5. taked4700[6915] dGFrZWQ0NzAw 2018年3月26日 06:40:50 : hPjumU2aRQ : 9S6LQ4MpKU8[1]
>>03
>かつて、関東大震災の予知を「ホラ吹き」扱いされた学者がいる。
>大震災が来るまでは誰も知らん顔してたら実際に大震災が来て喝采される。
今村明恒
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E6%98%8E%E6%81%92
>1870年、鹿児島県鹿児島市に薩摩藩士・今村明清の三男として生まれた。
>明恒は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した[3]。この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷された[4][5]。しかし1923年に関東地震(関東大震災)が発生し、明恒の警告が現実のものとなった。その後、関東大震災の地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになった。
**********
上のウィキの記事には、「地震の神様」と讃えらと書かれていますが、現実にはそうでもなかったようです。
関東大震災を予測したときには、上司から世間を騒がせたと譴責されました。また、1923年の関東大震災以降は南海トラフ地震を予測したのですが、太平洋戦争突入により、努力は水泡に帰したのです。
https://blog.goo.ne.jp/satonaoaki/e/a88dc74fc7cc0ae46b7ee6ae463a7ea0
昨日は、東京大震災騒動とプロセス暗示の関係を書きました。その騒動の渦中に放り込まれた、今村恒明という地震学者がたいへんおもしろい、癖のある人物なのです。彼のエピソードを紹介しましょう。
「今村の苦労」
大騒動が起きた結果、今村に非難が集中しました。今村としては、地震に備えろと言うつもりで書いたのに、新聞にうまく利用されてしまったわけです。
また、今村の著書『地震学』の出版社は、「今村の本を読んで地震に備えよう」とセンセーショナルなコピーで広告したものですから、今村は私利をはかるために浮説を唱えたと、世間で非難されました。さらに、友人からは、大ぼら吹きとあざけられました。
このときは、事態の沈静化を図ろうとして、今村の上司である東京帝国大学・地震学主任教授の大森房吉が奮闘いたしました。
大森は「学者は大騒ぎの元となるような言動は慎むべきだ」と今村を非難しました。もっとも、今村の論文が出た時点で、大森は特段の非難をしておりません。事態が緊迫してから、そう言ったのです。大森自身も、震災に備えて水道管を整備するよう、行政に訴えておりましたから。
大森と今村は、本当に仲が悪かったようですね。年齢は大森が二歳上なだけでしたが、大森は教授で、今村は助教授。大森がいる限り、今村は万年助教授に甘んじるしかなかったのです。
大森は「お嬢さん」と呼ばれるぐらい、おとなしく円満な人でしたが、かたや今村は、頑固で妥協を嫌い、ズケズケ物を言うタイプでした。
この騒動で大ぼら吹きと嘲笑されたとき、今村は「俺が死んだ後、東京に大地震が起きたら、墓前に報告しろ」と奥さんに命じたそうですから、相当執念深い。
「今村の講演」
この騒動以来、大森は地震対策の啓蒙のために、あちこちで講演を行っています。
また、子供のころから正しい地震の知識を得る必要があると考え、小学校の教科書に地震の話を載せるよう、文部省に運動しております。
しかし、当局は、教科書に入れる余地がないと、これを断りました。
一計を案じた今村は、文部大臣が出席している会合で講演しました。
「ドリアンはうまいが臭いといった話まで教科書に載っているのに、地震を入れる余地はないというのはおかしい」
これが受けて、拍手喝采です。結局、大臣の鶴の一声で、教科書に載ることになりました。
「大森との確執」
今村と大森は学問でも、対立していました。
今村は「大規模な津波は、海底の地殻変動によって起きる」と主張していました。これは、今では常識です。この前のスマトラ沖大津波もそうです。しかし、大森はその意見を、無理な仮定であると批判していました。
大正4年には、房総半島に群発地震が起き、世間が動揺しました。このとき、大森は京都に出かけていたため、代わりに今村が新聞記者に「九分九厘安全だと思うが、火の元など用心するに越したことはない」と当然のことを述べたところ、意外な反響を呼び、野宿する者さえでました。
帰ってきた大森は、今村を激しく責め、今村は躍起となって反論したそうです。
「悲劇の大震災が起きる」
こうして、二人の確執が続いていきましたが、それに終止符が打たれるときがやってきます。関東大震災――大正12年9月1日、死者・行方不明合わせて約14万人という未曾有の大惨事です。
大森はこのとき、オーストラリアに出張していました。大森が出かける前に、今村は、「もし大地震が起きたら、いかがいたしますか」と大森に尋ねていたそうですから、今村の執念深さは相当です。
大森は地震の報を聞いて、すぐ日本に戻りましたが、船上で重病に陥り、一ヵ月後に亡くなります。相当、ショックだったに違いありません。「自分の予想より60年早かった」と語っていたそうです。
病院に面会にきた今村に、大森はこう語ったそうです。
「今度の震災につき、自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方はない。ただし、水道改良につき義務をはたしたことで、わずかに自らなぐさめている」
今村はどんな気持ちで大森の言葉を聞いたのでしょうか。
その後、今村は、次は紀伊半島が危ないと考え、私費を投じて観測所を十カ所設け、観測を続けました。しかし、太平洋戦争で資材が欠乏し、やむなく中止せざるをえなくなりました。
昭和21年、今村の予想通り南海地震が起き、大きな被害が発生しました。今村の18年間の努力は水泡に帰したのです。
http://www.asyura2.com/17/jisin22/msg/483.html#c5