12. 2018年1月24日 02:07:30 : E9JMMWJ0EI : @gAO8B3yq5c[1]
「万歳(バンザイ)」が、マヤ語もしくはヘブライ語で「いけ贄の意(神へ対しての:神を畏怖の対象としてしか見れない人間独自の発想:差別観による)」であるということをわたしは世に知らしめたい。つまり日本人の祖先はマヤでもある。
いまやこの万歳(バンザイ)を使用する人種は太平洋戦争後には、北朝鮮軍とこの日本の中の"日本かぶれ"でしかない差別的発想しか持たぬ人種だけであるということを。
そもそもなぜ"いけにえ"などという風習が生まれたかと言えば、荒ぶる自然の猛威を特定の人類祖先が「神のミワザ」と結びつけ、「畏怖の対象」として同一視していったためである。つまりそこに人類はあらゆる脅威に対し、為す術を持たぬ存在と見定めたことに拠る。以後、「政治」とは各地に勃興したそれそれの権威的価値観のもとに同居し、そこでの政治的手法、その手腕の優劣や差により、さまざまに意味を変えていくこととなったはずである。中には人々の心理的不安を助長するためだけに蔓延ったものもあるだろう。そこでは神の威厳は特定の権威主義者の手中に委ねられるものとし、そこに都合良く覇権による政治が語られていった不遇なケースもあっただろう。もちろん、少なからずまったくその真逆もまた存在したはずである。中でも日本の縄文の頃の政とはまさに希有なまでに人類としての高い美意識に根付いたものだったと理解する。
そもそもが「政治」とは共同体運営のために必要とされるただの基軸であり、方針条文、またその綱領であるはずのもの。それは当然、本来がそこに住む人々に順当に配分される和楽、享楽のために実践されうるものとして打立てられるはずのものである。だが、現在の人間社会は一見、その建前に順当に機能するよう見せかけられては居るが、直も一権威主義思想者のための覇権の道具にされて久しくある。
話は一度横道に逸れる。仮に6000年程以前の人類が、文化的植樹のために地球外から来訪した支援者と接した時、彼らを見て自分たちに無償で恩恵を授ける兄弟だとは素直に認識出来なかったはずである。我々は当時の人類がどれだけ自然に翻弄されてきたかを勝手な想像に理解するのみである。そのように今の我々もまた、その彼らの類い希なる異質な能力を見て、それらを畏怖の対象として認識するのではないだろうか。そうだとすればそれはまた、以後も人類は極めて不幸な立場を認識しつづけるだけとなるのではないだろうか。
話は戻り、戦時中、戦地へと送り出す家族が駅のホームでこぞって万歳三唱をしたのはあくまで、「神への捧げ供物(=喜ばしいことの意:価値観の刷り込み洗脳教育による)」とされたからだ。実際、家族その知人らは、本心とは裏腹の行為によるただのしぐさでしかなかった。
「バンザイ」の真の意味を知っていれば、あの時の挙動不審な振舞いのハクホウのバンザイには違和感を感じるはずである。「ああ、生け贄に誰かが捧げられたんだな」と。
ある意味そうしてハルマフジが生け贄として祭壇に捧げられたのだとすれば事件の全体像もまた違って見えてくる。
相撲業界について言えば、国技と称される武道の中で、「トトカルチョ」の存在が認められるのは相撲だけだ。名ばかりの国技の中身はただの収益目当ての興行である。国技として八百長がどうの格式がどうのと言う前に、賭け事の対象としてあることが問題だ。賭博が問題視される野球同様、競馬も不正は存在しないことに表向きはなっている。だが八百長はずっと存在している。(わたしの父は騎手だったからそうした内情は直接親から聞いて知った)
相撲道とは謂わば興行の道であり商いの道であるとするならば納得が行く。プロレス同様その道を追求したら良いだろう。メキシコ発祥のルチャはいまでも多くはボランティアで大衆のためのものだ。しかしながら、角道の精神とはその興行と同一視できぬものなら、速やかに宗を分けるべきである。角道の精神、ならびに健康維持のための身体つくりの技能は本物であるだろう。ならば、本来それだけで飯も食えるというものだ。
この問題に関しては、右か左かといった、権威筋応援か反権力派かといった構図で物事を見ることに意味はないと素直に感ずる。
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