10. 2018年9月26日 03:06:25 : JsK7Xhoo26 : 7pxKouwzAl4[1]
そもそも保守言論なんてものは、出版する必要がないのだ。
本当に保守ならば、社会の常識としてその社会に共有され、
共認されているものなのだから、わざわざ誰かに諭されなくても、誰でも知っている、
その社会で生きていくために必要な最低限の知識だからだ。
そうでなくても、政権というのは、それすなわち保守であり、
保守は権力を握っているのだから、わざわざ何かに抗議していく
必要はない。権力を用いて執行していけばいいだけだ。
だが、それでは困る人がいる。
ただ、無機質に保守権力者に権力を執行されれば命を失う人がいる。
そういう人がプロテストしていくために、言論・出版の自由が必要なのだ。
そういう意味では、言論とは革新のためのものなのだ。
言論は革新にしかないといってもいい。
言論とは誰でも知っている常識を伝えるためにあるのではない。
世の中で知られていない、虐げられた人々の声を社会常識、
すなわち保守的な人々に訴えるためにあるのだ。
ただ、それではあまりにも無碍だからということで、革新:保守=9:1
程度の塩梅で組まれているのだ。その塩梅でも、保守言論というものが
本当に存在しているのか怪しい。保守と呼ばれているものも、
そのほとんどは、世の中を変えてやろうという野心めいた、
保守の皮をかぶった革新言論だ。
もし、本当に保守言論というものが存在するのならば、
それはおおよそつまらない、
誰でも知っている、読んでいてもひたすらつまらなくて眠くなり、
読むのをやめる、新規情報が一つもない、
そんな読む時間すら惜しくなる言論の事だ。
そんなものが売れるはずもない。だから商売としても存在できるはずがない。
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