1. 仁王像[1625] kG2JpJGc 2017年7月29日 13:41:51 : jb852A12Es : CKLAgeOqBgA[1]
(本文の続き)
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17. 仁王像 2011年10月18日 21:19:39: jdZgmZ21Prm8E : zqw7Lv8Ckk
06番では、自分は「原発に原理的に反対する立場」だと表明しているが、本人の表明どおりの客観的評価になるとは限らないことはこれまで見てきた通り。
ここでは別の角度から見てみる。
05番では、「原理的な話は別として」や「原理的な話はとりあえずおき、今回の福島第一の事故に限定すると、そう言えなくもないと…あくまでも今回の福島第一の事故に関する見方」などと言っている。
この”原理的な話を別とする”という前提が不可解だ。なぜ「原理的な話」を一旦棚上げににしなければならないのか。最も肝心なところであり、筆者の感覚ではその必然性はなにもない(事故を弄ぶのでない限り)。
文脈からすると福島第一原発は日本や他国の原発となにか質的に違いがあって(ことさらに脆弱など)、一般論としては論じられない。つまりこの事故をもって、原発一般の普遍的危険性を指摘はできない、と主張しているかのようだ。
言い換えれば、この事故を持って「原発を原理的に否定する」ことに議論が発展することに自らブレーキをかけてしまっている、と言えるのだ。
彼の言論では、氷山の一角を粉々に砕きながらも、「だから原発という危険な代物は原理的に否定されるべきものである」という趣旨を、とスカッと言い切っている部分は皆無である。
「煮え切れない」とはこのことである。彼の立場表明とは裏腹に、原理的に原発を否定しているのではない。そのことは華々しい外観の陰に隠れて見えなくなっている。
万人の認識は違う。今回の事故の中に、原発一般の持つ普遍的危険性が象徴的に顕現してきていると見ている。だからこそ、全世界の注目を一身に浴びているのだ。その並びで、本人も日本の他の原発を福島第一と区別・差別することなく廃炉に持っていくことには本気なのだと考える(その限りにおいてだが)。
彼のような方法論での原発批判は、酷のようだが(繰り返しにもなるが)オセロゲームで白黒逆転した抜け道ができ得るように脇を開けてあることになるのだ。
実は、”隠れ原発容認派”にはウケルのではないかと思う(隠れ核武装論者でも同様)。
それを鋭く見抜いている人が、01番に紹介した無名氏である。筆者はちょうど鬼塚氏の本を読了したところで、この寸鉄に刺されて、それまでモヤモヤしていた霧が急に晴れ上がった感があった(そして本稿をアップ)。
彼は今や反原発言論の旗色を鮮明に自覚すべき時期にきている。筆者のコトバでそれを表せば、彼は”条件付き”あるいは”隠れ”「原発容認派」である。(繰り返すが)さすれば核武装論者としての原理的整合性も一応満たしており、そのことによって責められることはない。
(補足)
一例を挙げる。2号機の事故拡大が人為ミスだとする彼の説を仮に認めたとする。だが、この後の議論の持って行き方が全く違う。
彼は優秀な運転員をそろえ、所長の的確な判断があれば、事故の拡大は防げたはずだと主張し、関係者の罪を問う。
筆者は、人為ミスは常に起こり得ることで、一つの人為ミスが大事故につながる危険性に満ち満ちている原発は原理的に廃止すべきと話を持ていく。どちらの主張が道理にかなってかつ実践的だろうか。
(通常、会社で仕事上のミスを犯した場合、それ相応の責任を問われるのは当然である。今回の大事故は、人為ミスをいちいちとがめ立てて終わる話ではないことも当然。)
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