2. 2017年1月26日 21:55:16 : oPRkX7C30Y : AuFEIo3CFYU[1]
仁義なき戦い (第1作)
1973年。監督 深作欣二。脚本 笠原和夫。出演 菅原文太、松方弘樹、梅宮辰夫。
坂井(松方弘樹)
「昌三、わしら、どこで道、間違えたんかの。
夜中に酒呑んでると、
つくづく極道がイヤになっての、足を洗うちゃる思うんじゃ。
朝起きて、若いもんに囲まれていると、
夜中のことは、ころっと忘れてしまう・・」
広能(菅原文太)
「・・・最後じゃけん、云うとったるがよ、狙われるもんより、
狙うもんの方が強いんじゃ、そがな考えしとったら、スキができるど」
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『仁義なき戦い』は戦後青春映画の最高傑作と言えるだろう。
この映画に喝采を送った全学共闘会議の若者たちは監督深作欣二と脚本家笠原和夫が天皇制への徹底した批判を込めて撮り上げたことを知悉していた。
ヒロシマの路上を血に染めて次々に特攻していく若者たちを尻目に卑怯で醜悪な君臨を続ける山守組親分(金子信雄)が靖国天皇制のcaricatureizeであるのは自明であった。
深作欣二は「仁義なき戦い」の直前1972年3月に結城昌治原作の直木賞作品「軍旗はためく下に」を笠原和夫は「仁義なき戦い」の直後1974年に「あゝ決戦航空隊」(監督は山下耕作)を作っている。
二人がともに「仁義なき戦い」シリーズと前後して天皇制靖国軍事利権に迫る映画を撮り上げているのである。
日本映画史上に残る『仁義なき戦い』の戦慄のラストシーン、山守組若衆坂井哲也(松方弘樹)の葬儀の場で文太はピストルを乱射する。
「山守さん、弾はまだ残っとるがよう…」
弾が、「タマ(玉=ギョク)」であることはヒロシマやオキナワの県民なら誰でも知っている。
11月1日(土)15時、沖縄県那覇市にある沖縄セルラースタジアム那覇で「オナガ雄志 うまんちゅ 1万人大集会」が開催され駆けつけた1万3千人余を前に菅原文太の訥弁が会場を揺さぶった。
「本土の政府と仲井真知事は、まさに戦争が起きること、戦争をすることを前提に沖縄を考えていた」「(ナカイマ知事は)今、最も危険な(安倍)政権と手を結んだ。沖縄の人々を裏切り、公約を反故にして、辺野古を売り渡した。」
合掌、享年81。