34. 2017年1月07日 09:21:40 : 94c4hHtA72 : BH9ifRprsMk[1]
民進党、特に野田幹事長に関しては何も今更驚く事はないですね。
逆説的ですが、民進党の立ち位置はこれで良いと思います。こう書くと誤解を受けるかもしれませんが、別に民進党という政党そのものを肯定している訳ではありません。
言いたい事は、そろそろ民進党という政党への期待などいい加減手放すべきだという事。
この煮え切らない政党の態度に一喜一憂するのではなく、期待を手放して良い意味で利用する事を選択する事こそが良策と考える。
安倍自公政権の政治に嫌気がさしている多くの国民の思いは多分同じだと思います。
共産党は安倍自公政権の暴政を止める為、その長年の方針を大転換してまで野党共闘を唱え、小沢自由党も同じく共闘を主張して社民もそれに賛同している。それなのに野党第一党である民進党が何故、野党共闘に舵を切り、はっきりと態度で示さないのかと。
記事中ツイートの意見にもそれらの思いが垣間見えますが、この多くの国民の思いは少し安易な考えであると自分は思います。
何故ならその理由は、民進党という煮え切らない政党に対して国民はいい加減困っているのが現状ではあるが、かと言ってはっきりと態度を示し前面に出られたとしたら、実はそれはそれで同じ様に困った事になるのです。
要は、いても困るしいなくても困る政党ということであり、勿論、政党として解散すればそれほどすっきりする事もないが、かと言って政党が崩壊後、殆どの議員が権力側の自民党へ行かれてもそれはそれで困るのです。
まあ面倒な政党である事は間違いないが、では、どうすれば良いのか。
解決策は一つであり、それはこの政党を生かさず殺さず期待せず、我々国民が望む結果に役立つ様、彼等の自覚の有る無しに関わらず良い意味で利用する事。
その為には野党第一党だからと言ってこの政党に舵取り役を期待してはいけません。
仮に、民進党が野党共闘の舵取り役を宣言して、対自公を旗印にして、共産党、自由党、社民と完全なる連携を我々が先導して政権交代を果たすと宣言したらどうでしょう。
多くの国民はやっと煮え切らない民進党が本気になったと喜ぶかもしれません。
他野党も勿論、賛同する事でしょう。
しかし、この状況は賛同者を盛り上げる反面、一方では依然として根強く存在する民進党に対する拒否層の思惑も同じ様に表面上に浮かび上がらせる結果となるのです。
この状況は対自民の手を離れ、行く行くは民主党への賛否を焦点にして国民の間で意識が分裂する事に繋がります。
これでは本当の結束にはなりません。
勿論、政界野党が形式上一丸となるかも知れませんが、我々国民の側が一丸となれないと考えます。結果として浮遊票を取り込むまでには至らず大きなうねりにはなりません。
勿論、それでも野党の議席は増加するでしょう、しかし、それは先の参院選同様の部分的勝利であり、これでは政権の移行は起こり得ず、結果として我々国民の生活は変わりません。
何故ならば、国民の真意を汲み取るならば、今の安倍自公政権も嫌だけど、かと言って野田幹事長率いる現在の民進党も同じ様に嫌なのだというのが本当の気持ちなのです。
これは結局、消極的支持であり、その結果としての野党議席の微増は、それが国民の思いの反映だという事です。
その議席増の思いとは、どちらの政権も嫌だけど、幾ら何でも安倍自公政権は酷すぎる、それならば、民進党も嫌だけど、それでも一旦は現政権の横暴を止めなければいけないという思いを持つ層の意識の反映が現実化した結果だという事です。
先の参院選でも、民進党以外の野党共闘で勝利を得た新潟の例でも同じですが、公正な選挙であればある程度のうねりが起き、それは結果として不正の温情の防止にもなり、且つその市民の思いが結果として現実化している事は自明なのです。
ですので、我々国民が本当に願う思いを現実化する為には一体どうすれば良いのかと、本当の意味で考える必要性があるのです。
民進党という政党はいても困るしいなくても困るのです。結論を先に書くならば、巨大権力に打ち勝つ為には野党の共闘と市民が一丸とならなければならず、党名を変えようが新党だろうがこの図式そのものは変わらない。
要はイニシアチブの問題だけであり、最大のイニシアチブを有するのは当然ながら主権者である我々国民なのです。
そして、共産、自由、社民という市民目線の真っ当な主張を展開している政界内に存在する我々が頼らざるを得ない野党。彼等は政界勢力図の関係上どうしても民進党に対してお伺いを立てる立場に成らざるを得ません。
結局、この膠着状態を打破する方法は一つしかなく、それは我々国民が煮え切らない野党第一党の態度を座して待つのではなく、民進党以外の共自社の連携を強く後押しする事しかないのです。
これが先の参院選までの流れであり、ある程度の国民は実際にそうしているにも関わらず、何故か未だに民進党に対して共闘を求めてしまう。
これは微妙な言い回しの差かもしれないが、この微妙なニュアンスの違いは結果を大きく変える事になると考える。
先ず、民主党という政党に対してこちらから何かをお願いする必要性など全く皆無だという事。それと、彼等に対する期待感など完全に手放してしまうという事。
要は、民主党という政党に対して何かをお願いするのではなく、国民は下手な小細工や党利党略などは考えず、本当に支持したいと思える政党や政治家のみを強く後押しすれば良いだけの事なのです。
そして、その上で民主党から共闘を打診してくるのであれば、それはその時に必要性があれば受け入れれば良いのだし、必要性が無ければ拒否すれば良いだけの事なのです。
これは先ず民進党ありきの話ではなく、先ず我々国民ありきの話なのです。これがイニシアチブを握るという事であり、主導権の所在によって同じ事象でもその結果は大きく変わってくるのです。つまり、民進党が我々に結果としてお願いする事になる様に態度で強く示唆すれば良いという事。
更に一歩先の結論をいうならば、それらの事を前提として踏まえ、今迄通り共産党の志位委員長と自由党との共闘を肯定し続け、更に、先の参院選との違いを明確に打ち出す為に、その旗振り役として敢えて自由党の小沢一郎にその大役をやってもらおうと国民が選択する事です。
その意思表明こそが、民進党への期待を手放す事に繋がり、自民党も民進党も嫌だという思いを持つ浮遊層を動かす期待感へと繋がる事になるのです。
この期待感とは具体的である必要性などなく、抽象的で良いのです。
つまり、"何かが変わるかもしれない"。
これこそが期待感というものです。
人は分からない事にこそ期待を抱くものであり、結末が民進党と分かった時点でその期待感が大きく膨らむ事は有り得ません。
よくは分からないけれど、自分が票を投ずればもしかしたら何かが変わるかもしれないという期待感、それが積極的支持となり、積極的支持だからこそ政権が移行する可能性が格段と高まるのです。そして、その相乗効果が実際の政権交代へと繋がるのです。
要は小沢一郎を利用するしか道はなく、かと言って別に小沢一郎がどうこうという訳でも無いのです。
よく分からない、訳が分からないからこそ良いのです。人は答えが分かっている事に期待はしませんし、先の展望が自公政権の存続や、政権交代後の展望が野田幹事長率いる民進党と分かったら一体誰がそんな政治に期待を持てるのでしょうか。
小沢一郎という政治家を我々国民が選択する事で期待する効果は浮遊層を如何に動かすかという事、更には如何にして市民が一丸となれるかという事。この二点が肝心であり、小沢一郎は国民に嫌われているという真実とはかけ離れたマスコミ洗脳による誤解。
これは簡単に解けるのです。逆に民進党への拒否反応は真実と合致している為、この真実は誤解を含まない為、これは解けません。
それは感情的にも感覚的にも無理な話であり、人は直感的に本当の事を見抜きます。
要は、自民党を倒す為に、その代替えが民進党ではないという意識が大事であり、これがなければ野党と市民は完全に一丸にはなれないのです。
簡単なのですけどね。
安倍は否だけど、野田も嫌だ。
じゃあ好きだの嫌いだのを乗り越えて単純に小沢一郎を選択すれば良いだけなのですからこれ程簡単な事はありません。
いや、自分は志位委員長が好きだから志位委員長で行こうとなる事も選択肢としては存在しますが、それはそれで無理なのです。
理由は共産党だから。勿論、これは共産党や志位委員長の責任ではありません。しかし、共産党という理由から現実としてそれは短期的には無理なのです。前段階の野党共闘の時点でその思いは潰えます。
安倍、野田、小沢、志位。
結局、小沢一郎しかしいないのですよね。
ただ、小沢よりは、安倍や野田の方がマシと国民が選択するならば、それはそれとなり、望む結果通りになるでしょう。
でもその望む結果とは、実は結局、本当に本心から望む結果ではないのですけどね。
国民はこの堂々巡りから自立して答えを出すしかないのです。頭を選択すれば、尾ひれは後から付いて来ますので、最終的には一つの選択が望む結果に繋がる事になるでしょう。
安倍政権や民進党に対するストレスをどう解決するかを考えれば自ずと答えは出ているのです。全てを否定して望む結果を勝ち取る事は現実として不可能なのですから、何処かの時点で国民は選択をしなければなりません。
しかし、その選択すら出来ない様であるならば、その国の政治は政治家任せとなり、その選択自体もそれはそれで一つの選択であひ、その選択の結末が現在の政治状況を生み出しているのです。
これ本当の民主主義ではありませんので、今はそれが現実化しているだけ。
そして、その現実を本当に変えたいならば、民進党が変わる事を期待するのではなく、我々国民が変わる事。どう変われば良いのかといえば、それは極々単純に一つの選択を決断するだけ。
安倍も野田も嫌なのですから、普通に誰がいいのかを選択して、それをはっきりと政治家達に意思表明すれ座してば良いのです。
当たり前の話ですが、この程度の選択すら出来ない様ではそもそも民主主義など土台無理な話なのです。