備建設等に要する費用に「適正な利潤」を加え算出されていた。17年4月のFIT法改正により、国民負担抑制のために、2000キロワット(以下、kW)以上の大規模なPV設備に入札が導入された。これは各事業者が上限価格内で買取価格を入札し、募集容量に達するまで安い価格をつけた事業者から落札していく方式だ。

 しかし、昨年末に公表された第1回の入札結果によれば、応札は募集した容量の1割にも満たず、落札価格は上限価格にほぼ張り付いた。これは直近のドイツの落札価格の3倍である(次頁図2)。日本のPV導入量は昨年にドイツを抜いて世界第2位まで達しながら、なぜコストダウンが進まないのか。この状態を解決できなければPVへの補助政策は停止も含めた検討が必要だ。

募集容量に届かず全件が落札された

 日本では、FITによって、PVを中心に再エネ比率は10%から15%に増加した一方で、国民が負担する年間の賦課金総額は2兆1000億円(17年)と既に電気料金支出の約1割に達している。電気料金に加算される賦課金は、買取総額から、電力会社がFIT買い取りで免れることができる燃料費等の回避可能費用を減じて算出される。

経済産業省が15年に示した長期エネルギー需給見通し(エネルギーミックス)が掲げる、30年度の再エネ目標22〜24%を実現する場合、筆者の試算によれば賦課金は年間3兆6000億円に達する

(図1)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11690?page=2

これは現在の消費税でいえば約1・6%分に相当する。FITは20年間等の長期固定で買い取る制度であるため、累積賦課金額は50年までに約69兆円に達する。

(出所)資源エネルギー庁資料を基にウェッジ作成 (注)2030年度の数値は筆者の推計 写真を拡大

 その国民負担の軽減策の一つとして導入されたのが、前述した入札である。今回の入札では、応札時に入札した価格で買取価格を決定した。

 具体的には、@2000kW以上の設備を対象に、A募集容量は今年度50万kW、来年度50万kWを2回の合計150万kWと設定し、B上限価格は入札の対象外となる事業用PV(10kW以上)の買取価格と同額の1キロワット時(以下、kWh)あたり21円とした。

 なお、2000kW以上の設備に限定されたのは、PV事業者団体が「事業者が入札に慣れていない」と主張し、調達委も「大規模事業者間の競争による価格低減効果が期待される」としたからである。

 ところが、昨年11月に入札が大失敗に終わったことが明らかになった。入札された9件の設備容量の合計は約14万kWにとどまったため、募集容量に到達せずに全ての入札が落札されてしまった。加えて、落札後、期日までに保証金が未納付の案件については落札が取り消されたため、最終的に落札されたのは4件・容量約4万kWと入札量の僅か9%にとどまった。入札量に対する応札量が不十分であったため、競争原理が働かず、平均落札価格は20円弱と、上限価格の21円に張り付いた。

 こうしたPVの入札で、これまで世界で最も落札価格が高かったのはドイツだが、それでも直近の落札価格(17年10月)は1kWhあたり4・29〜5・06ユーロセント(約5・9〜6・8円)と日本の3分の1である。最も安いメキシコは日本の10分の1だ

(図2)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/11690?page=2


(出所)国際再生可能エネルギー機関資料などを基に筆者作成 写真を拡大

 なぜ入札は失敗したのか。調達委では、来年度の2回目の入札に向けて、上限価格を非公表として実施し、開札後に公表することを検討している。しかし、上限価格の公表有無にかかわらず、応札件数が少なく競争原理が働かなければ、今回と同じ失敗が繰り返されるだろう。

筆者が危惧するのは、調達委の議論が場当たり的で、世界中で実施されている再エネ入札の事後評価を踏まえた「エビデンスベースの政策」がほとんど議論されていないことだ。最も参考となる研究成果は、欧州最大の研究開発プログラム(Horizon2020)のもとで、3年間実施されてきたAURES(Auctions for Renewable Energy Support)である。欧州12カ国に加え、米国なども含めると世界20カ国における入札が分析されている。この成果を踏まえた日本への示唆としては次の2点が重要である。


 第1は、対象電源拡大による競争原理の活用である。日本のPV入札では対象電源を2000kW以上としているが、全ての事業用PVに占める割合は約35%に過ぎない。例えば対象電源を500kW以上とすれば、同60%まで広がるため、競争環境が整う。加えて平均的なPV設備の単価(システム費用)は、2000kW以上が1kWあたり約32万円である一方、500kW以上2000kW未満のカテゴリーではこれより約1割安価である。したがって、対象電源の拡大はコストダウンにつながる可能性が高いのである。

 第2は、入札の政策目標に合わせた入札量の設定である。前述したように、日本が入札を導入した目的は「国民負担の抑制」であり、換言すれば、エネルギーミックスを最小コストで達成することにある。エネルギーミックスが掲げるPV導入目標は30年度に6400万kWであり、16年度末までの導入量(運転開始済みの設備)は約3850万kWだから、17年度以降は年間180万kWずつ導入すれば設備量としては政策目標を十分達成可能だ。

政策目標と整合した太陽光発電の導入を

 ところが、日本の入札における対象設備の容量は、最小コストによる政策目標の達成とは全く無関係に設定されている。前述したように、事業者が「入札に慣れていないため」、2000kW未満の設備が入札対象外とされているからだ。そのため、入札対象外のPVは総量規制がないため、今後も直近4年間の実績である年間600万〜900万kWの導入が続くだろう。

 そもそも、入札の目的が「国民負担の抑制」である以上、エネルギーミックスの目標値を超えてまで、補助による導入は避けるべきで、エネルギーミックスと連動した入札量とすべきである。

 既に、16年6月末までにFIT対象として認定された設備約1億kWのうち、既に電力会社と接続契約に至った(つまり運転開始に至る確度が高い)設備は7356万kWとされている。その大半がPVであることを踏まえると、PVの6400万kWという導入目標は近いうちに達成が確実視される。むしろ、導入目標が超過することが危惧される。政策目標と整合的な制度設計を行わなければならない。

今回の入札結果が改めて提起したのは、「PV導入量は世界第2位にまで達したが、その発電コストは諸外国の2〜3倍と縮まらない」という課題だ。これが解決できない限り、量的には政策目標を十分達成したPVへの補助政策は早急な停止も含めた検討が必要だ。


 コストが下がらない原因の一つは、全てのFIT対象電源はコストデータの提出義務があるものの、実質的に罰則がないために提出義務が有名無実化していることにある。つまり、FITは5年間、エビデンスベースとほど遠い政策を実施してきたのである。

 FIT買取価格は、前述したように各再エネ電源のコストに「適正な利潤」を加えて算出される。このコストを把握するために、FIT対象となる再エネ設備には運転費用年報(年報)の提出義務があり、ここで設備、工事など全ての費用、毎年の発電量等を記載することになっている。

 調達委は、提出された年報に基づくコストデータをもとに、13年度以降、比較的安価な設備のコストを基に買取価格を算定してきた。例えば事業用PVについては、対象となる10kW以上の中でも大規模な1000kW以上の設備の中で、コストを抑えている上位25%の実績を価格算定の値として採用してきた。いわば、集められたコストデータの「トップランナー」をもとにコストを算定してきたのである。

しかし、年報は未提出の罰則が実質的にないために、事業用PVの提出率は43万7528件(16年10月時点)に対し、35%の15万3160件にとどまる。こうした制度設計でPV事業者にどのようなインセンティブが生じているかは自明である。上位25%値等が採用されている中で、システムコストが安価である事業者ほど、年報を提出すれば買取価格が引き下げられてしまうため、提出しない。反対に、相対的に高価な事業者は買取価格をあまり下げさせないために、年報を提出するインセンティブが強まるだろう。 

 日本のFITは国民負担で実施しているのだから、未提出設備に対する認定取消等の実効性のある罰則をもうけるとともに、強制的なサンプリング等によるコストデータの早急な回収と公開が必要である。

 例えばそのお手本となるのが、米国のthe Open PV projectだ。このサイトでは設備別の設置住所、設備費用、発電量、補助対象プログラム、運転開始日等が公開されており、どのような政策がコストダウンを促すのかパネルデータ分析等が盛んに実施されている。

 近年、エビデンスベースの政策を求める声が高まっているものの、政策分析の前提となるデータ公開において日本は欧米諸国に比べて格段に劣っている。エビデンスに基づく合理的な政策形成を進めることが、結果的に日本における適切な再エネ普及にも寄与するはずだ。


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岐路に立つ太陽光発電 反発受け規制の動き [2018/03/04]


ゴルフ場跡地に造成された太陽光発電施設=みなかみ町

突風で損壊した太陽光パネル=2015年、伊勢崎市
 

 2011年3月の東京電力福島第1原発事故の後、国は再生可能エネルギーの普及促進のため、発電された電気を電力会社が一定期間、固定価格で買い取る「固定価格買い取り制度」(FIT)を12年7月に始めた。太陽光は他の電源に比べて発電施設の設置にかかる規制が少なく、費用が安価なため一気に広まった。

 ただ、発電施設の設置が急ピッチで進んだため、景観の悪化や環境破壊を懸念する声が相次ぎ、全国各地でさまざまな問題が生じている。本県でも土砂災害特別警戒区域周辺のゴルフ場跡地や住宅の隣接地などでの発電施設設置に対し、住民の反対運動が起きたケースがある。

 こうした状況を受け、自治体が条例やガイドラインを設けて規制する動きが広がり始めている。売電価格の段階的な引き下げで、倒産する企業も。太陽光発電は岐路を迎えている。

■土砂災害を危惧

 太陽光発電施設の増加に伴い、県内でも防災面や景観、環境保全などを巡って住民の反発が相次いでいる。反対運動のあった3地区を歩いた。

 みなかみ町の湯宿温泉。ここは20年前、集中豪雨によって温泉街を流れる七ツ釜沢が氾濫し、旅館や商店に濁流が流れ込んだ。その沢を上流へたどった大峰山にかつてのゴルフ場、旧月夜野カントリークラブがある。

 旅館を経営する男性(73)の案内でゴルフ場跡地へ向かうと、森林の中に無数の太陽光パネルが見えてきた。フェアウエーだけではない。コース内は木々が伐採され、クラブハウスがあった場所も整地されてパネルが並べられていた。

 付近は土砂災害特別警戒区域などに指定されており、男性は「パネルは山肌の上に屋根を造るようなもの。降った雨が沢に流れ込み、再び土砂災害を起こす危険性がある」と危惧する。

 地区住民は昨年春、町や事業者に対し開発計画の白紙撤回を要望した。だが、ゴルフ場建設の際に開発許可が出ているため、計画を止める手だてはなかった。事業者は「住民説明会で問題点を議論した上で要望は反映させ、県や町とも協議をして事業を進めた」と説明。男性は「災害対策がきちんと取られているかどうか、今後も見続ける」と力を込める。

■突風の不安

 高崎市箕郷町では、住宅街の隣の畑に太陽光パネルが並ぶ。パネルの下で農作物を栽培する営農型発電で、取り組みとしては近年、注目されている手法だ。

 ところが、ここでも反発の声が上がった。反対住民でつくる団体は2年前、計画見直しを求める要望書と174人分の署名を市農業委員会に提出した。

 背景には、冬場にこの地域で多い突風への懸念があった。60代の男性は「過去に納屋が壊れたり、イチゴのガラスハウスが100メートルほど飛んだりしたこともあった」と振り返る。伊勢崎市内で3年前、太陽光パネルが突風で飛ばされた光景を見て不安を募らせた住民もいた。

 事業者側には架台の基礎をコンクリートで固めるなどの配慮を求めたものの、農地のため施工ができないという。近くの60代女性は「住宅からの距離をもう少し確保してもらえれば安心できるのに」とつぶやいた。

 事業者の農業生産法人は「国も推奨する事業で地域おこしのモデルにもなる。住民の方々とは3年以上十分協議を重ねてきた。今後も話し合っていきたい」とする。

 別荘地裏手の森林を伐採して発電所が建設されたのは嬬恋村鎌原地区。別荘所有者らが反対運動を展開した。オーナーの男性(66)は「豊かな自然が売りだったが、自然環境は破壊され、景色も台無しになった。パネルの反射光がまぶしく、住めなくなった人もいる」と憤る。住民団体は2年前に約1900人の署名を集めて村や村議会に計画中止を求めたが、運動は実らなかった。

 住民らの反発にも計画が止まらないのは、太陽光発電施設の設置を直接規制する法律がなく、環境影響評価(アセスメント)法でも対象外となっているからだ。このため行政側は「民間と民間の話」として静観することも多く、嬬恋村の場合は裁判所に工事続行禁止の仮処分命令を申し立てたが却下された。

■独自に規制

 一方で、相次ぐ住民とのトラブルを受けて県内でも独自に規制を設けるケースが広がり始めている。県は許認可申請の前に事前協議を求めるなど、資源エネルギー庁のガイドラインを基に配慮すべき事項を作った。前橋市や高崎市、太田市などは自然環境や景観などとの調和に関する条例を制定し、抑制区域を設けたり、説明会の開催を義務付けたりすることを盛り込んだ。富岡市は、市内全域で設置を許可制とする県内初の条例を10月に施行する方針だ。

 促進か、制限か―。環境エネルギー政策研究所の山下紀明さんは、導入量は今後減りつつも普及は続くとの見方を示す。その上で、「国や自治体が無秩序な開発に歯止めをかけるとともに、事業者も地域の合意形成に努めることが重要だ」と指摘。「住民も市民出資などによる参加手法もあることを知れば、より持続可能な社会づくりにつながるのではないか」としている。

《記者の視点》行政関与の枠組みを


 東日本大震災による原発事故を教訓に、再生可能エネルギーは導入拡大が図られてきた。比較的参入しやすい太陽光はその主役だったはずだ。

 ところが、相次ぐ住民とのトラブルで、今では迷惑施設として受け止める人も少なくない。エネルギー自給率を高める上でも重要な役割を担っているのに、普及促進にブレーキをかけかねない事態になっている。

 反対する住民の意見に多かったのは「太陽光そのものに反対しているわけではない。場所を考えてほしいだけだ」「プロの事業者を相手に一般市民が条件交渉をするには限界がある。行政にもっと関わってほしかった」という声だ。

 環境省は「地域で事情が異なるため、条例などによる取り組みを推進している」との立場だが、トラブルはどこでも起こり得る。行政が関与できるように、まずは全域を網羅する一定のルールづくりが必要ではないだろうか。住民の理解なしでは普及はおぼつかない。(藤井陸大)


売電価格引き下げ響く 事業者の倒産増加


 国の普及支援策によって太陽光発電は順調に成長してきた。その一方で近年は太陽光発電関連事業者の倒産が増えている。

 固定価格買い取り制度(FIT)で当初、非住宅(10キロワット以上)用の太陽光の価格が1キロワット時当たり40円と高く設定されたことで、新規参入が相次いだ。だが、FIT財源は電気利用者が支払う電気料から徴収されるため、国は再生可能エネルギーの普及を図りつつも国民負担を抑制しようと段階的に価格を引き下げている。2017年度には21円まで下落。この結果、事業者は投資回収や収益確保が難しい状況に陥っている。

 帝国データバンクによると、17年の全国の倒産件数は88件。4年連続の増加で過去最多となった。負債総額は302億円に上る。同社は「買い取り価格が連続して引き下げられたことでブームが沈静化し、市場縮小を受けて淘汰(とうた)が進んでいる。市場環境は依然厳しい」と分析している
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/37142


2018年02月24日
電力自由化で自分の首を絞める人達

これが「自由化」で料金に巨大な格差が生まれる
引用:週刊女性PRIME http://jprime.ismcdn.jp/mwimgs/4/1/-/img_4121bee762a545f5cda9f9bdc053e2be319192.jpg


電力自由化はキXXXの仕業

世の中には迷惑な人が居て、わざわざ自分の電気料金を何倍にも値上げしようとしている。

電力自由化の事で、政府やマスコミは自由化すれば『全員の電気料金が安くなる』かのように嘘の説明をしていました。

ここからが問題ですが、自由化されているガス料金は全国全ての地域で安いのか、水道料金は全国同じかという事です。


自分調べで全国の最も安い都市ガスと、もっとも高いプロパンガスには3倍以上の差があり、一般的に都会は安く田舎ほど高い。

水道料金はもっと酷くて同じ量を使っても、全国で40倍もの差がある。

月に20立方使用で熊本県宇城市は8,940円、愛媛県八幡浜市は210円、大阪市は2,073円、東京都は2,764円だった。(生活ガイド.comより)


これが「自由化」であり価格は需要と供給、コストなど市場原理で決まり、住人の都合は一切関係ない。

電力は一般的に都市部では需要が大きいので一戸あたりの費用は安く、過疎地や離島では非常に高額になる。

同じ量の電気を使って東京や水力発電がある地域は月1,000円、沖縄や東北は月4万円になったら、自由化したい人は嬉しいのだろうか?


1951年の電力民営化で電気料金は急上昇しました
無題
引用:http://nenji-toukei.com/n/kiji/10054/%E9%9B%BB%E6%B0%97%E6%96%99%E9%87%91


電気は全国同一料金のほうが良い

電力は1951年はまで日本軍による価格統制で全国一律価格、国営事業で民間電力は存在しませんでした。

これでは非効率だというので民営化し現在の大手電力にしたら、電気料金が高騰してしまい、国による価格統制が行われました。

グラフを見ると国営時代に比べ、民営化したら電気料金は1年で2倍以上に跳ね上がっています。


戦前戦後は日本軍や米軍が価格統制していたのを、(ある程度)自由化したので値上がりしてしまいました。

もし大手電力による価格統制もやめて完全自由化したら、地域間の価格差が拡大し、収益性が低い地域では何倍にも値上がりします。

今までは東京や大阪の人が料金を多く支払って、北海道や沖縄や東北の人も、ほぼ同一料金に抑えていました。


もし電力を自由化しても国が電気料金を決めるとしたら、自由化にならないのでおそらく価格も自由化したいのでしょう。

東京や大阪の電気料金を2割安く、その代わり東北は10倍、沖縄と離島は40倍になったとして、一体誰が得をするのでしょうか。

電気料金は価格統制による全国同一価格が望ましく、もっと言えばガスや水道も全国同一料金にするべきです。


その為に東京や大阪の料金が1割か2割高くなったとしても、地方が栄えて日本全体が栄えるメリットの方が大きい。
http://www.thutmosev.com/archives/75041626.html


2015年6月20日【三橋号外】亡国の法

『電事法改正案が衆院通過=20年に「発送電分離」
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201505/2015052100044

電力会社に対し、発電部門と送配電部門を別会社化する「発送電分離」を2020年4月に行うよう義務付ける電気事業法改正案が21日午後、衆院本会議で与党などの賛成多数で可決、参院に送付された。16年4月に電力小売りが家庭向けも含めて全面自由化されるため、新規参入事業者も送電線を公平に利用できる環境を整える。』

衆議院本会議で、発送電分離、つまりは電力会社を「発電部門」と「送配電部門」に分け、発電部門について「民間のビジネス」と化す電気事業法改正案が可決しました。

電力サービスとは、周波数を一定に保たなければ安定供給が保てない、極めてナイーブなサービスです。周波数を一定に保つためには、電力の需要と供給をバランスさせなければなりません。電力サービスの場合は、供給が需要よりも大きければ、という「大は小を兼ねる」の考え方は通用しないのです。
発電部門が切り離されると、送電部門は自らの意志で供給をコントロールすることが不可能になり、日本の電力サービスの不安定化は免れないでしょう(特に、落雷や震災など非常事態発生時に)。

そもそも、発送電分離や電力小売り自由化など「電力自由化」を過去にやった国で、電気料金が値下がりした国などありません。これは、電力自由化を主導した経済産業省自身が認めている事実です。

なぜ、「自由競争」の原理を導入したにも関わらず、電気料金が下がらないのか。

理由は、電気料金のほとんどは「エネルギー価格」によって左右されてしまうためです。電力を自由化しようがしまいが、原油、LNG、石炭といったエネルギー価格が上昇すれば、電気料金は値上がりします。逆に、エネルギー価格が下がれば、電気料金も落ち着きます。

ただ、それだけの話です。日本が電気料金を引き下げたいのであれば、とりあえず原発を再稼働し、外国からのエネルギー依存を引き下げなければなりません。
今回の愚劣な発送電分離が、なぜ推進されるのか。表向きは「電気料金を引き下げるため」などと言っていますが、実際には違います。単に、発電部門を「ビジネス」と化し、新規に事業に参入したい投資家、企業がいるだけの話です。単に一部の企業のビジネスの話であり、そこに「公」の考え方はありません。

しかも、昨日のチャンネル桜の番組で、

「せめて、外国資本の規制を入れて欲しい」

と、希望を述べましたが、実際には最終的に成立する法律には「外資規制」は入らないでしょう。法律案を読みましたが、やはり入っていません。

一応、外国資本の発電事業への投資は、外為法で「審査付届出制」の適用を受けます。とはいえ、過去に日本では風力や太陽光などの発電事業に対し、相当数の外資の届け出が行われたのですが、例外的な1件を除き、全て審査をクリアしました。というわけで、メガソーラーの分野でアメリカ資本(GSなど)、中国資本、韓国資本、ドイツ資本などが参入し、我々から再エネ賦課金を徴収していく「外国資本のレント・シーキング」が実現してしまったのです。

発送電分離も、このままでは同じ話になるでしょう。何しろ、電気事業法改正案に外国企業やその子会社が発電事業者になることを禁止、ないし制限する規定はないのです。さらに、外国企業による土地取得も事実上、規制されていないため、我が国の発電部門が「外資の草刈り場」となることを防ぐ仕組みは存在しません。

総理は6月16日の規制改革会議で、

「規制改革に終わりはないという精神で取り組んでいきたいと思います」

と、発言しました。

という事は、我が国の発電事業が全て外国資本になっても、規制改革は終わらないということになります。

日本を壊す気なのでしょうか?

分かりませんが、とりあえず上記の事態を食い止めることができるのは、法律を審議する「国会議員」しかいません。というわけで、わたくしは現在、農協改革という「亡国の法」の真実を暴露する本を書いており、刊行直後に全国会議員に送付(わたくしのコストで)する予定になっています。

とりあえず、日本国民や国会議員が発送電分離や農協改革といった「亡国の法」について正しく知らなければ、事態は改善しようがありません。皆様も、どうかご支援くださいませ。
https://38news.jp/archives/05791


2017-10-14
「東北電力の送電線には空き容量がある」と主張する朝日新聞の根拠となった京大の試算は間違いだ

 詐欺ニュース
http://vox.hatenablog.com/entry/2017/10/14/210115


朝日新聞が10月10日付の記事で、「京都大学の試算では送電線に空き容量はある」と主張しています。

しかし、「空き容量ゼロ」と説明する東北電力の主張が正しいでしょう。なぜなら、朝日新聞が根拠とした自然エネルギー財団との関わりが深い2人の京都大学特任教授の計算方法が間違っているからです。

■ 朝日新聞が報じた内容

朝日新聞は石井徹・編集委員と小坪遊記者の連名記事で次のように報じています。

画像:朝日新聞の記事


「空き容量ゼロ」として、太陽光や風力などの発電設備が新たにつなげなくなっている東北地方の14基幹送電線が、実際は2〜18・2%しか使われていないと、京都大が分析した。東北電力は送電線の増強計画を進め、発電事業者に負担を求めているが、専門家は「今ある設備をもっと有効に使うべきだ」と指摘する。

(中略)

京大再生可能エネルギー経済学講座の安田陽、山家公雄の両特任教授は、電力広域的運営推進機関(広域機関)の公表データ(昨年9月〜今年8月)から、東北地方の50万ボルトと27万5千ボルトの基幹送電線について、1年間に送電線に流せる電気の最大量と実際に流れた量を比較した。

■ 事実

1:「送電線に流せる電気の最大量」から利用率は計算できない


安田陽特任教授と山家公雄特任教授は「1年間に送電線に流せる電気の最大量と実際に流れた量を比較して、利用率を求める」という手法を取り、ほとんど利用されていないと結論づけました。

ただ、これが間違いなのです。なぜなら、送電線には制約条件が存在しているからです。

『一般社団法人・電気共同研究会』が公開している資料(PDF)が具体的と言えるでしょう。
•熱容量
•系統安定度:送電線の1回線が故障や変電所の片母線が故障した場合でも、発電機の安定運転の維持ができるか
•電圧安定性:万一の故障を想定した場合でも、電圧の変動を限度範囲内に維持できるか
•周波数維持:電力系統が分断されても、それぞれの系統が周波数を維持できるか

基本は上記4項目から求められる各限界値のうち、最小の値が運用容量(=現実に送電線で送ることができる電気の最大値)となるのです。

朝日新聞と京大の特任教授は『理論上の最大値』を根拠に「空き容量はある」と主張しているに対し、東北電力は『技術上の最大値』を根拠に「空き容量はゼロ」と主張しているため、意見が対立しているように見えているのです。

2:「電圧安定」と「周波数維持」が再生可能エネルギーの大きな課題


再生可能エネルギーは出力が安定しないことが問題となっています。なぜなら、太陽光発電や風力発電が大量に導入されると「電圧安定」と「周波数維持」が難しくなるからです。

画像:周波数維持が要求される理由(電力事業連合会より)

電力は需要と供給のバランスを保ち続ける必要があります。以前は『需要の変動』にのみ対応するだけで良かったのですが、再生可能エネの普及を FIT で行ったことで電力会社は『供給量の変動』にも対応しなければならなくなったのです。

当然、“変動に対応できる限界値” は事前に決まっています。そのため、「接続はできない」と拒否されるケースが出てくることは当然と言えるでしょう。

3:出力変動対策を電力会社に丸投げする再生エネ界隈が送電線を優先利用する資格はない


再生可能エネルギーを普及に熱心な界隈は「発電すれば、儲かる」という立場ですから、「既存施設を有効に使わせろ」と述べるでしょう。

しかし、前述したように “送電網を管理する側” からすれば、迷惑な話です。発電量が一定ではない太陽光や風力は『電力供給量』を変動させる存在であり、その “尻拭い” をさせられているのです。

「海外のように見習え」と述べていますが、諸外国のやり方で電力供給をやると停電が頻発します。それでも良いと考えているのでしょうか。おそらく、そこまでは頭が回っていないのでしょう。また、都合の悪いことは隠す傾向にあるため、そうした問題点は触れることもないと思われます。

電力会社は「新規発電所から送電線への接続」は建設費という形で予算を計上しているはずです。FIT を使う再生可能エネ界隈も同じ条件でやるべきです。出力変動対策を電力会社に丸投げしているのですから、そのぐらいの出費は行わなければなりません。

ベースロード電源になり得ない再生可能エネルギーを FIT に加え、送電線への接続でも優先する必要性はないと言えるのではないでしょうか。
http://vox.hatenablog.com/entry/2017/10/14/210115

想定超える電力揺らぎ発見
再生エネ、取引が影響
2018/1/9 01:02 ©一般社団法人共同通信社


 家庭や事業所に供給される電気の周波数は電力需給の変動に伴い、わずかに揺らぐ。その揺らぎが大きくなる確率が従来の想定を上回っていることを見つけたと、合原一幸東京大教授(数理工学)やドイツ・ドレスデン工科大などのチームが8日付の英学術誌ネイチャーエナジーに発表した。

 風力など再生可能エネルギーや電力取引が揺らぎをもたらすことも分かり、合原教授は「大きな揺らぎは電力供給の信頼性の低下につながりかねない。電力網を効率よく、安定して運用する上で、今回の結果は役立つ」と話している。

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太陽光発電の買取価格引き下げ、補助金頼みの事業はもう限界
http://diamond.jp/articles/-/160388
2018.2.20 週刊ダイヤモンド編集部 

 
住宅用太陽光発電は2019年問題が目前に迫る。産業用も自家消費が得する時代が来る Photo by Kosuke Oneda


「もはやFIT頼みでは太陽光発電事業は続かない」。昨年から業界関係者の間ではそんな声が多かったが、いよいよそれが現実化しつつある。

 2月7日、2018年度の再生可能エネルギー(再エネ)の固定買い取り価格の値下げが決まった。FITとは再エネの固定価格買い取り制度のことで、太陽光や風力などで発電した電気を、電力会社が一定期間同じ価格で買い取る制度だ。

 太陽光の買い取り価格は発電量によって大きく三つに分類される。(1)10キロワット未満の住宅用、および産業用で(2)10キロワット以上2メガワット未満の小・中規模と(3)2メガワット以上の大規模だ。今回は導入量が最も多い(2)の価格が、現行の21円/キロワット時から18円/キロワット時に引き下げられる。

 FITの価格は、太陽光発電設備の設置費用などに事業者の適正な利潤を加味して算出される。これが結果的に、国が20年((1)は10年)間保証する補助金と見なされて太陽光バブルを引き起こした。

 しかしFITの財源は、電気利用者が支払う電気料金から徴収される再エネ促進賦課金で成り立っている。導入が進むほど国民負担も増えるため、批判の的になった。

 そこで段階的にFITの価格が引き下げられた結果、太陽光発電関連業者は窮地に陥る。東京商工リサーチによれば、17年の太陽光発電関連事業者の倒産件数は88件、負債総額は約285億円に上り、2000年の調査開始以来、過去最高となった。

 すでに(3)の価格は民間競争による入札制度によって決められており、今回(2)の価格が引き下げられたことで、補助金頼みの事業は終焉を迎えることになるだろう。

売るより使う方が得に

 (1)の住宅用には、いわゆる「19年問題」が横たわる。09年から始まった余剰電力の買い取り期間が10年の満期を迎えて、19年で終了する住宅が増える。同年10月末で約50万件、2ギガワット相当に上り、以降も毎年10万件単位で増加していくとみられる。

 期間終了後の買い取り価格は、制度開始当初の48円/キロワット時から11円/キロワット時まで下がる見込みだ。また再エネの出力抑制を求める電力会社が多く、今後は売電できない可能性もある。

 そんな中、注目されているのがグリッドパリティだ。再エネの発電コストが既存の電力コストより安価になる点を指し、住宅用の太陽光発電では、すでにグリッドパリティになっているとされる。発電した電気を売るより自分で使う方が得になるため、今後は自家消費が広がるだろう。

 実は、(2)でも近くグリッドパリティになるとされている。すでに一部の業者はここに目を付け、太陽光パネル、蓄電池などを組み合わせた独自のシステムで勝負を仕掛けている。18年は自家消費時代の幕開けとなる。

(「週刊ダイヤモンド」委嘱記者 大根田康介)

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東日本大震災後7年目に考える原発の経済性と再エネ・ビジネスの現実
山本隆三 (常葉大学経営学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12226


 東日本大震災から7年を迎え、新聞の特集記事、テレビ番組が、福島第一原発の廃炉問題、あるいは避難された方の帰還の問題等を取り上げた。そんななかで、朝日新聞は、「未稼働原発に5年で5兆円」との見出しを掲げた記事を掲載し、「原発を保有するが稼働していない7社が、5年間で原子力発電費として5兆円強を支出していた。費用は主に電気料金で賄われている」と伝えた。

 一方、NHKは、クローズアップ現代、NHKスペシャルなどで、「再生可能エネルギーの劇的な価格破壊により、大きなビジネス・チャンスになる脱炭素、再エネへのシフトが世界では起こっている」と放送した。字数あるいは時間の制約がある新聞、テレビが、ある一面を取り上げて報道するのはやむを得ないが、朝日新聞とNHKは、多くの場面で「脱原発、再エネ成長路線」に沿った報道を行っている。


 しかし、実態は朝日新聞とNHKの報道とは、かなり異なっている。朝日新聞とNHKは、報道しない側面、即ち、原発の経済性、再エネによる温暖化対策が必ずしも優先されない世界の現実、日本企業に恩恵の少ない再エネ・ビジネスの姿も報道すべきではないのか。

原発が世界では増えるのはなぜ

 現在、世界30カ国に448基の原発があり、世界の電力需要量の10%強の供給を行っている。さらに、建設中が57基、計画中が158基ある。東日本大震災後、ドイツは稼働開始後時間が経った原発8基を停止したが、それ以外に計画外で停止された原発はどの国にもない。ドイツも残り8基の原発は2022年に停止する計画だ。世界は、脱原発ではない。

 国際エネルギー機関によると、温暖化問題に対処するため二酸化炭素を排出しない原発からの発電量が、2060年に今の3倍になる必要があるとされている。原発建設を進める国が多くあるのは、競争力のある電源が必要だからだ。加えて、温暖化問題への対処を考えている先進国、中進国のなかには、原発を有力な選択肢と考える英国、ポーランドのような国もある。

 朝日新聞は、未稼働原発に5年で5兆円と、電力会社が無駄に支出を行っているようなニュアンスの記事を掲載したが、費用の大半は、稼働しなくても必要な固定資産税などの税、減価償却費、燃料処理費などの積立金だ。原発を維持するのは、第一に経済性があるからだ。

原発の経済性

 米エネルギー省によると、米国の1kWh当たりの電源別発電コストは火力発電3.73セント、原子力2.57セント、水力1.34セントだ。シェール革命により米国では天然ガス価格が下落し、いま欧州、アジア地域価格の数分の一だ。世界第2位の産炭国でもあり、発電所までの鉄道、トラックの高い内陸輸送費を加えても、発電所着で欧州、アジアの輸入石炭価格の半分以下だ。先進国で最も競争力がある米国の電気料金を支えるのは、競争力のある天然ガスと石炭火力だが、原子力の発電コストは、火力をも下回っている。

 図‐1は、東日本大震災前、全原発が稼働していた2009年度の日本の火力、原子力、水力の平均発電コストと燃料費だ。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12226

原発を保有する地域電力会社9社の有価証券報告書に記載されている汽力、原子力、水力の発電費用を基に計算したものだ。朝日新聞記者も発電費用を目にしたはずだが、原発のコストが安いと証明する数字になるからか報道はない。原発の費用には、核燃料再処理費用の積立金なども含まれている。


 原発の設備投資額は、火力発電より大きいが、燃料費が相対的に安いため発電コストは低い。さらに、燃料費が安定している原発は化石燃料価格が変動する火力と異なり、将来の発電コストが見通せるとのメリットもある。稼働すれば、電気料金の引き下げが可能になる。

 東日本大震災後、原発は定期点検を終えた後順次停止し安全対策を強化することになった。発電量も徐々に減少し2014年度には稼働、発電量ゼロになった。原発からの発電量の減少分を埋めたのは火力発電だった。

上昇する電気料金と産業

 東日本大震災後、火力発電量の増加は燃料購入数量増をもたらし、電気料金の上昇をもたらした。購入数量増に加え、電気料金をさらに引き上げたのが、燃料価格の上昇と円安だった。燃料価格の上昇は追加で火力発電用燃料を必要とした日本の買い付けにより引き起こされた面もある。燃料購入量の推移が図‐2に示されている。


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12226


 燃料購入費用増加分のうち原発代替分のみを計算し、電気料金のうち、燃料費と原発停止の影響による燃料費の増加額を示したものが、図‐3だ。電力業界全体では、地域電力以外に卸電力、共同火力などでも燃料購入量が増加しているので、日本全体の燃料購入料の負担額は図‐3の額を上回っている。原発停止の影響による燃料購入額は、2012年度から14年度まで毎年2兆円を上回っていた。


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12226


 図‐3に示された電気料金は燃料購入費以上に上昇している。その理由は、太陽光、風力発電などの再エネ電源導入を支援する固定価格買い取り制度に基づく電気料金による負担だ。2012年7月の導入以降、再エネ設備導入量の増加に伴い負担金も上昇し、2017年度の負担額は家庭用平均電気料金の1割以上、産業用平均電気料金の2割近くを占める1kWh当たり2.64円まで上昇した。総額では2兆円を超える。世帯支出に占める電気料金の負担率は、世帯収入と支出の減少が続くなかで2000年の3.1%から2016年には3.6%に上昇している。

 日本は製造業大国だ。国別の製造業の付加価値額の順位を図‐4に示した。日本は世界3位、先進国の中ではドイツと並び、国内総生産額の20%以上を製造業が担っている国だ。米国の12.6%、英国の9.7%と比較するとその比率の大きさが分かる。電力料金の上昇は、日本の産業の中心に位置する製造業に大きな影響を与えた。


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12226

 しかし、日本よりも固定価格買い取り制度による負担額が大きいドイツの製造業は、順調に成長している。その理由は、ドイツと日本の再エネ政策に大きな違いがあることだ。

産業に配慮するドイツのエネルギー政策


 主要国のなかで最も早く固定価格買い取り制度を導入したドイツは、2000年に買い取り価格の大幅引き上げを行った。この結果、ドイツでは太陽光、風力、バイオマスなどの再エネ導入が進んだが、導入量の増加は電気料金による負担額の上昇を引き起こした。2007年に1kWh当たり1.02ユーロセントだった負担額は、2013年に5.28、2014年に6.24ユーロセントに上昇し、夫婦と子供一人の標準家庭での年間負担額は円貨換算年間3万円に達した。家庭用電気料金は1kWh当たり29.14ユーロセント(約40円)。風力が全発電量の半分を占めるデンマークに次ぎ世界2位の電気料金だった。

 ドイツ政府は再エネ政策を見直し、小規模電源を除き固定価格買い取り制度を廃止するなど、電気料金抑制のための施策を取った。結果、2018年の負担額は6.79、家庭用電気料金は29.42ユーロセントと落ち着いているが、再エネ導入のつけは大きく、電気料金は高値に張り付いたままだ。

 再エネ導入の結果、産業用電気料金も上昇したが、エネルギー多消費型産業については、国際競争力を考慮、固定価格買い取り額の負担が90%上限に免除されている。2018年の免除対象企業数は1908社、その電力消費量は全ドイツの約20%を占め、免除総額は65億ユーロに達している。適用されている電気料金は日本の産業用電気料金のほぼ半額だ。ドイツの製造業が競争力を持つわけだ。

脱石炭ができないドイツは温暖化目標を放棄

 再エネ支援政策により、2017年ドイツでの風力、太陽光の電力供給量の比率は、それぞれ18.8%、7.1%になったが、最大の供給源は約40%を占める石炭・褐炭火力だ。再エネ導入目的の一つは、二酸化炭素を削減することだったが、電気料金上昇を抑えるため石炭火力を廃止することができないのがドイツの現状だ。2020年に1990年比二酸化炭素を40%削減する政府目標は、今年1月連立政権により、あっさり放棄された。電気料金抑制、炭鉱労働者の雇用維持の観点から石炭火力を廃止することが難しいからだ。

 1990年に12億5100万トンだったドイツの二酸化炭素排出量は、旧東ドイツのエネルギー効率が悪い設備を改修したため大きく減少し、2000年には10億4300万トンになる。2000年頃から再エネ導入を進めたものの、減少のスピードは減速し、2016年の排出量は9億600万トンだ。2020年7億5100万トンの目標達成には石炭火力の廃止が必要だが、電力供給と価格を考えるとできないと政権は判断し、温暖化目標の放棄に踏み切った。温暖化対策のため再エネを導入したはずだが、ドイツは経済を優先させた。NHKが伝えるように再エネのコストは劇的に下落しているとは思えないドイツの状況だ。

 ドイツで発電設備能力が最も大きいのは、陸上・洋上風力5600万kW、次いで太陽光4300万kW。合わせると全発電設備能力2億300万kWの約半分になる。これだけ再エネ導入が進んだドイツで再エネ・ビジネスは成功したのだろうか。

中国企業の独壇場 太陽光発電設備

 今年1月米国トランプ政権は、輸入太陽電池セル、太陽光モジュールに30%の課税を行うことを発表した。2014年から中国、台湾製セルに課税を行っていたが、中国メーカは東南アジアにセル製造拠点を移し、モジュール、パネルを中国で製造することにより課税を逃れていた。この課税逃れを防ぐため全輸入品を対象に課税することになった。米国は中国に次ぐ太陽光発電市場であり、2017年の累積設備量は5000万kWを超えている。その市場でパネル供給の覇権を握ったのは中国企業だったのだ。

 欧州でも、日本でも同じ状況だ。太陽光パネルの供給の大半は中国企業により行われている。2017年の世界のモジュール・パネル製造企業上位10社のうち9社は中国企業、1社は破綻したドイツ企業を買収した韓国企業だ。それでは、太陽光発電事業は、設備設置国に何をもたらすのだろうか。日本と米国の例から考えよう。

 表は日米の太陽光発電設備投資の内訳を示している。買い取り価格が世界の中でも高く設定された日本では高いモジュール価格でも事業が成立する。このため相対的に価格が高い日本メーカも約3割のシェアを持っている。モジュール以外の投資額は限られており、日本企業に落ちる資金も限られている。一方、米国ではモジュール価格が占める比率は少なく、設置工事などの比率が高い。モジュール価格の違いはあるものの、太陽光発電設備導入で潤うのは中国だ。


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12226?page=2


日本企業は何を選択すべきか

 欧州企業が、大きな世界シェアを持つ洋上風力設備のような技術もある。しかし、日本企業はデフレの間、借入金返済を優先し、設備、研究開発投資を絞ったためか洋上風力では出遅れた。欧州企業との合弁事業を通し、設備供給を行う日本企業が目に付く程度だ。

 再エネが大きな市場になるといっても、日本企業が供給できる設備は限られている。国内では設備導入に伴う建設工事はあっても付加価値額は高くない。成長が続く事業は再エネだけではない。成長産業は他にもあり、日本企業が得意とする技術もあるはずだ。原子力、鉄道などのインフラ、人工知能、電気自動車なども成長するだろう。

 選択と集中が重要だ。自動車部品大手で自動車用バッテリーも供給しているドイツ・ボッシュは、最近電気自動車用リチウムイオン電池製造事業から撤退と報道された。有望な市場だからといっても、企業の成長が約束されるわけではない。まして、再エネ市場は競争が厳しく、コモディティと呼ばれる技術的に難しくない製品では中国企業が、技術力が必要なブランド製品では、欧米企業が先行している。「再エネは大きなビジネス・チャンス」ということは簡単だが、NHKはどこまでわかって番組を作っているのだろうか。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12226

太陽光バブル崩壊…倒産ラッシュの裏側、買い取り価格大幅下落で採算厳しく
http://biz-journal.jp/2018/02/post_22272.html
2018.02.08  構成=長井雄一朗/ライター Business Journal

 
  24枚の太陽電池パネルでつくられたソーラーアレイ(「Wikipedia」より/Chinneeb)


 太陽光関連事業者の倒産が相次いでいる。東京商工リサーチの調査によると、2017年の倒産件数は過去最多の88件(前年比35.4%増)で調査を開始した00年以降で最多を記録した。同時に、負債総額の285億1700万円(同17.6%増)も4年連続で前年を上回り過去最多となっている。


 この状況について、東京商工リサーチ情報本部情報部の原田三寛部長は「太陽光バブルは弾けた」と見る。その背景には、どのような事情があるのか。また、買い取り価格が年々低下するなかで太陽光ビジネスの今後はどうなるのか。

■実はレッドオーシャンだった太陽光ビジネス

――太陽光関連事業者の倒産増加は、太陽光バブルの終焉と見ていいのでしょうか。

原田三寛氏(以下、原田) 太陽光バブルは弾けたと思っています。11年の東日本大震災で原発事故が起きたことで、再生可能エネルギー(太陽光、風力、水力、地熱、バイオマス)を利用する気運が高まりました。

 12年7月には再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度(FIT)が導入され、太陽光関連市場は急速に拡大しました。当初、固定買い取り価格は高価格帯でしたが、経済産業省が電気代の賦課金の低減を目指すなかで太陽光の固定買い取り価格も低減の方向で進み、年々下落しています。

 一方、太陽光関連事業は参入障壁が高くありません。「11年以降に設立された会社が倒産している」と思われがちですが、必ずしもそうではなく、実際には11年以前に設立された会社の倒産が多いのです。

 11年以前に設立された会社の本業を調べると、住宅関連の資材、リフォーム工事、電気設備工事、屋根工事などが多いです。つまり、本業である住宅着工件数が年々減少していくなかで新たなビジネスに活路を見いだすために太陽光関連事業に参入した、というケースが多かったのです。

 各社は太陽光関連事業を「ブルーオーシャン(競争相手のいない未開拓市場)」と考えていましたが、実際は「レッドオーシャン(血で血を洗う競争の激しい領域)」だったのです。

 成熟市場のプレイヤーが新天地を求めて業容拡大を目指し、太陽光ビジネスに参入した。しかし、こうしたプレイヤーはこれまでの事業が低採算で財務内容が脆弱であったり利益備蓄が多くなかったりしたため、太陽光関連事業でも赤字を出して倒産に至ったということです。

――東京商工リサーチの調査を見ると、件数・負債ともに過去最多を更新しています。

原田 17年の倒産件数は88件(前年比35.4%増)で、調査を開始した00年以降最多だった16年の65件を大きく上回りました。特に、建築工事を含む住宅関連事業者の倒産が目立ちます。また、17年の負債総額は285億1700万円(前年比17.6%)で4年連続で前年を上回っています。

 なかでも負債10億円以上が6件で、前年比で倍増しました。たとえば、福岡県のZEN POWERは負債52億円、神奈川県のPVG Solutionsは負債22億円でした。これらの会社はモジュールや太陽光の電池関連製品などを扱っているため仕入れ金額が高くなり、製造に対する投資もかさみがちです。そのため負債が多くなり、大型倒産に至りました。

 住宅関連の倒産では、大阪府のりょうしん電気で負債4億7700万円のケースがあります。同社はもともと、オール電化製品および住宅設備機器の販売施工を主体にしていました。

■18年はさらに倒産が増加か

――太陽光関連事業者は、今もなお乱立している状況なのでしょうか。

原田 そうですね。もともと乱立は激しかったですし、今なお乱立状態です。

――太陽光バブル崩壊後、太陽光関連事業者の倒産はさらに続くのでしょうか。

原田 18年の倒産件数は、17年よりさらに増えると予測しています。ただ、17年の倒産状況を見ると、上期47件、下期41件で下期のほうがゆるやかなペースです。倒産件数は17年を上回っても、比率はそれほど上がらないでしょう。

――太陽光の買い取り価格が年々減少するなかで、太陽光市場からの撤退を決断する事業者も出るのではないでしょうか。

原田 撤退しても、ほかの市場に参入することができるのでしょうか。この利幅が薄い市場で努力していくことが求められていると思います。具体的には、コストダウンをどこまで徹底できるかが課題です。

――今は人手不足で職人の人件費が高く、資材価格も高騰しているのでコストダウンにも限界があります。

原田 今後も、資材は安くなりにくく職人の賃金は上がっていくでしょうから、間接部門をどう合理化するかという施策が求められます。小・零細施工業者の連携によって間接固定費を圧縮することが必要です。

――すると、小・零細企業のM&A(企業の合併・買収)ということですか。

原田 小・零細施工業者のM&Aもいいのですが、いざ実行した場合にどちらにうまみがあるのかがわかりません。そのため、M&Aについては各社とも消極的ではないでしょうか。

――では、協同組合を設立して事務作業の一元化を行うという方法はいかがでしょうか。

原田 協同組合による間接固定費削減も一案です。また、施工技術や調達ルートなどに強みを持つ企業が集まってシナジー(相乗効果)を狙う協同組合というのもあり得るでしょう。場合によっては、人材や機材の融通も必要と感じます。残念ながら、こうした取り組みができない企業、つまり自社の強みを経営者が把握しPRできない企業は、コスト競争に負けて淘汰されると思います。

■太陽光ビジネスへの参入は苦肉の策だった?

――ところで、ビル・オフィス建築は首都圏を中心に好況ですが、戸建て住宅やリフォームはなかなか厳しい状況です。そんななかで、太陽光関連事業参入というのは苦肉の策だったのでしょうか。

原田 起死回生を図るという意味では苦肉の策です。リフォーム工事業者の倒産は和歌山県のISIHO(負債総額6000万円)がありますが、苦肉の策といえば北海道の北電テクノ(負債総額7300万円)でしょう。もともと光回線の営業代理を手がけていたMIHホールディングスの経営悪化を受けて、同社の代表が太陽光発電設備の販売・設置を目的に設立した会社です。

 流行のビジネスに飛びつく会社は多く、ときにはLEDや宅配サーバーなどブームになるものもありますが、太陽光もそのうちのひとつということでしょう。結果的に、ノウハウ不足や安易な事業計画で経営が立ち行かなくなるケースが多いです。

――以前の固定買い取り価格が維持されていればビジネスモデルは成立しましたが、今の価格では厳しいのではないでしょうか。

原田 経産省は、太陽光発電のコストのさらなる低減を掲げています。出力2メガワット以上の事業用設備は一部入札制度を導入しました。17年11月の入札結果では、最低落札価格は17.2円/kwhで、12年の固定買い取り価格40円/kwhから半減しました。住宅用は19年には24円/kwhになる予定で、12年の42円/kwhから4割以上下落します。

 以前は参入を促すために買い取り価格が高かったのですが、かねて「諸外国と比較すると高い」という意見があり、今は低下傾向が続いています。ただ、日本は四季があり、雪も降り、傾斜地も多いので諸外国と比較してイニシャルコストとメンテナンスコストの点は不利です。業者の意見に与するわけではないですが、こうした条件を加味して適正な価格を考えていくことが必要です。

 国の資料を見ると、「技術革新や新工法の開発により、コスト削減を促すために買い取り価格を引き下げている」という言い方をしています。国としては、「FITに依存するのはやめてほしい」という考えです。国は技術革新や新工法の開発を求めており、同時に太陽光発電モジュールや架台、設置工事の値下げ圧力は強まることが予想されます。そして、技術市場のニーズに合った単価でサービスを提供するように促しています。

■倒産は高水準で推移、18年は100件を突破か

――18年は、さらなる大型倒産はあるのでしょうか。

原田 大型倒産は一定の水準であります。ただ、一昨年と昨年は倍増しましたが、では今年も倍増して12件になるかといえば、そこまではいかないでしょう。

――今後の太陽光関連事業者は、どうなっていくのでしょうか。

原田 FITのロードマップでは、買い取り価格は引き続き下がることが示されています。その価格帯に対応することが、太陽光関連事業者が生き残る道です。FIT導入後の買い取り価格を時系列で見ると、風力、水力、地熱、バイオマスは太陽光のような大幅な下落は見られません。

 つまり、国が太陽光以外の再生可能エネルギーへのゆるやかなシフトを促し、太陽光に偏っている現状からの脱却を目指しているということであり、そのため事業者は利益が得られにくくなっているのです。

 太陽光関連事業者が次々と倒産している背景には、こうした国の方針があります。そのため、18年も倒産は高水準で推移するでしょう。私は、100件ぐらいだと見ています。
(構成=長井雄一朗/ライター)

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2018年01月30日
太陽光ビジネス倒産件数最多 不採算業者の撤退相次ぐ


2015年から倒産件数が急増している
引用:愛媛新聞https://www.ehime-np.co.jp/media/images/newspack/PN2017100501001864.-.-.CI0003.jpg?w=400


太陽光ビジネス撤退元年?

太陽光発電が脚光を浴び、買い取り制度が整備されたのは2011年で、太陽光発電元年と呼ばれていました。

それから6年後の2017年は買い取り価格引下げで倒産や撤退する業者が増えて、太陽光ビジネス撤退元年の様相を呈していました。

2017年は88件が倒産したが、2016年は65件、2015年は54件と3年連続で最多を更新しました。

2012年からずっと倒産件数は過去最多(同数も含む)だったが、2015年から負債総額が急増しました。

2014年の当山負債総額が約66億円だったのに対し、2015年は約210億円、2017年は約280億円でした。

2017年最大の倒産は福岡県「ZEN POWER」、負債総額は約52億円で、太陽光発電モジュールを販売していました。


東京商工リサーチによると、本業ではない異業種から参入して、行き詰るケースが多かった。

同リサーチでは安易に参入した企業の倒産は今後も避けられず、2018年も多くの倒産が発生するだろうと予測している。

安易な参入で競争が激化したのに加え、国の固定買い取り価格が年々引き下げられたことで、採算のハードルは高くなった。


後発事業者ほど不利な利権制度

再生可能エネルギー固定価格買い取り制度は初年度の2011年は42円だったが、毎年引き下げられて現在は21円と半額になった。

だが買い取り価格は20年間固定なので、初年度に参入した事業者だけが暴利を得るという不思議な制度になっている。

はっきり言ってしまうと制度創設時の民主党、管直人政権と「特別な関係」だったソフトバンクだけが優遇されている。


同じ発電事業をしているのに最初に参入した事業者だけが20年間優遇されるのは、「制度化された汚職」ではないだろうか。

倒産理由で最も多かったのが販売不振(42件)、次いで放漫経営(13件)、既往のシワ寄せ(9件)回収不能(4件)などだった。

2017年は特に既往のシワ寄せ(継続的な赤字)と代金回収不能が急増し、景気の悪さと無計画な経営が浮き彫りになった。


買い取り価格が半分になったのは、6年で価格が半額になった電気製品のようなもので、新規参入する分野ではない。

今後さらに買い取り価格は引き下げられ、初期の3分の1くらいには下がるが、それでも電気利用者に多額の負担金を強いている。

現在の買い取り制度そのものに無理があり、いずれ抜本的な制度見直しが求められるときが来るでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/74710661.html
 



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コメント



1. 中川隆[-5466] koaQ7Jey 2018年3月17日 08:19:23: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

▲△▽▼

2017年04月15日
原発再稼動で温室効果ガスが減少 再生可能エネルギーの限界

原発を稼動するか、地球を破壊するか、便利な生活を辞めるかの3つの選択肢しかない
bn-nt840_gordon_j_20160428152523
引用:https://cop20.files.wordpress.com/2016/06/bn-nt840_gordon_j_20160428152523.jpg


原発停止で大量の温室効果ガス放出

環境省によると2015年日本で排出された温室効果ガスは13億2500万トンで、前年より2.9%減少しました。

環境省は省エネに加えて原発再稼動によって、CO2などの排出量が減少したと分析している。

分析では原発再稼働によって410万トン分の温室効果ガスが減少し、これは全体の0.3%に相当します。


2015年に稼動した原発は九州電力の川内原発1、2号機だけで、稼動したのは9月以降だった。

原発2基が約4ヶ月稼動してCO2が0.3%減少したなら、1年間ずっと稼動していたら0.9%減少していた計算になる。

さらに44基の原子炉全てが稼動したら約20%減少、半分でも10%減少する事になる。


単純計算だが逆に言えば2011年の原発停止以降、火力発電所がこれだけの温室効果ガスを排出してきました。

日本の火力発電所はコストなどの問題で石炭発電が多く、ついでガス発電で、石油を燃焼させる発電の割合は少ない。

期待された再生可能エネルギーは、現状では原発に代わる発電として、まったく役に立ってはいませんでした。


再生可能エネルギーの限界

再生可能エネルギーから、従来からある水力発電などを引くと、発電量全体の3%から5%以下に過ぎず、事故前の原子力発電に代わる事はできない。

震災前の2010年12月に原子力発電が、日本の発電量全体に占めていた割合は32%だったが、原発に代わったのは火力発電だった。

再生可能エネルギーの中心は太陽光、風力、地熱の3つだが、日本ではそれぞれ問題を抱えていて、発電の主力になる可能性は低い。


まず太陽光は地面の面積を太陽光を集光するために利用するので、ソーラーパネルを敷くために他の何かを犠牲にしなくてはならない。

日本には広大な『空き地』というものが存在していないので、農地や森林、工場や住宅地など何かを犠牲にしなくては必要な面積を確保できない。

わずか1%ほどを太陽光発電で賄っただけで、森林破壊や自然破壊による災害が顕在化しており、さらに数倍に増やすことは考えられない。


また何かに利用されている土地を太陽光発電に転用するので、必然的に用地取得費用は高額になり、広大な『空き地』がある外国とは比べられない。

風力発電も同じ事で、風車をどこに設置するのか設置する場所がないし、設置に適した場所は既に何かに利用されている。

地熱発電は「日本は火山国だからいくらでも発電できる」という意見があるが、実際には地熱発電は地形に左右され、日本で大規模な地熱発電に向いている場所は存在しない。


原発と火力を減らすとどうなる

地下深くに大量の水を流し込んで、それを沸騰させてお湯を採取するのは、評論家が言うほど簡単でも実用的でもない。

温泉の40度くらいのお湯は穴さえ掘ればどこででも(チョロチョロと)出てくるが、それで風呂には入れても発電はできない。

再生可能エネルギーはそれぞれ問題を抱えていて、日本の地理的条件では大規模発電ができないのです。


仮に日本が「埼玉県を廃止してソーラーパネルを敷き詰める」的な事をして、発電量の半分を太陽光で発電しても、電力には使えません。

電気は貯めておけないので、「晴れたから消費電力100%を発電した」としても、じゃあ雨や曇りではどうするのかという問題が起きます。

天気次第で発電したりしなかったりし、余った電力はどこかに捨てる一方で、不足した電力はどこかから調達する必要があります。


特に北海道などでは冬のソーラーパネルの発電量はゼロになるので、例え夏の晴れた日に必要量の100%を発電したとしても、全く無意味なのです。

太陽光や風力をいくら増やしても、火力や原発の発電能力を減らす事ができない理由が、ここにありました。

もし多くの人が、「手術中に曇ったら手術を中止する」「雨の日は山手線運休」「冬の北海道は送電停止」などで納得するなら、火力や原発廃止も可能です。


そして火力発電は今後、地球温暖化を防ぐため減らす事が義務付けられていて、今までの日本は「地震で可哀想だから」見逃されただけです。
http://www.thutmosev.com/archives/70483577.html






2. 中川隆[-5465] koaQ7Jey 2018年3月17日 08:21:57: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

▲△▽▼

2017年02月26日
日本の電力消費をすべて太陽光にするとどうなるか
http://www.thutmosev.com/archives/69589222.html


ピーク時の最大消費電力に対応できないといけない
引用:http://www.nikkei.com/content/pic/20160531/96958A9F889DE2E0E3E2EAE5E4E2E3E2E2E7E0E2E3E4E2E2E2E2E2E2-DSXZZO0210882010052016000000-PN1-10.jpg


太陽光ブームが去った理由

太陽光発電のブームは去って、政府の強制買い取り価格が下げられたのもあり、新規設置は下火になっています。

政府はこれ以上太陽光発電が増えると困るとして買い取り価格を下げ、新たな認可を制限しています。

政府が買い取り制限した理由は一つには太陽光発電の価格が他の発電方法よりも高すぎるからで、差額は電気料金に転嫁されています。

   


もう一つは物理的に、過大な太陽光発電の送電によって電力設備が破損する可能性が生じる為です。

日本は島国で県境を山に隔てられているので、それぞれの電力会社や地域ごとに、独立して発電してきました。

柏崎原発の電気を東京に送電するなど例外はあるものの、外部から電力供給させる仕組みになっていません。


そこで電力買い取り制度を始めるのに、大手電力会社が費用を負担して送電設備を建設したが、考えてみればおかしな事です。

各家庭やメガソーラーが勝手に発電しておいて、送電線や変電施設などは買い取る側が全額負担する事に不満が高まった。

大手電力は2015年ごろから「買い取り拒否」するようになり、理由は送電網が破損する恐れがあるからでした。


発電した電気を送電する設備は本来、発電企業が負担すべきものですが、この費用も大手電力の電気料金に加算されています。

3.11後に東京で計画停電があったとき「他の地域から送電してもらえば良い」という議論があったが、これも設備が不十分なので困難でした。

日本中の送電網全てを、互いに送電したり無制限に太陽光電力を買い取れるようにするには、買い取り費用や発電設備を含めて、数十年間で日本のGDPに匹敵する費用がかかると言われています。


日本の電力すべてを太陽光にしたら

太陽光発電のコストがどうかという以外に、送電設備の膨大なコストが掛かるので、太陽光や風力が増えすぎたら政府は困るのでした。

だが仮にこうした設備や制度問題が解決したと仮定して、それでは日本の電力全てを太陽光発電でまかなうとどうなるでしょうか。

やはり3.11後にこうした議論がありましたが、ソーラーパネルを設置する平地が足りないとか、現実の壁にあたりました。


『日本の電力を全て賄うソーラーパネルの大きさは?』(太陽光発電は損か?得か?元が取れるか?)というブログで詳細な計算をし、必要なパネルの面積を導き出しているのを見つけました。

計算は複雑かつ長いので手短に説明すると、日本の年間電力消費量は約1兆kwhとし、この発電量を得られるソーラーパネルの面積を求めている。

計算結果は7,400平方kmで熊本県の面積7,405平方kmにほぼ等しかったので、熊本県を廃止して平らにしてソーラー発電すれば、日本の電力全てが賄えそうな気がします。


だが原発や火力なら確かに約1兆kwhを発電すると年間発電量に足りますが、太陽光発電は出力調整できないという欠点があります。

東京で消費電力が最大になるのは真夏の最高気温がピークの日の午後2時頃で、なぜか甲子園で高校野球をやっていると決まっています。

つまり年間トータルや一日の総発電量ではなく、「その瞬間」ごとに必要電力を供給し続ける必要があります。


真夏の一日の最大消費電力は6000kwhで、気温が20度を切ると消費電力も3000kwh以下に低下していきます。

暑い日は太陽光の発電量も増加しますが、必要な分を必ず確保できるという確実性がありません。

そして北海道は夏より冬の冷房期の消費電力が多いが、北海道では冬季は太陽光発電ができません。


発電できない日は電気を使わない生活にするなら問題ない
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電力消費にあわせた発電ができない

このようにピーク時の消費電力を考えると、年間消費電力を太陽光で発電しても、それでは全然足りないのが分かります。

それに日が暮れると太陽光は発電しなくなるが、人間は夜間も電力を消費しています。

仮にソーラーパネルを熊本県の10倍に増やしてもピーク電力には足りない可能性があり、天気に関係なく発電量を確保できる発電所も必要になります。


地球温暖化で火力発電所は今後増設どころか閉鎖せざるを得ないので、発電量増加が期待できるのは風力と原発だけという事になります。

風力は風任せという点で太陽光と変わらないので、仮に年間発電量を太陽光で発電しても、同じ規模の火力や原発が必要になります。

台風とか雪とか梅雨では日本中が同時に曇るので、太陽光の発電量が著しく低下した時にも備えておく必要があります。


というわけで日本の消費電力全てを太陽光で発電できても、やっぱり太陽光以外の同じ規模の発電所が必要になります。

曇りの日は電気を一切使わないなら良いですが、現代人は天気が変わっても生活スタイルを変えようとしません。

電気を溜めておければ良いのだが、電気自動車でも200キロ程度走るのが精一杯であり、曇りの日の一日分の日本の消費電力を溜める電池は、できそうもありません。


太陽光の発電量をいくら増やしても、それで電力全ては賄えないのでした。
http://www.thutmosev.com/archives/69589222.html


2017年04月03日
今後の太陽光投資はどうなる ブーム去り買取価格引下げ
http://www.thutmosev.com/archives/70288184.html


買取価格は下がるばかり
引用:http://taiyoukou-navi.info/img/clipimage_81.jpg


固定買い取り価格の引き下げ

最近は下火になったが一頃「太陽光投資」がブームになり、住宅の屋根にソーラーパネルを張るのが流行しました。

さらに空き地にソーラーパネルを設置してメガソーラーならぬプチソーラー発電をする人が多かった。

発電した電気は大手電力会社が固定価格で買い取り、国が買い取り価格を決めて強制的に買い取らせていました。

        

その結果太陽光発電のコストが電気料金に上乗せされ批判を受けるのだが、売電した人は濡れ手に粟の利益を手にしました。

固定買い取り価格は最初が最も高く、徐々に下げられていったので、最初に参入した人が最大の利益を挙げて、後から参加した人はそれほどでもなかった。

2012年7月1日に固定価格買取制度が始まった時、買い取り価格は42円または43円だったのが、2017年4月からは21円または28円(10kW未満)に引き下げられる。


将来的には経済産業省は18円に下げると発表していて、事業用買い取り価格はその後はもっと下げるでしょう。

小規模発電所と家庭用ソーラーは、大規模ソーラーより高価格が維持されるが、当初の半額以下の20円/kWh程度まで下がるのは避けられない。

2012年ごろに屋根や空き地にソーラーパネルを設置した人は、20年間買い取り価格が保証され、およそ8年で初期投資を回収し、後は利益を受け取るだけになる。


初期投資を8年間回収できないのはハイリスクに思えるが、実際には発電開始してすぐに転売すると、投資した資金の1.5倍程度で売れるそうです。

ずっと自分で発電して利益を得てもいいし、適当なところで転売して現金に換金するのも自由なのです。

買取価格が36円/kWhから21円/kWhに下がると初期投資を回収するまでの期間が8年間から14年に延び、利益を受け取れるのは6年間になります。


太陽光発電に支払う費用

買取価格がもっと下がると年間の表面利回りは10%程度になり、リスクに対して割りに合わなくなります。

買取価格が引き下げられた理由は電気料金への負担転嫁が年間2兆円、1世帯当たり年間9000円にも達するからで、このまま続けたら2万円や3万円になってしまう。

政府は再生エネルギー買取の年間総額を4兆円に抑える方針なので、既に目標の半分の買取を行っている事になる。


政府は再生エネルギーが総電力に占める比率は最大22%としいて、2016年の自然エネルギー発電実績は15%から20%未満だったと見られている。

自然エネルギーには水力発電が含まれるので、「再生エネルギー」よりも7.5%程度高い数字になるとされています。

という事は2016年の再生エネルギー発電は総発電量の10%程度であり、政府が掲げる20%以上の半分という事になります。


すると再生エネルギー発電が20%になると、買取総額は4兆円で、1世帯当たり年間2万円程度の負担になります。

原発事故前の2010年の世帯平均電気料金は月約8500円で年間10万2,000円、2015年には月約9400円で年間11万2800円でした。

年10万円だった電気料金が再生可能エネルギーの負担で2万円増えて12万円になり、かなりの不満が出てくるでしょう。


今後の実利回りは5%程度か

税金で買い取れば良いという意見もあるが、結局は同じことであり、しかも電気を節約する人ほど損をする事になる。

過去に事業認可を得ていた場合も、実態が無いと見なされて、新制度になって大量取り消しされたと見られている。

買取価格が高いうちに認可だけ受けて権利を転売しようとする事業者が多く、既に認可した発電量だけ、稼動すれば政府の目標を達成するとも言われている。


政府は太陽光発電になるべく参入させないようにして抑える政策を鮮明にしていて、もし超過すればそれだけ家庭負担が増加してしまう。

市場原理と乖離した買取価格で買い取って、電気料金の値上げとして消費者に押し付ける方法は、理解を得られそうに無い。

太陽光発電には初期投資以外に毎年のランニングコストや税金も掛かるので、机上の表面利回りの半分程度の利益しか出ません。


すると年間の実利回りは今後は5%前後のような、平凡な数値に収束していくと考えられます。

わらしべ長者のように太陽光発電で資産が増えていく時代は、終わったと言えるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/70288184.html

2017年01月26日
米太陽光バブル崩壊、トランプで補助金打ち切りか


メガソーラーは補助金でできていて、業者はパネルの代金しか負担していない
引用:http://mysuperpost.com/wp-content/uploads/2014/02/Worlds-Largest-Solar-Power-Plant-California_02.jpg


トランプは環境政策転換

トランプ米新大統領はエネルギー政策の大幅な転換を実施する方針で、過剰な環境対策も撤廃するとしている。

アメリカではオバマ大統領のエネルギー政策によって、太陽光や風力発電など、自然エネルギーが急拡大してきた。

低コスト化が急速に進み、太陽光や風力発電のコストが原発や火力を下回ったという報道もされた。


だが実際にはオバマ政権が多額の補助金を交付したことで「見かけのコスト」が減少しただけだとも言われている。

例えばアメリカの太陽光や風力発電は土地は公有地を無償供与、送電設備は既存の電力会社負担、変電や送電なども既存発電に負担させ無料にしている。

しかも建設は補助金が半分出ているので、発電業者が負担しているのは太陽光パネルと設置費用の半額程度です。


これなら確かに「原発より太陽光発電のほうが安い」でしょうが、この比較は公正な数字とは言えない。

送電設備や電柱、電線、変電設備、買い取り費用まで全て原発に負担させて「原発より安い」というのは詐欺ではないだろうか?

日本のソーラー発電も同じように東京電力などに全ての費用負担を押し付けていて、最終的に電気の利用者に払わせている。


こうした「ソーラー詐欺」を槍玉に挙げているのがトランプ大統領で、補助金なんか廃止するべきだと主張している。

1月20日にトランプはオバマ政権のエネルギー政策を抜本的に転換する姿勢を示し、気候変動や環境対策を撤回すると表明した。

国内エネルギー開発を推進し、石油輸入を減らす為に、シェールオイルとガスと石炭開発を進める。


アメリカの自然エネルギー

オバマは温暖化ガス排出量を削減するため、再生可能エネルギーを促進するとして、太陽光や風力に膨大な補助金と優遇策を取っていました。

トランプはさっそく石油パイプライン建設に署名し、「環境より国内経済」優先の姿勢をはっきりと示した。

特に太陽光発電は、普及するにつれて環境に良いどころか、環境を破壊している例が次々に明るみになっている。


典型的な例が日本で行われている、森林伐採や草原、農地などを潰してメガソーラーを建設する方法で、どこら辺が「地球に優しい」のか謎である。

アメリカには広大な砂漠や荒地があるので森林伐採する必要はないが、アメリカの多くの環境保護団体は太陽光や風力が原発より環境を汚染すると主張している。

風力や太陽光は広大な敷地を必要とし、太陽光の照り返しや風車の騒音などで人や動物が住めなくなります。


ソーラーパネル製造には多くの化学物質が使用され、耐用年数は短く、施設を維持するために人間が手入れをし、石油エネルギーを消費しています。

ソーラーパネルも風車も、電力設備の多くも石油を利用していて、保守点検をする人間も石油を消費している。

つまり太陽光と風力発電は石油を消費して2次的に太陽光や風力で発電しているので、発電するほど石油を消費しています。


オバマの環境バブル崩壊か

例えばソーラーパネルを運ぶトラックは石油燃料で走るし、通勤する人も石油燃料を使い、彼らの食べ物や服装も石油を利用した物です。

これと比較すると原発は石油をあまり消費せず発電できるので、放射能漏れを起こさなければ「地球に優しい」と主張している。

地球に優しい議論は環境保護団体に任せるとして、トランプ政権が自然エネルギー優遇を見直したら、アメリカの自然エネルギーブームは終了するでしょう。


トランプはアメリカの自動車メーカー優遇も主張しているので、米メーカーが苦手としているEVやハイブリッド優遇も見直すかも知れません。

カリフォルニアやハワイなどの州ではオバマの環境政策にのって自然エネルギー発電や無公害自動車を進め、EV社のテスラが躍進しました。

だがEVブームもオバマと共に転機を迎え、優遇政策や補助金が打ち切られる可能性が高まった。
http://www.thutmosev.com/archives/68921126.html





3. 中川隆[-5464] koaQ7Jey 2018年3月17日 08:40:15: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

▲△▽▼

2017年07月06日
欧州の自然エネルギー、全部うそだった?

欧州が言っている発電コストは、補助金をたっぷり受け取り、設備や送電費用は除外した数字
引用:http://www.newsweekjapan.jp/stories/assets_c/2017/07/reuters20170701120426-thumb-720xauto.jpg


自然エネルギーのミステリー

自然エネルギーのコストが大幅に下がったというニュースを頻繁に目にするが、内容を調べるとどれも信憑性が無く、確認できない話ばかりだった。

自然エネルギーのコストは非常に分かりにくく、従来エネルギーより大幅に安いとも高いとも言われている。

アメリカは1kw当たり太陽光11円、風力3.8円、原発8円から10円とされていたが、もっと安いという数字もあります。

アメリカでは太陽光が1キロワット当たり6.5円、風力が1.6円という数字もあり、原発はやはり8から10円になっている。

          

日本は石炭9.5円、天然ガス10円、太陽光32円、風力22円、原発10円とされていて(2015年頃)アメリカよりかなり高い。

欧州は洋上風力10円程度、陸上風力が7円程度、太陽光発電は10円程度と見られるが、日米のようにコストの明示をしていなかった。

欧州のこれらのコストも業者の「入札価格」に過ぎないので、実は発送電にかかったコストではない。


日本に比べて欧米の自然エネルギー発電コストは4分の1程度であり、日本は遅れているのは常識として言われている。

だがこれらの数字とは矛盾するニュースが当の欧州委員会から出され、今後大半の自然エネルギーが赤字になるという。

自然エネルギーへの補助金は段階的に廃止されるのが決まっているが、ニューズウィーク紙によると欧州の風力発電は発電収入の半分を補助金で得ている。


つまり風力発電コストが7円/1KWだとしても実際には14円かかっていて、政府が7円を補填している事になる。

太陽光もこの方式で、ドイツの太陽光は安いといっても半分は政府補助金を出している。

一方日本は固定買取制度で大手電力会社に買い取らせ、最終的に大手電力利用者に全額支払わせています。


「コスト」とは何か

日本と欧米では「コスト」そのものの定義が違い、日本の数分の1の発電コストと言っても、それは補助金で補填した後の数字です。

さらに自然エネルギーのコストには不自然な点があり、日本では発電した後の設備費用や送電費用を、全て大手電力に負担させています。

太陽光は発電したらそれで終わりだが、その送電費用は原発や火力発電に上乗せされています。


欧米も同じで太陽光や風力は発電したらそれで終わり、原子力や火力が自然エネルギーの送電費用を負担させられています。

「そのくらい良いじゃないか」と思うでしょうが、日本中のすべての送電設備を再建築するとGDPと同額くらいかかるとされています。

「そのくらい」では済まない話であり、太陽光や風力にも設備負担を上乗せしたら、コストは数倍違ってくるでしょう。


仮にドイツのすべての発電を太陽光と風力だけにしたら、もう送電費用を従来発電に転嫁できないので、本当の「コスト」が現われてきます。

アメリカの場合は風力発電コストが1.6円になったと言っていますが、これも業者の販売価格であって「コスト」ではない。

補助金をたっぷり支給して土地は無償提供、業者が負担するのは風車そのものの建設費だけの費用が「1.6円/kw」なのでした。


アメリカのメガソーラーは一つの都市ほどの巨大さですが、費用の大半を自治体や政府、従来発電が負担しています。

太陽光発電の事業者が負担しているのは、パネル代と設置費用だけだと言われています。

自然エネルギーの「本当のコスト」は原子力潜水艦の性能並みに秘密にされていて、まるで国家機密のように守られています。

少なくとも日本と欧米の「コスト」は、自分で言ってるほどは違わない筈です。
http://www.thutmosev.com/archives/71652182.html




4. 中川隆[-5463] koaQ7Jey 2018年3月17日 08:42:05: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

▲△▽▼

太陽光発電でありますが、以前にも書いたのですが、あれに使われている化学物質の処理には多額の費用がかかるのです。
耐用年数は約30年とのことですから、後25年ぐらいすると、とんでもない量の太陽光パネルのゴミが生み出されるのです。

それまでの間に処理技術は進むとは思うのですが、果たしてその費用は誰が払うのか・・・。

それと、メガソーラーの近くに行くと分かるのですが、周囲が反射熱でとんでもない事になっているのですよね・・・。

直射を受けている家なんて住みようがない位に加熱されて居たりしますし、本当にこれは温暖化を防止しているのか?と。
http://ssoubakan.com/blog-entry-2586.html




5. 中川隆[-5463] koaQ7Jey 2018年3月17日 08:51:11: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

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ドイツの「エネルギー転換」が大失敗だったと明らかに
実は環境のためにもなっていなかった
川口 マーン 惠美

国民負担は永遠に減らない

7月23日付の産経ニュースに、「再エネ買い取り総額累計94兆円、2050年度に 電気料金に上乗せ、国民負担増も懸念」という記事が載った。

http://www.sankei.com/economy/news/170723/ecn1707230008-n1.html

電力中央研究所が発表した「固定価格買い取り制度(FIT)による買い取り総額・賦課金総額の見通し(2017年版)」をまとめたものだ。

http://criepi.denken.or.jp/jp/serc/source/pdf/Y16507.pdf

再エネを生産している人、および企業は、発電した再エネ電気を買い取ってもらえるが、その買い取り金額が激増している。現在、再エネの発電施設はどんどん増えているので、2030年度には、1年分の買い取り額だけで4.7兆円になるという。

これは、2016年の買い取り総額2.3兆円の2倍で、政府が想定する3兆7000億〜4兆円よりもずっと大きい。そして、すべての再エネの買い取り期間が終わる2050年までの総額では、記事の見出しのように94兆円に達する予定。この買い取り資金は、「再生可能エネルギー発電促進賦課金」という名で、電気代に乗せられている。

国民の実質負担分であるこの賦課金の額は、毎月の電気代の伝票に記載されている。電気を多く使用する家庭では、今でも結構な額となっているはずだ。ましてや産業界、とくに中小企業にとっては、賦課金の増加は電気代の高騰に他ならず、すでに経営を脅かすほどの大きな問題となっている。しかも、今後も減る見込みはない。


ドイツの電気代はフランスの2倍

ひるがえってドイツ。日本がお手本にしたこの再エネ大国でも、同じような議論が巻き起こっている。

ドイツにおいて、脱原発、省エネ、再エネ促進の3本柱からなる「エネルギー転換」が叫ばれてからすでに久しいが、2017年6月26日、それがどういう状況になっているかという詳しい記事が、大手「フランクフルター・アルゲマイネ」紙に載った。

http://plus.faz.net/wirtschaft/2017-06-26/deutschlands-teurer-energie-irrweg/362666.html

筆者は、デュッセルドルフ大学の教授、ユスティス・ハウカップ氏。2018年から2012年まで、ドイツ独占委員会(寡占を防ぎ、市場の自由競争を守るための諮問機関)の委員長であった人だ。

記事のタイトルは、「ドイツの高価なエネルギー迷路」。リードには、「何十億ユーロもの助成金を得たドイツの“グリーン”電気は、環境保護にとっては実質効果ゼロで、電気代を危険なまでに高騰させる」とある。

内容はこれでおおよその想像がつくだろうが、まず驚くべきは、このような記事が、一流紙に堂々と掲載されたという事実だ。これまでドイツでは、「エネルギー転換」への批判は、一般の人の目には触れにくいところでしか展開されなかった。

同記事によれば、ドイツでエネルギー転換にかかった費用の累計は、2015年までで、すでに1500億ユーロ(19.3兆円強)に達しているという。2025年までの累計の推定額は5200億ユーロ(約67兆円)。

これらの費用には、買い取り費用だけではなく、北部の風力電気を南部に送るための高圧送電線の建設費用、風や雲の具合で常に変化する再エネ電気の発電量を実際の需要に合わせるための調整費用、天候が悪くて再エネが発電されないときのバックアップ電源(主に火力)を維持するための費用、洋上発電用の海底ケーブル敷設の遅延に対する賠償金、再エネ、省エネ促進のための投資に対する補助金など、エネルギー転換政策によって発生する費用のほとんどすべてが含まれている。そして、ハウカップ氏は今、その額の多さに警鐘を慣らしているわけだ。

エネルギー転換による国民一人当たりの負担は、2016年から25年では、月37.5ユーロ(4800円余)になるという。ここには、賦課金といった目に見える負担だけでなく、企業が電気代の高騰分を商品価格に上乗せした分なども加算されている。


再エネ業界では“produce-and-forget”と呼ばれる行為が横行しており、太陽が照り、風が強い日には、往々にして電気が余り、電気の市場価格が破壊される(ときにマイナス値になることもある)。電気の価格が下がれば下がるほど、買い取り値との差が広がり、賦課金が上がる。

ちなみにドイツの電気代の中で、純粋な発電コストと電力会社の利益分の合計は18.3%のみで、すでに24.4%を賦課金分が占めている。賦課金の額は2009年から17年までで4倍になった。電気代はすでにEU平均の50%増、フランスの2倍だ。

2003年、緑の党は、「国民にとってエネルギー転換の負担は1ヵ月でアイス一個分」といったが、それは大外れだったわけだ。ただ、私にとってショックなことに、前述の電力中央研究所の試算が正しいとすれば、将来の負担は日本のほうがさらに高額になる。

遅すぎた制度改革

そもそも、採算度外視で作った商品(再エネ電気)が固定価格で例外なく買い取られるというのは計画経済の仕組みだ。そのおかげで、再エネ関連企業は、現在、大繁盛している。発電事業者だけではなく、パネル販売者から施工者、融資をする銀行まで、ドイツの再エネはすでに巨大なビジネス畑だ。

とはいえ、そのような特権的な商品が自由市場で売られているのだから、あちこちに歪みが出る。そして、その歪がなかなか是正されないのは、強力な再エネロビーが形成されているからだと言われている。

なお、ドイツが日本と違うところは、ほぼ2000社の大企業だけは、国際競争力の保持のためという名目で、賦課金の負担を免除、あるいは軽減されていることだ。だから、これら2000の企業は値崩れた電気代の恩恵を被っており、調子がいい。

しかし、賦課金免除の利益に与れない中小企業は不公平感を強めている。国外脱出も始まっていると言われる。いずれにしても、今年の1月、連邦会計検査院も、ドイツ政府のエネルギー政策の不備を厳しく指摘した。

また、ドイツ国民にとってショックなのは、ハウカップ氏が、エネルギー転換が環境改善や温暖化防止に一切役立っていないと断言したことだ。これまでドイツ国民は、環境のためと思って高い電気代を我慢していたところがある。

ところが同記事によれば、ドイツでもEUでもCO2は減っていないどころか、2016年の排出量は09年より増えたのである。増加の原因は往々にして火力発電に押し付けられているが、ハウカップ氏によれば、それも間違いだ。再エネ電気の供給が安定しない限り、火力発電は止めることができない。

そんなわけで、ドイツでは今、少しずつ制度の改革が進んでいる。大規模発電を行っているメガソーラーやウィンドパークの事業者は、作った電気を自分たちで売る努力が必要になった。また、発電量の上限も決められた。

ただ、改革が遅すぎたため、すでに20年契約を結んでしまっている膨大な買い取り分が終了しない限り、電気代への鎮静効果はなかなか現れない。

再エネ産業は、一部の人にとっては夢のような投資・投機対象だが、INSM(新社会市場経済イニシアティブ)の代表、ペレンガー氏は、「エネルギー転換はこれまでも制御できなかったし、今も制御できていない。犠牲になるのは国民だ」と言っている。


〔PHOTO〕gettyimages

改善の方法としては、特定の電源に対する巨大な援助をやめ、市場経済の下、なるべく公平な自由競争を導入することが挙げられている。つまり、再エネ推進は、無制限な買い取りによってではなく、電気販売会社に一定の再エネミックスを義務付けるなどして、再エネ業界の中で健全な価格競争が生じるようにする。そうすれば、おのずと再エネの技術革新にも力が入り、再エネの自立が進むだろうとのこと。


ドイツを手本として再エネ推進に突入した日本だが、問題は山積みだ。ドイツが抜け出そうとしている迷路で、日本が彷徨い続けるのは無意味ではないか。

それよりも、一歩先を行くドイツの改革を参考に、日本も適正な再エネ発電量を見極め、一刻も早く制度改革を実施したほうがよい。それが、国民にとっても、国家経済にとっても、エネルギー安全保障にとっても、何よりも大切だと思う。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52422




6. 中川隆[-5437] koaQ7Jey 2018年3月17日 17:15:15: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

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2018年03月17日
ドイツの1人当たりCO2排出量は、日本より少し少ない
だが日本は原発を停止しているので、再稼動すると同じ程度になる
引用:http://www.jccca.org/chart/img/chart03_02_img01.jpg


クリーン電力の行き詰まり

ドイツの最大の成功と喧伝されたクリーン電力が、実際には大失敗に終わろうとしている。

ドイツのCO2削減目標は30年までに55%削減するのだが、達成不可能になっている。

2020年のCO2排出量は40%削減するはずだったが、30%すら達成できないのが確実になっている。


しかも電気料金は太陽光や風力買い取りのせいで2倍以上になり、企業向け電力は先進国で最高価格になった。

それでいて停電が頻発し、電力が足りないのでフランスの原発から電気を輸入している。

条件が良い日には消費電力の大半を自然エネルギーで賄えるが、発電した電力の大半は捨てている。


というのは太陽や風力発電所が多い北部と、工場が多い南部の送電網は繋がっていないからで、接続するには数十兆円以上が必要になる。

電力が足りないので現在もドイツの発電量の4割は石炭、1割を原子力で発電している。

今後太陽や風力を増やすとしても、風が吹かず曇りの日もあるので、火力などの発電能力は維持しなくてはならない。
http://www.thutmosev.com/archives/75350810.html




7. 中川隆[-9645] koaQ7Jey 2018年4月14日 12:13:27: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10294]

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2018年04月14日
太陽光発電・住宅用の買取期間終了、事業用も倒産が増加

下がり続ける買取価格と契約期間終了でブームは収束へ
引用:http://taiyoukou-navi.info/img/2016-04-05_101853.png


家庭用電力買い取りが終了

2009年に電力買い取り制度がはじまって10年が経とうとしており、曲がり角に差し掛かっている。

固定価格買い取り制度(FIT)は住宅用太陽光パネルが発電し、電力会社が10年間買い取る制度でした。

最初の年に設置した分が2020年3月に買い取り終了となり、以降毎年買い取り終了します。

10年経過後の住宅用用電力は無償で電力会社に供給され、設置者にお金をもたらさなくなります。

2020年には約50万件が期限切れになり、今後住宅用用太陽光発電は減っていくと予想されます。

買い取り価格も2011年は1kwhあたり48円だったが、2018年度は28円で今後20円まで下がる可能性があります。


最初から分かっていた事とはいえ、売電できなくなったソーラーパネルは維持費がかかるだけで、マイナスの整備になります。

太陽光で発電した電気を蓄電器にためて家庭で使用する方法もあるが、普通に電力会社から電気を買ったほうが良い。

買い取っている大手電力にとっては、買取のために送電設備を整備し管理コストを掛け、電気料金との差額まで負担しています。


買い取るほど損をしているので、国による強制買い取り期間が終了したら、それ以降も買取を続ける事はないでしょう。


事業用太陽光発電は家庭用が10年なのに対して20年ですが、代わりに買い取り価格が家庭用よりも低い。

2018年度の再エネ買取総額は3.1兆円で、再エネ賦課金単価は1kWh当たり2.90円と発表されました。

電気料金の1割以上は太陽光などの買い取り費用で、このままでは数年後に2割を超えるでしょう。


事業用やメガソーラーも曲がり角

原因は高すぎる事業用電力買い取り価格で、2018年度は産業用18円/kwhと発表されました。

だが2012年度は買い取り価格40円/kwhであり、価格は20年後の2032年まで固定されています。

太陽光ブームを仕掛けてメガソーラーを建設し、最高価格の契約を勝ち取ったソフトバンクなどが、巨額の利益を挙げています。


その後参入した事業者は年々下がっていく買い取り価格のせいで経営が圧迫され、続々と倒産や撤退しています。

2017年度は太陽光発電の事業者倒産が82件の最多で、負債総額も317億2600万円と前年比2倍以上になりました。

新たに建設する発電施設ほど買い取り価格が下がるので、毎年値段が安くなる家電商品に似ている。


国はFIT制度を縮小し、固定買い取り価格をさらに引き下げて、最終的には固定価格での買い取りを廃止する可能性がある。

増え続ける電気料金への負担には批判が多く、火力や原発で発電したほうが遥かに安い。

太陽光発電の割合は2015年に2.7%、2016年に4.3%と増えているが、10%に達する頃には電気料金への負担は現在の2倍に達するでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/75732653.html



8. 中川隆[-12448] koaQ7Jey 2018年5月18日 08:10:43: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14017]

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九電管内、太陽光発電による発電量が受け入れ限界に近づく
https://www.zaikei.co.jp/article/20180509/441347.html
財経新聞 2018年5月9日 10:23
 九州電力管内では太陽光発電システムによる発電量が増加しており、九州電力が受け入れることができる電力量の限界に近づいているという(日経xTECH)。

 九州電力の「九州本土における再生可能エネルギーの導入状況と優先給電ルールについて」によると、九州地区内で電力の供給力が需要を上回った場合、まずは九州電力の火力発電所の出力抑制を行ったり、本来余剰電力の多い夜間に行う揚水発電所での水のくみ上げを昼間にも実施するなどして対応を行い、それでも供給力が需要を上回る場合、太陽光や風力による発電の出力制御を行うというルールになっている。

 九州電力管内における電力網への接続可能量は817万kWだが、今年3月末の太陽光発電による電力量は785万kWで、剰電力への対応は限界が近づいているという。そのため九州電力では、太陽光発電事業者に対し九州電力からの出力制御指令を受け入れられる出力制御機能付きパワーコンディショナー(PCS)の導入を要請、未導入の事業者に対しては切り替えを要請したうえで、それに応じてもらえない場合は契約解除を行う方針を示している(九州電力の発表)。

 なお、出力制御指令を受けたPCSは翌日の9時から16時のあいだ電力網への送電を止めることになるとのこと。
 




9. 中川隆[-12556] koaQ7Jey 2018年5月23日 15:21:24: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14260]

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2018年05月23日
新電力が1年でシェア2倍 契約業者が突然撤退した例も


新電力はわずか1年でシェアを2倍に拡大した
画像引用:ITmedia http://image.itmedia.co.jp/smartjapan/articles/1802/14/rk_180214_gasu01.jpg


新電力が1年でシェア2倍

日本経済新聞などの調査によると、自由化から2年が経った新電力のうち、6割が経営黒字になった。

また新電力の電力全体に占める市場シェアは、1年目の5%から10%に拡大しました。

販売量を2倍に拡大した一方で、撤退する企業が相次いで淘汰も進んでいる。


福島電力、大東エナジーといった中堅新電力が突然撤退して、混乱を起こしたこともあった。

大東エナジーは大手不動産会社の大東建託の関連会社で、知名度から信頼して契約した人が多かった。

低圧新電力の上位10社に入る大手だが2018年1月に、突然撤退を発表し、顧客の引継ぎもほとんど行われなかった。


通常こうした事業撤退では、他社に事業譲渡するなどして、契約を引き継ぐ例が多いが、そうはならなかった。

大東建託は26万人の顧客に突然文書で「1ヶ月以内に他電力に切り替えなければ契約は無効」という通知をした。

例えばある日突然東電や関電から手紙が来て「送電を辞めるので1ヶ月以内に他社に切り替えないと電気が止まります」と書かれていたらどうだろうか。


儲かると考えて新電力に参入したが、儲からないとわかると夜逃げ同然に撤退する業者もいる。

大東エナジーに続いて福島県などで5万人にサービスする福島電力が、同じように突然撤退を決め、顧客に通告した。


発電しない電力会社など不要

約470社が経済産業省に小売電気事業者として登録しているが、勝ち組と負け組みの差がはっきりしてきている。

新電力は大きく分けて自前で発電する発電事業者と、発電施設を持たない事業者に分けられる。

発電施設を持っていないのにどうして参入し、国が認可したのかが良く分からない。


どこかから安い電気を買って顧客に販売するが、「安い電気」などそこら辺にあるものでもない。

太陽光などの自然エネルギーはどれも既存エネルギーよりコスト高だし、どこかで電気が余っているわけでもない。

安易な考えで参入した、自前の発電設備を持たない新電力は、遠からずほとんどが退場することになる。


新電力の勝ち組は東京ガス、エネット(NTTなど )、F-Power、テプコ(東京電力)、JXTGエネルギー(エネオス)などが上位になっている。

やはり自社で発電施設を持っている事業者が強く、大手電力会社の子会社も見受けられる。

自前の発電所を持っていれば、大手電力よりやすく出来るかと言えば、実は発電コストは大手電力より高い。


新電力シェア1位はNTT系のエネット
エネット1

画像引用:https://i1.wp.com/xn--9ckaldc9ld2ee7537fxdbq31wzt8afw2d.net/wp-content/uploads/2016/03/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%881.png?fit=619%2C299


新電力はリスクを負担しない

同じ100万キロワットを、多数の小さな発電所で発電するより、一つの大きな発電所で発電したほうが低コストになる。

ではどうして新電力が安いかというと、ひとつは送電網などの設備を大手電力が提供しているからです。

新電力はわざわざ電柱を立てたり電線を張ったり、変電所を建設しなくても、国の政策で大手電力が貸してくれます。


もう一つは大手電力はバックアップ電源が義務つけれているが、新電力は発電した分を売れば良い。

原発が停止しても停電しなかったのは、大手電力に需要の2倍以上の発電能力があったからで、不測の事態に備えて過大な設備を持っています。

大手電力のコストが高いのは、発電所の半分が突然故障しても、後の半分で余裕を持って発電できるようにしているためです。


では新電力のシェアがもっと増えて3割や5割になったら、バックアップ電源はどうなるのかという問題が生じます。

新電力はギリギリの設備で最大限の発電をしているため、予備の発電所を持っていません。

大手電力でももし、ぎりぎりの発電施設しか持たなくて良く、誰かが送電網を負担してくれるなら、電力価格を半分に下げられる。


新電力は効率が良く、大手電力は非効率という人もいるが、そういう話とは違う。
http://www.thutmosev.com/archives/76252009.html



10. 中川隆[-13002] koaQ7Jey 2018年6月13日 06:38:46: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15274]

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メガソーラー健康被害をなくす会の記録
https://ameblo.jp/11xo22/entrylist.html
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&ei=Sj0gW_DSEMb98QWRprxY&q=%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E5%81%A5%E5%BA%B7%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E3%82%92%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2&oq=%E3%83%A1%E3%82%AC%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E5%81%A5%E5%BA%B7%E8%A2%AB%E5%AE%B3%E3%82%92%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%81%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E8%A8%98%E9%8C%B2&gs_l=psy-ab.3...1799.1799.0.1962.1.1.0.0.0.0.110.110.0j1.1.0....0...1c..64.psy-ab..0.0.0....0.jziLWGznd3Q





11. 中川隆[-13248] koaQ7Jey 2018年6月14日 09:01:32: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-15592]

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中国太陽光バブルついに終焉へ、世界の太陽光発電市場は曲がり角に 
2018年6月14日 山本隆三 (常葉大学経営学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13080

 中国の発電量は、2011年に米国を抜き世界一になり、その後も経済成長に合わせ増加を続けている。2016年の発電量は米国の1.4倍、日本の6倍の6兆kW時を超えている。都市部の大気汚染対策として石炭火力発電を削減する必要もあり、増加する発電量を支えるため中国政府は原子力、水力、風力、太陽光発電設備の増設に力を入れた。


 現在約20基が同時に建設されている原子力発電所は、2020年には日本の設備量を抜き去り、2020年台半ばには米国も抜き世界一の設備量になるとみられている。水力発電所では2250万kWの世界最大の三峡ダムが建設された。風力、太陽光発電設備導入を促すため固定価格買い取り制度(FIT)などの支援策が導入された。この政策支援により風力発電設備は1億8800万kWまで拡大し世界の3分の1以上を占めるようになった。太陽光発電設備も1億3000万kWを超え、世界の太陽光発電設備の3分の1を占め世界最大になった。風力、太陽光発電設備量の合計だけで、日本の全発電設備量を超えるほどの規模だ。

 しかし、増加する風力、太陽光発電設備は問題を引き起こすようになってきた。一つはFITの買い取り負担額の問題であり、もうひとつは、風力、太陽光などの天候次第の不安定な再エネの発電量が増えた国が、必ず直面する送電能力の問題だ。この問題に対処するため、中国政府は太陽光発電設備に関する支援策の見直しを5月31日発表した。結果、中国版太陽光バブルが崩壊することになりそうだ。今年の太陽光発電設備導入量はコンサルタントなどの当初予想から40%程度減少し、3000万kW前後に留まり、来年以降の導入予想量も大きく下方修正されている。

日本での太陽光バブルの発生

 菅直人政権が2012年7月に導入したFITにより、太陽光発電設備の導入量が急増し、太陽光バブルと呼ばれるようになった。バブルが発生した原因は高い収益性にあった。1年の日照時間は地域により異なるものの年による差はない。日照時間が分かれば、太陽光の発電量もその収入も予想できる。導入当初FITによる太陽光発電からの買い取り価格は1kW時当たり事業用40円に定められた。しかも、設備を経済産業省に認定してもらえば、その後いつ建設しても一度認められた買い取り価格が適用される制度だった。

 この制度の下では、土地代が安く、日照時間が長い地域に太陽光発電設備を建設すれば確実に儲けることができる。建設を先送りすれば、太陽光パネルの価格が下落するため収益額はもっと膨らむ。そのため、日照と土地の条件に該当する北海道東部、東北地方太平洋岸、九州南部などで太陽光発電設備建設ラッシュが起こり、認可された案件を小分けにして売り出す業者まで登場した。投資用ワンルーム・マンション販売と同じようなものだが、入居者が不要なのでワンルーム・マンション投資よりも収益は確実な投資だ。

 予想以上の導入量により、FITによる買い取り額は国の予想を超えて膨らみ、電力消費者が負担する賦課金額も電気料金に大きな影響を与えるようになった。家庭用電気料金の10%以上、産業用電気料金の15%以上はFITの負担額になり、2018年度の標準家庭の負担額は年額1万円を超えている(図−1)。


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13080

 経済産業省は制度の運用を厳格化する一方、大規模太陽光発電については入札制度を導入し、さらに買い取り額を引き下げ、導入量と電気料金への影響抑制に努めているが、2000kW未満の太陽光発電事業からの2018年度の買い取り額は18円であり、依然として有利な投資案件の一つになっている。


世界の太陽光発電バブル


 FITの導入により日本での太陽光発電設備の導入量は、それまでの年間100万kWから年間1000万kWまで一挙に膨らんだ。太陽光バブルと呼ばれる事象だが、他の国でも有利な投資を生むFITを中心とする制度により太陽光バブルは発生していた。

 FITを導入したスペインでは2008年に一挙に約300万kWが導入されたが、2013年の制度変更によりそれ以降導入量はほぼゼロになった。イタリアでは2011年導入量が約1000万kWになったが、買い取り価格の減額と新制度、税導入により12年に導入量は3分の1に落ち込み、それ以降は年数十万kWになっている。ドイツでは2010年から導入量が年間700万から800万kWに達したため政府は買い取り額の減額とFITの廃止を行い、導入量は一挙に数分の一に落ち込んだ。

 電気料金上昇に悩み相次いで制度変更を行った欧州諸国を横目に眺めながらFITを2011年に導入したのが中国だった。当初の買い取り価格は太陽光発電1kW時当たり1元から1.15元(17円から20円)に設定されたが、全国同一の買い取り価格が適用されたため日照時間が長く、土地に余裕がある青海省、甘粛省などの西部に設備が集中した。

 北海道東部、九州南部などに設備が集中した日本と同じことが起こったが、土地に余裕があり、土地価格が安いということは、人があまり住んでおらずエネルギー需要は小さく送電線能力も十分にはない地域だ。中国政府は、2013年に全国を3地区に分け、0.9元から1.0元の異なる買い取り価格の適用に制度を変更した。その後も、毎年買い取り価格の減額が続いているが、過当競争による太陽光パネル価格の下落が投資を促したこともあり、中国がドイツ、日本を抜き世界一の太陽光パネル導入国になった。


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13080?page=2

 図−2が示す通り、FIT制度と地方政府の支援を受けた中国の太陽光発電設備導入量は急増する。2017年の導入量は5300万kWに達するが、需要量に合わせて発電できない太陽光発電量の増加は、送電に問題を引き起こすことになった。更に、FITによる買い取り額の負担も問題になってきた。

送ることができない電気と増える負担

 中国の発電設備合計16憶2500万kW(2016年)の内訳は図−3の通りであり、石炭が約60%、水力が20%を占めている。2016年時点での太陽光、風力発電設備量は、それぞれ5%、9%だが、発電量では、665憶kW時、2410憶kW時と1%、4%を占めるに過ぎない。


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/13080?page=2

 しかし、太陽光、風力発電設備が多い新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区などにおいて送電能力が不足し、発電した電気を送れない事態が発生するようになった。2017年には再エネ発電量の内562憶kW時の送電ができなかった。太陽光、風力からの発電量に対し20%近い電気が送電できなかったことになる。送電能力の不足は、今後湖南省など南部に拡大すると見込まれており、送電を行う国家電網は2020年までに89000キロメートルの超高圧送電線の整備を行う予定だ。

 太陽光発電の導入量増は負担増も引き起こしている。2016年FITの買い取り額は、大規模太陽光発電については、1kW時当たり0.8元、0.88元、0.92元、2000kW以下の分散型電源には0.42元だった。2017年には、それぞれ0.65元、0.75元、0.85元、0.42元となり、2018年1月には、さらに減額され、0.55元、0.65元、0.75元、0.37元と引き下げられた。

 それでも、2017年の導入量が5300万kWと業界の予想を上回ったため、同年の中国政府ファンドの買い取り総額は1000億元(1兆7000億円)を超え、中国政府も無視できない金額になってきた。5月31日、国家発展改革委員会、財政部、国家エネルギー局は、連名で太陽光発電に関する通知を行い、太陽光発電設備導入抑制に舵を切った。

太陽光バブル終焉へ


 通知は、2018年大規模太陽光発電設備導入目標量を放棄し、買い取り対象となる大規模設備導入を直ちに禁止するとした。さらに、分散型電源に2018年導入量1000万kWの上限量を設定し、5月31日現在送電網に接続されている設備については上限量に含まれるとした。

 分散型電源の導入量は急増しており、今年の第1四半期の設備導入量965万kWの内768 万kWは分散型だった。既に、5月末の時点では上限値の1000万kWに達しているとみられることから、今後の導入は不可能になる。FITの買い取り額も 1kW時当たり更に0.05元減額され直ちに適用された。

 中央政府は、今後の太陽光発電設備導入については、省、地方政府が支援を行うようにとの意向だが、具体的には何も明らかになっておらず、太陽光発電設備導入量が大きく落ち込むのは間違いない。今年の導入量は昨年の5300万kWから大きく落ち込み3000万kW前後、2020年までの第13次5か年計画の残りの期間については年間2000万から2500万kWとの予測が出されている。

 トリナ、ジンコソーラー、CSIなど中国の太陽光発電設備関連企業53社は、連名で「制度変更が突然で対処が困難であり猶予期間を設けて欲しい」との要望書を政府に提出したが、政府の譲歩はほとんどなく、6月末までに送電網に接続される2017年認可済み案件については、固定価格が認められることになっただけだった。

 世界の太陽光モジュールの70%以上を製造している中国企業には大きなダメージをもたらす政策の変更であり、3000万kW以上の供給過剰と言われる太陽光モジュール価格が一段と値下がりすることになりそうだ。また、「自給率90%でも米国が電源の多様化を図る理由」で触れた通り、太陽光発電関連の雇用の大半は、パネル販売と設置に関する仕事であることから、設備導入量の急減速は多くの失業を生むことになる。

 太陽光パネル価格の下落がさらに進むと予想されることから、太陽光発電設備の導入コストも下がり、発電コストも下がることになる。日本もFITの買い取り価格を適宜見直さなければ、消費者の負担により事業者が過剰な収益を得ることになりかねない。




12. 中川隆[-13467] koaQ7Jey 2018年7月14日 19:45:40: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16576]

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民主党が推進していた太陽光パネル事業はやはり日本を破壊していた │ ダークネス:鈴木傾城
https://bllackz.com/?p=805

日本で豪雨が来るたびに、太陽光パネルを設置した山の斜面が崩落していることに多くの人が気づいている。

今回の西日本の豪雨でも兵庫県姫路市林田町下伊勢の斜面に設置されていた太陽光発電施設が大規模に崩落した。また神戸市須磨区でも山陽新幹線の線路脇で太陽光パネルが崩落している。

実のところ、山の斜面に取り付けられている太陽光パネルは、自然破壊をもたらす元凶であるということは多くの人が指摘しているところであり、今回の太陽光パネルの崩落でもそれが裏付けられた。

それは自然破壊であり、天災を人災にしてしまう元凶でもある。太陽光パネルは「問題」なのだ。この問題は誰が作ったのか。「民主党」である。現在、立憲民主党の主要メンバーになっている政治家どもだ。

民主党の菅直人は首相だった当時、再生可能エネルギー促進法というものを成立させたが、これは実質的に太陽光発電利権を生み出すためのものであったと言われている。

もっと具体的に言うと、これはソーラー利権だった。



13. 中川隆[-13903] koaQ7Jey 2018年7月25日 14:07:47: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17311]

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太陽光パネルは天災を人災にし、最終的には国土を荒廃させるものだ │ ダークネス:鈴木傾城
https://bllackz.com/?p=4608
太陽光パネルはクリーンだとか言われているのだが、山の斜面を削り、そこにパネルを敷き詰めていくのだから、自然を破壊し、景観を破壊するものである。クリーンであるわけがない。自然と調和もしていない。

しかも、森林を伐採したところに敷き詰めるのだから、自然がもともと持っていた保水機能をも喪失させ、雨が降ったら泥を下流に垂れ流して麓や川や海を恒常的に汚し続ける。

そして、豪雨が起きたら保水機能が消えたところに太陽光パネルの重さが重なって土砂崩れが起きやすくなる。

日本は気候が熱帯的になっていてゲリラ豪雨が避けられない国になっているのだが、そんなところに太陽光パネルを設置するというのだから尋常ではない。どうかしている。

実際のところ、毎年のようにゲリラ豪雨が日本に襲いかかり、そのたびに太陽光パネルを設置した山の斜面が土砂崩れを引き起こしている。

太陽光パネルの設置によって起きている土砂崩れに関して言えば、それは天災ではない。太陽光パネルで引き起こされた紛れもない人災である。

そんなものを「クリーン」というのだから、どうかしている。太陽光パネルはクリーンでも何でもない。




14. 中川隆[-13880] koaQ7Jey 2018年8月08日 09:12:23: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17746]

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安倍政権の法改正で太陽光発電バブル崩壊…関連企業で撤退&経営危機続出
http://biz-journal.jp/2018/08/post_24323.html
2018.08.08 文=編集部 Business Journal


太陽光発電バブルの発生と消滅

 2011年の東京電力福島第一原子力発電所事故で日本のエネルギー政策が見直されるなか、当時の民主党政権は、太陽光や風力などの再生可能エネルギーで発電した電力を電力会社が買い取る固定買取価格制度(FIT)を導入した。

 12年に始まったFITは40円(キロワット時)という高い買い取り価格を設定した。株式や債券と比べても高い利回りが期待できることから、申請件数が膨れ上がった。

 まず権利だけ取得して建設は後回し、という事例が続出。ドイツの2倍超と、世界的にも高水準の価格での売電の権利を、最初から転売する目的で申請するケースも多発した。

 再生エネルギーの買い取り費用は、一般家庭や事業者が払う電気代に上乗せされる「再エネ発電促進賦課金」を原資としており、太陽光発電バブルで消費者の負担が急増した。賦課金は、使用電力が月300キロワットの標準的な家庭で12年度は年間約790円だったものが、17年度には年間約9500円に達し、批判が高まった。

 そこで政府は17年4月、FIT法を改正。権利を保有するだけで、実際にはビジネスを手掛けない事業者を排除するため、買い取り価格をキロワット時21円に引き下げた。これにより合計2800万キロワットの発電計画が失効したとされている。これは一般家庭の約1割、560万世帯の消費電力分に相当する。法改正で太陽光発電バブルが弾け、多くの企業が同ビジネスからの撤退を余儀なくされた。

 太陽光パネルメーカーの京セラは、三重県の組み立て工場を17年春に休止。昭和シェル石油の子会社、ソーラーフロンティアは国内の生産を30%減らした。パナソニックも16年2月以降、大阪府内の主力工場の稼働を停止した。

 政権交代で誕生した安倍晋三政権は、民主党政権が立ち上げた再生エネの振興に熱心ではなく、むしろ原子力発電重視との声もある。

 経済産業省は17年11月、新設する大規模太陽光発電所(メガソーラー)から買い取る電気の価格を決める入札を実施した。発電出力2000キロワット以上のメガソーラーを新設する事業者が応札した。

 9案件のうち最安値は1キロワット時当たり17円20銭。落札者は8社で、このうち4社は外資系が占めた。安い部材を調達できる海外勢が国内でも攻勢を強めている。国内事業者の多くは、「17円20銭では採算が合わない」として応札を見送ったとされる。太陽光発電に対する熱気は消し飛んでしまった。



15. 中川隆[-13632] koaQ7Jey 2018年9月16日 12:08:23: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18592] 報告
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2018年09月16日
太陽光買い取り価格10円以下へ 電気料金への転嫁抑制

事業用買取価格は40円で始まったが8円になる


画像引用:株式会社SIソーラーhttps://www.sisolar.co.jp/cms/wp-content/uploads/2018/02/5c28890ca27049afcbc0012c7d166a2a.jpg

買い取り価格10円以下へ

政府は太陽光電力の買い取り価格を現行の半分、当初の4分の1程度まで下げる方針を固めた。

経済産業省は買い取り価格を事業用は2022年、家庭用は2025年に現在の半額程度とする方針を提示する。

事業用は2018年はキロワット時18円だったが2022年に8円程度と半額以下にする。

家庭用は2018年のキロワット時26円から11円程度に下げ、やはり半額以下にする。

太陽光発電の買い取り費用は電気料金に上乗せされていて、2018年度は2.4兆円に達した。

このままだと2030年度に4.7兆円に達するが価格引き下げで3.1兆円になる見通し。


買い取り価格を10円程度に下げてもまだ3兆円の不足金が生じるのは、他の発電コストはもっと低いのを意味している。

原発は計算方法によるが将来の事故コストを考えなければ5円から7円とされている。

天然ガスなど火力も太陽光よりは安く、コスト面で太陽光は日本経済の足を引っ張っている。


太陽光買い取り価格は2009年に家庭用キロワット時48円で始まり2011年に42円、現在26円で2025年に11円になる。

事業用は2012年にキロワット時40円で始まり2018年は18円、2022年に8円になる。

事業用(10KW以上)は少し安いが固定価格買い取り期間が20年(家庭用は10年)と長いので実際には有利でした。


太陽光バブルの終わり

最初に決めた価格で20年間買い取るという管直人政権の政策が今も足を引っ張っている。

不要な電気をキロワット42円や40円で現在も買い取っていて、そのせいで年間2兆円も赤字を出して利用者に請求している。

これ以上電気料金に上乗せできないので、電力買取をやめるか大幅に買い取り価格を下げなくてはならなくなった。


これが現状で、最初の高すぎた買取価格のせいでこれ以上買い取り不可能になりました。

買い取り価格を最初の4分の1以下まで下げることで、新規参入事業者はいなくなると予想されます。

政府が最初想定した太陽光電力参入事業者は既に達成されていて、これ以上参入すれば買い取り費用の価格転嫁も大きくなる。


太陽光発電のシェアは5%程度だがこれが高い買取価格のまま10%になると、電気料金への上乗せも2倍に増える。

また太陽光パネルによる環境破壊は再三指摘されてきたが、環境省は今後規制強化する方針を持っている。

太陽光だから何でも許される時代は終わるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/77525562.html


16. 中川隆[-13521] koaQ7Jey 2018年9月25日 16:49:14: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18814] 報告
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住宅用太陽光発電の誤算、「10年で投資回収」は大ウソだった(週刊ダイヤモンド) 
http://www.asyura2.com/18/hasan128/msg/581.html

2018.9.25 週刊ダイヤモンド編集部

2019年に住宅用太陽光発電を対象にした固定価格買い取り制度(FIT)が期限を迎える。しかし、政府が描くFIT終了後のビジネスモデルは盛り上がりそうにない。(「週刊ダイヤモンド」編集部 堀内 亮)


 太陽光発電は日本の「主力電源」として今後も成長できるのか──。2019年は大きな節目になりそうだ。

 09年の「余剰電力買取制度」施行から10年が経過し、太陽光発電の電力を売電していた世帯の契約が19年11月から満了を迎える。

 これが、太陽光発電の「2019年問題」だ。


 19年末までに53万件(200万キロワット)、23年末に累積165万件(670万キロワット)の住宅用太陽光発電が期限を迎えることになる。

 余剰電力買取制度は、12年に「固定価格買い取り制度(FIT)」が施行された時点で一本化。政府が、太陽光など再生可能エネルギーを普及させる大方針を掲げ、余剰電力買取制度では進まなかった普及を後押ししようとした。

 果たして、FITは太陽光発電を爆発的に普及させるのに一役買った。FITスタートから約6年間の太陽光発電の導入量は、住宅用で519万キロワットに上る。産業用も含めれば、東日本大震災前からの太陽光発電の電源構成(総発電電力量に占める割合)をほぼ0%から約5%に押し上げた。太陽光バブルともいえる状況だった。

 政府は今夏に閣議決定した第5次エネルギー基本計画で、30年度には再エネを主力電源に成長させるとぶち上げた。現状の電源構成で再エネは15%、これを30年度には22〜24%まで引き上げる。そのドライバーは、太陽光発電だ。

 しかし、再エネを急拡大させるためのFITへの血税投入は増え続けている。特に太陽光発電の急激な増加で、18年度の買い取り総額3.1兆円のうち国民負担は2.4兆円にも及ぶ見込みだ。

 太陽光パネルの原価が下がったのに伴い、政府はFITの買い取り価格を引き下げた。当然のことながら、高い買い取り価格が保証されなければ普及は進まない。1年ごとの住宅用太陽光発電の導入量は落ち込み、太陽光バブルは終焉を迎えた(下図参照)。


 そのタイミングで迫っているのが、「2019年問題」なのだ。

 FITが終了した住宅用太陽光発電が取れる選択肢は、売電か自家消費の二つしかない。

 自家消費とは、電気を自給自足することとほぼ同義といえる。昼間に発電して余った電気を自宅に設置する蓄電池や電気自動車(EV)にためておき、夜間に消費する仕組みだ。

 自家消費することのメリットは、簡単に言うと、売るより使った方が得だということにある。東京電力エナジーパートナーの一般的な電気料金の単価は26円/キロワット時くらいで、現在の太陽光発電の単価は11円/キロワット時。つまり、電力会社から買う電気よりも自宅で発電した電気の方が安いのだ。

 政府はFIT終了を「自家消費型のライフスタイルへの転換を図る契機」と位置付ける。ただし現在の蓄電池の相場は80万円から160万円。EVは補助金込みで350万円程度と、いずれも一般家庭には大きな負担だ。

 政府は、自家消費のメリットをアピールすることで、蓄電池の需要を喚起し、メーカーの技術革新によるコストダウンを誘導しようとしているのだ。

 では、引き続き売電する選択肢はどうか。残念ながら、利用者が得する効果は期待できない。

「買い取ってもいいけど、せいぜい2〜3円/キロワット時でしょう。ただで引き取ってもいいくらい」。ある大手電力会社の関係者は、本音をこう打ち明ける。

 電気はためられないという性質上、需要と供給を一致させなければ、送配電網に負荷がかかり停電を引き起こす。太陽光発電は天候によって発電量が左右されるため、需要と供給のバランスを保つのが非常に難しい。大手電力会社にとって太陽光発電は“厄介者”だ。

 そんな厄介者をFITによる破格の値段で買い取れたのは、電力会社がコストに一定程度の利潤を上乗せして電気料金を設定できる「総括原価方式」があったからだ。

 しかし、今は電力小売り自由化の戦国時代。総括原価方式は終わり、大手電力会社は他社との顧客獲得競争に勝つため、コストダウンに余念がない。

 そもそも自前の発電所でつくる電気で需要を賄える大手電力会社にとって、燃料費ゼロの太陽光発電をあえて値段を付けて買い取るメリットは、そう多くない。

 一方、自前の発電施設を持たない一部の新電力は、チャンスとみてFIT終了後の太陽光発電を買い取る意向を表明している。それでも、実際に買い取り価格を示したのは、スマートテックの8円/キロワット時(通常価格)ぐらい。住宅用太陽光発電が従来通り、高く買ってもらえる保証はない。

 それでは政府の狙い通り、FIT後の住宅用太陽光発電は、蓄電池を導入した自家消費に移行するのだろうか。

 しかし、事はそう簡単にはいきそうにない。FITが終了した住宅用太陽光発電のほとんどが、初期投資を回収できていないとみられているからだ。

10年で115万円赤字の衝撃

 「丸々もうけを生んでくれる。皆さん、導入の検討価値ありですよ」。11年春、日照時間が全国10位(16年政府統計)の静岡県で、こんなうたい文句が並ぶ文書が出回った。

 成功例として文書の中に登場するAさんは、地元の知人に紹介されて10年4月に太陽光パネルを自宅の屋根に設置した。思い切って補助金対象の上限ギリギリの9.92キロワットの発電容量にした。オール電化に自宅を改修し、掛かった費用は総額約600万円!

 Aさんは、「地球に優しいし、光熱費の節約になる。10年で元は取れるし、その後はもうかると言われた。これならいけると判断した」と振り返る。

 余剰電力の買い取り期限が迫っていることをすっかり忘れていたAさん。それでも、「故障もしていないし発電量も落ちていない。投資は回収できているのでは」と、心配している様子は見られない。

 実際にはどうだったのか。Aさんから提供してもらった太陽光発電を設置した後の電気料金、売電収入などのデータを基に、FIT期間中の10年の費用対効果を、住宅ローンの返済に詳しいファイナンシャルプランナーの横山晴美氏に試算してもらった。


 試算の結果は、Aさんの期待からは程遠く、10年で115万円の赤字となった(上図・上参照)。

 実は、住宅用太陽光発電を導入した多くの人が、FITで投資を回収できると思い込んでいる。FIT期間中に回収できるのは、産業用(買い取り期間20年)だけだ。

 もとより政府の調達価格等算定委員会は、住宅用太陽光発電の買い取り価格についてFIT終了後の自家消費や売電収入も勘案し、20年間での採算性を前提に決めていた。投資の回収期間は10年ではなく、20年なのだ。

 実際に、Aさんの場合はFIT後の買い取り価格が11円/キロワット時だと想定すると、FIT終了から8年後にようやく黒字化する。

 しかし、である。今は電力自由化の真っただ中。大手電力会社や新電力がFIT後に11円/キロワット時ほどの高値で買い取ってくれる可能性は低い。仮に価格を6円/キロワット時と想定した場合、黒字達成化は21年後まで延びてしまう。

 投資回収を早めるこつは、出費となる電気料金を抑えること。節電するしかない。せっかく太陽光発電を導入することで光熱費を抑えているのに、それでは無意味だ。

 ちなみに、FITの買い取り価格が下落してから住宅用太陽光発電を設置した場合の費用対効果はどうなるか。

 今年、新居を構える際に太陽光発電を導入した東京都のBさんにもデータの提供をお願いした。発電実績が1年に満たないため、新築購入時に施工業者がBさんに示したシミュレーションを基に、横山氏が試算した。

 結果は散々で、10年後は202万円の赤字となった(上図・下参照)。さらに絶望的なのはFIT終了後だ。買い取り価格が11円/キロワット時の場合は黒字化が41年後、6円/キロワット時ならば83年後という途方もない結果に。Bさんの場合、もはや投資回収ではなく、住宅ローン返済の一部と考えた方がよさそうだ。

 繰り返しになるが、政府は、太陽光発電などの再エネを主力電源化する方針を変えてはいない。

 政府は、12年にFITの制度設計をした段階で、住宅用太陽光発電の投資回収が長期化することを把握していた。電力自由化の余波で、買い取り価格の下落が太陽光導入の壁になってゆく経過も見てきたはずだ。

FIT後の無策を糊塗する政府


太陽光バブルのときは家電量販店でも住宅用太陽光発電を売り込んでいた。Photo by Toshiaki Usami

 ところが、である。政府は先日の有識者委員会で「住宅用太陽光発電が自立的な電源として発電していく役割を期待する」と発言し、投資回収もままならない現実とおよそ乖離した夢物語を目標として描いている。

 政府がFIT終了後に、住宅用太陽光発電をどう浸透・定着させるのかの“出口戦略”を真剣に考えてこなかったことの表れだろう。

 政府は再エネの主力電源化への道筋をつけるために、住宅用太陽光発電を地産地消の分散型エネルギーとして定着させることを掲げている。

 仮に、FIT終了後の住宅用太陽光発電を自家消費型へ本気でシフトさせたいならば、蓄電池やEVを導入する人向けの補助制度は欠かせないだろう。ただし、それでは政府が言うところの“自立した電源”とは言えなくなる矛盾を抱えてしまうことになる。

 つまるところ、太陽光発電の主力電源化を本気で推し進めるのか。住宅用太陽光発電でその役割を担うのか。仮にそうならば、住宅用導入を推進する新スキームを構築すべきではないのか──。日本のエネルギー戦略の根幹に関わる修正が必要なときにきている。




17. 中川隆[-13443] koaQ7Jey 2018年10月04日 09:34:29: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19003] 報告
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太陽光買い取り見直し検討 未稼働は認定取り消しや減額
10/4(木) 5:10配信 朝日新聞デジタル

太陽光の買い取り価格と稼働状況
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181004-00000009-asahi-bus_all.view-000

 経済産業省は、再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度(FIT)の見直しに着手する。導入当初に認定を受けた太陽光発電施設のうち、いまだに発電を始めていない施設などについて、認定の取り消しや買い取り価格の減額を含め検討する。当時の買い取り価格が割高に設定され、これらの施設がすべて発電を始めれば産業界や家庭への負担が膨らむためだが、事業者からは反発も予想される。

 導入当初の2012〜14年度、事業用太陽光(発電能力10キロワット以上)の買い取り価格は、1キロワット時あたり40〜32円と、現在の買い取り価格(18円)を大きく上回る。この3年間に認定された施設のうち6割弱はすでに発電しているが、残る4割強、2352万キロワット(17年度末時点)分はまだ稼働していない。

 電力会社の送電線増強工事や地域での合意形成が遅れているケースもあるが、太陽光パネルなどの導入費が安くなるのを待つ事業者も少なくないとみられる。

 経産省の公表データを元に朝日新聞が試算すると、仮にこの未稼働分の太陽光がすべて発電を始めた場合、電力の供給量は年約350億キロワット時(設備利用率17%)増え、電力会社の買い取り額は年約1兆2千億円強膨らむ。いまの市場価格(1キロワット時あたり約10円)分を差し引くと、電気料金に上乗せされる国民負担は年約9千億円増え、標準家庭(1カ月に260キロワット時の電気を使用)で月額220円程度の負担増となる計算だ。



18. 中川隆[-13434] koaQ7Jey 2018年10月05日 07:35:18: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19015] 報告
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2018.10.02
日本の電力料金というのは、世界的に非常に高いです。

日本の電気料金は先進国と比較した場合、日本はかなり割高であることがわかります。2013年度の先進5カ国の比較データを見ると、家庭用電力の場合、日本は24〜25円、ドイツは38〜39円、イギリスは22円、フランスは19円、アメリカは12円程度です。日本はドイツに次いで二番目の高さです。

ドイツは、日本よりもかなり高いように見えますが、ドイツの場合、国の政策として、再生可能エネルギーの開発費を捻出するため、その分の税金を電気料金に上乗せしているのです。その上乗せ分が、電気料金の約半分を占めるのです。そのため、電力会社が受け取る純然たる「電気料金」を比較した場合、日本はドイツと同等か、少し高いくらいなのです。

また産業用の電気料金の場合、日本は先進5か国の中では、もっとも高いのです。産業用の電気料金は、電力全体の約半分を占めるので、日本の電気料金は先進5か国の中でもっとも高いということになります。

そして、ドイツに限らず、フランス、イギリスなども、再生可能エネルギー政策などのための税金が含まれており、原価だけを見れば、日本の電気料金は、先進国の中でずば抜けて高いのです。


電気料金の国際比較(2013年度)1KWあたり

日本   家庭用24円  産業用20円
アメリカ 家庭用12円  産業用6円
イギリス 家庭用22円  産業用15円
フランス 家庭用19円  産業用13円
ドイツ  家庭用38円  産業用18円

(一般財団法人・電力中央研究所資料より)
https://www.mag2.com/p/news/372140/2


19. 中川隆[-13390] koaQ7Jey 2018年10月09日 13:27:02: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19096] 報告
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少し前に日本では太陽光発電ブームがあり、太陽で発電すれば何でも環境に良いという「太陽光原理主義」が跋扈していた。
森林の木を伐採して森を禿山にして「環境にいい」「エコロジーだ」と主張する薄気味悪い連中が大儲けをしていた。


また2017年あたりからEVブームがあり、電気で自動車を動かせば何でも環境に良い、エコロジーだと言い出した。

EVは発電所で発電した電気で充電するので、何で発電しているかで大きく変わります。

あまり知られていないがドイツで最も発電量が多いのは石炭、木材発電(バイオマス)も多く全然エコロジーではない。


環境主義者が環境を悪化させる

中国は2040年代にすべてEVにすると宣言したが、中国でも石炭発電が最大なので、EVが増えるほどCO2が増えて地球環境を悪化させる。

石炭に替わるほどの発電量が得られるのは原子力だけだが、原発を大量に建設するのがエコロジーなんだろうか?

環境主義者の話では原発も環境汚染だと言い、太陽光や風力ですべて発電するとしているが、そんな話はあり得ない。


現実には不可能な事を言ってその場限りの短期的な金儲けをしている「環境主義者」が残念ながら多い。

こうなってしまうのが彼らが理念を優先させて現実の課題を軽視するからで、できないものはできない。

今後20年程度で火力も原子力も使用せず、すべての発電を太陽光と風力で賄うのは絶対に不可能です。


ドイツは以前2050年までに100%自然エネルギーにするとしていたが、80%になり60%に目標を下げた。

それも「エネルギー消費を2008年の半分に減らす」のが前提であり、2008年時点の3割を自然エネルギーにするという意味になる。

日本は2030年に自然エネルギー比率を24%にすると発表し、ドイツの半分以下だと批判されていた。


本質を避けてかっこいい環境運動をする人たち

良く読むとドイツは2050年、日本は2030年で20年の時間差があり、しかも日本は消費電力同じ、ドイツは半減と計算している。

どうしてドイツは消費電力が半分になり、しかも2050年という遠い未来の目標になっているのだろうか?

その理由はおそらく実現不可能だから、遠い将来の事にして話をごまかしている。
http://www.thutmosev.com/archives/77775072.html


20. 中川隆[-13331] koaQ7Jey 2018年10月16日 06:44:59: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19204] 報告
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太陽光買い取り「異例」の見直し 未稼働は大幅減額へ
10/15(月) 23:28配信 朝日新聞デジタル


太陽光の買い取り価格と稼働状況
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181015-00000087-asahi-bus_all.view-000


 経済産業省は、再生可能エネルギーの固定価格買い取り制度(FIT)で、導入当初に認定を受けた太陽光発電施設のうち、発電を始めていない施設の買い取り価格を大幅に減額する方針を決めた。同省の審議会で15日、了承された。事業者の利益が過剰に膨らむのを防ぎ、国民負担を抑える狙いだが、再生エネ事業の根幹にかかわる「異例」の見直しとなった。

 FITは再生エネ拡大のため2012年度に導入された。12〜14年度の事業用太陽光(発電能力10キロワット以上)の買い取り価格は当初、1キロワット時あたり40〜32円ととくに高く設定されたが、認定施設の4割強の2352万キロワット(17年度末時点)が稼働していない。

 太陽光パネルの価格や設置費用は急速に下がっており、運転開始を遅らせると事業者の利益が膨らむ。経産省は電気料金に上乗せされる国民負担が増えるうえ、太陽光発電施設の新設を阻害し、制度の趣旨に反するとして見直しを決めた。


21. 中川隆[-13340] koaQ7Jey 2018年10月17日 13:22:30: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19279] 報告
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2018年10月17日
太陽光発電リスク顕在化 九州電力は一時買取拒否


需要を上回る発電をしてしまうと、大停電を起こしてしまう

画像引用:九州電力:太陽光の出力制御実施 大規模停電回避へ - 毎日新聞https://mainichi.jp/articles/20181014/k00/00m/020/122000c

民主党の負の遺産

世界では太陽光発電が拡大しているが日本では政府が抑制策を取り、新規建設を制限しようとしている。

一見世界の流れと逆行しているが、これには管直人民主党時代の負の遺産の処理という面もある。

2011年以降日本は世界で最も高額な太陽光発電買取制度を始め、当初は普及に貢献しました。


だが最初に高額で参入した業者の買取価格は20年間固定で、その後も少しずつしか下がらなかった。

この結果買取金の不足が発生し、全額を電気料金に上乗せしている。

2018年の一般家庭への再生エネルギー負担(賦課金)は年間1万円に達していて、今後も増え続けます。


賦課金の大半は太陽光発電の買い取り資金で、最初に設定した高額買取価格が、結局太陽光発電が普及しない原因になった。

管・民主党政権が太陽光高額買い取りを発表した時マスコミと国民は大喜びして歓迎し「100%再生エネルギーだけにするべきだ」と言っていた。

計算上は当時の買取価格で全エネルギーを発電すると、電気料金は5倍か10倍にもなるが、そうした金の計算を誰もしなかった。


現在の太陽光の苦境は国民自身が招いたことなので、高額負担金を払わされるのも仕方がない。

だがマスコミと国民はまた自分たちは被害者だと言い、電気料金が高いのは政府が悪いと言い出した。

そこで政府は太陽光発電を制限して電気料金を下げようとしているが、するとまた「太陽光を増やせ」と言い出す人がいる。

なんとかに付ける薬は無いという諺を連想せざるをえません。


太陽光に頼るリスクが顕在化

そんな中で2018年9月に北海道で地震があり、北海道全域で1週間に渡って停電が発生しました。

原因は原発停止で一つの火力発電所に発電が集中していたため、需給バランス崩壊で送電できなくなったためでした。

果たして原発が稼働していたら停電しなかったのかは議論があるが、原発が稼働していなかったことで「停電を回避する選択肢が狭まった」のは確かです。


さらに九州電力は10月13日、需給バランス崩壊を防ぐため太陽光買い取りを一時拒否すると発表しました。

北海道では発電できないことで需給バランス崩壊したが、九州では太陽光が発電しすぎたことで崩壊の恐れが出ました。

何しろ相手は太陽なので要らないときに大量に発電するが、必要だからといって多く発電はしません。


電力の一定量は水力や原発など毎日同じ量を発電する「基礎電源」で火力発電で需要の増減に対応します。

暑いからエアコンを付けた、適温で電力消費が少なくなったなどは火力で調節しています。

そこに太陽光の電力が割り込んできて、勝手気ままに発電したりしなかったりしています。


なので増減がある自然エネルギーを一定以上に増やすことはできず、ドイツも100%という目標を60%に切り下げています。

もし100%太陽と風力だけにすると、発電量の調整は不可能になり、人々は発電量に合わせた生活を強いられます。

「今日は曇りで無風なのでエアコン禁止、EVの充電も禁止」のようになってしまうでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/77853505.html


22. 中川隆[-13381] koaQ7Jey 2018年10月23日 07:36:33: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19471] 報告
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2018年10月23日
ドイツの100%エコ発電 送電網コストなどで行き詰まり


ドイツでも膨大なコスト負担や太陽パネルや風車による環境破壊が起きている


画像引用:https://www.power-technology.com/wp-content/uploads/sites/7/2017/09/1l-image-48.jpg

EVや風力は「無公害」ではない

以前から指摘されていたことではあったが、欧米のマスコミもようやくEVや自然エネルギー信仰に疑問を持ち始めた。

例えばEVでありさえすれば無条件に無公害で、ガソリン車より環境に良いと言っていたがそんな事はない。

太陽光や風力発電も無条件に他の発電方式より環境に良いわけではなく、場合によっては環境悪化を招く。

まずEVについては現在の先進国の発電方法では、一般的なHV車や1Lクラスのガソリン車よりCO2排出量が多い。

EVは製造時と廃車時に多くのCO2を出し、発電方法が火力だとガソリン車より走行時のCO2も多く出してしまう。

各国は徐々に自然エネルギーの比率を増やしているが、短期間に劇的に無公害発電になったりはしない。


マサチューセッツ工科大学の研究では、テスラSよりも1.5Lガソリン車(三菱ミラージュ)の方がCO2排出量が少ないという結果が出ている。

差はそれほど大きくないので将来は逆転するかも知れないが、大きなEVより軽自動車のほうが、今後もCO2排出量は少ないでしょう。

EVで長い航続距離を確保するには大きなバッテリーが必要で、車体が重い車ほど有利なのでEVはどんどん大型化している。


小さいEVは100キロ以下しか走行できず、実用性に乏しいものが多いのでガソリン車に替わるのは難しい。


風力や太陽光の環境負荷

次に批判されているのは風力発電で、ハーバード大学の研究者らは大量の風力発電は地球温暖化を招くと警告している。

米国の風力発電は発電量の8%を占め、2050年までに30%以上になると予想されています。

ハーバード大学のチームによると米国の発電を全て風力に転換すると、米国の地表温度が0.24℃上昇する。


風力発電の風車が気候変動を引き起こし、降雨量を減少させたり植物が生育しにくくなり、地球環境に変動を起こすという。

サハラ砂漠のような荒野に設置した場合ですら悪影響が多く、まして森林を切り開いて大量の風車を設置したら悪影響しかない。

研究チームでは風力発電による環境負荷は石炭発電より少しマシだが、太陽光発電の約10倍もあると結論づけている。


最後は太陽光発電で、以前ドイツは国内のエネルギーを100%再生可能エネルギーだけで賄う目標を立てていました。

非現実的だというので目標を60%に下げたが、それも非現実的というのでもっと下げる事になるでしょう。

非現実的な理由その1はコストで、先日日本では北海道で大規模停電があり、本州から送電できないのが問題になっていました。


九州では逆に太陽光発電の電力が余ってしまい、本州に送電できないので一時太陽光発電の買取を中止しました。

本州と北海道や九州と電力をやりとりする設備がないのが原因で、太陽光発電を買い取るにも新たな設備が必要です。


こうした設備はすべて大手電力会社が支払っていて、結局はわれわれ電力購入者が払わされています。


今の時点ではEVより小型ガソリン車のほうがエコロジー


elec-cars-vs-standard-FT
引用:https://lockerroom.johnlocke.org/app/uploads/2017/11/elec-cars-vs-standard-FT.jpg


送電網やバイオマス発電の問題

日本全土で太陽光などを無制限に買い取り、本州や北海道九州と相互供給できるようにするには、日本のGDPと同じ500兆円もかかると言われています。

ドイツも同じで太陽光や風力発電所は北部に多く、工場が多い南部と電力網がつながっていないので、余ったら捨てています。

ドイツの電力のうち自然エネルギーは約33%で最初からあった水力が3%、木材を燃やすバイオマスが7%ほどを占めています。


木材を燃やして発生する以上のCO2を森林が吸収するので排出量ゼロだという理論は、日本では受け入れられていない。

日本には最初から国土の70%の森林が存在しているので、その木を燃料に燃やしてもCO2が減ることはない。

砂漠にでも植林して森林を増やして燃料にするなら、バイオマス発電でCO2は減るでしょう。


残念ながらドイツなどが言っているバイオマス発電は、CO2の規制逃れでしかない。

バイオマス発電がCO2を排出しないという前提に問題があるので、最初から存在した水力も除くと、ドイツの再生可能エネルギー比率は現在約23%と言えます。

日本も水力とバイオマスを除いた再生可能エネルギー比率はたった7.5%(2017年)で今後も穏やかな増加に留まるでしょう。


ドイツでは太陽光や風力発電が多い北部と工業地帯の南部をつなぐ送電網を整備しているが、膨大な費用に批判が高まっている。

コストは国民に転嫁されるので、メルケルの与党も再生可能エネルギーだけに力を入れすぎたと認め、石炭生産を増加させている。

あまり石炭発電を増やせないので結局ドイツはロシアから大量の天然ガスを輸入して、火力発電している。


メルケルが掲げた「原発ゼロ、火力ゼロ、100%自然エネルギー」は破綻しようとしており、修正を余儀なくされるでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/77916693.html


23. 中川隆[-13429] koaQ7Jey 2018年11月05日 17:46:37: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20023] 報告
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メルケルが首相を務めた2005年からの13年間ドイツはずっと好景気を謳歌したが、それがメルケルの功績だったのかは分からない。
度々称賛されているドイツの財政黒字だが、IMFによると「借金のつけかえ」にすぎず、政府の借金は少ないが「政府系債務」全体は日本より多いと指摘されている。
メルケルが強く打ち出した自然エネルギーや原発廃止は、電気料金高騰など弊害が目立ち修正されている。


自然エネルギーは当初エネルギーの100%が目標だったが60%になり、さらに目標を下げるでしょう。

原発廃止に至ってはそのような計画はなく、「新たな原発建設を一定期間行わない」のを日本のマスコミが勝手に「原発廃止」と報道した。
http://www.thutmosev.com/archives/78019587.html



24. 中川隆[-13502] koaQ7Jey 2018年11月08日 11:15:38: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20272] 報告
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悪徳業者の草刈り場 森林を崩しメガソーラー造る本末転倒 永田町の裏を読む
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/241172
2018/11/08 日刊ゲンダイ

 安全でクリーンなエネルギー生活を築くには、まず原発をやめ、次に石炭・石油・天然ガスなどの化石燃料を燃やす火力発電を減らして、その分を太陽光や風力をはじめとした再生可能エネルギーに置き換えていく――とは多くの人が信じる常識だが、事はそう単純ではない。

 先週発売の「週刊SPA!」(11月6日号)の特集「再生可能エネルギーの不都合な真実」では、私が居住する千葉県鴨川市のほとんど手付かずの森林を東京ドーム32個分も伐採し、尾根を削り谷を埋め、平らにして推定50万枚のパネルを敷き詰めるという、とてつもない「メガソーラー」計画が、住民の反対に遭っていることが大きく取り上げられた。

 実は同様のことが静岡県伊東市や長野県茅野市など全国あちこちで起きていて、同誌が言うように再生可能エネが「今や悪徳業者の草刈り場に」なっている。

 再生可能エネの普及を早めようと、1世帯当たり年間1万円の賦課金が電気代に上乗せされているが、その金が森林を破壊して再生不可能にしてしまうニセモノの事業に悪用されているのである。

 太陽光発電そのものは確かに自然に優しいが、本来はエネルギーの自給自足、地産地消に役立つ等身大の技術として生まれてきたものである。それをメガ(大規模)にして、電力買い取り制度が存続している間に荒稼ぎしようというわけだが、砂漠や放置された工業団地用地など使われていない平地を活用するならまだしも、生きている森を崩して造るなど狂気の沙汰ともいえる本末転倒である。そこで環境省もメガソーラーを環境アセスの対象とする法改正に向け動きだした




25. 中川隆[-13591] koaQ7Jey 2018年11月14日 17:16:06: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20665] 報告
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2018年11月14日
メガソーラーが日本中で災害を引き起こす

太陽光事業者は金儲けにしか関心はない


画像引用:https://d2l930y2yx77uc.cloudfront.net/production/uploads/images/7653606/rectangle_large_type_2_40d3662d970acce99758eb6ed66ca696.jpg

金儲けしか関心がない「エコ企業」たち

太陽光発電は3.11後の一過性ブームが過ぎて鎮静化し、メガソーラーをめぐる反対運動が活発化している。

日本各地で草原や森林を切り崩してメガソーラーを建設し「地球に優しい」と言っているが反発は強まっている。

長野県、三重県、静岡県、愛知県、九州各地で建設に反対する声が上がっている。


メガソーラー建設が加速したのは2011年に原発が停止し、太陽光発電が脚光を浴びたからでした。

太陽光発電は無公害だということで政府が後押しし、固定価格買い取り制度をつくりました。

現在はメガソーラーが発電した電気が余ってしまい、新規参入を抑制して買取価格を下げている。


政府が抑制策に転じたのは一つは固定価格買い取りによる電気料金値上がりで、1世帯あたり年間1万円を負担しています。

再生可能エネルギーの割合は5%に過ぎないが、電気料金への転嫁は年間2.4兆円に達しています

政府は事業用買取価格は2022年に8円程度まで下げる予定で、8円に下げるとほとんどのメガソーラーは赤字になります。


ですが既に発電開始した発電所は20年間買い取り価格が固定なので、2011年ごろに契約した物は2031年までキロワット時40円で買取してくれます。

キロワット時8円に下がれば赤字だが、今のうちに契約して発電開始すれば18円で買い取ってもらえます。

これが最近駆け込み乗車のようにメガソーラーが増加している理由で、業者は自然には何の関心もなく金儲けでやっているだけです。


メガソーラーは優しくない現実

太陽光発電はCO2ゼロで発電できるゼロエミッションと宣伝されたが実際にはCO2を発生します。

まずソーラーパネル生産でCO2が発生し建設や輸送でも発生し、完成後も保守点検などの人間活動でCO2が発生します。

加えて日本では「空き地」など存在しないので森林や草地を造成してソーラーパネルを建設しています。


森林伐採によりCO2が吸収されなくなるのでCO2が増加する筈ですが、これらは一切計算されていません。

アメリカでは砂漠が無限にあるので森林を伐採せずに済むが、日本では森を伐採しない限り太陽光も風力も発電できません。

これが太陽光発電のウソであり、CO2だけを見てもどれほど減少するのかは議論があります。


さらに森林伐採は周辺環境を悪化させ、とくに山の上や崖の上にソーラーパネルを設置して、がけ崩れを引き起こす例が増えています。

2018年は台風や大雨が多かったが、各地でメガソーラーが原因の災害が発生しました。

メガソーラーの下側に住居があったら、いつ土砂が崩れてくるか予想できず、今後ソーラー災害が多発するでしょう。
http://www.thutmosev.com/archives/78136624.html


26. 中川隆[-13624] koaQ7Jey 2018年11月16日 09:58:27: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20773] 報告
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World Energy Watch 2018年11月16日
世界中で捨てられる再エネからの電気
山本隆三(常葉大学経営学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14511


 9月に起こった北海道大停電により、電力供給では常に需要と供給が一致しなければ、停電することを多くの人が学んだ。通常の品物と異なり電気は大量に安価に貯めることができないため瞬時に需給をバランスさせることが必要になる。供給量が少なくても、多くなりすぎても停電する。

 10月の九州での再生可能エネルギーの出力制御により、原子力、火力発電所の大半は一度停止すると再立ち上げに時間とコストが掛かるため、再エネからの発電量が増えた時に他の電源の発電量を大きく落とし調整することが簡単ではないことも知られることになった。

 電力需要量が多くない時に再エネからの発電量が増えると供給過剰になるので、出力制御が必要になることは、以上の二つの理由から明らかだが、再エネの発電量が増加している国と地域では、供給量が需要量を超えた時に日本の出力制御と比較できないほどの大量の再エネからの電気を送電線に接続できず制御する、簡単に言えば電気を捨てることがしばしば起こっている。需要がある他地域への送電能力が不足する、あるいは他地域でも需要がないために発生するもったいない現象だが、再エネの導入量が増えれば避けることができず、欧州主要国、中国、米国などで発生している。

ドイツも中国も米国も捨てる再エネからの電気

 日本列島は細長い形状から他地域との連携線に限りがあるが、多くの国と連携線が繋がり9カ国と電気の輸出入を行っているドイツですら、国内需要が落ち込む時に再エネからの発電量が増えると全ての電気を消費、輸出することが叶わず、最優先で系統に接続されるべき再エネを年間数十億kW時捨てている。捨てるのもただではない。再エネからの発電量が天候により事前の予測から変動するため、送電管理者は発電事業者に対する給電指令を作り直す必要に迫られ、追加の費用が発生する。ドイツの消費者が負担するその金額は、いま年間約1000億円だ。

 電力需要急増に悩んだ中国政府は発電設備増強に力を入れ、風力、太陽光発電設備導入に関する有利な政策を導入した。この結果、日照時間が長く、風量が大きく、土地に余裕がある北西部を中心に太陽光、風力発電設備の導入が進んだ。あまりに急激な再エネ設備の導入により、政府の再エネ買取額の負担が増えたこと、さらに電力需要が少ない北西部から需要地の沿岸部への送電能力が不足し、再エネの発電量を捨てることが増えたため、昨年中国政府は送電能力が不足する地区での再エネ設備新設を規制し、さらに、今年5月固定価格買取制度の適用中止を突然発表した(「中国太陽光バブルついに終焉へ、世界の太陽光発電市場は曲がり角に」)。

 この政府の取り組みにより捨てられる再エネ発電量の比率は減少しているものの、相変わらず風力を中心に再エネからの発電量が大量に捨てられる状況が続いている。その量は日本の風力発電量の4倍を超えている。再エネからの発電量の増加に悩んでいるのは欧州、中国ばかりではない。米国カリフォルニア州も再エネから発電された電気を捨てている。日本でも、このまま再エネ導入が進むと大量の電気を捨てることになりもったいないが、解決のためにはコストが高い蓄電池くらいしか、今のところ手はない。再エネ主力化の道は遠い。


再エネからの電力管理に悩むドイツ

 ドイツは、主要国中、最も早く1990年に固定価格買取制度による再エネ支援策を導入した。当初は買取価格が低く設定され再エネ設備導入が進まなかったため、2000年ドイツ政府は買取価格を大きく上昇させた。結果、太陽光、風力発電設備の導入が進んだが、消費者が負担する買取価格、電気料金が大きく上昇することになった。2000年代後半にはドイツ政府は買取価格見直しなどを通し電気料金抑制に乗り出したが、2014年夫婦と子供一人の標準家庭(年間電力消費量3500kW時)の再エネ買取負担額は、年間3万円に達した。

 電気料金抑制のため、ドイツ政府は、2014年小規模電源を除きFITを廃止し市場価格にプレミアを支払うFIP制度を導入した。これにより太陽光発電設備導入量のスピードは減速したが、相対的に競争力がある風力発電設備は、洋上風力を中心に図-1(棒グラフ)の通り増加を続けている。その結果、風力発電量は図-1(折れ線グラフ)の通り増えている。2017年の太陽光の発電量は日本の事業用の約4倍、風力は日本の19倍に達し、それぞれドイツの総発電量の6.1%と16.2%のシェアを占めている。


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14511?page=2

 この結果、送電できない再エネ発電量は増加している。ドイツの風力発電設備の70%は風量が大きい北部に建設されている。一方、電力を多く必要とする自動車産業を中心とした工業地帯は南部にある。2011年の脱原発政策により、ドイツ政府は操業していた原発17基のうち建設時期が早かった8基の閉鎖を決めたが、そのうち5基は南部にあった。電気が不足することになった南部に北部の風力発電設備からの電気を送ることが必要になった。

 原発が操業していた時点では、北部から南部に大量の電力を送る事態は想定されておらず、送電能力は不足している。ドイツ政府は総延長4650キロメートル(km)の送電線建設と3050kmの送電線設備の更新を2025年までに行う計画を立てたが、住民の反対にあったため2015年政府は新設送電線を地下に埋設することを決定した。しかし、それでも未だ合計7700kmのうち950kmしか建設は進んでいない。

 2022年には南部にある今稼働している原発7基が全て廃止される予定だ。その時には、さらに北部の電気を南部に送る必要が生じるが、送電能力の不足により、南部では電力不足が生じる可能性もある。さらに、北部の再エネから発電された電気が隣国に勝手に流れることがあり、周辺国の送電管理を困難にすることもある。ポーランドの送電管理者は2016年に発生したブラウンアウト(電圧低下)は、ドイツから電気が流れ込んできたため引き起こされたとしている。

再エネからの電気を捨てるドイツ

 再エネから発電される電気は天候次第で変動し、そのため余分な費用を発生させる。自由化されているドイツの電力市場では、需要予測に基づき前日に発電事業者が発電量と価格を入札し送電管理者が各事業者の発電量を給電指令として決定する。しかし、再エネからの発電量は、しばしば変動する。再エネからの電気は優先して引き取る必要があり、送電管理者は他の電源の事業者に対し前日決定された発電量とは異なる発電量を指示することが必要になる。

 例えば、北部の風力発電量が増加し、火力などをあわせた全発電量が送電能力を超えてしまうと、送電管理者は再給電指令として火力発電所に発電量を減らすように要請する必要がある。要請された発電事業者は、想定していた利益が得られず補填を受けることになる。さらに、最優先で引き取られる再エネの電気をどこにも送れないことも発生する。この場合には再エネ事業者に出力制御を行うが、再エネ事業者は得られたはずの利益の補填を受ける。補填を含め再給電指令に係る費用は全て消費者が負担することになる。

 2016年引き取りができなかった再エネからの発電量は37億4300万kW時、風力、太陽光発電量の2.3%、捨てられた電気のうち、風力からの電気が95%、太陽光が5%となっている。再エネ事業者に補填として支払われた3億7300万ユーロを含め送電線管理に追加で発生した費用は8億5900万ユーロだった。今後、北部の風力発電設備が増えるためドイツはさらに多くの電気を捨てることになるが、既にドイツ以上に再エネからの電気を捨てているのは中国だ。


大量の風力、太陽光発電量を捨てる中国

 2011年中国の発電量は約5兆kW時、前年比19%増となり、4兆3000億kW時の米国を一挙に抜き去り世界一の発電大国となった。その後経済が減速気味の中国の発電量の伸びは鈍化したものの、2017年発電量は前年比6.6%増、6兆4000億kW時を超えた。日本の6倍を超え、米国の1.6倍にも達する。しかし、1人当たりの発電量では、中国は依然日本の2分の1、米国の3分の1程度であり、今後もさらに大きな電力需要の伸びが予想される。発電能力が不足するとみられる中で、中国政府は、あらゆる発電設備の建設を進めたが、特に風力、太陽光を中心に再生可能エネルギー設備を推進した。

 2017年末の発電設備量は、図‐2の通りであり、風力設備は1億6300万kW、太陽光設備は1億2900万kW、合わせると日本の電気事業者が保有する全発電設備量2億7000万kWを上回っている。発電量は、風力、太陽光それぞれ3034億kW時、1166億kW時(図-3)。ちなみに、2017年度日本の事業用風力の発電量は55億kW時、太陽光は88億kW時だった。


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14511?page=3


 多くの再生可能エネルギー設備は、土地が余っていた西部から北部地域に建設されたが、電力需要があまりない地区であり、再エネにより発電された電力の多くを需要地である沿岸部に送電する必要が生じた。しかし、発電設備建設が想定されていなかった西部地区から沿岸部への送電には能力が不足していたため、再エネからの発電量が増えるに連れ、発電を制御し、捨てる事態が発生した。

 2017年に捨てられた太陽光発電量は73億kW時だった。2018年1月から9月に捨てられた風力発電量は222億kW時、発電量の7.7%だったが、地区別に見ると新疆ウイグル自治区24.6%、甘粛省19.7%、内モンゴル自治区12.8%など北部、西部地区で多く捨てられていることが分かる。電力需要以上の発電設備が導入されたが、送電線の能力が不足するために発生した現象だ。

 中国政府は、北部、西部での新規再エネ設備導入を制限する一方、2020年までに接続できない量を発電量の5%以下にする目標を設け、送電能力の増強に乗り出しているが、需要量、送電量とバランスしない再エネ発電設備を導入したツケを当分払うことになりそうだ。

再エネ主力電源化を目指すのであれば

 米国カリフォルニア州でも、毎月のように再エネからの電気を全て消費できず捨てている(図-4)。欧州、中国、米国に続き九州電力管内で出力制御が行われるようになったが、このまま再エネ設備の導入が増えていけば、中国のように大量の再エネが接続できず捨てられることになる。


http://wedge.ismedia.jp/articles/-/14511?page=4


 再エネの出力制御を行うのではなく、原子力のように安定的な電源を止めて再エネからの電気を引き取れとの主張もあるが、欧州、中国、米国の例から分かるように、そんなことをしている国も地域もない。電気を安定的に、競争力のある価格で供給することが必要だから、再エネからの電気を制御し捨てているのだ。

 不安定な発電になる再エネ導入量が増えれば出力制御は避けられないが、再エネの主力電源化を目指すのであれば、電気を制御、捨てなくてもよいように、秩序ある導入を目指すことが必要だ。中国のように地区により再エネ設備導入を制限する、あるいは導入量と場所を決めた入札制度などを考えることも必要だろう。



27. 中川隆[-13646] koaQ7Jey 2018年11月27日 17:55:24: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21217] 報告
▲△▽▼

営利優先で電力不安定化招く本末転倒 再エネビジネスが引き金となるブラックアウト 2018年11月27日
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/10143

 電気を安定的に供給することは、国民生活と生産活動を維持するために国と電力会社が負っている社会的な責任である。先日、北海道でブラックアウトが起き、全道295万戸が電気のない生活を強いられたが、電気なしの生活を送ることは今の文明社会では困難だ。ところが太陽光発電や風力発電といった、それ自身不安定きわまりない再生可能エネルギーを増やし続けた結果、この電気の安定供給が脅かされている。象徴的な事件が、九州電力が先月におこなった太陽光発電事業者とつながる送電線を切り離す「出力制御」だ。九電はその後も太陽光や風力を切り離す出力制御をくり返しており、それに続いて四国電力が出力制御の準備を進め、最近では中国電力、東北電力、沖縄電力も太陽光や風力の出力制御をする準備を進めると公表した。いったい何が起こっているのか見てみた。

 電力は、常に同時同量(発電量=使用量)、つまり需給バランスを一定に保っておかなければならない。それが崩れると周波数が乱れ、送電線につながる工場の機械や家庭の電化製品が壊れるため、発電所が自動停止して大規模停電(ブラックアウト)になる。そのため電力会社は年間計画、時間計画にもとづいて数分単位でそれを調整している。

 北海道では、地震によって道内の電力需要の半分近くをまかなっていた苫東厚真火力発電所がストップし、需要に対して供給が追いつかずにブラックアウトが起きた。全道295万戸・530万人もの人が2日間、暗闇のなか、家電製品も使えない生活を強いられた。

 それとは逆に供給が増えすぎたのが九電の例だ。政府が2012年にFIT(固定価格買取制度)を開始して以来、土地が安く日照条件のいい九州では太陽光発電に事業者が殺到し、導入量の合計が807万`hになったうえ、10月13、14日には九州の広い地域で晴天となり、太陽光の発電量が急激に増えた。たとえば14日は、発電量が最大となる午前11時〜11時30分に供給力は合計1242万`hに達する一方、需要は758万`hにとどまる見通しになった。そのまま放置すれば需給バランスが崩れてブラックアウトになる危険性が出たため、九電は出力制御に踏み切った【図参照】。

 太陽光は日照時間によって発電量が変動する不安定な電源で、晴天で発電量が増えるが、夜間や雨の日はゼロに近くなり、供給を調整することなどできない。もっと不安定なのが風力で、風速12〜14bという、傘がさしにくく歩きづらいほどの風が吹くとき、はじめて効率よく発電する。風速3b以下のそよ風程度では発電はできないし、風速25b以上の暴風になると故障を避けて自動停止する。

 一方、原子力は常に臨界を維持しなければならず、出力調整などやれば大事故につながりかねない。そこで電力会社は火力発電の出力を増やしたり絞ったりして発電量を調整してきた。しかし、もはや火力によって調整ができないほど太陽光の発電量が増えすぎてしまったのだ。電力会社間で電気を融通する連系線を増強することや、大規模蓄電池をつくることも課題に挙がっているが、いずれもコスト面で現段階では実現困難と見られている。

 再エネの先進地、ヨーロッパではどうか? デンマークは電力の約4割を風力でまかなう「風力大国」だと宣言している。しかし、ヨーロッパは国境をこえて送電線がつながっており、実際には自分のところの不安定な風力の電気は送電線に雲散霧消させて、ドイツやフランスの電気を使っている。

 また、原発を減らし風力や太陽光を爆発的に増やしたドイツでは、雲のかかり具合、風の吹き具合によって電気が頻繁に足りなくなるため、バックアップのための火力がドイツ国内だけでは足りず、オーストリアにも待機させており、そのため年間で莫大な補償金を隣国に支払っている。

安定供給より優先されるビジネス

 ところが、電気の安定供給には役に立たない太陽光発電や風力発電の建設に、全国で参入する企業が後を絶たない。これに対して各地で住民の反対運動が活発になっている。

 長野県では、Looop社(東京)が諏訪市霧ヶ峰下で進める全国最大規模のメガソーラー計画「諏訪市四賀ソーラー事業」に対して、住民が地域ぐるみで反対運動を起こしている。

 計画では霧ヶ峰近くの森林に、面積196・5f、つまり東京ドーム約40個分の土地にソーラーパネル31万枚を敷きつめるというもの。この地域の山林を大規模に伐採するとともに、10dトラック5万台分の土を運び出すという。通常、ソーラーパネルを設置する場合、敷地内の樹木はすべて根こそぎ切り倒し、豊かな腐葉土におおわれている場合はそれをすべてはがして運び出し、やせた土地に強力な除草剤を散布してパネルを設置する。障害物をなくして発電効率を高めるためだ。地元のアセスで事業者はそれを否定しているが、住民は信用していない。


7月の豪雨で60b四方にわたり地盤とともに崩落したソーラーパネル(姫路市)

 住民がもっとも危惧しているのは、森林を大規模に伐採することで保水力が失われ、災害時に土砂崩れや大洪水を引き起こす可能性があることだ。計画地の脇を流れる横河川はこれまで大雨でたびたび氾濫し、地域住民に被害を及ぼしてきた。もう一つは、計画地の下には諏訪市(上流域)や茅野市(下流域)をカバーする水道水の水源があること、また茅野市の生活水や田んぼの水になる大清水湧水が流れていることだ。

 計画地は上桑原牧野農業協同組合、上桑原共有地組合、同山林組合が所有する土地だが、組合員の高齢化で山林の維持管理が困難になるなか、そこにつけ込んでLooop社が土地の買収に動いたという。当初は別の企業が、初期の太陽光1`h時当たり40円(現在は18円)のときに申請し20年間運転する認定を受けており、その権利をLooop社に売った。

 そこで地元の農家らが中心となって茅野市米沢地区Looopソーラー対策協議会を立ち上げ、役員らが8〜10月にかけて100ある区や自治会の役員会に出向いて反対署名を訴えたところ、その7割近くが賛同し、全市的な署名運動になった。集まった4万8900の署名はその後、県知事に提出したという。

 その後、同協議会と諏訪市など六市町村の有志でつくる「太陽光発電問題連絡会」が10月8日に「メガソーラー問題シンポジウム」を呼びかけると、300人定員の会場に入りきれない500人が詰めかけ、うち200人は別会場でモニター画面で参加することになった。

 事務局は、「地元はもちろん、福島県や京都府、岡山県、九州からの参加もあった。メガソーラーが各地で大きな問題になっており、情報交換を求めて来ていた。台風や豪雨災害でソーラーパネルが崩れたという問題だけでなく、太陽光の建設には大規模な森林の伐採がともない、住宅地のそばの裏山が狙われている。災害や飲み水の危険性があり、住民として黙っておれない思いがある。1月には東京で集会をやり、経産省や環境省に申し入れをしようと話し合っている」とのべている。

 一方、風力発電をめぐっては、政府は全国4カ所に促進区域をつくり、一般海域の最大30年の占用を認め、洋上風力発電の建設を推進する法律を、今の国会で成立させようとしている。その促進区域の一つ、秋田県の由利本荘市では、事業者のレノバ(東京)が海岸から1・5〜3`のところに、8000〜9500`hの巨大風車を70〜90基建てる計画を出してきたことに対して、住民が「由利本荘・にかほ市の風力発電を考える会」をつくり運動を広げている。

 すでに陸上には60基以上の風力発電が建っており、住民から頭痛やめまい、睡眠障害などの訴えが出ている。同会はとくに風車に近接している1000人を対象にアンケート調査をおこない、低周波による健康被害の実態を明らかにするとしている。


秋田県由利本荘市で稼働中の海岸風力発電

大企業の為の市場創出


 こうした住民生活を無視した、後は野となれ山となれ式の企業が横行するのも、安倍政府が2030年度の電源構成に占める再エネの比率を22〜24%に上げるといって国策で再エネを推進し、風力や太陽光、バイオマスに参入する企業を増やすためにFITで20年間、高い価格でその電気を電力会社に買い取らせることを保証しているからだ。そのカネは、すべての国民から「再生可能エネルギー促進賦課金」を毎月の電気料金のなかに含めて徴収することで捻出している。

 それはアメリカのオバマ政府がうち出した、グリーン・ニューディールという名の景気刺激策の延長線上にある。アメリカでは「地球温暖化防止」「低炭素社会」を掲げて、原子力とともに再生可能エネルギーによる景気刺激策に舵を切った。「CO2による地球温暖化の危機」を訴えてきた国連IPCC(気候変動に関する政府間パネル)の議長自身、ロックフェラー財団の再生可能・持続可能エネルギーアドバイザーとして、大企業にあぶく銭を稼がせるCO2排出権取引の指南をやっていたことが暴露されている。そして日本では福島原発の大事故後、原発推進の総本山である経済産業省が、一方で原発を再稼働させながら、他方で「エコでクリーン」と宣伝して再エネ・ビジネスを煽ってきた。

 2011年に当時の民主党・菅政府は、再生可能エネルギー促進のために、民有林や国有林、保安林、農地などにかかっている規制を緩和することを提言した。これと同じものを安倍内閣が2013年に「農山漁村再生可能エネルギー法」として閣議決定し、翌年5月から施行している。それは「これまで農地法で農業利用しか認めていなかった第一種農地でも、農地として再生することが難しい荒廃農地と、今後耕作が見込めない耕作放棄地は再エネ事業への転換を認める」「風力発電の風車は設置に必要な面積が比較的小さく、一度建ててしまえば農作業に支障は出ないので、それ以外の農地でも導入できる」「再エネを導入する事業を2018年までに全国100カ所に増やす」としている。その結果、日本中の山野も海もところかまわず風車を建てたりソーラーパネルを敷き詰めたりすることが可能になり、住民との大矛盾となっている。

 こうして「原発にかわるクリーンな再生可能エネルギー」といって風力や太陽光を増やせば増やすほど、再エネ・ビジネスで一握りの大企業がもうかるだけで、住民生活や地域の環境が脅かされるとともに、電気の供給はますます不安定になり、国民は常にブラックアウトの危険と隣り合わせの生活を強いられることになる。それは社会に甚大な損害を与えるもので、各電力会社が出力制御に踏み出さざるをえないまでになっている。社会などどうなってもかまわないという、新自由主義の本末転倒を象徴している。
https://www.chosyu-journal.jp/shakai/10143


http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/352.html#c1

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
81. 中川隆[-13714] koaQ7Jey 2018年11月29日 21:34:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21409]
>>80
在日朝鮮人は天皇崇拝者ばかりだからね。

天皇の悪口言ったら在日ヤクザに体を切り刻まれるから気を付けた方がいい:


暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、


アメリカ合衆国のマフィアにイタリア系や中国系のマイノリティが多いのと同様に、日本における暴力団の巨大化も、特定の社会集団に対する差別が原因の一つだという説がある。

猪野健治は、『やくざと日本人』の中で、昭和中期の関西や北部九州の部落の悲惨な現状を取り上げ、日本社会に「やくざとなるか土方になるか」しか、選択肢の無い若者が多く存在する事がやくざの温床であるという見解を示した。

また自身の取材から得た印象として、もとより体系的な統計があるわけではないが、と断りながらも、現在の暴力団員の半数は部落も在日朝鮮人も出自に持たない「市民社会からのドロップアウト組」だろうと推測している。

デビッド・カプラン(en:David_Kaplan_(author))とアレック・デュブロ(en:Alec Dubro)の共著になる『ヤクザニッポン的犯罪地下帝国と右翼』(第三書館。原書名は『Yakuza:The Explosive Account of Japan's Criminal Underworld』)には、


「日本の最大広域暴力団・山口組の構成員2万5千人のうち約70%の者が部落出身者であり、約10%の者が韓国人等の外国人」


という記述がある。ただし、原書のみ。邦訳版では削除。加藤久雄・慶應義塾大学教授が、自身の論文の中でこのデータを引用した。

会津小鉄会長・高山登久太郎は講演で、

「ウチの組は同和が3割、在日が3割だった」

と発言したことがある。(彼の組は、会長が在日だったため、在日の割合が高かったと見られる。)

宮崎学は、大谷昭宏との共著、『グリコ・森永事件 最重要参考人M』で、

「関西に暴力団が10人おったらそのうち9人はマイノリティ」

と発言している。


元公安調査官・菅沼光弘は、2006年10月19日に行われた東京・外国特派員協会における講演で、山口組のナンバー2である高山清司から聞いた話として、

暴力団の出自の内訳は部落(同和)60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%である

という見解を示した。


山口組顧問弁護士を務めた山之内幸夫は『文藝春秋』昭和59年11月号に寄せた「山口組顧問弁護士の手記」において

「ヤクザには在日朝鮮人や同和地区出身者が多いのも事実である」

「約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない」

と述べた。

ただし、2008年の政府公式統計によれば、その年に刑務所に入った受刑者のうち暴力団加入者の国籍別比率は、

日本国籍3191人で約97.7%、韓国・朝鮮籍63人で約1.9%となっている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B%E5%9B%A3


北九州監禁事件では


大便排泄を1日1回に限定し

全裸のままトイレに座らせることなく、がに股で排便させてそれを観察した

勝手に漏らした場合、大便は口で食わせた

言うことを聞かなければ通電といって性器に電極を取り付け電機拷問を行った

一瞬で皮膚が熱傷で破れ脳まで衝撃が来て記憶を失うほどの拷問であったそうだ


朝鮮民族はこういうことを好むのである

ゆえに、監禁されれば飲尿食糞を余儀なくされ、監禁された日本人は
拷問されながら大小便を食べるという地獄の監禁拷問生活をおくる羽目になります


朝鮮人が残酷なのは当然で大陸の人は日本人とは文化背景が違います

チンギスハーンの拷問好きは有名ですし、中国も拷問文化でした朝鮮人の李氏朝鮮もそうです。よって在日に監禁されると大変なことになります


殴る蹴るの基本的なものから、

タバコの火を押し当てる、

ハンダコテで体中焼く、

尿道にマッチ入れて火をつける、

在日が起こした北九州監禁事件のように電撃を与える

大小便を食べさせる


など拷問の種類には事欠きません


女性であれば、激しく輪姦・撮影されたあげく、

全身にピアスを通され

穴という穴は拡張され、


在日が起こした女子コンクリ事件では

鉄アレイを膣と肛門にいれ蹴飛ばしていた有様です


在日を日本人と同じと思ってはいけません、農耕民族と大陸の殺戮民族では文化が違うのです


かわいい娘がいるとこうなります

全裸首輪で性奴隷家畜便器として完全監禁

少しでも反抗したらタバコの火を押し当てたりしていうことを聞かせます

何回も犯されてガバガバになり腕が入るまで広がりきります

尻の穴もそうなります、

栗には太いピアスがされるでしょう

SMビデオやスカトロビデオ撮影もあるでしょう、

厳しい拷問生活で かわいい娘は大便と小便を喜んで四つん這いのまま食べるようになります

こうして肉便器になり、最後は利用価値がなくなったらスナッフビデオといって
拷問して殺すところを撮影してお金にしますので、それからドラム缶でコンクリ詰めにします


http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c81

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
82. 中川隆[-13716] koaQ7Jey 2018年11月29日 21:45:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21412]
在日は何をやるかわからない:


女子高校生コンクリート殺人事件 概要

1989年、女の子が41日間渡って監禁され、計100人ぐらい(少しでも関った人を含めて)に強姦、朝から晩まで超暴力と超陵辱された。(深く関ったのは5,6人)ヤクザ顔負けのリンチで、天井に血が飛び散っていた。


468 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:29:14 ID:ESwy0TF30

少年達は床に全裸の順子を寝かせ膣にオロナミンCの空瓶2本を突っ込んだ。
そして3キロの鉄アレイを持ち出し順子の腹の上1メートルにかざした。
少年

「ここから鉄アレイ落としたら瓶が割れて膣の中がグチャグチャだぜぇ。ヒヒヒヒヒ」


順子
「いやああああ!やめて!やめて!」


少年
「やめなああいギャハ!」


鉄アレイは順子の腹へ落ちた。2本の瓶は割れなかったが鉄アレイとぶつかる音か甲高く響いた。


少年
「おもしれえ!おもしれえよおおおお!!」

少年
「おれにもやらせて!おれにもやらせて!」


少年達は何度も鉄アレイを落とし膣から鳴る音を聞いて笑い転げた。 やがてこの方法の虐待に飽きた少年達は別の虐待を始める。

そして膣に入れた2本の瓶は忘れ去られたまま順子は絶命しコンクリート漬けにされた。


467 :名無しさん@自治スレにてローカルルール議論中:2008/12/30(火) 13:24:28 ID:ESwy0TF30

AはCとDに対し「道具を万引きして来い」と命令。CとDはホームセンターへ向かい、ペンチや鉄アレイなどを調達。


C「いいものパクってきやしたぜ」

少年達は順子の服を脱がせ、CとDが両足を押さえ、順子の股を開かせた。
Bは電気ドライバーを取り出し、コンセントに差し込む。


B「グヘへへこれを入れてやるぜ」


順子は両足をバタバタさせたが、CとDはガッチリ押さえる。

ウイーンと電気ドライバーが回転する。そして電気ドライバーは膣に入った。
順子は痛がって大暴れするが、Bは無理矢理電気ドライバーを突っ込む。

悲鳴とともに膣が血が飛び散り、順子の膣は破壊されていく。


そこにAはペンチを持ってきて、乳首をひねり潰す。

乳首からも血が飛び散り、乳首も膣も使い物にならなくなっていった。


裁判記録から一部引用


お尻の穴に花火を入れ爆発させ、膣やに直系3センチの鉄の棒を何度も強引に突っこみ、性器や尻の穴を完全に破壊

(途中、膣をタバコの灰皿代わりにされる。

重い鉄アレイを身体(裸体)を数十回にわたって殴られ、まぶたに熱いろうそくをたらされ、


●陰毛を剃り、女性器に異物を挿入 

●ライターのオイルで皮膚を焼いた 

●肛門に瓶を挿入し思いきり蹴った)

 

手足を縛り、

膣にマッチ棒(ライター)を入れられ、点火し、燃やされ、
膣の中や裸体をライターで火あぶり、苦しさのあまり何度も気絶する。

その恐怖や苦しみや痛みは想像を絶する!

(この時ストレスと恐怖のあまり髪が全部抜け落ちていく)

しかし、犯人どもは哀れみの情など一切見せず、引き続き、陵辱、暴行を行う

大勢の男にかなり大量の精液を飲まされ(フェラチオで)、

500ccの尿を飲まされた。

ゴキブリも食わされたそうである。

また女の子の悲鳴や激しいリンチの音は監禁されている部屋の中で音楽をボリュームいっぱいで流しているため、外に届かない。

恐ろしい事に、監禁されていることを知ってた人は計100以上いるが、誰も通報しない。

(死体が発見されるまで)そして最後はひどく殴られ失禁して)死んだ。

(殺された)死体の顔は目の位置がわからないほど、変形し、親でも誰かわからず、原型をとどめてないほどで、性器のほうは顔よりもっとひどく完全に破壊されていた。

死体には髪がなくなっていた。

死体の陰部にはオロナミンC2本、入っていた。

なお、死体は手足を縛られた状態であった。


◆陰毛を剃り、陰部にマッチの軸木を挿入して火をつける。

◆ゴキブリを食べさせる。

◆性器や肛門に鉄棒、ビンなどを挿入。

◆性器や肛門に入れたビンに釘を打ち肛門内、性器内で割った。

◆両鼓膜が激しく傷ついており、最後のほうはほとんど音が聞こえていなかった。

◆小指の生爪を剥がす

◆左乳首はペンチのようなもので潰す。

◆顔面に蝋を垂らして顔一面を蝋で覆いつくし、両眼瞼に火のついたままの短くなった蝋燭を立てる。

◆衰弱して自力で階下の便所へ行くこともできず飲料パックにした尿をストローで飲ませる。

◆鼻口部から出血し、崩れた火傷の傷から血膿が出、室内に飛び散るなど凄惨な状況となった。

◆素手では、血で手が汚れると考え、ビニール袋で拳を覆い、腹部、肩などを力まかせに数十回強打。

◆1.74kgのキックボクシング練習器で、ゴルフスイングの要領で力まかせに多数回殴打。

◆ダンベルを1メートル以上の高さから腹部に向けて落とす。

◆揮発性の高いジッポオイルなどを太腿部等に注ぎ、ライターで火を点ける。

◆あまりの恐怖に脳が縮小していた。

◆最初は手で火を消そうとするしぐさをしたものの、 やがて、ほとんど反応を示すこともなくなり、ぐったりとして横臥したままになった。

◆遺体の乳房には20本位の裁縫針が入っていた。

◆歯茎にまともに付いている歯は一本もなかった。

◆あまりのストレスに生前頭髪が抜け落ちていた。


初期

・強姦に加わった人間は100人超。強姦回数は400回を越える。

・全ての強姦が生。中出しに飽きると口内発射、顔面発射でフィニッシュ。

・過度の強姦で失神した場合は水をぶっかけ、息を吹き返させる。

中期以降

・膣にシンナーを入れ、キュウリやニンジンを出し入れする。

・肛門で爆竹や花火をして遊ぶ。

・床に複数のガビョウを置いて、その上に背負い投げやパワーボムで投げる。

・膣にオロナミンCのビンを入れる。破壊した肛門にもオロナミンCを入れる。

・膣に入ったオロナミンCの上に鉄アレイを何度も落とし、音を楽しむ。

・音楽に合わせてストリップショーをやらせる。

・ゴキブリ、ウンコを食べさせ、尿を飲ませる。

・体にオイルをまき、ライターで火をつけヤケドさせる。

・ヤケドでかぶれた肌を更に焼いたり、蹴ったりする。

・真冬に裸でベランダに出す。

・焼き鳥の串を肛門や膣に入れる。

・仰向けに寝かせて口の中に鎌や木刀を入れて顔を変形させる。

・裸にして竹刀や鉄の棒で毎日殴る。床に寝かせて竹刀をノドに押し付ける。

・膣を灰皿代わりにしてタバコを吸う。

・タバコの吸殻も膣に入れる。

・ハサミで膣に傷つけ大流血させる。

・乳房と乳首にマチ針を刺し、上から蹴りを入れる。

・乳首をペンチで潰す。


遺体の状況

・肛門と膣の中にはオロナミンCが入っていた。鉄アレイで割られた破片もあり。

・顔面は殴られた傷や腫れで識別は全くつかない状態。

・体中がヤケドとアザだらけで髪の毛はなかった。

・性器と肛門は完全に破壊。


現場検証の際、床、壁のみならず、天井にまで血が飛び散っていた。目鼻口の位置が判らぬほど膨れ腫上り、御両親でさえ判別しがたいほどに変わり果てていた。解剖の結果


頬骨・顎の骨が砕ける

ほぼ失明状態 片目においては完全失明

鼓膜が破損し、聴覚不機能

歯茎に付いている歯が一本もない

子宮・肛門は最も損傷が酷く、他の人体部より激しく腐敗、

文字通り完全に破壊され双方の壁は引き裂け、区別が無くなり、中にはタバコの吸殻、花火、瓶2本

頭髪は過度の恐怖により抜け落ちていた

脳が縮小していた(あまりの辛さに耐え切れず、脳自身が死を選択・命令する現象)

彼女が最後に言った言葉は「助けて下さい」ではなく「もう殺して下さい」であった


825 名前:可愛い奥様 [2007/07/09(月) 00:04:36 ID:YEn3APa60]

乳に針二十本くらい入ってた、は2ちゃんで最近知ったが
どれほど恐ろしいことをやらかしてくれたのかと唖然としたよ。


782 :可愛い奥様 :04/07/30 12:11 ID:jzYoiJZc

他板で、裁判で提出される陳述書(?というのかな、犯行の内容が記載され読み上げられるもの)の内容が当時、関係者の判断で大幅削除されていたという情報有り。 真偽のほどは分からないけど色々な板&スレッドに張り巡らされた、少女に対して行われた犯行を列記したコピペがあったでしょう。 あれ以上の凄惨なことが、山ほど行われていたらしい。

それを裁判ですっかり読み上げてしまうと、社会的に重大な影響があるとして削除した模様。

あれ以上って・・・ 何?

787 :可愛い奥様 :04/07/30 12:45 ID:lKdghwk/

いくらでも思いつくよ。

お尻にウイスキービンを突っ込んだとか(あまり書いてないけどこれは本当)

栗タンをハサミでちょん切ったとかビラビラを噛み切ったとか

指を包丁で落としたとか、

目にロウソクをたらすとか、ボールペンを突き刺すとか

乳首をかみそりで落とすとか 

体中を小刀で(死なない程度に)サクサク刺すとか

歯をひっこ抜くとか

膣に手を突っ込んで子宮口をこじ開けるとか


これって蛆がわいたとかのグロ系漫画ではよく書かれてること。
あいつらなら実際にやりかねんよ。

788 :787 :04/07/30 12:47 ID:lKdghwk/

つーかなにをしても良い 生餌が手に入ったなら787に書いたようなことをしない、と考えるのは変。 やってるだろう、って思うのが(グロマニアの)普通だ。

ただしあまり血が出るようなことはしていないはずだから(血の始末が大変なのと直ぐ死んじゃうから)四肢の切断は無かったと思う。

789 :可愛い奥様 :04/07/30 12:54 ID:s2tiwsxN (BR>>787

担当した検察官のインタビューによれば、事件の全貌は余りにもムゴすぎてその真実をすべて論告に記載することは社会的影響力が強すぎるため内部でもかなり揉め、かなりの部分を削除したらしい。

裁判資料をみれば判るが時系列に分析しても所々抜け落ちている期間や状況がある。 で、少年裁判であるということもあり、この内容でも十分に極刑で戦えるだろうという所まで削ってあるとの事。

解剖医学の人間も同様にコメントしており、裁判資料に書かれた発見時の少女の状況から推測すれば論告に書かれている以上の拷問を受けていたと考えられる、との事。


…相当酷い事してるのは確か。

そもそもタバコの火を押し付けた火傷が化膿して、腐敗臭が酷かったから少年達が辟易して強姦がおさまった(立たなくなった?)らしいし。 その後は暴行だけになったって陳述されてる。

http://2ch-library.com/news/concrete/ms/1089851471.html


・順子さんはフェ〇チオ行為に最適な様に前歯を全部抜かれていた
http://yomi.mobi/read.cgi/human7/human7_ms_1173571086/633


43 名前:マッチョ [2006/12/21(木) 02:34:00 ID:h2T1I9iXO]
>>13
歯茎の感触の為に、全部ぬかれるんだよな…
ひでぇ話だ


55 名前:ビッチ [2006/12/21(木) 02:47:24 ID:KbX735R+0]

歯茎フェラは最高らしい。
やくざの貢物女がされるとか聞いたことある。
http://yomi.mobi/read.cgi/anime/anime_news_1166634573

94名無しさん@お腹いっぱい。2007/12/03(月)16:19:47 ID:cdN0qNtO

この事件、昔の知り合いが見てたらしい。 彼の方から話切り出してきたんだが、綾瀬だし、おそらくこの事件で間違いない。

彼が見たときは、プロレスごっこやってたらしい。犯人たちって格闘技が結構好きだったこともあるんだろうな。と言っても、女一人だから話にならなかったとは思うが。

ただ普通の技だけじゃなくて、がびょうや釘を床に置いて、合体パワーボムとか、背負い投げやってたって言うのが恐ろしかった(しかも上半身は裸)これって想像しただけでヤヴァイ。がびょうだぞ。

ハサミやドライバーで額を連打して流血させたとも言ってた。

ネタだと思ってたんだが、これって実話だったんかよ。

その後、女は死んだとか言ってたし。 ちなみに彼はレフェリーやっててふざけてカウント数えたりしただけだからパクられずに済んだとの話。

702 :可愛い奥様 :04/07/29 17:23 ID:+n16jRAd

確か肛門に花火入れられて火つけられて学園天国の曲に合わせて踊らせたんだよね。 本当鬼畜以外に言葉が見つからない。


213 名前:可愛い奥様 [2007/04/21(土) 19:36:52 ID:ZqugGkGj0]

被害者の遺体が性器にビンが二本刺さったままだったって話を読んで

あいつら生前の彼女の性器にロケット花火仕込んで爆発させたから括約筋が完全になくなって腸液が垂れるのをビンに入れようと思ったんだなと。

彼女の膿の臭いを嫌がり部屋にいつかなくなったといってたけど本当は膿の臭いより、尿や便の臭いが嫌だったんだなと・・・。


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      :. |  :ヾ_! ゝ "゙゙    '  `゙ ハ.:', :.   ここ、どこですか?
      |  :.:_イ .:.ヽ.   (二フ , イ :.:.:!:.ヽ     なんであたし
   :.  / rィイ | :.:.ヽ: >r/`(ノ .:.::.}ヽ、\:.   ここに居るんですか?
      / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\
 :.  / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^`  |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:.
   / /  ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{   ∧/.-‐'": : |:.:. i ',
  ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、  : : : l:.:.: .ハ ',
  { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.}
  V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄  ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{  リ
    ヽ:.:{、.:.V     : : ヘ     : : {: : :/:.::∧|
     ヽ! )人    : : :人      : : : / \! :.
      "  ヽ : : : : :/イ{     :.ノ: : : :.\ :.
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          / `Y;{. . . .|;|. : : : /i: : : : : : : : :l

428 :名無番長 :2008/12/28(日) 16:07:25 0

コンクリ事件。 ヤクザが最初から絡んでいたとして、実はスナッフフィルムの撮影をしていたとか。

そんなものを見て悦ぶ人間は確かにいるだろうし。

偏見かもしれないが、主な顧客は、金はあるが、劣等感と異常性愛を持ち合わせた、半島系が多そうだがな。 そして、今だに重要な資金源になっていたりしてな。

435 :名無番長 :2008/12/28(日) 16:16:36 0
>>428
その、ビデオ撮影やってた有名な事件が、織原譲二がやったルーシー・ブラックマン事件じゃん。あいつは親族の中で唯一日本人だったらしい、不思議な人だったらしいな。


449 :名無番長 :2008/12/28(日) 16:27:07 0

>あいつが在日だってのは有名だろ!

いや違う。正確には、あいつだけが親族の中で唯一、帰化して日本人になたから、正解は元在日。
http://ameblo.jp/jouhouwoatumeru/entry-10191211932.html

女子高生コンクリート詰め殺人事件

デヴィ夫人ブログ 12/25

「そして、私は聞いてしまったのです。  飯島愛にとんでもない事が巻き起こっていた事を・・・

 彼女は、何と申しましょうか、“遊び”が過ぎて、 知らずでか、わからずでか、 とんでもない事をしていた様です。

どの様な人達とお付き合いがあったのか皆目わかりませんが、 映像や写真を撮られ、所持していた人達にゆすられ、恐喝され、つきまとわれ、 公表の恐怖にさらされながら生きた心地もなく、暮らしていた様です。
 
 色々模索した結果、それを食い止めるには、 芸能界を辞める他ない、と心したのでしょう。」
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-10183052427.html
http://sweet-pan.at.webry.info/200812/article_15.html

559 :名無番長:2009/01/01(木) 02:29:07 0

12/25付けデヴィブログから
>映像や写真を撮られ、所持していた人達に

この一文だけなぜかこっそり削られてるらしいな
やっぱなんかヤバい映像や写真があるんだろうなw
http://mimizun.com/log/2ch/4649/1230540801/

コンクリート事件のスナッフビデオ
足立区で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」。最悪な事件だったのはいまだ記憶に残っているが、20年たったいま、密かにその女子高生を殺害した模様を撮影したスナッフビデオが存在するという、噂が広まっている。実話系の月刊誌編集者が話すには

「うちにも売り込みというか、電話があって。話を聞いてみると自分の先輩が持っていたもので、現物があるので買わないかということなんです。」

そんなビデオが存在するならそもそも、警察が押収するはずだが。前述の編集者が受けた電話では

「その売り込み主が言うには逮捕された少年達の数倍は加害者がいるというのです。事件が明るみになって加害者がビデオに自分が写っていてやばいと、そのビデオテープを人づてに隠したというんですよ。」

セックスがしたいがためだけに、人間をおもちゃにして殺した最悪な事件。本当にビデオが存在しても、それを元に新たな逮捕者が出ることは、時効の関係でない。
http://spy.co.jp/modules/wordpress/index.php?p=286


飯島愛がコンクリート殺人事件に関与したと倉地明美が証言!


・ 飯島愛が綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件関係者に脅されまくっている

・ 倉地明美にも圧力がかかっているので有名なヤクザに守ってもらっている

・ 飯島愛の綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件を深く探った者は殺されている

・ 飯島愛の綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件との関与に関わる事を書くと命を狙われる。


・飯島愛ちゃんは、怖い人に守られている

・暴露本出したから脅された

・コンクリにかかわると死人が出る

・私はさらに怖い人をバックにつけてる
(コンクリ犯人達さえも圧力をかけられる程の大きなバックとは?)

http://unkar.org/r/4649/1231013534
http://ecoecofun.blog121.fc2.com/?mode=m&no=2
http://kdiary1.fc2.com/cgi-bin/d.cgi/freefreefree/


   (((((((( ;゚Д゚)))))))ガクガクブルブル


( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \

差出人 : クラッチからのメッセージ

日 付 : 2008年04月19日 00時29分
件 名 : Re: わたし


飯島愛だって脅されまくっていて大変だと思うよ。

でも、自業自得。

あたしはもう飯島愛とは関わりたくない。

アイツだっていつまで命あるかわからないよ。

普通に考えてあんなに急に引退するのは変でしょ?

なべプロがお手上げになったんだよ。

かばいきれなくて。

じゃなかったら一応売れっ子だったんだから首にはしたくなかったと思うよ。
飯島愛も多分お金無いんじゃないかな。

昔の万引きじゃないからね、人の命の問題だから無理だよ。

出所してきた人もみんなヤクザだし。

あたしもおとなしくしていたい。

とにかくお互いにこれで終わりにしよう。

最後に聞く耳もってくれて良かった。

それだけ。

http://hidebbs.net/bbs/3free?s=t&n=42414014&m=5


           _ -―´ ̄ ̄ ̄`ヽ、
          ,/ ,===''⌒''== 、、
        / ,=          ヽ
       /  ,='  _  ∧_ _,,
      /,,_ {i ,〜 〜  /´ ハ^、_
        ヽi} / /   / ヽ_/ ヽ__,,\
         { | _|__,,/ /  ̄ \ヽ
         ヽ | _|∠_// ┬―ゥ ヽ
          |`、ヽ.__ノ    ヽ-‐' _/
  r"      | |{i t    _     / |
 (   =‐'  | | i} > 、___ヽノ_ ,ィ リ| l| |
  ゝ-'     // i} / }-‐斤ヒl、__| l| |
    r、   //,,i} //}} l|》o《|! {{`lヽ
   __ゝ |i}^V'' __/  }}  ハ  {{ |
   ヽ  ノ'  `j    }}  /X |  {{  |

組織の事を暴露しようとした飯島愛は呪われたものとなった

300 :名無番長:2008/12/28(日) 14:10:41 O

××が宮野に指示し拉致、監禁、撮影(写真、動画)、被害者を始末させた
取り調べの段階で宮野達は××や関係者達の名前を出したが地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者が絡んでいるため警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

その後、飯島がTVで活躍、××、宮野達、関係者達が知る事になる

飯島が当時、所属していた事務所が、飯島が写っている写真、動画を買い取り口外しないことを約束させた しかし、それが裏目に出た・・


828 :名無番長[sage]:2008/12/29(月) 08:22:40 0

>取り調べの段階で宮野達は××や関係者達の名前を出したが
>地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者が絡んでいるため
>警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

それに、これが事実なら「地元の暴力団、党員、創価学会など100人近くの関係者」のなかに有力者がいるっていうことだろ。


801 :名無番長:2008/12/29(月) 05:41:46 0

倉地がいうには、コンクリ事件をふかく探ろうとしてる奴は何人も殺されてるみたいだし、それだけ大きな権力・勢力が動いてるんだろうな


802 :名無番長:2008/12/29(月) 05:49:21 0

やはり、少年達が撮影したというビデオの存在が関係しているのか??

806 :名無番長:2008/12/29(月) 05:59:09 0

何となく思い当たるのはプチエンジェルだな、顧客が大物ばかりという。

コンクリ関係者が少女を顧客に売春させていた、つまり少女を提供する役目だった? 

プチエンジェルの黒幕が動いているなら納得できる。

飯島も脅しを受けて芸能人の少女たちを紹介してた可能性もあるね。

807 :名無番長:2008/12/29(月) 06:03:57 0

プチエンジェルの黒幕って何だろうね?

普通に考えれば暴力団なんだけど、暴走族に少女を集めさせて暴力団が仕切る……
だけど、それを暴力団にさせているのが顧客たち? 

つまり顧客たちが実際は仕切っているということになるのかな? 

政治家や医者、弁護士、会社役員の少女趣味の人たちの集団?
http://datlog.net/t/4649/1230372529/


綾瀬女子高生コンクリート事件


2.名無番長2008/12/27(土) 19:09:24 0

■差出人 : クラッチ〜(倉地明美からのメッセージ)

日 付 : 2008年04月19日 00時29分
件 名 : Re: わたし


飯島だって脅されまくっていて大変だと思うよ。

でも、自業自得。

人の未来を奪ったんだから。

あたしはもう飯島とは関わりたくない。

アイツだって
いつまで命あるかわからないよ。

普通に考えてあんなに急に引退するのは変でしょ?

なべプロがお手上げになったんだよ。

かばいきれなくて。

じゃなかったら一応売れっ子だったんだから首にはしたくなかったと思うよ。


3.名無番長sage2008/12/27(土) 19:09:58 0

飯島も多分お金ないんじゃないかな。

昔の万引きじゃないからね、人の命の問題だから無理だよ。

出所してきた人もみんなヤクザだし。

あたしもおとなしくしていたい。

とにかく
お互いにこれで
終わりにしよう。

最後に聞く耳もってくれて良かった。

それだけ。

Period:
この人は自称作家の倉地明美さんです
本当に怖い人です

しかし、彼女は飯島愛や綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件の犯人たちに怯えているようです

しかも飯島愛の暗殺まで予見してます

本当に別の殺人事件がおきているような気がします

4.名無番長2008/12/27(土) 19:10:35 0


↑直前で掲載中止になったという、飯島愛が「綾瀬女子高生コンクリート詰め殺人事件」に関与していたとされる記事


飯島愛引退騒動。その真相とは…。

〜以下、「サイバッチ」より〜〜〜〜〜


●飯島愛引退の真相 綾瀬・コンクリ詰め殺人と消えた1億円を追う!!

 握りつぶされたゲラをあえて公開する

本誌が主要マスコミ全社に張り巡らせた蛆虫ネットワークのある記者からとんでもない画像が届いた。掲載中止となった記事のゲラの一部だ。

残念ながら、ここでは、掲載予定日、媒体名など詳細は書けない。

今、言えるのはこの媒体が「ある巨大勢力」から圧力を受け、急遽、この記事の掲載中止を決定したということだけだ。ゲラまで作りながら、である。
そこに書かれていたのは、ある大物出版プロデューサーの「告発」。

……飯島愛が綾瀬・コンクリ詰め殺人事件への「関与」で脅迫されていた。
飯島は、昨年11月、ブログに「事務所経理担当者に1億円を持ち逃げされた」
と書いたが、この1億円は「ある巨大勢力」への口止め料だった、と。

今回は死人が出るかもしれません。


18.当時の綾瀬在住2008/12/27(土) 21:03:22 O

綾瀬では共産党も創価も在日も生活保護も普通だよ。
俺がガキの頃はゴミ屋も沢山あったしな。
あの事件を知ってる奴は、俺も含めて人前では語れないのが多いだろうな。
親にも言ってはダメだと言われてたしな。

700.名無番長2008/12/28(日) 22:51:42 0

東京都足立区:関原・本木一帯には、かつて荒川放水路の建設に徴用された労働者の飯場に起源を持つ朝鮮人集落が存在する。関原・本木の朝鮮人集落は俗にバタヤ部落と呼ばれ、古くから再生資源回収業者の街として知られていた。

その他の在日朝鮮人産業として、スリッパやサンダルなどの部品を家内工業で製造するゴム製品製造業が賑わったこともある。

関連施設として、在日本朝鮮人総聯合会足立支部は本木に事務所を置いている。
また、近隣地区に属する興野には東京朝鮮第4初中級学校がある。


598.名無番長sage2008/12/28(日) 19:10:15 0

おれも最初は飯島とコンクリを結び付けるのは荒唐無稽と思っていたんだが、
興味を持ったのは飯島は北朝鮮籍だったという説があると聞いてから

それならプラトニック・セックスで自ら明かしてる、家出中渡り歩いたという複数の男の連れや埼玉・八潮での同棲相手が在日系ないしはその周辺の人間でもおかしくないし、そいつらがコンクリ関係者と何らかの接点を持っていたとしてもむしろ自然なのかなあと

在日系の縦や横のつながりの強さはおれらには計り知れないと聞くからね

21.名無番長2008/12/27(土) 21:25:41 O

もし、飯島愛が16歳のときの同棲相手がどういう人物か知っていても、怖くて言えないわな
もし、その人物がコンクリート殺人にかかわっていたなら

だから、ソースなんてないんだよ
ソース提供者は間違いなくヤバいことになるからな

160.名無番長2008/12/28(日) 04:05:25 0

詳しい芸能リポーターと勝谷
裏社会の人間なら知っている事実だよ

コンクリの背後は893と半島関係者が多数関係してるし
これは、基本的に知ったからといって芸能人には何のメリットもない
ただ、この件には係わるなということだ。

164.名無番長2008/12/28(日) 04:17:18 0

このころ飯島はホステスやってて源氏名を名乗ってたってことかな?
だったら、つじつまが合うんだよね。

もともとビデオ回して立っていうからその瞬間もビデオに映ってる可能性が高いよね。

たぶんヤクザが保存してるんだろうし。

165.名無番長2008/12/28(日) 04:17:34 O
>>160
当時893などは全然絡んでねえだろが(笑)知ったか笑わすな


166.名無番長2008/12/28(日) 04:19:48 O
>>164
妄想で言うのやめな(笑)


167.名無番長2008/12/28(日) 04:21:09 0

全部見た?
勝谷の友人と言う人が書いたレス。
だって、あのビデオを売って儲けてたんでしょ?


171.名無番長2008/12/28(日) 04:22:49 0
>>165-166
なんで焦ってるのwww
なんか見えてきたね、死の真相w

798.名無番長2008/12/29(月) 05:18:53 0

意図的にコンクリート殺人と関連づけないように情報操作しているような印象さえ持つ。この国で最もタブーとされる皇室について、あれほど遠慮なく発言しているのに、なぜ飯島とコンクリート殺人に関しては触れないんだ?


799.名無番長2008/12/29(月) 05:26:57 0

自分がここに書きこむのは、コンクリ情報については最も裏が取れる板だと思っているからだ。

なのに、どうして関係者が書き込まないのか? 
それほどやばい話なんだろうか? 命の保証がない? 
飯島でさえも死ななくてはならなかったのだから相当の闇勢力なんだろうが……。

800.名無番長2008/12/29(月) 05:32:57 O
>>799

コンクリ犯の嫌がらせは凄いらしいぞ
某雑誌なんか家族迄嫌がらせされたらしいしな
本当に黒幕って誰なんだろな?

801.名無番長2008/12/29(月) 05:41:46 0
>>798
印象って言うか確実に工作してるよ。
こここ ◆DpT0MBDgjMなんて工作員丸出しだし、
在日と関連付けようとしてるのも工作員だな

倉地がいうには、コンクリ事件をふかく探ろうとしてる奴は何人も殺されてるみたいだし、それだけ大きな権力・勢力が動いてるんだろうな

802.名無番長2008/12/29(月) 05:49:21 0

やはり、少年達が撮影したというビデオの存在が関係しているのか??


319.名無番長sage2008/12/28(日) 14:27:01 0

工作員が隠したいのはこの部分かもな

>取り調べの段階で宮野達は加藤や関係者達の名前を出したが
>地元の暴力団、党員、創価学会など100人近くの関係者が絡んでいるため
>警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

803.名無番長2008/12/29(月) 05:51:03 0
>>800-801
やっぱりそうなのか。既女の情報網は実はスクープ系雑誌の記者が情報を流していると言われてる。確かに凄い情報だし、納得できる。
それが今回に限っては見当違いすぎる情報しかないんだよね。

山口組や稲川会関係ですら、ここまで凄くない。それよりも凄い闇の
勢力って何だろう?


487.名無番長2008/12/28(日) 17:21:45 0

こここ ◆DpT0MBDgjM が出てきたっていうことは、飯島愛死亡に
バーニング・後藤組・創価が絡んでるっていうことでいいよね?

779.名無番長2008/12/29(月) 03:08:37 O

こここはなんか匂うんだよなあ
飯島愛に黒い付き合いがあるのは本人のプログからも明らか
恐らく調べればとんでもない事になるんだろう
一度、コンクリから離れるのが事件解明の近道だとおめこ

459.名無番長2008/12/28(日) 16:44:35 0

後藤組・バーニング・創価の関係
http://changi.2ch.net/test/read.cgi/4649/1224498508/


53 名前:名無番長[sage] 投稿日:2008/10/25(土) 04:35:26 0

後藤組:山口組系武闘派暴力団。

山口組の関東の出先....の筈だったが、覚醒剤取引で急速に力をつけた。
稲川会と山口組のパイプ役だった。層化学会の用心棒的役割を果たして
来た。学会の敵対者潰し・脅迫・買収などをやってきたが、いつの間にか
学会を操縦する側になった。今増えている北朝鮮の覚醒剤を一手に引き受けている。

バーニング:
後藤組のクライアント企業といわれている。
芸能界の覚醒剤汚染の鍵を握っている。シャブネタによる芸人コントロールが
お得意。(シャブ常習・レイプネタの揉み消しなど。)

後藤・バーとも警視庁赤坂署と裏で繋がっている。揉み消しには層化警察が
関与している。四谷署も層化の影響下にある奴らのシマ。


485.名無番長sage2008/12/28(日) 17:19:32 0

>。ヨ組織の統率力、経済力、構成員・準構成員数、どれをとっても山口組随一なのが後藤組だ」
>
>警察幹部はそう指摘する。


後藤組かっけー


464.名無番長2008/12/28(日) 16:50:19 O
>>459
後藤組はとっくに除籍や!ほんまは破門やったけど金積んで除籍にしてもらったんじゃ
それとアンタは知らんかも知れへんけど、別の宗教団体や上場企業とも関係あるで まぁネットで勉強してや


478.名無番長2008/12/28(日) 17:01:12 0

後藤組は山口組を除籍になったけど、創価・バーニングとの関係は
そのまま変わらずっていうことでいいのかな


497.名無番長2008/12/28(日) 17:31:35 O

後藤組は今はないよ
当時の組員はごよう会の預かりでしたが
今は元後藤組の若頭だった良知組に移籍してるよ


507.名無番長2008/12/28(日) 17:42:10 0
>>497
【堅気の】後藤組バーニング創価オウム【片腕を】
http://logmemo.org/changi.2ch.net/4649/1224498508/

875.名無番長2008/12/29(月) 12:07:45 0

監禁中の被害者を写したビデオが出回ったとか

660.アート藤2008/12/28(日) 21:27:50 0

>◆監禁中の被害者の様子が撮影された家庭用ビデオテープがある。

これは売れるよ絶対に、見てくて見たくてたまらんわ。


184.名無番長2008/12/28(日) 04:40:50 0

飯島が自殺までするなら、それぐらいインパクトがあるビデオだってこと。

他のスレでずっとビデオを回してて、強姦の部分はアダルトビデオとして売って稼いでいたとあった。

それもありだと思うよ。なぜ逃げなかったかもそれで理解できる。

ビデオで見張っていて、おかしな動き(部屋から出る)をしたら壮絶な暴力をしたんだと思うよ。その繰り返しで籠の鳥になってしまった……。


428.名無番長2008/12/28(日) 16:07:25 0

コンクリ事件。
ヤクザが最初から絡んでいたとして、実はスナッフフィルムの撮影をしていたとか。

そんなものを見て悦ぶ人間は確かにいるだろうし。
偏見かもしれないが、主な顧客は、金はあるが、劣等感と異常性愛を持ち合わせた、
半島系が多そうだがな。
そして、今だに重要な資金源になっていたりしてな。


435.名無番長2008/12/28(日) 16:16:36 0
>>428
その、ビデオ撮影やってた有名な事件が、織原譲二がやったルーシー・ブラックマン事件じゃん。あいつは親族の中で唯一日本人だったらしい、不思議な人だったらしいな。


438.名無番長2008/12/28(日) 16:18:36 0
>>435
織原譲二は在日だぞ。日本人にしないでねww


445.名無番長2008/12/28(日) 16:24:25 0
>>435
あいつが在日だってのは有名だろ!何適当言ってんだよチョン
元々がチョン特有のブサイク顔で白人にモテないからワザワザ日本人に見られる為に整形したんだってよ


449.名無番長2008/12/28(日) 16:27:07 0

>あいつが在日だってのは有名だろ!

いや違う。正確には、あいつだけが親族の中で唯一、帰化
して日本人になたから、正解は元在日。

436.名無番長2008/12/28(日) 16:16:58 0
>>428
本当の動機はその可能性がある。
初めは資金調達が目的だが歯止めがきかずエスカレートして殺害に至ったのかも知れない。


448.名無番長2008/12/28(日) 16:26:17 0
>>436
いや、むしろ、何故あそこまで惨たらしく被害者が殺されたのか、
その理由になるような気がする。

本当に少年たちだけで行った事件なら、そこまでやるだろうか?
40日間にも渡って。拷問の内容も鬼畜すぎる。


あるいは、犯行はあくまでこの少年らだけで行われたとして、
監禁、強姦され続けていた被害者に罵られ、途中から少年グループが激昂して拷問にいたったのか?
それにしても、宮野が自供しなければ発覚しなかったというのも不思議だ

460.名無番長2008/12/28(日) 16:45:34 0
>>448
犯行グループは殺しの指示を受け行ったのかも知れない
警察にパクられない保証付きでしかし蓋を開けてみたら実行犯だけパクられた・・てな感じ

その指示したヤツが飯島の男かも?


477.名無番長2008/12/28(日) 16:58:53 0
>>460
宮野がヘタレて自供しなければ、完全犯罪だったんだろ。
法廷で宮野が恐れていたのは、法廷ではなく裏社会だったんだろうな。


480.名無番長2008/12/28(日) 17:13:30 0
>>477
スナッフフィルムの撮影で拉致監禁し性的暴行は勿論のこと殺しのシナリオまで全て計画済みだろう。

中途半端に生かして帰したらパクるだろう
コンクリート詰自体やくざの発想だし。


489.名無番長2008/12/28(日) 17:24:13 0

スナッフ映像に飯島愛が映ってたなら十分脅せるな

506.名無番長2008/12/28(日) 17:41:55 0

スナッフじゃないにしても暴行を映した映像、デヴィ夫人のブログからすると
無いとも言えん。逮捕者に暴力団いるし。

806.名無番長2008/12/29(月) 05:59:09 0

何となく思い当たるのはプチエンジェルだな、顧客が大物ばかりという。

コンクリ関係者が少女を顧客に売春させていた、つまり少女を提供する役目だった?
プチエンジェルの黒幕が動いているなら納得できる。

飯島も脅しを受けて芸能人の少女たちを紹介してた可能性もあるね。

807.名無番長2008/12/29(月) 06:03:57 0

プチエンジェルの黒幕って何だろうね?

普通に考えれば暴力団なんだけど、暴走族に少女を集めさせて暴力団が仕切る……

だけど、それを暴力団にさせているのが顧客たち? 
つまり顧客たちが実際は仕切っているということになるのかな? 
政治家や医者、弁護士、会社役員の少女趣味の人たちの集団?


810.名無番長2008/12/29(月) 06:17:29 0

なんかさ、自分の頭の中で全部が結び付いた黒幕がプチエンジェルしか思い浮かばないよ。

暴力団や右翼、在日、部落じゃあ何となく約不足と言うか、そこまでの勢力だと思えないんだ。でもプチエンジェルの顧客が実質プチエンジェルを動かしている黒幕だと考えると、合理的に理解できる。

各方面でトップの人たちが集まれば……。それこそ暴力団、右翼、部落、医者、弁護士、裁判官、一流企業、マスコミ……すべてのトップ層の集まりだったら何でもできるから。

何をするにしても簡単だねwww

812.名無番長2008/12/29(月) 06:37:27 0

やっぱり、売春システムが裏にあるのかもな

コンクリ事件の被害者も犯人達が金とってレイプされてて、その客の中に今の政治家・権力者がいるとか

飯島がそれを知ってたなら、消されても不思議じゃない。

それに、小さな売春システムが明らかになれば、そこからもっと大掛かりな売春システムまでつながる可能性もある。

芸能界だって、枕営業しないと生き残れないとか、大きな売春制度みたいなもんだし、政界だってそれと無縁なわけはない。

そんなことが世間一般に知られたら、政界・芸能界は大激震で崩壊するからな


824.名無番長sage2008/12/29(月) 08:03:22 O
>>812
大物政治家がお忍びで綾瀬の湊ん家出掛けて買春してる姿想像して糞ワロタ

とてつもない妄想だな

828.名無番長sage2008/12/29(月) 08:22:40 0
>>824
「今の」って書いてるだろ。大物とも言ってない。

>取り調べの段階で宮野達は加藤や関係者達の名前を出したが
>地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者が絡んでいるため
>警察は捜査打ち切り、主犯宮野で幕引きとなる

それに、これが事実なら「地元の暴力団、党員、学会など100人近くの関係者」のなかに有力者がいるっていうことだろ。

850.名無番長2008/12/29(月) 10:25:46 0
>>824
そんなにハズレではないよ。
ヒント「裏」「海外」
少年法の盲点をうまく使って大金稼いだ黒幕。


872.名無番長2008/12/29(月) 12:01:38 0
>>850
コンクリの裏が存在しているとしたら莫大な金稼げたろうな

829.名無番長2008/12/29(月) 08:32:04 0

飯島は何かを暴露しようとしてたんじゃないか?
それが見つかって殺されたとか

981.名無番長2008/12/29(月) 18:08:25 0

飯島って政治家やヤクザに売春を斡旋してたんじゃないだろうか
そう考えると、飯島が政治家やヤクザにパイプがあったっていうのも納得できる

そして、それをほのめかす内容を暴露本に書こうとして消された
こうなると、コンクリート事件が関係なくなっちゃうけど・・


987.名無番長2008/12/29(月) 18:21:16 0
>>981
いや、繋がるよ。コンクリート殺人の犯人たちがそもそも売春のあっせん的
な役割をしていたと考えられるから。


988.名無番長2008/12/29(月) 18:25:56 0

赤坂プチエンジェル事件やら芸能界の枕営業の実態に繋がるとw


881.名無番長2008/12/29(月) 12:16:49 0

犯人たちの動機がないんだよね。
今まで輪姦事件は起こしたことあるやつらだけど、なんであれほど残忍に殺さないと
いけなかったのか。
世の中の金が余っている連中の中には、普通では見れないものになら大金払うヤツは
いるよ。

886.名無番長2008/12/29(月) 12:34:07 O
>>881
私もそれが気になる。

コンクリ実行犯→コンクリ黒幕→893→政治家や金持ち変態…

との繋がりがあるんじゃないかって。


890.名無番長2008/12/29(月) 12:38:22 O
>>886
政治家や金持ち変態→警察


までが絡んでたりして。


899.名無番長2008/12/29(月) 12:52:06 0

宮野たちは少年なので罪が軽く済んだ。ちゃんと黒幕いて捕まっていない。
少年法の盲点ついた犯罪で、シャバに出てきたヤツラは組でも特別扱いだしな。

ちなみに裏ものはほとんど海外へ。
http://datlog.net/t/4649/1230372529/

111 :納豆ウマ太郎 ◆UmaUmaRScc :2011/08/25(木) 19:30:09.83 ID:???

主犯格は創価学会幹部のセガレだよ、 もちろん朝鮮人。
韓国や朝鮮学校の反日教育が産み出した事件だよ。

153 :納豆ウマ太郎 ◆UmaUmaRScc :2011/09/18(日) 19:51:38.77 ID:???

周知の事実だよw
警察の現場検証で創価学会の弁護士が立ち会ってる。


226 :名無しさん?:2011/10/08(土) 01:19:30.67 ID:???
>>153
在日、共産党、創価の3つが絡めば被害者が不良になったり、Yahoo知恵袋では事件が抹消されたり。

神作譲(小倉譲)は確かに在日です。
しかし、湊伸治の両親は元共産党員です。そして宮野裕史の母親は創価学会員です。
http://bbs.jpcanada.com/log/6/3840.html
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/entrance/1304756575/

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      ,'/    / .ハ ヽ ヽ:.:.:.:. ヽ::.. ヽヽ :.
     :. |i .i i  .i /  ヽ ト 、 \、:.:.:. ',:.',:.:.lヽ}
       |i .i l  :N_, -弋 \弌弋ナ:}:.:}
    :. |i∧ ', :{ ,ィjモト \  イjミトイイV :.  な…
       .|  :メヽ.', `ozZ}      izN。ハ::{     なんなんですか?
      :. |  :ヾ_! ゝ "゙゙    '  `゙ ハ.:', :.   ここ、どこですか?
      |  :.:_イ .:.ヽ.   (二フ , イ :.:.:!:.ヽ     なんであたし
   :.  / rィイ | :.:.ヽ: >r/`(ノ .:.::.}ヽ、\:.   ここに居るんですか?
      / ∧l;l ! :.:.:.://{二 ̄ .} ..:..::リ//ハ.:\
 :.  / .{. ',ヾ、ヽi .:.:.{ /(^`  |.:.:.:.//: : :.}: . ヽ.:.
   / /  ) ヽ ヾ、ヽ:.ハ ヤ{   ∧/.-‐'": : |:.:. i ',
  ./ .,イ .:..} : :\ヾレ'ハ ∧__ノノハヾ、  : : : l:.:.: .ハ ',
  { /| .:.:ハ : : :i Y {ヾ`Yヽニン'ノ}: : } : : : :/:.:.:/ }:.}
  V | .:.:/:.:|_,ィ' ̄  ヽ三{ `ー-ノ : イ : : :/:.:i.:{  リ
    ヽ:.:{、.:.V     : : ヘ     : : {: : :/:.::∧|
     ヽ! )人    : : :人      : : : / \! :.
      "  ヽ : : : : :/イ{     :.ノ: : : :.\ :.
       :.  \__///: :\______/: : : : : : : ヽ
           / //: : :|;|: : : : : : i: : : __: : : : ',
       :.     / 、 {;{   |;|   . : i/. : : : : : :|
          / `Y;{. . . .|;|. : : : /i: : : : : : : : :l

 


殺人犯 神作譲

「俺は人を殺したことがあるんだぞ」「人を殺すなんて簡単なんだからなー」

「昔、女がコンクリート詰めされただろ?あれ、おれがやったんだよ」


笑いながら自慢げに言う男 神作譲

「あの女の髪切ったりよー、ペンチで乳首潰したり歯抜いたのも俺。ホントは俺が主犯なんだよ。」

ゾッとする話を、何がおかしいのか下品に笑いながら言う神作譲。


飲み屋のネエちゃんはフリーズし、周りも引いている。

だが、露骨に冷ややかな目で見たら、今度は自分が何かされてしまうと思い

皆少しずつ距離を取ろうとする。


「俺は捕まったって怖くねぇし、同情されるコツ知ってるしよぉ、あんなのチョロイんだよ。」


そして、まだ続く独演会


「俺にはよー、スゲー バックが付いてんだよ。あの車だって、バックが俺のために買ってくれたんだよ。俺は守ってもえらえんだよ。、怖いもんなんてねーんだよ。」
http://ameblo.jp/jibiinkouka/entry-11346165087.html

報道ステーション2004年7月28日放送

女子高生コンクリ詰め殺人事件
「再犯」の加害者と母親


古館:こんばんは。皆さん、15年前のある事件を思い出してください。
そして、考えてみてください。ちょうど元号が平成にかわってまもない
1989年の1月、東京江東区の埋め立て地で一人の女子高校生の遺体が発
見されました。冷たい海風の吹くこの場所で、その女子高生はなんとコ
ンクリートに固められていました。世に言う女子高生コンクリート詰め
殺人事件です。なんと被害者は、犯人の家に40日間にも及んで監禁され、
筆舌に尽くしがたい蹂躙の末に殺害されました。実刑判決を受けたのは、
当時16歳から18歳だった少年4人です。そのうち、当時17歳だった準主犯
格の少年は8年間服役し、5年前に出所しました。しかし今年の5月です。
33歳になっていたその少年-男-はまた別な事件を起こしてしまいました。
今日その初公判が開かれました。その男はどうして、また再び犯罪を犯し
てしまったのでしょうか。我々のテレビカメラの前でその男の母親が語り
ました。長いVTRになりますが、どうか最後までご覧ください。なお、そ
の男の名前は、未成年時の犯罪を扱うため匿名とさせていただきます。

ナレーション(女):午前10時、東京地裁には朝から傍聴券を求める人が大
勢詰めかけた。


キャプション:傍聴席23席に126人が並ぶ

ナレーション(女):知人の男性を監禁し怪我をさせたとして、逮捕監禁致
傷の罪に問われた被告の初公判。頭を短く刈り上げた男は、法廷に入ると
一度傍聴席を見回した。そして、監禁はしておらず、話をしていただけだ
として起訴事実を一部否認した。男は1989年に東京都足立区で起きた女子
高生コンクリート詰め殺人事件で有罪判決を受けた準主犯格の少年だった。

ナレーション:あれから15年加害者の実の母親がカメラの前で語った。コ
ンクリート詰め殺人事件のことを。出所後の生活、再び罪を犯した息子に
ついて。

加害者母親(58):私にごめんなさいって一言・・・言っただけです。自分が出
たら(出所したら)(母親が)仕事をしなくてもいいように力仕事でも何でもす
るから、悪かった。顔は申し訳ない顔をしていました。私の顔を見るなり。

ナレーション:拘置所から届いた加害者の手紙。男が自ら語った事件とは。


ナレーション:5月19日午前2時、東京足立区に住む男性が自宅に戻った時
だった。一人の男が車から降りてきていきなり殴りかかった。

被害者(27歳):「女取っただろう、女知ってんだろう、隠してるんだろう、
やくざなめんなよ」って。でー、何十発か殴られて・・・

ナレーション:男性は男の車のトランクに詰めこまれた。

キャプション:約40分間走り回る

ナレーション:車が向かった先は埼玉県三郷市のあるスナック。

被害者(27歳):そこでは、もう誰もみていないわけで、何十発と殴られ続けて、
もう、「一人殺そうが二人殺そうが一緒なんだ」と言われた。人を殺す顔って
こんな顔なんだなって。

ナレーション:4時間後に解放された男性はその足で警察に駆け込んだ。およそ
2週間後男が逮捕される。

キャプション:6月4日逮捕監禁致傷容疑で逮捕

ナレーション:二人は知り合いで、男は被害者の男性にこう語っていたという。


被害者(27歳):一方的に何か話しし始めて、その綾瀬の事件を話し始めた。俺は
すごいだろうって、自慢するような口調で。


ナレーション:綾瀬の事件。それは女子高生コンクリート詰め殺人事件のこと
だった。1989年1月東京江東区(江東区若洲・遺体発見現場のキャプション)の埋め
立て地でコンクリート詰めされた女性の遺体が発見される。被害者は埼玉県三郷市
に住む17歳の女子高校生だった。逮捕されたのは当時16歳から18歳の少年(当時の映
像・変更現場などがながれる)。強姦目的で通りがかりの女子高生を連れ去り、40日
にわたり足立区綾瀬の自宅に監禁し殺したのだった。

キャプション:
主犯格A(18) 懲役20年
準主犯格B(17) 懲役5〜10年
C(16) 懲役5〜9年
D(17) 懲役5〜7年

ナレーション:裁判では4人の少年が実刑判決を受ける。準主犯格の少年は最終意見
陳述で涙ながらにこう述べた。「被害者の女性がどれだけ熱かったか、どれだけ痛
かったか、一生謝っても謝りきれない。僕の一生をかけても償っていきたい(キャプシ
ョンに同様の文面)」

キャプション:監禁現場(犯行現場の画像)

ナレーション:少年達はここで壮絶な暴行を加えていた。連日に及ぶ強姦、顔面や体
を殴りつける、ライターで皮膚をあぶる、食事をとらせない。そして、遺体をドラム
缶にいれて捨てたのだった。


スタッフ:謝罪とかですね、償いの気持ちとかっていうのは?

加害者母親(58):住所も・・・(被害者の遺族が)引っ越されてしまって。だから、気持ち
としてはいつも忘れることはできないけど、何もできない状態。自分の中では一生背
負っていかなきゃならない

ナレーション:更生を誓った息子が15年後再び罪を犯した。

加害者母親(58):ショックでした。なぜそんなことをやったのかなって。今更いい年な
のに、何でそういうことをしたんだろうっていうふうに感じました。

ナレーション:父親は3歳の時に愛人を作って家を出ていった。母親は二人の子供を育て
るために夜の仕事に就く。家族そろって食卓を囲んだ記憶はないという。

加害者母親(58):確かにお父さんがいなくてもお母さんがいなくても、よく育つ子はよく
育っているかもしれないです。でも、あの子には父親が必要だったんじゃないかなと思って
ます。

キャプション:奈良少年刑務所(画像も)

ナレーション:少年は奈良にある少年刑務所に収容された。更生に重点を置く少年院と違い、
少年刑務所は刑罰を与える場である。母親が差し入れたドストエフスキーを読んだり、被害
者の冥福を祈り写経をしていたという。


キャプション:男が装置された滋賀刑務所
       1999年8月3日出所

ナレーション:その後、成人の刑務所に移され28歳の時に出所。

加害者母親(58):(息子は)迎えに来ているとは思わなかったみたいですけど。もう、子供み
たいな感じで、(事件)前に戻ったような感じで。もう、はしゃいで出てきたっていう感じに
・・・・・・見えましたけど。

キャプション:首都圏の様々な会社に派遣される

ナレーション:出所してから半年後、男は弁護士の紹介でコンピュータ関係の派遣の仕事を
するようになる。更生に向けたスタートは順調かに見えた。

加害者母親(58):出る(出所する)前からいつ帰ってくるんだって、その、社長さんが待ってて
くださって。コンピュータの会社に行っている時もすごいまじめに行っていました。もう早く
ねて、自分は行かなきゃいけない。2時間くらいかかるんですよ。コンピューターの会社の仕事
にいくのに。大体遠い所が多いものですから。そうすると、本当に遅刻しないでまじめに行って
いた。やっぱし(刑務所で)ならってきたことでは自分が(能力が)足りなくて、自分なりに勉強
していました。本を買ってきて。


ナレーション:だが、母親にとってある不安が常につきまとっていた。

加害者母親(58):気というか・・・・・・張り巡らしました。だから、あの新聞か何かのニュースを見
ると、背格好、服装・・・・・・居ないとすごい心配でした。他の事件でも疑ってかかっちゃうことも
あります。

スタッフ:それは息子さんがやったんじゃないかと?

加害者母親(58):そうですね。そういう風に思ってみる時もあります。

ナレーション:4年前に母親を取材したときのノート。出所から1年、このときすでに母親は不安
を漏らしていた。


ノートに書かれた文章:
また事件をほじくったら元のもくあみにな
また何かやるかもしれない


加害者母親(58):事件ついても話はしていないです。お互いが暗黙の内の・・・・・・

スタッフ:それはどうしてですか?

加害者母親(58):息子にとっても自分の心の中で思っていることだと思いますし。私の中でも心で
思っていることもでもあって。言ってほじくり出して、まともな会話になる時もあるかもしれない
けど、やっぱり自分の言われたく時ってありますよね。


ナレーション:だが本人にとって事件は心の片隅にあり続けたようだ。

加害者母親(58):自分の事件の本を読んだりしてましたから。でなにか、あのぉ、ビデオが出たの
も見てますね。その事件のビデオが。ビデオショップから借りてきて、で、「内容は違うよ」って
一言いっていましたけど。

ナレーション:男は歌舞伎町の店で働いていた年上の中国人女性と結婚した。しかし、2年あまりで
破局。再び実家に戻る。

加害者母親(58):彼女と別れてかな、「結婚して子供でも作って普通の生活をしたら」って言ったら、
「事件の子供って言われるから無理でしょう」って本人は言ってました。

スタッフ:それに対してお母さんはどう返したんですか?

加害者母親(58)それっきり何も言えませんでした。

ナレーション:熱心に打ち込んでいた仕事も、あることが理由で辞めてしまう。出所後男と付き合い
のあった弁護士はこう話す。

キャプション:女子高生コンクリ詰め事件での男の弁護人

伊藤芳朗弁護士:やはり被害妄想だったかなと思います。といいますのは、そのー、本当は職場の人
たちは彼実状を誰も知らないはずなのに、自分のこと(事件)を知っているから、自分につらくあたる
んだというようなことを言って人間関係がギクシャクしてきたんですね。

キャプション:刑務所での拘禁反応が被害妄想の原因だった

ナレーション:10年に及ぶ刑務所生活で男には拘禁反応による被害妄想が現れていた。

伊藤芳朗弁護士:刑務所の中でキチンとした治療は受けさせてもらえませんでした。


ナレーション:2番目の職場を見つけるも給料の未払いというトラブルが起きる。その時、ある人物
との出会いがきっかけで男の人生は、再び大きくかわっていったと母親はいう。

加害者母親(58):S氏はヤクザだったんで、あたりのいい人だったんで、最初くっついて
行っちゃいまして

ナレーション:給料の未払いを聞いた母親が知り合いのH氏に相談。そのH氏が連れてきた
のが山口組系暴力団組長のS氏だった。男は次第にそのS氏と付き合いを深めていく。


       相談
   母親------------->H氏

付き合い
   男 山口組系3次団体
組長S氏

スタッフ:息子さんを止めようとはしなかったんですか?

加害者母親(58):私が止めても難しいなっていう、本人の判断に任せようという気持ちでいました。

スタッフ:事件のことについてはその人は知っていたのですか?

加害者母親(58):(息子)本人が言ったみたいです。本人が言ったところ連れ歩いているときに、
「こいつはコンクリの人殺したやつだよ」ってみんなに言いふらしていたらいしです。それは
本人がいってました。どこに飲みに行っても、そういう言い方をすると。


スタッフ:本人は嫌そうな感じでしたか?

加害者母親(58):はい。誰もいないから誘われるといってたみたいです。

スタッフ:誰もいないっていうのは?

母親(58):友達が誰もいないから。

スタッフ:友達っていうのはできなかったんですか?

母親(58):出来なかったです。

キャプション:
今年5月再び事件を起こす
出所から4年9ヶ月後のことだった---

母親(58):これは息子からきた手紙です。小菅(東京拘置所)に入ってから息子から来た手紙なんです。


ナレーション:15年前世間を震撼させた女子高生コンクリート詰め殺人事件。再び罪を
犯した男から母親あてに手紙が届いた。

手紙の内容:
前略、面会や差し入れありがとう。今回のことは本当に申し訳ないと思っています。他人
の責任で自分の仕事ができなくなる悔しさは私も十分にわかる。事件のことも考えている。
度が過ぎたことを後悔している。

ナレーション:男によれば、暴力団組長S氏の正式な組員になったのは去年の12月だという。
その後S氏が男に上納金を要求したことに反発。今年5月8日S氏を殴り組を抜けたとしている。
8日後の5月16日ある事件が起きる。浅草の三社祭で暴力団組長のS氏が喧嘩に巻き込まれた。
そのとき男は近くにいたが、組から抜けていたこともあり、S氏を助けるとはなかったという。
その際、今回の事件の被害者に男はこう言われたという。

キャプション:
「行けなかったじゃないですか」

ナレーション:行けなかったじゃないですか。つまり怖じ気づいたと揶揄されたというのだ。


男の手紙:
今回の被害者は(匿名)が面倒をみていた若い衆なんだけど、テキ屋だな。被害届けを出したくら
いから花屋の店員になっているらしい。

画面:傷の跡を見せる被害者

ナレーション:男は被害者の言葉がきっかけで思わず暴力を振るったとしている。しかし、被害
者も雇い主も男の主張を否定している、

被害者(27):なぜ行けなかったのですかとか、それはないですよ。だから、その見ていたとかと
いう話も、自分はその子供たちにラムネを分けてあげたりとか、ジュースを配ってあげたりだと
か、そういうことをしていたので、見てないんですよね。自分は花屋だったんで。なんで、自分
までヤクザ扱いするんですかって

ナレーション:男は面会に訪れた母親に対して訴えた。

加害者母親(58):「一人殺すも二人殺すも一緒だって」ってそんなことを言ったの?といったら、
「言ってないよ」って言っていました。

ナレーション:事件発覚後、母は自宅を出て知り合いの家を転々としている。


スタッフ:何が足りなかったと思いますか?

加害者母親(58):事件のことに触れなかったことが、私はそれが息子に対して・・・・・・わかっている
ことだと思ったんですが、それがまだわかりきってなかったのかなと感じます。

スタッフ:わかりきってないというのは?

加害者母親(58):自分の感情にふまえて自分を忘れちゃっていることを教えてあげないといけないなと。

スタッフ:どうすれば出来ますか?

加害者母親(58):どいうふう風にしたらわかる・・・・・・・どいうふう風に言ったらいいんでしょう・・・・・

スタッフ:亡くなられた被害者の方、あるいは遺族の立場になって考えてみたらどうですか?

加害者母親(58):遺族だったら「死んでもらいたい」というのが、それっきり思わないじゃないですか。
その子が帰ってくるわけじゃないですから。

スタッフ:また同じ被害者がでてきたり、あるいはまた事件を繰り返したりしたことに対して、
遺族がとても悲しんでいるとは考えないですか?

加害者母親(58):つらく思ってらっしゃると思います。これから事件を起こさないように、
自分を戒めていかなきゃならない、ではないかと思っています。


スタッフ:できますか?

加害者母親(58):やって・・・行こうと思ってます。

スタッフ:被害者の遺族に対して詫びるとしたらどういった言葉がありますか?

加害者母親(58):ごめんなさいの一言です。(むせび泣く?)


古館:この男を本気で更生させようと考えた人間がいただろうかと思います。中途半端な助け
では更生などできないと思います。加藤さん、あのー、再犯、出所して再び犯罪を犯してしま
うというケースですが、かなり多いというふうに感じるんですが。

加藤:そうですね。それで少年法の見直し論議も活発になってますよね。その論点の一つが加
害者の人権重視、その一方で被害者の事件はどうなっているのかというのがありますよね。

古館:はい

加藤:だから被害者側から、次の被害者を作らないでくれという切実な声もでてますよね。


古館:(おおきく頷く)ただ、あのー。もう一方で、この更生施設の問題。はたして本当の更生
できる確率がどのくらいあるかということも問題ですね。

加藤:そうですね。いまVTRみてて二つ、僕考えたんですけどね。一つは、罪が重かったから
少年刑務所行きましたよね。少年院なんかに比べると教育とか更生という面よりも、やっぱり
刑罰としての服役が重視されるところですよね。今後あのーやっぱり、少年刑務所でも更生プ
ログラムを強化充実する必要があるんじゃないかということが一つ。それと、更生で成果をあ
げた後にも問題がある。だから、戻っていくそこの環境がどうなのかっていうのが、ものすご
い重要だと思うんですよね。

古館:現実的にはよく言われるように、とにかく刑が終わって服したらすぐに出ていってもらう。
次なる犯罪者が入ってくるから。刑務所は満杯だ。よく耳にしますよね。そういう話をね。そし
て、もう一つ思うことは親と子供が逃げずに本当に向き合うということ。これが次に大切で難し
いんだとということも考えました。いったんコマーシャルです。
http://www.geocities.jp/sce_psp/houdoustation.txt

449 :名無番長:2013/02/01(金) 03:43:35.34 0

譲が再犯した2004年にコンクリート (映画)が公開された
映画は2つ見たけど内容は違うと譲は母親(悦子)に話してた

再犯した時に埼玉にあるスナックABC内で

『本当の主犯は俺だった、鼻にこうやってタバコを近づけ亡くなったのを確認したのも俺』

と男に話した

宮野は刑務所で最後のリンチには参加しなかったと誰かに語っていたらしい
それと譲のことを頭悪いとかも。

譲のせいで宮野の仮出所が延期されることになった。

502 :名無番長:2013/02/16(土) 19:37:21.64 0

2004年に再犯した時の週刊誌の記事
http://yoroz.s3.zmx.jp/con/sin.jpg

宮野がいない時に譲が先頭に立って指示を出して暴力&レイプをしてた

最後のリンチの時もコンビニで小倉ヨウカンを買い古田さんにヨウカンみせて

『これを何と言う?
小倉と呼び捨てにしたな?・・・
小倉ヨウカンにさんつけするな!!!』

などと言いがかりを付けて暴行


507 :名無番長:2013/02/18(月) 00:39:19.33 O
>>502
足を焼いたのもこいつだと云うし一番酷いことしたのこいつだろ。
自称主犯だし
http://kohada.2ch.net/test/read.cgi/4649/1348666771/


368 :名無しさん :09/12/15 22:07:43 ID:FCkU81Cv

黒幕(真主犯)は、宮野じゃなくて小倉だって友達が書き込んでンの見たことがあるな
宮野を恐れて逆らえずに事件が悪化したんじゃなく、小倉に逆らえなかっただけじゃないか?


371 :名無しさん :09/12/16 21:11:52 ID:iTE4i58B

宮野、湊、渡邉は反省しているけど、小倉は反省すわけ無いってことを奴らの友達らしき人物が書き込んでたのを見たことがあるよ

宮野と湊は、途中で被害者を帰そうとしたこととか
出所後、湊とは話したこととか
結構、詳しく書いていたけどな・・

どの道許せないが、友達からみれば、宮野達も小倉の犠牲者だと思っているのかもな
真実は闇の中だ・・・・裁判記録だけが真実じゃないしな


372 :名無し :09/12/17 19:40:28 ID:CYvoUVjJ

宮野が被害者に火をつけて火傷させたんじゃないの?なんでそんな事するのか
理解できない 宮野っていまどこでなにしてるの?


374 :名無しさん :09/12/17 22:21:28 ID:vfaVnrgE
>>372
宮野がいないとき、卑劣な暴行を繰り返ししていたのは小倉だよ
宮野は、久々に監禁場所に行ったら、被害者の変わりように驚いたといわれている
でも、他の奴ら(小倉、湊)に馬鹿にされたくないから、更に被害者に暴行を加えたってことになっているけどね・・・
被害者に火をつけたのが宮野かどうかは分からないよ


375 :名無しさん :09/12/17 22:27:50 ID:vfaVnrgE

被害者を家に帰そうと宮野が言ったとき、猛反対をしたのは小倉
宮野がいない時に、酷い暴行、強姦を加えていたのは小倉
湊、渡邉や下っ端不良に指示をだしていたのは小倉
「俺が主犯だった」と小倉自身が言っている


376 :名無し :09/12/18 01:50:44 ID:dgfOPlxz

なんで火傷させるの?理解できない。ガキが虫殺すのと同じなのかな?


377 :名無しさん :09/12/18 03:09:31 ID:hlrUq9hG

宮野は犯行時期、シンナーで頭が完全イカレテイタ
初公判の際、終了時に気絶をするって騒ぎを起こしている

自分の悪事をズラズラと述べられたら、誰だって気絶しそうになるだろう
しかも、あれほどの犯罪・・

でも、小倉は冷静に宮野のせいにしまくっていた・・友達曰く「卑劣な奴」
同じ中学の後輩らしき人物も、小倉とその母親は基地外だと書き込んでいる

宮野タイプは周りの影響で良くも悪くもなる奴だろう
でも、小倉は根本的な悪だ
近くにいる仲間が狂っているってゆーのは相当な奴だろう
    


378 :名無し :09/12/18 19:11:41 ID:dgfOPlxz

少しはかわいそうだと思わなかったの?


380 :名無しさん :09/12/19 01:48:42 ID:hgdQIHP5
>>378
「彼女はかわいそうだったけど、遊んでやったんだからいいじゃない」

って小倉のクソが言ってますよ
奴の脳を解体して、どうなっているのか教えて欲しい


381 :名無しさん :09/12/19 02:09:55 ID:hgdQIHP5

はじめ裁判記録を読んだ時、あまりの内容で感情で皆死刑にしてしまえ!!苦しんで死ね!!
っと思ったが(今も思っているけど)
何度も裁判記録を読んでいると、何でこんなどこにでも居る世間に排除された不良がこれ程の凶悪事件を起こしたのかが良く解らなかったが、仲間の書き込みを見て見えてきた

小倉ってゆー悪魔が絡んでいたからだよ・・・
小倉以外の奴らなら、この時代の私立・県立の中学出身者なら一人や二人は見たことがあるだろう

でも、小倉のような悪魔はない・・


397 :名無しさん :09/12/24 18:21:07 ID:0CqRE/Mn

皆、宮野が出所すると騒いでいたが、
本当の主犯は十年前に出所していた・・案の定、再犯を起こし、

「この程度の内容で、監禁・障害とは・・納得がいかない」

っととぼけた事をぬかしている。

そりゃー、以前の事件とくらべりゃーな・・あんだけの事をして十年だもんな

宮野は自分の犯罪をホボ全て認め、主犯として刑をマットウしようとした
親も、自分の家を売り払って被害者側に賠償金をしっかり払っている。

小倉の母親ババアは、なんだかんだ言って支払いをしていない。
しかも、馬鹿息子に車を与え、自分は犯行現場の近くに店を開き、豪邸を建てた。
これだけでも、どっちが主犯かはわかるだろう
小倉親子は、普通の人には絶対に理解は出来ない思考回路を持っている。
北九州拷問殺人の主犯、松永太と同類だろう
http://yy27.60.kg/test/read.cgi/cruel/1192761129/

宮野裕史はシンナーで頭がイカレテいない時はまともだった?

死体処理

宮野裕史はこのとき、当時人気のあった長渕剛主演のテレビドラマ『とんぼ』の最終回のビデオを探した。

それは、順子が拉致された日、『とんぼ』の最終回を楽しみにしていて、アルバイト先から家路に急いだが、その後、監禁されたために最終回は見ることができずに、そのくやしい思いを何度か口にしたからで、そのビデオも一緒に入れようと思ったからだった。

午前8時ころ、ドラム缶を海に投棄しようと江東区若洲15号地若洲海浜公園整備工場現場空き地まで車を走らせたが、恐くなってしまい、その空き地にドラム缶を投げ出して帰ってしまった。
http://zero123456789.web.fc2.com/ohanasi/zatugaku/z_jkkonkurisatuzin.html


宮野裕史がオートバイの暴走行為でつかまり、他にもいろいろやっていたので少年院に送られたそうです。

宮野がそこである晩以来、毎晩毎晩、壁をひっかきだすのです。同房の人間がやめさせようとしても、その手を振り払って、がりがりがりがり、、、、。

と爪がはがれるほどひっかきつづけ、やがてそれは所内の職員のお偉いさんの耳にまで入ることになりました。

どうしてそんなことをするのか尋ねられ、宮野はぽつりぽつりと話し始めたそうです。

実は、人を殺したことがあって、その娘が壁の中から出してくれ出してくれって言うものだから、と。

 はじめは精神鑑定を受けさせよう(受けさせたのかな?)ということになったらしいのですが、どうも気が触れたにしても嘘をついている様子ではない。

供述された場所に行くと、本当に空き地があって、ドラム缶があって、中から遺体が出てきたという事です。
http://gossiper.blog101.fc2.com/blog-entry-43.html

71 :名無しさん :09/05/21 09:03:15 ID:IWpGy5B3
神作・・この異常な神経の図太さ・・

裁判記録を読み返しても、主犯の宮野より内容が酷い
多分、本物の主犯だろうな・・自分も言ってたようだが
神作がいなければ、ここまでの惨劇にはならなかったんじゃないかと思ってしまう。
もちろん加害者は全員許せないが・・


72 :名無しさん :09/05/21 22:36:07 ID:w1Zjb9vt
>>71
同意
年功序列で宮野が主犯
しかし全員同年齢なら神作譲が確実に少年Aだったね


「お願いですから家に帰してください」

と懇願する被害者に対し

A(宮野)「きちがいの真似をしろ」

被害者は懸命に要求に応じるが

B(神作)「本当にきちがいになれ」
とシンナーを無理やり吸引させ、更に焼酎・ウィスキーを一気飲みさせる

被害者を帰そうという意見が一時出ていたことがあったが
このときB(神作)だけが警察に事件発覚を恐れ猛反対

A(宮野) C(湊) D(渡邊)らに同意させる


ペンチで歯を引き抜いていたのもB(神作)

強姦した回数もB(神作)が最多であったとされている


77 :名無しさん :09/06/06 17:50:09 ID:pO3of3pd

>被害者を帰そうという意見が一時出ていたことがあったが
>このときB(神作)だけが警察に事件発覚を恐れ猛反対
>A(宮野) C(湊) D(渡邊)らに同意させる

この段階で、神作は被害者を殺害して証拠隠滅するつもりだったんだろうな・・
他のやつは神作の言葉で、ここまできたら・・殺すしかないって感じだろう・・

神作が宮野が怖くて逆らえなかったとか言っている内容を見て、こいつが「本物主犯」か??っと思ってしまった。

主犯の暴力+α暴力を犯していて、何いってやがるよ

説得力まるでなし・・

よく、宮野はこの言葉に反応しなかったのかが不思議・・
本人に聞いてみないと、分からないね・・

「コンクリート」とかくだらない映画を作ってるんなら、こいつらの裁判の内容を突っ込んだ映画を作ってほしいよ。


78 :名無しさん :09/06/06 23:51:43 ID:O3SzNZwS
>>72
監禁初期
Cの母(湊ます子)が被害者を帰すが
外で待ち伏せていたB(神作)とCの兄(湊恒治)によって連れ戻される


>>77
そうなのかもな...神作さえいなければ...

『今後再犯しても、実名報道されない神作譲』

2004年の再犯時(神作33歳)マスコミは実名を伏せて報道

これは初犯(コンクリ事件)が未成年だったための保護
もし神作が今後再犯しても、少年法が引きずり永遠に実名報道されないのか?
http://yy27.60.kg/test/read.cgi/cruel/1192761129/


神作譲

「俺は人を殺したことがあるんだぞ」

「人を殺すなんて簡単なんだからなー」

「昔、女がコンクリート詰めされただろ?あれ、おれがやったんだよ」


笑いながら自慢げに言う男 神作譲

「あの女の髪切ったりよー、ペンチで乳首潰したり歯抜いたのも俺。ホントは俺が主犯なんだよ。」

ゾッとする話を、何がおかしいのか下品に笑いながら言う神作譲。


飲み屋のネエちゃんはフリーズし、周りも引いている。


だが、露骨に冷ややかな目で見たら、今度は自分が何かされてしまうと思い

皆少しずつ距離を取ろうとする。


「俺は捕まったって怖くねぇし、同情されるコツ知ってるしよぉ、あんなのチョロイんだよ。」


そして、まだ続く独演会


「俺にはよー、スゲー バックが付いてんだよ。あの車だって、バックが俺のために買ってくれたんだよ。俺は守ってもえらえんだよ。、怖いもんなんてねーんだよ。」
http://ameblo.jp/jibiinkouka/entry-11346165087.html

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c82

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
83. 中川隆[-13718] koaQ7Jey 2018年11月29日 21:56:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21415]

それから、こっちが漢民族:

ウイグルへの弾圧は何度か書いてきましたが、いま中国が行っているのは民族浄化で、ただ浄化するのではなく、ウイグル人を殺して臓器売買のドル箱としているのです。


【閲覧注意】中国政府によるウイグル人虐殺 2016-05-29
https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12165204118.html


皆さんは『東トルキスタン共和国』をご存じですか?


現在は「中国ウイグル自治区」と呼ばれています!!


ウイグル族と、さも少数民族のように言われていますが、元々、れっきとした国家でした。


では、なんでそうなってしまったのか?


詳細を明らかにします。


https://ameblo.jp/2013kanyon17/image-12165204118-13658407155.html


1946年、東トルキスタン共和国は、

政府要人閣僚たちがシナ共産党との会議のために北京に向かう途中、搭乗した飛行機が中共軍に撃墜され、政府がなくなった混乱に乗じで侵略を開始したシナ共産党軍により、

滅ぼされた。


シナ共産党軍は、侵略し併合した東トルキスタン共和国を、 「新疆ウイグル自治区」と、さもシナの一地域のごとくの名前に変えさせた。


侵略当初、シナ共産党軍は、識者や高い教育を受けたもの、そのほか指導的立場にあった人間たちを次々と 「反乱分子もしくはその疑いがある」 として拘束。 100万人以上が、司法手続きを経ずに拷問にかけられ虐殺された。


豊富な石油や天然ガスなどの天然資源が発見された後は、資源の簒奪(さんだつ)をすべく、漢民族支配を実現し、ウイグル人の存在自体を消し去るため、各国のマスコミは一切入れず、学校ではウイグルの言葉を話すことは厳しく禁止され、漢民族を1,500万人も入植させ ( 現在、ウイグル人はおよそ900万人まで激減 ) 同化政策を強化。

ウイグル人は漢民族により暴力 (武装警察や軍事力) を背景に仕事を取り上げられ、成人男性で就職できる割合は、わずか5%。

15歳から22歳までの女性は強制的に中国国内に移住させられ、中国人ですら嫌う低賃金の重労働を課されながら、夜は強姦される若い女性が後を絶たず、「民族浄化」「漢民族化」を推し進める中国共産党政権のもと漢民族の男と強制的に結婚させられ、純粋なウイグル人は絶滅の危機を迎えている。


https://ameblo.jp/2013kanyon17/image-12165204118-13658407195.html


※ 漢民族は、一人っ子政策で男子ばかりが出産され(女児は堕胎)男女比率が大きくゆがみ結婚が出来なくなってしまったため、若いウイグル女性を強制移住させることは、一石二鳥。 (おまけに、大変に美人が多い) 

※日本人とは思考回路が見事に異なる漢民族にとって、ほかの民族の女性を強姦したり虐殺することに罪の意識は無い。

 白人国家が有色人種国家を軍事力を背景に侵略し植民地にした時、当たり前のように強姦し大虐殺を繰り広げていた意識とまったく同じ思考回路である 。

結婚相手と職を失ったウイグル人の男たちは、子孫を残すことができないだけでなく、次々とあらぬ罪で連行され、投獄され、拷問を受け、殺害され、民族根絶やしの犠牲となっている。

ウイグルの女性たちには、ウイグルの男性との間に授かった赤ちゃんの、「 計画生育 」の名目で、少なく見積もって850万件もの強制中絶が行われた。 (ウイグルの人口は、950万人!)

それだけでなく、重武装の軍隊および武装した司法・警察権を持つ漢民族による、一切の武器を持たないウイグル人に対しての徹底した弾圧、放火、リンチ、拷問、強姦、輪姦、そして幼い子供に対してまでの大量虐殺が、今もなお続いているのです。


 この漢民族と結婚させ漢民族化させる手法は、今に始まったことではなく3,000年以上の昔から漢民族が取ってきた漢民族の拡領土大手法で、かつては時間をかけゆっくりと浸透させ漢民族に同化させてきたものが、共産党が国家を支配するようになって以降、急速な領土拡大政策をとるようになり、軍事力 (暴力) を背景とする、他民族を根絶やしにする残虐な同化政策を、性急に推し進めるようになった。


今、狙われているのは、沖縄である。


中國武装警察による「恐怖の人間狩り」

いわれの無い罪でその場で殺されたり、連行されたら二度と生きて帰って来ることはない。


少女でも、その場で処刑する


「10代前半の女の子が、『 私は無実です! 私の言うことを聞いて! 』 と叫んだんです。 それでも構わず、(中国当局は) この子を処刑したんですよ、公衆の面前で! 多くの人々がこの光景を見ていました。 それでも、国際社会は沈黙したままだった…… 」

こう一気に言うと、ほんの少しの間、ラビア総裁の言葉が途切れた。


マスコミが一切報道しない真実 が、ここにある。


ウイグル自治区(旧東トルキスタン共和国)では、幼子までが強姦され無差別に虐殺されている

( ※ この幼子も強姦されてから殺されたのだろう。 ズボンが破かれ、陰部が露出している)

この写真は、60年 ・ 70年安保の度重なる失敗で活動の場を失った ヤマトンチュウ左翼 と シナ の 甘言によって 「親シナ ・ 反米」 に洗脳されつつある 【沖縄県民】 の未来を見ているようである。


沖縄では、シナ共産党により主要な土地が買い進められ、地元のマスコミはシナを礼賛し反日論調を騙(かた)り、学校では子供たちに「反日」教育を行いシナ親派を増やし、漢民族の企業誘致を進めた結果、シナの実効支配が進行しつつある。


原爆実験でまき散らかされた高濃度放射能


シナ武装警察による虐殺だけでなく、かつてシルクロードの交易で栄えた楼蘭では、昭和39年から平成8年まで、近くに人々が生活しているにもかかわらず、地上での核実験を 「事前通告なし」 で46回も繰り返し、広島型原爆の1250発分を爆発させ、最低でも即死20万人以上、被害者130万人以上の被害 (約半数の60万人が死亡したと推計されている) が報告され、今も数百万を超えるウイグルの人々は、まき散らされた放射能汚染に悩まされ、甲状腺異常は当たり前すぎて言うに及ばず奇形の子が次々と生まれ、ガンや白血病が多発し、何の医療手当もされず、放射能汚染の被害に苦しんでいるのです。


この広大な原爆実験エリアから発生した 放射能汚染は 「福島第1原発の数百万倍に達した」 (※ 環境に放出された放射能の総量は実に4,000万エクサベクレル ) にもかかわらず、朝日新聞やNHKはその事実を隠ぺい、日本の原発反対だけを叫び、だんまりを決め込んだ。

日本のすべてのマスコミも 「左へ倣(なら)った」。

日本の弱腰を見て、調子に乗ったシナ政府は、福島原発事故の際、「日本は、放射能汚染を世界にばらまいた」と公言した。


どの口が、そのような発言をしたのか、一度見てみたい。


※ 原爆実験の最中、昭和53年、西遊記のロケでウイグルの砂漠に入った女優の夏目雅子さんは、昭和60年、急性骨髄性白血病で逝去した。 27歳の若さであった。※

夏目雅子さんは、昭和53年・54年と、2年続けてウイグルでロケをした。
その後、病気が続いた、昭和56年には、甲状腺が腫れるバセドー病になり、…
甲状腺を手術した。バセドー病なので、瞼が腫れ目が大きくなってた。
次に掛かった病気は、昭和57年くらいに腎盂炎になり、次が、子宮内膜症。
そして、昭和60年2ったのでしょうか月に白血病で倒れ、同年9月に亡くなりました。


高い放射能がある、ウイグルに、なぜ、ロケに行った?


NHKは、シルクロードに取材に行きながら、核実験をしている事実を隠蔽(いんぺい)し、日本国民に知らしめなかった罪は、誠に大きい。 大罪である!
夏目雅子さんも、NHKが告知しなかった、被害者である。


それだけでなく、

NHKの番組を見た多くの日本人が、核実験真っ最中のシルクロード(ウイグル)へ旅行に出かけ被ばくした。

日本のNHKは楼蘭周辺での 「大規模な核実験」 を知りながら、1980年代に大型企画番組シルクロードの現地取材を行い放送を続け、さらにビデオの販売を続けました。 そのため、番組に誘導された日本人、推定27万人が、まだ核爆発が繰り返されていた期間に、現地を観光しています。

当時、実際に現地で核爆発を目撃した青年もいます。 

中国西域の観光から帰国した後に「白血病」、「肺がん」、「悪性リンパ腫」を発症したという方や、そのご家族から情報が寄せられています。

( 高田 純 札幌医科大学教授のコメントより )


ホルマリンで保存されているウイグル・セミパラチンスク州 ( ※ 核実験場のある州) で発生した奇形児


ウイグル人の悲劇


子供でも平気で虐殺


この後、このウイグル男性は頭部を撃たれて死んだ。


漢民族の男たちは何度も強姦した後に、

時間をたっぷりかけてなぶり殺す。

そして、下半身を露出させたまま放置

※ あまりの惨たらしさに、マスキングが掛けられている。


確認すべき、インターネット情報

Stop Chinese Torture

http://www.youtube.com/watch?v=3fIAzl4-Jq8


ウイグルの男たちは連行され、生き地獄の拷問を受けたのち、虐殺される

残った女たちが、命を懸けた、まさに必死の抗議活動を行っている

彼女たちに、命の保証は無い

「甘い言葉」につられてつい心を許し

軍事力をもって

シナに侵略された民族は、皆こうなるのである。


「僕たちは、平和憲法を持っています!」


「憲法9条って、スゴイんだぞぉ!」


では、何の役にも立たないことに、

そろそろ日本人も気づくべきである


「 日本の 人権活動家 たちは、ウイグル の惨状を知っていても、何も言わない… 」


日本のマスメディアも一切、報道しない


忠告しておこう

「 沖縄に入り込んでいる内地の 『 親シナ 』 左翼 の活動家たち、そして
地元新聞社に踊らされ、迷走を始めた 『琉球民族』 も、他人ごとでは無い 」


世間に知られたくない真実をバラされると共産党による監視と嫌がらせが起きる!!


日本共産党→×

中国共産党日本支部→〇


大丈夫か俺!?


でも、負けない


日本ウイグル協会 に援助の手を!

http://uyghur-j.org/japan/about/%E6%94%AF%E6%8F%B4%E8%80%85%E3%81%AE%E7%9A%86%E6%A7%98%E3%81%B8/


https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12165204118.html


▲△▽▼


習独裁下の中国で「臓器狩り」の証拠をウイグル自治区で発見 2018-10-08
https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12410440345.html


習近平独裁下の中国で、ウイグル・チベットなどの少数民族や、キリスト教徒らへの弾圧が苛烈さを増している。そんな中、新疆ウイグル自治区にある空港に、謎の通行標識が出現した。

 昨秋、シルクロードの要衝として知られる中国最西端の都市、ウイグル自治区カシュガルの空港に出現した通行標識がある。

「特殊旅客、人体器官運輸通道」

簡体字とアラビア文字でそう書いてある。
「特殊旅客」が外交官や共産党幹部、国賓待遇の外国要人などを指すのは勿論だが、「人体器官」とは一体何か?


 これは即ち、人間の臓器のことである要は、「ここは大至急運び出さなければならない切りたての移植用臓器が通る通路だから一般人は並ぶな!」と言っているのだ。

引用ここまで…続きは本文をご覧ください↓↓↓
https://www.zakzak.co.jp/soc/amp/181006/soc1810060009-a.html?__twitter_impression=true


国連人権委員そっ閉じ・・・

なんたって国連人権委員会の理事国は中国だもの


臓器移植待ちの患者の待ち時間


↑中国の富裕層は臓器移植が必要と診断されると即日にドナーが現れる不思議
てか、不思議ではない。生体データが合った人が即日処刑されて献体となるのだ!


まさかの人肉を真空パックで売ってる店もあった
流石に画像は貼れんわ(汗)
閲覧注意↓
https://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/image.php?qid=12157371062

中国こええええええええ!!
なんせ文化大革命で自国民を2千万人は殺した連中だからな
常識で考えては理解できない
日本には無い歴史があるのが、特亜3国


日本にも人体の不思議展が来て多くの日本人が見物した
生きたまま血管に薬品を入れないと作れない毛細血管の標本とかがあった
本物の人体だと言われ気持ち悪がった女性も多かった 又、触ってもいいですよとか
規制が緩かった 随分死者に対する尊敬の念が無いなあと思った
中国の人肉食の歴史を知れば納得


中国共産党による生体臓器狩りビジネスは18年くらい前からやっている
最初のターゲットは、法輪功学習者や政治犯の死刑囚が多かった。ここ最近は中国共産党が気に食わない人物は、すべてが臓器狩りの対象になっている
それでもう一つ大問題なのが、NHKはいまだに報道していないことだ


左翼は日本が中国に占領されれば平和になると思っているが、日本が中国に占領されると日本人が民族浄化の下に殺されて食べられたり、人体標本にされるということだよ


中国「臓器狩り」の証拠を弾圧下のウイグル自治区で発見
https://t.co/PmZmyKymSI

摘出した心臓、肺臓、肝臓、腎臓などの臓器を国内外の富裕層らに移し替える移植手術は年間数万から十数万件にも上り、現在1兆円規模の莫大な収益を産み出す一大産業。臓器収奪は「処刑」すなわち国家権力による「殺人」

中国「臓器狩り」の証拠を弾圧下のウイグル自治区で発見
https://t.co/gFbhHYMWb1
「特殊旅客、人体器官運輸通道」
中国当局により開始された12歳から65歳までの全住民を対象に血液を採集し、血液型やDNAデータを調べる他、指紋、眼の虹彩などの生体データを収集
臓器収奪は、ほぼイコールで「処刑」


中共人権弾圧・臓器移植に関心を持ってる人権活動者のレポート「中国では器官移植が10万件、臓器は殆ど法輪功の良心犯とウイグル人!1980年代警察が平気でウイグル人を銃殺、臓器を取る。現在は、外科医者が直接に臓器摘出、被害者は救急車で搬送される時まだ痛くて叫んでる」
酷すぎ、正に悪魔だ。 https://t.co/0Yr6xX5TUr


2016年、中国では2000件の死刑!公開死刑判決の見学にSNSで招待状を拡散(スプートニク) 中国における死刑制度は「真っ黒」であり、政治犯を臓器狩り目的で死刑にしている事実もあります。共産党国家では公開&大量処刑が普通。中国や北朝鮮は「悪質な見せしめ国家」と言えるでしょう。 https://t.co/9wUkSUvGGe


中国共産党は当初、民族浄化の下で殺戮を繰り返していたが、近年は家畜同様に扱い始めた。家畜と違うのは食用ではないこと…臓器売買の為である。
臓器を取られた肉体は人体標本に加工されるのである。


中国で人間として扱われるのは共産党員と富裕層だけかも知れない…漢民族であっても下級人民は詐取の対象でしかないのだ

トランプ大統領は経済戦争から本当の戦争をとるやも知れない…非人道的な行為を今まで国連も見て見ぬ振りをしていたがトランプ大統領は真正面から非難し制裁を加える構えだ
https://ameblo.jp/2013kanyon17/entry-12410440345.html


▲△▽▼


「麻酔掛けずに直接摘出」 中国の臓器奪取、凄惨な実態が明らかに  


李荘弁護士の書き込み。中国の臓器奪取の実態をさらした(スクリーンショット)

【大紀元日本10月24日】重慶市元トップの薄煕来氏の暴力団一掃運動に立ち向かったことで1年半の懲役刑に服した北京の弁護士・李荘氏がこのほど、ミニブログ(微博)で、中国の臓器奪取の実態をさらした。

「ある著名な病院の著名な心臓外科の著名な医師らが僕ににこやかに教えたんだ。『重要患者に臓器移植を行う場合、臓器の鮮度を保つために、われわれは麻酔を掛けずに直接摘出するのだ』。僕は、死刑囚に対しても人道的でなければと忠告した」

この書き込みに多くの注目が集まった。ユーザー「虎甲胡威」は、「死刑執行の前に、死刑囚から臓器を摘出し死亡させることは、もはや人道のうんぬんではなく、計画殺人だ」と指摘。また、「中国で臓器売買のピークが法輪功を弾圧した時期だ。アメリカが証拠を持っているようだ」「李弁護士はもっと情報を提供すべきだ」などとさらなる真相の解明を望む声が飛び交った。

中国の臓器移植問題について、米国務省は5月24日に発表した2011年度人権状況報告書の中国関連部分で、メディアや人権団体から法輪功学習者の臓器が奪取され売買された報告が絶えないことに初めて言及した。また、9月12日に米議会で中国の臓器狩りについて公聴会が行われ、中国の囚人から生体臓器奪取の状況が証言された。

さらに、中国国内では9月、これまで最大規模の不法臓器売買事件の訴訟が始まっている。解放軍病院が仲介者を通じて闇の臓器売買を行ったことが明らかになり、死刑囚の臓器提供意思書、親族臓器提供意思書など、すべて偽造されていたことも浮き彫りになった。

闇から少しずつ、その凄惨な実態が浮かび上がっている中国の臓器狩り問題。2006年にすでにこの問題に注目し、調査報告書『戦慄の臓器狩り』を発表した著者の一人、カナダ元外務省アジア太平洋外務担当大臣のデービッド・キルガー氏は10月25日から27日の日程で来日し、会見やシンポジウムを開く予定だ。(翻訳編集・余靜、張凛音)
http://www.epochtimes.jp/jp/2012/10/html/d68771.html


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生きた法輪功学習者の臓器狩り、中国の警察から新たな証言 2009年12月15日
https://www.epochtimes.jp/jp/2009/12/html/d72072.html

中国の監禁施設で生きた法輪功学習者を対象に臓器摘出・売買をしているという2006年に告発された事件に関して、最近、目撃者の新たな証言が、国際的な人権擁護組織である「法輪功迫害追跡調査国際組織」(WOIPFG、米国本部)から発表された。

 証言は、同組織の調査員が中国遼寧省の元警察(匿名)を取材して得たもの。遼寧省公安庁に勤めていた2002年に、瀋陽市軍部病院で一人の女性法輪功学習者から生きたままで臓器を摘出したのを目撃したという内容である。証人の同意に基づき、同組織は最近、30分ほどの取材録音の一部を公開した。

証言によると、2002年、証人は遼寧省警察に務めており、法輪功学習者を捕まえ、拷問するなどの特別行為に関わっていた。ある30代の女性法輪功学習者は、一週間ほど凄まじい拷問を受け、そして無理やり食べ物を注ぎ入まれたりして、体が傷だらけになっていたという。

 同年4月9日、遼寧省警察庁のある部門から2人の軍医が派遣された。1人は中国解放軍瀋陽軍区総医院の軍医で、もう1人は解放軍第二軍医大学を卒業した軍医だった。警察庁はこの法輪功学習者をある場所(※1)に移し、二人は、この学習者が意識を完全に保っている状態で、麻酔を一切かけずに、彼女の心臓、腎臓などの臓器を摘出した。

 証人は当時、銃を手にして警備に当たっていたため、臓器狩りの全過程を目撃したという。

 証人の証言によると、彼が遼寧省錦州市警察局に勤めていた際、錦州市警察局長の王立軍は法輪功学習者を「殺し尽くさなければならない」と命令したという。証人はかつて何度も、法輪功学習者の拉致、凄まじい拷問に関わっていたと認めた。

 遼寧省は、法輪功学習者に対する迫害が最も深刻な地区の一つであり、法輪功情報サイト・明慧ネットが明らかにした情報だけでも、迫害を受けて死亡した法輪功学習者は406名に上っている。王立軍は現在、重慶市警察局長を務めており、当時遼寧省省長で、現在重慶市党書記の薄煕来の下で、マフィア組織取り締まりという名目で、法輪功学習者への迫害を強めている。(※2) 

 カナダの国際人権派弁護士デビッド・マタス氏とカナダ外務省前アジア大平洋州局長デビッド・キルガー氏は、法輪功学習者が「臓器狩り」の対象になっているとの告発を受け、2006年から独立調査を行い、調査報告書を発表している。同報告書によると、中国国内における2001年から2005年までの臓器移植件数のうち、4万1千5百件の臓器の出所が不明としている。2000年以降、中国では臓器移植件数が急激に伸びているが、これは法輪功学習者への弾圧が始まった時期とほぼ一致しているという。同報告書は、監禁された法輪功学習者たちの証言から、彼らが臓器売買の犠牲になっていることを主張している。

 法輪功とは、佛家と道家の思想を根底に併せ持つ先史文化に根ざした気功で、「真・善・忍」という宇宙の特性に基づいて心性を修め、人間の身体を健康にするとともに根本から改善、向上させる修煉を行う功法であるといわれている。1992年より中国で公開され、その教えによる内面の向上や病気治療に顕著な効果があり、口伝えに急速に広まったことで、中国をはじめ全世界で1億人以上に学習者が増え、現在も増え続けている。日本では2004年、日本法輪大法学会が東京都においてNPO法人格を取得している。

 法輪功の人気と、その修煉者の数が激増していることに中国共産党が恐れ、1999年7月22日に中国共産党が法輪功およびその学習者に対して弾圧を始めた。2009年12月現在で中国共産党の迫害により死亡した人数が、正式的に確認され、裏付けが取れたものだけでも3336人いるという。

(※1) 臓器摘出を行った場所について、最初の証言では、証人は自分の身元が明らかになることを避けるために、言及しなかった。2回目の証言で、瀋陽軍区医院15階にある手術室内であったと明言した。実地調査の結果、瀋陽軍区総医院ビルの15階から17階が外科であることが判明した。

(※2)北京大学法学院刑法研究所の研究員、国際法医顔面鑑定協会の副主席を兼任しており、発表した論文も法医顔面鑑定分野のものである。しかし、該当する学歴がなかった。中国側が公開している王立軍の履歴には法医の経歴は全くなく、中国初の『麻酔後の臓器移植についての試験研究』など、臓器移植と関係を持った記述がある。

以下は今回発表された証言の取材録音の一部分

証人:手術ナイフで、彼女の胸のところを切り開いたらすぐ、血が噴き出してしまい、血が噴き出したのであって…

調査員:男性でしたか、それとも女性でしたか。

証人:女性、女性でした。

調査員:若い女性ですか。

証人:30代だったでしょう。


調査員:胸が切り開かれた時にも、彼女はなお「法輪大法は素晴らしい」と叫んでいたのですか。

証人:叫んでいました。

調査員:彼女は当時どのように叫んでいたのですか。

証人:当時、彼女は、1週間ほど尋問と凄まじい拷問を受けていたので、体には数え切れないほどの傷がありました。しかも電気ショックを受けていて、意識朦朧となっていました。物を食べるのを断ったため、私たちは強引に牛乳を彼女の胃に注ぎ入れました。非常につらい体験でした。彼女の鼻を摘まんで注入しました。こうして生命を維持させていました。1週間経って、彼女の体重は約7キロ減りました。当時、あのようなことが発生するなど、予想もしませんでした。

 それで、遼寧省警察庁のどの部署からかは分かりませんが、いずれにしても特殊な極秘部門から2人の軍医が派遣されてきました。1人は、解放軍瀋陽陸軍総医院の軍医で、もう1人は解放軍第二軍医大学を卒業した軍医でした。具体的には、1人がやや年配で、もう1人は若者でした。彼女をある場所、すなわち精神病院の手術室に入れ、それからあることを一通りやりました。麻酔など一切使わずに、手術ナイフで胸のところを切り開いていく。彼らの手はまったく震えることはありませんでした。わたしなら、きっと震えてたまらなかったでしょうが。わたしは武装警察を務め、銃を持って実弾で演習したこともあるし、多くの死体を見たこともありましたが、私なら震えるはずです。しかし、軍医の彼らを見て、私は本当に驚きました。彼らの手はちっとも震えず、マスクをしたままで胸のところを切り開いて行きました。当時、私たちはみな銃を手にして、傍で警備を担っていました。切り開かれた瞬間、彼女は突如凄まじい声で叫びました。「法輪大法は素晴らしい!!!」と。

調査員:胸が切り開かれた時に、彼女が「法輪大法は素晴らしい」と叫んだのですか。

証人:突然凄まじい声で、「法輪大法は素晴らしい」と叫びました。彼女は大体、次のようなことを言いました。あなた達はわたし1人を殺すことができても、信仰のためにあなた達の迫害を受けている何億の人々をみな殺すことができますか?、と。この言葉を聞いて、その軍医は一瞬、躊躇し、目を私と私の上司の方にちらりと向けました。私の上司が頷いたので、彼は続けて血管を…まずは心臓、それから腎臓を摘出し出しました。心臓の血管を切断した際に、彼女は痙攣しはじめました。非常に恐かったです。うまくいかないと思いますが、彼女の声をちょっと真似てみます。それは引き裂かれたようもので、アー、アーと口をずっと大きく開いて、目も大きく見開いていました。まあ、私はこのような光景を語りたくありませんが…

 …

証人:当時、彼女は教員でした。先生、中学校の先生でした。彼女の息子は約12歳でした。彼女の旦那さんは、権力のない人で一般の労働者のようです。それまで、彼女が受けてきた侮辱のほうが、より酷かったと思います。

 われわれ警察の中に変態者は少なくありません。彼女を、カンシや内視鏡などの器具でやっていました。彼らは一体どこからこのような器具を持ってきたのかは分かりませんが、いずれにして、やったことは全部目撃しました。悔しいことに、彼女に対する猥褻な行為を写真に撮ることができませんでした。彼女は美人の方なので、乱暴されることなどが、実に多かったのです…

調査員:この事は、あなたが勤務していた警察局で目撃したのですか。

証人:いや、当時は警察局内ではなく、私たちはある教育センターでやりました。それはあるホテルの裏にあり、10数の部屋を賃貸して使っていました。つまり、一軒の別荘の上の方でやったのです。

調査員:そこは、闇の監獄というようなところでしたね。

証人:まあ、そんなものでした。

調査員:そこに監禁されたのは、法輪功学習者だけでしたか。

証人:そうです。

調査員:つまり、判決を言い渡されない前からそこに入れられたというわけですね。

証人:いずれにしても、われわれは随時に場所を移動することができました。

 …

調査員:事件発生の具体的な時間を教えていただけますか。

証人:2002年4月9日でした。

調査員:4月9日でしたね。

証人:そうです。4月9日午後5時から摘出しはじめ、3時間かかりました。

 その後、1ヶ月ほど続きました。

調査員:「1ヶ月ほど続いた」というのは?

証人:続けて(他の学習者に対して)1ヶ月ほど拷問などを行っていました。

 …

調査員:法輪功学習者たちへの拷問は、一度だけやったのですか、それとも数回やったのですか。

証人:多くやりました。当時、王立軍、現在重慶市公安庁長は、「殺し尽くさなければならない」と厳令を下しましたから。


(翻訳編集・小林)
https://www.epochtimes.jp/jp/2009/12/html/d72072.html

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c83

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
84. 中川隆[-13720] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:04:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21418]

そして、これが昭和天皇がやらせた事:


拷問の光景を見てみよう。

  土地の者ではないということが、怪しいとみた理由だが、功名心にはやる土屋にとっては、それで十分だった。抗日分子なら大手柄だ。「オレが張った綱にかかった」のである。名前を張文達といった。三十三歳の近くの農村の農民で、「この街に買い物に来ただけ」と、おびえた目で話した。「いやいや、これは怪しい。この男は抗日軍の物資調達係だろう。貫禄から見て班長級だな」ど、士屋は決め込んだ。「何としても本拠地を吐かせ一網打尽にしたい」「これは大変な功績になるぞ」。思いだけは駆け巡るのだが、土屋は実際の取り調べをしたことがなかった。それて先輩格の伍長に取り調べを頼んだ。・・・
 
 まず、伍長が命じたのは、「こん棒を持ってこい。それも生木の丈夫なのだ」。これで殴りつけろ、という。土屋の頭に浮かんだのは、「何も生木のこん棒でなくても。相手は人間なのだから、せめて竹刀ででもいいではないか」という思いだった。だが、伍長の、それも実務を教えてくれようとする上官の命令だ。士屋ど同僚の上等兵とで、こん棒を振り回した。男は殴りつけるたびに、「ウッ」「ウッ」と声を立てたが、何も言わなかった。着ている綿衣からほこりだけはあがった。

 効果がないのが分かると、伍長は、机を二列にして、積み重ねさせ、上に棒を渡した。いわば器械体操をする鉄棒のような形だ。この棒に、両手足を麻縄で縛った男を後ろ手にしてつるした。体の重みを不自然な形の両腕で支えるのだから、苦しい。それも一時間、二時間の単位だ。はじめ真っ赤になった男の顔は、青ざめていき。脂汗をにじませてきた。だが、何もいわない。「こんちくしょう」と、伍長は十キロもある石を軍馬手に持ってこさせ、浮いていた男の足に縛りつけた。両肩の関節がゴクッとなった。「ウーン」とうなり、男は気絶した。舌打ちをした伍長は「今日はもういい、明日は必ず吐かせてやる」と言い残して自分の部屋に戻ってしまった。・・・

 二日目もひどい拷問が続いた。指南役の伍長は、どこからか焼きゴテを探して持ってきていた。これをストーブで焼け、という。「赤くなるまでだ」と、次の場面を予想して躊躇する土屋に付け加えた。男を留置場から引き出し、上着をはがし、背中をむき出しにした。赤く焼けたコテを男に見せて脅し、自白を強要するのか、と士屋は思った。ところが違った。伍長はいきなり背中に押しつけた。ジューッという音と、煙、それに激痛に思わず口をついた男の叫び声があがった。と同時に、何ともいいようのないにおいが部屋にも充満した。

 「お前の本拠はどこだ。仲間は?言え!言わないか!」。伍長は、怒鳴りながら何回となく男の背中を焼いた。「苦しい」を繰り返し、男はついに、「話す。話すからやめてくれ」といった。伍長は手を休めたが、相手は、肩で大きく息をするだけで、結局、何もいわない。伍長が再び赤く焼かせたコテを使った。部屋には鼻をつく臭気がこもり、断続的な男の低いうめき声が床をはった。・・・

 拷問は、さらに続いた。逮捕して二日間というもの、男に何も食べ物を与えていなかった。水すらも飲ませなかったと思う。それが三日目は水責めだった。弱り果てた男を裸にし、長椅子にあおむけに縛りつけた。そして、水を入れた大きなやかんで口と鼻に水をジャージャーと注ぎ込んだ。絶え間ない水のため、息ができず男は口をパクパクさせて水をどんどん飲み込む。みるみる腹が膨らんでいった。すると、拷問指南役の伍長は、「腹に馬乗りになって水を吐かせろ。そして、また注ぎ込め」という。この繰り返しだった。何回やっても同じだ。相手は気絶している。自白を得るという効果はなかった。・・・

 三日目は水責めで終わり、四日目は、いわゆるソロバン責めだった。「丸太を三本持って来い」と、伍長がいい、軍馬手に三角柱になるように削らせた。三本並ペ、その中でも鋭角の部分を上にし、男を座らせた。足はズボンを脱がせ素肌である。いわゆる弁慶の泣きどころに角が当たり、体重がかかる。男はこれまでの苦痛とは別の痛みで、悲鳴をあげた。その上だ。伍長は、男の上に乗っかれ、という。しかも土屋と同僚二人一緒にだ。そして、体を揺すれ、といった。ゴキッと音がし、男はうなるような声を立てた。もはや、脂汗も出ないほど弱っていた。男のすねの状態を、どう表現したらいいか。「生ぬるい。足に板をはさみ、両端に重石をのせろ」。すでに別の世界にいたのか、伍長は、さらに命令した。・・・

 足を痛めつけた翌日、伍長は、何を思ったか、太い針を買って来いと命じた。通訳が布団針を四、五本求めてきた。この針を男の手の指に刺せという。指といっても爪と肉の間にだ。映画でみたか、話に聞いたか、そんな拷問があるとは知っていたが、自分がやることになるとは思いもしなかった。ためらっていると、ほおのこけた伍長が病的な目でにらんだ。やらなければならない。男はこれから何をされるのかを察し、腕を縮めた。この腕を同僚に押さえつけてもらい、土屋は、右手中指の爪の間に針を刺した。だが、実際はろくに刺さらなかった。相手はあれだけ痛めつけられていたのに満身の力で手を引こうとした。それに、土屋はおっかなびっくりだった。それで、腕を押さえるのに伍長も加わった。だが刺さらない。男も自白らしいことは、むろん何も言わない。そのうち血やら汗やらで針がすべり出した。それでも刺そうとすると、針を持つ土屋の指のほうが痛くなってきた。

 男はすでに死を覚悟していたらしく、悲鳴もあげなくなった。ただ、ものすごい形相で土屋たちをにらんでいた。足がすくむような思いに襲われながらも、伍長の命令で続けた拷問だったが、ついに伍長もあきらめた。「張文達三十三歳、近くの農村から買い物に来ただけ」ということ以外、何の自白も得られなかった。班長格の軍曹は、すでに男を抗日分子としてハルビン憲兵隊に報告していた。だが、拷問の限りを尽くしても、本拠地の所在など肝心なことは何一つ聞き出せなかった。かといって、拷問によって半死半生になっている男を、このまま釈放するわけにはいかなかった。男の処分はどうするのか、土屋にはわからなかった。

 こういう時の処分で悩むのは、土屋のような新米憲兵ぐらいである。土屋が初年兵時に公主嶺で経験したように、仕掛けがあった。針の拷問から二日後だった。平陽鎮にいた満州国軍歩兵十五師団の日系軍官である中尉が訪ねてきて、男を連れて行った。「日本刀の試し斬りに」だった。男が墓地で首を落とされるのを土屋も見た。(p.81-86)
http://www.ne.jp/asahi/kuma/radical/dokusyo/special/kenpei_kiroku.htm


広東州の中央憲兵隊へ補助憲兵として私は派遣された。野戦補助憲兵といって、憲兵と同伴の時だけにかぎって憲兵の資格を有していた。主な任務は、保全地区(駐留日本軍の勢力圏内)での治安維持であった。特に、思想犯に目を光らせた。思想犯を捕え、拘留し、洗脳するのであったが、そのやり方は目を覆うものであった。

 コンクリートの上に、真っ赤に焼けた木炭を敷きつめ、その上に裸にした“囚人”を転がした。喚き、のた打つ“囚人”は隅へ隅へと転がってくるが、周囲には日本兵がいて、それを蹴飛ばして再び中央へ戻した。“囚人”の反応の仕方は、もはや人間のものとは思えなかった。多くの“囚人”は三日目を境に死んでいった。

 女に対してもその残虐度は同様であった。やはり全裸にして、獣のように四つん這いにさせ、丸太で打ちのめした。

私は、そればかりはどうしてもできなかった。すると、

「これしきのこと、できんのかッ」

 一人の憲兵が私を蹴飛ばしてから、丸太で渾身の力を込めて女を打ちすえた。

中国人は人間に非ず、否、生き物にさえ非ずとでも思っているような拷問であった。彼らの抵抗は死以外の何ものでもなかった。
http://page.freett.com/sokagakkai_komei/www.sokagakkai.or.jp/sokanet/HBK/Heiwa/hansen-7.html


日中戦争証言 車河堡 王さん(69歳)柳河口

 1回だけ見たことがあります。強姦したのは普通子どもには見せないんです。

1回見たのは、若い女性に沢山水を飲ませて、お腹を膨らませたり、

鉄の棒を火で焼いて、赤い鉄の棒を乳房に当てたり、女性の生殖器に差し込んだり、

あるいは銃剣の先を焼いて乳房や生殖器をえぐり取ったりしました。
http://www.jade.dti.ne.jp/~kaworu/syogen/syakaho.html


860 :名無しさん :02/07/04 01:33 ID:03UDq1eg

死んだ人の事を悪く言いたくなかったけど言わせてもらう。
漏れの近所の銭湯で番台やってた爺さん(もう亡くなった)。

漏れが小さい頃よく戦争当時の話を銭湯の番台で自慢げに語ってたバカ。

『チャンコロ(中国人)の妊婦を木に縄で縛って銃剣で刺したら「ボムッ」って鈍い音出して破裂してよー。

ホント面白かったぞー。だから毎日チャンコロの妊婦探して見つけては、それやって遊んでたんだ。あの頃がなつかしいなあ(ニヤニヤ』


上の話が嘘だと思うなら,まずこれを否定してね:


小平義雄連続殺人事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/kodaira.htm

小平義雄は戦地より帰って以来、性的に突如放縦になった。

放縦なだけでは留まらず海軍被服廠の軍属であった戦争最後の年に、同じ職場の女子工員を強姦した上殺害している。以後、終戦直後の混乱の中で女性を食料をエサに誘いだし、次々と6人も、犯しては殺していった。

小平が女性を犯して殺す、その味を覚えたのは、中国の前線だった。

予審調書の中で小平は言っている。

「大怙では強姦のちょつとすごいのをやりました。…父親を縛り上げて戸棚の中入れ…
クーニャン(娘)を出せと言って出させました。

…強盗強姦は日本軍隊には付き物ですよ。
銃剣で突き刺したり、妊娠している女を銃剣で突き刺して子供を出したりしました。 私も5,6人はやっています」


取り調べと裁判の段階で明らかになったことがあるんですね。それは、彼の戦争体験のことだったんです。

「済南事件」:南京大虐殺の先駆けですね。住民の殺戮です。その時にもの凄く多くの中国人の女性が日本兵によって強姦されて殺された。この小平という人物は、その時の兵隊だったんです。

「連続強姦殺人魔」と言われた人の犯罪を重ねる下地が「戦時強姦」で培われていた、っていうことです。そのことが日本が戦争で負けた後に一気に吹き出してきた事件なんですね。
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南京で暴虐の限りを尽くした田所耕造。
http://anarchist.seesaa.net/article/78079481.html


陸軍第114師団重機関銃部隊所属 田所耕造。

『週刊アサヒ芸能』(71年)の取材に答えた当時、彼は53歳。
彼が語った残虐の限り。しかもこれが「命令」なんだから驚くしかない。

女が一番の被害者だったな。年寄りからなにから、全部やっちまった。
下関から木炭トラックを部落に乗りつけて、女どもを略奪して兵隊に分ける。

女1人に兵隊15人から20人くらい受け持たせてね。倉庫のまわりなど、
日当たりのいいところを選んで、木っ葉などをぶらさげて場所をつくる。
赤ケンといって、中隊長のはんこがある紙を持った兵隊たちが、ふんどしを
はずして順番を待つんだ。

いつか女の略奪班長をやったことがあるけど、ゆくと、女たちはどんどん
逃げる。殺すわけにはいかないから、追いかけるのに苦労したもんだよ。
支那の女は技術はうまいね。殺されたくないから、必死なんだろうけど、
なかなかいい。なにしろ上陸以来女の身体にさわったこともないんだから
、いじくりまわしたり、なめまわしたりする。私らは、よくなめ殺すといったもんです。


その凶暴兵は、柳川平助兵団(第10軍)第114師団所属。南京作戦での「働きぶり」によって上等兵に昇進。

そして、血に飢えた「ならずもの部隊」は徐州(シュイチョウ)へ進撃したのだった……。


南京に2ヶ月ぐらいいて、徐州に向かったんだけど、このときだったな、
股裂きをやったのは。ある部落で、みせしめのために女を柳の木に縛りつけ、
両足首にまきつけたロープを2頭の馬の鞍に結び、左右からムチをくれると
股から乳房のあたりまで肉がさける。骨があとに残るんだ。それを部隊
みんなでみている。中隊長もみてみぬふりだった。将校だろうと下士官
だろうと、文句をつけても『ウシロダマ(後ろ弾)だぞ』とおどしちゃう

田所耕造はこの気分が悪くなるような話を得意げに話している。上官を
無視しても、「戦闘」では頼りになった兵士による略奪・強姦・虐殺は
セットで日本軍は容認していたということだ。


川沿いに、女たちが首だけ出して隠れているのを引き揚げてはぶっ殺し、
陰部に竹を突きさしたりした。杭州湾から昆山(クンシャン)まで道端に延々と
そういう死体がころがっていた。昆山では中国の敗残兵の大部隊がやられて
いて、機関砲でやったらしいが屍の山で、体は引き裂かれて、チンポコが
丸出しで死んでいた。そのチンポコがみな立ってるんだ、ローソクみたいに。『チンポコ3万本』と俺たちはいっていたが、3000人以上はいたろうな。遠くからロングに引いてみると、残虐というより壮観だった。

読売のカメラマンで発狂したのもいたな。やったってしようがないのだが、
飛び出してやめさせようとするものもいた。普通の百姓だからといってね。
しかし兵隊はそんなのにかまわずぶっ殺していった。俺か? 俺は残虐な
写真ばかり撮っていたので病膏肓に入っていた。そういう残虐な写真を
撮るのも喜ぶものもいたし、やめとけというのもいた。参謀本部では証拠に
ちゃんと写真を撮っていたな。

以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。

当然のことながら、柳川平助兵団による強姦・虐殺は南京攻略以降の
徐州・漢口作戦でも繰り返されることとなる。

徐州作戦では捕獲したチェコの機関銃がよく使われた。10人、20人と固まって
死んでるのが3キロも4キロもつづく。殺し方もいろんな方法をとった。
3人ぐらいいっしょに木にぶら下げられていたり、首をはねたり。子どもの
首をはねるのだけど、うまいもんだね、皮一枚ちゃんと残るように斬るんだよ。
その瞬間の写真を撮ったけど……

自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている


股裂きなんぞ、東映のモンド映画『徳川いれずみ師 責め地獄』にて鬼才石井監督が撮っていたけど、その遥か以前に日本軍では娯楽の殿堂として「日常風景」だったとは驚きだ。
日本軍って、頭の中が「石井輝男」と同じだったんだな。

「股裂き」の田所耕造が所属していた柳川平助兵団が如何に凄まじい「ならずもの部隊」であったか、従軍カメラマンとして共に行動した河野公輝さんが証言しているな。
これも酷すぎて卒倒するぜ。


蘇州(スーチョウ)の略奪もすさまじかった。中国人の金持ちは日本とはケタがちがうからね。あのころでも何万円とするミンクのコートなどが倉の中にぎっしりつまっているのがあった。寒かったから、俺も一枚チョーダイしたよ。(中略)東京の部隊では赤羽工兵隊というのが一番悪かった。
蘇州の女というのがまたきれいでね。美人の産地だからね。兵隊は手当たりしだい強姦していた。犯ったあと必ず殺していたな。


以上はすべて、柳川平助兵団が南京に入城する前の段階の話である。これだけの鬼畜行為を楽しんだキチガイ兵士が「南京」になだれ込んだのだ。後はご想像の通りだ。


以上の証言は河出文庫『証言・南京事件と三光作戦』より引用した。

この本のAmazonでのレビューにこんなのがあったが……

洗脳、と言う言葉がある。
この言葉は元々は中国語だ。日本語ではない。
朝鮮戦争時の捕虜米兵に対して共産主義を信じることをせまった行為を
中国共産党が洗脳と呼んでいたのが語源だ。
この捕虜米兵と同じように洗脳された人たちがいる。
日中戦争時に捕虜となった日本兵捕虜である。
生きて日本に帰ることのできたこの日本兵捕虜は「中帰連」(中国帰還者連絡会)と呼ばれ、帰国してから「証言」したものが、南京虐殺やら三光事件やらの
「旧日本軍が大陸でいかに悪いことをやったか」を描いた数多くのプロパガンダ本の基となった。本多勝一の『天皇の軍隊』も彼らの「証言」を基にした著作だという。


さて本書であるが、タイトルの、証言とはいっても上記の中帰連(笑)の生き残りの人たちがメインである。この時点でこの本の客観性や実証性はゼロといっていいプロパガンダ本といっていい。「南京大虐殺」「三光作戦」がウソ、でっちあげの産物であると言うことはネットや書籍を通じてようやく近年常識として広まりつつある。
これも一つの戦後レジームからの脱却と言っていいだろう。


『週刊アサヒ芸能』のインタビューに答えた人間が中共の捕虜だと決め付け、事実を歪曲しているところなんぞ、まさに中共と同じやり口だな。藁


自分が犯した罪を自慢げに話した田所耕造は、もちろん中帰連ではない。ビルマで敗戦を迎えている。インタビューを受けた当時でも、自分が行ったことは間違っていないと自慢していた神社の神主であった。三島が自決した日に息子に「お父ちゃんもあんなふうに死ぬのか」と聞かれた彼は、「お父ちゃんが死ぬときは共産党と社会党のやつらを皆殺しにしてからだ」と答えている。
http://www.asyura2.com/08/reki01/msg/182.html


中国山西省に出征した旧軍人のKさんは3年兵の時、トーチカ(砲台)の
一室で、4〜5人の4年兵が現地女性を連れ込み輪姦している場面に
出会った。4年兵の兵隊が終ると、「今度は3年兵の番だ」と言われ、
Kさんは、強姦は犯罪だという認識がなく、単に古兵の命令に従わなければ
ならないと思いそれに加わった。Kさんはこういう“戦争犯罪に対する無感覚”は戦時中だけではなくて、戦後も変わらなかったと指摘する。戦友会の席上では、このような犯罪が懐かしい話、面白い話として語られるという。

その中には「股裂き事件」という話もあった。ある旧軍人が1944年の
河南戦争前後で見たことだ。中国人女性の片足を木に縛りつけ、もう片足を
馬の鞍に括りつける。そして突然馬のお尻を叩き、驚いた馬が走り出すと、
女性の体が二つに裂けてしまうというものだ。Kさんが駐在していた山西省
旧遼県でも、1941年4月に日本軍隊長が中国語で「勒馬分身」(股裂き)
という方法で殺人を行ったという。そのことは中国側の資料にも記述されている。
http://www.magazine9.jp/kaigai/dai027/index.html


南京大虐殺については

南京大虐殺関連資料集
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/data/nangjin/index.htm

南京事件資料集
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/

南京事件の真実
「否定派の解釈の誤りと、捏造のすべてを明るみにだします」 by タラリ 
http://www.nextftp.com/tarari/index.htm


仏典の地獄を偏執的狂人の妄想から生まれた怪奇残酷趣味のフィクションにすぎないと考えるのなら、これはどう思われるか。…

「村民を銃剣で追い立てて並ばせ、機銃掃射で薙ぎ倒す。

泣き叫ぶ乳幼児や子供たちを銃剣で突き殺し、

妊婦の腹を切り裂いて胎児を放り出す。

死体の山に石油をかけて焼き尽くす。

木に縛り付けて鞭打っては冷水をかけ、凍死させる。殴り殺す。蹴り殺す。死体を野犬に食わせる。

背中に石を結わえて水中に投げ込む。

輪姦し、その女の赤ん坊を銃剣に刺して肩に担ぎ、軍歌を歌って歩き回る。

赤ん坊を投げ殺す。踏み殺す。巨大な石を担がせて圧死させる。

鞭で殴って焼けた棒を押しつけ、冷水をかけて極寒の場に捨てて凍死させる。

婦女子を狩り集めて輪姦し、腹を裂いて内蔵をえぐりだす。

生き埋めにする。眼をえぐる。耳を切る。鼻を削ぐ。首を切り、その数を競う。生きながら解剖する。銃剣で突き刺し、崖から落とす。等々」

 これはフィクションではない。「正義」を掲げた日本軍が中国でやったことである。といっても、ここでは戦争の是非を論じようというわけではない。地獄は決してフィクションなどではなく、スーパーリアリズムの世界だと言いたかったのである。我々の心の内側にある畑が荒れ果てたとき、地獄はどこにでも出現する。地獄の発生は倫理や道徳では抑えられない。かつて倫理や道徳が声高に叫ばれていた時期に、戦争が絶えたことはなかった。いや、むしろ、戦争は倫理や道徳の意図的操作によって遂行されたと言ってもよい。これは歴史の教えるところである。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shiunji/yowa/yowa7.html


南京にいた日本兵たちの人間墜落と性的異常行為は限界がありませんでした。ちょうど退屈凌ぎに殺人コンテストが考案された様に、兵士たちはセックスの十分な供給に飽きると様々な気晴らしの強姦ゲームを創造しました。

おそらく日本兵が気晴らしにした最も残忍な作法の中に、女性の膣の突き刺し刑があります。

南京の通りには足を広げ、開口部に木の棒や小枝や雑草を突き刺されて倒れている女性の死体がありました。南京女性の拷問に使用され、耐え難い苦痛を与えたこの方法は考えただけでも精神が麻痺してしまうぐらい痛ましいものがあります。若い女性を強姦した日本兵は彼女にビールボトルを突き刺して射殺し、別の所ではゴルフクラブを突き刺された強姦犠牲者が発見されました。

また12月22日にTongjmenの門近郊で強姦された理髪店の妻は膣にかんしゃく玉を突っ込まれて、爆破して殺害されました。

そして犠牲者は女性だけに限られた訳ではありませんでした。中国人男性はよく男色の相手にされたり、笑う日本兵たちの前で恥ずかしい性芝居を演じるように強制されました。ある男性は雪上に転がる女性死体との性行為を強いられ、それに拒絶して殺害されました。また日本兵は禁欲主義を誓っていた男性に性交際を強制して喜ぶこともしました。男性に変装して南京の門を通過しようとした中国人女性が股の間を掴みながら一人一人チェックしている日本近衛兵に真実の性を暴かれてしまい、集団暴行を受けている時に、たまたま現場近くにいた仏教僧は危険を冒して止めに入り、不幸にさらされました。日本兵たちは彼に強姦したばかりのその女性との性交際を強制し、それを拒んだ僧侶はその場で去勢されて出血多量のために死に陥れられました。

さらに最も卑劣な性的拷問手段の中には家族に対する退廃があります。

日本兵は中国人男性に対して、父親は娘を、兄弟は姉妹を、息子は母親を強姦させる近親相姦を強制して、加虐的な喜びを味わいました。

中国軍大隊の司令官だったGuo Qiは、街が陥落して息詰まっていた3カ月の間に、少なくとも4、5回は日本兵が母親を犯すように息子へ強制して、拒んだ者はその場で殺されているのを見たり、聞いたりしました。

この報告書は、ある中国人男性が母親を強姦することを拒んでサーベルで突き殺され、直後にその母親も自殺したことについて報告したドイツ人外交官の証言で実証されています。

家族の中には、この様な行為を強いられるぐらいなら率直に死に応じる者もいました。ある一家は揚子江を横断しようとしたところで二人の日本兵に止められ、点検を求められました。ボード上で若い女性や少女たちを見つけた日本兵たちは両親や夫の目の前で女性の強姦を始め、これでも十分にひどい行為にかかわらず、兵士たちが次に要求したことは一家をさらに困惑させました。彼らはこの一家の年老いた男性にも同様に女性たちを強姦させようとしました。一家は従うよりも川へ身を投げて溺れ死ぬことを決意しました。


日本兵に捕らえられた女性たちは強姦された直後に殺され、生きる望みはほとんどありませんでした。

女性たちは様々な方法を用いて強姦から逃れようとしました。中には、すすを顔に擦り付けて老いて見せたり、病気にかかっているように見せたり、頭髪を剃って男性を偽ったりして変装する女性たちもいました。(ある利口な若い女性は金陵大学の安全地帯までの道のりを老婆に変装し、杖を持って足をひきずりながら、背中に借りた6才の子供を負ぶって歩いてきました。)また4日前に死んだ子供を生んだと日本兵に告げて病気を装ったり、中国人捕虜の助言を受けて指を喉に突っ込んで何回か嘔吐して見せた女性もいました。(彼女を捕らえた日本兵は慌てて建物から追い出しました。)中には人混みの中を屈んで進み、壁を敏捷によじ登って日本兵からの追撃を逃れた女性や、三階の日本兵を妨害して、庭の中国人男性が支える竹棒を滑り落ちて、辛うじて暴行から逃れた少女もいました。

しかし、あがいた女性は一度、捕らえられると、日本兵に抵抗しようとした見せしめのために拷問にかけられました。日本兵に挑んだ者たちは、よく目玉をえぐり抜かれていたり、鼻や耳や胸を削がれている状態で後に発見されました。


金子安次
「昼間のうちにいい女に目をつけておいて、夜襲いに行く兵士もいた。頑強に拒んだ女性には膣に棒を押し込み、子宮を切り裂き、油をつけた綿を押し込み燃やしたこともしばしばあった。」

 金子さんの話によると、民間人に対する殺戮と性的虐待は日常的に行われていて、これに加担しなかった日本兵は、少なくとも金子さんの知る限り、ほとんどいないという。

子供は、慣例のごとく両親の目の前で殺された。


子供の前で母親を犯す。赤ん坊を火にくべる。または子供の前で親を焼き殺す。

生きたまま生体実験を行う。 慰安と称して女性の膣にガソリンを含んだ布を押し込み、火をつける。


日本兵が南京の居住民に与えた数々の拷問は人間の理解できる範囲を越えています。下記の例はそのほんの一部分です。

(生き埋め殺人)日本兵は機能的に埋葬活動を実施することで大量虐殺の効率化を図りました。中国人捕虜たちはそれぞれグループに分けられ、まず第一グループが自分自身の墓穴を掘らせられ、第二グループが第一グループを埋め、続いて第三グループが第二グループを埋めて行くという具合に強いられました。犠牲者たちの中には胸や首から下部分を埋められて、刀で徐々に切り刻まれたり、馬や戦車で下敷きにされたりして、さらに大きな苦しみを受けた者たちもいました。

(切断)日本兵は犠牲者たちのはらわたを抜き出したり、斬首したり、手足を切断しただけでなく、さらにひどい種類の残酷な拷問を行ないました。

街の至る所で捕虜たちが板に釘付けにされて戦車にひき殺されたり、木や電柱にくくりつけられて肉体を切り刻まれたり、銃剣の練習台にされて虐殺される光景があり、明らかな事実の中には、100人以上の男性が銃殺される前に目玉をえぐり出されたり、耳や鼻を削ぎ落とされたということがありました。また200名を越える中国兵や市民の集団が裸で柱や学校の戸に縛られ、zhuiziという特別の針で口や喉や目を含む何百カ所という肉体部分を突き刺されることもありました。

(火による殺害)日本兵は犠牲者たちを集めて一気に焼き殺しました。江口の日本兵は中国人捕虜を10人単位でまとめて縛り、ガソリンをかけて火が点けられている窪地へ落とし込みました。太平路でも大量な数に上る店員が火刑を宣告され、ロープでまとめて縛られて炎の中へ投げ込まれました。さらに中国人暴徒たちを建物の最上階や屋根上に集めて、階段を破壊し、炎を下に灯すという余興の火刑ゲームも考案されました。多数の者が窓や屋根上から飛び降りて自殺を図りました。


また犠牲者たちを燃料でずぶぬれにして射撃し、炎上するのを観望するという娯楽も実施されました。ひどい事件の中には日本兵が何百人に上る男性や女性や子供たちをガソリンでびしょ塗れな広場の中に入れ、マシンガンで火を点火することもありました。

(氷による殺害)南京大虐殺中、 何千人に上る人々が故意に凍死させられました。何百人に上る中国人捕虜たちが凍結している池の辺まで行かされ、裸になって氷を壊し、水の中へ魚を捕まえに飛び込む様に命令され、水の中に入ると彼らの肉体は日本兵の銃弾に穴を空けられる浮いた的と化しました。また避難民集団を縛って浅瀬の池へ投げ入れ、そして手榴弾で爆破して「血と肉体の爆発雨」を引き起こすこともありました。

(狂犬による殺害)残虐非道な拷問方法の中には、犠牲者たちの腰部分まで土の中に埋めてジャーマンシェパード犬にかみ殺されるところを観望するというものもあります。日本兵が犠牲者を裸にして、肉体の敏感な部分をジャーマンシェパード犬に噛みつかせる指図をしているところを見物人が見ていました。犬たちは腹を噛み開き、腸を離れた場所へ引きずり出していたそうです。

これらの出来事は日本兵が犠牲者たちの拷問に用いたほんの一部です。日本兵は犠牲者をACID(麻薬)浸けにしたり、赤ん坊を銃剣で突き殺したり、人々の舌をフックに掛けて吊るすといった残虐な行為を公然と行ないました。

日本軍はまったく人間性を喪失してしまい、少しもはぱかることなく女性を強姦・輪姦した。幼女からろうぱまで、はなはだしきにいたっては妊婦さえも免れることはできなかった。

数多くの女性は暴行されたのちまたむざんにも殺害された。日本軍が南京を占領して1か月の間に、2万回以上もの強姦事件が発生した。その時、南京にいた外国の人たちが日本軍のことを「きん獣の群れ」といったのである。

”輪姦の後、殺害された女性”とキャプションのあるこの写真では腹を割かれ、内臓がとび出している。少し開き加減の足。左足の先のほうにはズボンと覚しきものがからまりついている。
http://www.jca.apc.org/nmnankin/magaz306.html


人前で中国人の首を斬殺さしたり、妊婦を銃剣でお腹を裂き見世物にしたとか、娘らを強姦したら殺す!(死人にくちなし、と言う事だそうです)

乳飲み子を母親から取り上げ谷へ投げ捨てた。

子供に”みの”をかぶせ火の中に投げ入れ、熱い熱いとみのがゆれるさまを喜んで”みの踊り”と言ったそうです

日本兵は「幼い娘は熟していない」といって、下腹部を切り開き輪姦を始めるのであった。妊婦でさえも容赦はなかった。

妊娠9ヶ月の17歳の少女を2人の日本兵が強姦する。この結果流産してしまい、彼女は発狂してしまった。HongWu門外では日本兵が農家の妊婦を強姦し、女性の腹部を切り開き、胎児を取り出した。また別のところでは、日本兵が妊婦を強姦しようとしたがお母さんが立ちふさがる。

そこで日本兵の超残虐な行為が始まる。日本兵は老婦を蹴飛ばし、妊婦の腹部をナイフで切った。数ヶ月たったばかりの胎児が中から飛び出した。

このようにして2人の尊い命が一瞬のうちに消えてしまった。多くの女性が強姦の後殺害されている。ある日本の上官は部下にこう言った。「後で厄介になるから、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ」多くの女性はこの時の経験を話せない。

しかしそのような地獄から生還した女性もいる。彼女はJianYin通り6丁目に住んでいた。彼女は他の女性といっしょに日本軍に連れ去られた。日中は洗濯をさせられ、夜になると輪姦の道具となる。年増の女は一晩で10回から20回。若くてかわいい女はもっと多かった、と証言する。

正月元旦の日、二人の日本兵が彼女を連れ誰もいない学校にやってきた。そして彼女を10回銃剣で突き刺した。首の後ろに4回。腕に1回。顔に1回。背中に4回刺された。日本兵は彼女が死んだと思い、去っていった。あとで通行人に助けられ病院に担ぎ込まれ命を取り留めた。強姦の後幸運にも殺されなかったが性病に罹り、一生苦しんだ人たちもいることを忘れてはならない。


" 外国人の見た日本兵の蛮行 # という本の中に著者の TianBoLie 氏は南京の虐殺の事実を記録に残している。そのほとんどが強姦であった。それから少し例を拾ってみるだけでも日本軍の罪の重さがわかる。12月14日正午、日本兵は JianYing 通りの民家を襲った。4人の少女を誘拐し2時間かけて強姦した。12月14日夜、日本兵が民家を襲って女性を強姦し、連れ去った。12月15日夜、大勢の日本兵が Jinling 大学の講堂に押し入った。そこで30人の女性を強姦した。ある者は6人の日本兵から次々と輪姦された。 12月15日夜、大勢の日本兵が ShanTiao通りの民家に押し入り、多くの女性を強姦した。12月16日、日本兵は保育大学から7名の少女を誘拐した。年齢は16歳から21歳までの娘であった。そのうち5名が後に釈放された。18日におこなわれた事情聴取によると彼女らは一日に6回強姦されたといっている。

12月18日の夕暮れ時、4,5百人の女性がわれわれの事務所に保護を求めてやってきた。 この多くは日本兵に強姦されていた。 ここに記載した事件は南京陥落後のほんの数日間に起こった氷山の一角に過ぎない。 実際、 " 強姦は南京陥落後6週間に渡って大規模に行われた」のである。これらの犯罪は下級兵士の行動にとどまらず、指導者層にまで及んでいる。

南京虐殺の主犯格である日本軍第六師団長谷寿夫の証言によると、彼は ZhongHua 橋の近くで Din Lan という女性と他に二人を強姦している。また、SaiHongQiaoで Liu YuQingさんと他三名を強姦した。他のところで10名以上の強姦も認めている。日本軍の侵略者たちは強姦で動物本能を満たすだけでは終わらなかった。

彼らは集団で輪姦し、その後、殺して死体を切断するのであった。多くの女性は10人くらいの日本兵に輪姦された。そして女性は死んでいく。この種の経験をした女性の死体は数限りなくあった。虐殺の期間中、強姦の犠牲者には教授婦人、尼僧、労働者、教師、学生などがいた。


2月の終わりごろ、14人の難民の家族が日本軍により惨殺された。一番下の娘はほんの14歳。彼女は二つの正方形のテーブルの上に乗せられて死んでいた。上半身は服を着たままであるが、下半身はすべて剥ぎ取られテーブルは血の海であった。そして彼女の下腹部には銃剣で刺した後が二つあった。

お姉さんは妹と同様の格好でベッドの上に倒れていた。母親はテーブルのところで1歳の赤ん坊を抱きかかえ倒れていた。赤ん坊は腹部をナイフで切られ、内臓が飛び出していた。正視できない地獄絵巻である。国際委員会の委員は調査に乗り出した。
写真を撮り、それをアメリカの市民のもとに送った。日本大使館にも送った。


日本軍の地獄の苦しみを味わったのは主に女性であった。彼女らは強姦されてそれで終わりではなかった。日本軍から胸を切り落とされ骨が見えている女性。
下腹部を銃剣で刺され苦痛で泣き叫ぶ女性。また、下腹部に木材、竹、人参などを差し込まれ、かき回されて死んでいく女性。

これを端で見ている日本兵は拍手を送り高らかに笑っていた。日本軍に囚われコックとして働かされた中国人が脱走後次の話をしてくれた。12月16日、通りに出てみるとまだ火も残って煙が立ち込めていた。我が同胞の死体の山、山、山。特に女性の死体が目立つ。それらの中で10体のうち8体は腹部を切断され中から内臓が出ている。

血まみれの胎児を手にした母親の死体もある。女性の乳房は切り取られるか銃剣で刺され、血と肉の固まりと化している。南京市内外の虐殺の期間中、多くの女性の死体はこのような様子であった。XinZhong門の城壁近くの家で60歳代のおばあさんの死体が見つかった。おばあさんの下腹部は大きく膨らんでいた。

YangPi通りの北に少女の死体が見つかった。おなかは切り開かれ内臓は引き出され、2つの目は大きく見開き、口からは血が流れていた。 GuYiDian通りでは12歳の少女が死んでいる。下着は破られ、目は閉じたまま口は開いていた。この死体を見てわかることは、これらの女性が単に日本兵の刃に倒れただけでなく、辱めを受けているということだ。

日本兵の犯した強姦の罪は重い。その残虐さは彼らの殺戮に劣らなかった。日本軍の上官はこれらの残虐行為の手をゆるめることはなかった。むしろ兵士の動物本能を満足させるためにこれを奨励した。その結果、日本兵はどこに行っても強姦をやった。上海、SuZhu,WuXi, HangZhou でも日本兵は同じことをやった。

南京の女性の運命は特に悲惨なものであった。南京陥落後、日本兵は女性を求めて南京のいたるところを探し回った。そして見つけると集団暴行を行う。
http://www.geocities.com/Pipeline/Halfpipe/3791/katari2-2.html

日本兵の婦女暴行・強姦の実態

1.妊娠している婦人を全裸にして刀で刃傷、木の間に女の両手両足をゆわえて子宮に手オ留弾をさして爆発。興味本位で、得意気に。(元軍曹T)

2.死体処理の少年の証言、女性の死体は特にひどい。ある女性は両手両足をひろげてベッドに縛られ、局部にサイダーの壜を深く刺されて被殺。

3.多くの少女はベッドに縛りつけられ誰でもがすぐに犯せるようにしている。少女があまり泣きじゃくったり、性病に罹ったりしたら、すぐに殺されてしまう。路地や公園には女性の死体でいっぱいだ。 彼女らは死んだ後でも切断されたり、局部に物を差し込まれたりして辱めを受けている。

4.一月一日、呉昌生が光華門外の自宅に帰った時、七人の日本兵がひとりの中国人のおばあさんを連れてやってきた。彼らにおばあさんを犯せと命じた。日本兵はこの光景を見て笑っていた。

5.二月五日、三牌楼に住む六十歳を超える陳さんのところに三人の日本兵がやってきた。 一人が見張りで、他の二人は交代で強姦した。日本兵の一人はおばあさんにペニスをなめてきれいにしろと言った。

6.1944年の春頃、鈴木氏が分隊長として、討伐作戦に参加した際のある村の話であった。 彼の分隊が休憩していたある農家に、一人の憲兵が現れ、惨劇が始まった。村の女性に食事を作ることを強い、お湯を沸かせていた時のことだった。

突然、その憲兵は梅毒にまみれた自らの陰茎をとりだし、食事の準備中の、一人の女性に、これを舐めろと要求した。ところが毅然と拒絶したその女性に、憲兵は激怒し、服をちぎって沸騰したお湯を浴びせ、遂に殺害した。


7. 12月15日、またもや押し入ってきた日本軍の兵士が、数え年8歳の蔡さんを強姦した。蔡さんはその様子を次のように語る。「日本兵は、私の陰部に手をねじ込み、その時まだ幼かったので、非常に硬かったのを無理やり押し込んでこじ開けた。


8.「冬には、至るところで暖をとります。兵隊は、赤ん坊をひっ捉まえ、火の中に投げ込んだものです。」と、古参兵の一人が報告する。別の帝国陸軍の兵隊が語る。

彼の部隊は打ち棄てられた村で女をみつけ、裸にし、「膣に布切れを押し込み、ガソリンを染み込ませて、火をつけました。皆それを見ていました。隊長もです。 部隊の慰安の一種だったんです。」


「暗い部屋に産褥の婦人ありて傍らにいとけなく眠る嬰児。銃剣で布団を跳ねのける。女は両手を合わせて拝んでいる。(略)彼女は衣服乱れて乳房一突き息絶えていた。」「先に高粱で隠された長持の中の娘もどうやら、輪姦の上刺殺した模様であった」(一一○頁)。

「掃討にあって残虐は付きもので、女をあさる。

輪姦、強姦と、又素裸にして乳房を刺突或は陰部にローソクを垂らし悶えるを見て悦び、恥毛に煙草の火をのせて焦げゆく興味。

タマゴを局部に挿入二個、三個と、更にトウモロコシを挿入或はピストン運動、トウガラシを詰め込み歓声を上げる。

銃剣の先で膣をつつく。こうして時間をもて遊んでいる。呻き苦しみ悶絶、出血滴る女と、掃討の修羅である」(一一二頁)。

「捕らえた女を丸裸にして寝かせて、両足を一ぱいに広げ杭に結びつけ尻したに枕して腰を浮かせて膣に、ナンパ大根と挿入できるようなもの等、刺激物のトーガラシとかをもって、いろいろなことをして、悶える表情に歓声を挙げていた。

更にローソクの垂汁をポトポトと膣に落し上手、下手を争って楽しんでいた。

乳房、腹上、局部にムカゼ・サソリ等を捕らえて這わせての興味を持っての蛮行が、いずこの部隊でも隠された所で行われることが、討伐作戦の楽しみであった。」

「捕虜の男と女を牢から出して来て裸体にして女に男の性器をくわえ吸わせ舐めさせ、性器が勃起するの見物と、性交させることの成り行きと、女の膣ネブリ、乳房と、ああしろ、こうしろと、注文をつけて、その表情を楽しんでいた。」(一一七頁)

 強い攻撃性は、攻撃の対象により強く大きな苦痛と恥辱を与えることで、自らの勝利感、征服感を満足させた。その対象が女性であるときは、性器への攻撃となって現われた(二六)。
http://park17.wakwak.com/~ueba/sankousakusen.4.html


まず、釣り針が連続して付いている釣り糸と竿を用意します。

そして、女の股をひらかせます。

女の膣に釣り糸を挿入。

釣り針も全て挿入し、挿入が終わったらウィンチで思い切り引っ張る。


これは第二次世界大戦時、日本軍が中国で行ったお遊びです。

男性に対しては行われず、女性のみを対象とした完全な性器刑。
失血死した人もいたそうです。


http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c84

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
85. 中川隆[-13722] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:14:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21421]

朝鮮人「慰安婦」の証言


12歳で「慰安婦」に 李京生

 私は3歳で母を亡くし、6歳のときには父を亡くし、育ててくれた祖母とも死に別れた。孤児となった私は、地主の家の子守や下女として一人で生きてきた。

 12歳になったある日、区長が呼んでいるというので行ってみたら、既にキム・グワンソン、パク・スボク、ユン・チュンソンの3人がきていた。みんな私と年齢が前後する女の子たちであった。区長は、私に「お前は哀れな星の下に生まれて苦労している。きょうからお前の人生を変えてやろう。良い所へ連れていってあげるがどうだ」と言った。

 私はそれまでのみじめな境遇が辛かったので、今より良い暮らしがあるのなら「行きましょう」と答えた。区長は、「私が呼び出したら朝でも夜でもすぐくるんだよ」と言った。幼い私は、「はい、すぐきます」と答えた。

 夜になって区長の家から使いがきたので、私は急いでいった。区長は立派な日本人が迎えにきたといった。見ると長い刀を腰にさした男が3人きていた。私たちは怖くなって「アッー」と声をだしてしまった。それを見た区長は、「お前たちを良い所へ連れていってくれるのに怖がるな」といった。そしてその男たちに私たちを引き渡すと、村の外まで見送ってくれながら、「きょうからお前たちの運命が変わるのだ。いい所にいけよ」と励ますようにいって家に帰ってしまった。どうしていいのかわからないままに、私たちはその男たちの後についていった。

 男たちの後についていくとやがて駅前に出た。そこで汽車の貨車に乗せられた。良い所に連れていってくれるとは言われてみても、そこは子供だから、次第に心細くなり、4人してめそめそしたりしていた。

 明け方近くなって降りろというので降りたら、駅前に車が迎えにきていた。車には2人の日本人が乗っていた。私たちは、見知らぬ3人の日本人についてくるだけでも怖かったのに、また2人ふえたのでもっと怖くなった。しり込みする私たちをみて、男たちはまるで豚のしっぽをとって車に乗せるように、私たちを5人がかりでほうり上げて乗せた。

 どれくらい行ったのか記憶に残っていないが、まわりが明るくなったころ、やがて山の中に到着した。彼らは「降りろ」といったが、私たちはおじけづいてじっとしていたら、ひきずり降ろされた。そして、「ここが良い所だから入れ」と言って家の中に連れ込まれた。そこが慶尚道・昌原にあった軍の秘密工場であることは、ずっと後で知った。

 指定された部屋の中でしばらくじっとしていると、日本の着物を一抱え持った看護婦が入ってきて、「朝鮮服を脱いでこれに着替えなさい」と命令した。もじもじしているとむりやり脱がされて裸にされ、浴衣を着せられて胸に「ミイコ」という名札を付けられた。そして、「お前はきょうから朝鮮人ではなく日本人だ。日本帝国の天皇陛下のために働かなければならない。お前の名前はミイコだ、朝鮮語を使ってはならない」といった。それからは約半月の間、雑穀の入った食事を三度与えられるだけで、仕事はさせなかった。苦労ばかりしてきた私は、区長が言っていたように良い所へきたのかな、と単純に思ったりした。

 やがて半月が過ぎると今度は将校がやってきて「足を洗え」「つめを切れ」などと命令するだけで、仕事らしいことは何もなかった。ただ、「風呂に入れ」とか「身体検査」と言われれば体重計に乗ったりして、言われるままに行動していた。そんなことでまた半月が過ぎた。

 ある日の朝、前庭に集まれというので行ってみたら、少女たちが20名くらいいた。その少女たちと一緒に私たちも一列に並ばされた。私たちの前に将校たちがやってきた。その中で星が4つ着いた将校が、一列に並んだ少女たちをなめるように見回していたが、一番背が低いので端っこにいた私を、自分のそばに引っ張りだした。次に少しくらいの低い将校が、同じようにして他の少女を選んだ。

 こうして順番に将校が気に入った少女を選びだし、自分の部屋に連れていった。私はその時、8号室に入れられた。私と一緒にきたユン・チュンソンは隣の9号室であった。やがて昼食がすむと、工場から800メートルほど離れたところにある場所に連れていかれた。そこでも8号室に入れられた。そこは将校が入る部屋だと後で聞いた。

 夜になって男が部屋に入ってきたが、それは朝、私を選んだ将校であった。その将校の名前は「トウギョウ」といった。彼は、12歳の私を暴行した。あまりにも幼い体なので膣が引き裂かれてしまった。翌朝の8時か9時ころ、医者と看護婦がやってきて治療してくれた。そんな状態にもかかわらず、その将校は毎夜のように襲ってきた。

 それは、私だけではなく他の部屋でも同じであった。9号室のユン・チュンソンは恐怖と嫌悪感から拒否して叫んだので、口をふさいで窒息死させられてしまった。

 こうした行為を強いられて1か月もしたころ、トウギョウという将校は「もうお前に飽きた。好きにしろ」と言ってこなくなった。それからは毎日のように7、8人くらいの兵士がやってきた。こうして、この秘密工場での私の「慰安婦」生活が始まった。

 これは、慶尚北道安東出身の多くランという18歳の女性のことである。彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

 忠清北道のキム・サムニョという20歳前後の女性は美しい人であった。彼女のところには数十人の兵士たちが列をなしていた。この屈辱的な暴行に耐えられなくなった彼女は、死を覚悟して抵抗した。日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした。こうして、3人もの女性が殺されるのを見せられた私たちは、恐怖のために抵抗も逃げ出すこともできなかった。

 16歳になった私は、知らぬ間に妊娠していた。それを知った将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した。その時に受けた傷が今でも残っている。

○彼女は襲ってきた兵士に反抗して、相手にかみついたり、ひっかいたりしたというので、裸にされて工場の電信柱に一日中逆さつりにされた。ほとんど瀕死の状態の彼女に対して、「これでもお前は反抗するのか」と威嚇する兵士に、彼女は「言いなりになるくらいなら死んだ方がましだ」といって抵抗し、ついに他の「慰安婦」たちの前で見せしめになぶり殺された。死体はバラバラにされてカマスに入れて川に放りこまれた。

○将校は、軍医に診察させて妊娠を確認すると、「天皇に忠誠をつくさない朝鮮人の子供は必要ない」と言って、私を部屋に閉じ込めてお腹を裂き、数カ月経っている胎児を引きずりだして殺した

○日本軍は、見せしめだといって、彼女を板の上に仰向けにさせて両手両足をしばり身動きできないようにした。そして30人くらいの兵士たちが馬とびのようにして輪姦した。彼女もまたついに命を落とした


 それから間もなくであったと思う。そこで賄い婦をしている朝鮮人のシン・ファジャというおばさんが私たちのところに忍んできて、「お前たちはみんな可愛い顔しているね。こんな可愛い子たちがここで朽ち果てるのはかわいそうだ」「ここは秘密工場だから、ここにきた女性たちは生きてでられないよ」といって「何とかして逃げなさい」と教えてくれた。それから一緒にきた私たち3人は逃げ出す方法を計画した。

 当時の兵士たちは将校と違って思い通りに酒を飲めなかった。お酒を飲みたがっている彼らの弱みを知っている私たちは、酒を与えて酔いつぶす計画をたてた。私たちは、将校が飲み残した酒やつまみをこっそりとっておいて集めて3本分の酒を用意した。

 土・日曜日は将校たちが家族のもとに帰っていく。その日をねらって門番の兵士に酒を与えた。酒につられた彼らは、私たちの計画にはまり、私たちはやっとの思いで逃げ出すことができた。私たちは3人がバラバラになって逃げた。それっきり私は同郷の友人たちの消息を知らない。

 私は電線のない深い山奥をめざして逃げた。そこでひっそりと住んでいる老人夫婦の家をみつけて、かくまってもらい、老人夫婦の好意でそこに住みついた。

 18歳の時に、山村の人々の世話で、身寄りのない若者と所帯をもった。結婚式も何もない貧しい者が寄り添った暮らしには、家財道具も何もなかった。周辺の人々が持ち寄ってくれた必要最低限の道具で2人の生活は始まった。しかし、私は常に追手の影におびえていた。私は夫に哀願を繰り返し、中国に逃げようとせっついた。そして中国の瀋陽に渡っていったのである。

 解放は中国で迎えた。祖国の解放を知った私は、今度は故郷に帰りたくて、また「朝鮮に渡ろう」と夫に哀願した。夫は「お前は、前には中国にいこうとせっつき、今度は朝鮮に帰ろうと騒ぐ。いったいなぜなんだ」と聞いたが、私は過去のことは一切いわなかった。

 1960年代に祖国に帰国した。祖国では協同農場の一員として夫婦で働いてきた。私たちの農場は稲作を主としてやっている。私は農民として働ける暮らしがうれしくて、本当に良く働いた。

 ことしの3月27日にただ一人の身内である夫を亡くし、一人ぽっちになってしまった。夫にも過去を隠して暮らしてきた自分の半生がなんであったかを考えると、涙にくれるばかりであった。むなしかった。

 今までにも、「慰安婦」時代を思い出して夜中に飛び起きて胸の締めつけられる思いを何度したことか。黙ってしまってきた過去を告発して楽になりたい、と思った。何日も考えた末に、みずから平壌中央テレビを訪ねていき、「私が元慰安婦です」と最初に名乗りをあげた。


(リ・ギョンセン 1917年6月29日生 咸鏡北道魚郎郡出身)

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拷問の後遺症に苦しむ日 李福汝


 私は4人兄弟の長女として生まれたが、両親は弟3人と私を残して亡くなった。乳飲み子の弟は、母の死後まもなく死んでしまった。私は6歳と7歳の幼い二人の弟の面倒を見なければならなかった。

 住む家もなかったので、橋の下で雨露をしのぎながら、もらい乞食をしたり、農家の手助けをして生きるだけの食べ物を得て弟たちを養っていた。

 私が数え17歳の夏であった。弟の一人が風邪気味なので、居住していた小屋に寝かせておいて食べ物をもらって帰ってきたら、日本人の、巡査なのか兵士なのか区別ができない男が二人あらわれて、いきなり有無を言わせずに、私の髪の毛をつかんで大きなトラックに放り上げるように乗せた。弟たちが驚いて「お姉ちゃん行くな」と泣き叫ぶ声に振り返ろうとしたが、男たちに蹴られて車に押し込められた。弟たちの「行くな」という声だけが聞こえてきて、姿は見ることができなかった。

 トラックには、既に大勢の女性が乗っていた。幼い少女から20歳前後の娘たちでいっぱいであった。100人くらいはいたと思う。彼女たちは泣きわめいていたが、男たちは泣き叫ぶ私たちに蹴る殴るの暴行を加えながら黙らせた。周囲をうかがおうとしたら、「何を見ている」と言って足で蹴られた。

 水原の駅から汽車に乗せられてソウルを経て大連に連行された。途中、鴨緑江のペネンという所で汽車が途中で止まったので、こっそり外をのぞいたら、鉄橋が二つに分かれて上がっていて川を横切る船が過ぎ去っていくのが見えた。そんな私を見とがめた男が、「何を見ている」と言って髪の毛をつかんで殴った。私は弟のことも心配だったし、これから何が起きるかもわからないので不安で泣きだしたら、また殴られた。

 途中で娘たちの一部を降ろして行きながら、ハルピン、ボンチョン、牡丹江などを経由して東寧県北満州に到着した。そこで汽車を降りた。そこからはトラックに乗せられてプチャゴルに連れて行かれた。

 プチャゴルには20人くらいの娘たちが連れて行かれた。到着すると将校がでてきて、「天皇と軍の命令だ。言うことを聞かないと殺す」と言って私たちを脅した。私は5号室に入れられたが、やがてあちこちの部屋から悲鳴が聞こえてきた。私はその日のうちに暴行された。

 私は訳がわからないままに慰安婦にされてしまった。

 それからは慰安婦として毎日2、30人の相手をされた。拒否すると見せしめに庭に引きづり出され木につるされ、「降参しろ」と迫った。

 私たちが到着して間もなくのある日、2人の女性が慰安婦を拒否したというので木につるされていた。軍人たちは「慰安婦」たちを全員呼び集めた目前で「降参しろ」と迫った。しかし、彼女たちは「おまえら犬のようなやつに降参するか」と抵抗した。たけり狂った軍人は、私たちの目の前で乳房をえぐり、なぶり殺しにした。私は余りの残酷さに気絶してしまった。

 鬼のような軍人たちは、2人の慰安婦の首を切り取り、それを、かまゆでにして、その煮汁を私たちに飲めと強要した。しかし、それを拒否すれば、私たちも殺される。殺されては生き延びる手立てもない。仕方なしに私たちは、それを飲んだ。こうしたことを、私たちは何度か体験した。

 「慰安婦」たちは、常に20人くらいいた。病気で死亡したり逃亡に失敗して殺されたりした欠員は補充されていた。

 ここの慰安所には8年いたが、そこにいた軍の部隊の名称はわからない。タカシマという名前と、イケダという50歳過ぎの眼鏡をかけたひげを生やした将校(大将)がいたことは記憶している。このイケダは、逃亡に失敗した私に拷問を命令した男である。

 あるとき私は逃亡しようとして失敗した。捕らえられた私は、板にくくり付けられて何十人もの男たちに犯されて、2度と逃げ出さないようにするといって、足の神経を切られた。それがために現在の、この不具の体になった。

 それから私は東寧県に連れて行かれ、そこで騎馬隊−騎兵隊に引き渡された。そこでは、砂地に天幕を張っただけの所に入れられた。そこには鉄条網が張られていたが、私は、そこ多くぐって、またも逃亡しようとして失敗した。その鉄条網に鈴がついていたのを知らなかったのである。

その時には、火で焼いたドラのような鉄板でお尻の右側に火傷をおわされる拷問を受けた。その時の火傷がケロイド状態で今でも残っている。(調査団のメンバーが肉眼で確認済み)。その火傷のために足がつって歩行困難になってしまった。いまだに、食をするのにもキチンと座ることができない。

 それでも、はってでも逃げようと、私は逃亡することだけ考えていた。

 ある時、チシャ(サラダ菜)に包んでご飯を食べていた慰安婦たちが、2口ほど食べたところで次々と倒れて死亡した。私は、歩行が不自由なので食事に遅れたが、それが幸いして、そのチシャを食べずにすんだ。

 私は、はってそこを逃げ出した。その私を村の中国人が助け出してかくまってくれた。それが1944年であったと思う。中国人は朝鮮に逃げなさいと教えてくれた。1947年清津に帰国した。

 私は、私の青春時代に、花の年齢に、私を拉致して「慰安婦」にし、こんな障害者にした日本軍人を許さない。

(リ・ポクニョ 1919年4月18日生 京畿道出身)
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12年間の「慰安婦」生活 金大日


 私の実家は余りにも貧しかった。数え12歳のときに、わずかな米と引きかえに金持ちの家に下女として連れて行かれた。そこから日本人の経営する紡績工場に売られた。1932年、数え16歳のある日、今度はフクダという日本人がやってきて、「食べ物に困らないところに連れて行く」と言った。私は、またもや売られてのである。

 私は、フクダと一緒に汽車に乗って釜山港に連れて行かれた。そこには朝鮮女性が20人くらい、あちこちから連れてこられていた。自分がどこへ連れて行かれるのか理解できないままに船に乗せられ、下船したのは下関であった。下関に上陸すると同時に、フクダという男は、「これからは朝鮮語を使ってはいけない。もし使ったら殺す」と脅し、そして「これからお前の名前はシズエだ」と行った。そこから連れて行かれたのが大阪の病院であった。

 病院では雑用をさせられた。地で汚れた包帯やガーゼ、患者の大小便で汚れた衣類の洗濯など、日本人が嫌ってしない汚い仕事は全部させられた。

 来る日も来る日もべっ視と屈辱的な扱いの中で、長時間の労働を強いられ、外出する機会も与えられず、病院の雑用を押し付けられていた。

 数え18歳になったお正月の夜、病院の院長だと名乗った男が、私の部屋に入ってきてナイフを突きつけ、「私の言いなりにならなければ殺す」と脅して、叫び声をあげた私の口を手で押さえて暴行した。その日まで、私は院長の顔も知らなければ会ったこともない。院長は「お前は美しいので、前から目をつけていた」と言った。

 それから、しばらく経ったある日、院長が「お前のこの病院で2年も奉公したから、今度はもっと良いところに行かせてあげよう」と言って、見知らぬ日本人の男に私を引き渡した。

 その男は、私を東京に連れて行った。そして、日本の軍隊に「挺身隊」として送り込んだ。そこには朝鮮女性が30人くらいいた。1934年のことである。現在では「従軍慰安婦」と言っているが、私が当時、言われたのは「挺身隊」とはっきり記憶している。

 そこで、軍隊と一緒に連れて行かれたのが旧満州である。まず、東京から船で釜山へ行き、釜山から汽車で新京、それからハルピン、チチハル、牡丹江であった。そこで私のほかに数人の女性が選ばれて、船に乗せられて連れて行かれたのが上海であった。

 上海には既に朝鮮女性が大勢いた。その女性たちは、「あなたはどうしてこんな所にきたの」と言いながら私を哀れんだ。私は、「お姉さんたちと同じように無理やり連れてこられました」と答えるしかなかった。

 上海では中国人の民家の2畳くらいの部屋に入れられた。部屋の前には番号が40くらいふってあって、私は12番に入れられた。その夜、将校たちが私を暴行した。それからは1日4、50名もの日本兵が私の部屋の前に列をなし、「早く早く」とせかして先を争い、入れかわるとすぐにのしかかってきた。私は起き上がる暇もなかった。

 私が最初に従わせられた軍隊は12師団で、その師団の移動に伴って私たちは引きずり回された。上海の次にはハンカオへ連れて行かれた。そこから南京、トウヨウ、キショウと、転戦する軍隊に従って中国各地を連れ回された。

 日本の軍隊のなかでも九州6師団が一番悪かった。他の日本軍は胸に標識をつけていたが、九州6師団はそでに標識をつけていた。

 私はこうして12年間も慰安婦生活を強いられたが、中でも6師団に加えられた数々の暴行は、決して忘れられない。彼らは酒に酔ってやってきて短刀を突きつけて、「おれの言うことを聞かないと殺す」と身体を傷つけたりした。「この朝鮮ピー」とさげすみながら私たちを威嚇した。彼らはまた、ほかの兵士が先に入っていても、「早く出てこい」と言って脅し、先の者がまだいるのに押し入ってきて性行為を強要した。

 私は、こんな「慰安婦」生活がのろわしくなって自殺を2度も図った。2度ともすぐに発見され、生き返らされてしまった。生かしたのはアキカワという大隊長で、「この女は見殺しにするのは惜しい、使い道があるから生かせ」と言った。私には死を選ぶ自由もなかった。

 私は、何か言うと「殺す」と言って脅していた6師団の兵士に、ある日、覚悟を固めて「私も朝鮮人だ。朝鮮人の女の心意気を見せてやる。殺すなら殺せ」と反抗したために縛られて、ひどい拷問を加えられた。それを見ていたアキカワ大隊長が、「それ見ろ。この女は度胸がある。使い物になるから、殺すな」と言って止めた。そのために、私は地獄のような「慰安婦」生活を続けなければならなかった。

 ある時、私は50人もの兵士を相手にして気絶してしまった。その私に彼らは「ノーシン」という薬を飲ませて意識を回復させて行為を継続させようとした。しかし、私がもうろうとして使い物にならないとわかると、たばこに火をつけて鼻や口に押し付けるなどの屈辱を加えた。

 めったなことではたじろがない私が、恐怖に震えたことがある。それは6師団の兵士の蛮行であった。6師団の一将校が、「おれは、飽きたからお前がやれ」と連れてきたセパード犬を私にけしかけたのである。その時はあまりにもの恐怖で、さすがの私も「助けて」と大声で叫び、周囲の部屋から「慰安婦」たちが飛び出してきたほどである。

 こうした屈辱は、私ばかりでなく他の朝鮮人「慰安婦」たちも同じくあじ合わされたばかりか、短刀で傷つけられたり、中には殺された者もいる。

 こんなことがあった。私の隣の部屋にいた全羅道出身の知らぬ間に妊娠した。彼らは妊娠しているのもかまわず性行為を強要し、ついには性行為の最中に流産した彼女のおなかを日本刀で切り裂き、出てきた胎児をごぼう剣で刺し殺し、妊婦までも殺したのである。

 日本の敗戦も濃厚になってきたころ、軍人たちは、私たちが朝鮮語で話したりすると神経質になって、「日本が負けると言っただろう」と執拗に迫り、日本が負けることになったら「お前ら皆殺しにする」と言って脅した。

○火のついた煙草を鼻や子宮に入れる

○将校が「おれは、飽きたからお前がやれ」と言ってシェパードをけしかける

○戦闘で負けた腹いせに慰安婦に銃を乱射して殺したり、穴を掘って入れ、手榴弾を投げ込む

○妊婦の腹を裂き胎児を刺し殺した後、妊婦も殺す

○慰安婦150人を並ばせて斬首

 日本の敗戦が決定的になったころ、血迷った彼らは、朝鮮人と中国人の慰安婦ら150名くらいを2列に並ばせて、「かかれ」と小隊長が号令をかけた。両端から日本刀を振りかざした兵士らが襲いかかり、皆殺しを始めた。飛び散る血の雨に私は意識を無くして倒れた。私には3、4日くらい時間が過ぎたように思う。意識を取り戻してみたら、その血の海の中で、私のほかに2名が生き残っていた。

 はうようにして近くの中国人の家に助けを求めに行った。「私は朝鮮人です。助けてください」と必死に叫んだ。

 中国人は数日間かくまってくれて、中国服を一着くれた。それを着て朝鮮人の家を探して行き、そこでしばらく世話になった。8月15日の解放は、その朝鮮人に教えられた。

 9月になってどうしても故郷の両親に会いたくて、世話になった朝鮮人の家族に旅費を借りてやっとの思いで故郷に帰ってきた。しかし、両親は既に死亡していた。

 私が日本人からもらったものは病気だけ。子宮はメチャメチャにされ、心臓は悪くなり、腸も悪くて下痢ばかりして、今でも病院に通っている。

 日本軍の通った中国大陸の隅々には、犠牲になった朝鮮女性の血がしみこんでいる。このことを知ってもらいたい。

 日本人に問いたい。立場を変えて、あなた方の娘も姉妹、妻や母が私のような体験をさせられたとしたらどう思いますか。

(キム・デイル 1916年11月5日生 黄海道沙里院市出身)
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使い捨てにされた朝鮮女性 金英実


 両親、祖母と妹2人、弟1人の7人家族の長女として生まれた。家庭が貧しかったので数え13歳のとき、咸鏡北道の会寧に住んでいた父の妹のところにいった。

 会寧は、私の故郷に比べれればそれでも働き口があるというので、叔母の家で世話になりながら、近所の雑用をして働いた。数え18歳のとき居酒屋で雑用係をしていた。

 1941年のある日、そこに背広を着た日本人があらわれて「条件の良い仕事をあっせんしてやろう」と話しかけてきた。「条件の良い仕事」なら故郷の家族に仕送りができるので、家計を助けるためにもやってみたいと思った。故郷を離れたといっても叔母のそばで働いていたので、見知らぬ土地にいくことには不安があった。しかし、少しでも条件の良い仕事をして故郷に仕送りできればと考えていたので、集合場所に指定されていた村の日本人区長の家にいった。いって見ると私と同世代の女性が、既に14、5 人集まっていた。

 区長の家の前にはトラックが迎えにきていた。それに乗って会寧駅にいき、そこで昼食時に汽車に乗り換えてアオヂを経由してウンドクに到着したのは夕刻であった。そこからチョンアクドンにいくと、ほろ付きのトラックが待機していた。それに乗せられて30分ばかり走ったところの山中に連れていかれた。

 その山中には日本の軍人がいっぱいいた。

 私たちは中国と旧ソ連の国境地帯の、少し奥地に入ったところに連れていかれたが、到着してみるとそこには既に、10人位の朝鮮女性がいた。女性たちは私たちに、「なぜこんなところにきてしまったのか。ここからは生きてでることはできないのに」と悲しげに話しかけてきた。私には何のことかわからなかった。

 軍人がやってきて私たちを最初に倉庫に連れていった。今まで着ていた朝鮮服を脱いで和服に着替えろと強制した。私は恐怖と羞恥から拒否すると殴る蹴るの暴行を受け、むりやり裸にされて着替えさせられた。そして、「ここでは朝鮮語を使うと殺す」と脅かされた。

 その日、一緒にきた女性たちの一部は他所へ連れていかれ、彼女たちがどこへ行ったのか、どうなったのか一切わからない。私は人間2人が入ればいっぱいになるような部屋に入れられた。

 夜、麦御飯とスープだけの粗末な夕食をだされたが、恐怖でのどをとおらなかった。ただどうにかして逃げ出さなければとばかり考えていた。そんなことを考えていたときに、私たちを連行してきた男が軍服を着て入ってきた。将校(肩に星が3つ付いていた)の軍服を着てきた。将校はいきなり入ってきて有無をいわさず私を強姦した。この将校は、それからも和服に着替えてどこかにでかけていっては、朝鮮女性を連れてきて「慰安婦」にした。そればかりか、ここにいた女性をどこかへ連れ去りもした。

 最初の日の夜は、その将校の外に7人もやってきて私に暴行を働いた。私が7人という数字を記憶しているのは、それまで想像もできなかったつらい暴行を受けて、この後何人にこんな思いをさせられるのかと思い詰めていたからである。厳しい監視の中で私は逃げ出す方法も考えられないままに、そのままそこで「慰安婦」を強いられることになってしまった。

 食料事情は悪く、ろくな食べ物はなかった。そのために栄養失調と過労のために病気になるものが多かった。重病のために役に立たないものとわかると、病死者も含めてどこかに連れ去られた。彼女たちがどうなったかはわからない。ただ、行って見たことはないが、豆満江がすぐ近くを流れていたので、そこが墓場になったのではないだろうか。

 この周辺のアオヂ、チョンアクドン、クロン、サフェなどには付設の慰安所があったが、ホンイリにはなかった。

 慰安所のないところには私たちが派遣させられて奉仕させられた。そこには週に1〜2回いかされ、朝から翌朝まで奉仕させられた。時には1泊2日で夜中に帰ってくることもあった。

 私たちのグループは常に14、5 人で、欠員がでるといつのまにか必ず補充されていた。

 ある日、「トキコ」と呼ばれていた私より幼い女性が朝鮮語を使ったという。それをみとがめた将校が私たち全員を呼び集め、その前で見せしめに、幼い「トキコ」の首を日本刀ではねて殺した。あまりの恐ろしさに泣き叫ぶ者、気絶する者もいた。私はただうつむいて声をだすこともできなっかた。それからは、日本語のよくわからない私たちは、ただ目と目で語り合うことしかなかった。

 また、「ジュンコ」と呼ばれていた女性は、妊娠に気付かぬうちにいつしか臨月に近くなっていた。軍人たちは、「ジュンコ」が出産する直前まで「慰安婦」として利用していた。ある日、彼女が出産した。彼女の部屋に入っていった将校は、生まれた乳児を布で包んでどこかに連れ去った。そして、衰弱した「ジュンコ」が役に立たないと思ったのか、彼女をどこかに連れ去っていった。それっきり私たちは、彼女の消息を聞いていない。

 ここにいたらいつか私も殺されると思った。

 1945年8月13日、軍人たちが、「日本に帰るから、お前たちも一緒に連れていく」といった。ここでもこんなに辛い思いをさせられいるのに、日本にいけばどうなるのか見当がつかない。そこで皆と話し合い逃げることに決めた。一緒だと捕まるのでバラバラに逃げようと約束した。

 その夜、私はトウモロコシ畑にひそみ、明け方、山に登っていった。山の中で2日くらい隠れていて、そこから山のふもとの人家を探していき、そこで食べ物をもらった。祖国の解放はその時聞いたが、信じられず捕まることを恐れて、ずっと山の中に潜んでいた。

 秋になって清津にでてきた。


(キム・ヨンシル 1923年10月21日生 両江道普天郡出身)
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チョン・オクスン(ChongOkSun)


現在74歳のチョン・オクスン(ChongOkSun)の証言は、日本帝国陸軍の兵士による性的暴行と日々の強姦に加えて、これらの女性が耐えなければならなかった残酷で苛酷な取り扱いを、とくに反映している。


「私は1920年12月28日、朝鮮半島北部咸鏡南道のプンサン郡フアバル里で生まれました。

13歳の時の6月のある日、私は畑で働いている両親のために昼食の用意をしなければならなかったので、村の井戸に水を汲みに行きました。そこで一人の日本 の守備兵が私を不意に襲い、連れて行きました。ですから両親には自分の娘に何が起きたか分かりませんでした。私はトラックで警察に連れて行かれ、数人の警 官により強姦されました。私が叫ぶと彼らは口に靴下を押し込み強姦を続けました。私が泣いたので警察署長は私の左目を殴りました。その日、私は左目の視力 を失いました。

10日ほどして私はヘイサン市の日本陸軍守備隊の兵営に連れて行かれました。私といっしょに約400人の朝鮮の若い娘がいて、毎日性奴隷として5000人以上の日本兵の相手をしなければなりませんでした――一日に40人もです。

その度に私は抗議しましたが、かれらは私を殴ったり、口にぼろきれを詰め込んだりしました。あるものは、私が抵抗をやめるまで秘所にマッチの棒を押し当てました。私の秘所は血まみれになりました。

一緒にいた一人の朝鮮の少女が、どうして一日に40人もの大勢の相手をしなければならないのかを尋ねたことがあります。質問したことを罰するため、日本の 中隊長ヤマモトはこの少女を剣で打つように命じました。私たちが見ていると、

彼らは少女の衣類をはぎとり、手足を縛り、釘の出た板のうえを、釘が血と肉片 で覆われるまで転がしました。

最後に、彼らは彼女の首を切りました。別の日本人ヤマモトは、

「お前たちみんなを殺すのは簡単だ。犬を殺すよりもっと簡単 だ」

と語りました。彼はまた

「こいつら朝鮮人少女は食べ物がないといって泣いているから、この人肉を煮て食べさせてやれ」

とも言いました。


ある朝鮮人少女は、頻繁に強姦されたため性病にかかり、そのために50人以上の日本兵が病気にかかりました。病気の蔓延を防ぎその朝鮮人少女を「無菌化」 するため、彼らは焼けた鉄棒を彼女の秘所に突き刺しました。

あるとき彼らは私たちのうち40人を、トラックに乗せて遠くの水たまりに連れて行きました。水 たまりは水と蛇でいっぱいでした。兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました。

○「兵隊一〇〇人の相手ができるのは誰か」と刀を下げた兵隊が聞いた。その時に手を上げなかった一五人の女性は、他の女性への見せしめとして殺された。その方法は、裸にした女性たちの頭と足を兵隊たちがつかみ、一面に釘を打った板の上をゴロゴロと転がしたのだ。噴水のように血が噴きだし、釘には肉片がこびりついた。

○鄭さんたちが泣いているのを見た中隊長は、「慰安婦たちは肉を食っていないので、肉が食いたくて泣いているんだ」と言った。兵隊たちは、殺した頭を釜で煮始めた。そして、鄭さんたちを木刀で叩いて、無理やりその汁を飲ませた

○オ・チョンヘという女性が、将校によって子宮に鉄の棒を押し込まれて殺された

○オ・ズンイとう女性が、梅毒にかかったことを知らせなかったため将校にうつったという理由で殺された。彼女は口に布を詰められ、焼いた鉄の棒を子宮に入れられて即死。引き抜いた棒には肉がこびりついていた

○鄭さんの口にゴムホースが押し込まれ、水が注がれた。膨れ上がったお腹の上に板が乗せられ、兵隊がシーソーのように踏みつけた

○鄭さんたちは、足首を縄で縛られて逆さに吊り下げられた。兵隊は、針がたくさんついた拳大の黒い塊を持って来てそれに墨をつけた。そして、鄭さんや他の女性たちの口をこじ開けて強く押し込んだのである。鄭さんの前歯は折れ、激しい痛みで再び気を失った

○口だけでなく全身に刺青がおこなわれた。兵隊たちは、殺す前に女性たちの肉体に落書きをしたのだ

○兵隊たちは数人の少女を水のなかに突き落とし、水たまりに土をどんどん盛り、彼女たちを生き埋めにしました


守備隊の兵営にいた少女たちの半分以上が殺されたと思います。二度逃亡を企てましたが、いつも数日で捕まってしまいました。私たちはいっそうひどく拷問を うけ、私はあまりに多く頭を殴られたので、どの傷もまだ残っています。

彼らはまた私の唇の内側や胸、腹、体に入れ墨をしました。私は気絶しました。気が付いてみると、私は恐らく死体として捨てられて山の蔭にいました。私といっしょにいた二人の少女のうち、私とク・ハエ(KuHae)が生き残りました。山の なかに住んでいた50歳の男が私たちを見つけ、衣服と食べるもの多くれました。彼はまた朝鮮に帰るのも助けてくれました。私は、日本人のための性奴隷とし て5年間使役されたのち、18歳のときに、傷つき子を産めない体で、言葉を話すのも難かしいありさまで帰国しました」。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/51/


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ファン・ソギョン(HwanSoGyun)


77歳のファン・ソギョン(HwanSoGyun)の証言は、大勢の娘たちを軍事的性奴隷に誘い込んだ詐欺的方法による徴集方法の証拠となる。

「私は、1918年11月28日に日雇い労働者の次女として生まれました。私どもは平壌市カンドン区のタエリ労働者街に住んでいました。17歳のとき、1936年のことですが、部落の長がやってきて私に工場の仕事を世話すると約束しました。私の家はたいへん貧しかったので、私は喜んでその 収入の良い仕事を引き受けました。私は日本のトラックで、すでに20人ほどの朝鮮の娘たちが待っている停車場に連れていかれました。私たちは汽車と、その 次にはトラックに乗せられ、数日間の旅ののち中国の牡丹江のほとりにある大きな家につきました。私はそれが工場だと思いましたが、工場などないことが分か りました。少女たちは、わらの布団があり、ドアに番号がついている部屋を、一人に一室ずつ割り当てられました。

何が身に降りかかるかも知らず二日間待った後、軍服をきて帯剣した日本兵が一人私の部屋にやってきました。彼は「自分の言うことを聞くかどうか」と尋ね、 私の髪の毛をつかんで床のうえに倒し、足を開くようにいいました。彼は私を強姦しました。彼が離れたとき、私は外で20人か30人の男たちが待っているの を見ました。全員がその日私を強姦しました。それ以来、私は毎晩15人か20人の男たちに襲われました。

私たちは定期的に医学的検査を受けなければなりませんでした。病気にかかっているとわかると、殺されてどこか分からない所に埋められました。

ある日、新し い娘が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗を試み、そのうちの一人の腕に噛み付きました。

そのあと彼女は中庭にひきだされ、我々全部の見て いる前で刀で首を切り落とされ、体を切り刻まれました」。

ァン・ソギュン(HwangSoGyun)は、性奴隷として7年間日本兵の相手をさせられた後、1943年に「慰安所」から逃げることができた。その後39歳のとき結婚することができたが、家のものに過去を語ったことはなかった。心理的肉体的な傷と婦人科的問題のため、子供をもつ ことはできなかった。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


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ファン・クムジュ(HwanKumJu)


現在73歳で、韓国永登浦区のドンチョン洞に住んでいるファン・クムジュ(HwanKumJu)の証言は、陸軍が慰安所を運営した際の規則類を例示している。


「17歳のとき、日本人の村の指導者の妻が、未婚の朝鮮人少女全員に日本軍の工場に働きに行くように命じました。そのとき私は労働者として徴用されたのだ と思いました。3年も働いたころ、ある日一人の日本兵が自分のテントについてこいと要求しました。

かれは着物を脱げと私にいいました。たいへん怖かったの で抵抗しました。私はまだ処女でした。しかし彼は銃剣の付いている銃で私のスカートを引き裂き、下着を体から切り離しました。そのときに私は気を失いまし た。そしてふたたび気が付いたときには毛布を掛けられていましたが、あたり一面に血が付いていました。

そのときから最初の1年間は、いっしょにいた全ての朝鮮の少女たちと同様に高級将校の相手をするように命令されましたが、時がたち私たちがますます「使役」されるのにしたがい、私たちはもっと下級の将校の相手をするようになりました。もし誰かが病気になれば、その人は消えてしまうのが普通でした。また私 たちは「606号注射」を与えられましたが、それは妊娠しないようにするためや、妊娠したときにいつも流産するようにするためでした。

衣類は一年に2回しか与えられず、食べ物も足りず、餅と水だけでした。私たちの「サーヴィス」には、支払いはありませんでした。私は5年間「慰安婦」とし て使われましたが、そのことで一生苦しめられてきました。私の内臓は何度も病におかされるたび、手術で取り除かれており、苦痛と恥にみちた経験のために、 性交渉を持つことはできません。私はミルクや果汁を吐き気を催さずには飲むことができません。彼らが私に押し付けた汚らしい事柄をあまりにもたくさん思い 出させるからです」。

ファン・クムジュ(HwangkumJu)が特別報告者に語ったところでは、中国の吉林省の慰安所での最初の日に、日本兵からこ こには従わなければならない五つの命令があり、従うか死ぬかだといわれたという。

第一、天皇の命令。
第二、日本政府の命令。
第三、彼女が所属している陸軍 中隊。
第四、中隊のなかの分隊。
そして最後に彼女が自分に仕えているテントの持ち主としての彼の命令。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


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キム・ボクスン (KimBokSun)

また別の生存者、韓国のキム・ボクスン (KimBokSun)は、性奴隷としての自分の生活は、軍により直接に統制されていたと証言した。

毎日午後3時から9時は下士官の相手をしなければならず、

午後9時以後の夜は将校のためにとっておかれた。

また大部分の兵隊たちはその使用を拒否したが、全ての女性は兵隊たちを性病から守るため、コンドームを支給された。

http://sengosekinin.peacefully.jp/data/data5/data5-5kumarasuwami.html


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朴永心(パク・ヨンシム)

朴永心の証言

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html


−−どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。


朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。

 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。

−−「慰安婦」として連れ回された経路について。

朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。

 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。

 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。

 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。

 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。

−−その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。

朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。

−−ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。

朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。

−−捕虜になった後どうなりましたか。

朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。

 収容所には一年ほどいたと記憶しています。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11001201/p2



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李桂月(イ・ゲウォル)


1922.9.6、黄海南道碧城郡に生まれる。5歳の時、父の死亡と共に家を追い出され、2年間乞食生活を送る。8歳の時、面(※地方行政の最下級機関)の書記の家に子守りに入り、13歳の時、書記に旅館の下働きに売り渡される。15歳になった年、村の区長に「よい仕事を斡旋する」と言われ、ハルピン近くにある日本軍の慰安所に連れて行かれる。1939年、日本軍の将校に酒を飲ませて酔わせ、隙をみて逃亡した。


十五歳になった年の3月頃のことです。ある日、村の区長が訪ねて来て旅館の主人に何か話し、私を呼んで「ここで苦労をしなくてもいいように仕事を斡旋するから、いい所に行こう」と言いました。私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。十五歳といっても私は背が低く、体も弱かったので、私は区長にひっぱられるままでした。

 駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前の男でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。貨車の中にはすでに二人の娘が乗せられていましたが、二人は私より年下の十四歳と十三歳の少女でした。

 翌日、中国のハルビンに着いて、私たちは汽車から降ろされました。〜(中略)〜着いた所は民家一つない日本軍の駐屯地でした。「タナカ」は私たちを駐屯地の建物に監禁したのです。

私は住み慣れた所がいいと思い、行かないと言ったのですが、区長は私の腕を掴み、旅館から少し離れた駅に無理やり私を連れて行きました。〜(中略)〜駅には二人の日本軍人がいました。一人は肩章に星がついた将校で、「タナカ」という名前でした。彼らは私を引き取ると無理やり有蓋貨車(屋根のある貨車)に押し込んだのです。〜(中略)〜日本兵は私たちが逃げるのを恐れて貨車に鍵を掛けたので、私たちは外に出ることができませんでした。


 ○私は部屋に入って来た将校に「体の調子が悪い」と言って相手をすることを拒絶したのですが、〜(中略)〜将校は私を押し倒して腹や胸を蹴り、しまいには軍刀のさやで額を殴りました。私のあばら骨は折れ、額からは血が流れ、とうとう私は気を失ってしまいました。

 ○「死んでない」と言いながらたばこに火をつけて私の腹に押し付けました。私の体が熱さと痛さでひくひくとするのを見て、「タナカ」は「おもしろい」と言い、たばこを取り替えながら更にあちこちにたばこの火を押し付けたのです。

 ○日本兵は「皇軍のために頑張れ」と言い、「100人でも200人でも入って来るだけ奉仕しろ」と命令しました。

 ○日本兵は妊娠している女は不必要だと言って軍刀で彼女の腹を切り裂きました。

 ○ある日、日本兵は泣き出すイ・プニの頭を石にぶっつけて殺してしまいました。

 ○五人の女性が逃亡して捕まえられたことがありましたが、日本兵は見せしめのつもりで「慰安婦」たちを全員集合させ、彼女たちを裸にして縛って井戸の中に投げ込んで殺しました。

 ○私は夢中で葦原を抜け出し、どこともわからないまま川辺を走っていきました。すると、川辺で釣りをしている朝鮮人が目に入り、私は彼に助けを求めたのです

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/



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郭金女(カク・クムニョ)


1923.1.8(注)、忠清南道天安郡(チョナングン)生まれ。生活は苦しく、14歳の時、日本人の家の子守りをし、16歳の時、日本人が経営する製紙工場で女工として働く。1939年10月頃、工場経営者が「ソウルの食品工場で働くことになった」と言って日本人に引渡した。中国牡丹江穆稜(ソ連国境地帯)にある慰安所に入れられる。2年後、警備の歩哨の隙を見て慰安所から逃げ出す。


私の故郷は、南朝鮮の忠清南道天安です。兄が一人、姉二人に妹一人の五人兄弟でした。私が八歳の時に父は亡くなり、母が地主の家で働きました。炊事をしたり、衣類を縫ったりという仕事です。もちろん、子供たちは学校には行けませんでした。

 私は全羅南道順天の日本人の家で子守りとして働いた後、一六歳の時に全羅南道光州の製糸工場へ働きに行きました。ここは日本人の経営でした。カイコから糸を取るのが仕事で、お腹が空いている時にマユの中のサナギを食べたこともあります。

 ここで一年間働いた時、呼ばれて事務所に行くと刑事らしい日本人の男がいました。私が刑事だと思っている理由は、後に列車の中で拳銃を持っているのを見たからです。

 「パンや飴を作る『京城』(現在のソウル)の食料工場で働くと、お腹がいっぱりになるので行くように」と言われたんです。私を含めた娘たちの名簿が、会社から刑事に渡されました。

 ソウルまで汽車で行き、旅館に泊まりました。その翌日になると、「牡丹江に行こう」と刑事が言い出したんです。「なぜ中国に行くのか?私は行かない!」と抗議したところ、「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ!」と言われ、列車に無理やり乗せられました。

 そして翌々日の朝、牡丹江に着きました。駅の待合室に二〇分ほどいると、幌のついた車のトラックがやってきました。降りてきた憲兵に、「長谷川さん、二〇人連れて来ました」と刑事は言っていました。そのトラックに乗せられ、「満州」(中国東北地方)とソ連の国境地帯にある穆稜という所に着きました。

 私たちは、憲兵隊が駐屯している三階建ての建物に連れて行かれ、畳の部屋に入れられて鍵をかけられました。出されたご飯も食べず、その夜はみんなで泣いていたんです。

 翌日、医者と看護婦が私たちを診察しました。今考えれば、病気を兵隊にうつさないためです。連れて来られた女性の一人は、顔がまっ黄色でした。そのため地下室に入れられてしまい、後に亡くなりました。

 大きな建物の中は仕切られていて、一〜二〇番までの部屋があり、私は「一番」の部屋をあてがわれました。中はタタミ二畳ほどの二人がようやく横になれるくらいの広さでした。大切な髪を短く切られ、来ていたチマ・チョゴリを浴衣に着替えさせられたんです。このチマ・チョゴリは母が作ってくれたものなので、くやしくて泣きました。日本人に「レイコ」という名前をつけられました。

 部屋にいると、憲兵の将校が入ってきました。彼は刀を壁に立てかけてから服を脱ぎ、私にのしかかりました。その当時の私は何も知らない娘でしたから、その日本兵を虎よりも恐ろしく思いました。私は泣き叫んで、将校の手を噛みました。すると血を流した将校は、麻酔の注射を私にしました。一分も経たずに気を失った私は、将校に犯されたんです。〜(中略)〜

 一日に二〇〜三〇人もの相手をさせられました。抵抗した私に、「子宮を取ってしまうぞ!」と言って小さなナイフで切りつけてきた将校もいました。刀で刺された太股の傷痕は今も残っています。むこうずねは刀でえぐり取られました。私の体は刀傷だらけです。

 「言うことは聞かない」と言って、兵隊が私の腕をねじり上げたことがあります。骨折して腕が動かなくなってしまい、二ヵ月間ぐらいギブスをして生活しました。髪をつかんで引きずられたこともありました。痛いというよりは悔しい思いだけでした。

 こうしたことをされたのは、私だけではありません。私と一緒に連行された李春心という娘がいました。日本兵は彼女を犯そうとしましたが、彼女は泣き叫びながら激しく反抗しました。

すると将校は、彼女の乳首を歯で噛み切ってしまったんです。そこから血が吹き出し、彼女は気絶しました。彼女はその傷で破傷風にかかり、死んでしまったんです。子宮を蹴られて、二日後に死んだ女性もいます。


 「言うことを聞かないと地下室へ入れるぞ!」

と日本兵は言い、私たちをそこへ連れて行きました。その地下室には、ここで殺された娘たちの死体が捨てられていました。腐った匂いが充満し、少しでもそれを嗅げば頭が痛くなるほどひどい所でした。

 逃げようとして捕まった女性がいました。私たちが見ている前で日本兵は、皮のベルトで彼女を叩いたんです。「私たちは逃げないから、その女性をこれ以上叩かないで!」と頼みました。ですが、その女性は一週間後に亡くなり、その地下室へ捨てられたんです。このようにして殺された女性は一〇人ほどになります。


 ○みな処女であり、初めてのことだから恥ずかしくて検診を拒んだのですが、軍医は「言うとおりにしなければ殺す」と脅しました。

 ○私は必死で抵抗したため、日本兵は怒って私を殴ったり蹴ったりしました。そして「子宮を切り取ってやる」と言い、刀で切りつけました。私は血だらけになって気を失ってしまいました。

 ○私と同じ工場からひっぱられて来た「エイコ」と呼ばれていた金徳女(キムトンニョ)は、乳首を噛み切られ、破傷風になって死んでしまいました。

 ○慰安所の建物には地下室がありましたが、日本軍人は死んだ「慰安婦」を山に葬るのではなく、地下室に投げ込んでおいたのです。そして、軍人に反抗したり、逃亡しようとする女性たちを、その地下室に閉じ込めました。


 「これでは自分も殺される」と思った私は逃げる決意をしました。一一月頃のある日曜日。歩哨が居眠りをしている隙に、小さな門から一人で逃げ出したんです。朝の四時でした。

 八キロメートルほど行った所に「朝鮮病院」と書かれた建物がありました。私は朝鮮語の文字を少しは知っていました。それは朝鮮人が経営する個人病院でした。「助けてください。私は『慰安婦』にされていました」と言うと、医者の妻がごはんを炊き始めたんです。「食事どころではない」と思った私は食べずにいました。すると、「何とか匿ってあげるので、この病院にいなさい」と言ってくれたんです。金という名の医者は咸鏡南道出身で、三五歳くらいでした。

http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/


   
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金英淑(キム・ヨンスク)


1927.1.24、平安北道秦川郡(テチョングン)生まれ。10歳の時、地主の妾の家で奉公をする。1940年、13歳の時、日本人の巡査に「お金が稼げる仕事がある」とだまされ、中国の瀋陽にある憲兵隊専用の慰安所に入れられる。五年間後の1945年3月頃、慰安所を脱出してモンゴルに逃れる。


今は平安南道温泉郡で暮らす金英淑さんは、平安北道泰川郡で生まれた。あまりにも生活は貧しく、母親は家族を捨てて逃げ出した。父親は日本人が経営する金鉱山で働いていたが、日本人の現場監督からひどい暴行を受けて死亡。金さんと弟の二人が残された。その時一〇歳だった金さんは、地主の三番目の妾の家で働くことになった。「水瓶を割ってしまった時など激しい叱責を受けました。夜明けから夜空に星が輝くまで私の涙は乾くことがなかったんです」。

 こうした苦しい生活を続けていた時に、心ひかれる話がきた。

 「一三歳の時、やって来た日本人の巡査に

『ここでそんな苦労をせず、お金の稼げる所へ行こう。おいしい物を食べ、きれいな服も着られるよ』

と言われたんです。

 この巡査に連れて行かれたのは瀋陽です。そこには日本兵がいっぱいいて、巡査は私を『ナカムラ』という名の将校に引き渡しました。私はだまされたんです」

 「慰安所」が谷間に建っていて、高さ五メートルほどの塀で囲われていた。建物は木造平屋で、三〇ほどの部屋が通路の両側に並んでいるという構造だった。途切れることなく金さんの話は続く。

 「その日の夜に私の部屋へやって来た『ナカムラ』は、私を押し倒して覆いかぶさってきました。だけど私が若すぎて欲望を満たせなかったため、私の性器をナイフで切り開いたんです。私は気を失いました」。

「 将校に殺されそうになったこともある。「カネムラ」という将校に従わなかった金さんは、

「言うことを聞かないと肝を取り出して食べるぞ」

と脅された。その言葉にひるまず将校を力一杯に突き飛ばしたところ、日本刀で胸を切りつけられたのだ。「傷を見てください!」と金さんは私に言うやいなや、チマチョゴリを脱いで上半身裸になった。

 胸から腹にかけて、縦に二〇センチほどの鮮明な傷痕がある。かなり深い傷だったようだ。金さんは、全身に残る他の傷も次々と説明する。肩と尻には短刀で突き刺されたいくつもの傷痕、右足の膝には兵隊に軍靴で何度も蹴られて骨が折れた痕が残っている。

 「一日に二〇〜三〇人の兵隊の相手をさせられました。妊娠したために腹を切り裂かれたり、軍犬にかまれたりして、ここの女性たちが次々と殺されて行くようすを見ました」

と金さんは叫ぶように語った。〜(中略)〜


 ○彼の性欲を満たすためには私はあまりに幼かったのです。しばらくしてそれに気がついた「ナカムラ」は刀を取り出し、私の陰部に刀を差し込みました。その瞬間、私は「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて気を失ってしまいました。

 ○するとその軍人はかんかんに怒り、私の髪を掴んで部屋の床に打ちつけ、靴で全身を蹴り、私の足を踏みつけました。全身にあざができて、私は気を失ってしまいました。そのとき、奴の乱暴で足の骨が折れたのですが、まともな治療も受けられなかったため元に戻らず、結局、障害者になってしまいました。

 ○日本兵は、私が反抗すると「朝鮮人のくせに帝国の将校を冒涜するのか」とどなり、「日本軍人を慰安できない者は殺してもいい。私の言うことを聞かないとおまえの肝を取り出して食べてしまうぞ」と脅かしました。

 ○野蛮な日本軍人は「慰安婦」たちが苦しむ姿を見て快楽を覚えたのか、「慰安婦」たちを裸にしては刀で刺したり、噛みついたり、火のついたたばこを押し付けるなど、さまざまな残虐なことをしました。

 ○日本兵は「慰安婦」が妊娠すると、容赦なく殺しました。そのような女性の中に、ボンニョという女性がいました。

ある日、日本兵は「慰安婦」たちをみな庭に集合させ、みんなの見ている前でボンニョを木に吊るし、軍刀で彼女の腹を切り裂いたのです。そして、出てきた腸や胎児をめった切りにして、私たちの首に掛けたのです。

 ○そうして、五年の年月が過ぎました。非人間的な虐待や病魔、栄養失調のため、初めの頃は二〇人余りいた「慰安婦」は、五年のあいだに大勢亡くなり、残ったのは数人だけでした。


 この「慰安所」には、金さんが連行されて行った時には二五人の女性がいた。その中には中国人と白人が一人ずついて、他は朝鮮人だった。その鼻が高い白人とは言葉が通じなかった。この場所が中国東北地方ということを考えるとロシア人だろう。

 部隊の中には何人からの朝鮮人軍属がいた。一九四五年三月、金さんはその中の金・サングクさんと死を覚悟してここを脱出。その時点で、「慰安所」で生き残っていた女性はわずか五人だった。
http://sikoken.blog.shinobi.jp/Entry/27/
http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c85

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
86. 中川隆[-13724] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:17:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21424]


因みに、残虐行為をやらされた日本兵は、上官の命令で覚醒剤を飲まされていたので、異常な興奮状態になっていたのですね:


あなたは知っていますか?日本の軍隊は太平洋戦争で心の高揚に『ヒロポン』を常用させていました

覚せい剤服用

日本は、1941年大日本製薬メタンフェタミン製剤「ヒロポン」(覚醒剤)武田長兵はアンフェタミン製剤「セドリン」(覚醒剤)を海軍、陸軍に大量に納入しました。


特効薬として特攻隊員に菓子袋に入れてカジュアルに支給しました。
製品は、「ヒロポン」の周りをチョコレートで包み『菊のご紋章』を付けて納入していました。


出撃前に注射やチョコレートを特攻隊員に食べさせていました。それを食べた若者は、意気揚々と戦地に出撃し散っていきました。むごい、悲しいことです。これを書くと、涙がでます。


九州の基地では、1036人の特攻隊員に「アンプル」を投与。国を守るため計6000人が玉砕していきました。悲しい事実です。
精神を高揚させ、人間性を失くす「ヒロポン」は慰安婦問題や、南京事件を起こした悲しい現実があります。


日本政府は、大日本製薬 武田長兵商店に、覚醒剤の製造中止を勧告、昭和26年(1951年)覚醒剤取締法が制定されました。
西堀貞夫の父、西堀孝一は軍医として特攻隊のヒロポン支給の恐ろしさを知り、軍上層部に進言、ニューギニアの戦地アインで戦死しました。


この想いが私たちの原点です。患者の会には、この真実を知るたくさんの遺族の方がお見えになります。
映画「永遠の0」では明かせなかった特攻隊員の死の真実。彼らはヒロポンで人間性を失くし玉砕しました。
http://www.onkyo.tokyo/guntai.php


ドーピングを誘発しやすい社会だから覚醒剤が浸透していく


1945年、日本の敗戦の後、どさくさに紛れて売られていたのが「ヒロポン」と呼ばれる薬だった。

ヒロポンというのは、文字通り「疲労がポンと取れる」という意味で付けられた安易なものだったが、その内容は今で言うところの「覚醒剤」だった。

戦時中は兵士や特攻隊の士気を鼓舞させ、労働者や女工たちに眠気防止で武器弾薬を作るために使われていて、大日本製薬の主力の薬のひとつだった。

この当時はヒロポンの成分であるメタンフェタミンが強い依存性を持つことが知られていなかったので違法ではなかった。新聞にも、堂々と「除倦覚醒剤」と銘打って売られていた。

「除倦覚醒剤」とは要するに「疲れを除き、覚醒する薬」という意味で、このメタンフェタミン系のドラッグを「覚醒剤」というのはここから来ている。

戦中は軍民共に戦争に駆り立てられていたので、「疲れた」などと言っている場合ではなかったのである。

だから、軍需企業・民間企業共に、ヒロポンを大量にストックしていたのだが、敗戦後、この薬が闇市を通して社会に大量流通するようになった。


終戦後の作家は、みんなドラッグ漬けだった

ヒロポンは社会の底辺で広がっただけではない。有名人でもみんなこの薬を使っていた。何しろそれは違法ではなかったのである。

漫才トリオの正司歌江、ミヤコ蝶々、中村八大、桂文楽、六代目笑福亭松鶴等はみんなこのヒロポン中毒になっていた。作家で言えば、『堕落論』で知られている無頼派の坂口安吾もヒロポン中毒だった。

無頼派と言えば、織田作之助も田中英光も同じジャンルに入るのだが、この2人もまた坂口安吾と同じくヒロポン中毒だったと言われている。

織田作之助などはヒロポンを注射しているところを写真を撮られて、それが出回って話題になったという。

何か物を書くというのは孤独で単調な作業だ。そして、集中しなければならないので、精神的にも激しい疲労が蓄積する。当時の作家は、それをヒロポンで乗り切っていたのである。

芥川龍之介は小説『歯車』で幻覚を描いているのだが、この幻覚はヒロポンから来ているという説と、睡眠剤から来ているという2つの説がある。

そこには、歯車が見えたとか、銀色の翼が見えたとか、黄色いタクシーが見えたとか、過去の罪の残像が繰り返し現れるとか書かれていて、その幻影に主人公が怯えている。

ストーリーもなく、ただ意識の変容を揺れ動いているだけなので、どちらかと言えば睡眠剤のような雰囲気がある。詳しくは分からないが、精神的には相当追い詰められていたことが窺い知れる。

この小説の最後は、誰か自分が眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはいないか」となっている。実はこの小説は芥川龍之介が服毒自殺した後に発表されたものだった。その「死にたい」という述懐は本心であったと思われる。

荒正人という小説家もいたのだが、この人は自分だけでなく妻にもお手伝いさんにもヒロポンを飲ませて、一家総ヒロポン依存症になっていたという。

萩原朔太郎はヒロポン中毒ではなかったが、コカイン中毒だった。しかし、ヒロポンでの幻影は小説『猫町』で触れている。

私たちが今、日本の戦後文学としてありがたく詠んでいる文学は、その多くが覚醒剤で「ドーピング」された精神状態の中で書かれていた可能性がある。


無頼派作家、坂口安吾。執筆はヒロポンと共にあった。


ヒロポンがもたらす集中力は凄まじい効果だった

ヒロポンが意識集中のために使われていたというのは、覚醒剤依存者が48時間ずっと麻雀をやっていたとか、賭け将棋をしていたという逸話からも読み取ることができる。

凄まじい集中力が得られるので、ヒロポンが合法だった時代の学生は、東大受験のためにヒロポンを使うのが当たり前だったという。

この「受験のためにヒロポンを使った」というエピソードを聞くたびに私が思い出すのは、タイで知り合ったあるレディーボーイのことだ。

英語を流暢に話す彼はいったいどうやってその英語力を磨いたのか。もちろん、そこには仕掛けがあった。アンダーグラウンドでは、記憶力でさえも金で手に入ったのである。

(記憶力でさえ金で手に入れる。危険な方法が裏で流行している)
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20131023T0342460900.html


別にこのレディーボーイのやっていることはおかしなことではない。欧米のエリートたちも、スマートドラッグを使って同じようなことをやっている。

アスリートはドーピングで最強の身体的パフォーマンスを手に入れるが、エリートたちもまた「スマートドラッグ」というドーピングで最強の頭脳を手に入れていたということだ。

言うまでもないが、このスマートドラッグも覚醒剤とよく似た成分(アンフェタミン系)が入っているので、言ってみればヒロポンの現代版である。

副作用はもちろんある。しかし、副作用があったとしても、現役時代に最高のパフォーマンスが発揮できれば、地位も収入も約束されるわけで、これで人生を逃げ切ることができると考える人たちもいる。


ヒロポン錠。「疲労の防止と恢復に!」と堂々と宣伝されていた。この薬は1951年に覚醒剤取締法が制定されるまでは「合法」だった。


覚醒剤には潜在的に巨大な需要があるとも言える

戦後の混乱期にヒロポンを使っていた人は、どちらかと言えば快楽が欲しいというよりも、もっと労働したい、疲労を取りたい、馬力が欲しい、という切実な発想から摂取されたので、皮肉なことに真面目な人であればあるほど依存地獄にハマっていった経緯がある。

そして、ヒロポン依存になると、虫が身体を這い回るような幻覚や、わけの分からない幻聴に悩まされるようになり、暴れ回るような異常行動を引き起こす。

そのため、1951年には覚醒剤取締法が制定され、警察が大々的な摘発を行ったので、乱用者は激減していった。

しかしヒロポンは覚醒剤として生き残り、現代でも有名な歌手や野球選手が次々と覚醒剤依存に堕ちて逮捕される姿が繰り返されている。

今後も、「大物」が逮捕されるような流れが続くだろう。

覚醒剤はいったん地下に潜ることはあっても、絶対に廃れることがなく歴史を刻むのである。欧米でも、覚醒剤は「メス」「スピード」「アイス」と言われて依存者が減るどころか増え続けている現状がある。

覚醒剤はそれ自体に快楽があるというよりも、自分がこれからやりたいことを猛烈な集中力で取り組める「ドーピング作用」が強い。それが、恐ろしい魔力なのである。

自分の潜在的な能力を、一瞬にして最強フルマックスの状況に持っていけるのが覚醒剤である。そんなものを覚えてしまったら、覚醒剤のない人生など考えられなくなる。

現代社会は、常に人々に最高のパフォーマンスを求める時代である。そうしたプレッシャーは誰にでもかかる。言ってみれば、ドーピングを誘発しやすい社会なのだ。

そのプレッシャーは坂口安吾や芥川龍之介の時代よりも、はるかに強いと言える。だから、覚醒剤は今でも潜在的に巨大な需要がある。覚醒剤の流行はこれからも起きていく。


いかにも作家という雰囲気を醸し出している芥川龍之介。晩年は睡眠薬のベロナールやらジアールを大量に飲んでおり、結局は服毒自殺に追い込まれた。
http://www.bllackz.net/blackasia/content/20160316T0122080900.html


覚醒剤については

経験者としての意見です。
http://www.asyura.com/0310/dispute13/msg/131.html



http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c86

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
87. 中川隆[-13723] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:20:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21424]

南京大虐殺や慰安婦強制連行は昭和天皇に指示された組織的な虐殺だったことは間違いないですね

鬼頭久二(1916年8月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊

南京戦の時、当時の宮さん〔朝香宮〕から命令があって、その命令は中隊長か小隊長から聞いたけど、「犬も猫も含め生きている者は全部殺せ」ちゅう命令やった。天皇陛下の命令やと言ったな。当時のことを書いた日記帳は終戦の時に全部焼いた。


沢田小次郎(1915年9月生まれ)
第16師団歩兵第33連隊 第1大隊某中隊指揮班

 この中隊には「男も女も子どもも区別なしで殺せ」という命令が出ました。つまり虐殺でした。残虐な攻略戦で、その残虐さは南京に入ったらすぐそうでした。
(略)
南京攻略戦はちょっとやりすぎでした。反日の根拠地というので、
南京に入るまでは家を全部焼けという命令がずっと出てました。
するとまた後続部隊が泊まる所がないからといって、家を焼くのを中止したんです。

とにかく「家は全部焼いて、人間は全部殺せ」という命令でした。

命令が出てなかったらこっちはしませんよ。

北支の戦争では「兵隊以外の者は絶対に怪我人を出したらあかん」という命令が出ていました。 だから北支は戦争しにくかったです。

 でも南京攻略戦は手当たり次第やったので、戦争がしやすかった。
それももちろん命令があったからです。

皆伝え聞いて分かっていました。中支では、上陸してからずっとやりたい放題にやっとったんです。その代わりこっちの被害も多かったですな。あそこは支那の部隊も集中してました。
http://members.at.infoseek.co.jp/NankingMassacre/


南京大虐殺は中国からの財宝略奪をカモフラージュする為だった?


日本兵は、川岸における毎夜の鬼畜な任務にあたらされる一方、昼間、盗みに使用された。南京に居た米国人教授の一人、社会学者のルーイス・スマイスは、略奪は隠れた事業として始まったという。

「日本軍は重い負担を軽減するため、非公認の略奪引受人を必要としていた」と彼は書いている。すでにスマイスは(109)、中島の到着以後、「上官の目の前で、店という店を組織的に荒らし回る」光景を目撃していた。そして彼はこう書いている、「収容所や避難所にいる難民の多くは、日本軍によるしらみつぶしの探索の際、わずかな財産からでも、現金や貴重品しか持ち出せないでいた」。

そして、日本軍によって発見された膨大な量の戦利品は、個々の兵士の背嚢にしまわれたのではなく、公に軍の倉庫に運び込まれていた。

三ヶ月後、安全地区委員の一人は、自分の家から略奪されたピアノの行方を追っていた。彼は、ある日本人将校により、二百台のピアノがしまわれている軍の倉庫へと案内された(110)。別の倉庫には、じゅうたん、絵画、マットレス、毛布、骨董の屏風やたんすなどが満たされていた。中島を含む多くの将官たちは、ヒスイ、磁器、銀などの小さな宝物を懐にいれていた(111)。だが、ほとんどの略奪品は、後に売られて、その代金は軍の費用をまかなうために用いられた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_10_1c.htm


日本陸軍に付属した専門家集団は組織的に、宝庫、銀行、工場、個人の家、質屋、画廊を空っぽにした。 そして一般人からも奪った。

一方、日本のトップの強盗たちはアジアの地下社会と暗黒経済から略奪した。
この点では、日本はナチより遙かに徹底していた。それはあたかも、東南アジアを巨大な掃除機で吸い取っていったかのようだった。

略奪品のほとんどは韓国を通る大陸経由で日本に届けられた。残りは海上輸送であった.

どこから、このすべての財宝は来たのか? 今まで、アジアからの日本の略奪は、
酔っ払った兵士による盗みと暴力による、散発的なバラバラな活動として無視されてきた。 しかし、これは偽情報である。

 戦争の拡大による略奪は何も新しくはない。 しかし,日本が一八九五年から一九四五年の間に行ったことは、質的に異なっていた。これは酔っぱらいの略奪や打ち壊しではなかった。

日本人は真面目で、しらふで、計画的だった。彼らは普通の泥棒や歩兵たちには
無視されるような、価値のある書籍や写本に特別に注意を向けていた。
彼らはアジアの三合会や暴力団やギャングたちなどの暗黒世界から略奪することに、特に注目し専心していた。

日本は麻薬を持って中国へどっと押し寄せた。その麻薬をギャングたちに与え、交換に黄金を得た。
麻薬は各々の隠された場所から財宝を吸い上げた。個人のレベルでは、拷問は巨頭、部族の長老、銀行家、企業家を含む金持ちの個人を襲うときには当たり前に使われた。

 日本に持ち帰られた最も価値ある物品の中に、美術品と歴史的な遺物があった。
今日まで、この世襲財産のごく一部しか盗まれた国や個人に返却されていないという記録がある。 それが問題である。黄金でできた仏像を含む幾つかの主な美術品は、
フィリピンの地下に隠されていたが、最近見つかった。しかし、ほとんどの芸術品と美術品は依然として、日本で個人的に隠匿されているか、東京で皇室の蒐集物となっている。 なぜ、日本がこれを持っていることが許されているのか?

 公的には、日本の戦時中のエリート(皇室、財閥、ヤクザ、「いい」官僚たち)は
一握りの「悪い」熱狂的な軍人を生け贄にして、戦争を終えた。
読者がお気づきのように、これは真実ではない。

天皇裕仁を含む日本のエリートたちは、戦争が終わったときには、戦争が始まった時よりはるかに金持ちになっていた。 ある者は終戦前後に、数十億ドルの資産をつくり出した。
http://www.asyura2.com/0601/bd45/msg/571.html


1895年に王妃閔妃が、伝説的な頭山満に率いられた国粋団体である玄洋社の殺人グループによって、生きながら焼き殺された。この作戦は朝鮮政府を不安定化させることを狙ったもので、頭山のヤクザたちと共謀した日本の諜報機関による征服戦略の一部分をなすものである。

『事故』を装った王妃暗殺は朝鮮に対する段階的な侵略を正当化させた。1905年にこの国は日本の保護領に変わった。複数の国粋主義団体が略奪作戦を開始し同時に窃盗団の首領たちが主要な地位を占めた。帝国政府の援助を受けて、頭山の右腕である黒龍会の首領内田良平が、朝鮮の裕福な家族をゆする作業にあたる戦闘員を組織した。

 1910年に朝鮮は完全に従属させられた。軍の責任者である山縣将軍は寺内を雇って黒龍会によって作られた秘密警察の活動を発展させた。憲兵隊が頭山と内田の手下たちの協力を得て各地域での略奪を戦術的に組織化していった。公式には、日本は一つの『共栄圏』の創設を通して、東南アジアを西欧の植民地主義から保護すると称した。

 実際には大日本帝国はこの国の組織的な略奪、黄金と美術品(価値の高い陶磁器)の窃盗を監督した。文化的な遺産(仏教寺院)を破壊し朝鮮のアイデンティティを消し去る明らかな意図を持って、である。

 同様のシステムが、岸信介の手とヤクザ組織の元で、満州を作り上げた。この属州によって日本は中国北部の商業港との海上交通をコントロールすることができた。傀儡政府は大陸浪人【原文では”tairiki ronin”となっているが明らかに音訳のミスと思われる:訳者】、役人たち、戦闘団の長、麻薬密売人たちの支配の下に置かれた。やる気満々のヤクザたちは略奪のための実質的な私兵組織を作り上げた。天皇の名の下に、あるいはアヘンとその加工物の販売網をコントロールするために、緑団【原文”Banda Verde”で「緑色の集団」と訳せるのだが中国人によるマフィア的組織と思われる。実際の名称をご存知の方はお教え願いたい。:訳者】の中国人の首領たちと手を組んだ。

いずれここから笹川良一(1)と児玉誉士夫(2)が、戦後に自由民主党の絶対権力を作る財源に供した莫大な財産をひねり出すことになる。効率の良い手段を使って犯罪を行うこれらの集団のトップには岸信介とその一党がおり、また東条英機(秘密警察の長であり将来の戦時政府の首相)、星野直樹(アヘン独占販売の長)、松岡洋介(満鉄の総裁)そして鮎川義介(日産の統括者)【本文では”Aikawa Gisuke”となっているが音訳のミスと思われる:訳者】なども加わり、天皇の承認の元で略奪作戦の計画を立てた。

 彼らは満州重工業会社を創設したが、それは工業の発展を促し軍隊とヤクザが地元民から様々な手段(身代金の要求、ゆすり、銀行強盗など)でむしり取った戦利品を集約した。大日本帝国の皇族たちの指揮の下に行われたこれらの略奪が「黄金の百合作戦」である。

 その侵略熱は西側指導者をいらつかせた。彼らは日本が彼らの植民地と利権に干渉してくるのを恐れた。1936年に朝鮮半島での完全な略奪の中で、日本の戦略は二つの選択肢の間でためらった。その一つは、ソビエト連邦との国境防衛地帯を作るために、あくまでも天然資源の豊かなシベリアの支配権を手に入れようとするものである。

 この『反共』戦略は一部の西側の大国を満足させるというメリットを持っていただろう。この目的のために駐ロンドン大使である吉田は、クリヴェデン(Cliveden)グループの協力を得て、英国との同盟関係を固めようとした。米国では、ハーヴァード・フーヴァーやナチの飛行士チャールズ・リンドバーグ、マッカーサー将軍の取り巻きたちなどの大勢の超保守派が、この帝国の良き理解者であった。

 裕仁の弟である秩父宮は1936年に可能性のある英国と日本の同盟を準備するためにロンドンへ向かった。反共戦線という見通しはひょっとすると英国外交を口説き落としたのかもしれない。しかしアジアでの日本の軍備拡張はヨーロッパの大国の植民地を脅かしていた。すぐに秩父宮はあらゆる交渉の手段を失った。

中国では軍隊が全面的に統制不能に陥っていた。1937年に大勢の役人たちが中国での盧溝橋事件で戦闘を起こした。この事件は非公式の天皇の援助を受けた日本軍によるこの国への侵略に直結したものであった。秩父宮はすでに無効となった日英の同盟の考えを断念し、アドルフ・ヒトラー総統(3)と会談するためにニュルンベルグへ向かった。

 米国大統領フランクリン・D・ローズヴェルトが日本の侵略『熱』に終止符を打ちたいと願う宣言をする間、軍事侵攻は一人の皇族の命令による前例の無い虐殺を犯そうとしていた。実際に『穏健派』首相近衛文麿【原文ではel príncipe Konoeつまり近衛殿下となっており皇族であることを表現している:訳者】は朝香宮を南京での軍の司令官に据えた。【朝香宮は上海派遣軍司令官として南京に侵攻した。:訳者】

 この最後の者【朝香宮を指す:訳者】はその軍をこの都市で捕虜を作らないようにさせた。数日の間に兵士たちはその命令を文字通り実行した。何万人もの中国人が、多くの西欧人の見ている前で非情な状況の中で殺害された。兵士たちは人間を銃剣の訓練のためにマネキン人形のように利用し、役人たちを首切りの実践のために使った。

 婦人や少女たちは家族の目の前で集団暴行の犠牲者となった。その間に秩父宮と竹田宮は略奪の成果を帝国の手に渡らせる作業に没頭していた。専門家たちは銀行の書類の分析をし、一方で秘密警察は南京の金と富に関する情報を持っていると思われるあらゆる人間を拷問にかけた。(4)

 軍が略奪の成果を不要に浪費しないことを確実にするために、裕仁は黄金の百合と呼ばれる一つの組織を作り出した。それは、ゆすり・たかりのエキスパート(会計士、財務の専門家など)、ヤクザの首領たち、帝国の皇族たちの下にある産業の重鎮たち、天皇の意に沿うわずかの人間たちの集まりであった。秩父宮がすべての仕掛けを統括していた。(5)

東京裁判は、スケープゴートを絞首刑に処することで終わった、全くのペテンである。南京の虐殺の首謀者である朝香宮は、松井将軍が加わってもいない犯罪のために絞首刑台に送られた一方で、起訴すらされなかったのだ。

 マッカーサーの偉大なライバルである山下も、マニラ市民の虐殺の罪を問われて同様の運命をたどった。東条将軍は戦争の第一責任者の罪を負わされて天皇裕仁の代わりに責任を取らされた。
http://www.asyura2.com/0411/bd38/msg/768.html

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c87

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
88. 中川隆[-13728] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:25:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21430]

という事で、

天皇一族の冷酷さ、残虐さ、金の亡者だったことからすると

天皇は漢民族系朝鮮人だと考えて間違い無いでしょう。


アイヌ人や琉球人の様な縄文系の人間にはそういう行為は絶対にできないのですね。
http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c88

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
89. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:47:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21433]

日本は近い将来、中国小日本省になる


50年後の日本地図 (日本人は放射能汚染された東日本に押し込められる)
http://blog.goo.ne.jp/hps777/e/ee6e8a91af4cf1c9b0adb452f1667b7e


▲△▽▼


中国人移民を入れると日本人は絶滅する

1. 沖縄や北海道で中国系住民が過半数になったら独立宣言して中国小日本省になる
2. 中国軍が自国民保護という名目で沖縄や北海道を占領
3. 日本人浄化にとりかかる
4. 日本政府は遺憾の意を表するが、これは中国の内政問題だとして相手にされない

_____


・東トルキスタンでは、最大100万人のウイグル人が「再教育」の名目で中国当局により強制収容されている。遺された幼児たちは「幼稚園」に入れられ、中国人の名前もつけられ、民族も漢民族として登録される。両親が再教育施設から出られたとしても、自分たちの子供を見つけることもできない。「幼稚園」の子供たちは、自分が中国人であること、中国共産党へ感謝することを教え込まれる。

・内モンゴル自治区では「浄化政策」がもう進んでしまって、ここ70年で、人口約2400万のうち、モンゴル人は2割以下になってしまった。経済は中国人に握られ、伝統文化の絶滅が図られている。

・チベットでは、チベット語の学校教育が禁止され、今年になってチベット教の寺院にも共産党員が運営委員として入って監視するようになり、寺院にも習近平の写真が置かれ、共産党の旗を掲げなければならなくなった。

・中国が変わるチャンスは2度会った。最初は文化大革命の混乱。このまま続けば、中国は変わらざるをえなかったのに、米ソ冷戦下で、米国の誤算で中国を助けてしまった。次が天安門事件、若者を弾圧する中国に世界中が経済制裁している時に、日本が真っ先に助けてしまった。中国が民主化するチャンスを潰したのが日本。

【伊勢雅臣】「中国が民主化するチャンスを潰したのが日本」という言葉は重いです。二度とそういう過ちは犯してはなりません。
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201811/article_13.html


▲△▽▼


1972年2月、当時のニクソン米大統領とキッシンジャー補佐官が北京を訪問し、
周恩来首相と会談した時に、日本に対して三つの密約が交わされた。

米中密約の内容

1.日本に核武装そして単独防衛させない
2.これを防ぐために米軍は日本に駐留する(ビンの蓋論)
3.朝鮮半島および台湾問題で日本に発言権を与えない

この密約は、2002年10月、当時の江沢民中国国家主席が、
テキサスの牧場に当時のブッシュ大統領を訪ねたときにも再確認された。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=2976

中国の最終兵器は移民爆弾 _ 外国人参政権を認めると中国に日本を乗っ取られる

中国人は有史以来、戦争に勝ったことが無いが、人口爆弾で他国を乗っ取ってきた:


漢民族は戦争にめちゃくちゃ弱いので、むやみに人数を増やして集まる。
それが始皇帝の兵馬俑で、北方の蛮族より弱かった。

引用:http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/20/97ae91cd74d02dab5763add74c395063.jpg


ユーラシア大陸の真ん中に陣取っている中国とロシアは、有史以来ほとんど戦争に勝った事が無い。


中国とロシア(ソ連)は外国に出て行って戦争に勝ったことが一度も無い。

もしかしたら紛争程度の小競り合いでは勝っているかも知れないが、国同士の戦争ではない。

その代わり内陸の領土に敵を誘い込んで、補給を絶って包囲するような戦いを得意としている。


勝てない中国

中国も同様で、秦の始皇帝が初の国家を作ってから、その領土を守っているだけで、対外戦争で勝った事はほぼない。

モンゴル帝国は強かったが、あれは「モンゴル」が植民地にしたので、中国は植民地側でした。

局地的には朝鮮半島で勝利を得たりしているが、必ず朝鮮の統治者に追い出されています。


ベトナムなどインドシナ半島には何度も侵攻しているが、やはりほとんど勝った事が無い。

台湾にすら負け、日本軍にはコテンパンに負け続け、何度も植民地になっています。

清国はイギリスとの戦争に負けて植民地化したが、その清国がそもそも中国を植民地化し征服した国です。


清国は女真族といい、いわゆる中国人とは別の人種で、満州人、満州民族とも言います。

だから辛亥革命で清国を倒したとき、中国人たちは異民族による植民地支配が終わったと言って喜んでいた。

さらにその前には、「中国人」とは北京周辺に住む黄河文明起源の人たちの事で、長江周辺の長江文明とは別な国だった。


今日「中国が発明した」と言っている文字とか火薬とか印刷とかは、ほとんどが長江文明の発明で長江こそ先進地域でした。

黄河文明はただの植民地、蛮族という位置づけで日本や半島と比べても先進地域ではなかった。

この黄河文明起源の「現在の中国人=漢民族」は粗野で教養が低く、戦争に弱いという特徴を持っています。


戦争に勝てなくても領土を増やす方法

そんな漢民族がなぜ中国を支配できたかというと、長江文明や半島や日本よりも、圧倒的に人口増加率が高かったからでした。

稲作によって大量の食料を得て、子作りに励んでついに女真族やモンゴル族、長江人を数で圧倒して吸収したのでした。

長江文明の子孫である長江人は、漢民族に押し出されるようにして、現在のインドシナ半島に住んでいると言われています。


漢民族の戦略はまず人口を爆発的に増やし、歩いて敵国に侵入して住み着き、その国を支配して領土化します。

これなら戦争に勝つ必要がなく、例えば女真族が住んでいた旧満州では、人口の99%は漢民族になったとされています。

女真族は戦争では圧倒的に強かったが、人口を増やさなかったので漢民族の侵入で吸収されてしまいました。


チベット、ウイグル、内蒙古、旧満州など多くの周辺民族をこの方法で倒してきました。

半島に住んでいる朝鮮民族も最初は中国の東北部に住んでいたが、漢民族が移住してきて追い出されて、歩いて半島にやってきた。

台湾島も島民が住んでいた場所に、多くの漢民族が移住してきて、今では人口の95%以上を移住者の子孫が占めている。


このように中国からの移民や移住者を受け入れるのは、他の国の住民を受け入れるのとは、重大さがまったく違う。

中国の場合は移住は軍事戦略であって、住民を移住させて国を乗っ取り、それから軍隊で占領するのです。
http://thutmose.blog.jp/archives/66023396.html


「外国人参政権」 を認めると沖縄が中国に編入される


なぜ「外国人参政権」を認めると、沖縄が中国に編入されるのか 2017.10.07 
by 北野幸伯『ロシア政治経済ジャーナル』
http://www.mag2.com/p/news/287616


かねてから外交政策の観点から安倍政権支持を明言している無料メルマガ『ロシア政治経済ジャーナル』の著者で国際関係研究者・北野幸伯さんですが、希望の党の政策についても一部評価しているようです。

今回は、小池氏が「外国人参政権に反対でなければ希望の党には入党できない」と表明したことについて絶賛するとともに、その理由をわかりやすく解説しています。


小池さん、「外国人参政権反対」を踏み絵に

選挙戦盛り上がっています。私は、「外交が素晴らしい」ということで、安倍続投を願っています。しかし、安倍さんの政策をすべて支持しているわけではありません。

たとえば「消費税引き上げ」に反対しています。小池さんは、「消費税引き上げ凍結」を宣言している。この方面では、是非がんばっていただきたい。もう一つ、小池さん、こんなことを宣言しています。

毎日新聞10月3日から。


◇民進党からの入党希望者に、「政策協定書」署名を義務づけ


希望の党の小池百合子代表は「寛容な保守」「ダイバーシティー(多様性)社会」を掲げている。その一方、民進党からの入党希望者には、外国人への地方参政権の付与に反対する「政策協定書」への署名を義務づけた。

希望の党に入りたければ、「外国人参政権に反対でなければならない」そうです。毎日新聞は、この決定を批判しているわけですが、私は、「素晴らしいじゃないか!」と思います。皆さんはどうですか?


ある国に住む他民族は、独立を目指す

•コソボ
•南オセチア
•アプハジア
•クリミア
•クルド
•カタルーニャ

このリストは、何でしょうか? これは、(ゆっくり、何度も読んでください)

「ある国の特定の地域に、他民族が多数住んでいたので、分離、独立した、あるいは分離、独立を目指している例」

です。例を一つ一つ見てみましょう。

・コソボ

コソボは、セルビアの一部でした。しかし、アルバニア系住民が、圧倒的に多い。それでコソボは08年2月、セルビアからの独立を宣言しました。

・南オセチア

南オセチアは、ジョージア(旧グルジア)の一部。しかし、オセット人が約9割を占めている。1992年に住民投票が行われ、圧倒的多数で「独立派」が支持を得ました。しかし、「事実上の独立」を達成したのは08年8月のロシア―グルジア戦争後です。南オセチアを国家承認しているのは、ロシアを含む4か国だけ。それでも、「事実上の独立国家」である。

・アブハジア

アブハジアもジョージアの一部です。ここは、アブハジア人が、5割強を占めている。1994年に主権宣言しています。しかし、南オセチアを同じく、事実上の独立を達成したのは、08年8月のロシアーグルジア戦争後でした。アブハジアを承認している国は、ロシアを含む4か国だけ。

・クリミア

クリミアは、ウクライナの一部だった。ここは、ロシア系住民が6割を占めている。2014年3月に、住民投票が実施されます。97%がロシアへの帰属を望んだとされ、ロシアに併合されることになりました。

・クルド(イラク)

イラク北部のクルド自治区は、当然クルド人が大半を占めています。ここでは9月25日、「独立の是非」を問う住民投票が実施されました。9割が「独立を支持」ということで、緊張が高まっています。

・カタルーニャ

スペインのカタルーニャ州では10月1日、「独立の是非」を問う住民投票が実施されました。結果は、92%が独立支持。カタルーニャ州の人は、「俺たちはカタルーニャ人。スペイン人ではない!」と考えているのですね。スペインも、大混乱が予想されます。


外国人参政権付与で、沖縄は中国に吸収される

というわけで、「ある国のある地域に、他民族が密集して住んでいると、独立の機運が高まる」ことをご理解いただけるでしょう。例えば、外国人参政権が与えられたとしましょう。その後、どんな動きが懸念されるのでしょうか?

たとえば、中国が沖縄南部の〇〇市に狙いをつけます。そこに中国人労働者を集中して住まわせる。市の過半数は、「参政権を持つ中国人」になってしまいました。彼らは、「独立の是非」を問う住民投票を実施。圧倒的多数で独立が承認されました。日本政府は自衛隊を投入して、実力で独立を阻止しようとします。

すると中国政府は、「わが国の同胞が、日本軍国主義に大量虐殺されようとしている。これを座視することはできない! そもそも、日本には沖縄の領有権はない! 日本は、中国固有の領土である沖縄を長年不法占拠してきた。いまこそ、歴史の正義を取り戻す時だ!」と大軍を沖縄に送り込みます。かくして、沖縄は中国に編入されることになりました。

このシナリオ、「米軍は何やってたんだ!」と思いますね。確かに。ただ、長期的に見ると、米軍だっていつまでいるかわかりません。

「ある国のある地域に、他民族がたくさん住んでいると、独立を主張し始める」

これは、世界のあちこちで起こっている事実です。中国人が、ある地域に密集して住み、過半数を超えた。将来彼らが「独立」を主張することは十分ありえます。そこまでいかなくても、住民投票で次々と反日的政策を進めていくことでしょう。

私は、どの国の人も差別しません。しかし、「外国人参政権を与えるかどうか」は差別とは関係ありません。私はモスクワに27年間住んでいますが、もちろん参政権はありません。私は「外国人」なので、参政権がなくて当然なのです。そして、日本国内に住む外国人も、参政権がなくて当然なのです。

そういった意味で、「外国人参政権反対」を踏み絵にする小池さんの決定は素晴らしいと思います。
http://www.mag2.com/p/news/287616  

日本人は謀略工作や心理戦に弱い。

我々社会が堅気の人間で構成されているせいか、各人の良心を信じる性善説が強いからだろう。

しかし、日本から一歩外へ踏み出せば、腹黒い奴らばかりで、朝鮮半島は根性がひん曲がった下郎でいっぱいだし、支那大陸は普通の人間でも匪賊、盗賊、殺人鬼、詐欺師、ゴロツキ、といった「人でなし」に直ぐ変身できる。

ましてや、生まれつきの悪人だと子供の頃から一端(いっぱし)のギャングだ。

落合信彦など「支那人の子供は目の輝きが違う」などと雑誌『サピオ』に書いて失笑を買ったが、国際ジャーナリストを自称する法螺吹きだから仕方ない。

しかし、有名大学の長老教授や新聞論説員に騙されて支那人を厚遇し、「人さま」扱いしていた日本人は哀れだ。

隣人を信頼できて、他人も気配りをしてくれる国など、地球上で日本以外にはあり得ない。ユーラシア大陸は魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する闇黒地帯で、お人好しの日本人が生活できる世界ではなく、下手をすれば身ぐるみ剝がされて虐殺されてもおかしくはないのだ。
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68677889.html


中国の最終兵器は移民爆弾 _ 外国人参政権を認めると中国に日本を乗っ取られる


国会で話題になっていた「外国人参政権の問題点」は、対象者のほぼすべてが「在日韓国・朝鮮人」であることです。

この法案を積極的に推し進めている政党(賛成派)を知っておいたほうが良いでしょう。


「外国人参政権法案」の国会提出回数


公明党   27回(賛成)
民進党   15回(賛成)
共産党   11回(賛成)
自民党   0回(反対)
国民新党 0回(反対)
みんな   0回(反対)


※外国人参政権にもっとも積極的に賛成なのが公明党(創価学会)

※民主党(現在:民進党)は韓国民潭からの要請を受けて提出
※社民党・共産党も賛成 →共産党は被選挙権(立候補する権利)まで要求
※「自民党、国民新党、みんなの党、維新の会」は”反対”


(最後に/移民・難民問題)


日本国内で失踪する外国人(中国人)が増加
失踪目的で、技能研修を受けるものもいる

在日の犯罪の件数は多いのか、多い地域、どこにある?川崎市


その一方で日本には、イスラム圏からも多くの外国人が難民申請をしています(現在は多くが却下されている)
今後どのようになるかは分かりません。
http://www.geocities.jp/tokua33/


▲△▽▼


遠からず中国人は大陸の資源を完全に食い尽くして、日本に何億人もの難民が押し掛ける事になるよ。5年先か10年先かはわからないが。

もし中国にこちらから侵略戦争を仕掛けないのなら、海上封鎖の準備をして日本に侵入して来る中国人難民を全滅させる方法を考えておいた方がいい。

中国人の頭上からガソリンを撒いて火炎放射器で火を付けるのが一番簡単か。

硫酸をかけて体ごと溶かす方が良いか?

とにかく早急に日本人の知恵を集めて何としても中国人難民の日本上陸を阻止しないといけないね。

まあ、そういう時代になれば中国人・朝鮮人撲滅ビジネスで日本中好景気に沸く訳だ。 めでたいことだな。 小沢先生の最愛の祖国は地上から消滅するけどねwwww


とりあえず、道で中国人を見つけたら必ず生卵をぶつけてやる習慣をつけた方がいいね

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c89

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
52. 中川隆[-13732] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:55:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21436]

日産、退任後報酬の書面に作成日
11/29(木) 19:02配信 共同通信

 日産自動車の前会長カルロス・ゴーン容疑者(64)=有価証券報告書の虚偽記載容疑で逮捕=が退任後、報酬の一部を受け取ることに日産側が合意したとされる書面に、作成日が記されていたことが29日、関係者への取材で分かった。東京地検特捜部は、作成時点で将来の支払いが確定したと判断。報告書への記載義務が生じた根拠の一つとみて調べている。

 ゴーン容疑者と前代表取締役グレゴリー・ケリー容疑者(62)=同容疑で逮捕=の勾留期限は30日。特捜部は全容解明にはさらに時間が必要として東京地裁に延長を請求する方針で、いずれも12月10日まで勾留される可能性がある。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c52

[経世済民129] 東芝は制度強化 企業の内部通報“ほぼ半分は”もみ消される “暴君”ゴーンの落日(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
1. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:57:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21436]
カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html



http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/670.html#c1

[経世済民129] 東京地検、海外メディアに反論 ゴーン容疑者勾留「国ごとにそれぞれの制度、自分の国と違うからと批判するのはいかがなものか」 赤かぶ
3. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月29日 22:57:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21436]
カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html



http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/669.html#c3

[昼休み54] 韓国は既に共産体制へ向かって驀進中 中川隆
32. 中川隆[-13735] koaQ7Jey 2018年11月30日 06:28:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442]

韓国、「人口危機」7〜9月の合計特殊出生率は史上最悪「0.95」2018年11月30日
http://hisayoshi-katsumata-worldview.livedoor.biz/archives/13984559.html

韓国の人口問題は、月を追うごとに危機の度合いを深めている。一人の女性が出産する子ども数(合計特殊出生率)が、7〜9月に0.95と1を割りこんだ。これは、韓国の将来を考える上で、「特大」の危険要因である。だが、韓国政府にはその危機意識がゼロである。北朝鮮問題に没頭する前に、実効ある出生率の改善策に着手しなければ、22世紀に韓国は地球上から消える運命だ。

出生率を上げるには、まず若者の就職率を引き上げることである。それには、現在の最低賃金の大幅引上げを廃止して、生産性上昇率に見合った引き上げ幅にすることである。就職率が上昇すれば、経済問題が解決して結婚比率が上がる。だが、長年にわたる若者の高い失業率で、結婚する意欲が低下していることが判明した。

韓国統計庁は、2018年社会調査結果を11月6日に発表した。韓国国内の満13歳以上の男女3万9000人を対象に、家族・教育・保健・安全・環境の5部門について調査したもの。それによると、出生率低下の理由が明らかになった。

韓国国民の中で、「結婚はすべき」という回答者の比率は、16年の51.9%から今年は48.1%に下がった。調査が始まった08年以来、初めて5割を下回った。男女別で見ると、女性は48.1%が「結婚はすべき」と答え、男性(51.9%)に比べ結婚の必要性をあまり感じていないことが判明した。今回の調査で、子どもの私教育費が家計の大きな負担になっていることも分った。「子どもの教育費が負担になる」と回答した世帯主は64.4%に達した。

結婚を希望しない人の比率が増えていることは、「価値観」と言ったことで済ましてはいけない。経済的な理由が大きいはずである。また、子どもの教育費がかかりすぎる点も、出生率を引下げている。いずれも、経済要因が韓国の出生率を史上最低にまで押し下げたのである。

文政権は、所得主導成長論という空想の経済理論に固執している。これが、国家滅亡の種を蒔いているようなものである。早くそのことに気付くべきだ。韓国の革新政党が、新奇をてらって「経済政策モドキ」を取り入れてはしゃいでいる。これが紛れもなく、「亡国政策」である。文政権は、歴史の批判に耐えられるだろうか。文在寅氏こそ、「積弊一掃」の対象であろう。

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/278.html#c32

[昼休み54] 日本のマスコミは悪い 中川隆
49. 中川隆[-13734] koaQ7Jey 2018年11月30日 06:44:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442]
2018.11.29
外部で発信される嘘を伝えるという米有力メディアの手法(1/2)


 イギリスのガーディアン紙が伝えたポール・マクフォートとジュリアン・アッサンジが何度か会ったとする記事は信憑性が薄く、同紙の信頼度をさらに低めることになっているが、アメリカの有力メディアはその報道を伝えるという形で宣伝を展開している。

 そうした報道/プロパガンダで作り上げたイメージを使い、アメリカ支配層はアッサンジを逮捕させ、アメリカで刑務所へ入れてしまおうと考えているのかもしれない。

 西側の有力メディアは偽情報を伝える際、一種の濾過システムを利用してきた。例えばシリアでの戦争では当初、シリア系イギリス人のダニー・デイエムやSOHR(シリア人権監視所)を情報源として使った。間違っていても責任はデイエムやSOHRという構図だ。

 実際、デイエムの発信する情報が信頼できないことが2012年3月に発覚する。この人物を中心とするグループが「シリア政府軍の攻撃」を演出する様子が流出してしまったのだ。つまり「ヤラセ」が発覚した。

 アメリカ、イスラエル、サウジアラビア、イギリス、フランス、トルコ、カタールといった国々がシリアやリビアに対する侵略戦争を始めたのは2011年春だが、その何年も前から順部は始まっていた。

 中東で侵略戦争を本格化させたのはジョージ・W・ブッシュ政権。2003年3月のイラクに対する先制攻撃が始まりだ。そのときに倒されたサダム・フセイン体制はスンニ派。戦争を主導したネオコンは親イスラエル体制を築く予定だったのだろうが、実際はイラクの多数派であるシーア派が実権を握り、イランと結びつく。

 そこで、2007年初めにブッシュ政権は中東政策の方針を大きく変更しているという。調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、​シリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラを最大の敵だと定め、スンニ派の過激派と手を組むことにした​のだ。

 スンニ派の過激派とはサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心とするジハード傭兵で、その中にはフセイン体制の将兵も含まれていると言われている。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811290000/


2018.11.30
外部で発信される嘘を伝えるという米有力メディアの手法(2/2)


 2009年1月に大統領はバラク・オバマへ交代になるが、そのオバマは10年8月にPSD-11を出し、ムスリム同胞団を主力とする体制転覆プロジェクトを始める。それが2011年春に顕在化したわけだ。リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が2011年10月に倒れると傭兵や武器/兵器はシリアへ運ばれた。翌年に入ってシリアでの戦闘が激化したのはそのためだが、デイエムの嘘はばれてしまった。

 そこで現れてきたのがSCD(シリア市民防衛)、いわゆる「白いヘルメット」だ。この団体は2014年10月に創設されたことになっているが、前年のはじめにはジャームズ・ル・メシュリエが訓練を始めている。この人物はイギリス軍の元将校で、傭兵会社のブラックウォーター(後にXe、さらにアカデミへ名称変更)で働いた経験がある。

 西側では「善玉」として描かれるSCDだが、その実態はアル・カイダ系武装集団やダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)の医療部隊。SCDとジハード傭兵のメンバーは重なっている。

 こうした個人や団体だけでなく、イギリスのトニー・ブレア政権もアメリカ支配層の侵略戦争を実現するため、偽情報を発信してきた。その一例が2002年9月にイギリス政府から発表された「イラク大量破壊兵器、イギリス政府の評価」、いわゆる「9月文書」だ。作成された文書はすぐにリークされ、イギリスのサン紙は「破滅から45分のイギリス人」という扇情的タイトルの記事を掲載した。

 アメリカのコリン・パウエル国務長官も絶賛していたが、これはある大学院生の論文を無断引用したもの。内容もイラクの脅威を正当化するために改竄されていたことが後にわかる。

 この文書が作成される半年前に​パウエルが書いたメモ​の存在が判明している。その中で、ブレア首相がパウエルに対してイギリスはアメリカの軍事行動に加わると書かれている。つまり開戦の1年前にでブレアは開戦に同意していた。ブッシュ政権は当初、2002年春に攻撃を始める予定で、その攻撃にイギリス軍も参加すると言うことだ。

 しかし、アメリカの統合参謀本部の内部では反対が強く、開戦は延期された。当初からイラクは2001年9月11日の攻撃に無関係で、大量破壊兵器を保有していないことをアメリカ軍はCIAと同様、熟知していたはず。イラクに対する戦争攻撃には「大義」がないということだ。しかもネオコンの立てた計画は無謀で、戦争の泥沼化は不可避だと判断されていた。

 そうした反対の結果、半年から1年ほど開戦が遅れた可能性が高い。そしてブレア政権の報告書は発表された。開戦を正当化するために作成されたと考えるべきだろう。

 そして2003年3月にアメリカやイギリスはイラクを先制攻撃するが、BBCのアンドリュー・ギリガンは5月にラジオ番組に登場、「9月文書」は粉飾されていると語る。サンデー・オン・メール紙では、アラステアー・キャンベル首席補佐官が情報機関の反対を押し切って「45分話」を挿入したと主張した。

 ギリガンがこの話を語って間もなく、彼の情報源が国防省で生物兵器を担当しているデイビッド・ケリーだということがリークされる。実際、2003年5月にギリガンとケリーはロンドンのホテルで会っていた。

 そのためケリーは7月15日に外務特別委員会へ呼び出されるのだが、その2日後に死亡する。公式発表では「自殺」ということになっているが、疑問は多く、今でも他殺説は消えていない。

 その後、「9月文書」が正しくないことはイギリスの外務大臣だったジャック・ストローが認めているが、その嘘を伝えたBBCでは粛清があり、執行役員会会長とBBC会長が辞任、ギリガンもBBCを離れた。政府に屈服したBBCはそれ以降、単なるプロパガンダ機関になる。

 アメリカの有力メディアは外部の個人や組織が流した情報を伝える傾向が強まっているように感じられる。支配層の好戦派にとって都合の良い話、つまり嘘を伝える役割を負っている彼らだが、その責任を回避するため、こうした手法を採用しているのかもしれない。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811300000/
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/104.html#c49

[近代史02] 命を賭して悪の帝国と闘ったサダム・フセイン (小沢先生もこれ位カッコ良ければなあ) 中川隆
84. 中川隆[-13733] koaQ7Jey 2018年11月30日 06:44:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442]
2018.11.29
外部で発信される嘘を伝えるという米有力メディアの手法(1/2)


 イギリスのガーディアン紙が伝えたポール・マクフォートとジュリアン・アッサンジが何度か会ったとする記事は信憑性が薄く、同紙の信頼度をさらに低めることになっているが、アメリカの有力メディアはその報道を伝えるという形で宣伝を展開している。

 そうした報道/プロパガンダで作り上げたイメージを使い、アメリカ支配層はアッサンジを逮捕させ、アメリカで刑務所へ入れてしまおうと考えているのかもしれない。

 西側の有力メディアは偽情報を伝える際、一種の濾過システムを利用してきた。例えばシリアでの戦争では当初、シリア系イギリス人のダニー・デイエムやSOHR(シリア人権監視所)を情報源として使った。間違っていても責任はデイエムやSOHRという構図だ。

 実際、デイエムの発信する情報が信頼できないことが2012年3月に発覚する。この人物を中心とするグループが「シリア政府軍の攻撃」を演出する様子が流出してしまったのだ。つまり「ヤラセ」が発覚した。

 アメリカ、イスラエル、サウジアラビア、イギリス、フランス、トルコ、カタールといった国々がシリアやリビアに対する侵略戦争を始めたのは2011年春だが、その何年も前から順部は始まっていた。

 中東で侵略戦争を本格化させたのはジョージ・W・ブッシュ政権。2003年3月のイラクに対する先制攻撃が始まりだ。そのときに倒されたサダム・フセイン体制はスンニ派。戦争を主導したネオコンは親イスラエル体制を築く予定だったのだろうが、実際はイラクの多数派であるシーア派が実権を握り、イランと結びつく。

 そこで、2007年初めにブッシュ政権は中東政策の方針を大きく変更しているという。調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、​シリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラを最大の敵だと定め、スンニ派の過激派と手を組むことにした​のだ。

 スンニ派の過激派とはサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心とするジハード傭兵で、その中にはフセイン体制の将兵も含まれていると言われている。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811290000/


2018.11.30
外部で発信される嘘を伝えるという米有力メディアの手法(2/2)


 2009年1月に大統領はバラク・オバマへ交代になるが、そのオバマは10年8月にPSD-11を出し、ムスリム同胞団を主力とする体制転覆プロジェクトを始める。それが2011年春に顕在化したわけだ。リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が2011年10月に倒れると傭兵や武器/兵器はシリアへ運ばれた。翌年に入ってシリアでの戦闘が激化したのはそのためだが、デイエムの嘘はばれてしまった。

 そこで現れてきたのがSCD(シリア市民防衛)、いわゆる「白いヘルメット」だ。この団体は2014年10月に創設されたことになっているが、前年のはじめにはジャームズ・ル・メシュリエが訓練を始めている。この人物はイギリス軍の元将校で、傭兵会社のブラックウォーター(後にXe、さらにアカデミへ名称変更)で働いた経験がある。

 西側では「善玉」として描かれるSCDだが、その実態はアル・カイダ系武装集団やダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)の医療部隊。SCDとジハード傭兵のメンバーは重なっている。

 こうした個人や団体だけでなく、イギリスのトニー・ブレア政権もアメリカ支配層の侵略戦争を実現するため、偽情報を発信してきた。その一例が2002年9月にイギリス政府から発表された「イラク大量破壊兵器、イギリス政府の評価」、いわゆる「9月文書」だ。作成された文書はすぐにリークされ、イギリスのサン紙は「破滅から45分のイギリス人」という扇情的タイトルの記事を掲載した。

 アメリカのコリン・パウエル国務長官も絶賛していたが、これはある大学院生の論文を無断引用したもの。内容もイラクの脅威を正当化するために改竄されていたことが後にわかる。

 この文書が作成される半年前に​パウエルが書いたメモ​の存在が判明している。その中で、ブレア首相がパウエルに対してイギリスはアメリカの軍事行動に加わると書かれている。つまり開戦の1年前にでブレアは開戦に同意していた。ブッシュ政権は当初、2002年春に攻撃を始める予定で、その攻撃にイギリス軍も参加すると言うことだ。

 しかし、アメリカの統合参謀本部の内部では反対が強く、開戦は延期された。当初からイラクは2001年9月11日の攻撃に無関係で、大量破壊兵器を保有していないことをアメリカ軍はCIAと同様、熟知していたはず。イラクに対する戦争攻撃には「大義」がないということだ。しかもネオコンの立てた計画は無謀で、戦争の泥沼化は不可避だと判断されていた。

 そうした反対の結果、半年から1年ほど開戦が遅れた可能性が高い。そしてブレア政権の報告書は発表された。開戦を正当化するために作成されたと考えるべきだろう。

 そして2003年3月にアメリカやイギリスはイラクを先制攻撃するが、BBCのアンドリュー・ギリガンは5月にラジオ番組に登場、「9月文書」は粉飾されていると語る。サンデー・オン・メール紙では、アラステアー・キャンベル首席補佐官が情報機関の反対を押し切って「45分話」を挿入したと主張した。

 ギリガンがこの話を語って間もなく、彼の情報源が国防省で生物兵器を担当しているデイビッド・ケリーだということがリークされる。実際、2003年5月にギリガンとケリーはロンドンのホテルで会っていた。

 そのためケリーは7月15日に外務特別委員会へ呼び出されるのだが、その2日後に死亡する。公式発表では「自殺」ということになっているが、疑問は多く、今でも他殺説は消えていない。

 その後、「9月文書」が正しくないことはイギリスの外務大臣だったジャック・ストローが認めているが、その嘘を伝えたBBCでは粛清があり、執行役員会会長とBBC会長が辞任、ギリガンもBBCを離れた。政府に屈服したBBCはそれ以降、単なるプロパガンダ機関になる。

 アメリカの有力メディアは外部の個人や組織が流した情報を伝える傾向が強まっているように感じられる。支配層の好戦派にとって都合の良い話、つまり嘘を伝える役割を負っている彼らだが、その責任を回避するため、こうした手法を採用しているのかもしれない。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811300000/
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/298.html#c84

[昼休み52] 意図的な世論誘導報道で悪魔呼ばわりされているシリア アサド大統領 富山誠
97. 中川隆[-13732] koaQ7Jey 2018年11月30日 06:45:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442]
2018.11.29
外部で発信される嘘を伝えるという米有力メディアの手法(1/2)


 イギリスのガーディアン紙が伝えたポール・マクフォートとジュリアン・アッサンジが何度か会ったとする記事は信憑性が薄く、同紙の信頼度をさらに低めることになっているが、アメリカの有力メディアはその報道を伝えるという形で宣伝を展開している。

 そうした報道/プロパガンダで作り上げたイメージを使い、アメリカ支配層はアッサンジを逮捕させ、アメリカで刑務所へ入れてしまおうと考えているのかもしれない。

 西側の有力メディアは偽情報を伝える際、一種の濾過システムを利用してきた。例えばシリアでの戦争では当初、シリア系イギリス人のダニー・デイエムやSOHR(シリア人権監視所)を情報源として使った。間違っていても責任はデイエムやSOHRという構図だ。

 実際、デイエムの発信する情報が信頼できないことが2012年3月に発覚する。この人物を中心とするグループが「シリア政府軍の攻撃」を演出する様子が流出してしまったのだ。つまり「ヤラセ」が発覚した。

 アメリカ、イスラエル、サウジアラビア、イギリス、フランス、トルコ、カタールといった国々がシリアやリビアに対する侵略戦争を始めたのは2011年春だが、その何年も前から順部は始まっていた。

 中東で侵略戦争を本格化させたのはジョージ・W・ブッシュ政権。2003年3月のイラクに対する先制攻撃が始まりだ。そのときに倒されたサダム・フセイン体制はスンニ派。戦争を主導したネオコンは親イスラエル体制を築く予定だったのだろうが、実際はイラクの多数派であるシーア派が実権を握り、イランと結びつく。

 そこで、2007年初めにブッシュ政権は中東政策の方針を大きく変更しているという。調査ジャーナリストのシーモア・ハーシュによると、​シリア、イラン、そしてレバノンのヒズボラを最大の敵だと定め、スンニ派の過激派と手を組むことにした​のだ。

 スンニ派の過激派とはサラフィ主義者(ワッハーブ派、タクフィール主義者)やムスリム同胞団を中心とするジハード傭兵で、その中にはフセイン体制の将兵も含まれていると言われている。(つづく)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811290000/


2018.11.30
外部で発信される嘘を伝えるという米有力メディアの手法(2/2)


 2009年1月に大統領はバラク・オバマへ交代になるが、そのオバマは10年8月にPSD-11を出し、ムスリム同胞団を主力とする体制転覆プロジェクトを始める。それが2011年春に顕在化したわけだ。リビアのムアンマル・アル・カダフィ体制が2011年10月に倒れると傭兵や武器/兵器はシリアへ運ばれた。翌年に入ってシリアでの戦闘が激化したのはそのためだが、デイエムの嘘はばれてしまった。

 そこで現れてきたのがSCD(シリア市民防衛)、いわゆる「白いヘルメット」だ。この団体は2014年10月に創設されたことになっているが、前年のはじめにはジャームズ・ル・メシュリエが訓練を始めている。この人物はイギリス軍の元将校で、傭兵会社のブラックウォーター(後にXe、さらにアカデミへ名称変更)で働いた経験がある。

 西側では「善玉」として描かれるSCDだが、その実態はアル・カイダ系武装集団やダーイッシュ(IS、ISIS、ISIL、イスラム国とも表記)の医療部隊。SCDとジハード傭兵のメンバーは重なっている。

 こうした個人や団体だけでなく、イギリスのトニー・ブレア政権もアメリカ支配層の侵略戦争を実現するため、偽情報を発信してきた。その一例が2002年9月にイギリス政府から発表された「イラク大量破壊兵器、イギリス政府の評価」、いわゆる「9月文書」だ。作成された文書はすぐにリークされ、イギリスのサン紙は「破滅から45分のイギリス人」という扇情的タイトルの記事を掲載した。

 アメリカのコリン・パウエル国務長官も絶賛していたが、これはある大学院生の論文を無断引用したもの。内容もイラクの脅威を正当化するために改竄されていたことが後にわかる。

 この文書が作成される半年前に​パウエルが書いたメモ​の存在が判明している。その中で、ブレア首相がパウエルに対してイギリスはアメリカの軍事行動に加わると書かれている。つまり開戦の1年前にでブレアは開戦に同意していた。ブッシュ政権は当初、2002年春に攻撃を始める予定で、その攻撃にイギリス軍も参加すると言うことだ。

 しかし、アメリカの統合参謀本部の内部では反対が強く、開戦は延期された。当初からイラクは2001年9月11日の攻撃に無関係で、大量破壊兵器を保有していないことをアメリカ軍はCIAと同様、熟知していたはず。イラクに対する戦争攻撃には「大義」がないということだ。しかもネオコンの立てた計画は無謀で、戦争の泥沼化は不可避だと判断されていた。

 そうした反対の結果、半年から1年ほど開戦が遅れた可能性が高い。そしてブレア政権の報告書は発表された。開戦を正当化するために作成されたと考えるべきだろう。

 そして2003年3月にアメリカやイギリスはイラクを先制攻撃するが、BBCのアンドリュー・ギリガンは5月にラジオ番組に登場、「9月文書」は粉飾されていると語る。サンデー・オン・メール紙では、アラステアー・キャンベル首席補佐官が情報機関の反対を押し切って「45分話」を挿入したと主張した。

 ギリガンがこの話を語って間もなく、彼の情報源が国防省で生物兵器を担当しているデイビッド・ケリーだということがリークされる。実際、2003年5月にギリガンとケリーはロンドンのホテルで会っていた。

 そのためケリーは7月15日に外務特別委員会へ呼び出されるのだが、その2日後に死亡する。公式発表では「自殺」ということになっているが、疑問は多く、今でも他殺説は消えていない。

 その後、「9月文書」が正しくないことはイギリスの外務大臣だったジャック・ストローが認めているが、その嘘を伝えたBBCでは粛清があり、執行役員会会長とBBC会長が辞任、ギリガンもBBCを離れた。政府に屈服したBBCはそれ以降、単なるプロパガンダ機関になる。

 アメリカの有力メディアは外部の個人や組織が流した情報を伝える傾向が強まっているように感じられる。支配層の好戦派にとって都合の良い話、つまり嘘を伝える役割を負っている彼らだが、その責任を回避するため、こうした手法を採用しているのかもしれない。(了)
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201811300000/
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/816.html#c97

[昼休み54] カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた 中川隆
3. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月30日 07:12:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442]

日産が 90年代に経営破たんしてルノーに乗っ取られた原因

GHQが日産にしかけた時限爆弾

戦前の日産は日本最大の自動車メーカーだったが、その事でGHQの攻撃対象になった
引用:http://www.tanken.com/nissan1.jpg


日産の創業者

先日ルノー日産は買収した三菱自動車を含めて、2017年上半期の世界販売が世界一になったと発表しました。

2位VWは伸び率が低いうえに新たな排ガス不正が発覚し、下半期も苦戦が予想されています。

3位のトヨタはEVなど次世代技術開発に注力したいとして、早々に世界一レースから棄権を申し出ている。

          
日産は創業以来始めて、年間を通じて世界一になるのが確実だが、知ってのとおり90年代に経営破たんしルノーに買収されている。

事実上日本に本社を置くフランス企業だが、日産が経営破たんした経緯はすでに忘れ去られている。

日産の破綻は日本の終戦前後から周到に用意され、なるべくして破綻した時限爆弾のようなものだった。


戦前の日産はトヨタは言うに及ばず、三菱や三井、住友などを押しのけて日本最大の財閥だったが、どうしてこうなったのか。

まず話は日産の創業に遡り、創業者の鮎川義介は明治13年生まれと明治維新後に生まれ、財閥創業者としては非常に遅い。

旧長州藩士の出身で、外務大臣や大蔵大臣を勤めた井上馨の親戚筋で、東京帝国大学卒というエリートだった。


日本で就職した後、アメリカの鋳鉄工場で技術を会得し明治43年、30歳の時に現在の戸畑鋳物(現在の日立金属)を創設した。

日立と日産はどちらも井上馨が主導して創設した長州系財閥で、いずれも久原鉱業の鉱山を基盤に発展した。

日立は鉱山で使用する機材、日産は鋳鉄業を中心に事業を拡大し、大正期に日産は各種エンジンを製作する機械メーカーになっていた。


軍需で急成長

日産の鮎川義介は既存の財閥創業者と違い、機を見るに敏であり、次々に新たな事業に進出していった。

第一次大戦後の不況で久原鉱業を吸収し、日本産業と改名し、日産コンツェルンを形成しました。

鮎川義介はさらに勢いに乗って、当時最先端の産業だった自動車生産に乗り出し、1931年にダットサンを傘下に収めた。


ダットサンは大正3年(1914年)には脱兎号を開発していて、当時としては進んだ国産技術を持っていました。

日産という巨大財閥の傘下に入ったダットサンはまたたくまに日本最大の自動車会社になったが、需要の大半は軍部だった。

当時の日本は朝鮮、清国、ロシアを次々に倒し、満州国を建国し大陸を開発しようとしていました。


大陸には膨大な輸送需要があり、民間経済は未発達だったので軍部が鉄道や道路を建設し、トラック輸送をしていた。

1945年までに大陸で使われていたトラックのほとんどを日産が製造したが、これが敗戦後に仇となった。

軍事企業としては三菱の方が有名だが、どうしたことかあまりお咎めを受けず、GHQの批判の矛先は日産に向けられた。


日産と日立は井上馨という同じ親をもつ長州藩の兄弟会社ですが、長州藩は戊辰戦争に勝った事で帝国陸軍に支配力を持っていました。

軍と一体になって侵略戦争を行ったとして、久原財閥(日産、日立の母体)の久原房之助はA級戦犯として公職追放された。

鮎川義介も戦犯として逮捕され公民権停止され、以降日産と関わるのを一切禁止されたが、後に参議院議員になっている。


自称”労働者の代表”達は働きもせず暴動に明け暮れた。
このような活動を背後で操り、支援していたのはGHQだった。
引用:http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg


GHQによる日産虐め

日産はGHQによって戦後の自動車生産が制限されたが、GHQは日産をこのまま滅ぼそうと考えていた。

生産制限と同時に刑務所から出所した反政府活動家を日産工場に送り込み、労働争議を起こさせてこれを「民主化」と称していた。

民主化の実態は酷いもので、暴力を振るったり打ち壊したり、物を盗んだりして操業を妨害したのが実態だった。


工場労働者は仕事をせず、上司を監禁して「裁判」と称して大勢で丸一昼夜責め続け、精神を破壊していった。

工場にいる一番偉いのは課長だったので、日産の課長の多くが精神に異常をきたしたり、自分も「民主活動」に加わった。

労働者側の仲間になれば裁判の標的にならず、監禁されたり暴力を振るわれずに済むからだった。

こうした出来事をGHQは「日本でも民主化が根付き始めた」と称賛し、暴動を奨励しては、面白おかしく眺めていた。


GHQは「民主化」を支援したので日産工場の混乱は続き、この間に自動車産業のトップに躍り出たのがトヨタだった。

トヨタは戦前には小規模な自動車生産を行っていたが、軍部との関係は限られていたので、GHQのお気に入りになった。

1950年に朝鮮戦争が始まると日産、トヨタとも突然フル生産を命じられ、以降は急激に成長しアメリカのビッグ3も倒してしまった。


だがGHQによって日産に送り込まれた民主活動家達は、60年間日産の活動を妨害し続け、ついに会社を事実上倒産させてしまいルノーに買収された。

日産の末期がいかに酷かったを物語る伝説として、経営会議でモデルチェンジが決まると、工場長に伺いを立てる。

工場長は労働組合の幹部で、組合は事実上の日産の「本当の経営権」を握っていたとされている。


日産の時限爆弾

組合が同意しないとモデルチェンジできず、日産のモデルチェンジはどんどん遅くなり、内容も陳腐になった。

特にエンジンやシャシーなどを含むフルモデルチェンジは、労働者を酷使するとして一切認めなかった。

こうしてスカイラインもサニーもマーチもブルーバードも、同じエンジンの使いまわし、モデルチェンジ期間の長期化が進行した。


初代マーチが好評だったのに10年間モデルチェンジされなかったのはこれが理由で、2代目も10年、3代目も8年間モデルチェンジしなかった。

日産の労働組合は「労働貴族」という小説にもなったほど有名で、日産社内は社会主義国ソ連のようだったと言われている。

日産の労使協定では「日産車は労組の合意なしにいかなる改良もできない」と書かれていて、モデルチェンジを決めるのは組合長なのだった。


もちろんトヨタやホンダは社長がモデルチェンジを決めていたので、日産がホンダに抜かれたのは当たり前でした。

連合会長の塩路一郎は塩路天皇と呼ばれ、日産の重役人事や経営方針も事実上労組が決めていました。

こうした種を撒いたのはGHQで、種は大きく育って日産を乗っ取り、ついには経営破たんさせてフランス企業になりました。


敗戦前後の混乱期については日産の社史や公式な自動車史でも、知られたくないのかあまり書かれていない。

GHQは戦後すぐ日産を解体倒産させようとしたが、吉田茂首相や池田勇人首相らの抵抗によって、中途半端な虐めに留まったとされている。
http://www.thutmosev.com/archives/71982031.html  



▲△▽▼


労働貴族 (講談社文庫) – 1986/6/9 高杉 良 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%B2%B4%E6%97%8F-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%AB%98%E6%9D%89-%E8%89%AF/dp/4061837699


2013.02.19企業・業界名作経済小説『労働貴族』のモデル塩路一郎氏死去日産経営危機の“元凶”元労組リーダー死去
「社内にスパイがいて悪口はタブー」
https://biz-journal.jp/2013/02/post_1530.html


 日産自動車の労働組合リーダーとして大きな影響力を持ち、小説のモデルにもなった塩路一郎が2月1日、食道がんで死去した。86歳だった。葬儀は近親者で行った。

 日産自動車には、かつて3人の「天皇」がいた。日本興業銀行(現・みずほコーポレート銀行)出身の川又克二社長(86年、81歳で死去)、生え抜きの石原俊社長(03年、91歳で死去)、自動車労連(現・日産労連)の塩路一郎会長(13年、86歳で死去)である。

 70年代後半からの日産は「三頭政治」と呼ばれた。川又と蜜月関係を結んだ塩路が、石原と激しく対立した。日産の凋落を招き、仏ルノーに身売りしなければならなくなった最大の原因は、3人の天皇による社内抗争にあった。

 塩路は東京・神田の生まれ。父親は叔父と小さな牛乳屋を営んでいたが、終戦後まもなく死去。塩路は幼い弟妹を養うために、さまざまな職業に就いた。日本油脂の倉庫勤務の傍ら、明治大学法学部の夜間部に進んだ。1953年に卒業、日産自動車に入社した。成績優秀な官学出の学生を採用してきた日産が、夜間部卒の塩路を採るのは異例なことだ。

 旧日産コンツェルングループの日本油脂が、反組合の闘士だった彼を「ストライキ破りにぴったりな若者」と推薦したから入社できたのだ。当時、日産は労働争議を繰り返していた。47年に興銀から経理担当常務として送り込まれていた川又克二は第2組合を作って労働争議を終了させようと考えた。川又は面接した塩路に強い印象を受け、「骨のあるやつだ。ああいう男こそ必要なんだ」と人事部長に採用を進言した。

 塩路は喧嘩屋といわれた本領を発揮する。横浜工場の経理課に配属された彼は、すぐに反組合派として頭角を現した。入社間もない、53年夏から4カ月間に及ぶ労働争議が起きた。第1組合の切り崩しを進め、労使協調路線を掲げる第2組合を結成すると、新入社員の塩路は会計部長の要職に就いた。

 労働争議を終息させた川又は57年11月、日産の社長に就任。58年に日産労組書記長に就いた塩路は第1組合潰しの論功行賞としてハーバード大学ビジネス・スクールへ留学(59〜60年)させてもらった。帰国後の61年日産労組組合長、62年に日産グループの労組でつくる自動車労連の会長に就任。72年に自動車メーカーの主要労組を統合した自動車総連を結成し、86年まで会長を務めた。

 川又克二は73年に岩越忠恕にバトンタッチするまで16年間、日産のトップとして君臨した。岩越社長の時代の4年間も、川又は会長として院政を敷いた。

 塩路は権力志向の強い男だった。労使一体化路線を進め、人事権を握った。人事・労務部門は塩路派の巣窟といわれた。日産社内では、労組(=塩路)の同意がなければ人事や経営方針が決められないほどの影響力を行使し、「塩路天皇」と呼ばれた。

 高杉良は小説『労働貴族』(講談社文庫)で、「塩路会長の悪口をいうことは、絶対にタブーで、社員同士で飲んでいるときでも、危なくて話せなかった。塩路批判でもしようものなら、お庭番みたいなスパイがいて、確実に塩路会長の耳に入る仕組みだった。現実に、左遷されたり、飛ばされた者の事例を知っている」と1人の社員に語らせている。

 塩路は役員人事にも介入した。塩路が首を縦に振らなければ、役員になれなかった。役員人事の季節になると、ご機嫌伺いに塩路のもとを訪れる候補者が後を絶たなかった。

 川又=塩路の蜜月は20年間続いた。77年6月、社長に就任した石原俊は「労使協調路線の名を借りた労組(=塩路)の経営介入がある限り、日産に21世紀の繁栄はない」と考え、労使関係の是正に乗り出した。

 81年の英国工場の建設計画で、石原vs塩路の対立が火を噴いた。塩路の反対を無視して進められたため、塩路が率いる自動車労連は記者会見して英国進出に反対を表明。塩路は「強行したら生産ラインを止める」と迫った。会長の川又が塩路を支持し、社長の石原を批判したため、社内は大混乱に陥った。83年、川又を相談役に退け、経営の主導権を握った石原は、塩路に対して本格的な攻撃を開始した。

 最大の山場は、84年1月20日発売の写真週刊誌「フォーカス」(新潮社)の記事だった。見出しは「日産労組『塩路天皇』の道楽−英国進出を脅かす『ヨットの女』」。若い美女と自家用のヨットに乗った塩路の大きな写真が躍っていた。


 4000万円はするといわれた、美しいヨットを所有していただけではない。品川には7LDKの高級マンションを持ち、日産プレジデントとフェアレディ240Zを乗り回していた。「(労組の指導者が)銀座で飲み、ヨットで遊んで何が悪い」と公言してはばからない人物と「フォーカス」誌上では紹介されていた。

 日産社内で「あのフォーカス事件」として語り継がれる写真爆弾で、石原は塩路にトドメを刺した。長年に及ぶ組合内の独裁や、「労働貴族」と呼ばれる豪華な生活に不満を募らせていた工場勤務の組合員から厳しい批判を浴び、事実上、解任される形で、86年2月に自動車労連と自動車総連の会長を辞任した。

 石原は塩路の追い落としに成功した。後年、石原は「社長任期中の大半は、塩路氏との対決に時間を費やした」と語った。

 塩路は12年8月、回顧録『日産自動車の盛衰 自動車労連会長の証言』(緑風出版)を出版した。「日産のマスコミへの出稿費用(=広告宣伝費のこと)は分不相応に年700億円を超え、トヨタを大きく上回っていた。塩路を潰すためなら金に糸目を付けないという石原氏の姿勢(がそうさせた)」と綴っている。

 塩路一郎が経営に不当に介入するまでに権力を肥大化させたのには、塩路に取り入ってライバルを蹴落とそうとした経営側の人間にも責任の一端がある。日産の経営は迷走を続け、99年にフランスのルノーの傘下に入った。日産自動車没落のA級戦犯。それは川又克二、石原俊、塩路一郎という名前の3人の天皇だった。(敬称略)
(文=編集部)

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html#c3

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
53. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月30日 07:13:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442]

労働貴族 (講談社文庫) – 1986/6/9 高杉 良 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%B2%B4%E6%97%8F-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%AB%98%E6%9D%89-%E8%89%AF/dp/4061837699

2013.02.19企業・業界名作経済小説『労働貴族』のモデル塩路一郎氏死去日産経営危機の“元凶”元労組リーダー死去
「社内にスパイがいて悪口はタブー」
https://biz-journal.jp/2013/02/post_1530.html

 日産自動車の労働組合リーダーとして大きな影響力を持ち、小説のモデルにもなった塩路一郎が2月1日、食道がんで死去した。86歳だった。葬儀は近親者で行った。

 日産自動車には、かつて3人の「天皇」がいた。日本興業銀行(現・みずほコーポレート銀行)出身の川又克二社長(86年、81歳で死去)、生え抜きの石原俊社長(03年、91歳で死去)、自動車労連(現・日産労連)の塩路一郎会長(13年、86歳で死去)である。

 70年代後半からの日産は「三頭政治」と呼ばれた。川又と蜜月関係を結んだ塩路が、石原と激しく対立した。日産の凋落を招き、仏ルノーに身売りしなければならなくなった最大の原因は、3人の天皇による社内抗争にあった。

 塩路は東京・神田の生まれ。父親は叔父と小さな牛乳屋を営んでいたが、終戦後まもなく死去。塩路は幼い弟妹を養うために、さまざまな職業に就いた。日本油脂の倉庫勤務の傍ら、明治大学法学部の夜間部に進んだ。1953年に卒業、日産自動車に入社した。成績優秀な官学出の学生を採用してきた日産が、夜間部卒の塩路を採るのは異例なことだ。

 旧日産コンツェルングループの日本油脂が、反組合の闘士だった彼を「ストライキ破りにぴったりな若者」と推薦したから入社できたのだ。当時、日産は労働争議を繰り返していた。47年に興銀から経理担当常務として送り込まれていた川又克二は第2組合を作って労働争議を終了させようと考えた。川又は面接した塩路に強い印象を受け、「骨のあるやつだ。ああいう男こそ必要なんだ」と人事部長に採用を進言した。

 塩路は喧嘩屋といわれた本領を発揮する。横浜工場の経理課に配属された彼は、すぐに反組合派として頭角を現した。入社間もない、53年夏から4カ月間に及ぶ労働争議が起きた。第1組合の切り崩しを進め、労使協調路線を掲げる第2組合を結成すると、新入社員の塩路は会計部長の要職に就いた。

 労働争議を終息させた川又は57年11月、日産の社長に就任。58年に日産労組書記長に就いた塩路は第1組合潰しの論功行賞としてハーバード大学ビジネス・スクールへ留学(59〜60年)させてもらった。帰国後の61年日産労組組合長、62年に日産グループの労組でつくる自動車労連の会長に就任。72年に自動車メーカーの主要労組を統合した自動車総連を結成し、86年まで会長を務めた。

 川又克二は73年に岩越忠恕にバトンタッチするまで16年間、日産のトップとして君臨した。岩越社長の時代の4年間も、川又は会長として院政を敷いた。

 塩路は権力志向の強い男だった。労使一体化路線を進め、人事権を握った。人事・労務部門は塩路派の巣窟といわれた。日産社内では、労組(=塩路)の同意がなければ人事や経営方針が決められないほどの影響力を行使し、「塩路天皇」と呼ばれた。

 高杉良は小説『労働貴族』(講談社文庫)で、「塩路会長の悪口をいうことは、絶対にタブーで、社員同士で飲んでいるときでも、危なくて話せなかった。塩路批判でもしようものなら、お庭番みたいなスパイがいて、確実に塩路会長の耳に入る仕組みだった。現実に、左遷されたり、飛ばされた者の事例を知っている」と1人の社員に語らせている。

 塩路は役員人事にも介入した。塩路が首を縦に振らなければ、役員になれなかった。役員人事の季節になると、ご機嫌伺いに塩路のもとを訪れる候補者が後を絶たなかった。

 川又=塩路の蜜月は20年間続いた。77年6月、社長に就任した石原俊は「労使協調路線の名を借りた労組(=塩路)の経営介入がある限り、日産に21世紀の繁栄はない」と考え、労使関係の是正に乗り出した。

 81年の英国工場の建設計画で、石原vs塩路の対立が火を噴いた。塩路の反対を無視して進められたため、塩路が率いる自動車労連は記者会見して英国進出に反対を表明。塩路は「強行したら生産ラインを止める」と迫った。会長の川又が塩路を支持し、社長の石原を批判したため、社内は大混乱に陥った。83年、川又を相談役に退け、経営の主導権を握った石原は、塩路に対して本格的な攻撃を開始した。

 最大の山場は、84年1月20日発売の写真週刊誌「フォーカス」(新潮社)の記事だった。見出しは「日産労組『塩路天皇』の道楽−英国進出を脅かす『ヨットの女』」。若い美女と自家用のヨットに乗った塩路の大きな写真が躍っていた。


 4000万円はするといわれた、美しいヨットを所有していただけではない。品川には7LDKの高級マンションを持ち、日産プレジデントとフェアレディ240Zを乗り回していた。「(労組の指導者が)銀座で飲み、ヨットで遊んで何が悪い」と公言してはばからない人物と「フォーカス」誌上では紹介されていた。

 日産社内で「あのフォーカス事件」として語り継がれる写真爆弾で、石原は塩路にトドメを刺した。長年に及ぶ組合内の独裁や、「労働貴族」と呼ばれる豪華な生活に不満を募らせていた工場勤務の組合員から厳しい批判を浴び、事実上、解任される形で、86年2月に自動車労連と自動車総連の会長を辞任した。

 石原は塩路の追い落としに成功した。後年、石原は「社長任期中の大半は、塩路氏との対決に時間を費やした」と語った。

 塩路は12年8月、回顧録『日産自動車の盛衰 自動車労連会長の証言』(緑風出版)を出版した。「日産のマスコミへの出稿費用(=広告宣伝費のこと)は分不相応に年700億円を超え、トヨタを大きく上回っていた。塩路を潰すためなら金に糸目を付けないという石原氏の姿勢(がそうさせた)」と綴っている。

 塩路一郎が経営に不当に介入するまでに権力を肥大化させたのには、塩路に取り入ってライバルを蹴落とそうとした経営側の人間にも責任の一端がある。日産の経営は迷走を続け、99年にフランスのルノーの傘下に入った。日産自動車没落のA級戦犯。それは川又克二、石原俊、塩路一郎という名前の3人の天皇だった。(敬称略)

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c53

[昼休み54] カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた 中川隆
4. 中川隆[-13729] koaQ7Jey 2018年11月30日 08:08:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442]

「日産の金は俺の金」…ゴーン氏、異常な強欲さの裏に「例外者的な特権意識」と幼少期の屈辱
https://biz-journal.jp/2018/11/post_25651.html
2018.11.22 文=片田珠美/精神科医 Business Journal

 日産自動車のカルロス・ゴーン容疑者が自身の報酬を約50億円過少に申告したとして、金融商品取引法違反(有価証券報告書の虚偽記載)容疑で逮捕された。この逮捕を受けて記者会見した日産の西川廣人社長は、社内調査の結果、3点の重大な不正行為が判明したと述べた。報酬を減額して記載しただけでなく、私的な目的での資金流用と経費の不正支出もあったという。

 事実とすれば、ゆゆしきことである。すでに莫大な財産を築き、経営者として高額の報酬を得ていたにもかかわらず、なぜゴーン氏はこれほどまで金に執着したのか? その理由を分析すると、次の3つの要因が浮かび上がる。

( 1 )「コストカッター」
( 2 )特権意識
( 3 )<例外者>

■「コストカッター」

 2万人以上のグループ従業員のリストラや5工場の閉鎖などによって日産のV字回復を成し遂げたゴーン容疑者は、「コストカッター」として名高い。その負の側面があらゆる場面で顔をのぞかせているように見える。

 まず、自らの報酬を過少に申告したのは、支払う税金をできるだけ少なくしたいという思惑があったからではないか。また、海外の子会社にブラジルやレバノンなどで高級住宅を購入させ、ゴーン容疑者が無償で提供を受けていた疑いもあるらしい。これは、自分が利用する住宅であっても、自分の財布からは一銭も出したくないからで、「コストカッター」の面目躍如といえる。

 私生活においても「コストカッター」ぶりを発揮している。ゴーン容疑者は前妻との離婚手続きの際に「お前に与える財産はない」と主張し、財産分与の権利を放棄するよう前妻に迫ったと今年5月に「週刊文春」(文藝春秋/5月24日号)で報じられている。そのうえ、離婚訴訟費用まで日産に出させたという報道もある(同誌11月29日号)。事実とすれば、離婚はしたいが、そのコストを自分で負担するのは嫌だったのだろう。

 ゴーン容疑者がカットしたかったのは金だけではないようだ。超せっかちで、社内食堂でものすごいスピードで食事を取る姿が社員に目撃されている。また、ゴルフも「時間がかかるから」という理由でやらなかったらしい。いずれも、時間をできるだけカットしたいからにほかならない。

 つまり、ゴーン容疑者は、金にせよ時間にせよ、自分がコストとみなし、無駄と判断したものは徹底的にカットする。良くいえば合理的で、こういう人物が日産の再建のためには必要だったのかもしれない。だが、その反面、「非情」「がめつい」などと批判されても当然といえるほどの「コストカッター」ぶりである。今回告発された一連の不正は、こうした負の側面によると考えられる。

■特権意識

 ゴーン容疑者は、「俺は経営危機に陥った日産を立て直した功労者なのだから、特別扱いされて当然」と特権意識を抱き、「少々のことは許されるはず」と思い込んでいた可能性が高い。もしかしたら、「俺が改革しなければ、日産はつぶれてもおかしくなかった。だから、俺のおかげで立ち直った日産が現在稼いでいる金をどう使おうと俺の勝手」とさえ思っていたかもしれない。

 こうした特権意識は、ゴーン容疑者が日産で長年トップの座にあり、彼1人に権限が集中しすぎたことによって助長されたはずだ。また、「カリスマ経営者」として日本だけでなく世界中で称賛されたことも、彼の特権意識を強めたに違いない。

 だが、それだけではない。ゴーン容疑者の特権意識の根底には、強烈なエリート意識が潜んでいるように見える。彼は、グランゼコールの代表格であるエコール・ポリテクニックを卒業している。グランゼコールは、フランスのエリート養成校だ。ちなみに、マクロン現大統領も、オランド前大統領も、シラク元大統領も、グランゼコールの1つである国立行政学院( ENA )出身である。

 当然、グランゼコール出身者はエリート意識が強く、ゴーン容疑者も例外ではない。このエリート意識が、ミシュランとルノー、さらには日産での成功体験によって強化され、強い特権意識を生み出したのではないだろうか。

■<例外者>

 見逃せないのは、ゴーン容疑者が移民であるがゆえの悲哀を味わった形跡があることだ。彼は、ブラジルでレバノンからの移民の家庭に生まれたが、6歳のときに家族とともにレバノンに戻っている。そして、レバノンで少年時代を過ごした後、フランスで大学教育を受けるために単身渡航したという。

 いくら優秀とはいえ、レバノンでアラビア語を、フランスでフランス語を流暢に話せるようになるまでは、からかわれたり笑われたりしたことがあったはずだ。子供には大人よりも残酷なところがあり、友達のなまりをバカにしたり、まねしたりする。ゴーン容疑者も、そのターゲットにされて、“エトランジェ”(異邦人)としての悲哀を味わった可能性が高い。

 こういう屈辱的な体験をバネにしてがんばったからこそ、輝かしい成功をおさめたのだろうが、同時に自分には責任のないことで苦しみ、不自由な思いをしたと感じ、「不公正に不利益をこうむったのだから、自分には特権が与えられてしかるべきだ」と考えたのではないか。

 このように自分が味わった体験や苦悩を根拠にして、自分には例外的な特権を要求する権利があると思い込む人をフロイトは<例外者>と名づけた。<例外者>は次のような思考回路に陥りやすい。

「人生は俺に損害賠償をする義務がある。俺は賠償を取り立てる。俺には自分が<例外者>であることを要求する権利がある。普通のやつらが遠慮するようなことでも、実行する権利があるのだ」

 しかも、<例外者>は、自分が味わった屈辱や悲哀を「不公正」なことと受け止めがちで、「俺は不正をすることができる。俺に不正が行われたからだ」と考える。そして、しばしば自分自身の不正を正当化する。幼少期に貧しい家庭で苦労した人が、大人になってから不正に手を染めてでも金儲けに執着することがあるが、これは<例外者>だからである。

 ゴーン容疑者も<例外者>だろう。しかも、彼が典型的な<例外者>であるがゆえに、特権意識が一層強化されている。彼が「不公正」なことと受け止めたであろう“エトランジェ”としての悲哀には同情すべき点もあるが、だからといって不正が許されるわけではない。

 一連の不正が解明され、ゴーン容疑者の強欲さを生み出した精神構造、そしてそれに影響を与えた体験に光が当てられることを切に望む。

(文=片田珠美/精神科医)

 参考文献
ジークムント・フロイト「精神分析の作業で確認された二、三の性格類型」(中山元訳『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの 』光文社古典新訳文庫)

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html#c4

[昼休み54] 日本のマスコミは悪い 中川隆
50. 中川隆[-13728] koaQ7Jey 2018年11月30日 08:40:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442]
米CIAの世論操作:ニューヨークタイムズでも、実際に起きていることを把握せず報道
https://biz-journal.jp/2018/11/post_25711.html
2018.11.29 構成・インタビュアー=大野和基/ジャーナリスト Business Journal


 今年8月、米中央情報局(CIA)の情報操作の実態を暴露する書籍“Spooked: How the CIA Manipulates the Media and Hoodwinks Hollywood”の邦訳『驚くべきCIAの世論操作』(集英社インターナショナル)が上梓され、世間に大きな衝撃を与えた。その著者でOCウィークリー紙編集長のニコラス・スカウ氏に、CIAのメディア操作の手口と、CIAにすりよる大手メディアの関係などについて、話を聞いた。

― 本書は、ニューヨークタイムズやワシントンポストのような主流メディアが、いわゆるthe fourth estate(言論界)として完全には独立していないことを読者に伝えているので、非常に興味深い本です。そういうメディアとCIAの関係を示す具体例を挙げてください。

ニコラス・スカウ氏(以下、スカウ) それはCIAの誕生にまでさかのぼります。その時点からウォーターゲート事件が起きた1970年代初期に至るまで、すべての主要新聞、主要ラジオ局にCIAから人を送っていました。テレビが出てきてからは、すべてのテレビ局やハリウッドのスタジオにCIAから人を送っていました。CIAはアメリカ国民に提供されるストーリーや世界中に拡散されていたストーリーをコントロールしていました。

 72年に起きたウォーターゲート事件で、CIAが民主党本部への盗聴侵入にかかわっていたことがわかったあと、議会はCIAがアメリカのメディアに人を送ることは許されないとして、突如アメリカのメディアはCIAから独立しました。

 しかし、国家安全についてしっかりと報道する能力を維持するために、ニューヨークタイムズやワシントンポストなど主流メディア(特にワシントンポスト)は、情報を得るべくCIAと協力して仕事をし続けなければなりませんでした。そこでCIAはメディアをコントロールしないが、メディアがCIAから受け取る情報をコントロールできるという取り決めがなされました。アメリカの国家安全を守って、国民に何が起きているかを伝えるべく、メディアとCIAはなんらかのバランスを確立するために連携しなければなりません。

 残念なことに、この関係がCIAによって濫用されていることが頻繁にあるとわかりました。それにより、主流メディア・ネットワークや新聞が、最終的に真実ではないことがわかったうえで情報を広めてきたのです。たとえば、思いつくかぎりでもっとも具体的かつ有名な例がイラク戦争ですが、ほかにも、同じような問題が昔からずっとありました。真実を伝えたいと思っている記者たちが、自分の仕事をする能力を維持することができるように、CIAとの関係に依存する状態です。そういう状態が真実を伝えることを非常に難しくします。

■インターネットの発達によってCIAとメディアの関係に変化

― ワシントンポスト紙編集主幹のボブ・ウッドワード氏は最近、ドナルド・トランプ大統領がいるホワイトハウスの内部を暴露した“Fear”(邦訳『FEAR 恐怖の男 トランプ政権の真実』<日本経済新聞出版社/12月発売予定>)という本を上梓しましたが、ウッドワード氏と同じような、政府のインサイダーにアクセスできる記者はいますか?

スカウ ワシントンDCで仕事をしている主流メディアの記者たちは、それぞれ独自のネットワークを持っています。本書(『驚くべきCIAの世論操作』)を書いたとき、こういう記者たちの多くにインタビューして、実際に何が起きているのかということについて、どれだけ理解しているのかを自由に語ってもらいました。すると、国家安全を重点的に取材している、ニューヨークタイムズやワシントンポストの名物記者でさえも、実際に世界中で何が起きているかを把握していないことがわかりました。我々が世界で何が起きているかを知るには、政府のインサイダーを説得して取材している記者に頼るしかありません。

 しかし、彼らに話を聞くと、特定のストーリーを書くときに実際に起きている現実の20%程度しかおそらくわかっていない、と私に言うのです。対テロ戦争にしても、北朝鮮に何が起きているかについても、自分が読んでいることが真実であることを信じたいけれども、実際は何が本当に起きているかは誰もわからないということです。

― 機密情報公開サイト「ウィキリークス」の登場と、CIA元局員のエドワード・スノーデン氏による告発は、メディアのあり方に影響したであろう、いわば2つの歴史上の出来事ですが、CIAの視点からみると、この2つの出来事はCIAと主流メディアとの関係をどれくらい難しくしたのでしょうか。

スカウ 本書のリサーチをしているとき、CIAに行って記者と協同で仕事をしているCIAの人に会って、インターネットやウィキリークスのような機関や、絶えず情報を漏洩しているスノーデン氏のような人がいる状況で、どれくらい仕事が難しくなったか聞きました。すると、ウィキリークスやスノーデン氏のせいで情報をコントロールすることは、彼らにとってはるかに難しい取り組みになると言っていました。リリースされる情報について、コントロールできないからです。ウィキリークスがどんな情報を公開するかCIAはわからないので、恐れおののいています。CIAはスノーデン氏がどんな情報を国民と共有するかわからないので、今までとはまったく異なった環境になっています。ですから今日、CIAは情報をコントロールすることが非常に難しいのです。

― 実際に現役のCIA要員でさえも、偽名でブログを使って情報を漏洩することができますね。もしそれが怖ければ、ウィキリークスを使えばいい。

スカウ その通りです。

― CIAにとっては、インターネットはメディアとの癒着関係を難しくしたということでしょうか。

スカウ それは間違いありません。メディアにとっても同様で、双方にとって難しくなったということです。一方でインターネットはアナーキーなので、誰もコントロールできません。インターネットはすべての人の生活を変えました。テクノロジーは我々が情報を受け取る方法をすっかり変えました。メディアも変えました。情報を流すメディアにとって、大きなアドバンテージを与えましたが、同時に情報が無料で手に入り、誰も情報に対してお金を払いたくないのに、いかにして情報を出し続けることができるかという点からみると、メディアにとってはチャレンジです。CIAにとってはこのプロセスをどうやってもコントロールできません。

 しかし、CIAは回避することにも非常に長けています。CIAはこのようにアメリカのメディアをコントロールできないけれども、他国では人を雇い続けています。日本にもCIAに報告を続けている人がいる可能性は非常に高い。自分たちが何をしているか、何が起きているかを報告している人です。それは違法ではありません。アメリカではジャーナリストはCIAのために仕事ができませんが、CIAは他国の記者にはストーリーを書かせてお金を払うことができます。そういうストーリーが出ると、アメリカの記者はその記事について書くことができます。つまり、CIAは海外のメディアをコントロールすることで、アメリカのメディアをコントロールすることに対する制限を回避できるのです。そしてインターネットは、これを何回も拡散する一助になります。

(構成・インタビュアー=大野和基/ジャーナリスト)

※後編に続く

http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/104.html#c50

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
90. 中川隆[-13726] koaQ7Jey 2018年11月30日 11:15:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21442]

神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族

カトリック教徒になろうとした昭和天皇


「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

昨年公開された『昭和天皇実録』は、あまり新事実がないという評判だったので興味がなかったのだが、本書を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

これは退位問題ともからんでいた。天皇自身は退位したいと考えていたようだが、皇太子が未成年なので摂政を立てざるをえない。しかしそれはむずかしいので、天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html

昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。

この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。

ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/


http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c90

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
91. 中川隆[-13728] koaQ7Jey 2018年11月30日 11:22:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21445]

美智子さまは皇族を全員クリスチャンにさせる使命を与えられていた

やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ 2016年3月11日
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。

皇后陛下とGHQとの癒着の根っこが明らかになりました。

現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の極めて具体的な体現者です。


◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

◆なんと、社会党が支援していた美智子さま

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

◆皇后陛下は「アカ」でした

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac


かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教をそのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、 愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535
https://www.youtube.com/watch?v=CA9Nht0Bo30

こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが残っています。
女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから追放されていた時代です。

外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、 平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)

日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。

ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1

1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用

1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立

1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得

1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社


この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?

なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました

http://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。
また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。

そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。


【正田稲荷神社】
もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。

以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた白山神社さんと勘違いされた?

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だということではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?

何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。


皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面がこういうふうである、と。

一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・

もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。

普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。

こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。

http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。

国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 – 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?

気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。

足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、 「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。


朝鮮髪飾り ペッシテンギ


国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為がった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。

皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま即位させないと、計画が成就しないわけです。

いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、 個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。

そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。

皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方ですでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が入り込みます。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c91

[経世済民129] ゴーン容疑者の私的損失、付け替えは新生銀行の契約(日刊スポーツ) 赤かぶ
1. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月30日 11:49:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21448]

カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html



http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/671.html#c1

[政治・選挙・NHK254] よくぞ言った秋篠宮さまの「大嘗祭への国費支出」異議発言  天木直人  赤かぶ
5. 中川隆[-13729] koaQ7Jey 2018年11月30日 11:56:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21448]

こいつ、完全なアホだろ

天皇家が大嘗祭の費用をケチって簡略式にしたら、2000年前からの伝統がすべて失われてしまう。

そんな事したら、皇室の存在意義が無くなってしまうんだよ。


このアホがこういう事を言う理由ははっきりしている:


神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族

カトリック教徒になろうとした昭和天皇


「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

昨年公開された『昭和天皇実録』は、あまり新事実がないという評判だったので興味がなかったのだが、本書を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

これは退位問題ともからんでいた。天皇自身は退位したいと考えていたようだが、皇太子が未成年なので摂政を立てざるをえない。しかしそれはむずかしいので、天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html


昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。


この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/


美智子さまは皇族を全員クリスチャンにさせる使命を与えられていた

やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ 2016年3月11日
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。

皇后陛下とGHQとの癒着の根っこが明らかになりました。

現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の極めて具体的な体現者です。


◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

◆なんと、社会党が支援していた美智子さま

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

◆皇后陛下は「アカ」でした

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac


かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教をそのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、 愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535
https://www.youtube.com/watch?v=CA9Nht0Bo30


こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが残っています。
女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから追放されていた時代です。

外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、 平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)


日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。

ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1

1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用

1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立

1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得

1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社


この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?

なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました


http://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。
また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。

そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。


【正田稲荷神社】
もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。

以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた白山神社さんと勘違いされた?

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だということではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?

何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。


皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面がこういうふうである、と。


一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・


もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。

普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。

こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。

http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。

国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 – 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?

気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。

足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、 「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。


朝鮮髪飾り ペッシテンギ


国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為がった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。

皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま即位させないと、計画が成就しないわけです。


いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、 個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。

そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。

皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方ですでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が入り込みます。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

世間の噂

秋篠宮文仁  

みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)

その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください


_____


「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w


秋篠宮 (文仁) 殿下が、天皇実子でないという噂は、関係各位に根強く伝承されている。

噂の出所は、天皇一族の警護、護衛を主務とする皇宮警察。 皇宮警察と言えば、警察官の中でも選りすぐりの良血者で構成されている機関だが、良血と言っても所詮は田吾作集団。

酒が入れば、口も軽くなり、同期生が集まれば、ここだけの話が、あっちこっちで交わされるのである。

「ここだけの話だが、秋篠宮が、天皇の本当の子供でないってこと、お前知ってるか?」 ここだけの話の一つが、それである。

それが酒席の冗談で終わらなかったのは、それなりのバックボーンがあるからだ。

遡ること四十数年、昭和天皇の后や、后の取り巻き女官たちから陰湿なイジメを受けた美智子妃殿下 (当時) は、精神に深いダメージを受け、那須の御用邸で一人寂しい静養生活を送っていた。


生まれついての貴種である前の皇后にとって、平民出身の美智子妃殿下の一挙一動作がしゃくの種。 子供 (浩宮) の育て方に始まって、手袋の持ち方一つにもアヤをつけたのである。

悩み多き貴婦人の警護を担当していたのが、若き偉丈夫の皇宮警察官。 深い同情が恋情に変わり、いつしか二人は恋に落ちたというのが、まことしやかな警察物語である。

そして、皇太子 (当時) と没交渉の筈の妃殿下に、懐妊のニュースが流れることになる。 

道ならぬ恋の噂は、宮内庁首脳にも届いている。 だからと言って、出産を止める手だてなどあろう筈もない。 そこで代々の宮内庁長官に、一つの言葉が引き継がれることになった。 

「皇位継承者は浩宮の血脈から ・・・」 と、である。

秋篠宮 (文仁) 殿下は成長するにつれ、天皇一族とは明らかに異なる特徴を見せつける。 体型、思想、行動の全てである。 皇太子や、黒田清子さんが、一目で陛下のお子さんだと分かるのに比べ、秋篠宮の体型は似ても似つかぬものがある。


それよりも何よりも、ナマズの研究にかこつけて、タイ女性にうつつを抜かしたり、祖父である昭和天皇の喪が明けぬ内に結婚を決行するといった傍若無人の精神性を露出する。 挙げ句の果てには、兄である皇位継承一位の皇太子を、公然と批判したりするのである。

「文仁殿下は、血の秘密を知っているに違いない」 の呟きが宮内庁首脳から洩れる。

そうとしか理解できぬ異常行動が多すぎるのである。

菊のカーテンの奥に潜む機密事項が、小泉総理にもたらされたのは、今から一年以上も前になる。

雅子妃殿下の病状が思わしくないこと。 おそらく、お子さんは愛子内親王お一人でありましょう。

「だからこそ、皇室典範を改訂し女性天皇、女系天皇への道筋をつけて戴きたいのです」 さもないと、神武天皇以来続いた万系一世の貴種は、今世をもって終焉するかも知れません。万が一にも秋篠宮家に第三子が誕生し、それが男子であったなら ・・・・・・・

流石の小泉も、菊の秘事を耳にして腰を抜かさんばかりに驚いたという。


当時は、郵政政局真っ盛りの頃、政局に破れ退陣するようなことにでもなれば、郵政もさることながら、皇室が大変なことになるのである。

結果、総選挙に大勝し、郵政を片づけた小泉内閣は、早速大事案である皇室典範の改訂に取りかかる。 平沼赳夫のように、小泉憎しで反対音頭を歌うのはどうでも良い。 何としてでも片を付けてみせると決意を固めた矢先である。

秋篠宮紀子妃殿下が十一年ぶりに懐妊したとのニュースが日本全土に配信される。 長兄に男子が出来ぬなら、作って見せようの気構えかどうかは別にして、皇室典範事案の帰趨が大問題になっている矢先の懐妊である。

このことが万々歳でないことは、美智子皇后が突然体調を崩されたことからも察することが出来る。

馬鹿なマスコミは、目出度さ一色の報道を繰り返すが、目刺しの頭も信心からと言う事態になるやも知れないのである。

日本には、触れれば血が出る、死人が出ると言われる世界が三つあった。 同和、総連、それに菊の紋所である。 特に菊は、タブー中のタブー、同和・総連が小泉改革で崩壊しても、菊に関しては批判めいたことが何一つ言えないという風潮がまかり通っている。

だから今回は、署名投稿で秘中の秘、禁断のエリアに踏み込んでみた。 その場を与えてくれた、論談編集者に礼を言いたい。
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0602/060208-3.html

http://www.asyura2.com/18/senkyo254/msg/368.html#c5

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
92. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月30日 12:07:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21451]

神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族 _ 2

秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまは、30日に迎えた53歳の誕生日に先立ち、東京・元赤坂の秋篠宮邸で記者会見に臨まれた。2019年の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出に疑問を呈し、長女、眞子さま(27)の婚約に対する考え方も示された。発言の要旨は以下の通り。


秋篠宮さまは、30日に迎えた53歳の誕生日に先立ち、東京・元赤坂の秋篠宮邸で記者会見に臨まれた。2019年の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出に疑問を呈し、長女、眞子さま(27)の婚約に対する考え方も示された


■大嘗祭の国費負担に異例の疑義「長官は聞く耳持たず」

新天皇となる皇太子さまが即位後初めて国民の安寧や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る大嘗祭に公費が充てられることについて、秋篠宮さまは「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と異例の言及。大嘗祭を前回と同規模で行った場合、30億円近い支出が見込まれることが背景にあるとみられる。宮内庁の山本信一郎長官に意見を述べても「聞く耳を持たなかった」と批判された。


秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。私は、平成の大嘗祭でもそうすべきではないとの立場でしたが、その頃は若かったですし、多少意見を言ったくらいでした。今回も結局、当時を踏襲することが決まったわけですが、すっきりしない感じを今でも持っています。


平成の代替わりに際して行われた大嘗祭(1990年11月22日、皇居)


宗教行事と憲法との関係はどうなのか。私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。


■小室さんは「それ相応の対応をすべきだ」
 結婚関連の行事を延期した長女、眞子さま(27)と大学時代の同級生、小室圭さん(27)。「金銭トラブル」など小室家を巡る様々な報道が相次いでいることを念頭に、秋篠宮さまは小室さん側が「それ相応の対応をすべきだ」と指摘。現状では正式な婚約にあたる「納采の儀」は行えないとの認識を示された。会見に同席した秋篠宮妃紀子さまは、眞子さまの体調が「優れないことが多くなりました」と明かされた。


秋篠宮さま 小室さんに関わることが毎週のように週刊誌等で報道されていることは、承知しております。小室さんからの連絡は、2、3カ月に1度くらいでしょうか、時々もらうことがあります。これは娘と小室さんのことではありますが、私は、今でもその2人が結婚したいという気持ちがあるのであれば、やはりそれ相応の対応をすべきだと思います。

まだ婚約前ですので、人の家のことについて私が何か言うのははばかられますが、やはりそれ相応の対応というのは大事ですし、これは2人にも伝えましたが、やはり、今いろんなところで話題になっていることについてはきちんと整理をして問題をクリアすること(が必要)かもしれません。そして多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況にならなければ、私たちは婚約にあたる「納采の儀」を行うことはできません。


(眞子さまの様子については)私は最近はそれほど、娘と話す機会がないので、よく分かりませんが、公の依頼されている仕事は極めて真面目に取り組み、一生懸命行っていると思います。

小室さんから、報道自体について聞いていませんが、今までに(報道が)あった中で、これは事実とは違うとの説明があったことはあります。ただ、それについて何か行動を今するのかどうか、うかがうことはできていません。

紀子さま 私は母親としてどのように受け止め、どのように感じているかについてお話をしたいと思います。昨年の夏から様々なことがあり、折々に私たちは話し合いを重ねてきました。そうした中で、昨年の暮れから、だんだん寒くなっていく中で、長女の体調が優れないことが多くなりました。そうした状況が長く続き、長女は大丈夫だろうか、どのような思いで過ごしているだろうか、と大変心配でした。

家族として非常に難しい状況の中にありますが、私は眞子がいとおしくかけがえのない存在として感じられ、これからも思いは変わることなく、大切に見守りたいと思っております。


■皇嗣への抱負や公務の分担
 秋篠宮さまは2019年5月の代替わりに伴い、皇位継承順位第1位の皇嗣となられる。新たな立場となることへの抱負や、新天皇となる皇太子さまと分担することになる公務に対する考えなどを問われ、「一つ一つをその都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていきたい」と回答された。


新年祝賀の儀を終え、退出する天皇、皇后両陛下、皇太子さま、秋篠宮さま(2018年1月1日)

秋篠宮さま 抱負になるかどうかは分かりませんが、これからも様々な公的な仕事をする機会があります。例えば、毎年のように行われているものについては、前年度とか、その前の機会と同じようにすればいいと思いがちです。やはり、それら一つ一つを、その都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていくようにしたいと思っています。

公的な活動について、来年5月以降、今まで皇太子殿下が行ってきたものが、天皇になられると併せてすることができなくなります。一方、私も自分で行っていることがあり、それらをそっくり誰かに譲ろうにも受ける先はありません。今、宮内庁は、いったん全て皇太子殿下の仕事を引き取って整理し、次に私がどれをその後行っていくかを検討しているところです。そう遠くないうちに発表されるのではないかと思います。

■「全身全霊」の天皇陛下と支え続けた皇后さまに敬意
 天皇陛下の退位まであと5カ月。秋篠宮さまは平成の30年を「自然災害が非常に多い時代だった」と振り返り、象徴としての務めを果たしてこられた陛下に対し「まさしく全身全霊でお務めを果たしてこられた」と述べられた。


秋篠宮さま バブルが崩壊し、経済が低迷し、失われた10年、20年と言われますが、そのバブルの頃とその後で、人々の生活のパターンが変わったと感じております。また大変残念なことですが、自然災害が非常に多い時代だったという印象があります。

陛下は即位以来、象徴とはどのようにあるべきかという、その象徴としての在り方について、常に模索し、考え、一昨年8月に「お気持ち」を表明されましたが、その中に「全身全霊」という言葉がありました。まさしく「全身全霊」でお務めを果たしてこられたと思います。皇后陛下は陛下のお務めや立場を重んじ、宮中に伝わる伝統を守り継承してゆくことに心を砕かれながら、ご結婚以来、長い期間、60年近くにわたって支えてこられました。これはなかなかできることではなく、お二方に深く敬意を表するところです。息子の立場としては、私は二十何年、一緒に過ごし、常に笑いのある温かい家庭を築いてくださいました。そのことに感謝したいと思います。


■佳子さまの今後や悠仁さまの成長に思い寄せ
 来春、次女、佳子さま(23)は大学を、長男、悠仁さま(12)は小学校を卒業される。秋篠宮さまは佳子さまの今後について「ライフワークになるようなものを持ってもらいたい。結婚はそれほど遅くなくしてくれたら」。悠仁さまに対しては「自分の意見をはっきり言うようになった」と成長を喜ばれた。


53歳の誕生日を迎えた秋篠宮さまとご家族(東京・元赤坂の秋篠宮邸)=宮内庁提供

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53歳の誕生日を迎えた秋篠宮さまとご家族(東京・元赤坂の秋篠宮邸)=宮内庁提供

秋篠宮さま 大学卒業後、次女にも色々な公的な仕事の依頼が来ることが予想されます。長女がそうしているように、一つ一つ大切に思いながら、取り組んでいってほしいと思います。大学院進学の希望を持っているかどうか存じませんが、公的か私的かは別にして、ライフワークになるようなものを持ってもらいたいと思っています。

結婚については、親の勝手な希望としては、それほど遅くなくしてくれたらいいとは思いますが、やはりご縁の関係もありますので、別に私からせかしたりすることもしません。いずれ本人から何か言ってくるかもしれません。

長男はかなり自主的に動くようになってきたと思いますし、自分の意見をはっきり言うようになったなという印象があります。一方、人の話にもきちんと耳を傾けるようになってきたと思います。人のことを思いやる気持ちというのは、以前よりも増してきたなと思います。進学先については、そう遠くないうちに発表されることと思います。


■災害相次いだ1年、若い世代の活躍たたえ
 この1年を振り返り、印象に残った出来事や感想を問うと、秋篠宮さまは7月の西日本豪雨など相次いだ災害を口にされた。明るい話題としては、幅広い分野で快進撃が続く若い世代の活躍を挙げられた。


秋篠宮さま この1年も自然災害が非常に多い年でした。(西日本豪雨で甚大な被害を受けた)広島県に参りましたが、色々な所で土砂崩れや流木を見て、水の力のすごさを改めて認識しました。今後、どのように防災、減災をしていくかを考えていかないといけないと思いを新たにしました。

今年は日本人がハワイに移住して150年。現地で日系社会の人たちと話をし、様々なことを知ることができて大変良い機会でした。また本庶佑さんがノーベル生理学・医学賞を受賞しました。将棋の藤井聡太さんや、(世界オセロ選手権で優勝した)福地啓介さん、テニスの大坂なおみさんら、色々な分野で若い世代の活躍が目立ち、明るい話題だったと思います。


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世間の噂

秋篠宮文仁  

みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)

その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください


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「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c92

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
93. 中川隆[-13733] koaQ7Jey 2018年11月30日 12:43:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21454]

神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族 _ 3


秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30

秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。

私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。

相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまが唯のアホなのか、神道を憎んでいるのか、どちらなのかはわかりませんが

天皇家が大嘗祭の費用をケチって簡略式にしたら、2000年前からの伝統がすべて失われてしまいます。 一度忘れられた伝統はもう二度と取り戻せなくなります。

そんな事をしたら、皇室の存在意義が無くなってしまうのですね:


コラム 式年遷宮に見る技術継承と技術者確保
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html


 2013年は日本を代表する神社の一つである三重の伊勢神宮で20年に1度の式年遷宮が行われ、多くの参拝客が訪れました。「式年」とは定められた年を意味し、「遷宮」とは新しい社殿を造って御神体を遷すことをいいます。

 伊勢神宮の式年遷宮は飛鳥時代の690年に始まり、約1,300年の歴史を有します。戦国時代に中断された時期はありましたが、現在に至るまで20年ごとに内宮・外宮の正殿等、正宮・別宮の全ての社殿と御装束・神宝の造り替えが繰り返し行われ、2013年は第62回目の式年遷宮を迎えました。社殿には檜の素木造りで堀立柱と萱(かや)の屋根等を特徴とする「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」という日本最古の建築様式が用いられており、当時から変わらぬ姿を今も見ることができます(図表2-3-56)。

 
図表2-3-56 正殿(内宮)

 神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、20年ごとに同じ形の社殿を交互に新しく造り替えます。この造り替えによって生じた古材は、可能な限り再利用されています。例えば、内宮と外宮の正殿の一番太い柱である棟持柱は、削り直したうえで、神宮の表玄関である宇治橋の内側と外側の鳥居として20年間利用され、その後は三重県亀山市の「関の追分」と桑名市の「七里の渡」の鳥居としてさらに20年間利用されています。このほかにも、古材は内宮・外宮の摂社・末社の修繕・造り替えに使用されたり、全国の神社に無償で提供したりしています。

 また、遷宮にかかる費用については、古代には朝廷、鎌倉時代には鎌倉幕府、江戸時代には徳川幕府、明治以後戦前までは政府によって賄われてきましたが、戦後は伊勢神宮が民間の宗教法人となり政府の手を離れ、以降は国費の投入はなく伊勢神宮の自己財源により賄われています。今回の遷宮による事業費は約550億円と公表されています。

 遷宮がなぜ20年に一度と定められたか、その理由には諸説ありますが、その説の一つに「技術継承説」があります。

20年という期間は、当時の寿命でも2度は遷宮に携わることができ、初めて遷宮を経験する次世代の技術者へ技術を継承していくのに合理的であるという理由です。実際に伊勢神宮ではどのようにその建築技術が受け継がれているのでしょうか。

第61回式年遷宮が行われた1993年から、第62回式年遷宮が終わる2016年までの伊勢神宮の技能者の雇用状況と作業内容について概要を見ていきます(図表2-3-57)。

 
図表2-3-57 伊勢神宮が雇用している技能者の推移と作業内容

 式年遷宮は正宮の遷宮が終わった後に別宮の遷宮があるため、2年間は約160名の技能者の雇用が続きます。別宮の遷宮終了後、若手や技能優秀者30名ほどを神宮の常勤職員として残し、その他の技能者は解散となり、以後12年間、30名の技能者は摂社・末社の修繕・造り替え等を行います。

 本殿の遷宮終了後15年目に、次の遷宮のための木材加工が始まりますが、この頃から作業量や進捗に応じて全国から技能者を雇い入れていきます。この時、遷宮を経験している30名が新たに参加する技能者の教育を行います。この20年の周期によって、多い人で3回の遷宮に携わることができます。

 特筆すべき点としては、最低限技能を伝承するのに必要な技能者(30名)を遷宮終了後も常勤職員としてその雇用を確保していることです。一方で、ピーク時に雇い入れる技能者は、特に宮大工のみを採用しているわけではなく、一般の大工等を採用した後に必要な技能を教育しています。このことは、中核となる技能者を継続雇用し維持・更新業務に従事させることによって技術力が維持されているゆえに可能となっているといえます。

 このように、伊勢神宮の式年遷宮においては、次回の遷宮を見越して、人材の確保(ピーク時に向けた弾力的な雇用)と技術伝承(中核的な技能者の雇用維持)の取組が実践されています。社会インフラの維持管理・更新の担い手不足が大きな問題となっている昨今、1300年前から続いてきたこの仕組みから学ぶべき点も多いのではないでしょうか。

 
図表2-3-58 社殿造営の様子

(参考文献)
 伊勢神宮式年遷宮広報本部公式ウェブサイト http://www.sengu.info/index.html
 (株)野村総合研究所「NRIパブリックマネジメントレビュー(2011/4月)」
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html
http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c93

[中国6] 日本の天皇は中国人か、それとも朝鮮人か?―中国メディア 赤かぶ
94. 中川隆[-13735] koaQ7Jey 2018年11月30日 12:48:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21457]

神道や日本古来の文化を憎んでいる天皇一族には理解できない神道の価値

神道の世界観を外国人に語ろう 2018/07/29
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201807/article_5.html

 日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。


■1.各国首脳の神宮「参拝」

 平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。

 ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。

 内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:

「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)

「平和と静謐、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)

「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)


■2.人間は自然の主人か、同胞か?

 これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。

__________
 日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
 太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、礼会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。[1, 807]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________
 その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
 自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
 天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)[1, 807]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』[1]での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。

 神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。

 それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。

 深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。

 地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。


■3.全体主義か、自由民主主義か

 自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。

__________
神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、「平等」の存在になります。[1, 1392]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。

 万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。

 これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。


■4.性悪説か、性善説か

 しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。

 これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。

 先般も弊誌[a]で紹介したように、最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。


■5.統制経済か、自由市場経済か

 生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。

 川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。[b]

 このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。

 生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。


■6.宇宙は時計仕掛けか、生成発展するものか

 古事記では、最初の神が現れた時、「大地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした」[3]と説く。

 そこから、神々が国土を作り、その上で人々が田を作り、水を引く。神や人や万物が力を合わせて何事かを生みなすことを、神道では「むすぶ」と呼ぶ。男女が結ばれて、家庭を作り子をなす。農民が土や水などと力を合わせて作物をなす。

「むすび」の「むす」は、「うむす」が縮まった形で、「うむ(産む)」と同じく、「物の成り出づる」ことを言う。「むすこ」「むすめ」「苔むす」は、この意味である。「び」は「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」など、「物の霊異(くしび)なるをいう美称」である。したがって、「むすび」とは万物を生成する不思議な働きを指す。[2]

 この「むすび」に示されるように、神道の世界観では世界は生成発展するものであり、人間もそのプロセスに参画する。

 これに対して、キリスト教では唯一絶対神が宇宙を創造し、あとは人間も自然もその「時計仕掛け」の一部として運動を続けるのみである。この世界観では生物が勝手に進化するという進化論は受け入れられない。今でもアメリカでは42%の人々が「神が今の人間をそのままの形で作った」と信じている。[4]

 人間の努力も与(あずか)って世界が生成発展するという神道の世界観は、人類が科学によって自然法則を発見し、それを応用して新たな技術を生み出すという技術革新を後押しする。

 経済学者ヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションが経済発展をもたらすことを主張したが、そのイノベーションとは既存の要素の「新しい結合」であると考えた。異なるものの「むすび」が新たなる生成発展をもたらすという神道的世界観と同じである。

 技術革新は日本企業の強みであるが、それはこの「むすび」の考え方が後押ししているからと考える。特に現場の作業者一人ひとりまでが「改善」に参加するという日本の製造業における「改善サークル」「改善考案」は今や、世界の製造業のグローバル・スタンダードになりつつあるが、その根底にあるのも、人間が世界の生成発展に参画する、という神道の考え方だろう。


■7.神道的世界観の中で生まれた幸福と責務

 こうして見ると、現代のグローバル社会における環境運動、自由民主主義、大脳生理学、自由市場経済、技術革新などのトレンドは、みな神道的世界観と親和性が高いことが判る。

 逆にキリスト教的世界観と、現代文明はきわめて相性が悪いことが見てとれる。考えて見れば、キリスト教が支配した中世から訣別して始まったルネサンスや宗教改革が西洋近代の出発点となった。

 そこから産業革命、自由民主主義、自由市場経済、ついには現代の「リベラル」にまでつながってくるが、この点に関して、山村氏は田中英道・東北大学名誉教授の『日本人にリベラリズムは必要ない』から、こう指摘する。

__________
 もともと「リベラル」そのものが伝統的な「反キリスト教」から始まり、政治思想的には17世紀の「キリスト教からの自由」で始まったイギリスのジョン=ロックに始まり、経済的にはアダム=スミスから、心理学的にはフロイトから始まったといわれているからです。[1, 1146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西洋近代は、キリスト教との戦いの中で「キリスト教からの自由」を訴えざるを得なかった。しかし、それを追求する過程で、キリスト教が支えていた宗教的道徳も失うことになってしまう。その結果の「神なき近代文明」が現代人から安心立命を奪ってしまった、と言えるのではないか。


■8.古いものと新しいものが同居するワンダーランド

 山村氏は外国人観光客数十人に「日本の良いところはどこですか?」とアンケートで聞いたことがあるという。

__________
 その結果を見ると、50%以上の外国人が、「日本には、古いものと新しいものが共存し、同居しているところ」と、答えていました。
 古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術がなぜ同居するのか。また、日本人は新しいものを好む傾向があるのに、なぜ古いものを残そうとするのか。
 日本人にとっては、神社以外にも仏閣や古い家屋の残る日本の当たり前の風景ではありますが、外国人から見れば、日本は「なぜか古いものが残っている」ということが、「ワンダーランド」に見えてしまうのです。[1, 827]
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 外国人、特にキリスト教徒から見れば、「古いもの=キリスト教」、「新しいもの=現代文明」で、両者は基本的に相容れないところがある。しかし、日本では「古いもの=神道」であって、それは以上述べたように、現代文明を包摂し、より良き方向に導く力を持ったものである。

 神道的世界観は現代文明の自由化、民主化、技術革新などを肯定しつつ、自然や共同体の中で共生し、より良く生きる道を教えている。そのような世界観の下で生まれた我々日本人の幸福をよく噛みしめつつも、外国人にもその世界観を共有する責務を我々が担っていることを知るべきだろう。

 昨年の訪日外国人客数が28百万人を超え、政府は2020年には4千万を目標としている。神道的世界観を世界に共有するには絶好の機会である。

 しかし、神道は言挙げよりも、まずは自然の美しさ、有り難さを感じとる処から始まる。そのためには、各国首脳が神宮参拝で感じとったように、まずは我々日本人がこの美しい国土を大切にし、それの姿を見て貰うことが出発点だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
http://blog.jog-net.jp/201807/article_3.html

b. JOG(707) 農が引き出す自然の恵み
 農業はカネでは計れない価値を自然から引き出す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog707.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■評価★★★★★ 日本に誇りが持てるようになります。(Tatchyさん)
 
 この本を読めば日本人が受け継ぎ発展させてきた世界に誇る日本の文化や伝統、国民性・・・(その他もろもろ)が深く理解できるでしょう。
 特に神道と仏教が融合された独自の宗教観には感銘を受けました。(やや神道寄りに書いていますが)

 西洋や中東のような上から目線の一神教と異なり神は身近にあり労働も生殖も祝福される事であった事などは日本人の勤勉さや弱者や子供を助ける精神に繋がる事がよく分かり素晴らしいと思いました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』★★★、ベスト新書、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4584125708/japanontheg01-22/

2. 竹田恒泰『現代語古事記: 決定版』★★★、学研パブリッシング、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4054050751/japanontheg01-22/

3.平凡社『神道大辞典 全三巻合本』(Kindle版)桜の花出版、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B01FQFSNIY/japanontheg01-22/

4. Gallup「In U.S., 42% Believe Creationist View of Human Origins」
https://news.gallup.com/poll/170822/believe-creationist-view-human-origins.aspx

http://www.asyura2.com/15/china6/msg/675.html#c94

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
14. 中川隆[-13737] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:12:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまは、30日に迎えた53歳の誕生日に先立ち、東京・元赤坂の秋篠宮邸で記者会見に臨まれた。2019年の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出に疑問を呈し、長女、眞子さま(27)の婚約に対する考え方も示された。発言の要旨は以下の通り。


■大嘗祭の国費負担に異例の疑義「長官は聞く耳持たず」

新天皇となる皇太子さまが即位後初めて国民の安寧や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る大嘗祭に公費が充てられることについて、秋篠宮さまは「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と異例の言及。大嘗祭を前回と同規模で行った場合、30億円近い支出が見込まれることが背景にあるとみられる。宮内庁の山本信一郎長官に意見を述べても「聞く耳を持たなかった」と批判された。


秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。私は、平成の大嘗祭でもそうすべきではないとの立場でしたが、その頃は若かったですし、多少意見を言ったくらいでした。今回も結局、当時を踏襲することが決まったわけですが、すっきりしない感じを今でも持っています。


平成の代替わりに際して行われた大嘗祭(1990年11月22日、皇居)


宗教行事と憲法との関係はどうなのか。私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。


■小室さんは「それ相応の対応をすべきだ」

 結婚関連の行事を延期した長女、眞子さま(27)と大学時代の同級生、小室圭さん(27)。「金銭トラブル」など小室家を巡る様々な報道が相次いでいることを念頭に、秋篠宮さまは小室さん側が「それ相応の対応をすべきだ」と指摘。現状では正式な婚約にあたる「納采の儀」は行えないとの認識を示された。会見に同席した秋篠宮妃紀子さまは、眞子さまの体調が「優れないことが多くなりました」と明かされた。


秋篠宮さま 小室さんに関わることが毎週のように週刊誌等で報道されていることは、承知しております。小室さんからの連絡は、2、3カ月に1度くらいでしょうか、時々もらうことがあります。これは娘と小室さんのことではありますが、私は、今でもその2人が結婚したいという気持ちがあるのであれば、やはりそれ相応の対応をすべきだと思います。


まだ婚約前ですので、人の家のことについて私が何か言うのははばかられますが、やはりそれ相応の対応というのは大事ですし、これは2人にも伝えましたが、やはり、今いろんなところで話題になっていることについてはきちんと整理をして問題をクリアすること(が必要)かもしれません。そして多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況にならなければ、私たちは婚約にあたる「納采の儀」を行うことはできません。


(眞子さまの様子については)私は最近はそれほど、娘と話す機会がないので、よく分かりませんが、公の依頼されている仕事は極めて真面目に取り組み、一生懸命行っていると思います。

小室さんから、報道自体について聞いていませんが、今までに(報道が)あった中で、これは事実とは違うとの説明があったことはあります。ただ、それについて何か行動を今するのかどうか、うかがうことはできていません。

紀子さま 私は母親としてどのように受け止め、どのように感じているかについてお話をしたいと思います。昨年の夏から様々なことがあり、折々に私たちは話し合いを重ねてきました。そうした中で、昨年の暮れから、だんだん寒くなっていく中で、長女の体調が優れないことが多くなりました。そうした状況が長く続き、長女は大丈夫だろうか、どのような思いで過ごしているだろうか、と大変心配でした。

家族として非常に難しい状況の中にありますが、私は眞子がいとおしくかけがえのない存在として感じられ、これからも思いは変わることなく、大切に見守りたいと思っております。


■皇嗣への抱負や公務の分担

 秋篠宮さまは2019年5月の代替わりに伴い、皇位継承順位第1位の皇嗣となられる。新たな立場となることへの抱負や、新天皇となる皇太子さまと分担することになる公務に対する考えなどを問われ、「一つ一つをその都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていきたい」と回答された。

新年祝賀の儀を終え、退出する天皇、皇后両陛下、皇太子さま、秋篠宮さま(2018年1月1日)


秋篠宮さま 抱負になるかどうかは分かりませんが、これからも様々な公的な仕事をする機会があります。例えば、毎年のように行われているものについては、前年度とか、その前の機会と同じようにすればいいと思いがちです。やはり、それら一つ一つを、その都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていくようにしたいと思っています。

公的な活動について、来年5月以降、今まで皇太子殿下が行ってきたものが、天皇になられると併せてすることができなくなります。一方、私も自分で行っていることがあり、それらをそっくり誰かに譲ろうにも受ける先はありません。今、宮内庁は、いったん全て皇太子殿下の仕事を引き取って整理し、次に私がどれをその後行っていくかを検討しているところです。そう遠くないうちに発表されるのではないかと思います。


■「全身全霊」の天皇陛下と支え続けた皇后さまに敬意
 天皇陛下の退位まであと5カ月。秋篠宮さまは平成の30年を「自然災害が非常に多い時代だった」と振り返り、象徴としての務めを果たしてこられた陛下に対し「まさしく全身全霊でお務めを果たしてこられた」と述べられた。


秋篠宮さま バブルが崩壊し、経済が低迷し、失われた10年、20年と言われますが、そのバブルの頃とその後で、人々の生活のパターンが変わったと感じております。また大変残念なことですが、自然災害が非常に多い時代だったという印象があります。

陛下は即位以来、象徴とはどのようにあるべきかという、その象徴としての在り方について、常に模索し、考え、一昨年8月に「お気持ち」を表明されましたが、その中に「全身全霊」という言葉がありました。まさしく「全身全霊」でお務めを果たしてこられたと思います。皇后陛下は陛下のお務めや立場を重んじ、宮中に伝わる伝統を守り継承してゆくことに心を砕かれながら、ご結婚以来、長い期間、60年近くにわたって支えてこられました。これはなかなかできることではなく、お二方に深く敬意を表するところです。息子の立場としては、私は二十何年、一緒に過ごし、常に笑いのある温かい家庭を築いてくださいました。そのことに感謝したいと思います。


■佳子さまの今後や悠仁さまの成長に思い寄せ
 来春、次女、佳子さま(23)は大学を、長男、悠仁さま(12)は小学校を卒業される。秋篠宮さまは佳子さまの今後について「ライフワークになるようなものを持ってもらいたい。結婚はそれほど遅くなくしてくれたら」。悠仁さまに対しては「自分の意見をはっきり言うようになった」と成長を喜ばれた。

53歳の誕生日を迎えた秋篠宮さまとご家族(東京・元赤坂の秋篠宮邸)=宮内庁提供

秋篠宮さま 大学卒業後、次女にも色々な公的な仕事の依頼が来ることが予想されます。長女がそうしているように、一つ一つ大切に思いながら、取り組んでいってほしいと思います。大学院進学の希望を持っているかどうか存じませんが、公的か私的かは別にして、ライフワークになるようなものを持ってもらいたいと思っています。

結婚については、親の勝手な希望としては、それほど遅くなくしてくれたらいいとは思いますが、やはりご縁の関係もありますので、別に私からせかしたりすることもしません。いずれ本人から何か言ってくるかもしれません。

長男はかなり自主的に動くようになってきたと思いますし、自分の意見をはっきり言うようになったなという印象があります。一方、人の話にもきちんと耳を傾けるようになってきたと思います。人のことを思いやる気持ちというのは、以前よりも増してきたなと思います。進学先については、そう遠くないうちに発表されることと思います。


■災害相次いだ1年、若い世代の活躍たたえ

 この1年を振り返り、印象に残った出来事や感想を問うと、秋篠宮さまは7月の西日本豪雨など相次いだ災害を口にされた。明るい話題としては、幅広い分野で快進撃が続く若い世代の活躍を挙げられた。


秋篠宮さま この1年も自然災害が非常に多い年でした。(西日本豪雨で甚大な被害を受けた)広島県に参りましたが、色々な所で土砂崩れや流木を見て、水の力のすごさを改めて認識しました。今後、どのように防災、減災をしていくかを考えていかないといけないと思いを新たにしました。

今年は日本人がハワイに移住して150年。現地で日系社会の人たちと話をし、様々なことを知ることができて大変良い機会でした。また本庶佑さんがノーベル生理学・医学賞を受賞しました。将棋の藤井聡太さんや、(世界オセロ選手権で優勝した)福地啓介さん、テニスの大坂なおみさんら、色々な分野で若い世代の活躍が目立ち、明るい話題だったと思います。


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秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30

秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。

私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。

相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまが唯のアホなのか、神道を憎んでいるのか、どちらなのかはわかりませんが

天皇家が大嘗祭の費用をケチって簡略式にしたら、2000年前からの伝統がすべて失われてしまいます。 一度忘れられた伝統はもう二度と取り戻せなくなります。

そんな事をしたら、皇室の存在意義が無くなってしまうのですね:

コラム 式年遷宮に見る技術継承と技術者確保
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html


 2013年は日本を代表する神社の一つである三重の伊勢神宮で20年に1度の式年遷宮が行われ、多くの参拝客が訪れました。「式年」とは定められた年を意味し、「遷宮」とは新しい社殿を造って御神体を遷すことをいいます。

 伊勢神宮の式年遷宮は飛鳥時代の690年に始まり、約1,300年の歴史を有します。戦国時代に中断された時期はありましたが、現在に至るまで20年ごとに内宮・外宮の正殿等、正宮・別宮の全ての社殿と御装束・神宝の造り替えが繰り返し行われ、2013年は第62回目の式年遷宮を迎えました。社殿には檜の素木造りで堀立柱と萱(かや)の屋根等を特徴とする「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」という日本最古の建築様式が用いられており、当時から変わらぬ姿を今も見ることができます(図表2-3-56)。

 
図表2-3-56 正殿(内宮)


 神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、20年ごとに同じ形の社殿を交互に新しく造り替えます。この造り替えによって生じた古材は、可能な限り再利用されています。例えば、内宮と外宮の正殿の一番太い柱である棟持柱は、削り直したうえで、神宮の表玄関である宇治橋の内側と外側の鳥居として20年間利用され、その後は三重県亀山市の「関の追分」と桑名市の「七里の渡」の鳥居としてさらに20年間利用されています。このほかにも、古材は内宮・外宮の摂社・末社の修繕・造り替えに使用されたり、全国の神社に無償で提供したりしています。

 また、遷宮にかかる費用については、古代には朝廷、鎌倉時代には鎌倉幕府、江戸時代には徳川幕府、明治以後戦前までは政府によって賄われてきましたが、戦後は伊勢神宮が民間の宗教法人となり政府の手を離れ、以降は国費の投入はなく伊勢神宮の自己財源により賄われています。今回の遷宮による事業費は約550億円と公表されています。

 遷宮がなぜ20年に一度と定められたか、その理由には諸説ありますが、その説の一つに「技術継承説」があります。

20年という期間は、当時の寿命でも2度は遷宮に携わることができ、初めて遷宮を経験する次世代の技術者へ技術を継承していくのに合理的であるという理由です。実際に伊勢神宮ではどのようにその建築技術が受け継がれているのでしょうか。

第61回式年遷宮が行われた1993年から、第62回式年遷宮が終わる2016年までの伊勢神宮の技能者の雇用状況と作業内容について概要を見ていきます(図表2-3-57)。

 
図表2-3-57 伊勢神宮が雇用している技能者の推移と作業内容


 式年遷宮は正宮の遷宮が終わった後に別宮の遷宮があるため、2年間は約160名の技能者の雇用が続きます。別宮の遷宮終了後、若手や技能優秀者30名ほどを神宮の常勤職員として残し、その他の技能者は解散となり、以後12年間、30名の技能者は摂社・末社の修繕・造り替え等を行います。

 本殿の遷宮終了後15年目に、次の遷宮のための木材加工が始まりますが、この頃から作業量や進捗に応じて全国から技能者を雇い入れていきます。この時、遷宮を経験している30名が新たに参加する技能者の教育を行います。この20年の周期によって、多い人で3回の遷宮に携わることができます。

 特筆すべき点としては、最低限技能を伝承するのに必要な技能者(30名)を遷宮終了後も常勤職員としてその雇用を確保していることです。一方で、ピーク時に雇い入れる技能者は、特に宮大工のみを採用しているわけではなく、一般の大工等を採用した後に必要な技能を教育しています。このことは、中核となる技能者を継続雇用し維持・更新業務に従事させることによって技術力が維持されているゆえに可能となっているといえます。

 このように、伊勢神宮の式年遷宮においては、次回の遷宮を見越して、人材の確保(ピーク時に向けた弾力的な雇用)と技術伝承(中核的な技能者の雇用維持)の取組が実践されています。社会インフラの維持管理・更新の担い手不足が大きな問題となっている昨今、1300年前から続いてきたこの仕組みから学ぶべき点も多いのではないでしょうか。

 
図表2-3-58 社殿造営の様子


(参考文献)
 伊勢神宮式年遷宮広報本部公式ウェブサイト http://www.sengu.info/index.html
 (株)野村総合研究所「NRIパブリックマネジメントレビュー(2011/4月)」
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


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神道の世界観を外国人に語ろう 2018/07/29
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201807/article_5.html


 日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。


■1.各国首脳の神宮「参拝」

 平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。

 ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。

 内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:

「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)

「平和と静謐、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)

「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)

■2.人間は自然の主人か、同胞か?

 これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。

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 日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
 太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、礼会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________

 その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
 自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
 天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』[1]での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。

 神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。

 それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。

 深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。

 地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。


■3.全体主義か、自由民主主義か

 自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。

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神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、
「平等」の存在になります。[1, 1392]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。

 万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。

 これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。


■4.性悪説か、性善説か

 しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。

 これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。

 先般も弊誌[a]で紹介したように、最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。


■5.統制経済か、自由市場経済か

 生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。

 川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。[b]

 このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。

 生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。


■6.宇宙は時計仕掛けか、生成発展するものか

 古事記では、最初の神が現れた時、「大地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした」[3]と説く。

 そこから、神々が国土を作り、その上で人々が田を作り、水を引く。神や人や万物が力を合わせて何事かを生みなすことを、神道では「むすぶ」と呼ぶ。男女が結ばれて、家庭を作り子をなす。農民が土や水などと力を合わせて作物をなす。

「むすび」の「むす」は、「うむす」が縮まった形で、「うむ(産む)」と同じく、「物の成り出づる」ことを言う。「むすこ」「むすめ」「苔むす」は、この意味である。「び」は「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」など、「物の霊異(くしび)なるをいう美称」である。したがって、「むすび」とは万物を生成する不思議な働きを指す。[2]

 この「むすび」に示されるように、神道の世界観では世界は生成発展するものであり、人間もそのプロセスに参画する。

 これに対して、キリスト教では唯一絶対神が宇宙を創造し、あとは人間も自然もその「時計仕掛け」の一部として運動を続けるのみである。この世界観では生物が勝手に進化するという進化論は受け入れられない。今でもアメリカでは42%の人々が「神が今の人間をそのままの形で作った」と信じている。[4]

 人間の努力も与(あずか)って世界が生成発展するという神道の世界観は、人類が科学によって自然法則を発見し、それを応用して新たな技術を生み出すという技術革新を後押しする。

 経済学者ヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションが経済発展をもたらすことを主張したが、そのイノベーションとは既存の要素の「新しい結合」であると考えた。異なるものの「むすび」が新たなる生成発展をもたらすという神道的世界観と同じである。

 技術革新は日本企業の強みであるが、それはこの「むすび」の考え方が後押ししているからと考える。特に現場の作業者一人ひとりまでが「改善」に参加するという日本の製造業における「改善サークル」「改善考案」は今や、世界の製造業のグローバル・スタンダードになりつつあるが、その根底にあるのも、人間が世界の生成発展に参画する、という神道の考え方だろう。


■7.神道的世界観の中で生まれた幸福と責務

 こうして見ると、現代のグローバル社会における環境運動、自由民主主義、大脳生理学、自由市場経済、技術革新などのトレンドは、みな神道的世界観と親和性が高いことが判る。

 逆にキリスト教的世界観と、現代文明はきわめて相性が悪いことが見てとれる。考えて見れば、キリスト教が支配した中世から訣別して始まったルネサンスや宗教改革が西洋近代の出発点となった。

 そこから産業革命、自由民主主義、自由市場経済、ついには現代の「リベラル」にまでつながってくるが、この点に関して、山村氏は田中英道・東北大学名誉教授の『日本人にリベラリズムは必要ない』から、こう指摘する。

__________
 もともと「リベラル」そのものが伝統的な「反キリスト教」から始まり、政治思想的には17世紀の「キリスト教からの自由」で始まったイギリスのジョン=ロックに始まり、経済的にはアダム=スミスから、心理学的にはフロイトから始まったといわれているからです。[1, 1146]
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 西洋近代は、キリスト教との戦いの中で「キリスト教からの自由」を訴えざるを得なかった。しかし、それを追求する過程で、キリスト教が支えていた宗教的道徳も失うことになってしまう。その結果の「神なき近代文明」が現代人から安心立命を奪ってしまった、と言えるのではないか。


■8.古いものと新しいものが同居するワンダーランド

 山村氏は外国人観光客数十人に「日本の良いところはどこですか?」とアンケートで聞いたことがあるという。

__________
 その結果を見ると、50%以上の外国人が、「日本には、古いものと新しいものが共存し、同居しているところ」と、答えていました。
 古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術がなぜ同居するのか。また、日本人は新しいものを好む傾向があるのに、なぜ古いものを残そうとするのか。
 日本人にとっては、神社以外にも仏閣や古い家屋の残る日本の当たり前の風景ではありますが、外国人から見れば、日本は「なぜか古いものが残っている」ということが、「ワンダーランド」に見えてしまうのです。[1, 827]
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 外国人、特にキリスト教徒から見れば、「古いもの=キリスト教」、「新しいもの=現代文明」で、両者は基本的に相容れないところがある。しかし、日本では「古いもの=神道」であって、それは以上述べたように、現代文明を包摂し、より良き方向に導く力を持ったものである。

 神道的世界観は現代文明の自由化、民主化、技術革新などを肯定しつつ、自然や共同体の中で共生し、より良く生きる道を教えている。そのような世界観の下で生まれた我々日本人の幸福をよく噛みしめつつも、外国人にもその世界観を共有する責務を我々が担っていることを知るべきだろう。

 昨年の訪日外国人客数が28百万人を超え、政府は2020年には4千万を目標としている。神道的世界観を世界に共有するには絶好の機会である。

 しかし、神道は言挙げよりも、まずは自然の美しさ、有り難さを感じとる処から始まる。そのためには、各国首脳が神宮参拝で感じとったように、まずは我々日本人がこの美しい国土を大切にし、それの姿を見て貰うことが出発点だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
http://blog.jog-net.jp/201807/article_3.html

b. JOG(707) 農が引き出す自然の恵み
 農業はカネでは計れない価値を自然から引き出す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog707.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■評価★★★★★ 日本に誇りが持てるようになります。(Tatchyさん)
 
 この本を読めば日本人が受け継ぎ発展させてきた世界に誇る日本の文化や伝統、国民性・・・(その他もろもろ)が深く理解できるでしょう。
 特に神道と仏教が融合された独自の宗教観には感銘を受けました。(やや神道寄りに書いていますが)

 西洋や中東のような上から目線の一神教と異なり神は身近にあり労働も生殖も祝福される事であった事などは日本人の勤勉さや弱者や子供を助ける精神に繋がる事がよく分かり素晴らしいと思いました。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』★★★、ベスト新書、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4584125708/japanontheg01-22/

2. 竹田恒泰『現代語古事記: 決定版』★★★、学研パブリッシング、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4054050751/japanontheg01-22/

3.平凡社『神道大辞典 全三巻合本』(Kindle版)桜の花出版、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B01FQFSNIY/japanontheg01-22/

4. Gallup「In U.S., 42% Believe Creationist View of Human Origins」
https://news.gallup.com/poll/170822/believe-creationist-view-human-origins.aspx


http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c14

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
15. 中川隆[-13736] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:33:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

鳥居の起源は長江の稲作文明

吉野ヶ里遺跡の紹介 門と鳥形
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。

当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。


南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

▲南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。

それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。

鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。

天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

鳥居から鳥が消えた日 2016/5/5
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


神社と鳥居はワンセットになっている。


日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。

しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。

学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。

しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。

弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園

遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。

吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。


鳥形木製品

恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居

(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。


穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。

特に有名なのは中国のミャオ族である。


芦笙柱(トン・カー

(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説

倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶

朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。

鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ

s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門

日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。


高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社

吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。


特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇

日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。

神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。

日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。

ここからが本題である。

鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。

注連縄である。

これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。

鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。

注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄

6−1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm


星宮神社


くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html

鳥から蛇に変っていったのだ。

鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも


蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。

蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。

それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。

ジャパンフィルターが稼働したのである。

渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。

古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。

空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。

日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。

これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。

そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。

荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。

チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。

日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族


http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870


タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。
http://maesai.main.jp/page068.html

アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。
http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php


倭族と鳥居
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832


神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832

112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ

タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html


『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274


 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。


日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。


ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。


秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html

「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352


「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html

安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。

二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。


三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm

日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。

■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。


■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。


■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c15

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
16. 中川隆[-13735] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:39:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]


ros********さん 2012/11/13 23:45:16

オオナムチについて。

福岡県朝倉市にオオナムチ神社という神社があります。

質問します。

@このオオナムチ神社は、日本で最も古い神社だと聞きましたが、これは本当ですか。
逆に言えば、日本で最も古い神社は、どこなのでしょうか。

Aオオナムチ⇒オオクニヌシノミコト
として同一視されているそうですが、オオナムチ自体は、何の宗教のどんな神なのでしょうか。

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aki********さん 2012/11/18 10:25:00

日本最古の神社は、縄文時代の日本に建っていた、という説を採らせて頂きます。天津神が渡来する前から、縄文時代の日本にも神社があった、一万年の歴史を持つ、と思います。

伊勢神宮の内宮などに、心の御柱と呼ばれるものが建っています。これに注目します。廣田神社に天照大神荒魂、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とあります。撞賢木厳之御魂は、撞=依り憑く、賢木=御神木、厳之御魂=男神の魂、です。その後に続くのは、おそらくこの神を奉斎した巫女の名前。御神木に依り憑く男神の魂を奉斎する巫女を神格化した神、と読めます。男神が依り憑く御神木こそが、伊勢神宮の内宮にある心の御柱と考えます。

神は一柱二柱と数えます。これは、神が宿る御神体の御柱を数えるところから来たもの。三内丸山遺跡や諏訪の祭りを観察すれば、神が依り憑く巨大な柱の存在が明確になってきます。三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉です。数千年から一万年前まで遡れるかもしれません。

猿の子供のメスは、木の枝を赤ん坊に見立てて、お人形遊びをして、母親の心を学んでいきます。宗教を生みだすアニミズムの発想の原型は、母親の尻尾を獲物に見立てて追い回して遊ぶ、子猫にも認められるそうです。哺乳類がもともとアニミズム的な発想をする習性を持つ動物だとすれば、人類はまだ猿だった時代から、原始宗教を持っていた可能性があります。猿の時代から依り代として使ってきた木の棒を巨大化して大地に建てれば御柱です。これが神社の原型です。扶桑信仰の扶桑は、日出国の日本に縄文時代から建っていた。これは、間違いないと思います。それもおそらく最初は蛇と関わりが深い蒲葵だった。しかし、現在の神社のような建築物はまだなかった、御神体の柱だけだった可能性もあります。

オオナムチの蛇神のほうですが、縄文の模様を観察していると、縄模様に蛇の頭が付いたものが散見されます。たしかに蛇は土坑祭祀と関連があるのかもしれません。土坑に見立てた縄文の壺の穴の周囲にも蛇がトグロを巻いて守っていたのだと思います。壺に入れたものに腐敗などの邪気が寄り付かないように。縄文人達が注連縄模様を描いたものを、考古学者が縄文と名付けたのが真相と思います。

壺の中で蛇を飼う昔話は、常陸国風土記のヌカヒメ伝承があります。蛇を飼育する容器が神聖視されて祀られていたことが分かる伝承です。

鏡とは、カカメが転化したもので、カカ=蛇、メ=目で、本来は蛇目のことだったそうです。鏡餅は、カガ=蛇、ミ=身で、蛇がトグロを巻いた姿に見立てて飾ってあるものと考えられます。また神社の御神木とされるナギ(梛)の木は、ナギ=蛇の木だったと思われます。

オオナムチは、政争に敗れて出雲に島流しになる前は、縄文として描かれていた時代からの日本の神だった、と思います。日本神道には渡来系の天津神だけでなく、縄文時代からそのまま引き継がれた在来系の国津神の系列があり、オオナムチは後者かと。ただ、大陸の扶余に渡る前の巫女達が、縄文時代の日本に存在した可能性もあり、両系統は同根で、明確な区分はないのかもしれない。すでに日本最古の神社や信仰の姿を示す証拠品は出土しているものの、現代人はその情報をまだ整理しきれていないと考えます。

銅鐸に刻まれた、太陽の三態を表す記号、朝『\』昼『○』夕『/』とか、火起こしの回転運動に由来する、火(日)の神の力を召喚するパワーを表す、左右の連結された渦巻とか、いろんなものが残っているものの、我々はまだその信仰の姿を十分読み解けていません。


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aka********さん 2012/11/18 01:56:35


神道施設の成立過程から順に明らかにしていきましょう。

神道は、八百万の神々を祀っていますから、多くの信仰が習合しています。そのほとんどは自然崇拝と祖霊崇拝です。自然崇拝は霊山や島や磐座や塚や御神木など、自然物が対象(御神体)ですから、本来は建物を建てて祀るものではありませんでした。神社は社(ヤシロ)とも言い、元は屋代です。代(シロ)とは、お祓いして清められた神が降臨する場所のこと。そこに建てられるのが屋代です。古い時代は仮の宮とされ、神事のときだけ存在して、用がなくなれば解体されていました。

対して、祖霊崇拝の場合は、生前の業績を称えて祀るのが基本ですから、生前の住まいである宮を子孫が大切に保存したり、霊廟を建てることもありました。神宮と神社の違いは、神宮は貴人の住まいが原点というところです。一般的に、神社には依り代となる御神体を祀る神棚の類はあっても、神様が寝起きしたり座る場所はありません。しかし、祖霊崇拝の場合は、依り代となる現人神(生き神)の巫女が寝起きしたり座る、神座がなくてはなりません。両者の違いを、皇室関係の神社とそれ以外と解説するケースが目立ちますが、神道施設が生まれた過程から見れば、不自然な俗説です。

神道のルーツは扶余の名前の由来になった扶桑信仰にあります。扶桑とは日が昇る場所に立つ同根二柱の神木の夫婦神のことで、現在はイザナギとイザナミと呼ばれていますね。扶桑信仰を作った人々は、後の狛犬のモデルになった狼犬を連れて、日本から大陸に渡っています。おそらく縄文時代の鬼界カルデラの大噴火のときに、噴煙による日照条件の悪化に伴う食糧危機を避けるため、青森県まで逃げて、そこから海外脱出した人々です。大陸から祖先の国を拝んだのが、扶桑信仰の始まりだったと推測できる神話が、日の巫女の王の家の神庫に残っています。扶桑信仰は今でも、初日の出を拝む大和民族の風習として残っていますね。つまり、神道の朝日を拝む歴史は七千年程度あると考えられます。

その長い歴史から見ると、神社という言葉は、かなり新しい時代に生まれた高句麗語&日本語です。扶余から派生した高句麗も、太陽信仰の国でした。神庫に残る故老の伝承を総合すると、高句麗は日の巫女の王が宮を構えていた五女山の神宮(高天原)の境内都市から生まれているようです。天照大神の原型となった女神は明姫(アカルヒメ)と言い、東明聖王の母とも妹ともされています。夜明けの情景から太陽が昇る→夜明けを神格化した明姫から太陽を神格化した東明聖王が生まれてくる→天照大神から皇統が生まれた、というのが、天津神の一族が日本へと渡来してもたらした、祖霊崇拝の日拝の神事を起点とする太陽信仰の原初の姿です。

高句麗の国教の姿を伝える中国の文献には、国母とその息子の王の二霊廟を祀っているとあります。あるとき高天原に難民が押し寄せて、国難を解決するために、明姫は豊葦原瑞穂の国(日国)への里帰りを託宣しました。渡来後の宮はヒメコソと呼ばれたようです。これを古い朝鮮語で「姫の社」という意味だと指摘する人々がいますが、私達は神宮を指す古い高句麗語と認識しています。つまり、最も古い日本の神道系の建物は、明姫を奉斎する日の巫女達が住まう神宮で、最初の入植地姫島のヒメコソだった、ことになります。

オオナムチは大国主の別名です。出雲の神々は四国に入植した渡来氏族が奉斎していた神々で、畿内に移動して大和朝廷の基盤を作りましたが、政権闘争に敗れて出雲へと島流しになっています。前方後円墳の原型は、近畿地方に出現するより百年古い時代から四国で痕跡が認められます。また出雲の神々の信仰実績は四国から見つかっています。つまり、オオナムチは、明姫の日国への里帰りの託宣に従って、九州から四国にかけて入植した人々が奉斎していた蛇神の名残りです。

蛇信仰は纏向型祭祀(土坑祭祀)や東盟祭用の隧穴に棲む蛇から生じたもので、注連縄は雌雄一対の蛇の交尾を表したシンボルです。大地母神の多産の象徴であるホトを表しているのが隧穴で、トンカラリン遺跡などにも見ることが出来ます。天岩戸伝説も隧穴信仰から派生しています。鏡の光を当てると、天照大神がなんだろうと思って岩戸から出てきたエピソードがあります。これは、日矛鏡で陽光を反射して作った、太陽神の男性のシンボル(日矛)の光で、多産を祈願して大地母神のホトを突く神事が元になっている表現です。箸墓古墳のホトを箸(隧神の男性の象徴の木の棒)で突いたという伝承もこの系統です。天照大神が隧穴(天岩戸)から出たとき、再び入らないようにと注連縄を渡したことからも、隧穴とそこに棲む神遣の蛇への信仰の関係が見て取れますね。隧穴と一対の男神のシンボルとして蛇信仰が考えられることもあり、蛇神のオオナムチも古い隧穴信仰の名残りの一つなのです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1097174915


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aki********さん 2012/10/31 13:54:35

天照大神は女神とされていますが、なぜ伊勢神宮などに男神の装束が奉納されているのですか?


ベストアンサーに選ばれた回答


aka********さん 2012/11/4 08:51:34


日の巫女の王を襲名した斎の巫女としてお答えします。

日本人は初日の出を拝む風習を持っていますが、神道本来の太陽信仰の姿は、為政者の宗教改革によって見えなくなっています。詳細は省きますが、蘇我馬子は天皇暗殺に飽き足らず、皇祖大兄を名乗って皇統に割り込み、没後は天照大神・男神として祀られるように画策しました。皇祖神・蘇我馬子を後世の人々は否定したものの、太陽信仰の姿が定かでなくなってしまい、本来の太陽神もろとも封印される形になったのです。日本の国姓の姫を母系継承する当家や他の幾つかの社家が、より古い時代の太陽信仰の姿を伝承しています。しかし、天皇記や国記が燃やされるなど、焚書が横行したので、神庫と古い書物の存在は秘匿されたのです。

天照大神は、日本の国号と記紀神話が成立したときに創作された新しい神です。より古い時代に「天照国なになに」という名で祀られた天照系の神々がいますが、そのなかに女神が単体で祀られたケースは見当たりません。信仰実績がないのですから、蘇我馬子達の暴挙が否定された後で、記紀神話が創作された時に、新しく設定された皇祖神と分かります。

記紀神話以前の古い国母神は、比売許曽(ひめこそ/姫の社という意味の古い高句麗語)に祀られていた明姫(アカルヒメ)でした。阿加流比売(アカルヒメ)という音写しか一般に知られてませんよね。天照大神・荒魂・瀬織津姫もまた記紀神話から除外されて、神社からもその名を消されていった女神です。隠蔽体質が顕著です。古い日女神達や建国にまつわる神話は、新たな日本国の神話と信仰を確立する妨げになるので、日本書紀に掲載されませんでした。本当の王統の誕生を祝うお祭りは、京都の葵祭です。建国神話はこのお祭りと一対一対応する桃太郎の昔話として知られています。

詳細を省きますが、アカルヒメが新羅から渡来した女神という神話は真に受けないでください。特有の仮託された表現で構成されているものを、矛盾に気付かずに、太陽神と巫女神が夫婦喧嘩したとか、元祖ストーカー王子と解釈するのは間違いです。書き手の地理的感覚や時間軸も混乱しています。阿加流比売を奉斎する巫女集団が大陸の高天原から渡来した時期は、黄巾の乱の後、卑弥呼登場の少し前です。

記紀神話成立以前の本来の太陽信仰を再生するうえで、国外の和人文化の記録が参考になります。
纏向型祭祀(土坑祭祀)と高句麗の東盟祭の類似性が指摘されています。中国大陸東岸の長江文明の稲作が日本まで伝わってきたことから分かるように、東夷とも倭(和)人とも呼ばれた人々の渡来によって、縄文時代は弥生時代に変わっていきました。黄巾の乱で発生した難民の渡来は、弥生時代を古墳時代に変えていきました。山東半島から纏向遺跡に至る東進ルート沿いに、和人文化圏が形成された時代がありました。高句麗地域(渤海湾岸文明)の朝日に対する信仰は東明信仰です。これを漢民族は扶桑信仰として書き残しています。高句麗では国母神とその息子の男王神の二霊廟を祀っているという記述も残ります。

明姫は「日が明ける」という意味を持つ日女神です。夜明けを神格化した女神です。夜明けから生まれてくるのは太陽です。太陽を神格化した男神が東明聖王です。夜明けが産む太陽。明姫が産む東明聖王。皇祖神・天照大神(女神)が産み出した皇統。高句麗の国母神とその息子の男王神に対する信仰とも対応します。

飛鳥と書いても明日香と書いてもアスカと読みます。飛鳥はじつは「日が明ける(新しい)」を意味する古い高句麗語(祝詞の吏読のルーツ)の音写です。朝鮮語でも「日が明ける」と「飛ぶ鳥」は「날 새/ナルセ」で同音です。「明日」は「日が明ける」の漢語表記です。語尾の「香」は「郷」の音写です。つまり飛鳥郷(京)は、国母(皇祖神)とされた日女(姫)神の明姫の名にちなんだ太陽(東明)信仰の王都なのです。

記紀神話は、イザナギとイザナミの男女一対の神による国産みから始まります。これは陰陽思想に基づきます。天照大神も陰陽思想の影響を受けて設定された太陽神です。天上に輝く陽の存在(太陽)は男神で、その光を受けて人の姿を取るとき、陰の存在の女神の姿を取るとされます。ですから、太陽神・天照大神の依り代となる巫(かんなぎ)は、生き神扱いの男装の巫女なのです。

記紀神話のなかで、スサノオは天照大神のことを姉と呼びます。また、スサノオと対峙するとき、女性の髪形を解いて男装する描写があります。人の姿をした天照大神は、記紀神話の伝承でも女神として描かれます。私が天照大神と心身一体の状態になって神座に座るときに着る神服もまた、男装の剛装束です。皇室から伊勢神宮に奉納される神服も男神用です。普通の人が着るには、やや大きめに作られた物が奉納される慣習があるのは、日の巫女の王の一族は体が大きいことが知られてきたからです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1296497722


▲△▽▼

aki********さん 2012/11/13 22:28:43

高句麗は朝鮮ですか大陸(中国?)ですか?民族的に文化的に言語的にどうなのか、それぞれの視点からお願いします。

補足
回答ありがとうございます。

高句麗が騎馬民族だったことを示す、文献なり遺跡なりは残っているのでしょうか?

高句麗は農業大国扶余の分国という情報をネットで拾い読みしましたが、これは間違っているでしょうか?


ベストアンサーに選ばれた回答

aka********さん 2012/11/15 08:36:25


高句麗国の神宮(高天原)の日の巫女の王の忌名と姫姓を受け継ぐ、社家の者としてお答えします。

高句麗は扶余と同じツングースで、北から来たと思っている人も多いようですが、じつはスンダランドが消滅したことで、中国大陸東岸を北上した人々の血がかなり入っているようです。言語的に日本語と近いことは数詞の一致などから見て取れます。固有語レベルで共通性がほとんどない現在の朝鮮語と日本語の関係と比べると、大違いです。とはいえ、地理的に隔たった分だけ差異が認められます。文献研究者が吏読と思っている言葉の多くが、じつは高句麗語というケースが多々あります。当家では日の巫女の王の名を襲名する者は高句麗語(文語的)を第一言語として育てられるので、はっきり認識出来るのですが、そうでない一般の日本人は、失われた言語についてほとんど認識出来ないと思います。

縄文人達は、鬼界カルデラの大噴火の災厄から逃れるために、海外脱出しています。疎開先に東北平原の地域を選んだ人々もいたようです。日の昇る方角に二柱の祖先神が立っていると考える、扶桑信仰が誕生しました。扶は寄り添って立つ同根一対の御神木を指す言葉で、扶余の国名になったようです。この二柱の神々は、現在の日本神話ではイザナギ・イザナミと呼ばれていますね。

扶余国は広大な平野に興った国ですが、寒冷化の影響を受けやすい地域です。太陽の力が陰ったのは王の人徳に問題があるからだという噂が広まって、民から責められた出来事を、漢民族が書き留めています。食糧難が発生して南下を余儀なくされた結果、高句麗や百済が派生したと見るべきでしょう。

高句麗は扶余と同じ太陽信仰の国でした。国母神とその息子の男王の二廟を祀っていることを漢民族が記録しています。これは、夜明けが太陽を産む→明姫(アカルヒメ)が東明聖王を産む→天照大神(神功皇后)が皇統を産んだ、という形で、皇室神道へと繋がっています。高句麗国が半農の国だったことは、東盟祭を観察すれば明らかです。隧穴を大地母神のホトに見立てて、隧神の男性のシンボル(箸=丸太の棒)で突いて、翌年の豊穣を祈願するお祭りをしていました。現代の新嘗祭の原型となった、纏向型祭祀(土坑祭祀)と共通します。箸墓古墳の箸でホトを突くという伝承は、墓の主の死因ではなく巫女が主宰した祭祀形態の伝承です。後世の人々が意味を取り違えたのです。隧穴は高句麗式の石組みのトンカラリン遺跡として日本にも残ります。隧神の箸は日矛鏡で反射した陽光(日矛)へと変り、隧穴を照らす形になりました。天岩戸伝説にも見ることが出来ますね。五穀豊穣を祈願する祭祀は農耕文化の象徴です。当家の主食は今もヘンプ(麻の実)の醗酵粥の醍醐です。東明聖王は朱蒙(弓の名手)の異名を持ちますから、半狩猟民族です。当家の者はボーラや印地の技を伝えています。

扶桑信仰は神仙思想と習合して、東夷=倭人=和人の人々の、蓬莱(日本)への東進を促す原動力になりました。和人文化圏が、山東・遼東半島付近から纏向の地まで広がっていたようです。もし東征だったら、男性は移動しても女性の移動は見られない筈です。ところが、九州の弥生の遺跡からは、縄文に見られないミトコンドリアの遺伝子の型、N9aやZが見出されます。今日の日本人と共通性を持ったパターンが、山東半島や遼東半島付近まで分布しています。つまり女性を伴っての移動だったのです。ところが、男性が担うY染色体のO2bのほうは、かつての和人文化圏に沿った分布が見られません。朝鮮半島付近は、後から男性のみの集団が侵入してY染色体を上書きしています。つまり侵略を受けたのですね。

天照大神の原型となった日の巫女の王が、難民達に日国への里帰りの託宣を下して、自ら日本に渡来して大王家(後の天皇家)を産みだした結果、高句麗の精神文化と言葉が日本にもたらされました。飛鳥や大和や息長などは、高句麗語の音写が変化せずに現代まで残ったものです。この時はO3の型を持った人々が大勢含まれていたと思われます。東明聖王が5部族を無血統一した故事に由来する、和を尊ぶ大和民族の精神に導かれた豊葦原瑞穂の国への里帰りの入植だったようです。京都や奈良の湿地帯の干拓事業を行ったので、古くから日本に住んでいた人々の土地を奪ったわけではないようです。平和的な入植だったので、Y染色体のD2遺伝子などが駆逐されずにちゃんと日本には残っていますね。

高句麗は半農半狩猟の民族で、言語や精神文化は日本が受け継いでいます。難民となって移動した人々は、Y遺伝子で見るとO2bやO3のほうが多いようです。多くの高句麗国の人々は大陸に残ったようですね。東進しやすかったのは、高句麗の民よりも半農・半漁労の人々だった、ということでしょう。

当家の神庫に残る故老の伝承を裏付けるものが多く見出せます。それなりに史実を反映していると思われます。

質問した人からのコメント

2012/11/15 09:09:10

高句麗に大和民族の精神的ルーツがあるという姫様のお家の伝承を元にした御説を以前から読ませて頂いてきましたが、遺伝的な痕跡まであったとは驚きです。

東北平原の土地は肥沃で中国最大の食糧生産地ですが、寒冷化が当時の扶余のヘンプの生産にどういう影響を与えたのか詳しく知りたくなってきました。日女神のお家の主食が米でなく麻の実の発酵粥の理由が、なんとなく分かってきました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1197169726


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ikz********さん 2012/10/19 16:29:16
日ユ同祖論 信憑性はどの程度なのでしょうか。

言語が似ている、歌をヘブライ語にすると意味が通る(君が代、かごめかごめ、 ソーラン節など)という具体的な共通点から、遺伝子が中国韓国人にはないものをもつという根拠不明なものなどが上げられます。

某掲示板では、宗教観が違いすぎる、戦前の白人コンプレックスの日本の学者が作り上げたものだとしているのをみて妙に納得してしまいました。確かにユダヤ教と神道、仏教は違いすぎます。まず一神と多神、偶像崇拝禁止と仏像とで明確です。

ただはっきりどちらに分があるとは判断しにくい部分が多いため詳しい方いたらよろしくお願いします。


aki********さん 2012/10/21 01:10:58

歌の類似性と言えば、和歌がインドの民謡と共通性が高いほうが注目に値すると思います。今でも日本人は海外の文化を輸入して、独自に発展させる才能を発揮していますが、昔もそうだったと考えるべきだと思います。ただし、ヘブライ語と日本語の類似性は他の言語と同程度で、かなり低いと思います。多くは音が似ているだけのコジツケになっていると感じます。

本当に日本語と近いのは、大陸の高句麗語です。言語が近縁かどうかを観察するとき、真っ先に見るのが数詞と言われています。日本語と高句麗語の数詞の比較を行うと、朝鮮語などよりもはるかに近縁の言語という結果が出るようです。

高句麗は滅亡して、その人々は女真族と名を変え、今は満州族と呼ばれています。

彼等は清帝国を築いたわけですが、清の時代に遭難した日本の商人が北京に行って驚いたのが、一二三四ではなく、ヒ・フ・ミ・ヨの日本語の数え方がそのまま通じたことだそうです。高句麗の流れを汲む女真族の言葉を話す人々と、北京で普通に接触できたようです。

百済は扶余・高句麗から枝分かれした王室で、朝鮮半島は異民族支配されていました。

そのため、百済の王室と民は異なる言語を話しているという指摘が、中国側に残っています。

神道の世界には古い朝鮮語が数多く残っていると指摘されることがありますが、実際にはそれが失われた高句麗語という説も出てきています。


高句麗語は日本語と同じ膠着語です。

系統が違う漢民族の言葉と文字がいきなり日本に輸入されたわけではなく、まず漢民族の言葉と直接接していた高句麗語が漢字表記されるようになり、それが、高句麗と近い山東半島や遼東半島付近の海人の手を経て日本にもたらされて、古い神道の祝詞の言葉などが作られていったと考えられます。

纏向型祭祀と高句麗国の東盟祭の類似性も、かなり指摘されているようです。

倭人文化圏が北九州から済州島を経て山東半島や遼東半島付近に分布していたと認識している中国側の史料が幾つか散見されるようです。

卑弥呼寒冷期と呼ばれる地球規模の寒冷化に伴って、飢饉に直面した高句麗地域の人々が日本に渡来した結果、弥生時代が古墳時代に変わっていったという説があるようです。

九州に山東半島原産の三眠蚕が入り、纏向(奈良)にも山東半島付近の製鉄と蚩尤(兵主・天日槍)の信仰が入っています。その結果、天照大神のモデルになった古い日女神を祭った比売許曽(ヒメコソ)神社が建てられるといった現象が起こったようです。

比売許曽は姫を祀る神社という意味の高句麗語(朝鮮古語)です。だから、比売許曽神社の末尾の「神社」は必要のない筈ですが、時代が下って元の意味が見失われた結果、付けられるようになったと考えられます。祝詞にも高句麗語由来の言葉が大量に入っている、というより、本来祝詞は高句麗語(吏読)だったそうです。謎が多いとされる「ひふみ祝詞」は、高句麗語として意味がほぼ通じる形で伝わっているそうです。飛鳥という都の名前も元は高句麗語のようです。

トルコからシルクロードを介して日本まで、膠着語圏が広範囲に広がっています。
文法的に近いため、日本語に輸入しやすかったことが考えられます。


たとえば、天皇を古い時代はスメラ・ミコトと呼んでいました。

シュメール文明と日本語の関係がかなり指摘されていますが、シュメール・ミグトと言えば、天降りた支配者のことで、日本語と音が似ているだけでなく、意味も一致しています。したがって、シルクロードを介して日本に入ってきたのは、なにも古代イスラエルの文化に限られるわけではないと思われます。

秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成になっていて、ペルシャ人の人骨が近くから出ているようです。

ササン朝ペルシャの滅亡に伴って、シルクロードに逃れた王子が中国に亡命し、妻子を安全な日本まで連れて来ているケースもあるようです。わずか数年で日本とペルシャは繋がる距離にあります。西の文化が日本に断片的に入っていても、不思議ではありません。仏教も入れば、ギリシャ彫刻もガンダーラの地域で形を変えながら伝わっています。

しかし、文化的影響が認められるからと言って同祖論を持ち出すのは、不自然すぎると感じます。それを言うなら、人類はアフリカ原産の動物で、皆同祖という話になります。

遺伝子に関しては本来akatamayorihimeさんが御専門の筈ですが、完全スルーしているようです。相手にする必要もない勘違い、ということだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1195894356



http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c16

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
17. 中川隆[-13734] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:56:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

2017-05-31 日本神話=朝鮮神話
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557


日本人が天から舞い降りた民族でもなければ日本から生えてきた民族でも無い以上日本人はどこからかやってこなければならない。そしてそれは間違いなく朝鮮半島であった。日本神話は確実に朝鮮神話に源流を持つ。日本神話で有名な八咫烏も高句麗のシンボルである。

↓高句麗の壁画に描かれた八咫烏

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八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。 日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、 導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏について - 熊野本宮大社 | 公式サイト

平安から鎌倉時代にかけて皇族や貴族から篤い信仰を受けた熊野神社の主祭神は朝鮮半島ソシモリ出身のスサノオであり、そのお仕えである八咫烏は高句麗のシンボルである。熊野神社は高句麗系渡来人の神社であったのだろう。スサノオは朝鮮半島のソシモリから虵の韓鋤の剣を携えやってきてヤマタノオロチを退治した。「虵の韓鋤の剣」は間違いなく朝鮮製の剣であろう。ヤマタノオロチは蛇である。日本の古くからの信仰は蛇信仰である。蛇信仰は注連縄や鏡餅や土器などに見ることができる。脱皮し永遠の命を持つと思われた蛇は信仰の対象であった。その蛇を朝鮮半島からやってきた神が朝鮮製の剣で退治したヤマタノオロチの神話は示唆的である。これは渡来人が蛇信仰の土着倭人を殺戮した歴史では無いだろうか。

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古神道とはどのようなものか考えたときそれは原始的なアニミズムであっただろう。その特徴を色濃く残す神社と言えば諏訪大社である。諏訪大社の巨木信仰はまさにアニミズムだろう。また諏訪大社ではソソウ神という蛇神やミシャグジ神を祀っている。柳田国男もこれを先住民族の信仰と考えた。諏訪大社の主祭神は建御名方神と八坂刀売神である。建御名方神といえば国譲り神話でこっぴどくやられた神であり八坂刀売神は記紀神話には存在しない諏訪土着の神である。おそらく土着の倭人が朝鮮系の民族に追いやられた歴史を反映していると考えられる。縄文の信仰を残す諏訪大社と国を譲らざるを得なかった神。偶然の取り合わせでは無いだろう。実際縄文系のDNAは日本の周縁へと追いやられている。朝鮮系渡来人である弥生系DNAは日本の中心に分布している。

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古神道を考える上で忘れてはならないのが出雲大社である。記紀の3分の1の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社には出雲系の神が祭られているという。間違いなく古神道といえるだろう。出雲大社の主祭神は大国主大神である。国譲りで国を明け渡さなければならなくなった神であり、大和へその地位を譲らなければならなかった古代出雲文明の神であろう。事実、大国主神は祟り神として知られている。大国主神は国津神の主祭神であり土着の神である。大国主神もまた縄文系の土着の倭人の神であろうか。出雲大社にも流れ着いた海蛇を祀る風習があるという。古代の蛇信仰も色濃く残した神社である。研究によれば出雲の人々のDNAは朝鮮人や中国人とは違うようだ。やはり出雲大社は土着の倭人の神社であるように思われる。

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比較的新しい信仰が天照大神信仰であろう。天照大神は天津神である。渡来人の神であろう。天照大神は機織りや稲作を行う記述があることからも渡来人であることが伺える。天孫降臨神話においても天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊は「この地は韓国に面して、笠沙の岬にも通じており、朝日と夕日が照らす素晴らしい土地である」と発言したように、朝鮮半島との関係をうかがわせる。天照大神は皇室の祖神であり、国家神道の主祭神である。大化の改新の後に皇祖神となったと言われている。持統天皇が日本書紀を編纂させた。その日本書紀が天照大神に特別な地位を与えたと言われている。
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557


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朝鮮と日本の神話の類似性
上田正昭 京都大学名誉教授(2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html



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高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032


高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。


春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注

1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91


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10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html


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昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16

あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。

高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。

いま、あのときの顔を思い出しています。

三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643


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hoh********さん 2016/2/13 01:29:09

神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?

pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588



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文献は語る −日本神話

1.天孫降臨


天孫降臨の話は、基本的には高天原の神々がその直系の神を高天原から地上の世界へ降ろし、地上を支配していた国津神たちから国土を譲り受ける、あるいはそのまま支配する話なのだが、これは以下のような構成になる。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

このうち(1)、(2)はオオクニヌシの支配する葦原の中津国、すなわち出雲地方のことで、この物語は天孫降臨よりも、「出雲の国譲り」としてのほうが知られている。しかしこれも意味合いから言えば天孫降臨である。「国譲り」とはぶんどった方の呼び方であって、取られた方からすれば略奪であり、占領である。

難波や日向に天下った際には特別な記事はないのに、出雲だけ何故建御名方神が抵抗したのか。おそらく、当時の国々の中では出雲だけが、高天原(天津神(渡来して北九州にいた集団)たちの国)に抵抗できるだけの体制(軍備・文化・技術等々)を持っていたからに相違ない。これは、出雲が北九州とは独立して、遙か昔からの先進文化を受け入れていたことを示している。

葦原中国を平定後、アマテラスは最初、我が子天之忍穂耳命(オシホミミノミコト)に、葦原中国を統治するように命じたが、オシホミミノミコトに子が生まれ、アマテラスは、その子番能邇邇藝(ホノニニギノミコト)を降臨させる。 最初命を受けたオシホミミノミコトが、降臨の役目を辞退してしまうのはなぜかよくわからない。アマテラスは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、伊斯許理度売命(イシコリドヒメ)、玉祖命(タマノオヤ)を孫のニニギノミコトに付けて、共に地上に行くように命じ ニニギノミコトに、八尺の勾玉(ヤサカノマガダマ)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、そして草薙剣(クサナギノツルギ)を授ける。更に、思兼神(オモヒカネノカミ)、天手力男神(タヂカラヲノカミ)、天石門別神(アメノイハトワケ)、らにニニギノミコトと一緒の天降りを命じた。ニニギノミコトには、

「この鏡を私の魂と思って、私の前で拝むような気持ちでいつも敬うように」

と下命した。一行の降臨を国津神の猿田彦神(サルタヒコ)が待ち受けていた。こうして、ニニギノミコトは、高天原を離れ、随行する神々と、途中、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降った。

この地は韓国に向き、笠沙の岬にまっすぐ道が通じていて、朝日がまぶしくさす国であり、夕日が明るく照りつける国でもあった。ニニギノミコトはここに宮殿を造るが、ニニギノミコトが天降った高千穂という伝説地は、宮崎県西臼杵郡高千穂町と宮崎・鹿児島両県にまたがる高千穂峰が有名である。天孫降臨の話は、古事記と日本書紀では若干違っており、日本書紀では本伝のほかに多くの異伝を伝えている。天上から地上への降臨による地上支配の発生という神話は、東アジアを中心にして多くの民族に共通し、それらを北方的な要素とみなす見解もある。 天孫降臨のあとは、いわゆる日向神話における山幸彦・ウガヤフキアヘズ命の誕生を経て、初代神武天皇へと直結する。


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古事記での「天孫降臨」


故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。
(倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年)


日本書紀での「天孫降臨」

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店1993年)

(注;)日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。

日向國風土記逸文での「天孫降臨」

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
(秋本吉郎校注「日本古典文学大系2 風土記」岩波書店)


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梅原猛は、この神話は一般に「天孫降臨」として知られるが、最初は「天子降臨」だったのではないか、という指摘をしている。この神話の原典は古事記・日本書紀・万葉集だが、万葉集が一番古い資料で、古事記・日本書紀では確かに 「天孫降臨」になっているが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではない。そこで梅原は、万葉集の原型が作られたのが、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時に、この孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、としている。なかなか興味深い推察である。


天孫が降臨した「高千穂」を巡っても諸説ある。古事記では、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)、日本書紀では「一書に曰く」と諸説あるため、高千穂峯(たかちほのたけ)、久志振流岳(くじふるだけ)などに降臨した事になっているが、宮崎県の高千穂町と、鹿児島の霧島山系・高千穂の峰が「高千穂峯」の本家争いをしているのは有名な話である。しかしその「くじふるだけ」という呼び方から、大分県の「久住岳」(くじゅうだけ)と言う意見もあるし、福岡県の英彦山には、天忍穂耳神が降臨されたという伝説があり、農業や鉱業などの守り神として今も信仰されている。


本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと言っている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)

 
また宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、 知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」
(『古事記』十七之巻)


前出梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく 新潮社刊」の中で、この本居宣長説について、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動したのではないかとこの説を補強している。

2000年9月14日(木)から17日の間、第38回歴史倶楽部例会で、「南九州/神話・遺跡の旅」と称して、宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡などを廻ってきた。高千穂町はほんとに山深い鄙びた町である。こんな所に神々が降ったとは一寸思えない。しかしそれは、一大生産地としての観点から見ればであって、神話に言うただ降りてきただけの「降臨の地」とすれば納得できない事ではない。山深い幽玄な雰囲気はそれを十分感じさせるだけの説得力を持っている。だが神話を離れて、外来民族か或いは他地方からの民族移動を「天孫降臨」だとすれば、この地はあまりに辺境すぎる。あまりにも山の中である。天孫ニニギの尊が、「葦原の中つ国」を治めるために降りて来るには一寸ばかり山峡すぎる。日向に三代に渡って住んだと記紀は書いているが、高千穂から日向の国へ移ったという記述はない。とすれば、降りてきた高千穂にニニギニミコト、ウガヤフキアエズ、カンヤマトイワレビコと三代住んだと考える方が自然だろう。それにしてはここはあまりにも山の中である。ここでは東に良い国があるなどという情報も到達しないのでは、と思える程辺境だ。


(以下古事記による。)

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爾くして、天照大御~・高木の~の命(みことのり)以ちて、太子(おおみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命に、

「今、葦原中國を平らげ訖(おわ)りぬと白す。故、言依(ことよ)」

さし賜いし隨(まにま)に降り坐して知らせ」

と詔りき。爾くして其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命、答えて、


「僕、將に降らんと裝束(よそ)える間に、子、生まれ出でぬ。 名は天邇岐志國邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能邇邇藝(あまつひたかひこほのににぎ)の命、此の子を降すべし」


と白しき。 此の御子は高木の~の女、萬幡豐秋津師比賣の命に御合して生める子、天火明(あめのほあかり)の命、次に日子番能邇邇藝の命【二柱】也。是を以ちて白しし隨に、日子番能邇邇藝の命に科(おお)せて、「此の豐葦原水穗の國は汝が知らさん國と言依さし賜う。


故、命の隨に天降爾くして日子番能邇邇藝の命、將に天より降らんとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上は高天原を光し、下は葦原中國を光す~、是れ有り。故、爾くして天照大御~・高木の~の命以ちて、天宇受賣の~に、

「汝は手弱女人(たわやめ)に有りと雖も、伊牟迦布(いむかふ)~と面勝(おもかつ)~ぞ。故、專(もは)ら汝往きて將に、

『吾が御子の天降らんと爲す道に、誰ぞ如此して居る』と問え」

と詔らしき。 故、問い賜いし時に答えて、

「僕は國つ~、名は猿田毘古(さるたびこ)の~也。出で居る所以は、天つ~の御子、天降り坐すと聞きし故に、御前に仕え奉らんとて參い向い侍る」

と白しき。


爾くして、天兒屋(あめのこやね)の命・布刀玉(ふとだま)の命・天宇受賣(あめのうずめ)の命・伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命・玉祖(たまのおや)の命、并せて五伴緒(いつとものお)を支(わか)ち加えて天降しき。是に其の遠岐斯(おきし)、八尺勾(やさかのまがたま)、鏡、及び草那藝の劍、また常世思金の~、手力男の~、天石門別(あめのいわとわけ)の~を副え賜いて詔らさくは、

「此の鏡は專ら我が御魂と爲て、吾が前を拜むが如く伊都岐(いつき)奉れ。次に思金の~は前の事を取り持ちて政を爲せ」

と、のりき。此の二た柱の~は、佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拜み祭る。次に登由宇氣(とゆうけ)の~、此は外宮の度相(わたらい)に坐す~也。


次に天石戸別の~、またの名を櫛石窓(くしいわまど)の~と謂い、またの名を豐石窓(とよいわまど)の~と謂う、此の~は御門の~也。次に手力男の~は佐那縣(さなあがた)に坐す也。故、

其の天兒屋の命は【中臣連(なかとみのむらじ)等の祖(おや)】。
布刀玉(ふとだま)の命は【忌部首(いんべのおびと)等の祖(おや)】。
天宇受賣(あめのうずめ)の命は【猿女君(さるめのきみ)等の祖(おや)】。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は【鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖(おや)】。
玉祖(たまのおや)の命は【玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖(おや)】。


故、爾くして天津日子番能邇邇藝の命に詔りて、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多那(たな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾くして天忍日(あめのおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挾み、御前に立ちて仕え奉りき。

故、

其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。

是に詔らさく、

「此地は韓國に向かい、笠紗(かささ)の御前に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國也。 故、此地は甚吉(いとよ)き地」

と、詔りて、底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て坐(いま)しき。


【ホノニニギの、諸文献における表記】

古事記 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子番能邇邇芸命
天津日子番能邇邇芸命
日子番能邇邇芸命
日本書紀 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
天之杵火火置瀬尊
天杵瀬尊
火瓊瓊杵尊
天津彦火瓊瓊杵尊

風土記 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
瓊瓊杵尊
哀能忍耆命

先代旧事本紀 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊


ホノニニギの神名の多さと長さは記紀にもあまり例がない。ちょっと異常と思えるほどだが、想像をたくましくすれば、北九州の高天原からあちこちへ降臨した神々がいたのではないかと思わせる。日向へ降ったホノニニギはその一人で、神話が形成されていく過程で、ホノニニギ一人に集約されたもののようにも思える。ホノニニギの「ホ」は「穂」であり、ニニギは「にぎにぎ」の意で「賑やかな」「賑わう」と解釈し、稲穂が豊穣に実っている様を表していると言われる。

また、ホノニニギは「天神御子」とも称され、神から天皇へ繋がる系譜上の重要なポイントに位置し、先に見たように、記紀編纂当時の、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の皇位継承問題の事情が反映されているのではないかとも言われる。日本書紀九段本書では、天孫降臨の任務は初めからホノニニギであり、赤ん坊の姿でマトコヲフスマに包まれて降臨している。ホノニニギは、崩じた後日本書紀によれば「可愛之山綾」に葬られ、現在その場所は、鹿児島県川内市宮内町や、宮城県延岡市北方の可愛岳などが想定されている。

「国譲り」神話を、何らかの史実を秘めた伝承であるとする立場からすれば、冒頭にも記したように、これは明らかに民族間の領土移譲を含めた権限委譲である。若干の武力抗争もあっただろうが、「国譲り」と表現されるような、圧倒的な軍事力の違いの前に、国を譲らざるを得ないような状況があったのだろうと想像できる。見てきたように、それは北九州の高天原に、出雲の葦原の中津国が屈したのだと考えれば、以後の歴史展開が、考古学の成果も含めて一番説明が容易である。そうやって北九州の、当時の日本列島で一番勢力が強かった一団が、出雲や畿内や南九州を屈服させていったのだろうと思われる。天孫降臨は、それらの屈服させた領地へ派遣する司令官とそのお供の武官達を任命した、いわば壮行会であり、辞令交付式だったのだろうと思われる。そして時代を経て、それは高天原と国津神たちの支配する中津国とのお話として神話となって伝承された。


高天原の神々が降臨に用いる乗り物は天の磐船であり、雲であり、その上に乗って大勢のお供とともに天下っている。これは明らかに海上を船によって移動したことを示唆している。陸上を馬や徒歩で移動したのであればこういう表現にはなっていない。これは高天原が少なくとも近畿ではなかったことを強く物語る有力な証左である。

2.日向三代


天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。

神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、すぐ側の西都原(さいとばる)古墳群を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここにあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研究がなされてもいいような気もする。


こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったものである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。


さて、ニニギの尊が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会う。迩迩芸命が名を尋ねると

「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫(このはなのさくやひめ)といいます。」

と答えた。そこでニニギは咲夜姫に結婚を申し込むが、咲夜姫は

「私の父に言って下さい」

と答える。そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、姉の石長姫も一緒に娶ってくれといい、婚礼用品を添えて二人の娘をニニギの元にさしだした。

ところが石長姫の方は醜女だったため、ニニギは大山津見神の所へ返してしまう。すると大山祇神は怒り、

「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持てたのに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」

と答えた。古事記は、だから代々の天皇の寿命は短いのだとコメントしている。

さて、その咲夜姫だが、ニニギとは一度しか交わらなかったのに、その一回の交わりだけで妊娠してしまう。ニニギは、1回交わっただけで妊娠するとは、と疑った。咲夜姫は、

「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」

と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落した。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命という。火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦である。山幸彦はまた、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名を持つ。


海の神の娘、豊玉姫神と結婚し、やがて鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産む。彼は豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚して、神武天皇が産まれる。


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是に天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗の御前に麗しき美人に遇いき。爾くして、

「誰が女ぞ」

と問いき。答えて、


「大山津見の~の女、名は~阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂う」

と白しき。また、

「汝、兄弟有りや」

と問いき。答えて、

「我が姉、石長比賣(いわながひめ)在り」

と白しき。 爾くして、

「吾は汝と目合(みあ)わんと欲う。奈何に」

と詔りき。答えて、

「僕は白すことを得ず。僕が父、大山津見の~、將に白すべし」

と白しき。故、其の父の大山津見の~に乞い遣りし時に、大きに歡喜びて其の姉の石長比賣を副(そ)えて、百取(ももとり)の机代の物を持たしめて奉り出だしき。故、爾くして其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟の木花之佐久夜毘賣を留めて一宿、婚爲き。爾くして大山津見の~、石長比賣を返ししに因りて大きに恥じて白し送りて、

「我(あれ)の女、二並(ふたりとも)に立て奉りし由は、石長比賣を使わさば、天つ~の御子の命、雪零り風吹くと雖も、恆に石の如くして、常わに、堅わに動かず坐さん、また木花之佐久夜毘賣を使わさば、木の花の榮ゆるが如く榮え坐さんと宇氣比弖(うけいて)貢進(たてまつ)りき。此く石長比賣を返らしめて、獨り木花之佐久夜毘賣を留むる。故に天つ~の御子の御壽(みいのち)は木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さん」

と言いき。故、是を以ちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等の御命(みいのち)は長くあらぬ也。


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豊玉姫は妊娠し、天津神の御子は海の中で生んではならないと地上へやってきた。そして渚に鵜の羽を茅葺(かやぶき)にした産屋を建ててくれと山幸彦に頼み、異郷の者が出産するときには、すべて元の国の姿になるので、出産現場を見ないでくれと頼む。山幸彦は見ないと約束するが、心配と好奇心で産屋を覗いてしまう。そこに居たのは、八尋(やひろ)ワニの姿に戻った豊玉姫がいた。驚く山幸彦に、約束を破って姿を見られたからにはもうここにはいられないと豊玉姫は、我が子ウカヤフキアヘズノミコトの世話を、妹である玉依姫神に託すと単身海の国へと戻っていった。


山幸彦ことホヲリノミコト(火遠理命)は、日向で580年生き、高千穂の山の西に葬られた。ホヲリノミコトの子、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)は、やがておばの玉依姫神と結ばれ、イツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)が生まれた。ワカミケヌノミコトの別名は、カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼昆古命)と言った。

ミケヌノミコトは常世国へ行き、イナヒノミコトは母のいる海原に入った。


故、後に木花之佐久夜毘賣、參い出でて、

「妾(あれ)は妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、是れ天つ~の御子にして、私(わたくし)に産むべきにあらぬが故に請(もう)す」

と白しき。爾くして、

「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める。是れ我が子に非ず。必ず國つ~の子ならん」

と詔りき。爾くして答えて、

「吾が妊(はら)める子、若し國つ~の子ならば、産むこと幸くあらず。若し天つ~の御子ならば幸くあらん」

と白して、即ち戸の無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞(ふさ)ぎて、方(まさ)に産まんとする時に火を以ちて其の殿に著(つ)けて産む也。 故、其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命【此は隼人(はやと)の阿多(あた)の君の祖(おや)】。 

次に生める子の名は、火須勢理(ほすせり)の命【須勢理の三字は音を以ちてす】。 

次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見(あまつひたかひこほほでみ)の命【三つ柱】。

(略)

是に海の~の女、豐玉毘賣の命、自ら參い出でて、

「妾(あれ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今産む時に臨みて此(これ)を念(おも)うに、天つ~の御子を海原に生むべくあらず。故、參い出で到れる也」と白しき。爾くして即 ち其の海邊の波限(なぎさ)に鵜の羽以ちて葺草と爲て産殿を造りき。

是に其の産殿の未だ葺き合えぬに御腹の急(にわ)かなるに忍(た)えず。故、産殿(うぶや)に入り坐しき。爾くして將方(まさ)に産まんとする時に其の日子に白して、「凡そ他(あた)し國の人は産む時に臨みて本(もと)つ國の形を以ちて産生(う)むぞ。故、妾(あれ)今本の身を以ちて産まんと爲(す)。願う妾を見る勿(なか)れ」


と言いき。是に其の言(こと)を奇しと思いて竊かに其の方(まさ)に産まんとするを伺えば、八尋和邇(やひろわに)と化りて匍匐(はらば)い委蛇(もごよ)いき。

即ち見驚き畏みて遁(に)げ退(そ)きき。爾くして豐玉毘賣の命、其の伺い見る事を知りて心恥(はずか)しと以爲(おも)いて、乃ち其の御子を生み置きて、

「妾は恆に海の道を通りて往來(かよ)わんと欲(おも)う。然れども吾が形を伺い見ること、是れ甚(いと)(はずか)し」

と白して、即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて返り入りき。

是を以ちて其の産める御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)の命と謂う。然くして後は、其の伺いし情(こころ)を恨むと雖ども戀(こ)うる心に忍(た)えずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌を獻(たてまつ)りき。 

(略)

故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命は、高千穗の宮に坐(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)。御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山の西に在り。是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命、其の姨(おば)の玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、五瀬(いつせ)の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛沼(みけぬ)の命。

次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命、またの名は~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命【四つ柱】。故、御毛沼の命は浪の穗を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は妣(はは)の國と爲(し)て海原に入り坐しき。


古代、南九州には隼人と呼ばれる一族がいた。山幸彦に降伏した海幸彦は、溺れたときの所作を演じ、ふんどしをつけ顔や手足を赤く塗り、俳優の技をして弟を慰めたといい、そして、この子孫が隼人であるといわれる。海幸・山幸神話は、皇孫である山幸彦に隼人の祖である海幸彦が服従するという、隼人の朝廷への服従起源でもある。この話は、もともと南九州にいた隼人族の伝承であったといわれており、その伝えていた芸能隼人舞の由来話という形で、その首長の前で演じられていたのではないかといわれている。猟具の交換を発端とする海底国への訪問、失った釣針などに類似する話としては、喜界島の「竜神と釣縄」という話があり、そのほか、パラオ等、インドネシアからミクロネシアにかけて類似した話が語られている。


日向国が、現実の南九州の日向であったかどうかについても色々な議論がなされている。日向とは現在の宮崎県ばかりでなく、大隈と薩摩を含んだ地域であるとすると、それは隼人族の住む未開の地でもあるので、皇室の祖先はそうした未開の地は原郷にしないという説もあるし、日向とは単なる「太陽の照らす聖地」という意味にすぎないという説もある。そもそも邪馬台国問題と同じで、或いはそれ以上に情報量は少ないので、神話や民俗学に興味がある者なら、いかようにも解釈できることになる。

日向三代の神話が全て隼人族の伝承だったとすると、「コノハナサクヤヒメの神話」「海幸山幸の話」も同じくインドネシア、ミクロネシアに類似した神話が多くあるので、隼人族そのものも南方種族ではないかとする説もあり、かなり有力視されている。しかし、日向三代神話が隼人の伝承であったとすると、これを大和朝廷が皇室の神話系譜の中に取り入れたのは何故なのか、またいつごろなのかという問題が残る。

北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたのだと解釈すれば、宮崎に残る西都原古墳群やこの神話の持つ意味も理解できる。日向に三代も住めば、そこが地理的に日本列島の統治にとって都合のいい場所ではないと判明したかもしれないし、もっと実りの多い、稲作に都合の良い平野を抱えた地方が東にあるという情報も、派遣した先兵や偵察隊が報告していたかもしれない。実際に、後に神武天皇と呼ばれる人物が東を目指して旅だった可能性も高いが、私が邪馬台国東遷説にいまだ同意できないのは、もし、高天原=北九州、天照大神=卑弥呼だとすると、その後の邪馬台国はどうなったのかという疑問が未だに解けないからでもある。邪馬台国から日向へ降りてきたニニギは日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。


3.神武東遷


初代の天皇である神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日向国に天下りした邇邇芸命(ニニギのみこと)の曾孫にあたる。神武の時期から人代で、それ以前は神代とされる。神武の一族は、日向国高千穂宮に住んでいたが、兄のイツセノミコトと共に、東国に豊かな土地を求めて移住を始め、豊国宇佐足一騰宮(あしひとつあがりのみや:

大分県宇佐市)、竺紫岡田宮(福岡県遠賀川河口)、阿岐国多祁理宮(たけりのみや:広島県府中町)、吉備高嶋宮 (岡山市高島)、青雲の白肩津(東大阪市日下町)、紀国男水門(大阪府泉南郡樽井町)、熊野村(和歌山県新宮町)、吉野の川尻(奈良県吉野郡)を経て、宇田(奈良県宇陀郡)へ到着した。

岡田宮に一年、多祁理宮に七年、高島宮には八年も滞在したとされる。瀬戸内海を渡った神武は、難波の津で長髄彦に抵抗され、兄・五瀬命を失うが、和歌山の大台ヶ原から大和に入り、長髄彦を破って大和の平定に成功し、辛酉年春正月一日に、橿原宮で即位し、百廿七歳で、橿原宮にて死んだ。


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宇佐に行く前、二人は速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で亀の甲羅に乗って釣をしている人間を見つける。お前は誰かと尋ねると国つ神だといい、海路をよく知っているというので案内人とし、サヲツネヒコ(棹根津日子)という名をあたえる。

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  一行は難波に上陸するが、登美(奈良市富雄町)の豪族、ナガスネビコ(那賀須泥昆古)が軍勢を率いて攻めてきた。戦闘はナガスネヒコが優勢で、イツセノミコトも敵の矢を受ける。イハレビコは

「日の神の御子である我々が、日に向かって攻め入ったのが良くなかった」

として、日を背にして敵を撃とうと紀州沖を南下し熊野から内陸をめざすが、兄のイツセノミコトは船上で絶命してしまった。今、イツセノミコトの御陵が紀伊の国の竈山にある。

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イハレビコは、和歌山から南に回って、熊野村に到着したが、大きな熊に出会い、やがて一行の兵士達は突然気を失い、次々に倒れ伏す。そのとき一振りの太刀をもった男が現れ、イハレビコに剣を献上した。この太刀で、イハレビコは熊野の山の荒ぶる神を退治した。この時剣を献上したタカクラジ(高倉下)が、イハレビコに剣を渡した訳を説明する。

夢をみて、夢にアマテラスとタカギノカミが現れ、二人は、タケミカヅチ神を呼び寄せて

『葦原中国はひどく騒然としており、我が御子たちは病み悩んでいるようだ。かの国はそなたが服従させた国なのだから、もう一度そなたがいって御子たちを助けてこい。』

と。タケミカヅチは、

『私が降らなくても、かの国を平定した太刀がありますから、このサジフツノカミ(佐士布都神)を降しましょう』

と、タカクラジが授かって届けに来たのだという。さらにタカクラジは、夢の中で、タカギノカミからの伝言を預かっていると言う。

「荒れすさぶ神がたくさんいるから、天つ神の御子をこれ以上奥に行かせてはならない。」

「今、天上からヤタガラス(八咫烏)を遣わそう。そして、そのヤカガラスが先導するので、その後についていくように。」

ヤタガラスの後を追いながら吉野川の川下にたどりついたカムヤマトイハレビコは、魚をとっている人物に出会った。 さらに進むと、井戸から尾の生えた人物に出会った。さらに、山に入ると尾の生えた人物が岩を押し分けで出てきた。それぞれ、天津神の御子が来るというので、出迎えにきた国つ神だった。そして、奈良県の宇陀という場所にたどりついた。タケミカヅチから授かったこの霊剣、サジフツノカミは別名、フツノミタマ(布都御魂)といい、現在石上神宮に鎮座している。


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これが神武東征神話の概略である。戦前は史実として流布され、戦後は一転して全面的に否定された。辛酉年は紀元前660年にあたり、1月1日は太陽暦の2月11日にあたるとされる。神武天皇は、なぜ辛酉年に即位したと考えられたのだろうか。中国人の革命思想は、天地を支配する天帝は、人民の中から仁の心に富んだ男を選び、愚民を支配する権力を委任する。

天子は道徳的な力に満ちた男であるが、その権力を譲られた子孫はそうとは限らない。人民を痛めつける天子は、もはや天子ではなく、新たに自分が天子だと自覚する男が、これを殺すことが正当化される。これを革命(革令)といい、このうち、辛酉年には新しい王朝が建てられるという。ただし、60年ごとの辛酉年ではなく、60年の21倍の1260年ごとの辛酉年である。600年代はじめ、推古天皇の摂政だった聖徳太子を責任者として、国史の編纂が行われた。西暦601年が辛酉年であり、ここから1260年さかのぼった紀元前660年が、神武天皇の即位の年と計算され、日本書紀にも引き継がれたのである。神武天皇は、紀元前660年の人物であり、この時期は縄文時代とされているから、とても実在の人物とはいえない。産能大教授の安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を示しているのである。


ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。

これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という私の史観と合致する。わたしはこの「神武東遷」に象徴される、九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、まだわからない。

だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的である。


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古事記・日本書紀に書かれている天孫降臨や神武東遷伝承が、大和朝廷の役人達によって机上で述作されたものであるという考え方は、全くの想像である。記紀が編纂されてから今日まで、そういう事を書いてある古文献は1点も存在しない。それを、述作されたものであるとか、創作されたものだとする考えは、完璧に主観的判断に基づいて、歴史をねつ造しているのと同じである。

歴史学者・考古学者たちの第二次世界大戦における敗戦のショックと、戦前・戦中を通じて、強権に確執を醸せなかった自らの贖罪を求める気持ちはよく理解できる。同胞が、戦時中に近隣諸国に対して行った行為に対して、それらの国々に対する謝罪の念も持って良い。しかし、そういったイデオロギーと学問の世界における真理の追究とは全く別物であるということに、もうそろそろ気づいても良い頃だ。古事記・日本書紀という、我が国最古の歴史書に書かれ、また多くの伝承を持ち、長きにわたって多くの研究がなされてきたこれらの日本神話が、戦後50数年間にわたって、歴史家によって殆ど無視され、語られもしなかった事実は全く異常としかいいようがない。教科書にも載せず、読み物にも書かれない今の現状では、やがて日本人は、自分たちの祖先が語った多くの神話と、その中にもしかしたら潜んでいるかもしれない歴史の核を、まるで理解できない、世界でも希有な民族になってしまう。


私は古代史を学んで、日本国家の成立を探り、天皇家の起源を探り、ひいては自分が誰なのかを探ろうとしている。それには、掛ければ色や形が変わって見えてしまう、イデオロギーというサングラスだけは絶対に掛けたくないと思う。
http://inoues.net/yamahonpen10.html



http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c17

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
18. 中川隆[-13733] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:00:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

八咫鏡とアマテラスの墓


糸島郡の平原遺跡 2014-11-02


平原遺跡 :糸島郡前原町平原

昭和40年糸島郡前原町平原(当時、現在は平原市)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。

偶然の発見であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された。結果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原田大六は、2世紀中頃であるとしている。

遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。

この遺跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出土数としては我が国最多であった。

又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡であった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓だと想定している。

平成2年には、平原方形周溝墓出土品が国の重要文化財に。さらに、平成18年には国宝に指定されました。

副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されていて、銅鏡のなかには日本最大級の直径46.5cmの内行花文鏡が5枚ありました。ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一。

副葬品にネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多いことから、この墓に葬られた人物は女性で、特に超人的な力を持った女性ということで、卑弥呼の墓という説もあるほどです。


1号墓出土品(国宝)

大型内行花文鏡 4面(5面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、仿製鏡(日本製)、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡である。

内行花文鏡(内行花文四葉鏡) 2面

方格規矩鏡 32面、(鋸歯文縁方格規矩四神鏡が23面、流雲文縁方格規矩四神鏡が9面)

四螭文鏡 1面

メノウ製管玉 12個
ガラス製(瑪瑙:めのう)勾玉(くだたま) 3個、ガラス丸玉 約500個
ガラス小玉 一括(約500)
ガラス管玉 一括(30以上)
ガラス連玉 一括(約886)
耳璫(じとう、耳珠)3
素環頭大刀 1振
鉄鏃10
鉄やりがんな1
鉄のみ1
鉄斧1

 日本一大きな国産の内行花文八葉鏡四枚について、考古学者故原田大六(だいろく)はその図抜けた大きさと特異文様とが、伊勢神宮に関する種々の史料から内宮の御神体である八咫鏡( や たのかがみ)と同じものではないかと推察し、次のように述べている(『実在した神話』、学生社)。

「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

 森浩一氏も、この原田説を支持され、

「原田氏の生涯をかけての、この重要な研究が基本において修正を要しないとすれば、八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされたということになる」

と述べておられる(『日本神話の考古学』)。


 豊玉姫−玉依姫−イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう玉依姫ということになる。

その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、

「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」

とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。 

 その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。


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原田先生の報告書は『平原弥生古墳 大日霊貴の墓』

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。


tokyoblog April 2015 八咫の鏡

「咫(た)」とは円周の長さの単位で、1咫=8寸、直径2.5寸の円周(円周率3.2)とされている。
八咫鏡とは直径2尺、46センチの鏡という事になる。

平原遺跡からは、まさに直径46センチの国内出土最大の鏡が4枚出土している。御統は勾玉や管玉などを緒に通して首飾りにしたもので、五百箇の御統とは、珠が五百箇ある首飾りという事になる。平原遺跡出土の首飾りを写真で数えてみると約470個の珠があった
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E9%83%A1%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%81/

平原遺跡(ひらばるいせき)は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡。 曽根遺跡群の一つとして、昭和57年10月、国の史跡に指定。平成12年10月追加指定。

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63〜平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。

1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。


1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出されている。

その1号墓の副葬品の中には日本製と中国製の破砕した銅鏡片が多数あった。これらの破片は当初、39面分に復元されていた。

その後の調査の結果、従来4面に復元されていた直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡の破片が実は5面分の破片の可能性があると指摘された。(前原市調査報告書)。このうち1面が九州国立博物館、4面が伊都国歴史博物館に展示されている。

1990年の重要文化財指定時には、銅鏡の員数は39面分とされていたが、上述の調査結果をふまえ、2006年の国宝指定時の官報告示では、銅鏡の員数は40面分となっている[1]。この数は1つの墳墓から出土した銅鏡の枚数としては日本最多である(2009年現在)。

なお直径46.5センチメートルの鏡の外周は鏡の円周の単位で八咫(やあた)あることから、八咫鏡と同じ大きさになる。

この副葬された多数の銅鏡片は「人為的に破砕されたモノではない」と発掘責任者の原田大六は主張している[2]。

学術調査時に、2〜5号墓からは青銅器類の遺物は発見されず、出土した土器や石器類などから弥生時代後期の墓と推定された。5号墓から発見されたとする銅鏡の鈕部分2個は、この破片が土中から発見されたことから5号墓の発見に繋がっていることによる。


主な出土品

1号墓大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
耳璫 3破片
素環頭大刀 1


国宝指定名称は以下のとおり。

福岡県平原方形周溝墓出土品 銅鏡 40面分
玉類 一括
鉄素環頭大刀 1口
附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

5号墓銅鏡片 2


1号墓から出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を、その文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示している[5]。『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。

1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)[6]などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 原田大六はこの平原1号墓の主を玉依ヒメとし、大日孁貴であるという説を提示している[5]。

1号墓の東南にある直径約70センチメートルの縦穴を、発掘調査した原田大六は、湧水の存在から井戸として報告している。この縦穴を「前原市報告書」は大柱跡(穴中の土壌成分未調査)として、墓から見て東南の日向峠の方角に位置していることから、この大柱跡は太陽信仰に関係するものとの説を提示している。

墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六は「銅鐸や弥生式土器などの絵画に見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としている[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1

2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生  伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

1.伊都国と邪馬台国  柳田康雄先生

私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。

平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。

今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。

■ 弥生時代のクニと国の出現

弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。

現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。

そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。

銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15〜16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。

弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。

少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8〜10個出土した甕棺が出現する。

福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。

比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。

弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。

これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。

三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。


2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。

なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。

井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。


最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。

九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。

このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

■ 平原遺跡

平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。

王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。

王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。

鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。

棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。

10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。

墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。

頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。

墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。

出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。

この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。

また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。

しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。

また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。

つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。

平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。

平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。

耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。

耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。

平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。

平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。

右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。

平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。

三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。

ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。

伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。

■ 弥生終末から古墳時代

福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。

このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。

弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。

この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。

北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。

近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。

近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。

近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。

弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。

考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。

平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。


2.柳田先生の論点                             安本美典先生

邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。

■ 考えの一致する部分と異なる部分

柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。

また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。

邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。

いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。

北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。

骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。

■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について

洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。

下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。

平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。

奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147〜160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。

柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。

ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。


3.対談                         柳田康雄先生 VS 安本美典先生

■ 平原遺跡について

安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?

柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。

安本:女性の墓か?

柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。

また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。

■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現

安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?

柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。

■ 庄内式土器

安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?

柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。

庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。

九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

■ ホケノ山古墳

安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留T式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?

『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。

柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。

一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。

また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。

ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

■ 三種の神器

安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?

柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?

安本:璧という字は下に玉がついているので・・・

柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)

璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。

東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm


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[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
19. 中川隆[-13732] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:02:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]
古代史の鍵・丹後 籠神社
太陽信仰もつ海人集団の拠点

「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。

 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。


浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。


 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/


京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。


古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。


もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。


丹後半島の古墳公園(加悦町)


倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html

十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)


布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。


十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D



▲△▽▼

神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html

奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm



http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c19

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
20. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:05:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

巫女(みこ/シャーマン)
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/

御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

◆【性文化史関係一覧リスト】
http://miracle-jiyoudan.com/seibunka_yougo.html

をご利用下さい。

この文章は、

小論・【遊女(女郎)の歴史】
http://miracle-jiyoudan.com/yuuzyonorekisi.html


の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/


▲△▽▼


そもそも巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。

ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

 幼蛇を生むこと。

 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595


何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。 神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。

実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。 一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。

おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。

とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html




http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c20

[経世済民129] ゴーン逮捕「司法取引」で露呈、時代に逆行した日産経営体制の問題点 中島経営法律事務所・中島茂弁護士に聞く(ダイヤモンド) 赤かぶ
1. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:32:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]

カルロス・ゴーンは所得税をゼロにする為に世界各地の日産所有豪邸を転々としていた
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/333.html


http://www.asyura2.com/18/hasan129/msg/673.html#c1

[昼休み54] ゴーン逮捕で仏マクロンの謀略を潰した日本政府 中川隆
54. 中川隆[-13729] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:37:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460]
ゴーン逮捕「司法取引」で露呈、時代に逆行した日産経営体制の問題点 中島経営法律事務所・中島茂弁護士に聞く
https://diamond.jp/articles/-/186884
2018.11.30 ダイヤモンド・オンライン編集部 


日産自動車のカルロス・ゴーン元会長が「巨額報酬の虚偽記載」によって逮捕されてから早くも10日が経過。今回活用された「司法取引」が世の注目を集め、自社の社員による「司法取引」の活用を懸念する企業経営者も少なくないはずだ。そこで、中島経営法律事務所の中島茂弁護士が企業法務の専門家としての立場から一連のゴーン報酬虚偽記載問題の分析とともに、司法取引が当たり前になる時代の経営に必要な考え方を聞いた。(聞き手/ダイヤモンド・オンライン編集部 林恭子)

日産は「報酬虚偽記載」以外でも
司法取引が行われておかしくない状態


――今年6月から「司法取引」が導入され、今回のゴーン氏の逮捕で二例目の適用といわれています。今回の司法取引を活用した立件をどう評価しますか?また、司法取引の活用により、日産のどのような問題が浮き彫りになったでしょうか。

 今回の事件では、「司法取引」が本来の趣旨にのっとって機能したと評価しています。カギになったのは、日産の「複数の執行役員」が司法取引に応じ、情報提供した点でしょう。

 司法取引は、企業や組織の犯罪捜査において「巨悪を捕まえる」ことを目的に、今年6月から施行されたものです。一例目となった三菱日立パワーシステムズの事例では、タイの火力発電所建設に絡み現地公務員に賄賂を提供していた元経営幹部が起訴された一方で、法人は起訴を免れ、“とかげのしっぽ切り”のような印象が残りました。しかし今回は、法務やコンプライアンスの担当者を含む複数の執行役員からの情報提供を得て経営トップを立件したと報じられており、本来の目的に合致したものだったと思います。

 またこの事件は、日産の「ガバナンス」にも問題を投げかけた重要な事案だと考えています。今回、司法取引に応じた複数の執行役員が上層部に命じられて虚偽記載を行ったことが明らかになりましたが、執行役員は会社の執行部門のトップであり、幹部です。その複数の幹部が行っていた事実を、取締役会、監査役会、会計監査人は知らなかったのでしょうか。

 そもそも、1億円以上の役員報酬を個別開示する制度が始まった2010年までゴーン氏の年俸は20億円前後だったとされていますが、1億円以上の開示が始まってからは急に年俸が10億円前後と記載されていました。経営陣は素朴に不思議に思わなかったのでしょうか。いくらゴーン氏に権力が一極集中していたとはいえ、社内の人間が見れば、本来は疑問を持つはずです。

 腹心の部下だけが覆面部隊として動いていたならまだしも、複数の執行役員が行っていることを取締役会が知らなかったとしたら、会社のガバナンスが機能していなかった証拠。つまり、“知らぬはボード(取締役会)ばかり”という状態だったわけでしょう。

 日産では社外取締役がずっと1人の体制で、指名委員会や報酬委員会がないことが今回の報道でも指摘されています。監査役設置会社の4割近くが、任意で指名委員会、報酬委員会や社外取締役を置いているという流れと逆行していたのは明らかです。

 日産は「無資格検査」でも大きな問題になりましたが、そのときの構図と今回の問題は非常に似ています。無資格検査の問題が明らかになった際の報道では、無資格者が有資格者の判子を有資格者の立ち合いなしで利用できる仕組みにするなど、組織的に不正が行われたと報じられています。

 現場で違法行為を組織的に行っていたにもかかわらず、経営陣は本当に知らなかったのでしょうか。その後、排ガスや燃費データの改ざんなども相次いで発覚しましたが、日産はどこで司法取引が起きてもおかしくないような会社の風土になってしまっていたといえます。

――今回の問題では大きな成果を上げていますが、そもそも日本で「司法取引」の制度が導入された背景を教えてください。

 先ほども述べましたが、司法取引は比較的軽微な罪を許してでも「巨悪」を捕まえて、世の中を良くしたほうがいいという考えから導入されたものです。

 この制度が欧米にはありながら日本になかったのは、「因果応報」、つまり悪いことをした人はそれ相応の報いを受けなければならないという文化が日本に根強くあったからです。以前は、司法の世界では「取引」という言葉自体に拒絶反応がありましたが、いつまでも企業の不祥事がなくならない流れを受け、「世の中を良くするという目的が達成されるなら」という現実的なものの考え方へと変わってきたと考えられます。

 また、報道によると、今回の事件で司法取引に応じたなかには外国人執行役員が含まれていると言われており、司法取引を文化として理解していた人ではないかと推測されます。実際、捜査当局の司法取引合意においても弁護士のアドバイスをもらって行っており、十分に体制を整えてから実行に移していたことがわかります。

 司法取引は6月に施行されたわけですが、日産の問題がターニングポイントになって、今後は自身の刑事罰を減免してもらうことで、会社やトップの巨悪を告発、情報提供していく動きが出てくることになるでしょう。

司法取引によって立件されれば、
企業のダメージは計り知れない

――今後、司法取引が増加していく可能性があるなかで、企業はどのような対策を取るべきでしょうか。

 そもそも司法取引に応じられたら困るような違法行為、不適切行為をすること自体が問題です。今、日本企業の多くが関心を持っているのは、内部告発です。最近起きている企業不祥事の大半が内部告発で発覚しています。つまり、内部告発をされたら困るような経営をしてはいけないのです。

 これまでは、内部告発を受けた後に取締当局が事件を立件し、摘発していく際に、情報不足が悩みの種になっていましたが、今後は司法取引を活用して情報を得られるようになります。そうなれば、不正を行っている企業のダメージはこれまで以上に大きくなるでしょう。経営者は内部統制、危機管理体制に今まで以上に真剣に取り組まなければなりません。 

 私も企業の社外取締役などをしていて感じるのは、社内の「情報流通」の問題です。今回の問題が象徴していますが、普段からざっくばらんにお互いに意思疎通ができていないからこそ、問題が起こるのです。取締役会や監査役会や会計監査人が執行部門の人々、現場の人々と十分な意思疎通をするのは、大変な努力が必要です。

 取締役会などモニタリング部門の人たちは、「執行部門と意思疎通はしていた」と回答すると思いますが、たいていは、質問状が出て、回答が準備され、かしこまって報告をするというものでしょう。それでは形式的な意思疎通にとどまり、本質的な情報は得られません。「パソコン上の業務記録はこうだけど、実際はどう?」「それが、実のところ、こうなんですよ…」といった、具体的な意思疎通がないと、本当の実態がわからないのです。取締役会や監査役などへの報告も「業務部長報告会」といったような堅苦しいネーミングではなく、「懇談会」のようにして、日頃からざっくばらんに情報交換、意見交換ができる場にしていくことが大切でしょう。

「巨額報酬の虚偽記載」は形式犯ではない
懲役10年以下の非常に重い“詐欺罪”

――今回、ゴーン氏の役員報酬を有価証券報告書に過少に記載した件に関して、立件しやすいがゆえの“形式犯”ではないかという報道も相次いでいます。法律的な観点から見て、本当に形式犯と言っていいのでしょうか?

 確かに有価証券報告書の虚偽記載は“形式犯”だという意見がありますが、それはとんでもない話です。

「株主」は会社という箱を通じて経営陣に経営を委託している立場、いわば経営陣を雇っている立場にあります。雇い主である株主が、「自分たちは経営陣にいくら報酬を支払っているんだっけ?」と知りたいのは本質的なことです。ところが、経営陣は「プライバシーだ」といって、なかなか報酬額を開示しない。「経営陣の総額ならなんとか開示します」となってきたわけです。

 そこで、雇い主である株主側とプライバシーを主張する経営陣側の妥協点として、2010年に「1億円以上なら個別開示しよう」となったのです。その数字を「10億円」としていたところが、実は「20億円」であり、もし偽りを書いていたなら、受託者としてあるまじき騙し行為です。

 また、その会社の株を「買おうかな」と考えている一般投資家にとって、株の価値を推し量る唯一の公的情報は有価証券報告書です。なかでも経営陣がどのくらいの報酬をもらっているのかは重要な情報です。「あの活躍ぶりで10億円なら、納得できるな」と思って株を買うわけです。そこに嘘が書いてあったなら、投資家は騙されて株を買ったことになります。これは、広い意味で、詐欺だと思います。

 金融商品取引法は、有価証券報告書の虚偽記載に対して「10年以下の懲役」という、とても重い刑罰を定めています。株主や一般投資家を騙す罪だと理解していただくと、この刑事罰の重さの意味を分かっていただけると思います。詐欺罪も同じく「10年以下の懲役」と定められていますが、立法者の考え方が推し量られます。

 それにもかかわらず、世の中で「有価証券報告書の虚偽記載」が重大な問題と受け止められないのは、ネーミングの難しさにもあるかもしれません。今回をいい機会として、有価証券報告書のネーミングを工夫して、「株式情報虚偽罪」とか、わかりやすい言葉にしてもいいかもしれません。

 これから高齢化がすすみ、自分の虎の子の財産を株式で運用しようかと考える人もますます増えるでしょう。そうしたときに、嘘だらけの「有価証券報告書」を世の中に公開するのはとんでもないこと。「上場」とは本来神聖なものであり、上場している企業の責任は重いのです。そのことを経営陣には自覚していただきたいと思います。
http://www.asyura2.com/17/lunchbreak54/msg/323.html#c54

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
21. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:49:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463]

神社は支配の道具か、縄文の残存か
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html

第3回は神社を扱います。

神社といえば日本古来から存在していたように殆どの人は思われているでしょうが、神社の本質は渡来人が土着縄文人や混血した弥生人を支配する手法であり税を徴収する役所機関です。また神社は地域と密着し、一部には裏情報を収集する諜報機関としても存在していました。そんな神社がなぜ縄文体質の史的足跡になるのか?そこに絞って言及してみます。

やはりどうしても触れておきたいのが神社が作り出す環境です。或いはどのような環境に神社が存在しているかです。

全ての神社に大小あるのでしょうが、最も特徴的なのが三輪山を抱える大神大社です。日本最古と言われる三輪神社は鳥居こそありますが、境内は山そのもので、人々は山に向って拝み、祈ります。

今でも三輪山は神社の所有地で山に存在する木も石も土も持ち出すことは禁じられています。倒木も腐って土に帰るまで何十年も重ねて放置されています。山の全てに神が宿っているからです。神社とはその始まりにおいて縄文人が持っているアニミズムを取り込み、形にしたのです。例えそれが渡来人の意図であっても、逆に言えば渡来人が縄文人に同化する上でアニミズム信仰は進んで取り込み、縄文人もまた渡来人を神社を通じて渡来人を巻き込んでいったという見方もできるかもしれません。

この三輪山と同様の古代の神社は各地に大和時代〜奈良時代にかけて多く作られていきます。その代表が、出雲大社、伊勢神宮、諏訪大社です。いずれも巨木と深い森の中に存在しています。

もう一つは縄文の性です。渡来人は縄文人と婚姻、混血する際に神社を使ったと言われています。

それが巫女であり、誓約の儀式です。縄文が性を肯定視していた事と、神社を仕切る巫女、これらが大量の渡来人を受け入れながら縄文体質を残し続けた象徴的な儀式と言えるかもしれません。


アニミズム(精霊信仰)の歴史@

アニミズムが神社に発展した事例を紹介したい。

後のヤマト政権の時代になって、大己貴神などの「国津神」が加えられ主な祭神となる

・奈良県の三輪山 ⇒ 大神神社(おおみわじんじゃ)
・滋賀県の山の神・大山咋神信仰 ⇒ 日吉大社(ひえたいしゃ)
・島根県の磐座信仰 ⇒ 出雲大社
・長野県の土着の神々(蛇神、木霊など) ⇒ 諏訪大社(すわたいしゃ)
・埼玉県見沼の水神 ⇒ 氷川神社(ひかわじんじゃ)
・神奈川県の神山(駒ケ岳山頂) ⇒ 箱根神社
・長野県の地主神・九頭龍信仰 ⇒ 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
・富士山の神霊信仰 ⇒ 富士山本宮浅間大社
・島根県の火を祀る信仰 ⇒ 熊野大社
・和歌山県熊野地方の太陽神、水神、木神 ⇒ 熊野本宮大社
・奈良県吉野の水神信仰 ⇒ 丹生川上神社(上社、中社、下社)


名だたる古社のルーツは、ほぼ全てがアニミズムです。
これらの古社は、次のヤマト政権になってから「神社」化されていくようになります。


古代日本の月信仰と蛇信仰、その変遷

■日本古代の祭り

日本の古代の祭りは、概ね二つの類型があるようである。
一つは男女の祖霊神としての蛇を何らかの方法で現出させる様式。例えば藁や縄で作られた蛇を祀る等。現在も豊年祭で使われる雄綱、雌綱はその好例である。もう一つは男祖霊神である蛇と巫女との交合により巫女が神を身ごもり、籠もり(こもり)の儀礼の後、神として現出する様式である。つまり蛇との交合、受胎、出産を儀礼化させたものである。この場合、概ね男根と蛇の象徴として蔓の絡まる御神木や、山を蛇がとぐろを巻いている姿を蛇に見立てているものが多く、こちらの祭りが多数を占めていた。

これらは満月の夜に行われていたとされる。

実際神社の出来る前の古神道に於いては、蛇や山そのものをご神体としているものが多い。

例えば三輪山(大神神社)、出雲の佐上神社(神事で海蛇を奉納する)、諏訪大社(冬眠中の蛇を奉納する)等が上げられる。

また 物部氏は日本における強力な蛇信仰の担い手であったと推測され、物部氏の子の天語山(あめのかごやま)命(のみこと)は別名、高倉下(たかくらじ)と呼ばれた。この高倉とは高床式の倉であって、倉は富の象徴であった。高倉は鼠害から穀類を守る設備なので、そこには鼠の天敵としての蛇、あるいは蛇を象徴する蛇行剣が祀られていた。蛇が祀られている倉は、その意味でも住居の守護神的存在となるが、これらの理由から、穀倉が神社の起源になっていったようである。


諏訪と縄文 〜なぜ諏訪が人々を惹きつけるのか

諏訪を今日まで縄文的な聖地として確定させたのは諏訪大社の存在です。この大社は数ある日本の神社の中でも最古と言われており、建立時期もあきらかになっていません。

おそらくは弥生時代前期〜中期、紀元前200年〜紀元後100年くらいの時期に一番旧い社屋ができていると言われています。大社と言われる神社はおそらく縄文人と弥生人との合作、原点の神社です。諏訪大社は中国から渡来した出雲族が土着の諏訪人と融合し、作り上げた神社と言われています。諏訪大社には4つの神社が諏訪湖を囲むように存在していますが、各神社は御柱4本が神社の4隅に建てられ、杉の柱で囲まれた領域を聖なる地として領域付けられているのです。

さらにこの御柱を7年毎に新しい柱に交換する、御柱祭りは現在も活き続けています。

2010年には3人の死者を出しながらも現在も続けられる御柱祭り。

現在でも諏訪に在住の普通の人々が祭りを作り運営している。諏訪の人々は7年に一度のこの祭りの為に生きているというくらい、祭りは人々の生活に入り込み、祭りを中心に多くの民が暮らしているのです。祭りと言えば祇園、ねぶた、天神など大きなものは日本中にたくさんありますが、この縄文由来の祭りが今もほとんど変わらず行われている、そんな地は他にはありません。


【誓約(うけい)】

この国には、二千年の永きに渡り特殊な性文化が存在した。

元を正すと、縄文末期に日本列島に数多くの征服部族が渡来して縄文人(原住民・/エミシ族)を征服し、それぞれが土地を占有して小国家を打ち立てた。

その征服部族の出身が、中国大陸から朝鮮半島に到る極めて広域だった事から、被征服者の縄文人(原住民・/エミシ族)を含めそれぞれが対立したこの環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。

その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成されたその事情が、仲間として和合する為の誓約(うけい)の性交を産みだしたのである。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々(それぞれ)に部族集団を多数形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

(中略)

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。

それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。

「誓約(うけい)」とは、一義的には性交を伴う現実的和解であり、結果的に両部族(両民族)の子孫が融合して新たな部族(民族)を創造する事である。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html

▲△▽▼

東漢氏の遺産・「祓いの神道」


梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言っている。詳しくは「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んでほしいが、その要点のみここに紹介しておこう。梅原猛は、次のように述べている。すなわち、

『 平城遷都とともに、まさに、飛鳥の時代は完全に終焉を遂げるのである。後に、東漢氏の中にただ一氏、坂上氏が栄えたが、それは、武人・坂上田村麻呂を出現せしめたことによってである。東漢氏は、文化的指導力を失って、武人として生き残ったのである。(岩井國臣の注:梅原猛は丹波康頼に眼がいっていないのは残念である。阿知王の子孫は、坂上氏と丹波氏がずっと歴史を通じて文化的指導力を発揮したのである。丹波氏のこと、医心方のことを忘れてはならない。)』

『 こうして、飛鳥はと遠くなったが、私は、不比等、というより藤原氏は、東漢氏から実に重要なものを受け継いでいると思う。それは、「祓いの神道」である。われわれはふつう日本の神道というと、祓いのことを考えるが、祓いは、けっして昔から日本の神道の中心的行事ではなかった。』

『「大宝令」の施行とともに、この祓いの行事は、もっとも重要な国家の神事の一つになったのである。この定例の祓いの神事に、東漢氏は西漢氏とともに重要な役割を演じるのである。』

『 まず、東西の漢氏によって祓いが行われ、次に文武百官を集めて、中臣氏によって祓いが行われるのである。この東西漢氏の祓いと、中臣氏の祓いの言葉が、「延喜式」の祝詞(のりと)に残されているが、東西漢氏の祓詞(はらえごと)は漢語であり、中臣氏の祓詞(はらえごと)は和語である。東西漢氏の祓詞(はらえごと)次のようである。「謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司令司籍、左東王父、右西王母、五方五帝、四時四気、捧以禄人、請除、禍災捧以金刀、請延帝祚、呪曰、東至扶桑、西至虞淵、南至炎光、北至弱水、千城百闕、精治万歳、万歳万歳」』

『 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形(ひとがた)を捧げて、天皇の身のけがれを除き、金刀を捧げて、天皇の齢(よわい)の長久を祈る訳である。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈るためである。しかし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官を侍らせて、祓いがなされ、神の言葉が告げられる。皇孫が天降りましましてから多くの罪が出たが、この罪を、この六月の晦(つごもり)、あるいは十二月の晦(つごもり)を期して、水に流してやる。それゆえに、購(あがな)いを出せ。これを私は、国家による司法権の確認の神事であると思う。』

『 このように不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、「中臣の大祓の祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと思われるが、この祓いに刑罰を含ませる事は、おそらく天武帝から学んだのであろう。』・・・と。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-db00.html


【天武天皇】

日本書紀の天武紀を見ますと、第四〇代天武天皇(在位六七三〜六八六年)の和風の諡は、「天淳中原瀛真人」(あまのぬなかはらおきのまひと)といいます。

「天淳中原」は沼の中の原ということで、天武天皇が水沼を開拓して飛鳥浄御原宮の都づくりをしたことに由来しています。

瀛州は東海に浮かぶ神山の一つです。八色の姓の最上位は真人であり、真人は仙人の上位階級になるので、天皇も道教の最高神に近い存在であることを示しています。

ここに天武天皇の宗教観に道教の要素がみられるのです。

「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神のことを指し、仙人の上位にいる存在であったのです。天武天皇は天文遁甲を重視していたことがわかります。この道教への関心は天武天皇だけではなく、母の斉明天皇に顕著にみえます。天武天皇の没後以後は、日本の道教と神道と分かちがたく融合し、独立には存在していないといいます。ただし、影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれるところです。(『日本の古代』6、鎌田元一稿、五三頁)。

天武天皇などの名称は漢風の諱で八世紀の後半ころにつけられました。この「真人」とは道教でいう勝れた道士とか覚者の呼称です。陶弘景は神・真人・仙人の三階級を説き、それぞれは七または三に分け、これらのランクに対応して天宮を説きます。最高の宮殿は玉清宮で、中央にあるのは元始天尊(虚皇道君)です。

また、真人とは現人神のことで、悟りを開いた神仙のことです。後漢になりますと天上世界の最高神となります。この「天皇大帝」は北極星を神格化したものです。紀元六世紀に老子の「元始天尊」が説かれますと、この新しい最高神である「元始天尊」に移行します。つまり、日本の天皇に道教の影響が伝わっていたということです。「天淳中原瀛真人」の「瀛」というのは司馬遷の『史記』始皇本紀に、仙人がすむ東方海中の三神山の一つです。三神山は蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことで、瀛州にすむ真人という諱が送られているのです。理由は風神を祭った竜田の風神の祭祀や、占星占台を作る道教の行事を行っていることに関係しているといいます。

天武四(六七五)年に始めて占星台が置かれます。『日本書紀』に天武天皇は「天文遁甲を能くす」とあり、これらの基盤に八門遁甲や天文占星を使いこなしていたことがわかります。天武天皇が式占に通じていたということは、式盤(ちょくばん)のような占具や占法を記した易書が輸入されていたことになります。式盤の現物は北朝鮮の平壌府の近郊にある漢代楽浪郡治の遺跡から発見されています。(村山修一著『日本陰陽道史話』四〇頁)。

また、天武天皇は伊勢の日神を天照大神としてあがめ、天武三年に大来皇女を伊勢に遣わして祭祀にあたらせています。一方では鎮護国家の経典として『金光明経』を重視していました。神道と仏教をその目的に向かって両立させていました。天武天皇と天照太神は強い結びつきがあります。

神道の振興は外来文化の浸透に対抗する、日本の民族意識を高揚させるためであったといいます。結論的には、天武天皇は日本古来の豪族の信仰を重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げたのが天照太神といえます。しかし、各地豪族の祭祀をそのまま容認することではなく、天皇家が祖神とした天照大神の下位に、各地の神を位置づけ体系化することにありました。つまり、天皇権力の強化の指標でもあったのです。

この条件のもとに各地の神社・祭祀は保護されますが、引き換えに国家の管理に服すことを余儀なくされたのです。こういう情勢のなかに古代の国家神道が形成されました。天武天皇は伊勢神宮を日本の最高の神社とする道筋をつけたのです。天武天皇が天照太神を祭祀した由来は「壬申の乱」にあります。

『日本書紀』に「壬申の乱」のとき伊勢に入った大海人皇子は、途中の迹太川(朝明川)のほとりで伊勢神宮の方角に向かい天照大神を望拝したとあります。

古代の伊勢神宮は「私幣禁断の制」があり、皇族であっても私的な参拝や奉幣はできませんでした。天武天皇が陣中から望拜しただけではなく、戦勝祈願のため使者を神宮に使わしたとも言います。(萩原龍夫編『伊勢信仰』T、六二頁)。

天武天皇は式占と呼ぶ仙術に通じていたといいます。式は栻(チク)とも書き、楓子棗の心木で作り回転して吉凶を占う陰陽道の用具です。伊賀国を通過するとき黒雲が十余丈にわたって天になびいたのを見て、式占により天下が二つに分かれる兆候であること、そして、自分が勝利すると占ったといいます。楽浪の遺跡から式が二個発見されており、方円の二枚の小薄板で表面に黄粉を塗り朱線で輪郭を書いています。

円盤は径が九a、北斗七星を朱画し一二月神名・十干十二支を墨書し、方盤は一三、四a、墨で八卦・十干十二支・二十八宿を配列し、方盤の上に円盤を重ねて使用します。(金指正三著『星占い星祭り』五五頁)。この『日本書紀』の天照大神望拜の記事は、『安斗智徳日記』を基に書かれたといいます。安斗智徳は天武天皇に従って吉野を出発した舎人の一人です。

ここから天武天皇における天照太神と伊勢神宮の創立が始まります。

伊勢神宮は陰陽五行説を導入した当初の姿を今に伝える重要な宮といいます。

天武朝の思潮は星の信仰と五行の理の応用の二つに分けられ、星の信仰は主として仏教に吸収され、五行の理の応用は神社の祭祀に下降していったといいます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』三六九頁)。

ただし、一説には天武天皇が望拜したのは天照太神ではなく、滝原の地で祭られていた伊勢大神であるともいいます。この解釈においては、天照大神の出現は伊勢大神からの移行ではなく新しい神の創出であるとし、伊勢大神を望拜したが伊勢大神を通して天照大神にであり、その神は名前も無くいわば原初の天照大神であるとします。そして、この根拠は仏教にあるとします。

欽明天皇の仏教受容いらい、傍観中立の立場をとってきた倭王家でしたが、始めて仏教受容に踏み切った舒明天皇の子として生まれ、出家した経歴をもっていたのが天武天皇でした。つまり、『金光明経』(正論品)の帝王神権説を基にして、天照大神を祖神とする神統譜がつくられたとします。

天照大神は三十三の諸天=神になぞらえられたのであり、その子孫である天孫・皇孫は天護によって天子となったとのべます。天皇=明神=現人神の思想的根拠となります。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』一一八頁)。

道教の天皇・地皇説と『金光明経』の正法治世説の両者が融合されたことになります。

「壬申の乱」が終わり天武元(六七二)年九月に飛鳥京に帰ります。まず嶋宮に着き数日後に岡本宮に移ります。岡本宮は斉明天皇の後飛鳥岡本宮です。そして、翌六七三年二月に即位します。近江朝廷に従った豪族が排除され、皇后の鵜野皇女(持統天皇)や草壁・大津皇子などの皇族を重用し、その下に豪族を位置づける皇親政治を行います。そして、味方となった美濃の尾張氏(熱田神社)、鴨氏(賀茂神社)、三輪氏(三輪神社)などに、功績により伊勢神宮・熱田神宮として国家から擁護され、三種の神器の賦与がこの二神宮におこなわれました。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』二三一頁)。

即位後の一番初めの新嘗祭を大嘗祭といいます。天武天皇が最初(次の持統天皇とも)に始めます。新嘗祭は一一月下の卯・辰の二日間の行事で常設の神嘉殿を祭場としますが、大嘗祭は卯の日から午の日までの四日間行います。大嘗宮を臨時に増設して祭場とします。二日目の辰の日には中臣寿詞(よごと)の奏状や、忌部による神器の鏡剣献上という即位儀そのままの儀式があります。(『神道史大辞典』六二七頁)。

大嘗祭において天皇は新穀を神と共食したのち、神座に莚と薦を重ねてとじた褥(しとね)を巻いて作られた坂枕を寝具として、その床に籠もる儀礼を行います。この寝具を天孫瓊瓊杵尊が降臨するさいに覆われていた真床追衾に比定し、天皇がこれに籠もることによって、天孫の霊を獲得することができるとします。(折口信夫稿「大嘗祭の本義」『古代研究』民俗学篇)。

このような床に籠もる儀礼が特徴です。美園古墳(大阪府八尾市。古墳時代前期末から中期初頭)出土の家形埴輪は床を持つことから、新嘗祭を行う建物を表現しているといいます。豪族居館のハレの場の中心となる建物には床が設けられていたのです。(『日本の古代』5、辰巳和弘稿、三七六頁)。また、六七四年に斎宮制度の復活として、娘の大来皇女を伊勢神宮に送り、初代斎王として仕えさせます。四年二月一三日には娘の十市皇女と天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣します。

天武天皇の没後の七〇一年(大宝元年八月三日)に大宝律令が施行されます。六八一年に天武天皇は律令制定を命ずる詔を発令し六八六年に没します。持統天皇の三(六八九)年六月に飛鳥浄御原令が制定されます。この令は律がなく国情に適さないものでした。

律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂などで、藤原不比等は天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った藤原鎌足の子です。

文武天皇二(六九八)年に不比等の子孫のみが藤原姓を名のり、太政官の官職に就くことができました。不比等の従兄弟たちは中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当します。不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めます。

大宝律令において初めて日本の国号が定められたように、白村江の敗戦を契機に進められた大きな国家事業でした。これにより、天皇を中心として二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官制を骨格にした中央集権統治体制が成立します。天皇は律令的な官僚機構に裏付けられた王権となったのです。

二官は国政を総括します。神祇官(カミツカサ・カムツカサ)の淵源は、推古・舒明朝ころの祭官である中臣氏が担当しています。中臣氏は従来の物部・忌部氏に代わって、宮廷祭祀を担当した新興氏族でした。中国の皇帝に対する日本の天皇の特徴は、祭祀に大きな役割がかかっていることです。そのような天皇像をつくりだしたのが、律令の立法者である藤原不比等(六五九〜七二〇年)にほかならないといいます。(『日本の古代』一四、佐藤宗諄稿、一二頁)。

伊勢神宮の式年遷宮開始年については、天武天皇一四(六八六)年、持統天皇二(六八八)年などがありますが、持統天皇四(六九〇)年に第一回が行われたとされます。注目すべきは同三(六八九)年正月に吉野に行幸を始めたことです。

方位のうえで内宮は熱田神宮と吉野宮までの距離が同じです。外宮は断夫山古墳と吉野宮までの距離も同じです。伊勢神宮の内外宮ともに吉野宮とつながる方位なのです。「高天原広野姫天皇」の諡号は、高天原の女神である天照太神になぞらえたことです。天武天皇一四年一月二一日に冠位制定がなされ、二月四日に大唐人・百済人・高麗人の併せて一四七人に官位を与えています。藤原京造営に関わるものとされますが、伊勢神宮の遷宮にも関わっていたといいます。

百済王氏への位階授与と賜姓は百済系渡来人に結束をもたらし、大仏造立にあたり藤原仲麻呂と関与していきます。(大坪秀敏著『百済王氏と古代日本』一三三頁)。持統五(六九一)年に呪禁博士木素丁武・沙宅万首に銀二十両を賜っています。翌六(六九二)年二月、伊勢行幸に先だって、陰陽博士沙門法蔵・道基に銀二〇両を賜っています。

これは、行幸の安全や神宮祭祀など、政策における褒美といわれます。先には、天武天皇三(六七四)年八月三日に、石上神宮に忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせています。同四(六七五)年四月一〇日には、竜田の風神を祀るために美濃王を、広瀬の大忌神を祀るために間人大蓋を遣わしています。両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされます。この年一月二三日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もあります。同一三(六八五)年の二月に広瀬王を畿内に遣わします。このとき陰陽師が同伴し四神相応の要件を相地しています。

占筮相地の判断は『周易』『新撰陰陽書』『黄帝金匱』『五行大義』『大唐陰陽書』によります。天武天皇の強権により、道教が日本土着宗教との合体により図られたといいます。持統朝には斎王の派遣はありませんが、同六(六九二)年三月に伊勢に行幸します。その後の天皇は行幸をしていません。ここに、伊勢神宮の謎といわれる一面が指摘されています。(関裕二著『伊勢神宮の暗号』九六頁)。

明治から敗戦までの国家神道全盛時には、道教が海を渡って神道になったとか、天皇が立てた多武峰の両槻宮は道観と同じというと、学会から非難されたといいます。

いずれにしても七世紀の伊勢神宮にその変化の秘密が隠されていました。

天武天皇の玄孫になる称徳天皇の崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移ります。これにより天武天皇の血筋は皇統から絶えますが、舎人親王の子孫が清原真人の姓を賜り清原氏の祖となり、高市皇子の子孫が高階真人の姓を賜り高階氏の祖となっています。ともに、後世になっても「真人」を名のっています。

そして、天武・持統陵が藤原京の真南(丙午)に造ったのは、蘇りの地を意味していました。持統天皇は子供の草壁皇子と敵対した大津皇子を刑死させ二上山に葬りました。二上山は藤原京からは庚の方角で、「金=刑死」を意味した所です。『万葉集』に飛鳥の神奈備や神岳をよんだ歌が二〇首あまり収められています。

そのなかに、天武天皇の死にさいしての持統天皇の歌があります。この神岳は通説では雷岳(いかずちのおか)でしたが、橘寺の背後に「ミハ山」という小字名があることから、この山を神奈備・神岳にあてることができます。

ミハとはミワともいえます。ミハ山の麓一帯は橘と呼ばれた地域で、橘は神仙の常世にある「非時の香菓」(ときじゃくのかぐのみ)のことです。つまり、ミハ山はこの神仙の山なのです。(『日本の古代』9、千田稔稿、一三四頁)。

また、天武天皇は「壬申の乱」のとき迹太川畔で天照太神に加護を祈っています。古来、伊勢大神は倭王によって日の神として、伊勢の滝原に祀られていました。

また、伊勢神祀の原初形が蛇神(竜蛇神)を祀るものであったといいます。クサナギのナギは蛇の古語を意味しており、クサナギの剣は猛蛇剣といえる霊異をもつ剣の通称で、スサノオのヤマタノオロチ退治の神話がクサナギ剣を通してヤマトタケルにつながるとき、伊勢を舞台に同じような大蛇退治と霊剣発見の英雄譚が語られたといいます。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』三四頁)。

即位した天武天皇は律令国家の樹立をめざし、伊勢大神を皇祖神天照大神として祀り、伊勢神宮を国家の総廟、日本統治の根幹としました。そして、天皇は天照大神の聖性を継承した明神、現人神としたのです。

また、即位のときに大来皇女を斉内親王として泊瀬で潔斎させ迫瀬斎宮に送ります。これにより、斉内親王による伊勢奉斉を再興しました。同時に護国の経典である『金光明経』と『仁王経』を寺院で読誦させます。

さらに、その皇統を確立するために『古事記』の編纂を命じ、養老四(七二〇)年には諸氏族の伝承も納めた『日本書紀』がまとめられます。

皇大神宮の創始に関する伝承は、こうした天武天皇の意図に即した記述といいます。(宮家準著『神道と修験道』五八頁)。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index205.htm

http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c21

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
22. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:50:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463]


「朝鮮隠し」 と 「日本神話」

「白村江の戦」で新羅に破れ国を追われた百済人は、故郷を追われた怨念もあったであろうか、追われた身としてではなく「天から降臨した神の子」として新天地づくりに熱情を傾けた。自分たちの国として、自分たちの位置づけを明確化し、故郷に対する優越意識を高めるために、「朝鮮隠し」なるものを発揚させたのである。

「日本」という国号を作り、「我々は日本人である」という意識高揚が、現日本人の祖先の位置づけを曖昧化させた。朝鮮系の地名・人名を変え

加羅→唐 高麗→呉 金→今、

その風潮は1300年経った現在も消えず、朝鮮の痕跡を顕在化させまいとする歴史が今でも点灯している。


「日本神話」の真実

ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催されたとき、アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開された。その際、上田氏の

「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」

という記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、

日韓の天孫は山頂に降臨しており、共通点が多い

と主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘しているという。


日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。「日本神話」は、主に八世紀初めに書かれた「記紀」の記述がもとになっている。

この説は、「駕洛国記」による韓国の降臨地「亀旨kuji」と「記紀」による降臨地「久志」の音がそっくりであることからも否定できないという。


日本にも朝鮮にも、「仏教」以前から「神道」が存在している。

「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れに日本も乗っていることになる。

弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道」をもちこんだのはごく自然な流れだろう。


梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、

「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、

スサノオは朝鮮半島から出雲へ来た

という説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。

スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」

と述べている。さらに、梅原猛は、著書『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』で、

「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。
スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。
新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。
古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」


と述べている。


出雲市の斐伊川の上流に「鳥髪」という所がある。

市町村合併によりその地名なくなったが、奥出雲の「鳥上小学校」「鳥上公民館」の「上 かみ」は「髪」の音から転用した語である。

AD四世紀ごろ スサノオは韓国の「소머리 somoli 牛頭」から奥出雲の「鳥髪(とりかみ)」へ渡来し、「たたら流し」のリーダーとして名を成した人であるという。

スサノオは砂鉄によって「草薙の剣」を作った偉人という伝説があり、「草薙の剣」はヤマタノオロチの尾にあった剣のことである。「記紀」の神話を書く際に、フィクションのモデルにされたのはスサノオであろうという説がある。奇妙に思うかもしれないけれども、

「記紀」を書いたのは渡来人(主として百済のエリート)であり、「記紀」が書かれるより300年前の伝説の人 スサノオも渡来人である。

「日本神話」の成立についてのこのような話は、現在の日本人にとって想像を超えた物語に聞こえるだろう。


「소머리 somoli 牛頭」と「鳥髪(とりかみ)」は同じ言葉で、「소 so 牛」が「새 se 鳥」に転訛し、「머리 moli 頭 髪」は「鳥髪」の「髪」と同じ言葉であるという。

スサノオが天から降りて来たという神話は、朝鮮の「天孫降臨神話」を模したものでフィクションに過ぎない。このような真実を、馬鹿馬鹿しい想像によるものであると影に移し、「記紀」が書かれて1300年たった現在ですら「スサノオ」と「ヤマタノオロチ」は日本神話の真髄である。朝鮮の影が映っている歴史は影に過ぎないと追跡せず、朝鮮由来の歴史は朦朧と曖昧化されている。従って、日本の古代史の書籍には「謎である」という解釈が目立ち、日本語のルーツは明治以来150年にたってもわからないのだから、今後も「謎だらけ」であろうと豪語する学者らしき人の書籍が店頭を飾っている。
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1eca.html

[庚戌国辱100年紙上座談会・上]韓日元老6人が100年を論ずる
◇古代からの韓日交流史 2010年04月14日 中央日報/中央日報日本語版

−−韓国と日本は古代からさまざまな交流をしてきた。 お互いどんな影響を及ぼし合いながら現在の社会文化を形成してきたと考えるか。

梅原猛=中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。
私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、

出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。

『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。 これは新しい考えだ。

弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。 したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を越の国の支配から独立させた。

出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。 大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。

(神話に出てくる)スサノオが韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。

新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。 古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。

朴泰俊(パク・テジュン)=古代韓国は日本に文明を伝授した。
ポスコがある迎日湾の村には、『三国遺事(サムグクユサ)』に記録されている新羅時代の「延烏郎細烏女」という夫婦の話が伝えられている。

この夫婦が日本に‘太陽と月’(光)を伝え、王と王妃に推戴されたという話だ。

‘光’は文明を意味する。

1973年に迎日湾には日本の協力で新しい‘光’が誕生した。 溶鉱炉の光、すなわち浦項製鉄だった。 迎日湾を背景に両国間でやり取りした‘光’の話は、両国関係の未来を照らす灯火と考えてもよい。 韓日間には日本の侵略と植民地という痛ましい歴史もあったが、お互い助け合いながら発展した時期も多かった。
http://japanese.joins.com/article/246/128246.html?sectcode=&servcode=A00

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出雲王国は実在したか?

結論から言ってしまえば、この問いに対する私の答えはYESである。後で述べるような意味合いにおいてであるが、出雲に象徴される一大「山陰王国」は実在したと思う。しかもその「王国」は、はるか紀元前後から大和朝廷が成立する古墳時代まで続いていた可能性がある。


1984(昭和59)年の夏、神庭・荒神谷遺跡からの大量銅製品の出現は、従来の出雲観を塗り替えたと言ってよい。それまで出雲には目立った遺跡・遺物は出土しないとされていた為、日本史上多くの謎を秘めていたのである。

なぜ「古事記」「日本書紀」に出雲関係の記事が多いのか、日本神話はどうしてああまで出雲を取りあげているのか、山陰の鄙びた一地方である出雲に、伊勢神宮を上回る規模で最古・最大の神社が存在しているのはなぜか? 

これらは誰にも解けない謎として、過去多くの研究者や古代史マニア達を悩ませていたのだ。


神話の持つ歴史性にさほど信頼を置かない歴史学者や考古学者にとっては、山陰地方に考古学的遺物・遺跡の少ないことが、「記紀」の歴史性を否定する理由にもなっていた。「記紀」の出雲神話や「出雲の国風土記」はもっぱら文学者や民俗学者の研究対象だったのである。

それが今回の発見で、全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る358本の銅剣、銅矛16本(翌'85年)が出土した。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土したのである('85年)。日本神話の故郷は、一気に考古学最前線としてのアプローチを受ける事になった。


この時から出雲に対する認識は一変したと言える。

誰もが、出土した銅剣のその量の多さに驚き、多くの疑問が各方面から提示され、本格的な研究もやっと端緒についた 1996年(平成8年)、今度は加茂岩倉遺跡から実に39個もの銅鐸が一挙に出土した。トンボ、シカなどの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人は殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。出雲はふたたび世間の耳目を集める事になった。更に同じ年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。もはや出雲は何もない国ではなくなったのである。誰もが出雲王国の存在を予感した。


更に、1992(平成4)年から昨年(1998年)まで発掘調査された鳥取県の「妻木晩田遺跡」の出現は、後述するようにその周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えたと言ってもよい。


私が表題に掲げた「出雲王国」というのは、ただ島根県だけを指しているのではないことをご理解いただきたい。現在では出雲と言えば島根県という事になるが、私の考える「出雲王国」というのは出雲を中心として、西は山口県から東は丹後半島から、もしかすると能登半島を通り越して現在の糸魚川あたりまでの広い範囲を考えている。

勿論、ただ一つの国がこれらの広い範囲を支配・管轄していたとは考えられない。2000年前の紀元前後に、王をいただいた唯一つの行政機関がこれらの地域を統括していたとは一寸想像し難い。しかし中国においては「漢王朝」があの広大な領土を統治していたのであるから全く可能性が無いわけではないが、現在の所この地方にそれを窺わせる文献も考古学的知見も存在してはいない。私の言う「王国」とは「文化圏」と同義である。北九州、畿内とは異なる、環日本海文化を共有する集団が存在していたと考える。


クニとしてはそれぞれ独立し、王や首長のもと原始国家を形成していたと思われるが、これらの人々はある一つの大きな事実で互いに結びつき、文化圏を同じくしていた。それは「渡来」である。彼ら環日本海地方の人々は、出身地方こそ違え、皆朝鮮半島からの「渡来人」であった。

一部中国大陸からの人々も居たかもしれない。北九州と同様な、或いはそこよりも進んだ文化と技術を携えた人々が、段階的に日本海側に渡来したのである。

それは縄文末期もしくは晩期にその萌芽を見て、弥生期に入って本格的に形成され古墳時代中期頃まで続いたと考えられる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku.html


我が国に現存する五つの風土記の内、「出雲国風土記」のみがほぼ完全形で伝えられている。成立年代や編作者もあいまいなものが多い中、「出雲国風土記」のみは、天平五年(733)、出雲国造出雲臣広嶋(いずものくにのみやっこ・いずものおみひろしま)編という事がわかっている。この風土記は、神社・寺院・山川・地名の由来、地方の物産などの他に、出雲の国が出来た由来を伝える「国引き物語」など、他の風土記にはない内容を多く伝えており、当時の様子を知ることが出来る第一級の史料である。


「国引き神話」によると、古代の出雲は小さく領土が不足しているので四つの国から土地を引いてきて今の形にしたとある。

現在の島根半島である。衛星からの写真で島根半島を見ると、大きく四つの山塊に別れている事が見てとれる。


「三穂の埼」みほのさき・・・・・・・・・・美保関町北浦・稲積から松江市手角町にかけての東側の岬。美保神社がある。

「闇見の国」くらみのくに・・・・・・・・・・・鹿島町多久川から美保関町北浦・稲積までを言う。闇見の神が鎮座する。

「狭田の国」さだのくに・・・・・・・・・・・・平田市小津から鹿島町多久川の切れ目までを指す。佐太大神が鎮座する。

「八穂米支豆支の御埼」やほしねきづきのみさき・大社町日御碕から平田市小津・平田までを指す。ここに出雲大社がある。


地質学的には、島根半島は約7000年前には日本列島から離れた横に細長い独立した島であった。3000年から2500年ほど前に現宍道湖の東側・西側が地続きになり宍道湖が出来、弓ヶ浜半島も陸続きとなって中海も湖となった。1200年ほど前、弓ヶ浜半島の付け根が再び海となり中海は湾となり、現在に至っている。

神話は例えば三穂の埼を、高志(越:北陸地方。)の国から弓ヶ浜半島を綱にして、大山を杭に引き寄せたという荒唐無稽なものであるが、その地形的な成り立ちと一致しているのには驚かされる。また西側の杵築(きづき)の御崎は、遠く新羅の国から引き寄せたとあるが、衛星も地図もない時代にただ想像力だけでこういう壮大なスケールの物語を作った古代人には圧倒される。


しかし実は、古代出雲人が単なる想像力だけで新羅の国を持ち出したのではない事は明白だ。環日本海ル−トとでも呼ぶべき、大陸・半島との交流が相当昔から存在していたと見るべきだろう。

地図を見れば一目瞭然だが、朝鮮半島東側の新羅からは、実は北九州に行くよりも出雲や伯耆・若狭あたりの山陰・北陸へ行く方が自然である。対馬海流の流れを見ても、逆らってわざわざ松浦に行く事はない。

こぎ出せば海流に乗って自然に出雲あたりへ流れ着くのだ。北九州に負けず劣らず、山陰地方にも古くから大陸・半島からの渡来が行われていたと推測できる。とりわけ出雲では他の地域に先駆けて朝鮮半島と交易を行い、最新ハイテク技術である金属加工法を獲得していたのではないか? 

技術とともにその技術を伝える人々も渡来してきたはずだ。人的交流も盛んだったはずである。その成果が冒頭の358本の銅剣につながるのだろう。


スサノオ、オオナムチを中心とする出雲神話は、我が国神話(記紀)の約3分の1を占めている。8世紀初頭に成立した古事記・日本書紀がここまで出雲を取りあげた、或いは取りあげねばならなかった理由は一体何であろうか。

出雲は、記紀が成立した時代にそれほど重要な、又は重要な記憶を秘めた場所であったのか。


出雲の最高神、大国主(オオナムチ:大国主の命)は、遠く高志(越)のクニまで進出し糸魚川の翡翠製産をもその勢力下に納めようとするほどの権勢を誇っていたが、この出雲王朝に悲劇は突然訪れる。

高天原の天照大御神(アマテラス)と高御産巣日神(タカミムスビ)は孫の火瓊瓊杵(ホノニニギ)を下界へ降ろし、大国主以下の神々に出雲の統治権を高天原に譲るよう交渉させようと試みるのである。しかし第一陣、第二陣の使者達は出雲側の懐柔に会い使命を放棄してしまう。三度目の使者、建御雷(タケミカヅチ)と天鳥船(アメノトリフネ)は出雲の稲佐の浜(出雲大社東岸)に降り立ち、建御雷は、波頭に突き立てた刀の刃先にあぐらをかくという奇怪な格好で大国主と「国譲り」の交渉を開始する。

大国主は即答せず、長男の事代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。事代主は大国主に国譲りを勧め、自らは沈む船の中に隠れてしまう。そこで大国主は国譲りを決意するが、末子建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建御雷に信濃の諏訪まで追いかけられ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、ここに「出雲の国譲り」が成立する。

大国主は国譲りにあたって、高天原の神々の子らと同様の壮大な宮殿造営の条件を出す。高天原はこれを了承し、大国主の為に多芸志の浜に宮殿を造る。


この宮殿について日本書紀は、


(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。

(2).田を作る。

(3).海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。

(4).天の安川に打橋を造る。


....などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)を大国主の祭祀者として任命する。

(この天穂日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の宮司はその83代目にあたるとされている。)


以上がいわゆる「出雲の国譲り」と称される神話の概要である。古事記と日本書紀で細部は異なるが、話の大筋は同じである。この神話を巡っての解釈も諸説あり、神話の中に何らかの史実性を見いだそうとするもの、全くの創作だとするもの、
殆ど史実ではないかと唱えるものなど様々だ。私見では、かなりの確率でこの話は史実に基づいているのではないかと考える。そう仮定すると、出雲の重要度、弥生以後の我が国の展開が矛盾なく説明できると思う。


皇学館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかって大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。

又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(るざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地である、と考えている。これは現在のところ、学会では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文化的な先進性を認めたとしても、それは元々大和にあったのだという発想である。

特に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。

しかしながら私には、大和に文化が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的なように思える。どうしてあんな辺鄙な盆地に突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?

渡来によらず、縄文からどうしていきなり青銅器や稲作を始められるのか?

渡来文化しかありえないではないか。


しかも大陸・半島からいきなり大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。

渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ南下した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱かった奈良盆地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。


大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないような気がする。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとんでもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。

「記紀」によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日命(アメノホヒノミコト)が天下る。

天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大国主の命の領地であった(可能性が高い)大和には、邇芸速日の命(ニギハヤヒノミコト)が天下る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。邇芸速日の命の降臨は神武東征の前であり、出雲の国譲りの後のように思われる。


「杵築(きづき)を見たということは、これはただ珍しい社殿を見たにとどまらず、それ以上のものを見たことになるのである。杵築を見るという事は、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・・・ 悠久な古代信仰の脈拍にふれることなのである。」

明治 23年(1890)9月13日夜半、出雲大社に初詣したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、翌14日、唯一昇殿を許された外国人として、この感動・衝撃的体験をその著書「杵築」で語っている。(昭和50年、恒文社刊 小泉八雲著「杵築」平井呈一訳)


出雲大社十六丈復元図(「日本のやしろ出雲」美術出版社)によれば、古代の出雲大社は、実に巨大で異常な高さを持つ。

往古三十二丈、中古十六丈の社伝が残っていて、現在が八丈(24m)であるから、大昔(創建時)には96mの高さを誇っていた事になる。現在の伊勢神宮が9mである事を考えると出雲大社がいかに高さを主張していたかが理解できる。96mがほんとに建っていたのか、48mにしても、古代にそんな建造物製作が可能であったかについては、大林組プロジェクトチームによる「出雲大社の復元」に詳しい。

復元図を見ていると、この建物は何かに似ている。初めは何かわからなかったが、左右に建っている柱でようやくわかった。

これは縄文・弥生の遺跡から発見される「高床式建物」である。柱がぐーんと伸び、階段も広く長くなっているが、これはまさしく高床式建物ではないか。

高床式建物が渡来文化の賜(たまもの)だとすれば、これは見事にその文化の行き着いた先を表わす「象徴」である。むしろその為にこそ、大国主は高天原にこの宮殿を建てさせたのかもしれない。また、その条件を呑みこの宮を建てた高天原にとっても、出雲はそれほどの強大な権力と見なされていたのであろう。階段の端は遠く稲佐の浜まで続いていたとされている。大国主の命が、宮殿から海に遊びに行く時のために、高橋と浮き橋と天の鳥船が造られたと「日本書紀」は伝えるが、この絵を見ていると宮殿から遙か日本海の彼方を眺めては、自らの父祖の地を想っている大国主の姿が目に浮かぶようである。

1665(寛文5)年10月10日、出雲大社の東方200mの摂社(せっしゃ:本社の付属社で、本社に祀られている神以外を祀る。

勿論本社の神と関わりが深い神々を祀るのが普通である。)「命主神社」裏において、石の切り出し作業中、硬玉(ヒスイ)製勾玉と銅戈が発見された。後世この鑑定が行われているが、硬玉は、京都大学原子炉実験室による成分解析の結果、新潟県糸魚川地方の産とほぼ認定され(近似値を得た)、銅戈は、中細形と言われる形式であり、弥生時代中期に北部九州で濃密な分布があり、鋳型も春日市を中心に多く発見されている。

糸魚川は越(高志)の国とも呼ばれ、大国主がここを訪れ奴奈河比売(ぬなかわひめ)に求婚した話も残っているし、また銅戈とともに出土した土器片は、北部九州に多く見られる木葉文がくっきりと残されており、出雲が北部九州から越の国まで広く交流していたことはほぼ間違いない。北九州と糸魚川を結ぶ環日本海ルートのちょうど中間の位置に出雲はある。

「古事記」によると奴奈河比売訪問の後、大国主は倭国行脚を想起し「出雲国造神賀詞」には大国主の和魂(にぎたま)を大和の三輪山に祀るとある。大和は、出雲の支配下にあった事をうかがわせる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku1.html


大林組 出雲大社本殿の復元
http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/izumo/p01.html



http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html#c22

[昼休み52] 皇族初夜の儀式 中川隆
23. 中川隆[-13729] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:52:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463]

日本人の思想の原基

 吉本さんと梅原さんが、中沢新一さんの司会で、1994年に対談をしている。その対談を収録した本「日本人は思想したか」(新潮社)の第一章『日本人の「思想」の土台』から、「縄文時代までさかのぼる」という問題意識を語り合っている部分を抜書きしてみる。


中沢

 いま期せずして国家という問題が出てきました。これは日本の思想というものを考える時、一番のカギになる言葉だと思います。たとえば日本人の思想がどうしてお茶の思想とか、お花の思想というふうな、個別的で具体的な表現の形態として出てくるかということにも、深く関係していると思います。日本人が何か創造的な思想を試みようとすると、実感や情念がとらえているものと、仏教や儒教や道教のような、超越的ないし普遍的な表現のちょうど中間のようなところで表現を試みていたように思います。たとえば、仏教はとても普遍的な表現の体系を持っているけれども、日本人の創造的な思想家は、その体系の中で作業をしたわけではなくて、自分の実感と普遍の体系との間(はざま) というか、ずれというか、そういうところに立脚して思想をつくり出そうとしてきて、そのずれというようなものが、日本的な仏教とか日本化された儒教としてあらわれてきて、そのことが一番出ているのが国家にかかわる問題なのだろうと思います。

 普遍的な国家という考え方を、近代日本人はヘーゲルなどを通じて知りますが、一日本人にとって国家が実体性を持った意味を含み始めた時に、とても重要な意味を持ったのは中国に発生した国家という考え方だったと思います。梅原さんは古代史をめぐるさまざまなお仕事をなさってきましたが、そのとき日本に起こることを、つねに広いアジア史の中でとらえようとしていらっしゃったように思います。日本人の国家という概念は、ヘーゲルが考えたような国家とも違うし、中国人がとらえていた国家とも違う。日本がおかれていた位置や環境とのかかわりで、国家というものについて日本の特殊性が発生している。いつまでたっても日本人には国家というものが、ヘーゲルや中国人が考えたようなものにはなり得ない。その日本的国家という問題を、梅原さんはいつ頃を起点にして考え始めたらよろしいとお考えでしょうか。


梅原

 私が日本研究に転向した時に、一番の問題は、戦争中からの日本主義はイコール国家主義であった。そして日本の思想家も、非常にリベラルな思想家と言われる人も、戦争中には完全に国家主義になった。日本的であることが国家主義であるような、そういう日本主義とは無縁なものを私は探していた。だからいま出たヘーゲル的な国家論は、日本でたとえて言うと和辻哲郎の『倫理学』にある。あれは見事な哲学的体系なんですよ。人間を個人と考えず、人間の間柄で考える。間柄という概念には個人主義を止揚する重要な思想が含まれている。私は儒教思想の現代版だと思いますけど、現代でもなお十分傾聴に値する哲学的思想だったと思うんです。しかし結論は、全部国家の中に飲みこまれてしまう。最終的には国家が万能であり、普遍的なものである。まあ、ヘーゲルの日本版だと思いますけど、そういう和辻に対して、私は厳しく批判した。それから鈴木大拙ですら、最後はやっぱり国のために死ぬことだ、それが無だというようなことを言っている。そういうことも一切私は許すことができなかった。私はそういうものの批判者として登場した。

 特に私が仏教をやったのは、明治以後の神道は完全に国家主義になってしまって、そういう神道に対するアレルギー反応を長い間脱却することができなかったからです。神道に対してアレルギーを脱却できたのは、アイヌの宗教を知ってからです。仏教は比較的国家主義の色彩が少なかった。また、その時は万葉集にもアレルギーがあって、万葉より古今を、と言った私の最初の論文の『美と宗教の発見』で、古今を日本美の中心においたというのも、一種のアレルギー反応でしてね。国家というものはとにかくかなわない、という意識が非常に強かった。そんなことを考えていたのですが、偶然のように、七、八世紀の、吉本さんの言った日本国家成立期の歴史を勉強するようになった。そしてそこで『隠された十字架』や『水底の歌』が書かれた。そこで私が見出したものは、国家成立期に権力から排除されて、怨みを飲んで死んでいった怨霊の姿だった。たとえば、聖徳太子は一度は体制側の人だったけど、やがて藤原氏が律令体制をつくると、それに滅ぼされて、そして怨霊になった。柿本人麿も同じように一旦は律令体制で高い地位につくがやがて失脚して水死刑死をする。聖徳太子とか柿本人麿の怨霊というような、国家形成の影に隠れた怨霊が十何年の間、私のパトスそのものだったんですね。怨霊がのりうつったわけですが、なぜ怨霊が外ならぬ私にのりうつったのかはよく分らない。

 私の七、八世紀研究は、主として怨霊の研究に始まったのですが、しかし自ら七、八世紀の日本の考察をせざるをえない。七、八世紀は、日本が中国から律令制度を移入し、それで日本国家をつくった。しかしそれは中国の律令制度がその まま移入されたものではない。あれは中国から借りて国家をつくったんですけど、その中国文化は変質させられた。変質させたのは、それよりも前に日本に存在した何かだろうということに気づいたんですね。その前に何があるか、それからいろいろ思想的に問い詰めると、どうも縄文文化がそれではないか。そして、アイヌと沖縄に縄文文化が残っているんじゃないかというふうに考えてきた。そうすると、吉本さんと思弁の方法は違うんですけど、結論は大変似ているところに行っているような気がしているんだけど。そういうふうに日本を奥へ奥へと掘り下げてゆくことによって、国家という枠を超えた、むしろ普遍的なところに達した。そういうところに達したことによってやっと神道に対するアレルギーを捨てることができた。アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。そこから見れば明治以後の神道は、これは神道と言えないようなものだ。しかし神道の国家主義化はすでに律令時代に始まっていて、だから神道は二度大きな国家主義化を受けた。ひとつは律令時代、ひとつは明治以後。明治以後の神道は、神道とさえ言えない、プロイセン主義なりナポレオン主義に伝統の殻を着せただけのようなものだといま考えているんですけどね。


中沢

 いま梅原さんから、同じ言葉が二度出ました。ふたつのちがう意味をこめて、「普遍」という言葉を二回使われました。
 ひとつは、実感を超えて超越である普遍。これはたぷんヘーゲルの国家概念や中国の国家みたいなところにたどりついて行くんだと思います。ところが最後に梅原さんが、たとえば神道のようなものを通して普遍へ行くんだとおっしゃったその普遍は、まえの普遍とちょっと違うのでしょうね。


梅原

 ちょっと違いますね。


中沢

 その、あとの方の普遍というのは、いまとこれからの日本が超近代というような形で出てくるものとして探っている普遍なんじゃないかと思うのですね。それはひょっとすると日本の国家が、前方へむかってさぐっているものとつながっているんじゃないか。梅原さんの考えてらっしゃるアイヌの神道などは、ヘーゲル的な普遍とは異質な、もうひとつの普遍に触れているのかも知れませんね。


梅原

 そうと言えるかもしれん。


中沢

 それは神道以前のもので、ひょっとするとそれは、オーストラリア原住民の神道とか、南中国の少数民族の神道とか、チベット人の神道とか、そういう神道につながっていて、そういう形でもうひとつの普遍というものがいま大きく浮上してきた感じがしますが、このふたつの普遍が混同されて、普遍という問題を考える時に、日本人の思考を混乱させているのではないでしょうか。

 これは吉本さんが超近代の問題として考えているテーマとつながっている、と僕は思います。
 古代の向こうにあるもの、アジア的なものの向こうにあるもの、それを吉本さんはアフリカ的という言葉で表現しようとしています。それは新しい普遍につながる考えです。
 いまお二人の話の中に期せずして普遍という言葉の、二通りの使い方というものが浮上してきて、ヘーゲル的な普遍の国家や神道や日本国家に取り込まれてしまって、見えなくなってしまうもうひとつの神道がそこで同時に出てきました。近代の原理を解体していくものと、壊していくものと、縄文や南島のテーマが浮上してくるプロセスが、お二人の思想の中では同時進行しているような感じを受けるのですが。


吉本

 僕はそうだと思いますね。梅原さんのアイヌについての論文は、柳田国男の初期の仕事から延長していくと大変よくわかり、位置づけがしやすいんですが、とても重要で、僕はずいぶん影響を受けたように思うんですね。

 アイヌの問題や沖縄の問題は、いま「遡る普遍」という言い方をすれば、どうしても出てくるんじゃないかなという感じです。それをヘーゲル、マルクス流の国家と直かに対応させることはなかなかできないので、現在は、対応できそうな超近代のところを睨んで持っていくよりしょうがないと思います。でも「遡る普遍」のところでは、かなり確実に出てくるんじゃないかと思い込んでいるんです。

 ちょうど中間のところで、梅原さんの言われた神道があって、それはふたつの理解ができます。明治以降、天皇制神道、あるいは伊勢神宮神道と結びついた意味の神道と、それからそうじゃなくて、田舎へ帰れば鎮守様があって、お祭りがあって、とてもいいんだ、というのと二重性があるような気がするんです。明治以降の天皇制神道と結びついた部分は、僕も梅原さんと同じでアレルギーが多い。つまり自分が戦争中イカレた分だけアレルギーがあって、ということになります。そこで、遡る神道といいましょうか、あるいは村々の鎮守様へ行く神道とはちょっと分けなくちゃいけないよ、ということになってくる気がします。鎮守様としての神道みたいなのは宗教というふうに言わなくて、もっと風俗・習慣というところで生きられる部分があるように僕は思ってます。これは国家神道にまで編成されちゃったものと区別しないといけない。国家神道に収斂させられてしまったものは、何となく第二次大戦までが生命だったという気がして、それ以降はあるとしても、そんなに生きられるものとしてあるというわけではなく、壊れつつある過程としてあると考えたほうがいいんじゃないか、僕はそう思ってます。


 以上のやり取りで、梅原さんと吉本さんが、方法論は違っていても、同じ問題意識を持って日本人の思想の原基にアプローチしようとしていることが分かると思う。 この後、梅原さんは「アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。」という前段の発言を敷衍してその内容を詳述しているので、その部分を抄録しておく。


 七、八世紀の神道は祓い、政の神道なんですよ。それが私、なかなかわからなんだ。『古事記』の書かれた時代、国家に有害なやつは祓ってしまう。そしてまだ祓わんやつは禊をさせて改心させる。やはりこれは律令国家体制の産物だ、という点を考えんと神道は理解できない、と思った。そこまでは行ったんですけど、それから向こうの神道が見えてこなかった。

 そしてアイヌをやった時に、ほんとに目から鱗が落ちるようなショックを受けたのは、アイヌ語の神の概念、神をあらわす言葉が全部、古代日本語と一致し、しかもその古代語の中にラマットなんていう言葉がある。ラマットというのはヤッコラマットという、祝詞や宣命にわずかに出てくる言葉で、本居宣長もこれは古代語が残ったんだと言ってる。そのラマットという言葉が魂という意味でアイヌ語にある。それを知った時に、アイヌ語と日本語は同起源である、やっぱり日本の古代語の縄文語がそこへ残ったんだろうということと同時に、神道の古い形がアイヌの神道の中にあるという直観があったんですね。それでアイヌの神道をいろいろやってると、国家主義なんて全然関係ない。それはやはり森の中で人間が宇宙の精霊と、魂たちと共存して生きて、その魂の力で自分たちの生活を守り、そして死んでいき、あの世へ行ってまた魂がこの世へ帰ってくる。そういう信仰であるということがわかった。

 その眼で沖縄を見ると、沖縄の神道もアイヌと同じような神道ではないか。柳田国男や折口信夫は、今まで日本研究の外におかれた沖縄を日本研究の中に取り入れた。しかしそれは弥生時代で日本本土を沖縄と結んだ、米で結んだ。つまり沖縄は弥生時代の古い米文化が残ったものだとした。これはいわゆるあの柳田の南方の島を伝わって稲がやって来るという説ですが、この説は実証的に否定されている。こういう沖縄と本土を結ぶと、米栽培しないアイヌは落ちて、それは日本じゃないということになる。私は柳田も記紀の史観に無意識に影響されていると思う。私は、それは違う、沖縄と日本というのは縄文でつながるんじゃないか。アイヌ、沖縄、日本、この三つを結ぶものが日本的じゃないかと。ずっと思弁してそういうふうになってきたんですけどね。私はそこへ来て初めて、この原理はどうもいわゆる普遍的なんじゃないかと思った。それは恐らく、中沢さんのおっしゃったようにアボリジニーやアメリカ・インディアンとも同じだし、あるいはシベリアの狩猟採集民族と同じ、あるいはケルトとも同じもので、一時代前の、人類の普遍的な原理がまだ残っていたんじゃないか。それが日本国家をつくった後にわずかに日本に残ってる。


 「日本本土と沖縄」を米で結ぼうとし、「米栽培しないアイヌ」を見落としてしまうことは、柳田や折口の民俗学が「日本=瑞穂の国」という虚像の枠の中で展開されていることからくる限界を示している。「日本=瑞穂の国」という虚像については、いずれ取り上げる予定でいる。


 
縄文人と弥生人


  吉本、梅原、中沢三氏の鼎談より8年前(1986年)に、吉本さんと梅原さんは対談をしている。その対談が「対話・日本の原像」(中央公論社)という本になっている。 その本の中に梅原さんが日本語の源流について次のような意見を述べている。


 縄文人のつかう縄文語というのがあって、これはかなり日本列島全体に行き渡っていただろう…‥。縄文土器が朝鮮半島にはほとんどないのに、日本列島にはほぼ全体に普及している。そのように、だいたい同質の言語が南は沖縄から北は千島まで、多少のローカルカラーがあるけれども、日本列島に普及していたのではなかったかと思います。

 そして弥生人が入ってきて日本列島の中枢を占領した。そして弥生人はまったく縄文人とは違う言語をもってきたけれども、言語学の法則として、少数の民族が多数の民族の中に入ってきて、それを支配する場合、その言語は被支配民族の言語になるが、発音その他は相当な変更を蒙り、そして、支配民族が新たにもってきた新文化や技術にかんするものの名称は支配民族の言語で呼ばれる、というふうな法則がある。こういうことが弥生時代以後、起こったのではないでしょうか。
 だから縄文語が弥生時代以来かなり変質した言語が倭人の言語であり、それが日本語の源流になったのじゃないかと思うんです。そして南と北により純粋な縄文人が残っていて、縄文語がより純粋な形で生きのびて残ったのではないだろうか。琉球は朝鮮や中国とも近いから人種も混血し、言葉もかなり変質しているけれども、あそこは稲作農業には不適な所なので、かなり強く縄文文化が残っている。北の方は中国などとの交渉も薄いし、沿海州あたりとの接触があるにせよ混血も少なく、縄文語がいちばん強く残った。それが小進化してアイヌ語になったと考えているんですけれどね。


 この梅原さんの仮説と考古学の成果を照らし合わせてみよう。

 近年、古代遺跡の発掘がいよいよ盛んで、古代像のさまざまな仮説・通説が書き換えられている。その近年の考古学の成果をまとめた本がある。天野幸弘という方の著作で、こちらの書名は「発掘・日本の原像」(朝日選書)という。
 この本から梅原さんの仮説に関係すると思われる部分をまとめてみる。もちろん、考古学による学説もいまだに仮説レベルのものも多い。さしあたってはそれらの学説から古代のおおまかなイメージが描ければよいとする。


 まず縄文人について。

 東アジアで縄文人と似た人骨が判明した例は今のところない。ということは、特定の集団が日本列島になだれこんで縄文人になった形跡はないわけだ。こう考えて、京都大学霊長類研究所の片山一道教授(人類学)は科学誌『サイアス』(1997年5月2日号)に書いた。タイトル「縄文人は来なかった」は刺激的だ。これまでに見つかっている縄文人骨の特徴を詳しく分析したうえで、「縄文人は日本列島で生まれ、育った」と結論づけている。決着がついたとされるルーツ探しより、これまでに数千体見つかっている縄文人骨の精査の方が大切だと考える片山さんは、「混血しなくても体格が変わるのは、われわれ現代人も経験した通りだ。生活の変化も大きな要素だ」。だから縄文人がどのように形づくられたか、生活の復元こそが問題だ、と強調する。例えば「海民的な性格が加わるなど、大陸の人びととは別の道を選んだ結果なのだろう」。
 確かに、縄文時代は独特だ。その次の弥生時代から現代までの五倍弱、一万年近くも続いた。ところが北海道から琉球列島に至るまで、人びとの体格などに地域による大きな違いはなかった。地域差より、時代の推移に伴う変化の方が目立つといわれる。アメリカ人の生物学者エドワード・S・モースが東京の大森貝塚を発掘調査し、七体の縄文人骨を見つけて以来、120年間にわたる調査や論争、研究の結果である。そして、「縄文人は先住民などではなく、現代日本人の祖先だ」というのが、大方の研究者の見解になってきた。

(中略)

   この年(1998年)、北海道の北西端の離島、礼文島にある船泊(ふなどまり) 遺跡でも、同じころの縄文時代の人骨約三〇体分が発掘された。サハリンやバイカル湖周辺で見つかるのと似た形式の貝製装飾品、日本列島南方産の貝製品も副葬されていたため、「縄文時代に大陸から来た渡来者か」と注目された。先の片山教授の説と食い違いが出そうだったが、専門家の詳しい鑑定による結論は「すべて典型的な日本列島の縄文人」だった。もちろん、縄文人の活発な行動力を印象づける発見として、重要な遺跡が新たに分かった意義ははかりしれない。


 弥生人は縄文人に比べて顔が細長く彫りが浅く、縄文人より長身だ。それまでの縄文人とかなり異なる体格などから「渡来系」とされてきた。では弥生人はどこから来たのか。

 「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」館長の松下孝幸さん(人類学)たちは中国社会科学院考古学研究所の韓康信教授らと共同で、山東省出土の紀元前5世紀から400年間ほどの人骨500体分を調べた。その結果「体の各部の計測データや顔面のプロポーションのほか、神経が通る頭の骨の小さな穴といった細かい部分も土井ケ浜人とそっくりだった。」


 調査は新たに黄河、長江の最上流部の青海省へ舞台を移す。「人と文化はおそらく、中国では大河に沿ってつながるに違いない。これまでの南北の流れとは別の『東西の道』を探りたい」からだ。中国原郷説への自信がのぞく。

 青海省での1998年までの日中共同調査でも、山東省に似た結果が出た。李家山など三遺跡から出土した約3000年前などの人骨計約300体は、いずれも土井ケ浜や佐賀県の吉野ヶ里などから出た渡来系弥生人骨の特徴をそなえていた。「黄河、長江上流の人びとが北部九州など一部の弥生人の祖先だった可能性がある」という分析結果なのだ。

 1999年の共同調査では、長江下流の江蘇省梁王城(りようおうじよう) 遺跡と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡出土の二体の人骨の、母系遺伝子に限定されるミトコンドリアDNAの塩基配列がぴったり一致する例まで分かった。縄文時代の稲作伝播も長江との関係で考えられており、重視されている。


 一方、縄文人そっくりの弥生人の人骨が発掘されている。 阪神・淡路大震災の被災者住宅の建設に先立つ調査(1997年)のときに出土した人骨は、紀元前三世紀の前半、弥生時代前期のものである。しかしその人骨は縄文人そっくりの特徴を示していた。典型的な弥生時代の遺物、遺構の中から、土井ケ浜遺跡で見つかったような渡来系の人ではなく、弥生以前に一万年近くも続いていた縄文時代の人の体つきの人骨だったのである。

 福岡県志摩町新町遺跡から出土した人骨も「縄文的な弥生人」だった。しかもこの遺跡の墓は中国東北部から朝鮮半島にかけて築かれているものとよく似ているという。さらに、中国・秦時代(紀元前221〜202年)の銅貨や新時代(紀元8〜23年)の硬貨も出ている。またその近くの、明らかに稲作が行われていたとみられる曲り田遺跡では出土した土器のうち朝鮮半島由来の無文土器はごくわずかで、多くは縄文時代の流れを汲む土器だったという。

 これらの事実は何を物語っているのだろうか。


 縄文的な特徴をとどめた弥生人骨は、西北九州などからも出ている。ところが、遺物との関係がつかめないことが多い。この新町や神戸の新方は数少ない例である。「朝鮮半島から渡来人が稲作などをもたらした時、地元がそれらの中からいいものを選び取った。土器が激変しないのは渡来人がそんなに多くはなかったためで、やがて在来人は彼らと融合しながら変わっていった」と、中橋さんは見る。「大勢の渡来人が縄文人を追い払い弥生時代になった」という人もいる。しかし近年、調査・研究が進むにつれて、ひとことではいえない複雑な様相が弥生当初、各地で繰り広げられたことが浮き彫りになってきた。

 中橋さんが数学者の飯塚勝さんと連名で1998年に『人類学雑誌』(106号)に発表した論文「北部九州の縄文〜弥生移行期に関する人類学的考察」は、その面からも興味深い仮説といえる。弥生時代の中期、渡来系弥生人と見られる人びとが占める割合は80〜90パーセントにのぼっている。これは中期初めまでに形成された人口構成と見られる。しかし、初期の渡来人はこれまでの発掘成果から見て、少数だったようだ。そうすれば、200〜300年間にこの逆転現象が一体、なぜ起きたのか。その答えは「渡来系集団の人口増加率が、水田稲作などの進んだ文化を背景に、土着系集団を大きく上回り、弥生中期には圧倒的になった可能性が大きい」というものだ。弥生の開花期はこうして始まったようだ。その後、人びとの行き来は次第に頻繁になり、多くの渡来人が来た、と歴史書にも記されている通りだ。


天皇制の古層(1)


 どうやら、琉球・蝦夷とヤポネシア中央部との間の大きな断層とは、まったく無関係という意味の断層ではなく、ヤポネシア全体に分布していた古層の上に、中央部だけ新来の人種が覆いかぶさって新たな層=天皇制の基層を形作った結果である、と考えてよさそうだ。そうであれば、天皇制の基層とその下の古層との関係を明らかにすることは天皇制を相対化あるいは無化する上で重要な課題となる。

 「第314回」(6月28日)の引用文の中で梅原さんは、アイヌ語の魂を表す言葉ラマットが祝詞や宣命に残っている古代日本語=倭語と一致していると指摘していた。日本文化の古層にあるアイヌ文化の痕跡を言葉の面からもう少し探ってみる。「対話・日本の原像」から拾い出す。二つの第一級の思索が響きあう対話は気持ちよく読める。内容もとても興味深いものなのでそのまま引用する。

 まず吉本さんが地名を二つ重ねる枕詞を論じている。枕詞については吉本さんは著書「初期歌謡論」(枕詞論・続枕詞論)で詳細に論じているが、ここでは「初期歌謡論」を調べる労はとらない。「対話・日本の原像」で話題にされたものでその大略を知ればよいとする。


 枕詞の中に地名を二つ重ねる枕詞がある。例えは「春日の春日」――「ハルヒノカスガ」と読みましょうか ―― とか「纏向の檜原」とかね。これはとても古い、原型にちかいタイプの枕詞なんです。

 『古事記』に、ヤマトタケルが東国へ遠征してきたところ、海が荒れ、オトタチバナヒメが海に飛び込んで海を鎮めるという話がありますね。そこのところで、オトタチバナヒメが「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」という歌を詠んで飛び込むのですが、この「さねさし相模」の「さねさし」というのは、どういう意味か全然わかっていないんです。アイヌ語に、陸地がちょっと海の方へ突き出た所という意味で「タネサシ」という言葉があって、僕は、「さねさし」はアイヌ語の地名じゃないか、というふうに考えました。

 つまり相模もちょっと出っ張った所ですから、そこに昔、アイヌあるいはそれに近い人たちが住んでいたときに地形から「タネサシ」というふうに言われていた。それをもうひとつ重ねて「さねさし相模の小野に燃ゆる火の」とした。「さねさし」という枕詞はアイヌ語だとするのが一番もっともらしいのじゃないか、そこのところで、柳田国男の地名の考え方にちょっと接触していくのです。

 柳田は、アイヌ語の地名は自然の地形をそのまま名づけた所が多いのだという。なぜアイヌ語の地名が残っているのかというと、それは単にそこにアイヌ人が住んでいたからではなくて、アイヌ人またはそれに近い人たちが住んでいたときの地名があった所へ、後から移り住んで来た人間がいる。先住民たちを完全に駆逐してしまったら、その地名はなくなってしまう。そこで地名が残っているということは、アイヌ人たちと後から来た人間たちとが共存状態であったのだろう、というふうに柳田は言っています。

 つまり、アイヌ語の地名という問題はそういう意味でとても大切なことになってきます。先住民と後住の人とが異なった人種であっても、共存していたか、駆逐してしまって新しい地名をつけたか、またはこの「さねさし相模」みたいに、枕詞の形で残したか ―― そういうふうに分けると微妙にいろんな段階があって、それはとても重要なことだなと、たしか『地名の研究』の中で言っているんです。


 これを受けて、梅原さんは次のように応答している。

 枕詞の発生はそういう二つの異言語の接触、いってみれば「春日の春日」というのは、「カスガ」をどうして「春日」と書いたかという謎を説明しているわけですね。そういう言語の違う二つの文化が接触して、そこで生ずる言語のギャップを枕詞によって埋めようとしたという説はたいへん興味深いのです。私もぼんやりそういうことを考えていました。「さねさし」は「タネサシ」から来ているだろうとおっしゃるのは、きっとそうでしょう。「タンネ」というのはアイヌ語で「長い」という意味で、「種子島」も「長い島」ですからね。アイヌ語で解ける地名が東北地方に広がっているのは当然ですけれど、もっとはるか沖縄にまであるということは非常に重大な問題だと思います。

 日本の真ん中にはなくて、北と南の両端にだけ残っている言葉がだいぶたくさんあるんですね。例えば沖縄ではサンゴ礁と海の境目を「ヒシ」といいますが、アイヌ語でも、海と浜との境目−海岸線を同じように「ピシ」というんです。ところが興味深いことには、『大隅風土記』に必志の里というものがでてきて、その必志の里に「海の中の州は隼人の俗の語に必志という」と註がついています。ということは、『大隅風土記』が作られた八世紀現在でもヒシという言葉はもう中央ではわからなくなっていたけれど、大隅の国では方言として残っていたということです。

 そうすると、ヒシという言葉はアイヌと沖縄に現在も存在し、本土では八世紀にわずかに大隅地方の方言として残っていた、この問題をどう考えるかということです。いまの「タネ」の問題でもそうですが、そういうのがたくさんありますね。たとえば「ト」という言葉はアイヌ語では湖あるいは沼を意味しますが、古くは海を意味したと知里其志保はいいます。ところが『おもろ草子』に「オクト」とか「オオト」という言葉が出てきますが、それは「奥の海」「大きい海」を意味します。本州の「トネガワ」とか「セトノウミ」の「ト」も海あるいは湖の意だと思います。利根川は海のような川、セトはおそらくセプト、広い海ということになります。

 私も枕詞についてそういうことを考えることがあって、例えば「チハヤ」という言葉があるでしょう。「チハヤビト宇治」とか「チハヤフル神」とか、『古事記』には、「チバノカドノニ」という言葉がある。「チハヤフル」「チハヤビト」「チバノカドノニ」 ―― 全部神様につながっているけれど、意味はよくわからない枕詞なんですね。

 ところが「チバ」というのは、アイヌ語では「ヌサバ」なんですよ。つまり神に祈る時にイナウというものを作るのですが、イナウが集まったものを「ヌサ」という。日本の古代語では御幣そのものをヌサというけれど、アイヌ語では御幣の集合をヌサといいまして、ヌサのある所がチバなんです。そうすると「チハヤフル」は神を祭るヌサのあるチバが古くからある、だから神につく。「チハヤビト」というのはヌサ場で一族が集ってお祭をする、だから氏につく。「チバノカドノニ」というと、チバの多くあるカドノニ。平城京跡からたくさんイナウが出てきた。古代日本にも到る所にチバがあったと思います。私はそういう解釈で、「チハヤフル」などの枕詞は理解できるのではないかと思うのですよ。

 だから、おっしゃるように、そういう異言語の接触で、枕詞として古い言葉を残しておくというのはたいへん興味深い解釈で、いま言われた「さねさし」が「タネサシ」から、というのは私は気がつかなかったのです。これは柳田国男の洞察に敬意を表したい。枕詞をもう一度、アイヌ語で考えてみることは必要なんでしょうね。金田一(京助)さんのようなアイヌは異民族でアイヌ語は異言語、アイヌ文化と日本文化とは全くの異文化であるという通説、その通説について私は批判しましたが、その通説のタブーさえなくなればいまのような解釈は十分成立可能だし、そう考えることによって、日本の古代語研究は飛躍的に進むと思いますよ。


記紀歌謡をもういちど、アイヌと琉球の歌謡との比較を通して見直してみる必要があると、お二人の意見は一致している。枕詞だけではなく、記紀歌謡の中で、どう考えても近世以来のこじつけに近い解釈が多々ある。もしかすると、そういうことは全部、アイヌや琉球の歌謡とよく照合することができれば、解明できるのではないかと考えている。
 そういう観点から、枕詞の次に取り上げられたのは「逆語序」という文法面での古層だった。


吉本さんの問題提起。

 これは地名の重ねと同じことになるんですが、琉球の古い歌謡の『おもろ草子』の中にも例がありますが、古い問題ではないかと考えていることが一つあるのです。それは僕が考えたというよりも、その前に折口信夫が「日琉語族論」などでいちはやく指摘していることなんです。

 現在の常識でいえば、地名を呼ぶ場合、東京都中央区とか京橋何丁日というふうに、大きか地域の地名を先に言って、だんだん小さくしていきます。

 ところが、折口さんは古い形はそうじゃなくて逆語序になっていて、小さい地名を先にいって大きい地名を後でいう言い方があったんだと指摘しているんですね。その例は『おもろ』の中にいろいろあります。
 「ヒルカサリ(辺留笠利)」という場合に、「カサリ」村の中の何とかという意味で「カサリ」の方が地域的に大きい。


 逆語序の関連でいうと、「大工の吉本」というのが普通の語序ですが、『おもろ』の中では「吉本」を先にいって「吉本が細工」のように、大工だから細工人というような言葉を後でいう言い方がある。折口信夫は「それは古い言い方なんだ」といっているんですね。

 たとえば「山があってその傍に村がある」とすると、それをヤマカタという。それをカタヤマというふうにいうと、後世は「片山」という言い方になってしまって、片方が削げている山みたいに思うかもしれないけれど、本当は、昔はそうじゃなくてヤマカタと、いって、山の傍という意味で、山の途中をそう呼んだと、折口さんは言っているわけです。

 それらを全部合わせて、いわゆる「逆語序の時代」というのがあったというのが折口さんのとても大きな指摘で、 僕らも初期歌謡を調べてその種の例をいくつか見つけて、折口さんの説が正しいということを論じたことがありま す。その種のことを考えていくと、これは梅原さんのご領域でしょうが、日本の古代あるいは古代以前のことは、 どうも半分だけわからないところがあるような気がしてしょうがないのです。


 この問題について、梅原さん次のように応えている。

 地名を小さい順から書くというのは、外国もそうですね。アイヌと沖縄の形容詞の書き方を比べてみると、アイヌ語はわりと自由で、形容詞が名詞の前にきていたり後にきていたり、いろいろあると思うのです。どちらの形が古いのか、そこのところはまだ検討していないのですが、たいへん面白い問題を含んでいると思います。

 これは少し大胆すぎる意見かもしれませんが、アイヌ語では顔のことを「エ」および「へ」といい、お尻のところを「オ」あるいは「ホ」というんです。古代日本語でも上と下の対立を「エ」と「オト」で表現します。「エヒメ」「オトヒメ」、「エウカシ」「オトウカシ」などです。また、「エボシ」とか「エダ」とか、上のほうを「エ」あるいは「へ」という。それでお尻のほうも尻尾のことを「尾」という。「山の尾」というのも山の裾ではなくて、ちょうど山のお尻にあたる所と考えるとよくわかる。

 ところでアイヌ語では動作を表すのに「ホ〜」「へ〜」というのが実に多いんです。人間の動作を、顔と尻の二点でだいたい表現している。それが名詞の前にもおかれ、「へ何々」「ホ何々」という。「へ何々」というのは、何々に顔を向けて、何々の方へとなり、「ホ何々」は何々の方へ尻を向けて、何々から、ということになる。こういう言葉から、さらに「へ」および「ホ」が言葉の後について、「何々へ」「何々ホ」「何々ヲ」となる。こうなると日本語の助詞「へ」と「ヲ」に近くなる。日本語の助詞と非常に似ている。「東京を発って京都へ行く」は、東京に尻を向けて京都へ顔を向けるという意味であるということになるわけです。

 そういうふうに考えると、肉体の部分を表す「エ」あるいは「オ」が前置詞のように用いられ、後に後置詞になって、助詞になってゆくという、そういう助詞の成立の過程がわかるように思うんです。さきの逆語序という問題とこの問題とはつながっているように思われて、私にはたいへん興味深い。

 それから吉本さんが「わからない部分がある」とおっしゃったのは、まさにその通りでして、私はついこの間まで、縄文文化というのはわからないと思っていたのですね。考古学ではある程度物質生活は知ることができるが、精神生活を知りえない。いくら頑張っても、考古学だけでは縄文人の精神生活や宗教意識がわかるはずがない。ところが私はいま、アイヌ文化を発見して、沖縄文化との対比で考えると、あるところまで縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのではないかと思うようになったのですね。今までわからなかった縄文文化を解く鍵が多少みつかってくると思います。


 琉球やアイヌの文化を読み解くことによって、縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのではないか、と梅原さんは言っている。それは同時に天皇制の古層を掘ることでもあり、天皇制の相対化あるいは無化へと向かう道筋でもある。
 吉本さんと梅原さんの対話は、ヤポネシアを広く覆っていたであろう天皇制以前の精神文化や宗教意識の問題へと続く。吉本さんの問題提起から。


 たとえば、中央部でも岩磐とか巨石とか樹木信仰というのがありますね。これはむしろ先住民の信仰だと考え、そこに天皇家みたいなものが入ってきて、それをそのまま容認したんだというふうに考えると、三輪山信仰でも考えやすいところがあります。

 それから、たとえば諏訪神社の信仰もそうですが、どうもこれは北方系あるいは東北からきているんじゃないかと思えるのですが、信仰の形として男の生き神様を造って、それは生涯不犯で神事ばかり司って、その兄弟が政治を司るみたいな形がいろんな所に見えるのですね。諏訪地方の信仰もそうですが、瀬戸内海でも大三島の信仰のあり方もそうです。

 そういうのと、そうじゃなくて母系制で、耶馬台国のように女の人が神事を司り、その御託宣によってその兄弟が――これは沖縄もそうですが――政治を司る、そういう形と両方あるような気が僕はするんですね。

 ですから神話の中でも、実在かどうかわかりませんが、神武というのがいて、その兄に五瀬命(イツセノミコト)というのがいますが、これは神事を司っていた長兄と思われますが、遠征の途中で登美の那賀須泥此古(ナガスネヒコ)と戦って撃退され、熊野の方に廻って転戦して、戦死してしまうことになっています。この五瀬命が、神人というか神事を司っていたと考えると、男系の匂いもするんですね。

 そうはいうものの、たとえば神武が熊野から入っていって三輪山の麓まできて、その地の村落共同体の首長の娘を嫁にもらうか入婿するかどちらかわからないが、それと結婚する。すると、それはどうも母系制に従っているようにも思える。ところがいろんなところを見ていくと、男系の神様を奉っておいて、兄弟が村落を支配するという形が、どこかにほの見えたりして、よくわからないところがあるんです。 これをどういうふうに理解すればいいのかということです。それはつまり時代の差異とか、そういうものを象徴しているのか、あるいはまた先住・後住ということを意味しているのか、それとも系統が違うということなのか、そこがよくわからないんです。


 この問題について、以下のように対話が続く。

梅原 おっしゃるように、どれが縄文文化なのか、どれが弥生以後の文化なのか、またどれが記紀にいう神武天皇という新しい支配者が出た大和朝廷以後の文化なのか、それを分別するのは容易ではないですね。私は構造として縄文文化を根底において、次に弥生文化を――神武伝承以前の弥生文化というものもあると思いますけれど――その次に神武伝承以後の大和朝廷の文化を考えますと、三輪山はどこに属するのか。朝鮮などに行くと、そっくりそのまま三輪山みたいな山があって、同じように崇拝されている。こう見ると、これは端的に縄文文化とはいえない。あるいは神武以前の弥生文化の遺跡ではないのかとも思われますが、それらは重層的に重なり合っているので粘り強く一つ一つ解いていくよりしょうがないだろうと思います。

 最後に出された男系の問題ですが、男の司祭の問題は、私は気がつかなかったが、たいへん面白い。それも父系社会と双系社会の問題と関係するのではないでしょうか。社会学者の中根千枝さんなどの考え方でも、中国・韓国は父系社会であるけれども日本はそうじゃなくて、双系社会だという。ところがアイヌも双系社会なんですね。どういうふうに違うかというと、父系社会というのは、本貫を同じくする氏により団結がたいへん固い。ですから当然大家族制になってくる。そして同姓娶らず、その範囲では結婚はできない。中国や韓国は今でもそういう社会です。

 そういう社会だと姓は増えないわけです。だから韓国は全部で二百姓ぐらいしかない。中国も百姓といいますが、今ちょっと増えましたが、少数民族を含めても五百くらいでしょうね。こういう父系社会では同姓を超えた団結はなかなか生まれません。会社でも同姓で集まるし、異姓の人が入っても絶対に社長になれないから、どうしても会社に対する帰属感がない。

 ところが日本ではそうではなくて、父系社会の団結が弱い。古代では「物部鹿島」というような複姓がある。父は物部氏、母は土着の鹿島の人、そこで物部鹿島という姓ができ、物部氏から独立する。だから姓は無数にふえる。日本の苗字というのはほとんど地名ですが、結局、氏、血よりも今住んでいる土地のほうが大事なんです。だから苗字が何十万とあるわけです。

 またアイヌでは、財産を継承するときに、男のものは父系で相続、女のものは母系で相続するのです。弓矢のような男の持ち物は男の血縁で相続され、女の持ち物は女の血縁のほうに行く。上代日本もそうではないかと思われます。それから、「同姓娶らず」の韓国では本貫を同じくする同姓のものが結婚したら、禽獣の行為だとされるくらいたいへんです。同姓を娶ったら法律で罰せられて、監獄に行かなければならない。それを免れるためには亡命をしなくちゃならん。現に最近でもそういう悲劇の実例があるのを私は知っていますよ。

 ところが古代日本の場合は、父親が一緒でも母親さえ違えば兄妹でも結婚してもかまわない。それは父系社会からみれば、まったくの禽獣の行為としかみえないかもしれないけれど、それはそれで双系社会の掟はある。母親が一緒だったら、これはやはり畜生の行為ということになるわけです。

 いまの話でいうと、初期天皇家が父系的な社会であったか、双系的な社会であったか――私は、入ってきたとき、初めは父系的であったと思います。けれど、いつの間にかだんだん双糸的に変ってきたのではないかという気がしてしょうがないんです。

 入婿の話が出ていましたが、父系社会では入婿は絶対あり得ないわけですね。


吉本 あり得ないですね。


梅原 ところが、神武天皇が大和を支配するために入婿みたいな形になっていますね。


吉本 入婿ですね。三輪山の麓の長の娘と結婚して、そこに入婿していますから。そこで僕は思うんだけれど、初期天皇でも、十代目ぐらいまでたいてい長男坊ではないですよね。それは長子相続ではなかったという意味なのか、それとも長男というのは隠れているけれど、宗教的な司祭をしていて、全然子孫を残さないことになっているから、長男ではなかったのか、そこがよくわからない。


梅原 末子相続でしょう。


吉本 それに近いと思います。


梅原 アイヌも末子相続です。アイヌは家が小さいから、大家族はできないのですね。長男が嫁さんをもらうと独立をしてまた家をつくる。兄弟がだんだん独立をすると、最後の子どもが年とった親父さんと一緒にいる。だからアイヌは財産は子どもにみんな平等に分けるけれど、最後まで親父さんと一緒にいるのは末子ということになる。ここに末子相続的な原理が含まれていると思うんですね。


 それと、いま吉本さんがおっしゃった、天皇家はだいたい末子相続ということとつながりが出てくるような気がしますね。応神天皇の時、ウジノワキイラツコとオオササギノミコトが皇位をゆずりあって困り、ついにワキイラツコが自殺したという事件がありますが、あれも伝統的な末子相続と儒教的長子相続の争いと見られます。この場合、末子相続法によって皇位の相続の権利を主張できるワキイラツコが儒教信者であり自分は相続すべきではないと考えたところに悲劇の原因があったと思います。とすると古代日本社会はアイヌ社会に似ていた。だからいまの問題は言語だけでなくて、習俗というものを考えても、アイヌと沖縄をみると古代日本のことがいろいろわかってくることになるのじゃないかと思いますね。


吉本 そう、アイヌの問題を調べていくと、弥生時代から残っているいろいろな宗教的な行事とか文化的なもの、風俗・習慣もそこに保存させている部分がありますから、そういうことがとてもわかってくるという問題があるわけですね。


梅原 しかし、アイヌにないものを調べることも大事だと思いますね。弥生時代にすでにあってアイヌにまったくないものは何かということです。それは外から持ち込んできたものである可能性が高い。アイヌでは消えてしまった可能性もありますけれど。そういうものをいろいろと比較・検討してみると、今までわからなかったものが、少しずつわかってくるのじゃないかという気がしますね。


 縄文文化と弥生文化を対比するとき、その違いは非農耕民と農耕民の違いに還元される部分が多いと思う。そして非農耕民と農耕民という場合、縄文人と弥生人という対比の外にもう一つ考慮すべきことがある。「山の民」と「里人」の対比である。

 山の民=山人とは何か。

 私たちは普通「山人」というと、木地師や 木樵などと呼ばれている人たち、さらに は狩猟を仕事とする「マタギ」や「山窩」と呼ばれている人たちを考えると思う。しかし山人研究をしていた柳田国男は、 放浪の鍛冶屋とか 鉱山師、あるいは放浪の修験者とか放浪の宗教者みたいなものも山人として考えてい たらしい。

 柳田は山人研究を半ばにして放棄しているが、これについて梅原さんが次のように言っている。


吉本 柳田さんはそれ(山人)を異人種、人種が違うと考えていたんでしょうか。


梅原 初期にはそうでなかったと思いますね。『山人の研究』で「自分の生まれたところは昔、異族が住んでいたところだと『播磨風土記』にある記事を見て、自分も山人の子孫の血が入っているのじゃないかと思った」という意味のことを言っている。それが彼にはショックだったと思いますね。だから彼はたいへん厭世的になり、民俗学の研究に入っていく。あの玉三郎が演じた泉鏡花の『夜叉ケ池』で竜の女と住む学者は柳田さんがモデルだといわれているくらいですからね。自分の血とつながっているそういう山人の文化のすばらしさを明らかにし、里人をおどろかしてやろうという気特が、山人の研究に入っていった彼の気持であり、それが『遠野物語』になってゆく。彼の民俗学の出発点は明らかに「山人研究」「異族研究」なのです。

 しかし柳田さんは大正六年頃を境として変った。山人研究は完成しなかった。おそらく私は、幸徳事件などが間接的な原因と思います。山人研究を続けていたらたいへんなことになると心配し、それは天皇制とぶつかって危険だと、官僚でもある柳田さんはそこで転向し、山人研究から里人、つまり常民の研究者となる。自分を山人じゃなくて里人と一体化する。そこで新しい柳田民俗学が生まれたと思います。そういうふうに、柳田さんには微妙な転換があるような気がしますね。だから、初期の柳田さんはアイヌに対する関心が非常に強かったのだけど、どこかの段階で捨ててしまった。柳田さんを考えるときに、そのへんがいちばん大事になってくるのじゃないか、と私は思うんです。


 山人研究から常民研究への柳田の転向の理由を幸徳事件と結びつけるのは、私には穿ち過ぎのように思える。しかし、そういう結びつきを想像できる要素が山人研究には濃厚に含まざるを得ないのは確かだ。 吉本さんと梅原さんの対話は、天皇制の基盤である農耕民とその古層の狩猟採集民との関係を神話から読み解く議論に移っていく。


吉本 そういうところから考えますと、柳田さんは何を日本人というふうに見ていたのでしょうか。
 『海上の道』でもそうですが、よくよく突きつめてみると、柳田さん流にいえば、稲作をもって南の島からだんだんと東北の方に行った、そういうものを日本人と呼んでいるみたいに思えます。これではとても狭い気がしますね。そうすると、ほとんどが日本人じゃない、ということになりそうな気がしてくるところがあるんですが、それはどうでしょう。


梅原 柳田さんは農林省ですか、勤めていたのは。


吉本 農商務省ですね。


梅原 やはり農商務省の役人としての職業意識が強くなると、どうしても日本を農業国と考える。稲作農耕民の渡来によって日本の国はできたと考えた。しかしその背後には記紀史観の影響があると思いますね。

 アマテラスオオミカミ、というのは明らかに農耕民族の神だし、その孫のニニギノミコトも農耕民族として日本の国に来た。ところが土着のクニツカミ、というのがすでにいた。たとえばオオヤマヅミというのは山民ですし、ワダノカミというのは漁撈民でしょう。ニニギとその子孫が、そのオオヤマヅミやワダノカミ、の娘を娶った曾孫が神武天皇です。ですからあの神話は、農耕民がやってきて、山地狩猟民や漁撈民と混血して、日本民族ができたということを物語っている。

 日本人は渡来の農耕民が土着の狩猟民を支配してつくった国家だ――こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思いますよ。

 しかし記紀のニニギから以後の九州での話は、事実そのままではないとしても、日本人の成立の過程についてたいへん正確に語っていると思われます。渡来した稲作農耕民を父系、土着の狩猟採集民を母系に、その二つの混血によって日本人はできてきたということをその神話は示している。そのために出産のときにトラブルが起きたりする。文化が違うと出産がいちばん問題だと思います。出産のときに必ず文化のトラブルが起きてくる――そういうものを、とてもうまく語っていると私は思いますけれどね。


 次いで、「マタギ」と「山窩」の社会習俗や宗教が話題となる。


吉本 それから、柳田さんのいう山人の中に事実として、たとえば山の中腹から煙が立っているのを見て、「あれは山窩の人がまたやってきたんだ」というような言い方で出てくるけれど、山窩というのは、つまり山人のうちにどういうふうに位置づけられるのでしょうかね。


梅原 まあ、柳田さんを読むとびっくりするのは、大正天皇の御大典のときに、京都の若王子の山の中腹から煙が出ていた、あれは天皇の即位を祝って山人がたいた火の煙だと書いてあるんですね。僕は若王子の山裾に住んでいるんで、どうしてそんなことを柳田さんが考えたか、びっくりしてしまいますけれど。(笑)

 山窩とかマタギという人たち――山窩とマタギとはどう違うのか。マタギというのは東北に住んでいる狩猟民で、山窩というのはもうちょっと中部の山岳地帯に住んでいる狩猟民ですね。マタギのほうがまだ農耕民との間の、ある種の友好関係があるけれど、山窩は差別され非常に迫害されていた、と考えていいのではないでしょうかね。

 ところがマタギ社会ですけど、ご承知のようにカメラマンの内藤正敏さんがダムで埋没する新潟県のマタギの社会を撮っていますね。この間、私も山形県の小国町という所のマタギ部落へ行って、マタギの熊祭を見てきましたよ。マタギ部落というのはもうどこでもほとんどなくなってしまいましたが、まだそこには少し残っているんです。

 熊を獲るのに、今はライフルですから、かなり遠い所からでも撃てるはずなんですよ。ところが、そんなふうにパッと撃たないで、やはり勢子が出て、熊を下の方から追い上げ、一の鉄砲、二の鉄砲、三の鉄砲が待ちうける。そしてずーっと追い詰めてきて、一の鉄砲から順に撃って行く。武器がすっかり近代的に変っても、昔、熊を追い込んで、槍で仕止めるのと同じ方法でやっているんです。

 ここにどうしてマタギ社会が残ったのかというと、彼らは片方で農耕をやっている。冬になって農耕ができなくなってからマタギの生活に入るんですね。ふだんは農耕をやって、冬の間だけマタギですから、かえって純粋に残ったのです。

 そこでいろいろ聞きましたけど、完全な共産社会ですね。分配が実に公平です。つまりマタギの親方を能力によって、今度の熊狩りには誰がいちばんいいか相談して決める。一種の職能的な秩序が完全にできていて、親方はご飯も炊かなくていいし、寝ていればいい。しかし親方の命令には全部従う。その代り、親方は責任をもたなくてはならない――そういう形でやっているわけです。ところが熊を獲って、熊の肉を分けるのはみんな平等で、狩りに参加できない未亡人とか年寄りにもちゃんと平等に分けるんです。ですからマタギ社会は見事な平等社会で、長は機能に応じてできる………というので、私は感動しましたね。

 そんな彼らが熊祭をしている。それがいつやるかというと、マタギをやめるとき、つまり熊が冬眠からさめて出て来るときに熊を獲るわけです。ですから熊を獲り終ると春で、彼らはそれから農耕生活に入るんです。その熊祭もやはり、アイヌの熊送りに似ていました。熊の魂を天に送るという、そういう意味が残っているようでした。同時に、熊祭を終えて、自分たちはこれからマタギをやめて農耕の生活に変るという、そういう意味ももっているけれども、どこかにアイヌの熊祭の面影を保っていました。

 ところで、そういうマタギとか山窩――山窩はまたちょっと生活が違うと思いますけれども ――彼らの生活習慣を見ていると、ふつうには、山人はやはり異民族だと考えられるんじゃないかと思うんです。しかし、分配の見事な平等主義の社会を実際に見ると、やはり感動しましたね。


 記紀歌謡の中には近世以来のこじつけに近い解釈が多くある。このことと山窩が結びついて思い出したことがある。
 吉本さんは著書「共同幻想論」で柳田国男の「遠野物語」や「記紀」の神話の他に三角寛の「サンカの社会」 を素材に用いている。その「共同幻想論」の「規範論」に、古事記の中の次の歌の意味について論じているくだりがある。


 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
(やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)


 通説ではこの歌を

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

と読み下している。そしてその意はおおよそ

「八雲の幾重にも立ちのぼる出雲の宮の幾重もの垣よ。そこに妻をむかえていま垣をいくつもめぐらした宮をつくって共に住むのだ」

とするのが通説だ。 学者たちは何故そのような読解と解釈をしたのか。

この歌は、「天津罪」を犯して高天原を追放されたスサノオが出雲を平定し、その地に宮を作ったという物語に挿入されている。


 故ここをもちてその速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして詔りたまひしく、

「吾此地に来て、我が御心すがすがし。」

とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。この大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。ここに御歌を作みたまひき。その歌は、


 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁


 「其地より雲立ち騰りき」という物語の地の文にとらわれてのことであるのは明らかだ。勿論これは古事記の編者の意図であっただろう。しかし、記紀の歌謡については、物語の部分とは別個に考えなければならない場合が多いことが一般に認められている。伝承の歌があってそれをもとに物語が作るられたり、物語の前後の関係からその物語にうまく会う伝承歌を挿入されたりした可能性があるのだ。

 実はこの歌はサンカの社会にも伝承されていて、サンカの解釈はまったく違うという。吉本 さんが「サンカの社会」から引用している部分を孫引きする。


サンカは、婦女に暴行を加へることを「ツマゴメ」といふ。また「女(め)込めた」とか、「女込んだ」などともいふ。この「ツマゴメ」も、往古は、彼らの得意とするところであった。そこで、「ツレミ」(連身)の掟( ヤヘガキ)ができて、一夫多婦を禁じた。それが一夫一婦(ツ レ)の制度(ヤヘガキ) である。

 ここで問題になるのは、古事記・日本書紀に記された文字と解釈である。すなはち、


(古事記)夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微雨夜幣賀岐都久留骨能夜幣賀岐衰

(日本書紀)夜句茂多菟伊都毛夜覇餓岐菟磨語妹爾夜覇餓枳菟m盧贈廼夜覇餓岐廻


 右に見るやうに、両書は、全く異った当て字を使ってゐるが、後世の学者は、次のやうに解釈してゐる。


八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を

と、決定してゐるやうであるが、サンカの解釈によると、(昭和11年、富士山人穴のセプリ外 18ヶ所にて探採)次の通りである。


ヤクモタチ(ツ)は、八蜘昧断ち(つ)であり、暴漢断滅である。

イヅモ、ヤへガキは、平和を芽吹く法律で、ツマゴメ(ミ)ニは、婦女手込めにし、である。

ヤへガキツクルは 掟( ヤヘガキ)を制定して、コ(ソ)ノヤへガキヲ、はこの 掟( ヤヘガキ)をこの守る憲法を―で、これが「一夫一婦」の 掟( ヤヘガキ)である。

 それで出雲族を誇示する彼らは、自分たちのことを、「沢瀉(おもだか) 八蜘蛛断滅」だと自称して、誇ってゐるのである。


 吉本さんは「サンカの伝承の方が確からしく思われてくる」と言い、その理由を次のように述べて いる。

 なぜこういう解釈に吸引力があるかといえば、スサノオが追放されるにさいして負わされた〈天つ罪〉のひとつは、農耕的な共同性にたいする侵犯に関しており、この解釈からでてくる婚姻についての罪は、いわゆる〈国つ罪〉に包括されて土着性の濃いものだからである。『古事記』 のスサノオが二重に象徴している〈高天が原〉と〈出雲〉における〈法〉的な概念は、この解釈にしたがえば大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接合点を意味しており、それは同時に〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点を意味していることになる。


 「規範論」はこのあと「〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点」を論究していく。


 前回、梅原さんが「こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観 だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思います よ。」と言っていた。上記のような記紀歌謡の洗い直し、あるいは記紀の神話の古層の掘り 起こしはそのことと別のことではないと思う。網野さんのお仕事もその線上にある。


 サンカの誰かが里に下りてきて、古事記あるいは日本書紀を読む機会をもった。その中の「ヤクモタツ・・・」という歌を知り、自分流に解釈しなおしてサンカ社会に流布した、なんてとても考えられない。とすると「ヤクモタツ・・・」の歌は古事記の編者が伝え聞いた伝承と同じ発祥のものを、古事記編纂の時代よりずっと古くから、古事記とは無関係に、サンカの祖先の社会に伝承され、今日まで伝えられてきたと考えるのが自然だ。そういう点からもサンカの人たちが解く解釈の方が確からしい。
 サンカの人たちは出雲族を誇示しているという。出雲族というのは歴史的な信憑性のある種族だろうか。
 出雲神話はまったくの作り話だというのがこれまでの通説だが、梅原さんはこの通説にも疑問を呈している。


 実はこの間、出雲にすばらしい銅剣がたくさん出たので見に行きました。銅剣が356本。これは今まで日本全土で出ているより多い数です。それに銅鉾が16本、銅鐸が6個――ちょっと日本の古代史を書き換えなくてはならない。われわれもそうですが、長いこと「出雲神話」はフィクションだと考えてきた、これは津田左右吉に影響された日本の古代史家が一様にもってきた考え方です。

 ところが、「出雲神話」の中心地である斐伊川の近くの、ほんの小さい丘からそれだけのものが出てきて、国譲りの話をそのままあらわしているようなことになってきた。

 それから、和辻哲郎の銅鐸文化圏、銅剣・銅鉾文化国の対立で弥生文化を、近畿文化圏と北九州文化圏の対立と考える図式もすでにおかしくなってきましたが、この荒神谷遺跡の出現でもう一度大きく問い直されなければならなくなった。

 そこで、どうしてそんなものがそこに埋められていたか、いろんな説が出ていますが――最初、銅鐸を使って地の祭をしていた。ところが今度は太陽を祀る宗教になったから、要らなくなって埋めたという説が有力のようですが、埋めたにしては数が多すぎる。それと同時に、地の神から太陽の神へと、そんな簡単に信仰の対象が移るものかどうか。どうにもうまい説明がつかないんですね。私はこの遺跡がヤマトタケルと関係する記紀や『風土記』のタケルべの里であることを考えて、やはり出雲権力の大和権力への降服儀式ではないかと思いますね。


 「発掘・日本の原像」がこの神庭荒神谷(かんばこうじんだに) 遺跡に関連した記述をを書き出してみる。


  島根県松江市に弥生時代の戦場跡らしい遺跡がある。田和山遺跡という。この田和山の西約 40kmに出雲大社、約17km西南西に神庭荒神谷と加茂岩倉の両遺跡がある。

 この田和山遺跡は標高46mの丘陵にあり、2100年あまり前の弥生時代前期後半につくられ、200 年ほど続いた不思議な遺跡だという。まるで砦か、聖地のようだという。人が住んでいた形跡はない。こんな弥生遺跡はきわめて珍しい。見晴らしの良い丘陵に、倉庫にしてはあまりにも小規模、しかも厳重な防衛態勢をとって営まれた形跡が濃い。いったいどんな施設だったのだろうか。神庭荒神谷遺跡はこうした周辺の遺跡とも関連して考えなければいけないだろう。

 神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣、銅鉾、銅鐸が発掘されたのが1984年。梅原さんがそれに注目して上記のような発言をしたのが1986年のこと。その後、1998年には吉野ヶ里遺跡から九州初の銅鐸(高さ約26cm)が発見されている。さらに99年6月、これまで6種類以上の鋳型が出土している大阪府茨木市東奈良遺跡から、朝鮮式小銅鐸と日本式銅鐸双方の特徴をもち、「日本式が考案される過程でつくられた祖形のひとつで、絶滅してしまった型の遺物」ともいわれる古い銅鐸(高さ14.2cm)が出土している。同じ年の9月には奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で、類例のない文様の銅鐸鋳型が見つかった。このように近年、銅鐸関係の新発見が続いている。しかし、鋳型が見つかった約35ヵ所のうち、30ヵ所を近畿地方が占めている。


 このため、春成秀爾・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は「近畿に銅鐸の中心部があったことは依然、揺るがない」という。そして「高度で繊細な技術やデザインなどから見ても、銅鐸は当時の地域集団にとって、格別なものだった。とても対価を支払って入手できるものではなく、製作も限られていた。贈り主と贈られた相手の間には、半永久的に従わざるを得ないような関係ができたに違いない」とし、社会統合の象徴とも考えている。

 銅鐸はこれまで、その用途や埋納目的に関心が向きがちだった。奈良国立文化財研究所は、加茂岩倉銅鐸の原料産地などの科学分析を始めている。詳しい分布状態や製作推定地、兄弟関係などから、銅鐸の「動き方」が解明されれば、ここからも弥生社会の実態が見えてくるだろう。


農耕があると富の蓄積がきくわけですね。狩猟社会というのは絶えず移動していますから、富を一カ所に貯蔵することはなかなか困難ですね。だから例のオオクニヌシノミコトが袋を背負っていくというのは、狩猟民族の移動方法を示しているのではないかと私は思います。

 獲物があった場合でも食べられない分は腐ってしまいますから、自分だけ一人占めにすることはできないだろうし、部族の全部に分ける――そういう、非常に共産主義的な社会だったと思います。

 ところが農耕が発明されて、富の集中が可能になり、そしてそこから国ができる。国ができれば国家を統一する大宗教、世界宗教が出てくる。そして巨大な神殿ができてくる。それからそれに対して必ず文字が出てくる――ということになると思うのですが、縄文文化というのは、そういう意味でいうと、すでに世界の他の地区にそういう大文明が出現しているのに、一時代前の生産方法のもとにかなり精神的に高い文化を発展させた特殊な文化であったと思いますよ。

 日本では農耕の成立が遅れ、巨大な国家の出現が遅れたために、富の集中する社会が出てくるのがたいへん遅かった。それから文字の出現も遅かったと思いますが、それはいいことではなかったか、といま僕は考えているんですよ。

 国家のできるのが遅かったからよかったという考え方です。巨大国家が造られたときは富の集中があって、階級社会ができて、うんと金持と貧乏人の差ができる。そういうところから生ずる人間の心の歪みがたいへんきつい。そのきつい歪みを世界宗教が反映しているのではないかと、私は思うんです。


 縄文文化は、巨大国家や大文明は生み出さなかったが、それはむしろよいことだったのだと言っている。大文明の代わりに「精神的に高い文化を発展させ」ていた。現代の人類が陥っている陥 穽から人類を救い出し人類の未来を開くための新しい思想あるいは倫理を創出する手懸りが、 縄文文化を発掘・考究することによって得られるのではないか。梅原さんと吉本さんの対話から、 こんな壮大なモチーフが浮かび上がってくる。

 さて、いきおい、お二人の話題は「日本国」ということになる。 梅原さんの要請に従って、吉本さんが「共同幻想論」のモチーフと方法論を次のように語っている。


吉本

 制度的というか、政治的というか、そういうところから考えると、日本人の歴史と、日本国家、つまり初期の大和朝廷成立以降の国家らしい国家が農耕を基礎にしてできあがったことは同じではありません。つまり日本国の歴史と日本人の歴史は違って日本人の歴史の方がずっと古いわけです。それこそ縄文早期、あるいはもっと前から始まっているかもしれませんから。日本人の歴史と日本国の歴史――もっといえば天皇家の歴史とを全部同じものとして見るのは不当ではないかという感じ方はあったのです。

 だから、天皇家の始まりが日本国の始まりというのはまだいいとしても、天皇家の始まりが日本人の始まりだ、というのは少なくとも違うから、日本人の歴史というところを掘り起こしていけば、天皇家を中心にしてできた日本国家の歴史のあり方を相対化することができるのではないかということが問題意識の一番初めにあったわけです。


 網野さんの厳密な定義に従えば、日本国成立以前には「日本人」はいなかったことになるが、吉本さんが「日本国」と「日本人」とを使い分けている意図が網野さんの問題意識と同じであることは言うまでもないだろう。吉本さんは「日本人」という語を「日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉」として用いているのではない。ヤポネシアを「日本列島」と呼ぶときと同じで、吉本さんがこの文脈で「日本人」というときの「日本」は国名ではなく地名を表していると考えてよいだろう。
 不要な解説だったかもしれない。吉本さんの発言の引用を続ける。

 ですから初めの頃、熱心にやったのは、天皇家の即位の仕方とか宗教の作り方というもの――僕は主としてそれを琉球・沖縄をみて、沖縄にずっと後まで、十世紀以降まであった聞得大君(キコエオオキミ)という女官の制度的な頂点にいる、宗教を司る女性たちの即位の仕方と比べると、たいへん似ているところがあるのではないか、そこを知ろうとしました。
 『共同幻想論』の中では何を考えたかというと、能登半島などの田の神が来訪してくるという田の神の儀式と、大嘗祭の神事のやり方とがわりあい似ているのではないか。同じ型があるのではないか――それを調べて研究すると、日本人の歴史という問題と天皇家の成立以降の国家の歴史、あるいは天皇家の祭儀や祭の中に残っている制度的な名残りなどを類型づけられるのではないかというふうに考えて、初めはそんなことばかりつつき回していたように思います。

 初期の天皇家が大和盆地に入ってきて、そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰のありかたは、沖縄の聞得大君の即位のときの信仰のやり方と似ていて、いずれもはっきりいえば一種の巨石信仰あるいは樹木信仰みたいなもので、その巨石や樹木、あるいは小高い丘の頂点から神が降りてくるという感じがあって、それは同じ類型づけができるのではないかと考えたんです。

 それが、天皇家あるいはもっと普遍化して農耕民に特有な信仰だったのか、あるいはそれ以前からあった信仰を継承したのか、そこがわからないから、初めは農耕民のいちばん古い祭の仕方を、天皇家が大和盆地で継承して最初にやったのだと考えたのですけれども、後になるにつれて、それは前からいた先住民の信仰ではないのかと思えるようになってきているんです。でも本当は、そこがよくわからないんです。

 つまり初期の天皇をみていても、相続は少なくとも長子相続ではない。しかし婚姻になるといつでも姉と妹がいて、入婿的で、女系的な匂いがするのは確かです。そうすると、そこのところはどういうふうに理解したらいいか。つまり宗教的な為政と、現実に一族のあり方としてとっている相続の形とがどうしても混合していて、よくわからないというのが問題です。

 これと異質なのは、縄文時代からの狩猟民的な祭式といわれる、諏訪湖のほとりの諏訪神社の祭のあり方と相続の仕方です。あれは男系の子どもを連れてきて、何十日かその子どもを籠らせたあと、岩盤みたいなものの上で相続の儀式をする。それは一種の生き神様の役割をさせるという形で、大和朝廷が近畿地方、大和盆地でやったやり方とちょっと違うんですね。

 それと、瀬戸内海の大三島神社の古くからの相続の仕方――河野氏の祖先でしょうけれども ――あのやり方が、兄が生き神様を相続して、それは生涯結婚できず子孫を残すことかてきないことになっていて、弟が支配するという形を強固に保ってきた――わずかにその二つぐらいが異質だということがわかっていた。

 江上(波夫)さんのいうように、もし大陸からやってきたのが天皇家だというのならば、そのとき大勢の原住民がいて宗教的な形態も決まっていた、そこに支配的な民族が土着の人たちより少人数という形で入ってきた場合に、自分たちの宗教を押しつけるものなのか、あるいはそこに元からあったものをうまく使うのか――僕は、そこのあたりの解明がとても重要ではないかという感じがします。


梅原

 記紀の記事を尊重すると、神武天皇の次に重要なのは崇神天皇でしょう。神武天皇も崇神天皇も、どちらもハツクニシラススメラミコトといわれている。どうして二人に同じ名前をつけたのかという問題が生じてくるけれども、政治支配は神武天皇から始まっている。記紀の記述に従って南九州からやってきて、巨大な統治政権を固めたのが神武天皇だとすれば、それの宗教的な基礎を固めたのが崇神天皇であるということになる。そういう意味で崇神天皇が神武天皇とともにハツクニシラススメラミコトと呼ばれるのだと思います。

 崇神天皇の時代に疫病がはやってたいへん多くの人が死んだことがある。どうして疫病がはやるのか占ってみたら三輪の神様が崇っている。そこで三輪山の神様の子孫であるオオタタネコを見つけ出して三輪山を祀らせたら、疫病はおさまって日本の政治はうまくいったという記事が『古事記』にも『日本書紀』にも出ているんです。

 これは、神武天皇以後九代までの天皇が向こうからもってきた、近くは南九州、その前はおそらく朝鮮半島からもってきた宗教で交配しようとしたけれどうまくいかない。そして世の中がいろいろ乱れたので、結局、先住民が信仰していた宗教を祀ることによっておさまった、ということではないかと私は解釈するんです。三輪山の宗教が縄文時代までさかのぼるものか、それとも弥生時代に始まるものか、これまた難しい問題ですが……。

 一応、日本の国を考えるときに、言語だの宗教だのはだいたい土着のものを基本にして、それを継承したのではないか。そうしないと、少数の支配者が多数の被支配者をうまく治めることはできないだろうと、そう考えているんです。

 それでは先住民、縄文住民の宗教はどうであって、弥生初期にどう変って、再びいまの天皇家の祖先が来たときにどう変ったかということはなおわからない。私は、いわゆる神様が山の峰に天降って、それが現在の支配者の祖先だという考え方は、天皇家が大陸のほうからもってきた思想ではないかと思っていました。ところがそれもやはり、それ以前の縄文時代の人たちがすでにもっていた考え方ではないか――沖縄やアイヌの例もあって――そういうふうに今は考えております。
 アイヌでもかれらの祖先が降った山が必ずあるところを見ると、天上から神が降臨するというのがアマツカミ渡来農耕民の考え方であるとはいえないようです。

http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/nippontoha.html

ヤマト王権の出自(1)


 吉本さんと梅原さんの対話が次に取り上げたのはヤマト王権の出自である。この問題に まつわる事柄はいまだほとんど仮説の域にあるが、それらの仮説を照らし合わせたり組み合わせたりしながら、より信憑性のある説を作り出すほかはない。そのときの基準・方法は たぶん、「常識的な感性」だと思う。
 ヤマト王権は弥生文化を生活基盤とする人たちによって樹立された。ヤマト王権の出自を問う前に弥生文化がだれがどこからどのようにヤポネシアに伝えたのか、まず歴史学者の見解を聞こう。「岩波講座・日本の歴史1」所収の山尾幸久氏の論文「政治 権力の発生」を利用する。山尾さんはもちろん、考古学や文献学の成果を論拠にして論を進めているが、それらの論拠は省いて、大まかな論旨だけを追うことにする。
 朝鮮に青銅器文化が始まったのは遅くとも前四世紀ごろを下らないとといわれている。やがて中国戦国時代末期、前240年代〜前220年代、燕や斉の亡命者が鋳造鉄器を朝鮮にもたらした。 漢が朝鮮に四郡を設置(前108年〜前107年)した後には錬鉄鍛造品も作られるようになったという。 南部朝鮮が鉄器時代に入るのはさらに一時期遅れて一世紀とされている。
 燕や斉の亡命者は鉄だけではなく、鉄とともに稲をももたらしたと考えられる。 「日本の弥生文化複合の物質的二大要素すなわち鉄と稲」はまず朝鮮半島に伝えられた。
 そのころの南部朝鮮の人々の生活様式特色の一つは西南部の多島海などでの漁撈活動にあり、 造船・航海術にも習熟していたことが察せられる。また、低湿地では初期的な水稲栽培が行われていたと考えられる。

 さて、中国を統一した漢は朝鮮を征服して四郡を設けた。そのうち「真番」という郡は早くも26年後(前82年)完全に放棄された。その理由として反乱などの外的要因は考えられない。そこで山尾さんは次のように推論している。
 漢の郡県制支配の特色の一つは、前後三回行なわれた戸口調査を基礎とする人頭課税と力投 徴発であるが、国家権力の基盤「庶民」「編戸の民」の中心、力役や兵役を負担する15〜56歳の男子が種々の方法で国家権力の掌握から逃れて減少し「荒地」(『魏志』韓伝)と化した場合、 長吏を派遣して郡県として維持する意味は稀薄になる。真番郡廃止の理由の一つとして、この ような事情があったのではなかろうか。(その逃亡者たちが)豪族の私的経済機構に流入する といった事態は考えられないから、郡県支配の及ばぬ地に、かなり多数の人々が新たな安住の地を求めて移動したのであろう。

 漢の郡県制を嫌った南部朝鮮の人々の中にヤポネシアにまでやってきた人たちがいただろう ということは、地理的条件や北九州の海民たちの活動からも容易に考えられる。山尾さんの説は次のとおりである。

 北部九州人の縄文晩期以来の南部朝鮮人との接触または歴史的親縁性を前提として、当初の ある期間、弥生文化の主として物質的・技術的領域などが学ばれていたのであろう。その後し ばらくして伊勢湾沿岸までの西日本に、比較的短期間に人間集団が飛び地的に移住することに より、この文化が伝播したとされる。その人間集団は南部朝鮮の系統であったらしいが、しか し水稲栽培がなぜ日本列島に定着したかとは一応別個の説明を要するはずの、南部朝鮮からな ぜ人間集団が移住したかの問題は、いまだ必ずしも明らかではない。弥生時代の開始期を想定するについても、その時期の南部朝鮮の可耕地がどのように分布しており、いかなる稲作がど の程度行なわれ、人間集団を移住させた特殊歴史的な事情はなにであったのか、あまり関説されてはいないように思われる。小稿のように鉄と稲との大同江流域への伝来を前三世紀後半と考え、南部朝鮮への伝播や北部九州人の海を越えての接触による習得の期間をある程度考えた場合、前三世紀じゅうに、南部朝鮮人または北部九州でのその二世などが、畿内から伊勢湾沿 岸にまで移住して弥生文化を伝えたといったことは、あまり考えられなくなる。かりにそのよ うなことがあれば左に述べる特別の政治的事情は畿内などへの弥生文化伝播の第二波であった ことになりかねないが、小稿は、前記した前108年ないし前82年の、真番郡の設置から放棄まで の時期に、注目したいのである。

 朝鮮半島西南部全羅道地方の、鉄器を使用し稲作を行ない、航海にも長じた半農半漁民の一 部分が、漢の郡県制支配を忌避して朝鮮半島東南部慶尚道地方などに移住する過程で、さらに その一部分は、すでにかなり長期にわたって接触があった北部九州にも渡来し、西日本の各地に初めて進出したと考える可能性もあるのではなかろうか。

 こう考えると朝鮮四郡の設置は、北部九州などに限られていた弥生文化の西日本各地への伝播の直接的契機であり、弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した ことになり、朝鮮のそれ自体が、江准地区や山東地方の稲作や墓制、北アジアに系譜がたどれる遼寧地方の牧畜民の青銅器文化や墓制、もちろん戦国期の四大文化系統の一つとされる燕・斉の鉄器文化等々が、朝鮮半島西南部の河畔・沿海の漁撈生活者としても特色があった人々の新石器 文化を基礎として、習合したものであったことになるであろう。
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山尾さんの説から当面のテーマに沿った部分を取り出してみる。

1. 朝鮮半島西南部と北部九州とはかなり長期にわたって接触があった。

2. 北部九州に朝鮮からの本格的な移住が始まったのは、真番郡の設置から放棄までの前108年〜前82年ごろからである。

3. 弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した。


 また、山尾さんは中国の史書の記述を詳細に吟味して、そこに登場する倭人の「国」の地理上の位置を次のようにまとめている。すなわち『前一世紀中葉ごろの北部九州の多数の「国」、一世紀半ばの那珂郡の「奴国王」、二世紀初頭の北部九州の「倭国」とその王、三世紀中ごろ、「親魏倭王」が都する畿内の「邪馬台国」』。「邪馬台国」畿内説を採用しているが、「邪馬台国」がどの地方の「国」なのかという問題は、いまは問題としない。そのかわりに初期ヤマト王権の王と考えられている「倭の五王」の記事が「宋書」に書き留められたのが413年〜502年であることを付け加えておきたい。

 以上のことを前提として梅原さんと吉本さんの対話に戻る。

 まず江上波夫さんの「騎馬民族渡来説」が取り上げられる。「騎馬民族渡来説」は、たぶんいまは歴史学会ではまったく問題にされていないのではないか。吉本さん、梅原さんももちろん否定的取り上げている。

 吉本さんは時間の幅を問題にする。異質の宗教と乗馬の技術と武器をもった一団が、何の抵抗もなくスーッと入ってきて短期間に畿内へ進出したと考えるのは不自然だという。 ヤマトにやってきたヤマト王権の祖先が騎馬民族だったのか、北九州の定住民だったのか、あるいは記紀が記述するとおり高千穂の峰あたりからやってきたのか、いずれにしても九州に定住した弥生人であり、幾世代もの定住を経ながら漸進してきたと考えるのが自然だという。

 そのそのように考えるヒントの一つとして柳田さんの考えを紹介している。


 そこで、興味深いと思えるんですが、稲の種子とか耕作をもって南の島づたいに来た人たちはどうやって近畿地方に入ってきたかについて、柳田さんが言っていることは、外側、つまり四国の土佐の太平洋側を海岸伝いに通って近畿地方に入るのは、それほど高度な航海術や大きな船でなくても可能であったということです。けれど、豊後水道か北九州の関門海峡かわかりませんが、そこを通って瀬戸内海を航海するというのは、相当な航海術と船の大きさとがなければできなかったといっています。

 だから、柳田さんの考え方を敷術すると、琉球・沖縄から島づたいにやってきた、稲作をもった人々は、南のほうからやってきて、海峡を通って瀬戸内海から近畿地方に入るという船の技術が充分に身につくまでは、そこまで来るコースによって北九州か南九州かわかりませんが、そこへんの沿岸に何代かにわたって住んでいた、というふうに潜在的に考えていたんじゃないか、と僕は思っているんです。

(中略)

 つまり日本列島で人類が発生したと考えない限りは、どうせ大陸から渡ってきているわけですから、おおざっぱにいえば王権も民衆も大陸から渡ってきたというのは確かでしょう。しかし、それは時間的にたくさん幅をとらないといけないので、あまり早急に考えると違ってくるのではないか。


 柳田さんは稲と稲作技術が南の方から伝わってきたという説に依拠している。私が冒頭にまとめた朝鮮渡来説とは真っ向から対立する説である。南方渡来説が今なお有力な説の一つなのかどうか詳らかにしないが、ここでは太平洋側の海岸伝いの航海より瀬戸内海の航海のほうが難しいという点に注目したい。そして、弥生人の移住が本格的に始まってから「倭の五王」までに数百年の時間があることを考慮すれば吉本さんの「時間的にたくさん幅をとらないといけない」という判断はきわめて「常識的」だと思う。

 この吉本さんの考えを受けて、梅原さんも「騎馬民族説」を二つの点で退けている。一つは歴史書にその反映がないこと、二つは騎馬民族は父系社会で日本は双系社会と間には相当に断絶があるという点をあげている。そして、梅原さんはさまざまな新説よりも記紀の記述のほうがずっと納得できるといっている。


 その点、『古事記』にあらわれているニニギノミコトから神武天皇までは――曾孫ですね。これは非常に自然ではないでしょうか。ニニギノミコトというのは向こうから来た種族にしても、その次に来ると、オオヤマヅミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメとの間に次の子ができて、それが二代にわたってワダノカミの娘との結婚によって神武ができるということになると、外国から来た血統が結局、八分の一になってしまいますね。そういう土着の血が入らないと渡来民が、なかなか日本を支配することは難しいのじゃないかという気がしますね。

 それでもしかし、神武天皇が大和に入ってくれば、さっそく土地の娘を娶らなきゃならんということになる。次代の天皇は、九州の女の子どもではなくて、大和の三輪山の神の血を引く娘の子どもでなければならぬという――こういうところにそれが事実でないとしても日本の国の成り立ちが、大変よく説明されているような気がするんです。ですから、いろいろな人が頭で考えた戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないかと、この頃思うようになりましたよ。

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 それを認めても、決して国家主義の史観にはならないのではないか。天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった、そう考えさせるものがすでに記紀の中に秘かに含まれているのじゃないか、という気がしてしょうがないんですね。柳田国男とちがって記紀神話を、天つ神の方からでなく国つ神の方から読むことが可能ではないでしょうか。

 「天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった」というくだりの「日本人」「日本文化」は、もちろん「縄文人」「縄文文化」と読まれるべきだろう。また「天つ神の方からでなく国つ神の方から読む」という読み方により新たに開けてくるものがあるかもしれない。梅原さんの仮説を聞いてみよう。

 そして、それは南九州の権力が大和に攻めてきたということになっている。文化的にみると、北九州は弥生時代にすばらしい文化をもっているわけで、北九州文化圏あるいは大和文化圏と二つの文化圏があって、弥生時代の末になって一つに統一される、ということが大体いえるわけですね。そこで和辻(哲郎)さんは、北九州権力が大和に攻めてきて、統一したのではないかと考えている。私もそういう考えでしたが、だんだん記紀神話どおり、北九州権力ではなく南九州権力が大和へ攻めてきたと考えた方がいいのではないかと考えるようになってきた。

 大体、そういう言葉があるように、金持ちはあまり喧嘩しないもんでね(笑)。アレキサンダーとかジンギスカンのように、遠征したり冒険したりするやつは、みんな貧乏でハングリー精神をもっている(笑)。だからおおよそ弥生末期にいわゆる天孫族が外国から日本に入ってきたとしても、北九州のいいところは全部、先に来た部族に押えられていて南九州にゆくより仕方がない、そして南九州は環境的にとても不利なところですよ。ああいう所で農業をしていたら食っていけないに決まっているから、そこで大きな賭に出た。今でも薩摩の人は気が荒い。おくればせに日本にやって来た天孫族とアマ族との混血の部族集団が大和へ攻めてきたと考えてよいと思う。

 そして、宮中儀式に使ういろいろなものは、南のものが大変多いですね。例の仁徳天皇の豊楽の式のときに、紀州でも南の新宮地方にしか出ないようなミツナガシワが必要になって、それを求めるために仁徳天皇の皇后のイワノヒメが紀州に行く。すると、その間に天皇はワカイラツメと浮気をしていた。カシワの葉を船に積んで帰ってくる途中でその浮気のことを聞いたイワノヒメは、怒って摘んできたカシワをみんな海へ捨てたという話がありますけど、そんな南にしかないものが即位の式に必要だということは、やはり南方説をどこかで裏付けているような気がしますよ。だから僕は、そういう意味で、記紀神話というのが意外に事実を忠実に伝えているのじゃないかと考えているんです。


 どうやら弥生人は稲と鉄とともに、中国大陸の殺戮・略奪・征服による富と権力の樹立方法をも携えてきたようだ。縄文時代の穏やかな暮らしは一変する。

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話題は再度、精神文化とくに信仰や祭祀の問題が取り上げられる。まず神道について梅原さんが自論を展開している。その根源を縄文時代までさかのぼれる宗教としてとらえている。

 日本の土着宗教は二度、国家による大きな変化を受けた。一度は律令時代、もう一度は明治以後。ふつうわれわれが神道と考えるのは律令神道で、これも当時としては大変新しいものだったのではないだろうか。国家を造っていく場合に、

「要らないやつは祓ってしまおう。そして、心の悪いやつを改心させよう」

という、祓い禊の神道ですが、これもそれほど古いものではないと思うんです。あの時代、7,8世紀に、むしろ道教などの影響を受けながら作られたものだと思います。

 ちょうど明治以後の国家神道が、ヨーロッパの国家主義を伝統宗教で受け止めようとして生まれたように、律令神道も律令国家建設という大きな歴史的課題のもとで、道教を神道の伝統と結ぴつけてつくりだされたものだと、僕は考えるのですね。


 この観点から、政治家たちが政治的に利用して日本の伝統と妄言している「靖国神社」について、次のように述べている。


 靖国神社にしても、あれは日本の国のために死んだ人だけ祀っているんでしょう。ところが、日本の神道の本来はそうじゃないですよ。自分たちがやっつけたほうを祀っている。それのほうが恨んでいるわけですから、それの鎮魂をする知恵なんです。だから敵を味方にする知恵ですね(笑)。自分のほうだけ祀るのでは、昔の敵はいよいよ恨みを深める。これは、日本民族の知恵と反対のやり方だ。だから僕は、明治の国家神道は、ほとんど外来のものだと思うんですよ。


 では国家による作為を受ける以前の土着宗教はどんなものだったのだろうか。


 日本の土着宗教の最も基本的な哲学は、やはり霊の循環という考え方じゃないかと、この頃思うんです。人間の生まれてくるのは、霊が肉体に宿ることから始まりますが、その霊がやがて肉体を離れて天に帰って行く。すぐには天に行けないから山にゆき、そこで清められてから天に行く。そして天に何十年、何百年いて、またこの世に還ってくる……。これは人類が自分の住んでいる世界を考える場合、すべてそういう循環の理に従っていると考える。太陽が朝昇って夜没する。そして次の朝また出てくる。太陽も生きて、死んで、また復活してくる。月が満月になったり欠けたりするのもそうだ。植物も春夏秋冬と生死のリズムを繰り返す。昆虫も同じである。そういう循環する世界を見ていたら、人間の霊魂も、一度天に昇って、また還ってくると考えるのは、きわめて自然でしょうね。

 その霊魂が人間・動物・植物みんな共通で、そういう生死の輪廻を無限に繰り返しているという世界観は、旧石器時代の人類に共通したもので、とくに狩猟採集文化が後代まで続いた日本では非常に色濃く残っているのじゃないか、といまは考えているんです。

 神道の本質は基本的にはそういう思想にあるんじゃないかと、この頃考えているんです。で、僕はそういう考え方がだんだん好きになってきたな。死んで地獄へは行きたくないけれども、極楽へもあんまり行きたくはない(笑)。極楽を考えるのは、よっぽどこの世で恵まれてない人間ですよ。向こうへ行ったら、今度は腹いっぱい食べて女にもてたいと思っている。死後の地獄極楽という考えの中には、この世はどうにもならない悪の里だという考えがある。(笑)

 ところがキリスト教のようになってくると、イエスが再臨して、最後の審判がある。そこで良いものと悪いものが二分され、裁判される。これはニーチェのいうように復讐心の末世への投影である。仏教は少しちがうが、やはり地獄極楽に分かれる。キリスト教や仏教の世界観は、厳しい階級社会から生まれてきたもので、どうも日本人の本来もっている世界観のそれとは違う。死んでも、ときどきはお盆やお彼岸には孫の顔を見に還ってきて、あんまり邪魔しないで三日ほどで帰っていって、何十年、何百年、天に留まって、また子孫に生まれかわってこの世に還ってくる……。こういう世界観が、だんだん好きになってきました。

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楕円構造の文化


 梅原さんは日本の文化を中心(焦点)が二つある楕円構造をしているものとしてとらえることを提唱している。

 僕は日本文化を楕円構造をもつものと考えると一番いいと思っている。一つの中心は縄文文化で、もう一つの中心が弥生文化です。日本の精神構造は縄文的なものに大きく影響されていますが、技術的なものや制度的なものは、やはり弥生の精神で、弥生時代以来、ずっと日本人は大陸から先進文化を輸入している。古い伝統的な縄文文化を精神の根底にしながら、絶えず海外の文化や制度を貪欲に輸入している。この二つの面を考えないと、日本文化は解けないと思いますよ。

 ただ、私も一貫して日本とは何かを考えてきた点でナショナリストですけれど、日本文化の根底をずっと掘っていくと、今の人類が失ってはいるが、かつて人類が共通にもっていたものにぶっからざるをえないと思います。
 私はそれを「縄魂弥才」といっているんですよ。縄文の魂に弥生の知恵――日本人は、そういう矛盾する魂を自己の中にもっている。たしかに狩猟採集時代の文明にふさわしい魂をもっているが、弥生時代から新しい文明を海外から移入し続けていることを、つまり私のいう弥才と称するものを考えないと日本文化は十分よく解釈されない。この縄魂弥才が後に和魂漢才になり、また和魂洋才になったというのが私の考え方です。

 吉本さんは、日本文化はわからないことが多いと謙虚におっしゃるが、それは本当だと思います。まだ分からないことが多い。私のは一つの仮説ですがこの仮説は誤っているかもしれない。日本の文化が世界の文化の中で、どのような特質をもっているのか、そしてそういう特質をもった日本文化が今後の世界にどのような役割を果たすべきなのか、こういうことを個別科学の正確な認識にもとづいて、多くの学者でそれを明らかにすべきです。そしてその仮説は出来るだけ多い方がよい。多い理論が自然に淘汰され必要なもののみが生き残るのが歴史の摂理なのです。だけど仮説なしには生きてはゆけない時代が来ているように思うのです。


 一方、吉本さんは日本を日本の中から見る眼のほかに上から大きく見る鳥瞰の眼をもつ必要があると指摘している。また、日本と日本人の分からなさのゆえんを述べて、梅原さんが言うところの楕円構造と同趣旨の意見を述べている。

 これは、梅原さんの日本学というものの根本的なモチーフになるわけですが、僕はとても内在的といいますか、自分の中から見る眼を使うと、とても面白い考え方だと思いますし、それはとても重要な問題提起だと思えるんです。でももうひとつ、いわゆる鳥瞰というか鳥の眼で見る見方からいきますと、どう考えても日本国は東アジアの片隅の、小さな島に過ぎません。先ほどの地名でいきますと、アジア・オリエントの一般的な制度・風俗・習慣・思想・宗教を考えてみますと、アジア・オリエントのそういうものがまず最初にあって、その次にたとえば東アジアの風俗・習慣・宗教・思想というのがあって、そこに今度はまたもう少し島という条件がひとつ加わって、この島も地形がかなり細長くて北と南にわたっているから、とても特殊な島でしょうけれど、そういう島という条件があって、その条件をまたアジア・オリエントの一般条件の中から特殊に考えていかないと、日本の問題はわからないよ ――と考えています。つまり大きな地名から小さな地名、それからまたその下にある小さな地名……と考えていきますと、「日本学」というものを取り出して、つくりあげていくという考え方と、もうひとつ鳥の眼で見る見方と……その両方の交錯点的なものを想像力の中で入れてないと、なんとなく特殊の普遍化みたいな感じがするんですね。

 そういう点はどうでしょうかね。そういうところが、梅原さんの日本学という概念は、特殊をとても普遍化するといいましょうか、そういう感じがしないこともないです。

 僕は、いま梅原さんが言われたことと同じことなんですが、ニュアンスを違えて考えて、日本も日本人も、よくわからないなと思っているところがあるんですね。

 つまり先ほどから、アジアの全体から見て東アジアの片隅の小さい島だと考えて、地勢的には済んでしまうところもあります。現在の日本を考えると、世界第二の先進国だというのが気になってきます。現在の日本の社会の規模と高度さを支えている技術の多様さは、ちょっとどうしようもないくらい高度なものです。多分、理屈とか技術の詳しい内容はわからなくても、この間行なわれた筑波万博を見ても、秋葉原の電気製品街を歩いても、どんな高度な技術製品が並べてあっても、民衆の誰もびっくりしない。何か一種の古さと、わけのわからないほど高度になっている新しさとが共存している奇妙なあり方はたいへん不思議な気がします。これはちょっと、日本というのはわからないぜ、というのが僕の実感ですね。

 梅原さんが言われたように、僕も楕円というのを考えていて、世界有数の高度な技術を持っている技術民としての現在の日本あるいは日本人と、依然としてアジア的な農耕社会の共同体意識を残している古い面の日本あるいは日本人と、この二つの軸を中心として回っていて、しかも共通に重なり合う部分もあると思います。この二つの軸を強いて一致させてはいけないのではないかというのが僕の考え方です。そう考えていかないと日本についての理解は間違えるのではないかと漠然と考えています。

 梅原さんが日本の歴史の深層を掘っていき、弥生的と縄文的という両方の軸を考えないといけないと言われたのは、そういう意味でとても興味深いことですね。


 網野さんが農耕民以外の人たちに焦点当てたり、島国の中だけでなく海の方にも視線を向けてるのも、梅原さんや吉本さんと同じモチーフによるものだと思う。

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梅原さんは記紀神話には歴史的な投影があるという仮説のもとにヤマト王権の祖先を南九州から大和に侵略してきた種族だと考えている。この問題をもう少し追ってみる。

 久しぶりに本屋をのぞいたら「歴史としての天皇制」という本が眼にとまった。その中に書名と同じ「歴史としての天皇制」というテーマでの網野さんと吉本さんの対談が収録されている。川村湊さんが司会役ということで参加しているが、むしろ鼎談といったほうがよいだろう。その鼎談がもたれたのは 1987年で、「対話・日本の原像」の一年後ということになる。 その鼎談の中に次のような興味深い話がある。


吉本

 ぼくは高千穂というところに行ったことがあるんです。車で3時間も4時間もかかる山のなかへ皇族というのが参拝に来ていて、記念の植樹とかあるんです。だけども、なんとなく、おおっぴらには参拝に来たことを、言えないみたいなところもあるんですね。

 なぜならば、おおっぴらに高千穂神社に参詣したと言っちゃえば、神話のなかの、自分たちの出自はあそこらへんの縄文中期に栄えた山のなかの村落にあったんだと認めたことになっちゃいますからね。天皇制がさ。つまり神話のとおりに、自分たちの祖先は南九州の山のなかの縄文時代の村落がたくさんある、そういうところが出自だとおおっぴらに認めることになるわけでしょう、間接的に。

 だから、ぼくはなんとなく、これはひっそりと来ているなという感じを持ったんです。それはとても面白かったですね。あれは、ひっそりと参詣に来て、ちゃんと何々が来た、記念のなんとかと、ちゃんとあるからね。だから、ひっそりとは、ちゃんと参詣しているんですね。

 それは神話にそう書いてあるから、なんか自分たちの祖先はあそこだというふうに、一応なっているんじゃないでしょうか。ひそかになっているんじゃないですか。でもそれをおおっぴらにしたら、別になんてことはないじゃないか、おまえの祖先は田舎の山の奥の奥の縄文人だったんじゃないかっていうことを認めたことになるわけでしょう。

 しかしみんな来てるなというのが、ぼくの印象で、とても面白かったです。


川村
 「象徴天皇」のなかに出てますが、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵なんてのもちゃんとあるらしいですね。


吉本
 みんなありますよ。ちゃんと対応関係は皆ありましたね。ちゃんとそれは出来ているんですよ。


川村
 やっぱりほんとうに神話のなかの天皇なんですね。


吉本
 これまた考古学者の仕事なんでしょうけども、とにかく大規模な縄文村落の発達したところですから、もちろん可能性だってあるわけだし、出自だという象徴的必然はあるわけなんですよ。 だけど、それをほんとうに認めたら、別になんていうことじゃない、この人たちは、ということにも、なってしまいます。

 つまり、畿内にきて初期王朝を築いたみたいなところにきちゃえば、堂々たる中央の大きな王権のはじめなんだということを言えるんだけど、しかし、もともとはあそこだったんだということを認めたら、それはどうということはないわけです。 ぼくの印象はひっそりと来てるなという感じです。


川村
 何とかの別荘に行くときには新聞に出るけれども、そういうときは出ないですね。


吉本
 出たらおかしなことになりそうな気がしますね。別におかしかないんだけど、日本人の先入の印象とはぜんぜん違っちゃうみたいなことになり、イメージダウンにつながります。


 神話はヤマト王権のふるさとが高千穂の山の中の一集落だと語っている。

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「対話・日本の原像」には巻末に、対話で取り上げられた話題について、吉本さんが「註記」と題する補足を書いている。その中の「信仰・祭祀」に関する部分を読むことにする。


 ここには日本列島の住人の種族における南北問題と、縄文期、弥生期を貫き初期古墳期にいたる歴史時間の問題が複雑にからみあっていて、神話、伝承、地域信仰や習俗を解き分けてゆかなければ、とうてい一義的な確定が得られそうもない。この問題を具体的に整理してみる。

(1) 諏訪地方に諏訪神社を中心とした大祝祭政体が成立していたことが、比較的よく研究されている。このばあい男性の生き神大祝と随伴する共同体の政事担当者の起源の関係は、神話の伝承に入り込んでおり、時代を降ってまた中世・近世の態様も比較的よく知られている。

(2) 神話伝承の最初期の天皇群(神武から崇神まで)の祭政の在り方は、『古事記』『日本書紀』の記載の読み方によっては、長兄が祭祀を司り、末弟(またはそれに準ずるもの)が政治を司る形態とみられなくはない。これらは次第に皇后が神事を司り、天皇が政治を司る形、皇女が分離した祭祀を司る形へと移行する。

(3)おなじように長兄が祭祀を司り、生涯不犯の生き神として子孫をのこさず、弟が共同体を統括する形は、瀬戸内の大三島神社を中心とする祭司豪族河野氏の祖先伝承として存在するとされる。

(4)沖縄地方では姉妹が神事を司り、その兄弟が政治を司るという形態が古くからあり、聞得大君の祭祀的な村落共同体の統轄にまで制度化された。

(5)樹木・巨石の信仰は、日本列島の全域にわたって遺跡が存在する。諏訪地方における諏訪神社信仰。三輪地方における三輪神社信仰。高千穂地方における岩戸神社信仰。沖縄における御岳信仰。これらは神話や伝承に結びついているが、その他制度化されていない形で無数に存在する。そしてこの信仰は狩猟や木樵の祭儀の形態と農耕祭儀の形態とを重層しているばあいもあれは、狩猟だけ、農耕だけの祭儀に結びついているはあいもある。

(6)神話、伝承の考古学的な対応性ともいうべきもの、また民俗学的な対応性ともいうべきものが存在する。それは縄文期、弥生期、古墳期のような区分が、日本列島の地理的な条件の上では、地勢の海からの標高差に対応している面があるからである。狩猟、木樵、漁業、農耕(水稲耕作)などの差異は、地勢上の標高差の問題と対応し、縄文、弥生、古墳期のような歴史以前と歴史時代初頭の問題との対応をもっている。


 「神話・伝承」と「民俗学」の対応の一つとして、吉本さんは柳田国男の例をあげている


 わたしたちはこの問題について民俗学者柳田国男を論じたとき、柳田国男が民俗学の眼から神話をみていた視点を想定して、つぎのように述べたことがある。柳田国男のばあいには、この種の対応は、海流と航海技術と造船技術が、神話とのある対応関係にあるとみなされていた。

 このところには柳田国男の『記』『紀』神話にたいする微妙な異和と同和とが同時にふくまれている。始祖の神話の持主である初期王権が、いわゆる「東征」といわれたものの起点を南九州(もちろん日向の沿海であってもいい)においているところまでは「船」を仕立て直す休息点(あるいは「日本人」が成長してゆく熟成点)として、柳田の「日本人」がはしってゆく流線と、一致できるものであった。

 だがそこから瀬戸内海にはいる経路と土佐国の沿岸を連ねる経路とのあいだの〈分岐〉〈異和〉〈対立〉は、柳田のいわゆる常民「日本人」と初期王権の制度から見られた「日本人」との絶対的差異として、柳田の容認できないところであった。

 初期王権が『記』『紀』のなかで始祖神話の形で暗喩している支配圏や生活圏の版図は、北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々にかぎられている。わたしのかんがえでは、柳田国男はこの神話の暗喩する版図になみなみならない親和感をいだいていた。この親和感が、南九州(日向沿岸でもよい)のどこかで南西の島から東側海岸に沿ってやってきた柳田の「日本人」が、「船」を整えなおしたというかんがえに愛着した理由だとおもえる。

 またしいていえば柳田が、本来無意味なのに、じぷんの常民的な「日本人」の概念を、制度や王権の問題にまで無造作に拡大して、朝鮮半島を南下したいわゆる騎馬民族が初期王権に坐ったという説に、抜き難い不信を表明した理由であった。

 もうすこしくわしくできるだろうが、柳田のいう「日本人」は、地上二米以下のところしか歩いたり、走ったり、願望したりしない存在だから、制度や王権にかかわりない、まったくべつの概念であった。
          (吉本「柳田国男論」第T部「国文学 解釈と教材」29巻9号、59年ア月号)

 整理しなおすと次のように言っていると思う。

柳田の「原」常民は宝貝を求めてはるか南の方からやってくる。南九州で「船」を仕立て直した「原」常民は「土佐国の沿岸を連ねる経路」を通っていくはずである。しかるに「記紀」神話が描く経路は「瀬戸内海にはいる」。

「北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々」という「記紀」神話が描く支配圏・生活圏を柳田は原「常民」の版図と考えたいのだが、ヤマト王権がたどる経路が柳田の「原」常民の経路と整合しない。その矛盾は、もともと、「制度や王権にかかわりない」常民という概念を「制度や王権の問題にまで無造作に拡大」したためだ。

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ヤマト王権の出自(続き)

(3)即ち、鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)、吉野の井光(ゐひか)、同じく磐排別(いわおくわく)、苞苴担(にへもつ)、国見岳の八十梟帥(やそたける)、磐余(いわれ)の兄磯城(えしき)・弟磯城、磯城の磯城八十梟帥、高尾張の赤銅(あかがね)八十梟帥、兄倉下(えくらじ)・弟倉下、波?丘岬(はたのおかさき)の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂(わにさか)の居勢祝(こせほふり)、臍見長柄丘岬(ほとみのながらのをかさき)の猪祝(ゐのほふり)、高尾張の土蜘蛛(つちくも)などとあります。地名は動く可能性もあり、また奈良朝人の想定も予測されるが、地名と部族名が平行して出て来るところから、古くからその部族がそこに住んでいたという気がします。これらの地名を現在の地図にあてはめると、全部標高 70m線以上にあります。若し神武紀が奈良朝に偽作されたものならは、考古学や地質学の知識のない、しかも地盤隆起の原則を知らなかった奈良朝人は、これらの地名のうち一つ位は地盤の低い所をあてても良いと想像される。このようなところに案外、古代人の活躍の史実が古典に投影しているのではないかと思われるわけです。


 古い土地、つまりより標高の高い土地70m以上のところには土着の人たち、たぶん縄文人と弥生人が融合しながら平穏な社会を営んでいた集落があった。

 更にこれらの遺跡を発掘してみますと、全部が縄文土器終末期のものです。最近、晩期縄文土器の年数設定が出来た。炭素放射能の減退量をミシガソ大学が測定したところによると、近畿地方の中期弥生式土器は大体今から二千四百年ほど前、そして晩期縄文土器は約二千六百年前のものと測定された。もちろんプラス・マイナス二百年の誤差はありますが、この事実は科学的に信用せざるを得ないのではないでしょうか。従って神武天皇遺跡は大体において少なくとも二千六百年、更にはそれ以上前の湖岸もしくはそれよりも高い所の地名が舞台になっていると云うことが出来ます。14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。


 樋口さんは土器から推定された紀元前600〜400年という年代をそのままヤマト王権の初期の大王たちの時期とみなしているようだが、私たちが史書の記録から100〜300年頃と推定した年代とはるかに異なり、容認しがたい。その反論の根拠は素人としさし控え、深入りしない。

 しかし「14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。」という点は、その可能性は否定しがたいと思う。

(4)しかも橿原遺跡は、奈良県では珍らしく大きな縄文末期のものです。この岡で人間は半水上生活をしていたこともわかっております。舟も着きやすく、見張りにも便であり、三方が水であってみれば敵から守ることにも都合がよかったようです。そしてこの遺跡から出た食糧を眺めると、水の幸・山の幸の両面に恵まれた生活であったことが想像出来る。即ち、鼬廃鼠(いたち)・野兎・猪・鹿・狼・山犬・狸・狐・河獺・熊・穴熊・猿・鶴・白鳥・鴨・鳩・鴫・山鳥・鯨・石亀・?(えい)・鯛・河豚・鯔(ぼら)・鱸(すずき)・海豚など、まことに多種多彩です。魚類にしても近くの淡水魚はもちろん、?(えい)・鯛・鯔などの海魚は恐らく遠く大阪湾から持ち運んだと思われ、また鯨・海豚などは紀伊方面からの経路が想定されます。更にこの遺跡から出る石器の石質は吉野地方の緑泥片岩であって、かくみると、橿原遺跡の生活圏或は物資伝播の経路は非常に広いということになります。所で、檪(くぬぎ)・樫はやや亜寒地性のところに好んではえる植物で、今の大和平野にはありませんが、当時の気温環境はより寒冷に近いものだったことも同時にわかって、まことに面白いと思います。 このように縄文晩期の聚落はこの地に栄えていましたが、或る時期に川が流れて来て半島の先をけずり、水で包んでしまったために木は枯れ、その上から堆積土が2mも重なり長い間地下に埋まってしまった。もし橿原の地名が畝傍山の東南にあったとしても、その地名は消え去ってしまう可能性が肯けるのであります。

 かく云う私は、神武天皇個人の存在を無条件で認めているわけではない。神武天皇紀の説話に、 歴史的信憑性があり、歴史の投影があると云っているのです。


  吉本さんのコメントで結論付けると、樋口さんは

「これらの根拠から、神武東征の神話が、北九州の稲作や製鉄器の技術を伴った弥生式の文化が、畿内に伝播し、流入する経路を象徴するに足りることを結論している。」

ことになる。 しかし私が注目したいのは、ヤマト王権がよそから畿内に侵略してきた種族だとすると、その侵略までは縄文人 たち(弥生人との融合を深めながら)が豊かで平穏な社会を営んでいたらしいということである。
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樋口さんは、畿内にやってきた勢力がどこから来たのかという問題には言及していない。「ヤマト王権の出自」についての諸説をまとめてみる。

 「第328回」(7月11日)で紹介した論文「政治権力の発生」の筆者・山尾幸久さんは邪馬台国畿内説を採っている。その邪馬台国が発展して「倭の五王」につながっていくと考えているようだ。従ってイワレヒコの東征についてはまったくの歯牙にもかけていない。

 一方、邪馬台国北九州説を採る人たちはその所在地を筑後山門郡とする説が有力のようだ。「神武天皇」(中公文庫)の著者・植村清二さんはその説に同意して、邪馬台国の所在を筑後御井付近、投馬国は薩摩の川内付近としている。そして北九州の連合国家の支配権を手にした邪馬台国が東征して畿内に入ったと考えている。東征したのは邪馬台国ではなく薩摩にあった投馬国だという説もある。

 これらの諸説に対して、「戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないか」という梅原さんの考えを先に述べた(第329回)。梅原さんは「記紀」の記述の通り、ヤマト王権の始祖は日向から東征したと考えている。

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27. 中川隆[-13611] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:42:09: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告
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葬られた王朝: 古代出雲の謎を解く (新潮文庫) 梅原 猛 (著)
価格: ¥ 935
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『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(新潮文庫)

著者は梅原猛。
哲学者にして日本文化の深層を解明する論考を世に問うている泰斗である。  

この本は梅原の著作のなかでも重要な意味をもっている。  

梅原はかつて『神々の流竄』(集英社)という本で「出雲神話はヤマトで起こった物語を出雲に仮託したものだ」という説を唱えた。出雲神話などフィクションだという立場をとっていたのだ。

しかし、出版から40年を経て、梅原は自らの説を否定し、出雲王朝は神話ではなく事実であったと、その存在をフィールドワークも加えながら検証している。  

出雲王朝を語るうえで重要な資料となるのは『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』があるが、記紀については大きく2つのとらえ方がある。  

ひとつは本居宣長の唱えた「『古事記』こそ日本の「神ながらの道」が記された神典である」という説。
もうひとつが、津田左右吉による、「記紀の応神天皇以前の記事は、6世紀末に創作された、天皇家に神聖性をもたせるためのフィクションであった」という説である。  

第二次世界大戦以前は宣長の説に支配されてきたが、戦後の歴史学者の多くは津田の説によっており、現在もその声は大きい。

梅原は『神々の流竄』において、中臣鎌足の嫡子である藤原不比等を日本歴史偽造の中心人物と考えた。それについては正しいという立場は現在も変わっていない。
梅原が自分の説に疑問を抱いたのは、出雲神話だけでなく日本の神話はフィクションであると断じたことにあった。  

というのも、昭和59年(1984)に、島根県斐川町の荒神谷遺跡から358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土し、出雲の存在をフィクションであると一蹴することができなくなったのだ。  

この本では神社に残された伝承や祝詞、荒神谷遺跡などから発掘された大量の銅剣や銅鐸などの例証を挙げながら、出雲神話の伝承が事実に基づいていたことを明らかにしていく。

記紀に登場する神々やストーリーを解説するのは、読み解く側の視点によって見え方が変わってくる。ここでは梅原の解釈にしたがって話を進めていくことにしよう。 

日本人なら一度はヤマタノオロチ伝説を聞いたことがあると思う。
悪行により高天原を追われたスサノオが、高志(越)の国を荒らしていた八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチを退治したという説話だ。オロチの尾を切り開くと、そこから三種の神器のひとつ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣)が出てくる。  

この話は、出雲を治める「国つ神」の子孫アシナヅチが、毎年娘を食べにくるヤマタノオロチを退治してほしいとスサノオに懇願することからはじまる。
スサノオがヤマタノオロチを退治したのは出雲の国の鳥髪山の近くで、現在の奥出雲地方の木次(きすき)に当たる。
この一帯には、ヤマタノオロチにまつわる神社や伝承地がいまでも数多く点在している。

出雲の国の民の救済者となったスサノオは、アシナヅチの娘クシナダヒメと結婚し、?賀(須賀)の地に家を建てるのだ。
この?賀の宮の地は、鳥髪山から北東に15qほど離れた場所にあり、いまも須我神社として歴史を刻んでいる。


八重垣神社
所在地:島根県松江市佐草町227
TEL:0852-21-1148
奥の院の森の中には「鏡の池」があり、クシナダヒメの御霊が水底深くに沈んでいる。縁結びの神として知られ、硬貨を紙に乗せてお供えし、早く沈むと早く結婚できるという。
スサノオが住んだという場所は、出雲ではここだけではない。  

ヤマタノオロチを退治する際、クシナダヒメを隠す場所として選ばれたのが、斐伊川の川上から七里離れた「佐久佐女(さくさめ)の森」にあり、夫婦が住んだこの宮は八重垣神社となっている。  

梅原はこれらの地に残された数々の伝承や事実をつなぎ合わせ、スサノオこそが出雲王朝の初代王であると結論づけている。  

そしてその6代目として、古事記に兄弟の神々の従者として大きな袋を背負って登場するのが、オオナムヂことオオクニヌシである。  

八十神(ヤソカミ)たちは、稲羽(因幡/現在の鳥取市周辺)のヤガミヒメに求婚しようと、オオナムヂに重い荷物を背負わせて東方の因幡国に向かう。
この旅の途中に挿入される説話が、「因幡の素兎(しろうさぎ)」の話だ。
素兎はワニ(鮫)と八十神に翻弄され、いじめられるのに対し、オオナムヂだけがやさしく兎を介抱する。その結果、ヤガミヒメが結婚相手に選んだのが一番身分の低いオオナムヂであった。

当然、八十神たちの嫉妬は激しさを増す。
兄弟の神々の画策により、オオナムヂは殺されてしまう。
嘆き悲しんだのはオオナムヂの母、サシクニワカヒメだった。母は高天原に参上し、出雲の守護者であるカミムスビに助けを乞う。カミムスビはふたりのヒメを遣わし、オオナムヂを治療し、見事に蘇生させる。

しかし、八十神の迫害は止まらない。

身を案じた母のサシクニワカヒメは、紀伊国(和歌山県)のオオヤビコの元へとオオナムヂを逃がしてやる。
それでも追手がやってくるため、オオヤビコの手引でスサノオのいる根之堅洲国(ねのかたすくに/黄泉の国)へと送ってやるのだ。

黄泉の国では祖先であるスサノオが王であった。
スサノオは、オオナムヂを温かく迎えたわけではなく、いくつかの試練を与える。  

そこでオオナムヂの苦難を救ったのは、スサノオの娘であるスセリビメだった。
愛を交し合ったふたりは、スサノオの隙を突き、宝物である太刀と弓矢と玉飾りのついた琴を抱えて逃げ出す。
スサノオは我が娘スセリビメを奪っていったオオナムヂが憎いのだが、その反面、この娘婿がかわいくてしかたがないのが、和歌からありありと伝わってくる。

黄泉の国から帰ったオオクニヌシことオオナムヂは、苦難を克服する強い男に成長していた。  

八十神を討つため、オオクニヌシが最初に城を構えたのは、木次町里方の妙見山の尾根筋に位置する城名樋山(きなひやま)であったという。
ヤマタノオロチを退治した、スサノオゆかりの地で挙兵したオオクニヌシは、出雲平野の北部の地を占領して出雲の王となった。
正妻には黄泉の国より連れてきたスセリビメを迎えたが、最初の妻であった因幡のヤガミヒメはスセリビメを恐れ、因幡へと帰って行った。  


熊野大社
所在地:島根県松江市八雲町熊野2451
TEL:0852-54-0087
古代出雲において、最も格式が高い一之宮とされたのが熊野大社。出雲大社の宮司が亡くなって引継ぎが行われる際、直ちに熊野大社の「鑽火殿」に赴いて「火継」の式を執り行わなければならない。
兄弟神を征伐し、大国の王を継いだオオクニヌシは、次にヌナカワヒメという女王が支配する越の国に軍を進める。
ヒスイを産出する糸魚川を支配する越の国は、豊かな富を誇っていたに違いないと梅原は説く。
ヒスイは縄文時代より「玉」という呪力を持つ宝石であった。  

オオクニヌシはヌナカワヒメと契りを結び、しばらく越の国で暮らす。
ヌナカワヒメとの間に生まれたタケミナカタは、「国譲り」の際に最後までヤマト王朝に抵抗することになる。その後、戦いに敗れ、諏訪に追いやられて諏訪神社の祭神となっている。  

越を征服したオオクニヌシは、出雲へ戻るとすぐにヤマト(奈良県)へと向かう。
その様子は古事記の、正妻スセリビメとオオクニヌシとの間で交わされた和歌に表れている。遠征先で次々に女性を娶るオオクニヌシに対し、嫉妬心を抱くスセリビメ。オオクニヌシはその心中を察しながら、妻に癒す言葉を返すのだ。

このヤマト遠征の旅については、『古事記』にも『日本書紀』にもその記述がない。
しかし、梅原は「オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる」という。
関西周辺にある神社に、オオクニヌシやその子ら、同神といわれるオオモノヌシなど、出雲系の神を祀った古社が非常に多いことに着目する。  

ヤチホコノカミという別名を持ち、日本海沿岸だけでなく近畿、四国、山陽までをも支配下においていたと思われるオオクニヌシだが、戦争で征服するのと統治するのとは違う。  

梅原が指摘するのは、どこからともなくオオクニヌシを補佐する有能な参謀が現れるということだ。

 『古事記』によれば、オオクニヌシが島根半島の東端にある「御大の御前」(美保関の岬)にいるときに、「羅摩(かがみ)の船」に乗ったスクナヒコナが登場する。
「羅摩」というのは多年草の蔓草のガガイモの古名であり、その実を割った姿が小舟に似ている。それに乗ってきたというのだから、小人のような神である。そう梅原は推測する。  

『古事記』では、出雲の守護者カミムスビ(タカミムスビ)には1500もの神の子がおり、スクナヒコナは指の間からこぼれ落ちた子で、『日本書紀』には自分の教えに従わなかった悪い神であるとされている。  

ところが、オオクニヌシは、海を渡って他の国からやってきたと思われる素性のわからないスクナヒコナを、国造りの最大の協力者として重用するのだ。  

オオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績。それは医療技術をもたらし、民の命を救ったことであると梅原は指摘する。  

その施設のひとつが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えた玉造温泉である。  


玉造温泉 湯之助の宿 長楽園
所在地:島根県松江市玉湯町玉造323
泉質:ナトリウム・カルシウム−硫酸塩・塩化物泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
源泉:69.7度
pH:8.1
TEL:0120-62-0171
120坪の大露天風呂「龍宮の湯」をはじめ、すべての浴槽が加温、加水をしない源泉かけ流しになっている。残念ながら日帰り入浴はない。
ここまできて、ようやく温泉の話にたどり着いた。

玉造温泉は、出雲大社の宮司が沐浴して身を清めなければならない聖泉とされている。  

『出雲国風土記』によれば、宮司である出雲国造が都へ就任あいさつの詞(「出雲国造神賀詞」)を奏上しに都へ上る際、「御沐(みそぎ)の忌の里」である玉造へと向かう。
「再び沐(ゆあみ)すれば、万(よろづ)の病悉(やまいことごと)に除(い)ゆ」とあり、万病に効いたことが記されている。

『日本鑛泉誌』(明治19年・内務省衛生局編纂)に、玉造温泉の歴史について興味深い記述がある。

温泉の発見は養老年間(717−724)であるらしい。というのも古の温泉は洪水によって失われており、再興したきっかけは佐々木義綱(富士名義綱か/?―1336)にある。
義綱が病に倒れ、家族が仏神に祈ると、夢のなかに源泉のありかが示されたという。その温泉に入ることで義綱は治癒し、延慶2年己酉(1309)7月、義綱は医王の祠を造営した。
温泉はその後も興衰を繰り返し、寛永18年辛己(1641)、出雲松江藩主松平直政(1601−1666)が浴場を修補する、と記述されている。  

さて、スクナヒコナの功績は、医療だけではなかった。  

この神は醸造技術ももたらし、記紀にも「スクナヒコナの造った酒が美味しい」という歌があるほどだ。  

王朝が変わっても、オオクニヌシとスクナヒコナの政治に対する賛美は日本各地に残っていた。
国造りに励んだスクナヒコナだが、国造りが一段落すると突如姿を消してしまう。
出雲国内についての後継者争いについて、『古事記』や『日本書紀』、『出雲国風土記』にその記述はない。だが、梅原は『伊予国風土記』の逸文のなかに、ふたりの決定的な争いの様子が残されていることを示す。  

ともに国を造ってきた間柄ではあったが、暴力をふるうオオクニヌシに対し、これ以上協力するわけにはいかず、これからの出雲の近い将来の衰亡を予見して王国を去ったのではないか、と梅原はまとめている。  

その後、出雲王朝がどのようにしてヤマト王権に敗れていくのか。ここでは触れないでおこう。  

たとえヤマト王権に敗れ、歴史書から抹殺されていたとしても、万民に愛され、そして語り継がれてきたからこそ、オオクニヌシの物語は現在もこうして全国に遺されている。  
http://www.smart-acs.com/magazine/12110103/onsen001.php

梅原猛 「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」 2011/1/12(水)


梅原猛先生の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」 を読みました。

記紀神話に関して、本居宣長説、津田左右吉説のみならず、自らの、「神が
みの流ざん」までも否定して、古代出雲王朝について語りました。


@記紀神話は、高天原神話、出雲神話、日向神話の三つの神話から成り立っている。

特に日向神話は、アマテラスの孫ニニギが日向の高千穂に降臨して以来三代を経て、ひ孫カムヤマトイワレヒコ、すなわち神武天皇が東征の旅に出て、ついにヤマトを占領し、天皇家の祖となる話である。


@出雲王朝は少なくとも6代は続いたとみなければならない。出雲王朝はオオクニヌシ以来、日本全国を支配する王ではなく、出雲一国を支配する王としてささやかながら続いたと考えなければならない。

「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とするヤマト王朝の前に、スサノオを開祖とする出雲王朝が、この日本の国に君臨していたと考えねばならない。

そして出雲王朝が存在した形跡を追って、写真多数で、出雲の各地を回るのですね。
そしてそこには見事に、出雲王朝の存在を立証するかのような様々な形跡が残されているのですね。


@アマテラスは石屋戸から現れるが、神がみは、スサノオの悪行に憤り、スサノオを流罪にしてしまう。そこでスサノオは出雲の国にやってきたのである。


@イザナギ、イザナミはその子孫によって、二つの系統の神々にわかれた。
ひとつは、イザナギ、アマテラス、ニニギのヤマト王朝の系統である。
もうひとつが、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシの出雲王朝の系統である。


@多くの出雲の山々が越の豪族の支配下にあり、その山々が荒廃していることを表現したのではないかと思う。すなわち、スサノオは出雲の森林の荒廃を嘆き、出雲の国を越の支配から解放して山々に木を植え、そして今のような植林が青々とした森の国にしたのではなかろうか。このようにスサノオは出雲の森林を再生することによって、さらにまた農業も盛んにしたのだと思う。


@オオクニヌシはヌナカワヒメと結婚し、しばらくこの越の地で暮らした。そしてヌナカワヒメとの間に生れた子が、「国譲り」の際、最後まで抵抗して、ついに諏訪に追いやられ、諏訪神社の祭神になったタケミナカタであった。
ヌナカワヒメは半ば強姦のような形でオオクニヌシの妻となったが、結局彼女は追われて、北陸のあちこちを流浪したらしい。

クロヒメというのは、ヌナカワヒメの別名で、越後には黒姫山という山がいくつかあり、クロヒメを祀る神社は、オオクニヌシに追われた晩年のクロヒメの怒りと悲しみを伝えている。
黒姫山ってそこから来てるんですね。歴史ロマンを感じますね。


@海外から一人でやってきた前歴の全くわからないこのスクナヒコナを、オオクニヌシは国造りの最大の協力者として重用した。
オオナムジことオオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績は、日本に医療をもたらしたことである。
おそらくスクナヒコナは朝鮮から先進の医療技術を持ってきて多くの人命を救ったであろう。そのような医療に関する施設の一つが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えたという、玉造温泉である。


@私は、日本に新しい医療技術をもたらし、病に苦しむ多くの人を救ったスクナヒコナはまた温泉の開拓者ではなかったかと思う。
またスクナヒコナは酒の醸造技術をもたらした神でもあったらしい。記紀には、「スクナヒコナが造った酒は美味しい」という歌がある。酒造りが米作りと深い関係があることを考えれば、オオクニヌシとスクナヒコナが行った米造り、酒造りをはじめとする農業の改良政策はおおいに民衆を喜ばせたに違いない。


@出雲大社で毎年旧暦十月に行われる有名な神在祭は、日本全国の神々が出雲にお悔やみにやってくる、いわばオオクニヌシの葬式であると私は思うが、それに対して、「一つ山大祭」「三つ山大祭」は、むしろ生きているイタケルとオオクニヌシに二十一年あるいは、六十一年に一回、敬意を表して全国の神々が集まり、その神々をもてなすという祭りなのである。


@神在祭はオオクニヌシの葬儀に全国の神々が集まり、神譲りをおこなう祭事なのである。それは言葉を変えれば、オオクニヌシが日本海に身を隠して現身の人ではなくなったが、黄泉の王として再生したことを祝う祭りとも言える。
この手の込んだ神在祭は、「古事記」「日本書紀」に語られる国譲りの神話は決して架空のことではなく、事実であることを末永く後世に伝えるものであろう。


@銅鐸の起源は馬のクビにつける鈴である。
朝鮮の馬の首につける鈴がそのまま日本に移入され、銅鐸という宝器になったわけではない。朝鮮の人にとって漢式馬車に乗る貴族こそ尊敬の的、憧れのまとであった。そして漢式馬車を持つ貴族は、その墓に貴族の証拠として漢式馬車の部品を副葬したのであろう。

貴族のシンボルとして、馬の首につける鈴ほど適当なものはない。それゆえにこのような馬の鈴を日本で祭器、宝器としたのは、朝鮮から来た貴族か、あるいは貴族に強い憧れを持つ人物であったに違いない。
それが私は、朝鮮からきた、スサノオを想起する。銅鐸は出雲王朝の祖であるスサノオと結びつく。


@私はやはり銅鐸は出雲でうまれ、出雲王朝の領土拡大と共に中国、四国、近畿まで多く造られるようになったのではないかと思う。


@荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣のうち344本になかごといわれる柄に差し込まれる部分に「×」印が刻まれている。


この「×」印の謎について、梅原先生は解き明かします。
凄いですよ。

@縄文時代の土偶は全て胎児を宿した成熟した女性であり、そして土偶はすべて必ず破壊されている。


そしてこの謎も解き明かします。


@アイヌの葬式の話。
「まあふつうの大人が死ねば型どおりに葬られますが、子供が死んだ時は特に大変でした。アイヌの社会では子供をはらむと、その子は必ずあの世へ行った祖先の霊が帰ってきたものだとしんじられています。

その子が幼くして死ぬと、遠いあの世から帰ってきた祖先にこの世の幸せを十分味あわせずにすぐにあの世へ帰すのは申し訳ないと考え、子供の死体を甕に入れて、人のよく通る入口に埋められるのです。それは、その子を産んだ夫婦がセックスに励んで、死んだ子が次の子として生まれ変わってくるようにという願いからなのです。」

この話は私にとって、とても興味深かった。縄文時代の竪穴住居の入り口には、子供の骨が入れられた甕が逆さにして埋められていることがある。この風習がアイヌの社会に残されていたのだろう。
さらに、

「しかし子供が死んだときよりもっと大変なのは妊婦が死んだ時でした。せっかく祖先の霊が帰ってきて妊婦の腹に宿ったのに、妊婦が死んでしまったら、その子は妊婦の腹に閉じ込められてあの世に行けません。妊婦の腹に入ったままであの世にいけない先祖の霊は祟りをなすと思われていたのです。

ですから妊婦はいったんふつうの人と同じように墓に埋められますが、翌日、霊力を持った女性がその墓を掘り返し、妊婦の腹を割いて、その胎児を女性に抱かせて葬ります。」


縄文の文化が色濃く残っているアイヌ。
このアイヌに残る風習は大きな謎を解くカギとなったんですね。


@土偶について、
1、 土偶は全て生きた人間とはおもえない異様な形をしている。
2、 土偶は全て妊婦である。
3、 土偶はすべて破壊されている。
4、 土偶は全て縦に腹をひきさいたような真一文字の線がある。

 土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像であり、妊婦が胎児とともに葬られる時、その妊婦が完全な人間として再生することができるようにバラバラにして埋められるものである。

@眼のない死体は再生不可能であり、眼のある死体は再生可能であるという信仰によって、死んだ妊婦が完全な人間としてあの世で生まれ変わることを願って、巨大な眼窩のある土偶がつくられたのであろう。また長年の謎の、土偶の腹の縦真一文字の線も、腹を割いて胎児を取りだした後として理解できた。

凄いでしょ?
土偶の謎はそうゆう事だったんですね。


@このような縄文時代からのあの世観は、ずっと日本人の中に残っていて、この世とあの世はあまり違わないが、万事あべこべであり、この世で完全なものはあの世では不完全であり、この世で不完全なものはあの世では完全であるという信仰がずっとあったと思われる。それゆえ死者に贈られるべきものは必ず壊して贈らねばならない。

死者に供えるものはそのように、壊されたり、焼かれたりする。
日本で恒久的な都が遅れたのは、前代の帝の宮殿を焼いて死んだ帝に捧げられたためであると私は考える。


このことは、縄文時代のことを考えるときに決して忘れてはいけないことですね。これを忘れると、現代の感覚では理解できないことになってしまいますね。


@二つの遺跡から出土した銅器に付けられた「×」の謎が初めて理解される。それらの銅鐸、銅剣、銅矛は、全て死者に贈られたものの印であろう。しかし、この堅固な銅鐸などを壊すのは容易でなく、また忍びがたい。それで、「×」の印を刻んで、不完全なものであることを示そうとしたのではないか。


凄いでしょ??
興奮するでしょ??
いやーそうだったんですね。


@紀元一世紀といえば、記紀に語られる南九州にいた天孫族が東征して、西日本全体を戦乱の渦に巻き込んだ時代である。とすれば、それはオオクニヌシの国譲りの時代とも重なってくる。この大量の青銅器は、稲佐の海に身を隠し、今は黄泉の国の王となった、地下のオオクニヌシに贈られたものではないだろうか。

@天皇の御陵が前方後円墳になるのは、ハツクニシラススメラミコトと称される崇神天皇の御陵からである。とすれば、出雲小王国は崇神天皇以前に滅びたことになる。

@出雲は四角形の墳墓に強く執着し、四隅突出型墳丘墓が消失した後も、円墳ならぬ方墳が多く造られ、ヤマトで前方後円墳よりも、前方後方墳が造り続けられた。この四角形への執着は、黄泉の国を支配するオオクニヌシの宮殿に対する敬意であり、オオクニヌシへの深い愛情の心を示すものではなかろうか。


コメント

ついでに三輪山の神と出雲の神の関連について、考察していただけませんか?
私は三輪山の神が出雲に放逐されたのではないか?と疑っているのですが・・・
確か梅原先生もそのような説を立てていませんでしたっけ?
2011/1/13(木) 午後 3:30 [ mak**ina38 ]


実は、大神神社を参拝して山之辺の道を旅したとき、神武天皇の皇后を祀る「狭井神社」の周辺が出雲屋敷と呼ばれていることを知りました。

皇后の父が三輪の大物主(大国主神の和魂?)であることからふと、神武東征まで三輪の地を拠点としていた三輪氏なる豪族が神武天皇に娘を差し出して降伏したあと、出雲に放逐されたのでは?と想像してしまったのです。

大和政権に匹敵する大きな力と祭祀権を持っていた三輪氏に対する畏怖の念から、東西にほぼ一直線をなす東・伊勢ー三輪ー西・出雲という重要な地点に巨大な神殿を築いて今もなお天皇は丁重に祀り続けてこられたのでは?

という推察ですが、学問的な構築の土台が弱いので、所詮推理作家的視点でしか見ることができないので、突然こんなお願いをしてしまい、申し訳ありませんでした。

私の考えは梅原氏が以前に出された「神々の流竄」が下敷きにあったのかもしれませんが、梅原氏はこの「葬られた王朝」で前説を訂正されているようですね。
それでもなんか三輪神と出雲神・・どうも気になるんですよね〜
2011/1/14(金) 午後 11:03 [ mak**ina38 ]
http://blogs.yahoo.co.jp/warabe401/60202767.html


梅原猛の「古代出雲王朝の謎を解く」(1)
アマテラスとスサノオという光と影 2012-01-04

梅原猛氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみました。
古来、日本海沿岸には大きな文明があり、アマテラスに追放されたとされるスサノオの住んだ世界は実在した、という話です。

著者梅原氏は、以前に書いた自分の本の説は間違っていた、大国主に謝りたい、という気持ちで出雲地方を旅し、新しい説を書いたということです。 「環日本海文化圏」という発想は、日本という風土に風穴を開ける発想であるように思います。


           (引用ここから)

出雲には神話にふさわしい遺跡がないという説は昭和59年(1984)の出雲市の荒神谷遺跡の発見によって吹き飛んでしまっていた。 出雲市の荒神谷遺跡から銅剣358本と銅鐸6個、銅矛16本が出土したのである。 それまで全国で出土していた銅剣の総数は約300本。 銅剣の数は一挙に倍以上になったのである。

われわれは学問的良心を持つ限り、出雲神話は架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならないことになる。

「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とする「ヤマト王朝」の前にスサノオを開祖とする「出雲王朝」がこの日本に君臨していたと考えなければならない。

スサノオとは何者であろうか?

「古事記」・「日本書紀」によれば、スサノオには出雲の神となる以前に、高天原を舞台にした前史がある。

愛しき妻イザナミを失ったイザナギは死者の国である黄泉の国に行った。
イザナミの変わり果てた姿を目にしたイザナギは、驚いて黄泉の国から命からがら逃げ帰ってきた。 そして汚れた体を清めようと「禊ぎ」をし、水の中に潜って体を清めると、左の眼を洗った時にアマテラス、右の眼を洗った時にツクヨミ、鼻を洗った時にスサノオの三貴子が生まれたのである。

つまり「出雲王朝」の祖先神スサノオと「ヤマト王朝」の祖先神アマテラスとは、「禊ぎ」によって生まれた姉弟と言うことになる。 ところがスサノオは母を慕って泣いてばかりいて海原を支配しようとしないので、イザナギは怒ってスサノオを追放してしまう。

スサノオは母のいる根の国に行く前に、姉アマテラスと誓約(うけい)をして、それぞれ子どもを産み出す。 その誓約(うけい)に勝って勝ち誇ったスサノオは傲慢になり、アマテラスの作った田の畔を壊し、悪しき業を繰り返す。 そしてそのことが原因でアマテラスが天の岩戸に隠れるという、天人族にとっての大事件が起こるのである。

そして神がみはスサノオの悪行に憤り、スサノオを流罪にしてしまう。
そこでスサノオは出雲の国に来たわけである。

この契約でスサノオの口から吐き出された5柱の男神はアマテラスの意志によってアマテラス直系の男神となる。そしてその男神の子がアマテラスの孫、天孫ニニギなのである。

つまりスサノオを祖とする「出雲王朝」とアマテラスを祖とする「ヤマト王朝」の関係は、契約によって深く繋がっていることになる。

「出雲王朝」の祖であるスサノオは、イザナギが最後に産んだ三貴子の嫡男とも言える男神である。 スサノオは当然葦原の中津国、つまり日本の国を支配してもよいわけである。 スサノオは実際にイザナギから日本国の支配を命ぜられたのである。それなのに、彼は黄泉の国で暮らす母イザナミを慕思し、根の国に流罪になった。

このようにイザナギ・イザナミはその子孫によって二つの系統の神がみに分かれた。

一つはイザナギ・アマテラス・ニニギの「ヤマト王朝」である。

そしてもう一つはイザナギ・スサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」の系統である。

前者はまさに日本を支配する光の神であり、後者は一旦は成功をおさめるが、最後には悪神となり、根の国へと行かざるをえない神である。

ヤマト王朝と出雲王朝の神々はもともと親戚であったが、ヤマト王朝の神々はすべて光の神、善神であり、出雲王朝の神々は結局闇の神、悪神である。

二つの王朝の関係は、たとえば「ヤマト王朝」に伝わるやたの鏡・勾玉、草なぎの剣の「三種の神器」にも見ることができる。

その内、鏡は「ヤマト王朝」の独自の神器である。

これに対して「草なぎの剣」はスサノオがヤマタノオロチを切ってその尾から取り出したものである。

勾玉についてもまた出雲の土地で盛んに作られていたもので、「出雲王朝」でも宝とされるものである。

このことから、「ヤマト王朝」は「出雲王朝」の権力を受けついでいるという継承性と、「ヤマト王朝」の独自性と正統性を示すために、このような「三種の神器」の神話が作られたと見るべきであろう。

つまり「古事記」・「日本書紀」に書かれた神話は「ヤマト王朝」と「出雲王朝」の血縁関係を示すものであり、すでに5世紀以前に成立していたに違いないと思われる。
         (引用ここまで)
          


荒神谷博物館HP
http://www.kojindani.jp/


wikipedia「荒神谷遺跡」より

荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭西谷の小さな谷間にある国指定の史跡である。

1983年広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。
この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始された。
1984年 - 1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。

銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。
これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。

その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。

出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。


銅剣

丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。 弥生時代中期後半に製作されたとみられている。

この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。

また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。
このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/724e9a0543a63c28f546eb8996670106


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(2)
スサノオは渡来人だったのか? 2012-01-07

         (引用ここから)

「古事記」ではスサノオは高天原から出雲にやってきたということになっているが、「日本書紀」には異なる伝承が語られている。

それによると、スサノオは高天原から追放されてただちに出雲に降りたわけではなく、まずその子イタケルとともに新羅の「ソシモリ」という所に降り立ったというのである。 おそらく「ソシモリ」は韓の国のかなり豊かな町であったのであろう。

ところがスサノオはこのような豊かな地に自分は住みたくないといって、舟を造り、その舟に乗って出雲の国に至る。


さらにまた「日本書紀」は、スサノオの故郷を物語る別の一書も伝えている。

そこではスサノオがヤマタノオロチを切った剣は「韓(から)さいの剣」であるという。

それは韓国から伝来した小刀を指す。 その小刀でヤマタノオロチを切ったのだとすれば、スサノオ自身も韓国から来たと考えるのが自然であろう。

このようにスサノオに始まる「出雲王朝」には朝鮮の陰が強く射しているのである。


「古事記」には「高志(こし)の八俣のオロチ」と書かれているが、「高志(こし)」は「越(こし)」であり、明らかに越前・越中・越後の「越」を意味している。

また「出雲国風土記」には「越の八口(ヤクチ)」とある。
クチは蛇・蝮と同義で、「越のヤマタノオロチ」と同じ意味である。
八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。

オロチはしばしば強くて悪い人間に譬えられる。
鬼退治やオロチ退治というのは、人民を苦しめる強くて悪しき人間を退治することを言うのであろう。

このように考えてみるとヤマタノオロチとは人民を苦しめる悪い豪族を指すのかもしれない。

出雲の「国引き神話」においては、オオクニヌシは西は新羅の国から、東は越の国から国を引いてきたという。 つまり「出雲王国」の交易範囲は、西は新羅から東は越に及んでいたことを意味するのであろう。

日本海に臨む当時の国ぐにの中で、ヒスイを生産する越の国がもっとも豊かで強い国であったに違いない。 そしてこの越の国からやって来た越のヤマタノオロチに、スサノオは酒を飲ませて油断させ、皆殺しにしたのではないか。

このように土着の神であり、初期農業の神である国津神の支配を妨げ、出雲の国を植民地として荒廃させた越の豪族が、朝鮮の国からやって来たであろうスサノオに退治されたと解釈すると、ヤマタノオロチ伝説は良く理解出来るのである。

オオクヌヌシは越のヌナガワヒメを娶り、さらにヤマト遠征の旅に出た。

オオクニヌシがヤマトといかなる戦いをしたかは分からない。 これについて「古事記」も「日本書紀」も何も語っていない。 しかしその戦いは幾多の困難があったにせよ、オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる。

関西周辺の地域にはオオクニヌシおよび彼の子たちをまつる神社や出雲の名を当てる場所がはなはだ多い。 こう考えると、古くはヤマトも山代も出雲族の支配下にあり、この地に多くの出雲人が住んでいたと見るのがもっとも自然であろう。

このようにオオクニヌシは日本海沿岸だけでなく、近畿・四国・山陽の地までも支配下に置いていたと思われる。

そしてこのオオクニヌシを助ける有能な参謀が現れた。 島根県松江の美保関に、誰も知らない小人のような神スクナヒコナが小舟に乗ってやってきたのである。

スクナヒコナは一体どこからやってきた神なのであろう。
やってきた場所から考えれば、やはりスサノオと同じ韓国からであろう。

オオクニヌシはこの海外からやってきた前歴のまったく分からないスクナヒコナを国づくりの最大の協力者として重用したのである。

スクナヒコナが去ると次に、海の向こうから神々しい新たな神が現れた。

「日本書紀」にはこうある。

「時に、神しき光海に照らして、たちまちに浮かび来る者あり。
我は日本国の三諸山に住まんと欲ふ。」

スクナヒコナの時と同様、またも海の彼方から光を放ちながら、オオクニヌシの国づくりを手助けする神が現れたのである。

わたしはかつてこの三輪の神をヤマト土着の神と考えたが、「古事記」「日本書紀」が語るように、オオモノヌシは外来の神であると考える方がよいのかもしれない。

          (引用ここまで)


スクナビコナが誰だったかについては、別の考え方として、歴史研究者・山崎謙氏は著書「まぼろしの出雲王国」で以下のように考察しています。


          (引用ここから)

神の名はスクナビコナ神といい、神産巣日神の子だという。
神産巣日神は、天地開闢の際に登場した「造化三神」のうちの一柱。
神産巣日神はスクナビコナ神に対して

「オオクニヌシ神と兄弟になって、葦原の中津国をつくり固めよ。」

と言う。

日本神話に登場する神は、「天津神」と」国津神」に大別される。
オオクニヌシ神は「国津神」である。

不思議なのは、「国津神」の代表的な存在であるオオクニヌシ神の手助けをして、一緒に国づくりをおこなったスクナビコナ神が「天津神」系だということだ。

またその後オオクニヌシ神を助けて国づくりをしたオオドシ神も「古事記」では「天津神」系になる。

神話はこの話の後「国造り」になるが、オオクニヌシの国づくりに「天津神」系が協力したという記述は、それを正当化するために意図的に挿入されたと考えられるだろう。
         (引用ここまで)


しかし同書でも、スクナビコナ神は韓国から来た渡来神だと考えられるとも述べられています。
 


         (引用ここから)

奈良市に漢国(かんごう)神社がある。

「漢」はもともとは「韓」、「国」はもともとは「園」であった。

祭神はもともと大物主神で、藤原不比等が韓神としてオオナムチ神とスクナビコナ神を合祀したという。 不比等は「日本書紀」の編纂に関わっており、「日本書紀」は不比等の構想によるものだという見方もある。

この神社では、オオナムチ神とスクナビコナ神は韓国から来た神ということになる。

確かにスクナビコナ神は神話でも海上からやって来たことになっており、渡来した神である可能性が高い。

         (引用ここまで)


wikipedia「スクナビコナ」より

スクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など他多数)は、日本神話における神。

『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って来訪した神。

国造りの協力神・常世の神・医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物霊・知識・酒造・石など多様な姿を有する。

『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した。

『日本書紀』にも同様の記述があり、『記』・『紀』以外の文献では多くは現れない神である。

酒造に関しては、酒は古来薬の1つとされ、この神が酒造りの技術も広めた事と、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えた時の歌にも「少名御神」の名で登場する為、酒造の神であるといえる。

ただし石に関しては記述よりそうした面が見られると想像されるだけであり、あくまで性質的なものである。

創造における多様な面を持つ神ではあるが、悪童的な性格を有すると記述される(『日本書紀』八段一書六)。

オホナムチ同様多くの山や丘の造物者であり、命名神として登場する。のちに常世国へと渡り去る。

小さいと言われているが、「鵝(ひむし・蛾)の皮の服を着ている」と高御産巣日神の「わが子のうち、指の間から落ちた子」という記述からの後世の想像である。

名前の由来について、『古事記伝』によれば「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とあり、名前が必ずしも体の大きさを表すわけではない。

あるいは金井清一によれば「若き日の御子」の意とする説もある。

また、この神が単独ではなく、必ずオホナムチと行動を共にすることから、二神の関係が古くから議論されている。

大林太良はこの神に「第二の自我」を見、吉田敦彦は双生児的な関係を指摘している。

海から来訪したとの記述により渡来人という説もあるが、船で渡来=外国人という単純な図式からの連想であり、奇説の域を出ない。


wikipedia「国引き神話」より

国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。

『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。

八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。

そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。

国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。

そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/bbafc7f59e87fd98e00bbb362834869d


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(3)
出雲の国譲りと、たたり 2012-01-11


          (引用ここから)

では、オオクニヌシの「出雲王朝」はどのようにして崩壊したのか。

内部分裂とアメノヒボコと言われる韓国から来た強力な神の出現によって追いつめられたオオクニヌシの下に、ついに「国譲り」の使者がやって来る。


「古代出雲王朝」がどのように滅びたか、史実として確かなことは全く分からない。

しかしオオクニヌシ王国を滅ぼしたのは物部氏の祖先神であるという説がある。

「古事記」では「国譲り」の使者はアメノトリフネを従えたタケミカヅチであるのに対し、「日本書紀」では主なる使者は物部の神を思わせるフツヌシであり、タケミカヅチは副使者にすぎないのである。


「出雲王国」を滅ぼしたのはニニギ一族より一足先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない。

青柴垣神事、諸手船神事といった、たいそう手の込んだ「国譲りの神話」を象徴する祭りは、「古事記」や「日本書紀」に語られる「国譲り」の神話は決して架空の事ではなく、事実であることを末永く後世に伝えるものであろう。


「古事記」を虚心に読むかぎり、「出雲王朝」がヤマトをも支配していたことはほぼ確実であると思われる。


神武天皇は日向からはるばると遠征して、ヤマトにいるナガスネヒコと、一足先にヤマトに来ていたニギハヤヒの子、ウマシマジの連合軍を滅ぼし、ヤマトを占領した。

しかし神武天皇が権力を保つには、かつてこの国を支配したオオクニヌシ一族の血を引く女性を娶り、その女性との子を次の天皇にすることが必要であった。

そこで探してきたのが、三島と三輪のオオモノヌシの娘である。


神武天皇が亡くなった時、日向の元の妻との間の息子は殺された。
おそらく日向の豪族の血を持つ王子が皇位を継ぐことに、ヤマトの人たちの支持は得られなかったのであろう。

そして明らかに出雲王朝の血を持つヌナガワミミが第二代の天皇に就くことによって、神武天皇は安泰を保つことができたのだろう。
しかし以後オオクニヌシ系の女性で正妃の位に就く人はなく、物部系の女性が多く就くようになる。


新たに政権の座に就いた王朝がもっとも力を尽くすのは、前代の王朝の鎮魂である。
疫病が流行したり災害が起こったりしたとき、それはおそらく前代の王朝の祟りであると考えられた。


第10代の天皇、天皇家の祖とされる崇神天皇の御代に悪性の流行病がたびたび起こり、それはおそらく前代の「出雲王朝」の祟りであると考えられた。

このような出雲大神のたたりは崇神、垂仁で終わらず、「古事記」が作られた和銅の御世に近い過去にも起こったのである。


「日本書紀」の斉明天皇5年(659)に次のような記事がある。

「この歳、出雲国造に命せて神の宮をつくりよそわしむ。」

斉明天皇は天智・天武天皇の母であり、「古事記」選集当時の天皇であった元明天皇の祖母に当たる。

現天皇の祖母の時代にまで出雲大神の祟りが存在していたとすれば、「古事記」選集の段階において出雲大神の鎮魂ということが重要な国家的課題であったと考えられるのである。
          (引用ここまで)
 

著者梅原氏は、「出雲王朝」の崩壊の原因には直接言及することなく、話をすすめていくように思えます。もしかしたら「出雲王朝」を滅ぼしたのは物部氏の祖先フツヌシだったかもしれない、、と軽く触れられますが、深い詮索は行われません。

ただ、「青芝神事」や「諸手舟神事」、また姫路の「一つ山・三つ山祭り」といった地域の古い伝統行事は、まさにスサノオやオオクニヌシたちが今も生きているように生き生きとした伝承を行っており、「出雲の国譲り」は神話や物語などではなく、かつて出雲のオオクニヌシ一族の支配下にあった人々の心には決して忘れられることがない史実であり、心の奥深くに刻み込まれている記憶であることを証明していると考える、と語る道を選んでおられます。

そしてまた、だからこそ、「出雲王朝」にたたられているという出来ごとは、「古事記」・「日本書紀」が書かれている当時の人々にとって、最大の恐怖をもたらす最大の関心事であり、最大の悩みの種であったであろうと考えられています。

ニギハヤヒとは何者なのか、物部氏とは何者なのかということは、後で他の研究者の著作も比較してみてみたいと思っていますが、かつて在った者により「たたられている」という感覚は日本の歴史の中には脈々と流れ伝わっているように思います。


wikipedia「ニギハヤヒ」より

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。

ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。

ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。

イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。

これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。

また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。

大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。


wikipedia「フツヌシ」より

経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神である。

『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。

別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。


『日本書紀』の神産みの第六の一書では、伊弉諾尊が軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。

第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が生んだのが経津主神であるとしている。

葦原中国平定では武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。

『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では経津主神のみが天降ったとしており、出雲の意宇郡楯縫郷(島根県安来市)で天石楯を縫い合わせたとの逸話が残っている。


神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神であるとの解釈がある一方、「フツ」は刀で切る音ではなく「フツフツ」と沸き上がり「フルイ起す」フツであるとも解されている。

一説には、神武東征において建御雷神が神武天皇に与えた刀である布都御魂(ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。

逆に『先代旧事本紀』では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。

『古事記』においては、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとしており、葦原中国平定は建御雷之男神が中心となって行っているなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるように書かれている。

布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。

後に中臣氏が擡頭するにつれて、その祭神である建御雷神にその神格が奪われたものと考えられている。

経津主神は香取神宮で主祭神として祀られているが、香取神宮と利根川を挟んで相対するように、建御雷神を祀る鹿島神宮がある。

また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。

これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地であったため、両神社の祭神を勧請したものである。

また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。

コメント

国譲りの試論 (須賀の語部)2012-03-29 19:45:26 

古事記の出雲神話は弥生後期の四隅突出型墳丘墓と古墳時代を先取りした王墓が造成された時代と不思議とマッチすると。渡辺島根大学名誉教授が季刊「考古学」に書いておられた。

 私の解釈だとこうだ。

こたつ状の形をした四隅突出墳丘墓の分布は東は島根県の安来市、西は出雲市を中心とした王族が造成した。

発達時期は東が若干早く、数は東が、大きさは西のものが大きく国内最大級のものがある。しかし両者とも出雲の中では、数量、規模とも他を圧倒している。

つまりこれは、東はスサノオの王国、西はオオクニヌシの王国があったと考えるとすると説明がつく。

これが古墳時代に入ると、墳丘墓(古墳)を突然作らなくなる。
この西の勢力の衰弱が、国譲りを表しているとピッタリ符合する。

それでも西の勢力は古墳時代中期には回復し、当時全国的に流行していた前方後円墳を作り始める。一方東部は四隅突出墳丘墓の伝統を濃厚に引き継いだ、方墳、前方後方墳を頑なに作り続け、奈良時代までの500年間栄える。

また、古墳時代に埋葬された大刀の東西の差異も面白い。
東部は装飾性の強い大刀で蘇我氏系のもので、西部は装飾性が弱く、物部氏系のものであると考古学者は言っている。

つまり、大和朝廷の有力豪族として東部は入廷し、西部は吉備で栄えた大和朝廷の有力豪族物部氏の軍事侵攻に屈したと解釈するのが自然だろうと考えられる。

今年は島根県が神話博しまねをやっているのでこのあたりの詳しい情報は、島根県にある古代出雲歴史博物館に行って実物や考古学的成果を見てみるとより臨場感がわくだろう。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/0ebb60e97215cb8f6449e18dcfb5d7a7


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(4)
縄文から弥生へ 2012-01-14


          (引用ここから)

わたしはイザナギ・イザナミは縄文の神であると思う。

縄文の哲学は産みの哲学である。

タカミムスビ・カミムスビの「ムスビ」というのは、子を産むことを意味する。

このような「ムスビ」の神が、縄文時代において最も崇拝されていたことは、縄文時代にあまねく崇拝された石棒を見ても分かる。

これに対してイザナギ・イザナミに続く神々は、明らかに弥生の神であり、農耕の神々であろう。


「古事記」では国産みの後に神産みの話が続く。 イザナギはその最後にアマテラス・ツクヨミ・スサノオを産んだというが、この三人はいずれも農耕の神々である。 つまり縄文時代が終わり、弥生時代が始まるのである。

このように考えるとスサノオ、オオクニヌシの出雲神話は弥生時代の話なのであろう。

この弥生時代について、これまで紀元前5世紀から紀元後3世紀頃の間の約800年間と考えられていたのだが、放射性炭素年代測定法により、その始まりが通説より500年ほど遡った。 つまり紀元前10世紀頃にはすでに稲作農業が日本で行われていたと考えられる。


新たに認識された約3000年前の弥生時代初期に目を向ける時、われわれは古代の日本が現代の日本とははなはだ違う状況にあったことを認識しなければなるまい。

それは、かつてはこの日本列島の文化的中心は太平洋沿岸ではなく、日本海沿岸であったということである。

このような日本海沿岸の高い文化を示すものに、主として北陸地方に出土する巨大なウッドサークルの遺跡がある。 その代表的なものが能登半島の真脇遺跡であろう。

最大直径1メートルもある10本の栗の木が柱の断面を外側に向けている環状木柱列が発見された。 そのサークル状の柱の穴は幾重にも重なっていて、10本の柱が何年かに一度、立て替えられていたことを示していた。

また少し時代は後になるが、そこに無数のイルカの骨塚があったのが発見されている。 そこはおそらくアイヌの「熊送り」のように、「イルカ送り」をした場所であったのであろう。

サークル状に配された10本の柱は、生命の永劫回帰を意味するのかもしれない。


巨大な建造物の遺跡は山陰にもある。

このような伝統の下で、出雲のオオクニヌシの隠居の宮殿として、現在の出雲大社の本殿の高さの二倍もある巨大な宮殿が建てられたと見るべきであろう。


そしてもう一つ、この日本海沿岸で栄えた文明は、「玉 」の文明であった。
近年の調査で、新潟県糸魚川地方がヒスイの現産地であることが確かめられた。
この勾玉の起源を猪や魚の形をした獣型勾玉に求める梅原氏の説に、わたしはたいへん興味を覚えた。

アイヌ語は縄文語の名残を留めている言語だと私は考えているが、アイヌ語の「タマ」は「カムイ」と同じように霊的な存在を意味する。 玉はまさに霊的な存在であり、特に、勾玉は霊的存在の最たるものである。

勾玉はやはり魂の形を示しているのであろう。
その魂は植物の魂であるよりは動物の魂であろう。
動物と植物の違いは、動物にははっきりと死があることである。
それは動物の肉体から魂が去っていくからであろう。


魂の去った肉体はむしろなきがらであり、縄文人にとっては全く意味のないものであった。 縄文人はそのようななきがらを山に捨てて二度と参ろうとは思わなかった。 彼らが参るのは別の墓なのである。

縄文人は人が死ねばその魂は西の空に行き、そこでほぼこの世と同じ生活をすると考えてきた。 そしてその人物の子孫に妊娠が告げられると、あの世にいる祖先の誰かの魂が選ばれ、またこの世に帰ってくると考えていたのである。

それゆえ魂はこの世とあの世との間を永遠に行き来するものであった。

勾玉はそのような魂を表わすものであると考えられる。
人間をはじめすべての獣の、死からの復活を願う祈りが込められている。


「古事記」にある出雲の神オオクニヌシの越の神ヌナガワヒメに対する恋の話は、同時に征服の話なのである。 勾玉文化の中心地、越はついに出雲のオオクニヌシの手に帰したのである。

出雲の地は長年、ヒスイ王国・越の支配下にあった。

 その越の支配からの解放が、スサノオによる越のヤマタノオロチの退治の話であり、逆に出雲による越の征服の話がオオクニヌシの強引なヌナガワヒメとの結婚の話であろう。
            (引用ここまで)


wikipedia「真脇遺跡」より

真脇遺跡(まわきいせき)は、石川県鳳珠郡能登町字真脇にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡である。

真脇遺跡は能登半島の先端から少し内海に入ったところにある入江の奥に位置する。

用水路工事に伴う1982-83年にかけて行われた発掘調査により発見された。

遺跡は入江奥の沖積低地の包含層の、最近の水田の土地の約1メートル下にあって、そこから約3メートル下に亙って遺跡の含まれる層が年代順に層を成していた。

そこから発掘される史料なども豊富であるため、「考古学の教科書」などとも呼ばれる。

約6000年前から約2000年前まで、採集・漁撈の生活を営む集落があったものと考えられている。

発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、厳つい風貌の土面は後期に属する日本最古の仮面、整然とした地層などが話題を呼んだ。

この遺跡に住んでいた人々はイルカ漁を盛んに行ったらしく、大量のイルカの骨が発掘されている(特に前期-中期にかけて多く見られる)。

イルカの骨には石器の鏃や槍が残っていて、獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた。

また、イルカは、この土地だけでなく他地域との交易に使われたと考えられる。

船は出土しなかったが、船の櫂(ヤチダモ材)が出土している。

さらに中部山岳地帯や東北地方からの土器や玉が出土していることからも分かる。


遺跡最晩期の地層からは、円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。

10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。

その太さは直径80〜96センチもある。

小さな環状木柱列もあり、これらは何度も立て替えられたと考えられる。

同じ石川県金沢市で先に確認されたチカモリ遺跡の環状木柱列(ウッド・サークル)と良く似ており、注目されている。


このような巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、日本海沿岸から中央高地にかけていくつか確認されている(新潟県糸魚川市の寺地遺跡、富山市古沢の古沢A遺跡、長野県原村の阿久遺跡など)。

2000年11月の発掘で、縄文時代中期頃の盛り土で区画された大規模な集団墓地遺構が検出された。

大量の土を動かし、それを積み上げて盛り土をし、墓を造っている。

盛り土は、日本列島では、縄文時代後期に属する北海道斜里郡斜里町の環状土籬、弥生時代の墳丘墓、古墳時代の各種の古墳などがある。

人間の労働力を集中して自然の景観を変えてしまう共同作業が縄文の時代にも行われていた。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/8f8f1191a02512bca01e813e5afc50b4


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(5)
×印をつけて埋葬された銅鐸をめぐって 2012-01-21

梅原猛は近年島根県の遺跡から大量に発見された銅鐸について、以下のような問いを立てます。


>近年発見された荒神谷遺跡や加茂倉遺跡で発見されたおびただしい青銅器は、どのような形でスサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」と結びつくというのだろうか。


        (引用ここから)

ヒスイおよび玉の産地はほぼ環日本海地域である。
日本海沿岸はこのような巨大建築と玉の文化が栄えていた。
そしてさらに青銅器文化も栄えていたのである。
それは大量の銅鐸の出土によって分かったことである。


弥生時代の芸術作品といえば、銅鐸をあげねばならぬと思う。
弥生文明は稲作農業を生産の基礎とする文明であった。
農業に従事する人々を統合する宗教的・政治的権威が必要である。
それが神聖たるべき王の存在であろう。
日本では昔から「政りごと」は「祭り事」と言われるように、政治はすなわち祭事でもなければならなかった。 そしてそこで、青銅器は「出雲王朝」の政治と深く結びついた祭器であったと考えられる。


「古事記」「日本書紀」は、日本の農業はスサノオ、オオクニヌシの始めたものであるとする。

では、近年発見された荒神谷遺跡や加茂倉遺跡で発見されたおびただしい青銅器は、どのような形でスサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」と結びつくというのだろうか。


銅鐸研究家佐原氏は、銅鐸の起源について、銅鐸は中国から来たものではなく、朝鮮の馬の首につける鈴が日本に来て、祭器になったものであるとする。
朝鮮の人にとって漢式馬車に乗る貴族は尊敬の的、憧れの的であった。
貴族のシンボルとして馬の首につける鈴ほど適当なものはない。
それゆえにこの様な馬の鈴を日本で祭器としたのは朝鮮から来た貴族、あるいは貴族に強いあこがれを持つ人物であったに違いない。

わたしはそういう人物として「日本書紀」の記述により朝鮮から来たと考えられるスサノオを想起する。 そうであるとすれば、銅鐸は「出雲王朝」の祖であるスサノオと結びつく。

では、このような大量の青銅器を所有していたのは誰か、そしてそのような大量の青銅器を埋蔵したのはなぜなのだろうか。


これほど多くの宝器を所有したのは間違いなく「出雲王朝」の大王であり、おそらくオオクニヌシと言われる人であったに違いない。

しかしそのような宝器をなぜ人目につかない丘の中腹に埋めたのか。

その謎を解く鍵は、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸のほとんどに×印が刻まれていたことにある。

西洋から近代科学文明を採り入れて以来、日本人は「あの世」について考えなくなった。
しかし日本人の「あの世」信仰は、浄土教が日本に移入される以前に、すでに深く日本人の魂に浸透していた信仰であると思わざるを得ない。
日本人は縄文時代以来、深い「あの世」感を持っていたので、とりわけ浄土教が日本仏教の主流になったのではないかと思う。

かつて柳田国男が指摘したように、日本人には人が死ぬとまず近くの里山に行き、しばらくたって亡くなった祖先達の住むあの世へ行き、お盆やお正月やお彼岸にはこの世に帰ってくるという縄文時代以来の信仰と、十万億土離れた遠い極楽浄土へ往生するという浄土教の信仰がまだら染めのように混在していたと思われる。

このような「あの世」観において「あの世」は、「この世」とあまり変わりない所と考えられていたのである。


ただし一つだけ大きく違うことがある。
「あの世」と「この世」は万事あべこべなのである。
たとえば「この世」の夏は「あの世」の冬、「この世」の冬は「あの世」の夏。

「この世」の昼は「あの世」の夜、「この世」の夜は「あの世」の昼、というように、「この世」で完全なものは「あの世」では不完全であり、「この世」で不完全なものは「あの世」で完全なものであるという信仰でもある。


そうした信仰の最もはっきり認められるものが、縄文時代に作られた土偶であろう。

土偶はすべて必ず破壊されていた。

また土偶の特徴は中央に縦一文に引き裂いたような跡があることである。

土偶の中にはあたかも人間を葬るかのように丁寧に埋葬されたものもある。

土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像であり、妊婦が完全な人間として再生することが出来るようにバラバラにして埋められるものである。

それゆえ、死者に贈られるものは必ず壊して贈らなければならない。

弥生時代の副葬品として貴重な鏡が供えられることもあるが、その鏡はばらばらに壊されているものがあり、死者に供えるものはそのように壊されたり、焼かれたりする。

火で焼くことによって、そのものを「あの世」へつつがなく贈るのである。

日本で恒久的な都が作られるのが遅れたのは、前大帝の宮殿を焼いて、死んだ帝に捧げられたためであると、私は考えている。


このように考えると、遺跡から出土した銅器に付けられた×印の謎が初めて理解される。

それらの品物は、すべて死者に贈られたものの印であろう。

×印を刻んで、不完全なものであることを示そうとしたのではないか。

大量の銅鐸の出土した遺跡は賀茂氏の祖先であるオオクニヌシの愛児・アジスキタカヒコネのいたところで、この地に彼の宮殿があったと思われる。

それゆえ、「国譲り」後も生き残った彼とその子孫たちは、持っていた銅鐸をすべてこの丘に埋蔵して、父・オオクニヌシに送り届けようとしたのではあるまいか。

いずれの遺跡においても、銅鐸は愛情をこめて、実に丁寧に埋葬されている。

そこにオオクニヌシに対する深い哀悼の心が込められているのではないかと私は思ったのである。  
           (引用ここまで)


梅原氏は、出土した銅鐸は朝鮮からやってきて、出雲王国を作り上げたスサノオノミコトが朝鮮からもたらしたものであり、出雲王朝の王オオクニヌシが所有していたものであり、オオクニヌシの息子が死者の住むという「あの世」にいる亡き父オオクニヌシに贈ったものではないだろうか、と考えています。


この考えとは別の考えとして、山崎謙氏は著書「幻の出雲王国」において別の見解を述べておられます。

       (引用ここから)

古代出雲は日本海をつうじて諸地域と交流があった。

近年の考古学的発見の数々はその様子を次第に明らかにしつつある。

弥生時代は中国の史書に「倭国騒乱」の文字があるように、各地に地域国家が出現し、勢力争いが勃発していたと見られる。

弥生時代の出雲は、青銅器の出土量は全国でもトップクラスであり、その後の鉄器も北九州に次いで出土数が多い。 出雲は当時、現在で言えばハイテク分野でトップクラスの力をもつ強国であったと考えてよい。

青銅器は鉄器が流入すると、急速にすたれる。
荒神谷遺跡などの青銅器の大量埋納はそのことと関係があるかもしれない。
あるいは青銅器を使用することに意味をもつ宗教的な行事が意味を失い、廃棄されたのかもしれない。

また、古代出雲王国が大和王権に屈し、伝えられてきた同国の象徴である青銅器を廃棄させられたという可能性も捨てがたい。

        (引用ここまで)
確かに、どの説の可能性も捨てがたいと感じます。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/ce75cf2f7f37e0487c4f1305c5e2f258

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28. 中川隆[-13610] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:44:12: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告
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hoh********さん 2016/2/13 01:29:09
神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?

pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588


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29. 中川隆[-13609] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:46:49: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告
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文献は語る −日本神話

1.天孫降臨


天孫降臨の話は、基本的には高天原の神々がその直系の神を高天原から地上の世界へ降ろし、地上を支配していた国津神たちから国土を譲り受ける、あるいはそのまま支配する話なのだが、これは以下のような構成になる。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

このうち(1)、(2)はオオクニヌシの支配する葦原の中津国、すなわち出雲地方のことで、この物語は天孫降臨よりも、「出雲の国譲り」としてのほうが知られている。しかしこれも意味合いから言えば天孫降臨である。「国譲り」とはぶんどった方の呼び方であって、取られた方からすれば略奪であり、占領である。

難波や日向に天下った際には特別な記事はないのに、出雲だけ何故建御名方神が抵抗したのか。おそらく、当時の国々の中では出雲だけが、高天原(天津神(渡来して北九州にいた集団)たちの国)に抵抗できるだけの体制(軍備・文化・技術等々)を持っていたからに相違ない。これは、出雲が北九州とは独立して、遙か昔からの先進文化を受け入れていたことを示している。

葦原中国を平定後、アマテラスは最初、我が子天之忍穂耳命(オシホミミノミコト)に、葦原中国を統治するように命じたが、オシホミミノミコトに子が生まれ、アマテラスは、その子番能邇邇藝(ホノニニギノミコト)を降臨させる。 最初命を受けたオシホミミノミコトが、降臨の役目を辞退してしまうのはなぜかよくわからない。アマテラスは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、伊斯許理度売命(イシコリドヒメ)、玉祖命(タマノオヤ)を孫のニニギノミコトに付けて、共に地上に行くように命じ ニニギノミコトに、八尺の勾玉(ヤサカノマガダマ)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、そして草薙剣(クサナギノツルギ)を授ける。更に、思兼神(オモヒカネノカミ)、天手力男神(タヂカラヲノカミ)、天石門別神(アメノイハトワケ)、らにニニギノミコトと一緒の天降りを命じた。ニニギノミコトには、

「この鏡を私の魂と思って、私の前で拝むような気持ちでいつも敬うように」

と下命した。一行の降臨を国津神の猿田彦神(サルタヒコ)が待ち受けていた。こうして、ニニギノミコトは、高天原を離れ、随行する神々と、途中、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降った。

この地は韓国に向き、笠沙の岬にまっすぐ道が通じていて、朝日がまぶしくさす国であり、夕日が明るく照りつける国でもあった。ニニギノミコトはここに宮殿を造るが、ニニギノミコトが天降った高千穂という伝説地は、宮崎県西臼杵郡高千穂町と宮崎・鹿児島両県にまたがる高千穂峰が有名である。天孫降臨の話は、古事記と日本書紀では若干違っており、日本書紀では本伝のほかに多くの異伝を伝えている。天上から地上への降臨による地上支配の発生という神話は、東アジアを中心にして多くの民族に共通し、それらを北方的な要素とみなす見解もある。 天孫降臨のあとは、いわゆる日向神話における山幸彦・ウガヤフキアヘズ命の誕生を経て、初代神武天皇へと直結する。


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古事記での「天孫降臨」


故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。
(倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年)


日本書紀での「天孫降臨」

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店1993年)

(注;)日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。

日向國風土記逸文での「天孫降臨」

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
(秋本吉郎校注「日本古典文学大系2 風土記」岩波書店)


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梅原猛は、この神話は一般に「天孫降臨」として知られるが、最初は「天子降臨」だったのではないか、という指摘をしている。この神話の原典は古事記・日本書紀・万葉集だが、万葉集が一番古い資料で、古事記・日本書紀では確かに 「天孫降臨」になっているが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではない。そこで梅原は、万葉集の原型が作られたのが、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時に、この孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、としている。なかなか興味深い推察である。


天孫が降臨した「高千穂」を巡っても諸説ある。古事記では、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)、日本書紀では「一書に曰く」と諸説あるため、高千穂峯(たかちほのたけ)、久志振流岳(くじふるだけ)などに降臨した事になっているが、宮崎県の高千穂町と、鹿児島の霧島山系・高千穂の峰が「高千穂峯」の本家争いをしているのは有名な話である。しかしその「くじふるだけ」という呼び方から、大分県の「久住岳」(くじゅうだけ)と言う意見もあるし、福岡県の英彦山には、天忍穂耳神が降臨されたという伝説があり、農業や鉱業などの守り神として今も信仰されている。


本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと言っている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)

 
また宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、 知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」
(『古事記』十七之巻)


前出梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく 新潮社刊」の中で、この本居宣長説について、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動したのではないかとこの説を補強している。

2000年9月14日(木)から17日の間、第38回歴史倶楽部例会で、「南九州/神話・遺跡の旅」と称して、宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡などを廻ってきた。高千穂町はほんとに山深い鄙びた町である。こんな所に神々が降ったとは一寸思えない。しかしそれは、一大生産地としての観点から見ればであって、神話に言うただ降りてきただけの「降臨の地」とすれば納得できない事ではない。山深い幽玄な雰囲気はそれを十分感じさせるだけの説得力を持っている。だが神話を離れて、外来民族か或いは他地方からの民族移動を「天孫降臨」だとすれば、この地はあまりに辺境すぎる。あまりにも山の中である。天孫ニニギの尊が、「葦原の中つ国」を治めるために降りて来るには一寸ばかり山峡すぎる。日向に三代に渡って住んだと記紀は書いているが、高千穂から日向の国へ移ったという記述はない。とすれば、降りてきた高千穂にニニギニミコト、ウガヤフキアエズ、カンヤマトイワレビコと三代住んだと考える方が自然だろう。それにしてはここはあまりにも山の中である。ここでは東に良い国があるなどという情報も到達しないのでは、と思える程辺境だ。


(以下古事記による。)

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爾くして、天照大御~・高木の~の命(みことのり)以ちて、太子(おおみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命に、

「今、葦原中國を平らげ訖(おわ)りぬと白す。故、言依(ことよ)」

さし賜いし隨(まにま)に降り坐して知らせ」

と詔りき。爾くして其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命、答えて、


「僕、將に降らんと裝束(よそ)える間に、子、生まれ出でぬ。 名は天邇岐志國邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能邇邇藝(あまつひたかひこほのににぎ)の命、此の子を降すべし」


と白しき。 此の御子は高木の~の女、萬幡豐秋津師比賣の命に御合して生める子、天火明(あめのほあかり)の命、次に日子番能邇邇藝の命【二柱】也。是を以ちて白しし隨に、日子番能邇邇藝の命に科(おお)せて、「此の豐葦原水穗の國は汝が知らさん國と言依さし賜う。


故、命の隨に天降爾くして日子番能邇邇藝の命、將に天より降らんとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上は高天原を光し、下は葦原中國を光す~、是れ有り。故、爾くして天照大御~・高木の~の命以ちて、天宇受賣の~に、

「汝は手弱女人(たわやめ)に有りと雖も、伊牟迦布(いむかふ)~と面勝(おもかつ)~ぞ。故、專(もは)ら汝往きて將に、

『吾が御子の天降らんと爲す道に、誰ぞ如此して居る』と問え」

と詔らしき。 故、問い賜いし時に答えて、

「僕は國つ~、名は猿田毘古(さるたびこ)の~也。出で居る所以は、天つ~の御子、天降り坐すと聞きし故に、御前に仕え奉らんとて參い向い侍る」

と白しき。


爾くして、天兒屋(あめのこやね)の命・布刀玉(ふとだま)の命・天宇受賣(あめのうずめ)の命・伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命・玉祖(たまのおや)の命、并せて五伴緒(いつとものお)を支(わか)ち加えて天降しき。是に其の遠岐斯(おきし)、八尺勾(やさかのまがたま)、鏡、及び草那藝の劍、また常世思金の~、手力男の~、天石門別(あめのいわとわけ)の~を副え賜いて詔らさくは、

「此の鏡は專ら我が御魂と爲て、吾が前を拜むが如く伊都岐(いつき)奉れ。次に思金の~は前の事を取り持ちて政を爲せ」

と、のりき。此の二た柱の~は、佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拜み祭る。次に登由宇氣(とゆうけ)の~、此は外宮の度相(わたらい)に坐す~也。


次に天石戸別の~、またの名を櫛石窓(くしいわまど)の~と謂い、またの名を豐石窓(とよいわまど)の~と謂う、此の~は御門の~也。次に手力男の~は佐那縣(さなあがた)に坐す也。故、

其の天兒屋の命は【中臣連(なかとみのむらじ)等の祖(おや)】。
布刀玉(ふとだま)の命は【忌部首(いんべのおびと)等の祖(おや)】。
天宇受賣(あめのうずめ)の命は【猿女君(さるめのきみ)等の祖(おや)】。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は【鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖(おや)】。
玉祖(たまのおや)の命は【玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖(おや)】。


故、爾くして天津日子番能邇邇藝の命に詔りて、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多那(たな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾くして天忍日(あめのおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挾み、御前に立ちて仕え奉りき。

故、

其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。

是に詔らさく、

「此地は韓國に向かい、笠紗(かささ)の御前に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國也。 故、此地は甚吉(いとよ)き地」

と、詔りて、底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て坐(いま)しき。


【ホノニニギの、諸文献における表記】

古事記 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子番能邇邇芸命
天津日子番能邇邇芸命
日子番能邇邇芸命
日本書紀 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
天之杵火火置瀬尊
天杵瀬尊
火瓊瓊杵尊
天津彦火瓊瓊杵尊

風土記 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
瓊瓊杵尊
哀能忍耆命

先代旧事本紀 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊


ホノニニギの神名の多さと長さは記紀にもあまり例がない。ちょっと異常と思えるほどだが、想像をたくましくすれば、北九州の高天原からあちこちへ降臨した神々がいたのではないかと思わせる。日向へ降ったホノニニギはその一人で、神話が形成されていく過程で、ホノニニギ一人に集約されたもののようにも思える。ホノニニギの「ホ」は「穂」であり、ニニギは「にぎにぎ」の意で「賑やかな」「賑わう」と解釈し、稲穂が豊穣に実っている様を表していると言われる。

また、ホノニニギは「天神御子」とも称され、神から天皇へ繋がる系譜上の重要なポイントに位置し、先に見たように、記紀編纂当時の、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の皇位継承問題の事情が反映されているのではないかとも言われる。日本書紀九段本書では、天孫降臨の任務は初めからホノニニギであり、赤ん坊の姿でマトコヲフスマに包まれて降臨している。ホノニニギは、崩じた後日本書紀によれば「可愛之山綾」に葬られ、現在その場所は、鹿児島県川内市宮内町や、宮城県延岡市北方の可愛岳などが想定されている。

「国譲り」神話を、何らかの史実を秘めた伝承であるとする立場からすれば、冒頭にも記したように、これは明らかに民族間の領土移譲を含めた権限委譲である。若干の武力抗争もあっただろうが、「国譲り」と表現されるような、圧倒的な軍事力の違いの前に、国を譲らざるを得ないような状況があったのだろうと想像できる。見てきたように、それは北九州の高天原に、出雲の葦原の中津国が屈したのだと考えれば、以後の歴史展開が、考古学の成果も含めて一番説明が容易である。そうやって北九州の、当時の日本列島で一番勢力が強かった一団が、出雲や畿内や南九州を屈服させていったのだろうと思われる。天孫降臨は、それらの屈服させた領地へ派遣する司令官とそのお供の武官達を任命した、いわば壮行会であり、辞令交付式だったのだろうと思われる。そして時代を経て、それは高天原と国津神たちの支配する中津国とのお話として神話となって伝承された。


高天原の神々が降臨に用いる乗り物は天の磐船であり、雲であり、その上に乗って大勢のお供とともに天下っている。これは明らかに海上を船によって移動したことを示唆している。陸上を馬や徒歩で移動したのであればこういう表現にはなっていない。これは高天原が少なくとも近畿ではなかったことを強く物語る有力な証左である。

2.日向三代


天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。

神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、すぐ側の西都原(さいとばる)古墳群を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここにあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研究がなされてもいいような気もする。


こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったものである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。


さて、ニニギの尊が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会う。迩迩芸命が名を尋ねると

「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫(このはなのさくやひめ)といいます。」

と答えた。そこでニニギは咲夜姫に結婚を申し込むが、咲夜姫は

「私の父に言って下さい」

と答える。そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、姉の石長姫も一緒に娶ってくれといい、婚礼用品を添えて二人の娘をニニギの元にさしだした。

ところが石長姫の方は醜女だったため、ニニギは大山津見神の所へ返してしまう。すると大山祇神は怒り、

「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持てたのに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」

と答えた。古事記は、だから代々の天皇の寿命は短いのだとコメントしている。

さて、その咲夜姫だが、ニニギとは一度しか交わらなかったのに、その一回の交わりだけで妊娠してしまう。ニニギは、1回交わっただけで妊娠するとは、と疑った。咲夜姫は、

「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」

と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落した。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命という。火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦である。山幸彦はまた、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名を持つ。


海の神の娘、豊玉姫神と結婚し、やがて鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産む。彼は豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚して、神武天皇が産まれる。


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是に天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗の御前に麗しき美人に遇いき。爾くして、

「誰が女ぞ」

と問いき。答えて、


「大山津見の~の女、名は~阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂う」

と白しき。また、

「汝、兄弟有りや」

と問いき。答えて、

「我が姉、石長比賣(いわながひめ)在り」

と白しき。 爾くして、

「吾は汝と目合(みあ)わんと欲う。奈何に」

と詔りき。答えて、

「僕は白すことを得ず。僕が父、大山津見の~、將に白すべし」

と白しき。故、其の父の大山津見の~に乞い遣りし時に、大きに歡喜びて其の姉の石長比賣を副(そ)えて、百取(ももとり)の机代の物を持たしめて奉り出だしき。故、爾くして其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟の木花之佐久夜毘賣を留めて一宿、婚爲き。爾くして大山津見の~、石長比賣を返ししに因りて大きに恥じて白し送りて、

「我(あれ)の女、二並(ふたりとも)に立て奉りし由は、石長比賣を使わさば、天つ~の御子の命、雪零り風吹くと雖も、恆に石の如くして、常わに、堅わに動かず坐さん、また木花之佐久夜毘賣を使わさば、木の花の榮ゆるが如く榮え坐さんと宇氣比弖(うけいて)貢進(たてまつ)りき。此く石長比賣を返らしめて、獨り木花之佐久夜毘賣を留むる。故に天つ~の御子の御壽(みいのち)は木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さん」

と言いき。故、是を以ちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等の御命(みいのち)は長くあらぬ也。


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豊玉姫は妊娠し、天津神の御子は海の中で生んではならないと地上へやってきた。そして渚に鵜の羽を茅葺(かやぶき)にした産屋を建ててくれと山幸彦に頼み、異郷の者が出産するときには、すべて元の国の姿になるので、出産現場を見ないでくれと頼む。山幸彦は見ないと約束するが、心配と好奇心で産屋を覗いてしまう。そこに居たのは、八尋(やひろ)ワニの姿に戻った豊玉姫がいた。驚く山幸彦に、約束を破って姿を見られたからにはもうここにはいられないと豊玉姫は、我が子ウカヤフキアヘズノミコトの世話を、妹である玉依姫神に託すと単身海の国へと戻っていった。


山幸彦ことホヲリノミコト(火遠理命)は、日向で580年生き、高千穂の山の西に葬られた。ホヲリノミコトの子、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)は、やがておばの玉依姫神と結ばれ、イツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)が生まれた。ワカミケヌノミコトの別名は、カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼昆古命)と言った。

ミケヌノミコトは常世国へ行き、イナヒノミコトは母のいる海原に入った。


故、後に木花之佐久夜毘賣、參い出でて、

「妾(あれ)は妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、是れ天つ~の御子にして、私(わたくし)に産むべきにあらぬが故に請(もう)す」

と白しき。爾くして、

「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める。是れ我が子に非ず。必ず國つ~の子ならん」

と詔りき。爾くして答えて、

「吾が妊(はら)める子、若し國つ~の子ならば、産むこと幸くあらず。若し天つ~の御子ならば幸くあらん」

と白して、即ち戸の無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞(ふさ)ぎて、方(まさ)に産まんとする時に火を以ちて其の殿に著(つ)けて産む也。 故、其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命【此は隼人(はやと)の阿多(あた)の君の祖(おや)】。 

次に生める子の名は、火須勢理(ほすせり)の命【須勢理の三字は音を以ちてす】。 

次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見(あまつひたかひこほほでみ)の命【三つ柱】。

(略)

是に海の~の女、豐玉毘賣の命、自ら參い出でて、

「妾(あれ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今産む時に臨みて此(これ)を念(おも)うに、天つ~の御子を海原に生むべくあらず。故、參い出で到れる也」と白しき。爾くして即 ち其の海邊の波限(なぎさ)に鵜の羽以ちて葺草と爲て産殿を造りき。

是に其の産殿の未だ葺き合えぬに御腹の急(にわ)かなるに忍(た)えず。故、産殿(うぶや)に入り坐しき。爾くして將方(まさ)に産まんとする時に其の日子に白して、「凡そ他(あた)し國の人は産む時に臨みて本(もと)つ國の形を以ちて産生(う)むぞ。故、妾(あれ)今本の身を以ちて産まんと爲(す)。願う妾を見る勿(なか)れ」


と言いき。是に其の言(こと)を奇しと思いて竊かに其の方(まさ)に産まんとするを伺えば、八尋和邇(やひろわに)と化りて匍匐(はらば)い委蛇(もごよ)いき。

即ち見驚き畏みて遁(に)げ退(そ)きき。爾くして豐玉毘賣の命、其の伺い見る事を知りて心恥(はずか)しと以爲(おも)いて、乃ち其の御子を生み置きて、

「妾は恆に海の道を通りて往來(かよ)わんと欲(おも)う。然れども吾が形を伺い見ること、是れ甚(いと)(はずか)し」

と白して、即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて返り入りき。

是を以ちて其の産める御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)の命と謂う。然くして後は、其の伺いし情(こころ)を恨むと雖ども戀(こ)うる心に忍(た)えずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌を獻(たてまつ)りき。 

(略)

故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命は、高千穗の宮に坐(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)。御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山の西に在り。是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命、其の姨(おば)の玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、五瀬(いつせ)の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛沼(みけぬ)の命。

次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命、またの名は~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命【四つ柱】。故、御毛沼の命は浪の穗を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は妣(はは)の國と爲(し)て海原に入り坐しき。


古代、南九州には隼人と呼ばれる一族がいた。山幸彦に降伏した海幸彦は、溺れたときの所作を演じ、ふんどしをつけ顔や手足を赤く塗り、俳優の技をして弟を慰めたといい、そして、この子孫が隼人であるといわれる。海幸・山幸神話は、皇孫である山幸彦に隼人の祖である海幸彦が服従するという、隼人の朝廷への服従起源でもある。この話は、もともと南九州にいた隼人族の伝承であったといわれており、その伝えていた芸能隼人舞の由来話という形で、その首長の前で演じられていたのではないかといわれている。猟具の交換を発端とする海底国への訪問、失った釣針などに類似する話としては、喜界島の「竜神と釣縄」という話があり、そのほか、パラオ等、インドネシアからミクロネシアにかけて類似した話が語られている。


日向国が、現実の南九州の日向であったかどうかについても色々な議論がなされている。日向とは現在の宮崎県ばかりでなく、大隈と薩摩を含んだ地域であるとすると、それは隼人族の住む未開の地でもあるので、皇室の祖先はそうした未開の地は原郷にしないという説もあるし、日向とは単なる「太陽の照らす聖地」という意味にすぎないという説もある。そもそも邪馬台国問題と同じで、或いはそれ以上に情報量は少ないので、神話や民俗学に興味がある者なら、いかようにも解釈できることになる。

日向三代の神話が全て隼人族の伝承だったとすると、「コノハナサクヤヒメの神話」「海幸山幸の話」も同じくインドネシア、ミクロネシアに類似した神話が多くあるので、隼人族そのものも南方種族ではないかとする説もあり、かなり有力視されている。しかし、日向三代神話が隼人の伝承であったとすると、これを大和朝廷が皇室の神話系譜の中に取り入れたのは何故なのか、またいつごろなのかという問題が残る。

北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたのだと解釈すれば、宮崎に残る西都原古墳群やこの神話の持つ意味も理解できる。日向に三代も住めば、そこが地理的に日本列島の統治にとって都合のいい場所ではないと判明したかもしれないし、もっと実りの多い、稲作に都合の良い平野を抱えた地方が東にあるという情報も、派遣した先兵や偵察隊が報告していたかもしれない。実際に、後に神武天皇と呼ばれる人物が東を目指して旅だった可能性も高いが、私が邪馬台国東遷説にいまだ同意できないのは、もし、高天原=北九州、天照大神=卑弥呼だとすると、その後の邪馬台国はどうなったのかという疑問が未だに解けないからでもある。邪馬台国から日向へ降りてきたニニギは日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。


3.神武東遷


初代の天皇である神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日向国に天下りした邇邇芸命(ニニギのみこと)の曾孫にあたる。神武の時期から人代で、それ以前は神代とされる。神武の一族は、日向国高千穂宮に住んでいたが、兄のイツセノミコトと共に、東国に豊かな土地を求めて移住を始め、豊国宇佐足一騰宮(あしひとつあがりのみや:

大分県宇佐市)、竺紫岡田宮(福岡県遠賀川河口)、阿岐国多祁理宮(たけりのみや:広島県府中町)、吉備高嶋宮 (岡山市高島)、青雲の白肩津(東大阪市日下町)、紀国男水門(大阪府泉南郡樽井町)、熊野村(和歌山県新宮町)、吉野の川尻(奈良県吉野郡)を経て、宇田(奈良県宇陀郡)へ到着した。

岡田宮に一年、多祁理宮に七年、高島宮には八年も滞在したとされる。瀬戸内海を渡った神武は、難波の津で長髄彦に抵抗され、兄・五瀬命を失うが、和歌山の大台ヶ原から大和に入り、長髄彦を破って大和の平定に成功し、辛酉年春正月一日に、橿原宮で即位し、百廿七歳で、橿原宮にて死んだ。


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宇佐に行く前、二人は速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で亀の甲羅に乗って釣をしている人間を見つける。お前は誰かと尋ねると国つ神だといい、海路をよく知っているというので案内人とし、サヲツネヒコ(棹根津日子)という名をあたえる。

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  一行は難波に上陸するが、登美(奈良市富雄町)の豪族、ナガスネビコ(那賀須泥昆古)が軍勢を率いて攻めてきた。戦闘はナガスネヒコが優勢で、イツセノミコトも敵の矢を受ける。イハレビコは

「日の神の御子である我々が、日に向かって攻め入ったのが良くなかった」

として、日を背にして敵を撃とうと紀州沖を南下し熊野から内陸をめざすが、兄のイツセノミコトは船上で絶命してしまった。今、イツセノミコトの御陵が紀伊の国の竈山にある。

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イハレビコは、和歌山から南に回って、熊野村に到着したが、大きな熊に出会い、やがて一行の兵士達は突然気を失い、次々に倒れ伏す。そのとき一振りの太刀をもった男が現れ、イハレビコに剣を献上した。この太刀で、イハレビコは熊野の山の荒ぶる神を退治した。この時剣を献上したタカクラジ(高倉下)が、イハレビコに剣を渡した訳を説明する。

夢をみて、夢にアマテラスとタカギノカミが現れ、二人は、タケミカヅチ神を呼び寄せて

『葦原中国はひどく騒然としており、我が御子たちは病み悩んでいるようだ。かの国はそなたが服従させた国なのだから、もう一度そなたがいって御子たちを助けてこい。』

と。タケミカヅチは、

『私が降らなくても、かの国を平定した太刀がありますから、このサジフツノカミ(佐士布都神)を降しましょう』

と、タカクラジが授かって届けに来たのだという。さらにタカクラジは、夢の中で、タカギノカミからの伝言を預かっていると言う。

「荒れすさぶ神がたくさんいるから、天つ神の御子をこれ以上奥に行かせてはならない。」

「今、天上からヤタガラス(八咫烏)を遣わそう。そして、そのヤカガラスが先導するので、その後についていくように。」

ヤタガラスの後を追いながら吉野川の川下にたどりついたカムヤマトイハレビコは、魚をとっている人物に出会った。 さらに進むと、井戸から尾の生えた人物に出会った。さらに、山に入ると尾の生えた人物が岩を押し分けで出てきた。それぞれ、天津神の御子が来るというので、出迎えにきた国つ神だった。そして、奈良県の宇陀という場所にたどりついた。タケミカヅチから授かったこの霊剣、サジフツノカミは別名、フツノミタマ(布都御魂)といい、現在石上神宮に鎮座している。


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これが神武東征神話の概略である。戦前は史実として流布され、戦後は一転して全面的に否定された。辛酉年は紀元前660年にあたり、1月1日は太陽暦の2月11日にあたるとされる。神武天皇は、なぜ辛酉年に即位したと考えられたのだろうか。中国人の革命思想は、天地を支配する天帝は、人民の中から仁の心に富んだ男を選び、愚民を支配する権力を委任する。

天子は道徳的な力に満ちた男であるが、その権力を譲られた子孫はそうとは限らない。人民を痛めつける天子は、もはや天子ではなく、新たに自分が天子だと自覚する男が、これを殺すことが正当化される。これを革命(革令)といい、このうち、辛酉年には新しい王朝が建てられるという。ただし、60年ごとの辛酉年ではなく、60年の21倍の1260年ごとの辛酉年である。600年代はじめ、推古天皇の摂政だった聖徳太子を責任者として、国史の編纂が行われた。西暦601年が辛酉年であり、ここから1260年さかのぼった紀元前660年が、神武天皇の即位の年と計算され、日本書紀にも引き継がれたのである。神武天皇は、紀元前660年の人物であり、この時期は縄文時代とされているから、とても実在の人物とはいえない。産能大教授の安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を示しているのである。


ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。

これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という私の史観と合致する。わたしはこの「神武東遷」に象徴される、九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、まだわからない。

だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的である。


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古事記・日本書紀に書かれている天孫降臨や神武東遷伝承が、大和朝廷の役人達によって机上で述作されたものであるという考え方は、全くの想像である。記紀が編纂されてから今日まで、そういう事を書いてある古文献は1点も存在しない。それを、述作されたものであるとか、創作されたものだとする考えは、完璧に主観的判断に基づいて、歴史をねつ造しているのと同じである。

歴史学者・考古学者たちの第二次世界大戦における敗戦のショックと、戦前・戦中を通じて、強権に確執を醸せなかった自らの贖罪を求める気持ちはよく理解できる。同胞が、戦時中に近隣諸国に対して行った行為に対して、それらの国々に対する謝罪の念も持って良い。しかし、そういったイデオロギーと学問の世界における真理の追究とは全く別物であるということに、もうそろそろ気づいても良い頃だ。古事記・日本書紀という、我が国最古の歴史書に書かれ、また多くの伝承を持ち、長きにわたって多くの研究がなされてきたこれらの日本神話が、戦後50数年間にわたって、歴史家によって殆ど無視され、語られもしなかった事実は全く異常としかいいようがない。教科書にも載せず、読み物にも書かれない今の現状では、やがて日本人は、自分たちの祖先が語った多くの神話と、その中にもしかしたら潜んでいるかもしれない歴史の核を、まるで理解できない、世界でも希有な民族になってしまう。


私は古代史を学んで、日本国家の成立を探り、天皇家の起源を探り、ひいては自分が誰なのかを探ろうとしている。それには、掛ければ色や形が変わって見えてしまう、イデオロギーというサングラスだけは絶対に掛けたくないと思う。
http://inoues.net/yamahonpen10.html


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30. 中川隆[-13617] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:50:53: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20737] 報告
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古代史の鍵・丹後 籠神社
太陽信仰もつ海人集団の拠点

「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。

 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。


浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。


 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/


京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。


古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。


もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。


丹後半島の古墳公園(加悦町)


倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html

十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)


布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。


十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D


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31. 中川隆[-13619] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:57:40: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20740] 報告
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神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html
奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm


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32. 中川隆[-13621] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:00:53: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20743] 報告
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巫女(みこ/シャーマン)
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/

御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

◆【性文化史関係一覧リスト】
http://miracle-jiyoudan.com/seibunka_yougo.html

をご利用下さい。

この文章は、

小論・【遊女(女郎)の歴史】
http://miracle-jiyoudan.com/yuuzyonorekisi.html


の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/


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33. 中川隆[-13620] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:04:43: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20743] 報告
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そもそも巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。
ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

 幼蛇を生むこと。

 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。

http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595


何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。 神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。

実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。 一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。

おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。

とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。

http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html


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34. 中川隆[-13625] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:47:41: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20749] 報告
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鳥居の起源は長江の稲作文明

吉野ヶ里遺跡の紹介 門と鳥形
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。

当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。


南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

▲南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。

それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。

鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。

天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

鳥居から鳥が消えた日 2016/5/5
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


神社と鳥居はワンセットになっている。


日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。

しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。

学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。

しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。

弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園

遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。

吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。


鳥形木製品

恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居

(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。


穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。

特に有名なのは中国のミャオ族である。


芦笙柱(トン・カー

(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説

倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶

朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。

鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ

s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門

日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。


高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社

吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。


特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇

日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。

神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。

日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。

ここからが本題である。

鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。

注連縄である。

これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。

鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。

注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄

6−1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm


星宮神社


くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html

鳥から蛇に変っていったのだ。

鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも


蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。

蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。

それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。

ジャパンフィルターが稼働したのである。

渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。

古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。

空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。

日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。

これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。

そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。

荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。

チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。

日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族


http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870


タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。
http://maesai.main.jp/page068.html

アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。
http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php


倭族と鳥居
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832


神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832

112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ

タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html


『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274


 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。


日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。


ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。


秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html

「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352


「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html

安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。

二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。


三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm

日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。

■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。


■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。


■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html


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04. 2012年10月16日 22:11:21 : HNPlrBDYLM

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/450.html
大和朝廷は漢民族?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/451.html

05. 2012年10月16日 23:01:40 : HNPlrBDYLM

弥生人の起源


弥生時代は紀元前800年から始まる。日本人の起源や現在に至る氏族を追いかけていくと朝鮮半島に始まるが、その前の稲作伝来まで数百年の隔たりがある事を忘れてはならない。

朝鮮半島の紀元前の歴史は殆どなく、中国がようやく半島の鉄資源を求めて鉄職人を送り込んできた時期である。稲作もその頃に半島南部に広がっており、日本列島まで渡来して先進文化を伝える状況になかった。

朝鮮半島からの渡来人は早くて2世紀まで遅れる。その間、九州、中国地方を中心に弥生の文化や技術を創ってきたのは間違いなく大陸の渡来人である。先行して大陸から渡来人が稲作、漁労、養蚕を伝え、拡げていったのが呉人である安曇族であるという説がある。安曇族はその後の奴国を作り、57年に大陸から金印を授かっている。


「海から見た日本列島」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

にある以下の記事はそのくだりが書かれており、かなり信憑性が高いので紹介しておきたい。

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【安曇族を解く鍵「金印」】

 博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。

中国大陸を制覇した後漢から奴国王が金印を授かったことは破格の厚遇である。なぜ光武帝は倭国の中の一部族に過ぎない奴国に金印を与えたのかまたなぜ奴国王は遠く洛陽まで使者を出したのか。両者の間には 金印授受に値する結びつきがあったはずだしまた 突然の訪問で金印を授かることは考えられないからそれ以前に奴国は中国大陸と交流があったはずである。

その交流にしても奴国王の使者が洛陽まで出かけるにしても海を渡らなければならない。そこには航海術に長けた海人の安曇族が深くかかわっていたはずである。
 


【安曇族はBC5世紀に呉から渡来。】

『魏志・倭人伝』や『晋書』『梁書』など中国史書にある倭人は入墨などの習俗から会稽地方(現在の浙江省から江蘇省)と共通している。またAD57年に洛陽へ行った奴国の使者は呉の祖といわれている太伯の後裔と述べたと記述されている。 
一方、中国大陸では春秋時代(BC770〜403年)に呉は越と30年ほど戦ってBC473年に亡ぼされた。長年の戦争に船を駆使して戦ってすぐれた航海術をもっていた呉人が日本列島へ亡命してきた可能性は大きい。

以上記した習俗、呉の後裔、呉人の亡命の3点から奴国の使者は呉が亡びたときに日本列島へ亡命した呉人の子孫であると考えた。


北九州へ亡命して来た呉人すなわち安曇族は仇敵越への復讐を誓い志賀島を根拠地に中国大陸に出かけて越の情報を集めるのに都合がいい交易をはじめた。

 ところがBC334年には仇敵の越も楚に亡ぼされる。元々呉と越は同族で呉越同舟という言葉は両国は戦争をつづけているが何か呉と越に共通する敵が現れたら力を一つにしてその敵に向かうという意味である。このように呉越は兄弟のようなものだから越が亡びて困っていると呉の後裔の安曇族は得意の航海術を使って越人が日本列島へ亡命することを手助けした。

 またBC221年に秦の始皇帝が天下を統一すると万里の長城を築いたり阿房宮をつくったりでそのために過酷な税の取立てや強制労働などを行った。安曇族はこれらに耐えかねて祖国を棄てる人たちの亡命も手助している。


【亡命者を日本列島の水田稲作適地に斡旋】

 亡命者たちは水田稲作・養蚕や漁撈の技術をもっていた。安曇族は 中国大陸との交易が軌道に乗ると交易で取り扱う品を多くするため日本列島内にも交易網を広げていたから鉄製品がまだ普及せず石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報ももっていたし魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報ももっていた。だから 安曇族は亡命者たちに水田稲作と養蚕に適した地へ漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。
 
その斡旋先での生産物は安曇族が一手に引き受け日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。ということで日本列島内においては水田稲作・養蚕と漁撈が盛んになってきた。
 
こうなると倭国においては一部族に過ぎない奴国すなわち安曇族ではあるが商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては取引先として大切な相手であった。安曇族にとっても光武帝から金印を授かることは円滑に交易を進める上で欲しいものであった。ということで「漢委奴國王」の金印を安曇族が授かったという仮説は成立するのではないか。


【安曇族の橋渡しで水田稲作技術は中国大陸から伝わった】

●水田稲作について〜稲のDNAを調べた佐藤洋一郎によると 水田稲作技術の日本列島への伝播ルートは 中国大陸から直接と朝鮮半島経由の二つのルートがあるという。ここでは中国大陸からの直接水田稲作技術が日本列島へ入った点に注目する。


●養蚕について〜布目順郎は確定的とは言えないがと前置きして浙江省や江蘇省から東シナ海を直接渡ってきたといっている。水田稲作の適地と養蚕の適地は豊かな水、風通しがよいなど条件が重なっている。


●言葉について〜森博達は日本には中国南朝の音である呉音が入ってきた。そのルートは朝鮮半島経由というのが通説だが呉音には濁音があるが朝鮮の漢字音には濁音がない。と朝鮮半島との結びつきに疑問を投げかけ中国南朝から直接日本列島へ入ってきた可能性を示唆している。


これらの技術や文化が中国大陸から直接日本列島へ伝わるには東シナ海を渡らねばならないからそこに安曇族が関与したことは間違いない。中でも水田稲作と養蚕は日本列島内の交易と中国大陸との交易に結びつくし、安曇族の入植地斡旋は日本列島内の水田稲作の短期間普及につながっている。
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

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以上のように呉人である安曇族が航海技術に長けた海人としての特徴を生かして、中国から人、物、技術を運んできたと考える事は、その後の日本の海洋国家としての歴史を見ても頷けます。

また、弥生時代の最大の集落である吉野ヶ里遺跡に養蚕が盛んに行われており、中国とも交易をしていたという史実とも整合します。

一方、安曇族が越人を運んだと言われる北陸地方から関東にかけても同質の弥生文化は広がっていったと思われます。

朝鮮半島から来る渡来人第2波の前に既に相当程度、中国の先進文明を受け入れていた可能性があるのです。古墳時代を経て大陸の隋の時代に至るまで、日本列島が半島からの戦火を免れている背景には、弥生時代に構築した中国との関係は見逃せないのではないでしょうか。

戦争に明け暮れた朝鮮半島と戦争史がほとんどなかった日本、その対比を見ていく上で中国からの視点が必要になってくると思います。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202671
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202674


百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。

現在の浙江省の東海岸が起源と見られる。言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかった。秦および漢の時代には、「北方胡、南方越」といわれ、「越」は南方民族の総称ともなっていた

周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれた。漢代には、2つの越の国が確認できる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、中国の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。この時代、中国の南方を占めた越人は、北方民族による力の支配とぶつかり、しばしば反乱がおきている。チュン姉妹の乱は、現代に伝わる当時の反乱の1つである。

その後は、徐々に北方からの人々の南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっていく。北部ベトナムは中国王朝の支配が後退すると、939年に最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。

文化面では、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A


句呉(こうご、くご)は、中国の周の時代に、太伯(泰伯とも)が、弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国である。紀元前12世紀から紀元前585年まで続いた。後に、太伯の弟の子孫である寿夢が国名を呉と改名する。国姓は姫(き)。
太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。姓は姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。


日本との関連
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。
例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。

九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。

鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。

『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2


呉 (春秋)
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉。
呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。
周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。

後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。

興隆と滅亡
6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しかし新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。
夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡に
「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」
と言われ、和議を蹴った。それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)



越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。

呉との抗争
隣国の呉とたびたび抗争し、紀元前515年、楚に遠征した呉王闔閭の留守を狙って越王の允常[1]は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子の勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。

闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなったが勾践が謝罪したために滅亡は免れる。謝罪後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借り、越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉が伍子胥を殺害し夫差が中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて呉を攻め、呉に大打撃を与え、紀元前473年には呉を滅ぼした。呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し(江蘇省連雲港との説もある)、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。

勾践は讒言によって腹心の文種を粛清した。これを聞いた范蠡は勾践の猜疑心を知り尽くしていたために、既に斉に逃亡しており、陶朱公と称して富豪となっていた。紀元前465年、勾践は死去した。


滅亡
紀元前334年、勾践の6世の孫である無彊の代に楚の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡するも、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑された。その後、楚懐王の代の紀元前306年頃までに、楚の王族卓滑によって滅ぼされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


35. 中川隆[-13657] koaQ7Jey 2018年11月18日 09:19:21: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20872] 報告
▲△▽▼

弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江系、後期は朝鮮系で、別民族みたいですね。 天皇一族は勿論朝鮮系ですね:

弥生時代後期の弥生人骨 大半が渡来系 2018年11月18日
https://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20181117-OYTNT50025.html


研究の成果について報告する篠田副館長(右、鳥取市青谷町で)

DNA分析に使われている弥生時代の人骨。青谷上寺地遺跡展示館で展示が始まった


 ◇青谷上寺地遺跡

 ◇DNA分析 後期、盛んな交流


 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。

大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。(河合修平)

 遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。市民ら約130人が聞き入った。

 篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。

 青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、交易で栄えていたことがうかがえるという。また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。

 共同研究では今後、細胞核のDNAから父系のルーツについても分析する。2019年3月には、鳥取市内で最終的な研究成果を発表する予定で、篠田副館長は「当時の人々がどのように暮らしていたのかを明らかにしていきたい」。報告を聞いた同市の会社員宮川昌樹さん(64)は「青谷でどんな人が暮らし、自分たちのルーツはどこにあるのか、興味をかき立てられた。研究内容に注目したい」と語った。

 同町の青谷上寺地遺跡展示館では17日、研究に用いられている人骨5点の展示も始まった。午前9時〜午後5時。月曜、祝日の翌日は休館。無料。終了日は未定。問い合わせは同展示館(0857・85・0841)。

2018年11月18日 Copyright © The Yomiuri Shimbun



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