26. 中川隆[-13636] koaQ7Jey 2018年8月31日 13:06:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18139]
阿部定の世界
阿部定の映画
In the Realm of the Senses The Final 2011
https://www.bitporno.com/embed/MyPfYSKi
https://www.xvideos.com/?k=In+the+Realm+of+the+Senses
昭和11年5月18日
待合「満佐喜」で40がらみのの男の絞殺体が発見された。
男の首には、赤い細紐が巻きつき、局部が切り取られているうえ、左の大腿部には「定吉二人」、敷かれていた布団のシーツには「定吉二人きり」と血文字が書かれ、さらに左腕には、刃物でなまなましく「定」と刻まれていた。
男の名は中野区新井町の料理店「吉田屋」の主人・石田吉蔵(42)。
この日の朝から行方をくらました女は、そこで女中をしていた阿部定(30)であることがわかった。
事件は翌日の新聞に大きく報じられ、帝都に漂う「二・二六事件」後の緊迫感を打ち破る、かっこうの話題となった。
「待合のグロ犯罪/夜会巻の年増美人/情痴の主人殺し/滴る血汐で記す『定吉二人』円タクで行方晦ます」・・東京日日新聞(現・毎日新聞)朝刊の見出しである。
事件の当事者である阿部定は、明治38年5月28日、東京市神田区新銀町(現・千代田区神田多町)生まれ。
生家は江戸時代から続いた畳屋で、何不自由なく育てられた。
ところが、少女時代に家運が傾いたことから、彼女の人生は大きく変化する。
手記によると、17歳の時男にだまされたのがきっかけで、以降、堕落の道を歩むことになったという。
芸者や娼妓として富山、大阪、名古屋などを転々とした後、昭和11年の2月1日から「吉田屋」に女中として入り、吉蔵を知ることになった。
二人の仲は急速に深まり、一ヶ月ほど前から「吉田屋」を飛び出した二人は、市内各所を転々とした。
一度は帰宅したが再び5月11日から「満佐喜」に逗留し、愛欲の日々を送っていた。
事件発生から二日後の20日午後4時30分頃、定は品川駅前の旅館に潜伏していたところを逮捕された。
切り取った吉蔵の局部はハトロン紙に包まれ、帯の間にしまってあった。
「阿部定事件予審調書」によると、定は今度石田と別れてしまえば、もうなかなか会えない。自分はそのことに耐えられないし、石田を殺して永遠に自分のものにするほかにない、と殺害を決意したという。
この事件は当初から新聞、ラジオでセンセーショナルに報じられ、”お定旋風”を巻き起こした。
逮捕された定は、高輪署から捜査本部のある尾久署に移されたが、署前は群集で埋まり、映画の照明やカメラのフラッシュが飛びかった。
この年12月、定に東京地検で懲役六年の判決が言い渡されたが、紀元二千六百年奉祝の恩赦で減刑され、16年5月出所。
戦後は料理屋で働いたりしながら、時々マスコミや舞台にも登場した。
https://blogs.yahoo.co.jp/tiggogawa66/44120274.html
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神田 阿部定の足跡 出生地と小学校
http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
阿部定は取調べで生い立ちから逮捕までの経過を詳細に供述しており、その記録が後年になり世に出回りました。その「予審尋問調書」を基礎資料として、さらに当時の新聞報道などを追加参考資料としてポイントとなる地点を「阿部定の足跡」と題して取り上げてゆきます。ですが、何分にも素人の趣味の範囲なのでミス等多々あると思います。(先に陳謝しておきます・・これで気楽)
今回は「予審尋問調書」で述べられた、出生から幼年・少女時代までの写真です。その「予審尋問調書」は何処にあるかというと「阿部定手記」1998年刊(中公文庫)に収録されております(文庫本なので手軽に入手できます)。
第1回尋問調書から・・・被告人名の次に「本籍 名古屋市東区千種町通7丁目79番地」「出生地 東京市神田区新銀町19番地」の記載。出生地の地番はもちろん旧表示で新銀町は現在、神田司町と多町の一部がそれにあたります。手書き地図に旧の地番を所々載せました。
阿部定の学歴については
「東京神田尋常小学校」(現在の区立千代田小学校)を卒業。調書では「卒業してからは家庭に先生を呼び習字を少し習いました」
と簡単に述べてます。畳屋「相模屋」の主人・阿部重吉と妻カツの末娘として新銀町に生まれた定は、小学2年位から三味線を習い始め、以降在学中、夢中になるほど打ち込みます。
家業の畳屋は常時6人ほどの職人が働いており、多忙期には10人〜15人ほどまで雇い入れていたと証言しています。その職人らから男女の話を色々と吹き込まれ、10歳くらいで性的な事は理解していたと述べ、更に15歳での初体験から16歳の暮れから月経が始まったことまで調書には記されています。
15歳(数えなので14歳)の夏に、女友達の福田ナミ子宅でその兄の友人(桜木という慶応の学生)と2階でふざけているうちに初体験・・・猟奇的事件の裏付けを取るためか調べは性関連を重点にして積み上げられてゆきます。
その後、16歳の4月に芝区聖坂のお屋敷に奉公に出されますが、その家の娘の着物や帯を勝手に持ち出し浅草で憂さ晴し、見つかったあげく初めての警察沙汰に。17歳の春、親は家業の畳屋を廃業して神田の家を売り払い埼玉県坂戸町に定を連れて移転します。
ここで定の生まれ故郷は消滅・・・以後、長い流転の人生が始まって行くのです。
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新銀町19番地と思われる地点 道路の向こう側左の区画 手前の路地は当時ありません (右)左のビルが神田尋常小学校跡 100周年記念で建てられた「神田の子」像(名称は不明)先の道路を右折した所が阿部定の出生地と想定した地点
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現在の千代田小学校の玄関は西側の路地に 反対側の東側路地に「神田小学校」名が記載された100周年記念像 西側は旧表示の地番が細かく記載(民家があった?) この像がある側に当時の木造校舎はあったものと想像します 「神田の子」像は下の地図の赤丸の位置
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阿部定の足跡 坂本町の長屋跡
http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
阿部定の足跡 星菊水
http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
阿部定の足跡 篠山・京口新地
http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
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名古屋 阿部定の足跡 中村遊郭
http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
阿部定が名古屋の中村遊郭に娼妓として紹介屋を介して住み替えて来たことは間違いないのですが、「予審尋問調書」だけ読んでいると混乱が生じて年月日があいまいになってくるのです。年表を作成したいのですが、「22歳の正月に」とかが満年齢なのか数えで言ってるのか・・・資料によっては別の場所で短期間だけ働いていたり・・その期間があいまいだったりして・・時間経過がゆがんでくるのです。
1927年(昭和2年)の正月から大阪・飛田遊郭の御園楼に約1年間住み込み、その後、同じ大阪の朝日席で約半年間働く(調書ではこの間が欠落してる)・・1929年(昭和4年)1月には満年齢で23才・・調書では
「翌年早々、23歳の時名古屋市西区羽衣町の徳栄楼に前借二千六百円くらいで住み替えました」・・
ここでは翌年早々を「1929年(昭和4年)1月」にしておきます。
阿部定は調書で
「徳栄楼では二年ぐらい働きましたから、この頃は思い出の多かった時代です」
と述べ、
「貞子という源氏名で一生懸命働きましたので、売れっ子になり、可愛がられるようになりました」
と続ける。この中村遊郭で働くうちに
「チフスを患ったりして、だんだん商売が厭になったので、どこかえ住み替えようとして、無断で店を出て・・・」
となり結局その後、大阪の松島遊郭に流れて行きます。
当時、この中村遊廓は、大須観音の近くにあった旭遊郭が廃止になり1923年(大正12年)4月に移転・開設されたもので、阿部定が住み替えてきた時はまだピカピカの状態。遊郭内は南側から順に賑町・羽衣町・大門町・寿町・日吉町の5町で構成され、この町名は現在もそのまま存続してます。
阿部定の「羽衣町の徳栄楼」は下図で見ると下から2段目の通り・・通りの両側の建物がその町名となるのですが・・調査不足というか資料が見つからないまま。戦後の妓楼名はかなり詳細に判明してるのですが・・・。ここでまた永井荷風を尊敬してしまいます。空襲で焼け野原となり灰燼にきした玉の井の姿を見取り図に残していたのですから。昭和初期の妓楼名・位置が判る資料はあるのだろうか。
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中村遊郭跡の羽衣町の通りを名古屋駅方向(東向き)を奥にして撮影 かってはすぐ左側に遊郭「金華」その先には「第2松岡」がありました 現在は後ろにソープ・アラビアンナイトとハーベストムーンが向かいあって営業中 阿部定が在籍した「徳栄楼」は・・・この通りの前なのか後ろの方なのか・・・辿りつけません
(右)地図は上が北方向・・中村遊郭の敷地面積は約3万2千坪で東京・新吉原より広いといわれてます・・樋口一葉が描写した「お歯黒どぶ」と同様の堀が、この中村遊郭でもかっては存在してました。現在は全て埋め立てられ細い路地がその痕跡として残ってます・・その路幅は吉原とほとんど同じです。
中村区史には、大正12年の客数65万5千・・昭和12年が全盛で貸座敷数138軒・娼妓2千人。戦後はすぐに「名楽園」と改称し、売防法施行前の昭和32年12月27日に一斉に廃業。現在はその遊郭跡の所々で10軒ほどのソープランドが営業してるのみです(地図にSのマーク)。
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現在は営業形態を料理店や一般の会社などに変更して存続しているかっての独特の建物・・「中村遊郭跡」として別にアップする予定です。
「上野 阿部定の足跡 坂本町の長屋跡」
http://zassha.seesaa.net/article/312996652.html
「兵庫・篠山市 阿部定の足跡 京口新地」
http://zassha.seesaa.net/article/313095541.html
「神田 阿部定の足跡 出生地と小学校」
http://zassha.seesaa.net/article/313356355.html
「上野 阿部定の足跡 星菊水」
http://zassha.seesaa.net/article/312979470.html
「日本橋浜町 阿部定の足跡 浜町公園」
http://zassha.seesaa.net/article/316491763.html
「大津 阿部定の足跡 地蔵寺」
http://zassha.seesaa.net/article/316571479.html
参考資料
裁判予審調書
「阿部定正伝」1998年刊・情報センター出版局
映画「愛のコリーダ」大島渚監督(定役=松田英子)1976年10月公開
「坂口安吾全集5」1998年刊・筑摩書房(「阿部定さんの印象」)
「織田作之助全集5」1970年刊・講談社(P249からの「妖婦」)
その他
http://zassha.seesaa.net/article/313453094.html
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日本のアンダーグラウンドにも流れ者の女たちが潜んでいる
アンダーグラウンドに堕ちて、身体を売りながら底辺を転々とする根なし草の女性は今でも日本にいる。最近そんな女性を横浜で知ることになった。
(出稼ぎ風俗嬢(1)東京から神戸まで転々と身体を売り歩く)
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20170802T0024290900.html
流れ者の女性。人生の旅人。
すべての女性に当てはまるかどうかは別にして、一般的な話をすれば、女性は自分の慣れた場所に定住する生き方を好み、そこで自分の居場所を作り上げて生きる。
しかし、中には自分の住所すらも持たず、どこかの性風俗店の用意した寮に転がり込み、仕事に飽きたら寮を出てまた見知らぬ土地に向かっていく女性がいる。
日本には地方にも多くの温泉街や歓楽街があって、その裏側には置屋やソープランドのような性風俗の店が静かに隠されている。
そうした場所を転々としていけば、10年でも20年でも日本のアンダーグラウンドをさまよい歩いて生きることができる。
そうした日本女性が本当にいることを知って、私は深い感銘を受けた。また、根なし草の人生を送っている女性の孤独にも関心が向いた。
気が付けば深い孤独に追いやられていくのが流れ者
私自身も20代から東南アジアをウロウロして一ヶ所に居つかない人間だった。
そのため、どこにも定住せずにふわふわと流れるように生きている女性には、何となく自分の人生とかぶるものがあり、それだけで共感を感じた。
流れ者は孤独だ。社会の底辺をさまよい歩く人間であれば、表社会の人たちに相手にされない分、なおさらひとりぼっちになりやすい。その底知れぬ孤独は、実際に流れ者になった経験がないと分からない。
知らない場所を転々とするというのは、まわりはいつも知らない人たちとなる。自分がいる場所も右左もよく分からず、どこに何があるのかも知らない。その土地の文化も詳しくないし、話している言葉も違う。
新顔は警戒されるし、言葉が違ったりその土地の文化を知らなかったりすると受け入れられなかったりする。受け入れられるどこか排除されることさえもある。必然的に部外者(アウトサイダー)となるのである。
流れ者は疎外感の中に生きる。
こうした疎外感は、ときに解放感ともなる。なぜなら、部外者はどのみち出ていくので、その地域や人間関係に責任も持たないで済む。
仕事で新しく誰かと知り合って人間関係ができたとしても、それが重くなる前に関係を断ち切って去ることができる。
だから、流れ者の中で人間のしがらみが好きでない人は、疎外感の中の解放感に浸って喜びを感じることもある。それは、流れ者ゆえの解放感である。
しかし、こうした生き方に馴染んでしまうと、自分を心から心配してくれる親友もできず、気心知る友人もできず、生活も落ち着かない。
人生は時に逆風にさらされる。病気になったり、収入が消えたり、貯金がなくなったり、仕事が見つからなかったりする。流れ者の解放感に浸っているうちに歳を取って、気が付けば自分には何もないことに愕然とする。
かくして、深い孤独に追いやられていく。それが流れ者の人生である。転々と日本の地方の性風俗を渡り歩く女性の姿に私は自分と似たような匂いを感じて一緒にいる時間が心地良く感じた。
社会の底辺には根なし草の女性がたくさんいる
私たちはまったく意識しないが、日本の社会の底辺にはこうした根なし草の女性がたくさんいる。
たとえば、尼崎のかんなみ新地にいるのは沖縄の女性が多いと言われている。
(尼崎の「かんなみ新地」に沖縄出身者が多いのはなぜか?)
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20161211T0257080900.html
大阪の「飛田新地」も日本全国から流れて来た女性が仕事をしている。1日に5回転も10回転もして男たちにセックスを提供する彼女たちの中には東京から流れてきた女性も多い。
関西には雄琴や神戸にソープランドがあるのだが、こうしたソープランドにも短期間の「出稼ぎ」の女性で占められており、彼女たちの出身は様々である。
「出稼ぎ」という言葉は表社会ではもうほとんど使われない単語だが、日本のアンダーグラウンドの女性たち、特にデリヘルやソープランドに所属している女性たちは今でもごく普通に「出稼ぎ」という言葉を使う。
性風俗の女性たちは年功序列も終身雇用もない。歳がいけばいくほど収入が落ちていく。
若い頃は高級店で働いていた女性でも、20代の後半あたりから客が取れなくなって、次第に人妻店や格安店にランクを落としていくことになる。
しかしランクを落とせばすぐに稼げるのかと言えば、そんな甘いものではなく、待機の方が長くなったりする。ときに10時間以上も待機してひとりの客が取れない日も出てきたりする。
このとき、女性の中には「自分が稼げなくなった」というのを認めず「この店は稼げない」と考えて、あちこちの店を転々とするようになる。
それでも駄目だと「この場所は駄目だ」と考えて、地方に向かっていく。出稼ぎするのである。
地方に流れる女性はどちらかと言えば年齢のいった女性が多いと言われているが、もちろん若いときから地方で出稼ぎする女性もめずらしくない。
あちこちの店でトラブルを起こしながら店を移り変わる女性のことを「転々虫」と呼ぶ。
(転々虫(1)。なぜ彼女は店を3日で辞めてしまうのか?)
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20170103T0159170900.html
こうした女性が、ほとぼりを冷ますために地方に出稼ぎすることも珍しくない。ただ単に性格が根なし草だから流浪する女性だけでなく、流れ者にはいろんなタイプがある。
売春地帯「飛田新地」にいた阿部定と福田和子
稀代の淫婦と呼ばれている阿部定(あべ・さだ)も流れ者の女だった。
彼女は東京生まれだったのだが、15歳のときに強姦されたことによって自暴自棄な生活に陥るようになり、激怒した父親に「そんな男が好きなら遊郭にでも行ってろ」と言われて遊郭に売られ、それから流れ者になった。
最初に売られたのが横浜住吉町の遊郭だった。しかし、ここで金で揉めて飛び出し、以後、彼女は日本の売春地帯を転々とすることになる。
大阪に流れてからは有名な飛田遊郭に居ついている。飛田遊郭は今も「飛田新地」として現役の売春地帯である。飛田はいつの時代でも、流れ者の女たちでビジネスが成り立っている。
ここでもトラブルを起こした阿部定は、今度は兵庫の京口新地に向かって、そこを脱走して、名古屋・大阪と流浪して最後に東京に戻って「阿部定事件」を起こしている。
(阿部定(さだ)事件。彼女は、どこから来た女だったのか?)
https://www.bllackz.net/blackasia.php/content/20120420T0043110900.html
日本のアンダーグラウンドを転々として、やはり「飛田新地」にも所属していたという女性がもうひとり知られている。「松山ホステス殺害事件」の福田和子だ。
彼女は1982年に同僚の女性を殺してから日本各地を転々としていた。整形手術までして15年近くも逃げおおせ、時効が成立する21日前に福井県でやっと逮捕された。
福田和子は愛媛県松山市出身だったが、母親が売春ビジネスにどっぷりと浸っていた関係で、彼女もまた17歳頃からどんどんアンダーグラウンドに転がり堕ちていき、18歳で強盗で逮捕されたという経歴を持っていた。
流れ者として日本のあちこちを転々とし、飛田新地の他にも信太山(しのだやま)のちょんの間にも所属していた。
人を殺して逃げ回る女性もまた必然的に流れ者になり、性風俗のアンダーグラウンドで生きながら、誰とも深いかかわりを持たずに姿を現したり、消したりして人生を生きている。
そんな女性に深い関心を持たずにおられない。
流れ者の女性たちが通り過ぎる大阪「飛田新地」。今でもここで多くの女性が身体を売っている。どこにも定住せずにふわふわと流れるように生きている女性には、何となく自分の人生とかぶるものがあり、それだけで共感を感じる。
https://www.bllackz.net/blackasia/content/20170815T0515550900.html