1. 2017年1月11日 15:47:11 : aSOESo9qRg : A47Brcp_ZBY[1]
AKB48 在日が整形して創価!疑惑をまとめ。
https://matome.naver.jp/odai/2135504315635379101/2135562176693173603
http://www.asyura2.com/07/bd51/msg/635.html#c1
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AKB48 在日が整形して創価!疑惑をまとめ。
https://matome.naver.jp/odai/2135504315635379101/2135562176693173603
http://www.asyura2.com/07/bd51/msg/635.html#c1
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匿名党ブログとてんこもり野郎ヲチスレ(アメブロ版)
【うんこ通信】 お茶屋の植民地のクズ共はとっとと土下座と賠償しろ 【支那地区通信】
2017-01-11 07:00:00NEW !
テーマ:ブログ
http://ameblo.jp/tenkomoriwotisure/entry-12236974541.html
信頼関係ないと再開困難=日韓通貨協定交渉―麻生財務相
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170110-00000051-jij-pol
(以下略)
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Yahoo!知恵袋
韓国には「約束」という言葉が無くて、日帝時代に「ヤクソク」がそのまま外来語になっ...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1396573008?__ysp=57SE5p2f44Go44GE44GG6KiA6JGJ44Gv5pel5pys44GM6Z%2BT5Zu944Gr6b2O44GX44Gf全文
cr_great_sea_storさん
2012/11/123:49:51
.
●韓国には「約束」という言葉が無くて、日帝時代に「ヤクソク」がそのまま外来語になったって本当ですか?
ベストアンサーに選ばれた回答
vlissingen79さん
.
2012/11/214:18:42
.
●韓国語の漢字語のおよそ80%は日本人が作った漢字語です。中国で使用されている近代の学問用語に使用されている漢字語の多くが日本人が作ったもので、中国には日本で作られた漢字語の辞書がちゃんとあるぐらいです。●「約束」という漢字語は中国語にもありますが、日本語とは意味が違います。韓国語の yaksok はおそらく日本統治時代に日本語からきたものと思われます。
●韓国語の中には無数の日本語と日本式漢字語が使用されており、それで韓国・朝鮮の人達が「気分が悪い」という理由で漢字の使用を廃止して、ハングルのみで表記するようになったのです。そうすればたとえ単語の起源が日本語であってもハングル表記しておけば日本語だとは気づかないで使用できるからです。朝鮮半島の若い世代の人達は日本語だと知らないまま使っている言葉が学術用語にはたくさんあるのです。●それらを仮に全部排除したら、学術表現ができなくなってしまいます。
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月見櫓
日韓翻訳チャットを通して見る韓国
「約束」の意味
2006/02/10(金) 17:25:50
http://fetia.blog34.fc2.com/blog-entry-160.html途中まで引用
韓国人が約束を守らないというのは、大は国家間契約から小は個人同士の口約束に至るまで、あまねく広く知れ渡っています。
某巨大掲示板某ハングル板某「韓国人と仕事をして困ったこと」スレッドによると、どうやら彼らは「契約」という行為を日本人やその他の先進国の人々とは違う概念で把握しているらしいということです。
普通は「契約」というと、一定の決めごとに対して、互いにそれに合意しそれを遵守するという取り決めを交わすことです。しかし、韓国人の場合は「契約」によって相手と話し合いをする関係が成立したと考えるそうです。ですから韓国人は「契約」成立後に、平気でその契約内容の変更を申し出てくるそうです。
契約相手がそれを咎めると、韓国人は烈火の如く怒り出します。特に相手が日本人の場合は「日本人は情が無い」、「そもそもウリが文化を伝えてやった恩も忘れて」、「ウリナラを侵略したくせに」などという契約とはまったく無関係な罵詈雑言を口走りながら火病発作を起こすのは珍しくないそうです。
と、ここまではいわゆる伝聞であり噂であり憶測でした。韓国人の嘘吐き癖には何度も遭遇していますが、それは単なる韓国人というか朝鮮人の民族的性格だと思っていました。
で、昨晩のことです。
日韓チャットで韓国人が言いました。
韓 「日本人は約束をよく守らないのか?」
韓 「一度吐き出した言葉は最後まで守ってくれたらと思うのに」
2006/02/10-20:33 | URL | 盆櫂累殃烟 #-[ Edit]
>韓国人は「契約」成立後に、平気でその契約内容の変更を申し出てくるそうです
私の経験だと、ちょっと違いますね。
●契約成立後に勝手に契約違反しますよ。
●わざわざ変更を申し出たりはしませんよ。
2006/02/10-22:31 | URL | lolo #v98kTShk[ Edit]
約束=公認?
「契約」した=公認に「ウリの仲間」として認めた(認められた、じゃない)と考えているのでしょうか。
約束や契約が理解できないのであれば、例の「悪魔の契約」も朝鮮人には通じずさすがの悪魔もさじを投げるのでは。だとしたら悪魔よりも強し!恐るべし、朝鮮人・・・・なのか??
2006/02/10-23:20 | URL | あら座 #EBUSheBA[ Edit]
支払いが悪い
●私は契約後にさんざん値切られて、納品後にまた値切られました。
すぐ支払うことを条件にまけてあげたのに支払いは約束の日の3週間後!
もう付き合いたくないです。
2006/02/11-00:41 | URL | へろ #ZHXChuV6[ Edit]
なるほど…
だから、条約を平気で破ったりできるんですね!
●…約束を守る意識がないならば国際舞台にでてこないでほしい…
2006/02/11-02:34 | URL | グリル #-[ Edit]
根は同じ?
●韓国の某女優が、日本のバラエティ番組の出演をドタキャンした。
その女優は日韓親善大使でありながら、その仕事をやらない。
●韓国のある映画撮影チームが高知市でロケをやったが
数千万円の費用を払わない。
これらすべて、今日のテーマと根は同じなのでしょうか?
●あちらの政府は国民にどういう教育をしているのでしょうか?
全く以って不思議な人たちです。
2006/02/11-02:39 | URL | `123 #-[ Edit]
>ケツ様
韓国人は「約束」の意味を知らないのか、それとも韓国では「約束」の意味が異なるの
か。いつかこれを探ってみます。
2006/02/11-15:36 | URL | fetia(管理人) #-[ Edit]
>へろ様
コメントありがとうございます。
大変なご経験をされたようで、誠にご愁傷様です。
韓国人はそういう取引を重ねて、やがて相手にしてくれる企業がなくなると会社を潰
して新たに別の会社を立ち上げ、また同じことを繰り返すとか聞きます。
●韓国人に「契約に基づいた取引」を期待する方が間違ってるのかも知れません。
2006/02/11-15:37 | URL | fetia(管理人) #-[ Edit]
>グリル様
●約束を守る意識と言うか、約束そのものに対する意識が無いんですよね。
だから約束を破るという意識もなく、約束を破ります。自分の利益のために約束を破る
わけですが、それによってもし自分が損害を被れば、悪いのは自分に約束を破らせた
相手です。
2006/02/11-15:38 | URL | fetia(管理人) #-[ Edit]
>`123様
確か、韓国での教育に「他人に迷惑をかけない」「嘘をつかない」「約束を守る」というの
は無かったと思います。
●あるのは「他人を押しのけてでも自分が一番になれ」「嘘も百回つけば真実」「泣く子は
餅を余分にもらえる」という教育方針です。
2006/02/15-04:33 | URL | fetia(管理人) #-[ Edit]
なるほど、これは初耳だった。
交流とか、話し合える関係レベルとか、そういう感覚なのか。
●「契約」は「コネ(コネクション)」のことと考えているかもしれませんね。
2007/01/08-06:10 | URL | 名無櫓 #mQop/nM.[ Edit]
韓国語の約束は、ヤクソクです。
●これは日本から伝わった証拠w
2007/01/13-00:06 | URL | いとのこ #xsUmrm7U[ Edit]
朝鮮語の「契約」も「約束」も日本語がもとですよ。
●つまり、朝鮮固有語に「契約」や「約束」に該当する言葉&概念が無かった
わけですな。
●で、言葉は伝わっても意味や考えまでは伝わらなかったようだと…。
2007/01/15-01:16 | URL | 通りすがりのコリアンウォッチャー #UoDp4.cE[ Edit]
せっかくだから、(生の韓国人に)聞いてみた。
僕「韓国語にヤクソクとケイヤクという言葉はありますか?」
韓「ないです」
僕「・・・。」
僕の発音が悪かったのでしょうか・・・。それとも、聞いたことがない単語だったのでしょうか?(社会人なのに?)
ちなみに、聞いたのは半年くらい前です。
2007/08/31-16:07 | URL | きききっき #-[ Edit]
●中国人も同じようなところがあるが、朝鮮人には「対等な関係」が理解できない。
常に上か下しかないのよ。序列大好き。だから約束(双方が縛られる)が理解できない。
●中華思想の悪しき弊害ね。(朝鮮は小中華かな)
●逆に言えば、「約束を守った」ということは「奴隷になった」と感じる。
相手より下になったということを意味するのね。少なくとも感覚面では。
だから政府が「自分より下位の国と感じる」相手と約束を守ったりすると、
国民は反発してしまうのね。
2011/09/30-15:50 | URL | 通りすがりの名無しさん #aIcUnOeo[ Edit]
これは・・・・・・・凄い発見ですねw
この話はもっと広めるべきです
契約、約束以外にも尊守とか信頼とか意味が違ってたりするのかも知れませんね
2012/06/24-08:20 | URL | 名無櫓 #rYbAsGyE[ Edit]
>でも、だからと言って韓国人は約束を守らない民族だと結論付けるのは、大きな間違いだと存じます。
●実際、日韓基本条約という国際法に則った「約束」を反故して、謝罪と賠償を求め続けている事実があるだろう。
●そういった泣き言はもう言わないって「約束」したんだけど、破りまくりだろ?
>日本では、言葉を口に出せたら約束になるのでしょうか?
日本や欧米には、一度口にしたことは守る、という慣習があります。
日本には「男に二言はない」「口は災いの元」「沈黙は金」といった言葉からわかるように、自らの言葉に責任を持つ民族です。
2012/09/24-07:55 | URL | 創造力有る名無しさん #-[ Edit]
この頃、世界中に嘘を撒き散らす韓国人をなんとか阻止出来ないでしょうか?
● 先日、NHKの会長が久しぶりにまともの事を言ったと思ったら、日本中のマスコミが全て反論してNHKの会長が謝罪会見、情けない限りです。韓国、中国に対して批判めいた事をなぜ普通に言う事が出来ないのでしょうか?朝鮮日本新聞は仕方が無いとしてその他の新聞も、朝日に右ナラエなのか、全く理解不能です。
この自体をなんとか打破出来ないのでしょうか?古希を過ぎた老人にはどうする事も出来ません、誰か指導者が出てくる事を切に望みます。
え?有田芳生「警視庁は韓国人が侮辱されても取り締まらない、韓国人を侮辱したら私が告訴する」2ch
http://www.asyura2.com/13/senkyo148/msg/216.html
投稿者 木卯正一 日時 2013 年 5 月 23 日 22:38:12: xdAt6v.ugMgqA
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私的憂国の書
千葉麗子氏のサイン会を妨害する者たちと火病朝鮮人の類似性
http://yukokulog.blog129.fc2.com/抜粋
(前略)
・・常識とは、「健全な一般人が共通に持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別」というが、この結果が常識的だという「有田の常識」とはいったい何なのか。有田の政治活動を観察すると、一見、彼はヘイト根絶を目指しているかのように映る。ヘイトがなぜ悪いかというと、彼は「差別」だというが、差別される側が逆転すると、彼は沈黙する。今回の場合、言論の自由を圧殺することそのものがヘイトであって、差別を受けたのは千葉氏だ。
● 「差別をするな、ヘイトは許さん」という有田その人が、実は差別主義者であり、ヘイトスピーカーなのだ。国会議員が言論の自由を奪ったことを「賢明」「常識的」という異常な状況だ。
● ひとつ言えるのは、有田のような差別主義者と、いま、慰安婦に関する日韓合意について騒いでいる南朝鮮人たちとの類似性だ。彼等は日本を絶対悪と規定し、いわゆる慰安婦の証言なるものを鵜吞みにし、彼等に反対する者の意見を聞く耳を持たない。慰安婦は神話であり、悪いのはすべて日本なのだ。有田も同様で、彼等が被差別者と規定するなかから、保守系の人や言論は都合よく除外するのだ。
● 真の差別主義者は有田芳生である。
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(関連記事)
私的憂国の書
有田芳生という差別主義者
http://yukokulog.blog129.fc2.com/blog-asyuracom-2272.html
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日々佳良好
ヨシフ有田スターリン
>
http://katintokei.at.webry.info/201307/article_3.html抜粋
私は最初「有田芳生」を「ありたほうせい」と読んでいた。
「芳生」を「よしふ」と読むことが判ってからも、「よしふ」なんて読みにくい、「ほうせい」でいいや、くらいに軽く思って思っていた。
ところが「よしふ」には大きな意味があったのだ。
たまたま「マルクス・レーニン主義」をググって見ていたら当然のごとく「スターリン」が次に出てくる。
「スターリン」もついでに見たら「ヨシフ・スターリン」と出てくる。
有田と同じ「ヨシフ」?
● 珍しい名前だから何かあるのかなーと調べたら芳生の両親は共に共産党員で「ヨシフ・スターリン」から「芳生」を採ったと言うではないか。
● 両親はよほどスターリンを信奉していたんだな。
そんなんでいろいろ見ていたらついにこんな画像も出てきた。
日本人への批判は奨励するが、
朝鮮人への批判は差別であり罪になります
売国議員 ヨシフ・スターリン
●スターリンなど人間不信の狂った独裁者じゃないか。
こんな狂人を崇拝する親の顔が見たい。
この親ありてこの子ありと言うが、その片鱗が「有田芳生」にも見える。
相変わらずツイターでこんなことを呼びかけていました。
有田芳生@aritayoshifu
レイシスト(人種差別主義者)たちを非暴力で包囲する6・30大久保行動に参加しましょう。ひとりからーー「奴らを通すな!」。
●有田は言論の自由を実力阻止しようと呼びかけているわけですね。
国会議員を傘に着たなんという暴挙でしょう。
そしてこのデモにのこのこ出てきました。
●そして機動隊がならず者のしばき隊を排除しようとしたら有田が機動隊に文句を言ったようです。
しかし、逆に有田が機動隊に取り囲まれたそうです。
● 機動隊はどっちが正しいかちゃんと見ているんですね。
(画像)
今回のデモを取り仕切った瀬戸さんいわく。
● 「警視庁の我々のデモへの厳重なる警備体制が敷かれなければ、我々が公園に辿り着くことも、解散地点から駅まで戻ることも困難であったと思います。」
● 「警視庁・機動隊の皆様、新宿警察署並びに警視庁の警備・公安の皆様にも御礼を申し上げます。」
ここまでしばき隊は凶暴になっているようです。
● それに加担する有田はどうみても日本人じゃないな。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
東アジア黙示録
平壌に消えた有田芳生…北工作員の骨壺ビジネス
>
http://dogma.at.webry.info/201305/article_1.html抜粋
(略)
●国会議員と国家公務員はイコールではない。しかし、有田芳生が所属する民主党は、2年前に衛藤征士郎らの訪朝計画が表面化した際、こう批判していた。
●「国会議員の訪朝は対北制裁措置を無視する行為であり、国民に対する背信と断ぜざるを得ない」
● 「拉致被害者ご家族の心情からも、またこの問題解決のために辛抱強く北朝鮮と交渉してきた日本政府、国会、この問題に関与してきた全ての人々の努力を無にする行為である」
●なかなか痛烈だ。そして、この党見解を有田芳生にそのまま送ろう。
(略)
ーーーーーーーーーーー
不思議館〜大飢饉と大殺戮の恐怖〜
スターリン血の粛正
〜20世紀最大の殺戮者と言われた独裁者の狂気と悪夢〜
http://www.cosmos.zaq.jp/t_rex/works/works_8_f.html全文
20世紀は、戦争と革命の世紀だと言われている。国家の利害関係とイデオロギーが激しく火花を散らせてぶつかり合った世紀であった。事実、世界の各地で数えきれない革命や戦争が起き、多くの人間が犠牲となった。世界の半分以上を巻き込んだ二つの世界大戦は、何千万という人間の屍の山をいくつも築き上げ、計り知れない悲劇を生んだ。
同時に、20世紀は、悪名高き独裁者が数多くあらわれた時代でもあった。しかし、ここに、異常なまでの人間不信と権力への飽くなき欲望を持ち、殺戮に明け暮れた独裁者がいた。彼の狡猾で冷酷非情な性格は、その後の世界史の行方を大きく左右し、その影響は今日も続いている。彼、スターリンこそは、ヒトラー以上の狂気を持ち、ヒトラーの悪業と比べても何ら見劣りしないばかりか、その殺戮した人間の数ではヒトラーをはるかに上回るのである。彼こそは、20世紀最大の狂気の殺戮者と言っていいだろう。
* 貧しい少年時代 *
ヨシフ・スターリン・・・彼の本名はヨシフ・ジュガシビリと言い、スターリンという名は、党の機関誌「プラウダ」の編集長をしていた時に考えたペンネームである。スターリンとは、鋼鉄の人という意味があり、考案者はレーニンだと言われる。ジュガシビリは、1879年12月21日、グルジア地方の貧しい靴直し職人の子供として生まれた。グルジアは、コーカサス南麓と黒海に挟まれた地域で、気候が温暖ながらも変化に富んだ地形は、現在でも風光明媚な名所として知られている。
彼が生まれた家は、大変、狭く台所と小さな部屋が一つしかなかった。しかし、みすぼらしい窓から見える景色は絶景だった。
コーカサスの雄大な景色が一望出来たのである。その上、春になれば、ラベンダーが山肌一面に咲き乱れ、印象派の絵画を見るようだった。そうした、美しい自然環境のもとで、彼は、三番目の男の子として出生した。
上の二人の兄は、誕生して半年ほどで死んでしまっていた。それだけに、ジュガシビリが誕生した時は、母親は、特別な思いを持って育てられた。
(写真) グルジア地方の夏の景色(古い絵はがき)
しかし、母親の期待に反して、彼は病気ばかりする虚弱児であった。しかも、彼は不具であった。少年時代に発病した天然痘により、左足の二つの指はくっついたままで、左腕もほとんど動かすことさえ出来ず、まるで義手をつけているようだった。顔にも無数の瘢痕があり、風采の上がらない小男であったという。
母親は、将来、我が子を神学校に入れて神父にさせたかったが、十代後半から社会主義運動に異常な興味を持ったジュガシビリは、母親の期待に反して、革命家の道を歩み出してしまった。そして、様々な活動に参加しては、逮捕、流刑を何度も繰り返すことになる。
やがて、神学校から見切りをつけられたジュガシビリは、退学処分とされてしまった。しかし、彼に取っては、その方が、むしろ、せいせいしたようで、もうその頃には、弱冠22才でありながら、彼は党の指導者的存在にまでなっていた。
(写真)20才頃のスターリン
* 凶悪な独裁者の本性をむき出しに *
この頃、スターリンは初めてレーニンと会った。この時レーニンは30代半ば、彼は、一目見て若く精力的なスターリンを気に入り、革命運動の戦略家としての素質を見抜いていたという。その後、彼はレーニンらと強い結束のもと、ますます、革命推進の中心的メンバーとなっていくのである。
1905年のロシア情勢は、余談の許さぬ状態だった。前年には、日露戦争が勃発し、一年半に渡る戦いの末、ロシアは疲弊してしまい、国内には不満が爆発、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの反乱を引き起した。ロマノフ王朝の権威は地に堕ち、ついに第一次大戦の最中、ロシア革命を誘発するのである。
(写真)レーニンとスターリン(1913年頃)
その結果、ロマノフ王朝ニコライ2世は退位し、代わって、ボルシェビキ(ソ連共産党の前身)による新政府が樹立した。
1924年、レーニンが脳梗塞で再起不能の状態になると、スターリンは、レーニンの後継者として名乗りを上げ、ついに、党の実権を把握し事実上の最高指導者の地位に躍り出ることになる。
血の日曜日事件、平和とパンを求めて、首都ペテログラード(後のレニングラード)の宮殿に押し掛けた民衆は、軍隊の発砲で多数の死者を出す流血事件に発展した。
しかし、時が経つにつれて、彼は、急速に凶悪な独裁者の本性をさらけ出し始めた。対立者を巧妙で悪徳の限りを尽くした手段で倒していくのである。
まず、最大のライバル、革命の功労者だったトロツキーを国外追放し、カーメネフ、ジノビエフなど自分と意見主張を異にする政敵たちを、除名処分にして党から追い出したのである。それが済むと、スターリンは、ゲ・ペ・ウと呼ばれる秘密警察を設立した。ボルシェビキ的規律と秩序を確立するのがその目的だったが、その実態は、権力を思いのままに操るために、彼の意にそぐわない人物を手足となって粛正してゆく組織だった。まもなく、独裁体制樹立と同時に、恐怖の鎌首をもたげ、計り知れない恐怖の原動力となって活動を開始するのだ。
1929年、スターリンは、第一次五カ年計画の発動を命じた。農業国ロシアを工業国に変えるのがその目的であった。その要となる政策は、農民の強制集団化であった。すべての農民をコルホーズと呼ばれる集団農場に一括してまとめ、そこで収穫される穀物を国家がすべて徴発しようというのである。そこでは、農機具は共同で用いられ、一切の私有は禁じられるのである。こうした彼の強引なやり方は、これまで、着々と富と財を蓄えていたクラークと呼ばれた富農層から猛烈な反発を食った。彼らにしてみれば、これまでの財産をすべて失い、以後も財を貯めることも許されないからだ。
しかし、スターリンは農業集団化に従わない農民には、情け容赦のない弾圧を加えた。29年だけでも、1千万近い農民が、処刑されたり、シベリアなどに送られている。ある農民などは、見せしめのため、広場で自らの墓穴を掘らされた上、銃殺されたのである。しかし、これは、まだ序曲であった。血の粛清は、ますます本格化し、やがて凄惨なクライマックスに向かってゆくのである。まもなく、農民だけでなく、民族主義者、知識人など彼の体制に批判的な人間も、すべて、その対象になっていった。彼らは、「人民の敵」と名指しされ裁判にかけられた。否、それは、裁判とは名ばかりの大量処刑であった。容疑がかけられると、陰惨な拷問や薬によって強制的に自白させられ、即刻、銃殺刑かシベリアの強制収容所に送られるのである。時間のムダを省くために、トロイカ(三頭だての馬車を意味する)と呼ばれる機関が暗躍することになった。それは被告も原告もいなくても、その場で判決が下せると言う簡易型の移動式裁判であった。多くの者は、一方的に死刑判決を言い渡されると、その場で、それこそ、10分以内に処刑されてしまった。全く信じられないほどの素早さであったという。
「我々は、国家の福祉増進という高潔な目的のために、日夜努力せねばならない。国内の工業化を実現するためには、ある種の犠牲も覚悟せねばならず、国民は耐久生活に耐えねばならない」無論、これは体裁のよいスターリンの言葉である。しかし、その表向きと違って現実は、想像を絶っするほどひどく惨いものだった。
日々の配給は、わずかパン数十グラム程度。これでは、大人一人生きていくことは、到底不可能だった。人々は餓死から逃れるためには、ありとあらゆる努力をしなければならなかった。路上には、パンを求める孤児の群れが溢れ返った。あるウクライナから帰って来た学生は、身の毛もよだつ話をした。彼らによると、飢饉のために、食べるものがなくなった地方では、人肉を食べていると言うのである。餓死したと思われた死体は、細かく切って解体され、商品のように売りさばける準備がなされていたということであった。当然、この二人は秘密警察に逮捕され、拷問の上、銃殺に処せられたのは言うまでもない。スターリンは自らの考えをイメージダウンさせるものは、事実であろうが、すべて隠蔽し、片っ端から闇に葬っていたのだ。
* スターリンの私生活 *
スターリンの女性関係は、かなり派手であったことが知られている。3度、結婚したが、その他にも、愛人、情婦など数えきれないほどいて、浮気は絶えることがなかったという。一度目の妻は、逃亡生活の隠れ家で知り合ったケケという女性だった。しかし、逃亡生活の無理がたたったのか、彼女は結核にかかり死んでしまった。
二度目の結婚は、彼が40才の時で、相手は彼より22才も若いナジェージダという女性だった。しかし、結婚して14年後、彼女は、革命15周年記念の晩餐会の夜、謎の死を遂げてしまう。
晩餐会が終わって二人の言い争う声を聞いたという証言もあるが、真相はわからない。死因にしても、夫スターリンに対する抗議の自殺だの、逆に、怒りを買ったスターリンに毒殺されただの言われるが、今となっては永遠に謎のままであろう。
(写真) 結婚したての頃、ナジェージダと(1920年頃)
三度目の妻はローザという女性で、スターリンよりも10センチほど背も高く、大変、利口で陽気な女性だった。彼女は、二番目の妻ナジェージダとの間に出来た二人の子供にも愛情を注ぎ、いつも優しく誠実だった。しかし、スターリンは、何が気に食わないのかローザとも離婚してしまった。その後、ドイツとの戦争中にもかかわらず、女優、バレーの踊り子、オペラ歌手、クレムリンのタイピストたちを次々と別荘に招いては、深夜の響宴に明け暮れる始末だった。
私生活でも、彼は、大変な独裁者で、冷酷非情な面を、度々、見せている。彼は、美食家で、国民が飢餓に苦しんでいようとも、毎日、たらふく食べねば気がすまなかった。料理が気に入らないと言って、皿ごと床にぶちまけたこともあった。また、妻の寝室に情婦を連れ込んで来ることもあったし、酔うと粗暴な振る舞いが多かったという。愛人の浮気の現場を押さえた時など、ものすごい癇癪を起こして、何度も殴りつけた上、二人の髪の毛をわし掴みにして、裸のまま部屋から引きずり出し、監獄にぶちこんでやるとののしった。二人は、即刻、連行され、裏切り者として銃殺されてしまったという。また、スターリンは、女性の嫉妬という感情には耐えられない面があった。例え、献身的に尽くそうが、嫉妬ゆえに彼に疎ましく思われ、闇に葬られて消息を絶った女性はあまりにも多い。
スターリンは、恐ろしいほどの強靭な記憶力の持ち主だった。彼の頭の中では、日々の細々した私的な事柄から、党や軍内部のあらゆることまでが最大漏らさず記憶し尽くされていたのだ。例えば、どこそこの将軍が、どこの生まれでどういう性格と遍歴を持ち、どういった成果をおさめたか? あるいは、ヘマをしでかしたかということなどがビッシリと整理されていたのである。また、霊感力もするどく、軍事や外交面では、機が熟したと見るや、すばやく行動を起こした。それはいつも抜け目なく、まるで、鳶が油揚げをかっさらうようなすばやさであった。
* 領土拡張に異常な野心を燃やす *
第二次大戦戦争が始まり、ドイツ軍がポーランドを屈服させた時も、スターリンは、東からポーランドに侵入し、労せずしてこの国の半分を占領した。スターリンとヒトラーとの間には、秘密裏に血も凍るような悪魔の取引がなされていたのである。
この時、連合国は我が身可愛さから、ポーランドが東西の独裁者によって、なぶり殺されていくのを手をこまねいていただけだった。どの国も自国の利益のみを考えていたのだ。
(写真) 首都ワルシャワに入城するドイツ軍、1939年
フランスは、マジノ要塞に閉じこもり、イギリスなどは何もしなかった。そして、ポーランドがヒトラーとスターリンに食い尽くされてゆくのをただ見守っていたのであった。しかも、狡猾なるスターリンは、世界中がヒトラーのこの派手なパフォーマンスに気を取られている隙に、どさくさに紛れてバルト3国を武力で併合してしまったのである。第二次大戦の終戦直前には、日ソ中立条約を破って、怒濤のように満州に南下、息も絶え絶えとなった日本から、強引に北方領土を奪い取ることもした。
このように、領土拡張の野望を夢見るスターリンにとって、国際法を踏みにじることなど朝飯前のことだった。彼は、室内に大きな世界地図を飾っていて、領土が新しく増えていく度に、色を塗っていくのが何よりの楽しみであったという。そして、地図を見ながら、今度はここをやる、ここが欲しい、これは気に食わぬなどと言って党の幹部たちの前でよくつぶやいていたらしい。
* 人間性を無視した政策 *
スターリンは、地上最高の権力者になることに、この上ないあこがれを抱いていた。そして、何か、ピラミッドのような巨大なモニュメントを後世に残すことが夢だった。彼は、中世ロシアの暴君イワン雷帝をこよなく愛し、自らをそのイメージにダブらせるのが好きだったようだ。確かに、彼の政権下で、何十万という人間が、殴られたり蹴られたりして強制労働に従事する様は、陰惨な中世ロシアの時代を彷彿とさせるものがあった。
スターリンは矯正労働収容所と称して、シベリアなど、ロシア北西部に数えきれない収容所をつくっていた。その数、百カ所以上・・・彼は、囚人を矯正し魂を鍛え直す労働だと言い張っていたが、その実態は、恐怖の強制労働に他ならなかった。スターリンは、国家の工業化のために、大量のただ働きの奴隷労働者が欲しかっただけなのである。
スターリンにとって、囚人はいくらでも代替のきく安価な消耗品でしかなかった。賃金など払う必要もなく、かろうじて生きられるだけの食料を与えておけばよかったのだ。過酷な重労働で囚人が、どれだけ凍死しようが餓死しようが、お構いなしなのであった。こうした国家建設のプロジェクトの担い手である労働力を大量に確保するために、彼は、抜け目なく、第58条という新しい条例をつくっていた。1926年に交付されたその条例によれば、政府の転覆、崩壊、もしくは革命的成果を崩壊、弱体化させる行為は、反革命的と見なされ祖国の裏切り者と見なされるというのである。
しかし、人々の日常的行為で、この条例に引っかからないものなどあり得なかった。要するに、どうにでもデッチ上げることが可能だったのである。全く意味もない行為が、ねじ曲げられて解釈され、その挙句に祖国の裏切り者というレッテルを張られて自由をはく奪されることが往々にしてあった。かくして、数百万の無実の人間が、囚人呼ばわりされ、全財産を国家に没収された上、処刑されるか、過酷な重労働を強制されることになった。この条例の目的は、罪のない人々を囚人にでっち上げ、スターリン体制を維持するための奴隷を合法的につくり出すことなのであった。裏切り者のレッテルを張られた者には、銃殺刑か荒涼としたシベリアへの流刑が待っていた。
シベリアに送られた囚人たちを待っていたのは、金鉱の採掘、運河や鉄橋の建設などの過酷な強制労働であった。その労働は、想像を絶するほどひどいもので、一日に16時間以上の重労働が課せられるのである。真冬ともなると、あらゆる物が凍りつき、気温は零下60度にも下がる。当然、多くの囚人が凍傷にかかった。医者が、まるで植木職人のような手さばきで、凍傷にかかった囚人の手足をパチンパチンとハサミで切り落としていった。激しい飢餓に耐えきれずに、死体置き場から死人の肉を切り取って食べた者も少なくない。
何をするにも『ダバイ!(動け!)』の罵声が飛び、反抗的な態度を取ると、それこそ目の玉が飛び出るほど殴られた。囚人たちは、体力を消耗して、みるみるうちに痩せおとり死んでいった。死んでコチコチに変わり果てて凍った死体は、次々に運搬用のそりに投げ込まれて片付けられていくが、その時、まるで木と木がぶつかり合うような音がしたという。ものすごい寒さと重労働による疲労、飢えのために、ほぼ全員が一冬で死に絶え消滅した。夏になると、再び、新しい囚人の群れが送られてくるが、彼らも冬になると同じ運命をたどるのである。毎年、補充のために、数十万単位の囚人が薄暗い船倉や列車に閉じ込められてピストン輸送されるが、決して囚人数が増えることはなかったという。こうして、死に絶えては補充されるという死のサイクルは休むことなく繰り返されるのである。
スターリンは、金に異常な執念を見せた独裁者でもあった。全く、それは凄まじいばかりのものであった。彼は、ことあるごとに、金の備蓄量を増やさねばならないと口にし続けていた。そうして金を国家戦略の最重要資源に位置づけし、支配国の共産党へ金の提供を義務づけたのである。そうして、金を採掘するために、数百万の囚人が集められ、牛馬のごとくこき使われたのである。
かくして、50年代の初めには、国家が保有する貴金属は、金2千トン、銀3千2百トン、プラチナ30トンという莫大な量にまで跳ね上がったのであった。しかし、それらを採掘するために強制労働に従事した数百万の人々は、とうにシベリアの凍土と化していた。白海・バルト海運河が開通した時など、スターリンは、蒸気船「カール・マルクス」号で完成したばかりの白海からオネガ湖までの227キロを快適な船旅としゃれこむ計画を立てた。その際、多くの役人や作家連中も招待された。彼は、第一次五カ年計画の中心事業であった白海・バルト海運河をわずか2年で開通させた偉業を世界に誇示したかったのである。招待された百名以上の作家たちは、超一流ホテルでチョウザメや高級食材、各種ハム類、ウォッカ、シャンパンなどふんだんに振る舞われた後、スターリンと優雅な運河の船旅を体験したのである。皮肉にも、その時、ウクライナでは有無を言わさぬ食料調達によって数えきれない農民が飢餓に苦しみ、その挙句に埋められた死体を掘り起こし、人食いまで行われていたにもかかわらずである。
彼らは、その後、「スターリン記念」と称する本を書き、その中で、彼の数々の偉業を美辞麗句を並び立てて絶賛し、囚人たちがいかに再教育されて鍛え直され、国家に貢献し得たかを賛美したのであった。しかし、実際は、工事期限を死守するために、運河はかなり浅く掘られ、役には立たない代物だったという。また、運河開通の担い手、30万の労働者の内、10万人がボロクズのようになって死に絶え、運河の土となったことなど一行も書かれることはなかった。
スターリンは、後にこう述べている「反抗心のない無力な労働者を育成するには、密告を奨励し、給食を飢餓すれすれにして、ちょっぴり食い物を増やしてやると彼らにたきつけることだ。そうすれば、労働力を最大限に引き出せる。彼らの苦情など一切無視すればよい。そうすれば、人間の個性や主張など簡単に打ち砕くことが出来るのだ」これほど、人間の尊厳を侮辱し冒涜した言葉もないだろう。しかし、この方法は、後になって、ヒトラーやムソリー二など西側の悪名高き独裁者たちも、見習って借用したということである。
* 吹き荒れる大粛清の嵐 *
第一次五カ年計画が終わる頃、農民の強制集団化で富農層をほぼ撲滅した彼は、さらなる粛清をもくろんでいた。スターリン独裁の陰では、トロツキー、カーメネフ、ジノビエフと言った反対勢力がまだ幅をきかせていたし、党の幹部の中には、粗暴なスターリンを嫌って排除しようという動きもあった。ここでスターリンは再び狡猾な手段に出る。かつて、党から、追放したはずのカーメネフ、ジノビエフらを再び党員に迎え、要職につけたのである。これは、どういうことなのか? こうしたスターリンの心境の変化を西側のメディアは、「ロシアの赤がピンクになった」などという表現を使って「雪解け現象来る?」と大見出しで報道した。
しかし、これは、さらなる大嵐が来る前の凪(なぎ)のようなものだった。スターリンは、何かとてつもないことをしでかす前には、必ずと言っていいほど、相手を油断させるためのフェイントを演出したからである。事実、スターリンの胸の内は、これから行われる大粛清のための構図が出来上がっていた。これまでに彼に楯ついた者、恥を掻かせた者、気に入らぬ者などが、彼の強靭な記憶力の中にインプットされ続けていた。そして、それらは、膨大なリストに細かく区分けされて、逮捕、拷問、処刑の瞬間を待ちわびていたのである。後は、スターリン自身が、合図を送るだけであった。
キーロフの暗殺が大粛清のきっかけとなった。キーロフは、共産党の中央委員でもあり、人気があった。実際、スターリンの後継者と見なす党員がほとんどだった。
スターリンは、表向きは、キーロフを同志として信頼しているように振る舞っていたが、本心は、彼の存在が我慢ならなかった。
結局、キーロフの暗殺は、カーメネフ、ジノビエフらの犯行ということになり、彼らは、即刻、銃殺刑にされた。しかし、これは、とんでもないでっち上げで、キーロフの暗殺を仕組んだのは、スターリンの仕業に他ならない。
(写真)セルゲイ・キーロフ
(1886〜1934)スターリンを上回る人気があり、嫉妬したスターリンによって暗殺されたと言われる。
こうして、彼は、次期に自分のポストを奪いかねないキーロフを暗殺し、その罪をかつての政敵、カーメネフとジノビエフらに擦りつけ、一挙に両方とも片付けることに成功したのである。後は、さらなる大粛清を行い、自らの独裁を揺るぎないものにしてゆくことであった。
粛清の死の嵐は、たちまちソ連全土に波及していき、37年には空前絶後の規模で行われた。「古い細胞を除去し、党は一新されねばならない」・・・スターリンは、大虐殺をこのように弁明し粛清の論理を正当化した。そのために、彼は密告を奨励した。自分の陰口をたたく者、不満を持つ者、体制に批判的な者を密告によって嗅ぎ分け、ことごとく粛清するのである。
身に覚えのない密告が盛んに行われ、数えきれない人間が深夜に連行され銃殺された。いたいげな子供が親を密告したケースも少なくない。まだ善悪の判断すらつかぬ子供が、多くの人々の前で表彰を受け無邪気に喜ぶ場面もあった。一方、実の子に密告された親は、強制収容所に送られ悲惨な死を遂げたのである。
夜がふけると、人々は、身を寄せ合って、夜が明けるのを息を殺して待つよりなかった。こうしている間にも、自分に恨みを持った人間が、復讐のため、あることないことを告げ口し、処刑隊が向かっているかもしれないのである。もう、誰も信用出来なかった。人々は疑心暗鬼に脅え、毎夜、恐怖に震えおののいた。それは、まるで、中世の魔女狩りそっくりであった。いつ何時、死神がドアをノックするかわからず、おちおち眠ることも出来なかった。死刑執行人、すなわち、秘密警察が現れるのは、決まって深夜か早朝だったからである。
この年だけで何百万人も連行され、約半数が処刑されたと言われている。大戦前の5年間だけでも、2千万人近い人間が逮捕され、銃殺もしくは強制収容所送りにされているのである。大粛清は党や軍などあらゆる分野に及んだ。軍に至っては、将校の8割が処刑されたと言われている。そして、ついには粛清を執行した本人たちにも矛先が向けられていった。スターリン政権下30年間で換算すると、ロシアだけで実に4千万を下らない人間が連行され有罪判決を受けたことになる。ソ連全土ともなると、その数はもっと膨らみ、もはや推定する以外にはない。当局によって有罪判決を受けた者たちは、その半数以上が虫けらのように処刑されるか流刑先で悲惨な死を迎えたのである。しかし、悲劇はこれが、すべてではない・・・4年間に渡る独ソ戦の死傷者2千5百万人がその上に加わるからである。
さらに、大戦中も、ソ連占領下の各地で、粛清の嵐は容赦なく吹き荒れた。ソ連領内の北カフカスでは、ある山岳民族が強制移住の名目で大虐殺の憂き目にあっている。この山岳民族は、戦前から、自分たちの伝統文化を頑に守り、スターリンの農業集団化に協力しようとしなかったのだ。2月の大雪が降り続く深夜、突如、10万の軍隊で村々を包囲した当局は、着の身着のままで、住民を叩き起こし、駅で待っていた家畜輸送用の貨車に詰め込んだのである。その際、老人、妊婦、子供は足手まといになるため、射殺されるか、崖から突き落としたのであった。貨車に乗り遅れたある老夫婦と幼い孫はその場で射殺された。人々は貨車から5メートルも離れると、問答無用で射殺されたという。
また、期限内に計画達成困難と見た当局が、スターリンの怒りを買うのを恐れ、残った村の数百人の住民を納屋に閉じ込め、火を放ったこともあった。苦しみ抜いて煙にいぶし出され、はい出して来たところを一人一人狙い撃ちして皆殺しにしてしまったという。グルジアに住んでいたある少数民族などは、こうして地上から永遠に抹殺されてしまった。
スターリンの狂気は、敵対する民族のみならず、捕虜や自軍にも向けられ、止まることを知らなかった。戦時中、スモレンスク郊外のカチンの森の中で、数千人のポーランド将校が虐殺されて埋められているのが発見された。
遺体はどれも、おがくずを口に詰め込まれて、銃剣で刺し殺されるか、後頭部を銃で撃たれるというひどいものであった。このような惨い虐殺現場は、その後、次々と発見されていくのである。
また、スターリンは、捕虜は祖国の裏切り者とみなして、その家族はことごとく逮捕させていた。戦場を少しでも離れる者があれば、即刻、銃殺されるか戦車で引き潰したという。将兵を、生きたまま地雷を踏ませるために行進させることもあった。
(写真) カチンの森の虐殺現場
かくして、スターリングラードの攻防戦だけでも、1万4千名のソ連兵が自軍に殺されたのである。つまり、一つの師団丸ごとが味方の手によって抹殺された計算となるのだ。こうした死者数まで漏れなく加算していくと、あまりに現実離れした数字となり計量することは、もはや不可能となる。
● 彼の犯した罪が、いかに巨大なものか、自ずからわかると言うものだ。恐怖の戦慄の果てに、全身総毛立つ思いがして来るのも当然であろう。
この遺体は後ろ手で縛られた上、絞め殺されていた
このような犠牲者の累積は、1953年、スターリンが死ぬ瞬間まで、急上昇を描くようにカウントされつづけたのである。この年、スターリンの突然の死によって、ようやく長引いていた朝鮮戦争も終結に向かっていった。彼は、晩年、殺されるのではないかという強迫観念に取り付かれていた。何をするにも異常に疑い深くなり、食べ物はすべて毒味をさせ、自分が招いた客でさえも、深夜、こっそり入って来て、寝ているのを確認する始末だった。元々、若い頃から何事にも疑り深かったスターリンは、今では病的で、誰も信じられる者もなく、医者でさえ自分のそばに決して近寄らせなかった。そして、長寿の薬だと称して訳のわからぬ薬を飲んだり、ヨードを垂らした怪しげな水を飲んでいたという。
独裁者の最期は、あっけないものだった。脳内出血を起こした彼は、パジャマ姿で食堂で転倒し、ほとんど、意志朦朧としたままで息を引き取ったのであった。ラジオは荘重な音楽を鳴らし、国民に4日間、喪に服することを伝えた。享年74才だったと言われる。
* 歴史上最大の殺戮者 *
その後、スターリンの遺体は、防腐処置を施された後、レーニン廟の横に安置されることになった。
● ところが、あれほど恐れ敬われていたはずが、まもなく、フルシチョフらによるスターリン批判がなされたかと思うと、今度は一斉に批判の対象となり、遺体は、金ボタンと襟章を乱暴に引きちぎられた上、レーニン廟から引きずり出されてしまったのである。
● 同時に、スターリンの像は、引き倒され、彼の名前を刻んだ都市、スターリングラードはボルゴグラードに改名される始末であった。
棺に横たわるスターリン、遺体は、防腐処置されてレーニン廟に安置された。
● 一時は、神のように崇拝されていた数年前に比べると、月とスッポンのような扱われ方だった。
● 次いで、スターリンが師と仰いだレーニンも、その後、次々と明るみに出た機密書類によって、批判の対象となり、スターリン同様、像は撤去され、都市名もレニングラードからサンクトペテルブルクに改められてしまったのである。なんとも、現金なこと甚だしい限りである。
● かつて、共産主義の神と崇められ、赤い皇帝と人々に呼ばれたスターリンの像は引き倒された。
しかし、過去の批判をし、改名したところで、ソビエト国民の生活レベルが向上するはずもなく、やがて、ゴルバチョフの時代になって、ペレストロイカ(経済の再建と議会の民主化)の波が押し寄せるにつれて、ソ連は、崩壊同然に解体の道を余儀なくされるのである。まもなく、旧ソ連国内に数多くそびえ立っていたレーニン像は、ゴミ同然のごとく、打ち壊されてことごとく撤去されていった。
あるレーニン像の一つは、酔狂なユダヤ人に買い取られ、今では、皮肉にも、資本主義のメッカ、ニューヨーク州マンハッタンのとあるビルの屋上に展示されている。
それは、あたかも、理想に燃えて建国された人類史上初の共産主義国家の悲しき結末に、こんなはずではなかったと言いたげな表情で、たたずんでいるようにも見える。
眼下に広がっているのは、ヒスパニック系、黒人、旧共産国出身者など低所得者層が多いことで知られる一角である。
ニューヨーク、マンハッタン街のビルの屋上に展示されているレーニン像。このビルは、赤い広場と呼ばれているそうである。
● スターリンが死んでもう半世紀にもなる。嘘やでっち上げで固められた政治体制、共産主義の腐敗と害毒、粛清の恐怖など・・・国民は、過去を払拭し忘れたいと思った。しかし、スターリンの残した負の遺産は、あまりにも強烈で、人々の心の奥深くに刻まれて今も存続し続けている。新生ロシアになっても、その悪影響は国家の負の遺伝子として溶け込み、断ち切ることは出来ないようだ。これほどまでに多くの人間を殺しまくり、死しても、その影響力は、依然、弱まりを見せてはいない。
歴史上、これまでには、残虐な独裁者は数多く登場した。皇帝ネロ、カリグラ、チンギスカン、ポルポト、フセイン・・・しかし、彼、スターリンに比べると、いかなる殺戮者もちっぽけで色あせて見えるようだ。あのユダヤ人大虐殺で有名なヒトラーでさえも・・・
旧ソ連から独立したラトビア共和国内のある歴史博物館には共産主義の墓と
称するものがある。その墓碑銘には、●「共産主義死す。1945ー1991年」
という文字が彫られているという。
参考文献
「スターリン秘録」斉藤勉 産経新聞社 2001
「スターリン」 バーナード・ハットン 木村浩訳 講談社学術文庫 1989
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>歴史上、これまでには、残虐な独裁者は数多く登場した。
>皇帝ネロ、カリグラ、チンギスカン、ポルポト、フセイン・・・
>しかし、彼、スターリンに比べると、いかなる殺戮者もちっぽけで色あせて見えるようだ。
>あのユダヤ人大虐殺で有名なヒトラーでさえも・・・
だそうですが、稀代のサイコパス人殺し独裁者を熱烈に敬愛し、その名に肖った名前を我が子に付ける世にも珍しい御両親とは・・お顔を拝見してみたいものです。
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2016-07-10 11:30
元祖マキャベリストは良い奴だった エピローグ
http://yomouni.blog.fc2.com/blog-entry-5601.html抜粋
2002年に人生二度目の海外旅行をしたとき、ワタシはウフィツィ美術館に行きました。
(略)
バロック以前の建築の常で、どの部屋の窓も小さく、日暮れの気配と共に部屋の中は、ドンドン暗くなってきました。
そしてそれまで余りに沢山の部屋を通り貫けてきたため、自分が美術館のどのあたりにいるのかさへ、わからなくなってきました。
●それでも何とか順路に沿って進み始めた時です。 後ろから誰かに見られているような気がしました。
誰か知っている人が・・・・・。
● ギョッとして振り向くと、そこにはマキャベリの木像が立っていました。 彼の像は美術館の案内用のモニターと一緒に並んでいました。
等身大よりやや小さく、しかし何ともばつの悪そうな、「なんでオレがこんな像に?」とでも言いたいような顔をしていました。
ウフィツィ美術館にマキャベリの像がある事は知っていたのですが、しかしここにあったのです。
(略)
帰国して暫くしてからです。 偶然、ヨーロッパの幽霊譚を集めた本を読みました。
● それによるとウフィツィ美術館には幽霊が出るそうです。
● その幽霊は閉館前の黄昏時に出てきて、イタリア語が話せる知的な外国人を見かけると、国際情勢やその国の政治についてあれこれ聞くのだそうです。
● そういう性格と風体から、この幽霊はマキャベリではないかと言われているのだそうです。
(略)
それじゃ、日本人でこの幽霊とお話しをした人はいるんでしょうか?
● おお、塩野七生さんなら絶対に、マキャベリの幽霊とお話ししたでしょう。
● 申し分なく知的で、イタリア語も完璧で、しかも日本女性。
● 「我が友マキャベリ」を書いていた頃は、彼女はフィレンツェ在住で、しかもまだ30代の魅力的な人妻でした。
因みにマキャベリは結構女好きです。 申し分なく貞淑で、深く夫を愛している妻がありながら、他の女性に無関心ではいられなかったのです。
シニョリーナ、最前のご様子ではイタリア語が大層お上手で。
失礼ですが、お国はどちら?
おお、日本!!
それは素晴らしい!!
(略)
近代政治学の祖にしては軽い?
だってコイツイタリア人なんですよ。
しかも凄くイタリア人らしいイタリア人ですから。
マキャベリはフィレンツェ政庁への再就職失敗の落胆から、死亡しました。
(略)
マキャベリは「目を開けて生まれた男」と言われてます。
彼の天才は卓抜した現実洞察能力に寄りました。
● しかし彼が生涯、目を開けて見なければならなかったのは「我が魂より」愛した祖国の没落でした。
● それは名医が、愛する人の病を知り、それに対する処方を持ちながら、しかしその処方箋を愛する人が受け入れないために、死んでいくのを見守るしかない、と言う辛さだとでも言うべきでしょう。
しかし根がホントに良い奴だし、それに元来楽天家なので、幽霊なっても人に憑りついて害をなすとか、いつまでも過去の恨み言を言い続けるなんてことはできっこないのです。
(略)
●塩野七生さんがマキャベリの伝記を「我が友マキャベリ」と題した理由は、この本の中に書かれています。
● しかしワタシはマキャベリの幽霊と、ホントに友達になったから「我が友」としたのだと思っています。
或いは友達以上に・・・・・・。
●ところで最近、塩野さんは韓国の公敵になったそうです。
「塩野七生」は韓国の公敵になった
(http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/226331/062000056/)
● 二人はこれに大爆笑しているんじゃないでしょうか?
【3】なぜいろんなことが誤解されたままになっているか?
http://peachy.xii.jp/korea/korea3.html抜粋
●日本人には信じられないような韓国のおかしな形の反日政策が
日韓両国民にあまりバレずに続けていられるのは“なぜ”だろう。
確かに日本人はつい外国より日本を先に疑ってしまいがちだが……
●まず日本が「韓国が言うような国かどうか」をみてみよう。
(略)
●日本は各国への技術提供や経済援助などの国際貢献を続けているため
民間レベルでは嫌われる理由はほとんどない。
●では、各国の国政に携わる人や、専門家たちはどう考えているのだろうか。
まずはインドネシアからみてみよう。
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★インドネシア モハメッド・ナチール元首相
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。
大東亜戦争は私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」
「大東亜戦争というものは本来なら私達インドネシア人が、
独立のために戦うべき戦争だったと思います。もしあの時、
私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。
大東亜戦争はそういう戦いだったんです。」
★インドネシア アラムシャ 元第3副首相
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、
350年間に亘り幾度か屍山血河の闘争を試みたがオランダの狡知な
スパイ網と強靱な武力と苛酷な法律によって圧倒され壊滅されてしまった。
それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を
断ち切ってくれた。
インドネシア人が歓喜雀躍し感謝感激したのは当然である。」
★インドネシア ブン・トモ 元情報相
「我々アジア・アフリカの有色民族はヨーロッパ人に対して何度となく
独立戦争を試みたが全部失敗した。インドネシアの場合は、
350年間も失敗が続いた。それなのに、日本軍が米・英・蘭・仏を
我々の面前で徹底的に打ちのめしてくれた。
我々は白人の弱体と醜態ぶりをみてアジア人全部が自信をもち、
独立は近いと知った。一度持った自信は決して崩壊しない。
そもそも大東亜戦争は我々の戦争であり、
我々がやらねばならなかった。そして実は我々の力でやりたかった。」
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(略)
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★インドネシア アリ・ムルトポ准将
「日本はアジアの光である。
大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので
アジア人の誇りである。
今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら韓国が一番困ると思う。
もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人の成功は
容易である。つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。
経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ。
インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。
つまり、我々インドネシア人は『日本はなにもしてくれなくてもよい』と
考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、
アジア・アフリカにつくしていると考えている。
●だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている」
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(略)
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★インドネシア サンパス元復員軍人省長官
「特にインドネシアが感謝することは戦争が終わってから日本軍人
約1000人が帰国せず、インドネシア国軍と共にオランダと戦い、
独立に貢献してくれたことである。日本の戦死者は国軍墓地に祀り、
功績を讃えて殊勲章を贈っているが、それだけですむものではない。」
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(略)
次はマレーシアをみてみよう。
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★マレーシア ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員
「私たちは、マレー半島を進撃してゆく日本軍に歓呼の声をあげました。
敗れて逃げてゆく英軍を見た時に今まで感じたことのない興奮を覚えました。
しかもマレーシアを占領した日本軍は日本の植民地としないで
将来のそれぞれの国の独立と発展の為に、それぞれの民族の
国語を普及させ青少年の教育をおこなってくれたのです。」
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(略)
教育について、ジョージ・カナヘレ(ハワイ出身の日本軍政研究家)の
『日本軍とインドネシア独立』という本にもこのようにある。
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「日本はインドネシア語の公用語を徹底して推進し、インドネシア国民
としての連帯感を人々に植え付け、広域の大衆をインドネシアという
国家の国民として組織した。とくに若者に民族意識を植え付け、革命の
戦闘的情緒と雰囲気を盛り上げた。またPETA(ペタ)の革命における
意義は大きく、これなくしてインドネシア革命はあり得なかった。」
(ジョージ・カナヘレ『日本軍とインドネシア独立』)
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●日本が施した教育がなければインドネシア革命はありえなかったというのである。
(略)
また、日本が討ち破ったのは白人の軍隊だけではない。
軍国主義による『経済』の支配構造をも大変革させているのだ。
-------------------------------------------------------------------------
★マレーシア マハティール首相
「日本は、軍国主義が非生産的であることを理解し、その高い技術と
エネルギーを、貧者も金持ちも同じように快適に暮らせる社会の
建設に注いできた。質を落とすことなくコストを削減することに成功し、
かつては贅沢品だったものを誰でも利用できるようにしたのは日本人である。
まさに魔法も使わずに、奇跡とも言える成果を創り出したのだ。(中略)
東アジア諸国でも立派にやっていけることを証明したのは日本である。
そして他の東アジア諸国はあえて挑戦し、自分たちも他の世界各国も驚く
ような成功をとげた。東アジア人は、もはや劣等感にさいなまれることは
なくなった。いまや日本の、そして自分たちの力を信じているし、実際に
それを証明してみせた。もし日本なかりせば、世界は全く違う様相を呈して
いただろう。富める北側はますます富み、貧しい南側はますます貧しく
なっていたと言っても過言ではない。北側のヨーロッパは、永遠に世界を
支配したことだろう。」
(欧州・東アジア経済フォーラム 1992年10月14日)
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(略)
ある時、日本の政治家が、
「過ぐる大戦において、わが国は貴国に対し
ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
という挨拶をした時、マレーシアの外務大臣はこう答えた。
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★マレーシア ガザリー・シャフェー 元外相
「どうしてそういう挨拶をなさるのですか。あの大戦で日本はよくやった
ではないですか。マレー人と同じ小さな躰の日本人が、大きなイギリス人を
追い払ったではありませんか。その結果、マレーシアは独立できたのです。
大東亜戦争なくしては、マレーシア人もシンガポールも、その他の東南
アジア諸国の独立も考えられないんですよ?」
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そろそろお気づきかもしれないが、アジアの英雄であるはずの日本人自身が持つ
『自虐史観(悪いことをしたという思い込み)』は、
国際的にも不自然なのである。
これについてマレーシアのノンチック氏が「思い込みの強い日本の教師」に
説教したこともある。
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★マレーシア ラジャー・ダト・ノンチック 元上院議員
この国に来られた日本のある学校の先生は
「日本軍はマレー人を虐殺したに違いない。その事実を調べに来たのだ」
と言っていました。私は驚きました。
「日本軍はマレー人を一人も殺していません。」
と私は答えてやりました。日本軍が殺したのは、戦闘で闘った英軍や、
その英軍に協力した中国系の抗日ゲリラだけでした。
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“なぜ”日本人だけが誤解しているのか。
●単純な話、この自虐史観によって得をする国があるのだが……
このカラクリについては後述することにする。
次はタイをみてみよう。
タイでは日本を“アジアの母”にたとえてくれている。
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★タイ ククリット・プラモード 元首相
「日本のお陰でアジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは
難産して母体をそこなったが生まれた子供はすくすくと育っている。
今日、東南アジア諸国民がアメリカやイギリスと対等に話ができるのは
一体誰のお陰であるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本という
お母さんがあった為である。
12月8日は我々に、この重大な思想を示してくれたお母さんが一身を
賭して重大決意された日である。更に8月15日は我々の大切なお母さんが
病の床に伏した日である。我々この2つの日を忘れてはならない。」
(12月8日 「サイアム・ラット新聞」)
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このような「英雄視される日本の歴史」が韓国人には羨ましくて仕方ない。
だからこそ韓国では偽物の歴史を作って韓国に栄光を捏造し、
だからこそ韓国では偽物の歴史を作って日本の栄光を汚そうとする。
(略)
竹島に文句があるなら正々堂々国際司法裁判所に出てきて決着をつければいいのに、
日本が提訴してから待てど暮らせど出てこない。
それもそのはず、日本の正当性が揺ぎ無いため、法廷に出れば負けるから
逃げ続けているのである。(※国際法廷は両当事者が揃わないと開始されない)
参考までに、韓国の史学者が政府批判のついでに吐露した本音をみてみよう。
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■ソウル大学 安秉直(アンビョンジク)名誉教授(経済史学者)
今の状況を一言で整理するなら、現政権が、解決できない問題を解決できる
問題であるかのように浮上させて自分たちが民族主義を代弁する勢力である
かのように国民を欺いている形です。
例えば独島問題は歴代政権が解決できないから不問に付していた問題です。
率直に言って、独島関連資料は日本の方がたくさん持っています。日本は
1905年に既に独島に対する国際的認定を受けているからです。我が国は
現実的に領有しているというだけです。もしこの問題が国際司法裁判所に
行ったら、当然文献と証拠をたくさん持っている日本が勝つことになります。
現政権がこの問題を国際司法裁判所に持って行かないのも、このためですね。
1つの肉をめぐって2匹の犬が争っていると考えてみましょう。
1匹が先に肉をくわえたらすぐ逃げだして食べればよいのであって、
肉を奪おうとする他の犬を見て吠えたらどれほど愚かなことですか?
独島問題の解法は、口をつぐむことです。我が国は実質的に独島を
領有しているのだから、心配することはないんですよ。しきりに騒げば
むしろ損になるのに、現政権がしきりに論争の種にするのは、非愛国的な、
ある意味では売国的な行為です。
ttp://www.new-right.com/read.php?cataId=nr02000&num=886
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簡単にまとめれば、
●「韓国は武力で日本人を殺して、日本の領土を奪い、
武装警官により実効支配を実現し、違法に居座っている」
というだけでなく、
●「裁判もせずに逃げようとしている」
のである。
(略)
ビルマも日本を評価する国のひとつである。
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★ビルマ(ミャンマー) バーモウ初代首相
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに
貢献した国はない。真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日
ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、
真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、
東条大将と大日本帝国政府であった」
(バー・モウ博士著『ビルマの夜明け』より)
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このバーモウというのは、戦争中は独立義勇軍で戦い、
独立後はビルマの初代首相になった人である。
その彼が、ビルマの独立宣言でなんと言ったか。
-------------------------------------------------------------------------★同ビルマ バーモウ首相
「約五十年前ビルマは三回にわたる対英戦争の結果その独立を失えり、
英国側はアジアに対する掠奪的野望を以て此等の戦争を遂行せり。
愛国者は挺身的精神をもって鎮圧、入獄、流謫、拷問及びしばしば
死そのものを甘受して突進して来れり、これらの英雄はビルマの
生存のため苦難を受け遂には斃れたり。
ビルマ人はアジアを統合せしめアジアを救う指導者を
待望しつつありしが、ついにこれを大日本帝国に発見せり。
ビルマ人はこのビルマに対する最大の貢献に対する日本への感謝を
永久に記録せんことを希望するものなり。」
(独立宣言書より)
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こちらの訳文は日下公人『一問に百答』(PHP研究所)P157-158からの抄約で
やや堅苦しい言葉になっているが、現代語に翻訳すると、
●「イギリスに略奪目的で占領された時、ビルマは決死の抵抗を行ったが
結局殺されてしまった。ビルマはアジアのリーダーを待っていた。
その時そこに日本が現われた。ビルマはその感謝を忘れない。」
ということ。
ビルマの首相が自ら全ビルマ国民に向けた独立宣言で
このような日本への感謝を述べたのである。
●ちなみにビルマでは3月27日の国軍記念日になると、全国のビルマ国軍を
首都ヤンゴンに集結して盛大なパレードを繰り広げるのだが、そのパレードでは
なんと日本の“軍艦マーチ”から演奏が始まるのだ。
●そして“歩兵の本領”や“愛馬進軍歌”など日本の軍歌が次々と演奏される。
ビルマでは政府の高官からジャーナリストに至るまで口を揃えてこう言う。
「ミャンマー(ビルマ)が今日あるのは、日本のおかげです。
日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、独立をすることができた。
われわれは深く日本に感謝しているのです。」と。
●つまり、ビルマが「日本人より日本を愛する国」といわれるほど親日国家なのは
中国や韓国が“攻撃対象”にしている太平洋戦争の結果なのである。
★サラ金と縁を切れ
http://peachy.xii.jp/korea/korea3.html(ずっと下のパチンコの話のつぎから始まるお話)
http://www.asyura2.com/0510/social2/msg/773.html#c1
昔のキャッシングの裏ワザ「大車輪」って?!今も使えるのか徹底調査
http://cane-medel.com/c272/
(略)
大車輪は今でも出来ないことはないものの、あくまで「過去の裏技」であり、現代の借入事情にはほぼそぐわないものになっている、といってもいいでしょう。
それよりは「出来るだけ借りたら早く返済する」「低金利のカードローンを選んで利息を少なくする」といった形での努力をしたほうがよさそうですね。
http://www.asyura2.com/0510/social2/msg/773.html#c2