28. 中川隆[-5832] koaQ7Jey 2017年11月30日 08:03:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
古来より宗教的体験はその記述を追ってみると病気の症状である場合が多い。
マイケル・ガザニガによれば、モーセやブッダ、ムハンマドについても側頭葉てんかんが疑われるという
側頭葉てんかんと神秘体験。
宗教的・神秘的な体験は
側頭葉の癲癇(てんかん)
によって起こると言われています。
側頭葉てんかんとは、てんかんの一種。
側頭葉てんかんの原因は、
仮死分娩、
脳炎・髄膜炎の後遺症、
はしか、
突発性発疹、
先天性脳腫瘍、
大脳皮質の形成障害、
脳血管障害、
頭部外傷など、
非常に多岐にわたる。
意識の喪失・痙攣はせず、
患者は発作が起きると
聴覚・視覚・嗅覚・触覚に異常を覚える。
茫然自失状態となったり、
よくわからない言葉を話したりする。
側頭葉てんかんの障害を持つ患者は、
発作が起きてなくても、
ゲシュヴィント症候群と称せられる特色を持つ。
@過剰書字(たくさん文章を書かずにいられない)
A過剰な宗教性・道徳性
B攻撃性
C粘着性
D性に対する極端な態度
側頭葉てんかんで有名な人は、
ゴッホ、
ドストエフスキー、
ルイス・キャロル、
アイザック・ニュートン、
ギュスターブ・フローベール
天才ばかり。
さらには、
パウロ、
ムハンマド、
モーセ、
仏陀、
ジャンヌ・ダルク
宗教関係者は、
伝記から推測するに
てんかん発作を経験していると思われる。
側頭葉は、
強烈な宗教体験を知覚するとき、
幻聴が聞こえるときに活動するとされている。
特定の電気を頭に流す事で、
神秘体験、宗教体験をする研究は盛んだ。
脳に流れているのは、
微弱な電流。
すでに、操作することが可能だと言う。
特定の電流を頭にあてることで、
頭が良くなるヘルメットなどもすでに開発されている。
オウム真理教のヘッドギア。
あれも似たような効果を狙っていたはずだ。
教祖の体験した、
側頭葉てんかんによる宗教体験を、
ストーリーを聞き、
左脳が理解し、
擬似的に、間接的に体験する事で
宗教というものは産まれているのですね。
側頭葉てんかんの患者は、
しばしば神の降臨・神との接触など
神秘体験をすることが知られています。
「神は側頭葉にいる」
そんなジョークもあるのです。
この、
側頭葉てんかんと神秘体験について、
擬似体験させてくれる小説があります。
山田正紀著
『神狩り』
『神狩り 2 リッパー』
側頭葉の発火で
目の奥が、
バチバチッと光る感じで
超能力が発動して、
天使見えるようになっちゃう。
そんな話。
おすすめのSF小説。
そうだ。
今日、
てんかんについて書いたのは、
京都は祇園にて、
花見客6人をひき殺した事件。事故?
その死亡した運転手が、
てんかん患者だったというからだ。
てんかん患者、
パニック障害、
これらは似た症状が起きるのだが、
身近で見た事があれば、
運転が危険だと言う事は明らかだ。
てんかん患者に対する、
運転免許証の交付は、危険。
事故に直結します。
てんかん協会の対応が求められます。
https://ameblo.jp/zion69noiz/entry-11222862687.html
てんかん患者として知られる著名人 (Wikipedia)
俳優
ヒューゴ・ウィーヴィング(俳優)
ダニー・グローヴァー(俳優)
音楽家
アダム・ホロヴィッツ(ビースティ・ボーイズのMC兼ギタリスト)
リチャード・ジョブソン(ザ・スキッズのボーカル)
ニール・ヤング(シンガーソングライター)
大江光(作曲家)
沢田泰司(TAIJI)元Xのベーシスト)
イアン・カーティス(ジョイ・ディヴィジョンのボーカル)
ステージ上で発作を起こすこともあり、自殺の一因になったとの説もある。
ジョージ・ガーシュウィン(作曲家)
多型性神経膠芽腫の最初の徴候として、めまいや短時間のブラックアウトと同時に、焼けたゴムの様な臭いがしていたという。そして、腫瘍を取り出す手術を施されたにもかかわらず、6ヵ月後に死亡した。
芸術
エドワード・リア(画家)
子供の時に発症し、姉のジェーンも頻繁な発作に罹っていて、早世したことから、遺伝からくるものだったのではないか、と推測されている。彼は自身のてんかんを恥じていて、生涯周囲には隠していたという。しかし、自身の日記で各々の発作の様子を記していた。
フィンセント・ファン・ゴッホ (画家)
スポーツ選手
ピート・アレクサンダー(元メジャーリーグ選手、300勝クラブ投手)
バディ・ベル(元メジャーリーグ選手)
トニー・ラゼリ(元メジャーリーグ選手)
フローレンス・ジョイナー(陸上選手・ソウルオリンピック金メダリスト)
作家
フィリップ・K・ディック(SF作家)
フョードル・ドストエフスキー(作家)
ビョルンスティエルネ・ビョルンソン(作家、ノルウェー国歌の作詞者)
晩年に脳卒中に倒れた後、部分てんかんに罹った。
ギュスターヴ・フローベール(作家)
宗教
ピウス9世(カトリック教会の司祭)
ジャンヌ・ダルク(カトリック教会の聖女)
ギュイヨン夫人(神秘主義思想家)
ジョセフ・スミス・ジュニア(末日聖徒イエス・キリスト教会の設立者)
リジューのテレーズ(カトリック教会の聖人)
パウロ(新約聖書の著者の一人)
アビラのテレサ(スペインのローマ・カトリック教会の神秘主義思想家)
慢性的な頭痛や一時的なブラックアウトに悩まされ、酷いときには4日間も昏睡状態に陥ることもあったという。
ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(イスラム教の開祖)
側頭葉癲癇が、彼にインスピレーションを与えていた原因の一つである、という分析がある。
エゼキエル(預言者)
スウェーデンのビルギッタ(スウェーデンの聖職者)
学者
ソクラテス(哲学者)
エマヌエル・スヴェーデンボリ(科学者・政治家・神秘主義思想家)
カール・グスタフ・ユング(精神科医・心理学者)
幼少時、失神を伴う痙攣発作をたびたび起こしていた。
君主・王族
ミカエル4世(東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝)
イヴァン5世(ロマノフ朝第4代のモスクワ大公)
ジョン(イギリス王子)
ヴェストマンランド公エーリク(スウェーデン王子)
フェルディナント1世 (オーストリア皇帝、ハンガリー王、ボヘミア王)
政治家
ガイウス・ユリウス・カエサル(軍人・政治家)
ハリエット・タブマン(奴隷解放運動家)
イーダ・サクストン・マッキンリー(ウィリアム・マッキンリー第25代アメリカ合衆国大統領夫人)
ナポレオン・ボナパルト(軍人・政治家)
夜中に短時間しか眠らなかったというエピソードは、睡眠中に発作を起こすため、連続した睡眠が得られなかったことに起因している。
なお、彼は一般に「3時間しか眠らなかった」と言われるが、実際は昼寝をしていて、それを含めれば6〜8時間に達していた(当時彼に仕えていた人の日記などからそう判断される)。
ウラジーミル・レーニン(ソビエト連邦建国者)
亡くなる最後の数ヵ月前に発病し、てんかん重積が原因で死亡した。ちなみに、その発作は50分間も続いた。
その他
ダニエル・タメット(円周率暗唱のヨーロッパ記録保持者)
https://blogs.yahoo.co.jp/smkss434/3285585.html
大宗教の誕生と「側頭葉てんかん」
エドガ・ケイシーの眠りながらする予言、療法なども「てんかん」なのではないかと思う。ケイシー自身は「てんかん」を頭の病ではなく腸の問題であると喝破しているところがすごい。
「てんかん」を次のように考えているようだ。
ケイシーは、テンカンになる原因として、主に、
1.頚椎、脊椎の歪み
2.出産時もしくは出産前に発生したトラブル、
3.内分泌腺の不均衡
4.腸の乳び管の癒着や炎症
などを
あげています。
※(妊娠中の母親の不適切な食事が原因のものもある)
さらに、魂の選択して、自分の魂の成長のためにテンカンとして生まれた。あるいは
両親の魂の成長のために自分がテンカンで生まれることを選択した(病を持った
子どもの世話をすることで、両親が精神的、霊的に成長していく)というものもあるようです。(ameblo.jp/sorakazeum)
お腹への「強打」あるいは殴打のような、傷害あるいは外傷
* 付着に帰着するお腹の炎症を作り出す幼年期の発熱
*脊柱の傷害(特により低位背骨)
*妊娠合併症
*困難あるいは異常分娩に起因する出産時外傷
より明確に、ケイシーは、てんかんのほとんどのケースに腹部癒着が乳糜管にあると述べました。
乳糜管はリンパ系の一部です。
それらは腸を通し消化された食物の通路として小腸から栄養素を吸収します。
乳糜管中の付着は、栄養素(特に脂肪およびタンパク質)の吸収を阻害をすることができます。
また、付着は血液リンパ循環とを阻害し、バランスあるいは「調整」から神経系を影響外にします。
神経系不調整はてんかんにおいてケイシーリーディングで引用された主要な要因です。
(blog.kushiroph.com)
側頭葉てんかんと宗教の誕生
(blog.goo.ne.jp/yamazaki_hajime)
「脳の中の倫理」(マイケル.S.ガザニガ著、梶山あゆみ訳、紀伊國屋書店)という本を読んでみた。
脳という臓器が、
(1) 辻褄を合わせようとする(左脳の「解釈装置」で辻褄の合う物語を作る)臓器であり、
(2) 記憶も書き替えられるし、
(3) 不都合なことは忘れる臓器
だ、という研究の紹介だ。
著者自身が、特に、左右の脳を分離した状態の研究の大家であり、左脳の「解釈装置」に詳しいので、この本の後半の説明は面白い。犯罪の目撃証言がいかにあやふやなものかがよく分かるし、自分の記憶も簡単に信用してはいけないということもまた分かる。
「信じたがる脳」と題された第9章では、宗教的な体験と側頭葉てんかんの関連性
についての面白い仮説があった。
側頭葉てんかん は、てんかんの一種だが、意識の喪失や痙攣を伴わない。
患者は発作が起きると、 聴覚、視覚、嗅覚、触覚に異常を覚え、 しばらく茫然自失状態となったり、 口をぺちゃくちゃ動かすような症状が現れたりする。
側頭葉てんかんの患者は、発作が起きていない状況でも、ゲシュヴィント症候群と称せられる特色を持つとされこれは、
1. 過剰書字(たくさん文章を書かずにいられない).......作家、音楽家
2. 過剰な宗教性・道徳性......宗教家、心理学者
3. 攻撃性..........政治家、スポーツ
4. 粘着性..........学者
5. 性に対する極端な態度(非常に強まるか、弱まるか).....英雄
を示すという。典型的には画家のゴッホがそうだ。
ゴッホ以外にも側頭葉てんかんと考えられている有名人は、
ドストエフスキー、ルイス・キャロル、
アイザック・ニュートン、ギュスターブ・フローベール
などの天才、さらには、
パウロ、ムハンマド、
モーセ、仏陀、ジャンヌ・ダルク
などの宗教関係者が伝記から てんかん発作を経験していると思われるという。
側頭葉は強烈な宗教体験を知覚するときや、幻聴が聞こえるときに活動するとされており、弱い磁場を発するヘルメットで、側頭葉を刺激して、側頭葉てんかん発作のような明確な宗教体験をした(カナダのローレンシアン大学のマイケル・パーシンガーの研究)という研究もある。かつての、オウム真理教のヘッドギアも似たような効果のものだったのだろうか。
ガザニガの仮説は、大まかにいえば、
教祖の側頭葉てんかん発作ないしはそれに近い脳活動が宗教体験のもと になって、これが
左脳の解釈装置で現実と(ないしは物語と)一緒に解釈され、
ゲシュヴィント症候群の特徴を持った教祖が他人に影響を与える
ことによって、これが
現実生活に合ったものであった場合に、その宗教が大きくなっている のではないか、というようなストーリーだ。
側頭葉てんかん
(detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa)
現在の脳科学では側頭葉癲癇患者が発作時に神秘体験をするといわれていますし、かなりの宗教的聖人とされている人が側頭葉癲癇であったろうとされています。
確かユングも側頭葉癲癇が疑われてるはずです。
側頭葉電気刺激で正常者でも神秘体験が再現性があるので、一定の脳への刺激で(激しい宗教的修行や臨死体験などの脳の低酸素状態で出現します)人間に内在してる宗教感覚が体感できる能力は遺伝子的に組み込まれてるのは明らかなんです。
彼はそれを癲癇患者なりに直感で人類共通にある宗教感覚と思ったんでしょう。
太古の昔から人類の進化には宗教とは切っても切れない関係があります。
氷河期などの環境の激変を乗り越え、飢餓や捕食者との戦いの連続の危機的な状況で集団で狩猟採取生活をし、子供を育て、農耕文化へと発展する進化の過程で集団をまとめるのは強いリーダーとシャーマニズムであると思われます。
自然を畏怖し死者を敬っていたのはかなり太古のネアンデルタール人でさえ遺跡に痕跡があるのです。
それこそが彼の言う文化や地域関係なく人類の共通の集団感覚なんでしょう。
あなたの思考する脳は人類200万年の進化の結晶であり、行動・思考はあなた個人の独創的なものでなくDNAに組み込まれた一定のパターンの中で選択してるはずです。
東京女子医大脳神経センター 脳神経外科
(soufusha.co.jp/hori/)
平沢研一、林 基弘、山根文孝、堀 智勝
日本全国において てんかん患者は120万人に達し、うち難治性は成人例で25%、小児例で13%、全体で17% (20万人)である。
これらの中で、側頭葉てんかん は、手術治療の最もよい適応の一つと考えられている。以下に側頭葉てんかんを概説し、我々の取り組みについて述べる。
発作: まず、
1. 上腹部のこみ上げるような不快感、
2. 異次元にいるような感じ、
3. ものが大きく見えたり、小さく見えたりする、
4. 恐怖感やいやな臭い、
5. 既視感
などの前兆から始まり、
6. 意識が混濁
する。
この際、
7. 動作を停止し、虚空を凝視する
ことが多い。さらに典型的には
8. 舌なめずりや、
9. 手でものをいじる、
10. 部屋の中を歩き回る
、といったいろいろなタイプの自動症がみられる。
一回の発作が1分程度と長いことが多く、また、発作後も意識混濁が数分間続くことが特徴的である。
https://blogs.yahoo.co.jp/smkss434/3285722.html
宗教とは何か(1)宗教とは宗教でないものではない
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150331/1427727600
「宗教とは何か」ということについて、少しずつ考えてみようと思う。
「宗教」とは何なのか。われわれは、たしかに何かを宗教と呼んでいる。しかし、「とは何か」ということになると、話は簡単ではない。
これは、学問的に定義するのも難しければ、一般的な言葉で答えるのも難しいであろう。多くの場合、宗教とは何かと問われたら、「たとえば、キリスト教とか仏教とか」と個別の宗教を挙げるのではないかと思われる。あるいはそれから共通点を探そうとする。
しかし、あらゆる「宗教」に共通のものは存在するのだろうか。われわれは、それが何であるとき、それがどのようであるとき、あるものを宗教と呼ぶのか。そのことは明らかに自明ではない。宗教の定義は、宗教学者の数だけあると言われている。
上にあげたような、個別の宗教の名前を列挙することで「宗教」なるものを見出そうとする作法は、結局のところ「宗教なるものは存在しない」という態度を表していると言える。つまり、存在するのは個別の宗教だけであり、それらの上位概念たる「宗教」は、名称だけが存在するとみる。
あるいは、これと対立するものとしてあえて挙げるなら、個別の宗教を超えた「宗教なるもの」が確かに存在するとみる立場もあるだろう。つまり、先に「宗教なるもの」があり、個別の宗教は全てその一つの表れのとみる。どちらをとるかは議論する価値があるだろう。
一方で、この二つは「個別の宗教は複数ある」という認識は共有しているが、それすらもない場合もある。つまり、ある個別の宗教こそが普遍的実在だとみなす場合である。これは「原理主義」と呼ばれるが、こうなった時、他の宗教に対する非寛容が生じる。宗教は場合によっては、人間生活のあらゆる側面を規定するからである。
宗教が個人の内面の問題だとされている場合は、人間生活の「それ以外」の領域は宗教からは自由である。しかし、宗教によっては、教義的に、「それ以外」の領域が存在しないものもある。たとえば国家の法律や社会の慣習が、宗教の教義と一致している場合である。そこでは、実践の領域も宗教の制限下にある。そのような場合、内部での連帯は強くなるが、異質なものへの排斥の念は強くなる。「他のもの」が入り込む隙間がないからである。
しかし、他の宗教に対してどういう態度をとるのか、とってよいのか、とるべきなのかも宗教によっていろいろある。そして、それが教義上明らかにされている場合とされていない場合、あるいは教義にはなくてもコミュニティ内では暗黙的に決まっている場合がある。こうした複雑な実感のからみあいが個別の宗教を成立させている。
もっとも、何かが「宗教である」ことが、われわれにはなぜかわかるとは言えるだろう。それを言葉にするのが難しくとも、われわれには、あるものが「宗教」あるいは「宗教的」であるのかないのかの判断はできている。そこには何か基準があるはずである。
宗教とよく対立するのは「科学」である。科学者の多くは、宗教を過去のものとする。宗教は確かに、たとえば連帯を成り立たせ、想像の力を育て、倫理観を培ってきたと、「歴史的に」宗教に意義があったことは認める。しかし、理性を十分に使えるようになった人類には、もはや宗教は必要ないというのがそこでの考えである。このような発想は、本人が明示的に主張している場合と、暗黙の前提としている場合がある。
こうした主張に対して、宗教の側からは、たとえば科学も一つの宗教であり、あらゆるイデオロギーも宗教であるとする反論がみられることがある。確かに、あらゆる体系を宗教とみなせば、それは宗教に見えるだろう。もっともそれは、メタファーの持つ性質による。メタファーとは、Aというものを理解するために、AをBであるととらえることによって、AのもつB的側面だけを強調するものだからである(ジョージ・レイコフ/マーク・ジョンソン『レトリックと人生』参照)。
しかし、ここで重要なのは、それが便宜的な理解ための一つの方法であるということである。AをBであるととらえることが可能でも、AをBであるととらえること「によって」AがBであることを保証するわけではない。たとえば科学を宗教ととらえたところで、科学が宗教であることを証明するわけではない。
それは、たとえば人間をサルであるととらえたところで、人間がサルであることを証明しているわけではないのと同じである。人間をサルであるととらえると、確かに人間のもつサル的側面が強調される。しかし、それは人間がサルであることの証明ではない。われわれは、人間をふつう人間だと思っており、サルだとは思っていないし、「違い」の方に注目しても、同じくらい見出されるからである。
つまり、科学を宗教であるととらえるのは自由だが、そう考えたところで、われわれが科学を「科学」と呼び、「科学教」と呼んでいないのはなぜなのかという問題が生じる。「宗教とは何か」という問いに答える糸口は、一つはこのあたりにあるのではないかと思われる。
もっとも、「科学も一つの宗教である」という宗教の側からの反論が、単に宗教の自己保身のための主張だとする判断は早計である。宗教の側と科学の側では、「宗教とは何か」ということに対する根本的な実感が異なるかもしれないからである。実際には、追求すべきなのはそうした対立の一つ上の視点からの理解である。
いずれにしても、われわれが「あるものが宗教である」ことを判断していると考えられること、そして、あるものが「宗教ではない」ことも同様に判断していると考えられることから、「宗教とは何か」を問うにあたっては「宗教とは何でないか」という問いも掲げておくと、求める答えが得られる可能性は高くなるであろう。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150331/1427727600
宗教とは何か(2)少なくとも宗教は「信じる」ものである
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150401/1427884200
前回、宗教と科学の関係について少しだけ触れたが、これについて「宗教とは信じるものであり、科学とは認めるもの」ではないかというコメントをいただいた。一般的には根強い考え方だが、今回はこれについて考えてみたい。
「宗教とは信じるものであり、科学とは認めるものである」を解釈すると、ここで言われていることは、それとかかわるに際しての「態度」の区別であろう。つまり、宗教とは信じるという態度とともにあり、科学とは認めるという態度とともにある。このように考えれば、たしかに納得する人はたくさんいるだろう。日常的な言葉での表現としてはきわめて簡潔である。
もっとも、ここで分析的な態度をとれば、ただちに「信じることと認めることの違いは何か」という問いが生じる。あるいは、「違いは何か」以前の問題として、信じることと認めることは別のことであるのかという問いもあるだろう。後者から考えてみることにする。
単純に考えれば、言葉が違うのだから、違うものだと言えそうである。しかし、そのことは必ずしも自明ではない。なぜなら、「信じる」と「認める」という言葉を使い分けているのは、単に日本語という言語体系における習慣かもしれないからである。それが認知的なものと対応しているかは、必ずしも定かではない。
とは言え、ここでは「違うものである」という態度をとりたい。私の実感では、同じものについて、「信じる」という時と「認める」という時では、思い描いているものが違うからである。これは、あくまでも私自身の実感に根差した判断であるが、多くの人は同意されるところではないかと思う。
もっとも、信じることと認めることが別のことであり、それらに違いがあるとしても、それが宗教と科学の違いを説明するわけではない。なぜなら、宗教的な主張であっても納得すればわれわれは認めることがあるし、また科学的な主張でもたとえば「それは科学である」というお墨付きだけで信じている場合もあるからである。
もっとも、宗教が基本的に「信じるもの」であるのは確かであろう。以下、特定の宗教を「信じる」ことについて少し考えておきたい。
ちなみに、ここでおもしろいのは、ふつう、信じるのは個別の宗教のみであり、「宗教なるもの」を「信じる」人はいないということである。「○○教を信じる」とは言えても、「宗教を信じる」という言い方にはどこか「頭痛が痛い」と同じようなものを感じるのは、おそらく「宗教とは信じるものである」という前提がそこにあるからであろう。「私は宗教を信じる」と言う時、多くの場合の返答は「どの宗教?」であり、それなら「宗教なるものを信じる」ことは可能ではないと考えられているか、少なくとも一般的ではないと考えられる。
では、特定の宗教を信じるようになるそれぞれのケースについて考えてみる。
一つは、いつの間にか信じている場合である。このケースでは、子どものころから、あるいは社会にとりこまれる過程で、ある宗教を信じているのが当然だという認識を受け入れざるをえなかったというものが多いであろう(別のケースには、過去を否定する形で特定の宗教を信じ始める場合、たとえばある種の「洗脳」があった場合などがある)。
もっとも、そうした事情で言わば「はじめから」特定の宗教を信じている場合でも、ある機会にその宗教を離れるケースは存在する。反対に、「その宗教を離れる」という選択肢を知る機会そのものがない場合もある。ドーキンスが『神は妄想である―宗教との決別』の冒頭で描いている「私は、そんなことができるとは知らなかった」である。こうした場合、その宗教の教義によっては、危険なものを生み出す可能性がある。そこでは、場合によっては不可避的に他者を排斥しなければならないからである。
次に、自らの判断で特定の宗教を信じ始める場合である。そこでは、もともと宗教を信じていなかった、あるいは別の宗教を信じていたが、自分の意思と判断で特定の宗教に入信する。たとえば、自分の実感と最も合致する考えを持っている宗教を選ぶ場合もあるだろう。
しかし、新たに入信する場合の多くは、比較検討したうえで選ぶというよりも、ある一つの宗教との強烈な「出会い」体験に根差している場合が多いと言える。それは、「どれかの宗教にかならず入信していなければならない」という制約でもない限り、わざわざいくつかの宗教を比較検討してどれかを選ぼうという動機が得られることがまずないからでもある。特定の宗教を信じることを、たとえば国家に強いられる場合は、そこでの主張は「この宗教を信じよ」であり、「どれでもいいからどれか一つを信じよ」ではない。
「出会い」体験に根差している場合、どの宗教を選ぶかというのはつまり、こちら側から選ぶというよりも、「宗教の方からやってくる」場合が多い。そこでは、実はその人の内面ではすでにその宗教に親和的な、あるいはその宗教のものそのものである認知体系ができあがっている。なぜなら、知らない概念に名前はつけられないからである。そこでは、名前がついていることが存在を保証するのであり、「求めていたものが、確かにあった」ことに人は感動する。
ここで、「信じる」というものはあくまでも内面的なものであると考えておきたい。われわれは、ある宗教を内面的に信じている場合と、ある宗教にかかわることを外面的に「実践している」場合がある。もっとも、「実践する」というとすでにある何らかの内面に照らして何かを実行に移すというニュアンスがあるから、ここでは単に「行う」と言った方がよいかもしれない。
外面的という場合、たとえばその宗教の認知体系をもっているかどうかとは関係なく、その宗教と関係のある儀式なり行事に参加することを指す。そのような場合をわれわれはふつう「信じている」とは呼ばない。
典型的な例は、日本で多くの人が仏教や神道、あるいはその他の宗教に関わる物事に接していながら、多くの人が「私は無宗教である」と言うことである。つまり宗教は、内面的生活がないところでは、文化や社会の一部となる。したがって、特定の宗教を「信じている」状態にあるには、特定の内面状態を持っている必要があると考えられる。
その意味で言えば、「自分の意思と判断で入信する」場合も、多くは内面的にはすでに「信じて」おり、入信のための何らかの手続きを行うのは、あくまでも公的に、つまり外面的に「信じているとみなされる」ためであると言える。
では、ある宗教を信じている時の「内面」はどのようなものであるのか。
次回はそれについて考えてみたい。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150401/1427884200
宗教とは何か(3)宗教を知るには、心から信じるしかない
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150402/1427976000
前回、「ある宗教を信じている時の内面はどのようなものであるのか」という問いを残した。今回はそれについて考えることにする。
ある宗教を信じている時の実感がどのようなものであるかは、外からの理解は難しいであろう。そこでは、本人に話をきくのがひとまずの方法ではないかと思う。
たとえば、「神がいるから信じるのではなく、信じるから神がいる」という主張がある。これは特に唯一神の存在を前提とする宗教を信じる人の主張であり、そうした人の実感を伝えるものであると思う。
言いかえればこれは、認識についての問題であろう。つまり、「神がいるから信じる」という場合、神をどのように認識するのかという問題がある。
それが、五感で感じられるものの場合は、他者との共有は容易であろう。「これだ」と示せばよい。しかし、多くの場合、神に限らず宗教的なものは五感では感じられないと言える。別の宗教を信じている人どうしでは時に、文字通り話が通じないからである。
もっとも、人間は五感で感じられる世界にまずは生きているのであり、たとえば見たり触ったりできるものが、「宗教的なもの」として登場する場合もある。しかし、何らかの道具を使う場合も、それはあくまでも「向こう側」に到達するための手段であると言える。宗教における「リアル」は、精神的な領域にしか現れないのである。そのことが、他者からの理解を難しくする。
言いかえれば、「信じていない人に信じさせることはできない」と言えるであろう。「信じるから神がいる」とは、「信じている」という状態になることによって、「神が認識できるようになる」ことを指す。そこではやはり、信じることが先なのである。それなら、信じるという行為によって宗教が生まれたのだから、宗教が「信じる」ものであるのは当然かもしれない。
そこでは、あくまでも信じた結果として「神がいる」のである。しかし、いったん神を信じれば、あらゆる物事が、神が存在する証拠に見えてくる。神を信じていなければ、「これが証拠だ」とみせられても、神は見えないのである。なぜなら、その人の内面にはまだ「神はいない」からである。
布教を行う場合に「まず、問答無用で神を信じてください」という態度になりがちなのは、裏から言えばつまり、それしか入り口がないからであろう。もっとも、ここにあげたようなパターンは、個人の内面を重視する宗教におけるものである。特に一神教の発想であろう。たとえばキリスト教である。
キリスト教では、「神」が「イエスを救世主として遣わした」と心から信じれば、それだけでキリスト教徒になる。洗礼その他の儀式は、あくまでも他者からキリスト教徒であると「みなされる」入り口である。
逆のパターンは、内面に信仰がなくても、外面的な行いに参加しているうちにいつしか内面も変化してゆくことである。そこでは、教義を理解している必要はない。時には、教義がわからなくても、実践してさえいれば「救われる」からである。これは、たとえば中世のカトリックにみられる。宗教においては、教義の理解と実践は別なのである。
逆に言えば、教義を理解するだけでは、ある宗教を知ったことにはならないということになる。なぜなら、信仰という内面的実践を持っていない限りは、実感が異なるだろうからである。
しかし、内面がいったんある宗教の認知体系になってしまえば、それ以外はみえなくなると考えられる。二つ以上の宗教を同時に信じている人がいないのは、そのためであろう。ある宗教を知るには、その宗教を「心から信じる」しかないのである。いくつもの宗教を「同時に」心から信じることは、構造的にできないのであろう。宗教理解が難しいのは、この点にある。
前回「科学」と対比した際に、科学の側と宗教の側では「宗教とは何か」についての理解が根本的に異なるのではないかとしたが、それは確からしいと思われる。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150402/1427976000
「神秘体験」とは何か(1)サードマン現象
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150408/1428501600
「宗教」について考えることの延長として、親和性が高いと思われる「神秘体験」について考えてみたい。
いわゆる「神秘体験」を定義するのは難しいが、
(1)日常的に起こるものではないこと、
(2)多くの人にとって不可解な現象であること、
くらいを確認しておけばとりあえずは問題ないであろう。
一般的によく言われるのは「科学では説明がつかない」ということだが、これは話が逆で、実際には神秘体験と呼ばれる多くの現象は科学ではけっこう説明がついている。つまり、どちらかと言えば「科学で説明できない」のではなく「日常的な実感で説明がつかない」もので、科学で説明がつかないと「思われている」のが神秘体験なのである(要するに、他のあらゆる領域でもそうであるように、一般的な実感は専門的な説明とはかけ離れていることが多いのである)。
「サードマン現象」というものがある。一言で言えば、とくに非日常的な場面において、何らかの危機的状況に陥った時、そこにいないはずの「誰か」(サードマン=第三の人)が現れて助けてくれるというものである。実例については新潮文庫の
にたくさんある。
たとえば雪山で遭難したとき、誰かの励ます声が聞こえる。あるいは正しい道を教えてくれる。共通するのは、自分ではない「誰か」の存在を感じることで、生還した人は決まって「誰か」に「助けられた」と言う。
これは実際には幻覚と呼ばれるものの一種であるが、本人にとっては強烈な体験であるために、とても自分で起こしているとは信じないことが多い。しかし、実際は自分の脳が起こしている。人間の心に起こることは、最終的にはすべて脳が起こしているのである(脳と心は、同じ一つの存在だからである)。
たとえばわかりやすい例は、夜道を一人で歩いている時に誰もいないのに気配を感じるというものである。あるいは幽霊が見えたとか自分の部屋に誰かいたとかでもよい。いずれも、自分がそう思ったことがリアルに「見えてしまう」。これは、前回あげた「信じるから神がいる」のメカニズムに通ずる。
実は人の脳は、外部刺激、つまり感覚器官からの入力が単調になると、スクリーンに映画を映すかのように外部に内面状態を映すようになる。それは、脳にとっての整合性を保つためである。実際にはこれは四六時中やっているのだが、環境が単調になるとその傾向が明白に強まる。
たとえば夜道なら、ふつうは真っ暗、つまり視覚的変化に乏しく、周囲は静まり返っているから、聴覚的にも変化に乏しい。そこでは、小さな刺激にも過敏に反応して、「何か」を見出し、「意味」を作り出してしまう。わざわざ木を人と見たり、風の音を人の声と聞いたりするのである。これがひどくなるとサードマンも現れる。
もちろん、サードマン現象が起こる要因は一つではない。というより、「誰か」の存在を感じたという部分が共通しているだけであり、実際にはいくつかの異なる現象がまとめてサードマン現象と呼ばれていると言えるだろう。しかし、このように要素を追ってみると説明は可能である。
そもそも、人間の脳は生存のために情報処理を行うべく動いているのであり、非日常的な状況になればなるほど、非日常的な体験をしやすくなる。たとえば雪山の例では、低体温、低酸素、孤独感といったストレスも認識に大きく影響を与えている。サードマン現象では、幻聴とはとても思えないようなリアルな呼びかけを聴いたりもするが、人間の認識が常に「外部刺激」とそれによって引き出される「記憶」の「統合」により生じていることを考えれば、それとて不可解なものではない。
上のような例は、状況次第で誰にでも起こるものである。宗教と関連付けて言えば、「誰か」をたとえば「神」だと認識してしまえば、信仰心が篤くなることは容易に想像される。
「宗教とは何か(2)少なくとも宗教は「信じる」ものである」
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150401/1427884200
で「出会い体験」について書いたが、宗教と神秘体験の親和性が高いのはこのようなことからも説明可能だろう。逆に言えばそれは人間の認知構造に根差しているために、宗教という体系性を持ったものとセットで認識されると、なかなか離れがたいものになるのである。
この「極限状態」の軽いバージョンが、もろもろの宗教的な「場」であろう。「場」には物理的な「場所」と、特定の「機会」を両方含むが、前者ならいわゆる「聖地」や教会、聖堂、寺院、祭壇等、後者は儀式・儀礼である。
こうした場では、日常とは異なる体感を引き起こす要素、とくに視覚的、聴覚的にうったえかけるものが多い。あるいは大人数で歌を歌う時の肉体的同調、お経のように単調で一定周波数の音を聞く、炎を見つめるなど、いずれにしても環境的に非日常的な外部刺激がつくられている。だからこそ、そこでは神や仏も感じられるのである。
さて、神秘体験については、上に挙げた状況的に起こりやすい場合のほか、先天的、あるいは後天的な体質により起こりやすい場合、そして自ら起こす場合があるであろうが、それらについては次回以降にふれることにする。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150408/1428501600
「神秘体験」とは何か(2)神秘体験が起きやすい体質
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150409/1428584400
「宗教」について考えることの一環として「神秘体験」を取り上げているが、前回は「状況的に起こりやすい」場合に注目してみた。今回は、「先天的、あるいは後天的に体験しやすい体質を持っている場合」について考えてみたい。先天的という場合は遺伝的特質によるもの、後天的という場合は怪我などによる損傷によるものだが、いずれにしても肉体的、身体的ということである。
「幻覚」を頻繁に体験する場合は、現代社会では何らかの病気と診断されていることが多い(幻覚そのものが病気なのではなく、症状の一つとして幻覚が起こる)。しかし、何が病気かはあくまでもそれぞれの時代にそれぞれの場所で文化的に定義されるものである。われわれは常に、自らを基準にして物事を測るからである。
たとえば、ジュリアン・ジェインズは、文献からの分析で、四千年ほど前までの人々はみな現代でいう「統合失調症」の状態にあったのではないかと推測している
そこでは、「病気」という概念はおそらくなく、今でいう「幻覚」は日常体験だったと考えられる。これは、古代人の信仰心の篤さと関係があるかもしれない。古代では、およそ信仰のないところに歴史は生まれていない。
あるいは、統合失調症は精神障害であるが、より物理レベルに近いところで言えば、側頭葉てんかんがある。側頭葉はもともと宗教的体験と関係が深い領域であるとされるが、たとえばよくあげられるのはサウロの例である(サウロはパウロの改宗前の名前である)。
記述によれば、サウロはダマスコへ向かう旅路で突然強い光を受けて倒れ、目が見えなくなった。その時、「なぜわたしを迫害するのか」というイエスの声を聞いたという。側頭葉てんかんでは発作が起きると五感に異常を覚え、幻覚を体験することが多い。もちろん、これだけで断定できるわけではないが、その他の記述ともあわせてみれば、サウロが側頭葉てんかんだった可能性は高いとされている。
このように、古来より宗教的体験はその記述を追ってみると病気の症状である場合が多い。マイケル・ガザニガによれば、モーセやブッダ、ムハンマドについても側頭葉てんかんが疑われるという
このように考えれば、ある時代までは、ある種の病気を持つ人は「異常」とレッテルを貼られるどころか、尊敬される対象だったのである。各地にみられるシャーマンも何らかの特異な体質を持っていることが多い(あるいは、幻覚作用のある植物を使うことも多いが)。
神秘体験を得てそれが宗教と結びつく場合、特定の宗教の敬虔な信者となる場合と、本人が新たな宗教の教祖になる場合、あるいはサウロのように伝道者となる場合がある。いずれにしてもここで重要なのは、本人が、それが宗教的経験であると本気で信じているということである。実際には自分の脳によるものであるが、そうした知識がなければ宗教的体験であると解釈するのも無理はない。
一般に、いかなる話であれ第三者が語るよりも本人が語る方が説得力が増すのは、身体的に空間を共有していると体感が伝播するからであるが、ここでは、本人が本当に強烈な体験をした経験を臨場感をもって思い出しながら語ることで、時にその体感とともに信念体系をも伝播させる。こうして本人が知らないうちに教祖なり伝道者なり、敬虔な信者となるのである。
このように、宗教的体験が人間の認知構造に根差していると考えれば、人間は誰もが宗教的体験を覚える可能性があることになり、常に一定程度の宗教家や信者がいることは理解される。特定の宗教を知る者にはその宗教のリアリティが高まるであろうし、宗教を知らなければむしろ、そのような体験をすることで人間は宗教を作り出したと言えるのかもしれない。
その意味では、人間にとって「宗教」とは、信じる方が普通であるようなものかもしれないだろう。つまり、どちらかと言えば、「信じる」ことを選択するのではなく、「信じない」ことを選択するのである。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150409/1428584400
「神秘体験」とは何か(3)自ら起こす場合
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150415/1429095600
宗教を考える延長上で「神秘体験」に注目しているが、前回と前々回ではそれぞれ「状況的に起こりやすい場合」と「体質として起こりやすい場合」をとりあげた。今回は、「自ら起こす」場合について考えてみたい。少しあやしくなってきた。
宗教において神秘体験を自ら起こすというと、いわゆる「修行」というものがかかわってくるであろう。「修行」というともっぱら東洋的な語感であるが、ここでは何にせよ、「何らかの形で身体にはたらきかけることで、心理状態あるいは脳内状態を自発的に変化させること」を指すことにする。つまり、心と身体が一つであることを利用している。
宗教的行為のほとんどは、もともとはその意味での修行である。これは、伝統宗教でも民族宗教でも、新興宗教でもかわりはない。その本来的な意味からずれて表面的なところだけが残ったとき、それは文化に取り込まれるのだとも言えるであろう。そもそも各宗教にある聖地の巡礼にしても、もともとは祈ったり拝んだりすることが目的というよりも、そこに行くまでの行程が修行であった。修行はすべて、特定の精神状態に行きつくための一連の手段であり、最後のところだけをやっても意味がないのである。
修行は、必ずしも苦行ではないと言われる。しかし、苦しいかどうかは本人の感覚によるだろう。外から見てどんなに苦しそうでも、本人の中では至福体験であるかもしれないから、これを区別することにあまり意味はないと思われる。苦行でも行きすぎると死んでしまうであろうから(それだから死んでしまう人もいる)、いずれにしてもどこかの段階でいわゆる脳内麻薬が出ていることは間違いないと考えられる。たとえばエンドルフィンであればいわゆる「ランナーズハイ」と同じメカニズムである。身体に負荷がかかりすぎると、脳の方が「もういいでしょう」と言ってくる。
あるいは運動を促すドーパミンや、危機状態において「fight or flight」(闘争か逃走か)の判断を迫るノルアドレナリンも、出すぎると「行き過ぎ」を止めて精神状態を安定させるために相応のセロトニンが出る。セロトニンが大量に出ているときはいわば「落ち着いて」気分がよくなるから、思い切り身体を使ったり頭を使ったり、危ない状態になればなるほど、相対的にその後の「心の平穏」も強くなるのである(自傷行為のメカニズムもこれである)。これが修行や至福体験と関係が深いことは容易に想像される。
もっとも、宗教ではそうした心と身体のメカニズムについて明示されない場合が多い。というか、それを明らかにしていたら宗教にならない。多くは、ただ教義に則って何事かを行っていれば、いつしか自然に特定の状態が生じる。そこで生じるのはあくまでも「体感」であり、その意味付けを行うのは本人である。したがって、人間の性質として自然に起こると本人が知らなければ、何らかの超越的なものを感じるほかなくなる。そこでは言わば、宗教は頭よりも先に身体を取り込むのである。
その意味では、布教においては「とりあえず信じてもらう」のとは別に、「とりあえずやってみてもらう」というのがあり、その前提として「とりあえずふれておいてもらう」というのがあるのであろう。修行以前に環境として慣れ親しんでいること、つまり特定の宗教にかかわる何かが身の回りにあることは、動機づけとして重要な意味をもつと考えられる。つまり、文化の中からも布教するのである。そうして外堀を埋める。
たとえばヨーロッパ文化におけるキリスト教を考えてみると、教会建築、聖歌、パンとぶどう酒、あるいはクラシック音楽は神の世界を表現するためにはじまったものであるし、絵画も当初はもっぱら宗教画である。さらには「科学」でさえも、当初の科学者たちは「神が創ったこの世界の素晴らしさを知るために」研究している場合が少なくない。こんな環境にいたら、無縁でいる方が無理があるだろう。
キリスト教については、布教の過程でヨーロッパがキリスト教化すると同時にキリスト教がヨーロッパ化したと言われるくらいだから、文化と一体になることもまた宗教の宿命なのであろう。一般に宗教は、伝播した先ではもとのそれとは似ても似つかないものに変形する。これはキリスト教でも仏教でも同じである。そうしないと成立しないのであろう。
逆に言えば、構造的に変形できない宗教は広められる範囲に限界がある。歴史的にイスラム教が日本に入ってこなかったのはそのためだという人もある。キリスト教がこれほど拡大できたのは、おそらく信仰の第一義を内面生活にのみ置くからである。そこでは、頭の中で信じてさえいれば、外面的に何をやっているかは言わば関係がない。「隠れクリスチャン」はクリスチャンだからこそ可能なのである。
http://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150415/1429095600
シャーマンの病
イタコの入魂儀礼も時代と場所によって多様であるが、いずれにしても神懸かりになる為に大変な苦行をする。寒い冬の水垢離は冷気に耐えかねて逆に身体に熱を発生させる。下半身に発生した熱が背骨を通って頭まで達成して変化が生じるのである。蛇や龍はこの熱エネルギーの象徴である。不動明王が右手にもつ、倶利伽藍(くりから)の剣に蛇が巻きついているのは、このことを表しているように思える。正常な意識では耐えられないので思考から切り離すため祝詞や祭文といったマントラを延々と唱え続ける。イタコは変成意識状態の中で神や仏と出会うのである。
右耳の上にある大脳の右側頭葉は魂の座と呼ばれている。自己と意識の接点があり、右側頭葉を刺激するとテレパシー、光のヴィジョン、音の幻聴、人格の変容、体外離脱体験が起きることが解っている。この領域に脳の損傷がおきると魂の抜けた自動機械の状態になり、さながら生きる屍のようになる。
イタコの入魂儀礼は堪え難い疲労と緊張によるストレスが引き金になり大脳の右側頭葉の回路にスイッチが入るのだ。儀礼はスイッチが入るまで続く。
そうして右脳の中から声が聞こえるようになって、はじめてイタコが誕生するのだ。
イタコ系は人為的だがカミサマ系の教祖達は人生の中で極端な不幸、災難、困難を経験して発狂寸前まで追い込まれる。病気や苦悩の頂点でカミサマと出会うのである。
日常を超えたこのような体験はシャーマンの病と呼ばれる。
意識の成長・進化
体験を否定して自我の崩壊、分裂が起こることもある。自我がある程度発達していないと恐怖のあまり退行してしまうのだ。閉じこもってそこから出て来ようとしなくなる。退行してしまうと、自我を越えることも社会にも適応できない状態に置かれてしまう。
体験が肥大化すると、自分は凄い人間なんだとうぬぼれてしまう。教祖が信徒に攻撃的になったり人に対して抑圧的、支配的になってしまうのは抑圧された無意識のエネルギーに巻き込まれてしまっているからである。カルトや新興宗教の教祖にこのようなタイプがいるので注意が必要だ。
私たちは自分の思考や感情を波動として周囲に放射しているので自我の境界が薄くなった人は気をつけなくてはいけない。霊能や特殊な能力をえて人に認めてもらいたいというのは自己評価欲求が満たされていない段階なので、問題を生じやすいのである。
不思議なヴィジョンを見たり、異常な肉体の感覚を経験したり、このような普通では考えられない体験を大いなる自己に統合できれば意識の成長・進化がおこる可能性がある。
それには抑圧されたエネルギーを解放し、体験を否定も肯定もせずただあるがままに見てゆく観察的な自我を育てることが必要だ。
http://homepage.mac.com/iihatobu/work/itako.html#anchor11
「神の存在」という幻想(1)
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/09/26/100035
ラマチャンドランは、局所発作(てんかんの発作)が大脳辺縁系に起こると、次のような症状になるという。
患者は、強い恍惚感から深い絶望、破滅のときが迫っているという気持ち、はては極度の怒りや恐怖まで、「感情がもえさかる」という。女性はときどき発作の最中にオーガズムを感じることがある。理由ははっきりしないが男性にはない。しかしなかでも一番注目に値するのは、神聖な存在を感じたり、神と直接コミュニケーションしたと感じるなど、感動的な霊的体験をする患者たちだ。周囲のあらゆるものが宇宙的な意味に満たされていると患者は言う。「私はようやく、すべてを理解しました。このときをずっと待っていたんです。不意にすべてがのみこめました」。「ついに私は宇宙の真髄を見抜きました」。
皮肉なことだが私は、この悟ったという意識、真実がついに啓示されたという絶対的な確信は、情動に関与する辺縁系からくるはずで、思考をつかさどる合理的な脳領域――真実と偽物を識別する能力をおおいに誇っている領域――からくるはずがないと理解している。
大脳辺縁系を理解しておこう。
http://www.cis.twcu.ac.jp/~asakawa/BrainScience2008/Pictures/Pinel002.jpg
辺縁系には、海馬・扁桃体・中隔・視床前核・乳頭体・帯状回などが含まれる。脳弓は長い神経線維束で、海馬と乳頭体をつなぐ。辺縁系は感覚や運動に直接かかわるのではなく、事象から抽出された情報や事象の記憶、事象に関連する感情などを扱う、中核的な処理システムを構成している。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/d0/c319628432589f964219719493388cf9.jpg
辺縁系はすべての感覚系(視覚・触覚・聴覚・味覚・嗅覚)から入力を受ける。辺縁系の出力は、主として情動の体験と表出に向けて調整される。情動体験は前頭葉との相互結合によって媒介されており、内面の感情の豊かさの多くは、恐らくこれらの相互作用によっていると思われる。これらの感情を外界に向かって表出するには、視床下部と呼ばれる、小さな核が密に集まった部位の関与が必要になる。
もう一つ、てんかん(癲癇)についても理解しておこう。
てんかんは、突然意識を失って反応がなくなるなどの「てんかん発作」をくりかえし起こす病気ですが、その原因や症状は人により様々で、乳幼児から高齢者までどの年齢層でも発病する可能性があり、患者数も1000人に5人〜8人(日本全体で60万〜100万人)と、誰もがかかる可能性のあるありふれた病気のひとつです。「てんかん発作」は、脳の一部の神経細胞が突然一時的に異常な電気活動(電気発射)を起こすことにより生じますが、脳のどの範囲で電気発射が起こるかにより様々な「発作症状」を示します。しかし症状は基本的に一過性で、てんかん発作終了後は元通りの状態に回復することが特徴です。原因は様々で、脳腫瘍や頭部外傷後遺症などの明らかな原因がある場合は「症候性てんかん」、原因不明の場合は「特発性てんかん」と呼ばれます。(厚労省 http://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_epilepsy.html)
ラマチャンドランの説明では、
「てんかん」と聞くと、たいていは、ひきつけを起こして倒れる人を思い浮かべるだろう。こうした症状は、大発作と呼ばれる、最もよく知られているタイプのてんかんの特徴である。こうした発作はふつう、脳のどこかでニューロンの小集団が混乱した発火を行い、その活動が野火のように広がって脳全体をのみこんでしまうことによる。しかし発作には「局所的な」発作、すなわち1カ所の狭い範囲にほぼとどまっているものもある。この局所発作が運動皮質で起こると、連続した筋肉の痙攣が生じる(ジャクソンてんかん)。局所発作が大脳辺縁系に起こると、感情の症状がもっとも顕著となる。[以下、冒頭の引用に続く]
以上の記述によれば、辺縁系のどこかに異常な電気活動が起こると、神秘的な体験をするということのようだ。
この患者たちは神の目をまっすぐに見つめるという、類のない特権を発作のたびに享受している。こういう体験が(どんな意味においても)「本物」かそれとも「病的」か、誰が決められるだろう。医師はこういう患者に薬を飲ませて、全脳の神が降臨するのを阻止すべきなのだろうか?
http://wildhopeartgallery.com/wp-content/uploads/2015/04/Karen-Weihs_IMG_4977-1020x1024.jpg
この問いは、意外に重要な問いであるかもしれない。普通の「正常」な人は、このような神秘体験を病気とみなし治療すべきというのではないだろうか。しかしそれは「類のない特権」を否定するという抑圧的行動になる可能性を考慮したものであるかどうか。人類の進化を否定する行為になるかもしれないと考えた結果であるのかどうか。他方、それは後天的な経験の発現(単なる願望)という単純なことであるのかもしれない。
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/09/26/100035
「神の存在」という幻想(2) 神秘体験(宗教)は、精神疾患である?
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/10/26/210000
神秘体験(スピリチュアル/宗教体験)は病気(精神疾患)なのかどうかに関して、ラマチャンドランは、神経科学者として興味深い議論をしている。
大脳辺縁系のなかを神経インパルスの衝撃が大量かつ頻繁に通過すると、ある回路が永久的に「促進」されるか、あるいは大雨の水が丘陵をどっと流れ、新しい小川や溝や水路をつくるように、新しいルートが開かれるのかもしれない。このキンドリングと呼ばれる現象が、患者の内的な感情のあり方を永久的に変化させる――そしてときには豊かにする――のかもしれない。
こうした変化は、一部の神経科医が「側頭葉人格」と呼んでいるものを生み出す。患者は情動が強まり、ささいな出来事に宇宙的な意味を見出す。彼らはユーモアに欠け、ひどく尊大で、毎日の出来事をことこまかに日記に記録しつづける傾向(過書字と呼ばれる特徴)があるとされている。患者たちはときおり私に、神秘的なシンボルや記号でいっぱいの何百頁にもおよぶ書き物をくれる。患者の一部は、理屈っぽくて細かいことにうるさく、自分本位である(もっとも科学者仲間の多くにくらべればまだましだが)。そして哲学的、神学的な問題にとりつかれたように没頭する。
「理屈っぽくて、細かいことにうるさく、自分本位である」ことは、神秘家のみならず、似非科学者(似非評論家)の特徴である。やたら屁理屈をこね、些細などうでもよいことに拘り、自分は間違うはずがないと自信満々に主張する者に接すると、私は一体どうしたものかとおおいに悩む。
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「メルクマニュアル医学百科 家庭版」は、「側頭葉の損傷」について、次のように述べている。
右の側頭葉が損傷を受けると、音や形の記憶が障害される傾向があります。言語が左半球優位である人が左の側頭葉に損傷を受けた場合は、言葉の記憶や言語の理解能力が著しく低下することがあり、これはウェルニッケ失語症(受容性失語)と呼ばれます。ときとして、側頭葉の一部が損傷を受けると、ユーモアがなくなる、狂信的になる、性欲がなくなるなど、人格の変化が生じることがあります。
ラマチャンドランは、ポールというてんかん患者を診察した。
ポールは、自分の考えに夢中で、信者としての尊大さは持っていたが、深い宗教心の謙虚さはまるでなかった。…彼は歓喜を覚え、ほかのものは何もかも色あせた。歓喜の中で神をはっきりと感知した――カテゴリーも境界もなく、創造主との一体感だけがあった。彼はこの話を細部まで念入りに、とてもしつこく説明した。…翌日ポールは私の研究室に、派手な装飾の緑色の表紙を付けた膨大な量の原稿を持ってやってきた。彼が数か月前から取り組んでいる課題である。それには哲学や神秘主義や宗教に対する彼の見解、三位一体の神の本質、ダビデの星の図、霊的な題材を描いた精緻な絵、一風変わった神秘的なシンボルや図などが並んでいた。…ポールがフラッシュバックの話をしているときに「あなたは神を信じていますか」とふいに問いかけてみた。彼は当惑したような様子で「だって、ほかに何があるんです?」と言った。
http://images.elephantjournal.com/wp-content/uploads/2014/02/spiritual-man.jpg
ポールのような患者は、なぜ宗教的な体験をするかに関して、ラマチャンドランは4つの可能性をあげている。
第1の可能性は「神が本当に彼らを訪れている」というもの。
もしこれが事実なら、それはそれでいい。神の無限の叡智にだれが疑問をさしはさめるだろう。残念だがこの可能性は、実験的に証明したり除外したりはできない。
これは科学者としては良心的な態度だろう。実験的に証明できないからと言って、この可能性を排除していない。しかし、ラマチャンドランがこのように言うとき、彼には「神」がどのようなものであるかについての一定の観念があると思われる。私にはそれがどのようなものであるかよく分からないので、実験的に証明できないと言われても、本当に?と疑問に思ってしまう。
第2の可能性は、「ありとあらゆる奇妙で不可解な感情の体験に対処するために、宗教的な静謐という、穏やかな沐浴を求める」というもの。
こうした患者は、まるで大釜が煮えたぎるように、ありとあらゆる奇妙で不可解な感情を体験するので、唯一の頼みの綱として宗教的な静謐という、穏やかな沐浴を求める。
精神安定剤としての宗教という考えは、かなり説得力あるように思える。免疫力が弱い子どもや老人(精神年齢)には、「ありとあらゆる奇妙で不可解な感情」が押し寄せてきても抵抗できるように宗教という精神安定剤を処方しようということになるのだろうか。
ラマチャンドランは次のような説明も検討している。
ごたまぜの感情が別の世界からの神秘的なメッセージとして、誤って解釈されるのかもしれない。
しかし、この説明はありそうもないとして、退けられる。
前頭葉シンドロームや精神分裂病、躁鬱病、それに単なる抑鬱などの神経および精神障害でも感情が混乱するが、こうした患者がこれほど宗教に心を奪われるケースはめったにない。…精神分裂病患者には、側頭葉てんかん患者のような強い熱情や、強迫観念めいた形は見られない。したがって、没我的な信心を、感情の変動だけで説明することはできない。
第3の可能性は、「キンドリング現象」によるというもの。
世界の不確かさに対処するには、辺縁系の他の部位や海馬にメッセージを送って闘争か逃走かに備える指令を出す前に、事象の顕著な特徴を何らかの方法で評価する必要がある。ところが辺縁系に発作が起こり、そこから出た偽のシグナルがこれらの経路を流れるとキンドリングが起こる。「顕著な特徴」の経路が増強され、脳組織どうしのコミュニケーションが増加する。人や事象を見たり、声や音を聞く感覚領域は、情動中枢とより密接に結合するようになる。その結果は? 顕著なものだけでなく、あらゆる物体と事象に深い意味がふきこまれ、患者は「一粒の砂の中に宇宙を」見たり、「自分の掌の中に無限を」つかんだりする。そして宗教的恍惚の海にただよい、宇宙の潮にのって涅槃の岸へと運ばれていく。
キンドリングにより、「宗教的恍惚の海にただよい、宇宙の潮にのって涅槃の岸へと運ばれていく」のならば、意図的に辺縁系に刺激を与えたくなるのではないか。…あなたは、「経験機械」につながれたいですか?(2015/2/20)で紹介したハッピーサプリが思い浮かぶ。
ラマチャンドランは、この可能性を実験的に検証した。その結果は?(次回に紹介)
第4の可能性は、「人間は、宗教的経験を伝達することを唯一の目的とする、特別な神経回路を進化させてきた」というもの。
超自然的な存在を信じる傾向が世界中のあらゆる社会にあまりに広く見られる。…生物学的な基盤があるとするなら、鍵となる疑問「どんな種類の選択圧がそのような機構を引き起こすのか」に答えなくてはならない。もしそのような機構があるとしたら、主として信仰や霊的な学習に関与する遺伝子あるいは遺伝子グループがあるのだろうか? 無神論者は、この遺伝子を持っていないか、これを出し抜くコツを習得しているのだろうか(これは冗談)。
この種の議論は進化心理学(社会生物学)の分野で行われているそうで、興味深いものがあるが、ここではラマチャンドランの話を聞くにとどめよう。
進化心理学の中心的な教義によれば、人間の特性や性向の多くは、ふつう「文化」によるとされがちなものでさえ、実は、適応的な価値を持っているので自然選択に導かれて特異的に選ばれてきた。…他方、こうした「進化心理学」の理論がいきすぎないように注意する必要がある。ある特性が普遍的に見られても、それだけではその特性が遺伝的に規定されているとは言えない。
では、進化心理学は宗教の起源をどのように説明するのか。
宗教(あるいは神や霊性を信じること)は、文化が主たる役割を果たしている料理に似ているのか。それとも強い遺伝的基盤を持っていると思われる一夫多妻婚のほうに似ているのか。
一つの可能性として、権威ある象徴を求める人類普遍の傾向が遵奉的な特性を促進し、同じ遺伝子を共有する社会集団(血縁集団)の安定性に寄与するのではないかと考えられる。したがって遵奉的特性の育成を促進する遺伝子は、繁栄し増加する。そしてこれを持たない人は社会的に逸脱した行動をとるために排斥され処罰される。…宗教遵奉の「遺伝子」を信じるかどうかに関わらず、側頭葉の特定の部位がこのような宗教的経験に、他のどの部位よりも直接的な役割を果たしていることは明らかである。
「宗教遵奉の遺伝子」は、誰かがまじめにその存在を証明しようとしているのだろうか。「権威ある象徴を求める性向」の遺伝子といったら、どうだろうか。もう少しブレークダウンしたら実験可能になるかもしれない。
患者にとってはどんな変化も本物で、ときには望ましくさえあり、医師には、人格に秘儀的な色合いがあることの価値を判断する権利はない。神秘的体験を正常であるとか異常であるとかを、誰がどんな根拠で決められるだろうか。「変わった」ことや「稀な」ことを異常と同等にみなす傾向が一般にあるが、これは論理的に間違っている。天才は稀だが非常に価値の高い特性であり、虫歯はごく普通にあるが、あきらかに望ましくない。
心に留めて欲しいのは、(側頭葉が宗教に関係しているという)まったく同じ証拠が、使いようによっては神の存在に対する反証ではなく、神の存在を支持する証拠にもなるということだ。例えば、大半の動物は色覚に関するレセプターや神経機構を持っていない。特権的な少数者だけが持っているのだが、だからと言って色が実在しないという結論になるだろうか? ならないのは明らかだが、ではなぜ同じ論法が神には適用されないのか。もしかすると、「選ばれた」人たちだけが、神の存在を知るのに必要な神経結合を持っているかもしれないではないか。
人格神を想定していると、全くナンセンスなことを議論していると思われるかもしれないが、次のような汎神論を考慮に入れて、もう一度ラマチャンドランの記述を読み返してみるのも面白いかもしれない。
汎神論…存在するものの総体(世界・宇宙・自然)は一に帰着し、かつこの一者は神であるとする思想をいう。「一にして全(ヘン・カイ・パン)」「梵我一如(ぼんがいちにょ)」「神即自然」などが標語として用いられる。世界そのものが神であるとするから、有神論のように世界の外にある神と被造的世界との絶対的対立を認めず、すべてのものは神の現象であり、あるいは神を内に含むとする点で、創造以後は神は被造物に干渉しないとする理神論と異なる。神を世界を統一する普遍的原理、法則性として考える点で合理的側面をもつが、その反面で自我の神への帰入、主観と客観との絶対的合一を説いて神秘主義に至りやすい。神と世界とについて明確な概念が形成された後で登場するのが普通である。ウパニシャッド、古代ギリシアの一部に最初にみられる。西欧近世以降のブルーノ、スピノザ、ドイツ観念論とその周辺の思想家たちの汎神論的思想は、宗教の非合理性を排して、近代自然科学と調和させようという意図で築かれたものである。[藤澤賢一郎/日本大百科全書(ニッポニカ)]
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/10/26/210000
「神の存在」という幻想(3) 「神モジュール」と「婚約数」
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/11/12/210000
今日、「神経科学」は、急速に進歩しつつあるようだ。Wikipediaによると、
神経科学は脳と心の研究の最先端に位置する。神経系の研究は、人間がどのように外界を知覚し、またそれと相互作用するのかを理解するための基盤となりつつある。
認知レベルにおいての研究(認知神経科学)では、神経回路がどのように心理・認知機能を生み出すのかが研究の対象となっている。近年、ニューロイメージング(例:fMRI、ポジトロン断層法 (PET)、単一光子放射断層撮影 (SPECT)、近赤外線分光法 (NIRS) )や電気生理学、経頭蓋磁気刺激法 (TMS)、ヒトの遺伝子解析などの強力な研究手段が発達してきたことにより、神経科学者(特にこのレベルの科学者を認知脳科学者とも言う)は、ヒトの認知や感情などのより抽象的な機能がどのような神経回路によって担われているかということについて研究を行うことが出来るようになった。従来は科学的に還元不可能と考える研究者さえいた多くの複雑な精神的なプロセスが神経活動と強固に結びついていることが解明されつつある。
「神の存在」を信じるというような「宗教的な体験」は、「認知や感情などの神経活動」の一種であるという観点から、「科学的な解明」を試みることは、「宗教対立」を「どうしようもないもの」と考えたり、「信仰の自由」を無条件に認めたりするような、「思考停止」に陥らないために有効な方途であろうと思われる。
ラマチャンドランは、側頭葉てんかんの患者が宗教的体験をする理由について、4つの仮説をあげていた。(前回の記事参照)
01.神が本当に彼らを訪れている
02.ありとあらゆる奇妙で不可解な感情の体験に対処するために、宗教的な静謐という、穏やかな沐浴を求める
03.キンドリング現象
04.人間は、宗教的経験を伝達することを唯一の目的とする、特別な神経回路を進化させてきた
ラマチャンドランは、第3の可能性を実験的に検証した。このキンドリング現象については、ラマチャンドランの説明より、次のブログ記事がわかりやすい。
キンドリングは元々てんかんのモデルとして考えられました。1967年にGraham Goddardがラットの脳を研究していて偶然見つけた現象です。彼は,ラットの脳をいろいろ電気刺激したけど,非常に低い電圧でどんなタイプの痙攣も起きない筈でした。ところが数週間実験を続けたら,その電圧で痙攣を起こすようになり,数ヶ月後でも同様に起こしたのです。つまりラットは電気刺激に感作されたのです。
この現象は,焚き木を燃やす時の焚きつけに似ていることからキンドリング(焚きつけ,燃え上がり)現象とよばれました。その後電気刺激でなく,化学物質の刺激でも同様の事が起きる事が分かりました。
てんかんでは,これと同じような事があって,痙攣が自然に起きる状態と考えられました。また抗けいれん薬の薬効を検定するのに動物のキンドリング・モデルが有効でした。
脳神経の条件付けによる過敏反応だとか,発作の反復により新たな神経ルートが構築され、小さな刺激で発作が再発するようになるなどが,想定されていますが,完全には解明されていません。(2004-11-12)
http://m2fazami.blog26.fc2.com/blog-entry-17.html
ラマチャンドランの実験というのは、
キンドリングが側頭皮質から扁桃体までのすべての結合を無差別に増強するという説は、患者の電気皮膚反応を調べることで直接の検討ができる。通常、物体は側頭葉の視覚野で認識される。情動的な重要点――親しい顔あるいは恐ろしいライオン――のシグナルが扁桃体から出て辺縁系に伝えられると、情動が喚起されて発汗が始まる。しかし、キンドリングによってこの経路のすべての結合が増強されていると、なにもかもが重要点になってしまう。何を見ても――何の特徴もない見知らぬ人や、椅子やテーブルを見ても――辺縁系が強く活性化され、発汗が起こる。
ラマチャンドランは、この可能性を検証するために、同僚に紹介してもらった2人の患者に実験した。その患者は、過書字[毎日の出来事をことこまかに日記に記録しつづける傾向]があり、霊的なものを好み、宗教に対する自分の気持ちや形而上学的なテーマについて取りつかれたように話した。
(ラマチャンドランは)患者に、単語やイメージのランダムサンプルを数種類見せた。ごく普通の無生物の物体をあらわす単語、馴染みのある顔、馴染みのない顔、性的刺激となる単語や画像、性に関する4文字語、ひどい暴力や恐怖、宗教的な単語やイコンなど。
キンドリング仮説で予測すると、すべてのカテゴリーに対して一様に高い反応が出るはずだ。だが、驚いたことに、2人の患者は主として宗教的な単語とイコンに高い反応を示したが、他のカテゴリーに対する反応は、通常なら強い反応が出る性的な単語や画像に対する反応も含め、正常な人と比較して異様に低かった。
ここでラマチャンドランは、注意を喚起している。
側頭葉てんかんの患者がみな信心深くなるわけではない。側頭皮質と扁桃体の間には並行した結合がたくさんある。そのどれに問題があるかによって、人格が他の方向にそれて、取りつかれたように文章を書く患者や、絵を描く患者、哲学を論じる患者もいるし、稀にはセックスに夢中になる患者もいる。こうした患者のGSR[電気皮膚反応]をとれば、恐らく宗教的なイコンよりもそれぞれが夢中になっているものに関する刺激に大きく反応するだろう。この可能性については、私たちのところでも、他でも、いま研究が進行中である。
こういう話を聞くと、健常者と障害者との境界は曖昧なもので、「程度の差」に過ぎないように思えてくる。…本書は1998年に発行されたものであり、その後どれだけ研究が進展しているのだろうか。
さて、以下のような、ラマチャンドランの神経科学者らしからぬ話が面白い。これが本書の魅力である。(以下、「GSR」と訳されているところを「電気皮膚反応」に置き換える。)
神が電気皮膚反応装置を通して私たちに直接語りかけてきたのだろうか? 私たちは天国への直通ホットラインを手にしているのだろうか?
宗教的な単語やイコンに対する反応が選択的に増幅されることで何ができあがるにせよ、この実験結果によって、提示した仮説の一つ――彼らが霊的になるのは、ただ周囲のすべてが重要点になり、深い意味を持つからだという説――が排除された。
キンドリング仮説は排除された。しかし、
結果は、あるカテゴリーの刺激(宗教的な単語やイコンなど)に対する反応が選択的に増強され、性的な意味合いの強いものなど他のカテゴリーに対する反応が実際に減少することを示している。とするとこれらの所見は、側頭葉に宗教や霊性を専門にする神経組織があって、それがてんかん発作によって選択的に強められていることを意味しているのだろうか?
これは魅力的な仮説だが、他の解釈も成り立つ。私たちが知る限りでは、この患者たちの宗教的な熱情の引き金を引く変化は、どこでも起こる可能性があり、側頭葉で起こるとは限らない。それでもその活動性は最終的には辺縁系になだれ込み、宗教的イメージに対する電気皮膚反応の増強という同じ結果をもたらす。したがって電気皮膚反応が強いこと自体は、側頭葉が宗教に直接関係していることを保証するものではない。
辺縁系とは、次のようなものであった。(2015/9/26 の記事:「神の存在」という幻想(1)を参照)
辺縁系はすべての感覚系(視覚・触覚・聴覚・味覚・嗅覚)から入力を受ける。辺縁系の出力は、主として情動の体験と表出に向けて調整される。情動体験は前頭葉との相互結合によって媒介されており、内面の感情の豊かさの多くは、恐らくこれらの相互作用によっていると思われる。これらの感情を外界に向かって表出するには、視床下部と呼ばれる、小さな核が密に集まった部位の関与が必要になる。
以上のことから、ラマチャンドランは次のように結論する。
人間の脳には宗教的な体験に関与する回路があって、一部のてんかん患者ではこれが過活動になる。この回路が信仰心のために特別に進化したのか、それとも信仰心を誘導するような別の感情を生み出しているだけなのか(但しこれでは多くの患者の信仰心を支えている熱情を説明することはできない)は未だわかっていない。したがって脳に遺伝的に規定されているらしい「神モジュール」があることを示すのはまだまだ先のことになるが、神や霊性に関する疑問に科学的に取り組めるようになったというだけで、私にとっては十分に刺激的である。
「神モジュール」という考えは面白い。…私は、それは「恐れ」(地震や雷などの自然現象に対する恐れ)に由来しているのではないかと想像している。根拠はない。ちょっと言ってみたかっただけ。
人間の本質的な特性である信仰心…これはいまだ解明されない人間の本性の謎の一つに過ぎない。このほかの人間独自の特性――例えば音楽や数学やユーモアや詩作の能力――はどうなのだろう。モーツァルトが交響曲を頭の中でつくりだしたり、フェルマーやラマヌジャンのような数学者が段階的な証明を積み重ねることなしに、欠陥の無い推論や定理を「発見」するのを可能にしているのは何なのか。ディラン・トマスのような詩人が心を揺さぶる詩をつくりだすとき、脳の中ではいったいどんなことがおこっているのだろうか。創造の火花はすべての人のなかに存在する天与の火花のあらわれなのだろうか。皮肉なことにこの手がかりは「イデオ・サヴァン・シンドローム」(より政治的に正しい表現としては、サヴァン・シンドローム)と呼ばれる奇異な状態から得られる。精神遅滞がありながら高い才能を持つこの人たちは、人間の本性の進化――前世紀の偉大な科学者たちがとりつかれた主題――について貴重な洞察を提供してくれる。
確かに、人間の本性は謎だらけだ。私のような俗物にとっては、音楽家や数学者や詩人は、謎の生物だ。
イデオ・サヴァン・シンドロームとは、weblioによると、
精神障害や知能障害を持ちながら、ごく特定の分野に突出した能力を発揮する人や症状を言う。
重度の精神障害を持つ人に見られる、ごく限られた特定の分野において突出した能力を発揮する人やその症状のことです。1887年に、J・ラングドン・ダウン博士により「イディオ・サヴァン(天才的白痴)」と名付けられ、のち「サヴァン症候群」と呼ばれるようになりました。その能力については特に規則性や傾向はありませんが、○月×日の曜日をすぐ当てられる、膨大な書籍を1回読むだけですべて暗記できる、一度聞いただけの曲を最後まで間違えずに弾ける、航空写真を一瞬見ただけで描き起こせるなど、異常なほどの記憶力・再現力が特徴といえます。一般的に男性に多く、また自閉症の人に多く見られます。サヴァン症候群についてはまだ解明すべき謎が多く残されていますが、現在では、左脳の損傷によるという説が有力視されています。
こう見てくると、神を信じる人・信仰心が篤い人とは、モーツァルやフェルマーやトマスのようなサヴァン・シンドロームの症状を呈する人と同類なのかもしれない、と思ったりもする。
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https://www.youtube.com/watch?v=aNdUqBQ2r5k
(余談)婚約数について
数学の未解決問題に、いろいろ面白い問題があるようだ。素人には、問題自体が理解できないものが多いが、次の問題は理解できる。Wikipediaより、
婚約数とは、異なる2つの自然数の組で、1と自分自身を除いた約数の和が、互いに他方と等しくなるような数をいう。準友愛数とも呼ばれる。現在まで知られる婚約数の組はすべて偶数と奇数の組である。
一番小さな婚約数の組は (48, 75) である。…48の1と自分自身を除いた約数は、2,3,4,6,8,12,16,24で、和は75となる。一方、75の1と自分自身を除いた約数は、3,5,15,25で、和は48である。
【未解決問題】
・婚約数の組は無限に存在するか?
・偶数同士、奇数同士の婚約数の組は存在するか?
「全能の神」は、「婚約数の組は無限に存在するか?」の問いに、何と答えるのだろうか。…私は知っているが、人間には教えない、とか。
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/11/12/210000
「神の存在」という幻想(4) 「自然選択説」は「潜在能力」を説明できない
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/12/09/221912
前回「サヴァン症候群」の話が出てきた。サヴァン症候群とは、「精神障害や知能障害を持ちながら、ごく特定の分野に突出した能力を発揮する人や症状」であったが、ラマチャンドランはこれに関心を持っているようだ。自然選択の話もこれに関連してのことだろう。でも「天才」の話が出てきたりしてなかなか面白い。
音楽や美術や文学の才能は、「自然選択説」で説明できるのだろうか? 自然選択説とは、
生物の進化を要約すると次の通りである。
生物がもつ性質が次の3つの条件を満たすとき、生物集団の伝達的性質が累積的に変化する。
01.生物の個体には、同じ種に属していても、さまざまな変異が見られる。(変異)
02.そのような変異の中には、親から子へ伝えられるものがある。(遺伝)
03.変異の中には、自身の生存確率や次世代に残せる子の数に差を与えるものがある。(選択)
上記のメカニズムのうち、3番目に関わるのが自然選択である。一般に生物の繁殖力が環境収容力(生存可能数の上限)を超えるため、同じ生物種内で生存競争が起き、生存と繁殖に有利な個体はその性質を多くの子孫に伝え、不利な性質を持った個体の子供は少なくなる。このように適応力に応じて「自然環境が篩い分けの役割を果たすこと」を自然選択という。(Wikipedia)
「進化論」は面白い話題なので、いずれ取り上げたいと思う。ここでは「自然選択」について、wikipediaの解説のごく一部を引用しておくにとどめる。
ラマチャンドランはこう述べている。
ダーウィンは自然選択の原理で、指や鼻などの形態的な特性の出現だけでなく、脳の構造も、したがって精神的能力も説明できると考えていた。言い換えると、音楽や美術や文学の才能や、そのほかの人類の知的な業績も自然選択で説明がつくと考えた。ウォレスはそうではなかった。ダーウィンの原理で指や足指が説明でき、単純な精神特性も説明できるかもしれないというところまでは認めたが。数学や音楽の才能といった人間の本質をなす一定の能力は、偶然による行き当たりばったりの作用では生まれてこないと考えたのである。
ウォレスがなぜそう考えたかというと、
(第1に)いったん文化や言語や文字が生まれると、人類の進化はラマルク流になった――即ち人が生涯に蓄積した知恵を子に伝えることができた。この子孫は文字を持たない者の子孫よりも賢くなるが、それは遺伝子が変化したかえらではなく、(文化という形の)知識が親の脳から子の脳へ伝えられたためである。このように脳は文化と共生関係にある。
(第2に)例えばあなたが現存しているアポリジニの社会から、ほとんど読み書きのできない先住民の子どもを連れてきて(それともいっそタイムマシンを使ってクロマニヨン人の子どもを一人連れてきて)、リオデジャネイロかニューヨークか東京で現代の公教育を受けさせたとする。彼はもちろん、そういう都市で育った子どもたちと全く違わない。ウォレスの考えによれば、これはアポリジニもクロマニヨン人も、彼らの自然環境の中で必要とされる知能をはるかに超える潜在的知能を持っているからだ。
数学の能力が、生存競争において有利に働くのだろうか。ネアンデルタール人やクロマニオン人が数学的潜在能力を持っていたのは何故か。
http://www.wakingtimes.com/wp-content/uploads/2013/05/Flickr-NASA-NASA-Goddard-Photo-and-Video.jpg
ラマチャンドランはこう書いている。
潜在能力を出現させた選択圧とはどんなものなのだろう。自然選択では、生物が表出している実際の能力の出現しか説明できない――潜在能力は説明できないのである。能力は、それが有益で生存を高めるものであれば、次世代に受け継がれる。しかし潜在的な数学力の遺伝子など作って何になるのか。文字を持たない人にどんな利益になるのだろう。行き過ぎのように思える。
ここが問題のところだ。道具が所有者の必要に先立って発達してきた。だが私たちは進化が先見性を持たないことを知っている! ここに進化が予知力を持っているように思える例がある。なぜそんなことが可能なのか。
ウォレスはこのパラドックスに力強く取り組んだ。数学の技能と言う特殊な能力が(潜在的なかたちで)向上することが、どのようにしてこの潜在能力を持つ一族の生存や、持たない一族の絶滅に影響を及ぼせるのか。ウォレスはこう書いている。「現代の著述家たちは、みな人間が非常に古い歴史を持つことを認めているのに、その大半が、知能はごく最近になって発達したと主張し、われわれと同等の知的能力を持つ人間が先史時代に存在していた可能性をほとんど考えないのは、いくぶん奇妙な事実である」
現代の私たちは、そういう人間が存在していたことを知っている。ネアンデルタール人やクロマニヨン人の脳容量は、実際に私たちの脳容量よりも大きく、彼らがホモ・サピエンスと同等あるいはそれを上回る潜在的知能を持っていたというのは考えられないことではない。
だとすれば、先史時代に出現した驚異的な潜在能力が、つい1000年前になってようやく認識されたことになるが、なぜそんなことがありうるのか? ウォレスが出した答えは神の御業(!)だった。「より高い知的存在が人間の本性の発達過程を導いたに違いない」。したがって人間の資質は、この世に表出された「神授の資質」である。
ウォレスとダーウィンの意見が対立したのはここのところである。ダーウィンは、自然選択が進化の主たる原動力であり、最も特殊な精神特性の出現も神の手を借りることなく自然選択で説明できる、と断固として主張した。
「神の御業」とは面白い。「より高い知的存在」は「現在の科学では解明できない」という代わりの修辞学的表現なのだろうか。
現代の生物学者ならウォレスのパラドックスをどのように解決するだろうか? 恐らくは、音楽や数学の能力といった限定的かつ「高等な」人間の特性は、通常「一般的知能」と呼ばれているもの――300万年の間に「暴走し」、爆発的に大きく複雑になった脳が到達した頂点――の特殊な発現であると論じるだろう。論理はさらに続く。一般的知能の進化によって、会話や狩猟、食物の貯蔵、複雑な社会儀礼などを始めとする多数の人間の行為が可能になった。そしてこの知能がいったん備わると、計算や音楽や、感覚の及ぶ範囲を超える科学的な道具の設計など、ありとあらゆる物事にそれを使えるようになった。
ラマチャンドランは、音楽や数学の能力に関して、この見解に反対している。「サヴァン症候群」の知見にたちかえり、次のように述べている。
「サヴァン」とは、精神的能力あるいは一般的知能が非常に低いにもかかわらず、驚異的な才能の「島」を持っている人たち。例えば、報告されているサヴァンの中には、IQが50以下で普通の社会生活がほとんどできないのに、8桁の素数を簡単に言えるという人たちがいる。これは終身在職権をもつ数学教授でもめったにできない離れわざである。
美術や音楽の世界には、ときどきサヴァンが登場して、その才能が後々まで人を驚かせ喜ばせる。…盲目で自分の靴の紐が結べない13歳の少年トムは、どんなかたちにせよ音楽の指導を受けたことは一度もないが、ほかの人の演奏を聴くだけでピアノを弾くことができた。歌を聴いて旋律を聴き取り、どんな曲でも1回で、熟練した演奏家と同じくらい見事に演奏した。
…こうした例は、特殊化した才能が一般的知能から自然発生的に出てくるのではないことを示している。もしそれ[特殊化した才能が一般的知能から自然発生的に出てくる]が事実なら、精神遅滞者がこうした能力を示すはずがない。それにこの点を立証するのに、サヴァンという特異な例を引き合いに出す必要もない。才能のある人や天才はみな、このシンドロームの要素を持っているからだ。「天才」というのはよくある誤解とは裏腹に、超人的な知能の同義語ではない。私が光栄にも面識を得た天才のほとんどは、本人たちは認めたがらないだろうが、サヴァンに良く似ている――限られた分野ではなみはずれた才能を持っているが、その他の面ではごくふつうなのだ。
ラマチャンドランは、サヴァンの例として、インドの天才数学者ラマヌジャン(1887-1920)の話を紹介しているが、ここではwikipediaから、若干引用しておこう。
ラマヌジャンは、極貧の家庭に生まれたが、奨学金を得て大学に入学。数学に没頭し、他の科目の試験に不合格。大学中退後、港湾事務所に勤務。…周囲の勧めもあって、1913年、イギリスのヒル教授等に研究成果を記した手紙を出したが黙殺された。しかしケンブリッジ大学のG.H.ハーディは、ラマヌジャンの手紙を読み、最初は「狂人のたわごと」程度にしかとらなかったものの、やがてその内容に驚愕した。というのも、ラマヌジャンの成果には明らかに間違っているものや既知のものもあるが、中には「この分野の権威である自分でも真偽を即断できないもの」、「自分が証明した未公表の成果と同じもの」がいくつか書かれていたからである。…ハーディは1から100までの点数で数学者をランク付けするのが好きだった。それによると、ハーディ自身は25点、リトルウッドが30点、偉大なるヒルベルトが80点、そしてラマヌジャンが100点だった。
ラマヌジャンの逸話として有名なものの一つに次のものがある。
1918年2月ごろ、ラマヌジャンは療養所に入っており、見舞いに来たハーディは次のようなことを言った。
「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」。これを聞いたラマヌジャンは、すぐさま次のように言った。「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」。実は、1729は次のように表すことができる。1729 = 123 + 13 = 103 + 93。すなわち、1729が「A = B3 + C3 = D3 + E3」という形で表すことのできる数 A のうち最小のものであることを、ラマヌジャンは即座に指摘したのである。この逸話のため、1729は俗にハーディ・ラマヌジャン数やタクシー数などと呼ばれており、スタートレックやフューチュラマなどのSFや、ハッカー文化の文脈では「一見すると特に意味のない数」のような文脈でこの数が使われていることがある。
最後の「一見すると特に意味のない数」にも意味があるという指摘は面白い。これを拡張すれば、「一見すると特に意味のない事象にも、重大な意味があるものがある」となろう。
では、サヴァンや天才はどのようにして生まれるのか? 遺伝と関係あるのか? それは、次回に。
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/12/09/221912
「神の存在」という幻想(5) 宇宙信仰と創造性
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/12/25/200000
ラマチャンドラン,ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』(15)
サヴァンや天才はどのようにして生まれるのか? 遺伝と関係あるのか? (サヴァン症候群とは、「精神障害や知能障害を持ちながら、ごく特定の分野に突出した能力を発揮する人や症状」をいう)
ラマチャンドランの推論はおもしろい。
靴の紐が結べない、あるいは普通の会話ができないという人が、いったいどうして素数を算出できるのか。その答えはひょっとすると左半球の角回と呼ばれる領域にあるのかもしれない。…サヴァンが誕生の前あるいは直後に脳に損傷を受けて…彼らの脳が、幻肢患者で見られたような地図の再配置をしているという可能性はないだろうか?…ある部位が何らかの理由で、通常よりも多くの入力あるいはそれに相当する刺激を受け取るようになって、大きく密になっているのだろうか。それは数学的な能力にどんな結果をもたらすのか。これが8桁の素数を言える子どもを生み出すのだろうか? 実を言うとニューロンが抽象的な作業をする仕組みはほとんど分かっていないので、こうした変化の影響を予測するのは難しい。角回の大きさが2倍になると数学の能力がただ2倍になるのではなく、対数的に増加したり100倍になったりする可能性もある。この脳の体積の単純なしかし「異常な」増加が才能の爆発を引き起こすと推測することもできる。同じ論法が絵画や言語をはじめ、どんな人間の特性にもあてはまる。
「ニューロンが抽象的な作業をする仕組みはほとんど分かっていない」…こういう教科書風でない書きっぷりは好感が持てる。
この議論は滑稽なほど奇抜なうえに全くの推論だが、少なくとも検証可能である。数学サヴァンは左の角回が肥大しているはずだし、美術サヴァンは左の角回が肥大しているのではないかと考えられる。私の知る限りでは、こうした研究はまだ行われていないが、右の頭頂葉(角回がある場所)が損傷されると、(左側の損傷で計算力が損なわれるのと同じように)美術的な技能が大きく損なわれることがわかっている。
現在(2015/12)は、検証されているのだろうか。仮に否定されていたとしても、こういう検証可能な仮説を提起する能力は重要だ。他人の「議論」「提案」「仮説」「作品」等を紹介・批判するだけでなく、自らの「議論」「提案」「仮説」「作品」等を産み出せるようになることが望ましい。
同様の理論を使って、正常な人たちのなかにときどき天才や並はずれた才能が出現するわけを説明することもできる。あるいは、そもそも進化の過程でそうした才能がどのようにして生じたのかという、厄介な疑問に答えることができる。おそらく脳の大きさがある臨界に達すると、予期しない新しい特性が、自然選択によってとくに選ばれたというのではなく、ただ出現するのだろう。
「自然選択」ではなく、「ただ出現する」。「自然選択」については、別途考えてみたい。ここでは、「ただ出現する」という言い方が面白いのでメモしておこう。
サヴァンに関する私の基本的な議論――特殊化した脳領域のあるものが他の領域を犠牲にして拡大しているのではないか――は、いずれ正しいか正しくないか判明するだろう。しかしもし本当だったとしても、留意してほしいのはピカソやアインシュタインのようになるサヴァンは一人もいないということだ。真の天才になるには、才能の孤島だけでなくほかの能力も必要なのだ。大半のサヴァンは真に創造的ではない。…欠けているように思えるのは、創造性という、言葉で表現できない資質、すなわち私たちを人間であるとはどういうことかの本質にむきあわせるものである。…猿にタイプライターを与えておけば、いずれはシェイクスピアの戯曲ができるという言い回しは有名だが、意味のあるセンテンスがたった一つ出てくるまでに寿命が10億年ほど必要になるだろう−ソネットだの戯曲は論外だ。
https://i.ytimg.com/vi/WLHfFaWzFqs/maxresdefault.jpg
ラマチャンドランは、サヴァンは創造的ではなく、天才になりえないという。天才には創造性が必要だ。猿は創造性を発揮することができるだろうか。
少し前、自分が創造性に関心を持っていることをある同僚に話したことがある。すると彼は、頭の中でアイデアをとことんまでいじり、ランダムな組み合わせをしているうちに、審美的に心地よいものにぶつかるのだという、言い古された議論を繰り返した。それで私は、それならいくつかの単語やアイデアを「いじりまわして」、「ばかばかしく過度な行為をする」あるいは「物事をやりすぎる」という状態を表わす、心に響くメタファーを一つつくってみてくれと挑発した。彼は一時間ほどたって、頭をかきながら、オリジナルなものは全く思いつかなかったと白状した(非常に高い言語IQを持っているにもかかわらずと付け加えておこう)。私は彼に、シェイクスピアは一つのセンテンスにそういうメタファーを五つも盛り込んでいると指摘した。
@純金に金箔をはり、Aユリの花に絵の具を塗り、Bスミレに香水をふりかけ、C氷をなめらかにし、D虹にもう一つ別の色をつけ加える……は無駄で、ばからしい、余分なことでありましょう。
ひどく簡単に聞こえる。しかしなぜシェイクスピアがこれを思いつき、他の人は誰も思いつかなかったのか。私たちはみな、同じ単語を思いのままに使える。伝えられている概念には複雑なところも深遠なところもない。それどころか一旦説明されると全く明白なことで、「なぜ自分は思いつかなかったんだろう」という反応を引きだす。これは独創的で見事な洞察の特徴である。しかしあなたや私が、心の中で言葉をかき集めたりでたらめに混ぜ合わせたりするだけで、同じくらいエレガントなメタファーを思いつくことは決してない。欠けているのは天才の創造の火花である。この特性は現代の私たちにも謎のまま残されているが、ウォレスにとってもそうだった。神の介入を引き合いに出さずにいられなかったのも無理はない。
今回で、第9章「神と大脳辺縁系」を終わるが、最後に、ラマチャンドランが本章冒頭に引用しているアインシュタインの言葉をあげておこう。
この宇宙信仰の感情を、それが全くない人に説明するのは非常に難しい…。あらゆる時代の宗教上の天才は、この教義を持たない宗教的感情によって特徴づけられる…。私の見解では、芸術や科学の最も重要な機能は、この感情を呼び覚まし、感受性のある人たちのなかで、それを生き続けさせることだ。
私には、この教義なき(神なき)宇宙宗教が、芸術や科学の駆動力たりうるのではないかと思われる。
世界(宇宙)は分からないから面白い。
http://shoyo3.hatenablog.com/entry/2015/12/25/200000
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/322.html#c28